Title
入会権の研究概観
Author(s)
大井, 浩太郎
Citation
沖大法学論叢 = OKIDAI HOGAKU RONSO, 2(1): 1-25
Issue Date
1976-03-31
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/6461
入会権の研究概観
大井浩太郎 庁 (-)入会の成立,村ないし数村の住民が共同して、山野に立入って採草伐木することを入会
と称したのは、鎌倉時代の史料に始めてみえている。これを立・立合・入山・入篭などといった。御成敗式目(1252年)追加には「用水.山野.草木事法意
には山林叢沢公私共に利すとて、自領他領を言わず先例ありて、用水をも引く
草木の樵蘇をもする也、武家も比儀なり、但地頭の立野在林には害付かず」と
記されているが、これは雑令の「非禁処者山川叢沢之利公私共之」という規定
を承けたものといわれる。律令法において山川叢沢は特定人の占有を成立せし
め得ない民要地として、住民の共同利用に開放されていたカヘその集団的共同
利用の継続の事実が、社会的に承認されて入会権を形成するまでになったと考
えられている(石井良助日本法制史338頁)。中世にはすでに江戸時代の入会の原型ともいうべきものが展開されており、
その形態には次のような種類があった。すなわち私領寺社領の領民が領内の山
野に入会う慣習は領主の恩恵的承認のもとに通用していた。他領の山野の入会
が領主間の契約によって成立した例もある。但地頭の設定した禁制地域には、
入会が禁止されていたが、地頭が立野銭ないし、立野用途を徴収して、近傍住
民の利用を特許したことはあった。自村間の入会山野は他村持地に山手を支払
って入会う他村入会、数村持地の入会等村落を単位とする入会の形態も存した。
伊達正宗の塵芥集には「せんより境たく入会にかり侯山野」すなわち数力村持
合地の場合を作場に改めることを禁止した規定があるが、室町期以後村落制度
が発達するとともに、村落を単位とする入会形態が支配的とたった。中田氏は
近世の入会の形態.内容・性質について次のように説明されたことがある。「
入会の形態は村中入会・数村持地入会・他僧付寺地入会・私有地入会・官有地入会の5種 があるとし、1村の名請地の山野に対する同村住民の入会権は、地盤に対する総有 1権行使の_態様であり、数村合有の山野に対する数村住民の入会権も右と類似
の態様とみられた。いずれも物権的な権利と解される。土地を所有する地元村
の許諾を得て、山手米‘野手米・或は草札銭.山札銭等の報償を支払って入会
う他村持地入会.個人所有の土地に所有者の許諾を得て入会う私有地入会.地
頭林.公儀林等において、当局の恩恵によって入会う官有地入会の入会権は債
権的なものである。然し、いずれにしてもこれらの権利は入会村の村民が個人
として有するものではなく、村に属する入会の権利を自己の権利として行使し
得たに過ぎない。村民のかかる権利は、その所有地に属せしめられたのでなく、
村民たるの身分に属せしめられたものである。」 まぐさところで入会の内容は入会地において、薪・すすき゛萱・秣等を採取するに
あるが、数村持地入会や恩恵的許諾にもとづくものである。他村持地入会や私
有地入会.官有地入会の場合は採取物ならば、青草の採取を禁ずるとか、入会
の時期について、地元村の触れる口卿も口留注での間に限るとか、採集法に
もついても、例えば鉈の使用を禁ずると水その権利が慣習や規約等によって種
々の制限に服せねばならぬことにしていた。
しかし、沖繩の入会は前記の類型に限定されていたい。例えば原野模合地(仕
明模合地)というのは寛文(1668年)以来地人が新たに開墾した土地か、開墾
予定地になった土地のことである。元来沖繩には人民が開墾して、土地を私有
することは許されたかった。慶長検地(1609~1611)の後年月を経るにした
がい、次第に荒廃地がふえ、有税地が減少したため、藩庁では収入が減じそれ
に加うるに藩庁から島津藩に対する貢租が減じたためしがなかったので、琉球
藩庁は貢租を補充せねばならなかった差しせまった理由があって、寛文8年
(1668年)開墾許可を薩摩藩に要請して、開墾することを許された。かくて山
林.原野.海浜で耕地になったところができるようになった。それも個人の力
でははかばかしく開墾が進渉しないので、村一円として又は数村合同して開墾す
るようにたった。にも拘らず広大な荒蕪地を耕地とするためには数年の年期も
かかったであろうし、そのうち若干が予定地として残されるようにたった。そ
れは沖繩では古来建築材料や薪炭に乏しく、林制は特に注意されたのである承
屋根葺替の茅仕立が必要であったし、且つ牛馬を放牧する慣習があったので、
