原風景を再考する : 故郷論の視点から
12
0
0
全文
(2) 山下 暁子. 教育に関する分野でも原風景を取りあげる者はあるが、ノスタルジーの範囲を超え出ることはないと言ってよ い。原風景をテーマに子どもの遊び経験について聞き取りをしたりする研究では、過去との共通点がまだ残って いるかという確認が中心となっている。最近でも美術科教育の分野で原風景について特集された誌面 10)がある が、その内容は特に目新しいものではなく、従来通り失われたものへの哀愁を述べるにとどまる。いまだに原風 景というテーマはしばしば取り上げられているのだが、過去の世代の歴史的象徴として美しいままに取り置かれ るものとなってしまう危機にある。現在では当初の奥野の言う原風景というもの自体について検討されているも のはほとんど見られないと言ってよい。では、どのように私たちは原風景を取り上げていけばよいのか。現在の 私たちの問題においてまだ有効性があると感じられているからこそ、原風景はたびたび注目されるのだが、原風 景というテーマを現在において取り上げるには、ノスタルジーを越えて、その概念を、現在を生きる者の中に位 置づけ直していかなくてはならない。 本論では、奥野の論を分析し、原風景がノスタルジーとして捉えられてしまうことの一因として、奥野の原風 景の論述が故郷論を下敷にしている 11)ことを指摘する。また一方で、故郷論が下敷となっていることについて 着目して述べるのは、奥野の原風景論がもつ「自己形成空間や生活空間及び地域共同体の変化や崩壊」への問題 意識が、教育学においても重要な課題となっているからである。つまり、これまでの原風景についての論がこ の問題意識を軽視してきたことで、原風景は過去のノスタルジーを表す言葉とみなされるようになってきたとも 言える。本論では、奥野の「文学における原風景」を故郷論の一種と捉えることにより、原風景の解釈と意義に ついて新たな側面を加えることを試み、原風景を教育学の中で論じていくための下地とすることを目的としてい る。. 2 故郷論と原風景 原風景とは、奥野健男によって生み出された語であるとされている。始めは文芸季刊誌『すばる』第二号(集 英社,1970 年)で発表され、その後『文学における原風景』(集英社,1972 年)が発刊された。奥野の原風景が 発表され、それが支持された背景について見ておきたい。 原風景が発表されたのと同時期、1960 ~ 70 年代に風景論の隆盛があった。この時期の風景論の火付け役とさ れている映画評論家の松田政男は、風景を権力として見なし論じた。 ……ただひたすら永山則夫の目が見たであろうところの各地の風景のみを撮りまくって、いわば実景映画 とでも自称するほかない奇妙な作品をいまつくりつつあるのは、ひとえに、風景こそが、まずもって私た ちに敵対してくる < 権力 > そのものとして意識されたからなのである 12)。 松田政男の風景論には、風景=権力という視点が見られる。これは、当時の風景論の基調をなすものと言って よいだろう。この時代に登場してきた風景論とは、60 年代末の政治状況に影響されたものであり、松田政男は 風景論を権力論から国家論へとつなげていこうとしていたのだが、その後の展開は見ることができない。松田は、 日本の風景が「首都と地方、中央と辺境、東京と田舎といったような二分法を超えて、日々、均質化されつつあ ることに瞳を抜かれるような思い」13)を、 永山則夫についてのドキュメンタリー映画を撮影する過程で経験した。 このような現象の要因として、いかなる非人間的な大型構築物といえども最終的には設計者の人間的な美的感覚 によって統御される「風景工学」によって風景が日々均質化されていることを松田は指摘する。風景の均質化と は、 「首都と地方、 中央と辺境、 東京と田舎といった二分法」14)を超えて国土開発が進められる中で「何処まで行っ ても、何処にでもある風景にのみ突き当たらざるを得」ないという状況であると松田は述べている。 日本列島を流浪した永山則夫は、かくして何処まで行っても、何処にでもある風景のみに突き当たらざる ─2─.
