生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件 - フッサール「生活世界」と今西「生物全体社会」の概念を手がかりとして -
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(2) 論文. かりとしたい。それぞれの手かがりは本論で詳細に議論されるが、 一方のフッ サール〈現象学〉から提供された、 相互主観的かつ間身体的に構成される「生 活世界」は、特に「対面的社会関係」の要件を明らかにする。また、もう一 方の今西〈自然学〉で呈示された、人間と全生命の進化から形成された「生 物全体社会」は、――おそらく生活世界もそれと同範域にわたるのだが、 「対 面的社会関係」とともに――「自然の基盤」という要件まで浮かび上がらせる。 そうした本稿の哲学的考察について、〈現象学〉と〈自然学〉の解釈は、 それぞれに主題となる「対面的社会関係」と「自然の基盤」という要件を議 論するかぎりで援用される。そのために、 当然ながら本稿は、 〈現象学〉と〈自 然学〉の学問的な全体像を議論しえないが、できるだけそれぞれの哲学の主 旨を適正に剔出するかたちで、人間社会の成立要件――「対面的社会関係」 と「自然の基盤」――の妥当性を論証したい。 以下では、まず、フッサール〈現象学〉の「生活世界」概念にもとづき、 人間社会が成立する要件として「対面的社会関係」が仮設される意味合いを 解釈する(第 1 節)。つぎに、もう一つの「自然の基盤」が人間社会の成立 要件として呈示される所以は、 今西錦司の〈自然学〉の「生物全体社会」から、 それと現象学との接点にも触れられ、議論される(第 2 節) 。そして最後に、 現代社会に「対面的社会関係」と「自然の基盤」の要件が崩壊する現実を概 観し、それに対応する「生活空間再生論」構想の目標を再確認したい(第 3 節) 。. 1 現象学の生活世界と対人的社会関係の要件 まずは「対面的社会関係」を人間社会の成立要件として定立する適正につ いて、フッサール現象学の「生活世界」概念から検討する。 「生活世界」を 手がかりとして取り上げるのは、以下で議論されるように、それが人間世界 の成立の「本質」に迫ろうとするフッサール現象学の中心概念の一つだから である 1 )。 現象学と生活世界 「生活世界」 (Lebenswelt)の概念は、フッサールの最 後期の思想が集大成された著作、 『ヨーロッパ諸科学の危機と超越論的現象 学』 [以下、 『危機書』 ] (1954年)において公には初めて呈示された。その「生 2.
(3) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. 活世界」の意味は、ひとまず、「われわれにつねにあらかじめ与えられ、わ れわれが生きているままの自明な世界」と、形態的に定義される(フッサー ル1954: 218ff) 。ただし現象学が探究する「生活世界」は、われわれが「自然 的態度」(natürliche Einstellung)で営む日常生活おいてその存在を自明視 するがゆえに、その本質となる根源的意味が哲学的に剔出されるべき場なの であり、したがって「生活世界」本来の定義は、その根源的意味から導出さ れねばならない。そこで本稿は、人間社会の成立要件の手がかりとする「生 活世界」の根源的意味を理解するために、 「生活世界」がフッサール現象学 の中にいかに位置づけられ、その中でいかにい構築されたかを問うことにな る。 そこで、はじめに現象学の要諦が明らかにされるべきだが、フッサールは 現象学を創始した初期の著作『論理学研究』 (1900 - 01年)から晩年の著作『危 機書』(1954年)まで、現象学をしばしば転回し、倦むことなく深化しつづ けた 2 )。しかも、転変するフッサール現象学は、きわめて難解である。それ でも、捉えがたいフッサール現象学について、とくに後期の思想を受け継い だといわれるメルロ=ポンティは、現象学の全体像を俯瞰しながら、その要 諦を次のように簡潔に整理している 3 )。 現象学とは本質の研究である。……しかし現象学とは、また本質を実存 のなかに戻し、人間と世界とを理解するには、それらの「事実性」から 出発するほかはないと考える哲学でもある。それは、自然的態度から生 ずるさまざまな主張を理解するために、かえってこれらの主張を保留す る超越論的な哲学ではあるが、しかしまた、世界がつねに反省に先だっ て、破棄されえない現存として、 「すぐそこに」あることを認める哲学 でもある。そして世界との、この素朴な触れあいを再発見し、結局はそ れに哲学的な資格を与えることに、あらゆる努力を傾注するのである。 現象学は、 「厳密学」たろうとする哲学の野心であるが、またそれと同 時に、 「生きられた」空間、時間、世界についての報告でもある。それは、 われわれの経験の心理学的な発生や、科学者、歴史家、もしくは社会学 地域創造学研究. 3.
(4) 論文. 者が提供しうるような、その因果的な説明を考慮せずに、経験をあるが ままに、直接、記述しようという試みである(メルロ=ポンティ 1945: 1 - 2)。 メルロ=ポンティのこうした説明に従えば、現象学は、世界の本質を自我主 観がいかに捉えるかという「認識論」的課題と、さらにその本質を事実性か ら主観共同体がいかに捉えるかという「存在論」的課題とを、同時に解決し ようとする哲学であるとみなせる 4 )。そして、現象学が「認識論」と「存在 アプリオリ. アポステリオリ. 論」を架橋する先天的かつ後天的な媒介装置として、フッサールの後期現象 学は「生活世界」を定立したと考えられる。これら点について、次にもう少 し詳細に検討をくわえたい。 現象学的心理学と現象学的還元と生活世界 われわれは誰しも「自然的態 度」(natürliche Einstellung) 、つまり「自分たちは世界の一部をなし、外的 世界の働きかけにさらされ、この働きかけを受動的に受けとっているのだ、 という確信」をもって生きている(メルロ=ポンティ 1953: 31) 。人間は、自 身が他者とともに生きられる自明な世界が、いかにそうした世界となってい るか、という本質をあえて知ろうとはしない。そして、世界を客観的に認識 しようと目論んだ実証諸科学も、自然的態度を反省することなく、かえって その素朴性のうえに無頓着に理論的知識を構成してきた。そのために実証諸 科学は、世界が成り立つ本質を究明しえていない。 そこでフッサール(1927; 1954)はまず、実証諸科学も捉え損ねた世界の 本質を、自我(意識)主観がいかに捉えるか、という「認識論」的課題に 取り組む。そこで意識主観が世界の本質を認識する心理学として、実証科 学である通常の心理学を超えた、「現象学的心理学」 (phänomenologische Psychologie)が提唱される。この現象学的心理学には、 「意識主観の固有本 質的なものが――それの可能的な諸形態すべてに関して――形相的[本質的] 一般性のもとで露呈されることができるという可能性」が見出されねばなら ない(フッサール1927: 33) 。すなわち現象学的心理学に求められるのは、 (本 質)直観と世界の本質とが結びつく「可能性」であるとみなせよう。 4.
