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イスラームとムスリムについて教える/学ぶ人のために―ムスリマのフィールドワーカーからの提案―

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Academic year: 2021

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地理教育総説記事

イスラームとムスリムについて教える/学ぶ人のために

―ムスリマのフィールドワーカーからの提案―

Teaching and Learning about Islam and Muslims: Suggestions from a Muslimah Fieldworker

杉江 あい

SUGIE Ai

(2021年1月4日受付 2021年2月3日受理) 本稿では,バングラデシュを主なフィールドとするムスリマとしての立場から,イスラームとムスリムに関する 学習のために次の3点を提案する.第1に,イスラームとムスリムに接する上で必要なリテラシーを高めること. ここでいうリテラシーとは,クルアーンなどの章句の理解にはアラビア語やイスラーム学の深い知識が必要であ り,西洋のバイアスがかかった生半可な知識では誤解しやすく,一部の研究者やムスリムの間でも誤った解釈や恣 意的な章句の引用などがなされていることに注意することである.第 2に,イスラームとムスリムを切り離してと らえること.イスラームをムスリムの言動のみから解釈し,またムスリムの生活文化をイスラームに還元するアプ ローチは誤りである.第3に,イスラームにおいて重視される信仰や人格,現世での利点について説明すること. 義務や禁忌を表面的に教えるだけでは,イスラームを特異視するステレオタイプから脱却できない.

This paper describes ways to teach or learn about Islam and Muslims based on three points suggested by a Muslimah student of geography who conducts fieldwork mainly in Bangladesh. First, we need a certain degree of literacy in approaching Islam and Muslims. That literacy means being conscious and careful since it is easy to misunderstand Islam if reading part of the Quran or other Islamic texts without deep knowledge of Arabic and Islamic theology, law, etc. Some researchers and Muslims misinterpret or arbitrarily emphasize certain parts of those texts. Second, we should try to understand Islam and Muslims sepa-rately from each other. It is wrong to examine what Islam represents based only on Muslims discourse and behavior and to re-duce Muslim lifestyles and culture to Islam. Finally, it is necessary to teach the importance of faith and personality in embrac-ing Islam and the advantages of observembrac-ing Islamic duties and rules. If we continue to teach Islamic duties and taboos superficially without such explanations, it will be difficult to break the stereotypical views of Islam among students.

キーワード: イスラーム,社会科,地理教育,生活文化,女性,ポジショナリティ Key words: Islam, social studies, geography education, lifestyle culture, women, positionality

I はじめに 近年,地理教育においてイスラームとムスリムにつ いてどう教えるかという議論が活発化している(中本 2009; 永田 2012).その背景としては,日本に長期居 住または短期滞在するムスリムの増加,ムスリムのテ ロリストの言動によるムスリム一般への偏見の高ま り,地理教育における異文化理解の重視などが挙げら れる.2016年3月には,「世界地誌学習の方向性̶イ スラームから考える」という日本地理学会地理教育公 開講座でムスリム研究の第一人者である内藤正典氏が 登壇し,同年7月には「イスラーム世界,ムスリムの 生活の学習指導について」という研究会において,小 学校,中学校,高校での授業実践例が報告されてい る1).そして,これらの会で議論を進めてきたイス ラーム学研究者,社会科および地理教育者,地理学者 の共同研究の成果が,『イスラーム/ムスリムをどう 教えるか―ステレオタイプからの脱却を目指す異文化 理解』として出版された(荒井・小林編著 2020).私 はバングラデシュをフィールドとする地理学徒とし て,またフィールド出身のバングラデシュ人ムスリム の夫と共に日本で育児をしているムスリマ(ムスリム 女性)一個人として,こうした動向を非常にうれし く,心強く感じている.それと同時に,これらで展開 されている議論の不足部分を少しでも埋めたいという 気持ちに駆られた.本稿は,社会科や地理においてイ

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スラームとムスリムをいかに教えるのかについて,次 の3点を提案するものである. a. イスラームについて学び,ムスリムと接する上で 必要なリテラシーを高めること b. イスラームとムスリムを切り離してとらえるこ と,具体的には,イスラームをムスリムの言動か ら解釈しないこと,またムスリムの生活文化をイ スラームに還元しないこと c. イスラームの五行など,外面的なことのみではな く,信仰や論理などの内面的なことを学生・生徒 に理解可能なかたちで提示すること また,本稿では最近日本でも見られる,イスラーム への偏見を助長するような言論についても,その問題 点を指摘する.それゆえ,本稿は護教論だという人も いるだろう.しかし,そのような批判的読みは読者に あって然るべきであり,そのために私は本文だけでな くタイトルでも自らのポジショナリティを明示してい る2).書き手は何らかのポジショナリティにあり,そ の立ち位置からしか記述できない.記述や主張が完全 なる中立性・客観性を持つという信奉は現代では通用 しない.むしろ,そうした中立性や客観性を装って著 者のポジショナリティを明示しないことは,読者の批 判的な読解を妨げることになる.読み手には,書き手 がどのような背景と意図でもってその情報を発信して いるのかを踏まえた上で,さまざまなソースから情報 を得て,それらを総合,批判して知を組み立てていく ことが求められる.本稿もまた,さまざまなソースの 一つであり,単独で読まれることを想定していない. 現在日本で流通しているイスラームやムスリムに関す る言論には本稿のような議論が欠如しており,私は従 来のイスラームとムスリムに対する誤ったアプローチ や表面的な理解を相対化するために本稿を書いてい る.本稿では日本の人文地理学界の動向および教科書 執筆との関連においてポジショナリティに関する議論 もおこなう. 本稿は社会科の地理的分野および地理A,Bの教科 書(平成27∼29年検定)を含む文献調査とバングラ デ シ ュ タ ン ガ イ ル 県 南 部 の 農 村(図1) に お け る フィールドワーク(2007∼2018年)3),また日本のモ スクやオンラインでのイスラーム勉強会4)で得た知見 に基づいている.なお,本稿で議論の対象とするの は,スンナ派のイスラームとムスリムである. 日本に暮らすムスリム人口は増加しているものの, ムスリムではない日本人が日常生活でムスリムと直に 接する機会はごく限られている.それゆえ,メディア を通じて目にするムスリムによるテロ事件に由来す る,イスラームやムスリムに対し否定的なイメージや 偏見がどうしても先行してしまう.さらに上述したよ うに,最近は日本でも,池内(2016),飯山(2018)や マレー(2018)など,イスラモフォビアを煽るような 言 論 が 目 立 っ て き て い る5). そ う し た 中 で, 篠 塚 (2020)や田 (2020)などの授業実践は,実際にム スリムを招いて話を聞いたり,ムスリムが思いを語る 動画を見たりすることで,生徒たちのイスラームやム スリムに対するイメージを好転させることに成功して いる.しかし,篠塚(2020: 71)が指摘するように, それは生徒たちが「ある意味で別の情報に左右され た」のであり,ムスリムの言説や動画を批判的にとら える思考力に欠け,それらの内容に簡単に影響されや すいということを示している.そのような生徒たち が,何らかの機会でIS(イスラミック・ステート) などの過激派とそのシンパや,そうした人びとが発信 している動画に出会ったらどうなるだろうか.「やは りイスラームは怖い,ムスリムとは相容れない」とい う考えに戻ってしまう生徒も少なくないのではないだ ろうか. また,山北ほか(2020: 144)は「イスラームにつ いての正しい理解を得るがゆえに,ムスリムの実存を 理解することから遠ざかってしまう場合がある」と述 図1 筆者の研究対象地域