(3) 原風景を再考する ─故郷論の視点から─. を得ず、したがって永山則夫は、ついにこの風景を切り裂くために弾丸を発射せざるをえなくなったので ある 15)。 風景の均質化を促進する主体的要因として、松田は風景工学者の存在に注目する。松田は関口武の発言を引用 し 16)、大規模な開発や大型の構築物を建設する際に周囲の風景と不協和音を出さないよう、多数の人々の共感 を得られるように設計することが風景工学者の仕事であり、その仕事によって、どんな非人間的な大型の建設と いえども最終的には人間的な美的感覚によって統御されうるという楽天的な考え方を批判する。彼ら風景工学者 たちの仕事によって、彼らの主人である国土開発の推進者、 「すなわち〈権力〉が風景をつくりだす」17)という のである。 風景が権力と結びついて述べられるのは、風景の均質化や当時の急進的な地方の都会化 18)によるものであっ た。松田は、国土の物理的、現実的な変化を風景論として捉えたのだが、このことを別の側面から論じたのが故 郷論である。 故郷論は 1880 年代頃より議論が活発に見られ、長い間、東京(都市)と故郷(地方)という対立軸によって 個人的、社会的レベルで述べられてきた 19)。原風景が発表されたのと同時期(1960 年代末から 1970 年代)の故 郷論では、目に見える国土の物理的な変化に伴う、人間関係の問題や地域コミュニティの変化について様々に論 じている 20)。これらの議論は、集団就職や進学によって地方からの出郷者が東京へと押し寄せ、その影響で人 口が増加し、さらに高度経済成長が始まり、都市としての「東京」が構成されることで、都市に対する「地方」 という位置づけが顕在化したことがきっかけとなっている。松田が言うような国家権力による地方への影響と変 化についても、明治以後の日本の近代化政策により、農村が貨幣経済へ繰り込まれていった過程において指摘さ れている 21)。松田はその議論を、 一人の犯罪者を例に、戦後の日本での権力による構造的な変化が国土開発によっ て目に見える形となっていることを、人々が実感できる風景論として示したのであった。 松田がある一人の地方出身者である青年が犯した犯罪と、自己形成期に見たであろう風景(環境の変化)の影 響について着目したことは先見であったが、現在において、この時代の風景論が包括的に検討されることは少な く、継続されず廃れている議論である。その理由は、権力と結びつけられて論じられていることと共に、当時の 政治状況や経済状況が急速に大きく変化していったためであると考えられる。それと同時に、その他の文脈にお ける風景論も勢いを失っていった。当時、松田は、その他の論者による風景論の流行について批判し、以下のよ うに奥野の原風景にも触れている。 〈風景論〉が芸術諸ジャンルにキイワードとして徐々に浸透し、ついには揺るぎがたい文壇の一角にも波及 して、たとえば奥野健男が「文学における原風景」について『すばる』誌上で博引傍証の限りをつくした 長篇論文を連載しだしたり、……(後略)22) 松田が指摘するように、奥野が原風景について述べたのも、当時の松田から発した風景論の流行の影響による ことは明白だろう。松田は一人の犯罪者の内面にある風景に気づいたものの、従来の風景論の持つ国土と権力の 関係に沿った論によって述べた。つまり、志賀重昂から続く近代以後の日本の「風景論」の流れを汲んでいる。 これに対して奥野は、風景を近代国家としての国土と権力の問題として扱うことが、すでに人々の状況や実感と 合わなくなってくることを予見しており、個人の自己形成や共同体との関係という側面に注目したのであった。 奥野が原風景について述べるきっかけとなっているのは、地方出身者である小説家のもつ故郷への強いアンビ バレンスな感情と、小説の風景描写とそこから見えてくる個人の内奥にある風景との相違に気づいたことからで ある。 奥野は小説家の井上光晴と井上の故郷へ旅行した際の経験を以下のように記述している。 ─3─.
(4) 山下 暁子. ぼくはその時、単なる風景と“原風景”の決定的な断絶を思い知らされた。井上は今ぼくが描いた観光 旅行者的な感傷的な風景描写を、崎戸に対して一回も行っていない。もし彼が描けばぼくの拙ない描写な どより数十倍も迫真的な描写ができるはずだ。しかし彼はそれをやらない。いややれない。彼の幼少期の 語るに語り尽されない、書こうとすればいらだたしさだけが先行する、そして無限のかなしさ、くやしさ、 はずかしさ、いかり、うしろめたさを含む炭坑はコンクリートで塞がれ、炭住は夏草に掩われた、それを 今更観光的に書く必要がどこにあるか。彼が描けるのはそのゴーストタウンの中の過去の亡霊と未来への 呪詛のイメージだけだ。彼は風景描写も説明も抜きにその鉄筋アパートの中に『妊婦たちの明日』 『赤い手毬』 の幻想を夢見る以外ない。このアパートに残る妊婦、新興宗教の養鶏場、火事、それらはすべて、この炭 坑の中で作者と共に働き生活し死んだ朝鮮人をはじめとする坑夫や家族たちの亡霊なのだ。井上光晴の“原 風景”から発する幻影なのだ 23)。 奥野の原風景は故郷論の問題意識からも発していると考えられる。奥野がそれに気づき、さらに原風景の考察 へ至ったのは、自身が東京育ちであり、郷土の(地方の)風景に結びついた感情を持つ者への憧れとともに、東 京対地方という図式での故郷を持っておらず、であるから自分は始めからの故郷喪失者なのか、という自己自身 への問いが生じ、その答えを探そうとしたからだと考えられる。 奥野より数十年前に、 同様の立場から小林秀雄は故郷について論じている。小林は「故郷を失った文学」 (1933 年)24)の中で、東京生まれであることの「一種不安な感情」があることを下記のように述べている。 私の心にはいつももつと奇妙な感情がつき纏つてゐて離れないでゐる。言つてみれば東京に生れながら東 京に生れたといふ事がどうしても合點出来ない、又言つてみれば自分には故郷といふものがない、といふ やうな一種不安な感情である。この感情には、ロマンティックな要素は微塵もない、といふ事は容易に解 つて貰へさうにも思はれない 25)。 小林がこのようなことを言うのは、 谷崎潤一郎の書いた文章を読んでのことである。小林は、谷崎のような「江 戸っ子」とは違う、東京に生まれ育った違和感について、小林と同世代で東京に生まれたということが「どのく らゐ奇つ怪なことか」 、 「東京生れの人達でも、一と廻りも年が上ならもう通じ難いのぢやないかと思はれるもの がある」と述べる。この特殊な立場としての「東京生まれ、東京育ち」は奥野自身の経験と共通している。 そして、小林が「故郷」に思い至ったのは、地方出身の作家と共に車窓の景色を見ていた際、故郷を持つ者の 眼差しと自身の見えるものとの違いに気づいた経験からである。 いつだったか京都からの歸途瀧井孝作氏と同車した折だつたが、何處かのトンネルを出たころ、窓越し にチラリと見えた山際の小徑を眺めて瀧井氏が突然ひどく感動したので驚いた。あゝいふ山道をみると子 供の頃の思ひ出が油然と湧いて来て胸一杯になる、云々と語るのを聞き乍ら、自分には田舎がわからぬと 強く感じた。自分には田舎がわからぬと感じたのではない、自分には第一の故郷も、第二の故郷も、いや そもそも故郷といふ意味がわからぬと深く感じたのだ、思ひ出のない處に故郷はない。確乎たる環境が齎 す確乎たる印象の數々が、つもりつもつて作りあげた強い思ひ出を持つた人でなければ、故郷といふ言葉 の孕む健康な感動はわかないのであらう 26)。 奥野の「文学における原風景」は、小林の「故郷を失つた文学」を引用する形で書かれていると見ることがで きる。特に、奥野の「文学における原風景」前半部分は、先に取り上げた松田が指摘しているように、当時の風 ─4─.
