田中正造におけるエコロジー思想の形成過程︵一︶
ゴ一浦顕一
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むすびにかえて 共生の思想 谷中学 谷中村廃村 共生の田心相心 思想の深化−以下、 亡国の想念以上、 鉱毒問題の激化 足尾鉱毒問題の中で 公益とは何か 政治への発・心 名主として 在地の田心想 はじめに躰羅
はじめに
ケネス・ストロングの指摘 一九七七年に英語圏で初めて本格的な田中正造伝を著したケネス・ストロング氏は、田中正造について、﹁田中は、 事実上、エコロジストにして環境保護論者︵こうした用語が使われるずっと以前に︶になった﹂と評している。ストロ ング氏によれば、正造は日本人に稀に見る堅固な意志の持ち主であり、また多くの近代日本の知識人と違って、西洋の 自由主義思想や社会主義思想の影響を受けてから自分の立場を決めたのでもなかった。従って、正造が﹁事実上、エコ ロジストにして環境保護論者︵こうした用語が使われるずっと以前に︶になった﹂のも、エコロジーや環境保護の思想 や学問を学んだ結果としてではなく、農地の鉱毒による汚染という直接的な経験に基づいてのことであった。 本稿は、このように、実質上のエコロジストにして環境保護論者と呼ばれる田中正造の思想形成過程を論じるもので ある。すなわち、いかにして田中正造はエコロジーや環境保護という用語が使われるずっと以前に実質上のエコロジス トにして環境保護論者になったのか、あるいは田中正造が実質上のエコロジストにして環境保護論者になるのを可能に したものは何であったかを探ることが本稿の課題である。 結論を予め言っておくと、それは﹁在地の思想﹂から﹁共生の思想﹂へと展開することによって可能となった。﹁在 地の思想﹂とは、﹁在地﹂すなわち﹁在住している土地﹂を基盤とする、あるいは最重視する思想という意味である。 ﹁共生の思想﹂とは、﹁共生﹂すなわち﹁異種の生物が行動的・生理的な結びつきを持ち、一所に生活している状態﹂ ︵﹃広辞苑﹄︶という意味を基に、自然や人間以外の生物、さらには自身と異なる思想や嗜好を持つ人間と共生していく思想である。正造の場合、小中村の名主として村を守るという﹁在地の思想﹂を出発点として、足尾鉱毒問題をめぐる 厳しい闘争を通して思想を深化させ、やがて谷中村民の中に自分とは異なる立場の人間の価値を発見し、それとともに 自然や人問以外の生物との﹁共生の思想﹂に達したというのが、筆者のとりあえずの結論である。 アラン・リピエッツの主張 ところで、現代フランス緑の党の理論的指導者であるアラン・リピエッツ氏は、一九九九年の著作の中で、これまで のエコロジー運動を反省して、従来の﹁グローバルに考えローカルに行動する﹂ことから﹁ローカルに考えグローバル に行動する﹂ことへの発想の転換を訴えている。リピエッツ氏の主張を基に、筆者なりに敷街すれば、次のようになる。 これまでのエコロジー運動は﹁グローバルに考えローカルに行動する﹂をスローガンに行われてきた。すなわち、宇 宙に浮かぶ壊れやすい地球、泡のように僅く素晴らしい青い地球に対する責任感から、それぞれの地域で行動するとい う﹁グローバルに考えローカルに行動する﹂ことを人々に求めてきた。たしかにこのスローガンは素晴らしい。もし全 ての人間が理想的な認識力を持っているならば、また彼らの魂や知性が、自分の一つ一つの行動がはるか離れた所で引 き起こす影響について考慮するのであれば、そして他者や自然に対する愛情によって各人の一つ一つの行動が規定され ているのであれば、このスローガンで充分である。 しかし、人間は決して完全な存在ではない。人は往々にして自身の些細な行為を積み重ねることでもたらされる結果 についてすら理解しない。広大な大気の中に毎年五トンずつ炭素を排出しても大したことはないだろうが、例えばアメ リカの二億五〇〇〇万人の住民が皆同じように毎年五トンずつ炭素を排出するならば、二億五〇〇〇万の人々は犯罪的
行為を犯すことになろう。人間の想像力の及ぶ範囲は、自分の目を塞いだ者の無分別さに等しいのである。 しかも、彼らがこのことを認識していれば、自分たちの行動を配慮するようになるとは必ずしも言い切れない。人間 は、科学によって証明されるような﹁このままの状態が続くならば地球温暖化は進み、オゾン層は破壊され、自然水は 枯渇し、膨大な廃棄物は累積する﹂という客観的判断によってのみ行動するわけでない。人々を行動に駆り立てるのは ﹁自覚﹂である。だからこそ、小さな世界、すなわち誰もが守りたいと思う自分たちの足元に広がる小さな世界、この 限りなく身近で壊れやすいローカルな空間を守るということからエコロジー運動は出発すべきである。そのことが﹁ロー カルに考える﹂ということの一つの意味である。 また、﹁ローカルに考える﹂ということは、地方地方の事情に想像力を馳せるということでもある。先進国の住民に とっては地球を守るということが第一義的な事柄であっても、発展途上国の住民にとっては経済成長や消費生活が第一 義的な事柄であるかもしれない。そうは言っても、このままでは確実にエコロジー危機が地球を襲う。それゆえ、ロー カルな事情を考慮しつつ、グローバルなルールを作成しなければならないし、また地方によっては受け入れ難いルール を、妥協と説得によって地方に受け入れてもらう必要もあるのである。その過程では︿他者への想像力﹀が必要である。 そのようなやり方が、これまで十分な成果を挙げてこなかったエコロジー運動に代わる、現実的なエコロジー運動のあ り方なのである。 この﹁ローカルに考えグローバルに行動する﹂という発想は、﹁在地の思想﹂から出発し﹁共生の思想﹂に辿り着い た田中正造が、一個人の生涯の中で体現してみせたことであった。従って、彼のエコロジー思想の形成過程を学ぶこと は、これからの現実的なエコロジー運動のためにも資するところがあろう。
本稿の構成 第一章では田中正造の思想形成過程の出発点を検討する。第一節では、六角家騒動を中心に、正造が名主としていか に﹁在地の思想﹂に導かれて行動したかを見る。第二節では政治家を志した当時の正造の政治観と、彼が当初から持っ て■いた地方自治への強い関心を検討する。第三節では、足尾鉱毒問題と出会った当時の、正造の鉱毒問題観を見る。 第二章では、正造の足尾鉱毒問題への取り組みと、その中で深化した正造の思想を検討する。第一節では、鉱毒問題 の激化に伴って生起した諸問題を紹介する。第二節では、そのような鉱毒問題の激化の中で、怒りと絶望にまみれなが ら直訴にまで至る正造の足跡を辿る。第三節では、そうした戦いの中で深化した正造の思想について検討する。 第三章では、谷中村の強制破壊という、正造にとって許し難い政府の鉱毒問題解決策と向き合う中で、﹁共生の思想﹂ に達する過程を追う。第一節では、政府による谷中村の強制破壊という解決策がいかにして出てきたかを検討する。第 二節では、正造が単身谷中入りし、村民と暮らすことによって開けてきた新しい思想的境地について論述する。第三節 では、そのような思想的境地に達することによって可能となった、田中正造の﹁共生の思想﹂を紹介する。
一一在地の思想
パレ
ー名主として
