はじめに 尾州廻船は、尾張藩の支配を受け、尾張藩領の領民が持主の廻船の総称である。18 世 紀半ばころより地域を中心に廻船船主・船頭が仲間をつくるようになった。内海船の戎講、 野間船の野間講、常滑船の常盤講などがあり、それぞれ研究が進んでいる(1)。また 18 世 紀後半には酒積み船としての三河廻船を中心に結成された奥立廻船仲間は、19 世紀前半 に亀崎を主体とする廻船集団に変わっていった(2)。 知多半島の俗謡に「内海米船、野間塩船よ、常滑拾いでとどめさす」とあるように、各 廻船集団は積荷の種類によって異なる特徴があると考えられている。その意味では酒積み 船の性格を持つ半田船の存在も知られている(3) 。しかし、1855 年(安政 2)に竜宮講が作 成した「定」が残されており(4)、富貴船の廻船集団が竜宮講と知られているにも関わらず、 実態は未解明のままである。 平成 30 年(2018 年)に、日本福祉大学知多半島総合研究所に史料が寄贈された。出所は 古書店からの購入品であった。その購入品の寄贈者からは二つの木箱と現状記録の写真 データをいただいた。写真データは箱内の古文書が階層ごとに記録されており、史料取得 時の状況を確認することができた。この史料は富貴(武豊町)の田中伝右衛門の船に関す るものであり、一つの木箱は永宝丸であり、もうひとつの木箱は日吉丸のものである。 本来であれば、史料整理を済ませ目録を作成したうえで公表すべきところであるが、富 貴船の新発見の史料として、2018 年(平成 30)の第 31 回日本福祉大学知多半島総合研究 所歴史・民俗部の研究集会で報告をした。 本稿では、新発見の史料とこれまで『武豊町誌』など(5)に記載されている富貴船に関す る研究を踏まえて考察することにした。さらに、幕末の日吉丸の廻船活動が大坂廻船・名 古屋廻船であったことから、熱田の大坂登り船問屋の野尻利右衛門家に伝わった徳川林政 史研究所所蔵の野尻家文書(6)を研究材料に加えた。なお、大坂廻船は名古屋から大坂への 登り荷物を運ぶ廻船であり、名古屋の荷物は大坂登り船問屋が仕立てた。また、名古屋廻 船とは大坂から名古屋への下り荷物運ぶ廻船のことであり、名古屋に到着した荷物は名古 屋の大坂下り船問屋が扱った。 富貴船の実態解明が本稿の目的である。それに加えて日吉丸の史料のなかには大坂廻船 の積手板が残されていることから、これまで明らかにされていなかった大坂廻船の実態解 明にもつながると考えている。 【歴史・民俗】
近世における尾張国知多郡富貴船の実態
日本福祉大学経済学部 教授 日本福祉大学知多半島総合研究所歴史・民俗部 部長 曲田 浩和 研究論文1.18 世紀後半から 19 世紀初頭にかけての富貴船 19 世紀初頭に作成された知多半島の村況を示した史料に「知多郡之記」と『尾張徇行記』 がある。まずは二つの史料から富貴の船をみることにする。 【史料 1】(7) 一業 農鍛冶職 近村江 大工 近村江 廻船 紀州辺江 酒造 江戸積 …(中略)… 一渡海船拾艘 【史料 2】(8) 一此村ハ東浦海道トホリニ村落アリ、本郷ニテハ農業一事ヲ以テイトナミトス、小百 姓ハハカリニテ黒鍬カセキニモ三十五六人ホトツヽ他方ヘ出ルト也、支邑ヲ市場ト 云、是ハ本郷ヨリ二町程ヘタチ海浜ニ民屋建ナラヘリ、①コヽニハ漕賈多ク各船ヲ 持波不知船十三艘ホトアリ、コヽニテハ他邦ヘ土糞ノ灰ヲウケニユキ、又ハ②内海 野間辺熊野アタリノ薪積船ノ水主ニ傭ハレユク事ヲ産業トスル者ナトコヽニ住ヒヲ ナセリ、…(後略) 【史料 1】は文化期(1804-1818)ころの作成であると推定されている。富貴村には廻船や 渡海船 10 艘が存在したことが記されている。【史料 2】は【史料 1】より少し時代が下った文 政期(1818-1830)ころの作成であると推定される。【史料 2】の下線部①には波不知船は 13 艘存在したことが記されている。波不知船はいさば船とよばれる船であり、おもに伊勢湾 周辺を航海する船である。渡海船は廻船のように遠隔地をつなぐ船ではなく、近海を航海 する船と思われ、波不知船と同様の船であると考えられる。この二つの史料により、富貴 村には近距離を航海する船が 10 艘ほど存在した。 【史料 3】(9) 一富貴村船数凡十四艘、但百三十石入八石入迄入石〆九百十三石程 【史料 3】は、1790 年(寛政 2)の富貴村の船数を示したものである。最大の船は 130 石 船であり、最小の船は 8 石船であった。船数は 14 艘と【史料 1】【史料 2】とほぼ同数である。 130 石船は波不知船と推定できる。14 艘の船石数の内訳は不明であるが、波不知船はおお むね 100 石∼ 200 石未満の船が多く、【史料 1】【史料 2】にみられるように、富貴村に 10 艘 程度の波不知船が存在した可能性もある。 【史料 4】(10) 一同年(文政 4 年)参会の節、
