研究ノート 19∼20世紀転換期ポーランドにおける
信用組合論―初期ポーランド経済学の帰納的分析法
著者
仲津 由希子
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
雑誌名
アジア経済
巻
50
号
9
ページ
23-54
発行年
2009-09
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00007145
はじめに Ⅰ 19世紀末∼20世紀初頭におけるポーランド経済学 の制度化 Ⅱ 「理論科学」としての経済学──1893年ポズナン 法・経済学会大会── Ⅲ ポーランド経済学術専門誌Ekonomista の創刊 Ⅳ ワギェフスキの信用組合論 結びにかえて
は じ め に
ポーランドの組合事業をめぐる具体的諸相は, 日本であまり知られていない[ブロジンスキー 1997,41の杉本貴志氏による解説]。もちろん, 1986年の時点ですでにステフチク(Franciszek Stefczyk,1861―1924)と ミ ェ ル チ ャ ル ス キ (Romuald Mielczarski, 1871―1926)の2人 が, ポーランドの協同組合運動家として紹介はされ た[川野他 1986](注1)。だが 研 究 は,ト ゥ ガ ン−バラノフスキー(Mikhail Ivanovich Tugan−Bara-novskii, 1865―1919)らロシアの組合運動家の思 想を検討された故今井義夫氏が,簡単に概説さ れ る に ほ ぼ 留 ま っ た[今 井 1992;1997;1998 等](注2)。こうした先行研究は大まかには,プ ルードン系の社会的経済論や無政府連合主義と の遠近,すなわち社会主義思想や同運動の観点 から関心を寄せていたとまとめられる。 対して近年,特にポーランドにおける歴史研 究では,組合事業を民族独立運動の一環と捉え
1
9∼2
0世紀転換期ポーランドにおける信用組合論
──初期ポーランド経済学の帰納的分析法──
なか つ ゆ き こ仲
津
由希子
《要 約》 本稿は,社会主義運動からの関心と民族独立運動史を中心とする東欧史からの関心の狭間で評価が 遅れてきた,科学的研究の対象としてのポーランド組合論の様相を明らかにしようとするものである。 19世紀末∼20世紀初頭のポーランド経済学研究は,当時の社会科学観を反映して,現実の観察から帰 納的に科学理論を構築しようとする方向性をもっていた。同時代のポーランドで盛んだった組合事業 は,それが成功していたがゆえに研究者の関心を強く惹きつけ,その検討を通じた,より効率的な経 済モデルの構築に利用されることになった。歴史学派経済学と関係が深かった当時の組合理論は,後 年の社会政策論や国民経済計画思想へと発展的に継承される内容をもっていたのと同時に,いわゆる 制度学派的な思索の特徴を帯びるものでもあった。本稿は,こうしたポーランド組合論の地平を,当 時の学会記録や専門論文を利用して,明らかにしたものである。 ──────────────────────────────────────────────る視点が主流になった。この視角は一般にも普 及し,たとえば2006年,ワルシャワのポーラン ド協同組合史博物館では「19∼20世紀前半ポー ランドにおける優れた組合活動家,科学者,企 業家,協同組合運動創設者」展が開かれたが, そこでは各展示物の解説に,運動の最大の目的 は独立ポーランドにあったという説明が頻繁に 登場していた(注3)。 そして同じく2006年,こうした組合事業の民 族運動的性格を強調する包括研究が,英語圏で 登場した。Lorenz(2006)はプロイセン領ポズ ナンを例に,最初は純粋に経済目的の団体であ った組合が,1890年代,大衆の政治化が始まっ た頃から,民族の存亡を賭けた政治団体へと変 貌したと論じた。ロレンツによれば,組合は, 国家や政党が複雑に対立していた当時のポーラ ンドにおいて,中立性を武器にポーランド人の 「国民的」支持を獲得し,実質的に民族運動の 主体となった。つまり当時のポーランドでは, 経済的弱者の保護という組合の性格が,強者で あるドイツ人に対するポーランド人の保護とい う性格をもはらむものになる。それゆえ,組合 はポーランド人の経済的・民族的解放という両 義的役割を果たし,ポーランド人は同運動を通 じて経済の「国民化」を進めたのだ,と彼は指 摘する(注4)。 マルクス主義的枠組みをとった旧史学におい て,組合運動は,帝国主義列強による独占に対 し,封建的経済を残存させたポーランドが展開 した消極的抵抗と捉えられ,積極的に価値づけ られて こ な か っ た[Kostrowicka, Landau and Tomaszewski 1975,215―246]。こ の 点 で ロ レ ン ツは新しい組合運動像を提示したといえよう。 だが彼の俯瞰的記述は別の問題を新たに浮上さ せたと考えられる。すなわち活動家・研究者も ひっくるめて全一的に民族運動を展開したと, 目的論的に人々の行動を合理化した点である。 これから本文で触れるように,当時の組合研究 は,1890年代以降の大衆政治化過程で,逆に民 族運動という政治的傾向すら忌避し,厳密科学 的経済理論としての独立をめざし始めていた。 ロレンツ図式はこの文脈を捨象し,あたかも皆, 民族問題だけに邁進したかのような一枚岩的ポ ーランド人像を描きだしているのである。 本稿は,以上を踏まえ,社会主義運動ないし 民族独立運動史という2つの関心の狭間で抜け おちてきた,科学的研究の対象としてのポーラ ンド組合論の存在を指摘するものである。この 作業は,ポーランド経済思想史や政策史といっ た部分史の間隙を埋める意味ももつ。というの も,科学的組合理論はその後,生産工学や経営 学,都市計画,社会政策等,科学を動員した生 産体制の確立をめざしたピウスツキ政権の経済 政策や,第2次大戦後の国民経済計画化構想 [Kowalak 1972]へと繋がる一経済理論でもあ った。だが,計画化構想が戦後,突如,輸入さ れたのではなく,大戦間期の様々な経済思想の 延長上にあったことは,田口雅弘氏がすでに指 摘されたものの[田口 1985],その継承過程は 依然,あまり明らかでない。ドイツ歴史学派と そのポーランドに対する影響力の評価不足が, 一因と思われる。なぜなら後述のように,当時 の組合研究は,政権と必ずしも対立的でない社 会改良政策を提唱したドイツ新歴史学派経済学 者,特にシュモラー(Gustav von Schmoller, 1838 ―1917)の分析枠組みに大きく依拠していた(注5)。
その歴史学派は英米経済学を基準とした経済学 史において民族主義的と揶揄されやすく,それ
に依拠したポーランド人の仕事も自動的に民族 主義的とスティグマ化され,正当に評価されに くかったのである。だが計画主義か市場主義か という二大対立構図が崩れ,新旧歴史学派の流 れもくむ制度学派経済学が注目されつつある今 日[ホジソン 2004;植村・磯谷・海老塚 2007等], ポーランドの組合理論をめぐる諸相は,新たな 視点でも評価が可能になりつつあるのではない か。 ただし当時の研究者が受容した各学説の把握 はもちろんのこと,彼らが観察した組合の実態 の把握,さらに学説の影響力の強弱と実際の政 策との呼応関係の史料的実証も,一気呵成には 扱えない。そこで本稿は,(1)19∼20世紀転換 期,制度化過程にあった経済学が科学志向を強 め,(2)組合が経済理論化の対象として注目さ れ,(3)その組合研究が,民族主義と距離をお いた事実を確認するところまでに,問題を限定 する。方法論的には思想史的論証を用いる。す なわち,当時の経済学が科学性と非民族主義に こだわっていた様子を明らかにし,その背景の 上に当時の学術論文を読み直す。対象人物の論 理の精確な把握により注意深い思想史の手法が, 誇張された民族主義者像に対し異議を挟むのに 有効な手段となると考えるからである。
