井上円了の実践仏教観 −哲学と体験の問題を中心
に−
著者
石井 慶太
雑誌名
文化
巻
84
号
1,2
ページ
40-57
発行年
2020-10-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00129705
令和 2 年 10 月 31 日発行
井上円了の実践仏教観
― 哲学と体験の問題を中心に ―
井上円了の実践仏教観
― 哲学と体験の問題を中心に ―
石 井 慶 太
0、はじめに 井上円了(1858-1919)は近代日本に於いて、仏教を再評価した人物とし て有名である。また、東洋大学の前身である哲学館を開いた人物であり、現 在でも近代仏教史や宗教学等の様々な分野で注目され、多くの研究の蓄積があ る。 膨大な研究の上で未だに考察されていないのが、円了の実践的な仏教の考察 に関する思想研究である。多くの先行研究の中で、日本哲学史の研究から、円 了は「現象即実在論」の系譜に位置するとされている。その指摘は『仏教活論 序論』 (1887)に基づいている。円了は、この著書では大乗仏教の教理を取り 扱っているが、後に『真宗哲学序論』 (1892)、『禅宗哲学序論』1 (1893)、『日 本哲学序論』 (1895)を著し、宗教的体験を重視する真宗、禅宗、日蓮宗につ いて言及する。日本哲学史の研究では、この「三部作」における円了の思想に ついて考察されているものは少ない。 「三部作」を取り扱った研究としてあげられるものは、ラルフ・ミュラー「禅 における再帰性─井上円了の禅解釈2」である。これは、哲学的に『禅宗哲学 序論』を考察したもので、歴史的な位置づけを考察していない3。また、伊吹 敦「佛敎は哲學なりや宗敎なりや ─近代日本における佛敎の宗敎化と禪宗・ 眞宗の一元的理解の誕生─4」では、1890 年から 1900 年代初頭にかけての哲 学と宗教の問題について考察され、『禅宗哲学序論』について考察されている。 本稿でも参考にする点は多く、適宜参照した。 そして本稿では、こうした成果を踏まえながら円了の「三部作」の近代仏教 思想史の位置づけを考察する。1900 年代初頭には、一部、禅宗や浄土真宗に 関心を持つ「煩悶者」が現れたことなど、所謂、宗教は内面化する傾向にあったことが指摘されるが5、円了は 1890 年代に、すでに実践的な仏教を考察して いるという点は、『活論』の立場が哲学的であっても先駆的であると言える。 一部の「煩悶者」は浄土真宗や禅宗に心理的な安心を求めたが、円了は「煩悶 者」の登場を待つことなく、実践的な仏教の研究に着手した点は注目に値する だろう。 また、「三部作」において題材とされる実践的な仏教に言及する以上は、『活 論』で主な話題であった仏教と西洋哲学の関係だけではなく、宗教の持つ体験 や信仰といった話題を問題とせざるを得ない。つまり、『活論』から「三部作」 の思想の内容は何かしらの変化が見られるはずである。こうした円了の思想 を考察することによって、円了の思想の一部を解明できるほか、1890 年代の 円了の実践的な仏教の考察が近代仏教思想史の中でどういった位置づけにある か、提示できるであろう。 初めに、円了の『仏教活論序論』の思想について、先行研究に触れながら、 その特徴について論じてみたい。 1、『仏教活論序論』に於ける円了の思想的立場 円了の著作で最も注目された著作と言えば『仏教活論序論』であろう。この 『活論』は仏教界のみならず、日本社会一般にも高く評価された6。『活論』 は、仏教界が「神仏分離令」以降、廃仏毀釈が盛んになり、キリスト教の勢力 が拡大していたことから、キリスト教に対抗するため、仏教の形而上学的な思 想的意義が強調されている。円了はキリスト教の教説は妄説に過ぎないと指摘 し、仏教は最新の哲学と適合すると主張する7。そして、円了は仏教を哲学に 相当する聖道門と情感に適合する浄土門に諸宗を分類する8。『活論』では、キ リスト教は、浄土門と同じく、情感の宗教と規定されるが、浄土門は聖道門の 哲学的な思想に裏付けられたものであるため、キリスト教より優れると主張さ れる9。『活論』で哲学が重要視されるが、それは真理を哲学が判断することが 出来るためであり、哲学内に真理が存在すると考えているためである10。 円了は、浄土門は哲学的な思想を持つ聖道門に基づくため、単なる情感の宗 教ではないことを説き、この両者の関係を紙の表裏に例え、整理する11。そし て、この紙の表裏の譬えは、円了が主張した明治期に思想界を席巻した哲学論 である「現象即実在論」と通底するのである12。 この「現象即実在論」の基本的な特徴は、現象を超越した実在を認めないこ