出自 田中正造は、一八四一︵天保一二︶年一一月、栃木県安蘇郡小中村︵現・佐野市︶に生まれた。父.富蔵、母.さき の子で、幼名を兼三郎と称した。田中家は祖父の正造の代から名主を勤め、代々六角家に属してきた。名主とは、町村 内の住民の有力者中、その地域の行政を任せられた代表者で、身分としては百姓であるが、一般村民よりは一段高い階 層に属しており名主の主要な仕事は村民の統制と保護、村を代表しての他村との交渉や領主への請願など多岐に渡って い塵 一八五七︵安政四︶年、父富蔵が名主から割元役に昇進したため、正造が父に代わって名主に就任した。正造一七歳 の時である。名主として正造は精力的に活動し、村の孝子を領主に推挙して章典に預らしたり、寺子屋を開設して郷党 の子弟に教育を授けたりした。その一方、正造は農業に励み、後年、 ﹁右手には鍬瘤満ち、左手には鎌創満ちて、其痕跡は今尚ほ此の如し。顕に五指の密接する能はざるもの、実に当 時に賜はりたる勲章なり﹂ と語っているような精農ぶりであった。正造は、自伝の冒頭を、﹁予は下野の百姓なり﹂という言葉で書き始めている。 正造の父富蔵は争いを好まぬ、穏やかな人物であった。彼は、六角家筆頭用人坂田伴右衛門と協力して六角家の財政建て直しに尽力し、五〇〇〇両を主家のために蓄財することに成功した。その功労によって富蔵は割元役に任命され、 父に代わって正造が小中村の名主になったのであった。 ところが、一八六二︵文久二︶年に坂田が病没すると、林三郎兵衛という人物がその跡を継いだ。正造によれば、こ の林は﹁頗る好才に長﹂けた人物で、﹁主家の有金五千両に余りあるを知り、窃かに之を私せんと欲し、巧みに策を運 らしつ∼あ﹂ったが、若君に御婚礼の予定があることを口実に、主家屋敷の普請を申し立てた。林が普請を望んだのは、 正造によれば、﹁当時幕末一般の風として、江戸表屋敷普請に関する役人原は材木諸式の買上げに就て、出入の商人共 より過多の賄賂を貧り、普請金額の三割乃至五割を私するの悪弊﹂があったからだという。富蔵・正造父子は林の普請 案に反対し、こうして六角家騒動が始まった。 六角家騒動 正造によれば、林は﹁御上の為めと號けて好策至らざる所な﹂く、村々に二〇〇〇両の先納金を申し付けたり、付加 税の一種である冠米を命じたり、御用金を課したりした。江戸中期以降の貨幣経済の発達は、元来が都市の消費生活者 である藩主や旗本といった領主層の支出を増大させることになり、貢租以外に収入の途を持たない領主層は、財政上の 不足分を領内の農民層に転化しようとし、年貢の増徴をはかった。それが農民層の抵抗を受けた場合、形を変えて、翌 年分を前納させたり、御用金として臨時賦課を多くしたり、諸々の負担を強制して財政難を乗り切ろうとした。こうし て幕末期には、領主の財政を破綻を弥縫するための領民への苛敏謙求と、それに対する領民の必死の抵抗が全国一般に 見られるようになっていた。林の措置も幕末当時に広く全国で行われていた諸施策の一つであったが、村民が不利益を
パかロ
被る措置ではあった。 しかも、林は、新規に村役人を取り立て、大久保村の医師平塚承貞を御手医師にし、また助戸村の永島藤吉を新たに 名主に任命したりした。それは、林の側から見れば、村内の反抗勢力を抑えるための村内分断策であったが、正造の側 から見れば、林が﹁さかんに墾図を逞ふ﹂した﹁不法無礼の処置﹂にほかならなかった。というのも、正造によれば、 六角家領内における名主登用は、長年にわたって﹁おのづから自治の態﹂をなして﹁不動の好慣例を形造﹂っており、 名主は村民の﹁公選﹂によって選出されていたからである。こうした﹁自治的好慣例﹂を遵奉していれば、永く領内の 平和を維持し得、あるいは格別の事もなく済んだかも知れないと正造は言う。しかし、林は﹁終に夫の自治的好慣例﹂ をも破壊し、多額の賄賂を要求して新規に村役人に取り立てたり、あるいは名字帯刀を許すなどして村内の分断をはかっパぼレ
たのであった。 こうして正造にとって六角家騒動は﹁自治的好慣例﹂を守る戦いとなった。一方、村民たちも領主権力の苛敏諒求や 村内分断・再編の試みに危機感を強め、領内各村は団結して村役人層を突き上げ、対六角家改革運動を推し進めること になった。村民の突き上げによって、小中・山川・助戸・田島・今福・稲岡六か村の名主一〇名が議定書に署名し、村 役人層は団結して闘争への決意を固めた。一八六七︵慶応三︶年四月に彼らは平塚承貞の罷免を要求、林は嘆願者総代 の名主二名を処罰したが、これに屈することなく愁訴・張訴などを繰り返し、六角家親族によって本家の家政素乱を取 り締まるよう訴えた。一方、彼らは幕府筋にも働きかけ、賄賂を用いて老中に内願を届けるところにまでこぎ付けた。 だが、この時期の幕府は崩壊寸前の状態にあり、六角家の問題を処理する暇もなかった。 幕府奉行所の訴えが捗々しく進行しない中、正造は六角家の本家・烏丸家に嘆願書を提出し、六角家の旧慣無視.破壊と不要土木などによる領主収奪の数々を列挙して林三郎兵衛の厳重処分と﹁暗君﹂主税の隠退を求めた。この弾劾的 嘆願書が林らの手に入り、正造は江戸屋敷内の牢に捕らえられた。取り調べは苛酷を極め、 ﹁吟味役畳を蹴立て払出で来り、大喝一声﹃田中兼三郎より差出したる書面は全体不敬なり、無礼なり﹄と言ひ放 て、突忽奥へ入りしかば、之れを合図に小役人共、手に手に寸鉄振り騎し、予が背部を目掛けて乱打すること数十
度、鮮血湧て衣を酒﹂
したという。また牢獄は、 ﹁其広さ僅かに三尺立法にして、床に穴を穿て大小の便所を兼ねしむるが如き、其窮屈さは能く言語の尽し得べき 所にあらず、若し体の伸びを取らむとする時は、先づ両手を床に突き、磐を立てN虎の怒るが如き状を為さざるべ からず、又足の伸びを取らむとする時は、先仰向けに倒れ、足を天井に反らして恰も獅子の狂ふが如き状を為さざハけロ
るべからず﹂
というものであった。この獄中で正造は毒殺を警戒して食事を絶ち、同志がひそかに差し入れた鰹節二本を薔って三〇 日間の飢えを凌いだという。 やがて吟味役が明治新政府の役人に代わり、処遇も改善され、第四回の訟庭で判決が下った。判決は、 ﹁領分を騒がし身分柄に有まじき容易ならざる企てを起し、僧越の建白をなせしは不届の至りなるにより、厳重の 仕置申付べくの処、格別の御慈悲を以て、一家残らず領分永の追放申付くるものなり﹂ というものであった。一方、林三郎兵衛一派の武士は﹁永の暇﹂に、平塚承貞は﹁永の領分払い﹂という両成敗であっ た。こうして六角家騒動は幕を閉じた。在地の思想 この六角家騒動で正造を突き動かしていたものは、 ﹁予や素と土百姓の家に生れ、妄りに乏を父職の後に継ぎて美果の結ぶなく、端なくも軒党原が陰謀の容易ならぬ 次第を見て、生来の一徹心黙し難く、飽く迄も彼等に反抗して、御家の為めに謀らずむば、男の意地が立たぬのみ か、萄も公共の職に在る者の一分が相済まぬと思ひ込むだが最後、風吹かば吹け雨降らば降れ、職務も財産も将た 身命をも之れが為めには犠牲に供して毛頭の未練残らず、斬ってきって斬りまくって最初の一念弦に貫き、いつか 妖雲自然と去りて、樺々たる真如の月の御領内を照破する時もやあらむ﹂ という思いであった。 名主であるということは、幕藩権力の末端に連なりながら、同時に、村民の代表者として共同体を維持する最高責任 者でもあるということであった。そして、﹁予や素と土百姓の家に生れ﹂た﹁下野の百姓﹂を自認し、同じ百姓仲間か らの﹁公選﹂によって名主に選ばれているという意識を持つ正造にとっては、この共同体の維持こそが名主としての最 重要任務であった。六角家騒動で正造を激しい抵抗に駆り立てたものは、この名主としての村に対する責任感だったの パルロ である。 六角家騒動さなかの一八六七︵慶応三︶年一一月に、正造の地元では出流山事件が発生している。薩摩藩の関東麗乱 工作を実行すべく小島四郎︵後の相楽総三、茨城県北相馬郡藤代出身︶が同志に呼びかけ、これに呼応して一五〇∼ 三〇〇人が挙兵した事件で、正造の幼馴染の赤尾清三郎や安達幸太郎・織田龍三郎らも参加していた。当時、江戸に出 府していた正造に出流山事件の発生を知らせた母さきは、その手紙の中で、