Ⅰ 1
9世紀末∼2
0世紀初頭における
ポーランド経済学の制度化
何をもってポーランド経済学の萌芽の年とす るか。その基準は様々に立てうる。だが,第1 回 法・経 済 学 会(Towarzystwo Prawnicze i Ekonomicze )大会(於クラクフ)が開催された 1887年は,確実に目安の1つとなるだろう。な ぜなら,同学会は1867年以降,団体としては存 在していたが活動実態がほとんどなく,ようや くこの年から定期的に学術大会を開催するよう になったからである。開催地は基本的にオース トリア領内で,1887,1906年はクラクフ,1889, 1894(臨時),1912年はルヴフ(現ウクライナ領 リヴィウ)だった(例外は1893年のプロイセン領 ポズナン大会)。しかし開催地に関係なく,第1 回大会から参加者が200名以上あり,うち1割 以 上 が 他 の 分 割 地 域 と 国 外 か ら 参 加 し て い た(注6)。この継続性と規模から,1887年をポー ランド経済学創始の年として位置づけうると考 える。 しかし他の諸国と同様,当時のポーランドで も,経済学は学問領域として必ずしも正式に承 認されていなかった。法・経済学会は,経済学 よりも法学を上位の学問として扱ったし,最初 にできた経済学講座も1883年,ヤギウェオ大学 法学部下に開設された政治経済学講座だった。 職業的経済学者が自前の学術大会を主催できた のは,ようやく40年後,1929年である[Kowalski et al. 1993,11―13]。この間,経済学の自立化は, かなり跛行的に進んだ。 自立を促したと考えられるのは,1903年にク ラクフで発足し,当初から経済学と法学の分離 を推進した社会科学後援会(Towarzystwo Piele-( /gnowania Nauk Spolecznych)や,1906年にロシ ア政府より認可を受けて設置された私立男子商 業学校(Prywatne Kursy Handlowe Meski : ポーラ(
ンドで経済学系最高学府であるワルシャワ経済大 学の前身)である。またこの頃から『ポーラン ド王国統計年報』(Rocznik Statystyczny Królestwa Polskiego)等の統計資料の刊行が始まり,研究 に必要な資料・環境基盤がある程度,整ってき
た。さらに私財を投入したり,パトロン獲得に 奔走したりせずとも,ミアノフスキ金庫(Kasa im. Józefa Mianowskiego)のような私立基金から 援助を受けて,研究に集中できるようになった。 1881年に設立された同金庫は,資金源を会費と 寄付に頼っており,創業当初こそ当時の資産に して6750ルーブルという細々とした資金運用に 留まっていた。しかしその後,成功した企業家 からの寄付等を受けられるようになり,第1次 大戦前には250万ルーブルに届く財源を運用可 能にさせていた。当時のインフレ率を無視する なら,基金の規模は30年で約350倍に脹れあが っ た 計 算 に な る[Hübner, Piskurewicz and Zasztowt 1992;Piskurewicz 1990,52―58;Zasztowt 1989;Dybiec 2004](注7)。基 準 や 手 順 等 は 明 か されていないが,一定の審査の上で研究や出版 に対する給与・貸与が決定されていたことは間 違いない。最大手のミアノフスキ金庫からの助 成は,その研究が社会的認知を受けていること の証しともなったと考えられる。 他方で,経済学は演繹的抽象化により初めて 学問領域として自立すると考えるなら,当時の ポーランドにはそれを阻碍する思想潮流が存在 した。1つは,1870年代以降のポーランドにお ける実証主義という精神のあり方である(注8)。 これは必ずしも厳密な実証性の深化を意味しな かった。実証主義はむしろ,形而上学やロマン 主義に堕さずに,人々の生活の実態をありのま まに観察しようという,ある社会階層を支配し た気分をさした。たとえばこの時期,ポーラン ドでは翻訳等を通じて多くの西欧経済理論の受 / 容が進むが,ピォトロフスキ(Stanislaw Piotrow-ski, 1849―1919)に典型的に見られるように,そ れらを総合的に受容しようとする者が少なくな かった[Piotrowski 1930]。つまり当時の主たる 関心は,「なぜ××は○○なのか」という個別 の問いに基づく追究より,政治現象・経済現象 も含めた社会プロセス全体をむことにおかれ ていた。そのため大抵の人物が複数の分野を学 び,様々な分析方法を相互に結合した探究を, より盛んに行っていたのである。 2つ目は,彼らがこのような西欧理論の受容 過程でなした発見である。彼らは,西欧理論の 体系はそのまま持ちこむと,自分たちが経験的 に見知っているポーランドの諸現象を説明でき ないことに気がついた。そしてこう考えた。な らば,東西の表面的な差異を生みだす諸要因や 因果関係メカニズムのほうが,観察し理論化す べき対象なのではないか,と。社会は人々の理 性により操作・改良していける,科学はそのた めの最良の技術となる,と考える科学主義は,19 世紀後半∼20世紀初頭のヨーロッパ全般に拡が っ た 思 潮 だ っ た[Pajestka 1989,155―156; Kowalik 1992,27,50参照]。だがポーランドの 場合,何がこの科学の対象となる事象なのかに ついて,西欧一般とは異なる理解のほうが,よ り共有されることになったのである。差異を生 む経路に着眼する彼らの思惟は,方法論・理論 的には,今日なら制度学派経済学や法社会学等, 西欧科学の体系下で下位分野やマイナー領域に 分類されやすい複合領域へ進む傾向をもってい た。何が個別具体的な事象で,何が法則を定立 できる事象なのか。当時の人々のリアリティ感 覚は今日の我々と必ずしも一致しないわけであ り,こうした思潮の存在を踏まえた上で,経済 学自立化過程を理解していく必要があるだろう。 では実際,当時,どのような学術領域に対し 重点的に関心が寄せられ,そしてどんな研究内
容が高く評価されていたのだろうか。以下では, ミアノフスキ金庫が1914年に出版した同金庫助 成対象出版物カタログを用いて,1881∼1914年 に基金助成対象となった単行本の分野別比率か ら,これを検討していきたい[Katalog 1914]。 まず全46ページのうち後半は全集等が占めて おり,単行本掲載ページは前半1∼26ページま でである。簡単にページ数で比較すると,歴史・ 自然科学が各4ページ半,医学4ページ,法学・ 哲学が各2ページ,言語学・数学が各1ページ 半,経済学・文学・教育・人類学−民族誌が各 1ページ,芸術・技術と農業が各半ページとな っている。ここから当時の学問的「序列」にお いては,やはり経済学の重要性がやや低かった ことが窺える。それは翻って,経済学を学問領 域として高く認知してもらいたいという欲求が, 経済学者に働いていたことを推測させよう。 その経済学分野ではいかなる研究がなされて いたのか。あがっている単行本の内訳を次にみ てみたい。以下は時系列で整理し,省略表記の うち執筆者名については適宜,補い,本のタイ トルについては,そのまま残した一覧である。 / / ´
Wladyslaw Domanski, Teorya ekonomii po-litycznej,1889.[政治経済理論]
/
Witold Zale(ski, Zasady ekonomiki, 1889.
