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「失われた時を求めて」における象徴としての眼鏡 ; 3 : 「見る」、「書く」、「読む」こと

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Academic year: 2021

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(1)『失 われ た時 を求 めて 』 にお け る象徴 と しての 眼鏡. (3). 一―「見る」,「 書 く」,「 読む」 こと一一. 前. 田. 美. 樹. 持 ち合わせてい るように思われて くる。 は. め. ときにプルース トは,レ ンズ によつて ものごとを拡. に. 大 して見るように読者 に促 し,ま た時 には,も のごと これ まで ,マ ル セ ル ・ プル ース ト Marcel Proustの 作 品 ,『 失 われ た時 を求 め て』A. Jα. ″θ んι κttθ ん ″ ι りs. 燿況 にお け る象徴 と しての 眼鏡 と題 し,2003年 の大 ρι. の仔細 を丹念 に見 るように我 々 を導 く。そ して 『見出 ″ソ どにお い て ,語 り手 が され た 時』Lι ルの s″ ′ “ 「書物」 について語 るとき ,. 学 院論 集 で発 表 した (1)で は ,作 品 に現 れ る様 々 な 眼鏡 を と りあげ,と りわ け眼鏡 の歴 史 と作 品 との 関連. 実 の ところ,そ れぞれの読者 は本 を読 んでいると. を,そ して 2006年 に発 表 した (2)で はモ ノクル mon―. きに,自 分 自身の読者 なのだ。作品は,こ の書物. Ocleつ ま り,登 場 人物が そ の 目に掛 け て い る片眼鏡 の. がなければ見 えなか った読者 自身の内部 の ものを. ことで あ るが , と りわ け ,ス ワ ンとサ ン=ル ー に まつ. はっ きり識別 させ るために,作 家が読者 に提供す. わる二 つ のモ ノ クル描 写場面 を比 較 し,そ こに現 れ る プル ース トの芸術 観 を中心 に論 じて きた゛。 この 論 考. る一種 の光学器械 にす ぎない。 ". では ,こ れ までの研 究 を踏 まえて ,プ ルース トと眼鏡 の 関係性 を よ り深 く考 えてみた い と思 うJ。. と述べ てい る。 ここでプルース トは,「 作品」,つ ま り 「書物」 を,作 家が読者 に提供す る une. espё ce d'instm―. これ までの論考 では,眼 鏡 ,そ して広 い意味 での光. ment optiquc「 一種 の光学器械」 に喩 えて い る。 つ ま. 学器械 とい うものが ,作 品 に対す る読 みの可 能性 を無. り,書 物 は,読 者 自身が 自分 の内部 にあるものをはっ. 限 に広 げ る とい う ことを論証 して きた ので あるが ,眼. きり識別す るために作家が読者 に提供す るレンズ なの. 鏡 に よって複雑化 か つ 多様化 され る登 場 人物 たちの視. であ る。その レンズによって,読 者 は,自 分 自身の内. 線 を追 うにつ れ ,あ る一 つ の考 えに導 かれて くる。そ. 部 をはっきり見 ることが可能 になるのである。 この喩. れ は ,プ ル ース トに とって ,「 見 る」 とい う こ とは. えは,「 読 む」 こ とが 同時 に「書 く」 こ と,そ して. 「書 く」 とい う こ とに対 す る訓練 に他 な らな いの で は. 「見 る」 ことと密接 に関 わってい るとい うことを意識. ない だろ うか とい う こ とで あ る。. し,か つ作品自体 が一種の視覚的 な装置であるとい う. 『ス ワ ンの 恋』 びんα θ ιS″ αんん で 描 か れ た語 り “ "rグ 手 の先駆者 で あるス ワ ンのモ ノクルに映 し出 されたオ. ことを宣言 してい るとも受け取 れるのではないだろ う か。 これは大変興味深 い。. デ ッ トとの恋 愛模様 ,そ して また ス ワ ンが恋 の病 を解. それではまず ,『 見出 された時』 において語 られる. 消す る きっかけに もな った ,サ ン=ト ゥー ヴ ェル ト夫. プルース トにとつての作品論 ,作 家論 ,さ らには「書. 人 の夜 会 に出掛 け て行 った ときに突然滑稽 に思 われて. 物」 といった ものが どう語 られてい るのかを見 て行 き. きた社交 人 たちのモ ノクル姿 と,そ の描写 にみ られた. たい と思 う。. 美 的教育 の過程 ,さ らにはサ ン=ル ー の 人格 を も象徴 す る よ うな言 わば分 身 と しての モ ノ クル か ら,ブ ロ ッ. I.見 出 された「書物」. クの モ ノ クルヘ の移行 ,な どの描 写 は,眼 鏡が作 品 の 徴 的存在 で あ る とい う こ とをわれわれ に示 して きた。. 長編,『 失われた時を求めて』の最終篇である『見 出された時』は,語 り手のタンソンヴィル場面に始ま. 同時 に,そ れ は単 に「見 る」 とい う こ との象徴 であ る. る。 タンソ ンヴ イルは語 り手が幼少 の 頃散歩 したあ の. だけで な く,「 書 く」 とい う こ とを象徴 す る側 面 を も. さん ざ しの道が あ る タ ンソンヴ イル ,ス ワ ンの持 って. 中での 「見 る」 あ るい は「観察す る」 とい うこ との象.