一常滑 辰蔵船 一富貴 半六船 一前芝 清蔵舟 一布土 庄右衛門舟、 右四艘戎講組合之義頼出候ニ付、他所舟之義断申遣候、尤組合之義、小ノ浦 日間賀 迄を相定申候 【史料 4】は、1821 年(文政 4)、富貴の半六船が内海船廻船仲間である戎講に加入を願い 出たたことを示す史料である。このころの内海船はおもに伊勢湾と大坂を中心とする瀬戸 内海をつなぐ廻船であった。半六船はこうした廻船の一員として加入を願ったものと思わ れる。内海船はすべて尾張藩の定める廻船 200 石以上ではないものの、その多くが 200 石 以上の船であり、富貴の半六船は 200 石以上の廻船である可能性もある。 【史料 1】には熊野行の廻船が存在していたこと、【史料 2】の下線部②には、内海・野間 辺には熊野の薪を調達する船があり、その水主として富貴の村人たちが雇われたことが記 されている。内海・野間船は、米をはじめとする日常生活を熊野に運び、熊野からは林産 資源を積み帰る小型の船が存在し、その後、大坂方面に商圏を広げていった。 富貴の船や富貴出身の水主たちが熊野を活動範囲としていたことが【史料 1】【史料 2】から も明らかになる。 【史料 5】(11) (表紙) 「文政十亥八月吉日 長井善右衛門㊞(紀州熊野長嶋本町) 万之通 永宝丸伝右衛門殿 」 【史料 6】(12) (表紙) 「天保八酉正月 むめ甚㊞(紀州二郷村 ・ むめ屋) 仕切通 永宝丸平兵衛様 」 【史料 5・6】の永宝丸は富貴市場の田中伝右衛門の船である。1827 年(文政 10)の永宝丸 は船主の伝右衛門が自分で船頭をつとめる直乗船頭であった。長島本町(三重県紀北町) の長井善左衛門と取引をしていたことがわかる。1837 年(天保 8)の永宝丸は、自らが船 頭をつとめるのではなく、平兵衛を船頭として雇った。平兵衛は永宝丸の沖船頭として、 二郷村(三重県紀北町)の梅屋と取引をしていた。これらの史料によると、永宝丸は味噌・ 溜・酢などの日常生活品を、熊野でも勢州に近い長島本町や二郷村に販売していたことが
確認できる。このことは【史料 1・2】で記されている富貴の船がおもに伊勢湾とその周辺で あったことと合致し、永宝丸は波不知船であった可能性が高い。 2.天保から安政期の富貴船−大坂市場への進出− 【史料 4】に記されている戎講の加入が認められなかった富貴村の半六船が、どのような 航海をしていたかは明らかにならないが、内海船の特徴が大坂・瀬戸内海での活動に重点 が置かれていた時期であり、半六船も大坂・瀬戸内海を視野に入れた船の活動が想定され る。富貴船の活動として、大坂での取引が実際の史料で確認できるのは 1841 年(天保 12 年) の忠兵衛船である。 【史料 7】(13) 破船損亡之儀御吟味被為在候付御達申上候御事 一知多郡冨貴村忠兵衛船大坂登御廻米積請并御蔵焼物類商人荷物積合、去子年十二月 廿九日御当地出帆仕候処、当丑正月廿六日夜、紀州日高郡和田浦沖ニ而逢難風破船仕、 尤船頭・水主之者別条無御座、右浦江陸揚り仕候、則捨り荷物等之覚 一御米弐百石 一御蔵焼物類弐百廿七箇 商人荷物 一諸色箇物百八拾数 一元船壱艘 一船具共 不残 一橋船 右之通相違無御座候 一知多郡西端村治左衛門船大坂登御廻米并御蔵焼物類商人荷物積合、当丑年正月十六 日御当地出帆仕候処、四月廿六日夜、紀州日高郡尾之崎沖二而逢難風破船仕、尤船 頭水主之者別条無御座候、右浦江陸揚仕候、則捨り荷物等之覚 一御米弐百石 并商人荷物 一御蔵焼物類五拾弐箇 一材木八拾五本 一榑木四拾丁 一諸色百拾六箇 一元船壱艘 一船道具橋船共不残 右之通相違無御座候、依之御達申上候、以上 天保十二丑年九月十二日 右 両家略ス
御船手 御役所 【史料 7】は富貴村の忠兵衛船と西端村(南知多町)の治左衛門船が 1841 年(天保 12)12 月 29 日に紀伊国日高郡和田浦(和歌山県美浜町)で破船した。両船はともに尾張藩の御用 荷物として米や瀬戸物を、そのほかに商人荷物を積み入れた。尾張藩の荷物が含まれてい ることから、名古屋から大坂への輸送中に起こった難船一件と考えられる。忠兵衛船は御 用荷物が米 200 石、瀬戸物 227 個、商人荷物が詳細は不明であるが 180 個の荷物を運んで いる。当時の船の慣習から恒常的に過積載が行われていたとは思われるが、積載量から 200 石未満の小型船とは考えにくく、忠兵衛船は 200 石以上の大坂廻船と考えられる。 1838 年(天保 9)4 月に江戸城西丸が炎上した。幕府は速やかな西丸再建を考え、同年 12 月に熱田において江戸向け木曽材の輸送を計画した。