東南 アジア研究 9巻1号 1971年6月
ス カ ル ノ と - ツ タ の 論 争
土
屋
健 治 *TheDisputebetween Sukarno and Hatta in theearly 1930's
by
KenjiTsUcHIYA
は じ め に
1930年 代 初 頭 の イ ン ドネシ ア 民族運 動 は, イソ ドネ シア国民党 (PNI-Partai Nasional Indonesia)の分 裂 と, 分 裂 した両 派 の間 で た た かわ され た論 争 に よっ て開始 され た。 国民覚 の分 裂 は 1931年 中 に お こ り, 分 裂 した 両 派 は それぞ れ イ ン ドネシ ア菟 (Partindo-Partai Indonesia)お よび イ ン ドネ シア国 民教 育 協 会 (PendidikanNasionalIndonesia,PNI-baru) に拠 っ て,論争 を くりひ ろげ る。 これ につ い ては,1930年 代 の民族運 動 史 を ま とめ た
S.
プル フ ィール 1)お よび, ス カル ノの研究 者 ベル ン-ル ド ・ダー ム2)が扱 っ てい る。 また, イ ン ドネ シ アで は , 民族 運 動 の通 史 を書 い た プ リン ゴデ ィグ ド3), わ が 国 で は,増 田与4)が そ の概要 を 紹 介 して い る。 本 稿 で は この論争 に つ い て よ り具 体 的 に, と くに ブル フ ィ-ル とベル ン-ル ド ・ダ - ムが取 り扱 わ なか っ た この時期 の /、ツ タの諸 論 文 を取 り上 げ て検 討 してみ た い。論 争 の 内容 につ い てな るべ く具 休 的 に紹 介 す る ことが ,本稿 の意 図 で あ るが , この時期 (1930年 ∼ 1934年 当 時) に定 着 した ス カル ノ, サ ル トノらの イ ン ドネシ ア党 と, - ッ タ, シ ャ フ リル らの 教 育 協 会 派 の対 抗 基 軸 は ,独 立 以降 現在 に至 る まで ,イソ ドネシ ア政 治状況 の中 で一 つ の重要 な対抗 要 田 を形 成 して きてい る と言 え よ う。 したが っ て,本稿 は第 Ⅰ節 で ,論争 の背景 を なす 1930年前 後 の イ ソ ドネ シ フ民族 運 動 の状況 を概 観 し,第 Ⅱ節 で論 争 の 内容 に触 れ た後 ,第 Ⅲ節 で ,結 局 何 が問 題 と され , い か な る対 抗 基 軸 が設 定 され る ことに なっ たの か を,結 論 的 に考察 してみ た い。 *東京大学大学院社会学研究科1
)J
.
S.Pluvier.OverzichtvandeOntu)ikkeling derNationalistischeBeweging in Indonesii;inde Jaren1930 tot1942,S.-Gravenhage,VanHoeve,1953,pp.45-52.2)Bernhard Dahm.SUKARNO and TheStruggleforIndonesian Independence,CornellUniv. Press,1969,pp.127-173.
3)A.K.Pringgodigdo.SedjarahPcrgerakanRakjatIndonesia(イン ドネシア人民運動史),Djakarta, 1950(6thedition,1967,pp.105-110,137-138).
東南 アジア研究 9巻1号 Ⅰ 論 争 の 背 景 (1) 人 民 同盟
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年 代 の イソ ドネシア民族 運 動 の主導権 を握 った のは イス ラム同盟 で あ り,1
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年 代 の民 族運 動 の主導権 を握 ったのは, は じめ イス ラム同盟 内に歴 胎 し後 に これ と訣別 した イン ドネシ ア共産 党 で あ る,と概括 で き よ う。 その共産覚 は1
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年,
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年 の民族蜂起 の後 ,大 確 定 に あっ て潰 滅 し, それ 以降 , いか な る政 治組 織 が再 び運 動 の主導権 を握 るのか とい う問題 が,2
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年代 末 の民族運動 内で の最 大 の焦 点 となった。 それ は具体 的 に は, プ リン ゴデ ィグ ドが指 摘 してい る よ うに,かつ て イス ラムの旗 の下 に イス ラム同盟 に参加 し, の ち共産党 の指 導下 で人民 同盟(
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と して組 織化 され てい く民衆 を再 結集 す る ことを意味 していた。 その こと を プ リソ ゴデ ィ グ ドほ次 の よ うに要 約 してい る。 「共産 主 義諸組 織 が政 庁 に よっ て非 合法化 さ れ た後 ,既 存 の諸 政治組織 を拡 大 す る機 会 , あ るいは新 しい組 織 を設 立 す る好棟 が 訪れ た。 こ れ は ,真 の共産 主 義 者 がい て,地 下組 織 を通 じて共産活動 を遂行 し新 たな変化 を欲 したか らで は ない。 そ うで は な くて, この機 会 は,人 民 同盟 の一般民衆 が新 しい指 導方針 を必要 と してい たか ら訪れ た もので あ る。 これ らの民衆 は共 産覚指導者 か ら "小 ブル ジ ョ ワ的 立場 " に立 つ も の と規定 され ていた一群 の人 々で あっ て, その (人民 同盟) 一部指 導者 は,共産党 に対 す る阻 害 者 で あ る とさえ考 え られ てい たので あ る。5)」プ リン ゴデ ィグ ドは つづサ て, この人 民 同盟 の 民衆 は,本質 的 には民族 主義 者左沢 と呼 び うるもので あっ て,共産党 指導者 の逮捕 とともに, 自らの指導者 を失 っ ていた と述 べ ,つ いで ,既 存 の諸 民族組 織 の中 で, ブデ ィ ・ウ トモは,そ もそ も彼 らとは相 たず さえ えず , また イス ラム同盟 に して も, この民衆 を掌握 す る努 力は成 果 を お さめえなか った, と述 べ てい る06) (2) 留学生 集 団 この よ うな状況 下 で,新 しい政 治指 導者 と して登場 して くるのほ ,新 エ リー トと呼ばれ てい る高等教 育 の修 了者 , と くに オ ラン ダの諸 大 学 に留学 していた学生 集 団 で あった。 す でに1
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年 に東 印度協 会 と名乗 っ て組 織化 してい た これ ら留学 生 集 団 は,1
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年代 , ことに組 織 名を イ ●●●●■ ン ドネシア協 会(
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と改 名 した1
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年 頃 よ り, 「祖 国 イン ドネシ ア」 へ の民族 的 意識 (イ ン ドネシア民族 と しての意識) にめ ざめつ つ,次第 に政 治活動 へ乗 り 出 してい った。彼 らは本 国 イン ドネシ アに,1
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3
年 頃 か ら 「研究 会」 と称 す る宣伝 組織 を作 っ て,西欧諸 思想 の教 授 と,民族 の統 一 ,解放等 を宣伝 しは じめた。一方 , オ ラン ダの イ ン ドネ シア協会 は, タン ・マ ラカや セマ ウ ソ らの 共産党指導 者 , チ プ ト ・マ ン グソ クスモ らの影 響 と,当時 の国際共産主義運 動 の流 れ の中 で, その左翼 的色彩 を強 めつつ あった。 5)A.K.Pr
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55-56. 6)Ibid.,p.