﹁思ふに好党払擁の事⋮⋮天下の大に比すべくもあらずと錐も是亦決して忽諸に附すべき儀にあらず、汝能く此旨 を体して敢て或は忘るンことなかれ﹂ と正造に自重を促しているが、正造もまた母の訓戒を諒として﹁専心此範囲内に力めむことを期﹂したという。小中村 の名主として、正造にとって何より大切なことは、出流山挙兵に参加して天下国家の問題に身を投ずることではなく、 むしろ﹁天下の大に比すべくもあら﹂ざる問題に﹁専心此範囲内に力め﹂て奔走し、林一派に抵抗して村の秩序と平和 を守ることであったのである。 また正造は戊辰戦争の際に、小中村を通過する幕軍・官軍両軍に対して、﹁公平にして些の偏する所なき﹂態度で処 したという。すなわち、敗走する幕軍に対して草鮭を与え白湯を汲み労わり励まして小中村を去らせ、追走する官軍に 対しては夜を徹して篭火を炊いたのである。それは、﹁此村を挙げて修羅の巷﹂となることを避けて、﹁村民等も村内を 戦場となるの厄を免れしを喜﹂ばせるためであった。正造は、村を守る名主として、村のことを第一に考える﹁在地の 思想﹂に基づいて行動していたのである。 しかも、同じ百姓仲間から公選によって選ばれた名主であるという意識を持つ正造にとって、村の事を第一に考える とは即ち村民の生活を守るということを意味した。それが正造にとっての﹁公共の職に在る者﹂の務めであった。そし て、正造は﹁荷も公共の職に在る者の一分が相済まぬと思ひ込むだが最後、⋮⋮斬ってきって斬りまくって最初の一念 弦に貫﹂く行動力で、六角家騒動を戦い抜いたのであった。
パめロ
2政治への発心
西洋近代思想との蓮遁 六角家騒動後、正造は母方親戚に寄寓し、六角家騒動時の借財整理に奔走する傍ら、堀込町の地蔵堂で手習塾を開い ていたが、旧友・織田龍三郎の勧めに従って東京に出た。そこで出京中の江刺県大属早川信斎︵正造と同郷出身︶と会 い、彼から江刺県行きを勧められた。これに応じて正造は一八七〇︵明治三︶年三月二六日、江刺県附属として花輪分 局に着任し、まず﹁救助窮民取調﹂を命じられ、さらに聴訟兼山林掛を命じられて事務処理に忙殺されることとなった。 こうして正造が忙しい日々を送っている中、一八七一︵明治四︶年二月三日の夜、正造の上司である権大属木村新八 郎が官舎において就寝中に何者かによって殺害された。小使の急報によって駆け付けた正造は、木村を抱きかかえて、 衣服に血が染み付くのも厭わずに介抱し、その臨終を見届けた後、聴訟という職掌柄から直ちに犯人探索の手配を進め た。 事件は未解決のままに過ぎ、正造は鹿角・二戸二郡における二八○余件の開墾地請願許可分の整理に没頭した。その 執務ぶりが認められ、開墾事務終了次第、本県詰めとする内命のあった矢先、すなわち事件発生以来四ヶ月余り経過し た六月一〇日、正造は突如、木村新八郎殺害事件の容疑者として逮捕された。嫌疑の理由は介抱の際に袴と足袋に付着 した血痕、凶行者は色白く、小紋の衣服を着きていたという木村の次男の証言が正造の衣服と似ていたこと、生前の木 村と職務上しばしば激論を交わしていたこと等々であった。 正造には身に覚えのないことであったが、正造の釈明は聞き容れられず、花輪分局獄から江刺県獄に護送され、翌春には盛岡監獄に移され、一八七四︵明治七︶年四月五日の無罪釈放まで獄中に陣吟せざるを得なかった。取り調べは不 合理かつ苛酷を極め、 ﹁鳴呼此聴訟たる花輪支庁に於て予が即答に窮すれば忽ち拷問し、聴訟、自身議論に窮すれば又忽ち拷問し⋮⋮且 予が正理を以て弾正台の審判を請求すれば忽ち色を作して拷問するが如き、生殺の権殆んど聴訟の掌中にあるかと 思はるン程にして其危険なること実に言語に絶えたり﹂ という状態であった。 ところが、一八七三︵明治六︶年に至って、﹁端なくも結構なる畳の上に移され﹂た。正造は、﹁籾ても一夜の間に地 獄にかはりて極楽となりしにはあらぬかと余りの嬉しさ﹂を感じたが、これは同年に監獄則が制定されたためであった。 正造は同室の囚人から翻訳書を借り受けて政治・経済を学ぶ一方、幼い頃からの吃音を矯正するために中村敬宇訳﹃西 国立志篇﹄を繰り返し読んで﹁舌頭の練磨﹂を行ったという。こうした読書は、正造の血肉となり、また読書の結果、 ﹁既往の生活の殆んど無意味無意識なるを悔い、将来少しく為す有らんとするの志を起﹂こした。 正造は、木村の次男が﹁田中に非ず﹂と証言したことなどにより、一八七四︵明治七︶年四月五日に無罪釈放となっ た。四年に及ぶ獄中生活は、正造をして﹁殆ど当年の小児たらしめ﹂、 ﹁村中に帰る。何事も解するものなく、村中皆之を笑ふ﹂ とする一方、 ﹁而して泰西の政度議院の設、国家経済の大意に付而は正造独り之を唱るも又之を知るもの少なく、事時に常に不
都合多し﹂
ともなった。すなわち、四年間の獄中生活により、急変する社会事情については疎い正造であったが、その間に西洋思 想に触れたことによりヨーロッパの政治・経済制度については村人を遥かに抜いていたのである。 盛岡の獄中で﹁掬ても一夜の問に地獄にかはりて極楽となりしにはあらぬか﹂というほどの経験をした正造は、新思 想の素晴らしさを身を以て体験した。それゆえ、正造は新思想を次々と実行に移していった。獄中で読んだ﹃西国立志 篇﹄から得た教訓を実行してみたり、出獄後に酒屋の番頭に就くと、その酒屋で福沢諭吉の﹁帳合法﹂を実践して、か えって店内に混乱をもたらしたり、あるいは﹁家政の憲法﹂なるものを定めて家中に遵守を求めたりした。 正造が新思想を積極的に摂取しようとし、また実行したのは、正造に封建政治への批判と二度の投獄体験、そして獄 中での過酷な取り扱いという経験があったからである。正造は六角家騒動を振り返って、 ﹁予は実に盲蛇の如し、圧制殺伐を極むる当時、而かも幕末の時、仰ぐ可きの制法なく、守る可きの規律なく、世 はかり菰と乱れて、弱肉は常に強食の為めに供へられ生殺与奪の権は身分ある者の手に握られて、身分なき者の運 命は朝夕だも測られざる闇黒の世に於て、君主を呼で暗君といひ、執権を目して好賊といひ、以て僅かに肚裡の虫 を押へむとしたるが如き、之をしも盲蛇の所為にあらずといひ得べき乎、思ふに予をして今日迄生命あるを得せし めたるは是れ万々僥倖なり﹂ と述べている。このような認識があったから、正造は近代を肯定的に捉え歓迎したのであった。そのような近代観がど のように変化していくかが、本稿の以下のテーマの一つとなる。政治への発心 一八七七︵明治一〇︶年末から翌年にかけて、正造は西南戦争の際の紙幣増発を見て物価の騰貴を予想し、田畑購入 に奔走した。地価はたちまち上昇、五〇〇円で買った土地が三〇〇〇余円になった。正造は六角家騒動のために持えた 借金を完済する一方、この利益を元手に政治活動に専念することを決意する。 ﹁こNに於いて父祖の財産は旧に復し余乃ち以謂く普通の脳力を有するものならんには一方には政治に奔走するを 得べきも如何せん予の脳力は偏癖にして一方に心を専らにせば他の一方に心を用る事能はず。如かず一刀両断の決 心を以て一身一家の利害を榔て政治改良の事業に専らならんにはと。是に於て一毛の私心万益を破るの道理に基き、 先づ姉妹の負債を返却して不羅独立の身となり、謹で一書を認め、老父の膝下に捧げて再び財産を犠牲に供し、一 身以て公共に尽すの自由を得んことを請へり﹂ 正造が父親に差し出したという書には、 一、今より自己営利的新事業の為め精神を労せざる事 一、公共上の為め毎年百二十円︵即ち一ヶ月僅々十円︶づ㌧向三十五ヶ年間の運動に消費する事 一、養男女二人は相当の教育を与へて他へ遣はす事 とあり、また、 ﹁正造には四千万の同胞あり、其中二千万は父兄にして二千万は子弟なり、天は即ち我が屋根地は即ち我がなり﹂ とも記してあった。 ここにあるように、正造にとって政治とは﹁公共に尽す﹂ことにほかならなかった。そして、正造にとって﹁公共﹂
