クトを事例として
著者
岩原 紘伊
著者別名
IWAHARA Hiroi
雑誌名
白山人類学
号
17
ページ
1-30
発行年
2014-03
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00006711/
ポスト・スハルト期バリにおけるエコ・ツーリズムの形成に関す
る一考察
――ウィスヌ財団のプロジェクトを事例として――
岩 原 紘 伊
*Study on the Formation of Ecotourism in the Post-Suharto Period Bali:
A Case Study of the Village Ecotourism Project by the Wisnu Foundation
IWAHARA Hiroi
Abstract
While Bali is as a popular international tourist destination, its tourism development has been always controversial among the Balinese intellectuals until today. Under the Suharto regime, tourism development was largely dominated by the government and its collaborators, and consequently NGOs remained only critical observers of its negative impact on the environment. However, due to the democratization of the post-Suharto regime, there appears opportunity for NGOs to initiate ‘new form of tourism’, namely alternative tourism, cooperating with the local village communities today.
Based on the field data obtained during my field work from 2010 to 2013, this paper examines the formation of the village eco-tourism movement initiated by the Wisnu foundation, a local NGO in Bali. By applying the concept of ‘appropriation’ as a frame of analysis, I will attempt to illustrate how local logic operates when the host society faces new ideas and frames of tourism both the planning and the operational levels. Firstly, in order to give a wider perspective on tourism development in Bali, I will describe the history of tourism development and its socio-cultural and environmental impacts. Secondly, I will explain the emergence of NGOs’ community development project in post-Suharto regime, and then discuss how the Wisnu foundation appropriated the concept of ecotourism in planning village ecotourism project.
Thirdly, moving to the investigation of the operational level, I will describe the socio-cultural background of K village where the project conducted and illustrate how the Wisnu foundation operated the project and identified cultural resources of K village by collaborating with villagers. Finally, I will explore how the eco tour is framed and specify how deviation occurs in the process of actual operation. Then, I will argue that this deviation is so significant that it leads to act the local logic of the field. It is concluded that although existing literatures on alternative tourism tend to overlook the operation of the logic of host society when it comes to a
* 東京大学総合文化研究科博士課程;Graduate School of Arts and Sciences, The University of Tokyo, 3-8-1, Komaba, Meguro, Tokyo, 153-8902, Japan/ e-mail: [email protected]
society, it is crucial to examine it in order to identify how a form of tourism is localized in a particular way.
キーワード:流用,バリ島,観光開発,NGO,オルタナティブ・ツーリズム Keywords: appropriation, Bali, tourism development, NGO, alternative tourism
は じ め に
マス・ツーリズムが生活世界を席巻するただなかで,周縁に置かれた人びとはどのような対 応を見せるのであろうか。本稿の目的は,1998 年のスハルト政権崩壊後のバリ島においてロー カルNGO が開始した,村落エコ・ツーリズムを事例とし,その運動に参加する人びとがどの ように自らが関与するツーリズムをバリ島観光の世界のなかに位置付け,また実際の現場とな る村落という社会空間においていかなる対応がなされているのかを考察することである。この ような動きは,民主化が進む時代のNGO 活動の一つの特徴としてだけではなく,バリの人び とによる国家主導で強力に進められたマス・ツーリズム型観光開発を内省し,自らの手で調整 しようとする動きの萌芽としても捉えられる。 本稿で取りあげる,村落エコ・ツーリズムは,1980 年代後半からみられるようになった「オ ルタナティブ・ツーリズム」の一形態である。オルタナティブ・ツーリズムとは,しばしば観 光を受け入れる社会に負の影響をもたらすと指摘されがちなマス・ツーリズム型観光開発に対 して,「自然や社会,地域コミュニティの価値観に適合し,観光を受け入れる社会(ホスト)と 観光客(ゲスト)がともに肯定的で価値のあるインタラクションを行い,経験を分かち合うツ ーリズム」と定義されている[Eadington and Smith 1992: 3]。エコ・ツーリズム1のほかに,グリーン・ツーリズムやコミュニティ・ベースド・ツーリズム(CBT)などもオルタナティブ・ ツーリズムに含まれる[Sina and Minca 2014: 96]。
