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〈研究論文〉書簡からみるフィヒテ哲学の構想--『あらゆる啓示批判の試み』の成立へ

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Academic year: 2021

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(1)1. 書簡からみるフィヒテ哲学の構想 ―『あらゆる啓示批判の試み』の成立へ―. 阿部. 典子. Fichtes Gedankengang in seinen Briefen ―zum “Versuch einer Kritik aller Offenbarung”―. Noriko ABE. 1.はじめに 1762 年、J.G.フィヒテはドイツ東部に位置する農村で紐織業を営む両親のも とに八人兄弟の長男として生まれた。むしろ貧しい生まれといえるフィヒテが 哲学史上に名を残す学者となるまでには、大きな努力と同時にいくつかの幸運 にも恵まれたといえる。その中の一つがフィヒテを一躍有名にした処女作『あ らゆる啓示批判の試み』の出版事情である。内容はもちろんのこと、その出版 にまつわる事情がフィヒテの名を一躍有名にすることになったのである。その 出版は 1792 年、フィヒテには定まった職も無く、将来の見通しも立たず、婚 約者ヨハンナ・ラーンとの結婚も決めかねていた時期であった。この著作は困 窮状態のなかで短期間に書き上げられたものであるが、しかしながらそこには すでに将来の哲学者フィヒテの基本姿勢がはっきりとあらわれている。そこで、 この時期におけるフィヒテの思索の過程を、当時の書簡を中心に明らかにして みたい。哲学書としてまとめられ昇華されていくフィヒテの基本姿勢や人間存 在への思いがこの著作と同時期の書簡にはよく示されていると思われるからで 近畿大学工学部教育推進センター Center for the Advancement of Higher Education, Faculty of Engineering, Kinki University.

(2) 2. 阿部 典子. ある。また、書簡を手がかりとすることによって、難解と思われるフィヒテの 著作の本質を読み解く手がかりがえられると思われる。 2.フィヒテ書簡からみるカント理解 1780 年、フィヒテは大学に入学する。イェーナ大学とライプツィヒ大学で苦 労しながら神学を中心に学んだが、研究者になるためには残念ながら資金が十 分とはいえなかった。希望した聖職者の道も容易に開けず、法学の道を模索し たり、講演術や翻訳業、著述業を試みたりするも、将来の道を決めかねていた。 この時期、家庭教師というフィヒテにはきわめて不本意な職によってかろうじ て生活がなりたっていたのである。 1790 年 8 月 1 日、ライプツィヒでフィヒテは将来の妻ヨハンナ・ラーンに 「勇気以外にはほとんどすべてのものを失ってしまいました」 (1)という手紙を 書かざるを得ない状況にまで陥ってしまっていた。しかしその直後にフィヒテ はカント哲学と出会うことになるのである。同年 8 月上旬のフォン・ミルティ ッツ (2)宛の書簡 61.a(3)の下書きに、初めて「カント哲学」の文字が登場する。 「ちょうど一人の学生がカント哲学について個人的に教えを受けたいといって きました」という報告がみられる。この申し出は金銭的にはわずかの助けにし かならず、しかも短い期間にすぎないものであったが、しかしフィヒテは喜ん でこれを引き受けたのである。 書簡 62(4)は 8 月 12 日付けでヨハンナ・ラーンに宛てたものであるが、ここ には「私は今完全にカント哲学に没頭しています」という言葉が見出されるよ うになる。「ある学生にこの哲学の講義をしているのですが、この哲学をとりわ けチューリッヒの人たちはまったく理解不可能なものとみなしています」と述 べている。 続く書簡 63(5)は 8 月から 9 月にかけて出された友人のヴァイスフーン宛のも のである。断片が残っているにすぎないものであるが、カント哲学について次 のように語られている。 「『実践理性批判』を読んで以来、新しい世界の中で生きています。…決して 証明されえないと信じていた事柄、例えば絶対的自由や義務の概念などが証明 されています。…この体系は人間に対してどのような尊敬を与えるのか、我々 にどんな力を与えるのかは想像を絶するでしょう。…道徳がその土台から崩れ てしまった時代に、義務の概念があらゆる辞書から抹殺されてしまった時代に、 どのような恵みをもたらすことでしょう。… カントの『判断力批判』はもう読みましたか。美学と目的論ですが、…カン トによって書かれた全てのものと同様明瞭に書かれていますが、以前の著作よ.

