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192, 331 223, 719 262, 978 302, 341・

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18 24 21 30 32 44

.82

82 95 155 227 252 294

161

167 199 174 170 168 161 133 146 131

1, 098 1, 693 1, 355 1, 793

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3.174 5,080 5.050 5.704 8.365

13s164

14, 853 17, 235 10, 718 13, 019 12, 994 10, 639 10, 980 11, 245 11, 044 11, 372 8, 533 14, 151

16. 6

2L2

20. 0 20. 0 14. 4

7.0 6.e 4.9 3.4 3.6

4. 6

5.3

5. 6

2.6

2. 5.

2.7 2.1 2.O

L7 L6 L2

1.2 0.9

16. 9 24. 2 18. 4 20. 1

17. 2 10. 2

8.3 6.6

4: 7

4.9 6.9

7. 7

7. 7

4. 0

4.3

3. 7

2. 7

2. 4

2.2

Lg L6

1.0 1.5

27)前掲「わが国.における工業補習教育の残立基盤に関する研究(1>」p.143 28)同上    pp。58〜63

29)前掲r手島精一先生遺稿』p.349 30) 同上  pp.122〜123、

31) 同上  p.248 32) 同上  p.216 33) 同上  p.251

       −83一

34)前掲「わが国における工業補習教育の成立基盤に関する研究(1)」p.67 35)前掲r手島精一先生遺稿』p.125

なお、東京工業学校関係諸学校だけの卒業生は次のとおり。

・学校長報告(明治41年12月)(前掲r手島先生遺稿』p.75)

       研究生 正科生

・本校      1  593

・付設工業教員   養成所       123

・附属職工徒弟   学校        180

・附属工業補習   学校        547

選科生  特別生  計

55 131 780

123

180

547

合計

1 1443

55 131 1630

第4章 明治期工業教育における手島精一の役割

第1節 教育博物館とのかかわり

 明治維新とともに、新政府が、近代国家樹立のために学校制度の普及充 実を図ったことは、周知の通りである。しかし、それと同時に、欧米の近代的 な社会に存在する社会教育機関をわが国にも作り、学校教育以外の方法に よっても大衆の啓蒙を図ろうとしたことに留意しなければならない。例え ば、博物館、書籍館(函書館)などによって民衆教育を図ろうとしたのがそれ である。これらの施設については、幕末から明治にかけて欧米を視察した田 中不二麻呂、佐野常民、福沢諭吉らによって紹介がなされている。いま、その

一・ツ田中不二麻呂によるr米国百年期博覧会教育報告』巻三、「博物館」

(ミュアーゼニム)の記述をみてみると、次のようである。なお、この報告書 の実際の筆者は、手島精一と阿部泰蔵であることは手島自身が明らかにし

ている。(D

博物館トハ文學技藝二関スル天造及ヒ人造ノ物品ヲ蒐集陳列 シテ観覧影供スル者ノ総名ナリ故二細カニ之ヲ別テハ技藝博 物館、美術博物館、史學博物館、醤學博物館、教育博物館、農業博 物館、天産博物館、禽獣園、草木園、等一々枚基スルニ邊アラス 米國ノ如キハ開國以来日猶浅ク羅馬ノ「ヴァチカン」宮博物館 倫敦ノ英國博物館ノ如キ廣大ナルモノ無シト難モ世人ノ知識ヲ 進メン為メ博物館ヲ設ル日一・日ヨリ多ク都府ニハ大抵博物館

ノ設ケアラサル無ク…(略).(2)

 視察団がアメリカの博物館を世界の他の博物館と比較して、内容もよく 把握していることがわかる。こうした見聞によって、わが国にも教育博物館 が、明治10(1877)年に創設されたが、文部省編纂のr学制五十年史』には、そ の経過が次のように記されている。

明治の初年、政府が物産酒壷役所を置き、物産を蒐集したのが

一85一

博物館の濫膓である。明治四年九月、文部省内に、博物局を置き、

尋いで、湯島大成殿を以て、博物局観覧場となし、翌五年三月、

これを公開した。同六年三月、書籍館と共に、太政官所管の博物 館事務局に合したが、同八年二月、書籍館と共に再び文部省の 所管に復し、大成殿に移して、立身とした。同年四月、東京博物館

と改無した。同九年三月、東京博物館を東京書籍館より分離し、

事務所を、上野山内坂上東四軒寺町に移した。同十年一月、東京 博物館の規模を改め、教育博物館と改回し、上野公園地内に移転 後、八月に至って、始めて、これを公開した。(3)

 このことについて椎名仙卓が、より具体的に述べている。それによると、

文部省は、かねてから上野の台地にいろいろな学校を設置し、ここを日本に おける学術研究の中心地とする構想をもっていた。明治6年、公園地に指定 されたので、学術博物館だけをつくることにした。しかし、その頃、たまたま 独立記念万国博覧会のため渡米した文部省の由中不二麻呂、阿部泰蔵、手島 精一、出浦力雄らが、カナダのトロントにある教育博物館を視察し、「我が国 にもこの種施設の必要性を痛感し、帰国後、学術博物館設置の構想を捨てて 教育博物館を創設するに至ったのである」(4>その経緯は田中不二麻呂が、

後年書いた回顧談の中に記されている。

余が九年米国万国教育者大会に参列するや、晴々加奈陀政府 教育家代表者と談次教育博物館の事に及びしに、同氏は切り(ママ)