第三世界で実施されているオルタナティブ・ツーリズムに関する先行研究の多くは,主に地 域コミュニティへの利益の有無や地域コミュニティの参与状況といったマネジメントの様相に まず注目する傾向がみられる[e.g. Stronza and Gordillo 2008; Schellhorn 2010; Jones 2005]。 たとえば,本稿の舞台となるバリ島の隣に位置するロンボク島におけるエコ・ツーリズム・ビ ジネスを検討したマティアス・シェルホーン[Schellhorn 2010]は,地域コミュニティ内にお ける利益分配の差異,文化や教育,ジェンダーなどが,地域に住む人びとがエコ・ツーリズム に参与する際の障壁となっていることを指摘し,エコ・ツーリズム・ビジネスと社会正義(social 1) 近年,エコ・ツーリズムの国際観光市場における関心の高まりにより,マス・ツーリズムにおいても 「エコ」という用語が頻繁に言及されるようになっている。そういったものと分析上区別するために, 本稿では,あるコミュニティにおいて実施されるツーリズムをオルタナティブ・ツーリズムとしたい。
justice)が両立しないことを論じ,エコ・ツーリズムという制度への疑問を投げかけている。 このように,従来の研究ではオルタナティブ・ツーリズムが地域コミュニティへ貢献している か,つまり理念に即して事業が成立しているか否かという点が議論の俎上にあがることが多い。
ただ,「エコ・ツーリズム」がそうであるようにオルタナティブ・ツーリズムは,概念自体が多
様に解釈されているものである[Carrie and Macleod 2005: 316]。それらをアプリオリに肯定 的かつ一元的なものとして捉え,無批判に受け入れてしまっては,ホスト社会自体が行う解釈 の可能性やエコ・ツーリズム概念そのものの可変性を問うことができない。これは,観光を受 け入れるコミュニティをある種受動的な存在として描写してしまうことにつながりかねない。 その点,須永和博[2012]のタイのカレン族が導入したエコ・ツーリズムに関する民族誌は 興味深い。須永は,カレンの人びとがCBT を受け入れていくにつれて,CBT を実践するため に様々な知識を身に着けていったことを指摘し,カレンの行っている実践を西洋流のエコロジ ーに回収されない地域独自の「エコ・ツーリズムのローカル化」と捉える必要性を主張してい る[須永 2012: 328-342]。このエコ・ツーリズムのローカル化は本稿で取り上げるバリの事例 にも通底する部分があり,須永の民族誌は,CBT を実践している地域コミュニティの能動性に ついて重要な知見を提示している。しかしながら,そこではエコ・ツーリズムのローカル化に おいて発揮されうる現場の論理があまり明らかにされていない。つまり,さらに問うべきはど のようにローカル化されたかというプロセスではなく,いかなるホスト社会の論理がローカル 化において作用しているのかという回路ではないだろうか。 この点を考察するために,本稿を貫く概念として用いたいのは「流用(appropriation)」で ある。「流用」は,人類学的研究において,周縁におかれた人びとの状況を生き抜く術として頻 繁に言及されてきた概念である。ここで流用を用いるのは,人びとの村落エコ・ツーリズムへ の対応のあり方を,人びとが予め設定された目的に向かって直線的に観光を利用する実践では なく,むしろそれを人びとが自己の置かれた空間において,付与された状況を生き抜くために 試行錯誤しつつそこに新たな意味を加える,「戦術的実践」2として扱うためである。観光に注 目した人類学的研究においても,観光という新しい制度に対応するホスト社会の人びとの「操 りの力」[松田1989: 115]が着目され,それは「文化の客体化」[太田 1993,1997]といった 創造的な観光への対応のあり方として論じられてきた。すなわち,ホスト社会が観光を単純に 受容するだけではなく,自己の都合に応じて便宜的に何らかの操作を加える可能性を探究して きたのである。たとえば,インドネシア・スラウェシのトラジャ社会を研究したキャサリン・ アダムス[Adams 1995]は,「流用」という概念を援用し,トラジャ・エリートたちが国家に よって強力に進められた観光といういわば外から輸入された制度を巧みに操り,ローカルな権 2) ミシェル・ド・セルトーは,「戦術」を付与された状況から生まれる人びとの機知として捉えている[セ ルトー 1987: 101-103]。
威獲得競争に観光を利用したことを論じた。つまり,流用のあり様に注目することで,ホスト 社会に内在する論理の所在を浮き彫りにさせている。流用という視座から明らかにされうるの は,ある概念やものの利用を消費的実践から生産的実践へと反転させる観光の創造的消費実践 の機制であり,そこに作用するローカルの論理のあり方といえよう。 本稿は,観光という現象がある社会に順化するあるいはされていくプロセス,すなわちナッ シュが提起する「観光のプロセス」3[Nash 1981: 462]において,「流用」がいかに展開され, それがエコ・ツーリズムのローカル化にどのような影響を及ぼしているかという点に注目し, そこに立ち現れるホスト社会の論理のあり方を明らかにしていく。本稿では,ホスト社会が行 う解釈において作用する論理を重層的なものとして捉え,二つの分析のレベルを設定し,ホス ト社会を検討したい。一つは,ローカルNGO と村落の作用のレベルであり,もう一つは実際 のツアーの現場である村落におけるガイドをはじめとする村人とツアー客の作用である。本稿 では,これら二つの側面から村落エコ・ツーリズムにみる「流用」とローカルの論理の関係を 捉えていく。 本稿のデータは,筆者が2010 年 4 月から 2012 年 3 月まで行った 2 年間の現地調査と,2012 年12 月から 2013 年 1 月まで行った 2 か月間の現地調査に基づいている。エコ・ツアーの現場 として取り上げるK 村では,2011 年 10 月から 2012 年 3 月までの計 6 か月間,K 村のエコ・ ツーリズム組織のリーダーを10 年あまり務めた人物4の自宅を間借りし,村人への聞き取り調 査と村落エコ・ツアーの参与観察を行った。
I スハルト期のバリ島観光をめぐる動き
本章では,まずスハルト期の第一次五ヵ年計画を出発点とするバリ島観光のマス・ツーリズ ム化とその影響について考察を行う。 1 バリ島観光開発小史 バリ島の観光地化はオランダ植民地時代まで遡ることができるが,大規模観光開発が行われ, 国内随一の国際観光地となっていくのは,1968 年に始まる第二代大統領スハルトの新秩序体制 下においてである。スハルト政権は「開発」を国家の基本戦略に掲げ,観光開発は重要な経済 3) ナッシュ[Nash1981: 462]によれば,「観光のプロセス」とは,観光客がある社会から別の社会へ移 動しそこで他者や異文化と出合うことに起因し,より広範な社会的コンテクストに埋め込まれた「観光 のシステム」として発展していくものである。つまり,「観光のプロセス」とは観光現象の創出に必要 不可欠な事象といえる。 4) 彼は農業協同組合長(subak abian)も約 20 年務めたが,2010 年農業協同組合長を引退したと同時に 村落エコ・ツアー組織の活動に関しても第一線を退いた。開発プロジェクトの一つと位置付けられた。そして,1969 年に始まる第一次五ヵ年計画におい て,バリ島は国内10 地区ある観光開発重点地区の一地域として指定された。1971 年には世界 銀行と国際連合の財政援助を受け,フランスのコンサルタント会社スケトー(SCETO)がバ リの観光開発のマスタープランを作成した5。その後,世界銀行がバリのリゾート開発区域を限 定するため,マスタープランの改訂を行い,その結果バリのリゾート開発は南部地域に限定さ れることとなった。このように1970 年代にはバリの観光開発の青写真は整えられていたが, 石油危機による混乱や十分な財源が確保されなかったため,マスタープランが実行に移される のは1980 年代に入ってからであった。1980 年代に入ると,かつては漁村であった南部ヌサド ゥア地区で外国資本を中心とした大型ホテルが次々と建設されるなど,マス・ツーリズム型観 光開発が本格的に展開されていった[山下1999: 79-81]。その結果,1970 年には約 23,000 人 であった国際観光客は,1980 年代末には約 436,000 人まで急増し[Picard 1996: 52],スハル ト政権が崩壊する前年の1997 年には 1,293,657 人に達している6。 