とは、人民にほかならなかった。それは、名主としての﹁職分﹂が正造にとっては村民を守ることであったこととパラ レルである。正造は、一八八○︵明治一三︶年一〇月に執筆した﹁国会開設建白草稿﹂の中で、﹁国に政府あるは固よ り臣等人民の福祉を企図せんがため﹂と述べている。後には、﹁政治の目的は民を治するにあり﹂とも言い換えている。 布川清司氏が指摘するように、正造の言う﹁民を治する﹂とは、民衆を幸福にすることであった。従って、正造にとっ ては、民衆を幸福にすることが政治であり、その実現に努める機関が政府なのである。そして、その目的のために献身 する人間こそ政治家なのであった。民衆を幸福にするために専念するのが政治家のあるべき姿、正造の考える為政者倫
ハカレ
理だったのである。 さて、父に政治活動への専念を告げた正造ではあったが、容易に許可されないであろうと予想していた。ところが、 意に反して父親は、﹁鳴汝にして能く此言を為す、汝の志は好し、只能く其目的を達し得るや否や﹂と喜色満面で述べ、 ﹁死んでから仏になるのはいらぬこと生きているうちよき人となれ﹂ という禅僧の狂歌まで示した。正造はこの歌に感服し、斎戒三日、その実行を神祇に誓ったという。こうして正造は政 治に﹁発心﹂し、﹁政治運動に一身を投﹂ずる。 この年、すなわち一八七八︵明治一一︶年の七月、正造は栃木県第四大区三小区区会議員に選ばれる。この時、正造 は次のような誓詞を作って、職務に励むことを選挙民に誓った。﹁区会議員上任誓詞明治一一年七月一日
今般自分事第四大区三小区小中村の公選を以て第四大区三小区々会議員に選ばれ当明治十一年七月より明治十二年十二月まで議事の職務を負担せり。就ては区会憲法を始め諸規則を確守し公平無私忠誠真実の心を執り区民に代り て公益を謀るを勉むべし。此に衆人面前に於て堅く誓を立つるもの也﹂ 翌一八九七︵明治一二︶年三月には栃木県会議員選挙に出馬するも落選、八月には同志とともに﹃栃木新聞﹄を創刊 し、﹁民権謬々の文字を描﹂いて自由民権論の鼓吹に努めた。九月には﹁国会を開設するは目下の急務﹂を執筆、﹃栃木 新聞﹄に掲載した。一八八○︵明治二二︶年二月には安蘇郡選出の栃木県会議員となり、同月、東京で地方官会議を傍 聴、その際に全国の府県会議員有志と国会開設問題を討議する機会を得、三月に彼らとともに﹁国会開設建言﹂を元老 院に提出した。日本国内に自由民権運動の嵐が吹き荒れていた頃のことである。八月には栃木県下に民権結社を組織、 二三日に安蘇結合会第一回会合を佐野町春日岡山惣宗寺に開いている。安蘇結合会は一〇月三日に中節社と改称、正造 は中節社の国会開設建白書起草委員会に選ばれた。一一月一〇日には東京で開催された国会期成同盟第二回大会に出席 し、一一月一二日には国会開設建白書を元老院に提出している。 一八八二︵明治一五︶年一二月、正造は立憲改進党に入党、翌年一月は立憲改進党入党勧誘のため栃木県下各地を遊 説し、やがて栃木県は改進党の金城湯池と呼ばれるようになる。一方、栃木県会議員としての活躍も続き、一八八三 ︵明治一六︶年四月には栃木県会常置委員に選ばれ、一八八六︵明治一九︶年四月には県会議長に選ばれている。 一八八九︵明治二二︶年二月一一日、正造は栃木県会議長として、帝国憲法発布の式典に参列している。その喜びを、 正造は、 ﹁不肖幸に本県会議長たるの故を以て、空前絶後の大典たる憲法発布の盛式に参列の栄を得﹂ と記している。そして正造は、いよいよ一八九〇︵明治二三︶年の七月の第一回総選挙に臨むのである。
自治への関心 ところで、前述したように、江刺の獄以来、近代政治制度・政治思想に目覚めていた正造は、他の自由民権運動家と 同様に国会開設や憲法制定の問題に関心を寄せる一方、すでにこの時期から地方自治制に強い関心を寄せていた。 一八八八︵明治二一︶年九月の日記で正造は、明治国家の地方自治制について詳細な検討を加えている。正造によれば、 地方自治とは﹁一定の地方内に利害を同し事を治むること﹂であり、﹁自治の制度とは政府より人民に制度を委任する の制度﹂で﹁返権とも分権所有権とも申すべ﹂きものである。自治の根幹をなすのは﹁自主の権﹂であり、﹁自主の権 とは他人の干渉を受くる事なく法律を制定するの権﹂であった。 しかし、﹁自治体必ずしも自主の権を有するにあらず﹂である。というのも﹁自主権とは、詳細なる法規人民の需用 に悉応ずる能はざるを以此権を付与するもの﹂であって、﹁他は総て国家の統御を受けざる得﹂ないからである。この ように、正造は、国家全体の利益が自治体の利益に優先すると考え、﹁町村自治とは一国の法律に遵ひ人民自ら地方の 事務を行ふ﹂ことであるとしていた。すなわち、﹁自治は国家の監督を受けざるを得ず﹂、﹁国家全体の利害と自治体の 利害と抵触するときは自治体に一歩を譲らしめ国家の為め強て為さしむ﹂のである。 ただし、正造は﹁然れども国家無限の監督権を濫用せば折角の自治体も画餅たらん﹂と述べることも忘れない。そし て、 第一、人民知識の度行政を治め得るや否 第二、人民公共の事務に任ずる思想有無 第三、人民常職の外に公共に尽すの余力ありや
と三つの﹁自治の条件﹂
パロ
るのである。 を挙げ、﹁我日本人已に此不都合なし﹂であるから﹁尽すべし尽すべし﹂と地方自治を奨励す また、正造がこの時期すでに、﹁自治の気象は法律にあらずして人にあり﹂と述べていることも注目に値する。とい うのも、小松裕氏の指摘するように、正造は地方自治を、﹁制度としての自治﹂と﹁精神としての自治﹂のニワから成 り立つものと考え、﹁精神としての自治﹂を﹁制度としての自治﹂の土台をなすものと位置づけていたからである。 すなわち、正造によれば、﹁自治制は活物なり、法律は狭くも広くも活用法による﹂のであり、﹁自治自主皆活物﹂で あるから﹁法律の活用法甚だ活発ならざるべからず﹂なのである。 正造は﹁じぶんでやるせいしん﹂を持たず、﹁ひとばかりたよるこじきこんじょう﹂を嫌った。晩年のものであるが、 一九〇七︵明治四〇︶年四月九日の島田栄蔵ほか宛書簡には、 ﹁しょくんはひとばかりたよるこじきこんじょうになってはこまります。どこまでもじぶんでやるせいしんはなく さないようにねがいひます。よわい心ではいけぬ﹂ とある。正造にとって、これこそが﹁制度としての自治﹂の根幹をなす﹁精神としての自治﹂だったのである。 それゆえ正造は、自治の精神が日本人に欠如していること、とりわけ正造の地元がそうであることを許さなかった。 足尾鉱毒事件のさなかに書かれた自伝の一節には、 ﹁予は今別に付記して序ながら読者に訴へむと欲するものあるを覚ふ、則ち種々出来事の間を潜り来て今猶予が記 憶を去る能ざる関東問題にぞある、第一関東の人種論是也、潜かに思ふに関東の風や自ら狭小些隆の天地を造てキチンと其裡に身仕舞をなし傭仰只だ己が意に適するを以て最上の処世法となし、敢て他と折衝して奇を四方に策す るが如き快活の肌合無く、万事箱庭主義に養成せられ⋮⋮機根小なる者の特性として、他の誘惑に嵌り易く、他の 圧伏に屈し易く、総ての場合に於て事大的卑怯心に檎了せらるるに至っては、一指猶能く泣かしむべく、笑はしむ ベく、怒らしむべく、喜ばしむべく、浴々たる元々終に是れ土偶のみ、雛人形のみ﹂ とあり手厳しい。 自治の精神を重要視したがゆえに、正造は、自分で行動しようとしない傍観者的態度を嫌った。一八九八︵明治三一︶ 年八月八日付の書簡には、 ﹁昨秋昨冬中漸く青年中有為之志士を東京へ呼出し候へば、忽ちにして倦み、忽ちにして細君の病気の理由と大根 蒔苗代田持への申条を以て帰国いたし、いかに差止め候とも聞入なく、逃げて帰る青年あり。可悲⋮⋮今の青年諸