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べており,イスラームについて基礎的な知識6)を持っ ている生徒ほど,かえってイスラームに対して否定的 なイメージを持つ傾向があることも報告されている (松本 2006).ここで私は,こうしたイスラームとム スリムに対する理解やその乖離は,イスラームについ ての「正しい理解」や「基礎的な知識」が生半可で表 面的なものにとどまっているためであること(上述の a,cに関連),またムスリムの言動はすべてイスラー ムに基づいているという思い込みがあること(bに関 連)によっていると主張したい. これらに関連して,下記は,私が師事しているイス ラーム勉強会の講師たちに,異文化理解を重視する地 理総合の導入に向けて私が本稿を構想していると伝え た際に,そのうちの1人であるN氏から「次のことも 提言してほしい」と送られてきた文章である. 「イスラームに関する日本の情報は,概して,西側 経由の見解つまりキリスト教世界から見たイスラー ムという側面が未だ拭えない.日本の学者において も,イスラーム学7)をアラビア語で専門的に学んだ 事のない中東政治や中東文化の研究者が,外側から 見た現象(実際のイスラーム教徒のおこない)に基 づいて議論している事が多い.しかし,イスラーム という教えと,イスラーム教徒は,イコールではな い.仏教徒の言動が常に仏教の教えを体現していな いのと同様に,イスラーム教徒の言動が常にイス ラームを体現している訳ではないので,イスラーム 教徒の言動からイスラームを語るのは,間違ったア プローチである.このような,西側経由のアプロー チ,イスラーム教徒の言動を根拠に語るアプロー チ,イスラーム学をアラビア語で現地で専門的に学 んだ事のないイスラーム研究者の意見には,イス ラームの真の姿を理解する上でバイアスがかかる危 険性がある事は否めない」 日本人がイスラームについて知ろうとするときに は,現代に生きるムスリムを研究対象とする研究者に よって書かれた著作がよく読まれている(片倉 1991, 1998; 大塚 2000, 2004; 内藤 2009, 2011など)8).私もま さにその1人で,こうした研究者らの著作から学んだ ことは多い.しかし,それらで論じられる「イスラー ム」と,専門的にイスラーム学を学んだ講師たちが説 く「イスラーム」の乖離には驚いた.私たちがイス ラームについて本当に理解しようとするなら,このイ スラーム理解におけるダブルスタンダード,すなわち 現実に生きるムスリムを対象とした研究によるイス ラーム解説と,イスラーム学によるイスラーム理解を 明確に分ける必要がある.そして前者はイスラームで はなく,あくまでムスリムに対する理解を深めるもの としてとらえるべきである.本稿が提案する上述の a∼c,特にbはこの点に深く関わっている.以下で は,a∼cの点について順を追って解説していく. II イスラームとムスリムについて 学ぶ上でのリテラシー 動画に影響されやすい生徒の傾向に危惧感を持った 篠塚(2020)は,動画を批判的に見る思考力やメディ ア・リテラシーを養う必要があると述べている.本稿で はイスラームについて学んだり,ムスリムによる言説に 接したりする際に必要なリテラシーについて述べる9) このリテラシーを高めるためには,イスラームの教 義(シャリーア,原義は水場への道)を,誰が何に基 づいてどのように解釈しているのかという問題をおさ える必要がある(図2).なお,ここで焦点を当てる のはムスリムの言動を規定するイスラーム法(フィク フ)である. 1. イスラーム法の法源とその解釈 まず,イスラーム法が何をもとに導かれるのかを説 明しよう.イスラーム法学においては,クルアーン (コーラン)とハディースがそれぞれ第1,第2の法源 として定められている.クルアーンはあらゆるムスリ ムが生活の指針とすべきものである.ハディースは 図2 イスラーム法とムスリムの言説

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アッラーからクルアーンを啓示された預言者ムハンマ ドの言行録である.一般的にクルアーンは原則を規定 し,ハディースはその解説の役割を果たす.114章か ら成るクルアーンには,アッラーによる世界の創造と その意味,アーダム(アダム)からムハンマドに至る までの預言者らの説話などだけでなく,礼拝や喜捨な どの崇拝行為(イバーダ)や親孝行の大切さなど,ム スリムの行動規範も記されている. クルアーンは日本語訳もいくつか出版されている が,厳密にクルアーンと呼べるのはアラビア語10) ものだけで,訳されたものは正確にはクルアーンでは なく注釈書(タフスィール)という扱いになる.アラ ビア語では一つの言葉に多様な意味があるので,他の 言語に翻訳するときにはさまざまな訳ができ,そこに はすでに訳者の解釈が入り込んでしまうからである. それゆえ,後述するようにクルアーンの内容を理解す るためには,アラビア語の習得とイスラーム学に関す る深い知識が欠かせない. クルアーンはムハンマドに啓示が下ったとき(最初 の啓示は610年)から何人かの教友(ムハンマドの直 弟子)も暗記し,また書き留められてもいたため,そ の無謬性が信じられている.他方で,ハディースも暗 記され書き留めていたが,本格的に編纂されたのは 9世紀以降であった.それゆえ,一つ一つの伝承の真 正さを検証する作業がハディース学者によっておこな われた.ハディースは伝承経路の明確さなどによって 真正さが確実なもの(サヒーフ),良好なもの(ハサ ン),疑わしいもの(ダーイフ),不確実なもの(サ キーム)に分類される.代表的なハディース集は,ハ ディース学者であるムスリム,ブハーリー,アブー・ ダーウード,ティルミズィー,ナサーイー,イブン・ マージャなどによるものであるが,ムスリムとブハー リー以外によるハディース集には確実または良好なも の以外のハディースも含まれる.表1は,よく教えら れる真正なハディースの抜粋の日本語訳である. 4法学派(後述)すべてが認めるその他の法源には イジュマーウ(学者間の合意)とキヤース(類推解 釈)がある.これらに次ぐ法源は一部の法学派のみが 認めており,利益衡量(イスティフサーン),利益 (マスラハ),原状継続(イスティスハーブ),教友の 意見,ムハンマド以前の預言者ら(モーセやイエスな ど)による教え(シャリーア)などがある(中田 2015).また,四戸(2020)によると在来の慣習はク ルアーンとハディースにおける禁止事項以外であれば 継承してよいとされる.ただし,ここで注意すべきこ とは,イスラームにおいて在来の慣習が必ずしも否定 されないということは一部の法学派の解釈であるが, 在来の慣習自体がクルアーンやハディースに由来する わけではないということである.この点を理解してい ないと,ある地域のムスリムの間で見られる在来の慣 習を普遍的なイスラームの教え(シャリーア)と混同 することになる. 次に,上述の法源を誰が解釈するのかという問題で ある.この問題はイスラーム法学史上,また近現代以 降に特に論争がなされてきたことである.伝統的に は,イスラーム法学者たち(フカハーゥ)がこれらの 法源を解釈することでイスラーム法を導き出す.しか し,解釈の仕方は統一されておらず,スンナ派は大き く4法学派(ハナフィー,シャーフィイー,マーリ キー,ハンバリー)に分かれている.4法学派は,時 代や出身地域の異なるイスラーム法学者たちが何百年 もかけて知を集約し,形成されたものである.法的解 釈が多様なのは,各学派の法的解釈の基礎となる大原 則(法 学 基 礎), つ ま り 解 釈 の 方 法 論 の 違 い, ハ ディースの採用基準の違い,アラビア語解釈の違いな どによっている.アッラーがムハンマドに啓示したイ スラームの教義(シャリーア)は一つとされる一方 で,導出されたイスラーム法(フィクフ)が多様なの は,そのためである. 従来は解釈の多様性に対して,一定の歯止めがかけ られてきた.4法学派の祖やその高弟たちは,ある問 題について上述の法源をもとに根本的な解釈を導き出 す(イジュティハード)のに十分な学知と資格を持つ とされ,基本的に後代の学者は先人の解釈をもとにし てイスラーム法の解釈をおこなってきた(タクリー ド)11).しかし,近現代における政治体制や社会生活 の変化,科学の発達などに伴って,イスラーム法学者 自身からも,またそれ以外のさまざまな論客からもイ ジュティハードの必要性が叫ばれるようになった.後 者の論客たち,たとえばファズルル・ラフマーンやア ミーナ・ワドゥードは(Wadud 1999; 大川 2009),イ ジュティハードの性質やイジュティハードをおこなう