2 観光と文化政治 スハルト時代のバリ島観光開発のプロセスにおいて,観光資源と位置付けられたのはバリの 「文化」である。ただし,留意する必要があるのは,すでに頻繁に指摘されているように,ス ハルト体制下のインドネシアにおいて措定された「文化」とは,人類学が理解する生活様式と いう意味の文化ではないことである。それは,バンサ・インドネシア(インドネシア民族,あ るいはインドネシア国民)創造のため,国家によって規定されたものである7。加藤剛によれば, 諸民族は,インドネシア民族の下位の民族である「亜民族(スク・バンサ)」として定位され, 一方「文化」は伝統衣装,儀礼,音楽,踊り,建築様式などに収斂され,インドネシア国民文 化を構成する一部として表象された[加藤 2004: 386-387]。その結果,その枠組みから外れて 地域や民族が自らの主体性を発揮し文化表象を行うことは極めて制限されていた。スハルト体 制下のバリ島観光において資源化された文化とは,芸能や儀礼であり,加藤が指摘する国家が 定式化した文化の枠組みと一致している。スハルト体制下のバリ島では,「バリの文化を他者で あるジャワの中央政府が利用する姿勢が明白に反された政策」[鏡味 2009: 42]のもと観光開 発が進められていったのである。 5) このマスタープランでは,観光客の活動をリゾート内に制限し,移動も周遊ルートを設定することに よって,観光客とバリ社会の接触を防ぐような開発計画が提案された。 6) イ ン ド ネ シ ア 中 央 統 計 庁 の ウ ェ ブ サ イ ト ( http://www.bps.go.id/tab_sub/view.php?tabel=1& daftar=1&id_subyek=16¬ab=15)参照。 7) もちろん国家によって規定された「バリ文化」とは,植民地時代に植民地行政官を中心に創出された 「バリ文化」観と全く無関係というわけではない。これについて詳しくは,永渕康之[2007]とエイ ドリアン・ヴィッカーズ[Vickers 1989]を参照されたい。
他方,中央政府主導の観光開発とそれに伴う文化表象に対して,バリ社会8は決してただ受動 的であったわけではない。この時期のバリの観光地化のプロセスに関して,芸能を例に,観光 は現地の文化の活性化に寄与することが人類学者を中心に指摘されてきた[山下 1999; McKean 1977]。しかし,こうした見方がされる一方で,当事者であるバリ社会はジャカルタ 主導の観光開発のあり方に対して不満を抱いていたことも事実である。マスタープランの作成 においてバリ側の関与が皆無であること,また観光産業のバリ社会への実質的な経済的な貢献 も不透明であったことを理由に,バリ州政府はスケトーの作成したマスタープランに反発した。 そして,中央政府主導の観光政策に関与できない状況を打開するためにバリ州政府が打ち出し たのが,「文化観光」という理念である。1974 年には,「文化観光に関する州知事令」が公布さ れ,条例によって「バリ文化」とはいかなるものであるかが公的に定義されることとなった。 ミシェル・ピカールの議論[Picard 1995: 51-55]によれば,この文化観光の採用には,主 に二つの狙いがあったことが見出される。一つ目は,「文化」を切り札にすることによって,バ リ側が観光開発に関与できるようになり,経済的な恩恵を受けることができるようにすること である。バリ社会を,インドネシア国家からすれば地域固有の文化である「バリ文化」の所有 者として主張することで,観光開発に必要不可欠なアクターとして関与する道筋を立てようと したのであった。もう一つは,観光によって国際的な知名度を上昇させることによって,国内 政治における一定の地位を獲得することである。つまり,国際的な名声がインドネシア国内に おいて少数派である「民族」としてのバリ人の地位を相乗的に押し上げる効果を期待したとい える。いずれにせよ,こういった観光に媒介された中央と地方の文化表象をめぐる駆け引きに おいて「文化」が前面に押し出され客体化されていったことで,文化はバリにとって具体的な ものとなり,バリ社会は観光資源として価値を付与された「バリ文化」に対する関心を一層高 めていった。というのも,1970 年代後半に入るとバリ社会は観光を悪と捉える見方を弱め,む しろ州政府側も観光資源化された文化や芸能を振興するような政策を重視し始めるようになっ たからである[鏡味 1998: 87]。 3 観光の社会問題化 1990 年代に入ると,観光は再びある種の「問題」としてバリ社会において関心を集めるよう になる。観光は,移民,地域間格差などさまざま社会問題と一組にされて語られるようになる のだが,その代表的なものが,環境問題であった。1990 年代には,地方紙であるバリ・ポスト 紙上で社会の環境意識の向上を促すような記事が多く掲載されており[Warren 1994: 6],環 8) 本稿で言及するバリ社会とは,バリの観光と文化の問題に関心を寄せるバリ島で生きる人びと一般を 指す。役人,研究者,知識人,NGO 関係者,観光地で生活している人びとなど,生活において何らか の形で観光と関わり観光を意識し語る人びとと位置付けたい。
境問題の存在はメディアを通じてバリ社会に共有されるようになっていく。そして,このバリ 社会の環境問題に対する意識の広がりの一端は,観光開発の反対運動というかたちで表出する。 たとえば,1993 年には,タバナン県にあるタナロット寺院周辺におけるニルワナ・リゾート開 発問題に対する反対運動が9,また1997 年には当時の州知事であるイダ・バグス・オカの地元 であるクシマン村と儀礼上の関わりが深い海岸パダンガラックにおける観光リゾート建設反対 運動が,いずれも地域住民や学生,NGO 等を主体として展開された。 一方で,このような反対運動は,単に環境問題だけに起因するアクションではないという指 摘もある。キャロル・ウォレンは,環境問題はバリの人びとにとってより広い社会的政治的問 題への不満を表現するための回路となっており,「環境」を問題化し運動を起こすことは中央政 府の政策への唯一の対抗手段となっていたとする[Warren 1994:4]。このような中央政府の 先導する開発に対する「環境」を旗印とした反対運動は,インドネシア各地でも同様に見られ た現象である。スマトラのダヤック社会の土地所有問題を検討したアンナ・ツィンも,「1970 年代,1980 年代という抑圧の時代は環境が批判的な議論に開かれた数少ないトピックであっ た」と中央政府に対する下からの立場表明のあり方を分析している[Tsing 2005: 216]。これ らの議論が示唆するのは「社会問題」と「環境問題」の重複性であり,当時さまざまな問題が 「環境」をはけ口として社会に排出されていたことである。これらを踏まえると,インドネシ アの「環境」を掲げる開発反対運動は,一つの問題のみをめぐる運動ではなく多様な社会問題 が,それが生起する場において混淆しているものとして捉える必要があるのだ。 1998 年のスハルト政権の崩壊がもたらした地方分権化と民主化は,これまでにないかたちで バリ島観光のあり方の変化に影響を与えている。その一つが,本稿で焦点を当てるNGO とい うアクターが観光という現象に関与し始めたことである。ただし,留意されたいのは,観光は 社会問題の源であるという語りは引き続き維持されていることである。地方分権化によってバ リの観光開発の主要な権限は,中央政府から地方政府(県や市)へと移譲された。とはいえ, バリ島観光開発は依然としてマス・ツーリズムを基盤とし,それを中心的に推進しているのは 行政でありジャカルタに拠点を置く投資家らである構造に変わりはない10。また,表1 の GDRP の推移から読み取れるように,観光はバリ島経済の主軸となり,観光開発が進められる以前の 基幹産業であった農林水産業は低迷している。関連して、農林水産業従事者数も著しく減少し ている。1987 年には,労働人口の約 50.9%が農林水産業従事者であったが[間苧谷 2000: 191], 2012 年にはその比率は半数の 25.37%まで減少している11。こういった数字に表れる農林水産 業の衰退は,農林水産業に従事しているものは社会の変化から取り残されてしまうという意識 9) 詳細は,Warren[2011]を参照されたい。 10) 行政の主催するセミナーなどにおいて,持続可能な観光(pariwisata berkelanjutan)は議論の俎上 に上がっているものの,行政による政策がトップダウン型であることに変わりはない。 11) バリ州統計局ウェブサイト(http://bali.bps.go.id/tabel_detail.php?ed=605002&od=5&id=5)参照。