(5) 原風景を再考する ─故郷論の視点から─. 景論の流行に乗って書かれたように見えるのだが、下敷きとなっているのは小林秀雄の故郷論である。奥野の論 は、小林の「故郷を失つた文学」のアプロプリエイションであると見ることがきるという点で(詳細な検証は本 論の主旨から外れるため行わないが) 、故郷論の一種として捉えることができるのである。 奥野は原風景を述べる中で、故郷論で述べられる多くの人々が実感した故郷からの疎外を汲み取っており、そ の疎外を風景(=権力)として述べるのではなく、個々の自己形成という観点から考察を行っている。奥野は風 景論の先に、権力の無効性と自分自身への問いかけがあることを見ていた。風景論が取り上げる問題は、確かに、 国土開発が行われたために生じた現実の風景の変化という影響もあるが、個人の視点も大きく関わっている。松 田政男が永山則夫の事件をベースとして風景を取り上げて述べたように、一方で故郷論は、それ以前より個人と 共同体との関係の変化を様々な視点から捉えている。奥野は、松田の風景論が強調した権力との関係よりも、風 景と自己形成との関係に着目し、 従来から続く故郷論を下敷きとしている点で、そして松田が「博引傍証」と誹っ ているように、様々な様相と可能性を原風景の議論としてちりばめてあることによって、当時の風景論が廃れた 現在でも原風景が様々な分野で使用され、人々に受け入れられる言葉となっていると考えられる。 ここで注目したいのは、自己形成との関係である。出郷者が故郷の内で果たせなかった「大人になる」ことを どのように故郷以外の地で実現できるのか。かつては地域の共同体の中でアイデンティティを付与されて「大人 になる」ことがあったのだが、都市へ出てきた地方出身者には「大人になる」ことを実現する共同体から離れて しまっている。けれども、都市の地域へ帰属しそこで「大人になる」という考えはなく、地方出身者は強烈に故 郷の意識を持ったまま、神島二郎の言う〈第二のムラ〉27)によって「故郷のアイデンティティ」を維持しよう とする。そこでは故郷における地位はなく、都会に住む者としての立場しかない。「大人になる」ことを望みな がらも、それが叶わない、都会に住む地方出身者としての自分を受け入れなくてはならない。 そのような「故郷」を持つ者に対して、彼らによって故郷というものを知ることになる東京で生まれ育った奥 野は、故郷を持つ者と自身との隔たりを風景に見るのではなく、故郷喪失者として風景に共通点を見出そうとし たのではないだろうか。 一方の小林は、自身の故郷喪失者としての感覚を下記のように述べている。 自分の生活を省みて、そこに何かしら具體性といふものが大變缺如してゐる事に氣づく。しつかりと足 を地につけた人間、社會人の面貌を見つける事が容易ではない。一と口に言へば東京に生れた東京人とい ふものを見附けるよりも、實際何處に生れたものでもない都會人といふ抽象人の顔の方が見附けやすい。 この抽象人に就いておあれこれと思案するのは確かに文學には違ひなからうが、さういふ文學には實質あ る裏づけがない。疲労した心は社會から逃れて自然に接しようなどといふ奇妙に抽象的な願ひを起す。社 會と絶縁した自然の美しさは確かに實質ある世界には違ひなからうが、又そんなものから文學が生れる筈 はない 28)。 奥野が「故郷喪失」の問題に気づき、原風景というものへ思い至ったのは、東京出身者は失った場所すら既に 許されていなかったからである。地方(郷土)が均質化され郊外化されていくなかで、原風景を持たない世代が 現われてくるということを、上に挙げた小林の文章に対応して奥野は以下のように述べている。 後藤明生や黒井千次に代表される最近活躍している新進作家の作品を読むと、かつてのような郷里、在所 と言われる地方の故郷もなく、また都市にも恒常的な自己形成空間もない、従来の意味での原風景の存在 しない、いや原風景を否定した世代のあらわれて来たことを感ずるのだ。後藤明生や黒井千次たちはむし ろそれらの未来を先取りして予感的に描いているのだが、その文学の背景に従来と全く異質の自己形成空 間の中に育った原風景を持たない世代の存在を強く感じる。彼らは木賃アパートや人工的な団地やニュー ─5─.