とにある。実体は外に超越したものとは考えず、様々な現象に内在すると考え る。つまり、現象世界そのものを実在の世界と見なすのである13。これは、古 くは体用、体用論と呼ばれる14。形式的に言えば、本体である A と派生である Bがそれぞれは区別されたものではなく、A は B の内にあり、また、B は A の 内にある、という内在の関係として表すことが出来る。これは、本体とその派 生する内容との関係と見ることが出来るであろう。 「現象即実在論」は、当時、活躍していた明治の思想家がよく使用していた 哲学論であり、円了の『活論』に於いてもその表現が良く見られる。円了は 『活論』において、実在が現象に内在するという関係を、『大乗起信論』(以下、 『起信論』)の水波の比喩を引用し説明する。 すなわち仏教にては相対の万物その体真如の一理に外ならざるゆえんを論 じて、万法是真如といい、真如の一理、物心を離れて別に存せざるゆえ んを論じて真如是万法といい、あるいはまた真如と万物と同体不離なるゆ えんを論じて、万法是真如 真如是万法、色即是空 空即是色という。色は すなわち物にして、空はすなわち理なり。なお物即是理 理即是物という がごとし。この関係を示すに水波のたとえをもってす。水は絶対の真如に 比し、波は相対の万物に比し、万物の形象一ならざるは波の形象万殊なる に比し、真如の理体の平等普遍なるは水の体の差別なきに比し、真如是万 法 万法是真如、色即是空 空即是色の関係を例えて、水即波、波即水とい い、万物と真如の相離れざるゆえんを示して、水を離れて波なく、波を離 れて水なしという。しかしてそのいわゆる万法とは万有というがごとし。 かくのごとく論ずるを真如縁起という。15 引用文にあるように、円了は万物の本体を真如と規定している。また、物と 心と超越する実在である真如が、相互不離の一体であることを『起信論』から 読み込み、水波の比喩を用いて、その関係を説明している16。この『起信論』の 水波の比喩を使用し、実在と現象の関係を説明する思想を近代では「現象即実 在論」と呼ぶ。そして、この哲学論は様々な思想家の間で受容されることにな る17。 そして、円了は「現象即実在論」の系譜に位置すると指摘される。この哲学 論は、東京大学の原坦山の「仏書講義」を受講した円了を含む生徒たちが主張
していたとされるが18、「現象即実在論」の本体と現象の内在の関係を論じた のは、明治時代では円了が最も早い19。『活論』は哲学的な見方によってキリ スト教より仏教が優れると主張したことで大きな関心を読んだが、そこで主張 される哲学的な思想、つまり「現象即実在論」は、円了をきっかけに様々な人 物の間で使用されることになる20。「現象即実在論」に代表される当時の思想 界を席巻した円了の思想は、前述したとおり、仏教の形而上学的な側面に注目 した哲学的な語りであった。こうした語りが生まれたのは、『活論』で重視さ れていた聖道門に分類されていた仏教諸宗が、キリスト教より高度な西洋哲学 と一致するような形而上学的な思想を備えていたからである21。 他方、『活論』において主張された『起信論』の水波の比喩に代表される本 体と現象の関係を説明する「現象即実在論」は、実践仏教を考察する上で、『活 論』からどのように継承されたのであろうか。 2、実践仏教に共通する哲学の必要性 『活論』で考察されていた仏教諸宗は、高度な形而上学的な思想を持つ宗派 が中心であり、特に華厳宗や天台宗が重要視されていた22。そして、円了は 『活論』で扱った大乗仏教の教学から、1890 年代に入ると、日本で大きな勢 力を待った浄土真宗、日蓮宗、禅宗の研究を行うようになる23。このように、 円了の関心が移ったのは、『活論』では、日蓮宗や禅宗はそもそも分類されて おらず24、仏教思想全体を考察する上で、研究をせざるおえなくなったと考え られる。また、『活論』で重視された宗派は当時の日本では全く流行しておら ず、自身が情感の宗教と分類した浄土真宗や、分類されなかった禅宗や日蓮宗 が大きな勢力を持っていた。そのため、円了は当時流行していた実践的な仏教 の研究に関心を移したと推測できる25。 真宗や禅宗、そして日蓮宗は基本的に、宗教的な実践、つまり行を重要視す る宗派である。これらの宗派の特徴は、行を重視するため、円了が『活論』 で考察していた中国の知的な教学を持つ宗派とは異なる。そして、『活論』と は異なり、実践が重視される宗派に言及する以上は、哲学的な記述だけではな く、宗教的な体験の要素の記述が必要になる筈である。 例えば、近代日本において活躍した鈴木大拙(1870-1966)は、釈宗演 (1860-1919)の下で参禅していたこともあり、鈴木の著作では、禅体験の意 義が強調され、基本的に禅は知性を超えているため、哲学的な解釈を採用する
べきではないと主張される。そして、鈴木は 1898 年に西田に宛てた手紙の中 で、宗教は知的なものではなくむしろ感情的なものであると主張していた26。 では、円了はこうした実践的な仏教をどのように考察したのであろうか。『活 論』では、仏教の聖道門は西洋哲学と同等であることが語るが27、実践的な仏 教と哲学の関係にはどのような整理がなされているか、確認してみたい。 円了は、『活論』で仏教は知的な哲学的な宗教であると論じる28。そして、「三 部作」に於いても哲学的な仏教解釈が散見される。 もし仏教家にして哲学を用いざるときは、なにをもってその教と他教との 優劣を判ぜんや。真宗論者にして哲学によらざるときは、なにをもってそ の宗と余宗との長短を定めんや。しかるに真宗学者はだれにても必ずわが 宗の教義は真理なり、ヤソ教は真理にあらずと自ら信じ、また人に公言す るにあらずや。これ表面に哲学を排斥しながら、裏面に哲理を応用するも のというべし。もしまた真宗学者にして、真宗の学は哲学上講究すべから ざるものなりというときは、これ真宗は道理によりて論究すべからざるも のと自ら許すに異ならず。