[経済学原理]
Nikodem Krakowski, Kredyt ludowy i nasze
/
stowarzyszenia wspóldzielcze, podr. niezbedny dla organiz. i. uczestn. stow. opartych na samopomocy, 1894.(注9)[庶民信用と我々
の協同組合]
/ ´ / ´
Stanislaw Karpinski, Zasady dzialalnosci
/
banków i zarys historyczny glównych epok ich rozwoju,1898.(注9)[銀行の活動原則と
それが発展した主な時代の歴史的素描]
´ Józef Kirszrot−Prawnicki, O oszczednosci,
ka-´ sach i stowarzyszeniach oszczednosciowych i
・ ´ pozyczkowo−oszczednosciowych, 1898.[貯 蓄,金庫と貯蓄組合・貸付貯蓄組合につい て] /
Zenon Pietkiewicz, Szkice spoleczne, 1898.
[社会的素描]
/
Witold Zale(ski, Królestwo Polskie pod
´´ wzgledem statystycznym, I ludnosc, rol-nictwo, górnictwo i finanse, 1900,II
´ /
Statystyka zajec i przemyslu, 1901.[統計 的観点からみたポーランド王国:第1部 人口・農業・鉱山業・財政,第2部 職業・ 産業統計]
/
Stanislaw Aleksander Kempner, Badania i szkice ekonomiczne, 1902.[経済学的調 査・叙述]
/
Ludwik Krzywicki, Kwestya rolna. Przelom w
´ ・
produkcyi srodków spozywczych w drugiej
/
polowie wieku XIX , 1903.[農業問題── 19世紀後半の食料品生産における転換──]
/ ´
Zenon Pietkiewicz, Sily i srodki ludu naszego. ´ /´
Zarys warunków ekonom. Ludnosci wlosc. w Król. Pol., 1905.[我が民衆の力と手段 ──ポーランド王国農業労働者の経済的条 件の素描──]
/
Stanislaw Koszutski, Podrecznik ekonomii politycznej,1907.[政治経済教本]
/
Witold Zale(ski, Ze statystyki porównawczej
´´
Królestwa Polskiego. Ludnosc i Rolnictwo, 1908.[ポーランド王国の比較統計から─
─人口と農業──]
´ ´´
Józef Konczynski, Ludnosc Warszawy.
( ( ( ( ( ( (
Studyum statystyczne 1877−1911, 1913.
[ワルシャワの人口──統計的研究 1877 ∼1911年──]
/
Boleslaw Markowski, Finanse Królestwa Polskiego. Tom I. Kielce,1913.[ポーラン ド王国の金融:第1巻 キェルツェ]
Frederic W. Taylor, Zasady Organizacyi
/ / /
naukowej Zakladów Przemyslowych, Przel. Henryk Mierzejewski,1913.[工場の科学 的管理の原理](邦題:科学的管理法)
/
Henryk Tennenbaum, Znaczenie przemyslu
/
wlóknistego w bilansie handlowym Król. Pol., 1913.[ポーランド王国の貿易収支に おける繊維産業の意味]
/
Ludwik Krzywicki, Ustroje
spoleczno−gospo-´ ´
darcze w okresie dzikosci i barbarzynstwa, 1914.[原始・未開時代における社会経済
体制]
Maksymilian Malinowski, Jak sie zbogacaja
/´
wloscianie czescy ob., Wydawn. z zapisu
/ / Wl. Peplowskiego.[チェコ人農業者はい かにして裕福になるのか]出版年不明 本一覧からは,以下の4点がみえてくるだろ う。(1)おおまかには統計学的調査3冊,信用 組 合・銀 行 業 等 が3冊,経 済 学 理 論 書 が4 冊(注10)あがっている。(2)信用組合・銀行業等 は1890年代,統計学関連が1900年代に助成が多 いという変化があった。(3)外国語書籍の翻訳 に対してなされた唯一の助成は,テイラー (Fre-deric W. Taylor)『科学的管理法』だった。原著 は1911年に出版され,労使協調と労働組合不要 説を唱えたものである(注11)。(4)マルクスの枠 組みと社会学や人類学を組みあわせたクシヴィ ツキの原始社会研究(1914年)以外は,繊維産 業や農業政策,土地問題等,基本的に同時代の ポーランドの経済関連現象に関する研究が,優 先的に助成対象となっていた。これは,経済学 研究の意義が,先に述べたような,現実社会に 対する微細な関心と密接に結びついていた様子 を窺わせる。 最後に世紀転換期ポーランドに流入していた ・
経済学説を確認する。Guzicki and Zurawicki
(1974)によれば,メンガー(Carl Menger, 1840 ―1921)等オーストリア学派とドイツ新歴史学 派が支持されていたという(注12)。だが管見の限 りでは,この時期は歴史学派のほうが優勢だっ たのではないかと思われる。というのも,たと えば前掲一覧内のケンプネル(S. Kempner, 1857 ―1924)の『経済学的調査・叙述』をみてみよ う。本書は当時の経済学の動向を簡潔に紹介し たもので,当時のポーランドで広く読まれてい た。理論面で大きく扱われるのは歴史学派,特 にシュモラーである。次いで紹介されるのは, ベルンシュタイン(Eduard Bernstein, 1850―1932) らマルクス主義諸派の係争であり,オーストリ ア学派に関しては記載されてない[Kempner 1902,117―152,153―188]。 以上,本節ではカタログ資料を中心に,当時 の経済学が同時代の社会経済現象に対して強い 関心を払い,国外の理論をも摂取して自立化を 進めていた様相を概観した。では経済学者の実 際の思惟はどんなものだったのか。今度は1893 年9月11∼13日にポズナンで開催された法・経 済学会大会の報告集を検討して,その中身に迫 っていくことに し た い[Program 1893;Pamie-( tnik 1894]。大会報告集を用いるのは,第1に, 大会に登場する各報告は,その時の最先端の学 術的関心を何らかの形で反映すると考えられる ( (
から,第2に大会は参加者の意見が互いにぶつ かる場だから,である。質疑応答の過程でどん な力学が働き,最終的にどの意見が大勢を占め たのか。当時を代表する思潮は,そこに端的に 観察できるのではないだろうか。 この報告集は特に,同学会が編んだ最初の大 会報告集で,しかも「実際の学会発表に沿った 説明」を行う目的で編纂されていた。というの は,当時,学術大会は知識階層から一定の関心 が払われ,その模様は『ワルシャワ速報』( Ku-ryer Warszawski)や『朝刊速報』(Kuryer Poranny)
