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「誰も置き去りにしない」に至る板橋の平和学習 —初期の時事問題セミナーを事例として—

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日本公民館学会年報第 17 号 2020 年

「誰も置き去りにしない」に至る板橋の平和学習

― 初期の時事問題セミナーを事例として −

佐治真由子 川崎市役所 はじめに  2019 年 3 月 23 日(土)に板橋区立文化会館 大ホールで行われた「SDGs いたばしの集い」に は、約 180 団体、計 616 名の人が来場し、国 連が提唱する SDGs(持続可能な開発目標)とは 何か、それを達成すべく「誰も置き去りにしない・ されない社会を」目指してどのように取り組んだら よいのかについて確認・検討し合った。  この集いは、SDGs いたばしネットワークの企画 運営の下、板橋区立成増・大原両生涯学習センター (旧・社会教育会館)、NPO 法人ボランティア・ 市民活動学習推進センターいたばし、NPO 法人 みんなのたすけあいセンターいたばしの共催によ り実施されたが、これらの関係者が「誰も置き去 りにしない・されない社会を」目指していくにあ たり、福祉の市民運動に係わる関係者が活動を広 げていく上で社会教育会館の社会教育職員が取り 組んでいた話し合い学習をはじめとする学習方法 の習得等を必要としたこと1、また市民の学習や 活動場所が社会教育会館から地域に比重を移し ていく中で社会教育会館にもとめられる役割等も 変化してきたこと2については言及してきた。それ らをふまえ、本稿では平和学習の視点から、「誰 も置き去りにしない・されない社会を」という共 通目標をつかむ道のりの初期の時期(1990 年代 初頭)に社会教育会館でどのような学習が行われ ていたのかを見ていきたい。 1.1990 年代という時代背景  1990 年代初頭は、東西冷戦の終結によりアメ リカの覇権主義が強化され、また国内においても 55 年体制やバブル経済の崩壊による政治体制や 産業構造等の大きな転換点を迎えていた。  中東では、イランの石油利権を得ようと戦争 (1980 ~ 1988 年のイラン・イラク戦争)をし かけ失敗したイラクが、戦争による多額の財政難 を打開するため、大量の石油を保有していた隣国 クウェートに侵攻し、イラクとアメリカを中心とす る多国籍軍との間で湾岸戦争が開戦した。  湾岸諸国から大量の原油を購入していた日本政 府に対してアメリカ政府は、同盟国として戦費の 拠出と共同行動をもとめた。その結果、日本政府 は多国籍軍に対し計 130 億ドルの資金協力を行っ たが、人的貢献がなかったとして、アメリカを中心 とした参戦国から金だけ出す姿勢を非難された。 こうした非難の結果、自民党・外務省・保守派の 表 1 湾岸戦争と日本の関わりの概略 日付 出来事 1990 年 8 月 2 日 イラクによるクウェート侵攻 1990 年 8 月 30 日 日本政府、多国籍軍への 10 億ドルの資金協力を決定 1990 年 9 月 14 日 日本政府、10 億ドルの追加資金協力と紛争周辺 3 ヶ国への 20 億ドルの経済援助を決定 1991 年 1 月 17 日 多国籍軍によるイラクへの空爆開始・湾岸戦争開戦 1991 年 1 月 24 日 日本政府、多国籍軍へ 90 億ドルの追加資金協力を決定 1991 年 2 月 28 日 多国籍軍の圧倒的勝利のもとに戦闘終結 1991 年 4 月 6 日 イラクが停戦協定に合意 Mayuko SAJI

The peace study in Itabashi, leading to “ No one will be left behind”:A case study of the seminar of the current topics in the early days.

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「誰も置き去りにしない」に至る板橋の平和学習

the current topics in the early days.