56.6
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土 屋 :ス カル ノ と- ソタ の論 争 こ う した 中 で
,1
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年1
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月5
日, ラ イ デ ソに お い て , い わ ゆ る 「- ・ソタ - 七 マ ウ ソ協 定 」 が 成 立 す る。 これ は , 共 産 党 の代 表 セ マ ウ ソ と イ ン ドネシ ア協 会 の 代 表 - ッ タ と の 問 に と りか わ され た協 定 で あ る。 ≡ 項 目 よ りな る この協 定 の 中 で , 共 産 党 が 民 族 運 動 の 指 導 椎 を イ ン ドネ シ ア協 会 に 譲 渡 す る こ とが うた わ れ た(T) こ こで , イ ン ドネ シ ア協 会 が 民 族 運 動 の指 導椎 を共 産 党 か ら継 承 した こ とは , 当 時 の協 会 そ の も の が 共 産 主 義 の 歌 い 影 響 下 に 入 っ て い た こ とを 示 す が , 一 万 本 節 の (1)との 関 連 で 言 え ば , イ ン ドネ シ ア協 会 が 「祖 国 イ ン ドネ シ ア」 で 政 治 組 織 と して 出現 す る際 , そ の 活 動 の 拠 点 を ど こに お くの か を 明 確 に した もの で あ り, 当 面 , 共 産 党 傘 下 の 大 衆 団 体 で あ っ た 人 民 同 盟 を そ の組 織 化 の 対 象 とす ,3 こ とを 明 らか に した も の で あ っ た 。 (3)イ ン ドネ シ ア 国 民 党 の設 立 この よ うな背 景 の 中 で,1
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年7
月4
日ス カル ノを党 首 と して イ ン ドネ シ ア 国 民 党 が 誕 生 チ る。 この 時 点 で , 国 民 党 は ス カル ノ個 人 に よっ て設 立 され た の で は な く, (2)で 示 され た イ ン ドネ シ ア協 会 と, /ミソ ドゥソ
高 等 工 芸 学 校 出身 の ス カル ノら との 合作 で あ り, 国 民 党設
立以前 の1
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年 に ス カル ノに よっ て組 織 化 され た バ ン ドゥ ソー 般 研 究 会(
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は , そ の 研 究 会 とい う活 動 形 態 そ の もの を , そ れ 以 前 に オ ラ ンダ偏 りの 留 学 生 が イ ン ドネシ ア 各地 の都 帯 (ス ラバ ヤ , ソ ロ, ジ ョ クジ ャ カル タ, ス マ ラ ン, ボ ゴ ー ル , ジ ャ カル タ) に 組 織 して い た 研 究 会 に倣 っ た もの で あ っ た。1
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年8
月 ジ コ クジ ャ カル タ市 で閃 か れ た イ ン ドネ シ ア共 和 国 第 二 回全 国 歴 史 学 セ ミナ ー で は , 国 民 党 創 立 に 参 加 した ス ナ りオ が ペ ー パ ー を提 出 し て , 国 民 党 は バ ン ドゥ ソー 般 研 究 会 が 発 展 輔 肖した も の で は な く, イ ン ドネ シ ア協 会 の完 全 な 指 導 下 で設 立 され た もの で あ り, 一 般 研 究 会 は 【舶 三党 とは 別 の 紬 、哉と して な お存 続 して
い た と 述 べ て い る〔8) これ は , そ の 後 段 に つ い て は な お 検 討 の 余 地 が あ る とは い え,前
段 に つ い て み 7)協定の内容は次の よ うな ものであった。(Ibid.,pp.5O-51) 「イン ドネシア独立を 口指す闘争のために,強
囚な人尺地 軸が必要であ ること (さらに,イン ドネシア 尺族 の力を強 化す ることが要.iAIIIされてい る) ことにかんがみて,次の協定がなされた〔 第 1項 イン ドネシア協会は,イン ドネシア尺族の人尺の党 として出現すべ きものであって,イン ドネ シア人尺の利益のために,政 治的社会的分野 で活動を行な うことで圭l'勺束す ,7Jものであ るoイン ドネシア Jn うものであ るO社会的分野 とは,人尺の教百,尺扶経
済
,保健衛生,その他人尺の尺族的な力を高め るのに有益ないっさいの分野を さす ものであ る。 第 2項 イン ドネシア代産党は,第1項 で明示 されたイン ドネシア協会の指導椎を承認 し, イン ドネシ ア協会を完 旬 二(.凍i-しなけ丸はな らない「イン ドネシア共産
党 とその傘下にあ るすべ ての組織は,イン ドネシア協会がイン ドネシアの独立を逐成す 7cJための政 策を遂行 してい る眠 りは,イン ドネシア協会に よって指厚 さ:;,Lる尺族的な誹津動を決 して妨空 しない とい うことを日東 しなければな らない0 第3項 イン ドネシア共産′把の 手中に現在 まであ ,I,)すべ ての出版物は, のちに定め られ る 条件
に従 っ て,イン ドネシア協会に読渡 されなけ拙 まな らない〔イン ドネシア協会 は,民族的
な機関紙の発行を約 束す るものであ るo 」S)Sunario.`■Pcrhl'mbzman IndonesT'a■'da71Peranannja dalam Pert/jlLangan Kcmcrdckaan Kita ("イン ドネシア協会 " と,独立闘争におけ るその役割),(paper),Jogiakarta,1970,pp.49151・
東 南 ア ジア研究 9巻1号 れ ば ,当 時 の民 族 運 動 の状況 を的確 に と らえた もの で あ る と言 う ことが で き よ う。 ス ナ リオに よれ ば ,
7
月 4
日の 国民 党 創 立者 となっ た のほ全 部 で9
名 で, 内5
名 (サ ル トノ法 学 士 , イス カツ ク法 学 士 , サ ムシ ・サ ス トロウィダ グ ド医 師 , ブデ ィアル ト法学 士 お よび スナ リオ法 学 士) は イ ン ドネシ ア協 会 出身 (す なわ ち オ ラ ンダ帰 りの留学 生 ),2
名 (ス カル ノ技 師 とア ソ ワ リ技 師) はバ ン ドゥ ソ高等 工 芸 学 校 出身 ,他 の2名 の 内, スジ ャ デ ィは植 民地 政 庁財 政 省 出 身 で あ り, テ ィ ラール ほ ジ ャ カル タの銀 行員 で あ る09) 彼 ら9名 の他 に チ プ ト ・マ ソ グソ クス モ も この創 立会 議 に参 加 したが ,彼 は, この新 組 織 が政 庁 か ら共産 党 の後 身 で あ る とみ な され る ことを懸 念 して,創 立 者 に は加 わ らなか った とい う,10) チ プ トは , ス カル ノ出現 以前 の民族 主 義左 派 の最 高指 導 者 で, そ の名声 の ゆ えに共 産 派 か らの信 頼 も厚 か っ た。政 庁 は この年 末 , 蜂 起 との関 係 で彼 を逮 捕 し,パ ンダ島 -流 刑 してい る。 設 立後 の 国民党 は ,非協 力 と大 衆 行動 , これ を通 じての イ ン ドネ シア独 立 を標 傍 して民族 意 識 を鼓 舞 した が ,民族 統 一 と民族 独 立運 動 の先 頭 に立 っ たの は, い うまで もな くス カル ノで あ り,彼 は 「民 族 の権 力 の 確 立」「権 力 内の権 力」 「褐 色 の戦 線」 な どの ス ロー ガ ンの下 に,1
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年1
2月1
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日に は , 七 つ の諸 政 治組 織 (国民党 , イ ス ラム同盟党 , ブデ ィ ・ウ トモ, パ ス ソダ ソ ー ス ソ ダ人 達 合一 , ス マ トラ同盟 , バ ク ヴィア人連 合 , ス トモ の率 い るイ ン ドネ シア研究 会) の連 合体 , イ ン ドネシ ア 民族 政 治 団体 協 議 会(
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,・以下PPPKI
と略称) を設 立 した。 そ して, 民族 的 一 体 感 を高 揚 せ しめ,民族 独 立 へ の熱情 を か きた てた。 このPPPKI
第1
回大会 に先 立 っ て寄 せ た論 文 の 中 で , ス カル ノは この第1
回PPPKI
大 会 は , きわ め て重 要 な民族 的現 象 で あ り, これ は 民族 運 動 史 上 ,新 時代 (マサ ・/ミル)を画 す るもの で あ る と述 べ てい る。11)この 「新 時 代」 に ス カル ノ白身 が こめ てい るの は ,イス ラム的普 遍性 (イス ラム同盟)とマル クス主 義 的 普 遍性 (共 産 党) とを民族 主 義 とい う共通項 で とらえ, この共 通項 に立 っ て, 「蘭 額 東 印度 の土 民」 か ら ■ ● ● ● ● 「イ ン ドネ シア民族 」 - と生 まれ変 わ りつ つ あ る ここの地 の民族 が , あそ この地 の民族 に対 抗 して, 「権 力」 を確 立 せ ん とす るそ の使 命 感 で あ る。 従 っ て, 「わ れ わ れ イ ン ドネシ ア民族 に とっ て , 闘争 とは力 の 問題 ・権 力 の 問題12)」で あ り「
PPPKI
が存在 す るゆ えに , こ こ とあそ この問 の分裂 は 明 白 とな り, 完全 とな る。PPPKI
の存 在 に ともなっ て, わ れわ れ有 色 人 の 組 織 の力 は 蓄 積 され 倍 加 され る。 それ ゆ え, この有 色 人 の 戦 線 は た んに戦 線 の 名前 を持 つだ け で な く, そ れ は本質 的 に 力 の あ る戦線 , 権 力 を持 つ戦 線 なの で あ る。13)」 とい うス カル ノの 9)Ibid.,p.51. 10)Ibid.,pp.5ト52.ll)Sukarno.D2'bawahBenderaRevolusi(革命の旗の下に),Vol.I.,Djakarta,1959,(4th editionp.