その担い手と期待されたのが知 多半島の廻船であった。当時知多半島には 143 艘の廻船が存在していた。同年 9 月、尾張 藩は触を出し、尾張藩船手奉行が廻船船主の存在する村に廻状を伝達した。 【史料 8】(14) 御触書之写 西丸御普請御用材積船之儀ニ付、江戸大坂廻船問屋共差遣候間、右懸合方等申出候 ハヽ、模通能可取計候 九月廿二日 御船手 御印 大高村、大野村、多屋村、北条村、常滑村、一色村、小野浦村、西端村 東端村、大泊村、中須村、師崎村、富貴村、半田村、亀崎村 (村が廻状を受け取る時刻については省略) 【史料 8】の宛先の 15 ヶ村が廻船船主の存在する村と考えられる。このなかには富貴村 も入っており、この時点で富貴村には廻船船主が存在したものと思われる。【史料 7】が大 坂登り問屋の野尻利右衛門家に伝わっていた史料であることを考えると、忠兵衛船は大坂 廻船であった可能性が高い。富貴村の廻船が西丸再建材を海上輸送することはなかったが、 西丸再建材を運ぶ廻船として候補に挙がった。 1838(天保 9)ころは、名古屋から大坂への荷物が増え、講を結び荷主間の結束を固める 時期であった。 【史料 9】(15) 乍恐奉願上候御事 一私共儀往来 登り廻船問屋仕来申候処、御城下御繁栄ニ付他国商追々手広く取組、 ①随而御領分中 も同様他国商仕候付、中国筋四国九州北国筋迄も運送之登荷物日
増多数ニ相成、御蔭を以相続仕難有仕合奉存候、右ニ付他国之懸合多端ニ相成、登り 船他領ニおゐて若非常之儀等出来仕候節者、右場所江出張申候付、仲満中雑用等茂多 分ニ相懸り難渋之向も御座候間、②近年住栄講与唱候講相結置、定例積高荷主之中ニ而 別紙名前之者共、是迄於内輪締方相立支配仕来候処、殊之外模通宜益商取組多く、 積方莫太ニ相成申候、付而ハ弥他国懸合筋も可有御座与奉存候、且船々締方之儀ニ茂御 座候間、御威光を相放れ申候而ハ万端難行届儀ニ奉存候間、乍恐御城下積高荷主之 中ニ而御吟味之上惣代締役被仰付被下置候様仕度偏ニ奉願上候、右願之通被仰付被下 置候ハヽ、御蔭を以締宜永々相締可仕与難有仕合可奉存上候、以上 天保九年戌閏四月 登り廻船問屋 野尻屋理右衛門 牛田屋覚兵衛 町御奉行所 別紙書付写 登荷物惣代締方 中嶋屋彦兵衛 同 彦吉 奈良屋源右衛門 藤倉屋長六 白木屋甚左衛門 笹屋善七 錺屋庄六 白木屋善左衛門 【史料 9】の、「運送之登荷物日増し多数に相なり」(下線部①)や、「積方莫太に相成」(下線 部②)とあるように、この時期の名古屋から大坂への積荷の増加を読み取ることができる。 大坂登り船問屋の野尻利右衛門と牛田屋覚兵衛が中心となり名古屋の荷主が加入した住栄 講が結成された。名古屋・大坂間の荷物は大坂から名古屋に送る荷物が多く種類も多かっ た。18 世紀半ばには大坂下り船問屋の桑名屋伊右衛門や柏屋市兵衛が中心となり、極印 講が結成されていた。 1837 年(天保 8)には、紀州二郷村との取引があった永宝丸平兵衛であったが、その後、 平兵衛は行状が悪かったため、暇を取って田中家から離れた。しかし、1838 年(天保 9) 閏 4 月、平兵衛は田中家に帰参を願い出た。その時の証文は以下の通りである。 【史料 10】(16) 証文 一私儀不奉公ニ付、既ニ長々御暇ニも相成可申処、今般帰参之儀御願申上候、附而ハ銘々
不顕共、急度相慎可申候、尤五ヶ年間禁酒仕候、御奉公大切ニ相勤メ、若不都合之 儀御座候ハヽ、いか様共被仰付可被下候、仍而書付如件 天保九戌閏四月 平兵衛 富貴田中伝右衛門様 右前顕平兵衛今般格別ニ御慈悲を以帰参之儀御苦労様ニ相成候段、千万難有仕合ニ奉存 候、尤此已後勤方之儀ハ聊之不都合無之候様ニ、急度相守らせ可申候、仍而証人印形 仕候、以上 証人 綿屋源六㊞ 【史料 10】では 5 カ年間の禁酒を約束し、奉公を大切につとめることが記されている。 その後も永宝丸平兵衛船の史料が存在していることから、おそらく帰参は許されたものと 思われる。平兵衛の帰参はこの時期の登り荷物の増加による廻船の確保とも関係している のかもしれない。1847 年(弘化 4)3 月には、永宝丸平兵衛船は備前国野崎(岡山県倉敷市) にて塩を積んでいることがわかる。 【史料 11】(17) 覚 焼印 一本 弐千八百俵 右者尾州冨貴永宝丸平兵衛殿船へ積入申所相違無御座候、為其印鑑、仍而如件 弘化四歳 備前野崎塩会所 未三月吉日 鎌田重郎右衛門㊞ 諸国 御仲買衆中 ( は朱書である) 1830 年代から 40 年代にかけての富貴村の船は、断片的ではあるが、名古屋の荷物を大 坂に運ぶ船と、熊野に日常生活品を運ぶ船が確認できる。また、瀬戸内海沿岸から塩を運 ぶ船もみられる。安政元年(1854 年)には、富貴市場の船仲間が灯籠を建造し、その翌年 正月には、富貴市場の廻船仲間である竜宮講の「定」を作成した。 【史料 12】(18) 定 一所達者、湊入河入之節、風雨ニ不限、先之碇場所候ハヽ、後船見当り次第曳船出シ