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表1 40のハディース 1. あなたがたの中で最も善き人は,クルアーンを学び,教える人である. 2. イスラームとは,徳の教えである. 3. 人々に慈悲をかけない者には,アッラーも慈悲をかけないであろう. 4. 何事も容易にし,難しくさせないようにしなさい.よい知らせをもたらし,嫌われないようにしなさい. 5.  人びとが預言者たちから学ぶことができた言葉の一つに,自ら恥じることがなければ望むままに振る舞いなさい,というものがある. 6. 善へと導き示す者は,善をおこなったようなものである. 7. 信者は同じ穴で(害虫に)2度刺されることはない(信者は同じ轍を踏むことはない). 8.  あなたがどこにいようとアッラーを畏れなさい.悪事を働いたときは,それに続いて善行を施し,その悪が赦されるようにしなさい.人び とに対し,美徳をもって接するようにしなさい. 9. アッラーは,あなたがた信者の誰もが何事でも最善の方法で立派に成し遂げることに満足される. 10.  信仰には70いくつかの順位がある.その最高のものは「ラー・イラーハ・イッラッラー(アッラーのほかに神はなし)」と言うことであり, その最後になるものは,道から邪魔になるものを取り除くことである.羞恥心もまた信仰の一部である. 11.  悪事を目にした(信者は)誰でも,それを手によって直す(やめさせる)ようにしなさい.それができなければ舌によって直す(忠告す る)ようにしなさい.それもできなければ,(その行為を)心で憎みなさい.(しかし)それは最も弱い信仰である. 12. 豊かさとは富の多さではない.豊かさとは心の満足(知足)によるものである. 13. 害を与えることも,害に対して害で応ずることも禁じられている. 14. 誰であれ,自分のために求めるものを(同様に)同胞のために求めるまでは,信仰を持ったことにはならない. 15.  ムスリムは,お互いに兄弟である.彼を抑圧することも,彼を敵に渡すこともしない.誰であれ,同胞の求めに応えれば,アッラーもその 人の求めに応えられる.誰であれ,ムスリムを苦境から救い出せば,アッラーも審判の日に苦しみの一つからその人を救われる.誰であれ, ムスリムの欠点を覆い隠せば,アッラーも審判の日にその人の欠点を覆い隠される. 16. 信仰しない限り,あなた方は天国には入れない.またお互いを愛さない限り,信仰したことにはならない. 17. ムスリムとは,人びとが,彼の振舞いや言葉に安心できる人のことである. 18.  あなた方はお互いに憎みあってはいけない.お互いに妬んではいけない.お互いに背を向けてはいけない.兄弟のようにアッラーのしもべ となりなさい.ムスリムが3日以上,同胞と仲たがいしていることは許されない. 19.  ほんとうに正しさは人を善へと導く.善は人を天国へと導く.人は正しい言葉を話すことにより,アッラーの御許で「正しい言葉を話す 者」と記される.嘘をつくことは人を悪へと導く.悪は人を地獄へと導く.人は嘘をつくことにより,「嘘をつく者」と記される. 20.  あなたの同胞と争ってはいけない.彼の(気にいらないような)冗談を言ってはならない.また彼に,守れないような約束をしてはいけな い. 21.  あなたが人びとに微笑むことはサダカ(施し)である.善を命じ悪いことから遠ざけることもサダカである.道を見失った者に道を示すこ ともサダカである.道から小石やとげや骨片(など)を取り除くこともサダカとなる. 22. アッラーは,あなた方の外見や財産をご覧にならず,あなた方の心や振舞いをご覧になられる. 23. アッラーのご満悦は,母や父の喜びのうちにある.アッラーのお怒りは,母や父の怒りの中にある. 24.  疑いなく受け入れられるドゥアー(祈願)には三つある.それは抑圧された者のドゥアー,旅人のドゥアー,そして父の,子どもに対する ドゥアーである. 25. 父が子どもに贈るもので,しつけ以上に最良の贈り物はない. 26. あなた方のうち,最も善き人とは,妻を大切にする人である. 27. 子どもたちを慈しまず,年長者たちに敬意を示さない人は,本当のムスリムではない. 28. 豊かな人たちが招かれ,貧しい人たちが招かれていない宴は,よくない宴である. 29.  人を破滅へと導く7つのものを避けなさい.人びとはそれが何であるかをアッラーの使徒に尋ねた.アッラーの使徒は言われた,アッラー に何ものかを(同等に)配すること,魔術,正統な理由なくしてアッラーが禁じている人を殺害すること(自殺を含む),利子により利益 を得ること,孤児の財産を搾取すること,戦いのときに逃避すること,高潔で純真な女性の信者たちについての虚言を広めること. 30.  アッラーと来世を信じる者は,隣人を苦しめてはいけない.アッラーと来世を信じる者は,客に対し十分に親切に振舞わなければならな い.アッラーと来世を信じる者は正しいことのみを話すか,さもなければ沈黙を守るべきである. 31.  天使ジブリール(ガブリエル)は私にいつも,隣人に良くするように勧めた.(あまりにもしばしば勧めたので)ジブリールが隣人をお互 いの相続人にしたいのではないかと,私は思ったほどである. 32.  寡婦や貧者を助けるために努力する者は,アッラーの道で努力奮闘する人,あるいは昼間は常に断食をおこない,夜には常に礼拝をして過 ごす人と同じである. 33. 人は皆,罪を犯しうる.罪を犯す者たちのうちで,最も善き者は悔悟する者たちである. 34.  信者には,他の誰にも存在しない興味深い特質がある.(それは)彼のおこなうことはすべてが善となることである.そのようなこととは 順境にあるときは感謝すること.それは彼にとって一つの善となる.もし逆境に遭遇したときは耐え忍ぶ.これも彼にとって一つの善とな る. 35. 私たちを欺く者は,私たちの仲間ではない. 36. 人を中傷する者は(その罰を受けるか,もしくは赦されない限り)天国に入ることはできない. 37. 働く者には,彼の額の汗が乾く前に(できるだけ早く)報償を与えなさい. 38.  一人のムスリムが木を植え,畑を耕し,(その実り)を人や動物や鳥が食べたならば,それはそのムスリムにとってサダカ(施し)となる. 39.  人の体には小さな肉塊がある.もしそれが良い状態であれば心身全体が良い状態となる.もしそれが悪い状態になれば,心身全体も(悪い 状態)になってしまう.それは心(臓)である. 40.  あなた方の主であるアッラーを畏れなさい.1日に5回の礼拝をおこないなさい.定められた月にサウム(斎戒)をおこないなさい.あな た方の財産からザカート(喜捨)をおこないなさい.あなた方の権威ある人に従順でありなさい.(そうすれば)あなた方は天国に行くこ とができるだろう. 注: 東京・トルコ・ディヤーナト・ジャーミィによると,この40のハディースは,最も信憑性が高く,有名かつ預言者ムハンマドが大切だと判断 し,繰り返し人びとに伝えたものとして抜粋されている. (東京・トルコ・ディヤーナト・ジャーミィのwebサイトに掲載の「40のハディース」より.https://tokyocamii.org/wp-content/uploads/2019/11/2014. 08.01_40-Hadith.pdf. 最終閲覧日: 2020年12月20日)

