熊本学園大学 機関リポジトリ
『平家物語』初期生成と藤原定家(下)編纂の視点か
ら (林日出男教授 柴公也教授 吉田良夫教授 退職
記念号)
著者
尾崎 勇
雑誌名
熊本学園大学文学・言語学論集
巻
27
号
1
ページ
176-224
発行年
2020-06-30
URL
http://id.nii.ac.jp/1113/00003356/
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日)
﹃平家物語﹄初期生成と藤原定家
︵下︶
︱︱編纂の視点から︱︱
尾
崎
勇
︵七︶ ﹃言泉集﹄ ・﹃熊野道之愚記﹄ ・﹃建礼門院右京大夫集﹄ ︵承前︶ 物語には、前章︵五︶でふれたように山門の衆徒が神輿を放置、帰山したので、神輿は園社に入れたと描か れていた。そこに﹁彼社ノ別当権大僧都澄憲ニ仰テ、秉燭ニ及テ奉レ入レル﹂ ︵屋代本・巻一﹁日吉神與入洛事 付頼政振 舞 事 ﹂ ︶ と あ り、 澄 憲 の 名 が み え る。 こ の 白 山 事 件 で、 天 台 座 主 の 明 雲 が 配 流 さ れ る 場 面 が、 覚 一 本 で は﹁ 澄 憲 法 印︵ 中 略 ︶ 僧 正 心 ざ し の 切 な る 事 を 感 じ て、 年 來 孤 心 中 に 秘 せ ら れ た り し、 一 心 三 観 の 血 脈 相 承 を 授 け ら る。 ﹂ ︵ 巻 二﹁ 座 主 流 ﹂ ︶ と あ る の に 対 し て、 屋 代 本 は﹁ 一 心 三 巻 ノ 法 門 并 ニ 血 脈 相 承 ノ 譜 4 ヲ 授 ラ ル ﹂ ︵ 巻 二﹁ 先 座 主 明 雲 罪 科 儀 定 事 同配流事﹂ ︶ と相違する。 ﹁血脈相承﹂とは﹁法統を師から弟子に伝えること﹂であ る ] 53 [註 。とすれば、 ﹁血脈相承﹂は不 当であっ た ] 54 [註 。﹁大納言大夫藤井松枝﹂と俗名を付けられた明雲が、 あわただしい別離の情況のもとで、 厳粛な﹃摩 訶史観﹄の観法の﹁血脈相承﹂は修せないからである。屋代本にあるように﹁譜﹂すなわち﹁各宗列祖伝来の奥 旨 を 伝 授 す る 証 と し て、 列 伝 相 承 の 名 を 記 し た 文 書 ﹂ の み を 授 け と し た 方 が 実 情 に か な っ て い る。 ﹃ 玉 葉 ﹄ 寿 永 元年 ︵一一八二︶ 十一月二十八日条に、 酉の刻導師参上す︵澄憲僧都︶ 。即ち事始む。説法優美、衆人涙を拭ふ。 と記載されており、 信西の七男の澄憲 ︵一一二六∼一二〇六︶ は平治の乱で父の奇禍に連座して、 下野に配流された後、 (224) ― 224 ―熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 京の一条の里坊安居院を拠点に唱導を行う。しかも二条天皇崩御の時に歌も詠んでいるのは、定家との関連から 興味深い。父の俊成の﹁編纂﹂した﹃千載集﹄ ︵哀傷・五八九︶ にみえ、屋代本と同系統の百二十句本にも、 少納言入道の子息澄憲、御葬送を見たてまつり給ひて、泣く泣くかうぞ申されける。 つねに見し君がみゆきをけふとへばかへらぬたびと聞くぞかなしき ︵巻一・第四句﹁額打論﹂ ︶ と載っている。澄憲の説法の文案を ﹃言泉集﹄ として ﹁編纂﹂ したのが澄憲の子の聖覚 ︵一一六七∼一二三五︶ であった。 清水宥聖は﹁安居院流の唱導書が﹃平家物語﹄の作者の机上にあったことは容易に想像される。 ﹂と論じてい る ] 55 [註 。 澄憲は頼朝の母の四十九日法要に出向き、聖覚も政子の追善の導師として鎌倉に下っており、父子は幕府へ影響 を 与 え て い っ た の で あ る。 ま た 本 物 語 の 創 出 に 聖 覚 は 直 接 に 関 与 し て い く ] 56 [註 。︵ 九 ︶ 章 で 後 述 す る よ う に 幕 府 御 家 人 の 宇 都 宮 頼 綱 ︵ 入 道 蓮 生 ︶ の 女 と 定 家 の 嫡 男 為 家 と の 間 に 生 ま れ た 為 氏、 そ の 為 氏 の 子 で あ る 為 世 に 師 事 し た 頓 阿は ﹃井蛙抄﹄ ︵巻五︶ で ﹁澄憲と聖覚とは風情ははなはだかはりたれども、 ともに能説の名誉あり﹂ と讃えており、 安 居 院 流 と し て 繁 盛 し て い く。 ﹃ 明 月 記 ﹄ 建 保 元 年 ︵ 一 二 一 三 ︶ 一 月 二 十 六 日 条 に﹁ 聖 覚 僧 都 の 弁 舌、 聞 く 者 涙 を 拭 ふ。 ﹂とし、死病の床に伏した聖覚の許に赴いた定家は、 ﹃明月記﹄文暦元年 ︵一二三四︶ 二月二十一日条でも、 廿一日。巳の時許りに聖覚法印安居院房に向ひ、其の病を訪ふ。濁世の富楼那遂に遷化をなすの期か。実 に是れ道の滅亡するか。悲しみて余り有り としており、釈迦の十大弟子のうちで説法に最も優れていたと伝えられてきている富楼那にあたると痛嘆し、嘉 禎元年 ︵一二三五︶ 三月五日に聖覚は寂した当日の条には ﹁⋮⋮事切れ給ふと云々。日来聞くと雖も、 臨むに由無し。 悲しみて余り有り。 ﹂と慟哭し、翌月の四月二十二日条では、 聖 ( 聖 覚 ) 法 印法事 ︵中陰の間、顕宗を請はず。只、 慈賢 曼荼羅供、遺言する所なり︶ 。 施 線 に あ る よ う に 慈 円 に 師 事 し、 寛 喜 二 年 ︵ 一 二 三 〇 ︶ 九 月 よ り 法 性 寺 座 主 に な っ て い る 慈 憲 が 追 善 供 養 を し た。 慈円周辺圏が法性寺であったので看過できない。そのうえ、 ﹃明月記﹄建久三年 ︵一一九二︶ 三月十六日条から嘉禎 (223)― 223 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 元年 ︵一二三五︶ 四月二十二日条までには、 ﹁聖覚﹂の名が八十回も記載されてい る ] 57 [註 。定家は三十一歳から寂する六 年前の七十四歳までにあたるので、頼朝入洛の年の二十九歳で従四位下に叙せられた二年後から、ほぼ終生聖覚 とは親密に交わり続けていく。 聖覚を、 まず本物語が創出した慈円圏の西山の空間からみていこう。 ﹃愚管抄﹄ に、 平治の乱の勅発をめぐって、 大 方 信 西 ガ 子 ド モ ハ 、 法 師 ド モ ヽ 、 数 シ ラ ズ オ ホ カ ル ニ モ 、 ミ ナ ホ ド 〳 〵 ニ ヨ キ 者 ニ テ 有 ケ ル 程 ニ 、 コ ノ 信 西 ヲ 信 頼 ソ ネ ム 心 イ デ キ テ 、 ︵ 中 略 ︶ 義 朝 ・ 清 盛 ト テ ナ ラ ビ タ ル ニ 、 ︵ 中 略 ︶ 信 西 ガ 子 ニ 是 憲 ト テ 信 乃 入 道 ト テ 、 西山吉峰ノ往生院ニテ最後十念成就シテ決定往生シタリト世ニ云聖ノアリシガ 、男ニテサカリノ折フシニ シ ア リ シ ヲ サ ヽ ヘ テ 、﹁ ム ( 婿 ) コ ニ ト ラ ン ﹂ ト 義 朝 ガ 云 ケ ル ヲ 、﹁ 我 子 ハ 学 生 ナ リ 。 汝 ガ ム ( 婿 ) コ ニ ア タ ハ ズ ﹂ ト 云 ラ キヤウナル返事ヲシテキカザリケル程ニ 、ヤガテ程ナク當時ノ妻ノキノ二位ガ腹ナル シ ( 成 憲 ) ゲ ノリヲ清盛ガム コ ニ ナ シ テ ケ ル ナ リ 。 コ ヽ ニ ハ イ カ デ カ ソ ノ 意 趣 コ モ ラ ザ ラ ン 。 ︵ 巻 五 ︱ ︱ 二 二 六 ∼ 二 七 ペ ー ジ ︶ 二 重 施 線 で 優 秀 な 多 く の 子 息 に 恵 ま れ て い た と 信 西 を 捉 え て、 施 線 で そ の 子 息 の 一 人 が 出 家 し て﹁ 信 乃 入 道 ﹂ と 称 し た 是 憲 ︵ 一 一 三 七 ∼ 七 七 ︶ を 義 朝 が 婿 に 望 む が、 そ の こ と を 信 西 は こ と わ っ た と ま ず 叙 述 し た。 と こ ろ が、 今 一 人の子息の成憲 ︵成範︶ を清盛の女婿に信西はしたので、 義朝から信西は恨まれ、 信西一族は不運に見舞われて ﹁子 ド モ 数 ヲ ツ ク シ テ 諸 國 ヘ ナ ガ シ テ ケ リ 。﹂ ︵ 巻 五 ︱ ︱ 二 二 九 ペ ー ジ ︶ と叙述している。 ﹃法然上人伝﹄ ︵四十八巻本︶ に、 聖 覚 法 印 申 さ れ け る 事 思 合 ら れ 侍 り、 西 山 の 善 峰 に し て を は り を と る 。 名 号 を と な ふ る こ と 九 遍、 上 人 すゝめて、 ﹁いま一遍﹂とおほせられければ、 高声念仏一遍して、 やがいきたえにけり。上人つねには、 ﹁ 浄 土の法門と遊蓮房とにあへるこそ、人界の生をうけたる思出にては侍れ ﹂とそおほせられける。厭離穢土 の心もふかく、欣求浄土の行も、まことありける故にやと、ありがたくたうとくぞおぼえ侍る ︵巻四四︶ 信 西 の 第 十 一 子 の 是 憲 は 平 治 元 年 ︵ 一 一 五 九 ︶ 佐 渡 国 へ 配 流 さ れ て、 出 家 し た。 出 家 名 は 遊 蓮 房 円 照 で あ っ た わ け だが、実線を施した個所で源空が﹁常日頃、往生浄土の教えと遊蓮房円照と現世で出会えたのは、人としてこの 世 に 生 ま れ た 幸 せ で あ っ た ﹂ と 述 懐 し た と み え る か ら に は、 是 憲 は 浄 土 宗 の 教 義 の 枢 要 に 据 ら れ て い る。 ﹃ 法 然 (222) ― 222 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 上 人 伝 ﹄ の 波 線 の﹁ 西 山 の 善 峰 ﹂ で 是 憲 が 往 生 し た と 摘 記 し た の と、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ の 施 線 の﹁ 西 山 吉 峰 ノ ⋮⋮ 決 定 往生﹂とが全く一致している。さらに﹃伝﹄には、 最 後 の 所 労 の 時、 安 居 院 の 聖 覚 法 印 の も と へ 消 息 を つ か は し け り。 其 状 云、 ﹁ 後 世 の つ と め に は、 な に 事 をかせむずるとひと申候はゞ、一向に念仏申せと御勧進あるべく候。智者にておはしませば、世間の人さ だめてたづね申候はむずらんとて申候也﹂云々。 ︵巻四四︶ とあって、最期が近づいた是憲は、施線にあるように聖覚に対して書状を送付したのは括目に値する。 聖覚の﹁編纂﹂した﹃言泉集﹄と慈円圏で創出した﹃治承物語﹄を遺存させている屋代本を対比してみよう。 本物語には、平家一門から離れて高野山にいる滝口入道のところで出家した維盛が熊野参詣後、勝浦の浜の宮 から那智の沖へ舟を漕ぎだして、今わの際にもなお妻子への愛執が断ち切れないと思いを訴えるので、維盛に滝 口入道が教えを説く。その維盛が念仏を称えながら入水して往生を遂げる直前の場面は、 サ レ ト モ 出 家 ノ 功 徳 ハ 莫 大 ナ レ ハ、 先 世 罪 業 皆 滅 シ 給 ヌ ラ ン。 百 千 歳 百 羅 漢 ヲ 雖 二 供 養 ス ト 一 、 不 及 二 出 家 ノ 功 徳 ニ ハ 一 ト コ ソ 申 候 ヘ。 縦 人 有 テ 建 二 七 宝 塔 婆 ヲ 一 事、 高 サ 雖 至 二 三 十 三 尺 ニ 一 、一 日 ノ 出 家 ノ 功 徳 ニハ不 可 及。一子ノ出家スレハ、七世ノ父母皆成仏トコソ申候ヘ。 ︵屋代本・巻一〇﹁惟盛高野登山并熊野参詣同入水事﹂ ︶ となっている。この説法そのものの言辞は、 ﹃言泉集﹄ ︵遁世・三帖之三畢︶ の﹁出家釋﹂のなかに、 又 云 若 放 二 奴 婢 一 人 一 令 出 家 一 功 徳 猶 無 量 如 四 天 下 中 満 二 阿 羅 漢 一 百 歳 供 養 上 起 七 寶 塔 一 高 至 三 十 三 天 一 不 加 一 日 出 家 功 徳 又 云 以 一 日 一 夜 出 家 功 徳 一 二 十 劫 不 堕 三 悪 道 一 又 云 離 六 千 六 百 六 十 歳 三 途 苦 一 又 云 一 子 出 家 七 世父母皆得脱 云々 ﹄ ︵中略︶ 書本云 承元四年四月卅日 於 飲 (飯) 室谷菴室以圓詮房本書冩了 聖覚 三 (四) 十四歳 (221)― 221 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 一交了﹄ とあり、照応している。しかも施線の年月日は、西山に慈円圏が組織されはじめる時と全く一致している。この ﹁承元四年四月卅日﹂の年月日は本物語が創出時期と重なるのも看過できない事実なのである。 維盛が入水往生するまでを、やはり﹃治承物語﹄を遺存させている屋代本で窺っていこう。まず、 サ ル 程 ニ 岩 田 河 ヲ モ 渡 給。 此 川 ヲ 一 度 モ 渡 ル 者 ハ、 悪 業 煩 悩、 無 始 罪 障 ノ 消 滅 ス ル 成 物 ヲ ト、 憑 敷 ソ 被 思 ケ ル。 漸 ツ ヽ サ シ 給 ヘ 共、 日 数 経 レ ハ 本 宮 ニ カ ヽ グ リ 着 テ、 先 証 誠 殿 ノ 御 前 ニ 参 リ、 法 施 進 セ テ、 御 山 ノ 様 ヲ 拝 給 ニ、 心 詞 モ 不 被 及。 ︵ 中 略 ︶ 中 ニ モ、 古 郷 ニ 留 置 シ 妻 子 安 穏 ニ ト、 被 祈 ケ ル コ ソ、 厭 二 浮 世 ヲ 一 入 二 実道ニ 一 給ヘ共、猶妄執不 尽ト覚テ悲ケレ。 と あ っ て、 維 盛 が 妻 子 安 穏 を 祈 っ た。 物 語 の 熊 野 三 山 ︵ 本 宮 大 社 の 証 誠 殿・ 速 玉 大 社・ 那 智 大 社 ︶ 参 詣 を め ぐ る 展 開 そ の も の は、 定 家 が 建 仁 元 年 ︵ 一 二 〇 一 ︶ 十 月 五 日 か ら 二 十 七 日 に 亘 っ た 後 鳥 羽 院 の 熊 野 御 幸 に 随 行 し た 時 の 日 記 の か たちをとっている﹃後鳥羽院御幸記﹄と通称されている﹃熊野道之愚記﹄ ︵以下、 ﹃愚記﹄と略称。 ︶ にある。 物語と﹃愚記﹄ 十六日条に、熊野三山の中心である本宮すなわち﹁証誠殿﹂に参拝し、 御前に参る。山川千里を過ぎ、遂に宝前を拝し奉る。感涙禁じがたし。 と定家は感涙にむせぶ。熊野権現の本地の阿弥陀仏であり、浄土へ導く冥衆であったことによる。翌日の十七日 条でも、 御前に参り、心閑かに礼し奉る。祈るところは、ただ出離生死、臨終正念なり。 と念じた。真摯な定家の浄土信仰心が看取されよう。一方、維盛が入水していく物語の一節にも、 弥 陀 如 来 ハ、 一 念 十 念 ヲ モ 不 択、 十 悪 五 逆 ヲ モ 導 ト 云 悲 願 坐 ス マ ス 也。 ︵ 中 略 ︶ 三 位 中 将 忽 翻 二 妄 念 ヲ 一 、 念仏数百返唱ツヽ、遂ニ海ヘソ入給フ。 と象られている。さらに ﹃愚記﹄ には ﹁また遼海を眺望す。興なきにあらず。 ﹂ ︵九日︶ ・﹁眺望はなはだ幽なり。 ﹂ ︵十 日 ︶ ・﹁ 海 を 眺 望 す。 ﹂ ︵ 十 一 日 ︶ ・﹁ 山 海 の 眺 望、 興 無 き に あ ら ず。 ﹂ ︵ 十 九 日 ︶ と あ っ て、 山 の 高 台 か ら 眺 め る 光 景 を 讃 (220) ― 220 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 歎 し て い る。 物 語 の﹁ 自 其 船 ニ 乗 テ、 新 宮 ヘ ソ 参 給 フ。 拝 二 神 蔵 ヲ 一 給 ニ、 岸 松 高 聳 テ、 嵐 破 二 妄 想 ノ 夢 一 、 滝 水清ク流テ、浪灌 二 煩悩垢ヲ 一 覧ト覚タリ。 ﹂とか、 比ハ三月廿八日ノ事也ナレハ、 春已ニ暮ナントス。海路遥ニ霞渡テ、 哀ヲ催ス類也。奥ノ釣船ノ浮ヌ沈ヌ、 波ノ底入様ニ見ルモ、我身ノ上トヤ被 レ 思ケン。 として、沖合の船を鳥瞰しながら、入水往生していく維盛の形象とやはり近接する。五体王子の一つとされる重 要な王子である発心門王子に定家は参詣した。 ﹃愚記﹄の十五日条に、 十五日 天晴 天明の後、 ︵中略︶ この門柱に始めて一首を書き付く。門の巽の角柱なり︿閑所なり﹀ 。 恵日の光前に善根を 懺 く ゆ 大悲の道上の発心門 南山の月下の結縁力 西 さい せ つ 刹 の雲中に旅魂を弔ふ いりがたきみのりのかどはけふすぎぬいまよりむつの道にかえすな こ の 王 子 の 宝 前 に、 殊 に 信 心 を 発 す。 紅 葉 風 に 翻 る。 宝 前 の 上 に、 四、 五 尺、 木 隙 無 く 生 ひ、 多 く は こ れ 紅葉なり。 とあるように、漢詩で、仏の知恵の前で自己の罪業を覚えるが、それは改心することだ、熊野本宮の途上にある 発心門の月の光のもとで、仏と縁をむすび、往生できるようにと西方浄土にかかる雲を見て、旅にある私の心を 慰める、と念じた。さらに﹁いりがたきみのりのかどは⋮⋮﹂の歌では六道輪廻させないようにとしてください と懇願もした。このように発心門王子で詩を作ったり、歌を詠じたりした定家の文事は、物語にも、 大悲擁護ノ霞ハ、聳 二 熊野山 一 、 ︵中略︶ 感応ノ月無 曲、六根懺悔ノ庭ニハ、妄想ノ露モ不 結。 ︵中略︶ ﹁本地 阿弥陀如来ニテ坐マスナレハ、摂取不捨之本願不 誤、必西方浄土ヘ迎給ヘ﹂トカキクトキ申給。 (219)― 219 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 漢詩のような語句が配されるとともに経文そのものを維盛が唱えたと描かれているのと、確かに﹃愚記﹄とは類 同していよう。 物 語 で は 那 智 籠 り の 僧 が 通 り か か り、 後 白 河 院 五 十 の 賀 で 青 海 波 を 舞 っ て い た 維 盛 の 華 や か な 往 時 を 思 い 出 し、 ﹁ 糸 惜 ヤ。 コ ヽ 也 ツ ル 修 行 者 ヲ、 何 ナ ル 人 ヤ 覧 ト 思 タ レ ハ、 小 松 三 位 中 将 殿 ニ テ 御 坐 ケ ル ソ ヤ。 ︵ 中 略 ︶ 嵐 ニ 匂 フ 花 ノ タ ク ヒ ニ、 風 ニ 翻 ル 舞 ノ 袖、 照 二 一 天 ヲ 一 耀 地 程 ナ リ。 ︵ 中 略 ︶ 我 モ 人 モ 申 シ ニ、 移 レ ハ 替 ル 世 ノ 習コソ悲ケレ﹂トテ、涙ニ咽ケレハ、諸ノ僧共モ皆、打衣ノ袖ヲソ 洨 リケル。 とあって、今の惨めな維盛を見て悲嘆したと描かれている。そのこともあって、維盛の形象を﹁いわば憔悴の美 学に作者その人が陶酔している。 ﹂と武久堅は評し た ] 58 [註 。この武久の言説から想起されてくるのは、谷山茂の、 ﹃ 平 家 物 語 ﹄ は も は や か の﹃ 栄 華 物 語 ﹄ で は な い。 そ れ は す で に 仏 教 的 道 義 的 因 果 律 の 原 理 で し ば ら れ て い る。 ︵ 中 略 ︶ 余 情 妖 艶 美 の 世 界 に ま で 分 け 入 っ た 新 古 今 歌 人 は、 平 家 の 滅 亡 期 の あ わ れ さ の 現 実 に 対 し て は、 どのように対応したのであろうか 、 またそれをどのようにふまえて新古今的主体の確立に役立てたか。 ︵ 中 略 ︶ 要 す る に、 新 古 今 集 と﹃ 平 家 物 語 ﹄ は、 果 た し て 互 い に 隔 絶 し た 二 つ の 世 界 の も の と 言 い 放 っ た だ けでよいかどうかの反省に出発して、むしろ広く中世文学の時代性から、 意志の文学 というところに両者 の接点を求め⋮⋮ ︵中略︶ 中世という時代の美意識をさぐるための一の方法ではあるまい か ] 59 [註 。 との鋭い分析であって、施線の﹁仏教的道義的因果律﹂は、 ﹃愚管抄﹄にある、 内 外 典 ニ 滅 罪 生 善 ト イ フ 道 理、 遮 悪 持 善 ト イ フ 道 理、 諸 悪 莫 作、 諸 善 奉 行 ト イ フ 佛 説 ノ キ ラ 〳〵 ト シ テ、 諸佛菩薩ノ利生方便トイフモノヽ一定マタアルナリ。 ︵巻七︱︱三二七ページ︶ との言辞とも相似するし、慈円が創出させた本物語では、華やかさも横させる﹁世継物語﹂の始発の﹃栄花物 語 ﹄ の 系 譜 に あ る 同 時 代 史 を 対 象 に し た﹃ 今 鏡 ﹄ を 承 け つ つ、 そ れ を 切 り 返 し な が ら、 ﹁ 武 ﹂ で 縁 取 る と こ ろ に 特色があるのとも結合してこよう。波線の﹁意志の文学﹂との指摘を重視したい。 ﹃愚記﹄の七日条では、 (218) ― 218 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 厩 戸 王 子 に 参 る。 即 ち 宿 所 に 馳 せ 入 る。 ︵ 中 略 ︶ 戌 の 時 ば か り、 召 し あ り て 参 上 す。 御 前 に 召 し 入 れ ら る。 二首を講ぜらる。たちまち定めありて書き直され、題の次第、雪を先となす。例のごとく読み上げをはん ぬ。御製またもつて殊勝なり。 愚歌、 暁初雪 いろ〳〵のこのはのうへにちりそめてゆきはうづまずしのヽめのみち 山路月 そでのしものかげはうちはらふ山ぢもまだすゑとほきゆふづく夜かな 希有々々 読み上げをはりて、人々詠吟す。即ち退出す。 宿所の戸王子で歌会が開かれる。その模様を考察した吉野朋美は﹁当座歌会以前に、定家はまず後鳥羽院の前 で自詠二首を被講し、 すぐにそれに対する論評と判定がおそらく後鳥羽院からあり、 題︵の順番︶を直された後、 い つ も の よ う に 読 み 上 げ た、 と い う こ と に な ろ う か。 ︵ 中 略 ︶ 設 題 に 定 家 が か か わ っ て い た こ と も 読 み と れ る の で は な い だ ろ う か。 ﹂ と し て 定 家 が 侍 し た 熊 野 御 幸 は﹁ 院 の、 和 歌 繁 栄 を も た ら す 我 が 治 世 の 安 泰、 撰 集 成 功 へ の 祈念である。それを承けた定家が、途次の当座歌会で、折にふれて祝言を詠み、この御幸での院の志向を具体化 して呈示してゆく。 ﹂との見解を呈示してい る ] 60 [註 。この言説は、廟堂での今後の政治行動の先駆けを評している。 さ て、 八 日 で は、 戸 王 子 か ら、 次 の よ う な 経 路 を た ど っ て い る。 す な わ ち、 信 建 一 之 瀬 王 子・ 宇 麻 目 王 子・ 地蔵堂王子・中山王子・山口王子・川辺王子・中村王子・吐前王子・日前宮・満願寺・和佐王子・平緒王子・那 口王子・松坂王子・松代王子・菩提房王子・祓戸王子そして藤代王子であった。当日八日の松代王子では、 次いで松代王子に参る。盲女あり、子を懐く。 幼 児 を 抱 い た 盲 女 の 痛 々 し い 情 景 描 写 は、 妻 子 を 思 慕 し な が ら 山 中 を 彷 徨 す る 物 語 の 維 盛 の 形 象 と 同 質 で あ ろ (217)― 217 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― う。それは ﹃新古今集﹄ 編纂にたずさわる二十年前の ﹁定家の若き日の胸中をうかがうに﹂ として、 谷山茂が ﹁若 き日の定家たちにとって、平家一門のかつての日の栄華の姿が現実界における妖艶なるもののむしろ第一印象と 残 っ た ︵ 中 略 ︶ 一 朝 に し て 西 海 の 藻 屑 と 消 え た 平 家 の あ わ れ さ も し み じ み と 味 わ っ て い る。 ︵ 中 略 ︶ こ こ に は じ め て 新古今的妖艶美の世界が形成された﹂ とした視点とも通じるからであ る ] 61 [註 。 ちなみに藤原宗忠 ︵一〇六二∼一一四一︶ が、 遡ること一世紀近く以前にやはり熊野参詣をして、 ﹃中右記﹄天仁二年 ︵一一〇九︶ 十月二十五日の条に、 此邊有 二 盲者 一 、従 二 田舎 一 参 二 御山 一 者、聞 二 食絶由 一 給 食、 食 べ る も の が つ き て し ま っ て う ず く ま っ て い る 盲 人 に 食 糧 を 与 え て い る 。 や は り 悲 惨 な 情 況 で あ っ た 。﹃ 愚 記 ﹄ で は目の 見えない女が 子供を抱いてい た情況を記 載したわけだが 、 それは病気治 癒をはじめと しての現世 利益の祈 願 で あ っ た か ら に 他 な ら な い ] 62 [註 。 印 象 深 い 松 代 王 子 で 実 見 し た 親 子 の 模 様 を 心 魂 に 刻 ん だ 歌 人 定 家 は 、﹁ 余 情 妖 艶 美 ﹂ の 歌 境 へ 至 る ひ と つ の 因 子 に な っ た と 推 察 さ れ る 。 物 語 の 維 盛 像 と も 通 じ て く る 。 し か も 、 出 家 し た 維 盛 が ﹁ 古 郷 ニ 留 置 シ 北 方 88 ニ 、 此 有 様 ヲ 見 ヘ モ シ テ 角 ナ ラ ハ 、 思 事 ア ラ ン ﹂ と 述 懐 し て い た わ け だ が 、﹁ 北 方 ﹂ と は 定 家 の 長 姉 で あ る 後 白 河 院 京 極 の 娘 で あ っ た 。 こ の 結 縁 関 係 は 、 本 物 語 の 創 出 に 参 画 す る 定 家 を み て い く う え で 顧 慮 さ れ ね ば な ら な い 。 後章︵十一︶でふれるように、四条天皇の外祖文すなわち執政の﹁臣﹂である九条道家の意向をもとに定家が ﹁編纂﹂した﹃新勅撰和歌集﹄の依拠資料である﹃建礼門院右京大夫集﹄の二一五番歌の詞書に、 ま た、 ﹁ 維 盛 の 三 位 中 将、 熊 野 に て 身 を 投 げ て ﹂ と て、 人 の い ひ あ は れ が り し 。 い づ れ も、 今 の 世を見聞くにも、げにすぐれたりしなど、思ひ出でらるるあたりなれど、きはことにありがたか り し か た ち 用 意、 ま こ と に む か し 今 見 る 中 に、 た め し も な か り し ぞ か し。 さ れ ば を り を り に は、 め で ぬ 人 や は あ り し。 法 住 寺 殿 の 御 賀 に、 青 海 波 舞 ひ て の を り な ど は、 ﹁ 光 源 氏 の た め し も 思 ひ 出でらるる﹂などこそ、 人々いひしか。 ﹁花のにほひもげにけおされぬべき﹂と、 聞しぞかし。 ︵中 略︶ かずかずかなしともいふばかりなし。 (216) ― 216 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 施線では口にして気の毒がったと記載しているので、物語の維盛像と近似していよう。さらに 西山なる所に住みし頃 、身のいとまなきにことづけてや、ひさしく音もせず。枯れたる花のあり しに、ふと、 訪はれぬはいくかぞとだにかぞへぬに花のすがたぞ知らせがほなる ︵一六八︶ が、この﹃建礼門院大夫集﹄に刻み入れられている。施線を﹁西山にある住居に住んでいた頃﹂と訳した本位田 重美は ﹁母の死後、 右京大夫はだいたい兄の尊円とともに慈円の庇護の下にあった ︵中略︶ ここの ﹁西山なるところ﹂ が 善 峯 寺 の 僧 坊 で あ っ た と 推 定 し て ほ ぼ 間 違 い な い と 思 う。 ﹂ と 批 評 し て い る ] 63 [註 。 し か も、 こ の 詞 書 の 筆 致 か ら、 文 治 五 年 ︵ 一 一 八 九 ︶ 頃 よ り 西 山 在 住 は﹁ 一 時 的 で な か っ た ︵ 中 略 ︶ や は り 善 峯 寺 の 僧 房 に い た こ と も あ っ た の で あ ろ う。 ﹂ と 推 定 さ れ て も い る ] 64 [註 。 と す れ ば、 作 者 の 右 京 大 夫 と 慈 円 と は 同 年 齢 の 三 十 五 歳 で あ り、 平 家 一 門 の 悲 運 を語り合っていたことであろう。西山の慈円圏から﹃建礼門院右京大夫集﹄も看過できないことを付言し、 ︵十︶ 章でさらに定家との関連から﹃建礼門院右京大夫集﹄を論じることにしたい。 ︵八︶熊野別当湛増の虚実と藤原俊成 建仁元年 ︵一二〇一︶ 七月に和歌所が置き、 ﹃新古今集﹄編纂への第一歩が踏み出した後鳥羽院は、その三ヶ月後 の熊野御幸に定家を随行させた。 ﹃愚記﹄の同年十月十二日条に、 次いで三鍋王子に参る。これより昼養ひの所に入る。食しをはりて御所に参るの間、御幸すでに出御。こ の宿所より 師の布施 、忠弘をもつてこれを送り遣はす︿ 絹六疋・綿百五十両・馬三疋 ﹀。 施 線 に あ る よ う に 定 家 は 我 が 家 人 の 藤 原 忠 弘 を 介 し て﹁ 師 ﹂ に 篤 い 施 与 を し た。 ﹁ 師 ﹂ と は 田 辺 別 当 と 称 し た 二 十 一 代 熊 野 別 当 湛 増 ︵ 一 一 二 九 ∼ 九 八 ︶ の 子 の 湛 顕 で あ り、 予 て よ り 昵 懇 に し て い る ] 65 [註 。 そ も そ も﹁ 師 ﹂ と は 壇 越 と 冥衆の間をとりもつ役目なのであって、前章︵七︶に掲出した﹃愚記﹄同年十月十七日の条から判然するように (215)― 215 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 定家は真摯な浄土信仰心の持ち主である。この日に参った﹁三鍋王子﹂についてみていこう。定家より二十歳上 の 従 兄 の 藤 原 経 房 ︵ 一 一 四 三 ∼ 一 二 〇 〇 ︶ が 京 の 自 邸 か ら、 定 家 が 院 の 熊 野 参 詣 に 随 行 し た 時 よ り 四 半 世 紀 以 前 の 承 安四年 ︵一一七四︶ 九月二十一日から熊野に赴き、 ﹃吉記﹄同月二十七日には、 申 刻 参 着 切 目 王 子 行 里 神 楽、 止 宿 同 社 以 東、 権 別 当 湛 増 儲 宿 所 并 雑 事、 於 切 目 王 子、 奉 書 一 切 経 之 六 行、 上人之勧進也、如此便之結縁、各々雑注而已歳、 とあり、切目王子で里神楽が行われたので拝観した経房は、湛増と出逢って、 廿八日壬子 晴 三鍋 海福寺有晝養、浴鹽水、申斜着田邊湛増法眼房、 写経等の仏事善業をした翌日には﹁三鍋王子﹂の海福寺で休息をとり、本物語に描かれる﹁湛増﹂の房舎へ出向 いている。熊野に赴く以前の十五日条にも、 細 馬 一 疋 并 甲 冑 色 革 撞 樺 類 等 色 目 在 判 、 送 熊 野 権 別 當 湛 増 許、 近 日 在 京 之 故 也、 本 宮 師 也 、 以 史 基 兼 為 使、 殊有感悦之報、 経房は施与しており、施線にあるように、まさしく﹁湛増﹂は﹁師﹂であったので、定家の血族は湛増父子の壇 越 な の で あ る ] 66 [註 。 定 家 は 経 房 の 病 疫 を 見 舞 い、 物 語 に も 頼 朝 の 腹 心 と し て、 経 房 の 生 涯 が 描 か れ て い る ︵ 屋 代 本・ 巻 一二﹁源二位頼朝日本国惣大将惣地頭被補事﹂ ︶ 。このことも顧慮せねらばならない。 俊 成 は 久 安 元 年 ︵ 一 一 四 五 ︶ 十 一 月 二 十 三 日 に 従 五 位 上、 左 京 権 大 夫 の 職 に 就 く の は 仁 平 二 年 ︵ 一 一 五 二 ︶ 十 二 月 三十日であった。仁平元年春より仁平三年秋にかけて俊成が﹁編纂﹂した﹁久安百首﹂があり、そのなかに釈教 歌の五首を配した。すなわち、 華厳 朝日さす高根の花はにほへどもふもとの人はしらずぞ有りける ︵八八六︶ 方等 ききそめし鹿の苑には事かへて色々になるよものもみぢは ︵八八七︶ (214) ― 214 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 般若 雲もみなむなしととくに空晴れて月ばかりこそすみまさりけれ ︵八八八︶ 法華 はるかにもにほひけるかな法の花後の五百とせ猶さかりなり ︵八八九︶ 涅槃 をしむかな月の御かほも影きえて鶴のはやしにけぶりたえけん ︵八九〇︶ 歌論﹃古来風躰抄﹄で目指していく﹁歌の深き道を申すも、空・仮・中の三諦に似たるによりて、通はして、記 し 申 す な り。 ﹂ ︹ 上・ 二 ︺ が 萌 芽 し て お り、 中 国 天 台 宗 の 開 祖 で あ る 智 顗 が 唱 え た 三 つ の 真 理 の こ と が 詠 じ ら れ て い る。その思想は、周知のとおり、実体がないとする空諦という否定的な視点・仮諦というさまざまな原因と条件 とが寄り集まることによって一時的に成り立っているため存在しているとする肯定的視点・空諦と仮諦のどちら にも偏らない中諦という真実のあり方はその両方を超えたところで統一する視点、との三つを指すのである。一 首目の﹃華厳経﹄に着目して次の章︵八︶で論述するように、背馳する文学と仏教との両立・統一を目指してい く。当然のことながら天台僧慈円の歌には濃厚であり、 ﹃新古今集﹄に採られた、 述懐の歌の中に 全大僧正慈円 願はくはしんばし闇路にやすひてかかげやせまし法のともしび ︵一九三二︶ では、現世の迷いの闇路と仏法のともし火とを合一させて詠じている。俊成は、当該歌を﹁まことに涙あやしき ほどに覚え侍べれ。 ︵中略︶ 愚老が心願やゝおこる所のおもむき也。 ﹂ ︵ ﹃慈鎮和尚自歌合﹄ ︶ と絶讃したのであった。 天 寿 元 年 ︵ 一 一 五 四 ︶ 正 月 二 日 に 俊 成 は 昇 殿、 翌 年 十 一 月 十 日 に は 内 昇 殿 を 許 さ れ、 そ の 一 年 も 経 過 し て い な い 保 元 元 年 ︵ 一 一 五 六 ︶ 七 月 二 日 に は 保 元 の 乱 が 勃 発 す る わ け で あ る。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ で 慈 円 の 揚 言 す る﹁ 武 者 ノ 世 ﹂ の 幕 開けなのである。俊成に﹁久安百首﹂の﹁編纂﹂を指示した崇徳院は政治クーデターを謀ったものの敗北、同月 二十三日に配流されて、配所で崩御してしまった。その思いを家集﹃長秋詠藻﹄の﹁さきだたむ人はたがひに尋 (213)― 213 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― ね見よ蓮のうへにさとりひらけて﹂ ︵五八四︶ の歌の詞書に、 ⋮⋮虚しき舟を漕ぎ離れ波路遥かに隔てつと聞きし別の悲しさはたとへむ方もなぎさにて、海人を刈るて ふ藻塩草書きても遣らむ、方なく虚しき空に仰げども心ばかりや松山の嶺の雲にもまじりけむ、ただかた みとは、とどめおきし、⋮⋮ と悼んで、崇徳院を追慕したのであった。他方、崇徳院を制した後白河院側の平清盛も熊野詣している。そのこ とは﹃愚管抄﹄別帖の七十八代二条天皇の在位する治世に、 此間ニ、 清盛ハ太宰大弐ニテアリケルガ、 熊野詣ヲシタリケル間ニ、 コノ事ドモヲバシ出シテアリケルニ、 清盛ハイマダ参リツカデ、二タガハノ宿ト云ハタノベノ宿ナリ、ソレニツキタリケルニ、カクリキハシリ テ、 ﹁カヽル事京ニ出キタリ﹂ト告ケレバ、 ﹁コハイカヾセンズル﹂ト思ヒワヅラヒテアリケリ。子ドモニ ハ越前守基盛ト、十三ニナル淡路守宗盛ト、侍十五人トヲゾ具シタリケル。コレヨリタヾツクシザマヘヤ 落テ、勢ツクベキナンド云ヘドモ、湯浅ノ権守ト云テ宗重ト云紀伊國ニ武者アリ。タシカニ三十七騎ゾア リ ケ ル。 ソ ノ 時 ハ ヨ キ 勢 ニ テ、 ﹁ タ ヾ ヲ ハ シ マ セ。 京 ヘ ハ 入 レ マ イ ラ セ ナ ン ﹂ ト 云 ケ リ。 熊 野 ノ 湛 快 ハ サ ブ ラ イ ノ 数 ニ ハ ヱ ナ ク テ、 ヨ ロ ヒ 七 領 ヲ ゾ 弓 矢 マ デ 皆 具 タ ノ モ シ ク ト リ 出 テ、 サ ウ ナ ク ト ラ セ タ リ ケ リ 。 ︵巻五︱︱二二九∼三〇ページ︶ 清盛勢に湛快は鎧や弓矢を進呈したと叙述されている。その理由は湛快の妹は平忠度の妻になっているので、清 盛は湛快に心をよせたからであった。熊野三山の長官を﹁熊野別当﹂と称するわけだが、十五代長快の後、嫡男 の長範が十六代、弟の長兼が十七代、その弟の湛快が十八代へと別当職へと順次、交替していく。その後、長範 の子孫を﹁新宮家﹂ 、長兼の子孫を﹁岩田家﹂ 、湛快の子孫を﹁田辺家﹂と名乗り、同族のあいだで三つの家にそ れぞれ独立をきたして、互いに競合する時局を迎える。そのために家のあいだで別当職をめぐって主導権を争う ことになっていった。湛快の子である湛増は、保元の乱で勝利した後白河院や頼朝に後年信任される吉田経房に 接近し、 ﹁武家﹂ ・﹁武門﹂として﹁田辺家﹂の威勢の増強を目指してい く ] 67 [註 。そのことを物語に、 (212) ― 212 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) そ の こ ろ、 熊 野 の 別 当 湛 増 は 平 家 に 心 ざ し 深 か り け る が、 な に と し て か 漏 れ 聞 こ え た り け ん、 ﹁ 新 宮 の 十 郎 義 盛 こ そ、 高 倉 の 宮 の 令 旨 賜 は つ て、 美 濃、 尾 張 の 源 氏 ど も 触 れ も よ ほ し、 す で に 謀 叛 お こ す な れ ば、 那智、新宮の者どもは源氏の方人をぞせんずらん。湛増は、平家の御恩天山とかうむりたれば、いかでか 背きたてまつるべき。那智、 新宮の者どもに矢一つ射かけて、 平家へ仔細を申さん﹂とて、 ひた兜一千人、 新宮の湊へ発向す。新宮には、鳥居の法眼、鶴原の法眼。