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コンヴェンションとコントラスト : 『タンバレイン・第一部』の主題と手法

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コンヴェンションとコントラスト

 一『タソバレイン・第一部』の主題と手法一

佐 々 木 昇 二

 マーロウの作品の中で,『タンバレイン』は,『マルタ島のユダヤ人』や『フ ォースタス博士』,あるいは『エドワードニ世』などの後期の作品に比べると, 平板で変化に乏しく様式的であり,また劇的緊張を欠くと一般に考えられてい る。世界制覇を夢見たスキタイの一介の羊飼が,向かう所敵無しの態で次々と 征服を遂げていくという物語を題材としているがために,この劇が,いきおい 一本調子にならざるをえないことを考慮したとしても,確かに冗漫の諺は免れ えないであろう。それは,詩に用いられる言葉の多義性を分析することを得意 としたウィリアム・エンプソンも,この作品を前にしては,なすすべがないか のように見えるほどなのである。  もっともエンプソンのことである,何もせずにすませたわけではなく,重要 な指摘を残している。エンプソンによると,マーロウやスペンサーなどの,リ ズムに強い関心をもつ詩人は息の長い行を書くようになり,一定の詩的効果を        長いあいだ持続することが彼らの方法となる,ということである。それを次の 一節を引き合いに出して説明している。 MenaPhon. Your majesty shall shortly have your wish, And ride in triumph through Persepolis. Exeunt. Manent TAMBURLAINE, THERIDAMAS, TECHELLES, USUMCASANE. Tamburlaine. And ride in triumph through Persepolis! Is it not brave to be a king, Techelles? 1)岩崎宗治訳『曖昧の七つの型』研究社,1974年,46頁。

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     Usumcasane and Theridamas,     一Is it not passing brave to be a klng,      And ride in triumph through Persepolis?       2) (皿.v.48−54) つまり,エンプソン好みの「圧縮」よりは「拡散」に向かう傾向がマーロウに は見られ,『タンバレイソ』の場合,題材そのものの性質も与って,一層そう した傾向が顕著にあらわれるということになろう。  この例の場合は,しかしながら,エンプソン自身も認めているように,同じ        3) 行の繰り返しがあっても調子に微妙な変化があり,また,その内容も劇の主題 と密接に関わるとすれば,まだしも取り上げるに価する一節であろう。『タン バレイン』全篇についてどうかといえば,柔軟1生を欠いた詩行が四々と続いて いくというのが実情に近い。この劇が型にはまっているという評価を受けるの も,おおよそその辺に原因を求めることができる。ただ,様式性というものも 単純に斥けられる性質のものではないし,また,全体の評価に至る前に,様式 性への傾斜が個々の場面でもつ意味や機能を見きわめておく必要もあるように 思われる。そこで,著しい様式性の功罪と言うべきものに焦点をあてて,それ が,マーPウ初期に属するこの作品の主題とどのように関わるところがあるの か,以下具体的に検討してみたい。 1  エンプソンの言う「拡散」の傾向は,主人公タンバレインの淀みのない言葉 の流れの中に典型的にあらわれている。たとえば,将来の妃ゼノクラティーを 評するセリフが次のような形をとる。 Zenocrate, lovelier than the love of Jove, Brighter than is the silver Rhodope, 2)引用はすべて,J. S. Cunningham(ed.), Tamburlaine the Great,‘The Revels  Plays’(Manchester Univ. Press,1981)による。 3)前掲書,47頁。

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       コンヴェンションとコントラスト Fairer tha’,n whitest snow on Seythian一 hills, Thy person is more worth to Tamburlaine T. han the possession of the Persian crown, Which gracious stars have promised at my birth. A hundred Tartars shall attend .oh thee, Mounted on steeds swifter than Pegasus; Thy garments shall be made of Median silk, Enchased with precious jewels of mine own, More rich and valurous than Zenocrate’s; With mi正k.white harts upon an ivory sエed‘ Thou shalt be ’ р窒≠翌氏@amidst the frozen pools And scale the icy mountains’ lofty tops, Which with thy beauty will be soon resolved; My martial prizes, with five hundred men, Won on the fifty−headed Volga’s wtives, Shall all we offer to Zenocrate, And then my self to fair Zenocrate.        (1. ii. 87−105) 53 最初の6行を除け’ぽ,行数にして2行から4行の文が積み重ねられていく構成 になっていて,それぞれの文の中で要素の並べ:方にヴァリエーションがあると はいえ,内容の面でも表現の面でも並列ないしは繰り返しに近い。この一節に おける表現のパターンは最初の3行で決定されており,後に続く4つの文はそ れが拡大されたものと言ってよい。各行が,行末に意味の切れ目がくる(end− stopped)ものであることも,均一な調子を一層強く印象づける結果になってい よう。こういう類の表現法は劇詩よりも.ff’情詩にこそ相応しい。マーロウ作と 伝えられる有名な牧歌(‘The Passionate Shepherd to His Love’)と,内容ば かりでなく口調においても似通ったところがあることを思い起こせば,この一 節の性格はおおよそ見当がつく。つまり,このセリフはフォーマルなものとし て作られているのである。このすぐ後に続くやりとりも,その点を強く意識さ せずにはおかない。      、

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54 彦根論叢第230号   Techelles.[Asi4e to Tambarlaine.コWhat now?in love?   Tamburlaine[AsideコTechelles, wonlen皿ust be flatterさd.       (r. ii. 106−107)  ことわっておくが,これは独白などでは決してない。舞台上には多くの人物 がいて,その中でタンバレイソは淫々と語っているのである。語りかける相手 を目の前にし,また実際に語りかける形をとってはいる。にもかかわらず羊飼 の独白と呼んでも一向に差支えはなかろう(事実,タンパレインが羊飼である ことが何回か強調されており,この直前には,羊飼の衣裳を脱ぎすてて甲冑姿        の をあらわす印象的な場面がある)。確かに,このスピーチは特殊な形の例に属 するものには違いないが,劇中の他のセリフについても事情は大してかわらな い。むしろ,この「独白」には,全体に通じるさまざまな特質が集約されて表 現されていると言っても決して過言ではないのである。  このような調子では普通の意味での劇の進行はスタティックなものになって しまうであろうが,これは,タンバレインのセリフの最大の特色が大胆きわま りない誇張表現(hyperbole)にあることと多分に関係がある。その一端を,上 の恋歌とは対照的な,血腱い征服の物語に相応しい内容のものから紹介してお くと,たとえぽ,ペルシアの王位を狙うコスロウを鼓舞するために,タンバレ インは次のように言っている。 The host of Xerxes, which by fame is said To drink the mighty Parthian Araris, Was but a handful to that we wi11 have. Our quiveringエances shaking in the air And bullets like Jove’s dreadful thunderbolts Enrolled in fiames and fiery smouldering mists Shall threat the gods more than Cyclopian wars; And with our sun−bright armour as we march We’11 chase the stars from heaven and di皿their eyes 4) Cfi. 1. ii. 41f.