(6) 山下 暁子. タウンや高層マンションがいかなる意味でも人間的、恒常的な自己形成空間や原風景になり得ないことを、 つまり従来の意味の小説が成立しないことを証明している 29)。 小林と奥野との共通点は「東京生まれ東京育ち」の立場への違和感と、 「故郷」の「喪失」を嘆いたわけではなく、 むしろ逆説として論じていた 30)、という事にある。一方、小林と奥野との違いは、奥野は「東京生まれ東京育ち」 の故郷喪失について嘆いてはいないものの、 人間として故郷(風景)を全く持たないわけではないのではないか、 という考えを持っている点である。奥野は、小林の論の種々の要素を引き継ぎながらも、故郷という「物語」を 再度見つけようとするのではなく、別の位相(原風景)として考えることで、新たな時代へと適用できるものを 見出そうとしたと言える。 都市としての東京は、 1950 年代から 60 年代にかけての集団就職、東京タワーの建設(1958 年)、東京オリンピッ ク(1964 年) 、新幹線の開業(1964 年)など、これらの影響により変化が急速に進んでいった。一方、故郷であ る地方も時代とともに変化していく。 「ディスカバー・ジャパン」に代表されるような、1970 年代より始まる地 方の商品化は、 「地方出身者」と「地元在住者」との故郷に対する意識やイメージの断裂を明確にした。さらに、 「ディスカバー・ジャパン」は、地方に新しい視点をもたらし、「ふるさと」や「自分探し」の旅の受け皿となっ た。また、急速な地方の開発によって地方の風景の均質化が一層進むとともに、都市(東京)対田舎(地方)と いう構図が崩れ、これらの議論は都市論と故郷論という組み合わせから、郊外論へと移り変わってゆく。そのよ うな状況の中で、 「故郷喪失者」であることさえ成り立たない者が出てくるであろうと考えた奥野は、実際の土 地を根拠とした故郷を議論の基礎とするのではなく、より個人の自己形成空間に依拠する「原風景」という故郷 のメタファーをつくり出した。. 3 原風景の要素 ——「原っぱ」と「隅っこ」 奥野は、故郷のメタファーとしての原風景について、故郷の美しさだけではなく、アンビバレンスな感情の部 分を担うものとして、 「原っぱ」と「隅っこ」という要素を提示している。 それにしろ、東京と言う世界屈指の大都会に育ちながら、記憶に残る“原風景”が、 “原っぱ”という都 市化から取残された、田舎ともいえる、負 ( マイナス ) の空間であったとは。それは前に述べたように東京 が“原風景”として記憶に残るような都市的なプラス面を、都市としてのなつかしさや深さを殆んど持っ ていなかった証拠と言えよう。ぼくたちは“原っぱ”の存在によって辛じて人間らしい幼少年期の体験と なつかしい故郷の記憶を持つことができた。31) しかし“隅っこ”とは、仲間外れの感覚、村八分的な異端者、中心や主流ではないという感覚を含んで いる言葉だ。その共同体の中の目だたない内部の場所、 (中略)と共にその共同体をもっとも濃密に眺め味 わい得る、無名の群集の中の、不特定多数の共同体の実質そのものの内密な場所、 (中略)いちばんその共 同体を体で感じ、 内側から見ることのできる場所である。つまり“隅っこ”とはそういう疎外と中核、はじっ こと内部、離脱と集中との矛盾的な二重性の場所なのだ 32)。 奥野が「原っぱ」や「隅っこ」というものを原風景の要素として挙げたのは、(失われたにせよ)故郷を持つ 者の原風景に気づいたことによって、始めから故郷というものを持つことすら許されていない故郷喪失者として の東京育ちの自身の立場では、原風景はあり得ないのだろうか、故郷(地方)の出身地を持たない者の故郷とは どこだろうか、という問いから生じたと見ることができる。「個人の幼少年期を中心とする“原風景”と、日本 民族の永い歴史の中の“原風景”の接点を、都会育ちのぼくにひきつけて考えると、 “原っぱ”という“原風景” が浮び上がってくる」33)と述べているように、具体的な故郷からの原風景に限らず、個々の自己形成とつながっ ─6─.