侍には、宇井、鈴木、水屋、亀甲。那智に、執 行法眼以下、都合その勢二千余人なり。鬨つくり、矢あはせして、源氏のかたには、とこそ射られ、平家 のかたには、かくこそ射られて、矢叫びの声退転もなく、鏑の鳴りやむひまもなく、三日がほどこそ戦う たれ。熊野の別当湛増、家の子郎等おほく討たれ、わが身手負ひ、からき命を生きつつ、本宮へこそ逃げ のぼりけれ。 ︵屋代本は欠巻のため同系統の本文を有する百二十句本の第三二句﹁高倉の宮謀叛﹂ ︶ と描かれている。頼朝の旗揚げの根拠となった以仁王の令旨を湛増は知ったものの、それまで平家側に恩を感じ ていたので、源氏側の新宮の﹁行全﹂そして那智の﹁執行法眼﹂すなわち﹁範誉﹂が率いる軍勢と対峙する。三 日間の激戦の末に、 湛増側は敗れた。この﹁行全﹂と﹁範誉﹂の二人は、 共に源為義の女を生母としており、 ﹁新 宮 家 ﹂ と 縁 が 深 く 新 宮 十 郎 と 称 さ れ た 為 義 の 子 で あ る 源 行 家 の 勧 め も あ っ て、 ﹁ 新 宮 家 ﹂ の 衆 徒 は 源 氏 側 に つ い た ] 68 [註 。 物 語 で は 施 線 に あ る よ う に﹁ 熊 野 の 別 当 湛 増 ﹂ と な っ て い る が、 湛 増 が 二 十 一 代 熊 野 別 当 に な る の は 文 治 元年 ︵一一八九︶ なのである。それを治承四年 ︵一一八〇︶ としたのは、 熊野を代表する統合的人格による所行として、 一貫させる物語の趣向であっ た ] 69 [註 。要するに物語では﹁熊野の別当湛増﹂と虚構して源平の激突へ及ばせる。この 展開を諸本の異同で窺ってみると、この部分を慈円圏で創出した物語と慈円周辺圏で再編されることになる物語 の相違の観点からみておこう。屋代本では、 熊野別当湛増、此日比平家ニ随タリケルカ、源氏既ニツヨルト聞テ、五十余艘ノ舟ニ乗テ、紀伊国田部浦 ヨリ推出シ、西国ノ地ニ渡テ源氏ニ付ク。 ︵巻一一﹁讃岐国屋島合戦事﹂ ︶ と展開させているが、当該場面は延慶本には、 (211)― 211 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 若 王 子 ノ 御 前 ニ 参 テ、 孔 子 ヲ 取 テ、 白 鶏、 赤 鶏 ヲ 合 セ テ、 ﹁ 勝 負 ニ 随 テ イ ヅ チ ヘ モ 付 ベ シ ﹂ ト 思 定 テ、 鳥 合 ヲ シ テ ミ ル ニ、 白 鳥 勝 ニ ケ リ。 ﹁ サ テ ハ 源 氏 ノ 打 勝 ニ テ 有 ゴ サ ン ム ナ レ ﹂ ト テ、 三 百 余 艘 ノ 平 船 ヲ 率 テ、 紀伊国田ノ部湊ヨリ漕来テ、源氏ニ加ル。 ︵六本・一一﹁源氏ニ勢付事付へ平家八島被追落事﹂ ︶ と あ っ て 、 源 平 の い ず れ の 側 に 入 る べ き か を 決 め か ね た 湛 増 は 、﹁ 若 王 子 ﹂ の 前 で ﹁ 孔 子 ﹂ す な わ ち ﹁ 籤 く じ ﹂ を ひ き 、 白 鶏 が 勝 っ た の を 見 て 、 源 氏 勢 に 合 流 し た と 具 体 的 に 詳 し く 描 い て い る 。 と す れ ば 、 慈 円 周 辺 圏 で 再 編 さ れ た 祖 本 の 延 長 線 上 に あ る 延 慶 本 は 、 白 鶏 と 赤 鶏 と を 競 わ せ る 挿 話 を 加 え た こ と に な る ] 70 [註 。 こ の 相 違 か ら も 慈 円 圏 で 創 出 し た 物 語 を 遺 存 し て い る の は 屋 代 本 で あ る と 推 定 さ れ て こ よ う 。 源平の武力衝突に乗じて湛増の﹁田辺家﹂は、熊野三山の主導権を掌握するために時流に乗っていく。平家の 勢力基盤の瀬戸内海周辺と伊勢との間にある熊野は、太平洋と瀬戸内海の航路が出会う海上交通の要地であるか ら に は、 そ の 後、 後 白 河 院 側 に よ る 施 政 方 針 の 人 事 の 一 環 と し て 元 暦 元 年 ︵ 一 一 八 四 ︶ 十 月 に は 念 願 の 別 当 職 を 補 任された湛増は、翌年二月の屋島合戦で平家軍が攻め落とされたのを知って、水軍を率いて源氏軍に合流したの で あ っ た ] 71 [註 。 湛 増 は 源 氏 側 へ 鞍 替 え し て、 ﹁ 田 辺 家 ﹂ は 在 地 領 主 と し て 大 き な 勢 力 を 占 め る よ う に な っ て い っ た の である。 ︵九︶霊夢から宇都宮入道蓮生そして慈円圏へ 仁 安・ 嘉 応・ 承 安 期 ︵ 一 一 六 六 ∼ 一 一 七 四 ︶ の 時 期 に 度 々 歌 合 判 者 に な っ て い た 俊 成 は、 安 元 二 年 ︵ 一 一 七 五 ︶ 九 月 に 出 家 す る。 治 承 二 年 ︵ 一 一 七 八 ︶ 二 月 に 家 集﹃ 長 秋 詠 藻 ﹄ を 詠 作 し、 文 治 四 年 ︵ 一 一 八 〇 ︶ 四 月 に は﹃ 千 載 和 歌 集 ﹄ を編纂する。建久八年 ︵一一九七︶ 七月の初撰本﹃古来風躰抄﹄では、 身にとりて浅茅が末の露、本の雫とならむこと明日をまつべきにあらぬを、和歌の浦の波の音に思ひをか け、 住 吉 の 松 に 色 を 染 め て 、 塩 谷 の 煙 一 方 に 靡 き、 入 江 の 藻 屑 さ ま ざ ま に か き つ め ん こ と の、 ︵ 中 略 ︶ こ の (210) ― 210 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 道に心を入れん人は、 万代の春、 千歳の秋の後は、 皆この倭歌の深き義によりて、 法文の無尽なるを悟り、 往 生 極 楽 の 縁 を 結 び、 普 賢 の 願 海 に 入 り て、 こ の 詠 歌 の こ と ば を 翻 し て、 仏 を 讃 め 奉 り、 法 を 讃 め 奉 り、 法を聞きてあまねく十方の仏土に往詣し、まづは娑婆の衆生を引導せんとなり。 ︹四︺ 施線で歌神でもある住吉明神すなわち﹁冥﹂の側に言及して、仏説の奥義から、法文の無尽なるを悟り、往生極 楽の縁を結ぶとの﹃華厳経﹄の教えに則って、背馳する文学と仏の教えとは両立して統一すると揚言した。承久 元年 ︵一二一九︶ 七月成立の定家の歌論﹃毎月抄﹄にも受け継がれて、 ただ仏の説き給へるあまたの御法も衆生機に与へ給へるとかや。それに少しもたがふべからず。 ︹八︺ として、教化をうける者の根本的な資質に応じて説き方を仏は変えつつ教義を与えると表明して、さらには、 さる元久ころ住吉参籠の時、 ﹁汝月明らかなり﹂と冥の霊夢を感じ侍りしによりて、 ︹九︺ と刻む。この霊夢は﹁冥顕二法﹂の道理の﹁冥﹂であって、後述するように﹃愚管抄﹄成立に直結する聖徳太子 か ら く だ っ た 建 保 四 年 ︵ 一 二 一 六 ︶ 正 月 の 霊 告 と 相 即 す る。 定 家 は、 院 の 熊 野 御 幸 に 随 行 し た 一 ヶ 月 経 過 し た 建 仁 元 年 ︵ 一 二 〇 一 ︶ 十 二 月 六 日、 ﹃ 明 月 記 ﹄ に﹁ 日 吉 に 参 籠 す。 ﹂ と あ っ て、 比 叡 山 東 麓 の 山 王 権 現 を 祀 る 日 吉 社 に 参 籠した。その翌日の七日には﹁終日写経。夜に入りて宮廻る。 ﹂とし、五日後の十二日条には 未の時許に、第八巻を書き終へ奉り、所願を果し了んぬ。具に悦びとなす。 とあって、 ﹃法華経﹄ ︵全八巻︶ を定家は写し終えている。ところで、その前日の十一日条には、 今夜の夢に、 父母□□御座す。 雑談の後、 母儀立ち給ひて云ふ、 ︵中略︶ ⋮⋮大鳥ハ 中将 なり。 今入れ替へて、 魔 性 の 犬 を 追 ひ 出 す。 染 糸 ハ 是 れ 禁 色 の 先 表 な り、 早 く 亞 相 の 望 を 遂 ぐ。 ︵ 中 略 ︶ 今 生 一 生 の 宿 運 に あ ら ざ らや。 と 記 し て お り、 施 線 に あ る よ う に 中 将 に な る 夢 を み て い た わ け だ が 翌 年 の 建 仁 二 年 ︵ 一 二 〇 二 ︶ 閏 十 月 二 十 四 日 に は左近衛権中将に昇任した。そこで、 ﹃明月記﹄閏十月 ︵反故の裏︶ に、 慶賀の事。 (209)― 209 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 右久しく、鳳闕左使の旧労を積みて、適々虎賁中部の朝恩に浴す。自愛極まり無く候ふの処、今、賀礼に 預り、殊に感懐を抽んづ。 立ち昇るたつのこころはをもひやれかひあるみよのわかのうら浪 併 しかし なが ら、拝謁の次を期す。恐々謹言。後の十月廿一日、左中将定。 と、歌まで添えながら、昨年の夢が符合したと歓喜に咽んだ。写経の功徳と実感し、冥衆のはからいと思ったこ と に な ろ う。 如 法 経 供 養 を 定 家 は 厳 修 し た の で あ り、 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 別 帖 の 七 十 八 代 二 条 天 皇 の 在 位 し て い る 治 世 に も﹁如法ニ立、又カヲツキテ拝ミケルコソ、ヨニタノモシカリケレ。 ﹂ ︵巻五︱︱二三六ページ︶ と叙述されている。 定家の霊夢からまる十五年後、夢とその符合の事実である九条家の慶事をめぐる聖徳太子の予言である霊告が く だ っ た。 