語を換えてこれをいえば、真宗は道理智力の宗 教にあらずと自ら信ずるものなり。果たしてしからば世の文明は道理の文 明にして、その進歩の目的は今日の世界を一変して道理の世界とするにあ れば、真宗の教義は文明の進歩に伴うことあたわざるものといわざるべか らず。これあに真宗そのものの性質ならんや。かつ余がみるところによる に、真宗は哲学上講究すべき全然の真理を含有するを知る。29 ここにおいて、円了は宗教の優劣を語る際に、必ず哲学による道理の判断が 必要であると指摘する30。引用文によれば、真宗の教理を哲学的に解釈するこ とを許さない「真宗学者」の存在があったことが述べられている。円了の言う 「真宗学者」が哲学的な解釈を許さない立場ならば、仏教が聖道門と浄土門の 哲理と情感の二門を具備すると主張していた円了が、これを批判することは当 然であろう。 こうした哲学的な解釈の必要性は、『禅宗哲学序論』に於いても述べられて いる。例えば、円了は「教外別伝」、「不立文字」、「直指人心」、「見性成仏」に ついて以下のように言及している。
禅門にあるもの必ず言わん、禅宗は教外の別宗なればもとより哲学にあら ず、もし哲理をもってその宗意を講究するに至らば、これ禅宗にあらず と。余これに答えて曰く、禅宗は教外別伝、不立文字の宗旨なるも、あえ てことごとく経論を排斥するにあらず、その直指人心、もって見性成仏す るの理は、大乗諸宗の経論によりて証せざるべからず。『維摩経』『楞厳 経』『円覚経』『起信論』『原人論』等は、みなその宗の用うるところなり。 すでに経論を用うれば、必ず道理によらざるべからず。すでに道理によれ ば、これを哲学と称するも、あに不可ならんや。たとえその道理は禅宗の 方便にして真実にあらずとするも、方便を離れて真実を示すべき道なきを もって、哲理の講究は禅学において欠くべからざるものと知るべし。もし また禅宗は真に道理言語を離れ、黙々寂々のところに心印を単伝するもの とするも、すこしもそのしかるゆえんを、言語に発せず道理に考えざると きは、人をしてそのなんたるを知らしむるあたわず。いやしくも道理に照 見しきたるときは、必ず真非を判定せざるべからず。これ、禅宗に哲学を 要するゆえんなり。もしまた禅宗は世界不二の宗旨なれば、これを日本の 特宗として海外万国に伝播せんとするときは、ますます哲学講究の必要を 感ずるなり。故に禅門に出入するもの、よろしくその教中に潜在せる真理 を証明することを務むべし。今、余は試みにその先駆をなさんとす。しか してここに題して禅宗哲学というは、禅宗は一科の哲学なりとの意にあら ずして、その宗の裏面に含むところの哲理を開示論定するの意なり。今ま ずその要点を指摘するの目的なれば、これを『禅宗哲学序論』と名付く。31 引用文によれば、円了は禅宗に於ける宗教的な体験については触れず、むし ろ哲学による分析の必要性を強調している。円了は、禅宗が種々の大乗経典 や経論を用いていることから、道理に基づく宗教であると述べている。そし て、禅宗の教理に対して哲学的な研究を行い、意義を主張することが海外に対 して、有用であるとされる。注意すべきは、禅宗の思想を哲学的に分析するこ とは、その背後にある哲学を解き明かすことにあるとしている点である。つま り、禅宗の「不立文字」や「教外別伝」といった言語的な説明を行わない特徴 的な教説の背後には、哲理が存在するというのである。これは、『活論』にお いて、浄土門の背後に哲理に合致する聖道門が存在していた構図と同様の考え といえるであろう。禅宗は哲学ではないが、その背後に哲理があると考えてい
ることは、『活論』で浄土門が聖道門に基づくと主張していたことからほとん ど変化していないと言えよう。 『日宗哲学序論』に於いても哲学の必要性が述べられる。 また本宗一家の創設的理論において、よくその理を『法華経』八巻の上に 考証し、あるいは本迹一致なりと論定し、あるいは本勝迹劣なりと審判す るも、門外のものに対してはほとんど無用の言なり。故にその証明のごと きも、今後哲学的講究を要するを知るべし。32 上の引用文では日蓮宗は『法華経』の経説に基づくことが説明されている。 そして、仏教を信仰しない者に対して、その教理が正しいかどうか判断するた めに、哲学の講究が必要となると述べられている。 円了が哲学的な解釈を仏教に用いる理由は、『活論』では、仏教とキリスト 教を比較したように、宗教の優劣を判断するためであって、極めて恣意的な手 段であった。さらに、円了は「三部作」において、それぞれの宗派の経説が道 理に基づくかどうか判断するために、哲学が必要であると述べられていた。要 するに、円了にとって、仏教を理解するために哲学を使うという方法論は、そ の宗派に妥当性があるか、どうかを判断するものであり、宗教的な体験や信仰 の問題に言及しないのは、そうした価値判断を行うという問題意識が先行して いたと考えられる。 実践仏教を考察する上でも哲学的な考察を必要とし、道理を判断する、とい う問題意識を円了は持っていたが、「三部作」それぞれの宗派の教説の解釈は どのようなものであろうか。これについて次節で確認してみたい。 3、「三部作」と「現象即実在論」 円了は前に見たように、『起信論』の水と波の比喩を引用し、超越的な実在 は、様々な現象に内在すると『活論』では考えていた。こうした考えは古くは 体用論と呼ばれ、大乗仏教の綱要書である『起信論』に取り入れられていた。 円了は活論では水と波の比喩を紹介し、実在と現象の関係を説明するが、それ 以外に、物心と実在が紙の表裏に例えられている。つまり、様々な現象と実在 の関係について、本体とその派生的な関係が内在するという体用の形式がとら れていることから、水波と紙の例えはパラレルな関係と見做すことが出来るだ
