授業リフレクション研究の発展
―説明的文章の授業で「イメージを喚起する読み」はどうあるべきか―
"Image-Related Method" in the Reading Class with the Expository Text :
-A Case Study of the Reflective
Teaching-澤本和子 野田光子
KazukoSAWAMOTO MitsukoNODA
紀要第1号に提案した授業リフレクション事例研究後の研究から,説明的文章の低学年授業研究に おいて,文体との関係を踏まえた「イメージを喚起する読み」の研究の必要性を提起した. これまでの説明的文章指導では,「確かな読み」の上に客観的・論理的な読みを行うことに意を注 いできた.そのために文法的文章論中心の教材研究と,その結果を指導する要点・要約読みや,文章 構成指導などが重視されてきた.しかし上述の研究成果にもとつく考察は,「確かな読み」も論理的 な読みとりも,読み手に働きかける文体に呼応する「イメージ化する読み」を経て実現すると提起する. 本稿では,先の授業リフレクション研究結果の考察を元に,視点の異なる複数の教員がこの問題を 研究し,「イメージを喚起する読み」の考察を行なう.考察にあたり再度教材分析を行い,認知心理 学・現象学などの先行研究成果を参照し,これを対話的手法を用いて記述した. キーワード :授業リフレクション研究 イメージを喚起する読み 内容と一体化する読み 内容を対象化する読み 統合的認識1 研究の目的
近年の学習者重視の研究動向や,官制「新しい学力観1 による「関心,意欲,態度」重視の動向は,説明的文章 の「読み」の授業にも影響を与えているように見える. 例えば,長崎伸仁(1993)は西郷竹彦の「共体験論」を 参照して取り入れた「どうぶつのあかちゃん」の授業事 例をあげて,「吹き出し」を利用して「学習者たちにそ れぞれの動物の赤ちゃんになりきらせた上で,自分を語 らせるという方法」を提示する.そして指導の結果,意 欲を高め「読み」を深めることができたとする.本来説 明文は事象を客観的にとらえ対象化し,言語化したもの と考えれば,感情移入を促す上の手法による「読み」が 主観に偏り,客観性を弱める結果を招かないかという批 判も成り立つ.その意味でこうした指導方法の妥当性の 吟味が必要であると考える. ところで,澤本和子(1993.a)は「研究者としての 教師teachers as researchers」自らが行う,「授業リ フレクション」研究の意義を提起する.それは授業者自 身が,事中・事後の「気付き」や「問題・疑問」等を手 *教育実践研究指導センター **専修大学松戸高等学校 がかりに,自分の実践記録や先行事例研究等を検討して, 自己の授業の文脈や,授業の解釈の妥当性を追求する授 業分析方法である.詳細は前掲論文に譲るが,ここで用 いる「リフレクション」という語は,“reflection反省” の義である.ここで「リフレクション」として「反省」 を使用しないのは,「反省」が「悪い点を反省する」印 象を与えやすいためで,良否善悪にかかわらず特記すべ き問題を摘出する意味を強調し,新しい授業研究方法と して明示する意図からこの語を用いる.他にも佐藤学 (1991)らはこれを「省察」とするが,実践研究者であ る小・中学校教員の日常的な実践研究への活用上,教員 研修会などで「リフレクション」の方が理解を得やすい 経験から,現在はこの語を使用している.「授業リフレ クション研究」ではその妥当性を確保するために,授業 研究結果を研究会や学会など第三者のいる研究の場で発 表し,第三者の批判を受けた後に再度自らの文脈におけ る指導として当該研究結果を見直し,妥当性と問題点を 明らかにした上で,次なる授業実践の指針を得る手続き を重視する. 澤本(1993.b)では,その授業リフレクション研究 を教材研究方法改革に結び事例研究を実施した.その結 果から,子どもの「読み」の動機づけや「読み」の拡充 深化の上で「イメージ化」の手法が有効であり,説明対象に読み手が感情移入する読みの学習指導の方法的意義 を提起した.これは前述した長崎の視点と重なる.しか し同時にそこで,この方法の問題点も認めその検討を今 後の課題とした.本研究は,澤本の授業リフレクション 研究結果に対する,野田光子の疑問に端を発している. 野田は高等学校で国語科教育を担当し,評論文読解指導 の研究を進めてきた.両者の視点の「ずれ」は,小学校 教育と高等学校教育の,または説明的文章と評論文指導 の,あるいはそれ以外の問題による「ずれ」と言えるか 否かについては別の機会に検討する必要があろう.いず れにしろ両者の視点の「ずれ」を尊重しつつ討論と研究 を進め,説明的文章における「イメージを喚起する読み」 の意義と問題点を明らかにし,そのあるべき姿を授業方 法研究の視点から探りたいと考える.そしてこの課題解 決過程で問題となった「主体に引き寄せた読み」に対し て,説明的文章授業研究の視点をどこに設定すべきかに ついても,可能な範囲で考察を進めたい. 以下では対話的手法を用いて,問題提起とその考察を 行う.まずllで,当該の澤本の授業リフレクション研究 の概略を述べる.次いで皿1の1・2で野田がこれに対す る問題提起とその検討を行い,ひき続き3でこの問題に 関する野田・澤本協同の検討後の考察を野田が述べる. この後,IV以降で,澤本が,野田との協同による検討後 の全体の考察と課題を述べ,澤本が全体を整えた.