そ の こ と は 西 山 隠 棲 し て い る 承 元 三 年 ︵ 一 二 〇 九 ︶ 三 月 二 十 三 日 に 今 は 亡 き 九 条 良 経 の 女 の 立 子 が 入 内 して、その三ヶ月後に﹃慈鎮和尚夢想記﹄を起草する。それには﹃愚管抄﹄の雛形となる道理の思念が投影して い る。 立 子 入 内 の 年 よ り 八 年 後 の 建 保 四 年 ︵ 一 二 一 六 ︶ 正 月、 四 天 王 寺 聖 霊 院 参 籠 中 に 太 子 よ り の 九 条 家 の 僥 倖 を め ぐ る 霊 告 が 慈 円 に も た さ れ る。 建 保 六 年 ︵ 一 二 一 八 ︶ 十 一 月 二 十 六 日、 立 子 か ら 生 誕 し た 懐 成 親 王 が 立 坊。 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 六 月 二 十 五 日、 良 経 の 孫 の 三 寅 ︵ 頼 経 ︶ が 四 代 鎌 倉 将 軍 継 嗣 と し て 下 向。 承 久 三 年 ︵ 一 二 二 一 ︶ 五 月 九 日 に 当 親 王 は 即 位、 三 寅 の 父 の 道 家 が 摂 政 に 就 く。 ﹃ 愚 管 抄 ﹄ 皇 帝 年 代 記 の 八 十 五 代 仲 恭 天 皇 紀 に﹁ 道 理 必 然 ﹂ ︵ 巻 二 ︱︱ 一 二 四 ペ ー ジ ︶ の 言 辞 を 嵌 入 し た 慈 円 は、 そ れ を 末 代 の 道 理 と 揚 言 し た わ け で あ る。 聖 徳 太 子 の 霊 告 も 霊 夢 で あ っ た。 ﹃ 慈 鎮 和 尚 夢 想 記 ﹄ を 起 草 し た 当 時 は 西 山 の 空 間 で 本 物 語 を 慈 円 が 企 画 す る 直 前 で あ り、 し か も 本 物 語の内実は﹁頼朝の物語﹂であって、物語のなかには源雅頼の家の侍が頼朝に政権は移るという夢を見た場面が 布置されている。すなわち、 ﹁ 此 日 比 平 家 ニ ア ズ ラ レ タ リ ツ ル 節 ヲ ハ、 今 ハ 伊 豆 国 流 人 前 右 兵 衛 佐 頼 朝 ニ タ バ ラ ス ル 也 ﹂ ト 被 仰 ト 夢 ニ見テ、⋮⋮ ︵ 屋 代 本 ・ 巻 五 ﹁ 福 原 怪 異 事 ﹂ ︶ と語られ、さらに、 (208) ― 208 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) 寿 永 二 年 十 月 四 日、 安 貞 鎌 倉 へ 下 着、 右 兵 衛 佐 宣 ケ ル ハ、 ﹁ 頼 朝 流 人 ノ 身 成 シ カ 共、 長 シテ 二 武 勇 之 名 誉 一 、 仍 今 ハ 乍 レ 居 蒙 ル 二 征 夷 将 軍 之 院 宣 ヲ 一 。 争 カ 私 ニ テ ハ 給 ヘ キ。 鶴 岳 社 ニ テ 給 ヘ シ ﹂ ト テ、 若 宮 ヘ コ ソ 被 レ 参 ケレ。 ︵ 屋 代 本 ・ 巻 八 ﹁ 勅 使 安 貞 鎌 倉 下 向 事 ﹂ ︶ となっている。頼朝を好望の人としてとりあげられていく。ところが延慶本では、 ﹁春日大明神ニテ御坐ス﹂ト申。 ︵中略︶ 世ノ末ニ源平共ニ子孫尽テ、藤原氏ノ大将軍ニ可 レ 出ニヤ。 ︵二中・三四﹁雅頼卿ノ侍夢見ル事﹂ ︶ として、道家の子息の三寅が四代鎌倉将軍に就くまでを予告している。法性寺に良経の嫡男の道家が慈円周辺圏 を組織して﹃愚管抄﹄を取用しながら編纂した六巻本﹃治承物語﹄が延慶本の祖本の延長線上にあったことに起 因する ︵後述︶ 。 屋代本に、これまでにも言及してきているように慈円圏で創出した﹃治承物語﹄が遺存している。 物 語 が 西 山 の 慈 円 圏 で 創 出 さ れ て い る 最 中 の 建 保 三 年 ︵ 一 二 一 五 ︶ 九 月 十 三 日 に、 定 家 は 宇 都 宮 入 道 蓮 生 と 歌 を 詠み交わしていた。すなわち、 下野国にまかりける人に たちそひてそれともみばや音にきく室の八島のふるき煙を ︵三八三〇︶ 返し 蓮生法師 おもひやる室の八島をそれと見ば聞くに煙のたちまさらん ︵三八三一︶ 定家は﹁心だけでもあなたに添っていって、下野国にある室の八島の水煙を見届けたい﹂と詠じたので、蓮生は ﹁ あ な た が そ れ ほ ど 思 い 遣 っ て お ら れ る 室 の 八 島 を 見 た い な ら ば、 水 煙 が た ち ま さ っ て く る こ と で し ょ う ﹂ と 衷 心 よ り、 和 し た の で あ っ た。 定 家 の 子 の 為 家 が 撰 進 し た 十 番 目 の 勅 撰 集 の﹃ 続 後 撰 和 歌 集 ﹄ ︵ 巻 第 十 九・ 羈 旅 歌 ︶ に 採られた贈答歌であった。定家と蓮生とは、 その後、 終生に亘り、 きわめて親密関係を保ってい く ] 72 [註 。この二首は、 その親交関係を築いていく初期の重要な歌なのである。 (207)― 207 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 蓮生の俗名は宇都宮頼綱 ︵一一七二∼一二五九︶ であり、 宇都宮家第五代の当主で、 鎌倉御家人として出仕していた。 元 久 二 年 ︵ 一 二 〇 五 ︶ 八 月 七 日、 謀 反 の 嫌 疑 の 噂 を た て ら れ、 同 月 十 六 日 に 郎 従 六 十 餘 人 と 出 家 し て 幕 府 執 権 の 北 条義時に弁明する。 その後、 蓮生は源空の門に入り、 承元元年 ︵一二〇七︶ に源空とともに遠流されそうになったが、 慈 円 に あ ず け ら れ て 京 に と ど ま り、 建 保 元 年 ︵ 一 二 一 三 ︶ に 慈 円 の 譲 り を う け て 西 山 の 往 生 院 の 四 世 院 主 に な っ て いく證空を師と仰ぎ、多くの作善活動を行っていく。蓮生の女を定家は、嫡子為家の正妻にしたのであった。佐 藤恒雄は﹁頼綱女は、元久元年から建永元年のころ出生、承久三年、十六歳から十八歳の頃に、当時二十四歳で あ っ た 為 家 に 嫁 し、 翌 年 為 氏 を 儲 け た ︵ 中 略 ︶ 為 家 室 は、 京 都 に 生 れ 育 っ た 都 人 ︵ 中 略 ︶ 頼 綱 入 道 は、 定 家 に 命 じ ら れ て い る 信 濃 国 の 国 務 に つ い て、 現 地 の 地 頭 ら の 動 静 を 提 供 ︵ 中 略 ︶ か な り 政 治 的 な 動 き も 多 い。 ︵ 中 略 ︶ 文 雅 風 流 に 関 す る 活 動 も 旺 盛 で あ る。 ﹂ と 論 じ て い る ] 73 [註 。 蓮 生 の 女 か ら 生 誕 し た 為 氏 が、 御 子 左 家 の 和 歌 の 宗 匠 家 で あ る 二 条 家 の 祖 と な っ て い く。 こ の こ と を 顧 慮 し た と き、 蓮 生 の 器 量・ 人 柄 は 定 家 の 琴 線 の ふ れ る と こ ろ が あ っ た。 さ ら に 佐 藤 は﹁ 頼 綱 女 は、 長 男 為 氏 出 産 し て 二 年 後、 元 仁 元 年 四 月 に 二 男 源 承 を 出 産 ︵ 中 略 ︶ 彼 女 の 血 の 中 に は、 父の頼綱の剛毅さと母系の情熱的実行力が、脈々と受け継がれていた﹂と論じてもい る ] 74 [註 。要するに蓮生には突出 した世才や歌心の資質があっ た ] 75 [註 。 北条義時の父の時政と牧の方の間に生誕した女を蓮生は妻として、その間に生誕したのが泰綱である。泰綱は 宇 都 宮 家 の 六 代 目 当 主 に な る。 杉 橋 隆 夫 は﹁ 定 家 の 子 為 家 の 妻 も 牧 の 方 の 孫 娘 に 当 た る と こ ろ か ら、 母 ︵ 宇 都 宮 頼 綱 の 妻、 牧 の 方 の 娘 ︶ と と も に 招 か れ て い る。 そ も そ も 定 家 が 為 家 の 妻 に 頼 綱 の 娘 を 迎 え た の は、 将 来 を 期 待 す る わ が 子 の 栄 進 を 願 っ て の こ と だ っ た。 定 家 が 官 位 昇 進 に 懸 け る 執 念 は 凄 ま じ い も の が あ り、 ︵ 中 略 ︶ 京 都 に し か る べ き 基 盤 を 有 す る 家 柄 の 出 身 ︵ 中 略 ︶ 娘 を 源 氏 一 族 や 京 都 の 公 た ち に 次 々 に 嫁 が せ、 広 く 有 力 な 人 的 ネ ッ ト ワ ー クを形成 ﹂していたと指摘してい る ] 76 [註 。殊に二重施線の言辞は非常に重要であろう。北条時政と牧の方とについて ﹃愚管抄﹄別帖の順徳天皇の在世時を叙述している一節のなかに、 カ ク テ 関 東 ス グ ル 程 ニ 、 時 正 (政) ワ カ キ 妻 ヲ 設 ケ テ 、 ソ レ ガ 腹 ニ 子 共 設 ケ 、 ム ス メ 多 ク モ チ タ リ ケ リ 。 コ ノ 妻 (206) ― 206 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) ハ 大 舎 人 允 宗 親 ト 云 ケ ル 者 ノ ム ス メ 也 。 セ ウ ト ヽ テ 大 岡 判 官 時 親 ト テ 五 位 尉 ニ ナ リ テ 有 キ 。 