無制限に開墾されたのではかえって薪炭.飼料・肥料造成に困じ果てることは
-2-必定であるということで、貞享4年(1687年)山林・原野の開墾を再が禁止し
た。こうした藩庁の思わくとうらはらに、人口の増加にほとほと手をやいて、元禄
10年(1697年)にはまたまた牧畜と薪炭の採取地として関係のない土地は開
墾差支えたしと割冷した。こうして個人として又村間切として開墾した土地を
在i鶴1,1Fiいった。但し仕明請地の場合は必ず請地状を請求して開墾しなけれ
ばならぬとし、その代り三年間は鍬下年期といって、無税期間をおくことにし
ていた。元来山林原野の無税地にはその種類が多く、例えば①原野、②杣山、
③仕立山・御風氷山・嶽山.④唐'1'i山、⑤藪山、⑥仲山、⑦里山,御物山、③
間切山、⑨間切保護山・間切杣山・御物山野、⑩間切山野、⑪村保護山、⑪村
山野があり、このうち①~⑫の中に入会山がある。寛永2年(1625年)琉球政
庁は水源の酒養と防風止、或は家屋建築・造船材料を得たいため、または萱採
・秣採.炭採の必要から、山林原野の監督を厳重にし、苗木の植付や木竹の伐採・
萱・秣の苅取等きわめて精密な制限を設けた。したがって列記した原野の中に
は政庁自らこれを管理したものがあり、間切や村の管理においたもの個人の管
理にした‘の等があり、一定しない;が売買質入譲渡を許したことは曾て一度も
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庵だから仕明山野は個人か村或は間切に下附したものであった。
その起因は「人民がもし山野の開墾を願出たら、藩庁は全体の針図を添えて許
可する旨の指令を与え、人民が開墾したら、その開墾部分の土地を高入し、賦
租するという仕組である。但し前記の通り5年間の鍬下年期が付与されていた。
その他の部分は山明地の付属地として仕明山野と称した。請地山野というのは
つまり払い下げをした百姓地に付属した土地の意であって、これも針図を添え
て請地状を下附したこの仕明請地と類似形態をもつの力l1mi藷l臓創われるも
のである。これは具志川間切・北谷二間切にのみ許された開墾地である。この二
間切は寛文以来貢租を完納することのできない村々ができた。そこで政庁は困
じ果てた挙句特別の処分として、其の村々の土地を売却し、その代金はこれを
-3-村の共有として下附し、土地を買受けた者には、請士(h状を与えて売買譲渡を許 した。負担は百姓地と大差はないが、ただこの土地に限って米叉は雑穀の現納 を免じて、金銭納としたことに大きな相違があるが、これがたまたま沖繩の土 地制度を崩壊させる原因ともなったのである。すなわち藩政時代交通が開けず、 米の輸入を迎ぐ処がたかったので、本地はもっぱら米作を主とする政策を採っ た結果として、百姓地は畑を田とすることは奨励したが、田を畑にするのは厳 禁していた。にも拘らず、二期作も罷りならんという指令を出す始末である。 例えば明治5年(1870)田地奉行保栄茂里之子親雲上によると、「近年秋稲作 立候仇夏稲蒔立薄出実格別取劣候由候間、秋稲作立差留候様、表御方より御 沙汰之趣有之先達て申達置候得共、間には鬮陥差心得種子蒔入候所も可有之哉
承、甚不可然儀候間、各間切中走廻致見分、右様之向屯候は賀屹と可差留事」と
あり、超えて明治10年(1878)南風原間切の調書によると「秋稲作立候儀 夏稲之故障相成候処より、田地奉行より被仰渡候付、来年より先一向作立不申 候ぃ若秋稲作立候者有之候はg、当人は勿論我々共其沙汰可被仰付侯以上」と している。甘簾の如きも作付反別に制限を加え、貢糖買上糖力坏足したい程度 として栽植を厳禁している。 しかし明治12年置県以来地目の変換や作植の自由は暗々裡に許され、特に士地整理(1899~1905)を契機として、栽値、地目変更は人民の自由に7tiiF圧す
ることにたった。尚特殊な無税地に喰実畑があるこれは国頭地方のように山 林が多く、耕地の少ない間切に藩政中許可を受けて開墾させた土地で仕明請地 、、、 と同性質の土地である。喰実畑は別名キナワ畑・山野畑・明轍肪どといわオT、 その多くは切替畑であるが、村によって地劃するところと、地割しないところ があって一定しないが、この地目ばかりはかつて実測もされないから、間切・村 によっては実に広大な喰実畑力場b、その一部を入会地に変更しているところもある(安彼村・辺野喜村のように)。明治5年模合地(入会地)として、無