可申候、若所達不為居合時ニハ、他所類船ニ而茂頼相互ニ成丈助合可致事 一所達船頭者、何不寄積荷物売買之義者、利分善悪ニ不限相互ニ咄合、聊茂勝手ヶ間敷義 一切致間敷事 一何国之浦ニおゐて茂、風波之折者自力ニ不及、其所之助力受候事茂可有之、此段者其所 之役元江頼出、差図ヲ乞無後難様取計可致事 一船頭之族者、身持不埒にし而或者博奕之諸勝負ニ心懸、自身之家業疎ニ致間敷事 一水主雇之義者、八月 八月迄ニ定置、勝手働為致間敷、若先引合抔致、勝手之筋致 者有之候ハヽ、相互ニ雇不申候、首尾能勤候者江者、鑑札渡し可申候、不勤之者又者 乗下り等候ハヽ、譬他船江挊出候共其船頭江応対致、不都合筋一切為致間敷事 附り、病気等又者不意之事ニ付、日間願致者有之候ハヽ、其宜義ニ寄而、鑑札之義 取計出し可申事 右之条々堅相守可申候、若背之族等於有之者、講中相談之上、一切附合為致不申候、 已上 安政二年 卯正月 冨貴市場 龍宮講㊞ 年行事 【史料 12】は、第一条と第三条は船の運行に関してである。地域によって地形や気象条 件が異なる。第一条では湊での碇泊の注意が、第三条では難船に遭遇した時には地元の援 助を頼み、指図に従うことなどが記されている。 平兵衛が 1845 年(弘化 2)に書き記した「諸国海上針筋記」が残されている(19)。阿波から 志摩にかけて、瀬戸内、伊勢より江戸海路案内、登り針筋(江戸から熱田沖)、瀬戸内よ り下関迄の五つに分かれ、山当てと方角の関係が記されており、碇泊している船の位置、 航海時の方向などを正確に認識するためのものである。なかには入津(入港)の際の注意 が記され、「定」第一条の内容に通じるところがある。 第二条は荷物売買の心得が記され、自分勝手な行動を取ってはならないことが示されて いる。第四条は、船頭の心構えが記されている。永宝丸船頭の平兵衛が不奉公で一時船頭 を辞めたこと(【史料 10】)があったことが影響しているのかもしれない。(【史料 4】)には、 飲酒のことが記されており、博奕のことは触れられていないが、身持を悪くしたり、博奕 などで家業を疎かにしてはならないことが記されている。第五条では水主を雇う際の注意 点が記されている。水主が円満に辞める時には「鑑札」(「切手」ともいう)が渡された。鑑 札があれば安心して雇うことができるため、鑑札を渡すことで水主の働きについて船頭間 で共有することができた。 廻船仲間を結成するためにはある程度の船数が必要である。竜宮講の場合、富貴市場は 富貴村のなかで限定的な地域であり、複数の船主が存在する船稼ぎを主とする地域であっ たといえる。
3.幕末維新の富貴船−大坂廻船と名古屋廻船の性格− 安政期(1854-1860)の尾張藩は、東南海地震の復旧費など藩財政の逼迫しており、各地 に調達金を賦課するとともに、財政改革を断行した。そのなかで名古屋と大坂それぞれに 国産荷物を扱う産物会所を設置し、大坂での瀬戸物と材木の販売を強化した。こうした動 きのなかで、名古屋から国産の瀬戸物や材木を運ぶ船が重要となる。もとより、天保期に は多くの知多半島をはじめとする尾張の船が瀬戸物や材木を運んでいる(【表 1】)。さらに、 国産荷物の瀬戸物や材木を運ぶための廻船が参入することが考えられる。こうした荷物を 運ぶ廻船は大坂廻船であり、基本的には名古屋から大坂への積荷は大坂登り船問屋の野尻 理右衛門と牛田孫兵衛が差配した。 富貴の田中伝右衛門では、文久期(1861-1864)には日吉丸平蔵船を所持していたことが わかる。管見の限り、先述した永宝丸平兵衛は文久期の史料がなく、この時期の田中伝右 衛門の持ち船は日吉丸のみの可能性もある。 1862 年(文久 2)11 月には、「日吉丸平蔵船登材木手板」が作成されている(20)。大坂登り 船問屋の野尻理右衛門・牛田覚兵衛から大坂寺嶋の堺屋伊八・淡路屋嘉平次に宛てて出さ れたものである。堺屋・淡路屋は大坂寺嶋の船問屋であり、尾張国船問屋と思われる。積 荷物の内容は【表 2】の通りである。「材木」が中心であり、材木屋惣兵衛や浜木屋彦八など の名古屋の材木問屋からの出荷が確認できる。材木以外にも宮重大根、切干や割干の大根 類、茶、地紙、溜りなどが積まれている。 1863 年(文久 3)3 月には「日吉丸平蔵船登荷物手板」が 2 冊作成されている(21)。一つは 野尻理右衛門・牛田覚兵衛から兵庫の堺屋孫右衛門・北屋嘉助に宛てて出されたものであ り、もう一つは同じく野尻理右衛門・牛田覚兵衛から大坂寺嶋の堺屋伊八・淡路屋嘉平次 に宛てて出されたものである。