83).
12)Ibid.,p.84. 13)Ibid.,p.85.
土 星 :ス カル ノ と- ッ タの論 争
PPPKI
へ の期 待 が 表 明 され て い る。 このPPPKI
は , 後 に 明 らか に な る よ うに , も っ ぱ ら ス カル ノ個 人 の構 想 か ら生 み 出 され た もの で あ る。 国 民 党 の設 立 が イ ン ドネ シ ア協 会 の 指 導 下 に な され た と して も, 国 民 党 の 党 首 に つ い て 以 後 の ス カル ノは , 次 節 で み る よ うに い わ ば 彼 独 自 の 論 理 で 活 動 し てい くの で あ る。 (4)ス カル ノの 逮 捕 と国 民 党 の 解 散 国 民 党 は設 立 後3
年 た らず で 活 動 を停 止 し4
年 た らず で 解 散 した 。 そ の 経 緯 は は ば 次 の 通 り で あ る。1
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年1
2
月2
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日, ス カル ノは 他 の3
名 (マ ン ク プ ラジ ャ , マ ス ク ソ, ス プ リア デ ィナ タ) の 国 民 党 指 導 者 と とも に逮 捕 され た 。 逮 捕 の理 由 は , 国 民 党 が1
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年 に 反 乱 を 起 こそ う と し, こ の た め に ス カル ノらが 謀 議 を 行 な い , この 反 乱 を 煽 動 した とい うも の で あ っ た。14) しか し これ は 国 民 党 弾 圧 の 口実 に す ぎず , 後 に ス カル ノ らが 有 罪 判 決 を 下 され るの も, 具 体 的 証 拠 の な い ま まに , 公 共 の 安 寧 秩 序 を乱 した とい うか どに よっ て で あ っ た 。 ス カル ノ らの 裁 判 は1
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年8
月1
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日に 開 か れ そ の 判 決 は1
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年4
月1
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日に 下 され た。 この 法 廷 で ス カル ノは , 「被 告 と して で は な く, サ ル トノ, サ ス トロ ムル ヨ ノ, ス ユ デ , イ デ ・プ ラ ウ ィ デ ィ プ Tlラ ら4
人 の 弁 護 士 を 後 え に ,3
世 紀 に わ た るオ ラ ン ダ植 民 地 主 義 犯 罪 の 告 発 の 闘士 と して法 廷 に の ぞ み , そ の 名 を 一 世 に 高 め た。15)」 この 法 廷 陳述 は の ち 『イ ン ドネ シ ア は 告 発 す る』 と して 刊 行 され て い る。 と ころ で , ス カル ノ らの逮 捕 に 直 面 して , 逮 捕 を 免 が れ た 国 民 党 指 導 部 は サ ル トノ指 導 下 で 緊 急 党 大 会 を 開 き, 党 員 に 対 して党 活 動 の 停 止 を命 ず る と ともに , 国 民 党 の 対 処 の 仕 方 に つ い て協 議 した 。 サ ル トノの伝 記 を記 した ア ラ ム シ ャ は そ の 間 の 事 情 を 次 の よ うに述 べ て い る。 r・--緊急党大会 で,国民党を存続 させてい くか,解散す るかをめ ぐって討
論 されたO二つの見解が大 会参 加者の間にあった。第 1の見解は,国民党の解散に反対す るものであ り,も うひ とつは党の解散を必 要だ と考 え るものであった.後者に よれば,政庁の告訴は,国民菅がす でに非合法化 された共産党の後身 であ るとの告発に はかな らない と い うことであった。 サル トノを 中心に した グル ープは この見解 であっ たoそ して これは多 くの支持者を集め,国民党がひ きっづ き存続すれば,党 の仝指導者 と党員 とは,ボー - ン ・ディグ-ル (西 イ リアンの流刑地o 共産党 ,人民同盟の指導者が流刑 された。) に送 られ てしま う であろ うと考 えられ るよ うになった。 これに対 して他の派は,国民党 が告訴 されただけで,現実には非合 法化 され ていないのに もかかわ らず これを解散す ることは誤 りであ ると主張 した。男らし く闘争 し,勇気 を もって この難局を引き受けなければな らない,お よそ無意味な犠牲な どとい うものはあ りえないのだ, と彼 らは主張 したO こ うして,スカル ノらが拘留 されてい る間に,両沢の見解は対立を続け,ついに,常 の存続を主張す る派は評決に敗れた。同時に,新党 の設立が決定 され,イン ドネシア党が生み 出されたの であ る16)。」 14)裁判では,国民党 と共産党 お よびイン ドネシア協会 との 組織的つなが りが 追求 された とい う。 (Ber n-hard Dahm,oP.cit.,p.125). 15)増田 与,o
少.c
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.
,p.85.16)St.RaisAlamsjah.10 0rang Indones2'a TerbesarSekarang (今 日もっ とも偉大な10人のイン ドネ シア人),Djakarta,1952,p.158.
東南 アジア研究 9巻1号
ところで , この 国民党 解散 が 国民党 へ の政府 の禁 令 に一 週 間 ほ ど先 立 って いた こ とか ら, こ の解 散 を め ぐっ て旧 国民党 内に 分 裂 が は じまる。 サル トノらの 新 党設 立 (イ ン ドネシ ア党
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a,1
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年4
月3
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日設 立) に 反対 す る グル ー プは ,各地 に独 自の研 究 会 を設 け て活 動 を続 行 し, この新 党 に加 入 せ ず, ジ ャ カル タの イ ン ドネシ ア民族 研究 会 を中心 に研 究会 を組 織 して, 自由派 連 合(
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, サ ル トノの指 導 か ら 自由 とい う意 味17)) と 名乗 りイ ン ドネ シ ア党 に対抗 した。 そ して オ ラ ンダに い る- ッ タ らの帰還 を待 ち望 む こ とに な っ た。 - .yタは オ ランダに あっ て, 国民党 解 散 の報 を聞 くや,1
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年7
月 に イ ン ドネシ アの各 新 聞 に書 簡 を送 っ てサ ル トノらの措 置 を非難 し18), ひ きつづ きオ ラ ンダか らイ ン ドネ シ ア党批 判 の論 文 を 自由派 連 合 の機 関紙 「人 民 主権 」(
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)
に掲載 せ しめ てい た か らで あ る。 こ うして, 自由派 連 合 は,1
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年1
2
月末 , ジ ョ クジ ャ カル タで大 会 を開 き新 しい組 織 イソ
ドネ シ ア民族 教 育 協 会
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を設 立 し, そ の議長 に は シ ャ フ リル が就任 した 。 シ ャ フ リル は,1
9
2
9
年 よ り オ ランダに あっ て イ ン ドネ シ ア協 会 で活動 し,1
931
年 夏 に帰 国 して以来1
9), 自由派 連 合 の論 客 として頭 角 を現 わ していた。 この新 組 織設 立 の 提 唱 者 もシ ャ フ リル で あった とい う。20)彼 らは そ の組 織 名の略 号PNI
に 「新-bar
u」
をつ けて,
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と名乗 った。 ス カル ノが植 民地 政 庁総 督 デ ・グ ラ- フ帰 国 の際 の恩 赦 に よ り,4
年 の刑 を2
年 に縮 減 され てバ ン ドンの ス カ ミスキ ン監 獄 を 出所 した のは, そ の数 日後1
9
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年1
2
月31
日の こ とで あ る。 (5) 国民党 の分 裂 と両 派 の論 争 こ こに ,民族 運動 の主 流 の座 に あった 国民党 は イ ン ドネ シア党 と教 育 協 会 の二派 に分 裂 した。 両派 ともに基 本綱 領 に イ ン ドネ シア独 立 の達 成 と非協 力 を掲 げ, 国 民党 の綱 領 を そ の まま継 承 して いたが ,教 育協 会 は特 に中核 を養成 す るた めの教 育 訓 練 を重 視 してい た。当 時 の民族 運 動 の中 で は , ブデ ィ ・ウ トモ, イス ラ ム同盟党 ,諸地 方 組 織 ともに協 調政 策 を掲 げ て お り, かつ ての イス ラム同盟 と共 産党 に担 われ て い た強 力 な反政 庁抵抗 運動 を継 承 しよ う とした 国民覚 の この よ うな分裂 は,1
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年 代 の民族 運 動 の暗 い幕 開 け を告 げ るもの で あった。 出獄 後 の ス カル ノは,民衆 の熱 狂 的 な歓 呼 に迎 え られ た が , そ の彼 を待 っ ていた のは この よ うな国民党 の分 裂 で あ り,彼 はただ ちに両 派 の合体 に努 力 す る。 ベル ン-ル ド ・ダ ー ムに よれ ば , ス カル ノは ,1
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年 初 頭 , ス ラバ ヤで行 なわ れ たPPPKI
主 催 の 「イ ン ドネ シ ア ・ラヤ大 会」 で ,6,
0
0
0
人
の聴衆 を前 に演説 し,彼 の逮 捕 投獄 に もか かわ らず独 立運 動 が さ らに高 揚 しつ つ あ る こ とを よ17)A.K.Pl・inggodigdo,
o
少.
cit.,p.105.18)Bernhard Dahm
,
op.cit.p.129.19)シャフ リルの帰国時については,1931年春 (F.フィース), 夏 (ダーム), 32年 (アラムシャ) といわ れ るが,ここではダームに従 う。(Bernhard Dahm,op.cit.,p.135).