(3) 書簡からみるフィヒテ哲学の構想. 3. りもよりはっきりとそしてよく書かれているように思われます。… 私は今完全にカント哲学に没頭しています。最初は必要からでした。『純粋理 性批判』について授業をしていました。その後で『実践理性批判』を知るよう になってからは、本当の好みからです。…批判が理解されない主な原因は、し ばしば見られる繰り返しと本題からの逸脱にあると思われます。それが思想の 筋道を中断してしまうのです。もし半分の厚さであったならば、より理解しや すくなっただろうと思われます。」 次の書簡 64(6)は 9 月 5 日付けでヨハンナ・ラーンに書き送られたものであり、 カント哲学への傾倒の様子が描かれ、またフィヒテの当時の生活ぶりがよみと れる貴重な書簡である。以下にカント哲学に関する箇所を抜粋する。 「少し前に、本来的な学問、高次の哲学に属する仕事を始めました。…まっ たくの偶然と思われる動機によってカント哲学の研究に没頭することになった のです。この哲学は私の中できわめて強力であった想像力を抑制し、悟性に優 位を与え、地上のあらゆるものを越えていく不思議な高揚感を全精神に与えま す。私はより高次の道徳を受け入れました。そして私の外のものにかかわる代 わりに、さらに自分自身にかかわるようになりました。このことが未だかつて 感じたことのない平安を私に与えたのです。私は動揺する外的な環境の中でき わめて幸福な日々を過ごしました。少なくとも生涯の数年間をこの哲学に捧げ ましょう。そして少なくとも今から数年間に私が書くものはすべてカント哲学 に関するものになるでしょう。これは想像を絶するほどに難しく、確かにより 簡単にされる必要があります。…その原則は頭を悩ますような思弁であって、 もちろん人間の生活には直接に影響はないのですが、しかしその結論は道徳が その根源まで腐敗してしまった現代にとってきわめて重要です。…われわれは あらゆる人間的行為の必然性についての探究において、いかに正しく推論して いたとしても思い違いをしていました。われわれは間違った原理から議論して いたからです。いまや、人間の意志は自由であること、われわれの生存の目的 は幸福ではなく、むしろ幸福に値することであることを、まったく確信してい ます。」 書簡 65(7)は 9 月 27 日、友人のヴァイスフーンに宛てて書かれたものであり、 カント哲学について以下のように問いかけている。「カントの『判断力批判』を より分かりやすく叙述することをどうお考えでしょうか。より注意深く研究を し、私にはそのようなものがまさに必要であると思われます。多くの点が私に は理解できないか、あるいは相互に矛盾しているかです。何かそのようなもの を書こうと思っていますし、実際その仕事を始めていますが、かなり難しいこ とが分かってきました。…そもそもカントの思想を分かりやすく叙述すること 以上に難しいことは何もないでしょう。『純粋理性批判』を講読し、講義をする.