といった代表的新聞で報じられていた。だがそ の報道は「大会プログラムで扱っていない」は ずの「美学的」発表(いうなれば最適雇用水準を 祖国の将来に対する確信で論証するような論考) に満ちていた。大会主催者側は,「情報流通過 程で」実像と異なる学会像が社会に伝わること を 嫌 い,こ の 報 告 集 を 編 ん だ の で あ る [Suligowski 1889,344参 照]。そ の た め 本 報 告 集は,予稿集,大会参加者名簿,大会プログラ ム,実際の日程表,速記録に基づく実際の発表 と議論の記録が遺漏なく盛りこまれ,さらに /´´
「笑」(wesolosc)や「拍 手」(oklaski)も 書 き こまれた,会場の様子についての臨場感溢れる 史料となった。以上の諸点を踏まえながら,次 節では学術大会記録を考察する。
Ⅱ
「理論科学」としての経済学
──1
8
9
3年ポズナン法・経済学会大会──
大会報告集の目次と7∼10ページの行程表を 見比べると,本学会は法会議場と経済会議場に 分かれ,うち後者では(1)経済社会問題(11日 16時∼),(2)移 民 問 題(12日9時∼),(3)小 土 地所有問題(12日16時∼)の3セッションが予 定されていた。うち組合運動関連の報告が登録 された(1)経済社会問題セッションを,本節で は検討する。 同セッションには事前に8名の報告が登録さ れていたが,実際に発表できたのは2名だった。 これは2人の発表に時間を費やしすぎた結果で ある。今大会では限られた時間のなかで密度の 濃い討論が実現できるよう,(1)報告の制限時 間は20分,(2)約1500ワードの予稿を大会プロ グラムに掲載,(3)質疑応答に主題から外れた 議論を持ちこまないという取決めがあった。し かし報告者が口頭による補足で時間を超過し, 会場からも自由発言が相次いだ結果,2発表の みでセッション時間が終了してしまったのであ る。報告者の欠席以外の理由で報告が割愛され たのは,このセッションだけだった。以下では まず,都合で割愛された6報告の要旨をまとめ, 同セッション全体の関心のありかを確認してお く。 ヴァヴジニァク(Ks. Piotr Wawrzyniak, 1849― 1910:プロイセン下院議員)「プロイセン領ポー ランド組合連合に参加している組合は,地元地 主層の信用需要を満たせるのか」,シフィェン ´トホフスキ(Andrzej Swietochowski)( 「ポーラン
ド各地区における統計の必要性」は約200ワー ドの短い要旨のみである。前者は庶民銀行の活 動報告(第4節3と年表1を参照)と思われる。 後者は,地域的網羅性を期すための統計調査の 組織化を唱えていた。作業上の心得として,「愛 国的ショーヴィニズムに犯されない,客観性に より作業を遂行する,すなわち裸の真実を示す」 こ と を あ げ て い る[Program 1893,31―32; Pamietnik 1( 894,159]。
ワルシャワの法曹ノヴォドヴォルスキ (Fran-ciszek Nowodworski, 1859―1924)の発表は「対高 利貸立法における最近年の転回」に関するもの だった。それによれば,経済は基本的に,市場 主義や契約説と結びついた自由主義とキリスト 教徒の義務である倫理主義の2大原則により運 営されてきた。だが19世紀末になり,法的保護 の程度を調整して市場の円滑な運営と個々人の 生活保障とのバランスを図る新たな動きが出て きた。この基本原則上の転換は,上記2原則に 基づく様々な実験,試行錯誤,経験の末に生ま れてきた,というのが報告者の主張だった[ Pro-gram 1893,26―30;Pamietnik 1( 894,154―158]。
ルヴフ大学講師ツァロ(Leopold Caro, 1864― 1939)(注13)の報告論旨は他と異なり,具体的統 計数値を加味した計15ページの完成論文となっ ている。彼の「ガリツィアにおける農民信用の 実情と組織」が詳しく報じたのは農民に対する 私営支援(高利貸業)の実態だった。ツァロは, 「この問題を,誰かに対する敵意を掻きたてた い,広めたいと思って扱うのではない。悲しむ べき社会状況を知ってもらえば,直接的関係の 健全化や,さらには農業労働者信用の条件の向 上という問題を,これまでよりも鋭敏に扱って もらえるだろう,という願いを込めてとりあげ るのだ」と最初に強調する。そして公営農民信 用が重要か否かを判断する材料として,私営支 援の実態を把握する,と報告の目的を掲げた。 倫理的関心が高いが,この報告も客観性が重視 されているといえよう[Program 1893,23―25; Pamietnik 1( 894,139―154]。 なお予稿の提出もなかったものの,本セッシ ョンには他に,レオの「農民階級労働組合とフ ランス農業連合(syndykat)の諸類型について」 (Juliusz Leo, 1861–1918 : ヤ ギ ェ ウ ォ 大 学 教 授)(注14)と「現 在 の 農 業 危 機 の 慢 性 的 特 徴」 (匿名)が登録されていた[Program 1893,4; Pami(etnik 1894,139]。 さて以上の未発表稿の概観からは,第1に組 合・信用,農業・農民,統計という話題の共通 性が確認できるだろう。これは,第1章で触れ た当時のポーランド経済学の動向と一致する。 第2に特にシフィェントホフスキやツァロ報告 には,民族主義を避けようとする態度がよみと れる点に注意したい。この点は後のミレフスキ 報告にも共通する。この特徴を確認した上で, 次に,当日発表の様子をみていくことにしたい。 司会のヤギェウォ大学統計学・人口学教授クレ ´ チンスキ(Józef Kleczynski, 1841―1900)ならび に,セッションの円滑な運営のために書記に任 / 命さ れ た ツ ァ ロ と ジ ュ ウ ト フ ス キ(Stanislaw ・Zó/ltowski, 1868―1939)(注15)は,主題から外れた発 言が出ると,その都度,警告を発した。以下の 議事において彼らはいかなる発言に対して警告 し,それを受けて討論はいかなる方向に最終的 にまとまっているだろうか。 1.グウォンビンスキ報告 第1報 告「抵 当 信 用 と 生 活 保 障 の 接 合」 /
(Polaczenie kredytu hipotecznego z ubezpiecze-(
・ niem na zycie)の論旨は以下の通りである。報 告者であるルヴフ大学法学部教授グウォンビン / / ´ スキ(Stanislaw Glabinski, 1( 862―1943)は予稿を 読みあげた後,10分程度,口頭で補足した。導 入文から判るように,彼はドイツ歴史学派の経 済観念を共有している。 「あらゆる経済社会システムは,その社会の 発展とともに歴史的に生まれたものであれ,あ
