輪車産業の事例とミャンマーへの含意
著者
藤田 麻衣
権利
Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア
経済研究所 / Institute of Developing
Economies, Japan External Trade Organization
(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp
シリーズタイトル
研究双書
シリーズ番号
606
雑誌名
ミャンマーとベトナムの移行戦略と経済政策
ページ
65-100
発行年
2013
出版者
日本貿易振興機構アジア経済研究所
URL
http://hdl.handle.net/2344/00011291
輸入代替産業の発展と政策転換
―ベトナム二輪車産業の事例とミャンマーへの含意―藤 田 麻 衣
はじめに
発展途上国において経済成長を妨げる政策・制度が温存されやすいとみら れてきた領域の一つに,輸入代替産業がある。1960年代までのアジアやラテ ンアメリカ諸国における輸入代替工業化の歴史を紐解くと,幼稚産業の保護 を目的とした輸入規制がいったん導入されると,企業は競争力を向上させる インセンティブをもたなくなり非効率な経営が改善されないばかりか,企業 が保護の継続を要求し自由化や改革に抵抗する政治勢力となる,といった弊 害が広く観察された。こういった現象は,序章第 4 節の議論に照らせば,⑴ 輸入規制や補助金といった政策がいったん導入されると,それらから裨ひ益えきす る企業群が政治力を用いて自らに利益を誘導する政策の温存を図るようにな るため,政策の改革は選ばれにくくなる,⑵内需向け産業においては外国と の接点はおおむね限られる傾向にあるため,国際経済への統合に伴う政策変 化のきっかけも生じにくい,という二つの側面から説明できる。 しかし,近年,世界貿易機関(WTO)のもとでの貿易自由化の進展ととも に,発展途上国が輸入代替産業を振興することは困難になりつつある。これ は,輸入代替工業化政策の基本的ツールである輸入規制,国産化政策,特定 の企業を対象とした補助金などの使用が WTO 体制下では制限されるからである。こういった潮流には多くの批判もなされているが,多くの発展途上国 が直面する現実として,工業化政策にも一種の「国際標準」が導入されるよ うになってきているとみることができる。 東南アジア諸国のなかでも比較的人口の多いベトナムとミャンマーは,い ずれも輸入代替産業振興の可能性をもつ国だといえるが,現実の展開はベト ナムが大幅に先行する形となっている。ベトナムでは,経済の安定化が達成 された1990年代半ばには早くも,2020年の工業国入りを目標として工業化・ 近代化路線が打ち出された。国有企業(外国企業との合弁企業を含む)を主た る担い手として重化学工業の育成が進められるなか,産業の競争力の低さと 発展展望の乏しさ,自由化や改革へ抵抗する勢力の台頭など,まさに上述の ような輸入代替工業化の弊害が批判の的となったのが1990年代末から2000年 代初頭にかけてである(大野[2003]; World Bank[1997]; Centre for International Economics[1998], [1999]; Kokko and Sjoholm[2000]; Chand et al.[2001])。しか し,2000年代に入ると,米越通商協定締結や WTO 加盟に向けた交渉が進む なかで,ベトナムは輸入規制をはじめとした政策の見直しを迫られてきた。 これに対し,ミャンマーでは,現在までのところ国内市場向けの工業製品の 生産には目立った進展はみられない。ただし,今後,国内市場の拡大と事業 環境の改善が進めば,輸入代替産業振興の機運が高まる可能性は高いと考え られる。 本章は,ベトナムにおける輸入代替産業の発展を題材として,経済発展を 妨げるような政策がなぜ導入され,それはどのような契機によって是正され 得るのか,という課題を考察する。ベトナムの輸入代替産業に対する政策を 考察するにあたり,本章では二輪車産業をとりあげる。この産業では,1990 年代半ばに輸入保護とインセンティブの提供を通じた外国投資の誘致によっ て国内生産が始動したものの,2000年代初頭までは,場当たり的で一貫性を 欠き,外資系企業の事業展開の足かせとなるような政策介入がきわめて多か ったとされる(植田[2003])。にもかかわらず,2006年までにベトナムは, 中国,インド,インドネシアに次ぐ世界第 4 位の二輪車生産国に浮上した。
急拡大する国内市場をめぐって内外企業が価格・品質・製品デザインをめぐ る熾烈な競争を繰り広げ,外資系二輪車企業の国産化率は90%を超える。本 章では,ベトナムの輸入代替産業としては異例ともいえる同産業の良好なパ フォーマンスは,どのような政策の変遷によって可能になったのかを分析す る。さらに,将来ミャンマーにおいて輸入代替産業振興の機運が高まった場 合において,どのような政策をとることが望ましいのか,ベトナムの経験か ら得られるインプリケーションについても議論したい。 以下,本章は次のように構成される。第 1 節では,分析の対象と方法を述 べる。第 2 節では,ベトナム二輪車産業における政策の変化を考察し,産業 発展のプロセスにおいて,二つの重要な政策変化の局面があったことを指摘 する。第 3 節では,第 2 節で指摘した二つの政策変化がどのような背景によ って実現したのかを説明する。第 4 節では,政策の評価を試みる。第 5 節で は,ミャンマーの輸入代替産業として自動車産業の例を簡単に紹介し,ベト ナムの経験からのインプリケーションについて考察する。最後に分析の結果 をまとめる。
第 1 節 分析の対象
―ベトナムにおける政策と資源配分― 本章は,輸入代替産業をめぐる政策の分析にあたり,政策が産業にかかわ るアクター間の資源配分に与える影響に着目する。産業にかかわるアクター としては,国籍を問わずベトナムにおいて二輪車および二輪車部品の製造に 従事する企業のほか,関連するベトナムの国家機関,関連する外国の政府, 消費者,業界団体も含め対象とする。本来,資源配分の仕組みとしては,市 場を通じた配分が最も効率的であるはずだが,それでは国家にとっての中長 期的な目標の達成が難しくなる場合がある。発展途上国の政府が,自国の産 業を輸入品との競争から一時的に遮断し,場合によってはさまざまな補助を 与えつつ学習を通じた生産性の向上を促し,輸入代替産業を保護育成しようとする取り組みは,市場に逆らった政策介入の代表例である。 ベトナムにおける政策形成,実施の体系について言及しておくと,共産党 が10カ年発展戦略などとして中長期的な国の発展の方向性を示し,それに沿 って国会が法律や法令を審議・採択し,さらには政府,首相,省庁などがよ り具体的かつ詳細な規定を定めた法規文書(決定,議定,決議,指示,通知な ど)を発行し,実施する,という仕組みになっている。これらのうち,産業 にかかわるアクター間の資源配分に影響を与える政策としては,産業レベル の発展戦略,マスタープラン,計画のほか,税制,貿易政策,外国投資政策, 参入規制,パフォーマンス規制(国産化政策や輸出要求など),製品基準など が該当する。こういった個別の政策ツールが本章の主たる分析対象となるが, それらがより高次の国家の発展戦略や法律によって制約されていることを分 析の前提として念頭においておく必要がある。また,立場の異なる多様な機 関が政策の策定や実施に携わっていることも,分析にあたって考慮すべき重 要なポイントである⑴。 なお,国家が特定の産業(の特定のアクター)に対し重点的な資源配分を 行うにあたり,どのような条件が定められ,条件の遵守がどのように担保さ れるかは,政策の実効性に大きな影響を与える。たとえば,保護や支援の対 象企業から生産性向上のための努力を引き出すためには,保護が期限付きで 行われること,保護を受けた企業のパフォーマンスが監視されること,期待 されるパフォーマンスの向上がみられない場合には保護が打ち切られるとい う確かな脅し(credible threat)があることが重要だとされる⑵(Grabowski