土屋 :スカルノと-ソタの論争 ろ こぶ と ともに , 両 派 の分 裂 に触 れ , 自 らを ワヤ ン物 語 中 の コ ク ロ ソ ノに なぞ らえ ,王 位 を纂 奪 され た マ ソ ドゥ ラ王 国 の そ の 正 当 な後 継 者 コ ク ロ ソ ノが ,神 か ら授 か っ た武 器 ナ ン ガ ラ (ナ ン ゴ ロ) を用 い て王 位 を 回復 す るが 後 に 二 人 の わ が 子 が 相 争 うの を み て悲 嘆 に くれ た とい うひ そ み に な らっ て , この両 派 の誤 解 を解 くた め , ナ ン ガ ラを再 び用 い て 相 争 うわ が 子 を 団 結 させ た い , と述 べ た とい う〔21) しか し,教 育 協 会 派 の批 判 は サ ル トノの 国 民 覚 解散 とい う措 置 か ら, 次 第 に 直 接 ス カル ノの 統 一 論 , 組 織 論 に 向 け られ , 第11節 で み る よ うに , ス カル /と- ッ タ, シ ャ 7 1)ル ら との 基 本 的 な対 立 点 を あ らわ して い くもの で あ る。 そ の 限 りで , ス カル ノが , 出獄 後 に 直 面 した の は , 「わ が 子 同志 の争 い」 で は な く, ス カル ノ 白身 と彼 の対 抗 勢 力 間 の争 いだ っ た の で あ り,彼 自 身 は1932年 8月 1日に イ ン ドネ シ ア党 へ 入 党 して い る。 一 方 , オ ラ ソ ダに お い て , 帰 国 後 に政 治 活 動 を行 な う場 所 は イ ン ドネ シ ア党 で は あ りえ な い こ とを宣 言 して い た - ッ タは,1932年 8月23日帰国 22)して の ち , た だ ち に教 育 協 会 に参 加 し, シ ャ フ リル に代 わ っ て そ の議 長 とな っ た 。 それ 以 後 , 論 争 は ス カル ノの イ ン ドネ シ ア党 と- ッ タの教 育 協 会 派 の 論 争 と して展 開 され , それ は ,党 組 織 の 問 題 ,PPPKIを め ぐる統 一 論 の 間 /r,r封, 非 協 力 政 策 の 問 題 に お よん で い っ た 。 30年 代 , オ ラ ン ダの 植 民 地 政 策 は世 紀 初 頭 以 来 の 倫理 政 策 を放 棄 し民 族 運 動 に対 して は もっ ぱ ら高 圧 的 な対 処 を した 。 この傾 向 は,1931年 9
月
12日に デ ・コ ソ- が 植 民 地 政 庁 総 督 に就 任 して 以 来 こ とに新 著 とな り, 政 庁 と正 面 か ら対 決 す る非 協 力 派 (イ ン ドネ シ ア党 , 教 育 協 会 , イ ソ ドネ シ ア イ ス ラ ム同盟 覚 お よび酉 ス マ トラの ベ ル ミ23)) に対 しては , 集 会 の制 限 , 臨 検 や 指 導 者 の逮 捕 流 刑 で臨 んだ。 イ ン ドネ シ ア党 に つ い て み れ ば1933年 8月
1日, 集 会 禁 止 令 と と もに ス カル ノ, - ミ ド ・ル ビス , ブエ ソ ・シ レ ガル が 逮 捕 され , ス カル ノは フ ロー レス 島 の エ ソ デ (1934年∼38年 ) とス マ トラの ペ ソ クル ー (1938年∼42年 ) に 流 刑 され て い る。 また教 育 協 会 の - ツ タ, シ ャ フ リル , ボ ン ダ ソ, ブル - ヌデ ィ ソ らも1934年 2月26日に 逮 描 され , は じ め は 西 イ リア ンの タナ ・メ ラ,1936年 以 降 は パ ン ダ島 (パ ン ダ ネ ィ ラ) に 流 刑 され た 。 イ ン ド ネ シ ア党 は , ス カル ノの再 逮 捕 の後1934年12月 1日に は 非 協 力 政 策 の放 棄 を宣 言 , 次 い で35年 2月 9日に は PPPKIよ り脱 退 し,36年11月18日に は覚 組 織 を 解 散 して , それ は 後,37年 7月21)BernhardDahm,oz).cif.,pp.133-135.
22)-ヅ Jjの帰国 日は プルフィールに従った。J.S.Pluvier,of,.Citリ p.51.
23)ベル ミ(Permi:PersatuanMusliminIndonesia,イン ドネシアモスレム統一協会)は,イン ドネシア イスラム同,P/LIL党 (イスラム 同盟の後身)の西スマ トラ, ミナンカ/;り支部 として1930年に成立 した。 1932年以降非協調主義を唱えて,30年代のイン ドネシア ・イスラム運動の中で, もっ ともラディカルな 反政庁択抗運動を行ない,34年には,その指導者,イ 1)ヤス ・ヤコブ,シャラルデ ィン ・タイプらが西 イ リアンに流刑 され,37年解散された。(J.S.Pluvier,
o
p.
cit.,pp.76-77). ベル ミは,30年代初頭,イン ドネシア党 の強い影響を受けてお り,1932年には,イン ドネシア党指導 者の一人,M.ヤ ミン (西スマ トラ出身)が, ガ トッ ト・マン クプラジャとともに 西スマ トラを訪れ, ベル ミと同盟関係を結んでい る。(Alamsjah,o
少.
cTlf.,pp.159-160).東南 アジア研究 9巻 1号
2
4
日に設 立 された イ ソ ドネシア人 民運動党(
Ge
r
i
ndo-Ge
rakan Rakj
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tlndonesia)へ継 承 され ていった。教 育協 会 も- ッ タらの逮捕 の後 ,組 織再建 に努 めたが1
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3
6
年 中には再 建指導部 が逮捕流 刑 され ,若干 の地方支部 の活動下 で その命脈 を保 っていた とはい え,組 織 名だ けが残 され てい てその実態 はほ とん ど自然 消滅 の道 をた どっ ていった。党勢 をみ る と, イ ン ドネシア 覚 が3
3
年 当時7
1
支部(
2
4
支部候補 を含 む) 約2
0
,
0
0
0
党 員 を擁 した のに対 し,教 育協会 は,3
2
年 当時約2,
0
0
0
名にす ぎなか った。24) Ⅱ 論 争 の 内 容 第 Ⅰ節 でみた よ うに,民族 主義左派 の両派 の論争 は,1
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年 よ り1
9
3
4
年 にかけ て展 開 され る が, その論争 点は次 の4
点に ま とめ られ る。 第1
点は国民党 の解散 をめ ぐる論争 ,第2
点 は統 一 問題 をめ ぐる論争 , 第3
点は党 組 織 を め ぐる論争 , 第4
点は 非協 力政策 をめ ぐる論争 で あ る。 これ ら4
点に関 して, この時期 の両派 の機 関誌 に掲載 され後 に集 成 され た スカル ノ,- ツ メ, シャフ リル のい くつか の論文 を手掛 か りに して,以下 これ を紹 介 してみたい。 (1) 国民党 の解散 をめ ぐって 第 Ⅰ節 で述 べ た よ うにサル トノの指導下 で国民党 が解散 され新 党 イ ソ ドネシア党 が設 立 され た ことに対 し, 旧国民党 の うち この方針 を こころ よし としない一派 は 自由派 連合 を結 成 して イ ン ドネシア党 中央 を批判 したが, これ に呼応 Lかつ この 自由派 を積極 的 に支持 した のは,1
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年 以来 オ ランダに あって1
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年 以降 は イ ン ドネシ ア協 会 の議長 の任 に あった - ッ タで あった。 - ッ タは,1
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年4
月1
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日付 の国民党機 関紙 『統 一 イ ン ドネシア』に 「試練 に立つ国民党 」 とい う論文 を寄 せ てい る。 その中で - ツ タは,われわれ の指導 者 ス カル ノらほ,政 庁に よる逮 捕 に屈す る こ とな く, よ くその試練 に耐 えて闘争 を続 けてい くで あろ うと述 べ , また,逮捕 を 免 れ た国民党 の指導者 に対 してほ,失望 ,恐怖 す る ことな く, さらに活動 を強化 し前 進 す る よ う訴 え,われ われ の党 (国民党) こそは民族 の精神 その もので あ る ことを強調 してい る。25)そ の約1
年 後 国民党 解散 の報 に接 した - ツ タは,1
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年7
月, オ ランダか ら書 簡 を送 って これ を 非難 した。 それ に対 し, イ ン ドネシ アか ら遠 く離 れ た オ ランダに あって,事情 に疎 い- ツ タの 批判 は当 を得 てい ない との反論26)が 出, これ に こた えて,彼 は再 批判 を こころみてい る。 これ は 自由派連 合系 の機 関紙 『人民主権 』 に,1
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年9
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日に掲載 され た。- ッ タは次 の よ うに 述 べ てい る。す なわ ち, 国民党 の解散 に よっ て二 つ の重要 な問題 点が生 じた。 ひ とつは,党幹 部 が 自らを縛 りつけ党 を存続 させ てい く権利 を放 棄 して しまった こ とで あ る。 党幹部 はい まだ24)A.K.Pringgodigdo,o少.cit.,pp.105-110,
St.RaisAlamsjah.
