南船北馬集 : 第十四編
著者名(日)
井上 円了
雑誌名
井上円了選集
巻
15
ページ
109-230
発行年
1998-03-20
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00002961/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja南之舶 北 馬 集 ,「 [ ﹂ 阿 第十四縮 ×阪府巡講艮誌
甫水井上圓予記
.癒正六牟=月廿一二慨題晴.三河問よ●夜行ほ駕し.朝五時串×臣斑蚕鴨天未だ明けず、 鵜金宣にて弗玲す轟乙と一時郷争、是よ多塙幕にて始波■に蚕o、電填に栗込、泉州演 §障6、一、力棲腱入8、是れ田西に於ける屈揖の犬旋暗彙粁穎店¢㌣客室妥有す秘 5乙と百以上に及ぷ、田して裳遠棲は地下●ン本ルを以て接績をなすの襲置あβ、共に 白壁青魯⑲蘭に介立じて、寵ば面し山ほ身す、大甲及淡州の蓮山と潅を隔苦、封座し、 呼磯ぱ庖に答へんと官6聾なるは頗る批題な,、左龍拙吟一首を鋒す、、 砿禦南一路似伸■癬牢在松青沙白間、望裏姻清海鷹苫・風帆影外淡掲蹴、、 鯵+西● 一 (巻頭) 4.刊行年月日 底本:初版 大正7年1月28日 5.発行所 国民道徳普及会 1.冊数1冊
2.サイズ(タテ×ヨコ) 188×127㎜ 37 コジ数
一総 ぺ 3. 目次 〔1〕 本文 136 Pド @ン 驚“ ぷ、、Z灘騰ンタ鰍㌘ジ﹁ く・鍵覇叢簗黙ぴ織
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南船北馬集 第十四編 大正六年二月二十三日 穏晴。三河国より夜行に駕し、朝五時半、大阪駅着。天いまだ明けず。待合室にて休 憩すること一時間半、これより腕車にて難波駅に至り、電車に乗り込み、泉州浜寺駅に降り、一力楼に入る。こ れ関西における屈指の大旅館兼料理店にて、客室を有すること百以上に及ぶ。しかしてその連楼は地下トンネル をもって接続をなすの装置あり。ともに白砂青松の間に介立して、海に面し山に対す。六甲および淡州の連山と 海を隔てて対座し、呼べばまさに答えんとする勢いなるはすこぶる壮観なり。左に拙吟一首を録す。 泉南一路似仙関、家在松青沙白間、望裏姻消海開薔、風帆影外淡州山。 ︵泉南の一路は仙人が住む地への関にも似て、家は青々とした松や白い砂の間に点在する。一望するうちに かすみも消えて海は画をくりひろげるごとくひらけ、風にふくらむ帆影のかなたに淡路の山がうかぶ。︶ 午後、車行十四、五町、泉北郡高石町く現在大阪府高石市∨不断寺に至りて開演す。発起者は念通寺住職奥野寛了 氏を主とし、円満寺および不断寺なり。演説後、浜寺に帰館す。 二十四日 温晴。春霧、遠山をおおう。車行半里弱、鳳村︿現在大阪府堺市﹀に移る。ここに官幣大社大鳥神社あ り。毎年八月十三日官祭を行い、四月十三日花摘祭をなすという。また、当所は郡役所所在地なり。会場は郡会 議事堂、主催は郡教育会にして、郡長木村葺氏、課長中村文一氏、視学物部豊太郎氏等尽力せらる。宿所正覚寺 住職河野直道氏および靹津観遇氏も助力あり。哲学館出身仲村隆賢氏は西陶器村より来訪せらる。二月二十五日︵日曜︶ 温晴。郡書記船富安次郎氏の先導にて車行一里半、大津町︿現在大阪府泉大津市﹀に移る。 会場および宿所は縁照寺なり。郡内はすべて郡教育会の主催なれども、当地にては小学校長小川貞吉氏、住職横 田乗誓氏も発起者中に加わる。大津町は大阪府下第一の織物産地にして、綿毛布の産額ことに多し。その工場、 数百ありという。動力は多く電気を用う。工女の日給は弁当持ちにて三十銭より七、八十銭なる由。 二十六日 晴れ。車行二里余にして南池田村︿現在大阪府和泉市﹀三林に至る。途中、国府村字府中泉井上神社の 前を過ぐ。その境内に清泉を噴出する所あり。この水が泉州の国名の起源なりという。車をとめて一見するに、 泉底洞渇して一滴の水なし。聞くところによるに、夏時にあらざれば満水せざる由。南池田の会場は小学校、宿 所は大金楼なり。しかして発起は村長野崎織之進氏、助役門林昊臣氏、校長勝井甚三郎氏なりとす。本村は蜜柑 の産地にして、その味は紀州有田をしのぐの評あり。一年の産額十万円という。本年は数十年来の豊作なりとて 価いたって安し。路傍の売店に一山百文と題するを見るに、一個二厘ぐらいの割合に当たる。暮天、雨を催しき たる。西国札所四番観音、槙尾山へは山路二里ありと聞く。また、池田村の隣村に仏並と父鬼との地名あるは一 奇なり。 二十七日 雨。車行三里、深井村︿現在大阪府堺市﹀に至る。純農村なり。午後、小学校にて開会す。村長奥中徳 三郎氏、校長西野清太郎氏等助力あり。宿所は極楽寺なり。 泉北郡巡講は今日をもって終わりを告ぐ。泉南郡は先年すでに巡了せしことあり。これより泉州を去りて河内 に移らんとするに当たり、聞き込みたる言語、風俗の一、二項を挙示せんに、泉州にて童謡の﹁御月様いくつ﹂ を﹁十三一つ﹂という。しかして大阪にては﹁十三七つ﹂なり。地震のときに﹁ヨナオシヨナオシ﹂と呼ぶ。こ 110
南船北馬集 第十四編 れは京阪地方一般なるがごとし。小児らが数をかぞえるに、東京にて﹁チュウチュウタコカイナ﹂というところ を、泉州にては、 丁︹チョウ︺ キー ター カイ 十︹ジュウ︺ヤ という由。二十個をかぞえるときは二個ずつ取りて、東京にて﹁ハマクリハムシノドク﹂というに、泉州にては、 ヒニ フニ 達磨ドンハ ヨルモ ヒルモ 赤イ 頭巾 カツギ トーシタノー と呼ぶはおもしろし。神社の祭礼につきては、石津村の恵比寿社に裸体祭りあり。また、摂州に属すれども、旧 六月十四日の住吉祭礼に参拝するものは、海中に入りて足を洗うを例とす。かくすれば腫物ができぬとの伝説あ る由。泉州地方は自宅に風呂を有せず、すべて湯屋に行く風ありと見えて、旅館まで浴場を有せざるもの多し。 二十八日 晴れ。早朝、中村郡書記が郡長に代わりて来訪せらる。午前、深井村を去るときにほらを吹く音を 聞く。ときに山伏が裸体になりて村内をめぐり、毎戸寒水をかぶりて走るを見る。車行二里、高野鉄道を横断し て南河内郡黒山村︿現在大阪府南河内郡美原町﹀に移る。会場は小学校、主催は本郡西部教育会なり。会長小池清吾氏 および各村長、校長等尽力あり。宿泊所は饅頭屋と名付く。人をして菓子屋かを疑わしむ。郡長武藤剛氏は視学 和佐盛三郎氏をしたがえて出席せらる。この日、天晴るるも風寒し。当面の高嶺、白雪をいただけるは金剛山な り。郡内いたるところ楠公︹楠木正成︺の遺蹴存するも、多忙のために討尋するのいとまなし。よって所見一首を 賦す。 泉北河南春信遅、山風帯雪冷侵肌、楠公遺跡尋無暇、遥仰金剛想往時。 ︵泉北と南河内の春のたよりは遅く、山から吹く風は雪をもよおして肌をさす冷たさがある。楠公の遺跡は