(5) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. こうした現象学的心理学の「可能性」が実現されるために、 「現象学的還 元」(phänomenologische Reduktion)という方法が採用される。現象学的還 元は、つぎの二つの過程から成り立つとされる。一つの過程は、 「個々の現 象に即しながら、かつまた総じて心的なものに含まれている成分全体に即し ながら、心的領野のなかで登場する客観的措定すべてに関して厳密に最後ま で一貫して方法的な判断停止を行う」 (フッサール1927: 18 - 19) 。この過程で 現象学的心理学は、自然的態度にもとづく(実証諸科学も含めた)認識を順 次に一貫して差し控え、つまり「判断停止」 (Epoché)を貫徹して、世界の 本質に迫る認識を実践することになる 5 )。またもう一つの過程は、 「多様な 「諸 現出」を〈対象的な統一体[=現出者]の諸現出〉として方法的に把握し記 述し、しかも、この統一体を、〈そのつど諸現出のなかでそれに付着する意 味成分をもった統一体〉として方法的に把握し記述する」 (フッサール1927: 19)。この過程では、判断停止と本質直観(Wesensshau)から世界の本質が 描き出されるのであり、ここに、描き出される世界の「存在論」と、他方の 過程における、本質直観による現象学的心理学の「認識論」とが出会うかた ちになる、とみなせよう。かくして、現象学的還元の二つの過程は、――先 に引用した、現象学の要諦についてのメルロ=ポンティ(1945: 1 - 2)による 指摘どおり――「ノエシス的」(=認識論的)および「ノエマ的」 (=存在論 的)という、現象学的記述の二重の方向を示すともに、 「還元という方法は、 自己経験から他者経験に移される」 (フッサール1927: 19) 。 このような現象学的還元において、認識論と存在論を結びつける、 「生活 世界」という哲学的装置が導入される。すなわち、現象学的還元の、 「ノエ シス的」(=認識論的)と「ノエマ的」 (=存在論的)という現象学的記述の 二重の方向の統合、あるいは「自己経験から他者経験への移行」を橋渡しす アプリオリ. アポステリオリ. る先天的かつ後天的な媒介装置として、『危機書』で「生活世界」が提供さ れたのだ。 さらに『危機書』では、「生活世界」は「超越論的現象学」の現象学的還 元(transzendentale Phänomenologie)において議論される。現象学的心理 学では、自我主観の反省がまずなされねばならないため、 「心理学のつねに 地域創造学研究. 5.
(6) 論文. 用いている基本的諸概念を、自分自身の経験との触れあいから作り上げてい こうとするような反省的努力」が始めに必要とされたのだが、心理学から認 識された事実を精錬するのに役立つ諸概念の定義は超越論的現象学によって なされる、とフッサールは考えた(メルロ=ポンティ 1953: 34)6 )。そこで、 超越論的現象学の「注目すべき帰結」について、フッサール自身は次のよう にいう。 「……それが体系的に実行されるならば、考えうるすべてのアプリ オリな学問の体系的な統一としての普遍的存在論というライプニッツ的理念 を実現する……」 (フッサール1927: 46) 。 生活世界の意味 以上の議論を踏まえて、 超越論的現象学に呈示された「生 活世界」の意味について検討したい。現象学的還元は、 すでにみたように、 「生 活世界」について、一方で「ノエシス的分析」と他方で「ノエマ的反省」を 遂行しながら、 その分析と反省を統合しようとする。このとき「生活世界」は、 知が探究すべき対象であると同時に、知が創出され成立する根源の場である。 こうした「生活世界の最も形式的−普遍的な構造」は、 一方の「事物意識」と、 他方の「事物と世界」とから成り立つのであり(フッサール1954: 254ff) 、そ れゆえ「生活世界」については、現象学の「ノエシス的分析」と「ノエマ的 反省」が統合する認識論的・存在論的場という、構造的定義が導出される。 この「生活世界」は、人間の生と人間社会の存立において「つねにあらか じめ与えられてある存在」として、現象学の根本的前提となる。ここにフッ サールは、超越論的現象学の焦点をあて、次のように主張する。 「世界はあ らかじめ与えられている自明性の唯一の領界である。現象学者ははじめから、 自明的なものを疑わしい謎に満ちたものとみなさねばならず、以後、世界の 存在の普遍的自明性――これこそが現象学者にとっては最大の謎であるが―― を理解可能なものに変えるという以外のいかなる学的主題ももちえない、と いった逆接のうちに生きているのである」 (1954: 328) 。 このように生活世界が人間と人間社会における認識と存在、そして実存の 決定的基盤であると確定したうえで、フッサールは、現象学的還元から、生 活世界が「主観共同体」として成り立つ事実を浮かび上がらせる。フッサー 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. ル(1954: 219)いわく、 「この世界は、当然われわれすべてにあらかじめ与 6.
(7) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. えられている。すなわち、われわれの仲間という地平のうちに生きている人 間としてのわれわれ、他人とのさまざまな現実的結合のうちにある人間とし てのわれわれに、共同の「この」世界というかたちで、世界はあらかじめ与 えられているのである」 (フッサール1954: 219、傍点は筆者) 。 相互主観的な生活世界 こうして、「生活世界」がそこに実存する自我主 観の集合から構成されながら、いかに統一体として成立するか、それが現象 学の課題の一つとなる。すなわち、生活世界におけるある個人は、他者との 間で、 「世界に対する主観であると同時に世界のうちにある客観である」 (フッ サール1954: 326)が、そうした「あらゆる相対性を有しながらも、やはり統 一体として構成される生活世界および生活的対象の総体」 (フッサール1954: 316)という課題が問われるのである。この課題を解決する一つの手かがり として、フッサールは、複数の個別の主観のあいだに共通に成り立つ事態で ある、「相互主観性」 (Intersubjektivät)という概念を提起する。 現象学的「生活世界」では、全体に個々の主観が結びつき、相互主観的調 和が通常的に成立し、多様な個々の事柄の妥当性に相互主観的統一が成立す る。「根源的自我としてのわたしは、わたしの超越論的他者の地平を構成す るが、この超越論的他者は、世界を構成する超越論的相互主観性の共同主観 である」(フッサール1954: 335) 。この事態は、次のように生起する。 「各人 の意識において、また結合によって成長する包括的な共同意識において、同 じ一つの世界が、一部はすでに経験された世界として、他の一部はすべての 人の可能的経験の開けた地平として恒常的に妥当するものとなり、連続的に 妥当しつづけることになる……。ここに、真に存在する物からなる、すべ ての人にとって共通で普遍的な地平としての世界が成立する」 (フッサール 1954: 298) 。かくしてわれわれは、生活世界で「相互主観的な共同の生、つ まり個別化された志向的諸領野すべてを結びつけている共同の生」 (フッサー ル1927: 19)を営むのだ。 生活世界と対面的社会関係の要件 ただし「生活世界」は、現象学におい て認識論の抽象的な枠組にとどまるものではない。 「この」世界そのものは、 統一的に存在し、その内実においてのみ訂正されうる世界としてみずからを 地域創造学研究. 7.