の拡大を助長している。以上のような背景からNGO は,バリのための観光とはいかなるべき ものか主張し始め,既存の観光形態と差異化を図ることで観光についての新しい語りを形成す るための取り組みを行っている。以下では,ローカル NGO であるウィスヌ財団12に焦点を当 て,ウィスヌ財団がどのような形で観光に関与し,それに対して対象となる村落社会はどのよ うな対応を見せているのかを考察していく。 表1 バリ州の GDP 部門別構成比(全体の%,名目市場価格) 出所: 1970 年,1988 年については[間苧谷 2000,表 6-1: 190]: 2002 年については[Yoeti 2008,Table 1.7: 17] : 2012 年 に つ い て は バ リ 州 統 計 局 ウ ェ ブ サ イ ト ( http://bali.bps.go.id/tabel_detail.php? ed=614002&od=14&id=14)より。
II NGO による村落エコ・ツーリズム
ウィスヌ財団(Yayasan Wisnu)は,1993 年にバリの州都デンパサールにおいて設立され た,「環境と社会改革」を基本理念に掲げるNGO である。ウィスヌ財団は,マス・ツーリズム によって引き起こされたバリの環境の悪化に高い問題関心をもつ活動家らによって設立されて12) インドネシア語では,ウィスヌ財団は社会自助団体(Lembaga Swadaya Masyarakat)に相当する。 本稿では,便宜的にウィスヌ財団をNGO と記す。また,ウィスヌ財団は,現在南部クタに近いクロ ボカンに事務所を構えている。 部門 1970 1988 2002 2012 農林水産業 55 40.7 14.08 18.5 鉱業及び採石業 0.6 0.3 0.21 0.7 製造業 2.1 4.7 15.45 9.8 電力・ガス・水道 0.1 0.9 4.1 1.6 建設 5.9 4.6 0.92 4.5 商業・ホテル・レストラン 12.1 19.7 39.1 32.2 運輸・通信 4.3 8.8 16.13 11.0 金融 1.6 2.2 公務及びサービス 4.3 7.7 6.86 7.2 その他 14.1 10.4 3.16 14.4 合計 100.0 100.0 100.0 100.0
いる13。設立当初のメンバーは13 名であったが14,報告者の調査当時は,代表であり資源管理 の専門家であるスワルナタ氏(バリ人),プログラム・オフィサーを務め人類学の修士号をもつ アティック氏(バリ生まれのジャワ人),女性NGO 活動家として知られる会計を務めるデニ氏 (バリ人)の3 人のみで財団の運営を行っていた。スワルナタ氏は,ウィスヌ財団の設立当初 から代表を務めており,アティック氏とデニ氏の二人も2000 年頃にウィスヌ財団に加わり, 10 年以上財団でのキャリア経験をもっている。 1999 年にウィスヌ財団は,エコ・ツーリズムを,「慣習村(集落)の領域で行われる,既に あるものを活用した住民と環境主体の観光活動」と定義し,村落エコ・ツーリズム開発プロジ
ェクトを,ジャカルタのドナーNGO であるクハティ財団(Yayasan Kehati)の支援のもと開
始した15。プロジェクトの対象となったのは,バドゥン県K 村,B 村,カラガサム県 S 村,T 村,C 村の計 5 つの村落である。正式なプロジェクト期間が終了した 2002 年には,4 つの村 落にウィスヌ財団を加えたメンバー構成で,ツアー客の受け皿となる村落エコ・ツーリズム・ ネットワーク(以下JED)を発足させている16。また,ウィスヌ財団の村落エコ・ツーリズム 開発プロジェクトにはバリ人であり観光専門家として知られるグデ・アルディカ氏17がアドバ イザーとして関わっている。グデ・アルディカ氏の推薦を受け,2011 年 6 月に UNWTO がバ リにおいて開催した世界観光機関倫理憲章に関するワークショップにて,JED の実施している 村落エコ・ツアーは,バリのサステナブル・ツーリズムのモデルとして取り上げられ,ウィス ヌ財団の代表であるスワルナタ氏がプレゼンテーションを行った18。本章では,スハルト期の ウィスヌ財団の社会的布置を示し,そのうえでポスト・スハルト期のウィスヌ財団活動の中心 である村落エコ・ツーリズム開発プロジェクトにおける「流用」とはいかなるものであったか 検討していく。 1 スハルト期のウィスヌ財団の社会的布置 まずは,なぜNGO の作るツーリズムがポスト・スハルト期に特徴的な現象であるかを示す ために,スハルト政権下のウィスヌ財団の活動内容から当時のウィスヌ財団の社会的布置を示 13) ウィスヌ財団のウェブサイト(http://www.wisnu.or.id/v2/ID/home.php)参照。 14) 2003 年に内部対立が起こり,多くのメンバーが脱退した。 15) プロジェクトは,当初 5 つの村で開始されたが,そのうち一つの村落とウィスヌ財団の関係は,ウィ スヌ財団が重視する情報公開と説明責任をめぐって悪化し,その村はプロジェクトから途中離脱した。 16) JED の事務所自体は,マネージャー1 人,会計担当兼ドライバーの計 2 名で運営されている。公式的 には,ウィスヌ財団は4 つの村落と同様に JED の組合員という位置づけになっている。 17) グデ・アルディカ氏は,ワヒド(1999 年~2001 年),メガワティ(2001 年~2004 年)両政権下で 観光文化大臣(2000 年~2004 年)を務め,現在では国連世界観光機関(UNWTO)の世界観光倫理 委員会のメンバーを務めている。 18) このようなウィスヌ財団と観光に関してバリ社会の世論形成に大きな影響力をもつ,近年台頭する Picard[2007: 123]のいう「大衆的知識人(public intellectuals)」らとの関係性については別稿で 取り組む課題としたい。
しておきたい。 ウィスヌ財団の活動は,設立当初の1993 年から 1998 年のスハルト政権崩壊まで,バリ南部 の観光地であるクタ,ジンバラン,ヌサドゥアなどの観光産業が対象であった。主な活動内容 は,ゴミ分別処理方法のホテルへの指導19,学校における環境教育であった。代表のスワルナ タ氏は当時の活動状況について現在と比べ,以下のように筆者に語った。 スハルト体制期では現在のように(村落コミュニティの)人びとと,組織を作るという ような話をすることはできなかった。それは,政府にコミュニストとして見なされる可能 性があったからだ。NGO も宗教的な組織もあるし,さまざまだけれども,ウィスヌ財団 をそのなかに位置付けるとしたら開発批判のNGO だ。そのような団体である NGO は, 政府にとって敵で,デモを行う団体だった。だから,政治的に敏感にならざるを得ず,ホ テルから出るゴミの問題に焦点を当てた活動を行っていたのだ。しかし,スハルト政権の 崩壊によって,中央集権から地方分権の時代になったし,民主化も進んだ。私たちの空間 はより広くなった。(2013 年 1 月インタビューより) この語りから,中央集権体制が敷かれたスハルト政権時代に開発批判を行うNGO が置かれ た微妙な社会的布置が読み取れる。スハルト政権下では,非営利目的の社会団体に対する法令 を通した統制20によって,国内のあらゆる集団的活動が中央政府の監視下に置かれていた。ス ハルト政権下では,ウィスヌ財団のような社会団体(yayasan)は,国是であるパンチャシラ を基本綱領として掲げること,さらに裁判所・内務省へ登録することの二点が義務付けられて いた。一方,津田浩司が報告しているように,宗教組織など直接的に反政府的活動を行ってい なければ,煩雑な手続きは要するものの社会団体の活動において大した問題は発生しなかった [津田2010:51-52]。 しかしながら,逆にいえば,スワルナタ氏の語りに現れているように,もし村落コミュニテ ィといった社会的集団に直接イデオロギー的な働きかけを行えば,ウィスヌ財団のような組織 は,「反政府」的な活動を行っている組織であると見做される可能性が高まり,政府の規制の対 象となりえたといえる。それゆえ,多くのNGO はそのような事態を回避するために,スハル ト体制下においては,主体的に置かれた状況を読み取り,政治的状況と組織の活動目的の帳尻 19) 当時多くのホテルでは分別することなく,ゴミを空地などに捨てていた(ジャカルタポスト,2008 年9 月 6 日)。 20) スハルト政権下において社会団体に関する法令は,「社会団体に関する法律 1985 年法律第 8 号 (Undang- undang RI No.8/1985 tentang Organisasi Kemasyarakatan)」などがあり,NGO に相当 するLSM に関しては,1990 年に内務大臣規定第 8 号(Instruksi Mentri Dalam Negeri No.8/1990 tentang Pembinaan LSM)が出されている。