(7) 原風景を再考する ─故郷論の視点から─. ている場所や空間へとクローズアップし、それを日本的な自己形成の一つのあり方として共通性を見出したいと いう意識が見られる。 奥野は、 「原っぱ」や「隅っこ」を子どもの自己形成空間としての原風景の要素としてバシュラールから着想 し引用しながら述べている。ヨーロッパ的な家屋とは、 「“生誕の家”は、そのまま都市の中の安息の“片隅”で あり帰っていくべき“洞窟”であり、墓所でもある」34)のであって、 「外界からの攻撃を守る、 “すみ家”であり、 人間の形成空間、生活空間の核的存在」35)である。バシュラールが述べるようなヨーロッパの洞窟は、日本で は地理的に一般的ではなく、また、伝統的な建物の構造も石造りと木造という違いもあって、日本では「洞窟」 という象徴はあまりなじみがない。このような地理的な違いや建物構造の違いよりも、「そもそもそういう自然 や時間に対立する建造物をつくらない、つくる発想がないという、より根本的なところに原因があるように思わ れる」36)と奥野が述べるように、日本において風景は、物理的な場所として記述されるのではなく、移り変わ る時間や視点を含んでいる。そのため、 「原っぱ」も「隅っこ」も安息の場所として想定されているのだが、具 体的な場所から象徴されるものではなく、象徴的で関係的な要素として提示したのだと考えられる。 さて、原風景が人間にとって特別なものであり、特別な場所として人間形成に影響を及ぼしていると考えられ ているのはどうしてだろうか。 「原っぱ」と「隅っこ」は、特に子ども時代の遊びや子どもが過ごす空間と強く 関連する原風景の要素であるため、教育に関する分野でしばしば取り上げられている。寺本潔は子どもの遊び場 を原風景の要素から分析している 37)。寺本は子どもが描く地図を調査し、描かれた地図の要素や場所を考察し ている。寺本の論では、原風景の持つ要素である「原っぱ」や「隅っこ」というものが、子どもの遊び空間にお いて遊びや行動と共に想定されている。他に、建築の分野でも「原っぱ」を扱ったもの 38)もみられる。このよ うに、原風景というあいまいで心理的、時間的な要素を持つものを、具体的に捉える切り口の一つとして「原っ ぱ」や「隅っこ」という要素が取り上げられる。 他方、教育学者の堀内守は「原っぱ」と「隅っこ」について以下のように述べている。 もし“原っぱ”や“すみっこ”が「絶対的空間」的なものであるなら、それをかんたんな地図の形で描け るにちがいない。しかし、 “原っぱ”や“すみっこ”は、そういう見方にはなじまない。質を捨象できない からである。そのことは、 “原っぱ”や“すみっこ”がふくらんだり縮んだりする有機的なもの、行動と結 びついている記号の網であることを示唆している 39)。 つまり、 「原っぱ」や「隅っこ」を、子どもの遊び空間や生活の場の要素によってマッピングしたり分類した りすることによって把握することは不可能である。そのような手段で原風景は把握できない。子どもの遊び空間 を地理的に解析することの意味は、原風景の具体的な姿を探ることではなく、子どもの記憶の中の場所や現に意 味を持っている場所が「知覚空間のより広い構造の中における意味や意思の重要な集中点」40)であるというこ とを確認するためであり、 「世界についての生きられた地理観の基礎的な要素」41)となる基本的な空間や場所と して考えられるからである。 堀内は、「原っぱ」や「隅っこ」は、環境の名称ではなく、環境との相互作用を通して形成されてきた「シェマ」 42)に ほかならないと言う 43)。子どもの、原風景となるような空間を探る試みは、実際の子どもの記述からは正確には得 られないので、その子どもの生活そのものの観察から推測するしかない。具体的な「原っぱ」や「隅っこ」はど のような空間か、ということを探るよりも、「原っぱ」や「隅っこ」という「シェマ」が形成されるような環境 との相互作用に注目しなければならない。 現実的にどのように対処するかという実行面を考えると、いきおい、場所(=ハード)づくりの方向へと向かっ てしまう。その検証のためにまた「原っぱ」や「隅っこ」という要素が使われる。だが、堀内が言うように「行 動と結びついている記号の網」として有機的に捉えられているかどうか、という評価の面で「原っぱ」や「隅っ ─7─.