[1994])。よって,本章においても,政策に定められた資源の配分のあり方 のみならず,資源配分対象となったアクターには政策上どのような条件が設 定されていたか,また,現実に条件の遵守がどのように担保されていたかと いった点にも配慮しつつ,分析を進めていくこととする。
第 2 節 政策の変遷
本節では,ベトナム二輪車産業における政策の変遷を,産業発展の過程と 関連づけつつ考察していく。1990年代半ば以降施行された二輪車産業にかか わるアクターに影響を及ぼし得る主要な政策を検討した結果,政策転換にお ける明確な区切りはないものの,政策の変遷は大きく三つの段階に分けられ ること,さらに政策の各段階が産業の発展段階(Fujita[2011])と対応して いることが明らかになった。したがって,以下ではそれぞれの段階における 政策の特徴を,アクターに対する資源配分の構造に着目しつつ論じていくこ ととする。 1 .1990年代―保護下での外資の誘致を通じた産業の始動― ベトナムにおける二輪車の製造は,市場経済化と対外開放の進展によって 日本やタイからの二輪車輸入が拡大し始めた1990年代前半,ベトナム政府が 外国投資の誘致を通じた二輪車の輸入代替化政策を打ち出したことに端を発 する。1992年に台湾の山陽工業⑶が認可を取得し,その後も,1995年にスズ キ,1996年にホンダ,1999年にヤマハと,日本の主要二輪車企業が続いた。 ベトナムが外国投資の誘致にあたって打ち出そうとしたアクター間の資源 配分の仕組みを,政策文書上と実態上に分けて図式化したのが図 1 である。 政策文書上は,ベトナム政府が完成車輸入を規制することにより,拡大しつ つある国内市場へのアクセスを限られた数の外資系二輪車企業に与える見返 りとして,外資系二輪車企業に国産化や技術移転など産業発展への貢献を求 めるものとなっている⑷。いまだ市場規模は小さかったとはいえ,中長期的 な成長が期待される市場へのアクセスは外資系二輪車企業にとって大きな魅 力であった。外資系二輪車企業に対しては,税制面での手厚い恩典も提供さ れた⑸。首相決定11/1998/QD-TTg(1998年 1 月23日付)により1998年初めから完成車の輸入は禁止された。 ベトナム政府が市場アクセスと税制面の恩典に対する見返りとして外資系 企業に求めたのは,国産化と技術移転を通じた「工業化・近代化」への貢献 である⑹。二輪車製造および部品生産に投資を行おうとする外国企業は,ベ トナム企業と合弁企業を設立することを求められた。実際,1992年に認可を 取得した台湾の山陽工業は例外的に100%出資子会社の設立を認められたも のの,その後に認可を取得した日本企業 3 社はいずれもベトナム国有企業と の合弁企業を設立している。1994年の国家計画投資委員会のガイドラインは, 外国企業の参入にあたって単純組立は許容されないこと,国産化の推進が必 須であることを定めている⑺。具体的には,操業後 5 ∼ 6 年間のうちに国産 (政策文書) (実態) 輸入 (輸入保護は徹底されず) (国産化も クオータ (条件としての国産化 徹底されず) 配分 監視されず) 競争 外資系二輪車企業 政府 国有輸出入企業 輸入保護と市場アクセス 国産化/技術移転 (ただし独占は許容せず) 政府 外資系二輪車企業 図 1 産業内資源配分の仕組み(1990年代) (出所) 1994年 8 月11日付国家計画投資委員会通知1536/UB-VP,藤田[2006]等に基づ き筆者作成。
化率60%を達成するという目標が示されていた。 しかし,外資系二輪車企業が投資ライセンスを供与されるにあたっての条 件であったはずの技術移転や国産化は,1998年までは政策として具体化され ておらず強制力を欠いていた。1998年12月に国産化率に連動した部品輸入関 税政策(1998年12月25日付財務省決定1994/1998/QD-BTC)が発表されたものの, 企業による強い反対にあったために施行は大幅に遅れた。全面的な施行に至 ったのは2001年 1 月から(石田[2001])と,次なる発展段階を迎えてからの ことであった。 その一方で,ベトナム政府が外資系二輪車企業に約束した市場へのアクセ スも遵守されなかった。完成車の輸入が禁止された1998年以降も,国有輸出 入企業によってタイ製日本ブランド車は輸入され続け,国内消費者の国産品 不信も相まって,日本ブランド国産車の販売は伸び悩んだ(藤田[2005])。 国有輸出入企業は,国産化を伴う二輪車製造・組立を行う企業として認証を 受けることを条件に,商業省からの輸入クオータの配分を受けることになっ ていたが⑻,現実には国産化の進捗を監視する仕組みは存在せず,この条件 は強制力を欠いていた。 2 .2000年代初頭―中国ショック― 2000年代初頭,中国から大量の模倣車が流入する「中国ショック」という 現象に伴い,産業は新たな発展段階に突入した。完成車の輸入は禁止されて いたことから,中国製模倣車は部品キットとして輸入され,それらを組み立 てる「地場組立企業」⑼50社以上が乱立した。そのなかには,1990年代にタ イや日本からの二輪車輸入を手掛けていた国有輸出入企業も多く含まれてい た。地場組立企業によって組み立てられた中国製模倣車(以下,「中国車」⑽) は日本ブランド車のおよそ 3 分の 1 から 2 分の 1 という圧倒的な低価格で国 産車・輸入車を含む日本ブランド車の市場シェアを奪うのみならず,都市部 や農村部の中・低所得層という未開拓の市場にも浸透した。ベトナムの二輪
車市場の規模は,1998年の30万台前後から2001年には200万台超へと数年の うちに 7 倍近くにも拡大し,中国車は膨張した市場において約80%の市場シ ェアを占めた(図 2 )。 以上の展開から示唆されるように,中国ショックは,1990年代に構築され 始めつつも,いまだ機能するに至っていなかった産業内資源配分のメカニズ ムの崩壊をも意味していた。仮に,国産化や技術移転を条件に国内市場の割 り当てを認めるという政策が機能していれば,大量の中国車が流入するとい う事態は生じ得なかったはずだからである。 しかし,2001年頃から,産業内の秩序を回復すべく各省庁が対策に乗り出 すなかで,徐々に新たな資源配分の仕組みが形成されていった。ただし,あ らかじめ明確な方向性が打ち出され,それに沿って個別の政策が策定されて いったわけではない⑾。この段階においては,ときに相互に矛盾し,一貫性
(出所) 1998∼2005年は,Bo cong nghiep[2007]。2006∼2008年は,2009年 3 月の在越日系 および台湾系二輪車企業ならびに部品企業の聞き取り調査に基づいた筆者の推計値。 (注) 1) 「地場組立企業・その他」には,個別に表示されていない外資系二輪車企業(具体 的には中国系の力帆ベトナムおよびタイ系の Vina Siam),「ホンダ(輸入車)」お よび「輸入スクーター」に該当しない輸入品が含まれる。いずれも市場シェアは 小さいため,「地場組立企業・その他」はおおむね地場組立企業のシェアに相当 するとみなすことができる。