ll 「イメージを喚起する読み」の意義一澤本
(1993.b)の授業リフレクション事例研究 澤本(1993.b)は1991年に実施した授業リフレクショ ン事例の研究である.これは,すでに1983年に実施した 澤i本・成田信子(1984)での協同研究の発展で,次のA BC,3事例を対象とする.A実践は1983年版「ビーバー の大こうじ」(A教材)の澤本(以下Sと記す)と成田 (以下Nと記す)の事例,B実践は1991年版「ビーバーのす作り」(B教材)のNの事例,C実践は1992年版
「ビーバーの大工事」(C教材)のSの事例である. 1 イメージを喚起する「読み」へのはたらきかけ C実践でSは,読みの深化・内面化を心がける手立て として次の四点をあげる.①子どもの疑問を生かす.② 子どもの興味・関心,感動を引き出し,生かす.③動作 化,絵画化,音読などの方法を適切に用いる.④本文を 丁寧に読み,より具体的に様子をイメージできるよう話 し合いの方法,教師の助言を工夫する. そして,「工事の様子を生き生きと想像しながら読み とる」ために,「教材文を踏まえた創造的な読みを促す よう配慮」して設計する.ついでCの授業場面では, 「ガリガリ」「ドシーン」などの表現を手がかりに読みを 深め,子どもたちが「ビーバーに変身」して熱心に読み とりを行なったとする.(p.113) 2 「イメージを喚起する読み」を提起する根拠 文学のみならず,説明的文章の授業でも「イメージを 喚起する読み」が必要であるという根拠を,澤本は次の 二方向の先行研究から提起する.一つは小田迫夫(1986) の「描写的説明体」の見解に基づく,他の一つは百瀬澄 雄(1981)らの見解に基づく指摘である. 前者で小田は,説明の理解においては抽象的思考を必 要とするが,言語生活上の説明行動では多くの場合相手 にわからせることを行動目的とするため,「手段として 描写体,物語体,対話体」などの表現形態を利用し,こ うした文体の力は,読物的性格を持つ「教科書説明文教 材にものぞまれるもの」とする.そして,「読み手学習 者の教材文体への感応力を増幅させるような読ませ方」 の工夫が必要であり,学習者が「その文章を読む目的・ 必要性」を積極的にとらえる手だてを「指導過程の上に 施す」必要を説く.澤本はこのような教材文体と学習者 を結ぶ感受性を高める読みを「イメージを喚起する読み」 とし,これをC実践で展開したととらえる.(p.ll5) 一方百瀬澄雄は,学習場面における広義のイメージ化 は「文章を通して書かれているものをとらえる重要な一 側面であ」り,「科学的な文章の読みでも極めて大切な 読み方である」とし,特に低・中学年では重視すべきだ とする.さらに小沢倭文夫(1985)も,「さけが大きく なるまで」の授業事例を引いて同様の見解を示す. このような読みを進めるとき,子どものイメージ形成 を促すためには,教材文の外から情報を補足する必要が 生ずることがある.そこで,「読み」の学習指導過程に 「情報補足」を位置付け,イメージ形成を促す指導の必 要も生起する.澤本(1985)は,これを提起したもので ある.これらはいずれも,実践事例研究の蓄積から導か れた見解である.なおここで取り上げる「イメージ」の 語義にっいては,深川明子(1987)の研究を参考にした. 3 C実践の考察と課題 澤本(1993.b)では,まずC実践の授業リフレクショ ン研究結果から「ビーバーのす作り」(B教材)と「ビー バーの大工事」(C教材)を比較検討し,実践の妥当性 を次のように考察する. (1)Bは18文,Cは28文からなる.文末表現はいずれも 「ます」が最多.「です」も使用.いずれも筆者がその場 で見ているような書きぶりで,「描写的説明体」と見ら れる表現がある. (2)CはBに比して情報量が多い.文数も10文の差があ るが,Bの①∼④文(以下「文」を省略)がCの①∼⑦ に,同じく⑨が⑮∼⑰に,⑩が⑬∼⑳に対応しふくらませてある.Cで情報量増加が著しいのは, B⑤木を切り 倒す作業,⑨⑩の水底で木と石と泥を積み上げる作業の 叙述だが,B⑯の巣の中の説明はCにはない. (3)Cに比べBは情報量も少なく主語の変換が多く.内 容読解上の援助,情報補足の必要など指導に配慮を要す る.逆にCは⑤∼⑩で情報量がBの2倍以上もあり,(4) に詳述する「読みにいざなう表現」が多数配置してある. (4)「描写的説明体」そのものの定義が未だ明確ではな いので特定するには至らないが,CはBに比して表現に 変化が見られ,読者が「感情移入しやすい表現」が配置 され,読物的傾向が強い.