税地積を|臨時に測定した結果を見ると次の通りである。 -4百分比 無税地)有税地 95.58572.289 48.747 82.517 565.891 54.505 510.021 209.111 ゛百 無税地 57 57 87 71 分比 有税地 45 65 15 29 地方 島尻地方 中頭地方 国頭地方 計 以上を要約すると沖繩の入会地は、本土のそれのように5種に限定されなか った。第二に入会稼場の土地に対する所有観念を前提とする物権的入会権と債 権的入会権の区別は疑問であるということである。すなわち土地に対する村民 の所有権意識の存在が疑わしいことである。第三に入会権の主体として、生活 共同体である部落を除外すべきではなく、むしろ沖繩の場合はこの部落が総合 的性質を有したものであるということである。第四に村民の入会地利用の量が 持高や身分によって、不平等に定められていないということである。 本土に於ては明治6年(1875)の地租改正に先立って実施された、官民有地 の区分によって入会地の法的取扱いが種と変化している。すなわち明治5年( 1872)の地券申請渡方規則によって、村持叉は数村持の入会地も公有地に編入 されることになったこと、公有地は所在村方の管理に委ねるが、本来は固有で あって将来個人に払下げることが予定されたものである。しかし入会地の農耕 -生活上(、必要性が参酌されて、旧村持地には「村持の券状」を交付することと し、同6年の地所名称区別法は上の村持地を公有地と呼んで、それ以外の地券 規則にいう公有地を官有地と称するものとしたが、翌7年(1874)には、公有 地の制を廃し、1村或は数村所有の確証あるものに限って、第二種民有地に指 定している。その確証とは、書証のみを意味したらしい祇幾ばくもなくそれ が緩和され、旧時代の村持地のみは入会地として、そのままの性格を保ち得る ことにたった。然るに明治21年公布の市制町村制によって、村の実在的総合 人としての性質が止揚されて、法人とされ、1村所有の名儀で地券が交付され た入会地は、町村制による新町村の財産もしくは、町村自体の規定する部落有 財産として、町村・町村会の管理するところとなった。 しかし、地券上、村落名儀の入会地が町村制による町村に当然に継承されたこ -5-
とは、断定できないふしかある。現行民法は共有の性質を有するか否かによっ て入会権に共有または、地役権の規定を適用すべきものとしている。ところが 宮古・八重山の先島地方においては、入会地の成立そもそもから規律が大いに 異なっている。その事実を概観すると、先島では古くは同族集団内で調和的に 事を運んだり、神に帰依して遊ぶこと自体が、労働を推進する事実であったカヘ 社会が統合されてくると、やがて遊びが制限されてきた。のみならず集団が不 分一体的に合一していたのが、次第に細分化の方に進められ、貢租労働土地を 分け合うようにだった。もっとも沖繩本島の地割制度の態様は、最初同族団の 根屋の主人が、神の意志によって平等にしかもきわめて素朴な方法で配分した のを、17世紀初頭薩摩入を契機に、錠17条の指令や検地の実施と共に、その施 策によってさまざまな影響を及ぼし、士地制度や地割法も変貌をとげるように 効がt、え なった。従って貢租の如きも同族集団が合一している間は束貢といって、各個 人的に出していたが、領主(世の主)ヘは集団として出していたことは事実で ある。それは世の主に献げ従う意味と、世の主に対して敵意がたいということ を示す機能でもあった。従って貢したいと離反したと疑われる。例えば昔時の 粗造な船による難島からの貢であれば、難船によって貢が届かないことも再三 に及んだであろうし、その結果相手を怒らせることに1MJ得た。 先島からの貢納船が厳粛な儀礼によって貢租運搬の重責を果していたことは、 当時の歌謡によって知られよう。にも拘らず後生大事に運ばれ、献上された貢 も、各地の産物息それを僅かに加工したものであったと認められる事実があ
る。「近世まで世の主に対する礼物として間切や島から持参した猪・貝の如きがそ
れを示すものである。王朝時代にはすなわち、その地の産出高を標準にして集団に掛けられていた事実がある」(沖繩法制史)。
、、 土地に関する権禾Uも王朝時代初期にはクニや個人が強く主張してくるが、総 じて社会の統括圏集団の統合分立と関連して消長してきた跡がある。すなわち 村ないし間切から順次広い範囲に進められたであろう一方、日常の共同生活圏 も、はムラから更に近縁者間だけのものに、そir1も狭小な範囲へと漸次縮少され
ていった形跡がある。そして後には順次統合して統括圏ないしは、そ`錦:土