る経済階級・職業に適したものであれ,全社会 生活の一部であり表現であり,所与の法・政 治・社会的風潮のすべてと密接に結びついてい る」。「貨幣・信用経済の普及」は,「法治国家 と自由主義経済システムの誕生」とともに生ま れた「自然かつ必然的な現象」である。だが信 用経済,特に抵当信用経済は,不均等な社会経 済発展のなかで生まれたものでもあり,是正が 必要だ。今日,抵当信用は農民層が広く利用し ているが,「経済的な経験・教育」がないため に返済できもしない安易な借金を重ね,利息で すら未払いに陥る例が少なくない。統計資料に よると抵当貸付の年利は5∼10パーセント程度 である。そこで(1)年2パーセント程度の手数 料の支払いにより,(2)債務者の死亡時に債務 を帳消しにし,相続人が債務を負わずにすむよ うな,生活保障のための抵当信用制度を提案す る。低利貸付支援はすでにクラクフで例があり, 英国やドイツでは実践・理論両面で追究されて いる。「自分の力と(安定した)生活だけを経 済的基盤としている勤労者」を支援する保障制 度の1つとして,本制度を提言したい[Program 1893,19―22;Pamietnik 1( 894,101―106]。 簡単にまとめると,本報告は農村抵当信用事 業の実態を社会問題化し,対策として一種の会 員制保険制度(土地を担保に低利で貸付し生活を 保障する)への改変が有効だと唱えたものとい えるだろう。予想される争点は2パーセントと いう手数料の利率の妥当性等だが,100年前の ポーランド人はいかなる反応を示しただろうか。 ・抵当問題は立法による解決を待つべき(オル / / ウォフスキ Stanislaw Orlowski, 1868―1923)。 ・農村の健全な生活の諸条件を守るには,他に も保障すべきものがたくさんある(ナタンソ ン Kazimierz Natansohn, 1853―1935:ワルシャ ワの法曹兼金融業者)。 ・各人の土地所有規模は様々で,全員が同じよ うに抵当を利用できるわけではない(スカジ ´ ンスキ Witold Skarzynski, 1850―1910:経 済 学 者・プロイセン議会代議士)。 以下,初出の人名については調べがついた範 囲で生没年や職業を補う。 明らかに放談に近いこれら3意見が出たとこ ろで,まず書記ジュウトフスキが発言した。本 案は「今までにない」生活保障案であり,「青 年層の生活支援」も期待できる。自分の見識の 限りでは「現実的」と期待できる。この発言に 対して,先のスカジンスキとクフィェチンスキ ´ (Kwiecinski)がすぐに同意し,続いて経験に 基づく具体的な3意見が提出された。 ・負債者の死亡に備えて負債を分割し,割賦償 還する制度はすでにある。またオーストリア 領ポーランドでは迷信的な農民にあうよう修 / 正 が 必 要 で あ る(ビ ェ リ ン ス キ Stanislaw ´ Bielinski, 1871―1954?)。 ・ポーランドにはすでに地区ごとの貯蓄金庫が ある(ドブジツキ Dobrzycki)。 ・生活保障制度はすでにドイツにあるが,その 経験からいうと国の諸立法が生活を最大限に 保障する(コミェロフスキ Roman Komierowski, 1846―1924:政治活動家)。 ここで再びジュウトフスキが発言する。どの ような修正意見であれ,「過度に一般的なもの も個別化しすぎたもの」も望ましくない。「学 術大会推奨といえる結論」に繋がるよう考えて 発言してほしい。彼がこう注意した後,今度は 以下の修正案が出ている。 ・報告者は抵当信用のみ扱っているが,抵当市
場は我が国では小さい。運用率の高い個人信 用も加えるのが妥当だろう(スカジンスキ)。 ・我が国の農民は保守的で,価値ある提案でも 耳を傾けない。本案を実践するには既存の保 守的な諸関係と戦っていく必要がある(ゴル ドマン Goldmann)。 ・前例のない案なので,本当に実際的なのか実 践家は疑問に感じよう。そこで理論的に考案 された本案が実践に適用可能かどうか,彼ら にアンケートをとることを勧めたい(カルク ステイン Teodor Kalkstein, 1851―1905:ポズナ ン地主銀行)。 ・カルクステインに同意。また本制度が資本家 の懐だけを肥やさないよう,配当金制度を加 / える必要がある(パチョルコフスキ Stanislaw Paciorkowski, 1860―1942:法曹)。 ・スカジンスキに同意。オーストリア領下ポー ランドは零細農が多く,大半が抵当信用を利 用 で き る 状 況 に な い(ジ ャ ル ス キ Bojomir ・ Zarski:ヤロフワフ判事)。 ここでジュウトフスキが3度目に介入する。 彼は「特にカルクステイン以降」,本制度を実 際にどう運営するか云々という,本報告とあま りに無関係な発言が続いていると批判し,閉会 を訴えた。その時点で挙手していたウェビンス / / / ´ キ(Wladyslaw Lebinski, 1840―1907:ポズナン雑誌 記者)の発言は認められたが,彼も進行役から すると的外れな発言に終始したため,再び,今 度はもう1人の書記ツァロがこう教唆した。本 報告は「厳密に学術的な動機づけに基づいたも の」であり,「この方法で様式化されている」。 個別地域情況に即した諸意見は「厳密でない」 ので意味がない。「学術的に正確な意見は実践 とは分ける」必要があるのだと。この後,報告 者が各意見に回答し,質問者が自分の意見を取 り下げ,最後に司会が本報告の「正しさ」を法・ 経済学会は承認するとの採決をとるかたちで, 第1報告は締 め く く ら れ る[Pamietnik 1( 894, 106―116]。 さて第1報告をみると質疑応答がかなり錯綜 していた様子が窺えるだろう。しかし2人の書 記の勧告のタイミングと内容に注目すると,混 乱のなかにも1つの流れがみてとれると思われ る。それは「学術的議論」に不慣れな聴衆の発 言の中身が徐々に変化していく過程である。書 記の発言をみると,学術的思考とは,現実の事 象を細かく観察してある問題領域を設定し,そ れについて統計等の証拠の吟味も重ねて省察を 深め,一定の処方箋的見解に到達することを意 味したと考えられる。観察と推論の妥当性が評 価の対象となる。第1報告では,この「学術性」 に即さない意見も排斥はされなかった。だが注 意の対象にはなり,その注意には参加者を服さ せるだけの権威があったといえよう。ジュウト フスキの発言のたびに,コメントの性格が知識 人の知的歓談的なそれから政策実践的なものへ と変化し,最後にツァロが補足すると,皆,自 分の発言の学究性不足を理解して,発言を撤回 しているからである。第1報告で生じたこの変 化の影響は,続く第2報告の討論で明瞭になる。 2.ミレフスキ報告 第2報告「金通貨と社会経済に対するその影 / /
響」(Zlota waluta i jej wplyw na gospodarstwo
/
spoleczne)の大意は以下の通りである。 通貨体制でもっとも重要なのは,経済的に結 びついた国同士で通貨価値と交換レートが安定 していることである。貨幣経済に移行すると,
社会の様々な側面が貨幣と結びつくようになる ので,通貨問題の重要度が増す。主要各国,特 に1873年,ドイツが銀本位制から金本位制に移 行した。それ以来,ポーランドを含めた銀本位 制諸国は深刻な影響を受けてきた。「私はここ で,一義的には学術大会の理論家として話して」 おり,「扇動を意図していない」。だが「我が国 では政治領域にばかり目がむけられ」,家政に 注意が不足している。国同士の金融関係も世界 的に強くなりつつある今日,各地の社会経済を 守るには,法令や国際協定により通貨制度の安 定性を期す必要があることを主張したい[ Pro-gram 1893,16―18;Pamietnik 1( 894,116―125]。