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権限を持つ主体(ムジュタヒド)の資格や条件をめぐ り,4法学派の伝統に従ってきたイスラーム学者とし ばしば対立する.ムジュタヒドとなるには本来,クル アーン,ハディース,アラビア語に関する深い知識だ けでなく,さまざまな学識や公正さなどの条件が必要 とされる.しかし,そうした条件を備えたムジュタヒ ドないしはそれに近しい学者たちだけでなく,さまざ まな論客が独自のイスラーム解釈を展開しているのが 現状である. 小林(2020: 31)が「ムスリム1人ひとりにそれぞ れのイスラームがあると言ってもいいだろう」と述べ るのはこのためであり,個々人によって多様なイス ラームのあり方を示すために,islams (Sadiki 2004) というような概念も使われている.ここで重要なの は,イスラームでは法学者の間に解釈の相違が生じる ことが認められていること,またキリスト教における 階層的な教会制度がなく,ムジュタヒドやそれ以外の イスラーム学者,またさまざまなイスラーム法を公認 したり否認したりする制度がないことである.それゆ え,ある法学者が導き出したイスラーム法を別の法学 者が批判するということはあっても,何を正しいと信 じるかはムスリム個々人に委ねられている.近現代以 降,あらゆる人びとが直接クルアーンやハディースを 読み,解釈をおこなうようになったのは「イスラーム の知の再民主化」と言われる一方で(Bano 2017)12) 過激な解釈や上述の法源における根拠を持たない言説 もまた,イスラームの名のもとに広められてしまうと いう問題も生じさせている.イスラームについて語る ムスリムの言葉に耳を傾けるとき,私たちはこの点に 留意しなければならない. 最後に,どのように法源を解釈するかという点につ いて述べよう.これは上述してきたこととも関わるこ とだが,イスラームを理解する上で最も重要な点であ る.上述したように,アラビア語の語句はそれ自体に 多様な意味があり,また法源としうるものの選択肢と その解釈方法は統一されていない.それゆえ,特定の 目的のもとに,部分的ないしは恣意的にクルアーンの 章句やハディースの文言を引用または解釈すること, いわば濫用がたやすくおこなわれる.クルアーンが曖 昧な章句を含むことに対する指摘はクルアーン自体に もあり(3.イムラーン家章7節),同節ではそうした 曖昧な箇所を部分的,恣意的に解釈をすることも諫め られている.上述したムジュタヒドやムフティー (ファトワーの布告者)13)となるためにさまざまな条 件がつけられるのは,こうした濫用を防ぐためであ る.ISのイスラーム解釈を否定するイスラーム学者 たちがカリフ(ムハンマドの後継者)を自称するバグ ダーディーに向けた公開書簡では,法源となるテクス ト全体を考慮することなく,クルアーンの一節だけを 恣意的にとりだして,イスラーム法を導くことは許容 されないということが第1に挙げられている14).しか し,残念なことに,こうした類の濫用は過激派だけで なく,後述するように一部の研究者や一般人の間でも しばしば見られる.イスラーム法の導出は本来,クル アーンやハディースといった法源全体やアラビア語な どに関する深い知識に基づいておこなわれるべきなの である. 2. 誤解されやすいクルアーンの章句 本節では,誤解されやすいクルアーンの章句を二つ 挙げ,前節で述べたことを具体的に例証する. 「…(中略)…あなたがたが,不忠実,不行跡の心配 のある女たちには諭し,それでもだめならこれを臥 所に置き去りにし,それでも効きめがなければこれ を打て.それで言うことを聞くようならばかの女に 対して(それ以上の)ことをしてはならない.… (中略)…」(4.婦人章34節)15) 私が某大学の授業で「イスラームと女性」に関する レポート課題を出したとき,授業内容を全く踏まえず に,インターネット検索で出てきたイスラーム学の知 識に欠ける論文(岩本 2007)からこの章句を引用し, 男尊女卑と断じた学生がいた.これは私の教育力不足 ゆえにほかならないが,知識がほとんどない状態でク ルアーンの和訳を読むことの危うさを表している.こ の章句の和訳をもってイスラームを男尊女卑の宗教と するのは間違いである.第1に,「打つ」というアラ ビア語ダラバ(daraba)には多様な意味がある(Nasr et al. eds. 2015: 609–610).つまり,別の意味に訳しう るということである.第2に,古典期のイスラーム法 学者は,「打つ」という行為は,妻に対して象徴的に

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注意を喚起するためであって痛みを与えてはならず, 具体的には顔以外の部位をミスワーク(木の枝ででき た伝統的な歯ブラシ)のようなもの,またはたたんだ ハンカチでポンと叩くこととしている(Nasr et al. eds. 2015: 609; Asad 2003: 167).つまり,ここでいう「打 つ」とは「ポンとする,トントンする」といったニュ アンスなのである.この古典期の学者による見解は中 世および近現代のクルアーン注釈書においても踏襲さ れている.またそれらでは,妻を「打つ」ことは第1 に言葉による諭し,第2に夫婦の性的関係を断つこ と,それでも改善が見られない場合の最後の手段であ り,力ではなく愛情を込めてなされるべきで,女性が 道徳的に非常に悪いことをした,または家族を危機的 状況に追い込む懸念がある場合のみ許されると述べら れている(後藤 2018; Asad 2003: 167).第3に,すべ てのムスリムの模範であるムハンマドは,一度も女性 に対しても,使用人に対しても手を上げたことがな かった16).ムハンマドは「あなた方のうち,最も善き 人とは,妻を大切にする人である」と述べ(表1)17) 明確に妻に対する夫の暴力を非難し18),男性には女性 への暴力を禁じた上,汚い言葉で罵ったり家から追い 出したりしないように忠告している(サルチャム 2012: 51)19).以上のようなアラビア語やクルアーン注 釈書,ハディースに関する知識がないまま,生徒が上 述のクルアーンの章句だけを見れば,イスラームは女 性への暴力を肯定していると安易に判断してしまうだ ろう. クルアーンを読む上での注意事項としてさらに述べ れば,クルアーンの章句一つ一つは,ムハンマドが 40歳で最初の啓示を受けてから生涯を終えるまでの 23年間,彼やウンマ(イスラーム共同体)が直面し た問題や状況に応じて,その時々に啓示されたもので ある20).そのため,クルアーンの正しい理解にはムハ ンマドの人生とその地域の歴史,当時の社会情勢・文 化に加え,どの啓示がいかなる状況や文脈の中で下さ れたのかをよく知っていることが必要となる21).クル アーンには「…(中略)…人を殺した者,地上で悪を働 いたという理由もなく人を殺す者は,全人類を殺した のと同じである.…(中略)…」(5.食卓章32節)と ある一方で,一見矛盾するような次の章句がある. 「…(中略)…多神教徒を見付け次第殺し,またはこ れを捕虜にし,拘禁し,また凡ての計略(を準備し て)これを待ち伏せよ.だがかれらが悔悟して,礼 拝の務めを守り,定めの喜捨をするならば,かれら のために道を開け.…(中略)…」(9.悔悟章5節) この章句は,過激派が多神教徒に対するジハードを 肯定するためにしばしば引用するものである.確かに この章句だけを読めば,池内(2016)が述べるように 多神教徒がイスラームに改宗するまで,多神教徒に対 する戦闘が命じられているように思うだろう.しか し,この啓示が下りたのは,628年にマッカの多神教 徒とムハンマドらムスリムの間で結ばれたフダイビー ヤの盟約を多神教徒側が破り,ムスリム側と同盟して いたアラブの部族を攻撃したためであった. 少々長くなるが,この啓示が下るまでの経緯を説明 しておこう.聖遷(ヒジュラ)以前の経緯は,ムスリ ムに戦闘が許された背景を知る上で重要なためであ る.マッカで暮らしていた預言者ムハンマドは,最初 の啓示が下りてから3年後,公然とイスラームを布教 するようになった.ムハンマドの一族であるクライ シュ族を含むマッカの多神教徒は,ムスリムに改宗し た者に対し,拷問や殺害を含む苛烈な迫害をおこなっ た.命を狙われるムハンマドを守るため,ムスリムた ちはマッカの北にある丘の町に移り住んだ.しかし, 多神教徒はその町を封鎖して人やモノの往来を絶った ため,ムスリムは飢餓に苦しみ,餓死する者もいた. ムハンマドの妻ハディージャは,この封鎖が続いた3 年間の心労の末に亡くなり,ムハンマド自身も暗殺さ れかけた.ムハンマドは13年間こうした迫害に耐え 抜いた後に,マディーナ(メディーナ)への聖遷(ヒ ジュラ),すなわち移住を許す啓示が下された.ムハ ンマドがマディーナへ移住した直後に,そこで建設し ていたイスラーム国家を防衛するためのジハードを許 可する啓示(22.巡礼章39節)が下った.マディー ナを拠点としてムハンマドが率いたイスラーム国家 は,強大な勢力に成長していった.そしてマッカの多 神教徒との戦争を経た後にフダイビーヤの盟約が結ば れたのであるが,それを多神教徒側が破った.上述の 啓示はこうした経緯の後に下されたのである.このよ うな啓示の背景から,近現代のイスラーム学者はこの