ろう33。いずれにせよ、円了は真如をこの世界の根本的な実体と規定するので ある。つまり、真如は「現象即実在論」の体用論の本体として重要な位置を占 めている。 真如が重要な意義を持つという表現は『真宗哲学序論』に於いても踏襲され ている。 前段は浄土門の純正哲学に属する部分を論評したるものにして、すなわち 浄土門は平等論をとらずして差別論をとるゆえんを述べたるものなり。し かしてその実、表面に差別をとり、裏面に平等をとるゆえんおのずから知 るべし。浄土門の阿弥陀仏は差別上の仏体を指すものなれども、その徳に 至りては真如平等の理に異ならず。34 ここにおいて表裏の表現が見られることから、『活論』で用いられた表現が 踏襲されていると見ることが出来る。また、この表現そのものを体用の関係と 見ることが出来るから、「現象即実在論」が意識されていると言えるであろう。 また、ここに於いても、『活論』で聖道門に裏打ちされていた浄土門という表 現と同様に、阿弥陀仏が「真如平等の理」に基づくと述べられているから、真 如が重要視されているため、円了の浄土思想の解釈は、『活論』の真如の意義 を強調する思考から変化がないと指摘できる。 また、浄土真宗等の教理において、重要な要素である往生については、以下 の様に述べられる。 よって我人の浄土往生はこの願力によるも、その力をわが体に引ききたる には、その願力を信受し、その命令に帰順するを要すれば、これを自力の 修行に比するに、ただ難易の別あるのみにて、共に因果の規則に基づくも のなりと知るべし。35 これによれば円了は、結局のところ、自力であれ、他力であれ、修行に於い ては難易の違いがあるのみで、実際には「因果の規則」に基づくと述べてい る。この「因果の規則」とは、「因果の理法は真如その体の規則」36としてい ることから、『活論』で現象の本体とされていた、真如の意義が強調されてい ることが確認できる。よって、『真宗哲学序論』に於いても、『活論』から続い
て、円了は真如の重要な意義を主張していたと言えるであろう37。 また『禅宗哲学序論』では、他にも『活論』から続く円了の真如が重要な意 義を持つという主張が見られる。 これを要するに、禅宗は古来仏教各宗のいたずらに文字言句の末に走り て、言外に甚深微妙の意あるを知らざるがごとき風あるを見て、不立文字 を唱え、また真如仏心の本性は実に霊々妙々不可思議にして、一経一論の 中において全味を感了すべからざるゆえんを示して、教外別伝と称するに 至る。ここにおいて仏教の最高至大幽玄微妙の真源始めて開け、真如の霊 光ここにおいていよいよ明らかなり。これ実に禅宗の卓見といわざるべか らず。38 つまり、真如は超越的な実在であり、人知を超えた物であるから、禅宗が標 榜する教外別伝と言った言語によらない教説は、卓見であると評価するのであ る。上の引用文のとおり、真如の意義を強調する記述を禅宗の解説においても 見ることが出来る。 さらに、円了は「現象即実在論」の体用の形式を禅宗の如来禅と祖師禅の解 釈に使用している。 ただし、その門にあるもの一方に偏せずして、祖師禅の裏には如来禅あ り、如来禅の裏には祖師禅あることを忘れざるを要するなり。39 この表裏に例える点は、『活論』では聖道門と浄土門の関係に使用されていた。 そして、それが、物と心の関係についても同様の例えが用いられていたことか ら40、上の引用文の祖師禅と如来禅が表と裏という関係は、それぞれが円融する 「現象即実在論」の体用論と軌を一にすると見做すことが出来るであろう41。 最後に天台宗と関係の深い日蓮宗を考察した『日宗哲学序論』を見てみた い。『日宗哲学序論』では、真如について、「本宗は天台と同じく、理想一元論 に基づき絶対平等論を唱うるものなれば、まず真如平等の理を述べざるべから ず」42と述べることから、円了が『活論』において重視していた天台宗と日蓮 宗は、同様の理論を備えたものであると言えるであろう。日蓮宗は天台宗から 派生したという歴史的な経緯から円了は以下のようにのべる。