(2) 甲南女子大学大学院論 集 第 6号. 言語 ・文学研究編 (2008年 3月. ). いた土地であるが,こ の最終篇では時が流れ,こ れま. は ,最 も才 気 の あ る人 で も,学 識 深 い 人 で も,す ぐれ. で起 こったことは総 て過去 のことであるかのように描. た縁 故 の あ る人 で もな く,自 分 を鏡 にで きる人 ,た と. かれて,物 語 は始 まる。そ こでは,か つてバルベ ック. え平 凡 な もの で も自分 の生 活 を映 し出す こ との で きる. で知 り合 ったグルマ ン ト家の貴公子 サ ン=ル ーが,ス. 人だつた。 "と 理解する。 この一文の「自分 を鏡 にで 」 きる人」そして「自分の生活 を映 し出す ことので きる. ワンの娘 ,ジ ルベ ル トと結婚 してか ら時が経 ち,や が てゲルマ ン ト家の男 たち特有の「男 を愛す る」 とい う 性質が現 れて様変 わ りした様子が描かれ,ま た,第 一 次大戦 による社会や社交界 の急激な変化 ,そ して シヤ ル リュス氏 をは じめ とす る登場人物 たちの老化 による 変容 が執拗 に描 かれてい る。そ して この章 は,『 失 わ れた時 を求めて』 の結論部 のようで もあ り,こ れまで に描かれて きた この作品の意味付 けや,作 品全体 の種. 人」 とい うのは,わ れわれに 17世 紀の画家で,プ ル ース トの芸術観 に影響 を与 えた画家の一人であるシャ ルダンを思い出させる。プルース トは『サ ン ト=ブ ー ヴに反論する』 におけるシャルダンの論考 において ,. 年老いたシヤルダンの眼鏡 をかけた自画像 を引き合い に出 しながら,「 凡庸な人物,せ いぜ い芸術家 らしい 口 を きい た りそれ ら しい衣装 をま とった りして い る程. 明か し的な総決算 としての役割 をも担 っている。. 度 の 人物 は,自 然 の なか に,寓 意 的 な形 象 の調和 の と. この章での作家論 ,書 物 ,書 くことについて考 える ときにまず重要な出来事 の一つ として,語 り手が タン. れ た均 衡 が 認 め られ る よ うな存 在 を求 め て い る だ け. ソンヴイルにあるジルベ ル トの家を発 つ最後 の夜 に. 様 , どの よ うな種 も興味深 い もの なんだ …Jと 述 べ て. ゴンクール兄弟 の 日記 の一部 を読 む ことが挙 げ られ. い る。 シャル ダ ンは,台 所用 品 ,野 菜 ,狩 りの獲物. る。 この ゴンクール兄弟 の 日記 は,作 品内では一種の. 果物 か ご,魚 , とい った実 生 活 の もの を描 い た画家 で. 模作 として描 かれてい る。実際 には この 日記 は 1851 年 のルイ・ナポ レオ ンの クーデ タの 日に始 まり,1896. あ り,プ ルース ト自身 もシャル ダ ンが何気 ない様子 で. 年 まで続 いたもので,ゴ ンクール兄弟二 人の鋭 い観察. 偉大 な芸術 家 とい うもの に必 要 な資 質 とい うものは大. による詳細 な生活記録であ り,今 日で は,19世 紀後 半 の社会 ・文壇 の貴 重 な資料 で ある とみ な されて い. それた もの を持 ってい る とい う よ りは,日 常 の平凡 な. ,. る。 この 日記 を読 む ことによつて,語 り手 はこの章 に おいて最初 に文学 について様 々な考察 を行 う。 この 日. だ 。