地を領有し、順次分れた家等に土地が所有される関係が明確にたっていった。 -6-従って王朝時代以前には、村に少なくとも土地の領有権があったであろうと思 われる。このような土地領有の関係が先島には現に村山・里山・お嶽螂山・包護 山として存在する。これがまた入会山に相当するものであった。 宮古に人頭税が課せられたのは寛永14年から万治2年までの間に4回の戸口調 査があって、それを基礎に貢租定額が通達されてからであって、~それ以前は忠 導氏家譜に見えるように「是よりして民俗農業を怠らず礼儀を修め、太平の民 となる。」とあって、自給自足経済の枠を壊さない素朴で平和な農業であった。 ところが薩摩入後になると貢租関係も強制的に増徴されたのであるから、地割 替を断行する機会もたく、沖縄本島で奨励された仕明地私有の機会さえ失われ( かてて加えて仕明した土地でも、貢租納入はすべて平等を原則とするから、よ けい原野を開墾をして所持する者は、土地狭。、で貢納に困るものに分ち与える べきであるという慣習をつくるようになった。農務規模帳(富川親方規模帳) に記録された次の文はそれを裏書する。 「面Ar所持の畑は現坪ずつ取〆帳面に記し置き、持不足の者は、持過の者か ら配分し、叉は近隣の荒地又は原野を見合い、開地して一統難儀に及ばざる 横物成上納人の多少に応じて親疎なく配地致すべし」、すなわち宮古島には 地割制度はなく、また上納人の多少に応じて士地を配分するという事実もなか ったのである。にも拘らず貢租完納を目標にすれば、規模帳に記録されたよう に、持不足の百姓は、持過ぎの百姓の土地を分けて小作するという程度であっ た小作するにしても、地代を支払うのではたく、村組の命の左に主に分地し て耕作し、「責納を怠るまいぞ」という割賊に止さるのであった。また開地す るにしても仕明山野の如く、山明地の付属地という観念もたく、まして請地山 野の如く、払い下げをした百姓地の付属地という考え方はさらさらたく、きわ めて漠然とした「官有地を耕作する百姓」という意識のみがのこる奴稗以下の 生活であった。ただとの耕地の中て、先占民が開地して世襲の如く持続けられ
るJWI・号地というのがあった。これは百姓がいかに零落しても、この地だけは
野放してはならぬ、売買して、ならぬという意識に支えられた先祖譲りの土地 であった。 土地に対する観念が以上のi重りであるから、入会地として意識されている原野 -7-(村山里山・抱護山・お嶽山)は、村組によって保護管理され、村組の多くが 血族集団によって組成されているのであるから、入会権は村組によって自然に 享受された-つの特権であった。農耕に際してもこの組(農耕の場合には村組 を大結組という)によって共同労働するというのが建前である。農耕について
も灌概排水.士提工築に、橋梁架設に或は家造りに、肥料造成にこの大結組が
果した役割はまことに大たるものがあった。例えば西原・野原。保良・伊良部 うまのIまでとらのIまでねのはでさWDIまで ・多良間の各村には現在でも午方手・寅方手・子方手・申方手等の称呼があり、 毎年1.2.5.7.8.9.10.11.12月の9ケ月は1月に5日間大結組の耕作のために、村夫として働いたのである(農務規模帳)。そして共同作業の
当日になると、未明に拍子木を打ってこれを知らしめ、卯時(6時)限り百姓 ぷ-んみや- -人残らず番所に集まって調査を受け、耕作筆者の指揮の下に耕作にでるので 、、、 ある。この結組の作業に不参した!)、叉は遅刻した者は尻鞭5つ、又はカシギスの罰を霞ければならなかった。こうして新しく開かれた土地は持地不足の者
に配馳されたのである。また家造りの場合には、プーンミヤの筆者によって記録された、何某の家は建
造以来何年・故障・雨漏の程度腐朽の程度等によって、新築を要する旨の順序がきまっているから、筆者はその旨を村民に告知する。新築の日は蒔芝)とい
うLM11によって吉日が番所に報告される。すかさず筆者は組員を召集し、番所に於て「何手の組」は茅刈り、何手は屋根蒜、何手は柱の調製、何手は繩造り、
とそれぞれの役割を発表しT茅すすき苅りの場所は村山の某の方向と指示を与 える。結組員は直ちにその役割に応ずる道具、牛馬をそろえて作業にとりかか る。こうして百姓銅±一日にして葺上げる〈Lいう仕組である。もっとも農民の すすき 住家というのは堀立小屋で、茅で屋根をふき簿を編んだものを壁とした。床は いノビフや 竹を編んだものを使用し、アダン葉瀞を敷いたものである。中には「犬脆き屋」 といって柱は前方だけに使用し、戸'1を開き後方は柱をたてず、其の地面に 垂木を綴いた鶏小屋のような小屋もあった。 間切ないし村々集団の労働M沮織でも、それぞれの血族間において組が存してい たか、村によっては血族の組がそのまま材組になっているところも多かった。 これを基礎にして、労働も推進されたし、狩嶽信仰の組織もできた。これらの -8-組が結組ともなった。現に具志頭村や知念の久手堅村では、門中による腹(原) 組が労働推進の基盤をなしている。例えば具志頭村の前原組・西原組・東原組 、新城村の福原組・新垣組・中原組・諸見里組があり、知念の久手堅村には寒 川組・当間原組・仲泉組・下殿内組がある。 (二)入会の推移