日吉丸は一航海で兵庫行荷物と大坂行荷物を運んだ。積荷 物の内容は【表 3】の通りである。 【表 3】によると、積荷物のほとんどが国産瀬戸物・美濃焼であることがわかる。国産荷 物ではなかった常滑焼は少なかった。常滑焼は名古屋広小路の廣瀬屋武助が荷物の差配 を行っている。広瀬屋武助と常滑の瀧田金左衛門との間には常滑焼の「通」が作成されて おり(22)、常滑から名古屋に常滑焼が運ばれたことがわかる。そのほかには、木類が多く、 名古屋の名産品である味噌・溜り、大根などの食品があり、麻は信州問屋の白木屋徳左右 衛門が扱っており、陸路で信州から名古屋に入荷した。また、漆器など飛騨・美濃の名産 品が名古屋経由で大坂に運ばれた。 国産材木類は名古屋の材木問屋である材木屋惣兵衛と大坂の丹波屋作兵衛との間で取引 が行われた。 【史料 13】(23) 覚 尾御四半壱本 一木数五拾数 桧類三五
但小訳書別紙壱通 御産物所㊞ 右之通柏屋平蔵船江御積入相成候間入津之砌、別紙小訳書之通、改御請取運賃御 払可被成候、以上 尾州御国産材取締役 文久元酉極月 材木屋惣兵衛㊞ 大坂安土町 丹波屋作兵衛殿 【史料 14】(24) 覚 一五百五拾六数 桧類丸太・榑木・挽板 但別紙小訳書七通 御産物所㊞ (右之)通柏屋平蔵船江御積入相成候間入津之砌、別紙小訳書之通、改御請取運賃御 払可被成候、以上 尾州御国産材取締役 文久二戌四月 材木屋惣兵衛㊞ (大坂)安土町 丹波屋作兵衛殿 尾張藩は材木屋惣兵衛を尾州御国産材取締役に任命した。大坂での尾張国産材の販売を 受け負ったのが丹波屋作兵衛であった。【史料 13・14】では、柏屋平蔵船が桧を輸送した。 柏屋平蔵船とは、田中伝右衛門の持船である日吉丸平蔵船が、大坂下り船問屋の柏屋市兵 衛に取り立てられた船である。柏屋市兵衛は大坂から名古屋に荷物を運ぶ名古屋廻船を取 り立てる船問屋であったが、材木輸送の場合は柏屋市兵衛が扱うこともあった。 さらに、大坂から名古屋に荷物を運ぶ大坂廻船の性格を持つ富貴船があった。 【史料 15】(25) 置手形之事 一尾州知多郡冨貴村直乗徳蔵船五百石積、水主共七人乗、宗旨者禅宗、此度大坂寺嶋 ニおゐて柏屋市三郎差配を以、尾張行商人荷物、鉄・砂糖・紙・昆布・其外荒もの 積受之、十一月十六日積所出帆仕、西風ニ而沖合にまきり、翌十七日暮六時頃兵庫 へ入津、同十八日夜子刻頃日和模様宜、同所出帆仕、順風ニ而御当国田辺沖迄乗下 り候処、同十九日夜四ツ時頃、俄ニ大西風ニ相成面楫ニ荷寄致し、波除垣破れ、荷物 少々海中へすれ落海水せり込、船中一同相驚帆を下ヶつかせ、波除防方仕度存候へ ども、益西風高浪烈敷淦五尽余も込入、元船ハ不及申、一同助命之程覚束なく…
(積荷物は【表 4】) 〆 其外水主手道具不残海中捨り 一元船外艫 大傷 一面楫かこゐ 破損 一手綱 壱房 大傷 一帆ひさがり 破損 右海中捨船具傷相違無御座候 一金五両弐分也 是ハ荷主方へ為注進直飛脚相添申候 一金九拾両也 是者人足分之外、浦役諸雑用として相渡 右ハ此度私共沖合ニ而逢難風、大切之荷物刎捨凌危難御当浦入津仕候付、逐一御吟 味之意趣御答申上候処、前書之通り少も相違無御座候、且荷残物夫々相調再積入仕 浦手形申請天気次第出帆可仕候、御当浦へ入津以来厚御手当被為入念候様取扱預り、 万端無残儀御苦労被成下、聊非分之儀無御座候、御浦方へ対し少も申分無之候、為 後日連印口上書仍而如件 明治弐年巳十二月 尾州知多郡冨貴村 直乗船頭徳蔵船 梶取 芳蔵 水主 久右衛門 同 芳太郎 炊 吉太郎 尾州名古屋極印講惣代 豊助 同荷主惣代 新兵衛 同国桑名屋伊右衛門代 吉蔵 紀州牟婁郡 須賀利浦庄屋代 肝煎 善兵衛殿 【史料 15】によると、1869 年(明治 2)の富貴村の徳蔵は 500 石 7 人乗の廻船を持ち、自 ら船頭をつとめていたことが明らかになる。徳蔵船は大坂寺嶋の柏屋市三郎によって仕立 てられ、【表 4】の運賃積みの荷物を運んだ。名古屋では大坂下り船問屋の桑名屋伊右衛門 が荷物を受け取り、極印講に加入している商人に荷物を送る予定であったが、紀伊国須賀 利浦(三重県尾鷲市)で徳蔵船は破船した。 富貴船は名古屋への下り荷物として瀬戸内の塩を積んでいた。【史料 11】は備前国野崎 (岡山県倉敷市)の塩である。名古屋の塩問屋知多屋新四郎に塩を販売した「蔵入帳」なか に「富貴利七船」の名前がみられる(26)。おそらく 1860 年(万延元)8 月 9 日から同年 8 月