2) VMEP: Vietnam Manufacturing and Export Processing Co., Ltd. 台湾の慶豊集団の 100%出資によって設立された。 図 2 市場の成長とシェア 0 0.5 1.0 1.5 2.0 2.5 3.0 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 販売台数 (100万) 地場組立企業・その他1) 輸入スクーター VMEP(台湾系)2) ベトナムスズキ ヤマハベトナム ホンダ(輸入車) ホンダベトナム
を欠くかにみえる政策が五月雨式に導入されるなかで,徐々に大枠としての 新たな秩序が形成されていった。 新たな枠組みは,図 3 に示される。その最大の特徴は,政府が重点的な資 源配分を行いつつ育成を図る対象が外資系二輪車企業から地場組立企業へと 変化したことである。資源配分の仕組みとしては,⑴政府が市場規模を管 理・抑制し,地場組立企業に優先的に市場を割り当てる,⑵部品製造への投 資や国産化を義務づけ,とくに地場組立企業の本格的製造企業への転換を促 す,⑶外資系二輪車企業に対しては国内市場へのアクセスを駆け引きの材料 として用い,資本や技術の移転を求める,の三つの特徴がみられた。以下, 順を追って考察していくこととしよう。 第 1 に,2002年半ば以降,市場の拡大を抑制しつつ,地場組立企業に優先 的に市場を割り振ろうとする―裏を返せば,外資系二輪車企業に対する市 場のアクセスを制限しようとする―動きが現れた。用いられた政策ツール は2002年と2003年以降で異なる。2002年には商業省が部品輸入の数量規制を 実施し,その異例ともいえる唐突さと外資系二輪車企業に与えた甚大な被害 が非難の的となった(植田[2003])。その経緯は次のとおりである。2002年 9 月,商業省は突如として年間の部品輸入を150万セットに制限すると発表 した。150万セットのうち60万セットは外資系二輪車企業,90万セットは地 場組立企業に配分され,個別企業への配分も商業省によって定められた。政 市場へのアクセスを コントロール 国産化/技術移転 市場の優先的割り当て 部品製造への投資国産化 競争 工業省/商業省 外資系二輪車企業 地場組立企業 図 3 産業内資源配分の仕組み(2000年代初頭) (出所) 筆者作成。
府は二輪車の急増に伴う交通事故の抑制が目的であると説明したが⑿,輸入 枠の配分からは,販売を伸ばしつつあった外資系二輪車企業の市場へのアク セスを制限しようとする意図が読みとれる。ホンダベトナムは,年初に低価 格モデルを投入してから急速に販売を伸ばしており, 9 月までの生産実績は 同社に割り当てられた輸入枠の28万台をすでに超えていた。このため同社は, 輸入済みの部品で若干の生産を行ったのち生産停止に追い込まれた。ヤマハ ベトナムもほどなく生産停止を余儀なくされた。11月上旬には追加の輸入枠 の配分が認められ,両社は生産を再開したものの,ホンダベトナムに割り当 てられた輸入枠は当初分28万台に追加分の11万台を加えた39万台にとどまっ た⒀。これに対し,90万セットもの割り当てが与えられた地場組立企業は後 述のように事実上の生産停止状態にあり,割り当てを年内に使いきることは できなかった。 輸入数量規制は2002年末で終了したが,2003年以降は,二輪車の登録を規 制することによる市場拡大への抑制,外資系二輪車企業の生産拡大への規制 という需給両面への規制があわせて実施された。需要面では,2003年,二輪 車の登録は一人 1 台のみ,住民登録のある場所でしかできないことが定めら れ(2003年 1 月13日付公安省通知02/2003/TT-BCA),ハノイ市中心部での新規 登録が停止された(2003年 8 月14日付ハノイ市人民委員会決定)。供給面につい ては,2003年以降,外資系二輪車企業による部品輸入は投資認可にあたって 提出されたフィージビリティ・スタディ(F/S)⒁に沿って行うという規定が 明文化された(2002年10月25日付首相決定147/2002/QD-TTg)。外資系二輪車企 業が認可を取得した1990年代半ばの時点では,中国ショック後の急速な市場 の拡大は予測されていなかったため,この時期に作成された生産計画の順守 を求めることは実質的な外資系企業に対する生産抑制として機能した。ホン ダベトナムの2003年の生産は43万台と, 2 カ月にわたる生産停止に陥った 2002年の実績38万台から微増にとどまった。 第 2 は,国産化政策の実施強化,製品基準や二輪車組立・製造企業の満た すべき基準の導入など,生産者に対する規制強化の動きである。これらは外
資系二輪車企業と地場組立企業をともに対象としていたものの,地場組立企 業を中国製部品キットの単純組立から脱却させ,本格的な二輪車製造企業へ 転換させるねらいが含まれていた。たとえば,2002年 6 月,工業省が中心と なって定めた二輪車製造・組立企業が満たすべき基準には,重要部品の内製 を行い,国産化率20%を達成すること,という項目が含まれていた(2002年 6 月 7 日付工業省決定02/2002/QD-BCN)。これらは外資系二輪車企業のいず れもが満たしており,新たにこれらの基準を課さねばならなかった理由は, 地場組立企業の強化以外には見いだせない。 生産者に対するこれら一連の規制を満たすことは,地場組立企業が優先的 な国内市場の割り当ての恩恵を受ける条件となった。財務省を中心に工業省, 科学技術環境省,公安省,交通運輸省,関税総局が参加する検査チームによ る地場組立企業52社の国産化の実態についての調査が実施され,2002年 5 月, 52社すべてが虚偽の国産化率の申請を行っていたことが公表された。これを 受け,政府は財務省の提案に沿い,脱税した輸入関税の追徴を行うまでは部 品の輸入を認めない,すなわち,実質的には操業を認めないことを決定した
(Viet Nam News,2002年 6 月12日付)。これは,地場組立企業を2003年 6 月ま でほぼ 1 年間にわたり事実上の操業停止に陥れる厳しい措置であったが,操 業再開にあたって納税義務を果たすこと,製造への投資,一定水準の国産化 率の達成などが条件とされた(Viet Nam News,2003年 6 月 2 日付)ことから, 地場組立企業の強化をねらった対応であったと考えられる。 第 3 に,政府が外資系企業に市場へのアクセスを与える見返りとして国産 化と技術移転を求める,という産業内資源配分の仕組みが初めて実質的に機 能するようになった。市場が急拡大し,ホンダベトナムの低価格モデル導入 など外資系二輪車企業の中国車への対抗策が消費者に好評を博したことで, 外資系二輪車企業にとってのベトナム市場の重要性,および,生産拡大への 要請が強まった。これに対し,ベトナム政府は投資ライセンスを理由として 市場の割り当てを制限し,生産拡大を望む外資系二輪車企業から投資や技術 移転などの譲歩を引き出そうとする構図が鮮明となった。2002年10月,年間
輸入数量制限を実施するにあたり,ホンダになぜ28万セットの部品輸入しか 認めないのかという問いに対する商業省投資局長の発言は示唆的である。
「ホンダベトナムに認められた投資ライセンスによれば,同社は年間45 万台を組み立てられることになっている。しかし,同社は,まだ約束し た金額の 3 分の 2 しか投資していない。したがって,生産能力はそれ