たずねたくても時間がなく、はるかに金剛山をあおいで、その当時を思いみたのであった。︶ 三月一日 晴れ。寒気なお厳なり。車行三十丁、西村駅より乗車、長野駅に降りる。これ大阪より高野山麓に 通ずる鉄道なり。会場兼宿所たる長野町︿現在大阪府河内長野市﹀極楽寺は丘上に座する大伽藍にして、大念仏宗中 本山の称あり。仏堂、客室ともに闊大、郡内屈指の大坊とす。主催は南部教育会︵会長追矢麟之亮氏︶および南 部自彊会︵会長清原章山氏︶にして、その部内の町村長、校長および宗教家、みな尽力あり。自彊会は本郡内の 各宗寺院の連合より成る。すなわち宗教家連合して戊申詔書の聖旨を普及開達する会なる由。本日また、武藤郡 長は多忙を排して出席せらる。近村天野村小山田は小楊子製作専門なりと聞く。けだし上総の久留里と楊子界の 東西の両大関ならん。また、隣村に鬼住の地名あり。極楽寺と相対してその名おもしろし。楠公の首塚は長野駅 より三十丁、潮宮鉱泉は八丁ある由なり。 二日 晴れ。長野より汽車にて二十分、富田林町︿現在大阪府富田林市﹀に至る。同駅に楠氏遺跡里程表ありて、 左のごとく表記す。 千早城祉へ三里三十二丁、楠公遺物陳列所︵水分神社︶へ一里二十八丁、赤阪村楠公誕生地へ一里二十五丁、 歓心寺楠公首塚へ三里九丁、駒ケ谷楠公墓地へ二里一丁、天野山金剛寺へ三里十九丁。 しかして楠公誕生地までの人車賃、片道三十八銭、往復六十三銭とあり。富田林を中心として周囲に遺跡散在 す。その他歴史上の古跡多きこと、本郡は大阪府下にて第一に位すという。午前、中学校にて講話をなす。校長 は秋田実氏なり。午後、小学校にて開演。主催は東部教育会にして、会長は尋常校長葭原善暁氏とす。高等校長 青谷耕造氏、その他各村校長ともに尽力せらる。宿所は旧家杉山長三郎氏宅なり。当町には酒造家、材木屋多し 112
南船北馬集 第十四編 という。 三日 晴れ。朝、実科女学校にて講話をなす。郊外新築の校舎にして、門側に学校下車駅あり。校長は榛沢常 人氏とす。これより軽便に駕して道明寺駅におりる。その駅より玉手遊園へ五丁、五番札所葛井寺へ十八丁、土 師神社すなわち道明寺天神へ二丁あり。会場は天神社内の社務所︹道明寺村︿現在大阪府藤井寺市﹀︺なり。南坊城良興 氏その宮司たり。主催は北部教育会にして、小学校長安井太一、黒岡勝造、奥田兵太郎、宮井積造、辻楠三、松 倉貫蔵の六氏、ともに大いに尽力あり。しかして郡内各所の開会に関し、郡役所より多大の配意をかたじけのう せり。この日、天神社内梅花満開、清香複郁たるを見て一吟す。 菜圃縦横路短長、雲間留雪是金剛、占春只有道明寺、梅続社頭香満堂。 ︵菜園が縦横につらなり、道は長短それぞれであり、雲間に雪をとどめているのは金剛山である。春をひと りじめしているのは道明寺であって、梅が道明寺天神社をめぐって咲き、その香りが堂に満ちている。︶ 当社より乾飯にて製したる名物道明寺を出だす。宿所梅逼家は門前唯一の旅館にして、入口の扁額に宿泊料を いちいち短冊に記して掛けおくは新意匠なり。一等一円五十銭、二等一円、三等八十銭とあり。 三月四日︵日曜︶ 晴れ。朝、道明寺発の軽便に駕し、柏原にて換車、天王寺にて下車、これより腕車を駆るこ と一里半にして、大阪市︿現在大阪府大阪市﹀北区西寺町寒山寺に着す。当寺は新築すでに成り、堂内整備せるを見 る。開会は午後および夜分二回なり。発起者たる住職細野南岳氏は哲学館出身にして、十二年前シナ安東県にお いて会せし以来はじめて相遇う。その夕は北区天満相生楼にて、哲学館および東洋大学の同窓会あり。左の十七 田 人出席せらる。
伊賀駒吉郎 沖田 虎一 釈 日遵 古田虎次郎 勝見 見成 玉出 諒円 中内 源馬
藤園静慶 日種観明 岡田英定 間人一郎 今治代治 細野南岳 高安博道
潮田 玄丞 佐々木竜順 大富 秀賢 高安、潮田、佐々木三氏、幹事の任に当たらる。 五日 晴れ、ただし風強し。朝、寒山寺を発して市街を一過し、湊町駅より関西線に駕し、八尾駅におり、こ れより車行一里にして、中河内郡大正村︿現在大阪府八尾市﹀字太田に着し、願立寺において昼夜ともに開会す。住 職鷲康勝氏は日露戦役の際、万死に一生を得たる人なり。主催は鷲氏にして、発起は柏原仁兵衛氏、柏原槙松氏、 橋内彦兵衛氏、巽友治氏、高橋賀三郎氏、植田藤四郎氏にして、ともに大いに尽力あり。宿所橋内氏は酒を絞る 袋を製造す。その名を欲袋というはおもしろし。余、狂歌をよみてこれに題す。 橋内の袋の外に袋なし、天下の富をしぼり取るには。 これ欲袋の注釈に当たるべし。柏原氏は旧家にしてかつ篤志家なり。しかも哲学に趣味を有せらる。 六日 晴れ、ただし風寒し。郡書記木下信一氏の案内にて太田を発し、八尾を経て楠根村︿現在大阪府東大阪市﹀ に至る。道程三里余、会場は小学校、主催は村長石井庄右衛門氏、宿所は坂元氏の宅とす。稲川佐吉、高林市太 郎両氏も発起に加わる。本村は工業地にして、貝ボタン、タオル、シーツ等を製造す。村内にて職工に払い渡す 給料の額は一力年二十五万円に達すという。したがって諸方より寄留するもの多く、人心一致を欠き、郡内の難 治村の評ありと聞く。 七日 快晴。朝気寒強く、田水氷を結ぶ。車行二里にして枚岡村︿現在大阪府東大阪市﹀に至る。演説前、村長山 114南船北馬集 第十四編 口喜三郎氏の案内にて歩すること三、四丁、石切神社︵剣箭神社︶に詣す。遠近より腫物患者きたりて祈薦を請 う。これより電車にて瓢箪山稲荷に詣す。その社は辻占をもって世間に名高し。大阪市中にて瓢箪山恋の辻占と いうはこのことなり。更に電車によりて官幣大社枚岡神社に参拝す。これ日本最古の社なりという。その社より 年中の晴雨を予占せる表を出だす。社畔の高地に梅園あるも、昨今いまだ満開に至らず。しかし遠近の眺望すこ ぶる佳なり。よって一詠す。 瓢箪山又枚岡宮、登拝回頭望不窮、泉野河田晴愈潤、阪都独在炭姻中。 ︵瓢箪山と枚岡神社、のぼって参拝し、ふりかえって望めば果てもない。泉州の野の川も田も晴れていよい よ広く、大阪のみは炭煙のけぶるなかにある。︶ 午後、浄土宗玄清寺において開演す。・王催は郡教育会、発起は村長および住職杉森貫隆氏、校長西田謹三郎氏、 助役築山勘解次郎氏なり。本村には針金およびブラシ工場あり。また、ステッキを製作す。築山氏より上等ステ ッキを恵与せらる。また、田地も良田多く、一反につき四石の収穫あり。小作料は夏作︵米︶一石八斗、冬作︵麦︶ 一石二斗を地主に納むと聞く。元来、枚岡の地は伊勢参宮街道に当たり、生駒山脈のクラガリ峠を越えて大和に 出ずる駅路なりしが、近年トンネルをうがちて電車を通ず。その長さ一万数千尺、これを一過するに七分時間を 要す。日本最長のトンネルの評あり。枚岡近傍の名所として生駒聖天ありとのことなれども、これに詣するの余 暇なし。また、二十四、五町を離れたる所に往生院六万寺あり。その境内に楠木正行の墓ありと聞けど、これま た参拝するを得ず。 八日 晴れ。朝時、春寒なお強く、室内︹華氏︺三十八度なり。電車にて大阪に至り、更に汽車にて吹田に降り、