(4) 4. 阿部 典子. ことで、一日中そのように感じています。」 書簡 67(8)はヨハンナ・ラーンに宛てた 11 月 2 日付けの近況報告であるが、 そこでは「空いている自分の時間はすべてカント哲学に捧げています。カント 哲学の一部(『判断力批判』)を解説する仕事に取り組んでおり、新年の見本市 には印刷が済んでいるようにするつもりでいます」と伝えられている。 同じく 11 月に書かれたと思われる書簡 69(9)では、友人ヴァイスフーンに宛 てて次のように書き送っている。「ここしばらく『判断力批判』の勉強に取り組 んでいます。私にはかなり難しく思われましたので、他の人にとってもそうで あることは十分ありうるように思います。それをいくらか分かりやすくするこ とは全く無駄な仕事というわけでもないでしょう。…私の意図は、繰り返しを 省くことと、カントにやりとげられていない総合的方法をやり遂げることです。 …タイトルはまだ決めていません。『カント判断力批判の解説的抜粋の試み』と いうのはいかがでしょうか。」 そして原稿をヴァイスフーンに送り、出来具合 の判断を仰ぐと同時に出版社の斡旋も願い出るのである。 続く書簡 70.a(10)は同じく 11 月に友人のアケリスに宛てた書簡の下書きであ る。ライプツィヒに至るまでの様子を報告し、次のように続けている。「…外を 変えることができなかったので、内面を変えようと決心したのです。私は哲学 に身を投じました、もちろん―当然でしょうが―カント哲学にです。ここに私 は私の不幸の真の原因に対抗する手段と、その上に十分な喜びまで見出したの です。この哲学、特にその道徳的部分、もちろんこれは純粋理性批判の研究な しには理解できないのですが、それが人間の思惟体系全体に与える影響は、革 命であって、この哲学によって私の考え方全体に生じた革命は想像を絶するも のです。…今の私は人間の自由を心から完全に信じていますし、この前提の下 でのみ義務や徳が、そして一般に道徳が可能であることを十分に理解していま す。…さらに次のことも私には非常に明らかです。人間の行為が全て必然的で あると仮定する命題からは、社会にとってきわめて有害な帰結が生じます。い わゆる上流階級といわれる人々の風紀がとても乱れていることは、大体がこの 原因から生じているのです。 …少し前からはカントの判断力批判を解説しながら要約することに取り組ん でいます。…今のところ、時間と静けさがあればそれらをすべてカント哲学に 捧げるつもりでいます。カントの道徳的原則は、一般向けの講演で力と情熱を こめて聴衆の心に訴えるならば、おそらく世の中のためになるでしょう。」 続く 12 月 27 日付けヨハンナ・ラーン宛の書簡 72(11)で「カントの判断力批 判についての私の論文を運送業者に一緒に持っていってもらうことができない のは残念です。色々な理由でまだ印刷ができていません」と述べた後、この 論文の話題には触れられなくなる。結局この論文は実際に出版に至ることはな.

(5) 書簡からみるフィヒテ哲学の構想. 5. かったのである。 しかしながら数ヵ月後の 1791 年 3 月 5 日に弟のゴットヘルフに宛てた手紙 (12) に お いて 、フ ィヒ テは この 時期 を振 り返 りな がら 次の よう に述 べて いる 。. 「まもなくこれらの見込みはすべてだめになってしまいました。いまにも絶望 に陥りそうでした。不愉快さから私はカント哲学に身を投じたのですが、…そ れはまさに頭を打ち砕くとともに心を高めるものです。私はそこに、心も頭も 満たす取り組むべきものを見つけました。私の激しい拡張気質は静かになり、 それは私が生きてきた中で最も幸福な日々でした。毎日毎日パンに困っていな がら、それでも当時私は広い地上で最も幸福な人間のひとりでした。―私はこ の哲学についての著作を書き始めましたが、おそらく出版されないでしょう。 完成していないのです。しかしながら幸福な日々と、頭と心における極めて有 益な革命はこの哲学のお陰なのです。」 3.『あらゆる啓示批判の試み』へ フィヒテはカント哲学に触れることによっていわば思索の土台と精神の落ち 着きを見出したのであるが、実生活は差し迫っていた。1791 年 4 月末家庭教 師の職の紹介を得てワルシャワへと向かい、数ヶ月間の家庭教師生活の後、カ ントの住むケーニヒスベルクへと 向かうことにな る。ケーニヒスベルクには 1791 年 7 月 1 日に到着し、4 日にはカントを訪問、またカントの講義を聴講し ているが、「眠かった」 (13)と日記に書き残している。友人に宛てた下書きの書 簡 87.a(14)ではこのことが次のように述べられている。 「私はとりわけカントのためにケーニヒスベルクまで来たのですが、カント が私にとって大きな助けになるのかどうかまだわかりません。カントの講義は 著作ほどには役に立ちそうにはありません。病弱そうな身体は、こんなにも偉 大な精神を宿すには疲れています。カントはすでに大変衰弱していて、記憶力 も失われ始めています。カント哲学に関しては、私はいつもそこに心からの喜 びを感じているのですが、なお期待しています。」 その後の様子は、友人ヴァイスフーンに宛てた 1791 年 10 月 11 日付けの下 書き、書簡 96.a(15)で次のように語られる。「…ケーニヒスベルクに旅立ちまし た。その理由はお分かりでしょう。六週間自室に閉じこもり論文を書きました。 それが書きあがった時私は心底不満でしたが、結局あの偉大な人物(カント)の 面識を得る必要に迫られてそれを送りました。彼は私以上にそれをよく思って くださり、彼のところにより親しく立ち入る価値があると私を評価し、あちら こちらで私を暖かく紹介し、最後にはその論文を印刷するよう私を励まして、 人を通じてかなり有名な出版業者(ハルトゥング)を世話してくださいました。.