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      コンヴェンションとコントラスト  55 That stand and muse at our admired arms.        (皿.iii.15−24) ゼノクラティーの場合と同様に,説得を目的とした語りであるのは示唆的であ る。タソバレインはここでも大言壮語を駆使する力を誇示しているのである。 したがって,語られる内容もさることながら,語り方ないしは語る姿が特に強 い印象を残すように意識されている点を抜きにして考えることはできない。そ のことは,何事につけ慎重な武将セリダマスを説得する場面に端的に窺える。 40行にも及ぶタンバレインのセリフ(前の二人の場合のおよそ二倍の長さであ る)が中断することなく続いた後, Not Hermes, prolocutor to the gods, Could use persuasions more pathetical. ( 1[. iL 209−10) というセリダマスの反応がただちに付け加えられるのも,タンバレインのセリ フを締め括る以外に大した意味があるとは思われない。  要するに,前口上にいう,タンバレイソの「轟きわたる言葉」(high astound一     らう ing terms)が,他の登場人物との間で,劇的に十分処理されないで,いわば 生のまま示されるかたちになっているということである。しかも,この作品の 中でタンバレイソのセリフは,質的にも量的にも,一人の登場人物としては不 釣合なほど大きな位置を占める。それゆえ,アンリ・ブリュシェールが,『タ        のソバレイン』という劇は「長いひと続きの独白とも言える」と言っているのも あながち誇張ではないのである。  一方,当然のことながら批判も出てこよう。T・S・エリオッFはあるエッ セイ(‘“Rhetoric”and Poetic Drama’)の中で,「マーPウの『タソバレイン』 が大袈裟な表現となるのは,単調平板で,感情の変化に対して柔軟性を欠くか らだ。シェイクスピアの真にすぐれたレトリックは,劇中の人物が劇的な光の 5) ‘Prologue’, 1. 5. 6)笹山隆訳『シェイクスピア・エリザベス朝の劇作家』研究社,1969年,138頁。

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      わなかで自己を眺めるというような状況において現われる.」.と述べている。後の エリザベス朝演劇が,ブランク・ヴァースに行跨り(enjambment)を採り入 塾で繊紳な感情学界を可能にしでいっZCIoに対しL,すでに昇牟よ5ζトマニ『 ワのそれは行末休止が原則となつ・ていて・、表現される内容もまた誇大な自門主 張が多いとなれば,エリオットの言うことも頷ける。前者の洗練に比べれば, プリミティヴとさえ言えるかもしれない。  しかし,逆に時代を遡って,マーロウに至るまでの演劇からの発展という視 点から見るζども忘れてはならない。シェイクスピア以前の劇詩の展開を克明 に辿ったヴォルフガング・クレメンによると,そこで臨対話の流れかち独立 ないしは遊離した,いわゆる「セット・スピーチ」という形式によって,人物 の性格描写や筋の説明,倫理的色彩の濃い陳述,嘆きに代表される高揚した感 情表現などが行われていたという。タンバレイソの「独白」も基本的にはこの 流れに属している。ただ異なっている点は,きわめて個性的な語り手を得るこ とで,セリフと語り手との距離がなくなった一言いかえれば,セリフの質が       きう 語り手の性格を表現できるようになった一ということである。旧来のタイプ が他の登場人物のセリフに残存していることも事実だが,『タンバレイγ』は, 上の意味で大きな前進を示す画期的な作品だったのであり,この後,シェイク スピアの登場とともに洗練の度が加えられていくことになるのである。 1より大切なことは,しかしながら,この劇におけるセリフの性格,とりわけ 主人公タンバレイソのそれが示す特異性を理解することであろう。タソバレイ ソの丁独白」は,セリフの機能という点で,これまでのものとも,これ以降の ものとも,あるいは,劇中の他の人物の場合とも異なり,大言壮語にみちたス ピーチという形式そのものが,ひとつの意味を担っている。しかも,.すでに述 べたように,タソバレインのそのようなセリフが圧倒的に大きな役割を果たす 7)綱繍騨「レトリ・クと詩劇rエリオ・ト全集』第、3巻中来公論社・1971年  286頁。 8)Wolfgang Clemen, English Tragedy before Shakespeare’TAe l)evelopmentげ  P. ramatic Sp.eech, trans. T. .S. Dorsch (Methuen, 1961), pp. 113−21.

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      コンヴェンションとコントラスト  57 のであるから,この劇のセリフの機能は,デイヴィッド・デイシーズの言葉を 借りると,「アクションを解釈するというよりは,むしろアクションを体現す る」ところにあると言ってよい。すなわち,「レトリック自体がアクションの       の一形式」. ニして働くのである。エリザベス朝演劇は他のどの時代の演劇にもま して言葉に依拠する度合が高かったが,その中でもrタンバレイソ』は,言葉 がとりわけ重要な働きをしている作品なのである。  言葉は象徴的意味合いすら帯びて,文字通りタンバレィンの征服の武器とな る。それが素朴なかたちで,一種パロディーめいた趣向としてあらわれるのが, 第3幕第3場のトルコ王パジャゼスとの戦いの場面で,そこでは,二人の王, 二人の妃とそれぞれの侍女が激しい言葉を浴びせ合うことが実質的に合戦の表 現となっている。この,ほぼ同数の行の言葉を互いにやりとりするという,形 式的な処理が施されたコミカルな場面も含めて,「自己を眺める」というより は自己を主張するという形をとるのが『タンバレイソ』におけるセリフの重要 な特徴であって,このような表現法が,限りない征服欲に駆られる,いわゆる ルネッサンス的英雄を描くのに相応しいかたちであることはもちろん,それが また,同じ行末休止の韻文が用いられているとはいえ他の登場人物に残存して いるものとは別種の,すなわち単なる形式にとどまらない様式をうみ出してい ることにも注意しておかねばならない。そして,ここには当然のことながら, 前口上が From jigging veins of rhyming mother−wits という一行で始められることが端的に示しているように,劇作家マーPウの言 語意識が強く働いているはずである。  そのことは,マー一 Pウが逆の面に目を向けていることからもわかる。たとえ ぽ,ペルシアの無能な王マイセティーズは,謀反の動きに葱懲やるかたない心 情を次のように述べる。 9) David Daiches, ‘Language and Action in Marlowe’s Tambzarlaine’, More Lit−  erar y Essa ys (Oliver & Boyd, 1968), pp. 43f.