車行一里にして味生村︿現在大阪府摂津市、吹田市﹀に着す。その隣村には味舌村あり。いかなる珍味多き土地なりや と聞くに、その名産はうどなりという。味生の会場は小学校、主催は青年会、発起は村長大西多次郎氏および校 長根来伊之助氏なり。大西氏の宅にて一休の後、車を駆り、吹田を経て大阪に移り、西寺町浄土宗冷雲寺にて夜 会の講演をなす。主催は慈教青年会と明照婦人会にして、発起は谷田探海氏と志水法道氏なり。当夕、志水氏の 住せる法界寺に宿す。 九日 雨。湊町より汽車に駕し、平野駅に降り、車行一里半にして中河内郡松原村︿現在大阪府松原市﹀に至る。 途中、大和川に架する朽敗せる明治橋を渡る。やや危険の思いを浮かぶ。本村は農村にして木綿織を副業とす。 会場は小学校、主催は郡教育会、宿所は西得寺、発起は住職千賀了岩、村長保田佐久三、校長千賀了隆三氏とす。 夜に入りて暖加わり、雨ますますはなはだし。 十日 雨のち晴れ。車行約二里、八尾町︿現在大阪府八尾市﹀中学校に至りて、午前講演をなす。校長は奥平市内 氏なり。この校には大学予備門当時の旧友秋山鋼太郎氏教鞭をとらる。また、旧識佐竹制心氏に会す。これより 半里ばかりにして竜華村︿現在大阪府八尾市﹀小学校に移り、午後更に開演す。これ郡教育会の主催にして、村長野 村新三郎氏、校長中矢浅次郎氏、学務委員武田一郎氏の発起にかかる。郡長黒木吉郎氏、視学山口喜三郎氏ここ に来会せらる。宿所は郡内の名刹たる下の太子真言宗椋樹山勝軍寺なり。往古、聖徳太子、︹物部︺守屋と戦いて 勝ちを得られし旧跡とて、庭内に老いてまさに朽ちんとする神椋あり。太子の身を擁護せし樹なりと伝う。その 葉はこれを煎じて用うれば腫物に特効ありとの伝説より、これをもらい受くるもの多し。門前には守屋の血洗池 あり。また、門側一丁離れたる所に守屋の墓あり。所感の即吟一首を左に録す。 116
南船北馬集 第十四編 椋樹山辺憶往時、上宮太子跡猶遺、二千年古勝軍寺、今日依然守屋池。 ︵椋樹山勝軍寺のあたりにすぎ去ったその当時のことを思う。聖徳太子の旧跡がなお残されている。二千年 の古い勝軍寺、今日もなおかつてのままに守屋の血洗池が残されている。︶ 三月十一日︵日曜︶ 快晴。車行一里弱、東成郡平野郷町∧現在大阪府大阪市東住吉区・平野区∨に移る。融通念仏宗 本山所在地なり。本山は二十年前祝融の災にかかりし後、再建いまだ成らず。会場小学校は百坪以上の大講堂を 有す。応接所も新設にしてすこぶる清麗なり。宿所は満願寺︵浄土宗︶、発起は前橋清縁、島田日哉、鷲谷善巧、 清秀円、新田義元五氏とす。真言宗上田聖道氏は哲学館出身なるが、哲学堂へ特別の寄付あり。当町は三千人の 工女を使用する紡績工場を有す。 十二日 晴れ。平野を発し、天王寺駅および大阪駅にて両度換車して、京都府宇治郡山科村︿現在京都府京都市山 科区﹀に至る。上田氏、京都まで送行せらる。会場は勧修小学校、主催は郡青年会、慈教会、教育会連合にして、 発起は郡長林田民次郎氏、慈教会長多田実円氏なり。演説後、醍醐三宝院に詣し、書院および庭園を参観す。い ずれも古色を帯びて極めて清雅なり。所見一首を賦す。 洛東春色転粛蓼、茶麦田間路一条、知否醍醐三宝院、寒庭水石勝花朝。 ︵洛東の春はなおいささかものさびしく、茶と麦の畑の間に一本の道が通る。人々が知っているのかどうか、 醍醐三宝院の寒々とした庭の水石のおもむきは花の咲く朝にまさると。︶ 境内広闊、喬松群立、五重塔も林中に埋没して、村外より望見するを得ず。宿所籾井実三郎氏の宅にて郡内の 方言を聞くに、女子が己を指してアテという。アーオカシというべきをアッキャラという。京都付近は一般に不
真面目のことをチャンバラという。小児らが数をかぞえるにチュウチュウターカイノトウという由。ついでに所 聞のままを記さんに、丹波にてはチュウチュウタコカイノトウといい、神戸にてはチュウチュウタマカイノトウ といい、江州にてはチュウチュウタワカイノトウという由。いずれも大同小異なり。宇治郡は名のごとく宇治茶 の本場にして、製茶を本業とす。山科駅より山科御坊まで二十一丁、大石良雄隠栖跡まで十一丁、明智光秀の墓 まで七丁、三宝院へは十五丁ある由。 十三日 晴れ。にわかに春暖を催し、日中︹華氏︺六十度に上る。午前中に大阪府三島郡吹田町︿現在大阪府吹田 市﹀に移り、朝日ビール会社工場内を一覧す。場長根上耕太郎氏案内せらる。ビール瓶の製作のごときは一日三万 個を造出する由。そのありさまは飴細工に似て、見るものをして大いに興味を感ぜしむ。ビール醸造高一力年七、 八万石ないし十万石という。庭内に旭神社およびビヤホールありて、一コップ一杯の価五銭なり。余、狂歌をよ む。 ビール飲むなら朝日に限る、誰れも吹田と云て居る。 当夜は小学校講堂にて開演す。町長川端信次郎氏、校長山本喜太郎氏等の発起なり。郡長笠井英一氏、視学安 野実氏、ここに来会せらる。宿所は駅前山下市松氏宅とす。このごろ宇治黄壁山隠元禅師へ大誼号下賜せられた りと聞き、一詩を賦呈す。 壁山陰薔久難開、御忌今年春漸催、皇日漏輝九重上、恩光照到隠元梅。 ︵黄粟山はほのぐらく、久しく開かれることはない。御忌は今年の春にようやくとり行われた。おおいなる ひかりは宮中にまでもれいたり、皇恩の光は隠元の梅に至ったのである。︶ 118
南船北馬集 第十四編 十四日 春雨糸のごとし。汽車にて茨木駅に降り、更に車行一里半、三箇牧村︿現在大阪府高槻市、摂津市﹀小学校 に至り、午後開演す。当校は淀川に瀕し、北河内枚方と相対して河内の連山を望む。また、堤上に桜樹の列をな すあり。田間には柳行李の原料を培養す。村内には素封家多し。校長、片山清暁氏は四、五年前、但馬にて会せ しことあり。宿所は村長奥田稔五郎氏の宅なり。発起には村長、校長の外に社司前川種三郎氏も加わる。 十五日 晴雨不定。午前、堤上車行一里余にして如是村く現在大阪府高槻市vに入る。途中野梅満開、鶯語階々た り。所吟一首あり。 澱江提外路横斜、三月霜威圧麦芽、転入孤村白囲屋、摂陽春色在梅花。 ︵淀川のつつみの上、道は横ざまに走る。三月の霜はなお麦の芽をおさえているようだ。ぽつんとある村に 入れば白い花が家屋をとりかこみ、摂津の南の春は梅の花にあるのだ。︶ 会場常見寺は本願寺執行長利井明朗氏の寺なり。山内に行信教校ありて、六十名の学生ここに修学す。発起は 村長入江保太郎氏、助役杉政栄太郎氏、および高谷、田村、堀、高崎、松本五氏なり。午後車行一里、清水村︿現 在大阪府高槻市﹀に移り、信用組合事務所楼上にて開会す。ときどき寒風ミゾレを吹ききたる。主催は校友会、発起 は村長山下卯三郎氏、助役一橋門太郎氏、校長郡正民氏、ほか十名なり。宿所清水屋は土地不相応の旅館との評 あり。本村は日本第一の寒天製造地にして、一力年の収入額五、六十万円と称す。しかしてその製法は五、六十 年前より伝わるという。目下、主として外国輸出品を製する由。 十六日 晴れ。日暖かなるも風寒く、雪片の晴天に舞うを見る。車行一里余、阿武野村︿現在大阪府高槻市﹀に至 り、午前、小学校にて開会す。郡書記岡市正人氏出席せらる。主催は村教育会および青年会、発起は村長向井直