真 の 芸術 家 に とって は ,博 物 学 者 に とつて と 同. ,. 日常 を描 写 した作 品 に大変注 目 して い た。要す るに. ,. 生 活 をその ままに,映 し出す こ とがで きる人物 で あ る とい うのだ。 ゴ ン クールの 日記 を読 んだ語 り手が ゴ ン クールの 日記 を読 んで得 た確信 も,そ の よ うな ものだ. 記 を読 んで語 り手 は「様 々な観点か ら見て,私 は 自分 中 を安心 させ ることがで きた」 , また,「 まず私 自身 に. った。. ついて言 えば,注 意深 く見 た り聴 いた りする能力 に欠. は過 ぎ去 り,語 り手 は,パ リか ら遠 い ところにあ る療. けてい る ことは引用が悲 しくも明 らかに したのだが しか しその能力が まった くなかったわけではない。」 ". 養所 で過 ご し,空 自の数年 を経 て ,再 びパ リに戻 って. と,語 り手 はこの ゴンクールの 日記 を読 むとい う行為. 交界 のみ な らず ,社 会全体 が戦 争 で様変 わ りして い る. によつて,以 前な ら自分の才能 に対 して決 まって抱 い. ので あ る。 サ ン=ル ーの変化 ,そ して何 段 階 か に分 か. ていたような,全 くのあ きらめや失望 を,も はや感 じ. れた シャル リュス氏 の老化 に よる変化 を目の当た りに. ることはなか った。そのかわ りに語 り手 は,自 分 の中. す る語 り手 は ,「 シ ャル リュス氏 が小 説家 か詩 人で な. に,「 多少 ともしっか りものを眺 めることので きる人 物 が い る」 とい うことを認識す るに至る。そ して ゴン. mと か ったの は,な ん と不幸 な こ とだろ う !」 考 える一. 方 で ,「 仮 に シ ャ ル リュス氏 が小 説 家 であ った と した. クールの ことを,「 見 ることもで きる と同時 に,人 の ° 話 に耳 を傾ける こと もで きた」 人物であ ったと感心す. ら,こ れ はむ しろ彼 に とつて ,不 幸 な こ とだ ったか も りと しれ な い 。」 ,シ ヤル リュス氏 が 単 なるデ イレ ッタ. るのである。. ン トにす ぎず ,何 か を書 こ う と しなければ,そ の才能. ,. ここで まず ,語 り手が ,ゴ ンクール を引 き合い に出. そ して語 り手が ゴ ンクール の 日記 を読 んだ 日か ら時. くる。 そ の時 には もうす で に戦 争 が 始 ま ってお り,社. に も恵 まれ なか った とい う考 えに至 る。 つ ま り,小 説. lと そ して 「人の話 しに耳 を傾 け しなが ら,「 見 る」 こ. 家や詩 人 になるため には,シ ヤル リュスの み な らず. る」 ことが,作 家の才能の一つ として認識 される こと. ス ワ ン も陥 っていたデ ィレッタ ン トの病 か ら逃 れ ,そ. は興味深 い。 さらに語 り手 は若 い頃に熱狂 して崇拝 し た作家 ,ベ ル ゴ ッ トを引 き合 い に出 し,「 かつ て私 が. して な に よ りも,「 書 こ う」 とす る意 志 が必 要 なの は もちろん の こ と,い か に人生経験 が豊 富 で あ り,才 気. ル ゴ ッ トの よ うな人物 になるの. の あ る人物 で あ った と して も,「 観察 す る」 才 能 に も. 理解 した ように,ベ. ,.