たとえば,擬声語・擬態語, 中止法・擬人化等強調表現がそれにあたる.Bでは「天 才です⑫」「あんしんして⑬」程度なのが,Cでは「大 きな②」「ガリガリ,ガリガリ.④」「すごい⑤」「たち まち⑥」など17∼8箇所に見出せる. 教材文体の傾向性からみて事例Cでは,木をかじる場 面の授業記録により擬声語・擬i態語や強調表現が「子ど もの読みの姿」にはたらきかけたと見られる.これは, 説明をイメージ化して生き生きととらえる「読みの主体 化」上有効であったといえる.しかし個々の表現が読み 手の認知・情意過程にどのような影響を及ぼすかを,文 章全体について明示的に解釈する資料は得ていない.そ れを明らかにするためにはこの視点による研究事例の蓄 積と文章研究の有機的な結合,およびその資料としての 認知科学の研究成果に依る必要があろう. 低学年説明的文章の「読み」の学習指導における教材 文の影響力を考えると,B・C教材の特性理解上,「提 示する情報の量と質の問題」と,「教材文体がもっ読者 に働きかける機能」に留意する必要がある.特に低学年 の読みの傾向性からみて,「説明的文章の学習指導にお いてもイメージ化の問題を重視する必要性」があるが, その一方で研究の継続とデータ蓄積の必要も認められる. 加えて,文章理解能力の低い児童にイメージ化の方法が 有効だった経験から,この方向の研究の必要も提起す る. ここで1の問題に立ち返ると,C教材は「子どもの感 性を通した理解」に生かしやすい特性をもつが,説明的 文章の読みの学習指導本来の目的は「説明」を読みとる ことにあるとすれば,こうした教材に偏した指導は問題 になるであろう.しかし,小・中9年間の国語科指導の 視点から低学年段階を説明文学習導入の時期ととらえれ ば,そこに「読み物的性格」の教材を配置し,教師の指 導上の負担を軽減し,子どもを無理なく読みにいざなう 上で有効だと判断できる.カリキュラム編成や高学年へ の発展も含め,事例研究の蓄積と隣接領域の研究との関 連性追求は,今後の課題である. 以上の考察に対する野田光子の問題提起とこれをめぐ る考察は,次のmに詳述する.
皿 説明的文章の「イメージを喚起する表現」を
どう読むのか一授業リフレクション研究の発展
1 問題意識一野田による問題提起 小学校低学年の説明的文章教材の文体について,以前 から気にかかることがある.「たんぽぽのちえ」「ビーバー の大工事」など,いずれも「説明文」というよりはむし ろ「物語」といったほうがふさわしいのではないか,と 思われる文体で書かれているという印象をぬぐえなかっ たのだ.そうした中で,澤本(1993.b)を読む機会を 得た. この論文で,「『読み手を文体につなぐ』『いざないの 表現』を手がかりに読みを深める」指導として,「ビー バーの大工事」の授業事例の一部が引かれている.しか し,「『読み手を文体につなぐ』『いざないの表現』を手 がかりに読みを深める」指導とは文学作品の読みの指導 であって,説明的文章を読む指導を意味しないのではな いかという疑念をもった.小説は読めるが評論文は読め ない高校生を相手に,評論文を読む力をどうやって身に 付けさせるかという課題と日々向き合っている稿者にと り,見過ごしにできない問題を含んでいると思われた. 2 「イメージを喚起する表現」の検討一野田の検討 1の問題を考えるにあたり,まず「イメージを喚起す る表現」のもつ機能について考察したい.説明的文章教 材においても,筆者は自分の言いたいことや説明したい ことと言葉とのズレをできるだけ少なくするために様々 な工夫をする.「イメージを喚起する表現」も,そうし た表現上の工夫の一つと考えられる. イメージを喚起する表現は, の 「っぎっぎに」を例にとって考えてみる. (例1)「ア 何本もの木々があちこちでバタバタと倒 れていく様子等が具体的にイメージされる.」「イ ビー バーになりかわった自分自身が,あっちの木もこっちの 木もガリガリかじって次々に倒していくイメージ体験の なかで,顔を紅潮させ,額に汗する読者が出るかもしれ ない.」 次に「ガリガリ,ガリガリ.C④」の場合はどうか. (例2)「ア ビーバーが木をかじる音,速さ,勢い,み ア 事象として受け取ろうとする立場で読めば,よ り詳しい情報としてはたらく. イ 登場人物になりきろうとする立場で読めば,感 情移入を誘う言葉としてはたらく. 以下具体例を引き,考察を進める. まず,「…木が,っぎっぎにたおれます.B④」るみる細くなる木の幹,などが視覚的・聴覚的にイメー ジされる.」