(45万台―筆者注)よりも低くなるはずだ」(Viet Nam News,2002年10月 2 日付)。 また,計画投資省次官は,生産停止を余儀なくされたホンダベトナムに対す る追加的クオータの承認に関して,次のように述べている。 「(関連―筆者注)各省は,ホンダベトナムの技術的調査,実際の生産能 力,市場の実勢や部品国産化の約束に基づいてクオータ追加の可能性を 検討する。ホンダの能力増強や新技術の追加も考慮する」(Viet Nam News,2002年10月 2 日付)。 以上のベトナム政府関係者の発言からは,市場へのアクセスを交渉材料と して用いつつ,外資系企業から投資や技術移転を引き出そうとするスタンス が読みとれる。 新たな産業内秩序の帰結は,産業の低迷であった。二輪車の年間販売台数 は中国ショックのさなかに200万台超に拡大した後,登録抑制措置によって 150万台を下回る水準まで落ち込んだ。これは,外資 7 社,国内組立企業50 社以上がひしめく市場においては活発な投資を促すには不十分な水準であり, 外資系二輪車企業に対する生産拡張投資への抑制措置,地場組立企業に対し ても2003年半ばまでは一時的生産停止が命じられたことも相まって生産は伸 び悩んだ。
3 .2005年以降―規制緩和と生産者間の平等な競争― 2005年以降,ベトナム二輪車産業は新たな発展段階に突入した。市場は急 速な拡大を遂げると同時に,外資,地場ともに二輪車企業の淘汰が進んだ。 外資ではホンダ,ヤマハが急速な生産拡大を遂げ,とくにホンダは2007年に 年間生産台数100万台を超えるまでに規模を拡大させた。地場組立企業も, 小規模企業の多くが退出した一方で,一部の企業が大幅に販売を拡大し,淘 汰と集中が進んだ。 この段階になると,政策にも大きな転換がみられた。具体的には,国は生 産者・消費者が満たすべきルールを定め,そのもとで生産者・消費者が自由 に生産や消費を行うことで市場・産業全体の発展を図る,という方向へ舵が 切られた(図 4 )。 第 1 に,2003年頃から相次いで導入された登録抑制措置が相次いで解除さ れたことが,市場規模の拡大を促した。第 2 に,外資系二輪車企業の生産に 対する制限も解除され,外資系企業が自由に投資や生産を行うことが可能に なった。上述の日系二輪車企業数社による急速な生産規模の拡大は,このよ うな規制緩和の動きによって刺激されたものであった⒂。 これらの一連の政策転換は2000年代初頭に形成された産業内資源配分の仕 二輪車製造・組立企業基準 品質基準,排ガス規制等 競争 外資系二輪車企業 地場組立企業 政府 生産者に 等しく適用 図 4 産業内資源配分の仕組み(2005年以降) (出所)筆者作成。
組みにも変化をもたらした。国が市場規模をコントロールし,市場を優先的 に地場組立企業に割り当てるための政策介入は撤廃され,生産者に対する規 制についてもおおむね国際標準に沿ったルールへの移行が進んだ。この結果, 地場組立企業も外資系企業もおおむね平等な条件のもとで自由に投資や生産 活動を行う,という産業内の秩序が形成された。 消費者に対する規制緩和は2005年末に決定された。二輪車の登録台数や登 録場所についての規制は撤廃され (2005年11月21日付公安省通知17/2005/TT-BCA),ハノイ市中心部における新規登録の停止も撤回された(2005年12月14 日付ハノイ市人民委員会決定221/2005/QD-UB)ことによって,消費者は自由 に二輪車を購入し登録できるようになった。 生産者に対しては,2002年以降に相次いで施行された数々のルールを国際 基準に沿ったものへと調整するとともに,施行における強制力を強化する動 きが始まった。国産化率に連動した部品輸入関税制度は2003年初頭に撤廃さ れ,部品ごとに関税率が定められる制度へと移行した(2003年 1 月 6 日付財 務省通知551/TC/TCT)。当初はエンジンなどに最大100%の関税が課されて いたが,ASEAN 自由貿易地域(AFTA)の共通効果特恵関税(CEPT)スキー ムに従って ASEAN-6諸国からの関税の引き下げが進み,2006年以降は 5 % となった。ただし,完成車の輸入については2003年から解禁となったものの, 2012年現在,ASEAN-6諸国からの輸入を含め依然として75%の輸入関税が 課されている。 新たに導入されたルールとしては排ガス規制が挙げられる。2005年に国際 基 準の適 用に向け た ロ ー ド マ ッ プ が示さ れ(2005年10月10日 付首 相 決 定 249/2005/QD-TTg),2007年 7 月から国産車,輸入車ともにユーロ 2 基準への 適用が義務づけられることとなった。さらに,2011年 9 月 1 日付首相決定 49/2011/QD-TTgでは,2017年 1 月 1 日からユーロ 3 基準に移行することが 発表された。外資系二輪車企業から批判が相次いでいた模倣品の氾濫に対し ても,工業所有権関連法規違反の取り締まりが強化されるようになった。と くに WTO 加盟に向けた本格的な準備が開始された2004年から2005年頃にか
けては全国的な調査と取り締まりが行われ,主要企業を含む多くの地場組立 企業が処分を受けた(Cong nghiep Viet Nam,2005年 6 月15日付)。
以上のようなルール作りおよび実施強化の取り組みにもかかわらず,現場 における恣意的な運用や実施上の不備は少なくないとみられる。しかしなが ら,国が生産者・消費者が満たすべきルールを定め,そのもとで生産者・消 費者が自由に生産や消費を行うことで市場・産業全体の発展を図る,という 発展の方向へすでに舵が切られたとみてよいであろう。 以上の考察から,政策による産業内資源配分の変遷は次のように整理され る。1990年代には外資系二輪車企業が,2000年代初頭には地場組立企業が, それぞれ重点的な資源配分の対象とされ,それらは国産化,技術移転,製造 能力の向上といった工業化への貢献を求められる,というのが基本的な政策 の方向であった。これに対し,2005年以降には,生産者が満たすべき基本的 なルールを国家が定め,各企業が自由に生産・販売を行い,市場をめぐって 競争するという仕組みへと転換がなされた。政府による保護,企業による国 産化や技術移転のいずれについても1990年代には実効性は乏しかったが, 2000年代初頭の中国ショックを経て輸入規制や国産化政策の実施が強化され た。
第 3 節 政策転換の背景
前節では,⑴外資系企業の誘致から地場組立企業の育成へ(2000年代初頭), ⑵地場組立企業の育成から規制緩和と競争環境の整備へ(2005年頃),とい う二つの重要な政策転換があったことを指摘した。本節では,二つの重要な 政策転換はどのような背景で実現したのかを考察する。1 .2000年代初頭―外資系企業の誘致から国内組立企業の育成へ― 1990年代半ば以降,ベトナム政府は外資系企業を誘致し,産業の育成を図 る仕組みの構築を進めていたが,2002年頃からは地場組立企業に重点的に市 場を割り振り,有力な製造企業への転換を促進することをねらった政策を 次々と導入した。これが第 1 の重要な政策転換である。この政策転換は,ま ず,中国ショックという外的ショックをきっかけとして生じた企業側の変化, 続いて,企業側の変化を受けて政府側に生じた変化,という 2 段階のプロセ スとして説明できる。 まず,企業側の変化としては,本格的な製造企業としての発展を志向する 地場組立企業の出現が挙げられる。1990年代後半にも,商業省からのクオー タの配分を受けてタイなどからの輸入部品を用いた日本ブランド車の組立を 行う企業は存在したが,その大半は輸出入などのサービス業を本業とする国 有企業であり,本格的な製造への投資を行う企業は皆無であった。中国ショ ックが大きな意味をもったのは,膨大な低級品市場が新たに開拓されたこと に加え,中国からの部品,機械設備,金型などの輸入や直接投資によって, ほとんど生産経験をもたないベトナム企業でも二輪車の生産が可能になった こと,という需要と供給の両面の変化をもたらしたからである。中国ショッ ク後に乱立した地場組立企業には,1990年代から二輪車輸入業に従事してい た企業,新たに参入した企業の両方が含まれたが,2002年以降の新たな展開 として特筆されるのは,本格的な二輪車企業への転換を志向する企業が現れ たことである。筆者が2004年に実施した地場組立企業 5 社の調査によれば, すべての企業が2001年から2002年にかけて中国企業などとの提携を通じて部 品製造への投資を行っていた⒃。地場組立企業の多くが模倣ブランドでの生 産・販売を行っていたなか,徐々に自社ブランドの確立や品質の向上をめざ す企業も出現するようになった(藤田[2009])。このような動きが,2001年 頃から党・政府内で台頭しつつあった「合理的な品質・価格のベトナムブラ
