哲学館事件と哲学館大学
著者名(日)
佐々木 哲郎
雑誌名
東洋大学史紀要
号
6
ページ
51-60
発行年
1988
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002577/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja哲学館事件と哲学館大学
佐々木
哲 郎
東洋大学の前身、哲学館大学の縁起については、﹃東洋大学五十年史﹄に、そしてまた﹃八十年史﹄に述べら れており、今更、特に想起し記念すべきことではないのかもしれない。現に東洋大学では、哲学館創設百年を記 念して種々の事業が企画実行され多忙を極めているにも拘らず、哲学館事件の縁起を想起する記念事業は何故か 欠落している。一門外漢が遠慮なき不作法なこととは知りながらも、その穴うめに敢て一文を草するのは、外な らぬ創設者井上円了の遠謀深慮に対し敬意を表せんが為である。 首題についての基本資料は、﹃東洋大学史紀要2特集百年史年表︵稿︶﹄によれば、 一、東哲11﹃東洋哲学﹄第十篇第九号︵明治36・9︶︹以下第一資料と呼ぶ︺ 二、哲報11﹃哲学館明治三十五年度明治三十六年度報告﹄甲号︵明治37・2︶︹以下第二資料と呼ぶ︺である。 ﹃東洋大学五十年史﹄は、主として右第一資料中の井上円了﹁広く同窓諸子に告ぐ﹂に依拠している。その要点 を引用すれば、次の通りである。一51
﹁去年十一月十五日本邦を発し、爾来八ケ月欧米十ケ国を歴遊し、本年七月二十七日無事帰朝の上、同窓諸子に 面会するを得たるは、何より愉快なり。︵中略︶其間に一大事件の本館の上に落ち来るあり、即ち文部省より教 員免許の認可取消の一事なり。︵中略︶今度教員免許の特典を取消されたるは本館の迷惑と損害勘からざるも、 却って独立の精神を発し、実用の教育を施すの一大機会なりと信ず、故に此機会に乗じ本科の学科を修正し左の 旨趣を発展せんとす。︵中略︶先に本館の目的は東洋大学を起すにあることを発表して以来、亦巳に十有余年、 其間専ら力を基本金募集に尽し、単身奔走広く全国に遊説して数万人の賛成を得たるも、前二回の天災︵風災火 災︶に遭遇し校舎の再築に莫大の資金を費し事豫期と相違うに至る。然れども時勢は鰻々として私立大学の開設 を促かし来り、東校西塾皆大学を公称したれば、本館も其豫期する所を実行せざるを得ざるに至る、是れ今回本 館に於て私立大学開設の準備に着手する所以なり﹂。ついで、﹁認可取消の厳命は果して其当を得たるや如何は世 間既に定論あれば、余輩敢て喋々するを欲せずと難も、其累を無事の生徒に及ぼせるは、本館の情義として最も 忍びざる所なれば其後認可復活の願書を提出せしも、文部省にては或は本省の威信に関する等の理由を以て許可 を与え難しとて拒絶せられたり。されば世間如何に広きも最早訴ふるに処なければ、残念乍ら黙して止むる外な し。退きて考ふるに此上は独立自活の精神を以て、純然たる私立学校を開設せざるべからず﹂とし、さらに、 ﹁本館にては大学敷地として府下豊多摩郡江古田村字和田山に一万五千坪を購入したれば、基本金の集るに応じ て此に新築する見込なり。而して認可取消と大学開設とは本館の歴史上 大紀元を開くものなれば、本年中に其 地に記念堂を建築せんとす、其の記念堂は之を四聖堂と名付け、古今東西の大哲学者たる稗迦、孔子、墳古刺底、 52