(8) 山下 暁子. こ」の要素は使われなくてはならないのである。 奥野や堀内が述べているように、原風景はマッピングや記述によって具体的な姿として把握できない。それな らば、語りによって生成するものを原風景としてすくいとろうとする方がまだ接近できる方法と言えるだろう。 けれども、語りによって立ち現れるのは〈共有される原風景〉であって、それは一種の客観的な風景として表さ れた構造的な風景であり、また、それらが「原風景」と呼ばれるのは、大人になった人々にとっての原風景、つ まり懐かしい風景という意味においてであって、原風景の形成期の姿ではない。 奥野は、個人的、集団的観点から自己形成を風景の形式の中に見た。この点から、教育学では原風景と結びつ いて、子どもにとってどのような風景や場所が必要なのか、ということの説明へ使用されるという誤解が生じや すい。そのため子どもの遊び空間や「居場所」ということが問題化されるとき、具体的な環境として「原っぱ」 や「隅っこ」という要素が扱われ、クローズアップされてしまう。 「居場所」とは、場所と個人との間にアイデンティティが関与する場合である。この点について、エドワード・ レルフは『場所の現象学』の中で以下のように述べている。 もしも場所が、世界における人間存在の基本的な側面ならば、またそれが個人や人間集団の安全性やアイ デンティティの源泉ならば、意義ある場所を経験し創造し守っていくための手段を見失わないようにする ことが重要である。さらにいえば、こうした手段がいまや失われつつあり、特徴のある多様な経験と場所 のアイデンティティの弱化、すなわち「没場所性」が優勢になっているというたくさんの兆候がある。そ のような傾向は、場所との密接な関係から「根なし草」へという、人間存在の地理的基礎における大きな 転換を表すものである 44)。 レルフのこの問題意識は、奥野が先に指摘した「原風景を持たない世代」が現れてくるのではないか、という 危惧と類似している。レルフの言う「没場所性」とは「風景の均質化」に相当する。一方でレルフは、どんな に個性的な場所であっても他の場所と共通する建築技術、社会習慣、植生の型などがあるため没場所的な要素が あり、逆に環境が大量生産され標準化されて地域から切り離されているようにみえても、なにがしかの地域特性 を必ず見つけることができるといったように、没場所性と場所性はコインの裏表のような関係である 45)と言う。 また、ある場所に対する肯定的な感覚も、他の人にとっては(そこを逃げ出す余力を持たない貧しい社会的弱者 にとっては)監獄のようにも思われ得ると述べ、没場所性はグローバルなものの見方を提供するという利点があ る 46)とも言う。 同様に、奥野は次のように述べている。 今に自然の全くない自己形成空間に生まれ育ち、それを生活空間とする世代が生れるだろう。その時、 文学、芸術は可能か、存続しているか。ぼくは存続するだろうと楽観している。人工はそれほど完璧でなく、 その割れ目にいつも新しい“原っぱ”が、そして“隅っこ”があるから。それに人間は終局的には、自然 なしには生活できないから。47) 奥野は、原風景への危惧を抱きながらも、均質化された風景の中にも自身の見出した原風景の要素「原っぱ」 と「隅っこ」を見つけて原風景を存続させていくことができると期待している。. ─8─.
(9) 原風景を再考する ─故郷論の視点から─. 4 おわりに 1970 年代に松田政男の風景論において批判の対象とされていたように、急速な国土開発によって地方の都市 化が急速に進み、日本全国、人の住むところはたいてい、既に風景は均質化されていると言ってよいだろう。高 度経済成長期には、都市部への人口流入と地方の人口流出による過疎化が問題化し、高度経済成長が終わった 1990 年代頃から郊外論が多く見られるようになり、郊外や地方が問題化されるようになった。その視点は、松 田の言うような荒廃した風景による疎外を感じ取ることによって国家権力を批判するといったものではなく、主 に経済行動と人々の生活の均質化にある。現在では“ご当地キャラ”や“ご当地グルメ”など、地方や地域の特 色を強調する動きが見られる。これらは、町おこし村おこしなどの一環として、経済活動を主眼として盛んに行 われている。これらの現象は、むしろ疎外を共有するのみであり、松田が風景論として述べた問題から方向転換 できておらず、戦前より続く問題の文脈の中にある。 また他方で、テレビ、ゲーム、携帯電話、インターネットなど、個々の生活環境は、その土地や地域特有の状 況とは別の側面を持つようになった。これらメディアの持つ社会的な側面は、コミュニケーションやコミュニ ティ、個人の居場所観についての変化をもたらしていると考えられる。教育における問題として「居場所」とい うことが言われるようになったのは、1980 年代の不登校などが取り上げられるようになった頃からである。故 郷喪失論と同様に、現実的・物理的な準拠集団の希薄化と、人間的・精神的拠りどころとしての「原点」の問題 である。 先に挙げた堀内守が原風景について言及したのは、 「自己形成空間や生活空間及び地域共同体の変化や崩壊」 という奥野の原風景論が持つ問題意識への着目からである。堀内は、人間と空間、人間と環境との生きた関係は、 “原っぱ”と“すみっこ”を対象との距離が伸縮自在な関係と 人間の実存に根ざす重要なものである 48)と述べ、 して捉え、ハイデガーの「呪術的」な見方と「道具的」な見方と対比する。堀内は、生きられた多様な空間と時 間を放棄し、「代わって直列的な時間イメージ」を「道具的」に導入し「呪術的」にからめとられてしまったた め、子どもが大人に「なる」ということが段階的に理解されるようになってしまったと言う 49)。人間の成長や、 大人に「なる」ということは、 「本来多様性を獲得すること」、「たがいに矛盾するものがあとからあとからと累 積され、新たに統合されていくこと」50)であるとし、 “原っぱ”と“すみっこ”はそのような多様な空間を私た ちに教えてくれるものであると堀内は述べる 51)。 奥野は最後に、原風景の出発点である「故郷喪失」ではなく、「風景の喪失」についての危惧を述べる。 ぼくはむしろ風景の喪失に危惧を抱く。テレビの送り出す、親切な擬似風景が、いかにも自然らしい、 伝統風景らしい美しい風景が、もし子供たちの“原風景”になったなら、生きた“原風景”そして芸術、 文学は死んでしまう。それに反しなまの現実はいかに人工的であろうとも、醜悪であろうとも、必ず血縁、 地縁の人間関係を含み、その割れ目から、自然そして民族的深層に達する“原風景”を、それにより形成 される、芸術、文学を、産み出し続けるであろう。どんな時代、どんな環境――人工の極の中にも、漂え る自己形成空間の中にも子供たちは新しい“原っぱ”をつくり、それをなつかしい“原風景”として、そ こから文学、芸術をつくり出すに違いない。 レルフが「人間的であるということは、自らの場所を持ち、また知るということである」 52)(傍点原文) 、「知覚による空間 0. 0. 0. 0. 0. や場所は個人的なものであるにもかかわらず、それらは個人の内に完全に独立したものではない」 53)と述べるように、大 人子どもに関わらず経験した空間は、私たちの行動を通して意味の連関の枠組みを構築するとともに、相互主観 的な世界をも作りだす。 「居場所」は、具体的、物理的な身体を置く空間としての場所のみならず、上記に述べ られているように、場所とその人間との感情の結びつきやアイデンティティの基礎を支える働きに注目して考え られる場所もある。そのような場所は、現実に無い場所や、過去の記憶でもかまわない。 ─9─.