氏は此無気力。鳴呼﹂
とあり、一八九九︵明治三二︶年五月二日付の書簡では、 ﹁只傍観せらるNのみとせば、我下野、人なきなり、又関東、人なきなり﹂ と述べられている。3公益とは何か 足尾鉱毒間題との出会い 田中正造は、一八九〇︵明治二三︶年七月一日に行われた第一回衆議院議員総選挙に栃木県第三区から出馬して当選 を果たし、翌一八九一︵明治二四︶年一二月一八日に第二回議会で初めて足尾鉱毒問題を取り上げ、﹁足尾銅山鉱毒の 儀につき質問書﹂を提出した。 ﹁大日本帝国憲法第二七条には日本臣民は其所有権を侵さるNことなしとあり、日本坑法第一〇款第三項には試掘 若は採製の事業公益に害あるときは農商務大臣は既に与へたる許可を取消すことを得とあり、鉱業条例第一九条第 一項には試掘若は採掘の事業公益に害あるときは、試掘に就ては所轄鉱山監督署長、採掘に就ては農商務大臣既に 与へたる認可若は特許を取消すことを得とあり、然るに栃木県下野国上都賀郡足尾銅山より流出する磧毒は群馬栃 木両県の間を通ずる渡良瀬川沿岸の各郡村に年々巨万の損害を被らしむること、去る明治廿一年より現今に亙り毒 気は愈々其度を加へ、田畑は勿論堤防竹樹に至るまで其害を被り、将来如何なる惨状を呈するに至るやも測り知る 可らず、政府之を緩慢に付し去る理由如何、既往の損害に対する救治の方法如何、将来の損害に於ける防遇の手順
如何
右議院法第四十八条に依り及質問候、国務大臣は議院に出席して答弁あらんことを望む﹂ 足尾銅山は、幕末には廃山同様であったが、↓八七七︵明治一〇︶年に古河市兵衛が経営権を取得後、急速に近代化 し、一八八四︵明治一七︶年には愛媛県の別子銅山を抜いて全国一の銅山となった。反面、飛躍的な産銅量増加は、煙害と製錬用薪炭材の濫伐による足尾山林の荒廃を招き、大洪水を頻発させた。また銅山は、大量の廃石や鉱津、有毒重 金属を含む酸性廃水を垂れ流した。そのため一八八五︵明治一八︶年頃から鮎の大量死や鮭の漁獲量の激減など渡良瀬 川の漁業被害が顕在化するとともに、流域の農地と農作物に鉱毒被害が発生した。特に一八九〇︵明治二三︶年八月の 大洪水によって鉱毒被害が深刻化、稲作にも被害が出たため、被害農民による鉱毒反対運動が開始された。同年一二月 には長祐之が﹃下野新聞﹄に﹁足尾鉱毒に就て渡良瀬川沿岸の士民に訴ふ﹂を寄稿して、﹁丹碧﹂︵鉱毒︶の被害を訴え た。同じ一二月、栃木県吾妻村が知事に製銅所採掘停止を訴える上申を行い、これを嗜矢として鉱毒反対陳情活動が展 開された。栃木県と群馬県の両県議会も知事に鉱毒対策を建言した。こうした中、先の正造の議会質問がなされたので ある。 第二議会での正造の質問に対して、政府は議会解散後、官報で答弁した。それは、 コ、群馬栃木両県下渡良瀬川沿岸に於ける耕地に被害あるは事実なれども其被害の源因に就ては未だ確実なる試 験の成績に基ける定論のあるにあらず、⋮⋮未だ何物が其主因たるや又副因たるやに至ては今日迄の調査の成述に
於て確定せず﹂
としながらも、 ﹁三、本大臣は明治廿三年十二月中既に鉱山局長和田維四郎、農商務省嘱託工科大学教授工学博士野呂景義及農商 務技師試補山際永吾に足尾銅山へ出張を命じ実地の情況を検査せしめたるに、鉱業人は鉱業上為し得べき予防を実 施し尚ほ独米両国より三種の紛鉱採聚器を購求し、各種合して二十台を新設し一層鉱物の流出を防止するの準備をなせり﹂
というものであったため、正造は翌一八九二︵明治二五︶年五月二四日、第三回議会に﹁足尾銅山鉱毒加害の儀につき 質問書﹂を提出して、 ﹁答弁書中﹃其被害の原因に就ては未だ確実なる試験の成績に基ける定論のあるにあらず﹄云々とあり、然れども 之唯一時の遁辞たるに過ぎず、何となれば同文中末段に至ては﹃鉱業人は鉱業上為し得べき予防を実施し尚ほ独米 両国より三種の紛鉱採聚器を購求し各種合して二拾台を新設し一層鉱物の流出を防止するの準備を為せり云々﹄と 陳じ暗に鉱毒の有害なるを自認したればなり、如斯農商務大臣の答弁は前後撞着曖昧模稜遂に其要領を得る能はず﹂ と政府答弁の矛盾を衝くとともに、 ﹁栃木県上都賀郡足尾銅山は近年工業の盛大を致し、同山より流出する鉱毒は群馬栃木両県の間を通ずる渡良瀬川 沿岸七郡二八か村に跨り巨万の損害を被むらしめ、尚ほ毒気は年を追て愈々其度を加へ、現今に至ては之が為めに 田畑の殆んど不毛に至れるもの大凡一,六〇〇余町に及び、其他尚ほ害の及ぶべき土地甚だ多し、加之渡良瀬川堤 防の芝草漸次枯死するが為に一旦洪水の氾濫するあらば意外の崩壊を来すべく、且つ渡良瀬川の魚族は頓に其数を 減じ現今に至ては殆んど其跡を絶ち、為めに漁業を以て生計を営むもの明治↓四年には二,七七三人なりしに一二 年には七八八人に減じ、現時は殆んど皆無の有様となれり、而して鉱毒の加害は膏に此に止まらず、引て飲料水に 波及し沿岸人民の衛生を害する等其惨状実に見るに忍びざるなり﹂ と被害の状況を説明した。 そして、同質問の理由に関する議会演説では、 ﹁弦に住家を為して居る人民は此山が繁昌して来て此山の害毒のために其土地に居ることが出来ぬ場合が出来て来
た、之を憲法上から申しますと法律の定める所に依って納税の義務を負担する人民は此の納税を納めることが出来 なくなって来たと云ふ場合があるで、斯様な場合に於ては政府は之を処分しなければならぬのである⋮⋮之を処分 するにも亦緩急があって成丈早く処分をしなければならぬのである、一日遅く処分すれば一日損害を被ふることが 多いので、軽率にやって貰ひたいのではないが、早く処分せぬと云ふことは最も疑しいことである﹂ と﹁納税の義務を負担する人民は此の納税を納めることが出来なく﹂なるので一日も早い政府の処置を求め、さらに ﹁農商務大臣は⋮⋮愚論を吐いて曰く、古河市兵衛の営業と云ふものは如何にも国家に有益のものである、大きに 御世話だ、如何に国家に有益なりと錐も有益は有益、有益を妨げるわけではない、此方は租税の義務を負担して居 ります、古河より先きに住み通しをして租税の負担をして居る人民が、今日其土地に居ることが出来ない、祖先伝 来の田畑を耕すことが出来ず、祖先伝来の田畑が実らなくなったと云ふ事実と比較が出来るものでは無い﹂ たとえ足尾銅山が国家に有益であろうとも、納税の義務を負担している人民の保護を優先すべきことを訴えた。 この正造の質問に対する政府答弁書が、 ﹁足尾銅山より流出する鉱毒の群馬及栃木両県下に跨る渡良瀬川沿岸耕地被害の一原因たることは試験の結果に依 りて之を認めたり、然れども此被害たる公共の安寧を危殆ならしむるが如き性質を有するものにあらざるのみなら ず、且其損害たる足尾銅山の鉱業を停止せしむべきの程度にあらざるを以て鉱業条例第十九条に拠り鉱業の特許を