(8) 論文. 維持しているのである(フッサール1954: 188) 。そこに生を営むわれわれに とって、相互主観的な生活世界は、「現れの多様性に対する志向的「指標」 として役立ち、この現れの多様性は、相互主観的総合のうちで結合され、そ れを通してすべての自我主観が(各主観が単に自分だけに個体的な多様性を 通してではなく)共通の世界とその事物へと向かい、それが一般的な「われ われ」のうちで結合されるあらゆる活動の領域となるのである」 (フッサー ル1954: 314 - 15) 。ここからさらに、現象学的還元は、生活世界のありのまま の現実をも浮き彫りにする。そこで、「現象学的世界とは純粋な存在ではな くて、私のさまざまな経験の交点に、私の経験と他人の経験との交点に、相 互の噛み合いをとおして現れるところの、意味なのである。だから、それを 主観性と相互主観性とから分離することは許されない。私の現在の経験が過 去の経験を引き継ぎ、私の経験が他人の経験を引き受けることによって、主 観性と相互主観性とは統一される」 (メルロ=ポンティ 1945: 23 - 24) 。 具体的な生活世界では、 「たがいに共に」というかたちでわれわれも属し ているので(フッサール1954: 195) 、それゆえに、人と人の繋がり、つまり 対人関係の事態が問題となる。 「わたしの身体がほかの物体のうちの一つと しての存在妥当を獲得するような意識がどのようにして成立してくるのか、 他方、わたしの知覚野のある種の物体が、どのようにして多くの身体、 「他の」 自我主観の身体とみなされるようになるのか、これらのことが、いまや必然 的に問われねばならなくなってくる」(フッサール1954: 192) 。かくして、自 我とわれわれ相互とは統一的な生活世界に属していると結論するフッサール 現象学から、対人関係、とりわけ相互主観的な共同の生を営むための「対面 的社会関係」が、人間社会の決定的な成立要件として導出される。 以上で検討したように、フッサール現象学の「生活世界」論から、人間社 会の成立要件として「対面的社会関係」が誘導されるが、フッサールが示唆 する「生の連関」は、人間社会の主観共同体にとどまるものではない。ただ し、確かに現象学において、フッサールは自然世界にも言及し(例えば、フッ サール1954: 45ff)、当然に現象学は自然精密科学をも基礎づけるはずなのだ が、「生活世界」論では議論が人間社会にのみ集中するようにみえる。しか 8.
(9) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. も、フッサール現象学の諸著作から、例えば「自然的」態度("natürliche" Einstellung)のように「自然的」と日本語に翻訳される言葉は、 「ありのままの」 といった含意で、自然世界を表すものでなく紛らわしい。いずれにせよ、フッ サール現象学の議論は、生活世界に自然世界にまで及ぶ「生の連関」を想定 しながら、人間や人間社会と自然世界との「生の連関」にまで十分に踏み込 んでいない。 したがって、生活空間再生論が定立する、人間社会の成立要件として、 「対 面的社会関係」と並ぶ、他方の「自然の基盤」は、フッサール現象学からは 誘導されない。その「自然の基盤」の成立要件については、次に、フッサー ル現象学に近似する思想で、人間社会を含む自然世界全体を探究する今西錦 司の〈自然学〉を手がかりに考察してみたい。. 2 自然学の生物全体社会と自然の基盤の成立要件 「自然の基盤」を人間社会の成立要件として定立する根拠については、今 西錦司の〈自然学〉の「生物全体社会」を手がかりに議論をする。というの も、 「生物全体社会」を探究する〈自然学〉の構想が、全体自然を射程に収め、 人間社会を一部分とする、生命の全体世界の成り立ちを浮かび上がらせよう とするからである。自然学における「生物全体社会」の概念は、以下に議論 されるが、現象学の「生活世界」を包含する意味をもち、そこから人間社会 の成立に「自然の基盤」が不可欠な要件であることが、誘導される。 自然学と現象学を通底する基礎論 自然学は、今西錦司(1986; 1990)が 独自の進化論にもとづき、生物学から生物社会学へと研究を進展させて晩年 に提唱した、 「全体自然の本質」を捉えようとする学問である。そしてそれは、 「生物と自然とをもとのままの一体としてつかむ方法があるかどうか」 (1990: 54 - 55)を追求する。今西自身の言葉によれば、 「私の提唱する自然学は、自 然を客観的に扱うことではなく、自然にたいして自己のうちに、自然の見方 を確立すること」(1990: 84)でなければならない。自然学は、部分的な自然 しかみようとしない自然科学を否定し、 「生命のこもったものとしての生物 や生物に満ちた自然というものを、それ自身として捉える方法である(今西 地域創造学研究. 9.
(10) 論文. 1986: 131)。 こうした自然学の対象の捉え方、つまり自然学の基礎論は、興味深いこと に、現象学にきわめて近似している 7 )。まずは、 「科学的認識の批判」である。 今西(1986; 1990)は、全体を把握する自然学を提唱し、還元主義に陥いり 研究対象の「部分」しかみない科学を否定した。そして、 「科学とは決別し たいんや」と主張する(今西1990: 51)。現象学もまた科学を否定した。現象 学による科学の否定について、メルロ=ポンティ(1945: 3)は次のように指 摘する。「[現象学では]記述することが肝心なのであって、説明したり、分 析したりすることではない。フッサールが初期の現象学に与えたこの命令、 つまり「記述心理学」であれ、 もしくは「事象そのものに帰れ」という命令は、 さしあたり科学の否認である」8 )。 自然学は、まず現象学と同様に「科学的」認識を批判し、そうえでつぎに、 その基礎論が、対象にアプローチする方法において現象学と似通っている。 自然学が対象全体の本質を捉えるさい、「直観」の方法が強調される。今西 (1986: 136)によれば、 「直観というものは要するに、考える以前のもので あり、意識にして意識にあらざるものである」 。この直観を通して、今西は、 なま. 全体自然にアプローチする課題を次のように主張する。 「生の自然というも んをどうしてつかまえるかということや。それは昔の人のことばやったら悟 りでしょうけどもね。大悟一番ということやな。それ以外にないのや」 (1990: 197)。そして直観の方法による達観ないしは大悟一番という自然にたいする アプローチを次のように説明している。 それ[全体自然の把握]をやろうと思うたら、自然に対してですね、エ イとばかり達観する。達観によって把握する。あるいは大悟一番という 言葉があります。大悟のゴは、悟りですね。悟りをひらいて把握する。 ……こういう達観とか大悟一番というもののもとになるものに、 「直観」 というものがあることを、ここで指摘したい。 (今西1990: 58) 自然学のこうした方法論は、現象学の「判断停止」による「現象学的還元」 10.
(11) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. に通じる 9 )。おそらく、 判断停止が素朴な日常的認識を差し控えるように、 「達 観」や「大悟一番」は、精神を解放して日常的認識を超え、対象の本質に迫 ろうとする。その結果、自然学はまた、現象学的還元と同様な対象の把握に 到達するとみなされる。そうした自然学固有の、そして現象学に通底する対 象把握の基礎論は、今西の最初期の著作である『生物の世界』の記述にすで に看取しうる。 『生物の世界』は今西が自然学を唱えるずっと以前の著作だが、自然学の 原点となる思考がそこに明確に表明されている。この著作の「序」の冒頭で、 今西(1941: 3)自身はこう記している。 「それ[ 『生物の世界』 ]はそこから 私の科学論文が生まれ出ずるべき源泉であり、その意味でそれは私自身であ り、その自画像である。」そして自然学の原点となる基礎論、現象学的還元 と相似する思考が、次のように記述される。 ……私がここで意味するような素朴な認識というのがかくのごとく、も のとものとを比較し、その上で判断するというような過程を踏まなくて も、いわば直感的にものをその関係において把握するということである とすれば、ものが互いに似ているとか異なっているとかいうことのわか 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. るのは、われわれが認識そのものに本来備わった一種の先験的な性質で 4. 4. 4. 4. ある、といいたいのである。そして、それというのもこの世界を成り立 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. たせているいろいろなものが、もとは一つのものから分化発展したもの であるというところに、深い根底があるのであって、それはすなわちこ のわれわれさえが、けっして今日のわれわれとして突発したものでもな く、また他の世界からやって来た、その意味でこの世界とは異質な存在 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. でもなくて、われわれ自身もまた身をもってこの世界の分化発展を経験 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. 4. としてみたものであればこそ、そうした性質がいつの間にかわれわれに 4. 4. 4. まで備わるようになった。世界を成り立たせているいろいろなものが、 われわれにとって異質なものでないというばかりでなくて、それらのも のの生成とともに、われわれもまた生成していった。そう考えればそれ らのものの間に備わったもともとからの関係を、われわれが何の造作も 地域創造学研究. 11.