報告者,ヤギェウォ大学政治経済学・財政学 教授ミレフスキ(Józef Milewski, 1859―1916)に よる補足説明は,実に40∼60分に及び,19世紀 に広まった金本位制により世界各地で生じた経 済危機が詳細に語られることになった。基本的 には,貧困等のポーランドの現状を理解するた めに通貨政策に着目する意義を唱えた発表とい えよう。特に読みとれるのは,ドイツ対ポーラ ンドという具体的対立軸を,通貨政策に起因す る全世界規模の社会経済危機の一事例として把 握する視点に,理解を促す研究姿勢である。 続く質疑応答ではまず,最初のコミェロフス キ発言(ドイツの金本位制導入は政治的意図によ る。我々は反対する。新聞の啓蒙不足で大衆はこ の問題を知らない)が完全に無視された。また 観想的コメントを寄せたコロステンスキ (Zyg-´ munt Korostenski:物理学者)(注16)や,今日の危機 は似非理論が原因ではないかとしたクシェル / / (Wladyslaw Kuszel:ワルシャワ特派員)も,議 題と無関係として,今回は司会から発言を差し 止められた。 議場を二分したのは,ウィーン中央議会の代 議士で自ら製油事業を興していたシチェパノフ スキ(1846―1900)の発言である。「科学,すな わち理論科学とは,かなりの程度,論理のもの, 厳密な理解のもの」である。「厳密な論証も, ある種の諸前提に基づいて高等教育的なもので あり,その観点からいって今日の講演はいかに も専門家的」だった。「私もかつて理論的視点 だけで問題を眺めていたことがある」。が,今 は「実業家,技術者として,いつも意外に思っ ている。今日,政治経済科学では機械や技術の 進歩の巨大な影響をどれだけ無視している」の だろうと。実践家の眼でみると,今日の(農村) 危機の主要因はむしろ,鉄道等の輸送技術の向 上と流通網の飛躍的拡大がもたらした競争であ る。「実践的人間はあれこれの原則をもつので はなく,ひたすら,作用している全影響を根気 強く観察する」ことが肝要だ。この発言には大 拍 手 が 送 ら れ,シ ュ ウ ド ジ ン ス キ(Zygmunt / ´ Szuldrzynski, 1830―1918:製造業者)とスカジン スキが立て続けに賛意を示した。ただし注意す べきことに,彼らは,シチェパノフスキによる 批判の中心をなした理論家対実践家という二分 法には触れず,ミレフスキとの見解の相違を, 金本位制と流通,いずれが今日の危機の原因か という推論の違いとして受けとめ,議論を進め ている。 さて第2報告でジュウトフスキが起立したの は,このような対立軸に落ちついたところで, シチェパノフスキを批判するためだった。彼は 「通貨が何の役割も果たさず,価値に何も影響 をもたない」といえるのかとシチェパノフスキ を問いただし,報告と直接関係のないコメント だと論難した。また「目下の議論に参加してい
る非専門家」のために大会としての結論に達せ ない,と激しい口調で会衆を批判した。これに 前後して発言は通貨の話題へと戻る。ただし以 下のように,議論は報告の主題ではない複本位 制論の是非に集中した。 ・通貨危機の性格と重要性は理解できたが,通 貨的要因のみ扱った点で不満が残る。歴史を 鑑みると,報告者の主張する金銀複本位制が 「幸福な経済の守護神」となるとは思えない。 ただし「金は稀少で,その価値も高騰してい る。それゆえ,第2通貨の導入は事を容易に し,通貨危機を緩和するかもしれない」とい う点で,報告者に反対はしない(スリゴフス キ Adolf Suligowski, 1849―1932:ワルシャワ自 由図書館長) ・「今日の複本位制論者がもっとも好む議論は, 諸悪の根源は1873年に導入された金通貨であ り,すべてはその後に続いたというもの」。 だが実際は今日における産業・通商関係の発 展が原因である。通貨が管理,特に国際的に 管理されたことは古代より1度もなく,通商 関係が発展した結果,貨幣の多様性が円滑な 通商を阻害するという認識が広まり,(歴史 上初めて)各国は金本位制に移行した。我々 もこの流れを止められない。ただし金本位制 が有害なことは間違いなく,それを換える努 力は必要だ(グウォンビンスキ)。 ・貴「金属は取引商品の地位にあるべきで,公 認交換手段となるべきでなく」,通貨も「相 互信用の表現」で,実在物に依拠すべきもの ではない(チェシコフスキ Cieszkowski)(注17)。 これらの発言の後,最後に報告者ミレフスキ による返答があった。が,その記録はない。内 容があまりに「雄弁で卓越」していたので,速 記タイプライタで記録しきれなかったと報告集 にはある。大まかには最後の話者グウォンビン スキとチェシコフスキの見解に基本的に同意し, 「それ以前の話者の中傷に対しては,金通貨が 危機の唯一の原因であるかのように話したこと はなく,他の諸要因を補完し,強めているとい った。同様に準備の整った複本位制計画の話で もない」と反駁したと記されている[Pamietnik( 1894,125―139]。 以上,第2報告をみると,ここでも質疑は錯 綜している。が,その原因は一義的にはミレフ スキ本人にあるように思われる。彼は通貨危機 の模様を全世界規模で例証することにより,現 状をたとえばドイツの陰謀等と政治に還元した がる風潮の近視眼さを批判することにとらわれ すぎたのではないだろうか。結果,発表の焦点 がぼやけ,聞き手は金銀複本位制を提唱したミ レフスキの近著(注18)から理解に努めた。そのた めに最後,複本位制に話が集中したのではない かと思われる。全体として第1報告後の討論と 比べると,今回は知識人の歓談ないし過度に実 践的な発言が減り,観察・推論・整理という手 続きを踏む発言が増えているといえるだろう。 当時,ポーランドでは,時事的問題の解決に 間接的に関心を払う経済学は,社会の趨勢や諸 問題に対して鋭敏な意識をもつ多くの人々によ り学ばれていた。たとえばビェリンスキやシチ ェパノフスキたちも,自ら農村信用や経済学関 連の著作を著し,この分野に一定の見識をもっ ´ ていた[Bielinski 1891;Szczepanowski 1888]。そ のような経済学「界」の同心円的な広がりのな かで法・経済学会は営まれていた。学会は一般 に開かれており,開催都市や農業組合が協賛し て代表が招待され,雑誌記者や特派員,学位未
取得者が出入りした。しかし議事録が示すよう に,学会が推奨したのは異業種間の意見交換で はない。確かな証拠と緻密な論理に基づく厳密 な科学性だった。シチェパノフスキたちも学会 では素人扱いされ,自ら理論家でないと考えて いた。さらに科学性の遵守という注意は,出身 地域や世代に関係なく大きな知的権威を発揮し た。とはいえ,その科学像は現在の通念と異な っていた。グウォンビンスキたちの報告は,今 日の規準では学術的ではあっても理論的とはい いにくい。だが当時は特定の経験的現象を観察 し,それを承認された操作で帰納し,現実の諸 問題に対して合理的解釈を施すものに対し,科 学的・理論的という形容詞が与えられていた。 そしてこの科学像は実践家にも学者にも共有さ れていたのである。たとえば先出のクシェルは 「周知のように,あらゆる理論は生の現象の観 察から抽出された諸提言の結合から生まれる。 他方で理論は実践にも大きな影響力をもつ」と 述べている[Pami(etnik 1894,134]。
Ⅲ
ポーランド経済学術専門誌
Ekonomistaの創刊
前節でみたような科学性重視の姿勢は,学会 だけでなく,同時期に創刊された専門雑誌にも みられた。1901年に創刊された(雑誌上は1900 年号)ポーランド初の経済学術誌『エコノミス タ』(Ekonomista)は,「科学と生活の必要に尽 ´くす季刊誌」(Kwartalnik poswiecony nauce i
potrze-・ bom zycia)という副題を掲げ,学術・理論志向 を明瞭に打ちだした。先述のミアノフスキ金庫 から唯一,助成を認められたこの経済学専門誌 (1901∼1905年まで助成)(注19)は,「ポーランド実 証主義を喧伝した雑誌」と評されるとともに, 今なお当地における理論経済学系雑誌の最高峰 の1つであり続けている(注20)。 注意すべきは,同誌には前身として,1890年 にルヴフで創刊されたEkonomista Polski(以下 EP )(注21)が存在したことである。EP はオースト リア領の進歩派ポーランド知識人が編纂した刊 行物の1つであり(注22),編集委員は,パヴリコ