其 宗 親 、 頼 盛 入 道 ガ モ ト ニ 多 年 ツ カ イ テ 、 駿 河 國 ノ 大 岡 ノ 牧 ト 云 所 ヲ シ ラ セ ケ リ 。 武 者 ニ モ ア ラ ズ 、 カ ヽ ル 者 ノ 中 ニ カ ヽ ル 果 報 ノ 出 ク ル フ シ ギ ノ 事 也 。 ︵巻六︱︱三〇二∼三〇三ページ︶ とある。この文章から、まず、時政と牧の方との間には多く女が生まれていたことが判然としよう。次に牧の方 の兄の時綱は五位の下級貴族であった。波線では牧の方の父の宗親は永年に亘って頼朝の助命嘆願した池禅尼を 母とする頼盛から、所領の管理をまかせられて時めいていた。施線部では﹁武者ノ世﹂ではありながら、武士で は な い 時 綱 は 果 報 者 と 称 揚 し、 ﹁ 不 思 議 ﹂ と 慈 円 は 寸 言 を 添 え た。 と す れ ば、 前 掲 の 三 八 三 〇 番 歌 と 三 八 三 一 番 歌との定家と蓮生と贈答歌を配意したとき、牧の方の女を妻にした蓮生の識見は尋常ではなかったとの慈円の認 識が、この文章の行間に介在しているように思われてこよう。鎌倉幕府の御家人の蓮生が慈円圏に参画し、慈円 圏で創出している物語を取用しながら道理を﹃愚管抄﹄で説諭していくからであろう。 和 歌 を 愛 し た 崇 徳 院 は﹃ 詞 花 和 歌 集 ﹄ を 藤 原 顕 頼 に 撰 進 さ せ た。 蓮 生 の 母 は、 崇 徳 院 に 仕 え た 蔵 人 長 盛 の 娘 な の で あ る。 そ の た め 誕 生 か ら 治 承 四 年 ︵ 一 一 八 〇 ︶ 、 頼 朝 が 挙 兵 す る ま で の 蓮 生 は 京 の 廟 堂 と そ の 周 辺 で 生 育 し、 歌を母から習ってい た ] 77 [註 。俊成は、はじめ顕頼の養子となって顕広と称しており、崇徳院歌壇に参加し、治承二年 ︵ 一 一 七 八 ︶ に は 九 条 家 の 和 歌 指 導 者 と 迎 え ら れ る。 俊 成 の 養 父 顕 頼 の 兄 弟 が 長 隆 で あ り、 長 隆 の 曾 孫 が 西 山 の 空 間で蓮生とともに﹁頼朝の物語﹂を内実とする本物語創出の主要メンバーの行長であっ た ] 78 [註 。谷山茂も、 勧 修 寺・ 葉 室 の 一 族 ︵ 中 略 ︶ ﹃ 平 家 物 語 ﹄ の 作 者 に 擬 せ ら れ る 行 長 ら を 生 ん で い る 一 流 で あ る。 多 分 に 政 治 的 官 僚 的 な 家 柄 で は あ る が、 ま た 決 し て 文 学 に 縁 の な い 血 脈 だ っ た と は い え な い。 ︵ 中 略 ︶ 彼 ら の 子 孫 た ち の歌どもは、俊成的世界を構成するものとして、かなり多く千載集に取り入れているのであ る ] 79 [註 。 と明確に指摘しており、 ﹃明月記﹄建仁二年 ︵一二〇二︶ 八月八日条に、 八日。天晴る。陰雨、間々灑ぐ。盛時の子男、東国より上洛し来たる。此の男、和歌を好むに依りて、喚 ぶ出す。 道に於て、頗る其の意を得 。京人に勝る。奇とすべし。 (205)― 205 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 歌の道に秀でている東国出身の人物に好奇心を動かしている。嘉禄元年 ︵一二二五︶ 十二月七日条にも、 相 州 の 子 息 次 郎 入 道 、 去 る 二 日 死 去 と 云 々 。 師 弟 の 約 束 を な す 。 和 歌 に 於 て 尤 も 骨 を 得 。 痛 み 悲 し む に 足 る 。 施線で歌の急所を非常によく心得ていると絶讃している。やはり東国の相模国出身者が死去したことを定家は痛 嘆 し た。 施 線 の 言 辞 を 帰 納 さ せ る と、 こ の 二 人 は﹁ 心 得 る 躰 の 歌 ﹂ ︵ ﹃ 毎 月 抄 ﹄ 四 ︶ す な わ ち﹁ 有 心 体 ﹂ を 詠 み 得 た からであろう。前章︵七︶で、物語の表現主体者の心情には﹁仏教的道義的因果律﹂ ・﹁余情妖艶美﹂にあわせて ﹁平家の滅亡期のあわれさ﹂そして﹁意志の文学﹂があるとの谷山茂の分析を引用したわけだが、この﹃明月記﹄ 建仁二年八月八日・嘉禄元年十二月七日の各条からも透視されてくる定家の性癖とはきわめて近似するのは重要 視せねばならない。 歌の天分が東国の幕府御家人の蓮生にやはりあると見抜いた定家は、蓮生の実母と父俊成さらに崇徳院歌壇以 来の繋がりにも熱い思いを抱き、蓮生の女を嫡子の為家の正妻に迎えた主要な動機であった。 為 家 と 蓮 生 の 女 の あ い だ に 和 歌 宗 匠 家 の 二 条 家 の 祖 と な る 為 氏 が 生 誕 す る の は 貞 応 元 年 ︵ 一 二 二 二 ︶ で あ る 。 承 久 ︵ 一 二 一 九 ︶ に 改 元 前 の 建 保 末 年 ︵ 一 二 一 八 ︶ よ り 遡 る 承 元 四 年 ︵ 一 二 一 〇 ︶ 頃 か ら の 十 年 間 に 亘 っ た 西 山 の 慈 円 圏 で 定 家 は 蓮 生 の 人 と な り を 十 二 分 に 知 る 。 慈 円 の 方 も 、﹁ 武 者 ノ 世 ﹂ を 精 細 に ﹃ 愚 管 抄 ﹄ で 叙 述 し て い て い る 際 に 東 国 の 生 々 し い 情 報 を 蓮 生 か ら 提 供 さ れ て い た ] 80 [註 。﹃ 愚 管 抄 ﹄ を 成 立 さ せ る の は 承 久 三 年 ︵ 一 二 二 一 ︶ 四 月 で あ っ た 。 ひ と ま ず 本 物 語 が 成 立 し て 、 一 息 つ い た と き の 承 久 元 年 ︵ 一 二 一 九 ︶ 頃 に 、 定 家 が 蓮 生 の 女 を 嫡 子 の 為 家 の 正 妻 に 迎 え る の は 時 宜 に か な っ て い る 。 ︵十︶編纂された﹁頼朝の物語﹂から慈円周辺圏へ 慈円圏で創出された物語の内実は﹁頼朝の物語﹂であ る ] 81 [註 。このことは、これまでにも既述してきたが、本章で は、西山の慈円圏で﹁頼朝の物語﹂として﹁編纂﹂されていく過程を具体的にたどりながら、法性寺に組織され (204) ― 204 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) る慈円周辺圏で本物語が再編されていくまでのことをみていきたい。 ﹃平家物語﹄巻第十の冒頭の文章では、一の谷の戦いで平家軍が敗亡した後の模様を、 寿永三年二月十二日、 去七日一谷ニテ被 討平家ノ頸共、 京ヘ入ル。其日、 少シモ結ホヽレタル人々ノ、 ﹁我 方 様 ニ 今 日、 如 何 ナ ル 事 ヲ カ 見 ス ラ ン、 如 何 ナ ル 事 ヲ カ 聞 ン ス 覧 ﹂ ト テ、 歎 ク 人 々 多 カ リ ケ リ。 其 中 ニ、 大覚寺ニ隠居給ヘル 小松三位中将ノ北方ハ、西国ヘ討手ノ向事ト聞度毎ニ、此度ノ軍ニ三位中将ノ、矢ニ 当テヤ死ンシラム、何ナル目ニカ合給スラント、シズ心ナク被 思ケルニ 、⋮⋮ ︵屋代本・巻一〇﹁一谷被討平家頸被渡大路事﹂ ︶ と 描 い た。 寿 永 三 年 ︵ 一 一 八 〇 ︶ 二 月 か ら、 巻 第 十 の 巻 末 で は﹁ 治 承 養 和 ヨ リ 以 来、 人 民 百 姓 等、 ︵ 中 略 ︶ 春 ハ 東 作 ノ 思 ヲ 忘 レ、 秋 ハ 西 収 ノ 営 ニ モ 不 及。 サ レ ハ 何 ト シ テ 加 様 ノ 大 礼 ヲ 可 被 行 ナ レ ト モ、 サ テ シ モ 有 ヘ キ 事 ナ ラ ネ ハ、 如 形 行 ナ ハ ル。 源 氏 軈 テ ツ ヽ ヒ テ 責 シ カ ハ、 平 家 ハ 其 年 皆 滅 ヘ カ リ シ ヲ、 ﹂ と し て、 後 鳥 羽 天 皇 即 位 に も な う 十 一 月 大 嘗 会 に ふ れ な が ら、 ﹁ 本 年 モ 既 ニ 暮 、 元 暦 モ 弐 稔 ニ 成 ニ ケ リ。 平 家 巻 第 十 ﹂ と し た。 巻 第 十 一 の 冒 頭 は﹁ 平 家 巻 第 十 一 元 暦 二 年 正 月 十 日、 ⋮⋮﹂ ︵ 屋 代 本・ 巻 一 一﹁ 九 郎 大 夫 判 官 義 経 院 参 事 ﹂ ︶ と し て 始 発 さ せ、 源義経の後白河院への決意表明から、源平両軍の勇猛な激突を浮彫りながら壇ノ浦の海戦までを詳細に描きあげ た。 同 年 四 月﹁ 廿 八 日、 鎌 倉 前 右 兵 衛 佐 頼 朝、 従 二 位 ニ 叙 セ ラ ル。 ﹂ ︵ 屋 代 本・ 巻 一 一﹁ 頼 朝 被 叙 従 二 位 事 ﹂ ︶ の 言 辞 を 嵌 入し、平家一門の敗北後の悲惨な模様を押し出して、平重衡が﹁終頸ヲハ取テケリ。 ﹂と描き、 ﹁カヒシヤクノ女 房 サ へ 身 ヲ 投 ケ ル コ ソ 難 レ 有 ケ レ。 平 家 巻 第 十 一 ﹂ と し た。 巻 第 十 二 の 冒 頭 で は﹁ 元 暦 二 年 五 月 七 日 ノ 卯 刻 ニ、 九 郎 大 夫 判 官 大 臣 殿 ノ 父 子 ヲ 奉 具 テ、 関 東 ヘ ソ 被 下 ケ ル。 ﹂ ︵ 屋 代 本・ 巻 一 二﹁ 宗 盛 清 宗 父 子 関 東 下 向 路 事 ﹂ ︶ と し て 巻末では﹁其ヨリシテ平家ノ子孫ハ絶終ケリ。 平家巻十二之終﹂と総括したのであった。