o
少.c
i
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.
,p.20,3
9
.
25)MohammadHatta,Kum♪ulanKarangan(論文集),Vol.Ⅰ,Balai Pustaka,1959,pp.211-212. 26)Ibid.,p.97.
土星 :スカルノと-ノブの論争 政 庁 に よ る党 解 散 令 の 下 され な い 内 に , 最 善 を 尽 くす 勇 気 を もた ず に 夜 逃 げ 同 然 の こ とを 行 な っ た の で あ る。
(
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年1
月3
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日付 の 主 張 で は , - ツ タは この よ うな , 自 ら- ラキ リを 行 な う よ うな政 党 は , 世 界 史 上 に 例 の な い こ とだ と きめ つ け て い る。27)) 一 部 の 指 導 者 が 逮 捕 され れ ば , さ らに 意 志 強 固 な指 導 者 が 立 ち上 が っ て 活 動 を 続 行 す べ きで あ る。 現 在 の状 態 を み て い る と, この よ うな堅 忍 不 抜 の 指 導 者 を 育 成 す る こ との 必 要 性 が さ らに 痛 感 され る。 そ の よ うな指 導 者 が 生 まれ 出 て こそ , ス カル ノの い う"1
人 の 指 導 者 が 倒 れ て も1
0
人 の 指 導 者 が あ らわ れ は じめ て , 国 民 党 を 引 き継 ぎ これ を前 進 させ て い くで あ ろ う。 り とい う言 葉 が 意 味 を もっ て くる の で あ る。28) 国 民 党 解 散 を め ぐる他 の 重 要 な 問 題 点 は , 党 解 散 が 何 千 もの 党 員 の協 議 を 経 る こ とな く して 決 定 され た こ とで あ る, と/、ッ タは述 べ る。 ス カル ノ的 な党 組 織 の 批 判 を も合 意 して い る この 第 2点 を そ の ま ま引用 す る と, 「-・・・(この よ うな覚解散の方法は)艮主主義的 であろ うか。艮主主義的 であ るか否かは独立運動の根 本的原則にかかわ ることが らであ る。独立運動においては,人艮 こそが党の魂 であ る。人艮は,党の意
義 を 自覚 し,また,党が人尺の血 肉であ ることを確
信す るよ うに教育 されねばな らない。党 の生死は,人艮 の生死 として感得 され るべ きであ る。か くしては じめて,人尺が 自らの権利を 自覚す る運動において有意 義な条件が達成 され うるのであ る。 しか るに現実は ど うであろ うか。 1930年1月 よ り, (国艮)党幹部は,人民に対 して沈黙 と非行動 とを 命 じた覚書を発 してい る。その他に も,党 のいっさいの屯要事項は,指導者の思 うが ままに取 り決め られ てい る。党の運命を決す るマ タラム (ジョ クジャ カル タ), ジャカル タでの大会, これ らすべ てが党員 と の協議なしに行なわれ, 圭支部党員の協議を経ずに行なわれた。か くして行なわれた会議を有効であ ると 言い うるであう_うか。 "艮主主義" とい う言葉は,まっれわれ の指導者が 口ぐせに してい るものであ る。しか しそれは現実には み られない。人尺は まるで足の汚れを拭 うござの よ うに考 えられ てい るC前説に秀 でた指導者の前説をIi" いて,拍手喝采せ よと命ぜ られ るためにのみ必要な もの ぐらいに考 えられてい る。人尺が 自らの最任を担 うことは教えられ ていない。 もしも,あそ この蛮 (オランダ人)が,われわれの人尺についてまだ未熟だ と言えば,われわれは怒 るだろ う。しか るに,党員であ る人尺 との協議をあ らか じめ もっ ことなしに国艮 党を解散せ しめた指導部の態度は,自ら,人尺がい まだ未熟であ るとみなしてい ることにはかな らない。 国艮党の解散が,国艮党 同調者の一部分から承認 されなかった として も,それはお どろ くべ きことでもな い。-- 29)」(下線 引用老) 第Ⅰ
節 で み た よ うに , - ツ タは この 論 文 の 中 で , さ らに 続 け て , 帰 国 後 政 治 活 動 を 行 な うの は , イ ン ドネ シ ア党 の 枠 外 で あ る と述 べ て い る。 傍 線 部 に 示 され る よ うに , - ツ タが 基 本 的 に 問 題 と して い る こ とは , 国 民 党 の 正 統 性 に 対 す る イ ン ドネ シ ア党 の不 当 性 , す なわ ち イ ン ドネ シ ア党 は 国 民 党 の 正 統 な 後 継 者 で は な い とい う こ とで あ ろ う。 国 民 党 の 解 散 を め ぐっ て , - ツ タ と同 じ立 場 か ら批 判 し帰 国 後 自由派 連 合 の 中 心 に あ っ た シ ャ フ リル の主 張 を み る と この 点 が 27)laid.,p.103. 28)Ibid.,pp.98-99. 29)Ibid.,p.99.東南 アジ ア研究 9巻 1号 さ らに 明確 に され て い る。 シ ャ フ リル も, 国 民 党 が 大 衆 行 動 と非 協 力 政 策 とを 掲 げ た 真 の 大 衆 政 党 で あ っ た こ とを先 ず 前 提 と して , 党 内 闘 争 に 触 れ て つ ぎの よ うに述 べ て い る。 す な わ ち , 一 般 的 に党 内 に お い て左 派 が 強 くな る と右 派 は権 力 を用 い て そ の地 位 を保 持 し よ う とす る。 こ の 両 派 が , 現 実 に そ の思 想 と原 則 , 目標 を異 に す る よ うに なれ は , 党 の分 裂 は もは や必 然 的 な こ とに な る。 そ して右 派 は ,左 派 (左 派 こそ が 新 しい任 務 を担 い , 未 来 に対 応 し よ う とす る) を 抑 圧 して , 反 動 化 して い く。30) さ らに ,具 体 的 に 国 民 党 解 散 とイ ン ドネ シ ア党 設 立 に 関 して は 次 の よ うに 述 べ て い る。 「・--筆者は,さきの国民党解散は,その戦術的誤謬にす ぎない とは考 えない。 これは (1930年以降, 国民党がその活動を停止 した とい う)誤 った立場か らとられた措置であ る。--・国艮党指導者が外的な圧 力に屈し (その活動を停止 した時), 彼 らはすでに覚 の原則 と戦略 とが定めてい る路線に従わな くなった のであ り,それ以降 ,指導者は人民の力 (kodrat)を物質化 しえず ,責任 もひ き うけず ,人民を信ぜず, 一貫 して 日和見政策に 日をむけ, こ うして, 国艮党は人民から離れ, 大衆から 遠 ざかってい き始めた。 --国民党の解散は この よ うなそれ以前の誤 った措置か らひ きお こされ てきたその論理的帰結であった。 -・-国民党の民主主義的精神に沿って行なわれたのではな く,国民党の原蝕 戦略に沿った もので もない 国民党 の解散は,国昼党些 j:?て行_Ti:われを もので甘草_fi:ゝ、。 (下線 シャ7 1)ル)その国民党指導者がい う, "万やむをえず"(``overmacht")とい う言葉は,覚 自身の "無能力"(``onmacht‥) を語 る以外の 何 ものでもない。