を合わせる形で活動を実施せざるをえない状況に置かれていた。ウィスヌ財団の場合は,観光 産業を対象としたゴミ分別処理マネジメントを通じた環境啓発活動に特化することで,政府側 の干渉をできるだけ回避しようとしていたといえよう。すなわち,ウィスヌ財団が実施するよ うなNGO によるコミュニティを対象としたプロジェクトの出現はスハルト政権崩壊により進 められた民主化の一つの表れであると考えられる。 2 つながれる村落とエコ・ツーリズム スハルト政権の崩壊は,ウィスヌ財団の活動にも大きな影響を与えることとなった。スハル ト政権崩壊後,ウィスヌ財団は,それまで実施していた観光産業を対象とするゴミ処理を通じ た環境啓発活動から実質的に撤退し,自ら新しい観光を開拓すべく観光セクターの内部へ進出 していく。以下では,ウィスヌ財団による村落エコ・ツーリズムに見出される二つの「流用」 のあり方とその論理について検討していきたい。一つ目は,村落コミュニティを慣習村として 同定しているところであり,もう一つは,観光を住民エンパワメントのための手段としている ところである。 まず,一つ目のコミュニティの位置づけに関して検討してみたい。1970 年代以降,「コミュ ニティ」21という概念は,各国政府や NGO に社会的マネジメントを推進するためのキーワー ドとして導入され,ウィスヌ財団が村落コミュニティをエコ・ツーリズムのマネジメント主体 と位置付けるのもこのようなグローバルに展開される開発言説の影響を受けている。では,ウ ィスヌ財団は行政村と慣習村という二つの統治機構が併存するバリの村落において,なぜ慣習 村のみを村落エコ・ツーリズムを推進する主体となる「コミュニティ」として同定したのであ ろうか。 このようなウィスヌ財団の論理には,スハルト政権崩壊以降,インドネシア各地で生じてい る慣習や伝統のリバイバル現象が関係している。バリの場合をみると,慣習のリバイバルは慣 習村を軸に展開され,国家レベルと地域レベルの二つの政策的な変化もそれを後押ししている 22。スハルト政権崩壊後,1999 年には「地方行政法」が,また 2001 年には「慣習村に関する 州条例」がそれぞれ制定された。敷衍すると,前者は国レベルで村落を地方固有の条件にもと づいたものとして規定し,村落はそこで慣習を守り育てるものとして定められた[中村 2009: 65]。一方,後者は条例によって「任意団体」であった慣習村に法的な地位を付与し,州政府 による積極的な慣習活用政策となっている[鏡味 2010: 6]。このような慣習村を囲い込む社 会環境の変化から,今日のバリ社会では,村落というレベルにおいて民族と文化を結びつける 21) インドネシア語では,masyarakatという言葉が当てはまる。 22) もっとも,バリでは鏡味治也[1998]が検討しているように 1980 年代からバリ州政府によって,慣 習村活性化政策が行われている。本稿では,ポスト・スハルト期という新しい社会環境から生まれた 動きとして慣習村リバイバルを扱いたい。
役割を果たすのは慣習であるとされ[Couteau 2003: 47],「村落」と「慣習」,「文化」はバリ において親和性の高い用語として言及されている[Nordholt 2007: 28]。この点を踏まえると, ウィスヌ財団が慣習村を社会的マネジメントの基盤と同定していることが,地方分権化後の一 連の動きと結びついていることは想像しがたいことではない。こうした慣習村を取り囲む社会 環境の変化が,ウィスヌ財団の慣習村を重視する姿勢に妥当性を付与している。 次に,二つ目の「道具」としての観光を検討してみたい。今日,「エコ・ツーリズム」は効 果的な「環境保全や開発の道具(tool)」[Horwich and Lyon 1998]とみなされるようになっ ている。一見,ウィスヌ財団の村落エコ・ツーリズム着想の論理もこのグローバルな開発言説 による観光の流用のなかに見出せるようだが,以下のウィスヌ財団代表であるスワルナタ氏の 語りは別の側面も示している。 私たちは小さなNGO で,議会や立法に大きな影響を与えることはできない。だから, 社会の土台である村落に入って,エンパワメントしようとおもった。観光は村落に入るた めの戦略だった。そして,観光をエコ・ツーリズムで包んだ。当時,観光という言葉を利 用したのは,公共のコミュニケーションにおいて人びとに容易に受け入れられる言語でな くてはならないし,みんな観光の恩恵を受けたがっていたからだ。私たちは,マス・ツー リズムに反対する。だけれども,マス・ツーリズムを批判するからといって,ヌサドゥア に対抗することはできない。だから,それを再調整するような新しいナラティブをつくる ことを目指した。(2013 年 1 月インタビューより 強調部分は筆者追加) この語りが示すのは,ウィスヌ財団は村落でプロジェクトを行うために,人びとにより受け 入れられやすい「観光」という言葉を道具として選んだということであり,もともとエコ・ツ ーリズムを行うことを目的としていたわけではないことである。もっとも,多くのバリで生き る人びとにとって観光は遠い場所で起こっている現象ではない。南部の観光地から距離的に離 れた村落でさえも,就業機会を求めて観光地へ移住するものや都市の高等教育機関を卒業後, 観光産業で働くものを家族にもつ村人もけっして少なくはないのだ。筆者もK 村において,現 在は村に戻っているものの,1990 年代はバリ島南部において観光ガイドやホテル,レストラン のスタッフとして働いていた経験をもつ人びとに数人出会った。 抽象的であれ具体的であれ,バリの人びとにとって「観光」はインドネシアの他の地域に類 をみないほど,村落の人びとにとってある程度生活に溶け込んだ「言葉」であり,村の人びと にとって観光の世界で仕事を得ることは,「成功」することとほぼ同義である。それゆえ,「観 光」という言葉はいわば「アイコン」として人びとのプロジェクトに対する関心を引き付ける ために取り入れられたのである。ウィスヌ財団が,マス・ツーリズムの弊害を問題視する人び 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、
とによって設立された組織であることはすでに述べた。しかし,だからといってウィスヌ財団 は観光という現象を全面的に否定しているわけではない。というのも,むしろそこにはインド ネシア随一の観光地であるバリにおいてこそ発揮される「観光」という言葉が含意する住民参 加を促す社会的効果への期待があったことが指摘できるからだ。すなわちウィスヌ財団は,村 落において住民のエンパワメントを行うために「観光」を流用し,さらに自然環境を観光資源 としたツーリズムを作るというよりは,マス・ツーリズム批判のアイコンとして「エコ」を「ツ ーリズム」に後付したと解釈できる。 まとめると,ウィスヌ財団の村落エコ・ツーリズムには二つの流用のあり方が見出せる。一 つ目は,村落エコ・ツーリズムを推進する主体となる村落コミュニティを慣習村と同定したこ とであった。これは,ポスト・スハルト期のバリにおける慣習リバイバルと大きく関わってい る。1979 年に「村落行政法」が導入されて以降,寺院における儀礼を担う集団という社会的位 置づけに追いやられていたバリの慣習村は,ポスト・スハルト期に社会的マネジメントを担う 集団としての復権を果たしつつある。それゆえに,ウィスヌ財団は慣習村というコミュニティ をプロジェクトに欠かせない存在として認識している(せざるをえない)のである。二つ目は, 観光を手段として流用したことであった。そこには,社会の観光化(touristification)[Picard 1996]が生じているバリにおいては,「観光」という言葉が,プロジェクトにおける住民参加 の促進に有効に機能するという論理がある。また注目すべきは,「エコ・ツーリズム」は概念先 行的に導入されたのではなく,あくまでもウィスヌ財団のマス・ツーリズム批判のアイコンと して加えられ,意味づけされていたことである。先行研究においても,「エコ・ツーリズム」が 自然環境保全と地域開発を両立させる手段として用いられていることは論じられてきた [Belsky 1999]。しかしながら,ウィスヌ財団の場合は,「エコ・ツーリズム」を標榜しなが らも,後述するように実際は「村落文化」を観光資源とするツアーを作っている。以下では, ウィスヌ財団が村落でプロジェクトを実施するにあたって,どのように村落エコ・ツーリズム の枠組みを設定し,村落においては具体的にどのような対応がなされたのかを筆者の調査村で あるK 村を事例に具体的に検討していく。