地組は先占民力、開墾した耕地を子孫に平等に分配して所持させ、労働の際
は共同労働によって相互扶助の実をあげるためにつくられた組織である。すな わち結組の如く、何等かの目的の仕事によって組合せたものであり、村の拡張 も、につれて2各種の組合せができるが、これらを総称して村組という。村組はすべ
てそれそれ特殊な生活上の動機があって成立する。いわば組は古い同族によって成立したものであり、共同を意味するイーマールー(結)が最も古い形態で
あった。,6.,年薩摩の琉球入り雷では、こ偽血縁や族縁の団結に強い支
配力をもって、村落社会の政治的経済的な結びつきをもち、繩には篝IDI生質
をもつものがあった(知念間切の原講)。この大きな支配力をもった結組が、 薩摩入り以後殊に寛文の頃にたると、強制的に割当てられた貢租納入機関とし て利用されるようになった。沖繩には薩摩入以後は、村落を西・東・後・奥・ 中・前・大・中・小等の名を付して、血族によって組をおくことにしていた。 例えば具志頭間切具志頭村に、前原(腹)組・西原組・東原組・中間組があり、 新城村に福原(腹)組・新垣(腹)組・諸見里腹組があり門中毎に写(組)が結成されていた。すなわち大抵どの村でも血縁の者同志か、族縁のもの同志で
組ができ、組は根屋(宗家)を中心に団結吟鰕神の祭祀を契機に一族の相互
扶助を行なうのである。その拠出金のことを煙という。組の頭はしたがって宗家の戸主が選定されるのである。組頭は村捉ないしは地頭代から言いつけられ
た指令や、村寄合の協議事項或は門中祭祀の時にその通達を行ない、間切の秦 くみあい仕作業や協議の際は、与合を代表して、与合共同の仕事の際はまた卒先躬行せ
ねばならぬ権能さえもっていた。もっとも組制度を規制するのには村内法とい うのがあったが、多くは不文律で、村の慣習になっているものが多かった。その成立には組頭が-をその内容を記憶するか、或は百姓(村民叉は地人という)
が日常遵守すべき事項を書冊に記載し(多くは番所役人に記録を依頼する)、
-9-これを遵守する鵜』iこれを桑((麦鹸乃う,を記して、村碇.耕作当山当
以下全組員の署名捺印(多くは栂印)をさせた上、番所に届出させるとともIC、
一通鍋;態許に掲げることにし、村揃のときにはこれを暗謂させることにし
た 村組というのは以上の通り、村共同体の意識をもって、祖神を祭る執行機関 であったが、前記の通り、薩摩藩の検地以後年貢納入機関に変質してしまった。 おそらくその時期も慶長から寛文に至る間に追い追いに変っていったものと思わ れる。例えば享保年間察温によって指令された農務帳(1754年)によると、「百姓組合を以って田畑相授け置候に付ては、その与合の者共陸敷取合、相互に農
事致談合助力を以て可相働候、年貢及不納者於有之は其与中、弁に申付置候故、若大方致候I汕厄害に相成、与合之詮も無之侯間万事致熟談、互に引進可相勤
事」とあって百姓地として分配さオ[た耕地は与毎に、公儀から授けられるならわしとたっていた。それにしても検地(1609~1611)以/前の耕地は、百姓たち
の血族間に授けられたもので(按司時代を通じてそうであった)、祖先以来幾
世紀にわたって彼等が自らの手で開墾し耕作してきたものであった。すなわち按司時代にはその領内の土地と人民はすべて按司の領有するところであり、按
司たちは村を単位に貢納や夫遣を、百姓に割当ててこれを支配していた。だか
ら地割制というのも自然発生的なもので、領内の農民が適宜己れの労働力や家
族数を見合って農民間で分け合ったのがその始源的なものであったろうと思う。
にも拘らず慶長以後になると、年貢の定免制や、村請制度が結びついて制度化
され、手のこんだ分配法に改まったと見ることが妥当な解釈である。こうして
村を単位に揺げられた百姓地は、本来耕地の平等な保有と、年貢の平等な賦課
を目標にして割当てられるべきものであった。
しかし、地割法の実際は均分左割当ではなく、不公平な分配に終っている。
それを是正するために政庁では割替毎にさまざまな指令を出した。例えば道光12年(天保5年)恩納間切仰渡日記によると、「諸間切百姓地之儀各家内之有
無等見合、不便の者共不痛様地割可致之処地面広村念は家内有付居候者共、
地方少〈持不如意の面Arは致持過、且地面少村とは、家内有付侯者共地方多、
不如意之者共は少〈相持候故上納物調兼及迷惑候等も有之由、上之通段と親疎