韓図の四聖を祭り、永く哲学館の記念とする見込なり。︵中略︶本館創立以来大災難にかかること弦に三回、第 一回は風災、第二回は火災、第三回は今回の事件なり、風災と火災とは有形の校舎を失うに止まるも、今回の事 件は無形の権利を失うに至る、校舎は形態のみ、死物のみ、権利は生命なり、活物なり、故に今回の災害は風災 火災に数倍せる大災難と謂ふべし、此災難の為に中島講師其位置を失ひ、生徒は其資格を失ひたるは恰も此難に 殉死せるものの如し、故に其姓名は永く本館に記念せざるべからず。︵中略︶此の如き大災難大事件なれば、之 が為に特に記念碑を建つる必要ありと信ず、況んや此打撃が大学開設を促したるに於てをや、是れ余が本事件と 大学開設とを記念する為に記念堂を計画する所以なり、第一回の災難は九月十三日にして第二回及び第三回は十 二月十三日に起れり、而して十一月十三日は本館創立記念日なり、十三日てふ日は本館に於て大に記念すべき口 なり、殊に十二月十三日は一層記念すべき日なり、故に余は十一月十三日の記念日を十二月に移し十二月十三日 を以て記念堂の祭日と定めんと欲す﹂。と述べている。 そして﹃東洋大学五十年史﹄は、右の井上文書を引用して次のように述べている。 ﹁明治三十六年三月二十六日専門学校令が発布せられ、我国私立学校は競って専門学校令に依る専門学校設立の 議を進めつつあるを見、本館に於ても其の急務なるを自覚し、先づ右の主旨に基き内容の大改革を行い、八月二 十七日館名を私立哲学館大学と改め、諸種の準備を整へ専門学校令に依る専門学校設立認可申請書を提出した。 而して十月一日右の認可指令に接した。︵中略︶更に翌十月二日文部省告示第百八十四号を以て此の旨告示せら れた。即ち井上先生は初代学長の任に就き、藪に哲学館は明治三十七年四月一日より哲学館大学として新しき誕
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生を見ることとなったのである。真に之れ哲学館が内容に制度の上に於て根本的確立を遂げたる一劃期の時であ り、又東洋大学として後年の大をなす一段階でもあったのである﹂。 ところで、この間の事情を、学事報告の形でまとめた第二資料﹃哲学館報告甲号﹄︵明治37.2︶は、その前書 である﹁拝告﹂において﹁洋行不在中ハ本館二不慮ノ件起リ為二本館賛成諸君ノ御配意ヲ煩ハセシモ帰朝後梢方 針ヲ変シ本館ノ素志タル大学ヲ開設スル﹁二定メ文部省へ願書ヲ提出シ昨年十二月二日︵十月二日の誤記ー引用 者註︶付ヲ以テ哲学館大学認可ノ指令ヲ得タリ依テ本年四月一日ヨリ大学諸科ヲ開設シ之ト同時二哲学館大学ト 改称ス﹂と述べ、その﹁本館沿革略﹂において﹁本館ハ帝国大学中ナル文科大学ノ学科二基キ哲学史学文学ヲ兼 修シ併テ東洋諸学ヲ振興スル目的ヲ以テ去ル明治二十年九月東京本郷区龍岡町三三番地二創立シ同月十六日ヲ以 テ開館式ヲ學行スニ一年春井上館主東洋諸学視察ノ目的ヲ以テ欧米漫遊ノ途二上リ翌二二年夏帰朝シ直二東洋専 門学校開設ノ急要ヲ唱へ本館将来ノ目的ハ此ヨリ漸ク其歩ヲ進メ他日国学漢学仏学三科ノ専門ヲ置キ以テ東洋大 学科ヲ開クニアル寸ヲ発表ス。︵中略︶二八年十一月数年間積立テタル寄附金ヲ以テ本館専門科敷地三千八百坪 ヲ小石川区原町字鶏声ケ窪二購入ス是ヨリ漸ク校舎新築費ヲ募集シテ数年ノ間二東洋大学科ヲ開設セン寸ヲ期ス。 ︵中略︶一二十年一月臨時校舎ヲ仮設シ従来ノ学科ノ外二漢学専修科ノ開講式ヲ挙行ス尋テ四月更二仏教専修科開 講式ヲ挙行ス蓋シ本館専門科即チ東洋大学科中第一ナル国学ハ既二国学院ノ設アレハ之二譲ルコトトナシ本館内 ニハ其第ニナル漢学科ト第三ナル仏教科ノミヲ開クコトトナス。︵中略︶三十年七月十七日二小石川原町二移転 シ︵中略︶、十月二日及三日ヲ期シ新築落成開校式ヲ挙グ是ヨリ益学科ノ程度ヲ進メ本館積年ノ素志タル我日本 54
二於ケル東洋大学科ヲ完成セント欲ス西洋諸邦今日既二東洋専門学校ノ設アル就中支那学及印度学ハ各大学中二 其科ヲ置キ以テ之ヲ専修ス実二盛ナリト謂フベシ然ルニ我邦二於テ末タ東洋専門学校アラザルハ昭代ノ一大閾典 ニアラズシテ何ソヤ本館滋二漢学︵支那学︶仏学︵印度学︶両科ノ専修部ヲ置キ他日朝鮮支那印度等ノ語学科迄 ヲ設ケントスルハ其意此閾典ヲ補ヒ以テ国家ノ文運ヲ完成セントスルニ外ナラズ。