「イ かじる木の硬さ,かじった木の破片が 口の中にも飛び散る際の痛さ,などが口の辺りに感じら れる.」 さらに,「大きな木がドシーンと地ひびきをたてて倒 れます.C⑤」の「ドシーン」という表現はどうか. (例3)「ア 木が辺りの木々や地面を震わせて倒れる様 子,りすなどの小動物があわてて逃げ出す光景などが具 体的にイメージされる.」「イ ー所懸命かじってとうと うこの木を倒したぞという満足感や,心地よい疲労感に ひたる感じになる.」 このように,イメージを喚起する表現は,そこから情 報を読みとることも可能であり,また感情移入すること も可能である.どちらを選択するかは,文章の流れの中 で読者の判断に任せられる. 「つぎつぎに」(例1)の場合は,主語が「木」になっ ていること,近くにビーバーに感情移入させるような表 現が見当らないことなどを考え合わせると,イよりはア に傾斜した読みの方が自然だと考えられる.一方,「ガ リガリ,ガリガリ.」(例2)の場合は,前文の主語が 「ビーバー」であるから,ビーバーになりきる子どもが 出てきても不思議ではない.さらに「ドシーン」(例3) の場合には,主語が「木」であるのでアの読みが期待さ れるが,その前の「ガリガリ…Jで子どもがすっかりビー バーになりきっていれば,もう自力でアの読みを進める のは困難であるかもしれない. イメージを喚起する表現からどういうイメージを読み とるかという問題に関して言えば,文章自体が,アに傾 斜した読みに誘うもの(例1)もあるし,また,イに傾 斜した読みに誘うもの(例2)もある.一方,読み手の 姿勢によって,ア,イどちらの読みに傾くかが決定され るもの(例3)もある.一つの文章の読みは,文脈の中 で方向づけられるだけでなく,読み手の読みの姿勢のな かでも作られる.文章をアで読むか,イで読むか,低学 年児童の場合には,指導者の導きに大きく左右されるも のと思われる.説明的文章を指導する際には,基本的に はアの観点からイメージの喚起を促す必要があるのでは ないか.また説明的文章の文体としても,基本的にはア に傾斜した表現を多く含む文章が望ましいと考える. 3 本事例に見る学習指導の検討一2をめぐる澤本との 話し合い後の野田の考察 2の考察では,文章読解過程における読み手の解釈を めぐる判断は,当該の表現の前の文の主語などの影響を 認めている.すなわち子ども自身の「読み」の決定に際 しては,当該の表現以外の表現からも微妙な影響を受け ているらしい.一これをめぐり,外山滋比古(1968)の 「修辞的残像」を想起するが,小論ではこの考察は行な わない.一このことから,指導者が,文章表現の特質と 読者の読みとりのこのような関係性を意識し配慮するか 否かは,教材研究と学習指導方法研究にまたがる視点に 影響を与えるものと考えられる. そこで,2の視点から先の事例を検討する. 指導者が課題を「ビーバーになって工事の手順を正し く読みとり,その労働の大変さを理解し,ビーバーの 『大工事』ぶりに目を見はること」(p.ll2)と設定し, 「工事の手順を正しく読み」とることに主眼を置いたと しても,澤本(1993.b)にあるとおり,読解作業を進 める過程で自分たちの身体を使って動作化していけば, ビーバーになりきる子どもが出てきても不思議はない. とはいえ,この段階で読みが終わってしまうのであれば, これは説明文の読みの指導にはならない.指導者は, 「そういう木がたくさんあるところはどこか」[澤本 (1993.b)p.114]という問いかけにより,読み手をビー バーから観察者の視点に立ち戻らせる必要がある. このように,内容と一体化しようとする読みと,内容 を対象化しようとする読みの間を往き来する思考活動が, 文章を「読んで,分かる」という作業の中では,頻繁に 行なわれる必要がある.澤本(1993.b)の[「読み手を 文体につなぐ」「いざないの表現」を手がかりに読みを 深める]指導は,最終的には,「対象化する読み」の過 程で「イメージ化を助ける表現」の中からも重要な情報 が読みとれることを教えている.しかしながら,こうい う読み方は文学作品の読み方と酷似しており,説明的文 章の読み方を指導しているというよりも,「文字言語」 を「読んで,わかる」ことはどういうことか,その読み のプロセスを,教室で子ども一人ひとりに体感的に教え ていると言ったほうがより適切ではないかと思われる. そうした意味でならば,「イメージを喚起する表現」を, 感情移入を誘う表現として,子どもの発達段階に即して 活用することに異論はない.ただし,活用する内容,方 法については十分留意する必要があると考える.