太郎氏、松村嘉一郎氏とす。午後、安威川に沿いて渓間にさかのぼること一里余、石河村︿現在大阪府茨木市﹀字大 門寺に至り、更に峻坂五丁を華じて寺門に入る。寺号もまた大門寺なり。その門いたって小にして名実不相応な るも、寺格高く寺禄多しという。真言宗なり。庭前眺望絶佳、書院に座して、近く三島郡の平原より遠く河内の 連山を眼中に納め、金剛山のひとり疑然たるを望む。本日は会場を聞き誤り、円福寺に至るべきを大門寺に着す。 この両寺の間一里余の山脈を隔て、車馬通ぜざれば、急に会場を大門寺に変更することになり、開会は夜景に入 る。かかる山腹の一粛寺なるも、電灯の設備あるは文明の恵沢というべし。本村の特産はうどにて、その目方一 本三百目ないし四百目ぐらいなるものありて、大根にひとしという。 十七日 晴れ。春寒料哨を覚ゆ。寒温儀︹華氏︺三十七度。大門寺をくだり、行くこと一里にして茨木町︿現在大 阪府茨木市﹀に着す。午前、女学校にて講話をなす。校長は竹原啓吉氏なり。午後、郡役所楼上にて開演す。これ 郡青年会の主催にして、郡役所の発起にかかる。宿所は鮒喜旅館なり。 三月十八日︵日曜︶ 曇り。車行一里半、山田村︿現在大阪府吹田市﹀に移り、午後、小学校にて開演す。主催は村 教育会、発起は村長馬場善太郎氏、校長小野栄一氏、助役吉川昌一氏、休憩所は村役場なり。日暮れんとすると き更に車をめぐらすこと約一里、三宅村︿現在大阪府茨木市、摂津市、吹田市﹀小学校に移りて開会す。当夜、雨を催 しきたる。主催は村教育会、発起は校長木岡広吉氏、宿所は阪口安太郎氏宅なり。この両村とも純農村なるが、 冬期の副業として山田の方はアサウラ草履のアサアミ業、三宅の方は藁薦製作業を営むという。要するに三島郡 は大阪市に接近すれども、工業地にあらずして農業地なり。吹田麦酒会社を除く外は工場らしきものなしという。 十九日 雨。車行約一里、岸部村︿現在大阪府吹田市﹀小学校にて午後開演す。主催は村青年会および軍人会にし 120
南船北馬集 第十四編 て、発起は村長奥田千万造氏、校長植田竹三郎氏なり。しかして宿所は丸兵亭なり。本村の名物は鴨なりと聞く。 村内に沼池あり、鴨多くきたり集まるという。 二十日 晴れ。行くこと二十余町にして吹田駅より乗車、梅田より宝塚線電車に乗り換う。豊能郡より郡書記 山田吉太郎氏、哲学館出身勝見見成氏、および藤山松雲氏の出迎えあり。諸氏の案内にて岡町駅に降車し、豊中 村︵現在大阪府豊中市﹀役場にて休憩し、午後、公会堂にて開演す。郡役所より首席郡書記黒山義宣氏および書記田 井已之助氏来会せらる。村長は山上国三郎氏なり。本郡各所の主催は和協会にして、郡内各宗寺院の連合より成 る。しかして会長は郡長竹内実氏にして、幹事は細井憲道氏とす。よって郡役所と寺院との合同の発起にして、 町村長これを助くるものなるを知る。当地には屠牛場あり。創立以来一万頭を屠殺せりとて、明日、牛の供養会 を営むという。この夕、電車にて池田町に移り、浄土宗西光寺に宿し、郡長竹内氏等と会食す。 三月二十一日︵春季皇霊祭︶ 晴天なるも風やや寒し。二里の間電車︵能勢線︶、更に四里の間腕車を用い、歌垣 村︿現在大阪府豊能郡能勢町﹀に至る。途中、兵庫県内を通過す。この地方はもと能勢郡と称し、渓山の間に別簑を なしおれり。山深く谷長きも、本日は彼岸中日なりとて妙見山に登詣するもの多し。猪名川上流には水力発電所 あり、また採鉱所あり。東郷村字野間稲地に大槻、その幹の周囲約六間に及ぶものを見る。会場は歌垣小学校に して、往復とも郡書記田井氏案内せらる。歌垣より汽車線路に出ずるには丹波亀岡を最も近しとす。その里程三 里にして、やや平垣なりという。村内栗林多し。丹波栗の名をもって輸出さるるならん。帰路、渓頭に老婆の夕 日に対し、合掌礼拝せるを見て一詠す。 客中今日会春分、暁破摂山深処雲、能勢渓頭暮天舞、老婆西向拝斜嚥。
︵旅の途中でこんにち春分の日にあう。暁の光は摂津の山のおく深いところにわだかまる雲を破ってさす。 能勢の谷のほとりに暮れかかる空は晴れ、老婆の西方に向かい、落日に手を合わせるを見たのであった。︶ 当日、夜に入りて池田町︿現在大阪府池田市﹀西光寺に帰宿す。竹内郡長、黒山首席も来訪せらる。 二十二日 晴れ。午後、池田師範学校において講演をなす。聴衆二百に満たざるも盛会と称す。聞くところに よるに、池田町は二千戸以上を有する都会なるも、演説会に聴衆の少なきをもってその名高く、毎会聴衆二、三 十人を常とし、百人以上は盛会なりという。哲学館出身勝見、藤山両氏も来間あり。本郡内は郡役所および和協 会の非常なる好意と尽力とにより、哲学堂維持金のごときは格外の多額を拝受し、ただに府下における第一の成 績を得たるのみならず、全国において稀有の好結果を見るに至る。これ大いに特筆して感謝の意の表示せざるべ からず。故をもって、揮毫所望の枚数したがって多く、連日連夜揮毫に忙殺せられたり。 二十三日 雨。車行二十町余にして細河村︿現在大阪府池田市﹀松雲寺に移る。その寺は名のごとく青松白雲の間 にありて、宗門は臨済宗、寺は林際寺というべし。堂宇小なるも境静かにして、道心を修養するによろし。住職 勝見氏は哲学館出身のかどをもって、郡内開会に奔走斡旋するところ多し。また、郡書記山田、田井両氏は郡内 開会の主任に当たり多大の労をとられたるは、ともに謝するところなり。本村の会場は小学校、主催は和協会お よび青年会、発起は村長沢田太兵衛、久安寺住職国司嵩相、円成寺住職山脇義空等の諸氏なり。国司氏は篤志家 をもって名声噴々たりという。 二十四日 曇りのち晴れ。朝、松雲寺を発し池田駅に至り、山田郡書記と勝見氏とともに電車にて大坂を経、 西成郡豊崎町︿現在大阪府大阪市北区﹀長柄鶴満寺に移る。寺内に図書館あり、境内に桜樹ありて、寺名とともに府 122
南船北馬集 第十四編 下に知らる。住職長谷川真徹氏は宗教家にして教育家を兼ね、図書館のごときは全く独力の経営にかかる。その 宗門は天台宗真盛派なり。この長柄地方は大阪工場の中心に当たり、煙突林立、煤煙天を覆う。したがって職工 四方より雲集し、人情、風俗を素乱するの恐れありとて、ときどき精神修養の講演を開く由。当日の講演は夜会 にして、主催は青年会、発起は長谷川氏の外に安達新太郎、長尾徳太郎両氏とす。本郡長吉住元策氏は視学三宅 春馬氏を伴い出席せらる。 二十五日 晴れかつ風。早朝、電車にて再三乗り換え、尼ケ崎紡績会社津守分工場︹津守村︿現在大阪府大阪市西成 区・住之江区﹀︺に至る。道程三里あり。この場内に止宿せる工女の数四千人と称す。一日の食米の量、十四石を要 する由。寄宿舎は畳一枚につき一人の割合なりという。また、場内に大講堂ありて二千人以上をいるるに足る。 正面に真宗の仏壇を安置し、ときどき工女を集めて法話をきかしむるとのことなり。この日は死亡せし工女の追 弔法要あり。僧侶の読経後、余は職員のみに対して一席の講話をなす。発起者は支配人武田信民氏、庶務係山際 正十郎氏なり。午後、再び長柄鶴満寺に帰り、住職長谷川氏の依頼に応じて講演をなす。 二十六日 寒晴。午前、宿寺を辞し、天満駅より汽車および電車をとり、平野駅に降車し、これより二十四、 五丁にして東成郡喜連村︿現在大阪府大阪市東住吉区・平野区﹀小学校に至り、午後開会す。その主催は村教育会なり。 その夜、更に宿所宝円寺にて開演す。主催は組合寺院なり。しかして発起は会長井宮助之氏、村長杉本由太郎氏、 住職白川義成氏等とす。本村は戸数三百戸の所に寺院九力寺ありという。 二十七日 晴れ、しかして寒し。平野駅より天王寺を経て天満駅に降車し、これより約一里にして西成郡西中 島村︿現在大阪府大阪市東淀川区・淀川区﹀に至る。その間に長さ三百六十間の長柄橋を渡る。午後、当地の劇場中島