取消すべき限にあらず﹂
﹁帝国憲法第二一条には﹃日本臣民は法律の定むる所に従ひ納税の義務を有す﹄とあり、其第二七条には﹃日本臣 というものであったため、正造は六月一四日、﹁足尾銅山鉱毒加害に関する農商務大臣の答弁につき質問書﹂を提出、 と、民は其所有権を侵さるることなし﹄とあり、然るに今群馬栃木両県下の人民は納税の義務を有する田畑を侵害せら れ将に塗炭に苦むの惨状を呈するにも拘らず、農商務大臣は尚ほ之れを以て公共の安寧を危殆ならしむるものにあ らずとなし、且鉱業を停止せしむべきの程度に非らずと云へり、然らば農商務大臣の所謂公共の安寧を危殆ならし むるとは如何なるものを云ふか、又鉱業を停止せしむべきの程度に非ずとは何を以て標準となしたるか﹂ と、憲法第二一条の納税義務と二七条の所有権不可侵条項を根拠に、政府答弁書に言う﹁公共の安寧﹂の意味を問い、 さらに同質問の理由に関する議会演説では、 ﹁地方の公共の安寧に害ありと認めぬから、未だ之を停止するの程度に至らぬと云ふことが文章の中にござります が、公共の安寧を害するに至らぬと云ふのは如何である、既に害を受けて居るものは何万を以て数ふる程であって、 其田畑の町歩と云ふものは十何里長い間、二郡二八か村で、町歩は一,七〇〇何町歩、是は直接の被害であって其 他害の及びました所と云ふものが沢山あるにも拘らず、是が公共に害ありと見認めない安寧を害すと見認めないと は、何を以て之を謂ふか、余り苛ひ事実の差でござります﹂ と述べ、現実に﹁公共の安寧に害﹂が及んでいることを訴えた。 公益とは何か? 以上に見たように正造は、帝国憲法第二一条の納税義務と第二七条の所有権不可侵条項を盾に、﹁公益とは何か﹂を めぐって政府と争っていた。 正造は、納税を義務であると同時に権利であり、さらに名誉とすら考えていた。先の自治について論じていた
一八八八︵明治二一︶年九月の日記の中で、正造は、 ﹁租税多く納るものを尊敬するは自治の象なり。いかなれば古来の人情に問ふて其幾分をしるべきなり。旧幕時代 租税を多く収むるものを高持と称せり。村落の小民之を尊重せり。其意蓋し自家の負担をして此富者之負するの気 の毒心を以ならん。故に工商の富者を尊むの風は地を払ふて空し。戊辰已降追々農工商の別なく租税の賦課均一に 帰するを以農工商を問はず多く租税を納むるものを尊敬するの風俗漸く民間に発見せり。租税を多く納むるものを
尊むは自治の精神なり﹂
と記している。正造によれば、納税によって初めて自治は可能となり、それゆえ、その税を多く納める者は、それだけ 尊敬されるのである。 そのような納税の義務が憲法に明記されている以上、その義務を日本臣民が果たせるように、政府は保障しなければ ならない。 ﹁政府は何を以てか此臣民に対し憲法を守るの幸福を与へざる、法律を守るの幸福を与へざる、被害不毛の地と錐 も今に納税の義務を負担するあり﹂ のである。しかも、そのような納税を可能にするために必要な所有権不可侵条項も、憲法第二七条によって保障されてい た。 ﹁帝国憲法二七条には日本臣民は其所有権を侵さるることなしとあり、然るに四県下被害地の人民は鉱毒の為めに 田宅を奪はれ明かに其所有権を侵さるるものなり、政府は此惨憺たる鉱業をして今に之を停止せざるの理由如何﹂ 正造によれば、﹁鉱毒浸漸の結果﹂﹁荒廃地を生ずる﹂ことは、第一に﹁国家の税源を減殺﹂することであり、第二に﹁地方経済を素乱﹂することであった。﹁被害者の納税高は加害者の納税高に幾十倍の多き﹂に上り、また﹁被害段別 四万余町の田宅は万世無尽の財源﹂なのである。そして、﹁鉱業条例第一九条第一項には試掘若くは採掘の事業公益に 害あるときは、試掘に就ては所轄鉱山監督署長、採掘に就ては農商務大臣既に与へたる認可若くは特許を取消すことを 得と明記﹂されているのだから、﹁政府は此公益に大害ある鉱業を停止﹂して、被害民および被害地の﹁財源を保護す るの義務﹂がある。すなわち、政府は、﹁被害地十余万の人民﹂に﹁帝国憲法の庇護を受﹂けさせて、被害地の﹁所有 者の権利と居住人の生命とを保護﹂しなければならないのである。 これに対し政府側の﹁公益﹂観は、一八九二︵明治二五︶年二月一〇日の﹃東京日日新聞﹄に掲載された鉱山局長和 田維四郎の﹁足尾銅山鉱毒事件と農商務省﹂と題する見解に典型的に示されている。 ﹁世人往々公益を害する廉を以て鉱業を停止すべきものなりと云ふものありと錐も斯の如き害は公益の害と言ふべ きものに非らず抑も公益の害とは人命居住交通等の危害の如く賠償に依て救済し得べからざるが如き公安の害及び 被害巨大にして到底賠償し得べからざる公利の害を合せて公益の害と云ふものなり然るに渡良瀬川沿岸の被害は仮 りに足尾銅山より流出する鉱物の為めなりとするも足尾銅山より生ずる公利は被害地の損害より遥に大にして充分 に損害賠償に依って救済し得らるべきものなり﹂ すなわち、﹁足尾銅山より生ずる公利は被害地の損害より遥に大﹂なのである。この﹁足尾銅山より生ずる公利﹂とは、 単に生産額にとどまらず、輸出による外貨の獲得や軍需製品をはじめとする内需全般にわたるものであった。明治政府 にとって足尾銅山は、殖産興業政策の柱の一つとして、また重要な外貨獲得産業の一つとして、さらに日清・日露戦争 を遂行するため兵器生産などに必要な戦略物資として、政策的に保護育成されるべき産業なのであった。政府と正造の
﹁公益﹂観は噛み合うことなく、政府は足尾銅山の操業を決して停止させようとはしなかった。
三足尾鉱毒問題の中で
1鉱毒問題の激化 永久示談 第三回議会における質問の後しばらく、正造は議会で鉱毒問題を取り上げなかった。理由は日清戦争である。正造は 後に、 ﹁時偶々日清戦争に際せるを以て挙国一致の必要より本員等亦政府に対する質問は暫く柾て中止することとし力めて官民の協鐵を図れり﹂
と述べている。 しかし、この日清戦争中、足尾鉱毒問題は一段とエスカレートした。第一に、いわゆる永久示談が進んだことである。 第二に、山林濫伐により大洪水が頻発するようになったことである。第三に、鉱毒被害の激化に伴い、﹁非命の死者﹂ が出るようになったことである。以下、順に見ていこう。日清戦争中、﹁壮丁出陣の不在を窺ひて日々被害町村に出没し老夫幼童を威嚇して自己随意の契約証を作りて之れに 盲印を押さしめ、以て鉱業人の為めに謀らんとす﹂と、被害民と古河との間で、賠償金による永久示談の契約が進んだ。 正造が日清戦争終了後、再び議会で鉱毒問題を取り上げたのは、一八九六︵明治二九︶年三月の第九回議会において であったが、それは永久示談問題が抜き差しならぬものになっていたからである。この議会に正造が提出した﹁足尾銅 山鉱毒に関する質問書﹂では、 ﹁近来聞く所に依れば政府は銅山の鉱主古河市兵衛を庇護し、郡吏等を使咳して其流毒を蒙むるべき土地所有者に 対し田畑一段歩に付各三四円宛の金を与へ、而して爾後永遠該毒に関して苦情を申し立て間敷旨の書類を認めて強 制的に之に捺印せしむるの処置を取れるものの如し﹂ と述べている。 なぜ永久示談が問題かと言えば、それは一時の利益と引き換えに将来の損害を永久に承諾することになるからである。 すなわち、 ﹁同地方質朴の人民が其鉱毒よりして生ずる眼前の損害には頗る熱心に着目するも、其将来の損害には比較的に注 意すること薄きを幸として若干の金を与へて之を誘惑し、依て以て将来に対する残忍の誓約を為さしめつつあるは 実に不仁暴戻の沙汰と言はざるべからず﹂ のである。﹁永世苦情申さぬ﹂と﹁示談にて相定むる﹂ことは、﹁法律上甚だ不都合﹂なことであり、﹁被害人民はよろ しく其苦情を政府に達し﹂、政府をして﹁田畑の免租及損害を償﹂わさせるか、﹁もしくは古河の営業を停止﹂させるか、 ﹁二途に外無之﹂のである。