しかるに本宗は天台の山嶺より流出する哲学の源泉をくみきたりて、別に 一家の宗教を開立せしものなれば、これよりそのいわゆる宗教門を説かざ るべからず。しかしてその宗教門は畢竟するに真如一元論の応用に外なら ず。それ哲学門は理論にして真理を究明するを目的とし、宗教門は実際に してこれに体達するを目的とす。故に前者は究理の学にして、後者は成仏 の法なり。しかるにここに一大疑難あり。我人、哲学上推究するときは、 真如実在の理を知了することを得といえどもこれ理論のみ、この理により て実際上真如の本際に体達し得べしと断定すべからず43 日蓮宗は天台宗の思想に基づき、実際上に応用された宗教であると述べられ る。そして、天台宗の思想と日蓮宗の思想は、「真如一元論」44という哲学論 に基づいていると述べられる。この「真如一元論」とは、ヘーゲルの哲学論と 近いものであることが円了自身によって述べられている45。つまり、哲学は真 理を理論的に究明するものであり、実際上の宗教門は、理論に基づいて真如に 到達するということであった。こうした仏教の実践観は極めて便宜的であるよ うに思われる。また、次の文章は明らかに「現象即実在論」を意識した文章で ある。 これをもって天台宗にては、真如の理性をもって体とし、万法の事相を もって用としたるも、本宗にては事相に顕現したるものをただちに実体と なし、森羅の諸象をもってただちに真実の妙体となせり。かくして一切の 諸法はみな妙法にして、一切の衆生はみな仏体、一切の国土はみな極楽な ることをあらわせり。これを法華本門の法となす。46 この引用文では、真如の理性は本体であり、万法である現象は用とされ、表 れる様々な相はそのまま実体であると考えている。ここにおいて、一切の様々 なものは妙法であるという考えが出るのである。このことは、「現象即実在論」 の特徴である、超越的な実体は現象に内在するため、現象そのものを実在と見 るという特徴に合致する。 ここで注目すべきは日蓮宗の基づく思想は、天台宗の思想だとする点であ る。これは、『活論』で浄土門は聖道門の思想に基づくと主張している点と類 似すると考えられる。しかし、日蓮宗は天台宗と関係が歴史的に深いという経
緯があるから、これは日蓮宗の成立の歴史的な事実から円了が発想した可能性 もある。つまり、もし、真宗や禅宗に於いても天台宗の思想が共通しているの であれば、『活論』から浄土門が聖道門に基づくという関係が踏襲されている とみて良いと思われる。次節でこれを確認したい。 4、真宗と禅宗は何に基づくのか。 前に見たように、日蓮宗は天台宗を実際上に応用したものであると指摘され ていた。また、『活論』では、浄土門は聖道門に基づくと語られていた。こう したことを踏まえれば、「三部作」で考察される宗派は何らかの思想に基づい ていると推測できるであろう。 「三部作」の場合、『活論』とは異なり、聖道門と浄土門という仏教宗派の分 類から、理論宗もしくは理宗と実際宗、もしくは通宗に分類が変更されるこ とになる。理論宗、もしくは理宗には、聖道門から引き継がれ、華厳宗、天台 宗、俱舎宗が配当され、実際宗、もしくは通宗には、真宗、禅宗、日蓮宗が配 当されることになる。つまり、聖堂門と浄土門からほとんど変化はないと言え る。なぜなら、聖道門と理論宗の仏教諸宗の分類に変化はないし、浄土門と実 際宗に関しては、新たに日蓮宗と禅宗といった浄土宗、真宗と同じような実践 が重視される宗派が配当されたにすぎないからである。 さて、ここで問題となるのが、『活論』では、浄土門は、聖道門である天台 宗や華厳宗等に裏打ちれた宗教であると述べられていたが、その考えが「三部 作」においても踏襲されているか、否か、ということである。 『活論』では聖道門は天台宗や華厳宗といった知的な思想を持つ宗派であっ た。円了は、聖道門は西洋の哲学に一致する思想を持つとして、その意義を主 張する。では、実際宗、通宗の枠組みに変更された「三部作」ではどのように 考えられているだろうか。 『真宗哲学序論』では、天台宗と浄土宗 ・ 真宗については以下の様に考えて いる。 天台の理論と浄土の理論とは平等差別の相違ありて表裏相反すといえども、 もし浄土の実際に至りては、かえって平等論をとりて差別の階級を設けず、 だれにても信心を得たるものは、未来において即時に西方極楽に至りて成仏 すべしという。すなわち天台にては理論上にて煩悩即菩提、生死即涅槃と説
きたるに、浄土門はその理を実際上に適用しきたりて、我人のごとき凡愚の 身がひとたび他力に帰順すれば、自ら煩悩の氷を溶解せざるも、その迷いの ままにて仏になるべし。これ煩悩即菩提なるによるとなす。47 ここでは、浄土門は天台の思想の理論を実際上に適用したものであることが 述べられている。天台と浄土の理論は、平等と差別の違いはあるものに、実際 には差別を取らない平等であり、煩悩即菩提、生死涅槃を実際に適用している と指摘する。ここで確認できることは、浄土と天台も違いは実際か理論か、と いうことだけで、思想的な相違は見当たらないということである。また、天台 の理論と浄土の理論を表裏の関係と語る点は、『活論』の聖道門と浄土門と全 く同じであり、表現が踏襲されているとみて良い。 次に『禅宗哲学序論』を確認してみたい。以下の記述は禅宗の思想が哲学と 深く結びついていることが確認できる。 禅宗は理想哲学、ならびに唯心哲学の原理を実地に応用しきたりて、一種 別伝の宗教を開立するものなりと。48 このように、禅宗は理想哲学、もしくは唯心哲学を実際上に応用した宗教で あると述べられる。この「理想」というのは『純正哲学』に於いては以下のよ うに述べられる。 しかして学術上定むるところの天神は普遍平等の体にして、万物万象の本 源実体を義とし、有意有作を離れたる自然の理性なり。故にこれを理想あ るいは理体という。仏教に説くところの真如これなり。49 ここにおいて、理想とは真如のことであるから、理想哲学というのは、「現 象即実在論」と同じように現象の本体を仮定する思想を持つことが予想でき る。つまり、円了の考える禅宗は、哲学的な思想に基づくと考えることが出来 るであろう。 さらに、円了によれば、禅宗は中道宗の思想に基づくと述べられる。 つぎに禅宗にて直指人心、見性成仏を唱うるゆえんを説明するに、これ全