座にて開演す。主催は村役場にして、村長欠田吉三郎氏、助役小西松人氏、その他広沢蕃氏、佐竹木城氏、寺田 崇賢氏、西口喜三郎氏等、みな尽力あり。本村はさらし物、染め物を業とするもの多く、すなわちサラシ木綿、 友仙染を産出す。また、鐘淵紡績分工場あり。当夕、その倶楽部に至りて講話をなす。工場長は川辺喜一郎氏な り。休泊所は有志家平井鶴之進氏の宅とす。 二十八日 晴れ。春寒いまださらず、早暁霜を見る。腕車にて行くこと約一里、中津町︿現在大阪府大阪市北区・ 淀川区﹀小学校に至り、午後開演す。主催は町青年会にして、会長北村源助氏、副会長土田栄太郎氏、校長茶谷作 次郎氏等の発起にかかる。午後、梅田より阪神電車により、千船村︿現在大阪府大阪市西淀川区・淀川区﹀小学校に移 りて開演す。この日、吉住郡長、三宅視学も出席あり。主催は青年会にして、村長見市乗保氏、校長樋口政太郎 氏、もっぱら尽力せらる。演説後、千船を発し、大阪駅当夕七時の急行に乗り込み、帰京の途に就く。三十日、 東洋大学の卒業式に列席せんためなり。 大阪府各郡を大略巡了したれば、ここに見聞に触れたる事項を摘載せんに、河内にて藁を積みて塚の形を存せ るものを方言スズキという。そば、うどんに添うる辛味を東京にて薬味というが、河内にては七味または臭味と いう。人のきたれるをキラレタというは大阪方言なるが、余の巡講中、某町において前日憲政会の政談演説会あ りしを聞けり。その席は議員選挙期近づきたれば、自党応援のために尾崎行雄氏東京よりきたりて出演せしとの ことなり。しかるに他人の話すところを聞くに、昨日の演説会場に尾崎がキラレタという。もし方言を知らざる ものが聞きしならば、必ず暗殺せられたことに誤解すべし。河内地方は粥を常食とし、朝昼晩三度ともに粥を食 す。また、味噌はすべて白味噌を用う。もし寺院などにて檀徒のきたりしときに赤味噌の汁を差し出だせしなら 124
南船北馬集 第十四編 ば、コンナ味噌汁が食べらるるものかといいて食せざるもの多しという。大阪府下の商店に、茶ノ子の注文に応 ずとの看板をかくるを見る。茶ノ子とは、葬式などの返礼に配る品のことなる由。府下各所にて供せらるるカシ ワ鍋の饗応は、山海の珍味よりも珍味なるを覚ゆ。そのときには必ず小皿に生玉子をいれ、煮たる肉をその中に 浸して食せしむ。これは京阪地方の特色なり。寺院につきては、河内地方は小庵小坊多きをもって世に知らる。 ﹁どう見ても寺と見られぬ寺ばかり﹂などといわるるも、寺の形を有せざるにはあらず。ただし檀家が比較的少 なくして、取り持ちの薄きは事実なり。東京に八百八町あり、大阪に八百八橋あり、新潟に八百八後家ありとい うに対し、河内に八百八看坊ありと唱えきたれり。そのいわゆる看坊とは、寺と見られぬ小庵をいう。これみな 真宗寺院なり。むかし全国の末寺より修学のために京都本願寺へ上りし者が、旅費尽きて帰国できず、余儀なく 河内辺りにさまよい、法談の切り売りをなし、その結果、自然に土着するに至りし跡が、看坊の起源なりとの説 あり。しかし今日にてはいずれも寺号を公称して、堂々たる一力寺となれり。また、大阪府の学校教員に真宗僧 侶の出身多きは、寺院が檀家の力にて衣食することのできざる結果なり。これかえって、他国の僧侶の読経だけ にて生活するのに、まさること万々なりというべし。︵大阪府下の開会一覧は山城巡講日誌の終わりに掲ぐべし︶
山城国巡講日誌 付丹波一郡および大和一郡
126 大正六年四月一日︵日曜︶。午後四時、東京駅を発す。 二日 晴れ。午前五時半、京都駅着。随行松尾徹外氏、江州よりここにきたりて相会す。六時、新舞鶴行き列 車に移り、八時前、丹波殿田駅に降車するも、荷物延着のために九時半まで駅前に休憩し、これより腕車にて北 桑田郡平屋村に向かう。役場書記小林甚之助氏の案内あり。行くこと二里にして四谷に達す。この間平坦なり。 これより山路にかかる。一嶺を徒歩にて越ゆればわずかに二里なるも、車道を迂回せるために五里となり、午後 二時、平屋村︿現在京都府北桑田郡美山町﹀会場小学校に着す。殿田より里程総じて七里の間に五時間を費やせり。山 多く谷深く、寂蓼たる中に鶯語の噂々としてわが行を迎えかつ送るは、また旅中の一興なり。ただし薪炭を載せ たる牛馬車の絡駅として、車行を遮るにはやや閉口せり。この山中の特産は薪炭にして、平年は炭一貫目につき 値七銭ぐらいなりしに、本年は十三銭の高価をしめたりとて、景気すこぶるよし。炭俵は一個二貫目を限りとし、 その俵の小なるは、従前道険にしてかつ狭く、運搬の困難なりしによるならん。平屋会場は小学校、主催は村役 場にして、村長磯部清吉氏、助役伊藤兼吉氏、および平井数之助、伊藤民之助、同岩造等の諸氏、大いに尽力せ らる。宿所は村長磯部氏の宅なり。その座敷清新にしてかつ静閑なるは愛すべし。本村は旧若狭街道に当たり、 京都まで十三里、小浜まで十里の地点にあり。四面みな山、残雪の点在せるを望む。 四月三日︵神武天皇祭︶ 晴れ。この日、山路五里の所を途中徒歩にて二見峠二里の間を上下す。樹間に雪残り南船北馬集 第十四編 てなお白し。道に行人を見ず。ただ、山鶯の声をたどりて進行す。途上およそ五時間を費やして午後二時半、山 国村︿現在京都府北桑田郡京北町﹀小学校に着す。随行の車、転覆せるも傷害なきは幸いなり。開会主催は郡長西原幸 太郎氏にして、郡書記橋瓜弥三郎氏、村長人長与三郎氏、助役岡本正光氏、書記岡本鶴之助氏、前視学半田彦次 郎氏等これを助く。会場へは郡長および郡書記数名出席せらる。本村は林業本位にして、山林に富む。昔時より 皇居御造営の用材はこの村より調達する慣例ありし由なれば、一昨年の御大典のときにも調達せりと聞く。また、 維新の際には村内より義勇兵を募り、勤王を唱えて出兵せし由。当夕の宿所は前田旅店なり。さて北桑田郡の特 色として記すべきは、男女老若貴賎貧富を問わず、一般にタツツケを着用することなり。山形県のモンペに同じ。 学校の児童も会場の聴衆も、一人としてタツツケを着用せざるはなし。また、本郡は山峻急にして渓深遼なれば、 人家中には終日太陽を見ざるものありという。この日、途上吟一首あり。 山外有村々外山、丹陽一路険難華、穿軽踏尽深渓雪、鶯歌泉咽春不閑。 ︵山のはずれに村があり、村のかたわらに山がある。丹波の一路はけわしくのぼりがたい。深い谷の雪をふ みしめて行けば、うぐいすの声と泉の音にも春のおだやかさは感じられぬ。︶ 四日 朝霧、のち快晴。早朝山国を発し、郡役所所在地たる周山村を経て殿田駅に出ず。道程六里。これより 山陰線に乗車、午後二時、花園駅に着し、更に腕車を駆ること一里余、愛宕郡大宮村︿現在京都府京都市北区﹀小学 校において講演をなす。この日、近隣に政談演説会あるために妨げられ、聴衆少数なり。主催は村役場、発起は 村長代理助役前川熊太郎氏とす。従来、宇治に宇治なしとの諺あり。すなわち宇治町は宇治郡にあらずして久世 郡にあるの意なり。これと同じく、愛宕に愛宕なしというを得べし。すなわち愛宕山は愛宕郡にあらずして葛野