人たちの間で「人的貢献がなければ評価されない」 という認識が共有され、それ以後の自衛隊の任務 拡張に関する議論の根拠とされた。 2.時事問題セミナーの開催経緯と趣旨について  時事問題セミナーは、板橋区立成増社会教育 会館で 1991 年 3 月に全 4 回で行われた「放送 利用講座・時事問題セミナー・湾岸問題を考える」 から始まり、以来ほぼ毎年、2000(平成 12)年 度の「わたしの憲法」までテーマや課題を昇華さ せながら取り組まれた。以下の鍵括弧は、特に注 釈がない限り、時事問題セミナーの担当職員で あった齋藤真哉氏(現・板橋区立成増生涯学習 センター所長)が各回の講座で作成した逐語記録 からの引用であり、また学習の流れを理解するた め、2020 年 8 月 26 日と 9 月 10 日に同氏に対 してインタビューを行った。  各年度の学習テーマは以下の通りである。 表 2 時事問題セミナーの学習テーマ一覧 年度 テーマ 1990(平成 2)年度 湾岸問題を考える(全 4 回) 1991(平成 3)年度 放送は戦争をどうとらえたか(全 11 回) 1992(平成 4)年度 メディアを読みぬく(全 10 回) 1993(平成 5)年度 日本の国際貢献を考える(全 10 回) 1994(平成 6)年度 沖縄から平和を考える(全 11 回) 1995(平成 7)年度 平和を実現するために教育ができることは何か(全 16 回) 1996(平成 8)年度 日本の政治のしくみを学ぶ(全8 回) 1997(平成 9)年度 人間はどう生きるか(全 10 回) 2000(平成 12)年度 わたしの憲法(全 10 回)  1990(平成 2)年度の時事問題セミナー「湾 岸問題を考える」の開催動機について担当職員は、 「1990 年 8 月のイラクのクウェート侵攻から、連 日のように続いた戦争報道がどのように受け止め られ、考え方が形成されたかに疑問を持ったから であった。それは、私自身が、それらの報道に振 り回され、この事件の事実を掴みかねる思いを強 くしたからこそ出てきた疑問であった。この問題を 住民とともに学ぶなかで解決していきたいと考え たのである」3 と述べている。  そして放送利用講座という事業枠から開始した 時事問題セミナーは、常に湾岸戦争という事象に ついて学ぶのか、その報道のされ方について学ぶ のかという2 つの視点を交錯させながら学習が取 り組まれたが、「戦争報道について話し合うには、 我々が戦争をどのように捉え、それにどのように係 わり、また望ましい方向に社会を持っていくには どのようにしたらよいかということから考える必要 がある。またそれについて我々の考えはそれぞれ 違っているので、話し合いを成立させるためにそ れら(それぞれの考え)をお互いに確認した。今 後は、戦争報道について、自分の考えと照らし合 わせながら見ていきたいと思う」(1991(平成 3) 年度第 3 回の司会の発言)として、戦争報道を 見る際の視点を一定程度各学習者が固めた上で、 日本で放送される湾岸戦争報道には何が欠けてい るのかを検証していった。 3.時事問題セミナーが放送利用講座として開催 されたことの意義  翌 1992(平成 4)年度の時事問題セミナー「メ ディアを読みぬく」で学習者たちは、私たちの日 常的な情報源であるマスコミの性格や組織原理、 役割の限界等を学んだ。例えば、この湾岸戦争 報道において多国籍軍は、多くの従軍記者による 取材や報道が反戦運動の高まりにつながったベト ナム戦争時の反省から厳しい報道規制を敷き、多 国籍軍の一員であった日本のマスコミも政府や外 務省の厳しいコントロール下に置かれた。時事問 題セミナーの初年度(1990(平成 2)年度)第 1 回で学習者がその参加動機として「テレビを見 ましても、新聞を見ましても、何かあの西側って 言いますか、直接に言えばアメリカのことばっかり が出ていて、さっぱりイラクの側とか、フセインの 側の(が出てこない)、あちらにもやっぱり正義が あるんじゃないかと思います」と語っており、とり わけ太平洋戦争を経験した世代は「戦争がこんな “ クリーン ” であるはずがない」と感じていた。