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     Brother Cosroe, 1 find myself aggrieved      Yet insudicient to express the same,      For it requiエes a great and thund’ring speech:       ( 1. i. 1−3) 王たるに相応しい資質の欠如が自己表現能力の欠如を通して示されていること は注目に価する。しかも,このセリブが前口上に直ちに続く開幕冒頭の3行で あることを思えば,ここに込められた意味の重要さを察することができよう。  事実,マイセティーズは王でありながら, 1 mean it not, but yet 1 know 1 might. (1. i. 26) のような言い方をし,また,タンバレインのように大言壮語を吐こうとしても 型通りの陳腐な表現に堕するのがせいぜいであり,前者のように1しめどなく続 けることもできずに,次のように行き詰ってしまう。      ...well then, by heavens 1 swear, Aurora shall not peep out of her doors But 1 will have Cosroe ・by the head And kill proud Tamburlaine with point of sword. Tell you the rest, Meander, 1 have said.       (ll. iL 9−13) そして,敗色が濃厚になり,いよいよ廃位という段になれば, Accurst be he that first invented war! They knew not, ah, they knewエ10t, simple men, How those were hit by pelting cannon shot Stand staggering like a quivering aspen leaf Fearing the force of Boreas’ boist’rous blasts.       (皿.iv.1−5) のような嘆きの言葉を吐く羽目になる。この一節の意味は,最後の行に意識的

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      コンヴェンションとコントラスト  59        10) に用いられている頭韻のもたらす効果に明白にあらわれていると言ってよい。 この王は要するにタンバレインの引き立て.役にすぎず,それが表現力の違いを 通して示されるのである。  マイセティーズに比べれば,トルコ王バジャゼスは,まだしも表現力を具え ている。前者とは対照的に,おそらくは堂々としすぎた風采をしていると思わ れるバジャゼスは, You know our army is invincible: とか, The high and highest monarch of the world, Wills and commands (for say not 1 entreat)...       (M. i. 7, 26−27) といった表現を含む大言壮語を長々と吐く。見たところタンバレインにひけを 取らないようだが,実は巧みな工夫が凝らしてある。はじめの引用はフェミニ ン・エンディングになっていて,その内容と表現法は微妙な両鶴をきたしてい るし,2番目のものについても,1行目の‘high and highest’の繰り返しはあ まりに常i套的であって,かえって滑稽な効果をうむ。また,2行目の括弧にく くられた部分は,前のマイセティーズとの違いを意識したものと考えられる一 方,残る部分は,ほどなくタソバレインの       Will and Shall best丘tteth Tamburlaine  (皿. iii.41) と比べられることになる。同じ大言壮語とは言っても,その質に違いがあるこ とが,このようなかたちで示されるのである。その意味で,タンバレインの 10)エリス=ファーマーはこの部分につけた註釈の中で,これらの行から,マーロウは  強者のタンバレインだけでなく弱者にも共感を込めていることがわかると言っている  が,表現の質が問われなければならない(Una EIIis・Fermor, ed., Tamburlaine the  Great, Gordian rpt., 1966, p. !03n.).

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       Turks are fu11 of brags      And menace more than they can well perform.        (皿.iii.3−4) という非難の言葉には興味深いものがあり,劇作家の関心がどこにあるのかが 示唆されていよう。  マイセティーズもバジャゼスも,言語表現の面で欠落しているものによっ て,それぞれタンパレインの大言壮語の性質を浮き彫りにする。このような機 能をもった対照法は,言語表現をはじめとして劇のさまざまな側面に及んでい て,作劇法の根本原理と言ってもよい働きをしている。それはまた,上の場合 のように単純明快なものになるとはかぎらず,もう少し込み入った様相を呈す る問題にも関わってくる。そしてこうした手法が,これまで論じてきた様式性 ということと微妙に繋がるものであることは断るまでもなかろう。この劇にお いては,様式というものがひとつの基準として働き,その柱をめぐってさまざ まな対照が織り成されていくのである。 皿  こうした点が最もよくあらわれているのは,この劇の中でも特に有名で,そ れゆえ引用されることが最も多い第2幕第7場のタンバレインのセット・スピ ーチである。それはまた,ティリヤードがその著名なイギリス・ルネッサンス 論において,ルネッサンス文学を特色づける「何ものにも拘束されることのな い思弁」という側面を典型的に示す例として頻繁に引用される,と言っている          ユ  ところのものでもある。  場面は,タンパレインの援助を得てマイセティーズの王位を奪うことに成功 したコスロウが玉座を暖める間もなく,逆にタソパレインによって廃位に追い 込まれてしまった理不尽を訴える所で,タンパレイソはそのコスロウに対して 次のように答えるのである。 11) E. M. W. Tillyard, The English Renaissance: Fact or Fiction.P (Hogarth Press,  1952), p. 24.