く理宗の教義に基づきて立つるものにして、中道諸宗の理論を離れて別に 禅宗の理論あるにあらず。50 禅宗が主張する直指人心、見性成仏は理宗の教義に基づき、禅宗は中道諸宗 の論理に基づくと述べられる。そして、この中道宗51の思想とは以下のような ものである。 かくしてようやく進みて中道宗に至れば、万法の風波そのまま真如の理水 にして、一草一木、一色一香、みなその理水の一滴一分子なれば、水流れ 花落ち、雲動き風起こる中に、おのずから霊妙の風光を感見し、天地万有 の上に不可思議の世界を開くをみる。この理を示したるものは実に天台宗 なり。52 上の引用文をみれば、真如があらゆる現象世界の事物に分有されていること が明らかであろう。この記述は「現象即実在論」を強く意識したものであると 見做すことが出来る。また、禅宗は中道宗の思想を持ち、中道宗は天台宗の思 想に基づくから、聖道門と浄土門の関係の様に、哲学的な高度な形而上学的な 思想に裏打ちされた仏教として考えられていたのである。 まとめれば、「三部作」において変化して仏教の分類は、名称が変わっただ けで、その内実に変化は全くなかったのである。『活論』の浄土門に続いて、 実践的な仏教宗派は、高度の形而上学的な思想を持つと考えられていた天台宗 や華厳宗の思想に基づいていたのである。日蓮宗の説明に至っては「本宗は天 台と同じく、理想一元論に基づき絶対平等論を唱うるもの」53と述べることか ら、実践的な仏教を再分類したが、内実は『活論』の聖道門と浄土門の枠組み から変わっておらず、全く便宜的なものであったと言えるであろう。 これまで確認した通り、「三部作」で題材にされる実践が重要視される仏教 宗派は、天台宗のような哲学的な理論に基づくことが述べられていた。これは 『活論』から続いて、円了が重視する天台宗や華厳宗の仏教理論の意義が強調 されていると見做すことが出来る54。1900 年代にみられた、宗教を自身の内 面とするような問題意識は55、仏教の実践的な宗派に言及しているが、自身の 哲学との整合性を取るといった試みが見られるだけで、個人の体験や信仰と いった問題は全く論じられていない。このことから、円了には、仏教を信仰す
る、体験する、実践を考える、といった発想は全くなかったと考えることが出 来るであろう。 5、小結 これまでの議論をまとめれば、円了は『活論』から時代が下ると、当時日本 で支持されていた宗派の研究に着手し始める。実践を重要視する仏教諸宗で は、信仰に関係する行の意義が強調されるが、円了はそうした宗教の持つ体験 的な分析より、むしろ哲学的な方法を重視する。また、「三部作」で題材にさ れる宗派の教理の解釈に、自身の用いていた「現象即実在論」が用いられ、体 用の形式や真如を本体と設定し現象の関係を説明するという『活論』から一貫 した主張が見られる。さらに、『活論』では浄土門は聖道門である天台宗や華 厳宗といった哲学的な思想に裏打ちされているとしていたが、「三部作」にお いても自身が重視した天台宗の思想に基づくことが述べられていた。つまり、 「三部作」は『活論』から考察の対象は変わったが、哲学を重視する姿勢は一 貫している。いずれの宗派も天台宗に基づくことを考えれば、「三部作」も自 身の重視する天台宗の思想の意義が強調されたと見做すことが出来る。つま り、円了にとっては、「三部作」における実践仏教の考察も自身の重視する天 台思想の表現だったのである。 以上、確認した通り、『活論』で主張された「現象即実在論」を応用した形 で実践を重要視する仏教が語られることになる。そして、「三部作」において は、個人的な信仰や体験について、円了は全く問題にしない。 1900 年代初頭に煩悶者が多く出現し、宗教と個人の信仰は大きな話題となっ た。しかし、1890 年代、哲学と仏教の関係を論じた円了は先駆的な試みをし、 大きな話題を呼んだが、それ以上の影響を持つことはなかったと言って良い56。 実践的な仏教を包括的に考察するという試み自体は、時代的に重要な試みで あったが、その宗派の持つ思想の意義は問題にならず、自身の哲学論を応用す るのみであった。つまり、円了にとって、宗教の信仰や体験という問題は全く 関心がなかったとみて良いだろう。 他方で、『奮闘哲学』(1917)にみるように、人間はひたすらに活動すること を重視する「活動主義」に転じた、という指摘もあるが57、これは、時代的に 宗教が内面化していくこととどのように関係があるのかを考慮に入れ考察する 必要があるだろう。この問題については別に機会に論じたい。