(3) 前田 美樹 :『 失われた時を求めて』における象徴 としての眼鏡. (3). 恵 まれなければ小 説家や詩人 にはなれない とい う確信. 要す るに, きわめて複雑 な この芸術 こそ ,ま さに. を語 り手 は得 るのである。. 唯 一の生 きた芸術 なのだ。 ただ この芸術 のみが. そ してサ ン=ル ーの戦死が語 られ,語 り手 はバルベ ックでサ ン=ル ーのモノクルがひ らひらしていた思 い. 私 たちの 固有 の生 を,こ の「観察」 され る こ との. 出などを回想 しなが ら,ま た次 の療養所 とい う空 自の. ち 自身 に も見せ て くれ る。 そ の生 の観察 で きる外. 期間が現 れ,語 り手 は再 び「 自分 には文学的才能が欠. 観 は,翻 訳 を必 要 と してお り, しば しば これ を逆. けてい る」 とい う考 えに襲 われる。 しか しこの失望. さまに読 んで ,苦 労 しなが ら判読 しなければな ら. は,語 り手が何 らかの確信 の一つ を捉 える前 の前触れ. ない。. ,. ない生 を,他 人 のため に表現 す る とともに,私 た. 1°. にす ぎない。語 り手 は久 々 に戻 ったパ リで,た だ「ゲ ルマ ン ト」 とい う名 に誘 われるが ままに,ゲ ルマ ン ト. そ して ,わ れわれが 最後 にや は り辿 り着 くのは,こ の. 大公夫人のマチ ネー に出掛けるのである。そ してグル. 論考 にお い て最初 に取 り上 げ た次 の 引用 なのであ る。. マ ン ト邸 の中庭 での敷石 につ まず いたときに,か つ て コンブレーでお茶 に浸 したマ ドレーヌ を口にしたとき. 実 の ところ,そ れぞれの読者 は本 を読 んで い る と. に感 じたような無意識的記憶 の蘇生現象, レミニ ッサ ンス に襲 われるのである。そ してその幸福感 を抱 いた. きに,自 分 自身 の読者 なのだ。作 品 は,こ の書物 が なければ見 えなか った読者 自身 の 内部 の もの を. まま,グ ルマ ン ト邸 の図書館 にい るときに,語 り手 の. はっ き り識別 させ るため に,作 家 が読者 に提供 す. 「書 くこと」 に対す る考 えが爆発す る。. る一 種 の光学器械 にす ぎない。. 「芸術家 は絶 えず 自らの本能 に耳 を傾 け るべ き」。で ある とし,「 〈物 を描写す る〉だけで満足 した り,物 の. Ⅱ.「 見 る」,「 書 く」,「 読む」 こと. 線や面 の貧弱なリス トを作 るだけで よしとする ような H)は. ,現 実か ら最 も遠 い文学 である同時 に,「 私 たちを最 も貧 しくし,悲 しませ る文学」口であ り,「 本. 文学」. 当 に芸術 の名 にふ さわ しい芸術」が表現すべ きもの は,も のごとの「本質」 であるとい うことを悟 る。. プルース トにとつて書物 とは,読 者が 自身の内部 を 「読 む」 と同時 に「見 る」 とい う場 であ り,そ れが可 能な装置 である。 ロジェ・ ラポル トは「いかに逆説的 に見 えようと,書 くことは まず もって読 むこと,つ ま. 私 は気づいた。 この本質的な書物 ,唯 一の真実な. り 〈未知 の記号 ,浮 き彫 りにされた記号 によるこの内 口 的な書物 〉の読 み方 を学ぶ ことにある。 」)と 言 ってい. 書物 は,す でに私 たち各人のなかに存在 してい る. る。 ここで専 ら強調 されるのは「書 くこと」,「 読 む こ. のだか ら,大 作家 は普通 の意味 でそれを作 り出す. と」 とい うことであるが,も ちろん「見ること」 もそ. 必要 はな く,た だそれを翻訳 しさえすればよいの. こには必然的 にかかわって くる。そ して読者が 「未知. だ とい うことに。作家 の義務 と仕事 は,翻 訳者 の. の記号 ,浮 き彫 りにされた記号 による この 内的 な書. B). それなのだ。. 物」 を読 む手助け となる道具 を,作 家 =芸 術家が提供 す るのである。 しか し作品は作家が読者 に提供す る一. このように,「 本質的な書物」,ま た「唯一の真実な書. 種 の光学器械 に「す ぎない」 と表現 される よ うに. 物」 とい うものは,各 人の なかに存在 し,作 家 の役 目. 「書物」が ,わ れわれ読者 か らみて手 の届 かない存在 で ある とい う装置 であるとい うのではな く,「 私 の本. は,そ れぞれの人の内部 の声 を「翻訳」す ることだと い う。そ してまた,文 学 については,「 真 の生 ,つ い に見出され明 らかにされた生 ,従 って十分 に生 きられ た唯 一の生 ,こ れ こそが文学であ る。」口とし,ま た 「芸術 によってのみ ,我 々は 自分 自身 か らぬ け出 し て,他 人が この宇宙 をどんなふ うに見 てい るかを知 る ことがで きる。 (0・・)芸 術 のおか げで我 々は,た った. ,. は,コ ンブレーの眼鏡屋がお客 に差 し出す ような,一 国 種 の拡大鏡 にす ぎない」 とい うよ うに,コ ンブ レー の眼鏡屋 が提供するような,そ れを必要 とす る者 にと って, とて も身近なものである とい うことが言えるの ではないだろ うか。 しか しなが ら,こ れまで見 て きた ように,読 者 にそのような書物 を提供す るために作家. 一つの 自分 の世界だけを見 るかわ りに,多 数の世界 を Ы 見 ることがで きる。 」 と述べ ,そ してさらに先 の言及. は,「 孤独」 と「沈黙」 の うちに,自 己の内部 まで下. を繰返 して次のように言 う。. とな く取 り出 し,そ して言葉 にして外 に送 り出さなけ. りて行 き,そ の内部 にある本質的 な ことが らを壊す こ ればならない。その行為 はともすれば,命 を削 るほど.