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      コンヴェンションとコントラスト  61 Nature, that fra皿ed us of four elements Warring within our breasts for regiment, Doth teach us all to have aspiring minds: Our souls, whose faculties can comprehend The wondrous architecture of the world And measure every wand’ring planet’s course, Still climbing after knowledge infinite And always moving as the restless spheres, Wills us to wear ourselves and never rest Until we reaeh the ripest fruit of all, That perfect bliss and sole felicity, The sweet fruition of an earthly crown.       ([. vii. 18−29) ティリヤードは別の著書で,この一節にみえる四大元素の戦いという着想に注      ユ   目しているが,それは表現法そのもののなかにも読みとれる。マーロウの表現 の特徴として,同種の.内容の行を積み重ねていく構成法があることはすでに触 れた通りであるが,ここでは,よくありがちなような平凡で単調なものに堕し てはいない。運動を表わす語彙の選択もさることながら,それらの言葉の内包 する意味が表現のかたちによってしっかりと支えられている。なかほどに集中 して使用されている現在分詞は,そのわかりやすい例であろう。現在分詞形と いう,それ自体では自立しえない語が重ねて用いられることで,動くことを求 めてやまない様子が,いやがうえにも強調され,そのエネルギーが解放される ことを目指して次の行へと突き進んでいくのである。この部分が一節全体の構 成の中で占める位置から言っても,それは相応しい表現法であろう。9行目の 「身を粉にする」(wear ourselves)と「決して休むことがない」(never rest) についても,ほぼ同じ内容の繰り返しのように見えながら,後者は強い否定語 を伴って前者を別の角度から言いかえたものであり,前行の形容詞(restless) !2) E. M. W. Tillyard, The Eltzabethan World Picture (Chatto & Windus, 1943)  p. 59.

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とも呼応して,滑らかな流れを作り出すうえで貢献している。しかも,中間部 分を締め括って一瞬の停止を生み出すとともに,最終部分の最初の言葉(Unti1) に無理なく繋ぐという二重の役割を果たしている。同じような運動は最後の従 属節にも及んでいて,一個の形容詞と一個の名詞という均一の組み合わせが均 衡を保ちながら重ねられるかたちで,先行する部分の動きを引き継ぐ一方,前 段よりも短い単位のリズムによって加速されてクライマックスを構成し,最後 の組を効果的に引き出すことに成功している。全体を通して整然とした調子で 統一され,かといって冗長に堕すことはなく,徐々に盛り上っていく漸層法で 書かれたこの一節は,タンバレインの抑え難い征服の欲望を力強く表現しきっ ており,表現と内容とが見事に一致していると言ってよい。多くの人が引き合 いに出すのも十分に頷けよう。  ところが,この作品の秀れた本文校訂者でもあり註釈者でもあったエリス= ファーマーは,最後の一行に対して大変厳しい評価を下している。r地上の王 冠」(earthly crown)というのが,そこに至るまでの専ら精神的な内容の部分       13) と相容れないというのである。この読みは,エリス=ファーマー自身そのテキ        ストの脚注で触れているように,19世紀末の旧マーメイド版『マーロウ戯曲 集』に付された序文の中でハヴロック・エリスが,この部分は「スキタイ流漸          15) 降法(bathos)」であると言っているのを踏襲したものである。かいつまんで言 えば,折角盛り上げられてきた一節がアンチ・クライマックスの結果に終わっ てしまっているということであろう。しかし,それでは,死に瀕して倒れてい るコスロウの面前でタソバレインが征服への欲望を堂々と謳い上げるという, この場面の見せ場としての意味が随分希薄なものになってしまうであろう。全 般にマーロウのよき理解者であったエリス=ファーマーの読みであるとは俄に 13) Una Ellis−Fermor, ChristoPher Marloxve (Archon rpt., 1967), p. 29. 14) Una Ellis−Fermor, ed. cit., p. 113n. 15) Havelock Ellis (ed.), Christopher Marlowe, ‘The (Old) Mermaid Series’ (Vize−  telly & Co., 1887), p. xxxv.

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      コンヴェンションとコントラスト  63     16) は信じ難い。  ただ,エリス=ファーマーの読みは,かえって,この場でのマーロウの意図 をわかりやすくしてくれる。なぜならば,劇作家がここでやろうとしているこ とは,まさに価値の逆転であるからである。そう言えば,最後の3行の所で は,やたら,精神的ないしは宗教的含みを持ちうる名詞が使用されている。そ ういう方向を予想しかねない言葉が重ねられた挙句に,最後の行で「地上の王 冠」という,とんでもない言葉とぶつかるのである。その衝撃は随分大きいは ずである。そのような価値のぶつかりあいこそがマーロウの狙いとしたところ であって,王冠という世俗的なものの価値が,最:後の行の前半に至るまでに蓄 積されてきた分だけ高められようとしているのである。昇華されるとさえ言っ てよいかもしれない。それに対して,エリス=ファーマーのような逆方向の反 応には女史自身の価値観が強く働いていると考えられよう。劇作家は,ひょっ とすると,そのような反応さえ計算に入れていたのではなかったろうか。  というのも,これに先立つ場面で王冠は全く対照的な扱いをうけているから である。話は遡ってマイセティーズの廃位の場面に戻る(第2幕第4場)。マ イセティーズは,コスロウと手を組んだタンバレインに奪われるのを恐れて王 冠を隠そうとするが,タソバレインに見つかってしまう。問題の箇所は,顔を 合わせた二人が王冠を,商品あるいはキャッチボールのボールのように,やり とりするくだりである。神聖なはずの王冠が随分軽くあしらわれたものであ る。素朴な笑いを誘う場面と言ってよいが,その調子の軽さは,この間の対話 がすべて口語的な散文で書かれていることにもあらわれていよう。  M・C・ブラッドブルックは,エリザベス朝の舞台では王冠は全く型にはま った用いられ方をすることが多く,そのまま現代の舞台に移せば滑稽に見える であろう,という意味のことを言っている。そして,この場のやりとりについ ても,そのような観点に立てば一言葉をかえて言えば,王冠が具えている神 16) フィリップ・エドワーズもエリス=ファーマーの見方に疑問をなげかけている。Cf.  Philip Edwards, Threshold of a Natian: A Stzcdy in English and lrish Drama  (Cambridge Univ. Press, 1979), p. 57.