ンド二輪車」⒄への期待を高めるものであったことは想像に難くない。 企業側の変化は,政策策定主体側にも変化をもたらした。前節でみたとお り,1990年代のおもな政策策定主体は商業省と国家協力投資委員会/計画投 資省⒅であった。前者は輸入クオータの決定と配分を,後者は外国投資の認 可と管理を担っており,それらにとっての優先目標は,予測される国内需要 に見合った生産が実現できるような参入や部品輸入の認可,すなわち国内市 場における需給バランスの維持に集約されていた⒆。国産化や技術移転の促 進なども政策目標として掲げられてはいたものの,産業振興を管轄する省庁 の関与はいまだ限られていた。 2000年に入ると,二輪車の普及と産業発展が急速に進んだことを反映し, 産業にかかわる政府機関は大幅に増加した。具体的には,商業省と計画投資 省に加えて,財務省,関税総局,工業省,科学技術省,交通運輸省,公安省 などが関与を強めた。この結果,徴税の徹底を求める財務省,交通事故や渋 滞の解消を重視する交通運輸省など,さまざまな省庁の異なる立場が錯綜す る複雑な構図が生じ,政策の迷走,一貫性や予見性の欠如といった批判の一 因ともなった。 ただし,産業にかかわるアクター,とくに生産者に対する資源配分という 観点からとくに重要であったのは,産業振興をめざす立場から工業省の関与 が強まったことであろう。折しも,2000年代初頭は,AFTA の貿易自由化期 限が迫るなか,国内産業基盤の整備を進めるべく工業省が中心となって国産 化や地場企業の強化のための施策を次々と打ち出そうとしていた時期である (石田[2004: 36, 38])。当時,繊維・縫製,靴,食品加工などの軽工業を除き ベトナム地場企業の成長は遅れをとっており,自動車や電機電子など他の組 立型機械産業のほとんどが外資系企業によって席巻されていた。このような 状況下にあって自国企業の発展の遅れに焦るベトナムが,自社ブランドを手 掛ける地場企業が出現した二輪車産業に期待を寄せるというのは自然な流れ であった。徴税の徹底や製品基準の施行といった産業内アクター全般に平等 に適用されるルールにとどまらず,地場組立企業に優先的に市場を割り当て,
外資系二輪車企業の攻勢をかわすべく競争力強化を図るための時間を与えよ うとしたのは,以上のような生産者側,政策策定側双方の変化が作用しあっ た帰結だと考えられる。 2 .2005年以降―規制緩和と平等な競争環境の整備へ― 第 2 の重要な政策転換は,2000年代初頭に相次いで導入された生産面,販 売面の双方に対する規制が2005年頃を境として相次いで撤廃され,企業が自 由に活動を行い,市場をめぐって平等に競うことができる環境が整ったこと である。転換前の政策によって最も損失をこうむっていたのは,潜在的な二 輪車需要の大きさにもかかわらず生産拡大を制限された外資系二輪車企業 (とりわけ日系二輪車企業)であり,是正の要求は日系二輪車企業,およびそ れらの背後にある日本政府から寄せられた。しかし,転換の直接の契機とな ったのは単なる企業や政府からの圧力ではなく,加速しつつあった WTO 加 盟交渉にあった。 2002年に日系二輪車企業に対するクオータ配分が不足し,一部の企業が生 産停止に陥った事態については,当事者である日系二輪車企業各社はもちろ んのこと,日本自動車工業会や経済産業省からもベトナム政府に対し是正の 要請が寄せられた(The Japan Times,2002年10月 5 日付)。2003年以降の投資 ライセンスの生産計画に沿った生産抑制措置は,2003年12月に日越政府の共 同によるベトナムの投資環境改善の協議の場として発足した日越共同イニシ アティブのもとでの政府間交渉のアジェンダに上った。F/S は投資ライセン スに付属する認可取得時点での計画書で,記載事項のすべてが義務あるいは 制限事項ではなく,事業開始後の経営環境変化に伴う変更は当然のことだと 日本側が主張したのに対し,ベトナム側は F/S は投資ライセンスを構成す る一部分であり遵守が求められること,さらに,政府が必要と判断した場合, F/S に基づき事業活動を制約することには法的に問題はないと主張し,交渉 は平行線をたどった⒇。
ベトナム政府が政策の是正に動いたのは2005年 4 月である。計画投資省の 提案にグエン・タン・ズン副首相(当時)が同意したことを受け,政府官房 は投資ライセンスに沿った生産抑制措置を撤廃することを定めた通報1854/ VPCP-HTQTを出した。ベトナム政府関係者によれば, 2 年以上に及ぶ政府 間交渉をもっても改善をみなかったこの問題が,この時期になってようやく 是正されることとなった直接のきっかけは,2005年 6 月に妥結したベトナム の WTO 加盟に関する日本との二国間交渉であったとされる 。WTO 加盟交 渉が通常の政府間交渉と異なるのは,WTO 加盟交渉において,加盟国側の 要求を満たす義務は加盟申請国側にあるため,加盟国が申請国に対し高度な 要求を突きつけ,申請国が譲歩を強いられる一方的なプロセスとなる傾向が 強いという本質的不平等を内包した交渉だという点である(藤田[2006])。 二国間交渉についての詳細が公開されることはなく,交渉の具体的焦点や経 緯について知る術はないが,日本側としては,日本企業が継続的な不利益を こうむるこの問題について,政府レベルの交渉で妥結の糸口がつかめないな か,WTO 交渉を利用してベトナム側の譲歩を迫ることは自然な展開であっ ただろう。 しかし,外圧の存在そのものは政策転換の必然を意味しない。実際,2002 年後半に日系二輪車企業を生産停止に陥れた輸入クオータ不足問題が浮上し た際にも,日本政府はベトナムの WTO 加盟支持を材料に交渉に臨んだにも かかわらず,この時点ではベトナムの譲歩を引き出すには至らなかった (Abrami[2003: 94])。なぜ2005年というタイミングで政策転換が実現したの かを説明するうえでは,ベトナム側のスタンスの変化に着目する必要がある。 2001年末の米越通商協定の発効をきっかけとして,アパレルなどの輸出の急 増,ベトナムを対米輸出のための加工・製造拠点とすることをねらった外国 投資の拡大,さらには外国投資と輸出に牽引された急速な経済成長率がもた らされたことで,持続的な高成長のための国際経済への参入の必要性を党・ 国家が認識するようになった ことは大きな意味をもっていた。さらなる輸 出市場へのアクセスの改善と外国投資の拡大を実現するために早期の WTO