(4) 甲南女子大学大学院論集第 6号. 言語 。文学研究編 (2008年 3月. ). の苦労 を伴 うものか もしれない。 しか し清水徹氏 は. も広げる一つの装置 ・場 であるのだ。そ してその装置. 『書物 について』 とい う著作 について次 の ように述 べ. は「見 る」 ことを促す一つの「光学機器」 であ り,ま た「眼鏡屋」 のようなものなのである。眼鏡 はこうし. てい る。. て,「 書物」 とい う交流 の場 ,作 家 の生 きられた生. ,. い か に文 字 そ の ものが 反 一生 命 であ ろ う と,す く. そ して生 きられた時間 と,読 者 の生 との交流 の場 であ. な くとも文学 の 地平 にお い ては ,文 字 を書 くとい. る 「書物」 とい うもの ,「 書 く」 こ と,そ して「読. う作業が ,書 き手 の側 にお い て ,死 の遠 ざけ,死. む」 こと,そ して「見 る」 ことの象徴 にもな り得 るの. の危機 か らの脱 出 ,死 か ら生 へ の帰還 と して作用. である。. す る こ とを,わ た した ちは多 くの文学者 たちの夕l. ここまで,『 見出 された時』 で語 られた書物 につい. にお い て知 ってい る。 そ して また書 かれた文 字 の 集合 と してのテ クス トが ,読 む とい う作業 を とお. て, そ して「書 く」 こと, そして「読む」 ことについ て追 って きた。 ここで書物 とい うものがいったい どう. して ,同 じく死 の遠 ざけ と して作用す る こ とを. い うものであるか とい うことが見えてきたところで. わ た した ちは読 書 体験 を とお して知 って い る 。. それで はマ ルセル ・ プル ース ト本 人 に とって眼鏡 とは. )と す れ ば ,こ こか ら仮説 と して ,書 物 とは. どの よ うな もので あ ったのか とい う ことに少 し触 れた. ,. (…. 分析 であ り,抽 象 で あ り,凝 固 であ る文字 を支 え. ,. い. 。. つつ , しか し死 の遠 ざけ と して作用す る物 質的装 つ 置だ. Ⅲ .プ ル ー ス トと眼 鏡. ). ここで興味深 いの は,一 見作家の生命 を削 る行為 であ. 1916年 ごろ,プ ルース トが 44歳 の時 の書簡 におい. るかの ような「書 く」 とい う作業が,書 き手 の死 を遠 ざけ,死 の危機か ら脱出させ,死 か ら生へ の帰還 とし. て,彼 は徐 々に視力が衰えてゆ くことに対 しての苦痛. て作用 しているとい うことであ る。確 かにプルース ト. り,生 涯 を通 じて もっとも親密 に交わった人の一人で. も,こ の指摘 にあてはまる作家 のひ と りか も しれ な. あるリュシア ン・ ドーデに,手 紙 でこの ように述べ て. い。『見出 された時』 に描かれるのは,語 り手が まさ. いる. に「書 く」 とい う行為 の本質 をようや く発見する こと. で)遅 れてごめんなさい…眼が疲れす ぎた。 このへ ん. によつて,死 を怖 れなが らも,死 を遠 ざけ,自 身 の. で止めてお く…」 。そ して また しば ら くたってか ら. 「天職」 に邁進 しようと強 い意志 を表示 しなが ら閉 じ. 書 い た手紙 にも,「 目が ひど く痛 くて本格的な手紙 が. られる物語で もあるか らだ。 また書物 とは,読 み手が. 書けない」 と述べ ている 。書簡 の注釈 によれば,こ の時期 の リュシア ン・ ドーデ宛の手紙 には, しば らく. 読書体験 を通 して死の危機か ら遠 ざけられる「物質的. を訴えてい る。彼 はアルフォンス・ ドーデの次男 であ. :「. 君 に返 事 を書 くのが. (目. の調子 が わ るいの. 2〕. 2囀. 装置」 であるとい う。 湯沢英彦氏 は著書 『プルース ト的冒険 ―偶然 ・反復 節│に おいて 空 白 ・倒錯』 ,喪 失 ,不 在 といった問題 ,「. 前 か ら痛 めていた目の不調 に対す る不満 を,手 紙 に書. 系 と交差 しつつ,プ ルース トの小説 は 〈私 〉を読 む こ とか らプルース トの く書物 〉を読 む ことへ ,表 象不可. 