III K 村における村落エコ・ツーリズムの編成
本章では,まずK 村の概要を記述し,2000 年から 2002 年までに実施された村落エコ・ツー リズム開発プロジェクトの展開を整理していきたい。 1 K 村の概要 K 村は,デンパサールから 42 キロ,車で 1 時間 30 分ほどの,バドゥン県最北部に位置する,人口約870 名,187 世帯の村である。村の面積は 242 ヘクタールであり,農地面積はそのうち 187 ヘクタールを占めている。K 村は標高 1100 メートルに位置しており,人口の約 80%が農 地を所有しコーヒー栽培23を主な生業としている。 K 村におけるコーヒー栽培は,オランダ植民地時代のロブスタ種の栽培に始まる。ただし, オランダにより導入されたコーヒー栽培は一部の村人によって行われていたのみであった。多 くの世帯で生業としてのコーヒー栽培が始まるのは,1990 年代以降のことである。それまで, 多くの世帯は陸稲栽培を行っていた。K 村の村びとが陸稲栽培からコーヒー栽培に生業を転換 したのは,村人の生活における現金収入の必要性の増加に対して生じた「緑の革命」によるコ メの価格の低下を原因としている。そこで,水源が限られており水田耕作に向かない地形のK 村では,陸稲栽培に代わる現金収入源を創出するために,1980 年代半ばからバドゥン県林業 局・農業局主導でアラビカ種をK 村の主要換金作物とするための農業指導プロジェクトが進め られた。現在は,村びとの居住地を取り囲むようにコーヒーを主要作物とした畑が広がってい る。 村人のほとんどはバリ人であり,40 歳以上の男女は村落内において婚姻関係を結んでいるも のも少なくはなく,血縁関係で結ばれた比較的強い社会的紐帯を維持している。一方,近年で は子供をバリの教育機関が集中する南部地域の高等教育機関へ通わせるケースも増えてきてお り,若者の村からの転出も増える傾向にある。そういった若者は,今のところ週末や少なくと も寺院や家寺などの周年祭には,必ず村に戻り儀礼に参加している。また,村落の政治体に関 しては,慣習的土地にすむ人びとを成員とした慣習村,それに私有地に住む人びとを加えた慣 習集落24,行政区,農地を所有する村人が参加する農業協同組合25の4 つがある。 2 K 村における村落エコ・ツーリズム開発プロジェクトの展開 ウィスヌ財団とK 村との関りは,1999 年に高等教育機関である国立バリ・ポリテクニック 校がウィスヌ財団に農業観光開発支援事業に参加するよう要請したことから始まる。話し合い の末,国立バリ・ポリテクニック校は,観光政策研究の立場から支援に加わることになり,実 質的な村落における支援事業はウィスヌ財団が任されることになった。一方,村人の話によれ ば,当時K 村はウィスヌ財団も含めて 3 つの NGO から,プロジェクトを実施したいという申 し出を受けていた。しかし,村のなかで話し合いが行われた結果,ウィスヌ財団が住民主体の 23) 年一回しか収穫されないコーヒーに対するセーフネットとして,トウガラシやハヤトウリ,ミカンな ども栽培されている。また,豚や牛を飼い,売買を繰り返すことで収入を得ている。 24) K 村は,一つの慣習村でもあり,一つの慣習集落である。また,行政村としてはプラガ村に属し,一 集落(dusun)の位置づけである。 25) 農業協同組合は,灌漑組織と違い,1993 年頃正式な組合としてバドゥン県に承認された。それ以前 は農民自助団体であったという。現在では慣習法を独自に持ち,それに基づいた運営が行われている。
プロジェクトを実施する可能性があるという判断がなされ,ウィスヌ財団のプロジェクトを受 け入れることになったという。つまり,ウィスヌ財団もK 村から選ばれたのである。それゆえ, ウィスヌ財団とK 村の関係は途切れることなく現在までつながっている。 K 村においてのプロジェクトを推進していくにあたって,ウィスヌ財団はドナーNGO であ るクハティ財団に3 年間実施されるプロジェクトのプロポーザルを書き,その結果,資金的支 援を受けることになった26。その3 年間の活動の概要は,ウィスヌ財団から提供された資料に 依拠すると以下の通りである。 プロジェクト一年目は,①住民のエコ・ツーリズム・プロジェクトの運営能力の向上,②住 民のエコ・ツーリズムに対する意識の向上,③行政集落へのエコ・ツーリズムに対する意識の 向上,という以上3 つの目標が掲げられた[Ida Bagus Yoga Atmaja 2002]。これら 3 つの目 標 を 達 成 す る た め に 実 施 さ れ た 活 動 は , 主 に 住 民 自 助 グ ル ー プ (kelompok swadaya masyarakat)の設置・トレーニングと地図の作成の 2 つである。まず一点目の住民自助グル ープに関しては,ファシリテーターになる村人が 10 人選出された。農業協同組合長がグルー プの代表となり,補佐役には行政集落長が就任した。また,二点目の地図の作成に関しては, 住民グループがウィスヌ財団のメンバーと一緒に村落内を歩き回り,村落内にあるさまざまな 村民の生活に関わる事物を村の特徴として,その位置を記した地図を作成した。地図には,植 生,主要換金作物であるコーヒー畑の範囲,寺院,水源,芸能などが盛り込まれた。 二年目の2001 年からは,一年目に作成された地図をもとにして,慣習的会合(sangkep)27 を通じてのマネジメント・プランについての村落内における広報活動が行われた。そのほかに 実施された主な活動は,エコ・ツアーための慣習法(parerem)の制定28,村落エコ・ツアー で利用されるトレッキング・パスの村人による整備,コーヒー栽培の技術訓練,芸能上演を通 じた村落エコ・ツーリズム開発プロジェクトの広報活動などである29。サンカップの欠席は慣 習法に抵触し,無断欠席は社会的制裁につながるため,毎回約150 名の慣習村成員が参加した。 そして,三年目は,村の特産物である竹細工製作トレーニング,伝統芸能の復活30,村落内の エコ・ツーリズム運営組織(図 1)の設置が行われ農業協同組合の一組織に組み込まれた。な 26) 実際には,同時多発テロの影響で,USAID から支援金を受けていたクハティ財団は二年で資金的な 援助を打ち切らざるを得なくなった。しかし,ウィスヌ財団は自己資金を活用しプロジェクトを継続 した。二年間のプロジェクトで支援された総額は,計Rp.60,000,000 である。その額には及ばないも のの,K 村の村人もプロジェクトの資金を出し合っている。 27) 会合では毎回出欠が取られ,一回欠席すると Rp.1,000 の罰金が科される。 28) 例えば,慣習集落の成員以外に慣習村領域の土地を売却しないこと,村の寺院など「聖なる領域」に ゴミを捨てないことなどが盛り込まれた。 29) 芸能の上演が広報活動の場と位置付けられた理由は,K 村においてサンカップは男性が出席する会合 であり,女性や子供は参加しない。それゆえ,村人全体にプロジェクトの存在を意識させる必要があ った。 30) 2 年目に上演された芸能が都市で流行しているものであり村落でもともと行われていたものではない とウィスヌ財団が判断したため