1 本稿では、『真宗哲学序論』、『禅宗哲学序論』、『日宗哲学序論』を総称して述べる場合 「三部作」と呼称する。 2 ラルフ・ミュラー「禅における再帰性─井上円了の禅解釈」(『国際井上円了研究』3 号、 2015 年) 3 なお、前掲、ラルフ・ミュラー「禅における再帰性―井上円了の禅解釈」では、「三 部作」の出版年が間違えて記載されている。『井上円了選集』6 巻の田村晃祐の解説に よれば、出版年は本文で述べた通りで、最後に出版されたのは、『日宗哲学序論』で あるが、ミュラーは『禅宗哲学序論』が最後であると述べられている。これは明らか な間違いである。 4 伊吹敦「佛敎は哲學なりや宗敎なりや ─近代日本における佛敎の宗敎化と禪宗・眞宗 の一元的理解の誕生─」(『国際禅研究』3 号、2019 年) 5 前掲、伊吹敦「佛敎は哲學なりや宗敎なりや ─近代日本における佛敎の宗敎化と禪 宗・眞宗の一元的理解の誕生─」 6 三浦節夫「井上円了と能海寛 ─仏教近代化の先駆者として─」(『アジア文化研究所研 究年報』53 号、2019 年)、171 頁。 7 前掲、伊吹敦「佛敎は哲學なりや宗敎なりや ─近代日本における佛敎の宗敎化と禪 宗・眞宗の一元的理解の誕生─」、203-204 頁。 8 佐藤厚「井上円了のキリスト教批判 ─明治期の仏基論争における位置─」(『東アジア 仏教学術論集』3 号、2015 年)、260 頁。 9 前掲、伊吹敦「佛敎は哲學なりや宗敎なりや ─近代日本における佛敎の宗敎化と禪 宗・眞宗の一元的理解の誕生─」、207 頁。 10 井上円了『仏教活論序論』(『井上円了選集』3 巻、東洋大学、1987 年(1887))、 335 頁、「人もし哲眼を開きて宗教世界を一瞰すれば、たやすく公平無私の真理の仏 教の大海中に存するを知ることを得べし。」とある。つまり、哲学をもってすれば、 仏教の中に真理があることは明らかである。また、337 頁では、「すでに哲学界内に 真理の明月を発見して更に顧みて他の旧来の諸教を見るに、ヤソ教の真理にあらざる こといよいよ明らかにして、儒教の真理にあらざることまたたやすく証することを得 たり。」とある。哲学内に真理があり、仏教はそれに適するから、仏教中に真理を発 見する手段として哲学が有効に働いたと考えることが出来る。 11 拙稿「井上円了と「現象即実在論」の影響」(『日本思想史研究』51 号、2019 年)、64 頁。 12 前掲、拙稿「井上円了と「現象即実在論」の影響」、64-65 頁。 13 小坂國継「明治期の形而上学」(『国際哲学研究』3 号、2014 年)、96-97 頁。 14 井上克人「明治期における思想 ・ 文化 ・ 倫理の諸相」(『豊穣なる明治』、関西大学出 版部、2012 年)、20 頁。 15 前掲、井上円了『仏教活論序論』、360 頁。
16 前掲、井上克人「明治期における思想 ・ 文化 ・ 倫理の諸相」、15 頁、「つまり「真如」 と「物心」は本体と現象との関係に置かれ、「仏心は象なり真如は躰なり物心の真如 より開発する力なり」(368 頁)という言葉で始まって、更には真如と万物の同体説 を「万法是真如真如是万法色即是空空即是色」といった『起信論』的証言を使い、そ れを『起信論』の中の有名な「水波の比喩」で説明する。」 17 前掲、拙稿「井上円了と「現象即実在論」の影響」では、円了が用いていた『起信 論』の水波の比喩に着目し、円了と同様の表現を用いていた思想家や仏教者が多くい たことを指摘した。詳しくは、拙稿「井上円了と「現象即実在論」の影響」を参照さ れたい。 18 前掲、井上克人「明治期における思想 ・ 文化 ・ 倫理の諸相」、13 頁では、井上哲次郎 や井上円了が原の「仏書講義」で使用されたテクストである『大乗起信論』の思想を 受容したとされる。一方で、円了は吉谷覚寿から影響を受けたと指摘する研究もあ る。この議論については、佐藤厚「吉谷覚寿の思想と井上円了」(『国際井上円了研 究』3 号、2015 年)を参照されたい。 19 「現象即実在論」という名称を使用したのは、哲学者である井上哲次郎であるが、実 際には、実体と現象の関係を説明したのは、明治期では円了が最も早く論じていた。 詳しくは、竹村牧男『井上円了 その哲学・思想』(春秋社、2017年)を参照されたい。 20 『起信論』の水波の比喩を円了が『活論』で紹介して以降、海外の学術大会で仏教思 想を紹介する際、使用されている。詳しくは、前掲、拙稿「井上円了と「現象即実在 論」の影響」を参照されたい。 21 『活論』において聖道門に分類される仏教諸宗は、俱舎宗、法相宗、天台宗、華厳宗 であり、何れの宗派も、哲学に適合するような高度な思想を備えている。詳しくは、 前掲、佐藤厚「井上円了のキリスト教批判 ─明治期の仏基論争における位置─」を参 照されたい。 22 『活論』では主に、聖道門に属する宗派が中心に論じられている。特に重視するの は、華厳宗や天台宗の教理であった。前掲、井上円了『仏教活論序論』、384 頁、「釈 迦の目的とする真実は華厳天台の中道の理にありて、唯物唯心、有空両門はこれに達 する方便に過ぎず。」とある。 23 ラルフ・ミュラー「禅における再帰性―井上円了の禅解釈」(『国際井上円了研究』3 号、 2015 年)、98 頁。 24 前掲、佐藤厚「井上円了のキリスト教批判 ─明治期の仏基論争における位置─」、260頁。 25 このことを裏付けるように「三部作」では、寺院の数や僧侶の人数などがまとめられ ている。つまり、円了が『活論』で重視していた自身の宗派が世間で注目を集めてい ないと自覚したことは間違いないであろう。 26 鈴木大拙『書簡一 一八八八—一九三九』(『鈴木大拙全集』36 巻、岩波書店)、125 頁