-・-一方人民大衆は,別の 目標を持ってお り,それは国民党 の解散 とともに,---かつ ての原則 と精神に回帰 した。 こ うしてみ ると,いま新聞紙上で発せ られてい る, ``イン ドネシア党は,国 民党の後継者ではないのか日 とい う質問はすでに答えられた ことにな る。現在 イン ドネシア覚にい るすべ ての者が, もと国民党 の党員であった としても,イン ドネシア党は--・国民党 ではない。イン ドネシア党 が,かつての 目標や闘争綱 目を掲げ ることはさしつかえない。しかし,その精神 とその誓約 とは,国艮党 のそれ とは別の ものであ る。か くして,イン ドネシア覚は,国民党が 目指 していた 目標 とは別の地点に, 到達す ることにな るであろ う。-・ -国民党 の分裂は,党 の原則が誤っていたからではない。いまなお,何千 もの人 々が国艮党 の原則 を信奉 してい る。そして彼 らはすべて,国民党に よって選び取 られたのは,早急に独立を達成す ることのみであ った と信じてい る。元 国民党党員で,人民主権派 (自由派連合)に結集 した人 々は,人艮主権派が国艮党 の遺産の継承をひき うけ ること,そ して,国民党の政策をおそ ら くよ り徹底的に強力に遂行 してい くであ ろ うとい うことを確信 してい る。彼 らは,い ま,大衆行動 と非協力の条件を内包した原則的精神を所有 し てい る政党は無い ことを確倍し,それゆえ,彼 らが合体 してい くべ き政党 も無い ことを確信 してい る。 こ の観点から見れば,分裂 したのは彼 らではな く,もとの原則を放棄 した国民党 の一部分であった とい うこ とにな る。彼 らは, 一貫 してその 立場を堅持 した。 彼 らは,イン ドネシア党に 結集 した部分に よって, (もとの立場に) とり残 されたのであ る--・31)」 国 民 党 解 散 を め ぐる- ツ タ とシ ャ フ リル の 批 判 は , と もに 国 民 党 を 民 族 運 動 の ま っ た く正 当 な後 継 者 で あ る と しな が ら, そ の 国 民 党 の解 散 に つ い て そ れ が 国 民 党 の精 神 か らの 逸 脱 で あ る と難 ず るわ け で あ る。 そ れ が , 自由派 連 合 の 正 統 性 を主 張 す る根 拠 とな る。 そ の 際 , と くに /、
30)SutanSjahrir,PikirandanPerdjuangan(思想 と闘争),Djakarta,1947,pp.2ト22.
シャ7 1)ルが1931年 から34年にかけて 「人民主権」紙に掲載 した論文がこの 『思想 と闘争』中に収め られてい るが, 日付がつけ られていないので,執筆時期は明らかにしえない。
土星 :ス カ ル ノ と- ノタの論争 ツ タが 国民党 指導 部 の非民主性 を批 判 す るの は,た んに サル flノ派 のみ へ の批 判 では な くその 時 点 で,捕 われ の身 として いわ ば, 「悲 劇 の ヒー ロー」 に な り-つつ あ るス カル ノへ の考慮 を払 いっ つ も,実 は ス カル ノ的 党 活動 ,党組 織 へ の批判 で あ り論 争 の第
2
点 以下 で は, それ が 明確 化 して くる。(
2
)
統 一 問題 をめ ぐっ て (いわゆ るPe
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論 争) 1931年 末 に 出獄 した ス カル ノは, イ ン ドネ シ ア党 と 教 育協 会 の統 一 に 努 めたが成 功 せず , 1932年 夏 「ブ ソ ・カル ノよ りマル - エ ソの徒 へ の通 告」 と題 す る宣 言文 を草 して, イ ン ドネ シ ア党 へ入党 した。 その宣 言 文 の中 に おい て もス カル ノは, イ ン ドネ シア党 と教 育協 会 の問 には 基本 的 な相違 点 は な く両者 は ともに マル - エ ソの党 で あ る と述 べ て い る32)が , その マルノ、エ ソ (後述 ) の党 と しての正統 性 こそが,両 派 の間 の論争 点 とな る。 - ツ タが統 一 問題 に触れ て主 張 した こ とも, それ に よっ て,教 育協 会派 (自由派連 合) の 「マル - エ ソ性 」 を強 調せ ん と し た か らに は か な らない。 そ の後 , ッ タ らの批 判 の矢 は , 国民党 の基本 的精 神 で あった マル -エ ソ的性 格 を損 な うよ うな統 一 の あ り方 ,其 体 的 に はPPPKI
に対 して向け られ た。 1932年4月20日付 の 「人 民 主権 」紙 に - ツ タは一 文 を寄 せ , 自由派連 合の 出現 に よって統 一 が乱 され てい る とい う 非難 に応 えて, 彼 のPPPKI-Per
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見解 を披歴 した。 いわ く, 「世 上統 一(
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と呼 ば れ てい る もの は, ほ ん と うは, 串焼 き肉の統 一(
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ほ 轟焼 き肉の意) には か な らない。 つ ま り, 山羊 や牛 や水牛 の 肉が 串に さされ て一 つに なっ てい るの で あ る。 しか るに,人 民 の観念 とブル ジ ョ ワや蓑 族 の観 念 とは, そ もそ も統 一 し え ない もので あ る。 これ らすべ ての集 団 を統 一 す る こ とは ,各 々が その各 々の原則 を犠牲 にす る こ とに は か な らない。33)」 ノ、ッ タは さらに彼 の統 一 論 を展 開 す る。 す なわ ち, - ツ タ らの望 む統一 とは,PPPKI
内部 の人 々が保持 す る串焼 き肉の統 一 とは 別 の もので あ る。統 一 とは民 族 的 な統 一 , もはや分割 され えな い ィ ./ ドネシ ア民 族 の統 一 で あ り, この統 一 され た民 族 内で 紘 ,様 々な見解 を抱 く思 想潮流 は各 自の原則 に沿 った活動 を行 な う横 会 を得 るべ きで あっ て, "統 一 " の世迷 い言 に よっ てその活 動 の喉 元 を しめ あげ られ て しま う道理 は ない。統 一 戦線 と は,危機 的状況 に直面 した時 に は じめ て問題 とされ るもので あ る。 め ざすべ き統 一 はPPPKI
の 「統 一」 派 とは まった く別 の もので あ る。PPPKI
内では ,非協 力派 に とっ て聞 くも不 愉快 な政 庁讃 美 が公 然 と語 られ , しか も彼 ら (例 えば タム リン) は , 国民参 議院等 の植 民地 諸 機関 に 固執 しつ づ け てい る。PPPKI
の この よ うな状 態 が ,PPPKI
内で の協 力派 民 族主 義 者 の地 位 を強 化 させ ,PPPKI
を , 国民党 に結 集 した人民 の心 か ら ます ます 遠 い もの とさせ てい った ので あ る。PPPKI
の政 庁協 力派 に率 い られ て 行 なわれ た ス ラバ ヤの イ ン ドネシ ア ・ラヤ大 会 32)Sukarno,
o
p.