(12) 論文. なく認識し得るということは、むしろわれわれ自身に備わった遺伝的な 素質であり、難しいことをいいたくなければ、われわれに備わった一 つの本能であるといっても、間違ってはいないであろうと思う。 (今西 1941: 16 - 17) (傍点は、筆者) この記述は、まさに現象学的思惟とその世界観であるといえる。そして、引 用文中の次の箇所、つまり「……われわれが認識そのものに本来備わった一 種の先験的な性質である」という箇所は、現象学的還元の「ノエシス的」 (認 識論的)方向に相当する言及であり、またその次の箇所、つまり「この世界 を成り立たせているいろいろなものが、……そうした性質がいつの間にかわ れわれにまで備わるようになった」という箇所は、その「ノエマ的」 (存在 論的)方向に相当する主張とみなせる。そして、この二つの方向が出会う地 点に自然学が成立する。すなわち、自然学の基礎論は、現象学と同様に、 「認 識論と存在論を統合した対象の把握」を志向している。 生物全体社会の概念 このように、自然学の認識論と存在論を結びつける、 現象学の「生活世界」に対応する哲学的装置は、 「全体自然」である。今西は、 その「全体自然」を次のように特徴づけている その[全体自然の]世界は絶対空間のようなまっくらな世界を拒否する。 その世界はさんさんと太陽の照りかがやくもっと暖かい世界である。動 物も植物も仲よくくらす世界である。地震の予知もできず、台風の針路 を変えることもできない現在の科学の非力をあざけりつつ、そこをわれ われの唯一の安住の地として、過去にも生き、いまもなお生きつづけて いる、その地球中心の世界であり、そこはまた自然学のふるさとでもあ る。フンボルトのコスモスになぞらえるならば、 ゲオコスモスとでもいっ たらよいであろうか。 (今西1986: 71 - 72) ただし今西は、地球(geo-)中心の全体自然から特に動植物を取り上げ、地 質や鉱物などの無生物を除いた「生物全体社会」 (holospecia)に特に焦点を 12.
(13) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. あてて「自然学」 を論じている (1986; 1990) 。今西 (1986: 132) 自身によれば、 「私 の見ている自然というもの、生物を中心にして成り立ったこの自然というの は何かといいますと、これは、この種社会が構成単位となってできあがって いる、ひとつの大きな「生物全体社会」である」 。この、 自然学が解明する「生 物全体社会」の本質から、そこに包含される人間社会の成立条件が誘導され る。次に自然学の核心である〈進化論〉を概観したうえで、生物全体社会か ら導き出される、人間社会が成立するための「自然の基盤」という条件につ いて検討したい。 生物全体社会の階層構造 「生物全体社会」について、今西〈進化論〉は、 その議論を展開する基礎に生物全体社会の階層構造を措定している。それは 次の引用のように、三段構造で成り立ち、すべてが相互に連関し合う。 私は……、生物社会の構造として、種個体・種社会・生物全体社会とい う三段構造を認め、種個体は種社会の部分であり、種社会はまた生物全 体社会の部分である。この三つは、それぞれレベルを異にした社会構造 上のユニットであると主張した。これをもう一つ強くいうと、部分であ る種個体は、つねに全体である種社会の規制のもとにおかれており、そ の種社会もまた全体としての生物全体社会の規制のもとにおかれている ということになる。 (今西1986: 100) このように、種個体・種社会・生物全体社会という主たる三段構造――と 種社会の同位社会・同位複合社会・全体社会という中間段階構造と――から 成り立つ生物世界で、各段階のユニットがそれぞれに独立しながら相互連関 しあう状態を、次のように特徴づけている。 ……個体と世界とをその両極に持ったもののようにも解せられるであろ う。個体はそれぞれが一つの世界の中心として、種社会・同位社会・同 位複合社会・全体社会といったものを介して世界に通じている。もちろ んこれらの社会もまたそれぞれに世界の一つの中心として考えられるで 地域創造学研究. 13.
(14) 論文. あろう。しかしこれらの社会は要するにこれを個体のそこにおいてある 場所と解することによって、実際は世界の一極としての個体も常に世界 に接し、つねに世界に対して働きかけているものであるということがで きるのである。 (今西1941: 135) そうした生物世界の構造と各ユニットの連関の中で、今西(1986)は特に 種社会(specia)を進化論の重要な単位とみなす。種社会は、 「種の個体全体 をその中に含んだものであるが、単なる容れものではない。そうかといって、 これは概念的な構築物でもない。種社会は認識可能な実在物であり、それ自 身が主体性をもっている。種社会を構成しているそれぞれの種個体は、この 種社会にたいして帰属性をもち、つねに自分の属する種社会の維持存続に貢 献している」(今西1986: 77)。そして今西進化論は、 「種社会と種個体とは二 にして一である」とみなす。すなわち、種の起源とは、単数の個体の発生で はなく、複数の個体が同時に現れる「種社会」の発生であり、したがって種 個体と種社会は一体である、とみなされる(今西1941; 1986; 1990) 。さらに、 「種社会」の種個体には優劣が認められない、と今西〈進化論〉は主張する。 つまり今西〈進化論〉では、次にみる通り、ダーウィン進化論の核心である 最適者生存が無視され、自然淘汰も否定されることになる。 自然学の進化論 〈自然学〉は、ダーウィン〈進化論〉を批判し、独自の 今西〈進化論〉のうえに成り立つ。今西(1986: 55)は、生物がもと一つで あったものが時間とともに二つに分岐し、それを繰り返しながら、現在の多 様な生物に分化したとみなし、 この「単系進化説」についてだけは、 「ダーウィ ンの忠実な追随者」であると主張する。しかし今西〈進化論〉は、進化のメ カニズムを説明した、ダーウィン〈進化論〉の核心にある「自然淘汰説」を 根本的に否定する。ダーウィン進化論における「自然淘汰説」の競争原理に たいして、今西〈進化論〉(1986)は、「棲み分け説」の共存原理を提供して いる。 「棲み分け」 (habitat segregation)説は、今西がカゲロウの生態学的研究 から着想した、種社会、さらには生物全体社会にまで及ぶ生物社会の成立原 14.
(15) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. 理である(今西1948[1994] ) 。その説によれば、 「種はそれぞれに、ちがっ た生活の場を確保し、ちがった生活の場の上に成立している」 (今西1948 [1994]: 90)。もとより、棲み分けは、ある範域に整然と種社会が単一の生活 形を営むという「同位社会」に限らず、時空間に応じて種社会内の異なる生 活諸形が複雑に錯綜する「複合同位社会」 ・ 「階級社会」としても構成される。 こうした種社会の棲み分けは、「系統的・進化史的な位階のちがい」をもつ 植物社会・昆虫社会・魚社会・哺乳類社会でそれぞれにみられる。そして、 それらの諸種社会は、――もともとは一つであったものが、分化し発展した のだが――それぞれに「ちがう世界」を築き、同じ地上に錯綜しながらも棲 み分けていることになる。 また今西〈進化論〉では、種の進化について、ダーウィン〈進化論〉の「グ ラヂュアリズム」(漸次主義)も否定される(1986: 120) 。ダーウィニズムが 種個体の自然淘汰による「漸次的」な進化を仮設するのにたいして、今西進 化論によれば、 「種と個体とは同時に出来たものだから同時に変わってゆく」 ので(今西1986: 120) 、変わるべきときに一斉に変わると論定する。個体や 種は本来、存続や現状維持を志向し実践するものだが、生物史に進化はある タイミングで実際に生起してきた。そのさい、新たな種の誕生は、その種の 種個体の一斉の誕生であるから、進化は「漸次的」でなく、 「革命的」と考 えられる。 しかし、以上のような今西〈進化論〉における進化の原理は、 ダーウィン〈進 化論〉の「自然淘汰説」が常識のように人口に膾炙してきたので、なかなか 理解されにくいようだ。この点について今西自身が次のように述懐する。 私の進化論には世の中のありふれた知識人が読むと、頭にはいりにくい 点が二つあるらしい。その一つは、種(種社会)を構成している個体の あいだに、甲乙があってはならないということ。いま一つは、進化は変 わるべくして変わるということ。もすこし丁寧にいえば、変わるべきと きがきたら、種を構成しているこの甲乙のない個体が、みな一斉に同じ ように(甲乙のないように)変わるというくだりである。知識人の頭に 地域創造学研究. 15.