郡にあり。ただし山名の方はアタゴとよみ、郡名の方はオタギとよむ。当夕は郡視学河野良三氏の案内にて、京 都三条小橋亀屋旅館に宿す。このごろはいわゆる京都シーズンにて客室満員のありさまなり。 五日 晴れ。午後、山上より二里半を隔つる岩倉村︿現在京都府京都市左京区﹀小学校に至りて講演をなす。主催 は郡役所にして、郡長菊山嘉男、村長山口為寿、校長伊佐弥一郎諸氏の発起にかかる。本村は純農村なり。故岩 倉︹具視︺公の一時身をかくされし邸宅の遺跡ありという。この地は八瀬大原に近ければ、その特殊なる方言、風 俗を伝聞するに、父をノノといい、母をタタという。さよならをサラという。あなたをケイラという。婦人は必 ず二布の前掛けをしめ、帯を用いず。手ぬぐいは昼夜寝ても起きてもかぶりおり、人に対して挨拶するにもこれ をとることなしという。当夕、京都行き八時発の急行にて帰東す。 四月七日は長男玄一、結婚式を日比谷大神宮において挙行し、当夕、近親の人々だけを築地精養軒へ招きて晩 餐を呈す。知人一般に対する披露は、左の書面を配付して省略することとなせり。︹以下、原文のまま︺ 謹啓今般工学士奥村長作殿御夫婦の御媒酌により、長男玄一と商船学校教授海軍大佐古谷忠造殿長女信子と 縁談相整ひ候に付、追て四月吉日をトし結婚式を挙げ申すべく候間、自今倍旧の御懇情に預り度御通知芳々 御依頼申上候、其節は世間の慣例として御招待申上、粗酒献呈仕るべき筈に候へども、微力にて格別の御饗 応も出来兼候上に、御繁忙にて在らせられ候処へ強て御柾駕を願ふは、却て恐縮に存じ、断然差控へること に相定め申候、而して宴会の費用に充つべき金円は少額ながら公共若くは慈善事業の方へ寄納する心得に候 此段宜しく御承了下さるべく候。 追て御祝物は其品の何たるを問はず、一切頂戴仕らざる事に定め居り候に付、右等の御配意これなきやう 128
南船北馬集 第十四編 予め御断り申候、其代りに封入の小片紙に縦横御適意祝詞祝文、又は詩歌図画、若くは短句短語、然らざ れば御姓名だけなりとも御自筆下され度願上候、若し其文句一葉に納まらざる場合には二葉に御連載下さ るべく候、幸に願意御採納ありて早速御自筆御寄送を得ば、之を結婚記念帖に貼付し、永く家宝として大 切に保存仕るべく候草々敬具。 よってその費用に充つべき金円総じて五百円と見積もり、そのうち金参百円は東京市養育院へ寄付し、金百円 は東洋大学へ、残りの金百円は仏教会館へ寄付したり。 四月八日︵日曜︶ 晴れ。夜九時発の急行にて再び西行す。 九日 快晴。午前十時半、京都着。随行松尾氏と相会し、換車して向日町に降り、これより郡書記河合定直氏 とともに行くこと約十五町にして乙訓郡役所に至り、更に走ること三十町にして大原野村︿現在京都府京都市西京 区﹀石作小学校にて、午後開会す。主催は郡教育会および学校、発起は校長斎藤清一氏等なり。この地には西行の 遺跡ありて、西行桜の名高しという。更に車行半里にして乙訓村︿現在京都府長岡京市﹀長法寺校に移り、夜間開会 す。乙訓村長佐藤国次郎氏、海印寺村長高橋房次郎氏、校長丸岡富士雄氏の発起にかかる。宿所は浄土宗西山派 粟生光明寺なり。余が当山に登詣することここに三回、境静に室幽にして、最も旅労をいやするに適す。就褥の ときまさに夜半ならんとす。四面寂として蛙声のほか耳朶に触るるものなし。ときに一吟す。 松間認得梵王宮、春暖光明寺裏風、念仏声中聴蛙睡、半生塵夢一宵空。 ︵松の木々の間に寺院がある。春の暖かさにつつまれる光明寺に吹く風もここちよい。念仏の声のうちに蛙 の声をききつつねむれば、半生のせわしなきをこよいの空に夢みるのであった。︶
十日 午前雨。庭前の桜花うるおって更によし。朝時、御影堂、阿弥陀堂および本廟を参拝す。御影堂は二十 五間四面の大堂なり。柳谷観音の住職日下俊隆氏が当山の執事を兼ぬ。井口泰温氏︵哲学館出身︶の紹介にて、 専門学寮に至りて一席の談話をなす。寮長は三浦貫道氏なり。午後、雨晴るる。車行約一里、向日町︿現在京都府 向日市﹀高等小学乙訓校に移りて開演す。郡教育会および小学校の主催にかかる。校長は中西慎三氏なり。演説後、 馬車を駆ること約一里にして、長岡天神社前の錦水亭に至り、郡長山本三省氏と会食す。酔余、漫吟一首あり。 長岡社畔対斜陽、錦水亭開好挙膓、螂躍花期猶未到、柳桜還好飾春塘。 ︵長岡神社のほとりで夕日に対してたつ。社前の錦水亭は酒杯をあげるによい。つつじの花の時期にはなお 早く、柳の緑と桜の花が春のつつみを飾っている。︶ 食後更に馬車を命じ、新神足村︿現在京都府長岡京市﹀小学校に至り夜講をなす。校長小林茂、谷村貞二郎両氏の 発起にかかる。深更、車をめぐらし長岡天満宮公会堂に帰宿す。本郡は筍の特産地にして、農業は筍作りを本業 とし、米麦はかえって副業となる。竹林一反歩の収入五十円ないし百円という。その筍作りの方法は林中に人糞 をまき、その上に藁を敷き、またその上に土を置くなり。郡内には竹叢およそ千町歩あり。毎年筍の収入十五万 円、竹幹十五万円、合計三十万円と称す。 十一日 快晴。早朝、社務所を辞し、馬車行約一里半にして向日町より鉄路に駕し、稲荷駅より京阪電車に転 乗し、八幡駅に下車す。更に男山八幡社前にて腕車を雇い、行くこと二里にして綴喜郡大住村︵現在京都府綴喜郡田 辺町﹀に至る。途中、梨園多し。会場は小学校、主催は青年会、発起は村長山村重秀、校長島田賢次郎等の諸氏な り。本村よりは桃実を産出すという。日まさに暮れんとするとき、車行約一里、都々城村︿現在京都府八幡市﹀小学 130
南船北馬集 第十四編 校に移りて夜会を開く。役場、学校連合の主催なり。すなわち校長巽善十郎氏、村長渋谷種蔵氏の発起にかかる。 本村には製茶を業とする者多しという。旅館鮒源は田頭にありて、終夜、蛙声枕上にやかまし。 十二日 晴れ。春霞朦々たり。車行一里半、郡役所所在地たる田辺町︿現在京都府綴喜郡田辺町﹀に至り、郡会議 事堂において講演をなす。聴衆、極めて少なし。発起は校長杉本万次郎氏および郡役所員松田秀雄氏なり。郡長 藤正路氏は不在なりと聞く。当夕は旅店魚茂に宿す。その家には一人の女中を置かず、すべて自炊的なり。夜に 入りて雨きたる。 十三日 朝雨。田辺町には一休禅師の墳墓あるを聞きて参拝せるに、小門を入りたる所に三株の老杉鼎立す。 これ禅師手植えの杉なりという。鐘楼は左甚五郎作、本堂は修繕中、すべて保護建築物なり。書院は酬恩庵と称 す。庵内に禅師の木像あり。各室の襖はみな︹狩野︺探幽の筆なり。その庭は狭小といえども石川丈山の築造せし 由にて、奇石その形十六羅漢に似たるあり。墳墓の堂宇は二間四面ぐらいなり。ときに一首を賦す。 老樹三株擁墓門、庵留遣像是酬恩、仏前終日無人費、唯有杉陰鎖世喧。 ︵三本の老杉が墓門を守るように立ち、庵に一休禅師の遺像がおかれているのは仏恩にむくいるためである。 仏前には一日中、参詣する人もなく、ただ杉のかげが世のやかましさをとざしているのである。︶ これより車行半里余、草内村く現在京都府綴喜郡田辺町v小学校に移りて、午前開演す。村役場の主催にして、村 長谷村奈良蔵氏、校長中村淳氏の発起にかかる。校前の小料理店にて喫飯し、隣郡に移らんとするに、目下嫁入 りの多きと選挙の近づきたるとにより腕車払底を告ぐ。余儀なく田辺へ戻り、汽車にて相楽郡祝園村︿現在京都府 相楽郡精華町﹀に至る。ときに雨全くはるる。会場は小学校、主催は校長桑山義寛氏なり。本郡に入りて初めて桑園