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節の「多神教徒」を当時のアラブの多神教徒に限定し て解釈しており,時空間を問わない多神教徒全体に対 する戦闘命令としてはとらえていない(下村 2018). また,イスラームへの改宗が多神教徒に対する攻撃 停止の条件となっていないことは,630年にムハンマ ドが成し遂げたマッカ無血開城からも明らかである. 聖遷から8年後,ムハンマドは1万を超える軍勢を率 いてマッカに向かい,それまでムスリムに対する迫害 と戦争を続けてきた多神教徒たちを,数名の死刑宣告 者を除いて全員赦した.この際,多神教徒たちに対し てイスラームへの改宗は義務づけられていなかった (中田 2017).さらに重要なのは,上述の節に続いて 啓示された次の節である. 「もし多神教徒の中に,あなたに保護を求める者が あれば保護し,アッラーの御言葉を聞かせ,その後 かれを安全な所に送れ.これはかれらが,知識のな い民のためである」(9.悔悟章6節) つまり,戦争中でも多神教徒が保護を求めた場合, その人を保護しなければならないということである. 実際に上述のマッカ無血開城時には,死刑宣告された 多神教徒でさえも,ムスリムの保護下に入った人物は 処罰されなかった.松山(2018)が指摘するように, 飯山(2018),また池内(2016)も悔悟章の5節やそ の他の戦闘を命ずる節のみを脱文脈的,恣意的に抜き 出す過激派と同様に,啓示の背景と後続の啓示を踏ま えずに,イスラームが多神教徒一般との戦闘を命じる 宗教であると断じている.繰り返しになるが,何らか の主張や目的を持つ人物が,それらを正当化するため にクルアーンやハディースの一部を恣意的に抜き出す ことは容易である.しかし,本来は法源全体の検証か ら何らかの主張や結論を導き出すのが筋である.飯山 (2018)や池内(2016)のような言論は,イスラーム は異質で危険な宗教であるという主張が検証に先行し ている点で問題があると言わざるを得ない. 中学の社会科や高校地理では,上述のようなイス ラーム法学に関する知識や議論を教えるのは無理があ る.これらは,ムスリムであっても専門的に学ばなけ れば知らないのが普通である.しかし,クルアーンや ハディース,またアラビア語やアラブ,イスラームの 歴史などに対して生半可な知識しか持たない人がクル アーンなどの個別の章句や文言を解釈するのは誤解を 招くこと,またそのような誤解や恣意的な解釈こそが 今日のイスラームをめぐる混乱につながっており,一 般のムスリムもその混乱の中にあるということは,伝 えるべきである.つまり,ムスリムと接する際には, ムスリム自身がそうした誤解や恣意的な解釈をしてい る可能性があることを念頭に置くべきということであ る.ムスリムと接する上でのリテラシーについては, IIIの議論も深く関連している. III イスラームとムスリムの切り離し 本章ではイスラームをムスリムの言動から理解する こと,またその逆にムスリムの生活文化をイスラーム のみから理解すること22)の誤りを指摘し(図3),イ スラームとムスリムを切り離してとらえることを提案 する23) 1. ムスリムの言動に表れる「イスラーム」 IIの議論から明らかなように,ムスリムによるイス ラームに関する言説には,誤りや恣意的な解釈が含ま れる可能性がある.荒井・小林編著(2020)でしばし ば取り上げられていた「ムスリム自身がイスラームを どのようにとらえているのか」を学ぶ上では,その点 図3 イスラームとムスリムを理解するためのアプ ローチ

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に留意しなければならない.たとえば,小林(2020) や山北ほか(2020)では「ISをどう思うか」という 質問に対して,「彼らはムスリムではない」と回答し ているムスリムが見られた.しかし,このようなムス リムに対する不信仰者宣言(タクフィール)は本来な されるべきではなく,歴史的にも極力避けられてきた ものである.なぜなら「人が他の人を不信仰者と呼べ ば,両者のどちらかが不信仰者となる」というハ ディースがあるからである24).あるムスリムが本当に アッラーを信じていないのか,すなわち人の心のうち について判断を下すのは非常に難しい.不信仰者宣言 をしたムスリムは,宣言の対象人物が本当にアッラー を信じていなかったことを証明できない場合,その宣 言者こそが不信仰者になってしまうというほど,他者 に対する不信仰者宣言は忌避されることなのであ る25).そして,ISこそがISの主義に従わないムスリ ムに対し性急な不信仰者宣言をすることで,その人び との殺害を正当化しているのであり,ムスリムがIS に賛同するムスリムを安易に「ムスリムでない」と断 じるのは,ISと同じ過ちを犯していることになる (松山 2017). イスラームがムスリム一人一人にとって異なるとい うことは,あくまでそれぞれが正しいと信じる解釈や イスラーム法(フィクフ)が異なるという意味であ り,イスラームやその教義(シャリーア)が多様なわ けではない.Wadud(1999)が指摘するように,イス ラームとその解釈は混同してとらえられがちである. この点に注意しないと,本来,イスラームとは無関係 の地域文化や慣習,そして犯罪さえもイスラームの教 義由来のものと混同してしまう危険性がある.なぜな ら,ムスリム自身がそれらを混同している場合がある からである. 私のフィールドでは,舅や夫を名前で呼ぶべきでは ない(「〇〇の父」や「〇〇のおじ」などと呼ぶ)と されていた.これらはしばしばイスラームの規則と信 じられていたが,クルアーンやハディースは夫や舅の 呼び方を制限していない.また,私は2018年8月に, フィールドのあるモスクのイマームの妻にインタ ビューをしたことがある.彼女が村の女性たちにイス ラームについて教えていると聞いたので,イスラーム における女性の布置について尋ねてみた.その際,彼 女は「女性の天国は夫の足元にある」と言い,女性の ための宗教書(Begum 2018)を見せ,「夫に叩かれた ところは地獄の炎で焼かれない」という文言を見せて くれた.しかし,ナサーイーのハディース集で伝えら れているのは「彼女(質問者の母親)のもとにいなさ い.なぜなら本当に天国は彼女の足元にあるからで す」というムハンマドの言葉であり26),またBegum (2018)の文言も法源をたどれない根拠のないもので ある.村山(2002)が正しく述べるように,「女性の 天国は夫の足元にある」というのは「ベンガルにおけ る格言」であり,イスラームの格言ではない. このような教えの混同や改変は,イスラームに関す る知識が未熟な人の間でさらにエスカレートしうる. たとえば,もし婚外交渉をしたムスリムには石打の 刑27)が定められていることを知っている生徒がムス リムによる名誉殺人のニュースを見たら,安易にイス ラームと名誉殺人を結び付けてしまうのではないだろ うか.しかし,実際には婚外交渉(ズィナー)の罪が 成立するのは本人が自白するか,明確に性交を目撃し た4人の証人がいる場合のみで,本人が秘匿すれば罪 に問われる可能性はきわめて低い28).また,刑罰の執 行は公正な裁判がおこなわれた後のみであり,家族が 勝手に刑を執行することは許されない.したがって, 名誉殺人は明らかにイスラームの教義に則らない犯罪 である. 以上のように,ムスリムの行為は必ずしもイスラー ムに由来するものではない.ムスリムによるイスラー ムの表象は,一義的に言説としてとらえられるべきで あって(cf. Asad 1986),イスラーム学の知識や議論 を参照して精査することなしにイスラームの教え (シャリーア)と同一視するのは危険である.イス ラームを本格的に理解するにはムスリムの言動ではな く,イスラーム学やアラビア語,歴史などを学ぶ必要 がある29) 2. ムスリムの生活文化 中学校社会科の地理的分野および高校地理の教科書 を見ると,西アジアの単元では必ずイスラームについ て言及されており30),ムスリムの生活や文化はイス ラームの戒律に規定されるものとして描かれている. しかし,ムスリムの生活文化は必ずしもイスラームに