加盟が急務とみなされ,2005年末までの加盟実現が目標として掲げられるに 至った(藤田[2006: 83])ためである。したがって二輪車産業における政策 転換は,2005年末までの加盟を達成すべくベトナムが二国間交渉の早期妥結 に邁進する状況 のもとでなされた決断として理解される必要がある。2005 年 5 月までに EU や韓国との二国間交渉はすでに合意に達し,日本との妥結 は年内の加盟達成という目標の実現に向けた重要な一歩と認識されていた。 地場組立企業が当初期待したほどの発展を遂げていないことが徐々に明らか になりつつあるなか,譲歩を渋って日本との交渉妥結を遅らせるのは得策で はないという判断がなされたものと推察される 。 以上,本節の議論をまとめると,二つの重要な政策転換はそれぞれ,大量 の中国製品の流入という外的ショックをきっかけとした企業構造と政策策定 主体の変化,および,WTO 加盟交渉という外圧とベトナムの発展戦略のシ フトが組み合わさったことによってもたらされたものだということになる。
第 4 節 政策の評価
本節では,二輪車産業をめぐるベトナム政府の政策が産業発展にどのよう に寄与したか,政策の掲げた目標に照らしてどのような成果があったかとい う観点から,政策の評価を試みる。具体的には,⑴二輪車生産の競争力,⑵ 国産化,⑶地場組立企業の成長,という三つの側面から評価を行う。このう ち,⑵と⑶はベトナム政府が明示的ないし暗黙に掲げてきた重要な政策目標 であるのに対し,第 2 節の結びで指摘したように,⑴は考察対象期間を通じ てベトナム政府の政策目標として掲げられてはこなかった。しかしながら, 輸入代替産業に対する保護は,本来,国民経済にコストを課すことを前提と しつつも政策目標としての産業発展を促進するために一時的に実施されるは ずであるから,産業が保護なしでも存続できるだけの競争力を獲得し得たか 否かが,政策の効果を評価するうえでの重要な基準となるはずである。ベトナム政府が目標として掲げてこなかったにもかかわらず,政策を評価するた めの指標に⑴を含めるのは,このような理由による。 政策の評価にあたって留意しなければならないのは,生産の拡大や企業の 成長といった現象は,政策を含む多様な要因が複合的に作用しあった帰結と して生じることが多く,政策の貢献度を評価することはきわめて難しいとい う点である。本節では,まず,上述の三つの側面に照らして産業発展のパフ ォーマンスを評価し,それに政策がどのようにかかわっていたか,あるいは いなかったのかを分析する。 1 .二輪車生産の競争力―生産規模と競争― 輸入代替産業の保護政策は,対象産業が時間の経過とともに生産性を向上 させ,保護がなくても存続できるまでに競争力を改善し得たか否かによって 評価される。2012年現在,ベトナムの完成車に対する輸入関税率は75%であ り,2008年に発表された AFTA の CEPT スキーム下の関税引き下げスケジ ュールでは,2013年までに ASEAN-6諸国からの関税率は60%まで引き下げ られることになっている(2008年 6 月12日付財務省決定36/2008/QD-BTC)。依 然として高関税が課されている現状では,保護がなくともベトナムの二輪車 産業が存続し得るか否かを検証することは困難である。 したがって,本章は佐藤[1999]にならい,二輪車の輸入代替生産の競争 力に重要な影響を及ぼすと想定される二つの要素として生産規模と競争のレ ベルに着目する。生産規模の大きさは,生産における規模の経済性の実現を 可能にする。とくに日本企業については,効率的な生産を行ううえで,一般 的な二輪車部品は年間30万個,鍛造などの資本集約的な工程を伴う部品は 100万個の生産規模が必要だといわれており(三嶋[2007]),生産規模の重要 性は高い。企業間競争は,企業の生産性改善努力を引き出すことによって競 争力の向上に貢献する。 各社の生産規模と操業企業数は,企業ごとの販売の推移を示した図 2 から
確認できる 。1990年代の年間販売台数は30万台から50万台,うち半分以上 はタイなどから輸入された日本ブランド車で,残りが日系二輪車企業 3 社, 台湾系二輪車企業 1 社による国内生産であった。各社の生産台数は多くとも 数万台であり,この時期には二輪車企業にとっても部品企業にとっても効率 的な生産が可能になる規模には達していなかったことがわかる。さらに,こ の時期のベトナム市場における二輪車の価格は輸入車,国産車ともに2000米 ドルを超えるものがほとんどで ,少数の企業による寡占市場であった。各 社は少なくとも価格競争には直面しておらず,生産性改善の必要性には迫ら れていなかったといえる。 2000年以降,状況は一転する。最大の変化は,50社以上の地場組立企業の 参入による操業企業数の急増,そして,日本モデルの半額以下という低価格 の中国車の氾濫とそれに続くホンダベトナムの低価格車の開発にみられるよ うに,各社が激しい価格競争を繰り広げるようになったことである。他方, 生産規模についてみると,2000年代初頭には年間販売台数が200万台超にま で膨張したものの,2002年後半から市場の拡大を抑制する措置がとられたこ ともあり,爆発的な市場の拡大は一時的な減少に終わった。ただし,図 2 に みるように,ホンダベトナムは低価格モデルの投入後,年間販売台数を急増 させ,生産抑制措置のもとにおいても40万台程度を維持している。一般的な 二輪車部品については,効率的な生産が可能な規模には達していることから, 競争力向上へ一定の効果をもったと考えられる。 2005年以降は,規制緩和による市場規模の急速な拡大,外資系二輪車企業, 地場組立企業ともに少数の強者へと淘汰が同時並行で進んだ。これにより, 適度な企業間競争の水準は維持されつつも,有力企業が規模の経済性を享受 する条件が整った。とくにホンダベトナムの年間生産台数は2007年以降100 万台を超え,単独でも資本集約的部品の国産化を行い得るまでに生産規模を 拡大させている。 以上のように,二つの転換期を経て,生産規模の拡大と企業間競争の激化 が進んだことにより,ベトナムの二輪車生産は競争力を向上させてきたと推
察される。では,これに政策はどのようにかかわっていただろうか。まずい えることは,ベトナム政府の政策はほぼ考察対象の全期間を通じて生産規模 の拡大を奨励せず,むしろ抑制してきたという点である。1990年代から2000 年代初頭の輸入クオータ然り,2003年から2005年にかけての外資系企業に対 する生産抑制措置然りである。企業間競争の促進については1990年代から政 策の重点項目の一つではあったが ,政府が実際に有効な政策を講じてきた とは言い難い。したがって,ベトナム政府は産業の競争力を高める有効な手 段を講じてきたとはいえず,むしろ企業の生産規模の拡大を妨げることで競 争力の向上を阻害してきたということになる。 2 .国産化と部品産業の発展 二輪車の国産化を通じた部品産業の発展は,ベトナム政府が1990年代後半 から一貫して重点をおいてきた政策目標の一つであった。2007年までには外 0 10 20 30 40 50 60 70 80 0 10 20 30 40 50 60 70 80 90 100 1998 1999 2000 2001 2002 2003 2004 2005 2006 2007 2008 2009 (%) (社) サプライヤーの数(右軸) 国産化率(左軸) 図 5 ホンダベトナムの国産化率と国内サプライヤーの数 (出所) 工商省のデータに基づき筆者作成。