巻第十の冒頭文に は、前掲した文章の施線のように平維盛の妻が夫の安否を気遣っていることを象って、次の章段の一節では﹁三 位中将モ通フ心ナレハ、都ニサコソ我ヲ無 二 覚束 一 思ラメ、 ﹂ ︵屋代本 ・ 巻一〇﹁惟盛古郷音信事﹂ ︶ とし、その後には維盛 熊 野 参 詣 か ら 維 盛 入 水 ま で の 顚 末 が 描 か れ て い く こ と は、 定 家 の﹃ 愚 記 ﹄ と の 対 比 か ら 見 た と お り で あ る。 ﹁ 惟 (203)― 203 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― 盛古郷音信事﹂の後の六章段には、平家側の悲哀が濃厚であった。そのなかには捕虜になった重衡が東国下向し ていく経緯と頼朝との対面がある。そのことは ﹁頼朝の物語﹂ からは重要なので以下で具体的に窮っていきたい。 さて屋代本の巻第十には﹁惟盛高野登山并熊野参詣同入水事﹂の章段が布置され、その冒頭は、 小松三位中将惟盛ハ、我身ハ屋島ニ在ナカラ、心ハ都ヘ通ハレケリ。故郷ニ残置給フ北方少キ人々ノ事 ヲ ノ ミ、 明 テ モ 暮 テ モ 被 思 ケ レ ハ、 在 ニ 無 二 甲 斐 一 我 身 哉 ト、 最 物 憂 ソ 覚 テ、 三 月 十 五 日 ノ 暁 、 忍 ツ ヽ 屋 島ノ館ヲ粉出、⋮⋮ とある。本章段の末尾でも﹁⋮⋮又船ニ取乗テ、海ニソ浮給ケル。比ハ 三月廿八日 ノ事也ケレハ、春已ニ暮ナン ト ス。 ﹂ と の 月 日 を や は り 明 記 し た。 こ れ は 本 章 段 の 冒 頭 の 施 線 の﹁ 三 月 十 五 日 ノ 暁 ﹂ を 承 け て い る。 そ の 維 盛 入水を聞いて﹁涙ヲ流シアハレケリ。 ﹂と宗盛・時子とが落涙したことを添える。これに直結させて、 同四月一日、 鎌倉前右兵衛佐頼朝、正二位下叙ス。本ハ従五位下也シカハ、五階ヲ越給コソ目出ケレ 。 同 三 日、 崇 徳 院 ヲ 可 奉 崇 神 ト テ 昔 保 元 ニ 合 戦 ノ 有 シ 大 炊 御 門 ノ 末 ニ、 社 ヲ 造 テ、 宮 遷 有。 賀 茂 祭 以 前 ナレ共、法皇ノ御計ニテ、内ニハ不 被 知。 と の 事 象 を 加 え た。 そ れ ま で の 悲 惨 な 平 家 側 の 動 向 を 反 転 さ せ て、 寿 永 三 年 ︵ 一 一 八 〇 ︶ 四 月 一 日 に、 二 重 施 線 で は﹁正二位下﹂に頼朝が昇任したのを言祝いでいる。史実では正四位下であり、同じ系統の四部本も﹁正四位下 に 叙 す。 ﹂ と し、 延 慶 本 や 他 の 諸 本 で も 同 じ で あ る。 と こ ろ が、 前 掲 し た よ う に 海 戦 の 顚 末 を 詳 細 に 描 き、 屋 代 本では﹁頼朝被叙従二位事﹂との章段を掲げて、同年四月﹁廿八日、鎌倉前右兵衛佐頼朝、従二位ニ叙セラル。 ﹂ との関連からの編年体の趣向を踏襲しながら、諸本中で屋代本が最も高い昇叙を遂げたと描いている。これは看 過されてはならない。二重施線部で頼朝昇進を言祝ぐための虚構である。しかも任じられた年月日と官位との関 連から齟齬をもきたしているのは、原初の﹃平家物語﹄の面影を屋代本が遺存しているからであった。本物語の 当該場面は﹃愚管抄﹄別帖の八十四代順徳天皇の治世で、 平 氏ノ アト 方ナ キホ ロ ビヤ ウ 、又 コノ 源氏 頼朝 将 軍昔 今有 難キ 器量 ニテ 、 ヒシ ト 天下 ヲシ ヅメ タ リツ ルア (202) ― 202 ―
熊本学園大学 文学・言語学論集 第27巻第1号(2020年6月30日) ト ノ 成 行 ヤ ウ 、 人 ノ シ ワ ザ ト ハ ヲ ボ ヘ ズ 。 顕 ニ ハ 武 士 ガ 世 ニ テ 有 ル ベ シ ト 、 宗 廟 ノ 神 モ 定 メ ヲ ボ シ メ シ タ ル コ ト ハ 、 今 ハ 道 理 ニ カ ナ イ テ 必 然 ナ リ 。 ︵巻六︱︱三〇四ページ︶ と叙述されている。施線で頼朝が動揺していた王法を安寧に導いたといい、二重施線では冥衆の計らいであると 説くのと呼応している。右文は源実朝の暗殺へ及ばせる直前にある一節であり、物語の展開とは無関係の崇徳院 の廟を後白河院のはからいで造営したを事象を前掲したように﹁四月一日﹂として頼朝が﹁五階ヲ越給コソ目出 ケレ。同三日、崇徳院ヲ⋮⋮﹂と唐突に描いているのと軌を一にしている。これには物語の﹁編纂﹂の意識が看 取されると同時に﹃愚管抄﹄の叙述の仕方とも類同するであろう。 本物語では、捕虜になった平重衡のめぐる一連の哀話は精彩を放つ。頼朝が重衡に会見した場面が、 兵 衛 佐、 三 位 中 将 ニ 対 面 シ 給 テ、 ﹁ 会 稽 ノ 恥 ヲ 雪 メ、 君 ノ 御 憤 ヲ 休 奉 ラ ン ト 存 候 シ カ ハ、 平 家 ヲ 滅 奉 ン 事 ハ 案 内 ニ 候 キ。 サ レ ト モ マ ノ ア タ リ ニ、 カ 様 ニ 可 入 二 見 参 一 ト ハ 不 二 思 寄 一 。 カ ヽ レ ハ 定 テ、 屋 島 大 臣 殿 ノ見参ニモ、今ハ入ツトコソ覚候ヘ。 抑奈良ヲ滅給ヘル事ハ、故大政入道ノ御計ヒ候カ、又時ニ臨ミタリ ケル事候カ。無 量罪業ニテコソ候ラメ ﹂ト宣ヘハ、 ︵屋代本・巻一〇﹁同重衡頼朝対面以後狩野介預事﹂ ︶ と描かれている。頼朝の言動がきわめて精彩を放っている。施線部は﹃愚管抄﹄別帖の八十一代安徳天皇の在位 している治世にある、 猶 十二 月廿 八日 ニ遂 ニ南 都ヘ ヨ セテ 焼ハ ラヒ テキ 。 ソ ノ大 将軍 ハ三 位中 将 重衡 ナリ 。 アサ マシ トモ 事 モオ ロ カ ナ リ 。 ︵ 中 略 ︶ サ テ カ ウ 程 ニ 世 ノ 中 ノ 又 ナ リ ユ ク 事 ハ 、 三 (以仁王) 條 宮 寺 ニ 七 八 日 ヲ ハ シ マ シ ケ ル 間 、 諸 國 七 道 ヘ 宮 ノ 宣 ト テ 武 士 ヲ 催 サ ル ヽ 文 ド モ ヲ 、 書 チ ラ カ サ レ タ リ ケ ル ヲ 、 モ テ ツ ギ タ リ ケ ル ニ 、 伊 豆 國 ニ 義 朝 ガ 子 頼 朝 兵 衛 佐 ト テ ア リ シ ハ 、 ⋮ ⋮ ︵巻六︱︱二五〇∼五一ページ︶ と叙述されている一節と対応する。平重衡による南都焼亡すなわち仏法の危殆と清盛等の領導する廟堂の腐敗す なわち王法の危機と二重施線にあるように源頼朝とを結合させた。そこには仏法王法相依の道理を則って創出さ せた﹃治承物語﹄が慈円の念頭に置いている。この﹃愚管抄﹄の右文の一節は、歌人慈円の本説取りの修辞なの (201)― 201 ―
『平家物語』初期生成と藤原定家 (下)――編纂の視点から―― である。慈円自身が企画して創出させた﹁頼朝の物語﹂を内実とする本物語の眼目である頼朝の旗揚げの事象が 右文の行間ににじみ出ており、混乱している治世を安寧にしていく頼朝が取り出された。道理から、はじめて頼 朝を正面に押し出していく結節となっている。その意味でも本物語と﹃愚管抄﹄とは同質の方法がとられている ことになろう。 頼 朝 が 護 送 さ れ て き た 重 衡 と 会 見 す る 場 面 は﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ 寿 永 三 年 三 月 ︵ 一 一 八 四. 元 暦 元 年 四 月 十 六 日 に 改 元 ︶ 二 十 八 日条に、 廿八日、 丁巳 本三位中将 藍擦の直垂、 立烏帽子を引く 。を請ぜられ、 廊において謁せしめたまふ。仰せて云はく、 かつは君の御憤りを慰めたてまつらんがため、かつは父の死骸の恥を 雪 すす がんがため、試みに石橋合戦を企 てしより以降、平氏の逆乱を對治せしむること、掌を指すがごとし。よつて、面拝に及ぶ。 不屑の眉目な り 。この上は 槐 (宗盛) 門に謁するの事も、また疑ふところなからかてへれば、⋮⋮ 旗 揚 げ し て よ り の 我 が 戦 歴 を 頼 朝 は 回 顧 し、 後 白 河 院 の 憤 激 を 慰 め る と 同 時 に 父 の 源 義 朝 の 恥 を す す ぐ こ と に あったといい、二重施線にあるようには重衡と会えたことは名誉と述懐して、以下では敵のために捕虜となるこ とは、決して恥でないと語ったので側で聞いていた者は感動したとある。幕府が編纂した歴史書の﹃吾妻鏡﹄と 本 物 語 と の 接 点 が 看 取 さ れ よ う。 王 法 の 中 枢 に い る 後 白 河 院 の 第 三 皇 子 で あ る 以 仁 王 の 令 旨 を 根 拠 に 立 ち 上 が り、その後、平家政権下で改元された﹁養和﹂ ・﹁寿永﹂へと改元されたにもかかわらず、東国では平家と争い勝 利 の 見 通 し が つ く ま で 頼 朝 は 私 年 号 と し て﹁ 治 承 ﹂ を 使 用 し 続 け る。 そ れ が 西 山 の 慈 円 圏 で 創 出 し た 本 物 語 が、 ﹃治承物語﹄と命名された理由であり、本物語の内実が﹁頼朝の物語﹂であったからであ る ] 82 [註 。 ﹃愚管抄﹄別帖の八十二代後鳥羽天皇即位当時を叙述し、 同 寿永 三年 二月 六日 ヤガ テ此 頼 朝ガ 郎従 等ヲ シカ ケテ 行 ムカ イテ ケリ 。 ソレ モ 一ノ 谷ト 云フ 方ニ 、 カラ メ 手 ニ テ 、 九 郎 ハ 義 経 ト ゾ 云 シ 、 ︵ 中 略 ︶ サ テ 船 ニ マ ド イ 乗 テ 宗 盛 又 落 ニ ケ リ 。 ︵巻五︱︱二六三ページ︶ とし、これに直結させた慈円は、 (200) ― 200 ―