を見る。演説後、桑山氏の案内にて車を馳すること一里余、木津町︿現在京都府相楽郡木津町﹀川喜旅館に入宿す。 館は三百五間の泉橋橋畔に立てる三層楼なり。当時、野外には菜花すでに黄を吐き、桜桃杏互いに紅白を競うあ りて、春光胎蕩たるを覚ゆ。 十四日 晴れ、午後少雨きたる。木津町役場の依頼に応じて演説をなす。会場は小学校、休憩所は大竜寺、発 起は町長飯田俊之助氏、助役八木源治氏、同山本浅次郎氏、校長片山義直氏なり。郡長折田有彦氏は近ごろ加佐 郡より転任せらる。郡視学は村井友次郎氏なり。木津駅は鉄路の集合点にして、江州米原駅の趣あり。当夕、汽 車にて加茂村へ移り、駅畔川口旅館に宿泊す。 四月十五日︵日曜︶ 暁来雨。午前七時発、二人びきにて渓行一里半、中和束村︿現在京都府相楽郡和束町﹀に至る。 途中、仁丹製薬場あり。会場は小学校、主催は村役場、発起は村長西村行次郎氏、校長前出金吾氏、助役向井定 一氏等なり。本村には茶園多し。また、多量の耐火石材を産出す。江州信楽郷より奈良に通ずる道路に当たる。 午後、車をめぐらし、加茂村︿現在京都府相楽郡加茂町﹀小学校に移りて開演す。役場および小学校の主催にして、 村長土橋芳太郎氏、校長佐倉康人氏等の発起にかかる。当夜七時発に乗り込み、再び帰東す。大選挙期すでにせ まるをもって四、五日間休講することに定む。四月二十日はまさしくその選挙日なり。 四月二十一日、夜行九時にて東京を発し、二十二日︵日曜︶、快晴、午十二時、伊賀上野に着す。この日、汽車 延着せり。上野駅より随行大富氏および奈良県添上郡月瀬村長福岡金治郎氏とともに軽便に駕し、更に腕車に鋸 して行程四里、月瀬︿現在奈良県添上郡月ケ瀬村﹀小学校に至りて開演す。村役場および教育会の主催にして、福岡村 長および助役岡本五十平氏、校長桝谷久米次郎氏の発起にかかる。このとき梅花すでに尽きて緑葉芽を吐き、菜 132
南船北馬集 第十四編 黄李白、残春の光景をとどむ。演説後、更に坂路を下ること七丁、五月川上鶯谷橋畔の浴花亭に泊す。余、その 扇額に題して﹁浴花沐月﹂としたたむ。数年前ここに遊びて数首を賦せしが、今回また二首を浮かぶ。 一渓千曲路相随、香雪埋村景更奇、物価不廉君勿怪、四時生計在梅期。 ︵渓谷は曲がりくねって、道もそれに従って曲がる。香りたつ白い花が村を埋めて、景色はさらにすぐれた ものとなっている。物価のやすくないのは仕方がない。四季の生計はこの梅の時期にあるのだから。︶ 一路探幽行養神、梅渓花尽緑陰新、夏宜避暑冬宜雪、月瀬清遊何限春。 ︵一路に幽遠さを探しもとめ、行きて精神を養わんとす。梅の咲きみだれる渓谷は、花は尽きて緑も新たと なった。夏はよろしく暑さを避けるべく、冬はよろしく雪を楽しむべし。この月瀬の清らかな遊びは、どう して春にかぎろうか。︶ 人みな物価高しというも、宿料の掲示を見るに一等一円以内、二等八十銭以内、三等六十銭以内、四等四十銭 以内とあり、名所の宿料としてはすこぶる安価なりというべし。当初は梅に次ぐに鵠あり、鵠に次ぐに蛍あり、 蛍に次ぐに月あり雪ありて、四時の雅遊に適す。ただ名所不似合なるは、電信はもちろん郵便局なく、毎日四里 以外より配達すというにあり。村内には養蚕、製茶を業とするもの多し。余のここに遊ぶは第三回目とす。 二十三日 晴れ。郡書記中川光郎氏とともに車行四里、柳生村︿現在奈良県奈良市﹀に至る。その途中二里間は長 坂を上下す。鶯語鵠花の耳目をたのしましむるあり。林末往々一籏の白煙を見るは、これ焼炭所なり。農家はす でに苗代の下種に着手す。柳生会場は小学校、主催は軍人会および青年団、発起は村長東浦太平氏、校長池沢兼 吉氏、田中重徳氏等なり。郡視学保仙寅太郎氏とここに相会す。氏は山口県巡講当時の旧知なり。本村には柳生
但馬守宗矩の遺跡ありと聞く。午後、車行一里弱、大柳生村︿現在奈良県奈良市﹀小学校に移りて更に開演す。青年 団、処女会、軍人会の主催にかかる。発起は村長植田慶治郎氏、校長松浦京松氏、団長田端霊瑞氏等なり。黄昏、 微雨きたる。当夕は柳生村市場旅館に帰宿す。 二十四日 雨のち晴れ。車行約一里、坂路をくだりて笠置駅に至る。これより鉄路により奈良駅に下車し、更 に腕車をとり、行くこと一里にして東市村く現在奈良県奈良市v小学校に至る。校地は高所にありて大和の平原を一 敵し、まさしく生駒山と対し、左に金剛山を望むところ大いによし。渓また渓、山また山の山村より出でてここ に至れば、実に別天地の観あり。主催は軍人会、青年団、教育会とす。しかして発起は村長大門喜蔵氏、校長浦 谷徳次郎氏、分会長竹村泰蔵氏および山中庄之助氏なり。郡長井上恒蔵氏来会せられ、宿所村長の宅にて晩餐を ともにす。 二十五日 晴れ、朝気やや寒し。奈良駅より乗車、大阪府南河内郡喜志駅に下車し、更に二十余町にして駒ケ 谷村︿現在大阪府羽曳野市﹀字通法寺宮井岩太郎氏の宅に着す。牧野安之助氏、紀州よりきたりて余を迎えらる。午 後、宮井、牧野両氏とともに徒歩すること七、八丁にして叡福寺︵通称上の太子、真言宗︶をたずね、聖徳太子 の墓前に拝詣す。﹁廠戸豊聡耳皇子磯長墓﹂とあり。下の太子をへだつること三里ばかりなり。これより敏達天皇 御陵および推古天皇の御陵を遥拝しつつ坂路を上り、高貴寺に至る。これまた真言宗にして慈雲尊者の遺跡なり。 途上、双眸の中に河内和泉の山河を納め、海を隔ててはるかに四国の連山に対し、眺望極めて快闊なるを覚ゆ。 高貴寺にては慈雲の墳墓を拝し、住職伎人︹くれと︺戒心氏に面す。ときに一絶を浮かぶ。 春深高貴寺粛然、深緑残紅掩法莚、一鳥不蹄山寂々、慈雲尊者此安眠。 134
南船北馬集 第十四編 ︵春の深まった高貴寺はすっきりとしたたたずまいをみせ、濃い緑と名残のあかい花の色が寺院の庭をおお っている。一羽の鳥もなくことなく山は静まりかえっており、慈雲尊者はここに安らかに眠られているので ある。︶ 通法寺よりここに至るまで一里半あり。帰りきたりて通法寺の遺跡を訪い、かつ源頼信、義家の墳墓を拝す。 牧野氏は源氏会を起こしてその再興を計ることここに年あり。事務所は宮井氏の宅に設けらる。当夜、専光寺に て一席の談話をなす。 二十六日 快晴。早朝、霜気あるを認む。再び喜志駅より乗車し、八尾駅より腕車に移り、行くこと二里余、 中河内郡東六郷村︿現在大阪府東大阪市、大東市﹀小学校に至りて、午後開演す。発起兼尽力者は村長生田郁雄氏、仏 名寺住職水野昇映氏なり。当夕、岡崎佐城氏宅に宿す。主人の身長六尺以上あるは珍し。本村は純農村なり。井 水あれども飲用に適せず、必ず濾過して用う。 二十七日 快晴。車行二十丁、住道駅より汽車に転じて梅田に至り、更に箕面電車に移りて三国停留場に下車 し、これより十町余にして西成郡北中島村︿現在大阪府大阪市淀川区﹀小学校に至りて開演す。その校舎は田間に孤 立せる新築なり。当時、菜花まさにたけなわにして、田頭一面に黄金をしくがごとし。その香、車上の人を襲い、 自然に全身をして芽々たらしむ。本日の主催は村長小岸安昌氏、吏員荒川清三郎氏、同藤本米太郎氏、大願寺住 職中川日晧氏等、村内の有志にして、いずれも尽力せらる。休泊所は村長小岸氏の宅なり。 二十八日 雨。午後に至りてようやく晴るる。その日の行程は電車にて梅田に戻り、更に本線に駕して三島郡 高槻町︿現在大阪府高槻市﹀に至る。会場は小学校、主催は父兄会、発起は校長大北米太郎氏、光松寺住職大森海然