(10) 山下 暁子. 以上のことについて、現代に至る問題状況を深く読み込んでいた奥野の原風景の視点を取り入れることによっ て、実際の人々の心理的な活性化をはかることができると筆者は考えている。たとえば、教育の具体的な側面で は〈共有される原風景〉を扱うことで新たな共同体の在り方を探ることが考えられる。また、「居場所」という 側面を考える際には、原風景の個々の要素( 「原っぱ」や「隅っこ」)、及び〈個人的な原風景〉について考慮し ていくことが求められる。 これら原風景の視点を取り入れることについて教育が行うことのできる具体的側面とは、子どもに対して何か を働きかける(教育する)行為ではない。教育に携わる大人が、現在の子どもが将来原風景を持てる余地——つ まり、 「人工の極の中にも、漂える自己形成空間の中にも子供たちは新しい“原っぱ”をつくり」出すことがで きる可能性——を日々の生活や空間の中に残しておく配慮をするために考えなくてはならないことなのである。. 注 1) 奥野健男『文学における原風景』集英社,1972 年。 2) 修景:元来は造園上の用語で庭園美化などを意味するが、近年は建築物や公共施設の形態・意匠・色彩を 周囲の町並みに調和させることやストリート・ファニチャーの配置など、都市計画的な景観整備一般を指 すことが多い。 (環境省 環境影響評価情報支援ネットワーク 環境アセスメント用語集,http://www.env.go.jp/ policy/assess/6term/s.html#2,2013 / 09 / 19 閲覧) 3) 勝原文夫『農の美学 日本風景論序説』論創社,1979 年。 4) 岩田慶治『日本人の原風景 自分だけがもっている一枚の風景画』淡交社,1992 年。 5) 関根康正「原風景試論 原風景と生活空間に関する一考察」 『季刊人類学』13 巻 1 号,京都大学人類学研究 会,1982 年,pp.164-191. 6) 星野命・長谷川浩一「幼少期の原風景としての風土 序」 『人類科学』九学会連合,34 号,1981 年,pp.4575. , 「幼少期の原風景としての風土 2」 『人類科学』九学会連合,35 号,1982 年,pp.105-134. ,「幼少期 の原風景としての風土 3」 『人類科学』九学会連合,36 号,1983 年,pp.149-166. 7) 井上佳朗「原風景の心理学的研究」 『人文学科論集』41 号,鹿児島大学法文学部,1995 年,pp.27-68. 8) 呉宣児『語りから見る原風景』萌文社,2001 年。 9) 拙著「原風景の位相と教育についての試論」 『学校教育学研究論集』東京学芸大学大学院連合学校教育学研 究科,第 26 号 , pp.51-63. 参照。原風景の含む意味を〈個人的な原風景〉(個人の深層にあり記述し得ないも の、「他者の眼で眺めることも描写することも出来ない、もっと内部に向って屈折したもの」 )と〈共有さ れる風景〉 (他者と共有できる、 語りあうことで生起する、記述やイメージによって共有できるレベルにある) の大きく二つ挙げた。その二つの意味の間につながるグラデーションの中で、人々はそれぞれの原風景を 捉えている。 10) 『美育文化』特集 図工・美術と子どもの原風景,2012 年 9 月号,美育文化協会,2012 年。 11) 故郷について論じるものは様々あるが、ほとんどの場合、故郷とは「失われたもの」とする立場から論じ られていると言ってよい。故郷とは、その存在が希薄になってから社会的に要請され、故郷喪失という文 脈から創造されたという見方ができる。故郷を社会的・時代的コンテクストの中で論じるものであっても、. ─ 10 ─.