12 日までの間に利七船が 945 俵の塩を販売したものと思われる。塩積みの史料は確認で きないものの、斎田塩の生産地として知られる阿波国撫養(徳島県鳴門市)に富貴船が航 海した事例がある。 【史料 16】(27) 御使札被下拝見仕候、先以御船中御揃御機嫌能珍重奉存候、次ニ当方無異罷在候、乍 憚御安意可被下候、①然ハ当月九日大雨風阿州橘口破船之由委細御しらせ被下誠ニ驚 入申候、天災と者乍申、是非も無次第ニ候、併シ乗組一統別条無之由、此段安心仕候、 嘸心配之段奉遠察候、何分荷物諸道具等浜仕舞相済候迄気を付、けかなきやう御心得 可被下候、御頼申上候、尚村方庄屋様江も別ニ手紙差上可申上筈ニ候得共取込故、宜敷 御伝言可被下候、右何歟相済候得者船道具硯苧綱古釘小道具類兵庫表江相廻し、石屋 治兵衛殿方御預ケ置可被下候、跡ニ残り道具柱桁梶船張船便ニ間ニ合道具丈御残し預ケ 置間ニあわぬ物ハ御売払可被成候、何歟相談之相手ニ参り人も無之候所、②幸イ半十郎 殿阿波むや表江被参候間相頼申候間、委細御聞取御相談可被下候、御頼申上候、先者 右之段取込、早々以上 七月廿六日 田中伝右衛門 日吉丸代吉様 御船中様 貴下 用意金として金拾両也差上申候間、御入手可被下候、以上 【史料 16】は、田中伝右衛門から自身の手船日吉丸の船頭代吉に宛てた書状である。伝 右衛門は日吉丸が阿波国橘湾(徳島県阿南市)で破船したこと(下線部①)を知り驚いたも のの、乗組員一同の無事が確認され、安心している様子がうかがえる。半十郎殿が撫養に 参上すること(下線部②)が記されている。また、撫養の木津金毘羅社の 1863 年(文久 3) 奉納の玉垣に「尾州知田郡富貴浦 久吉丸清兵衛」の名前が刻まれており、久吉丸は恒常 的に斎田塩を運んでいたものと思われる。 作成年代は不明であるが、富貴村の船の石数と船主の名前が記された史料が残されてい る。 【史料 17】(28) (表紙) 「十一月 大小船役銀 冨貴村㊞」 大船分 一三百九拾石 平右衛門
一三百六拾石 右同人 一弐百五拾石 忠蔵 一弐百三拾石 藤右衛門 一弐百五拾石 傳右衛門 小船分 一百八拾八石 清兵衛 一百九拾五石 七右衛門 一百五拾九石 茂兵衛 一百八拾石 嘉四郎 一百三拾六石 清兵衛 一百九拾八石 六右衛門 一百五拾五石 新右衛門 一百五拾五石 助六 一百四石 利兵衛 一八拾八石 金左衛門 一百七拾六石 弥七 一百三拾三石 甚七 一百弐拾三石 又吉 一七拾九石 栄助 一三拾七石 代吉 【史料 17】は、廻船惣庄屋をつとめる大野村(常滑市)の中村権右衛門家に伝わる史料で ある。中村家は尾張藩領の海船に対して船役銀を取ることを廻船惣庄屋の職務としていた。 船は村単位で把握され、船役銀は村単位で納められた。この史料は船役銀上納の前提とな るもので、村が中村家に船の石数を差し出したものである。史料に記されている名前は実 際に船役銀の上納義務のある船主である。先述した通り、尾張藩では 200 石以上の船が大 船(廻船)として、200 石未満の船は小船として把握される。 この史料は『海の営み』(武豊町歴史民俗資料館展示図録)の解説(29) では、幕末頃と推定 している。【史料 15】の 1869 年(明治 2)の直乗船頭徳蔵の船は 500 石の廻船である。明治 に入り 500 石船が登場としたとは考えにくい。文久期(1861-1864)の富貴には大坂・名古 屋間をつなぐ船や塩船などがみられ、廻船の大型化が進んでいるものと思われる。 おわりに 尾州廻船の内海船・野間船は伊勢湾・熊野あたりを航海していた 200 石未満の波不知船 などの小船が紀伊半島を廻り、大坂に進出し始めた。野間船のなかには小船で大坂に航海 し、大坂で廻船に買い換え、その船で荷物を積み込み、伊勢湾に戻る船も複数みられる(30) 。 時期は 50 年から 60 年ほど下るが、富貴の田中伝右衛門家では文化期(1804-1818)ころ
にはすでに直乗船頭として廻船活動を行っていたものと思われる。天保期(1830-1844)の 永宝丸は、平兵衛が船頭をつとめ、現在の三重県紀北町域に日常生活品を運んでいた。そ の後、永宝丸は瀬戸内の野崎(岡山県倉敷市)で塩を積んでおり、西国に航海範囲を拡大 した。 田中伝右衛門家のもう一つの持船の日吉丸は文久期(1861-1864)にはみられる船であり、 積手板の内容から判断しても 200 石以上の廻船であった可能性は高い。日吉丸は大坂から 名古屋に運賃積で荷物を大坂に運んだ。大坂登り船問屋の野尻利右衛門の記録によると、 1830 年代前半ころより、大坂行の尾張藩国産荷物の瀬戸物・材木は増え始めたことが記 されており、難船史料より荷物を運ぶ尾州廻船が明らかになった。天保から弘化期(1830-1848)に富貴船が成長し、竜宮講の結成につながったものと考えられる。 安政期(1854-1860)以降、尾張藩の藩専売制の政策が強化され、その時期に日吉丸が大 坂廻船をつとめた。