お,運営組織には30 名ほどの村人が参加している31。 図1 K 村の村落エコ・ツーリズム運営組織図 出所: ウィスヌ財団資料より筆者作成 一連の作業行程から,村落エコ・ツーリズム開発プロジェクトは,村落の特徴について村人 の共通認識を作り上げる試みであったことが分かる。そして,観光資源化のために特徴として 抽出されたほとんどのものは,手つかずの自然環境ではなく,「村落の生活に根付いているもの」 であり,村人が日常のなかで利用しているものであった。ウィスヌ財団の村の特徴を地図化す るプロジェクトを検討したキャロル・ウォレンは,地図化という作業は,地域コミュニティの 活性化,コミュニティという場所の感覚の焦点化と再活性化をもたしたと指摘している [Warren 2005: 59]。すなわち,プロジェクトは,村の人びとに K 村という社会空間が共通の 何かを保持する場であると再認識させ,格別意識しなかったものを「村の観光資源」として再 配置させる効果をもたらしたと考えられる。 2002 年から 2006 年までは,ウィスヌ財団が視察団を伴って訪問する以外にほとんど K 村に ツアー客が訪れることはなかった。しかし,2006 年頃から,JED のツアーがバリのエコ・ツ ーリズムのおすすめとして有名旅行ガイドブックである『ロンリー・プラネット』に掲載され たり,イギリスやオーストラリアの旅行代理店と契約を結んだりして,JED のツアーは次第に 31) 詳細は秘密事項なので示すことができないが,組織メンバーのうち,一回のツアーの実施から直接的 な収入を得るのは,ガイド,食事担当,宿泊者がいた場合は部屋を提供した家,夕食時の余興として 上演されるバリ舞踊の踊り手と伴奏者らである。コーディネーターと会計担当者は無報酬である。交 通費と人件費,提供される食事の材料費などを除いてツアー代金に含まれているのは,ツアー客一人 当たりにつき,Rp.10,000 の慣習組織などへの寄付である。慣習村,トレッキングコース整備,村の 寺院,環境保護,ツアー客が食事をとる農業協同組合の集会所の5 か所に行われている。一定の額が 貯められると,慣習的会合で使い道が決定されている。これまでに村落内の水汲み場の増設,農業協 同組合の集会所の補修などに充てられてきた。 コーディネーター 会計担当者 ガイド 観光 アトラクション 宿泊 食事
ツアー客を集めるようになっている。そして,村落ごとの差異は見られるものの,2007 年には, 個人ツアー客,団体客を合わせて4 つの村で 114 人だったのに対して,2012 年には 448 名の ツアー客を受け入れている。K 村に関しては,2007 年は一年間で 49 人のツアー客を受け入れ るのみだったものの,2012 年には JED のツアーで最も多い 256 人を受け入れている32。
IV 流用されたエコ・ツーリズムの現場
本章では,まずK 村においていかにエコ・ツアーが実施されているか考察した後,実際にエ コ・ツアーの現場において表出するローカルな論理を捉えていく。 1 ツアーの行程パターンとその特徴 エコ・ツアーを実施するために,マッピングが行われたことは前章で述べた。ツアーはそれ らを組み合わせて実施されている。表2 は,K 村のエコ・ツアーの基本的な行程である。K 村 のツアーは,ツアー客側がK 村においての活動をあらかじめ詳細に指定してくる以外の場合は, おおよそ表2 のようにツアーが敢行されている。K 村のツアーは,1 名から敢行されているも のの,ツアー客の大多数は二名であり,少人数の場合はガイドが一人付きツアーは行われる。 したがって,ツアー客とガイドのコミュニケーションの密度は濃くなり,ガイドの説明に対し て,ツアー客は思ったこと感じたことを頻繁にガイドに投げかけ,やり取りが行われる。以下 では,ツアーへの参与観察から,村人がどのように「村の文化」を表象しているのかを 2012 年2 月に行われたあるツアーを事例に検討していきたい。 事例1:2011 年 7 月,フィンランド人男女のカップルとフランス人の男性が,K 村のツアーに 参加した。到着後,紹介を兼ねて当初からK 村のエコ・ツーリズム・プロジェクトに関わるガ イドのW 氏が,K 村の概略と K 村のエコ・ツアー導入の経緯を語った。W 氏の語りで強調さ れたのは,K 村のエコ・ツアーとマス・ツーリズムの違いであり,文化が「失われた」南部バ リと伝統的なバリの文化が「残る」K 村という空間的な対比であった。一方,興味深いことに, エコ・ツーリズムという概念から容易に想像されがちな自然環境保護との関係でなぜK 村のエ 32) このように K 村を訪れるツアー客は増えつつあり,エコ・ツアーに関与する村びとにとって農業以 外の収入として「たし(tambahan)」にはなっているものの,なかには村落エコ・ツーリズムによる 収入はまだまだ現金の必要性が高まる村の生活において不十分であると感じているものも少なくな い。また,筆者は調査中にサンカップに出席した際,ツアーによって蓄えられた寄付金は慣習集落全 体のために使用されるものの,エコ・ツアーを運営する組織が閉ざされていて金銭的な流れや組織と して何をしているか分からないという意見があった。たしかに,187 世帯中 20 世帯のみが村落エコ・ ツアーに実質的に関与しているというのは,K 村のわずか 10%のみである。このように,関与する 村びとが限られているため,村落エコ・ツーリズムに対して閉ざされた活動であると感じている村び とも決して少なくないことも事実である。表2 ツアーの行程表 ツアーの主な行程 主な内容 1. 農業協同組合の集会所での イントロダクション ①村の概要,②コーヒー,③エコ・ツアーを始めたきっ かけ,④村のエコ・ツーリズムへの態度などがガイドか ら話される 2. 村人の居住区域を回るツアー ①村人の飼っている闘鶏用の鶏を見学,②ガイドの家を 見学,③村の寺院を外から見学,④集落の集会所を見学 3. 昼食 村落内で生産された食材を使った料理 4. コーヒーの森におけるトレッ キング ①村で栽培しているコーヒーの種類について説明,②森 の植生と村人の儀礼や生活との関わりについて説明,③ 水源について説明,④森の精霊についての話 5a. (日帰りの場合)ツアー終了 ①ツアーの感想や質問のやり取り,②ゲスト・ブックへ の感想の記入 5b. (以下宿泊の場合)集会所で ガイドと談話 ①ツアーや村についての感想や質問のやり取り 宿泊先の民家で休憩 6. 夕食と村の芸能鑑賞 ①ガイドと一緒に夕食,②村の女性によるバリ舞踊を鑑 賞 二日目 7. 朝食 ①ツアーの感想や質問のやり取り,②ゲスト・ブックへ の感想の記入 ツアー終了 出所: 筆者作成。 コ・ツアーが「エコ」であるのかという話は一切語られなかった。その後,一行は集落のなか を歩き回り,村の寺院を見学したり,ガイドの家に立ち寄ったりしてK 村の人びとの暮らしぶ りをのぞく。そして,昼ごろ集会所へ再び戻り,朝から食事担当が準備したK 村で生産された 野菜や鶏を使った料理を食べた。午後からは,コーヒーの森へトレッキングに出かけた。トレ ッキングコースには,前節で述べた地図化のプロセスで見出された谷間にある寺院や水源が含 まれ33,またトレッキング中は,ガイドがところどころで立ち止まってはK 村で栽培されてい 33) コースで通るトレッキングコースや時間はツアー客自身が選んだり,ガイドが年齢や体力を考慮した りして選定する。