27 前掲、竹村牧男『井上円了 その哲学 ・ 思想』、103 頁。 28 前掲、井上円了『仏教活論序論』、380 頁、「仏教は哲学上の宗教なること問わずして 明らかなり。すなわち知力的の宗教なり。」 29 井上円了『真宗哲学序論』(『井上円了選集』6 巻、東洋大学、1990 年(1892 年))、 198 頁。 30 こうした価値判断は、円了と同時期に活躍した思想家である清沢満之(1863-1903) の『宗教哲学骸骨』(1892)においても見られる。前掲、伊吹敦「佛敎は哲學なりや 宗敎なりや ─近代日本における佛敎の宗敎化と禪宗・眞宗の一元的理解の誕生─」、 213 頁。 31 井上円了『禅宗哲学序論』(『井上円了選集』6 巻、1990 年(1893 年))、281-282 頁。 32 井上円了『日宗哲学序論』(『井上円了選集』6 巻、1990 年(1895 年))、343-344 頁。 33 これは『活論』で、水である真如は実在、そして波は万法、つまり様々な現象が一体 であると述べられ、物心の本体が真如であるとされ紙に例えられることから、明らか に、実在が現象に内在する形式になっている。詳しくは、拙稿拙稿「井上円了と「現 象即実在論」の影響」、63 頁を参照されたい。 34 前掲、井上円了『真宗哲学序論』、224 頁。 35 前掲、井上円了『真宗哲学序論』、223 頁。 36 前掲、井上円了『真宗哲学序論』、236 頁。 37 前掲、井上円了『仏教活論序論』、373 頁、「かくのごとく論ずるときは、事々物々一 として真如ならざるはなく、微花小草もみな真如の理を具し、一滴の水も一点の雲も みな真如の理を具す。」と述べることから、あらゆるものすべてに真如が内在すると 考えていることは明らかである。 38 前掲、井上円了『禅宗哲学序論』、303 頁。 39 前掲、井上円了『禅宗哲学序論』、303 頁。 40 前掲、拙稿「井上円了と「現象即実在論」の影響」、64 頁。 41 円了は禅宗の教理は、中道宗の理論に基づいているとされる。その中道宗の理論は、 真如の理水が、現象世界の様々なものに内在すると説明されていることから、「現象 即実在論」が禅宗を考える際に有効に使われていたと見做すことが出来る。前掲、井 上円了『禅宗哲学序論』、295 頁、304-305 頁参照。 42 井上円了『日宗哲学序論』(『井上円了選集』6 巻、東洋大学、1990 年(1896 年))、 359 頁。 43 前掲、井上円了『日宗哲学序論』369 頁。 44 この「真如一元論」の特徴は、前掲、井上円了『日宗哲学序論』、367 頁に「真如は 本体にして万法は現象なり換言すれば真如は真実にして万法は権仮なり、あるいは真 如は主体にして万法は属性なり。」とある。これは明らかに「現象即実在論」を意識 した文章であると見做すことが出来る。
45 前掲、井上円了『日宗哲学序論』、360 頁、「しかるにさきに第九節に述べたる論理 によりて、ついに非物非心の真如一元論を唱うるに至る。これ実に天台の平等論にし て、これを西洋哲学に考うるに、ヘーゲルの理想論に最も相近し」。円了は西洋哲学 中でヘーゲルの思想を最も評価していたようである。詳しくは、前掲、竹村牧男『井 上円了 その哲学 ・ 思想』を参照されたい。 46 前掲、井上円了『日宗哲学序論』、368 頁。 47 前掲、井上円了『真宗哲学序論』、218 頁。 48 井上円了『禅宗哲学序論』(『井上円了選集』6 巻、東洋大学、1990 年(1893 年)) 49 井上円了『純正哲学講義』(『井上円了選集』第一巻、東洋大学、1987 年(1891 年))、 237 頁。 50 前掲、井上円了『禅宗哲学序論』、304-305 頁。 51 なお、この中道宗は、円了の説明によれば、天台宗、華厳宗、真言宗である。前掲、 井上円了『禅宗哲学序論』、293 頁。 52 前掲、井上円了『禅宗哲学序論』、295 頁。 53 前掲、井上円了『日宗哲学序論』、359 頁。 54 前掲、竹村牧男『井上円了 その哲学 ・ 思想』、67 頁によれば、『活論』では究極の 中道を説く説は、天台宗や華厳宗と考えているようである。考察した真宗、禅宗、日 蓮宗はどれも天台宗の理論に基づくとされているから、自身が重要視する仏教教理の 意義が強調されていると言えるであろう。 55 前掲、伊吹敦「佛敎は哲學なりや宗敎なりや ─近代日本における佛敎の宗敎化と禪 宗・眞宗の一元的理解の誕生─」によれば、1900 年代に入るまで、仏教の信仰の問 題は全く議論されておらず、哲学によって宗教を語るという行為がより一般的であっ たと指摘される。しかし、1900 年に入ると、仏教は私的な信仰に関わるものだと考 えられるようになると考えられていたようである。筆者もこうした意見には賛成であ る。1890 年代は『活論』に基づく記述が思想家や仏教者の間で多く見られる。しか し、円了は実践宗教に言及する以上は、そうした「私的な信仰」について論じても良 いように思われるが、「三部作」を見る限り、そうした発想は全くなかったのである。 56 円了の1890 年代の思想の影響については、前掲、拙稿「井上円了と「現象即実在 論」の影響」を参照されたい。 57 前掲、竹村牧男『井上円了 その哲学 ・ 思想』、73 頁。