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 64 彦根論叢i第230号       17) 聖な力を忘れることがなければ一別の見方が可能であろうとしでいる♂土リ ザベス朝の劇一般に・ういては恐らくその通りであろう.。.しかし,、この場面に限 って言えば,やはり軽々しく取り扱われていると言わざるを得ない。一この場合 の王冠に,ブラッドブルックが力説するところの神聖さが,もともと欠けてい るということではない。王冠を扱う側の人物が問題なのである。それは言うま でもなく,マイセティーズが王冠を測る資格をもっていないということであっ て,この場面は,マイセティ ・一ズと王冠との埋め難い距離を滑稽に表現したも のであると考えられる。その意味で,マイセティーズが王冠を隠そうと思い立 つ時に述べる言葉は,この場面への前置きとして大事な視点を提供してくれて いる。 ...kings are clouts that every man shoots at, Our crown the pin that thousands seek to cleave.       (ll. iv. 8−9) マイセティーズの貧弱な想像力では,≡Eが弓矢の的(clout)に,王冠がその的 の中心(pin)にまで疑められるのである。  王冠とそれをめぐる人物との落差が印象づけられるこの場面をいわば前座と して,タンバレィンが王位に対する気持ちを刺激される,まえがきで触れた部 分をへて,いよいよ真打ちの登場という意味合いをもつのが先程の場面なので ある。その見せ場で,マイセティーズによって簸小化されていた王冠の価値が 回復されるばかりか,それをもはるかに越える意味の拡がりが,大胆.なコンート ラストによって明らかにされるのである。つまり王冠が,タンペレインの果て なき大望の象徴として理想化されるということである。これに対して,タンバ レインの欲望の抽象性と王冠の具体性との間に埋め難いギャップを見る見方が         ある。ブラッドブルヅクがそうであり,エリス=ファーマーも同じ見地から出 17) .M. C. Bradbrook, Themes and・ Conventions of Elixabethan Tragedy (Cambridge  Univ. Press, 1935), pp. 143f. 18) lbid.

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      コンヴェンションとコン1・ラスト  65 発しているのであろう。そういう側面に限って言えば,なるほどその通りかも しれない。しかしながら,ギャップと言うならば,留意すべきものは,もう少 し別のところにある。それは,王冠の内在的意味というよりはむしろ,タン バレイソ自身の内より生じてくるものなのである。そのことが明らかになるの は,トルコの強敵バジャゼスを撃退する,もうひとつの見せ場においてであ り,そこでもまた,象徴としての王冠が見過ごすことのできない働きをする。 皿  すでに触れた第3幕第3場の言葉による合戦の後,タンバレインはトルコ王 バジャゼスを捕虜とし,その意気盛んであった鼻をへし折り虐待する。その甚 だしいあらわれが,バジャゼスを踏み台として玉座に登る場面である。これに は前例があるらしいが,舞台全体がひとつのエンプレムを構成するという仕組 みになっている。「奢.る平家は久しからず」のヨーロッパ版である「運命の車 輪」のコンヴェンションが,生身の人間によって表現されるのである。この活 人画(table4U wivant)の場面で,運命の急転を味わうことになったバジャゼス を文字通り踏み台としながら,タンパレインは次のようなセリフを吐く。 Now clear the triple region of the air And let the majesty of heaven behold Their scourge and terror tread on emperors. Smile, stars that reigned at my nativity And dim the brightness of their neighbour lamps− Disdain to borrow light of Cynthia, For 1, the chiefest lamp of all the earth, First rising in the east with mild aspect But fixbd now in the meridian line, Wi11 send up fire to your turning spheres And cause the sun to borrow light of you. My sword struck fire from his coat of steel Even in Bithynia, when 1 took this Turk:

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     As when a丘ery exhalation      Wtapt in the bowels of a freezing cloud,      Fighting for passage, makes the welkin crack,      And casts a flash of lightning to the earth.      But ere I皿arch to wealthy Persia      Or leave Damascus and th?Egyptian fields,      As was the fame of Clymen’s brain−sick son      That almost brent the axletree of heaven,      So shall our swords, our lances and our shot      Fill all the air with fiery皿eteors;      Then, when the sky shall wax as red as blood,      It shall be said 1 made it red myself,      Toエnake me think of naught but blood and war.        (IV’. ii. 30−55) 舞台上に平伏して惨めな姿をさらすバジャゼスに対して,タンパレィンは視線 を上に向け天空に向かって,まさしく豪語している。前者とは対照的にタソバ レインが運命の頂点に立っていることは,8行目から9行目にかけて,東方の スキタイから出発し,今や「太陽がその最高点に達する所」(meridian Iine) にいると,自ら語っているところがらもわかる。問題であるのは,「固定した」 (丘xed)という言葉がここで使われていることである。  タソバレインはすでに,セリダマスへの誘いのスピーチの中で,「運命の車 輪」の考え方に触れたことがある。 1 hold the Fates bound fast in iron chains, And with my hand turn Fortune’s wheel about...       (1. ii. 173−74) 「運命の女神たちを鉄の鎖に縛りつけ,自分の手で運命の輪を廻す」という, 前の「地上の王冠」のスピー一一一チに劣らぬほど有名な言葉であるが,それがこの 場面で半ば実現されたことになる。しかしながら,伝統的な考え方を,伝統的 なエンプレムを意識させるかたちで否定することには多少なりとも危険が伴

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      コンヴェンションとコントラスト  67 う。微妙な意味合いが生じてくる余地があるからである。この場は第一に,か つて権勢を誇っていたバジャゼスに対する意味をもつ。ただそれだけではな く,タソバレインがかつてのパジャゼスと同じ位置に身を置いたことをも示し ている。したがって,‘丘xed’という言葉は,運命の変転を否定する一方で,逆 方向の意味をも浮かび上がらせるという二様の働きをするのである。  20項目のファエトン(Phaeton)への言及も同様に二方向の含みを持ってい る。日輪の車を駆ったという神話中の人物に言及することは,自ら地上の太陽 と称するタンバレインに,ある意味では相応しい。しかし,ファエトンの話に は,それがために身を滅すことになったという,あまり芳しくない結果が必ず ついてまわる。さらにこの人物は,ハリー・レヴィソがその古典的マーロウ論 の中で,マーロウという劇作家を見る上での中心的イメージとしているほどに        ユの 大切な存在である。それほど深い関連をもつものだけに,劇作家自身が一方の 側面を無視しえたとは思われない。  このようにタソバレインが堂々たる勇姿を見せる場面であるにもかかわら ず,二面的な解釈をゆるす曖昧さから不安定な要素が生じている。それは怒号 に近い一節全体の調子と無関係ではないであろう。整然としたセット・スピー チのかたちが崩れてもおかしくはないほどの内容がここには盛り込まれてい て,さまざまな不安定の要素は,その激しい調子に掻き消されてしまってい.る とも言えるし,逆に,その調子ゆえにかえって意識されるとも考えられる。い ずれにせよ,これまでにはなかったか,あるいはあったとしても目立つことの なかった色合いが現われたことは少なくとも確かである。タンバレイソが文字 通り頂点に立ったことで,劇は新たな段階に入ったのである。  この点で,バジャゼスに対する勝利を祝う宴会の場(第4幕第4場)には大 変興味深いものがある。これは,トルコ王とその妃への虐待を余興として開か れる随分と狼雑な宴の場面である。そればかりか,この劇の中では珍しく散文 が多用され,韻文と散文とが入り乱れるという現象が見られる所でもある。そ こで,散文で書かれた箇所を韻文にする試みが,エリス=ファーマーの版を含 19) Cf. Harry Levin, ChristoPher Marlowe: The Overreacher (Faber, 1961).