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収斂するものではない.あらゆる生活文化は多様な価 値観や慣習を含むハイブリッドなものであり,また人 びとの言動の一つ一つは特定の(宗教的)考えや主義 に還元できない.それは,日本人の両親のもとで生後 すぐにカトリックの洗礼を受け,日本で教育を受けて 23歳でムスリムになった私も実感することである. ブザール(2017)やマンスール(2016)といった西 洋に暮らすムスリムの著作を読むと,政治や性などに ついて,イスラームと西洋流の考えが混ざり合った主 張がなされていると感じる.このようなハイブリディ ティは,ムスリムが人口の9割を占めるバングラデ シュの私のフィールドでも同様に見られる.私はこれ までバングラデシュ農村に住むヒンドゥーとムスリ ム,および両者の関係について研究してきた(杉江 2014, 2016, 2017; Sugie 2016, 2019).その結論の一つ は,社会(構造)は宗教によって規定されないという ことである.しかし,杉江(2016)で論じたように, 従来の南アジアの研究は,社会構造は宗教によって異 なるという英国植民地当局の認識枠組を踏襲し,ヒン ドゥーとムスリムを本質的に異なる社会集団として 扱ってきた. バングラデシュでは,イスラームが浸透する以前の 文化や慣習がしばしば維持されている.ムスリムの間 で見られるカースト差別はその典型である(Sugie 2016; 杉江 2017).また,私のフィールドワークでは, ヒンドゥーが好んでする慣習を続けるムスリマに対し て,その子どもが「俺のナヌ(母方の祖母)はヒン ドゥーだったのか」と揶揄するのも日常のひとコマで あった.そうした慣習の例として,あるムスリマが息 子を厄災から守るために,牛乳で身を清めさせていた ことがある(図4).もちろん,このような厄災除け はイスラームに由来するものではない.ちなみに彼女 はイスラーム学校(マドラサ)を卒業し,信心深く礼 拝を欠かさない人だった.フィールドの人たち,特に 若者はメディアを通じてインドや西洋の文化に親しん でおり,イスラーム学校で学んだからといって必ずし も信仰深くなるわけでもなかった.宗教的な罪である と知っていても,飲酒や賭博,高利貸し,賄賂の授受 などをするムスリムも見られた.利子を禁じるイス ラームの信仰者が圧倒的多数を占めるこの国で,利子 を取る小規模金融(マイクロ・クレジット)がグラミ ン銀行の創始者ムハンマド・ユヌスによって「発明」 され普及したのも,高利貸しに苦しめられる人びとが 多かったからである.以上のようなムスリムの言動や その生活文化をイスラームに還元してとらえようとす るには無理がある. このほか,バングラデシュにおける生活文化のハイ ブリディティを示す事例として,物乞いと施しの慣行 が挙げられる(杉江 2013).イスラームの五行の一つ には喜捨(ザカート)がある.それとは別に,自発的 な喜捨(サダカ)もクルアーンの随所で推奨されてい る.実際に,私がフィールドのムスリムに施し(ビッ カ)を与える理由を尋ねると,ほとんどの人は「神の 御心を満たすため」と答えた(杉江 2013: 125).しか し,日常的に施しをしているのはムスリムだけではな かった. 先行研究では,物乞いと施しの慣行について,次の ように論じられている.Carstairs(1956)は,ヒン ドゥー社会には誰かに施しを求められたなら断ること ができない大きな「普遍的衝動」が見られると述べて おり,マローニー(1995)は,バングラデシュ社会に おいて物乞いは施しを与えられる権限(エンタイトル メント)を持つとしている.また,タンガイル県北部 の農村をフィールドとする西川(2004)は,当地域の 物乞いと施しの慣行が,さまざまな宗教の多様な要素 を含んだ信仰のかたちとして存在してきたと述べてい る.インドを検討の対象とするCarstairs(1956)は 図4 牛乳による清めで厄災祓いするムスリム (2009年12月Tahmina Akter撮影)