ただし、日吉丸の大坂廻船の「積手板」は 1862 年(文久 2)とその翌年 のものしかなく、日吉丸が恒常的に大坂廻船をつとめていたかどうかは明らかにならない。 日吉丸の伊勢湾への帰り荷物としては、斎田塩の生産地である撫養との関係が指摘でき、 塩を運んでいたものと思われる。久吉丸清兵衛のように撫養の木津金毘羅社奉納の玉垣に 名前が刻まれている船もある。実際に永宝丸平兵衛、利七船のように塩を積んでいる富貴 船もみられる。富貴船が野間船のように塩船としての性格を持っている可能性も指摘でき る。 1869 年(明治 2)の徳蔵船は、大坂から名古屋に運賃積みで荷物を運ぶ名古屋廻船をつ とめた。徳蔵船は 8 人乗りの 500 石の廻船である。内海船では天保期以降、船の大型化が 進み、1000 石を超える廻船も登場する。富貴船も幕末維新期には 500 石を超える船が存 在していた可能性もある。 志摩半島に青峯山正福寺があり、海上安全で知られた寺院である。そこにはおもに瀬戸 内から関東までの船の奉納物が多数残されている。そのなかに富貴船の奉納物もみられる。 2 枚の渡海安全を祈願した護摩札があり、1 枚は「尾州冨貴、元吉丸嘉四郎・尾栄丸徳太郎、 久吉丸清兵衛」の 3 人連名のものであり、もう 1 枚は「尾州冨貴市場、福吉丸六左衛門」の 単独のものである(31)。ほかの護摩札の状況から判断して江戸時代のものと思われる。久 吉丸清兵衛は撫養の玉垣に刻銘はあるが、ほかの 3 艘も含め廻船活動の実態は全く明らか になっていない。 冨貴船の研究はようやく始まったばかりである。当研究所に寄贈された田中伝右衛門家 文書の調査・研究を進めるともに、今回明らかになった名古屋・大坂をつなぐ大坂廻船と 名古屋廻船に関する史料や、塩船の性格を念頭に置いた塩の生産地や消費地の史料からの アプローチが必要である。
注一覧 (1)内海船の研究は、斎藤善之『幕藩制市場の解体と内海船』(柏書房 1996 年)、髙部淑 子「戎講の成立と展開」『知多半島の歴史と現在』17(日本福祉大学知多半島総合研究 所、2015 年)、野間船の研究としては末永国紀「近世後期における塩の流通と廻船商業 活動」『経済学論叢』20(6)(同志社大学経済学会、1973 年)、常滑船の研究「解説」日 本福祉大学知多半島総合研究所・とこなめ陶の森編『常滑の廻船文書Ⅰ』(とこなめ陶 の森、2018 年)などがある。 (2)奥立廻船の研究は、 拙稿「十八世紀の平坂湊・大浜湊と三河の廻船」『愛知県史研究』9、 (愛知県、2005 年)同「尾張・三河の酒造業と奥立船」『安城市博物館研究紀要』20(安 城市歴史博物館、2014 年)がある。 (3)半田船の研究は、「海と川−船がつなぐ世界−」『中埜家文書にみる酢づくりの歴史と 文化』(日本福祉大学知多半島総合研究所・博物館「酢の里」共著、1999 年)。 (4)「竜宮講取極」『武豊町誌』(資料編三、武豊町、1986 年)。 (5)「第三民俗編 第四節廻船」『武豊町誌』(資料編二、武豊町、1983 年)「第三章近世 村 落の様相 第三節在方商業 船かせぎ」『武豊町誌』(本文編二、武豊町、1984 年) 「第一編近世の村 第三在方商業」『武豊町誌』(4)参照、『海の営み 武豊町の船稼ぎ』(武 豊町歴史民俗資料館特別展図録、1989 年)。 (6)「尾張国熱田 野尻家文書」(徳川林政史研究所蔵)。 (7)「冨貴村」「知多郡之記」(蓬左文庫所蔵)。 (8)「冨貴村」「鳴海代官所知多郡中村邑目録」『尾張徇行記』(名古屋市教育委員会編『名古 屋叢書続編』第 6 巻、名古屋市教育委員会、1976 年) (9)「大野村船庄屋記録」(「中村権右衛門古文書」徳川林政史研究所蔵)。 (10)「戎講諸事扣」(「東端戎講文書」南知多町教育委員会所蔵)。 (11)「田中伝右衛門家文書」日本福祉大学知多半島総合研究所蔵。 (12)(11)参照。 (13)「諸願達之留」(6)参照。 (14)「廻船問屋記録」(6)参照 (15) 同上。 (16)(11)参照。 (17)『海の営み 武豊町の船稼ぎ』(5)参照。 (18)(4)参照。 (19)「富貴市場の千石船針筋記」『武豊町歴史民俗資料館研究紀要』4(武豊町歴史民俗資料 館、平成 2 年)。 (20)(11)参照。 (21)(11)参照。 (22)瀧田金左衛門家文書(常滑市蔵)) (23)(11)参照。