︵中略∀三二年七月十日文部 大臣ヨリ本館教育部卒業生特待二関スル指令アリ自今右卒業生ハ無試験ニテ中学校師範学校高等女学校ノ教員ト ナルヲ得、九月二至リ学制ヲ変更シテ予科一年本科三年ト改メ本科ヲ教育部哲学部ノニ種二分チ教育部ヲ倫理科 漢学科ノニ門二分チ従来ノ仏教専修科ハ哲学部二合シ漢学専修科ハ漢文科二合スル寸トナル。︵中略︶]、一三年九 月更二本館ノ学科ヲ改正シ教育部哲学部共二第一科第二科ヲ分ケ第一科ハ英語ヲ主トシ第二科ハ国語漢文ヲ主ト スル﹁二定ム随テ予科モ第一第ニノニ科二分ルル寸トナル。︵中略︶三五年十]月十五日館主欧米学事視察ノ為 世界周遊ノ途二上ル同十二月十三日突然文部省ヨリ本館卒業生無試験検定ノ認可取消ノ厳命アリ其理由ハ倫理受 持教師ガ﹁ミューアヘッド﹂倫理書動機篇ノ一節ヲ教授セル際批評ヲ訣キタルハ不都合ナリト云フニアリテ其罰 ヲ教師ノ進退二止メズシテ学館全体二課セラレ無事ノ生徒ヲシテ方向ヲ迷ハシメタルハ実二遺憾ノ至リナリ是レ 本館ノ大災厄トシテ永久記念セザルヲ得ズ因テ自今毎年十二月十三日ヲ以テ記念日トス。︵中略︶十月二日文部 大臣ヨリ本館大学ノ件ヲ認可セラルLと述べている。 さらに円了は、その﹁哲学堂由来記﹂︵﹃東洋哲学﹄十一篇第七号︶において、哲学館事件と哲学館大学の記 念堂としての哲学堂︵四聖堂︶について次の如く述べている。 一 55 一
﹁明治三七年四月一日、哲学堂の落成式を挙行せり。其地は東京府下豊多摩郡野方村大字江古田小字和田山にし て、哲学館大学新築予定地なり。︵中略︶本年四月哲学館大学を開設するに当り、其記念として此堂を建設せり。 故に是れ哲学館大学記念堂なり。其中には、稗迦、孔子、項克刺底、韓図の四大哲学者を標記せる扁額を懸く、 故に或は之を四聖堂と称するも可なり。四聖は実に基本尊たり。此堂は、主として大学開設の記念なるも、之と 同時に、哲学館事件の記念、修身教会発展の記念、日露戦役の記念となるものなり。先づ哲学館事件とは、明治 三五年十二月十三日、文部大臣より、突然、哲学館卒業生無試験検定の認可を取消すとの厳命を下されたる一事 なり。蓋し其事たるや、余の洋行不在中に起りしも、灰かに聞く所によるに、同年十一月卒業試験を行ふに当り、 文部省視学官隈本有尚氏臨監せられ、倫理科第三年級受持講師中島徳蔵氏が、英人﹁ミュールヘッド﹂氏の倫理 書を講本とし、其書中の動機篇の一節を批評を加へずして教授したりというを聞き、甚だ不都合なりとの意見を 文部大臣に報告せられたる結果なりといふ。其処置の当否如何に就きては、図らずも輿論を喚起し、各新聞雑誌 の一問題となりたる事なれば、余が此に論ずるを要せず。唯其累を、毫も中島講師の教授を受けざるものに及ぼ し、八十余名の生徒をして一時に方向を失はしめたるは、実に遺憾の至りなり。即ち此等の生徒は、此事仲の為 に犠牲となりたるものと謂ふべし。且つ其影響に至りては、哲学館創立以来の大打撃にして、大に館運の興廃に 関係したることなれば、永く記念せざるべからず。故に哲学堂は大学の記念と共に、此事件の記念とし、事の顛 末を記して、四聖に告げんとするなり。︵中略︶斯く哲学堂は、一にして記念する所のもの四件あり。其堂は僅 に三間四面にして、至って狭小なりと錐も、其件はいつれも重大なり。其堂は木造にして朽ちることあるも、其 一56−一
件は永く忘るべからず。然れども、其件の大なるは即ち堂の大なる所以にして、其件の忘れられざるは堂の永く 存する所以なりL。 以上、哲学館事件と哲学館大学に関する井上円了文書によれば、哲学館事件を契機として、﹁独立自活の精神 を以て﹂純然たる私立大学としての哲学館大学が開設され、しかもそれを永久に記念する為、大学の敷地である 江古田は和田山の地に同時に、哲学堂︵四聖堂︶が建設されたのである。かかる﹁独立の精神に発し、実用の教 育を施す﹂純然たる私立学校の完成形態としての哲学館大学について、その当時の社会的評価を示す次の一文 〔『圏m哲学﹄第十篇第十号に転載された﹁私立学校としての哲学館﹂︵六合雑誌ごを挙げておこう。 ﹁所謂哲学館事件なるものの起りてより世人は一層同館の将来に就きて注意することとなった。井上館主が帰朝 後如何なる方針を採ならんとは吾人も熱心に聴かんことを欲して居たのである。今や頑冥なる文部省は飽くまで も前非を悔ゆるの心を起さず、哲学館より奪い取りたる特権は再びこれを返すことをせぬのである滋に於て哲学 館は全く特権などに依頼するの心を去り純然たる私立学校的教育を為すの方針を定め、終にはこれを大学組織に 改むることに決したそうだ。殊に吾人の聴て以て最も愉快とする処は哲学館事件の主動者たる中島氏を再び講師 として招聰するに至ったことである。私立学校の起る所以は官立学校にて収容しきれぬ所の生徒を教育するにも あるべけれども、其主たる目的は官立学校の杓子定規然たる教育に対峙して、自主独立の薫陶を施さんとするに 在るは明白である。然るに文部省が一たび統一教育の方針を定め、盛に世話焼主義を実行してより、多数の私立 あつもの 学校は殆んど半官立の性質を帯ぶるに至った。恰もエサウが一杯の藁の為に長子の権を売りしが如く、私立学校
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は文部省が与うる所の特権を得るが為に自主独立の権を売ったのである。︵中略︶哲学館の学生は全く自己の実 力に依りて社会に立つ覚悟をせねばならぬ。彼等は徴兵猶豫の特典を除くの外何等の特権をも有せぬのである。 然れどもこれ元気のある学生の為には少しも悲むべきことではない。彼等は官立学校の学生や、特権を有する私 立学校の学生の如くに試験の為に試験を受くるが如く弊に陥ることはない。彼等は実力を以て競争せねばならぬ。 故に覚悟を以て修学することが出来る。これ実に彼等の為に賀すべき事ではないか。純然たる私立学校の利益は 教師が自主独立の意見を遠慮なく吐き得るに在る。官立学校に教鞭を採り居る教師中には曲学阿世ならざる者も 少なくないであろうが、彼等は自ら信ずる処を大臆に吐露するだけの勇気は有たぬ。ミュアーヘッドの倫理説で 大騒を為すが如き頑固なる文部省を上に載きては唯口を喋むより外はない。然るに文部の系統外に在る私立学校 に於ては充分に学者の自由想を聴くことが出来る。故に将来倫理学史学等に於て]家独創の見を立つるの学者起 らば、是は帝国大学校より出つるのではなくて、必ず哲学館の如き純然たる私立学校より出つるであろう。長谷 川泰氏は特権が得られぬとて次口嵯の間に済生学舎を閉じた。これ教育家の所為としては余りに乱暴である。井上 円了氏は全く之と異なりて、善く忍び善く謀り、却って逆境に居て一大飛躍を試みんとしている。今や実に私立 学校奮起すべき時に際して居る。文部の系統以外に立ちて大に為すべきの好機である。吾人は純然たる私立学校 の急先鋒として哲学館の首途を祝し、大に将来の発達を祈るのである。 かくも輝かしい首途を祝福された哲学館大学は、その後、明治三十九年六月、私立東洋大学と改称認可、七月、 財団法人組織として私立東洋大学財団となり、私立東洋大学寄附行為認可等の制度改革とともに、設立後二年半
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にして東洋大学に変身するとともに、哲学館大学の記念堂としての哲学堂は制度的に東洋大学より分離されるこ とになった。このような制度改革の経緯から、哲学館大学の永久の記念堂としての哲学堂に込められた井上円了 の.遠謀深慮Lも、時の経過とともにその後継者によって次第に﹁遠忘浅慮﹂の純然たる四聖堂に換骨奪胎され て今日に至っているやに想われる。まさに井上円了の﹁意図せざる結果﹂ともいうべき歴史の皮肉を慨嘆するの はあに筆著のみであろうか。 ︵経済学部教授︶
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哲7学’堂公[詞〔ノ)ソV《有弓蓑と1几1聾ミ堂