(16) 論文. はいりにくいかもしれないが、この二点は私の進化論のエッセンスのよ うなものであり、同時にそれがダーウィニズムやネオ・ダーウィニズム にくらべて、本質的に相容れない点でもある。 (今西1986: 97) 結局、今西〈進化論〉は、 「進化とは棲み分けの密度化」 (今西1986: 97)で あると結論づけ、その進化論を土台とする〈自然学〉は、種社会が生物全体 社会の維持される限りで自主性を有し、主体的に進化する(1986: 56) 、と主 張する。 創生の神話と自然の基盤の成立要件 〈自然学〉は、全体自然における生 物全体の次のような連関関係を解明した。まず、 「生物全体社会」を構成す る全ての種個体・種社会は、複雑に棲み分けて相互連関する。そして、全て の種個体はそれぞれに主体性をもつが、それぞれが属する種社会の存続に規 制され、さらに全ての主体的な種社会も、 統合的完結体である「生物全体社会」 の存続に規制される。このように、主体的な種個体・種社会は、独立しなが ら相互に連関して「生物全体社会」に統合する。 こうした、生物全体社会における種個体・種社会の不可分な連関関係は、 進化の起源から形成された。というのも、「生物全体社会がもとは一つのも のから出発して、その子孫が分化発展した結果、今日の繁栄を見るに至った ものである」からだ(今西1986: 85) 。今西〈進化論〉は、 これを「創生の神話」 と呼ぶ。「創生の神話」は、生物の進化の起源いらい32億年をへて進化の位 階の最上位に位置する人間と人間社会をも規定する10)。 ここで、人間社会の成立要件としての「自然の基盤」が、自然学から誘導 されよう。人間社会は、生物全体社会の一部であり、他の種社会との連関の なかではじめて成立する。「自然の基盤」は、進化論にもとづく人間社会の 成立要件とみなされる。. 3 人間社会の成立要件で診断される現代資本主義社会の現実 生活空間再生論が人間社会の成立要件として措定する「対面的社会関係」 と「自然の基盤」については、これまでにみたとおり、フッサール〈現象学〉 16.
(17) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. の「生活世界」と今西〈自然学〉の「生物全体社会」の概念を手がかりに、 それぞれの要件の適正が解釈された。一方で〈現象学〉は、日常生活でその 表層が自明視されながらもその本質が全く看過されている「生活世界」の実 在を掘り起こし、「生活世界」が相互主観的・間身体的に結びつく「対面的 社会関係」から成り立つ普遍性を明らかにする。また他方の〈自然学〉は、 人間と人間社会を含めた、あらゆる生命が生を営む場である「生物全体社会」 を浮かび上がらせ、 「生物全体社会」に創生の神話と進化とで全生命が繋が る「自然の基盤」 を明らかにしている。こうした生活世界や生物全体社会の 「原 理」に即して、それぞれ「対面的社会関係」と「自然の基盤」という、二つ の成立要件に限ってだが、それらの適正が解釈された。 これらの「対面的社会関係」と「自然の基盤」の要件は、現象学や自然学 の哲学的考察から導出された「原理」であって、もとより実証しうる事実で はない。それらの要件は、生活空間再生論が「持続可能な社会」を構想する さいに、人間社会の理念型を構成する規準となる。このような二つの成立要 件が、生活空間再生論における社会の現状認識や将来構想に、いかに適用さ れるのか、その問題について、以下で若干の検討をくわえたい。 哲学的概念としての生活世界 人間社会の成立要件として「対面的社会関 係」と「自然の基盤」を導き出す手がかりとなった「生活世界」と「生物全 体社会」とは、 ともに、 生活空間再生論が特定の社会の事実認識をするさいに、 準拠枠であったり分析概念であったりするのではなく、まして研究対象の概 念となるのでもない。そうではなくて、それら二つの両概念は、生活空間再 生論であくまでも哲学的概念として取り扱われる。というのも、現象学はも とより、全体自然を研究対象とする自然学も、科学的認識を否定して、その 基礎概念を哲学的に考察しているからである 実際に「生活世界」の概念は、社会学の対象概念や分析概念として援用さ れたが、いずれの研究も成功していない。というのも、 「生活世界」の概念は、 現象学の方法論、とりわけ現象学的還元を通してしか到達しえないが、 「生 活世界」の概念を適用する多くの社会学は、その概念から現象学的還元の方 法を切り離してしまうからである11)。そもそも、社会科学が現象学の「生活 地域創造学研究. 17.
(18) 論文. 世界」を実在の研究対象とするのには、現象学が科学的認識を否定するのだ から、そのアプローチ自体が自己矛盾ともいえる。例えばハーバーマスは、 『コ ミュニケイション的行為の理論』 (1981)で生活世界の概念を適用するさい、 次のように主張する。 「フッサールは意識哲学の基本概念を用いて生活世界 の問題を論じているわけだが、この基本概念を捨て去るなら、生活世界とは、 文化的に伝承され言語的に組織化された解釈範型のストックのことであると 考えることができよう」(ハーバーマス1981[下] : 25) 。この主張は、現象学 と「生活世界」概念を切り離し、「生活世界」概念を勝手に社会学で構成し ようというのだから、あまりにも乱暴な立論といわざるをえない。そうする のであれば、もはや「生活世界」の名辞の適用は許されず、新たな概念とそ の名辞を定立すべきであろう。また、フッサールが認めるほどに現象学を理 解し、現象学的社会学を標榜したシュッツ(1932)でさえ、いや、むしろだ からこそ、「生活世界」の社会学を放棄し、マックス・ヴェーバーの理解社 会学に依拠して「社会的世界」の社会学を探究するようになった。 フッサール現象学において「生活世界」は、現実の本質を捉えるのに不可 欠な哲学的装置ないしは哲学的実在として構成されている。 「生活世界」の 実在は『危機書』(1954)に明示されているが、現象学はその現実の解明を 目的とせず、それが「相互主観性」と「間身体性」から成り立つ必然的な哲 学的基礎だけを示唆する。フッサールが提示した、こうした「生活世界」の 概念は、人間社会の日常生活の場の成り立ちを暗示するかにみえる。そして 「生活世界」の概念を社会的現実に適用しよう試みた、 シュッツ(1970)やハー バーマス(1981)など、ほとんどの社会学者は、 「生活世界」を日常生活の 社会空間に限定する。しかしフッサール現象学の「生活世界」は、主観と主 観共同体の意識に直接・間接にかかわる実在全体の地平であり、人間世界の 範域だけではなく、 自然世界の範域もまた必然的に想定されている(フッサー ル1954: 49ff) 。フッサール自身が最終的に、生活世界の構成を相互主観性と 間身体性に限定しているが、本来の「生活世界」の範域は、人間世界を含む 地球規模の自然世界に及び、さらにはそれを超えた宇宙世界にまで至るはず である。おそらく“Lebenswelt”は、「生の世界」と解釈されるのが適正では 18.