(6) 6. 阿部 典子. というのも、私のドゥカーテン金貨はなくなり始め、そのことをカントには秘 密にしなかったからです。…これはあらゆる啓示の批判の試みです。」 『あらゆる啓示批判の試み』は、フィヒテがカントとより親しくなるための 自薦の手段としてわずかの期間でまとめられたものであり、出版するつもりで 書かれたものではなかった。しかし経済上の困窮からカントに申し出た援助の 願いにカントが提案してきたのが、 『あらゆる啓示批判の試み』の原稿を書店に 売却することであった。フィヒテはその勧めに従うことになる。しかしながら、 4 月 21 日付けの書簡 111(16)では、「私の『批判の試み』の運命についてはもう 長い間なにも報告がありません。おそらくハルトゥング氏がなにか料理をして いるということを私は知るべき立場にないのでしょう」と述べている。 出版の様子が語られるようになるのは 5 月 21 日付けの書簡 114(17)からであ る。「私の著作はとうとうハレで変更なしのまま、クナップ学部長の検閲をパス し、印刷され、私がこれを書いている間にもライプツィヒ見本市で売られてい ることでしょうが、私自身はまだ手にしていません。…最初の検閲官はこの著 作をためらうことなくパスさせることもできたはずです (18)」と友人に書き送っ ている。 『啓示批判』は 1792 年の復活祭に出版された。出版されるや否やそれはす ぐに評判となる。それは匿名で出版され、その内容はカントの次の著作である ことを想像させるものであったからである。フィヒテ自身は 9 月 23 日付けの 書簡 122(19)で以下のように語っている。「私の論文はずっと以前に印刷が出来 上がり、公認で出版されてからも、出版にいたるまでと同様に様々な運命をた どってきました。…ケーニヒスベルクの広告ではかなり好意的に評価されてお り、…要するに、今までのところ最初の旅立ちで身に余るほどの幸運を手にし ています。」 さらに 9 月 30 日付けの書簡 125(20)では、 「ハルトゥングは私の批判の第二版 を要求してきており、…これは私の厚かましい望みで得意がることができた以 上に拍手喝采を得ています。私は幸運な偶然によって得た名声を守り通さなけ ればなりませんし、そうできることでしょう」と語る。この「幸運な偶然」に ついてフィヒテ自身は書簡 136(21)で次のように語る。「私は著作に自分の名前 とちょっとした前書きを書きましたが、私の出版社はそれを最初は公表せず、 去年のミカエル祭の後ごろになってやっと伝えたのです。」 匿名のこの著作の 筆者がカントではないかと憶測され、さらにカント自身がその筆者がフィヒテ であることを明らかにしたため、フィヒテ「にはとても名誉であり、敵対者に とってはとても腹立たしい取り違え」となったのである。こうしてフィヒテの 名は哲学の領域で一躍有名になった。.