作家のアン ドレ・ジッ ド (1869-1951)に 宛てた 1916. 能なものへ の問いか ら,い つで も解読可能な文字へ の 集積へ ,閉 ざされた内部か ら開かれた頁へ ,読 者 の視. ど く疲 れて,こ れ以上 この手紙 を続ける ことがで きま b)と い せ ん…」 うことを書 い てい る。 ア ン ドレ・ ジ ッ. 線 を導 い て い る よ うに思 われ る。」 と指摘 し,ま た. ド宛 の 1917年 10月 の手紙 では,「 私 はひど く目が悪. 「ことによったら,〈 私 〉を読 み 〈書物 〉を書 く欲望そ. くなったのに,あ いかわらず眼鏡はもっていませんの. くことが よ くあ った とい う。 また,1891年 に出会 っ てか ら親交 を深 め,た びたび書簡をや りと りしていた 年 9月 28日 の手紙 において も,「 親愛なる友 ,日 がひ. れ 自体 も,雑 多 な知 の万華鏡 のひとつの輝 きとして. 20と で」 書 き,目 が悪 くな ったに も関わ らず ,眼 鏡 を. ])と 」 述べ てい る。 ここ 数え入れるべ きか もしれない。 2)と ぃぃ で湯沢氏 は書物 を雑多 な知の 「万華鏡」 ,こ. まだ持 ってい ないことを表明 してい る。 また同様 に 1917年 のル ネ・ボ ワレー ヴ宛の手紙 には,眼 科医 に. こで も書物 を喩 える表現 として,光 学器械が用い られ. 診 て もらい,眼 鏡 を選んで もらう必要性があることを. てい る。. 語 っている。 1920年 9月 2日 の手紙 で も同様 に,『 失. ,. この ように,「 書物」 とい うものはいわゆる「書 く」 ことと「読む」 こと,そ して読者の視線 を無限に. ,. われた時 を求めて』 の出版 を最終的 に担 うことになっ たガス トン・ ガ リマール に次 の よ うに書 い て い る。.

(5) 前田 美樹 :『 失われた時を求めて』における象徴 としての眼鏡 「私 の眼 の状態では,こ れは容易 ではあ りません。 し か し私 が四年前 か ら診察 を受けな くてはならなか った. (3). 事実 が 直接作 品 と関係 が ない とい え ども,興 味深 い こ とであ る。. 偉大な眼科医が,近 々帰 って くるとも聞 きました。た ぶん,彼 は私 にもっとよい眼鏡 を見 つ けて くれるで し 27)と. ょぅ。 」. 結. び. 。. このように,4年 のあい だ,彼 は眼 の不調 に悩 まさ. プルース トにとって,「 見 ること」 と「書 くこと」 ,. れ,つ い に眼鏡 を買 わなければならない とい うことを. そ して「読 むこと」 は,つ ま り,「 生 きる こと」 に他. 真剣 に考 え始 めるので ある。1920年 9月 6日 の,詩. な らなかった。「画家 よ りも作家 は,量 や密度や普遍. 人で親交 のあ ったフィリップ 0ス ーポー宛 の手紙 でわ. 性や文学的な現実性 を獲得す るために,た った一つの. かるように,彼 はため らい を示 しつつ も,つ い に眼鏡 を購入す るに至 る。 しか し,1920年 10月 31日 に. 教会 を描 くのに もた くさんの教会 を見なければならな いの と同 じように,た つた一つの感情 のためにも多 く. ガス トン・ガリマ ール宛 の手紙 の中で再 び,彼 は次 の. 2"と ぃ の人間 を必 要 とす る。」 ぅ ょ うに,作 家 は「書. ように不満 を述べ てい る :「 眼鏡 を割 って しまい ,こ 劉と。 この よ うに彼 はせ っか れは悲濠1で す」 く眼鏡 を. く」 ために多 くの ものを見 なければならない し,「 た った一 つ の感情 のため にも,多 くの人間 を必 要 とす. 購入 したにもかかわらず,す ぐに,眼 鏡 を壊 して しま. る。 」 とい うよ うに,多 くの人 々の内部 を,そ して 自. う。. 分 自身の内部 を読 み,そ して内面の声 に耳 を傾 けねば. ,. 1916年 以来 ,プ ル ース トは しば しば手紙 に眼 の不 調 につい て言及 した。