(19) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. ないだろうか。 哲学的概念としての生物全体社会 フッサール〈現象学〉が呈示する、本 来の「生活世界」の範域は、今西〈自然学〉の「生物全体世界」にほとんど 一致する。今西(1941)は、自然世界を全種個体の主観が「直観」や「洞察」 できるのは、全種社会が創生の神話で、つまり全種個体が同一種の起源から 派生し進化した結果で連結する「生物全体社会」の存在による、とみなした。 フッサール現象学が、把握していながら結局は暗黙裏に切り離してしまった、 人間社会と自然社会について、今西自然学は、 「進化論」にもとづいて人間 社会が自然世界としての「生物全体社会」に包含されると解釈する。 「生物全体社会」もまた、〈自然学〉の哲学から誘導された概念である。今 西〈自然学〉の基礎は、 しばしば西田哲学や仏教の思想に相似すると指摘され、 また今西自身(1990)も、自らの〈自然学〉の自然観が「仏教よりも道教に 近い」(p.94) 、さらに「[自然科学の機械論的自然観を批判し、 「生きた自然」 を探究する]ゲーテの自然観に近い」 (p.89,[ ]内は筆者による)と主張す る。そして〈自然学〉について、今西(1990: 51)は、 「哲学になるんやろな。 その中でも歴史哲学に近いやろ」と主張した。 しかし自然学は、哲学的探究をするにせよ、生物学、生態学、生物社会学 などの帰納的研究の成果を積み重ねた末に構想されたので、 「生物全体社会」 の現実の実態を――哲学的方法に終始した現象学よりも――より具体的かつ より印象的に浮かび上がらせる。実際に今西は、例えば『人間以前の社会』 (1951)や『人間社会の形成』 (1966)で、人間社会や社会進化にも言及して いる。そこには、人間社会における「生活世界」の相互主観性や間身体性に 触れる解釈はないが、 「生活世界」を進化論にもとづく自然学からアプロー チする方法は、社会学が人間社会の本質を解明するさいに、一つの手がかり を与えるかもしれない12)。 格率としての人間社会の成立要件と現代社会の診断 いずれにせよ、現象 学「生活世界」と自然学「生物全体社会」とから哲学的に解釈される、人間 社会の二つの成立要件――対面的社会関係と自然の基盤――は、現実を照ら し出す条件ではなく、人間社会の理念型の普遍的な存立要件である。である 地域創造学研究. 19.
(20) 論文. から、二つの哲学的解釈から誘導された成立要件は、 〈生活空間再生論〉が 人間社会の現実を分析する準拠枠ではなく、その現実を診断する規準となる。 さらにそれらの二つの成立要件は、〈生活空間再生論〉がめざす「持続可能 な社会」の将来構想の「格率」 (Maxime)としても設定される。 そこで、 「対面的社会関係」と「自然の基盤」の成立要件から日本の現代 社会を診断すれば、現代社会では、とりわけ都市社会においてそれらの二つ の成立要件を喪失しているかにみえる。ということは、生活空間再生論の見 地から、現代都市社会は成立しえない状況にある、と診断される。おそらく、 二つの成立要件が現代社会でいまなおようやく充たされているのは農山村社 会である、と誰しもが感じるにちがいない。そこで、生活空間再生論は、持 続可能な全体社会の構成に向けて、農山村社会の生活空間の再生を足場とし て設定する。 ところが、日本の農山村社会の現実をみれば、その生活空間再生はかなり 難題である。多くの農山村集落では過疎化・高齢化が深刻化し、これから消 滅する限界集落の増加が懸念されている(国土交通省「国土形成計画策定の ための集落の状況に関する現況把握調査」2006年) 。そうした農山村社会の 過疎化は、資本主義の発展を媒介として、都市社会の過密化と表裏一体であ る。すなわち、資本主義の発展が特に労働市場と消費市場の空間化としての 大都市社会を高度化すると、農山村社会から都市社会への人口流入が拡大し た。その結果、資本主義の発展から取り残された、いわゆる僻地の農山村地 域の集落ほど、過疎化・高齢化が深刻化し、消滅さえする事態となっている。 しかし、そうした集落ほど、つまり資本主義に置き去りにされ農山村地域の 集落ほど、 「対面的社会関係」と「自然の基盤」の人間社会の成立要件を充 たす状況が看取される。 また都市社会は、経済成長で都市生活の利便性や快適性を向上させ、全体 的にも活性化したかにみえるが、同時に過密化や環境問題などの様々な都市 問題を抱えてきた。都市社会においてとりわけ深刻な事態は、 「対面的社会 関係」と「自然の基盤」の社会成立の二要件に照らしてみると、生活空間に おける「相互扶助の欠如」と「自然環境の破壊」である。生活空間における 20.
(21) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. 個人や家族の孤立は、多様な形態で出現しているが、ともすれば不況などの 経済問題の影に隠され、事態の深刻さほどには問題視されないようにみえる。 そして生活環境の悪化も甚大であるが、都市生活者の関心は、その悪化を根 本的に改善することよりも、快適性や利便性の維持や向上することにあるよ うだ13)。 人間社会の成立要件の充足を阻害する資本主義 二つの社会成立要件を充 たさない都市社会の存立基盤の脆弱さは、阪神淡路大震災(1995年)と東日 本大震災(2011年)という、人間社会にとって甚大な自然災害によって、多 くの観点から顕わになったのではなかろうか。過密な大都市社会と過疎の農 山村社会では、人間社会の持続可能性という観点から、どちらがより深刻な 根本的問題を抱えているのか、この疑問を〈生活空間再生論〉は、問い直し てみたい。もとより両方の社会がそれぞれの重大な問題に晒されているが、 〈生活空間再生論〉は、都市社会と農山村社会の問題の出現が、 「資本主義」 とそこから派生する「高度近代化」という一つの源泉に起因する事実に着目 する。 資本主義は、都市社会と農山村社会を同時に破壊した。一方で、都市社会 は、資本主義が深く浸透し、それによって形成されたがゆえに崩壊しつつあ り、また他方で、農山村社会は、資本主義の発展から取り残され、資本主義 が浸透しなかったがゆえに崩壊してきた。一見すると都市社会の活性化をも たらした資本主義や、その活性化を表象する高度近代化が、実は都市社会に おける人間社会の成立要件を充足させる現実を破壊してきたのだ。また農山 村社会は、資本主義の徹底的な浸透をまぬがれたので、人間社会の成立要件 を残したが、構成人口が都市社会に流出したため、その存続を破壊された。 こうした見地から、〈生活空間再生論〉は、資本主義が現代社会に根本的 問題をもたらすメカニズムと、その根本的問題の現実とを考察しつつ(安村 2010)、人間社会の成立要件という格率にもとづき、 「持続可能な社会」を社 会構想しようとする。その「対面的社会関係」と「自然の基盤」という成立 要件は、 〈生活空間再生論〉において、現代資本主義社会を診断する基準で あると同時に、持続可能な社会構想の格率となるのだ。 地域創造学研究. 21.