しかし、古河からの﹁永久示談﹂攻勢に、被害民は利己心や目前の利益に釣られ契約してしまう。正造は鉱毒反対運 動の足並みの乱れを警戒しなければならなかった。 必ずしも正造は、利己心を頭から否定していたわけではない。一八九四︵明治二七︶年四月の日記には、
﹁○ケ人的
箇人主義は国家主義に対していふ。箇人の幸福は集って国家の利益となるが故に、箇人の権利を伸張すべしといふ 主義なり。流れて無政府主義とならざるの注意を要す。○利己
利己主義は前の箇人主義の如く政治的に用ゆるの語にあらずして処世の主義なり。私利集って公利となるが故に各々 左右を省みずかせぐべし﹂ とある。私利が集まって公利となるのだから、個人の幸福が集まって国家の利益となるのだから、各々左右を省みず稼 ぐべきであると正造は言うのである。また人は自己の利益を第一に、その上で他人のために尽くすべきである。すなわ ち、 ﹁くれぐれも人のためにあらずして、自己のために尽すべきなり、又天地のために尽すべきなり、村中のためにも 尽すべきなり。然れども自家の第一にためたるを本とせざるべからず﹂ のである。ただし、﹁社会は利益の団体/国家は道徳の団体﹂とも、正造は述べている。私利の追求は、利益の団体である社会 では奨励されるが、道徳の団体である国家では別の配慮が必要となるのである。 ﹁金を取るべからず。土地の権利を復せ。金少しく来れば騒ぎ、毒多くも驚かず﹂ ﹁広大なる鉱毒被害地の損害賠償と権理の躁躍に伴ひ町村自治の破壊堤防の増築渡良瀬河身改良等尤も大切なる五 大問題目前に横はれるを打ち忘れ、微々たる一免租の為めに満足せる如きは百年の大計を過まる事と存ぜられ候。 宜しく憤然豚起国家の為め益々御尽力素志の貫徹を期せられんことを切に奉祈候﹂ 事が国家問題である以上、私利の追求よりも、﹁権理﹂や﹁自治﹂への配慮が必要なのである。 また、私利のみを追求することは公徳に反することでもある。 ﹁好い地面でも肥えて居る土地でも又実に国家の宝という程の大切な土地でも、他人のものだから悪くなるのは構 わない、こういう公徳の欠けた不都合のことをしてはならぬ﹂ のである。 それゆえ正造は、この時期、方々に手紙を書いて、 ﹁此国家問題は実に大切に候へばくれぐれ小細工大無用に候。あくまで正義御主張被成下度候。⋮⋮我々は行政処 分を請ふの外無之候。正々堂々たるべし﹂ ﹁請願之要旨は憲法之保護を受くるの一ヶ条を以て足れり。其内に損害は含み居り候間、右に御唱導に而可然、只 小事のため地方に心を取られるに困り申候﹂ と鉱毒反対運動の足並みの乱れを整えねばならなかった。正造によれば、示談契約による金銭的・一時的解決を求める
べきでなく、 である。 ﹁あくまで正義﹂を主唱して﹁行政処分を請﹂ い ﹁憲法之保護を受くる﹂ことを求めなければならないの 山林濫伐 しかも、この年七月から九月にかけて、三度にわたって渡良瀬川が氾濫し、大洪水となった。翌一八九七︵明治三〇︶ 年二月二六日の第一〇回議会に正造が提出した﹁公益に有害の鉱業を停止せざる儀につき質問書﹂には、 ﹁足尾銅山の鉱業伸拡するに随ひ渡良瀬川水源の樹木を濫伐すること益々多く水源酒養の道今や為めに全く絶え、 之に因りて土砂流出河身塞塞舟揖往来の便亦自ら欠け洪水の氾濫十年前に数倍せり﹂ とある。すなわち、古河が渡良瀬川水源の樹木を濫伐したために、洪水は十年前の数倍となった、と正造は言うのであ る。 正造によれば、古河は﹁古来斧を入れない処の深山を一万町も之を濫伐させて、さうして水源を澗らす種々なこと﹂ をし﹁山林を濫伐して山を禿にするばかりでな﹂く、さらには﹁銅山の製鉱所の煙毒と云ふものが⋮⋮木ばかりではな い、竹、草、苔と云ふものまでも奇麗に之を枯してしまふ、煙の中に一種の灰が混って居る、此灰が触れると忽ち葉が 枯れる﹂のである。そもそも﹁山の腹面と云ふものは、木の根を以て椋椙の根の如く綴ぢて居って当に堕ちんとする土 地を根で圧へて居る、崩れんとする巌を根で以て圧へて居る﹂ものであるのに、﹁之を段々伐ってしまった﹂のである から、これから﹁四五年も経ちますれば、此根が腐ってしまへば、必ず山が崩れて如何なる災害が来るか分らぬ﹂ので あり、﹁今日の所で唯後来恐れますのは、此山が崩れると云ふことは一度はある﹂のである。
こうして正造によれば、﹁日本の洪水は日本の洪水は外の国の洪水と違ふ﹂ということになる。すなわち、 ﹁日本の洪水は山林濫伐と云ふものが十中の七八を占めて居る。⋮⋮山林の濫伐をする、山林の濫伐が山を荒らす、 洪水が俄にやって来る、堤防を壊す﹂ のである。 非命の死者 しかも正造の耳には、この頃、被害地における毒食の噂まで入ってきた。一八九六︵明治二九︶年九月一五日付の山 崎啓三郎宛の書簡には、 ﹁聞く所にによれば、其猛毒に気付かずして往々浸水せし食物を口にし、為に劇症を発する者少からざる趣驚入申 パポロ
候﹂
とある。 正造は早速、一八九七︵明治三〇︶年二月二六日の第一〇回議会に提出した﹁公益に有害の鉱業を停止せざる儀につ き質問書﹂で、この問題を取り上げ、 ﹁鉱毒の為めに耕地を失ひ貧困窮迫に駆られて衣食住を欠くと川魚野菜の欠乏より営養を減じ、加之飲食物の激変 に因て身体健康を害する幾多の人民は如何にして之れが生命を全ふせしむるや⋮⋮政府は如何にして被害人民の生 命財産権利を回復せんとするや﹂ と告発した。被害民の中には、まず﹁毒と云ふことを知らずして喫べる者が大分﹂いるし、﹁中には知って居っても貧乏に駆られ て之を食ふもの﹂もあって﹁実にひどい有様﹂である。あるいは、獲った魚に毒が混じっていると知られれば売れなく なるから、育てた農作物が毒を含んでいると知られれば売れなくなるから、毒がないことを証明するために、あえて毒 の入った魚や農作物を客の前で口にする者もいた。その他、 ﹁⋮⋮婦女の乳汁を減じ、或は水に入りて手足欄れ、或は毒水に晒らしたる竹木草を焚きて顔面の荒るる等の種類 幾んど枚挙に逞あらざらんとす﹂ であった。鉱毒問題は被害民の生命に関する問題となったのである。﹁人命に関する点においては誠に国家の問題にし て、誰れか之を拒むものなからん﹂。 正造が一八九九︵明治三二︶年三月六日の第一三回議会に提出した﹁足尾銅山鉱毒事変再質問書﹂には、現地調査に よる﹁非命の死者﹂の数が挙げられている。それによれば、
生死比例被害激甚地接続の無害地日本全国
人口一〇〇人に対する出産一・八五三・四四三・○八
人口一〇〇人に対する死亡五・八七一・九二二・二〇