資系二輪車企業の国産化比率は70∼90%に達しているといわれる(Motorbike Joint Working Group[2007: 29])。図 5 は,最大の市場シェアをもつホンダベ トナムの国産化率の推移を示している。操業開始当初の1998年には40%強に すぎなかったのに対し,2007年にはすでに90%を超えており,僅か10年ほど のうちに国産化率が目覚ましい上昇を遂げたことがわかる。 地場組立企業の国産化率についてのデータはないが,国内販売 1 台あたり の輸入額を外資系企業については企業ごとに,地場組立企業については総計 を算出したものが表 1 である。ここでいう輸入とは部品キット,エンジン, エンジン部品,その他部品などすべての形態を含んだ金額である。各社の製 品単価は大幅に異なるため,国産化の程度を企業間で比較するために用いる ことは難しいが,各企業について部品輸入の増減傾向を確認するための大ま かな指標として参照することは可能である 。ホンダベトナム,ベトナムス ズキ,VMEP などは,2002年以降おおむね減少の一途をたどっている。地 場企業については,ほとんど国産化が行われず部品キットをほぼそのまま輸 入していたといわれる2000年以降2003年までは著しく減少したものの,2004 年,2005年については再度増加に転じている。この頃から地場組立企業全体 として国産化の流れが逆行しはじめたことを示唆しており,2003年から国産 化率に連動した部品関税政策が撤廃されたことと関連している可能性がある。 以上をまとめれば,部品の国産化は日系二輪車企業では継続的に進み,地 表 1 国内販売 1 台当たりの部品輸入額 (単位:米ドル) 2000 2001 2002 2003 2004 2005 ホンダベトナム 692 641 275 231 203 218 ヤマハベトナム 293 553 733 663 396 517 ベトナムスズキ 1,048 527 390 397 306 330 VMEP 621 330 295 280 268 282 地場組立企業 506 338 181 179 420 396
(出所) Bo cong nghiep[2007]のデータに基づき筆者算出。 (注) VMEP:図 2 注⑵参照。
場組立企業では2000年代初頭に進んだのちに逆行しつつある。政策の役割と しては,まず,国産化政策の貢献が指摘できる。国産化率の算定方法の頻繁 な変更に伴う混乱,強制力の弱さなど問題点は多々指摘されているものの, 仮にこの政策が存在しなければ,中国ショックは部品キットの輸入という形 態をとらず,大量の完成車の流入という形態として現れ,地場組立企業の参 入も生じなかったであろう。中国ショックに直面した日系二輪車企業も,コ ストダウンを達成するための手段として低コストの輸入部品をより多く採用 していた可能性が高い 。2000年代初頭以来の国産化率の急速な上昇は,国 産化政策の実施なしにはありえなかったであろう。 ただし,国産化政策の効果は企業によって異なっている。地場組立企業に ついては,国産化政策撤廃後に部品輸入が増加に転じていることから,国産 化政策が国産化に重要な役割を果たしていた一方で,政策の撤廃とともに効 果も失われたと推察される。これに対し,日系二輪車企業が国産化を継続的 に進めた背景を詳細に検討すると,先の項で考察した産業競争力の裏付けと なる要素,すなわち,生産規模と競争のレベルという二つの条件が政策と並 んで重要な役割を果たしていたことがわかる。第 1 に,国産化が政策的に強 制されたとしても,効率的な生産が可能になる生産規模が見込めなければ部 品産業をセットアップすることは難しい。国産化政策が実施された2000年代 初頭は,1990年代に比べ格段に市場の拡大が進み,国産化を進める条件が整 い始めていた時期とみることができる。第 2 に,筆者による日系二輪車企業 の聞き取り調査によれば,2001年から2004年頃までの急速な国産化の進展の 原動力は,中国車に対抗するためのコストダウンの必要性であった 。 実際,ホンダベトナムの国産化率のデータからは,国産化の進展を説明す るうえで国産化政策以上に生産規模と競争のレベルが重要であったことが示 唆される。まず,規定上,部品の輸入関税が最低水準となるために必要な国 産化率は60%であった(1998年12月25日付財務省決定1994/1998/QD-BTC)が, 図 5 が示すように,2002年時点でのホンダベトナムの国産化率は60%を大き く 超 え て い た。 さ ら に,2003年 に 国 産 化 政 策 が 撤 廃 さ れ,2006年 に
ASEAN-6諸国からの部品輸入関税が 5 %にまで引き下げられた後も,日系 二輪車企業の国産化率は上昇し続けている。これらの事実は,国産化政策が 撤廃された後も,企業がコストダウンの必要性に直面し,かつ,生産が一定 程度の規模に達していれば,ただちに国産化が後退するわけではないことを 意味している。 3 .地場組立企業の成長 最後に,地場組立企業の成長という観点から,政策の評価を試みよう。 2000年代初頭において,ベトナム政府の産業政策の暗黙の目標は,地場組立 企業を自社ブランドを有する本格的な二輪車製造企業への転換を促すことで あった。地場組立企業に対して優先的に市場を割り振り,部品製造への投資 や国産化を奨励する政策を実施したことは,政府が意図した成果をもたらし たのだろうか。 結論を先取りすれば,2000年代初頭以降,地場組立企業群には構造変化が 生じ,大規模な有力企業の出現に至ったものの,それらは政策の主眼であっ
(出所) Bo cong nghiep[2007]より筆者作成。
(注) 凡例の社数は,2005年の生産規模が各カテゴリに該当する企業の数。 図 6 地場組立企業の規模別市場シェアの推移 0 20 40 60 80 100(%) 2001 2002 2003 2004 2005 2006 外資 地場(∼1万台/年;14社) 地場(1∼2万台/年;17社) 地場(2∼4万台/年;10社) 地場(4万台∼/年;10社)
た製造能力,自社ブランドのいずれの確立にも成功しておらず,その展望も 描けないことから,政策が意図した成果をもたらしたとはいえない,という ことになる。 まず,地場組立企業のデータから確認できることは,地場組立企業全体の 市場シェアは2000年代初頭以降,低下傾向にあるものの,2006~2007年時点 においても 3 分の 1 程度を維持していること(図 2 )に加え,この時点まで 存続している企業は,少数の大規模企業に集約されてきているという点であ る。2000年代初頭,50社以上の地場組立企業が乱立したとされるが,2006年 の統計総局のデータによれば,この時点で存続している企業は26社にすぎな い。また,生産規模別の内訳(図 6 )をみると,2000年代初頭の時点では年 間生産台数が 4 万台未満の小規模企業が地場組立企業による生産台数のおよ そ 9 割を占めていたのに対し,2005年時点では年間生産台数が 4 万台以上の 企業が地場組立企業の生産全体のおよそ半分を占めるにいたっており,この なかには年間生産台数が10万台以上に達する企業が 4 社含まれる。多数の小 規模企業が乱立していた状態から,少数の大規模企業に集約された構造へと 変化を遂げてきていることがわかる。 では,2005年頃に台頭した少数の大規模企業にはどのような特徴があった のだろうか。筆者は2007~2008年にかけて,地場組立企業およびそれらに部 品を供給するサプライヤー,その他の産業関係者などを対象とした聞き取り 調査を行い,地場組立企業の全般的傾向を明らかにするとともに,一定以上 の規模で生産を継続している地場組立企業 5 社(いずれも民間企業)につい ての詳細な事例分析を行った。この結果から明らかになったのが,独自ブラ ンドも独自デザインも構築せず,低価格品の大量生産に注力する企業が販売 を伸ばす一方,品質の向上や独自ブランド,独自デザインの構築を志向する 企業の販売が低迷していることである(藤田[2009])。このような構造変化 の背景としては,日系二輪車企業が生産拡大を通じ市場開拓の攻勢を強める なか,地場組立企業のパイが農村部の低所得者層にいっそう集中し,低価格 を強みとする企業が有利となっていること(藤田[2009: 169])が指摘されて