cit.,p.169. 33)M.Hatta,op.cit.,p.153.東南 アジア研究 9巻 1号 (1932年 1月) 紘, その ことを明瞭 に示 してい る。34) - ッ タの 統 一 批 判 論 は , ほ とん ど同 じ 観 点 か らシ ャ フ リル に よっ て も な され てい る。 彼 は 1932年 に次 の よ うに言 っ てい る。 統 一 とは ,運動 の 目標 では な く闘争 の戦線 を強化 す るた め の一 つ の条 件 にす ぎない。35) イ ン ドネ シア民 族運 動 史 を ふ りか えっ てみ る と, 何 らか の統 一 が 行 なわれ た 例 は五 つ数 え られ る が36), この うち,1918年 の急進派連 合 以外 は,いず れ も運動 が 困難 な時期 に 出現 した。 しか し これ らは いず れ もそ の 統 一 の 内部 で は 仲 間 - の配 慮 が 先 立 っ て あい まい な 態 度 しか とられ え ず , あ えて批 判 を行 な う者 は ,ただ ちに分裂 主義 者 ,裏 切 り者 と呼 ばれ た 。 困難 な時期 に は確 かに民族 的 感情 は統 一 を求 め るが, 現在 は相対 的 に みれ ば , そ の困難 な時期 (統 一 が要 請 され る よ うな危機 的状況) は過 ぎ去 っ て お り,各党 は その党 原則 に の っ とっ て,各 々の党 活 動 を遂 行 し うる。 この時 点 で な お統 一 を叫 ぶ のは,現 実 政 治 の冷 静 な認 識 とは別 の , た ん な る感情 に 基 づ くもの で あっ て , それ は もはや詩 人 の額分 に属 す る こ とで あ る。37)
PPPKI
に つ い て みれ ば , それ は二 つ の形 態 ,す なわ ち , た また ま同一 目標 (自治 ,議 会 開設 要 求) を持 つ者 が一定 期 間統 一 した急進 派 連 合 の統 一 の形 態 と,相互 に相 対 立 す る 目標 を持 っ て い る組 織 が,各 組 織 の 自主 性 を損 なわ ない範 囲 で ,民 族統 一 のた めに協 同 した東 イ ン ド民族 会議 の統 一形 態 とを混 合 させ た もので あ り, そ こに生 まれ 出た の は ,両性 具 有 の子供-ー一_-----1一一1---I-----
1
L
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車上年中j
i)で あっ た。1928 年 にSn
氏 (ス カル ノを指 す) 紘 , "一 体 とな りた い願 望 " がPPPKI
を生 み 出 した と述 べ て い るが , これ は感情 で あっ て政 治 的 な意 味 を もた ない。38) こ こで は ``博 愛 "(
per
s
audaraan)
が神 秘化 (ク ラマ ッ 目 され ざ るを えない。39) こ うして, 国民党 の原則 で あ る非協 力 と大 衆 行 動 とは, このPPPKI
内部 で は放 棄 され ざ るを えず ,結 果 的 に は,PPPKI
は 国民党 に結 集 し た人 民 を貴 族派 に結 合 させ る こ とに な った ので あ る。PPPKI
の 「統 一」 が , 国民党 の原則 を 逸 脱 させ た こ とは 明 らか で あ る。 と りわ け , ス ラバ ヤの イ ン ドネシ ア ・ラヤ大 会 は ,民族 独 立 闘争 を貴族 階級 の手 に委 ね よ う とす るもの に は か な らない。40)国民 党 の い う大衆 行動 とは, マ \ ル ハ エ ソを教 育 す る こ とで あ 。, 人 民 に担 うべ きその任 務 を 覚醒 せ しめ 墜 撃空軍-(
pol
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Auf
kl
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ung)
の こ とで あ る。41) 34)Ibid.,pp.153-154. 35)S.Sjahrir,o
少.c
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.
,p.22. 36)Ibid.,p.34. シャフ リルは,統一戦線の例 として,急進派連合 (RadicaleConcentratie,1918年),全東イン ド会 議 (AlllndischeCongres,1923年),東イン ド民族会議 (Nationallndisch Congres,1924年), PPPKI(1927年),大イン ドネシア会議 (CongreslndonesiaRaja,1932年)の五つをあげている。 37)Ibid.,pp.35-39.38)Ibid.,pp.39-40・ 39)Ibid.,p.41.
40)Ibid.,p.40,42,44. 41)Ibid.,p.43.
土 足 :ス カル /とノ、ノブの論 争 - ツ タ とシ ャ フ リル に とっ て,統 一 とは あえて問題 に され るべ きものでは な く, それ は いわ ば前 提 として与 え られ てい るもの なの で あ る。 しか し, オ ラン ダに対 す るイ ン ドネシア民 族 の 統 一 とい う- ッ タ らの統 一 の理 解 は, 「蘭 領 印度 の土 民」 か ら 「イ ン ドネシア民 族 」 へ とな り 変 わ っ て い くこ との 困難 さを素 通 りして,統 一 の問 題 が もっは ら統 一戦線 論 の問題 と しての み 論 ぜ られ る とい う結 果 を うみ 出 した。 /、、′タ とシ ャ フ リル が 「悪 質 な」
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と許 した ス ラバ ヤの イ ン ドネシ ア ・ラヤ大 会 を, 出獄 後最 初 の そ して最 高 の政 治舞 台 と した ス カル ノに と っ て,PPPKI
は , 依然 として 「私 の生命 の一部42)」で あった の で あ る。 民族 内部 の階級 的 矛 盾 を もっ ぱ ら重 視 す るの か, あ るい は オ ラン ダ対 イ ン ドネシア とい う民 族矛 盾 を第一 義 とす る のか とい う問題 に, この統 一 論 はつ なが っ て い くが , それ につ い ては第Ⅲ節 で検 討 す る。 (3)党 組 織 を め ぐっ て - ツ タ らは, 国民党 解 散 の際 に み られ た党 指導 者 の専 横的 な行動 は党 の民主 制 を損 な うもの で あ り, 党 につ き従 う民衆 を愚弄 し, 結 局党 活 動 その もの を 弱 体化 す る こ とに な る と主 張 し た。1
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年1
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日の論 評 で , ノ、ッ タは イ ン ドネシ ア党 の い う原則 とは,党 員 に対 す る検閲
制 度 に は か な らず ,覚 指 導 部 には強大 な権 限 が与 え られ ,党 の 同調者 は それ に 「あひ るの追 従」(
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,あひ るが 一列 に な っ て ガ- ガ-声 を そ ろ え て先 頭 の もの に 従 う とい う意 味) を す るの み で あ る43), と述 べ てい る。1
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年 の1
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月 と1
1月に ノ、ツ タは 「弾圧 下 の運 動 」 お よび 「党 の 自律 性 と集 中性_」とい う二 論 文 を寄 せ て,教 育 協 会 の活 動方 針 を次 の よ うに述 べ てい る。 教 育協 会 が あえて党(
Part
a
i) と名乗 らないの は , この組 織 が量 で は な く質 の 闘 い を欲 した か らで あ る。 それ は強 靭 な幹 部 養成 を主 眼 とし,集会 よ りも党 員訓 練 古宇重
点 を お き宣伝(
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i-t
as
i
)
を第一 目的 とは しない。 今 日の よ うな 困難 な状 況 下 (この年8
月 ス カル ノら逮 捕) で 紘,各 支 部 組 織 ,組 織 員 の責 任 感 と主 体性 とが要 請 され るか らで あ る。 各 支 部 が その責 任 を遂 行 し うるか否 か ほ支部 組 織 の質 に か かわ って くる問題 で あっ て,上意 下 達 の集 中性 で は組 織 は 存 続 しえ ない。 逆 に各支 部 が闘 争の原則 で中央 と一致 しなが ら,各 局面 で は 自律 性 を持 ち, そ の判 断 に基 づ い て行動 して いけば組 織 は存続 発 展 してい く。44)1
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月1
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日付 の論 評 で も- ツ タは,組 織 の重要 性 に触 れ て次 の よ うに述 べ てい る。 展望 の ない感情 だ け で運 動 を推進 させ よ う とす るのほ ,子 供 じみ たや り方 で あ る。 ひ とた び 統 一 の感情 が芽 生 え発 展 し,民族 統 一 が実 体化 した 以上 ,運 動 も示 威 行 動 の段 階 か ら組 織 化 の 段 階 に入 るので あ る。45)42)Bernhard Dahm,
o
p.