(11) 原風景を再考する ─故郷論の視点から─. その核は論じる各自の故郷の体験となっている。そのことが「所与としての故郷」と「創造(建設)する 故郷」という故郷を生みだす二局面となっている。 (千田智子「転勤族の妻たちの『故郷』観」 『お茶の水 地理』第 36 号,お茶の水地理学会,1995 年,pp.66−72.第1章参照。) 12) 松田政男「密室・風景・権力」 『薔薇と無名者』芳賀書店 , 1970 年 , p.123. 13) 松田政男「風景の死滅」 『美術手帖』美術出版社,1971 年,p.77. 14) 同上。 15) 同上。 16) 同上。松田は、気候学者の関口武の『東京新聞』1971 年 5 月 8 日夕刊の記事を参照し述べている。 17) 同上,p.78. 18) 近現代日本史を研究する成田龍一は、 「都市空間は一方で均一性をつくり出すとともに、他方で(均一性の コントロールのもとで) 、多層・重層的な関係=結合をうみ出す」と述べている。都市に集まった不特定多 数の民衆は、都市空間の中での対人関係のルールや都市的な生活のスタイルやリズム、行動様式を形成し ていく。これらは空間の規範として現れる。成田は、 「都市空間がつくり出す規範は、均一の価値にもとづき、 均質的な空間が形成される」と言う。人と人との結びつき(都市的「きずな」 )も、様々なレヴェルでの社 会的結合をつくり出すという点で都市空間の多様性・重層性を現すが、この多層性・重層性によって都市 1998 年(2002 年) の均一性が創出される。 (成田龍一『 「故郷」という物語 都市空間の歴史学』吉川弘文館, pp.26-27. 参照。 ). このような働きが地方へも進展してきたのが地方の都会化であり、その影響の原因と結果として風景の 均質化があったと言える。. 19) 成田前掲書,Ⅰ − 2都市空間と「故郷」pp.18−29. 参照。成田は「故郷」がさかんに語られた時期はすなわ ち国民国家の節目でもあると述べ、1880 年代(国民国家の成立期) 、1930 年代前半(国民国家の転換期)、 1960 年代後半から 70 年代前半(国民国家の変容期)を挙げている。 20) 見田宗介『近代日本の心情の歴史』1978 年、 『伝統と現代』総特集=現代ふるさと考,1978 年 11 月号,伝 統と現代社。 21) 神島二郎『近代日本の精神構造』岩波書店,1961 年(1985 年) ,pp.28−36,46−55. 22) 松田前掲(1971 年) ,p.83. 23) 奥野前掲書,pp.53-54. 24) 小林秀雄「故郷を失つた文学」 『新訂 小林秀雄全集第三巻 私小説論』新潮社,1978 年(2002 年),pp.2937. 25) 同上,p.31. 26) 同上,pp.31-32. 27) 神島前掲書,第一部参照。 〈第二のムラ〉とは、自然村の秩序原理が拡大再生産される「経済的基盤から遊 離した秩序感覚とたえざる不安とにもとづき一種のロマンチシズムのもとに統合された団結」(pp.60-61.)。 28) 小林前掲,p.33. 29) 奥野健男「文学における原風景」 『すばる』第 2 号,1970 年,p.149. 30) 伊藤義器「坂の町の “ 未成年 ”― 小林秀雄と『故郷』―」小田切進編『昭和文学論考 ― マチとムラと ―』 八木書店,1990 年,p.161. 31) 同上,pp.76-77. 32) 同上,pp.109–110 33) 奥野前掲書,p.66. 34) 同上,p.110. ─ 11 ─.
(12) 山下 暁子. 35) 同上。 36) 同上,p.64. 37) 寺本潔『子ども世界の原風景 : こわい空間・楽しい空間・わくわくする空間』黎明書房,1990 年。 38) 青木淳『原っぱと遊園地』王国社,2004 年。 39) 堀内守『原っぱとすみっこ ―― 人間形成空間の構想』黎明書房,1980 年,p.8. 40) エドワード・レルフ『場所の現象学 没場所性を越えて』高野岳彦・阿部隆・石山美也子訳,筑摩書房, 1991 年(原著 1976 年) ,p.20. 41) 同上。 42) 認識の枠組み。ピアジェの理論では「既存のシェマにより情報を取り入れる同化の過程と、シェマ自体を 1999 年(2008 変更する調節の過程の二つが適応や発達にとって重要であるとされた」 (『心理学辞典』有斐閣, 年),p.307. 参照。 )堀内は、ここではピアジェの「シェマ」(ある状況に対応したある典型的な反応。個人 と環境の相互作用を通して行われる精神的発達と並行して形成され、そのなかで人間の行為の数々が、群 化して緊密な統一体となっていく)として説明している。 43) レルフ前掲書,p.10. 44) 同上,p.11. 45) 同上,日本語版への序文 p. ⅱ . 46) 同上。 47) 奥野前掲書,p.222. 48) 堀内前掲書,p. 8. 49) 同上,p.14. 50) 同上。 51) 同上。 52) レルフ前掲書,p.2. 53) 同上,p.20.. ─ 12 ─.
(13)
関連したドキュメント
このように、このWの姿を捉えることを通して、「子どもが生き、自ら願いを形成し実現しよう
ヒュームがこのような表現をとるのは当然の ことながら、「人間は理性によって感情を支配
( 同様に、行為者には、一つの生命侵害の認識しか認められないため、一つの故意犯しか認められないことになると思われる。
ら。 自信がついたのと、新しい発見があった 空欄 あんまり… 近いから。
○金本圭一朗氏
基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として決定するも
一︑意見の自由は︑公務員に保障される︒ ントを受けたことまたはそれを拒絶したこと
いてもらう権利﹂に関するものである︒また︑多数意見は本件の争点を歪曲した︒というのは︑第一に︑多数意見は