-10-之成行故、威勢有之面とは猶々余財相増、困窮之者共は自然と衰微之方に成行 追年疲増候振合之由相聞得甚如何之儀侯条、右屹執行引改、家内之厚簿に応し 致地割侯様可被取計侯比旨御差図にて候、以_L」とあってこれで地割替の目的が ほぼ知られるが、威豊5年(嘉永6年)11月17日、恩納間切御手入日記によ ると、「村と地割之儀田畑共上・中・下差分け、与ムクジ取を以致割付、於与 与も上伺断クジ取左以家内之厚懲入居之多少見合、分とに応じ持地可相授事」 とあって地割替の方法が明らかになった。にも拘らずこの地割替にまた周期が あったことがよみとれる。すなわち威豊5年(安政2年)8月、兼城間切勤職 帳によると、「田畑之儀拾年振には厚薄段々出来致し、其上混乱之儀も可有之 候間、其心得以田方は4.5年畑方は8.9年振に地割し、時節見合無親疎割 直せ侯事」とある。 ところが、具体的な割替方法は、なかなか複雑で、無口な農民たちはただ役人 の芝居に聴き入るだけで意見らしいものは一つもでない。その拳句に本来平等 であるべき地割が、一種奇態な地分けに終っている。例えば威豊2年(嘉永5 年)1月差出された東恩納村の地割帳によると、-地人でよく六地をせしめた ものがあるかと思うと(村役人)、-地の半分五分しか分配されないものが出 るという始末にたっている。こう見ると、地割の方法というのは取あえず、農 民層の分化を阻止するためにとられた方法であるといえる。すなわち村から割 当てられた田畑の配分は各地組毎に公平に配分されねばならぬのに拘らず、各 家に配当された田畑は全く不均等な配分であり、左かには間切村役人が配当地 をかすめとるような者が現われ、農民は糊口さえつなげたい気の毒な生活に押 し出されるに至ったのである。にも拘らず「生活は犠牲にしても貢租だけは耳 をそろえて期日通り出せ」という達しであるから、農民にしてみればいきおい 組の結束を強化しなければならぬようになる。そして組の結束を強化する-方 策は入会を確保することにあると、心得た農民たちは、組毎に入会地を持ち、 或は数組持の入会地を囲い、村は村として村持入会を、数村持入会とい って数ケ村が共同で入会地を確保するような事態まで現出するように なった。農民はこうして確保された入会地を巧みに利用することによ って生活を続け、且つ牛馬を飼育し、薪炭を採り、肥料用の採草を積み あげて、堆肥の造成を行ない、生産の増強を行なって、貢租の納入をする農産 -11-
機械に階してしまうのである。この事実は明らかに地割の不均等を許容する事 実があったからであって、「組の不均等な写合せ(血族によらず地縁による地 組が結成されて以来)が、帳の与直しによって人為的に作出されたことにあっ
たと思われる’(拙稿沖縄農村の社会構造)。元来組は地域的な団体であり、
その機能は主として農耕・葬祭・田植・製糖・家作り・その他日常生活的共同 による欲求によって導かれる。従って村と同族との中間'て位する類似的形態と見 られるのであるが、沖縄の村落の多くが同族的集団を中心に、発達しているだ けに、組は祭祀を中心に団結の度を強めていったものと考えられる。いきおい 組は最初から血縁の者たちの幾つかの戸によって形成されたものであって、家を中心にした一つの共同体の中に含まれている。従って夫婦を根幹とする家族
及び遠縁とか、非血縁の準家族からなる家族を主要成員とする。しかも新たな 分家が出来ると、その結果これらの家とか本家の統御/と入って、従属的に連合する形態をとっている組が多い。従って日常生活共同作業は、農耕関係は勿論、
大小の恒例の祭祀、臨時の物品、労力の融通、吉凶の協力関係に於て大きな役 割を果すようになる。、人口が増加し追向に地縁形態がとられるころから、同族団意識をもった人友は、
若者組という組織をつくるようになった。この仲間結成の単位は部落単位であっ たから、明治41年(1908)市町村制施行以後の部落青年会は、それ以前の若 者組の精神をうけ継いだ形で成立したものである。このことは若者仲間の仕事 の分野と部落青年会のそれとを比較してみるとよくわかる。お嶽ヘの祭祀奉仕 や部落の共同労働(結)の作業などがそれであるbしかし戦後になると青年会 が官庁や連合青年会の指令に制約される面が多くなり、青年会と若者組が全然 別な集団として分れている傾向の村も少なくない。若者組はそれ程部落的要素 をもっていたことに特色があって、若者はいわば村の内面的融合の上になりた ち、ないuま祭祀行事の上になり立っているようである。例えば南風原間切喜屋武村では、「喜屋武夕夕拝み」(祭神は「イシガチのオイベ」という)に
祭神インガチノオイベを崇べてお祭りをする行事がある。祭神は村づくりと村組づくりに功績を残したと伝えられている。ニンとはテヂのことでいわば「村
の祖神」のことである。毎年8月甲午の日になると、村の若者組によって神前 -12-は情掃きれ〆繩をめぐらし、境内に白砂が敷きつめられる。祭祀には喜屋武の 、、 」6プヒニかく
根屋のノロによって祝詞が奏上される。間切ワコオ1h頭は御花米9台・白米2椀・神栖1