IV 協同検討結果の考察と課題一説明的文章を
「読んで,分かる」にみる認識の統合 野田光子が皿一3に述べた考察をめぐり,澤本和子は 近年の認知心理学研究や現象学研究成果と関係づけて, その妥当性を考察する.以下の1・2でこの考察を進め, 3に本研究の課題を述べて本稿のまとめとする. 1 文章理解過程にみる表現の生成 近年の認知心理学研究の説明的文章指導研究への影響 は,すでに澤本和子(1993.c)などに指摘したとおり である.内田伸子(1990)の認知心理学研究成果の紹介では,子どもの文章理解過程には「表現(representa− tion)」の生成とその評価活動の繁雑な実施が見られる という.以下ではこれを検討しながら,授業での集団学 習過程における「読み」の多様性の追及と,これを踏ま えた文脈的思考に則った個々の子どもによる選択の結果 としての解釈の措定という行為,すなわち「読んで,わ かる」という学習過程について考察する. 子どもの文章理解過程について,内田伸子(1990)は 次のように述べる(pp.144∼146).近年の研究成果か ら考えると,文章理解過程において子どもは,個々の文 字から語,語の意味から文や文章の意味を何らかの方法 で構成していくといった単純なボトムァップの処理だけ を行うわけではなく,情報処理過程においては,むしろ 「文章の一部から賦括された既有知識に基づいて,読み 手が抱く予測や仮説が入力を決定し,語や文の意味を規 定するというトップダウンの処理が重要」らしい.即ち 「文章の意味は文章の中に存在するのではなく,文章か らの刺激と,外界や言語に関する知識との相互作用によ り能動的に作り出されていくもの」であるらしい.さら に,こうした読みの過程では,たえず「表現(represen− tation)」が生成され,その過程がモニターされ,評価 されるらしいという. これは,皿の3で野田が指摘した問題に対し,示唆に 富む見解である.読みの過程で生ずるさまざまな「読み とり」(解釈)の可能性は,「表現の生成」によって示さ れる.そしてこれをモニターし評価し,取捨選択した結 果が「自己の読みとり→自分の解釈」となると考えられ る.この「表現の生成過程」におけるモニター行為は, 「文章からの刺激と,外界や言語に関する知識との相互 作用」である.そしてそれは「自分の語彙による言い換 え作業と作業結果の吟味の過程」であり,この結果とし て「自己の読みとり」をもとに「自分の解釈」を定める らしいとみることができる. これを教室での集団学習場面と照合してみると,次の ように考察できる.教室での「話し合い」の授業で,多 数の子どもが多様な「読みとり」とその根拠を出し合い, これを「読みの仮説」として互いに吟味し合う授業運営 方法を,これまでにも澤本(1987)は提案してきた.上 の文章理解過程をこの集団学習過程に照合してみると, 類似していることに気付く. 学級という学習集団には,多様な読みの能力と個々の 言語経験をもつ子どもがあり,授業場面で示す読みとり もきわめて多様である.さらに同じ子どもであっても, 教材や授業場面が異なれば,未熟なものから鋭い読みと りまで多様な「読みとり」があり,個人差だけでは断定 できない多様な読みの局面が存在するように見える.こ のような複雑な授業過程ではあるが,澤本は先に提起し たとおり,集団的な読みの過程で子どもが多様な「読み」 の結果を出し合う学習活動の重要性を指摘する.この 「多様な読み」は,先の「表現の生成」結果の集団学習 版であり,集団学習での話し合いによる「取捨選択」の 過程は,前述の「モニター」と「評価」結果の集団思考 による吟味に相当する.すなわち,話し合いでは[多様 な「読み」=読解過程で個々の子どもが選択した読みの 集合]について,当該授業で進めてきた読みの文脈に即 して吟味し,妥当性の高い解釈を個々の子どもが選択す る方法をとる.そこでは,思考過程を重視する.これは 澤本(1987)に提起した.この方法では,独力では読み 進めるのも容易ではない子どもに対し読みの方法を示し, 友人や教師との対話や,他者の見解を参考にしながら文 章を吟味して,自己の読みを措定するよう働きかけるこ とができる.この場合,自分一人では直観的で不十分な 「読みの仮説」しか考えられない子どもであっても,仲 間や指導者の適切な協力,援助により,読みの方法を学 び,自らの読みとりをベースとして解釈を措定すること が可能だと考える.たとえばこの方法では,話し合いの 過程で解釈が分かれた場合,解釈の根拠を踏まえた選択 肢を設定して,子どもにひとりの「読者」としての視点 を選択させる.その時,教師は選択の観点と方法を子ど もに問いかけて明らかにすることにより,当該の子ども が文章表現のどこにこだわり,どのことば・文章から何 を根拠としてそのような「読み」を措定したのかを自覚 させる.