(24)(11)参照。 (25)「須賀利浦文書」(『武豊町誌』資料編三)(4)参照。 (26)『愛知県史』(資料編 17 近世 3 尾東・知多 2014 年 愛知県) (27)(11)参照。 (28)「中村家文書」常滑市蔵。 (29)前掲書『海の営み』(5)参照。 (30)拙稿「尾州廻船と伊勢湾・熊野・大坂」(荒武賢一朗編『近世近代における日本列島の 沿海社会と海運』「環東シナ海・環日本海海岸域の文化交渉と歴史生態における学術的 研究」研究グループ 2014 年)。 (31)『武豊町誌』(資料編二)(5)参照。 【表 1】 天保から安政期にかけての尾州廻船の大坂行荷物 年号 船名 村名 積荷 備考 天保 3 年 9 月 金左衛門船 北条村 御蔵瀬戸物/商人荷物 天保 3 年 9 月 藤治郎船 野間 商人材木(檜) 天保 3 年 10 月 円五郎船 北条村 材木白木類(材木 ・ 榑木 ・ 樅四分板) 天保 4 年 5 月 名古屋伊右衛門船 重太郎乗 名古屋 御蔵焼物/商人荷物 天保 4 年 5 月 柏屋市兵衛船 名古屋 御蔵荷物/商人荷物(生麩/味噌/薬物 /古鉄/諸色) 天保 4 年 9 月 27 日 名古屋伊右衛門船 重太郎乗 名古屋 御蔵焼物/商人荷物(材木 ・ 樅四分板 ・ 曲輪 ・ 酢 ・ 椹三五板 ・ 諸色) 天保 7 年 8 月 桑名屋長右衛門 名古屋 瀬戸物/商人荷物 天保 8 年 9 月 柏屋市兵衛船 名古屋 御用材/商人荷物(栗四分板 ・ 味噌 ・ 砥 石) 天保 8 年 9 月 名古屋伊右衛門船 長左衛門乗 名古屋 御蔵焼物/商人荷物 天保 12 年 9 月 忠兵衛船 富貴村 御米/御蔵焼物/商人荷物 天保 12 年 9 月 治左衛門船 西端村 御米/御蔵焼物/商人荷物 弘化 2 年 9 月 三治郎船 多屋村 御蔵焼物(瀬戸物類)/商人荷物(小麦 ・ 大樽味噌 ・ 切干大根 ・ 箇物) 嘉永 4 年 9 月 喜兵衛船 樽水村 御蔵瀬戸物/材木/栗板/挽木類 常滑村稲治郎船事 嘉永 6 年 9 月 治助船 亀崎村 御蔵焼物/商人荷物(板挽類 ・ 箇物) 8 人乗 安政 2 年 9 月 佐右衛門船 多屋村 飛州御用木/御蔵瀬戸物/商人荷物(大 樽味噌 ・ 塗物) 安政 2 年 9 月 桑名屋伊右衛門船 名古屋 御蔵焼物/商人荷物(大樽味噌 ・ 塗物 ・・ 元結 ・ 諸色箇物) 安政 5 年 9 月 源蔵船 内海 材木/瀬戸物 8 人乗 出典:注(14)参照
【表 2】 文久 2 年 11 月の日吉丸の積荷 【表 3】 文久 3 年 3 月の日吉丸の積荷 積荷 数量 分類 桧・明桧 125 本 木類 槙 34 本 榑木 186 丁 槙挽板 100 箇 槙木取 40 箇 切干大根 699 箇 食物 大根 4 箇 割干大根 3 箇 宮重大根 1 箇 溜 2 樽 盆 34 箇 木地 木地 29 箇 箸 1 箇 染付 45 箇 焼物 麻 8 箇 衣類 茶 12 箇 茶類 地紙 1 箇 紙類 琉球包 1 箇 その他 かわ 5 箇 ゆり 3 箇 不明 50 箇 積荷 数量 分類 行先 染付 539 箇 18 樽 焼物 大坂 145 箇 兵庫 瀬戸物 54 箇 大坂 172 箇 兵庫 美濃 714 箇 1 箱 大坂 27 箇 兵庫 常滑焼 21 箇 5 樽 大坂 16 箇 兵庫 板類 10 箇 123 本 木類 大坂 板十五組入 10 箇 大坂 槙木 100 箇 大坂 明檜 15 箇 30 樽 大坂 明樽十六蓋付 8 箇 大坂 樽 4 樽 大坂 棒 7 箇 大坂 竹皮 5 箇 大坂 干皮竹 1 本 大坂 味噌 7 樽 食物 大坂 溜 2 ツ 大坂 大根入 1 箇 大坂 大根実 10 箇 大坂 干瓢 5 箇 大坂 水そば 4 箇 大坂 木耳 1 箇 大坂 盆 27 箇 生地 大坂 箸 2 箇 9 樽 大坂 塗物 2 箇 大坂 大鎹 6 箇 金属 大坂 釜 1 箇 大坂 麻 16 箇 衣類 大坂 茶 139 箇 12 樽 茶類 大坂 櫃 129 箇 10 樽 1 本 その他 大坂 15 箇 兵庫 菰包 17 箇 7 本 大坂 ヨラシ 28 箇 大坂 砥石 10 箇 大坂 はいもち 2 樽 大坂 床 1 タ 大坂 不明 4 箇 不明 大坂 【表 4】 明治 2 年 11 月の徳蔵船の積荷 積荷 数量 捨荷物 残荷物 大嶋黒砂糖 468 挺 7 挺 461 挺 蜜 10 挺 10 挺 白砂糖 23 挺 12 挺 11 挺 菜種 267 箇 1 箇 266 箇 蝋 73 丸 40 丸 33 丸 粕 32 箇 2 箇 30 箇 干物 224 箇 105 箇 119 箇 金物 21 箇 15 箇 6 箇 酒 1 樽 1 樽 油 5 樽 1 樽 4 樽 鉄 40 束 33 束 7 束 紙類 37 箇 21 箇 16 箇 櫃入物 18 箇 2 箇 16 箇 表 10 箇 5 箇 5 箇 進上物 18 箇 14 箇 4 箇 荒物 146 箇 30 箇 116 箇 合計 1398 箇 288 箇 1110 箇 出典:「日吉丸平蔵船登材木手板」 出典:「日吉丸平蔵船登荷物手板」 出典:注(25)参照