いる。 地場組立企業が2005年以降も一定の市場シェアを維持していることに, 2002年頃からの政府の優先的な市場の割り当てが貢献した可能性はある。日 系二輪車企業,とくにホンダベトナムの生産拡大を抑制し,日本ブランド製 品の低所得層への浸透を遅らせたからである。しかしながら,独自ブランド をもつ有力な製造企業の形成という政府の意図した目標は達成されていない。 そればかりではなく,日系二輪車企業が自由な投資を行って生産を拡大させ る一方で,急速な経済成長とともに消費者のさらなる所得水準の上昇が予測 される状況のもとで,低価格のみを強みとする企業が中長期的に存続し,有 力企業に成長する展望を描くことは困難であることが明らかになりつつある。 中長期的にみても,政府の意図した目標が達成される見込みは乏しいといわ ざるを得ない。 4 .小括 本節では,三つの異なる指標を用いつつ政策の効果を考察した。政府が明 示的ないし暗黙に目標として掲げてきた二つの指標のうち,国産化について は一定の成果が得られ,自社ブランドと製造能力を有する地場企業の成長に ついては実質的な進展がみられないという結論となった。 しかし,より注目すべきは,競争力の向上というもう一つの指標である。 保護政策が社会的なコストを課すことをふまえれば,その導入にあたって, 産業が時間とともに競争力を向上させ,保護がなくても存続できるようにな ることがめざされるべきであるが,ベトナム政府はこれを明示的な目標とし て掲げなかった。それどころか,産業が競争力を向上させるための重要な要 素の一つである生産規模の拡大を阻害する数々の政策を採択することにより, 競争力の向上を阻んできた。これは,政策の根本的な欠陥を示している。 二輪車産業は,ベトナムの輸入代替産業として一定の競争力の向上を成し 遂げることができたほぼ唯一の産業であるとされる(大野[2003])が,それ
は,寡占的市場,生産規模の小ささという二つの障害が,それぞれ,中国シ ョックという外的ショック,WTO 加盟交渉の場での外圧をきっかけとした 政策転換という二つの外的要因を契機に突破されたことで可能になった。さ らに,本節でみたように,ベトナムが目標としてきた国産化における一定の 成功も,国産化政策に生産規模の拡大と競争レベルの上昇が組み合わさった ことで説明される。 以上のように,ベトナム二輪車産業の発展をもたらした転機は,ベトナム が意図的に実現させたものではなかった。しかし,外資系企業の誘致によっ て輸入代替産業を始動させようとする発展途上国の多くが直面する生産規模 の小ささと企業間競争の弱さという二つの問題が何らかの要因によって解消 されればかくも著しい産業発展がもたらされ得ることを,この事例は示して いるのではないだろうか。
第 5 節 ミャンマーの輸入代替産業
―自動車産業― ミャンマーの輸入代替産業は,一言でいえば計画経済体制の残滓である。 独自の閉鎖的な計画経済体制時代に,繊維・食品・医薬品のような軽工業か ら,電気・自動車のような重工業品まで,さまざまな国営企業が設立された。 序章で説明されたように,計画経済体制の放棄が表明された1989年以降も, こうした国営企業が実質的にほとんど改革されることなく放置されてきた。 すべての国営企業は所管省庁の計画のもとで生産・販売を行っており,そこ で用いられる価格は公定価格である。国営企業の予算は財政歳入省に監督さ れており,経営陣の裁量はなきに等しい。 こうした輸入代替産業および国営企業の実態について,入手できる先行研 究や資料がないため,ベトナムの二輪車産業のような事例研究はできないが, ここでは自動車産業を例に,その概要をみてみよう 。(MADI)の一社のみである。MADI の起源は1960年代に始まった日本の開発 援助である。ここにはマツダの乗用車と日野自動車のトラックのプロジェク トが含まれる。エンジンブロックやホイールディスクなどの鋳造部品の一部 はミャンマー国内で生産されたが,多くの部品は日本からの輸入に依存した。 1988年の軍事クーデターを経て,日本からの開発援助が停止されると,部品 の輸入が滞った。部品の輸入には,財政歳入省から公定レートでの外貨配分 があるが,他の公的部門と同様に外貨支出の厳しい制限を受けるようになっ た。年間生産量は,乗用車とトラックの総計で僅か500~1000台程度で推移 している。こうして生産された自動車は,原則的に公的部門内だけで配分さ れる。 また,自動車部門には,市場経済体制への移行が始まってから,MADI と スズキの合弁事業,ならびに国軍との関連が深い Union of Myanmar Eco-nomic Holdings Limited(UMEHL)といすゞとの合弁事業で自動車組立が行 われてきた。これらはいずれも基本的にノックダウン生産である。また,部 品の輸入は厳しい外貨管理の対象でもある。生産規模は,いずれも年間数百 台単位にとどまっているとみられる。 ミャンマーでは自動車,とくに中古乗用車の輸入が厳しく制限されてきた。 関税率自体は排気量2000cc 以下の場合30%で,必ずしも高くはない。しかし, 輸入には輸入ライセンスが必要で,ライセンス取得には,輸出税支払い済み の輸出獲得外貨の提示など,さまざまな条件が課され,かつ政府は裁量的に ライセンスを発給している。完成車の輸入が厳しく制限されているという点 では,輸入代替企業にとっては保護的である。しかし,輸入代替企業にも厳 しい外貨配分規制・輸入規制が課されており,輸入代替企業を育成するかた ちにはなっていない。 ミャンマー自動車産業のこうした概況は,1990年代半ばのベトナムとも類 似している。だが,輸入代替の自動車産業を育成しようという姿勢は,これ までのところ明確ではない。仮に今後,ミャンマーが自動車産業を奨励しよ うとする場合,ベトナムの経験からどのようなインプリケーションが得られ
るだろうか。第 1 のインプリケーションは,輸入代替産業を発展させるにあ たって,効率的な生産規模の実現と企業間競争の促進を両立することの重要 性である。この二つの条件さえ満たされれば,国産化政策などの行政介入は なくとも企業の自発的な取り組みによる生産の拡大と国産化が進むことは, 本章で考察した2005年以降の展開が示すところである。しかし,同時に二輪 車ではなく自動車産業でミャンマーが競争力をもち得るか,効率的な生産規 模を確保するまで成長できるかについては慎重な見極めも必要である。 ASEANにおいてタイが自動車産業の集積地として確固たる地位を築くなか, 後発国にとって自動車産業の振興は容易ではない。産業発展ではミャンマー に大きく先行するベトナムにおいてすら,2010年の自動車の生産台数は10万 台強にとどまり,競争力強化への展望は描けないのが現実である。ミャンマ ーにおける輸入代替産業の奨励にあたっては,一定の国内需要が存在してお り,効率的な生産規模の実現が見込める産業を現実的に見極めることが肝要 といえよう。 第 2 のインプリケーションは,外国との接点がもたらし得るインパクトの 大きさである。ベトナムでは,中国からの大量の低価格品の流入が国内で操 業する企業の競争力向上を促し,WTO 加盟交渉が政策転換の大きな原動力 となった。ミャンマーは,WTO の初期加盟国であり,今後さらなる対外開 放が進んだとしても WTO 加盟交渉に臨む必要はないことをふまえると,ベ トナムのような強い外圧にさらされる可能性は低いかもしれない。だが,地 域的ないしグローバルな経済統合の枠組みに参加することは,国内の政策・ 制度を国際標準に近づけるために有効であり,とかく内向きの政策が採択さ れがちな輸入代替産業の発展を促進するうえでは重要な足がかりとなるだろ う。