教師はこのようにして,子どもに読みの方法を 体得させるようはたらきかける. この考察から,澤本がこれまで提起してきた集団学習 における読みの方法が,内田の指摘する「表現の生成」 と「その過程のモニターと評価」という内的過程と類比 できるものと考えられる.そこで,次の段階として,こ のような「読み」の多様性の中から,何をもって妥当性 の高い解釈とするのか,という選択の視点が問題になる. 内田の述べるように,文章読解過程を「読みの創造過程」 だと見るならば,文章表現をなぞることばの言い換えに すぎない読みの指導は不適当であるといわざるを得ない. そして「トップダウンの処理が重要」だと言うならば, 学習指導法研究においても,テキストのどこに着目して 既有知識と結び,それを踏まえてどのように予測し仮説 を設定するのかを考える必要がある.授業場面での子ど もの「着目」や「予測」「仮説」を考えるとき,子ども の内的世界を考慮する必要性が提起される.というのも, 「文章の意味は文章の中に存在するのではなく,文章か らの刺激と,外界や言語に関する知識との相互作用によ り能動的に作り出されていくもの」だからであり,この
「能動的」とは正しく主体の内面活動によって実現され る行為だからである.とすれば,「客観的」であるべき だとされる説明的文章の読みにおいて,この「能動性」 や「主観性」は,「読みの動機づけ」という使命の他に,ど のように「読み」の学習行為と関わっているのであろうか. 2 「読んでわかる」における認識の「統合」 ところで佐伯絆(1978)は,イメージをめぐる研究で 「擬人的認識論」を提起する.これは,認識対象に接す るときに検討すべき対象に感情移入することにより,従 来とは異なる新たな認識が可能となるという,「視点」 の移動をめぐる研究である.この「擬人的認識論」を説 明的文章の読みの過程に敷術すれば,先の「主体に引き よせた読み」「感情移入する読み」「内容と一体化しよう とする読み」との共通性が見てとれる.以下,佐伯の研 究との関係を示しっつ考察を進める. 佐伯絆(1978)はその「擬i人的認識論」研究のきっか けとして,[モノになってみて]認識する方法の重要性 に気づいた経験を語る.そこで彼はこの発想を色々実行 し,大学の線型代数の講義などにも用いた結果,「今ま で[わかった]と思い込んでいたことなどウソみたいに, それこそ[ホントウにわかる]実感をもつことができた し,学生諸君も実に生き生きとした眼で講義を聴いてく れるように」なったという.この体験から発展して展開 した「擬人的認識論」研究の出発点について,佐伯は次 のように説明する.人が「外界の物理的現象をある種の [因果性]で認識するということは,わたしたちが外界 のモノになってみて,動機づけてみて,動こう,動かそ うとしてみて,自分の活動として納得すること」だと. この見解は,かつて細谷恒夫(1936)が「認識現象学」 で指摘した,「[わかる]の本質」における「[わかる] の関心性」一「わかろう」とする行動的全体性一や, 「[わかる]の体験・意識への内在性」にかかわる問題を 想起させる.すなわち,「わかる」という認知活動と主 体の情意的内面活動との関係性を想起させる. この一方で佐伯は,視点をずらして「他人の立場に立 つ」認識方法をとりあげる.先の「モノになってみて」 認識する方法と「他人の立場に立って」認識する方法で は,前者が対象認識の「主観化過程」であり,後者が対 象認識の「脱主観化過程」であるということもできる. 佐伯は一般的な認識の基本形式にっいて,「認識論的に は,『詩的認識』と『散文的認識』の統合ができなけれ ば深まりはない.」とする.これを上の対象認識の過程 に敷桁すれば,認識対象の「主観化過程」と「脱主観化 過程」を統合する認識過程の重要性が明らかになる.似 たようなことがかつて「感性的認識と理性的認識の統合」 などの表現で言われた.しかし,このような表現は今と なっては大掴みであることを免れないであろう.私見に よれば,今日の授業実践研究では「わかる」という内面 過程への関心が強く,対立的な認識の統一という視点以 上に,両者をめぐって如何なる認知情意過程を経て統合 的認識に到達するかというプロセスそのものが問題とな る.その意味で佐伯の指摘は興味深い. この統合的認識過程の重視という視点から説明的文章 を「読んで,わかる」という局面を考えると,次の問題 として細谷(1936)が指摘する「[わかる]のもつ[ほ んと]という性格」一体験全体の領域内の一契機として 組み入れること一の問題が生起する.