われわれはプル ース トが 1920. ならない。作家 =芸 術家 とい う素質 を持 った人物 は. ,. 読者 に対 して「翻訳者」 の義務 を持 つ。. 年 に買 った とい う眼鏡 を,プ ルース トが掛けてい る姿. そ して書物 を生産する立場で もある作家 とい うもの. を写真 で見 たことはない し,肖 像画 に描かれた りして. に,「 見 る」 ことや,「 書 く」 こと,そ して「読む」 と. い るの も一度 も見た ことがないが,あ る意味 プルース. い う行為が切つて も切 り離せな くなる程 に,そ こには. ト自身の眼鏡姿 とい うものはとて も興味深 い ものであ. 象徴 としての眼鏡 の存在 が常 に浮かび上が って くる。. る。. 明 らかにプルース トの文学観 を表す のに眼鏡 は重要な. 1916年 以 降 の書簡 を見 る と,視 力 の低下 によ り. 装置 である と言 えるのではないだろ うか。 このような. 執筆 に支障 をきたす とい う,作 家 としての死活問題 に. 見解 は一見突拍子 もないことにも思 える。 しか しこれ まで様 ざまな角度か ら『失 われた時 を求めて』 におけ. ,. 見舞 われたプルース トにとって,第 一に,彼 自身に と って,眼 鏡 は眼を矯正 させる道具であ った。 しか し ,. 眼鏡 を巡るお よそ 4年 間 に及ぶ一連 ので きごと一眼鏡. る眼鏡 の象徴的側面 について考 えれば考 える程 に,こ のような考 えは強 くなって くる。そ して この 『失 われ. を買 うか,買 わないか,ま たは使用す るか,使 用 しな いか―を巡る大 げさな遺巡 のために,ま るで壮大な ド. た時 を求めて』 とい う作品が ,語 り手 が「書 く」,つ. ラマの様相す ら呈 してい るように思われてならないの. 語 としての一面 を持 つがゆえに,こ の「眼鏡」 とい う. だが,せ っか く買 った眼鏡が壊れた時 にプルース トが. 装置が,作 品において,よ り重要なもの として浮 かび. 手紙 に書 い たセ リフ,「 これは悲 劇 で す」 とい うの. 上がって くるのではないだろ うか。. ま り「天職」 を発見 し,や がて書 きは じめるとい う物. は,ま たわれわれの興味 をそそることである。 つ ま テ ク ス ト. り,「 見 ること」 がで きなければ,「 書 く」 こ とも. ,. 「読 む」 こともで きない。彼 と眼鏡 との関係性 ,こ れ は作家 として,人 生の,あ るいは死 の,ま たあるいは 〈見 ることの死 〉または眼 で く見 ない ことの死 〉を象 徴す る,不 吉 な装置であるのだ。 これは作品で用 い ら れる象徴 としての眼鏡 とはまた違 った意味 をわれわれ に与 えて くれるものなのである。 この ように,プ ルース ト自身 と眼鏡 について論 じた のだが,あ れだけ作品 においてた くみに眼鏡 を用 いて 作品 を豊かにしてい る彼 なのだが,実 生活 においては 滑稽 なまでに,眼 鏡 をうまく使用 で きなか ったとい う. んικλιグ ′ ι ρS ριrグ r,〃,ffr,ry, “ “ “ Yves Tadi6,Bib― ЁditiOn Publi6e sous la direction de Jean―. Marcel Proust: A Jα. liothё que. r`θ. de la P16iade,Gallilnard, 1987-1989.. s ι′ ιι ακg`s et 」 Bι ソ ι― ι, pr6C6d6 dc Pα s′ jθ んι “ “ jε ι s,6do Piere Clarac et Yves Sandre, suivi de Essα Js`′ αr′ ′. Cοん′. rι. Sα j4′. Paris,Gallilnard,KKP16iade》 , 1971.. んグαれ ,21 vol。 ,6do Philip Kolb, Paris, Plon, 1970Cο rrι ,ρ θ 93.. “. 参 考 文 献 湯 沢 英 彦 ,『 プ ル ー ス ト的 冒 険 ― 偶 然 。反 復 ・ 倒 錯 』,水 戸 社 ,2001..