(22) 論文. おわりに 本稿は、 〈生活空間再生論〉構想が拠って立つ、人間社会の成立要件とし ての「対面的社会関係」と「自然の基盤」という、すくなくとも二つの成立 要件が措定される意味を、フッサール〈現象学〉と今西〈自然学〉を手がか りとして、哲学的に解釈した。そして、現象学の「生活世界」の解釈から明 らかとなったのは、人間社会において個々人は、本来、 「相互主観的」かつ「間 身体的」に結びついている、 という仮設である。また自然学の「生物全体社会」 からは、人間社会がその一部として成り立ち、そこにおいて人間があらゆる 生命と結びついている、という仮設が解釈された。こうして、人間社会が人 間同士の結びつきと自然との結びつきではじめて成り立つ、という仮設から、 二つの成立要件が〈生活空間再生論〉の「持続可能な社会」構想において定 立されるのである。 さらに本稿は、この二つの成立要件が、現代社会を診断する規準となり、 また未来社会を構想する格率となる可能性を議論したうえで、現代の先進社 会に二つの成立要件を充足しえない現実をもたらす原因が「資本主義」では ないか、という疑問を呈示した。この疑問については、これから〈生活空間 再生論〉で綿密な考察が求められる。 最後に、本稿での議論を踏まえ、生活空間再生論の「多重社会空間論」 (安 村2009)と、「生活世界」ならびに「生物全体社会」との関係について少し 付言したい。 「生活世界」はフッサール〈現象学〉において――既述のよう に――本来は、社会生活の場に限らず、人間社会全体を包含する全体自然に 及ぶ範域にわたるものであり、今西〈自然学〉が導出した「生物全体社会」 の範域と一致するものでもある。フッサール〈現象学〉は、 人間が「生活世界」 を基盤にして現象の本質を捉えると主張し、その生活世界が個人を取り巻く 環境全体の地平だと規定したにもかかわらず、最終的に「生活世界」を人間 社会の社会関係に限定してしまった。これにたいして今西〈自然学〉は、現 象学と同型の哲学的アプローチで、フッサール〈現象学〉が最初に措定した 全体自然も含む生活世界の全範域を、 「生物全体社会」で呈示したのである。 そして、〈生活空間再生論〉が構想する「持続可能な社会」の範域もまた、 22.
(23) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件. 「生物全体社会」の範域に一致する。生活空間再生論では、個人を中心とし て、個人と社会の物理的心理的距離に応じて、下図のような「多重社会空間」 を想定し、そのさい全体自然と全次元の社会空間とを合わせた範域が「生物 全体社会」の範域と重なる。〈生活空間再生論〉では、その多重社会空間論 の全体を統一的に表示する名称として、 「人間/自然世界」 (human / nature world)を用いることにする。. 図 多重社会空間論と「人間/自然世界」 〈生活空間再生論〉は、この「人間/自然世界」の人間社会を自然の基盤 のうえに、つまり「生物全体社会」として成立させて、はじめて「持続可能 な社会」が実現できる、と構想する。そして、この構想では、 「対面的社会 関係」と「自然の基盤」が「持続可能な社会」構築の格率として定立される ことになる。「人間/自然世界」全体の再構築は、そこに生きる個々人が主 体となって、生活の場としての「生活空間」の再生という出発点から実践さ れる。. 地域創造学研究. 23.
(24) 論文. 注. 1)現象学における「生活世界」の先天的存在とその自明性について、フッサー ル(1954: 197)は次のようにいう。「世界が存在しているということ、しか もつねにあらかじめ存在しているということ、そして、ある見解、経験的な ものであれ、あるいはその他のものであれなんらかの見解の訂正はすべて、 すでに存在している世界を前提にしているということ、換言すれば、そのつ ど疑いもなく存在するものとし妥当しているものの地平――そこには既知の もの、疑いもなく確かなものが存在しており、それと矛盾するようなものが 非存在だとして通用を停止されたこともある地平――である世界が存在して いるということは、あらゆる学的思索やあらゆる哲学的問題提起に先だつ自 明事に属している。」そしてフッサールは、つぎのように現象学の探究目標 を「生活世界」に定める。「われわれは、人間の世界生活の一般的な「基盤」 としての「生活世界」だけに、一貫した理論的関心を向け、しかもこの一般 的な「基盤」としての機能がこの生活世界の固有性をなすその様式に関心を 向けることから、われわれの新たな道をはじめよう」 (フッサール1954: 282) 。 ただし、「生活世界」の概念は、フッサール以降の主な現象学の系譜に継 承されていない。フッサールの後期現象学を受け継いだメルロ=ポンティで さえ、その著作で「生活世界」にほとんど触れていない。この概念に対する 現象学者からの批判も少なくない。例えばハイデガーが、師であったフッサー ルと決別した前後に執筆した『存在と時間』(1927)には、彼が哲学的探究 の目標として定立した「現存在」(Dasein)の根本的構えである「世界・内・ 存在」(In-der-Welt-sein)を捉えるさい、「世界定立」(Weltthesis)を次の ように批判する。「……「世界を認識するという現象」そのものが捉えられ るや否や、この現象もまたすでに、ひとつの「外的」な形式的な解釈に陥っ てしまったのです。これを指示するものは、今日なお普通におこなわれてい るところの「主観と客観とのあいだの関係」としての認識の設定であって、 この手がかりは、ただ空しさだけの「真理」をそのなかに孕んでいるのです」 (ハイデガー 1927: 117)。この批判は、ハイデガーが最初にフッサールと一 緒に『ブリタニカ草稿』(1927)を執筆し、その後に袂を分かった頃になさ れた(木田1970: 71 - 99)。『ブリタニカ草稿』最終稿には「生活世界」の概 念は直接に表記されていないが、 「生活世界」の着想はあったので、ハイデガー の「世界定立」批判は、「生活世界」批判とも受け取れよう。 2)一般的に、フッサール現象学の展開は三つの時期に分かれる、とみなされて いる。木田(1970: 9)によれば、「フッサール哲学の展開は、『論理学研究』 (1900 - 01)に代表される初期、 『純粋現象学および現象学的哲学の構想(イデー ン)』[『イデーン』]第一巻(1913)を中心とする中期、それに『ヨーロッパ 諸科学の危機と超越論的現象学』(1954)にその集約を見る後期の三期に分 けて考えるのが普通である……」。また現象学は、完成された哲学ではなく、. 24.