つまり,説明的文 章の読みの学習指導において,「イメージを喚起する読 み」が「意欲」や「興味・関心」の喚起という機能を果 たすのはわかるが,この他にも「イメージを喚起する読 み」が文章理解に機能する側面があるのではないかとい う疑問が,次に提起される. 説明的文章を「読んで,わかる」というときの心理を 授業中の子どものことばで言えば,「ああ,なるほど」 「あ,そうか.」「わかった.」などに始まり,「へえ,すご い.」「知らなかった.」「やっぱりね.」などということ になろう.それは,読んで獲得した情報を読者としての 子どもが納得する姿といえる.つまり説明的文章を「読 んで,わかる」ためには,認識方法まで含めて読んで獲 得した情報の妥当性が問題になる.細谷の言う「[わか る]のもつ[ほんと]という性格」は,ここにかかわる 問題である.そしてこれは,読み手の認識の枠組みの組 替えに及ぶ問題でもある.皿一3で野田が「内容と一体 化しようとする読みと,内容を対象化しようとする読み の間を往き来する思考活動が,文章を[読んで,分かる] ということはどういうことか,その読みのプロセスを, 教室で子ども一人ひとりに体感的に教えている」と指摘 したのもこれに関わるのである.すなわち,文章理解過 程における[「表現の生成」とその過程の「モニターと 評価」]とは,授業過程の子どもの読解活動に視点を当 てれば「内容と一体化しようとする読みと,内容を対象 化しようとする読みの間を往き来する思考活動」と一致 し,読者の視点から言えば先の[「主観化過程」と「脱 主観化過程」を統合する認識過程]ととらえられる. 従来から説明的文章は事象を客観的に述べた文章であ り,この読みの学習指導ではこうした文章表現の特質に 即した「客観的な読み方」の学習指導を重視してきた. そして読みの過程における情意的内面活動は,これまで 意欲や興味・関心に結んで手段として語られることが多 かった.ここで問題なのは「客観的な読み方」の内実と 興味・関心との関係である.澤本(1985)は事中の子ど もの読みが,豊かな情意的内面活動によって支えられて
いることを指摘した.前述の百瀬澄雄ら実践研究者たち は,「イメージ」と子どもの内面活動を結んで,イメー ジ化の方法的意義を提起した.しかし,それが説明的文 章の理解過程にどのように関わるのかは必ずしも明らか にされていない.近年の認知心理学等の研究成果から知 見を得ることにより,ようやくその一部を垣間見ること が可能になったのだといえる. これまでの考察から,学習者が「読んで,わかる」た めにはテキスト理解に関わる学習者の「主観化過程」は, 重要な視点であると言える.そして,文章理解過程を 「創造過程」と見るとき,その「主観化過程」と「脱主 観化過程」を通した統合的認識の形成が最重要課題であ ることが明らかにされた.先に野田は,澤本(1993.b) の事例を指して「体感的」読みの指導と評した.低学年 の場合,発達段階を考慮して動作化や絵画化などの具体 的イメージを喚起する方法をとることはある.それを 「体感的」というのであれば,これは発達上の配慮とい うことになる.だがその一方で先の佐伯(1978)の言う とおり,「主観化」する認識方法の有効性は大人にも及 ぶとすれば,「主観化」の方法やレベルは異なるにしろ, 発達段階や読みの能力にかかわりなく,説明的文章を読 んでわかる過程に,読み手の「主観」は介在する. そこで読みの妥当性を求めるとき,この「主観」を介 した「読み」の妥当性を高める方法が問題になる.それ は野田の「内容と一体化しようとする読みと,内容を対 象化しようとする読みの間を往き来する思考活動」を促 す読みであり,また佐伯の[「詩的認識」と「散文的認 識」の「統合」]を指向する.そしてそれは,読みの過 程における「創造」行為である.このように,説明的文 章理解過程においては,対象認識における「主観化過程」 と「脱主観化過程」の統合を目指す.このとき学習指導 は,「内容と一体化しようとする読みと,内容を対象化 しようとする読みの間を往き来する思考活動」を促す読 みの方法により実現可能となる.この場合「主観化過程」 は,小学校低学年教育独自の配慮というよりは,いずれ の発達段階においてもその段階に応じて,あるいは個人 差に応じて適切な方法により指導され,生かされる必要 があると考えることができる. 以上から,先にあげた長崎伸仁(1993)の提案を見る と興味深い問題が提起される.長崎は研究発表冒頭で西 郷竹彦の「共体験論」を元に,教材特性に配慮して「同 化や異化に基づく[視点を変えた読み]の可能性とその 有効性を,実践を通して検証してみたい」と述べている. 事例の検討では「同化」中心の事例説明だったため初め に引いたような批判が出るが,事例の記録を詳細に検討 すれば,恐らく長崎の言う[「同化」と「異化」の視点] を往復しつつ読み進めている場面があるのではないかと 推察する.