氏、宿所は三忠亭なり。当地は詩人藤井竹外の産地なれども、詩文を楽しむ人に乏しという。 二十九日 曇りのち雨。風強く気寒し。温度︹華氏︺五十五度以下にくだる。この日、淀川を渡船すればわずか に三里の行程なるも、汽車にて大阪に至り、更に天満橋より電車にて北河内郡九箇荘村︿現在大阪府寝屋川市﹀に入 る。寝屋川停留所前錦花楼に休憩す。楼上の額面に忠孝の二字を掲ぐるは、料理屋としては少しく異様の感あり。 昨は三忠亭に泊し、今は忠孝楼に憩う。国民道徳巡講の休泊所たるに背かず。この村内にては戸々水瓶を備えお き、田用水を濾過して飲料に用う。田間に梨圃多し。本日の開会は郡教育会の主催にして、会長大森盛太郎氏、 郡視学木寺勝太郎氏等の主催にかかる。会場小学校の演説を終わるや、電車にて友呂岐村三井本厳寺、すなわち 日種観明氏所住の寺に至りて宿泊す。余のこの寺に滞留するは二回目なり。その境内は樹木薔蒼、静閑余りあり。 よって所吟一首を壁上にとどむ。 河陰一路雨冥々、菜是敷金蛙調経、晩軽客車本厳寺、満林新緑仏灯青。 ︵淀川の南の一路に雨はうす暗くふりしきり、菜は黄金を敷きつめたように見え、蛙はお経を唱えるように なく。夜もふけて車を本厳寺にとどめた。林はすべて新緑となり、仏灯も青みをおびている。︶ 日種氏は数年前より免囚保護に力を尽くし、その成績着々見るべきものあり。また、今回の郡内巡講には数日 前より熱心をもって奔走の労をとられたるを謝す。 三十日 快晴。電車にて東枚方に至り、更に腕車にて行くこと一里余、交野村︿現在大阪府交野市﹀交南小学校に おいて開演す。校長は三島梁雄氏なり。主催は前日に同じ。会長大森氏、視学木寺氏、郡書記平井菊三氏、日種 氏みな同行せらる。当夕は本厳寺に帰宿す。余が今より七年前ここに遊びしときは香里公園新設の際にして、大 136
阪より来遊するもの雲のごとく潮のごとくなりしが、盛衰にわかに変じて今日は寂真の巷となれり。ただし堤上 の桜樹は依然として客を引き、花時遊客雲集すという。いわゆる﹁桃李不レ言下自成レ膜﹂︵桃やすももは何もいわ ぬが、その下には人々が集まって実を採集するので、おのずから道ができる。︹仁徳のある人の下には、それを慕 っておのずから人が集まる意︺︶ものなり。 五月一日 晴れ。午前、京阪電車にて大阪︿現在大阪府大阪市﹀に至り、府庁に出頭して大久保知事に面会し、更 に転じて西寺町法界寺に至りて休憩し、午後、天王寺本坊に移りて講話をなす。これ仏教各宗懇話会の依頼に応 ずるなり。その斡旋者は高安博道、佐々木竜順両氏とす。演説後、茶臼山榎佐料理店において晩餐を喫し、その 夜、第二北野小学校に至り、自彊会のために談話をなす。校長若林常順氏、学務委員藤井春松氏、首席訓導国友 初衛氏の主催にかかる。夜十一時、大阪発急行にて帰京す。 南船北馬集 第十四編 市郡 大阪市 同 同 同 泉北郡 大阪府開会一覧 町村 高石町 会場 寺院 寺院 寺院 小学校 寺院
二ニー二四席
席席席席席数
聴衆 五百人 五百五十人 三百人 八百人 三百人 主催 宿寺住職 慈教青年会 各宗懇話会 自彊会 三力寺連合同 同 同 同 南河内郡 同 同 同 同 同 同 中河内郡 同 同 同 同 同 大津町 鳳村 南池田村 深井村 富田林町 同 同 長野町 黒山村 道明寺村 駒︹ケ︺谷村 八尾町 大正村 楠根村 枚岡村 松原村 竜華村 寺院 寺院 小学校 小学校 小学校 中学校 高等女学校 寺院 小学校 社務所 寺院 中学校 寺院 小学校 寺院 小学校 小学校
席席席席席席席席席席席席席席席席席
二百人 二百五十人 二百人 三百五十人 三百人 四百人 三百五十人 三百五十人 五百五十人 二百五十人 百五十人 五百人 八百人 四百五十人 四百五十人 四百五十人 四百人 郡教育会 同前 同前 同前 郡教育会 同校 同校 教育会および自彊会 郡教育会 郡教育会 源氏会 校長 会場住職 村長 郡教育会 郡教育会 同前 138南船北馬集 第十四編 同 北河内郡 同 東成郡 同 同 西成郡 同 同 同 同 同 同 同 三島郡 同 同 東六郷村 九箇荘村 交野村 平野郷町 喜連村 同 豊崎町 同 中津町 西中島村 同 津守村 千船村 北中島村 茨木町 同 吹田町 小学校 小学校 小学校 寺院 小学校 寺院 寺院 同前 小学校 劇場 工場 工場 小学校 小学校 郡役所 高等女学校 小学校
席席席席席席席席席席席席席席席席席
六百人 四百人 六百人 五百人 二百人 三百人 五百人 二百人 百五十人 二百人 百五十人 百五十人 三百人 三百人 三百人 二百人 四百人 村役場 郡教育会 同前 各宗共和会 村教育会 宿寺住職 青年会 宿寺住職 青年会 同村 鐘紡会社 尼紡分工場 青年会 同村 郡青年会 同校 町役場 、同 同 同 同 同 同 同 同 同 同 豊能郡 同 同 同 合計 高槻町 小学校 味生村 小学校 三箇牧村 小学校 如是村 寺院 清水村 信用組合 阿武野村 小学校 石河村 寺院 山田村 小学校 三宅村 小学校 岸部村 小学校 池田町 師範学校 豊中村 公会堂 歌垣村 小学校 細河村 小学校 一市、八郡、四十三町村︵十二町、
席席席席席席席席席席席席席席
三十一村︶、 演題類別 詔勅修身に関するもの⋮⋮⋮⋮⋮⋮﹁一一十七席 二百五十人 父兄会 三百五十人 青年会 四百人 村講演会 五百人 村長 二百五十人 校友会 二百人 教育会および青年会 百人 村役場 三百人 教育会 五百人 教育会 四百五十人 青年会および軍人会 二百人 和協会 四百人 同前 四百人 同前 三百五十人 和協会および青年会 五十三カ所、百席、聴衆一万八千九百五十人 140妖怪迷信に関するもの⋮⋮⋮⋮⋮⋮二十六席 哲学宗教に︹関するもの︺⋮⋮⋮⋮⋮⋮十四席 教育に︹関するもの︺⋮⋮⋮⋮⋮⋮・:⋮⋮四席 実業に︹関するもの︺⋮⋮⋮⋮⋮⋮・:⋮十二席 雑題に︹関するもの︺⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮⋮七席 南船北馬集 第十四編 郡 愛宕郡 同 宇治郡 乙訓郡 同 同 同 同 綴喜郡 山城国開会一覧
町村
大宮村 岩倉村 山科村 向日町 大原野村 乙訓村 同 新神足村 田辺町 会場 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 本山 小学校 議事堂二ニー二二二ニー一席
席席席席席席席席席数
聴衆 百五十人 二百五十人 四百人 二百五十人 百人 三百人 五十人 二百人 七十人 主催 村役場 郡教育会 郡青年会等 郡教育会 同前 同校 専門学寮 学校連合 小学校同 同 同 相楽郡 同 同 同 合計 五郡、 大住村 都々城村 草内村 木津町 祝園村 中和束村 加茂村 十五町村 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校
席席席席席席席
︵三町、十二村︶、十六カ所、 二百人 三百人 百五十人 三百五十人 三百人 三百人 二百五十人 二十六席、 青年会 役場および学校 村役場 町役場 校長 村役場 役場および学校 聴衆三千六百二十人 142 付丹波一郡および大和一郡 郡 丹波北桑田郡 同 大和添上郡 同 同 同 村 平屋村 山国村 月瀬村 柳生村 大柳生村 東市村 会場 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校 小学校二二二二二二席
席席席席席席数
聴衆 四百五十人 三百人 三百人 四百人 二百五十人 三百五十人 主催 同村 郡長 役場および教育会 軍人会および青年団 青年団等 教育会等合計 二郡、六村、 演題類別 詔勅修身 妖怪迷信 哲学宗教 教育 実業 雑題 六カ所、十二席、聴衆一千六百人 十八席 十一席 二席 無席 四席 三席 南船北馬集 第十四編