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日本公民館学会年報第 17 号 2020 年  平時の報道においても、「アメリカ関係の記事 を週約 300 本掲載する日本の新聞社に対し、ア メリカの新聞社は日本の主に経済関係の記事を 中心に週約 20 本、逆に日本の新聞社はアジア関 係の記事をあまり掲載しないなど、関心を向ける 方向性に偏りがある」(1992(平成 4)年度第 8 回、立教大学服部孝章氏)。「不特定多数の人が 耳障りよく受け入れてくれるものを書く一方、読者 の反応によりその内容が変わることはない」(1991 (平成 3)年度第 9 回、共同通信社佐々木央氏)。 「マスコミとりわけテレビはそもそも偏りがあるも のと捉え、それを視聴者がどう読み取るかである」 (1992(平成 4)年度第 5 回、産経新聞社大家 俊夫氏)といった報道やマスコミの性格等につい て学んだ。  こうした講師からの発言を受け、1992(平成 4) 年度のまとめの回では、学習者が可能な限り自分 の足でさまざまな情報を集めながら、自分なりの 判断力を鍛え、主体的に物事を選択していきたい という発言がされた。また、戦争報道を見る際の 基準や視点について、「現地の人びとの立場になっ て考える」、「日本の国益という点から考える」(こ の国益の捉え方についても議論を要す)、「反戦や 平和に向かうような報道がされているかという点か ら考える」、「命の大切さという点から考える」など の意見が出された。  以上のような学習過程を経て学習者らは、報道、 とりわけ戦争報道では、内容に規制や偏りがある ことを意識的・無意識的に学習の前提とするよう になった。湾岸戦争報道であれば、多国籍軍の 一員である日本の報道機関から、多国籍軍と敵対 関係にあるイラク側の情報は得にくく、そのため 湾岸戦争報道をテーマとした 1990(平成 2)~ 1992(平成 4)年度と PKO をテーマとした 1993 (平成 5)年度の時事問題セミナーでは、元イラ ク軍兵士をはじめイラクやカンボジアで現地の人 たちへの支援活動を行っている関係者らに講師・ 助言者として来てもらい、当事者の一方の側であ るイラクの人たちは何を考え、どのような生活をし ているのか。PKO の活動ではカンボジアの人たち の生活に役立っているのか、などの話を聞くこと を積み重ねた。 4.当事者から話を聞いたことで起きた学習者 の変化  1991(平成 3)年度第 3 回の「日本は湾岸戦 争にどのように係わるべきであったか」に関する話 し合いでは、「日本は血を流さないような、金の 出し方を考えるべきであった」、「金を出さなくて済 ますのは理想的過ぎる」(B 氏)、「日本がお金を 出したから戦争が早く終わったのではないか。し かし、日本がアメリカの言いなりになって金を出し たことは不届きである。(中略)起こってしまった 戦争は金を出して早く終わらせるべきである」、「あ の金は出したくて出したものではなく、第 2 次大 戦の帰結と関係している。(中略)弱者は泣き寝 入りするしかなく、希望を言っても日米の力関係 ではしょうがない。しかし、90 億ドル(計 130 億 ドル)は多過ぎる」、「金で解決できて良かった。 日本は地歩を固めるべきである」など、当日出席 した 10 人中 5 人がアメリカの言いなりではあれ 日本政府が多国籍軍へ資金協力したことについて 肯定的な発言をしていた。  そうした中、1992(平成 4)年度第 6 回の講 座には、元イラク軍兵士でジャーナリストの M 氏 を講師に迎えた。「フセインは独裁者に見えるが、 イラクの国民は民主主義の教育が充分にされてい ないので、その状態に満足しているのではないか」 など、参加者の無知や偏見等に由来する質問に 対し、M 氏は「アメリカは(湾岸戦争)以前から イラクをそのように伝えているが、湾岸戦争以降 それが強くなった。我々の民主主義と日本の民主 主義は違うのだろう。あなたがたから見てイラク は悪いと映るのだろうが、我々は悪いとは思わな い。あなたがたはどこまでイラクのことを理解して いるのか。簡単な情報や些細な報道で我々のこ とを判断しているのではないか」、「フセインは悪 いところもあるだろうが、国や国民のためにたくさ ん良いことをしている。我々は他国の支配を受け ずに、自分たちで考えて国を作りたい。日本人は イラクのことをたいして知らないので勉強して欲し い。新聞は商売で情報を伝えるのでイラク人のこ とやその気持ちを考えていない。再空爆を日本が 支持したことに失望した」と答えた。  それを受け、初年度から 1997(平成 9)年度