フスキ(Jan Gwalbert Pawlikowski, 1860―1939)や シ チ ェ パ ノ フ ス キ を は じ め と す る9名 だ っ た(注23)。実 は,1894年 ま で 続 い たEP は,経 済 理論誌的色彩が弱く,むしろ時事評論・啓発誌 的だった。雑誌の基本的性格が改変された背景, それを本節では前節同様,1893年の大会記録に 残された当事者の議論から探る。それにより, 当時の経済雑誌もまた,科学性と非民族主義が 重視されたことを確認する。 なおEP 問題の討議は当初,予定されていな かった。以下のパヴリコフスキによるEP 宣伝 が許可されたのは,偶然,報告予定者が会場に 現れなかったからである(注24)。しかし彼の発議 は重要性が認められたのだろう。その後,大会 中の空き時間を利用して計3回の討論が実現し ている。司会とりまとめはジュウトフスキが行 った。 第1回目(12日午前):パヴリコフスキが雑 誌見本を会場の聴衆に配り,物質的支援と定期 購読・編集協力を仰いだ。演説趣旨は次の通り である。 現在,法学者は独自に法学専門誌『行政・司 法評論』(Przeglad administracyjny i s( adowy)( を擁
する(注25)。対して経済学者は大会のみが唯一,
互いの研究を知る機会になっている。経済学者 も全ポーランド規模の専門雑誌をもつべきでは
ないだろうか。EP は現在,ポーランドで唯一 の 経 済 専 門 誌 で あ る。ぜ ひ 支 援 し て ほ し い [Pamietnik 1( 894,192]。 第2回目(12日午後):パヴリコフスキによ る以下の補説から始まる。 EP に「党派的な目的は一切なく」,純粋にポ ーランド「全民族に尽くす」ことを目標として いる。「民族(naród)的・宗教的問題,この2 つの問題は弊誌にとって不可触(noli me tangere) である」。「あらゆる議論より上位にある」民族 的問題以外をすべて「弊誌は非党派的に扱う」 準備がある。それゆえに他領域在住の研究者か らもしかるべき支援を仰ぎたい。EP がオース トリア領の問題だけでなく全ポーランドにも関 心を払っていることは,「ポーランドにおける ロシアの25年」(25 lat Rosyi w Polsce)や「数字 にみる西欧におけるポーランド」(Polska na
´
zachodzie w swietle cyfr)といった論文も掲載し ているので明らかだろう。 彼の論理をよみとくと,まず自由主義や社会 主義といった政治的主張により徒党を組むこと を党派的とよんで嫌悪し,祖国ポーランド経済 の発展のために皆が一丸となって知恵を出しあ うような雑誌構想を唱えている。彼は,EP が 資金難なのは他地域からの支援が乏しいからで, それはEP がオーストリア領だけを対象とする 雑誌だと先入観をもたれているからだと考えた。 従ってEP が全国誌だと理解してもらえば,他 地域から協力を仰げるはずだと期待した。つま り彼は,非党派性と全民族志向の情理が他地域 の人々の心を動かすと踏んでいたと考えられる。 しかし彼の状況判断の誤りが,続く議論で明ら かとなる。 まず12日午後の会場の反応は,「ポーランド におけるロシアの25年」が印刷された段階で, ロシア領での出版は不可能(コニッツ Henryk Konic, 1860―1934:ワルシャワ法曹),「プロイセ ン領下のポーランド人に経済的教養がもっとも あるだろうから」,「編集委員会を,ここポズナ ンに創るのが最善だろう」(クウォブコフスキ / / Stanislaw Klobukowski, 1854―1917:ルヴフ),今 大会には大会報告集を刊行する予定があるので, EP からの出版とすれば読者数が増えるのでは ないか(ジュウトフスキ)の3つだった。これ らの反対意見が出たところで討論はいったん打 ちきられ,翌13日の全体会開始1時間前の参集 と討論の継続が提案されている[Pami(etnik 1894, 218―220](注26)。それゆえ,翌朝の討論には12日 よりも多く,かつ関心の高い人々が参加したこ とが予想される。 第3回目(13日朝):EP の定期購読制度に関 する意見交換に集中した。 第1発言者はスリゴフスキで,彼は公共図書 館司書としての経験,とりわけ創刊以来2年間 購読してきた経験を踏まえ,現状では「全地域 での購読が難しい」のでEP の定期購読制に見 直しが必要だろう,と述べた。第2発言者はス マ ジ ェ フ ス キ(Tadeusz Smarzewski, 1857― 1936?:ワルシャワ法曹)で,雑誌編集者の立 場から定期購読制という運営方法に再考を促し た。「しびれを切らしてEP を毎号待っている読 者をとても多く知っている」が,残念ながら現 状のEP は地域によっては読めず,また欠号も ある。さらに定期刊行物なので,たとえば1冊, 手元に入手すると,ある論文は連載の最終部分 だけ,別の論文は序論だけという不便がある。 そこで単行本での配本とし,書店でも購入でき ることを望む。この発言には同じく雑誌編集者
だったケンプネルも同意した。つまり,発行者 である編集者と受取手である公共図書館長とい う雑誌の流通実態にもっとも詳しい人間はとも に,定期購読制度が「全国誌」化の障碍となる と指摘したのである(注27)。 ここで注目されるのは,先述のスリゴフスキ が「EP はあまり理論的でなく,純粋に学問的 な問題を扱っていない」という風評があるとも 指摘した点である。評論の質はいいので,「厳 密に科学的な季刊誌より」需要が高い可能性は ある。だが自分の目でみても確かに「EP はむ しろ評論的性格を有した」雑誌だ。この指摘か ら窺えるのは,EP は科学的・理論的でなく, 学術雑誌ならぬ「評論」誌だと蔑む判断が,購 読を控える直接的理由となっていた可能性であ る。この点に注目するなら,大会記録の掲載を 勧めたジュウトフスキの助言も,大会について は「学術」大会として全ポーランド的支持があ るので,読者層の拡大が見込めると意図しての ことだっただろう。またポズナンへの委員会設 置を推したクウォブコフスキ発言も,理論への 知悉が経済学術専門誌としての権威を確立する 上で重要だという認識があったからだと考えら れる[Pamietnik 1( 894,257―259]。 このように会場の議論を整理すると,EP の 汎民族志向を訴えれば皆が挙って支援するはず というパヴリコフスキの状況判断は,誤認だと 推測される。また(「ロシアにおけるポーランド の25年」ならぬ)「ポーランドにおけるロシアの 25年」では出版許可が下りないとするコニッツ の指摘は,一見,当局の検閲がEP 普及を阻害 したかによみとれる。が,スマジェフスキやス リゴフスキの発言を踏まえると,検閲よりも基 本的なインフラの整備不足が主障碍だったと考 えられよう。発言内容から判断して,コニッツ はEP を読んでいない可能性が高い。ロシア領 におけるEP 流通状況を知らずに発言した可能 性もある。 従って,EP 販売網が他地域に拡がらなかっ た理由は,会衆の反応からは定期購読制と評論 誌的性格だったと推測される。むろん1893年の 討論だけで原因は特定できない。が,その後の 同誌は明らかに科学化路線を打ちだした。翌 1894年の刊行を最後にEP は休刊する。そして 1901年にミアノフスキ金庫の助成が認められて ワルシャワで再刊されたとき,雑誌名からは「ポ ーランドの」という形容詞が除かれ,ただの Ekonomistaになった。また時事評論的論説が 廃され,生活の期待に応える科学雑誌というス ローガンが掲げられた。最初は雑誌の体裁が一 定しなかったが,1904年に歴史学派経済学者ジ ェヴルスキ(Stefan Dziewulski, 1876―1941:1928 年まで編集長)が編集長に着任すると,論文 (roz-prawy),書 評(sprawozdania),論 争(polemika), 年表(kronika),文献目録(bibliografia)を中心 とする構成に落ちついた。同誌は科学の精神を 尊重する論文なら,投稿者の政治的背景に関わ りなく受けいれた。たとえば英国の協同組合運 動について寄稿したクルナトフスキ(Jerzy Karol Kurunatowski, 1874―1934)は 法 曹 で,後,中 央 統計局GUSで貿易・産業政策/史専門家にな った。フランス・サンディカリズムの動向を伝 えたポズネロヴァ(Zofia Posnerowa, 1877―1924) は後,ポーランド共産党員である[Kurunatowski 1911;Posnerowa 1912]。 本節で登場したパヴリコフスキは,前節のグ ウォンビンスキとともに,民族主義色が強かっ たとされる国民民主党の党員である。しかし議