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「ヒンドゥー社会」としているが,物乞いに対する寛 容さと義務的ともいえる施しは,南アジアの地域文化 としてとらえるのが妥当であろう(中里 2005). また,施しという点に関連してもう一つ例を挙げれ ば,南アジアにはヒジュラと呼ばれるトランスジェン ダー(男性から女性)の人びとが見られる(ナンダ 1999; 國弘 2009).バングラデシュでもヒジュラは独 自のコミュニティを形成しており,少なくとも1万人 ほど暮らしているとされる31).ヒジュラは結婚や出産 を祝う芸能を伝統的職能としてきたが,それのみでは 生計を立てられないため,しばしば市街地や市場,民 家などで金品を乞う(というより「たかる」という表 現の方が実態にそうかもしれない). 私が市場でフィールドワークしているときにも,そ うした状況に出くわすことがあった.中には絶対に金 品を渡さない人もいたが,多くの人びとはヒジュラが 勝手に商品を取っていっても気にしていなかった (図5).ヒジュラの行為を許容する理由には,もめご とを起こしたくない,あるいは施しとして与えている といったこともあるだろうが,ヒジュラには生殖を司 る力があり,ヒジュラに呪われると子どもができなく なると信じられていたことも挙げられる.このような ヒジュラの力の源は,バングラデシュではあまり知ら れていないが,人の生を司るバフチャラーというヒン ドゥー女神に由来するとされる(石川 1995; 國弘 2009).ヒジュラの超自然的な力に対する畏怖の念が 見られる生活文化は,イスラームに還元できるもので はない. ムスリムの生活文化を理解するには,イスラームだ けでなく歴史や政治経済的背景,学校教育内容など, 多様な側面を踏まえる必要がある(図3)32).また,イ スラーム学の知識を踏まえない研究者などによるムス リムの描写は,イスラームではなく,あくまで現実の ムスリムを理解するためのものとしてとらえる必要が ある.イスラームとムスリムを切り離してとらえるこ とは,両者を正しく理解するために重要であり,イス ラームとムスリムを学ぶ上で必要なリテラシーの一つ であるといえよう. IV 内面の信仰と人格を重視するイスラーム 1. イスラームの信仰と現世におけるメリット ビルマ(ミャンマー)で長年取材を続けてきた宇田 有三氏は,その著書『ロヒンギャ―差別の深層』で 「イスラーム教」ではなく「イスラーム」という表記 をする理由として,下記のように述べている. 「イスラーム関連の解説書に目を通すと,『してはい けない』ではなく『しなければならない』という戒 律や義務を伴う感覚が,例えば同じ実践宗教である 上座部仏教よりも強く示されているからである.そ こでイスラームは,キリスト教や日本の大乗仏教と やや異なって,心の中で神や仏を信奉するという内 面的なことがら以上に,規律を重んじ外面的な行動 によって人の生き方を律さなければならない信仰だ と解釈した方がいいと筆者はとらえている」(宇田 2020: 250–251) これはイスラームに対する誤った解釈であるが, 「イスラーム関連の解説書に目を通すと」とある通り, 日本で流通しているイスラームの表象によるものと考 えられる.宇田氏が当著書で挙げる「イスラーム関 連」の文献は20以上あり(そのほとんどが和文図 書),決して少なくない.また,「もっとも筆者自身, イスラームを専門的に勉強したわけではないので,本 来的なイスラームの教義と実生活のイスラームの違い を十分に理解できていない」(宇田 2020: 251)とも述 べている.これは,本稿が提案するbの点と関連する ことである. 中学校社会科の地理的分野および高校地理の教科書 図5 市場で商品を袋に入れているヒジュラたち 注: 中央で華やかな色のサリーを着ている2人がヒジュラで ある. (2009年6月杉江あい撮影)

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では,イスラームにおける戒律が強調され,六信(唯 一神アッラー,天使,啓典,使徒,審判の日,定命) 五行(信仰告白,礼拝,斎戒,喜捨,巡礼)のうち, 五行の方しか記述がなされていないものが多い.イス ラーム解説本やムスリムを対象とした研究において取 り上げられる内容も,イスラームの外面的な義務や規 則に重点が置かれ,また,イスラーム主義やテロ, ジェンダーといったトピックばかりが目立つ(長沢監 修・後藤著 2017; 小杉ほか編 2018; リズン2004など). 確かにこれらは,いわばイスラームが欧米で問題視さ れる話題であり,これらについて精査することはイス ラームの正しい理解のために重要である.しかし,そ うしたことばかりでは,宇田(2020)が述べるような 「イスラーム」解釈は変えられない. 実際にイスラームにおいて最も重視されるのは規則 やおこないではなく,六信(アキーダ)とそれらを心 の中で信仰すること(イーマーン),そして人格であ る.バングラデシュの初等学校や下級中等学校で使用 されているイスラームの教科書や33),私が参加する日 本でのイスラーム勉強会でよく取り上げられる内容は これらについてである.内面を重視するのはスーフィ ズム(タサウウフ)34)だけではないのである. 日々の生活を規定する詳細なイスラーム法(フィク フ)をむやみに広めることは,むしろ忌避される(中 田・中田 2020).信仰心が萌芽したばかりの状態のム スリムに厳格な規定や義務を強制することは,その人 が最も重要な信仰を棄ててしまう原因になりかねな い35).信徒がその信仰心の段階に応じて,自ら法的見 解(ファトワー)を求めたり,実践したりしていくの が本来のあり方である.自分の内面の信仰を自ら否定 しない限り,ムスリムは不信仰者にならない.また, 信仰を欠いた五行の実践は無意味である.このこと は,模範的なムスリムが五行を含むあらゆる行為をす る際に,アッラーのためという意思表明(ニーヤ)を 必ずすることにも表れている.この意思表明がなく, 「周りによく思われたいから」などという理由でおこ なった五行は善行として見なされず,むしろ「偽善 (リヤー)」として嫌悪される. また,悪い人格(高慢,横柄で人に悪い振る舞いを するなど)の者がどれほど五行を含む善行をしても天 国には行けず,その信仰や善行には問題があると見な される.イスラームの特徴は,関係性がアッラーと信 者の間で完結せず,人間や社会との関係性が問われる 点にある.礼拝や斎戒を怠ってもアッラーに赦しを乞 えば赦されるが,人におこなった悪行はその人に対し て何らかのよい行動(直接謝って赦しを乞う,贈り物 をする,その人のために祈るなど)を起こさなければ 赦されない.イスラームでは陰口(ギイバ)が殺人な どと並ぶ大罪(カビーラ)とされていることも36),あ まり知られていない.教科書の内容との関連でいえば, 1日5回の礼拝や斎戒(断食)は必ず記述されるが,そ れらの遂行がアッラーに聞き入れられる次のような条 件や効用についてはまったく触れられていない. ・ 礼拝や斎戒をしていても,人に悪い振る舞いや動物 に虐待をしていると天国に行けない. ・ 礼拝をしていると心が穏やかになり,自我(ナフ ス)に厳しく,人にやさしくできるようになる. ・ 礼拝は悪行や醜行,高慢(キブル)37)や妬み(ハサ ド)といった悪い感情を遠ざける. イスラームを戒律や義務で縛られた不自由な宗教だ と思う人は少なくないだろう.しかし,イスラームに おいて目指される現世の「自由」とは,六信五行を通 じて自我(ナフス)の欲望や悪行から解放されること であり,それによって完成されたよい人格を得ること である.斎戒も貧者の気持ちを理解したり,日々の恩 恵に改めて感謝したりといったさまざまな意義がある が,自我の欲を理性でコントロールできるようになる という効用がある.この自我との闘いこそが,ムスリ ムが最も努力奮闘(ジハード)38)すべきものなのであ る.クルアーンには次の章句がある. 「善と悪とは同じではない.(人が悪をしかけても) 一層善行で悪を追い払え.そうすれば,互いの間に 敵意ある者でも,親しい友のようになる」(41. フッスィラ章34節) 他人から悪いことをされれば,自分も悪い振る舞いで 返したくなるのが人間の性(さが),すなわち自我で ある.ムハンマドはムスリムにとって最も重大なジ ハードは自我との闘いであると述べている39)