(7) 書簡からみるフィヒテ哲学の構想. 7. 4.『あらゆる啓示批判の試み』の特徴 前述のように、この著作にはその後のフィヒテ哲学における基本姿勢がすで に示されている。それをいくつか確認してみたい まず、啓示が問題となる領域としての宗教の位置づけである。フィヒテは『啓 示批判』で明らかにした宗教の基本的な位置づけを終生変わることなく引き継 いでいく。『啓示批判』では「われわれにおける道徳法則によって立法するもの としての神についての理念は、我々の道徳法則の外化を根拠とし、主観的なも のをわれわれの外の存在者へと移行することを根拠としており、この外化が本 来的宗教の原理である」(22)とされる。このときのフィヒテはカントの『実践理 性批判』に感動し、その立場すなわち実践理性の要請としての神をそのまま受 けついでいるといえるのであるが、この立場は終生変わることはなかったとい ってよい。フィヒテ初期の知識学では自我の理論的活動の基礎に実践的活動が 位置づけられており、この実践的活動の具体的行為が道徳的活動であって、こ れが自我の土台となる。また、後期知識学における絶対者論においても絶対者 の動きはそのまま同時に自我のあり方に直結するとされ、自我における具体的 現れとして実践的行為を重要視する見方は変わらない。 フィヒテ哲学全般で宗教論とみなされているのは後期知識学の時期に執筆さ れた『浄福な生への指教』(1806)である。道徳から宗教、学の立場へと上昇す る世界観に関して述べられているが、宗教の立場とは、ある個人にとっての絶 対的存在を道徳性との関連において見出すところに成立する。順序としては道 徳の上位に宗教が続くが、その内容は道徳性を絶対性と結び付けて捉え、個人 における宗教性を絶対性との繋がりにおいて道徳的行為を行なうところに見出 す。この点で宗教の基礎を道徳に指摘することができると思われる。フィヒテ においては常に宗教の土台は道徳であり、必ず道徳的行為者としての自我に立 ち返ってくるのである。 次いで、叙述展開の手法である。フィヒテが『あらゆる啓示批判の試み』で 試みたことつまりあらゆる啓示を批判するということは、「あらゆる啓示に妥 当する諸原理を普遍的に提示すること」(23)であった。そのためフィヒテは、根 源的な意識の事実を確認し、その上で、それが意識の事実としてありうるため に必然的に考えられなければならない条件を確かめていくという方法をとった。 これは後の知識学で用いられる手法、すなわち絶対的に確実な第一原則を掲げ、 その原則が成立するように経験界の様々な矛盾を総合しながら新たな概念を展 開していくという方法と同じである。『啓示批判』において根源的なこととされ るのは自己規定の能力であり、以下のように述べられている。「根源的な欲求能 力そのものがその形式を介して現実に自己を告知するということ、これが意識.

(8) 8. 阿部 典子. の事実である。究極的で唯一普遍的で、すべての哲学にとってのこの原理を越 えてはいかなる哲学も成立しないのである。」( 24) ここで欲求能力とよばれてい るのは、「自己活動の意識を伴いながら自己を規定する能力」(25)のことである。 この事実によって「人間が意志を持つこということが保証される」とフィヒテ は考えている。この自己規定能力こそがカント哲学によって確信できた人間の 自由という本質であり、その本質からそしてその本質を見失うことなく人間の あり方を体系的に明らかにしていくこと、つまりフィヒテにとってはカントが やり残したと感じられた総合的方法によって『啓示批判』が展開されていくの である。 (26) 『啓示批判』におけるこれらふたつの基本姿勢は、実は同じ事態のふたつの 側面に他ならない。フィヒテにとって自己規定という意識の事実が経験界にお いて最も端的に現れるのは道徳的な場面においてだからであり、この点を見失 うことは人間の本質を見誤ることになると考えているため、全てはこの自己規 定ないし道徳性が成立するように展開されるからである。道徳的に自己を規定 していくというあり方にカントは人間の自由をみたのであるが、フィヒテはこ の点に革命的意義を感じ取り、またこの点こそ人間の本質であると見た。それ ゆえフィヒテ初期のいわゆる自我の知識学においては、自己規定は自我そのも のの存在を定立する自己定立として昇華されている。そしてフィヒテ後期のい わゆる絶対者の知識学においては、確かに一見立脚点を絶対者に置いているよ うではあるが、しかしフィヒテ自身も力説するようにこれは概念を超えた領域 あるいは知を超えた領域であり、したがっていわゆる自我を超えた領域となる。 この領域に基礎付けられて行なう自我の現実的活動は道徳的行為であり、現実 に生きる人間にとってはこの道徳的行為を行なうことが同時に宗教的行為であ り、絶対的領域の現れとなるのである。 このようなフィヒテの立場は、自我の根本には絶対的なものがあるという確 信に基づくものである。この確信にいたるきっかけとなったものがカント哲学 との出会いであったことは書簡の叙述からも明らかである。フィヒテはさらに そこから、有限な自我の立場からあるいは理性の力によってその絶対的なもの にアプローチしようという試みを終生続けていくのである。これはフィヒテに かぎらず西洋哲学の基本的立場であり、したがってここにフィヒテ哲学のみな らず西洋哲学全般の特徴を指摘することができると思われる。そして同時にこ の点が東洋思想との比較対照の中心点のひとつとなると思われる。東洋思想と の比較は今後の課題としていきたい。.