(25) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件 「現象学的運動」であるともいわれる(木田1970: 7) 3) 「おそらく最もすぐれた現象学へのイントロダクション」として、木田(1970: 208)は、メルロ=ポンティによる『知覚の現象学』(1945)の序文と、『眼 と精神』(1953)所収の論文「人間の科学と現象学」(序論)とを紹介してい る。その指摘どおり、それらはフッサールの難解な現象学を簡潔に要領よく 整理していると思われるので、本稿のフッサール現象学の理解にそれらを参 照したい。 4)ここでの「認識論」と「存在論」の用法はかなり大雑把であるが、本稿では それぞれが哲学の一般的な用語としての主要分野を表す。現象学は、哲学の 伝統における認識論と存在論の対立を超克する、新たな哲学をめざしたので あろう。ここでの認識論は、ハイデガーが『存在と時間』(1927)の序説で 適用するような、「解釈」論と呼んだ方がよいのかもしれない。 5)現象学的還元における判断停止(エポケー)とは、「自然的で素朴な、とに かくすでに遂行されつつある妥当性をさし控える」ことである(フッサー ル1954: 242)。また判断停止で到達する認識について、フッサール(1954: 329 - 30)は次のように説明しいる。「判断中止は、世界に共に属している主 観−客観の相関を超えた態度をわれわれに与え、それとともに、超越論的な 主観−客観の相関へ向かう態度を与えることによって、われわれを、自己省 察によって次のような認識に達するようにみちびく。すなわち、われわれに 対してある世界はそのあり方と存在からいってわれわれの世界であり、まっ たくわれわれの志向的生活からその存在意味を汲みとっているのであり、し かも証示しうる諸能作のアプリオリな類型というかたちで――これは証示可 能なものであって、論議によってつくりあげたものであったり、神話的思考 によって捏造されたものではない――汲みとっているのだ、という認識であ る。」 6)フッサールは最終的に、現象学的心理学と超越論的現象学とは、それぞれに 自律性をもたねばならないと考えた。現象学的心理学の自律性は「事実と事 実諸関係の調査を一手に引き受けるということ」にあるが、「これらの事実 や関係の最終的な意味づけ」は超越論的現象学によらねばならない(メルロ =ポンティ 1953: 34)。 7)おそらく今西は、〈現象学〉の知識をまったくもたない。今西〈自然学〉の 基礎論にかんする議論はきわめて素朴だが、処女作『生物の世界』(1941) 以来、『生物社会の論理』(1948)で「科学性」を志向したものの、その著作 も晩年の〈自然学〉に至るまで、つねに研究対象の「本質」を見通す方法論 を追求している。 8)ただし、メルロ=ポンティによれば、フッサール現象学がめざした「可能な ものと現実的なもの、本質と存在とを、しだいしだいに結びつける」という 動向は、「〈人間の科学〉が科学主義的あるいは実証主義的要請から解放され 地域創造学研究. 25.
(26) 論文 てくるにつれて遂げるであろう発展とうまく合致する」のであり、そうした 動向は実際に1930年代以降の心理学、言語学、歴史学などにみられた。 9)今西(1990)は全体自然の捉え方を、「ありのままの自然というものが目の 前に浮かんで来る。……他の言葉で言えば「唯一自然」だとか「絶対自然」。 変わらない自然というものですね。そういうものがパッと目の前に浮かんで 来る」と表現する。そしてこうした捉え方は、「主客合一」や「主客未分化」 の状態から生じるのであり、そのさいの生物全体社会を通じた「直観」 ・ 「洞察」 とは、「判断停止」による現象学的還元の方法論と相似している。そのよう な今西〈自然学〉の自然の捉え方について、仏教の「悟り」に似ていること が自他ともに指摘されているが(今西1986)、〈現象学〉の判断停止による現 象学的還元についても、仏教を多少とも知る人がそれをみれば、仏教の「悟 り」に近い印象を受けるのではないだろうか。フッサール自身が判断停止を 実践する結果について、宗教的回心に比する意味がある、と次のように主張 している。「全的な現象学的態度とそれに所属している判断停止には、本質 的に完全な人格の変化を惹き起こすような力さえあり、その変化はさしあた り宗教的回心とも比べられるようなものであるが、しかしそれを越えて、人 類そのものに課せられているもっとも偉大な実存の変化という意味さえも秘 めているようなものだ」(フッサール1954: 245)。 10)今西(1990)は晩年に「原帰属性」(プロトアイデンティティ)という考え 方を呈示した。それによれば、生物全体社会のあらゆる種社会において「甲 乙のないようにつくられた個体同士のあいだで、彼らが同じものであるとい うことをみとめあうはたらき」が原帰属性である(今西1990: 201)。さらに 原帰属性には、「同種の個体はそれぞれに自分の生活の場を知っている」と いう状況が伴う(今西1990: 220)。こうした「原帰属性」論に基づけば、「自 然の基盤」の成立要件を誘導しやすいのだが、今西(1990: 214)はサルや人 間の種社会における原帰属性の消滅を宣言する。ただし、人間の故郷にたい するノスタルジアのように、原帰属性の痕跡はあとに残っている(今西1990: 218 - 19)。 11)ただし、社会学者ニクラス・ルーマンは、『社会システム理論』(1984)[佐 藤勉監訳(1993)]において、「生活世界」を社会学の概念として援用するの ではなく、フッサール現象学の批判から「生活世界」概念を哲学的に否定し たうえで、自らの独自の基礎論に立脚した「社会システム」論を提唱している。 12)今西〈自然学〉の人間社会の研究については、『人間以前の社会』(1951 岩 波新書)や『人間社会の形成』(1966 NHKブックス)などが示唆的である。 なお、今西は、進化論を無視する社会科学者の研究姿勢に次のような苦言を 呈している。「かれら[社会科学者]は人間と生物のあいだに厳重な壁を設け、 歴史も社会も文化も、これらはすべて人間だけに認められる現象であるとし て、壁の外におかれた生物を、つとめて見ぬようにしたのである。見ぬよう 26.
(27) 生活空間再生論における人間社会の成立の根本的要件 にするために壁を設けたのであるかもしれない。もっとも、この壁によって、 人文科学とか社会科学とかいうものが成り立つのかもしらないけれども、同 時にこの壁によって、これらの科学は、人間の歴史や社会や文化の起源を問 うことを、みずから放棄し、人間中心主義あるいは人間至上主義という一種 の独善主義におちいってしまった」(今西1990: 103)。 13)この点については、東日本大震災(2011年 3 月11日)で発生した福島第一原 発事故から原発反対運動が日本全国に拡大したが、その議論は代替エネル ギーの問題に焦点をあてがちとなり、都市生活様式の省察と転換の課題にま で議論があまり及ばないという実態に、如実に現れているとは言えないだろ うか。. 文献 今西錦司 1941[1972]『生物の世界』講談社文庫. ―――― 1948[1994]『生物社会の論理』平凡社 ―――― 1986[1984]『自然学の提唱』講談社学術文庫. ―――― 1990[1987]『自然学の展開』講談社学術文庫. 木田元 1970『現象学』岩波新書. シュッツ, A. 1932『社会的世界の意味構成―ヴェーバー社会学の現象学的分析』 (佐藤嘉一訳 1982)木鐸社. ―――― 1970『現象学的社会学』 (森川眞規雄・浜日出夫訳 1980)紀伊國屋書店. 玉野井芳郎 1979『地域主義の思想』農山漁村文化協会. ハーバーマス, J. 1981『コミュニケイション的行為の理論[下]』(丸山高司ほか 訳 1987)未來社. ハイデガー , M. 1927『存在と時間 上』(桑木務訳 1960)岩波文庫. フッサール, E. 1927『ブリタニカ草稿』(谷徹訳 2004)ちくま文庫. ―――― 1954『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』(細谷恒夫・木田元 訳 1995)中公文庫. メルロ=ポンティ , M. 1945『知覚の現象学』 (中島盛夫訳 1982)法政大学出版会. ―――― 1953『眼と精神』(滝浦静雄・木田元訳)みすず書房. 安村克己 2009「「生活空間再生論」構想の見取図―玉野井芳郎「地域主義」を 手がかりとして」『地域創造学研究』(奈良県立大学)Ⅲ: 43 - 82. ―――― 2010「生活空間再生論における資本主義研究―玉野井芳郎「広義の 経済学」を手がかりとして」『地域創造学研究』Ⅳ: 47 - 77. ―――― 2011「「生活空間再生論」研究における「科学」認識論と「生活空間」 の存在論的意味」『地域創造学研究』XI: 1 - 20. 付記 本研究は、科研費(23614016)の助成を受けた成果の一部である。 地域創造学研究. 27.
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