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また,教科書に取り上げられやすいハラール(合法 なこと)とハラーム(禁止されること)も単に豚肉と 酒は禁止という表面的なことだけが教えられている. しかし,ハラールとハラームは食べ物だけでなく行為 なども含まれ,食べ物をどのような手段で手に入れた かも問われる.たとえば,盗んだ食べ物や,賄賂,賭 博といったハラームの方法で稼いだお金で買った食べ 物もハラームになる. 五行や禁忌について授業で教えるときには,五行の 前提には内面の信仰があり,また死後天国に行くため だけでなく,現世における人格の完成が目的の一つで あることも解説すれば,生徒のイスラームに対するイ メージは大きく変わるだろう.ムスリムがイスラーム の教えに従うのはアッラーとの関係や死後の世界のた めであるが,現世の人生や社会をよくするためでもあ る.このような現世の利点について教えることは,神 の存在や死後の世界についてイメージが湧きにくい生 徒の間にも共感をもたらすことができるかもしれな い.この点についてはさらに次節で,女性のヒジャー ブを例に論じよう. 2. 現世におけるヒジャーブの意義 ムスリムの女性に義務づけられているヒジャーブ40) は,しばしばイスラームにおける女性差別の象徴とし て否定的にとらえられる.しかし,そのような見方は 表面的,一面的と言わざるを得ない.女性がその魅力 的な身体の部位を隠す現世的な意義は,女性を男性の 欲望や犯罪から守り,また女性の誘惑による社会の混 乱(フィトナ)を防ぐことである.そして,それだけ でなく,ヒジャーブは女性の尊厳を守る手段ともなっ ている.ヒジャーブが女性差別ととらえられるのは, イスラームが女性を守る上での考え方や手段が西洋の フェミニズムとは大きく異なっており,理解されにく いからである.クルアーンには次の章句がある. 「預言者よ,あなたの妻,娘たちまた信者の女たち にも,かの女らに長衣を纒うよう告げなさい.それ で認められ易く,悩まされなくて済むであろう」 (33.部族連合章59節) 後半の文の「それで認められ易く,悩まされなくて済 むであろう」というのは,どういう意味なのだろう か.それは,シリア人イスラーム学者の故ラマダー ン・ブーティー氏の著作(Al-Buti 2006)にある,「ヒ ジャーブの背後にある理性」という項目を読めば理解 できる.ブーティー氏はある若いアラブ人女性を例に 説明する.ブーティー氏が参加した詩を朗読する集ま りで,美しい髪を覆わずに魅力的に着飾ったその女性 は,画期的な詩を発表していた.聴衆の男性たちは彼 女の外見に釘付けで,そのうちの1人が彼女に対して おこなった評価は,「詩はよくわからないけど,彼女 の髪は美しくて圧倒されるね!」というものだった (Al-Buti 2006: 229).これほど侮辱的なことがあろう か,とブーティー氏は問う.しかし,人びとは否応な しに女性を外見で判断しがちである.そうした中で, ムスリマは近親の男性(マハラム)以外が同席する場 ではヒジャーブを被り,女性としての魅力を覆い隠 す.それによって,近親以外の男性から欲望の対象と して見られるのを防ぐと同時に,人びとは彼女の外見 ではなく,その主張や能力といった内面に注意を払う ようになるのである(Al-Buti 2006). イスラームでは「女性を外見で判断しやすい」とい うことが,それがよいか悪いかは別にして,人間の性 (さが)として考えられている.たとえば,私たちは テレビで女性の政治家を見たとき,彼女がファッショ ンモデルではないにもかかわらず,何色の服を着てい たか,どんなヘアスタイルをしていたかなどの外見が 印象に残るだろう.その一方で,男性の政治家がどん な柄のネクタイをしていたか,何色のスーツを着てい たかを覚えている人はどれほどいるだろうか41).芸能 ニュースでファッションを評価されるのも,ほとんど が女性である.女性を外見で判断してしまうというの は,女性同士でもよくある.最近耳にする「スクー ル・カースト」も,生徒の容姿が影響している.ま た,日本には「お茶くみOL」や「受付嬢」といった, 女性が性や外見を売りにしてサービスさせられる文化 がある.しかし,イスラームはそれらを一切否定し, 女性が外見で値踏みされたり,女性の性が商品化され たりすることをヒジャーブによって防ぐのである.ク ルアーンの章句にあった長衣を纏うことで認められ易 くなるというのは,性別や外見ではなく,個人の内面 に注意が向けられるからである.このようなヒジャー

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ブの意義は,イスラームが内面や人格を重視している ことの証左にほかならない. 以上のように,従来の教科書記述のように五行や宗 教的義務を淡々と挙げるだけでその意義や効用が説明 されなければ,イスラームは義務や禁忌の多い厳しい 宗教だというステレオタイプから脱却することはでき ない.上述の例からわかるように,イスラームで重視 されるのは内面の信仰と人格であり,ムスリムではな い生徒も納得しうる論理が見られる.実際に私が大学 などの授業や講演で上述のヒジャーブの意味について 話したとき,イスラームの女性観に納得した人が少な くなかった.イスラームについて,もう1歩踏み込ん だ教科書執筆がなされることを望む. V おわりに 本稿では学校教育でイスラームやムスリムについて 教えるにあたって,三つの提案をし,それぞれについ て解説してきた.しかし,本稿の議論をそのまま授業 で使用することは,時間数も限られている中学校や高 校では不可能である.私は地理教育研究者や中学校, 高校の教員ではないため,実際の授業実践に本稿の内 容をどう活かせるかについての議論は専門家に任せた い.しかし,本章では各論についてまとめるととも に,授業で扱えるような題材について付言しておく. 本稿で第一に提案したのは,イスラームやムスリム に対するステレオタイプ的理解は,ムスリムによる対 抗言説で覆すことも重要だが,生徒がイスラームとム スリム,またそれらに関する言論に接する際に必要な リテラシーや批判的思考力を高めた方が,それから先 の人生での汎用性が高いということである.ここでい うリテラシーとは,イスラームが部分的,恣意的な解 釈によって濫用されやすいこと,ムスリムによる言説 がイスラーム学的知識・議論に照らすと必ずしも正当 ではないこと,そして誰が何をどのように解釈してそ の教義や言説を主張しているのかに注意しなければな らないことである. こうしたリテラシーが必要とされる理由を示すに は,イスラーム法(フィクフ)がどのように導出さ れ,またムスリムによる言説がどう生産されるのか (図2)を踏まえる必要があった.IIで論じた通り,イ スラーム法の導出には本来,アラビア語をはじめとし てクルアーン,ハディースなどの法源全体や歴史等に 対する深い知識が要件とされており,法源の一部を恣 意的に引用したり解釈したりすることは許されない. しかし,現代ではあらゆるムスリムによってそれらが おこなわれており,イスラームの名のもとにさまざま な言説が生み出され,混乱を招いている. ムスリム一人一人にとってのイスラームの実践の多 様なあり方は尊重されるべきである.それは,内面の 信仰が第1でイスラーム法に関する知識やその実践は 次の段階とされるというイスラームのあり方にも通じ ることである.しかし,ムスリムの言動すべてをイス ラームにおいて正当なものとしてとらえると,女性へ の暴力やテロを肯定する言説も「多様なイスラームの あり方」に回収されてしまう危険性があり,イスラー ムに対する誤解を招きうる. 次に提案したイスラームとムスリムを切り離して理 解するということも,先に提案したリテラシーの一つ として挙げられる.イスラームをムスリムの言動のみ から理解するのも,ムスリムの生活文化をイスラーム のみから理解できるという考えも,どちらも誤りであ る.信仰深いムスリムは,自らの言動をできる限りイ スラームの教義に反しないものにしようと努める.し かし,実際には罪を犯したり,宗教的義務ないしは善 行と信じているものがイスラームに由来するものでは なかったりすることもある.当然ながら,ムスリムの 中にはイスラームについてきちんと学んだことがな かったり,誤解していたり,世俗的だったりする人も いるのである. ムスリムの生活文化をイスラームに還元してとらえ てしまう背景には,ムスリムは宗教に厳格な人たち で,自分たちとは本質的に異なる他者だという意識的 ないしは無意識な前提もあるのではないだろうか.こ の点について,ムスリムに接する際のリテラシーに関 連して付言しておきたいことがある.ある大学で夫と 共に出前授業42)をした際に,「私はムスリムの方と仲 良くしたいが,私がイスラームについてよく知らない ので,何か失礼なことをしてしまうのではないかと心 配です.ムスリムの方と接するにはどうしたらよいで すか」といった内容の質問をくれた学生がいた.それ に対する夫の答えは,「1人の人間として接してくれ

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