(9) 書簡からみるフィヒテ哲学の構想. 9. 注 (1)J.G.Fichte: Gesamtaufgabe der Bayerischen Akademie der Wissenschaften, hrsg. von R. Lauth und H. Jacob, Stuttgart-Bad Cannstatt. Ⅲ-1, S.159。1790 年 8 月 1 日ライプツィヒのフィヒテから婚約者のヨハンナ. ラー. ンに宛てた書簡 60.a。 以下、同書簡からの引用が続く場合には注の付記を省略した。また引用文中 のカッコ内は筆者の説明である。 (2)フィヒテの教育上の後見人フォン・ミルティッツの息子。フィヒテは困 窮状態を訴えて援助を願い出る。 (3)同Ⅲ-1, S.163~S.166、書簡 61.a。 (4)同Ⅲ-1, S.166~S.167、書簡 62。 (5)同Ⅲ-1, S.167~S.168、書簡 63。 (6)同Ⅲ-1, S.169~S.174、書簡 64。 (7)同Ⅲ-1, S.174~S.176、書簡 65。 (8)同Ⅲ-1, S.181~S.185、書簡 67。 (9)同Ⅲ-1, S.188~S.190、書簡 69。 (10)同Ⅲ-1, S.190~S.195、書簡 70.a。 (11)同Ⅲ-1, S.203~S.206、書簡 72。 (12)同Ⅲ-1, S.221~S.224、書簡 77。 (13)同Ⅱ-1, S.415。『復活祭旅日記』と称されている日記に続くものである が、この時期は数行のメモ書き程度である。 (14)同Ⅲ-1, S.242~S.243、書簡 87.a。 (15)同Ⅲ-1, S.266~S.270、書簡 96.a。この様子はメモ書きの日記によれば 以下のように記されている。10 日「すでに長い間、より真面目にカントを訪問 したいと思っているが、その手段が見つからない。とうとうあらゆる啓示批判 を書いて彼に献呈することを思いついた」。さらに、「ほぼ 13 日に始め、絶え 間なく取り組んだ」とある。さらに 18 日の日付で「やっと出来上がった論文 をカントに送る」、23 日付けで「カントの判断を聞くために出かける。カント は親切に迎えてくれ、非常に満足しているように見えた」とある。26 日には「カ ントのところで食事をする」ようになるのである。 (16)同Ⅲ-1, S.302~S.304、書簡 111。 (17)同Ⅲ-1, S.308~S.311、書簡 114。 (18)フィヒテの著作はプロイセン国家の検閲規定に従って神学当局による検 閲を受けなければならなかった。ハレ大学の神学部では、当時の学部長が印刷 を許可しなかったのであるが、交替による新学長のもとで検閲をパスすること.

(10) 10. 阿部 典子. ができた。 (19)同Ⅲ-1, S.330~S.334、書簡 122。 (20)同Ⅲ-1, S.347~S.349、書簡 125。 (21)同Ⅲ-1, S.377~S.380、書簡 136。 (22)同Ⅰ-1, S.33。 (23)同Ⅰ-1, S.18。 (24)同Ⅰ-1, S.140。 (25)同Ⅰ-1, S.135。 (26)このような展開方法は循環論法である。根源的な意識の事実を最初に提 示し、それが矛盾無く成立するための条件を演繹していくのであって、最初に 提示される根源の正当性そのものは、演繹が完了することによってのみ示され るからである。しかしフィヒテはこの方法のみが我々有限な人間理性に可能な 唯一の方法であるとし、むしろ循環による論証を積極的に評価している。.

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