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       20) めて何度かあったが,おおむね無駄骨に終わっているようである。というの も,二つの形が意識的に使い分けられており,それが効果的なコントラストを        生み出すからである。すなわち,虐待される側はブランク・ヴァースでもって 嘆きや呪いの言葉を吐き,それを受けて嘲笑する側に散文が多く使用されてい る。両者の間の形の違いが敗者と勝者の差を滑稽に描き出していると言づてよ いが,同じく散文で書かれていた,マイセティーズとの王冠のやりとりの場面 のような素朴な笑いでは済まされないものがここにはある。バジャゼスをから かうタンパレインの辛辣な言葉には,「運命の車輪」の場面で聞きとれなくも なかった響きの明瞭な表現と言えるものが感じとれるからである。それは,果 てなき征服欲といったものからは程遠いものであることは言うまでもない。  この印象を決定的にしているのは,この宴の終わり近くで王冠が食卓に供す るものとして運ばれてくる所であろう。ブラッドブルックが想像しているよう       きう に,これは王冠を象った菓子と考えられるが,これではマイセティーズの場合 に劣らず軽々しい扱いがされていると言わざるをえない。この場面を支配して いる空気を考えれば,一層その感が強くなろう。ブラッドブルックは,王冠の 神聖な力を云々するときに,さすがにこの箇所には触れていない。それは別に しても,王冠がこのような扱いを受ける意味は決して小さくはない。征服への 欲望の象徴にまで高められていたものとこれとの落差は,そのままタンバレイ ソをめぐる状況の違いを示していると言うことができるからである。  劇の筋立てから言っても,目前に控えているダマスカス攻防戦には,妃のゼ ノクラティーの実父が敵方として関係しており,それがタンバレインにとって ひとつの大きな壁として立ちはだかることになっている。それは単なる物理的 な壁ではなくて,次元を異にした含みをもつ。タンバレインの征服欲は初めて 現実的な力の攻勢にぶつかり,その本質が問われることになるのである。この 20)逆に,元のテキストでは韻文となっている所を散文に必ずケースもあることを付記  しておかねばならない(e.g. IV. iv.101f.)。 21) このあたりの散文の効果については,ここで使用しているテキストの編者J・S・カ  ニンガムの脚注が参考になる(e.g. p.188n.)。 22) OP. cit., p. 144.

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      コンヴェンションとコントラスト  69 ような流れの中に置いてみれば,宴の場面におけるバジャゼスの虐待も菓子の 王冠も,余興としての働きばかりでなく,ある意味で終幕を予見する意味をも つと考えてよい。そしてそれは,タンバレイソに対する,現実からの竹箆返し に他ならないのである。 rv  タンバレイソの葛藤を扱う第5幕ほど様式性ということが問題となり,ま た,コントラストが大きな力を発揮する所はない。そしてその両者に関連して 言葉というものに対する態度がこれまでになく鮮明に打ち出されてくるのであ る。それはまず,落城の迫ったダマスカスから派遣される乙女たちによる助命 嘆願の場面にあらわれる。ここで乙女たちは,ブラッドブルックが指摘する通        う り,型にはまった,陳腐と言ってもよい訴えかけをするのだが,あまりに様式 的であることが歴然としているがために,単なる様式性の指摘で済ますことの できない要素があらわれている。それは,一言で言えば,様式自体についての 意識ということになろう。乙女たちの嘆願は予想通りタンバレインによって, すげなく斥けられるが,この場のやりとりが示すものは,無慈悲なタンバレィ ンの姿だけではなくて,この劇の重要な側面としてあった,言葉による説得の 挫折でもあるのである。フォーマルなレトリックの空しさと言ってもよい。そ して大事なことは,その空しさを味わうのが乙女たちだけではなくタンノミレイ ン自身に他ならないという劇の展開なのである。  乙女たちが退場した後,舞台上に一人残ったタンバレインは,この劇の中で 唯一の,本来の意味での独白をする。それは56行もの長さに及んでいる。ま ず,実父の生命を気づかって涙を流すゼノクラティーの姿を次のように,劇の はじめの方で彼女を説得した時を想い起こさせる調子で描写し,’ №墲ケて難し い立場に追い込まれた心境を吐露する。 23) Op. eit., pp. 139f.

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彦根論叢第230号 Ah fair Zenocrate, divine Zenocrate, Fair is too foul an epithet for thee, That in thy passion for thy country’s love, And fear to see thy kingly father’s harm, With hair dishevelled wipest thy watery cheeks; And like to Flora in her morning’s pride, Shaking her silver tresses in the air, Rainest on the earthエesolvさd pearl in showers And sprinklest sapphires on thy shining face Where Beauty, mother to the Muses, sits And comments volumes with her ivory pen, Taking instructions from thy flowing eyes, Eyes, when that Ebena steps to heaven In silence of thy solemn evening’s walk, Making the mantle of the richest night, The moon, the planets, and the meteors, light. There angels in their crystal armours fight A doubtful battle with my tempted thoughts For Egypt’s freedom and the Soldan’s life− His life that so consumes Zenocrate, Whose sorrows lay more siege unto my soul Than all my army to Damascus’ walls; And neither Persia’s sovereign nor the Turk Troubled my senses with conceit of foil So much by much as doth Zenocrate. この最後の部分でタンバレインの葛藤が,攻城戦というこの場面に相応しい比 喩でもって表.サされた後を受けて,問題となる次の箇所が続く。 What is beauty, saith my sufferings, then? If all the pens that ever poets held Had fed the feeling of their masters’ thoughts And every sweetness that inspired their hearts,