であった。しかも、 ﹁人民今毒されて生命に害あり、政府は却て衛生に害あるを知らしめざることを訓令し、且つ多年の被害を忍びて 租税を収むる良民を憎み剰へ其貧民の権利及名誉を侵害されつつあるものを見ること尚病馬の弊死を見るが如し﹂ という状態である。正造は、この事態を、 ﹁暴威好商のために被害激甚地の小児死亡せしは即ち殺されたると同じ。之を等閑にせば人類社会にあらず﹂ ﹁凡そ人類同胞の境遇たるもの、此非命の死者ありとききて、誰れか之を悲まざるものなからん。若し之を悲まざ るものありとせば、之れ悲まざるにあらずして、しらざるにあるのみ﹂ ﹁人の死を見る、犬猫の死を見るよりも冷かなり。賄賂の悪弊、人心の腐敗極まれり と嘆き、それゆえ、 ﹁小児死する、尚犬猫の死したる程にも悲しまず、人の殺さるるものありとも我懐に暖なれば頓着なし。人は死ね、 我が懐に暖かなり。我は智者なり、鉱毒請願人は愚なりと云ふものは、即ち自身も犬猫同然の根性なり。憐れ、諸 君の力により人類社会は獣類社会との区別を立てたきものは来れ﹂ ﹁鉱毒加害のために小児の多く死するものありと云ふを聞きながら、犬猫の死んだ程にも悲しまずとせば、之れ其 の自身も犬猫同然ならん。何卒して此人類社会の汚名一洗いたし度ものに候。希くは四方の志士青年を御励しあれ﹂ と激を飛ばさざるを得なかった。
2亡国の想念
亡国論被害民が
﹁非命﹂に弊れ、それでも政府は問題を解決しようとせず、しかも人々が無関心であるのを見て、正造は﹁亡国﹂という想いに捉われるようになる。一八九九︵明治三二︶年二月一二日付の川俣久平宛書簡には、 ﹁先刻我国亡滅に近し、死に水取りに来らるべしと申上候は誤りに候。実は最早亡びたるのちの国なり﹂ とある。 そして、翌一九〇〇︵明治三三︶年二月二二日、川俣事件が発生した。足尾銅山の鉱毒被害に耐えかねた被害民が大 挙請願のため上京しようとしたところ、それを探知した警察と揉み合いになり、結果、六七名が兇徒嘱聚などの罪に問 われた事件であるが、事件発生の翌日一四日から一五日にかけて、正造は、﹁院議を無視し被害民を毒殺し其請願者を 撲殺するの義に付質問書﹂・﹁警吏大勢兇器を以て無罪の被害民を打撲したる義に付質問書﹂・﹁政府自ら多年憲法を破殿 し嚢には毒を以てし今は官吏を以てし以て人民を殺傷せし義に付質問書﹂を立て続けに提出した。 二月一七日、正造は﹁亡国に至るを知らざれば之れ即ち亡国の儀に付質問書﹂を提出。それは、
﹁民を殺すは国家を殺すなり
法を蔑にするは国家を蔑するなり
皆自ら国を鍛つなり
財用を濫り民を殺し法を乱して而して亡びざるの国なし、之を奈何右質問に及候也﹂
というものであった。 正造によれば、﹁我日本が亡国に至って居る﹂のである。なぜなら、﹁民を殺すは、国家を殺すなり、法を蔑にするは 国家を蔑する﹂ことであり、﹁民を殺して、法を素して、さうして亡びないと云ふものは、未だ曾て私聞かない﹂のである。すでに見たように、正造にとって国家とは政府ではなく、﹁吾々﹂すなわち国民だったのであるから、﹁人民を殺 す、人民を殺すは己の身体に刃を当てると同じこと﹂であり、﹁自分の大切なる所の人民を自分の手に掛けて殺すと云 ふに至ってはもう極度で、是で国が亡びた言はない﹂ではいられないのである。 そもそも大挙請願上京は﹁無罪なる人民ー被害民−病気である人間が殺されないやうにして呉れろと云ふ請願﹂ であるのに、﹁畢寛此被害地の人民が大勢出て来るのは悪いとは何である﹂のか、﹁こちらが殺されるのである1殺さ れる者を不穏当と云ふことは何事である﹂。 ﹁杖一本持って来ない、一本の兵器も持たない人民にサーベルを以て、いきなり柄城をして切って掛って、それで 逃げる者を追ふと云ふに至ってはー追ふも追ふ、二里も追駆けるー一里も追って往って胴って、幾人も掛って 口の中へ砂を摺込み泥を摺込み眼をほじくって、片眼っごにしたと云ふ残酷もございますぞ、諸君、眼球を挟り抜 いたのでございまする﹂ ここで議場に笑い声が起こってしまっているのは、議員たちの想像力の欠如を露呈して余りある。 さらに一九日、正造は﹁良民の請願を目して兇徒と為すの義に就き質問書﹂を提出、 ﹁一、鉱毒被害地人民は明治一二年より一七年間の永き惨苦の中に在て納租の義務を負へるものなり、之れ良民に
あらずして何ぞ
一、鉱毒被害地に住し身体衰弱父母疾病子弟死滅の中より兵役の義務に応ず、良民にあらずして何ぞ 一、数十年間名誉及生命権利財産を侵害せられ之を回復せんが為め屡々秩序ある請願を為す、是れ良民にあらずして何ぞ、之を兇徒と呼ぶ、其理如何 一、天下の良民は政府之を保護すべき貴重なる我が天皇陛下の臣民なり、此貴重なる臣民にして此悲境に沈倫 する被害民に名くるに兇徒を以てす、抑も何等の理由ぞ、天下若し此の如き理由ありとせば明に之を答へよ﹂ と、川俣事件と被害民逮捕の不当を訴えた。 翌二〇日にも、正造は﹁内務省は陛下の臣民を虐殺するかに付質問書﹂を提出、さらに二三日には、﹁答弁書議院法 違反の義に付き質問書﹂・﹁鉱業を停止せざる義に付質問書﹂・﹁政府は常に公の責任を有せざる義に付質問書﹂.﹁鉱業を 停止せず地方制度の破れたるを回復せざる義に付質問書﹂・﹁数十万人民の生業を停止して之れに害を加ふる鉱業を停止 せざる義に付質問書﹂・﹁各地森林払下の代金が其伐木せる跡に苗樹を植ゆる経費の半額にも足らざる怪しむべき義に付 質問書﹂・﹁毒流の根源を止めず伐木を禁ぜず河川を破壊の儘にして改築せざる義に付質問書﹂.﹁多大の水産を頽廃せし め之を回復せざる義に付質問書﹂・﹁鉱業を停止せず且つ免租の継年期を許可せざる義に付質問書﹂.﹁足尾銅山附近群馬 県サーリ官林不正下戻しの儀に付質問書﹂・﹁国家歳出の分捕を主義とし人権を無視せんとする義に付質問書﹂.﹁財政を 素り及び公私有の財産を減じ而して歳入財源の不足を唱ふる義に付質問書﹂・﹁政府は多年鉱毒の人命加害の質問の対し 詐欺の答弁をなしたる義に付質問書﹂・﹁故らに加害者古河市兵衛に縁故あるものを地方官に任じて被害民を殺し尽さん とする義に付質問書﹂・﹁鉱毒被害民の病躯中にあることを知りつつ之を虐待せし義に付質問書﹂.﹁政府は特に関八州の 人民が従順なるを侮り各所に於て無量数十万町の山林を横領し之を愛する所の縁故に与へ、一方には己れが利欲のため に六万町余の有租地を挙げて砂漠となすを揮らず、終に其の被害民を毒殺し及殺傷せし義に付質問書﹂.﹁海外移住の勧 誘を為しつつ却て帝国本土の廃滅を助成する儀に付質問書﹂・﹁官吏我慾の為めに学理上の思想を失ひたる儀に付質問書﹂.
﹁螢穀の下に直接鉱毒の侵害あるを知らざるかの儀に付質問書﹂・﹁政府が皇室の尊栄を冒漬し憲法を無視するの甚だし き儀に付質問書﹂・﹁我等被害民を救へよ然らざれば之に死を与へよとの請願に対し、之れに暴行を加へ殺傷せしめしは 何等の理由に出でたるかの儀に付質問書﹂・﹁其源を清めず其の末を修めんとする右の義に付質問書﹂・﹁故らに良民を殺 傷するを謀りたる義に付質問書﹂・﹁鉱毒被害地無政府に付ての義に付質問書﹂と計二四通の質問書を一挙に提出した。 正造の凄まじい怒りが感じられる。 議員辞職 川俣事件の直後、二月一五日の議会演説で、 ﹁死人を目下に積んで置いて、眼の前に死人を積んで置いて、さうして彼が彼是言ふのは党派心で言ふ、党派のた めにああ云ふことを以て党派の党派拡張のために言ふのであるとか、或は己の選挙区のために言ふのであると か、斯様な此短い頭の賎しい解釈を下されて⋮⋮私は今日限憲政本党を脱しまする積でございます⋮⋮是で諸君に 党派の区別なく官民党派の区別なく、此問題は特別なる問題として御取扱になることを御願申すと云ふ点に附 いて、私の義務は聯是で立ちました心得でございます﹂ と述べて憲政本党を脱党することを宣言し、さらに、 ﹁此田中正造は衆議院議員でございまするからして、自分の選挙区の関係があるからやるなぞと云ふやうな、馬鹿 な説が此議場の中に勢力がなくても一人でも二人でも左様な御方があるために、此被害民の不幸を被り、又国家の 不幸を被ると云ふことの不都合がございますれば、私は又議員を罷るのでございます、今日にも罷めるのでありま