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までの時事問題セミナーに参加し、「自衛のため の武力は必要であり、現行憲法は理想主義的」な どの保守的な発言をしていた当時 60 代の男性 B 氏が「日本は完全に独立しているとは言えないの で、多国籍軍に金を出さざるを得なかったのが残 念である。これからはイラクと仲良くしたい」と言 うと、M 氏は「仲良くしたい?日本はイラクに対 する国連決議や再空爆を支持しているではないか。 (中略)世界がフェアならどうして国連決議をイラ クだけに守らせようとするのか。国連はユーゴや イスラエルには何をしているのか。イスラエルは 32 年間、国連決議を守っていないが、守らせる のならどうするのか」と答えた。そしてその直後の やり取りで、B 氏は次回の学習課題として、「日本 は湾岸戦争まではイラクと友好関係にあった。最 大の援助国でもあった。しかし、湾岸戦争で多国 籍軍に 130 億ドルの資金協力をしたのは残念で ある。真の自主外交として今後日本はどうしたらよ いか」と述べた。  以上のように、「多国籍軍に金を出さざるを得 なかったけれど、これからはイラクと仲良くしたい」 と、いわば手前勝手な発言をした B 氏に対し M 氏が「そんな都合のよい話はあるか」とでも言う かのように問い質したことが打撃となったのか、敗 戦国として仕方なくアメリカの言いなりになるので はなく「真の自主外交として今後日本はどうしたら よいか」という新たな問いとして、B 氏から発せら れることになった。そして、講座終了後に作成さ れたまとめ冊子の中でも B 氏は、「今回のセミナー について、私は毎回自分の無知を反省するばか りであったが、実に有益であったと感謝している。 湾岸戦争のことを知る上で、私にはテレビ・新聞・ 書籍よりもこのセミナーが一番役に立った」と述べ ている。 5.その後の時事問題セミナーの展開  対米従属化にある日本の「国際貢献」の限界性 (1993(平成 5)年度)や、皇民化教育の徹底 により、沖縄の人たちが自ら戦争に加担し、集団 自決を行うに至った加害としての側面(1994(平 成 6)年度)、上意下達の不平等な関係での伝達 が各人が戦争に向かう意思決定に関与したという 実感を持ちにくくさせたことをふまえ、教育を通じ て「平等を育てていく」ことの大切さ(1995(平 成 7)年度)、国家と個人の関係から国や地方自 治体の政治の仕組み、また情報公開制度等を通じ て市民自身が権力をチェックしていくことの重要性 (1996(平成 8)年度)などについて学び、平 和やガンジー、アジアとの共生、地球環境などの 多様な視点から各学習者のテーマや生き方を深め (1997(平成 9)年度)、各学習者が自分にとっ て最良の憲法はどういうものかを考えて(2000(平 成 12)年度)、約 10 年間続いた時事問題セミナー は終了した。  2001(平成 13)年度以降は、沖縄や中国・ 南京に出かけ平和についての学習を深めた B 氏 をはじめ、自らのテーマを自分の生き方の中で追 究していった人もいれば、1998 年頃より社会教 育会館が福祉の市民運動団体と展開した各種の ボランティア学習に加わり福祉や人権の学びを深 めた人、講座有志による自主的なサークル活動と して憲法や女性問題等の学びを深めていった人と いうように分かれていった。  そして再度、2008 年末のイスラエル軍による ガザ攻撃をきっかけに、再び当時の学習者らに呼 びかけてパレスチナ学習を開始し4、2011 年に は東日本大震災による原発事故被災地の一つであ る福島県飯舘村との学びや交流を開始した5。そ こでも、学習者らは当事者から話を聞く。それが 難しい場合には、当事者に近い人から話を聞くと いうことを当たり前のように行い、それが「当事 者性を涵養する学習」6として、現在に至る板橋 区の平和・人権学習の基調になっている。 6.時事問題セミナーの平和学習としての意義  1992(平成 4)年度第 6 回の時事問題セミナー で、敗戦国日本はアメリカの言いなりでいるほか に選択肢はないと考えていた B 氏は、イラク人当 事者である M 氏との対話を通じて、そうした自分 や自分が代弁する日本という国がアメリカから自立 していないことによって、これまで友好関係を築い ていたイラクの人たちを大変傷つけていることに 気づき、日本の「真の自主外交」とは何かを考え るようになった。