に自らトーロント市に経営せるものを称し、来り観ん事を勧む。

予も亦大に感興に動かされて、其実際を観察せしに秩序整備し、

規模壮大にして、…(略).(5>

 田中は、「是を以て帰朝後東京博物館の規模を改め、十年一大新館を上野 公園内に築造した」(6)という。このカナダへの訪問がその後、手島等の努力 を引き出し、教育博物館建設という大きな成果を生むことに繋がるのであ

る。

 開館に当たって諸規則が定められたが、収集する資料としては「教育上 二関スル書籍器械及ヒ学校模型其他動植物金石ノ類ナリ」であり、階ごと

の展示品は、「階下は学校建築の模型、椅子卓子、理科学器械などの学校で使 用する各種の教育に関する資料を展示し、階上は植物、動物、金石の順序に 従っていわゆる博物標本といわれるもの」(7)である。このようにして作ら れた教育博物館に、手島精一が関わっていたの1ま、彼が文部大輔田中不二麻 呂に随行したフィラデルフィアの万国博覧会視察から帰った明治10年から、

同21年までの12年間である。すなわち、彼自身の言葉によれば、「明治10年1 月12日、文部1等属に任じ、2月16日、教育博物館御用係を命ぜられ、3月15日

には、教育博物館長補となりました。館長補は、即ち次長であります。」(8>

このようにして、手島の勤務が始まった。明治14(1881)年、館長に就任する。

辞職したのは、明治21年、明治政府が、財政上の理由と文部大臣森有礼の教 育博物館に対する消極的意見から廃館を決定したため、これに抗議して辞 表を提出した時である。自分たち職員が身命を賭して集めた各種標本があ り、それらを海外のものと交換して我が国の博物館の充実も計れたあに、そ れを廃館にするとは…と、憤慨している。〈g)そして明治天皇宛に、博物 館の意義を説き、(教育博物館を廃止せざるを得ないのならば筆者注)農商 務省博物館、文部省の東京教育博物館、陸軍省の遊就館(、。)の三つを合併す

ることを要請する請願書、「塗家博物館合併表」なるものを提出し、気骨の あるところを示している。(、、)この3300字に及ぶ請願書では、国家開明の 基としての博物館の重要性、工業上の意義などを訴え、何とか教育博物館を 残したいという手島の熱意があふれている。冒頭の部分のみを引用する。

      臣誠憧競映頓首頓首謹言

   凡そ人の知識を啓発し、國の開明を増進するの資たる極めて    多しと錐も然れども其誘導上に於て最も近く且切なるもの    は蓋し學校と博物館とを以て之が首となす、夫れ博物館の旨    たるや國の内外を問はす其萬有を網羅して之を館内に排忙し    以て公衆の縦覧に供し、其天産物の如きは即ち有機無機の物    質を問はす悉く皆納を和め其名構を付じ其類族を正し以て科    學上に於ける學者の参考に資し、…(略)…以て人民の気韻を    高尚の域に進ましめるの事にして渡れ皆法家開明の基を立て    人民の福利を興すの一大要具と謂はさる可らさるなり、故に    今開明を以て構せらるSの國にして皆此館の設けあらさるは    なきなり…(略).α2>

一87一

 これが「明治天皇の御手許まで捧呈せられたのであるか、知ることを得な いのであるか」(、3)その後、[明治29年3月7日田中芳男により貴族院に「博 物館ヲ設立スルノ建議案」となって其趣旨が立法府に伝へられた。](、4)

 また、教育博物館について、手島がどのような機能を期待していたかは、

明治11年、九鬼隆一男爵に送った次の書簡によって顕かになるであろう。

博物館を、要するに、美術・古物・博物學。馨學等、専門學科の 博物館にして、其の排列品は高尚のものたりと錐も、其關臆 する所は、各種の學術に止り僅かに、専門學者に禅益あるのみ。

而して、教育博物館は、之と異り、各種の學術に入る基礎を立 つるの物品、即ち、父母の家庭に用ふる教育品、幼稚及び小中 學校用教育品、及び、教育家参考物品等を、配列する所にして、

其物品は、高尚ならずと難も、其關渉する所は、極めて大、且つ 博くして、一般人民に利益あらん為め、設立せるものなり。…

(略)…然らば、方今、教育博物館に蒐集せんとするの物品は、

其目的、二様あり。一は、公衆の来観に供し、一は摸造の参考に 備へんと、するものたれば、其物品は、務めて、現状の教育に 適するものを選び、併せて、模造の要に供ぜんとするに有り。q5)

 すなわち、1)各種の學術に入る基礎をつくるための物品を展示すること。

2)外国製品の模造物品を造るときの参考になる品を展示すること。の二点 である。1)は当然として2)の模造品を造るときの参考にというのは、現在 の時点で考えれば、他国の進んだ製品を自国で模造するなど、文明国の風上 にも置けないということになるのだが、当時の我が国の遅れた状況からは 許されたのであろう。堂々と「模造の参考に…」と書いている。

 このように教育博物館に関わった12年のあいだ、手島は「博物館の事業を 社会教育と位置づけ、工業技術の開発、指導とぐ一般大衆の啓蒙に欠くべか

らざる機関ととらえ、心血を注いで、その維持と運営に東奔西走してきたの

である。」(16)

 いま、この12年間の業績を順を追って見てみると、およそ次のようである ことが判る。

  1)教育博物館の事業の中で、特に工業教育の必要を力説したこと。

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