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      コンヴェンションとコントラスト Their minds and muses on admired themes; If all the heavenly quintessence they still From their immortal flowers of poesy, Wherein as in a mirror we perceive The highest reaches of a human wit− If these had made one poem’s period And all combined in beauty’s worthiness, Yet should there hover in their restless heads One thought, one grace, one wonder at the least, Which into words no virtue can digest. 71 問題というのは,このような文字通り血腱い場面に詩人が持ち出されるのは, 直前の部分とは違って,いかにもそぐわないという見方がないわけではないと いうことである。しかし話は逆であって,この劇において言葉というものが持 っている意味や,それが果たす機能を考えてみれば,大言壮語を恣にしていた タンバレィンが,「言葉に移し変えられないもの」に直面していることの意味 は明らかであろう。王冠と征服欲との関係がちょうどそうであったように,タ ンバレィンの征服欲を阻むものがあることが,言葉の壁というかたちで象徴的 に表現されているのである。  このような内容が表現される所に,‘The h量ghest reaches of a human wit’と か‘restless heads’といった,第2幕の王冠を昇華するスピーチを想い起こさ せる言葉が見られるのは,ある意味で当然のことかもしれない。この後に続く 部分は,そのスピーチになかば似もし,また重要な相異点もある調子で,タン バレィンが「美」と「武」の相剋を,いわぽ止揚していく様を表現している。 But how unseemly is it for my sex, My discipline of arms and chivalry, My nature, and the terror of my name, To harbour thoughts effeminate and faint! Save only that in beauty’s just applause, With whose instinct the soul of man is touched一

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     And every warrior that is rapt with love      Of fame, of valour, and of victory,      Must needs have beauty一 beat on his conceits−      1 thus conceiving and subduing, 一both,      That which hath stopped the ・tempest of the gods,      Even from the fiery spangled veil of heaven,      To feel the loveiy warmth of shepherds’ flames      And march in cottages of strewed weeds,      Shall give the world to note, for all my birth,      That virtue solely is the sum of glory      And fashions men with true nobility.       (V. i. 135−90) この部分の5回目から9丁目までの5行は,原稿が損われているとも考えられ る要素があって,難解な箇所として有名である。したがって,構文をめぐる幾 つかの解釈や句読法の改変などが行われてきているが,伝えられる意味に大幅 な変更が出てくるほどのことはないようである。少なくとも意味の方向性はは っきりしている。とすると魅力的に見えて.くるのはカニソガムの解釈であっ て,この珍しく複:雑に入り組んだ構文をタソバレインの葛藤を意識的に表現し        24) たものであると見るのも,必ずしも穿ちすぎとは言えな.いであろう。いずれに せよ,タソバレインは,この「劇的な光でもって自己を眺める」珍しいスピー チによって葛藤に終止符を打ち,劇は大詰を迎えることになるが,そこで繰り 広げられる舞台上のはなばなしい出来事に対しても,この独白は微妙な問題を 投.げかけるのである。  まず,・ミジャゼスが再び登場して,引き続く虐待によって欝積した怒りを, 次のような言葉で始まるスピーチの中で表現し,例によって自己の不遇をかこ つことで「運命の車輪」の主題を再び浮き彫りにする。 O life mor.e loathsome to my vexed thoughts Than noisome parbreak of the Stygiap snakes 24) Op. cit. p. 201n.

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      コンヴェンションとコントラスト Which fills the nooks of hell with standing air, Infectlng all the ghosts with cureless griefs! O dreary engines of my loathbd sight That sees my crown, my honour, and my name Thrust under yoke and thraldom of a thief...        (V. L 255−61) 73 クレメンの言う典型的な嘆きのセヅト・スピーチである。そして,ついに苦痛 に耐えかねて,入れられていた艦の格子に頭を打ちつけて自ら生命を断つ。       Novv, Bajazeth, abridge thy baneful days       And beat thy brains out of thy conquered head,       Since other means are all forbidden me       That may be ministers of my decay.       O highest lamp of ever−living Jove,       Accursed day, infected with my griefs,       Hide now thy stained face in endless night,       And shut the windows of the lightsome heavens...       (V. i. 286−93) これを見た妃も同様にして後を追うが,さらにゼノクラティーが二人の無惨な 最期を目のあたりにする。       But see anotheエ・bloody spectacle!       Ah wretched eyes, the enemies of my heart,       How are ye glutted with these grievous objects. . .       (V. i. 340−42)  凄まじい雰囲気を盛り上げようとするためなのか,マーロウがこの一連のエ ピソードにおいて,スペンサー一の『神仙女王』(The Faeノ%Queeize)中の二つ の連続したスタンザから,かなりの盗用を行っていることは大変興味深い事実   あう である。マーロウがどのようにスペンサーの言葉を鎮めているかを見るため 25) この劇の初演時には,スペンサーの作品はまだ出版されていない。したがって,マ  ーロウが劇を出版する際に加筆した可能性もあるが,今,そのどちらの場合であるの

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に, あえてその全文を掲げておく。 Ye dreary instruments of dolefull sight,   That doe this deadly spectacle behold,   Why do ye lenger feed on loathed light,   Or liking find to gaze on earthly mould,   Sith cruell fates the carefull threeds vnfould,   The which my life and loue together tyde?   Now let the stony dart of senselesse cold   Perce to my hart, and pas through euery side, And let eterna11 night so sad sight froエne hide. O lightsome day, the lampe of highest loue,   First made by him, mens wandring wayes to guyde, When darknesse he in deepest dongeon droue,   Henceforth thy hated face for euer hyde,   And shut vp heauens windowes shyning wyde:   For earthly sight can nought but sorrow breed,   And late repentance, which shall long abyde.   Mine eyes no more on vanitie shall feed,       26) But seeled vp with death, shall haue their deadly meed. これだけの数の盗用では安易なやりかたに見えかねないが,ことによると,コ ンヴェンションというものに対する意識がマーロウの頭の中で働いていたのか もしれない。というのは,この一連のエピソードにまつわる,もうひとつの重 要な事実にも,その意識が,もっとはっきりとしたかたちで見えるからである。   単なる表現のレヴェルにとどまらず,内容の面でも,「眼」が,これらの一 連の出来事を緊密に結びつけていることに注意しなけれぽならない。バジャゼ   か問う必要はない。Cf. F. S. Boas, ChristoPher Marlowe’ABio9「aPhical and   Critical Study (Oxford Univ. Press, 1940), pp. 72f. 26) J. C. Smith (ed.), The Faerie Queene (Oxford Univ. Press, 1909), Book 1, Canto   vr, stanzas xxii−xxiii.