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日本公民館学会年報第 17 号 2020 年  それと同時期に、後に自由主義史観研究会等 を立ち上げた社会科教育学の研究者藤岡信勝氏 は、アメリカ滞在中に見たテレビ番組で一人の労 働者が「ソ連はアメリカと主義を異にする国であ るが、彼らが世界に出ていっても何をしたいのか、 何をしようとしているのかよくわかるので、それは それでいい。日本人は何をしようとしているのか、 まるきりわからない。しかし、気づいてみると日 本人はいたるところにいる。湾岸戦争について言 えば、日本がナースを一人でも出していたら、わ れわれは納得した。しかし、日本はそれすらしな かった」と語るのを聞き、「自分で自分の国の安 全を守るという、国家としての一番大事なところを アメリカに預けたままで、経済的利益だけを追求 する醜い国になっていたことを、この湾岸戦争に よって痛いほど知らされた」7。そしてこれ以降、「私 たちは日本人ですから、まず日本の立場、日本の 国益に立ってものを考えるのは当然」8という立場 から藤岡氏は、アメリカの労働者から侮辱された 平和憲法下での「一国平和主義」や東京裁判史 観等の「汚辱の近現代史」は日本の「国益」を 損なうものとして克服の対象とし、そしてその日本 の「国益」を重視すればするほど他国で生きる人 たちの思いや生活は軽視された。  日本の「真の自主外交」を問うB 氏と、東京裁 判史観等の「汚辱の近現代史」からの克服を目 指す藤岡氏、同じように日米関係に苦悩しながら 日本の国益とは何かを問う2 人だが、その見てい る方向は 180 度ちがっているように見える。そし て、このちがいを生んだのが、日本で暮らす私た ちとその私たちの意思を代弁する日本政府の対応 により傷つき、怒りを露わにするイラク人当事者 M 氏との対話を通じて、アメリカの言いなりになる しかない対米従属下の日本から、対米従属の立 ち位置を取り続けるゆえに、過去の話ではなく現 在進行形で加害側の国になっていることを突き付 けられ、自覚したことによるものではないだろうか。 つまり、アメリカと日本の関係だけを見ていると見 えにくいが、イラクという第 3 国が入ることで日本 の加害性が自覚できたのである。そして、このイ ラク人当事者との対話を通じた加害性の自覚にこ そ、湾岸戦争をきっかけに開始した時事問題セミ ナーの平和学習としての意義があると考える。 7.湾岸戦争以降の平和学習の課題  平和教育の研究者竹内久顕氏は「『平和憲法の 原理が湾岸戦争を前にして無力なのではないか』、 この戸惑い・不安は 90 年代に少なからぬ国民が 抱いたものであり、だからこそ湾岸戦争後、従来 の保守政権下ではなし得なかった防衛政策の転 換が一気に可能となった」9、「その結果、戦後日 本の平和教育の理論と実践が豊富な蓄積を有して いるにもかかわらず、それらが説得力を失い始め、 その間隙をついて軍事力や強権への『信頼』が 醸成された」10と述べたが、3 節で検討したように、 湾岸戦争当時、日本も多国籍軍の影響下で厳し い報道規制が敷かれ、空爆下でイラクの人たちが 何を思い、どのように生活しているのかなどにつ いて思いをはせたり、情報を得たりすることは容 易なことではなかった。その中で、アメリカを中心 とする多国籍軍への資金協力とその報われなさば かりに、人びとの注目が向かったとしても不思議 ではない。  先述の藤岡氏は、アメリカから「懲罰として与 えられた」11平和憲法下での「一国平和主義」に より、日本の「国益」が蔑ろにされたことへの「汚 辱」をきっかけに自由主義史観を標榜するように なった。そして湾岸戦争ではアメリカを中心とする 多国籍軍への積極的な人的貢献が日本の「国益」 に資すると考えた。しかし、そうした考えは日本を、 アメリカの呪縛を克服する方向にではなく、より 従属する方向に向かわせてきたのではないだろう か。湾岸戦争を境にアメリカの戦争遂行に加担し ていく側に転じた日本は、2015 年 9 月に国会で 成立した安全保障関連法をはじめ、その後もその 従属姿勢を強化させている。  日本が対米従属の国であり続けることが、積極 的に戦争遂行に加担していく側になることを、湾 岸戦争は突き付けた。そして、この被害と加害の 重層性の中で、主に広島・長崎への原爆投下や 沖縄の地上戦など太平洋戦争の被害の側面から 学習を構成してきた平和学習は、現代的な戦争の 捉え方をめぐり困難に直面したと考えられる。