というのも,これまでの考察に依れば,そう した「往き来する思考活動」抜きには,読みの深化は期 待し得ないからである.この事例においてそのような効 果があるとするならば,長崎の言う「同化」的視点から 子どもが一旦共感的にとらえた読みを,どこでどのよう に「異化」し対象化して読むかこそ,説明的文章の読み の授業研究として問題にすべきであろう. 西郷竹彦(1988)は「文芸」と「説明文」の指導過程 は同じとしつつ,「物語の場合はどちらかというとイメー ジ(形象)が中心になるのに対して,説明文の場合は概 念・論理ということが主」になると言い,「説明文とい えども提起した何がしかのイメージが入ってくる」とす る.授業研究の視点から見れば,この説明では「読み」 の過程における「イメージ体験」と「論理・概念」の形 成の関係は並列的であり構造的ではない.長崎提案を考 察すれば,事例研究の理解過程分析で「イメージ」の問 題を取り扱う場合,子どもの「読み」の過程に即した構 造的な整理が必要だったと推察できる.すなわち授業分 析の視点として,前述した「内容と一体化しようとする 読みと,内容を対象化しようとする読みの間を往き来す る思考活動」を中心に検討する必要があると考える. 以上から,説明的文章の授業研究の視点として,この 「往復する思考活動」に着目し,そこにおける「読み」 の深まりや広がり,あるいは「読み」に向かう意欲につ いて検討する必要があることを提起する. 3 今後の課題 2の考察と提案から,授業研究の視点の見直しが必要 となる.澤本(1993.b)の授業リフレクション研究で はイメージ化の重要性は提起したが,統合的認識の視点 からの授業分析については不徹底であったと言わざるを 得ない.もちろん,野田の指摘のとおり「往き来する思 考活動」を摘出し論じてはいる.従って,この視点から 改めて授業記録を分析し,子どもたちがどのようにして 統合的認識に達したのか一あるいは達していないのか一 を明らかにする必要がある.授業記録の分析は早速にも 着手可能な課題であるが,このような文脈における子ど もの到達点の評価に関しては研究授業計画の設計段階か ら考慮してデータを収集する必要があり,今後の事例研 究課題とせざるを得ない. 課題の二っめとして,野田の指摘による「体感的」な 指導の問題が残る.近年の子どもとことばの関係につい て,筆者は強い危機感を抱いている.とりわけ本事例の ような都市部の学校の児童の生育環境を考えれば,言葉 の基底となるべき直接体験や豊かな感性と切り離された 表層的な言語習得の問題は深刻な状況にあり,「わかる」
を言葉の言いかえや説明で事足れりとする限り,読みを 子どもの内面性発達に結ぶことは困難である.しかし, この学習の問題は稿を改めて論述せざるを得ないので今 後の課題とする. ところで,説明的文章は客観的な視点から客観的に書 かれた文章であるとされる.そしていつの頃からか筆者 らは,説明的文章の授業における「読み」も客観的であ るべきだという観念にとりつかれていた.だが,子ども の読みの過程に立ち合うと,彼らは実に生き生きと感性 をはたらかせながら読んでいく.両者の乖離への実践的 な疑問を澤本(1985)では研究した.子どもの生き生き とした読みを追求する授業研究過程で「イメージ」が問 題となり,説明的文章の「読み」の過程においても,リ アルなイメージを描くプロセスが確かにあり,それが 「読み」の深化・拡充と深く関わることが明らかになっ た.その結果が「イメージ化」への関心に結びっき,一 方は「イメージを喚起する表現」一レトリックへの関心 となり本研究に展開し,他方は「情報補足」の研究へと 展開した. 今般,前者の課題に一歩踏み込む視点を得ることがで きた.今後は事例研究を蓄積して,本提案の信頼性を高 める必要がある.また,「イメージ」については,文学 教材の読みと説明的文章教材の読みの授業の違いがある のか否か,違いがあるとすればどのようなものか,に関 する検討が必要である.これとかかわって,先般筑波大 学附属小学校で寺井正憲(1993)が行った,倉澤栄吉の 「筆者想定法」を継承する授業提案の検討も,今後の課 題と方向を一にするであろう.一方,授業リフレクショ ン研究方法上の問題としては,冒頭にも記したが,本稿 では異なる視点に立つ実践研究者二人が,批判的かつ建 設的な視点に立つよう努めながら対話的手法を用いて考 察を進める研究方法をとった.教育実践事例の考察にっ いて,稲垣忠彦(1986)は研究グループによる「授業カ ンファレンス」を提案しているが,澤本(1993.b)は2 ∼3人程度の対話的手法による研究の可能性を提起した. 本論はこの実践事例としても位置付けられる.この点に ついても引き続き研究事例を重ねる所存である.