事録が示すとおり,法・経済学会はグウォンビ ンスキの発表に敬意を払ったが,パヴリコフス キの要望を退けた。つまり学会は,自由主義や 社会主義,さらに非党派的汎民族主義というイ ズムとも異なる論理で行動していた。そして 1900年以降の『エコノミスタ』も,汎民族主義 も含めた党派性は不問,ただし現実の諸事象の 観察を報告しあい,より説得的で完璧な理論の 構築をめざす科学の一員たれという,以上のよ うな気運のもとに「創刊」されていたのである。
Ⅳ
ワギェフスキの信用組合論
では最後に,このような気運のもとで議論さ れた組合論の具体的な中身について,詳しく検 討していきたい。当時,組合専門家とよべる研 究者は何人か出現した。だが本稿では,彼らの 議論の断片をつなぎ合わせて,集合的に同誌上 の組合論を特徴づけるのではなく,当時,学術 的にもっとも高く評価された研究者を1人だけ とりあげ,その人物の論理スタイルの丹念な再 現に努めることにしたい。これは,研究論文が 立論全体をみることにより初めて,著者の意図 や思考の流れを適正に判断し,かつその論文を 高く評価するような周囲の関心のあり方,学識 水準をより精確に逆照射できると考えるからで ある。以上の観点から本稿で検討するのは,ワ / ギェフスキ(Cezary Lagiewski, 1876―1936)(注28)の 「信用組合」(1915年)である。 上掲論文を扱う理由は,第1に,信用組合が 当時のポーランドでもっとも活況を呈した協同 組合形態であり,その分,単著も含めた論考数 が相対的に多かったからである(注29)。第2に彼 が当代を代表する科学的組合研究者と考えられ るからである。後掲の表1から明らかなように, 彼は当時,経済科学誌『エコノミスタ』にほぼ 毎年,掲載された組合運動年表の大半を執筆し た。またポーランド3分割地域,リトアニアや ドイツ等,各地域における協同組合・信用組合 事業の統計分析,ポーランド組合運動人物伝, 関連文献の書評等,同誌にもっとも多くの論考 を発表した。さらに同時代の多くの研究者が, 彼の研究を参照していた(注30)。第3に,同稿が, ワギェフスキが長年の研究成果を踏まえた「協 同組合理論」(teoryja kooperatyzmu)の構築を明 / 言したものだったからである[Lagiewski 1915, 256]。 ただし彼の論文は,当時としては珍しいこと ではないが,引用文献の提示方法等に不備が少 なくなく,全体の構成もひどく変則的である。 基本的には統計分析論文であり,会員・組合数, 歳入・歳出等の数値の増減を検討し,事業が拡 大・縮小したと思われる時期を特定し,それに 影響を与えたと思われる外部要因を指摘するこ とを主目的に,記述が進む。しかし,全体の展 開は,最初に19世紀半ばのドイツ信用組合革命 立役者2人の思想が整理され,次に「世界中」 の組合運動の概観(西欧・東欧各国,ロシア,ア ジア(注31),南米各国まで約30ページ)が続き,さ らにポーランド3地域が言及され,最後に彼の 洞察の結果が述べられる構成になっている。つ まり記述が拡散している(注32)。そこで,本節で は以下の3点から整理し直して,彼の論理構造 全体を析出することにしたい。 1.執筆目的 先述のように,同稿は協同組合理論の構築を 最終目標として,信用組合をとりあげている。具体的には「できるだけ幅広く一般的な信用組 合の統計資料を提示すること」により,組合発 展「史上の重要なモメント」をみつけることを 目的とする。ポーランドにも言及するが,「我 々の信用組合の特定の歴史を,ここで強調する 意図はない」。ポーランドに触れるのは,我が 国にも信用組合運動があると高らかに称揚する / ためではない[Lagiewski 1915,243]。ワギェフ スキはこのように断っている。 ではなぜポーランドを扱うのだろうか。明言 されていないが,論理展開からすると,ポーラ ンドの組合運動が外国から輸入された試みだっ たからだと考えられる。論文にはこうある。 ・第1に,三国分割前,ポーランドにも組合・ 貸付金庫をおく試みがあった(シュモラーに 依拠して中世ポーランド金融史を研究したバラ ノフスキ〔Ignacy Baranowski, 1879―1917〕によ / る指摘[Lagiewski 1915,202,243])。 ・第2に,ドイツの組合はドイツの中世以来の 経済活動拡大の末に発明された。 経路依存的に経済発展過程を検討する歴史学 派経済学者なら,この2つの知見から次のよう にポーランドを扱う意義を修辞したのではない だろうか。まずポーランドは,中世まで隣国ド イツと同じ経済発展の道をっていた。だが三 国分割により同運動発生の経路が一旦断たれた。 その後,外国から輸入されて,組合運動は再出 発した。それらの運動は,各分割国の異なる政 治経済体制に有機的に組みこまれて実践されて いる。つまりポーランドは,同運動の起源と発 展過程,周囲の諸条件との関係を(ドイツより も)単純な環境下で観察し,比較し,理論化を進 められる格好の研究対象となる。仮に理論化の ための材料としては不十分でも,最低限,ドイ ツとの比較という意義はある。彼はこのように 考えて,「純粋に理論的な一般化」をめざして ポーランドを検討すると表明したと推測される。 2.ドイツ信用組合の評価基準 ワギェフスキは,ある面で現在と著しく対照 的な信用組合論を展開している。 彼はまず19世紀半ばのドイツ信用組合革命の 立役者,ライファイゼン(Friedrich Wilhelm Raif-feisen, 1818―1888)とシュルツ(Herman Schultze z Delitzsch, 1808―1883)について,国家の厳しい 監督下にあった19世紀前半までの貸付金庫と, 「ラサール型立法プロジェクト」(Ferdinand Las-salle, 1825―1864:国家社会主義について言及して いるのであろう)が実現できなかったことをな / し遂げた,と称揚する[Lagiewski 1915,202, 205]。今日の開発経済学でマイクロファイナン スと呼ばれる事業形態が,その中身だった。現 在の同事業の基本的定義は,近代的な銀行や信 用組合が未発達で,高利貸し等のインフォーマ ル金融が強い途上地域において,貧困層や低所 得者層を対象に,貧困緩和を目的として行われ る小規模金融である。貧困層が適正な価格で適 正なサービスを受けられる制度を構築し,自活 力向上により貧困からの脱却を促すのを基本的 目標とする。必然的に収益性の低い小口取引が 主になり,営利性を追求しにくい。他方で道徳 的 な イ ン セ ン テ ィ ヴ は 得 や す い 性 格 を 有 す る(注33)。ワギェフスキも,両者がともに貧困層 や低所得者層の「空腹を満たすため」という素 朴な人道的関心から,事業を始めたと指摘して いる。それゆえ,マイクロファイナンス事業の 性格そのものについての彼の理解は,今日のそ れとおよそ共通しているといえよう。