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おわりに  以上、湾岸戦争下で苦しむイラク人当事者と出 会うことによって自らの加害性を自覚できた B 氏の ように、湾岸戦争の学習から現在まで、各学習者 が「自分の枠組みを超える他者の存在」12から学 び、自らの生き方を問いながら、「自分の枠組み」 それ自体を広げようとしてきた。そしてその学習 と活動を 30 年近くにわたり積み重ねてきた結果、 板橋区の少なくない市民が「誰も置き去りにしな い・されない社会、そして板橋を」を合言葉に地 域活動に取り組んでいる。 【注記】 1 齋藤真哉・佐治真由子「主体的・組織的な学習者を 育てる公的社会教育の役割-板橋区の学習支援 NPO の 設立・発展を通して-」『日本公民館学会年報』第 14 号、 2017 年、91-98 ページ。 2 大山宏・齋藤真哉・佐治真由子「大都市における市民 の学びと社会教育施設の転換-東京都板橋区を事例に -」『日本公民館学会年報』第 16 号、2019 年、45-54ペー ジ。 3 齋藤真哉・的野信一「放送利用による『時事問題』の 実践と提案-マスコミ報道を教材化するための工夫を中 心に-」『月刊社会教育』1993 年 7 月号、55-56 ページ。 4 拙稿「地域から平和を創る!~板橋がパレスチナと出会 う学び~」『月刊社会教育』2010 年 8 月号、58-65 ペー ジ。 5 拙稿「飯舘村と出会い、つながる学び~板橋区大原社 会教育会館で開催した事業を契機として~」『伝えたい 23区のいま-東京23区の社会教育白書2012』3-7ペー ジ。 6 齋藤真哉「沖縄からパレスチナにつながる板橋の平和 学習-当事者性を涵養し続ける学びあいの支援」『東ア ジア社会教育研究』第 15 号、2010 年、232-243 ページ。 阿知良洋平「平和学習における住民の『気づき』と学 習機会」『住民と自治』2018 年 7 月号、27 ページ。 7 藤岡信勝『汚辱の近現代史 -いま、克服のとき』徳 間書店、2001 年、102-103 ページ。 8 藤岡信勝・自由主義史観研究会『教科書が教えない 歴史』、産経新聞ニュースサービス、1996 年、10 ページ。 9 竹内久顕「二〇世紀から二一世紀の平和教育へ」『教 育』2003 年 1 月号、105 ページ。 10 竹内久顕「平和教育学への予備的考察(3)-平和 教育学の課題と方法」『東京女子大学紀要論集』第 60 巻第 1 号、2011 年、224 ページ。 11 前掲『汚辱の近現代史-いま、克服のとき』273 ペー ジ。 12 阿知良洋平「巻頭言 いのちの胎動をとらえる学び」 日本平和学会編『平和教育といのち』(平和研究第 52 集) 早稲田大学出版部、2019 年、ⅴページ。

参照

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