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      コンヴェンションとコントラスト  75 スははじめの引用文で,この世の生を忌避する気持ちから眼を厭わしいものと 感じていた6夫の死に様を見たゼイビーナの口から最初に出る言葉も ド What do mine eyes behold? My husband dead! (V. i. 305) であり,それをさらに引き継ぐのが上のゼノクラティーのセリフという具合 に,眼を媒介として連続が意識されるかたちになっている。しかも,他ならぬ タソバレインが独白の中ですでにゼノクラティーの眼を取り上げていたのであ る。この照応関係は決して偶然ではありえない。  タソバレインは,独白の13行目から19行目にかけて,涙に濡れるゼノクラテ ィーの眼を葛藤の象微として捉える一方で,その眼が代表する美を言葉にでき ないことに思い悩んでいた。その主観的な壁が現実の形をとって客観的に表現 されたと考えられるのが,この一連の事件なのである。その中でも,ゼノクラ ティーが示す,バジャゼスと同様の反応は,とりわけ大きな意味を持っていよ う。バジャゼスに似ているのは,眼を忌み嫌うという情緒的反応にとどまらな い。後者がその生身の表現であったところの「運命の車輪」の考えを,今度は ゼノクラティーが謳い上げるのである。 Those that are proud of fickle empery And place their chiefest good in earthly pomp− Behold the Turk and his great emperess! Ah Tamburlaine my love, sweet Tarnburlaine, That fightest for sceptres and for slippery crowns, Behold the Turk and his great emperess!        (V. i. 353−58) ここには,コロスと呼んでもよいほどに伝統的な内容が盛り込まれ,また表現 の面でも,リフレインがあるなど,フォーマルな形を意識して書かれている。 直前のゼイビーナの発狂の場面が,乱れた散文で書かれているだけに,その点        27) が一層際立って意識される。したがって,語り手は誰であってもよさそうなも 27) Cf. Clemen, oP. cit., p. 283.

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のである。にもかかわらず,わざわざゼノクラティーが選ばれていることには 重大な意味が込められているはずである。それは,バジャゼスというパPディ ーの対象ではなくしてゼノクラティーに語らせることによって,このコンヴェ ンショナルな内容の様式的な表現とタソパレインの独白との間にある隔たりが 鮮明にざれる,ということをおいて他にはない。二つの場面を結びつけている, ゼノクラティ 一一の眼が介在することで,そのコントラストは一層強く意識され ることになろう。  ダマスカス攻略が完了し,ゼノクラティーの実父の生命が救われることで劇 は一応,大団円となるが,「運命の車輪」の場面から高まる一方であった緊張 感は完全に解消されることはない。それどころか,舞台上に横たわるバジャゼ スなどの亡骸を指してタソバレインが語る次の言葉は,その緊張を一層高める 結果になっている。 And such are objects fit for Tamburlaine, Wherein as in a mirror may be seen His honour, that consists in shedding blood When rnen presume to manage arms with him.        (V. i. 476−79) 2行目に用いられている‘mirror’という言葉は,コンテクストからして,「王 侯の鑑」などと言う時の含みを当然もっているが,同じ言葉が,タンバレイン の独白の中で‘The highest reaches of a human wit’とともに用いられてい たことも思い出す必要があろう(V.i.167£)。その両者の間の落差が,この 場面では,バジャゼスとタンバレイソとの間で視覚的にも表現されているので ある。そのような眼で見れば,舞台の上で平伏すバジャゼスのタンバレインに 対する呪いの言葉にあった‘mount as high as eagles soar’(V. i.224)は, 単なる呪いとして済ますことのできない重みをもって響いてくる。それは不協 和音として幕が閉じても消え去ることはないのである。  以上のように,様式というものが意識的にコントラストをなすかたちで用い られているところがら,見過ごすことのできない曖昧さが生じてきていること

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      コンヴェンションとコントラスト  77 を見てきたが,それは,この作品における様式のあり方を示す大事な特徴であ るとともに,マーロウが主人公を賞揚しているのかどうかという微妙な問題を 考える上での,ひとつの指標ともなろう。もちろん否定していると.は思われな い。むしろ劇作家の態度には意外に醒めたところがあって,『タソパレイン』 という作品は,いわゆるルネッサンス的英雄の理想と現実を,センセーショナ ルなかたちで舞台上に取り上げた「問題劇」と言った方がより適切であろう。       う そしてそれは,続篇として書かれた第二部は言うに及ばず,この第一部と同じ く,道徳劇というコンヴェンションが複雑な問題を提起し,また, This word‘damnation’terri且es not him,       ラ For he confounds hel正in Elysium: という言葉が見える,後期の作品『フォースタス博士』において深く掘り下げ られる主題と密接に繋がるものでもあるに違いない。  マーロウとほぼ同時代の詩人マイケル・ドレイトンは,その連作ソネット集 (ldea)の終わり近くで,連作を振り返りながら,ほとんど逆説だけで成立し ている一篇(第62番)を書いているが,その中に次のような言葉がある。 1 build my Hopes a world above the Skie,        30) Yet wlth the Mo1e 1 creepe into the Earth. マ・一一 pウとドレイトンとでは,スケールの大きさから言って,それこそ天と地 ほどの開きがあろうし,逆に,これほどの軽妙さはマーnウにはないかもしれ ない。しかし,そのマーロウも,この最も初期の作品においてさえ,天を仰ぐ 眼ばかりでなく,地を這う視線とも決して無縁ではなかったことは大切なこと のように思われる。 28)第一部と第二部との「関係」については,さまざまな見方があるが,内容から言っ  て当然深い関係があるとはいえ,第一部を一個の独立した作品と考える。 29) John Jump (ed.), Doctor Faustors (Methuen, 1962), sc. iii, 11. 61f. 30) Maurice Evans (ed.), EJizabethan Sonnets (Dent, 1979), p. 113.

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