斗(1樽)が供えられ、村民はそれぞれこぞって御供物と神酒(1カタミー1 石のこと)と、家毎に分に応じた御馳走をつくって、神前にお供えし豊饒祈願 のためにお参りをする。すたわポジklをあげての祖神祭りである。お祭がすむと、お供えの御馳走は大きな戸棚5枚に、芭蕉の葉を敷いたものにあげられる。それを
村民全体に平等に分配される。それを持ち帰って戸毎に御祝をするのであるが、
この_切の世話をするのが若者組の奉仕作業であった。祖神はすなわち神氏自 身の氏神であると同時に、村人が共通の鎮守として祭ってきたものである。こ の意味で氏族集団の人友の住む境域と離すべからざる概念が含まれており、氏 族の氏神にとっても先祖であり、村人にとっても先祖であるから、喜屋武村の 如く、村人全体が神亡奉仕するのである。この若者組の奉仕作業は祭祀に止まらない。村山及間切山の入会権はいわば
村ないし間切にありながら、若者組はその入会権を村人全体から付与されて、
村の代行者として、その権利を行使する慣わしである。知念間切久手堅村の若者組
の作業は家造りに、或は田おこし、刈入れに、肥料つくりに、村全体のために結組と
なって奉仕する責任と義務があった。若者組lま数グループに分れている。例えば萱苅
けんだて組.軒立組.屋根葺組‘細工組.繩結組.料理組、とその場豊でi適当な人選をして(
組頭による)いよいよ作業にとりかかる。住居新調の順序は村捉によって帳付をされ
ているのであるからも新調にかかる前日に、住家の戸主に告知されるという手順を経る
だけである。結組での作業であるからいかなる農家でも(大抵親ル各は間切番所から指
示されている、2間x5間6坪の母屋とトーンクワという台所である)し1日
に家作りを終ってしまう仕組である。南風原間切喜屋武村でも略似たよう左手 順で農家の家作りが行なわれるが、入会山に入って材料をとる組はきまってい る。すなわち喜屋武村には今も昔のままの部落制度が残っていて若者達(15才 ~50才)が幾つかの組に分れて組織され、各組の組頭によって統率さ沁村の 行事、労働を推進する役を引きうけている。すなわち勘定頭というのは村のす べての行事を協議遂行させる役目、民立頭は行事の監督役、若者頭は行事結の 遂行に、夫頭は現場の監督役、い頭は伝達役で、それぞれ役割がきまっており、 -13-若者達はそれぞrL10人内外の人数で.できた組員をもって一つの行事にとりかかる のである。入会の権利はこの若者達に付与されたようなものであって、村の住家 の葺かえ、ないしは新築に、村碇によってその葺かえ、新築の順序が帳付されて すすき いる方から、入会山に入って総出で萱刈り、住家の柱調製。繩作り薄刈りを昼まで に終え、牛馬につみこんで現場に帰り、昼食(新造の家主が振舞う)をとると、
いよいよ屋根葺にとりかかる。総勢それぞifしの分担(乍業にかかるのであるからfiF業の
はかどりも早い。こうして昼下りになると農家の屋根葺は終る。夕暮頃からそ
ろそろ新築祝いにうつるという段取であるが、席上の御馳走はその材料を親類 の人Arが持寄り、料理は若人の女子が丹精こめてつくりあげたものである。 およそ沖繩の入会というのは、前章'2種の原野がすべてその中に入り、農家の 葺替や新築に要する資材はすべて、この入会山から採ることができるようになっていた。'8世紀以来察温の山林政愛:徹底的に施行され、公儀の御用木を仕
立てた杣山ですら、「下草を刈りて塵用に利用することは差許す」(地方経済
史料)という指令によって、下草刈りの名目で杣山に立入るものも多くなった。 そこで王庁は杣山内における御用木盗伐に関する厳重な罰則を提示するように なった。文久5年今帰仁間切杣山法式によると、「御法度之諸木盗取商売仕候 君売人買人共同前御法之通科分被仰付、見付披露申出候者へは、上科半分之 下之半分は、山仕立料被仰付、木之儀は取揚普請奉行え相納偶莫に被仰付侯事、 但御法度之諸木下に記、 ,、樫,、いく木1.よすの木1.かし木’・畝’・杉 ,、桑,、秋,、山黒木1.さほん’・梓’・櫨木 ,、楊梅皮1.から木皮1.5年内真竹’・いちよ丸きち」 また御物奉行は次の指令を文久2年4月に発し~ぴ6N【締りの強化をうたっている。「御法度之諸木抜売仕候儀、在番勤番、検者相攻候後、相忍積入侯iii(、又は夜
中津pえ引出置、通船之砲積入侯!;k、兎角色女之術有之積候間、積荷の時早朝 目I湘仕廻送t湘付、尤那覇泊津口え相届候船にて候はg、船改奉行宛書、浦点にて売商仕候船にて候は苫、其所之検者在番宛書にて差遣、到着所」二送状を以相改、
帰帆之時裏書差帰候模可被仰付事 御物奉行、 大宜味間切検者 -14-国頭間切に対する「杣山取締証文」レコゴヒ次のように記録されている。「1.薪 木之儀曲木より伐出侯御守法に候処、綾せ成来侯、向後村を堅致取締杣取次第