(6) 甲南女子大学大学院論 集 第 6号. ロジェ 0ラ ポル ト,『 プルース ト/バ タイユ/ブ ランショ ー十字路 のエ クリチ ュール』,山 本光久訳 ,水 声社 ,. 1999。. 田中英道 ,『 画家 と自画像 一描 かれた西洋の精神 』,講 談 徹 ,『 書物 につい て』一そ の形而下学 と形而上学. ,. 岩波書店,2001.. ). 11)乃 :ご 。 ,p.463. 12)乃 jグ 13)乃 jグ .,p.469. .. 14)ル jグ .,p.474. 15)ル jグ. 土, 2003. 本 清水. 言語 ・文学研 究編 (2008年 3月. .. 16)ル jご 。 ,p.475。 17)ロ ジェ ・ ラポ ル ト著 ,山 本 光 久訳 ,『 プル ース ト/バ タイユ /ブ ラ ンシ ョ』一十字路 の エ ク リチ ュー ル ,水 声 土, 1999, p.80。 ネ. 江. 1)2003年 度 甲南女子大学研究紀 要 40。. 文 学 。文化編 ,No.. ;「『失 われ た 時 を求 め て』 にお け る 象徴. と して の 眼. 鏡」 (1),な い し 2006年 度 甲南 女子 大 学研 究 紀 要 文 学 ・ 文化編 ,No.43.;「 『失 われ た時 を求 め て 』 にお け る象徴 と しての眼鏡 」 (2)を 参照 の こ と。. 2)テ. た角開 ttι κヵ クス トは , Marcel Proust,A′ α ″ε `グ “ ρ グ ,Ganilnard,Bibliothё que de la P16iade,4 vol., 1987`ハ “ 1989。 を使 用 した。 また原文 で の ペ ー ジ番号 は作 品 名 を RT,ム ニ IIr,ry, と略記 したあ とにペ ー ジ番 号 を入 れ る。 なお ,引 用 文 中 の 訳 お よび傍 線 に よる 強調 はす べ て筆者 に よる ものであ る。. 3)RTP,ry,pp.489-490。. 4)ル .,p.296. 5)ル 6)ル 。 ,p。 299. 7)ル .,p.300。 8)ル jへ p.410。 9)ル jグ. jグ. .. jご jグ. jグ. .. 10)ル jグ .,p.458.. 18)RT,ry,p.610。. 19)清 水 徹 ,『 書 物 に つ い て 』― そ の 形 而 下 学 と形 而 上 学 ,岩 波書店 ,2001,p.68.. 20)湯 沢 英 彦 ,『 プ ル ー ス. ト的 冒 険 』一偶 然 ・ 反 復 ・ 倒. 旨ネ 士, 2001, pp.333-334. 多 昔, ガくア 21)ノ bjグ .,p.357.. 22)モ ノクル ,望 遠 鏡 ,拡 大 鏡 ,の ぞ き眼 鏡 とい った 光 学 器械 の 他 に ,プ ル ー ス トは作 中 で 万 華 鏡 を しば しば 登場 させ る。翻訳 『失 われ た 時 を求 め て』 の 第 12巻 ,. p.529。. (筑 摩書房 ,2007。 )に お け る注 にお い て も,「 プ. ル ー ス トは絶 えず 変 化 す る社 会 を表 現 す るの に この 言 葉 を用 い る こ とが あ る」 とい う指摘 があ る。. 23)Cθ rた ,Xy,pp.148-151.. 24)ル jグ .,p.168。 25)ル jグ .,p.310. 26)Cθ. rr。. ,Xyr,p.239。. 27)の rr.,XIχ ,p.439. 28)ル jグ .,p.561. 29)乃 jグ .,p.447..

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参照

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