るコーヒーの種類を説明したり,草花を見つけては薬草としての使い道を語ったりした。夕方 近くになると集会所へもどり,ツアー客はガイドと話合ったりあるいは参加者同士でその日の ツアーの感想を述べあったりしてツアーは終了となった。 このツアーへの参与観察から,ツアーの特徴を「語り」に焦点を当てて二点取り挙げてみた い。一つ目は,村の文化が,マス・ツーリズムあるいは南部バリとの対比のなかで正当性をも って範型化され語られているという点である。W 氏は,ここにはバリ南部で「失われたバリの 文化がある」とあたかも「純粋なバリの文化」があるとでもいうような文化本質主義的な表現 を用いる。このような主張に現実味を付与しているのは,表2 に示しているように,他の観光 地のように観光を始めるうえで何か新しい物理的なものを作るのではなく,村落に従来から存 在するもの,あるいは存在していたとツアー客にイメージされやすいものを文化として抽出し, つなぎ合わせて提示している点である。たとえば,村落内のツアーでまわり,K 村の文化とし て提示される村人の住居,村の寺院,集落の集会所などは観光のために特別に作られた事物で はなく,ツアー客のために彩られることもない。それらは,ツアー客にとっては村人の生活世 界と違和感なく融合したものとして受け止められている。つまり,一見変化の少ないように語 られ印象付けられる「ランドスケープ34」こそが,K 村の観光資源となっているのである。 二つ目は,ツアー客とガイドの密なコミュニケーションから,定式化されていない新たな村 の文化が即興的に生み出される可能性があることである。K 村を訪れるツアー客の特徴として もいえることだが,ツアー客は,ただ黙って見てガイドの話を聞いている存在ではなく,積極 的にガイドに些細なことでも質問を投げかけ,ツアーから何かを学習しようとする態度をもつ。 たとえば,ツアーに参加したフィンランド人女性は,トレッキングの途中に改修工事中の寺院 でつかわれる石を見て,どこから運ばれてきたのか,そして寺院は誰によって使われるのかと いうことなど気になったことを矢継ぎ早に質問していた。もちろん,すべてのツアー客がこの ような態度をとるわけではない。しかし,ツアー客が何かの事物に関心をもち問いかけをする と,ガイドはただそれが何であるか説明をするだけではなく,「自分(あるいは村人)はこのよ うに使う」,あるいは「K 村ではこうである」と K 村もしくは K 村の生活を引き合いに出して 説明を加える。例えば,K 村を訪れた韓国人のツアー客がオシロイバナを見つけ,韓国での遊 び方をガイドに見せたところ,ガイドがそれでイヤリングを作ってみせて応じたことがあった。 次のツアーから,ガイドはオシロイバナがある場所で立ち止まり,観光客にイヤリングを作っ てみせ,これがK 村の子供の遊びであると説明をするようになった。この例は,ツアー客の「偶 34) ここでいう「ランドスケープ」は,パメラ・スチュワートとアンドリュー・ストラザーンに倣い,単 純に田園風景というイメージを起こさせるものではなく,その空間のもつ歴史的なアイデンティティ としての役割を連想させるような複雑な意味をもつ空間を指す[Stewart and Strathern 2003: 6]。
発的な気づき」により即興的にK 村の生活文化やそれについての語りが表出されることを示し ている。 ガイドのW 氏によれば,「エコ・ツアーの利点はツアー客と直接対話できるところ」であり, 彼は小規模なツアーにおける客との密なコミュニケーションを肯定的に捉えている。事例でみ たツアーが特別というわけではなく,ツアーが1 人から 3 人という少人数で敢行される場合は, ツアー客とガイドが語り合う機会が非常に多くなる。事例1 のツアーに参加した,フィンラン ド人の女性は,筆者にガイドになんでも村について質問し,意見の交換ができるところがよか ったとツアーの感想を話した。こうした側面に注目すると,K 村のツアーは,提示された文化 をただ「見聞きする観光」ではなくむしろ密接なコミュニケーションに下支えされた「語り合 う観光」として形成されていることが窺える。 今村仁司によれば,ものが資源となるためには「人間の関心」が必要不可欠であるという[今 村 2007: 357]。まさしく,このような村の文化の意識の芽生えは,ウィスヌ財団の地図作りの 帰結であるともいえるが,くわえてこういった意識化の運動を承認していくのは,ツアー客自 身が寄せる関心でもある。というのも,K 村を訪れるツアー客の多くは,バリ南部の観光地を 避けてバリにおいて行動する傾向があり,観光地とK 村の印象の違いをガイドに熱っぽく語る。 あるスペイン人のツアー客は「(バリ南部の代表的な観光地である)クタは,なるべく避けたい。 ドラッグやアルコールの問題もあるし」とガイドに断言した。このようにK 村を訪れるツアー 客をK 村へと向かわせているのは,バリ南部の無秩序なマス・ツーリズム化に対する嫌悪感で あり,K 村のツアーはそのような意識をもつ人びとを吸収している。こうしたツアー客を受け 入れ,ツアーのなかで提示される文化が対話のなかで他者によって是認され自己によって再び 内省されていく営みによって,K 村のエコ・ツアーの世界における「村の文化」についての語 りは動態的に生み出されていくのではないだろうか。 2 流用されたエコ・ツーリズムと他者の目 ツアー客は時にK 村で提示されるエコ・ツーリズムの世界に疑問を投げかけ,実践の微修正 を促す存在ともなっている。本節では,2012 年 1 月に実施されたツアーを手掛かりに,そう いった事態に直面した際,いかなるK 村のローカルの論理が見出せるか検討したい。 事例2:2012 年 1 月フィンランドから団体客(総勢 6 名)が 2 泊 3 日の予定で K 村を訪れた。 同じメンバーでインドやネパール旅行も経験しており,比較的旅慣れた人びとであった。グル ープの引率者の女性以外は,既に退職しており,平均年齢は60 歳ぐらいである。K 村滞在中, 出会うK 村の人びとに対してグループは常に好意的な態度をとり,身振り手振りを使ってでき
るだけコミュニケーションを取ろうとし異文化理解に努めている様子だった35。そんな団体客 であったが,ツアーの間一度だけ不快感を表したことがあった。それは,トレッキング中にビ ニールゴミが散乱した広場を目撃した時のことである。ゴミを目撃するや否やグループの引率 者は,急に厳しい表情で声を少し荒げ「これはなに?」とその日のガイドを務めたW 氏へ問い ただした。W 氏は,戸惑い少し慌てて「ここには,水源の寺院があって村人はここでお祈りを する。そのゴミは,そのお祈りの時に村の人びとが残していったものだ」と応答した。グルー プの引率者は,手を胸のあたりまで上げてどうしようもないと言いたげな素振りを見せた。 この事例から議論したいのは,村びとの環境意識についてではない。注目すべきは,ツアー 客が無垢に持ち込む「エコ」意識が生じさせるK 村の「エコ・ツーリズム」の村としての戸惑 いとそこに作用するローカルの論理である。いくら JED が主張するツアーに参加するための 心構えを了承していたとしても,ツアー客は自らの価値観をツアーが行われる現場にほぼ必ず 持ち込む。ツアー客は,エコ・ツアーが実施される場は,「エコ・ツーリズム」という記号によ り媒介されたさまざまな言語や理解があたかも共有される場としてイメージしている。だから こそ,ツアー客はマス・ツーリズムではなく,エコ・ツーリズムに期待を寄せ,選択するので ある。他方,イメージにそぐわない場合は落胆する。K 村で実施されるエコ・ツアーを考えて みると,エコ・ツアーで経験する世界は決して村落の生活世界と切り離された空間ではなく, むしろ生活世界に内在しているものである。それゆえ,ツアー客は自身がイメージするエコ・ ツーリズムからかけ離れた場面を目撃することも少なくない。 もっとも,W 氏は事例のようにゴミの問題がツアー客の苦情の原因になることに対して,決 して無自覚なわけではない。W 氏は筆者に対して,「ゴミの問題は,ツアーを不満足なものに する可能性がある。この部分はこれから対処していかなければならない」と話している。しか し,K 村独自で解決しようにも,増えるビニール製品消費に対して,都市部のようにゴミを処 分する方法がないということも現実である。それゆえ,多くの村人は,有機ゴミはコーヒーの 木の堆肥にしたり,ペットボトルなどは都市部からバイクでやってくる個人収集者に引き渡し たり,それ以外は自身の所有する畑に焼却スペースを作りそこで燃やして処理したりと,それ ぞれ工夫して対処している。しかし,なかには川沿いの傾斜地に捨ててしまう者もいる。ただ, 多くの村人に共通するのは,家の敷地内に外からゴミを持ち込み家のゴミの量を増やすことを 嫌う傾向がみられるところである。それゆえ,家の外で出たゴミは持ち帰られることは少なく なる。K 村のエコ・ツアー運営組織に参加する女性は,この点について「家のなかにゴミがた 35) JED が解説している予約受付用のウェブページには JED のツアー客としての心構えや「敬意」を示 す必要性が掲載されており,ツアー客はそれに目を通しているため,ツアー客は概してガイドを含め た村びとや村という空間に対して尊重する言葉を口にし,肯定的な態度を示そうとする。