cit.,p.138. 43)M.Hatta,op.cit.,pp.104-105. 44)Ibid.,pp.1731175.東南 アジア研究 9凝l号 さ らに - ッ タは この論 争 の 中 で , 同年 夏 逮 捕 され た ス カル ノが獄 中 で イ ン ドネシ ア覚 か ら離 党 す る声 明 を 出 した こ とに対 し, 運 動 の "頭 目''とみ な され て い た 指 導 者 が 組 織 か ら退 い た が , これ は人 民 に対 す る責 任 あ る態 度 と言 え よ うか , この よ うな気 ま まな態 度 こそ人 民 の運 命 を もて遊 んだ もの で は ない の か と批 判 して い る。46) す で に述 べ た よ うに , イ ン ドネ シ ア党 が その活 動 の重 点 を大 衆 集 会 ,宣伝 活 動 に おい て い た の に 対 して,教 育 協 会 は ,将 来 独 立 闘争 の 中核 とな りうる よ うな幹 部 を養成 す る こ とに重 点 を おい て い た わ け で あ り, もっ ぱ ら指 導 者 の 個 人 的 資 質 (具 体 的 に は ス カル ノ) に の み 依 存 して い る民族 運 動 を批 判 してい っ た の で あ る。 シ ャ フ リル は ,西 洋 と東 洋 とを比 較 し, 西 洋 が東 洋 に ま さ るの は組 織 と技 術 の
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点 で あ る と 指 摘 し, と くに 資本 主 義 の時 代 が組 織 化 の時 代 で あ り,組 織 のみ が組 織 に対 抗 し うる こ とを強 調 してい る。47)シ ャ フ リル に よれ ば ,組 織 だ け が独 立 獲 得 の た め の武 器 で あ り,反 資本 主 義 , 反 帝 国主 義 闘争 に 立 ち上 が る人 民 の武 器 とな る。 組 織 の た めに は , モ ラル (この モ ラル は ,神 秘 的 非 合理 的 な もの で あ っ て は な らな い。
)
が必 要 で あ る とい え, それ は組 織 の前 提 に は か な らない 。組 織 の 強化 とは組 織 内 の各 部 分 を強化 し,部 分 と全 体 の関 係 を 円滑 な ら しめ る こ とを 言 う。 この た めに必要 な の は ,勇 気 で は な く確 実 に持 続 す る意 志 で あ る。教 育 だ け が この よ う な強 固 な意 志 を育 て る こ とが で き る。48) \ ノ_一一・一′ - ッ ク, シ ャ フ リル が , 党 組 織 に ふ れ つ つ 「感 情.」「モ ラル」「勇 気」 よ り旦 _「担 織 化」「意 志」「自律 性 」 を重 視 した の は , 直 接 に ス カル ノを 意 識 して い た か らで あ るが , そ の ス カル ノ は1
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年3
月 に執 筆 した 「イ ン ドネ シ ア独 立 の達 成 の た めに」 とい う論 文 中 ,前 衛 党 に おけ る 集 中性 の問 題 にふ れ て, - ッ ク らの論 を退 け て い る。 そ の ま ま引用 す る と次 の よ うに な る。 「--改良主義に傾 く党員,改良主義に傾 く思想,これ らは徹底的に "洗い落 とされ"なければならな い。もし "洗い落 とし"えない時には,容赦な く無慈悲に党内から追放 しなければならない。 諸君は反問す るだろ う。もしそ うなれば,党内民主主義はな くなってしま うと。当然のことだ/ "あら ゆ る思想は 自由で良い" とい う意味で,党は民主的であってはならない。いっさいの "主義"が許容され るような民主的性格を持ってはならない。党はただひ とつの思想 と主義のみにかかわってい る。 100パ ー セン トラディカルな思想 と主義がそれであ る。 前衛党内で許容され る民主主義は通常の 民主主義ではな い。前衛党の民主主義は 外国語で民主集中制 と呼ばれている民主主義であ る。 これはその 指導者に対 し て,逸脱分子を罰し大衆 と党 との関係を危険にさらす ような党員ないし党派を追放す る権限を与える艮主 主義である。 =党内に無制限な思想の自由が存在してはならない。覚を統一す る柱は信念の統一の内に存 す るり。 これは党組織について,ある大指導者が語ったきわめて注 目すべ き教えである。分裂分子を許し てはならない。分裂分子はもっとも痛烈に弾劾す るかただちに蹴 り出してしまわなければならない。なぜ ならは党内がゆれ動 き動揺してい る前衛党は,大衆の前衛 とはな りえないからである。4
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)
Ibid.,p.1
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.
47)S.Sjahrir,op.cit.,pp.55-56. 48)Ibid.,pp.55-62.7
4
土 足 :ス カル ノ と- ノタの論 争 改良主義へ の逸脱 を罰す るだけではない。アナル コ ・サ ンデ ィカ リズム,無定見な狂既 ,盲 目的行動や 思想- の逸脱 , これ らもまた 正 されなければな らない。 制裁 されなければな らない。 この よ うな逸脱 こ そ ,党 に "左翼性 "が欠けてい ると称 しては, "裏切 り者 "呼ばわ りす るものであ る。 この逸脱 こそはそ の盲 目性 のゆえに, ラデ ィカ
ル
な
左
異
性 と,非社会的な左翼性 との区 別を知 りえない ものなのであ る。 自 然を担い, 自然に担われ た左異性 と,無根望な怒 りの情-のみを担い,それに担まっねた左翼性 とを弁別 しえ ないのであ る。
健 仝な党はたえず この二 車の逸脱を明和 こしていかなければな らない。独立の大瓶をめ ざ して うね りうね りゆ く大衆行動 の大波を確信す る,その ラデ ィカルな遺す じを指 し示すためにであ る。 とす る党 員を,Jtf赦 な く無慈悲に罰す る原則 , この原則 こそ前衛党 の一つの魂 であ る。 ラデ ィカ リズ ムのそ の イデオ ロギーに関す る原川 のみ でな く,また ラデ ィカ リズムのその 日理 論的側血"に関す る原則 のみ で はない。党 の 仝側血に闇す る原則なのであ る,理 論原則 ,組織原則 ,戦術原則 ,宣伝原則- 要 言すれば , その'
II条項 の 末端 まで,党 は一つ の機械裳置 メカニズ ムの よ うに 車軸 も機械 も完壁な一つの原理につ らぬ かれ ていなければな らないC ここにおいて党 は精神のない ,また変 化 もない機械 であって もな らないOその よ うな党は生 命のない党 であって,時代の強帆はたち まちそれを この地 上か ら吹 きJ鳳よして しま うであ ろ う。 自然を担い, 自然に 担われ てい る党 は, 自然その ものの よ うに生 き, 自然その ものの よ うに進化 していかなければな らない。 党 の生命,党 の進 化,党 の生命の11::み , これ らは阻止 され挑 戦 され てはな らない。阻止 され挑戦 され るべ きは,党 の病 ,党 の ラデ ィカ リズムの身体の(建
陳を蝕む逸脱 の病 であ る。 自然その ものは,かつ て 自らわ き道にそれ ることもな く,たえず さまざまな痛 と闘 ってきてい る。党 は,党 の ラテ ィカ リズムの身体を よ り頑丈 に よ り蛙F
,
抽こして くれ るものは, よろ こんで これを受け入れなければな らないが,病 に対 しては, ただちに,容赦 な く ``きび し く''投薬 しなければな らない。党 の心臓部にあ るべ き集 中主義は,独裁者の 集中主義 ではな く,党その ものが最高
指導者 とな るよ うな艮主的な集中主義 でなければな らない。しか し 逆 に また,党 の心 臓部にあ るべ き集中主義は,何 に対 して も自由を与 え る艮主主義 ではな くて, ラデ ィカ 1)ズムを蝕む病を明らかにす る集中的艮主主義 でなければな らないo 艮主的集中主義 と集中主義的艮主主義- これ こそが,前 衛党 の内的な条件であ る。・・・..・」 49)(
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)
非 協 力 政 策 を め ぐっ て 非 協 力(
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as
i) とは , 其 休 的 に は , 植 民 地 政 庁 との 妥 協 を 排 し, 政 庁 の 官 吏 に な る こ と を 拒 否 し, 植 民 地 に 存 在 す る種 々の 会 議 (国 民 参 議 院 , 諮 問 委 員 会 ) を ボ イ コ ッ トす る こ とで あ る。 イ ン ドネ シ ア協 会 は , す で に1
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年 の 活 動 綱 領 中 に この 非 協 力 の 立 場 に 立 つ こ と を 宣 言 し, の ち これ は1
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年 に 国 民 党 が 設 立 され た 際 に 党 の 基 本 桐 箱 とな っ た01
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年 代 初 頭 に , この 非 協 力 政 策 を め ぐっ て 両 派 が 論 争 し, そ れ が 党 の 原 則 論 , 戦 術 論 を め ぐる論 争 に 発 展 した が , この 論 争 の 契 棟 とな っ た の ほ ,1
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年1
1月 に - ッ クが オ ラ ン ダ独 立 社 会 党(
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j) の 推 薦 で , オ ラ ン ダ 国 会 第 二 院 の 侠 補 者 に な る こ とを 承認
した こ とで あ っ た。1
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月1
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日 イ ン ドネシ ア党 は , 機 関 紙 「統 一 イ ン ドネ シ ア」 で , - ッ タ は い まや そ の 正 体 を 暴 露 した , わ れ わ れ は /、ッ タ を 警 戒 しな け れ ば な ら な い50), とい う趣 旨 の 批 判を した。
49)Sukarno
,
o
b.
cl't.,Pp.305-307. 50)Bernhard Dahm,op.cit..p.159.東南 アジア研究 9巻1号 この 間 題 に 関 す る- ッ ク, シ ャ フ リル とス カル ノの 見 解 の 中 に は , 両 者 の 基 本 的 な視 点 の 相 違 が もっ とも 明確 に 示 され て い る。 ス カル ノは