速に津端に持出、夫地頭徒頭友見分之上切打候模に相定め、其上下知御役御検
者山御筆者にも不断御廻見、若不守之者有之候は瓜当人は薪木取揚之上一丸に50貫文宛、所之夫地頭捉頭と500頁文宛科銭召行候方に取締仕置申侯」ところ
が宝暦5年(1755)恩納間切の疲弊が甚だし〈たり、貢租納入が遅滞すると、
思い出したように次のような指令まで出す始末である。「杣山の内潟地且水付の処は、元来田地にて候処、頃年杣山御差分を以て、山内に御召成被置候、然
処干今諸木生立不申、徒捨置場所間々有之候間、田に召或度由所中より申出候
付、致見分候処、田に召成候而、杣山の支にも不罷成、且諸木仕立も不罷成場所にて候故所中願出之通り、被仰付侯間、山奉行方え可申出候、
上の通被仰付侯間可奉得其意候以上 浜元親雲上 恩納間切仲田親方 全く矛循した訓令や法令を発して、農民を困らせている。 宮古伊良部島の入会は、村の原野のすべてにその権限を行使することができる ようになっていた。「順治12年(1655)下地頭職白川氏恵根が御用をうけて 上国(沖縄上り)の除小松数株を持帰り、土性の宜しきを撰びて試植九恵 根思うよう、海を渉るものは必ず船隻を用い、遠く行く者は車馬を用う。本島 松樹なきために造船の用を欠く、とれ特に松樹を求め本島に試植する理なり。かくて大武山に5株、島尻後に'株松の喬ワkあるほこれに依るなり。」-白川氏
家譜一この記録によると、松の造林は船舶用材に共することが、その動機とたっ ている力、宮古島は気候風土が松樹植林に適しているため、島内到る処に繁茂 し、独り造船用にとどまらず建築用材に叉薪炭用として広く利用されるように なった。白川氏恵根は更に康熈20年(1681)には小松2000本を持帰り、下地 間切例鎌村の適地に移植したので、宮古島に始めて松林が出来るようにフガミった。 こえて康熈54年(1715)白川恵治(恵根の孫)は平良頭職に命ぜらオム砂川 間切下地間切頭とともに三人隊督となって、本島内8ケ所に造林をした0次の -15-頭職は白川氏恵通であるが、彼は宮古島における山林制度を確立し、それぞれ 林野関係の役職を任命して常置の職とし、更に島内各地に造林及抱護山を設定 した。彼は乾隆5年上国して察温に師事し山林学及決川法を学び、帰島後専ら 造林の法を指導し、遂に宮古島における杣山惣監督官とたり(杣山惣主取とも いう)、各村とに農業杣山次第帳(恵通の書)を配布して杣山取締りをするよう になった。すなわち伊良部島の杣山として設定された長山の杣山には、恵通の 記録によると、「松敷250坪、諸木敷として157.650坪が指定された」ので ぶ-」やま あるが、島民は更に島内の諸木敷として賦山敷457.800坪を設定した。 明治52年土地整理の制度改正の際濫伐盗伐が相続いて杣山が荒廃してしまっ た。それでも島民で仕立てた賦山は、7個村で植代えられ見事な松林山にたっ た。其の下草が7ケ村の牛馬の飼料となり、又採薪地となったから、明治41年 伊良部村として独立するまで、村の入会地として多くの村民の生活を維持して きたのである。明治末から大正期を通じて、こり山の松木監視役として山番( 山のひや-)がおかれるようにたったが、山のひや‐は村民の壮年数人がこの 役に充てられた。もっとも監視役としての手当は、松木を傷つけ、或は盗伐を したものからの科徴金が充てられる仕組である。もっとも採草・採薪は村民が 自由に採り且つ利用できるのであるから、松木の盗伐力容易に見付けられ処罰 を受けるなどということはない。だから年を荒れ放題の始末とたった。昭和に なってから村役場の任命にかかる山番が常設されたが、広い山林内を1.2人 の山番によって監視の全責任が負えるはずはなく、力割てて加えて個人山の造林 がさかんにたると(防風林・防潮林・建築資材・製塩用・製糖用・鰹節製造用
に利用した)、盗伐も次第に減り、広い林野の下草のみが堆肥造成用に刈取ら
れるだけとなった。従ってこの村の入会地は村有財産として、長く村 の管理するところとなっている。 (三)入会漁業と漁業権 一定水域を利用して不特定または特定の漁業を営みうる権利が漁業権であるb -16-その利用関係は2つのコースをたどって発展してきている。1つのコースは、
氏族制度以来の御贄供進の制度が、平安時代に魚介貢進の反対給付として、諸役免
除と独占優先捕魚の特権を賦与された御厨供御人の制度に、鎌倉時代末期以降
には本所領家に魚介を献納し、若しくは銭納することに対し、漁労または魚獲 物販売の特権を許与された供御人の制度に変化した。2つのコースは、今の山 川叢沢法に公私共利と規定された河海利用が、鎌倉・室町時代に河海の境界を 画する入会漁業さらに村落をその主体とする入会漁業に発展した。江戸時代に は第一の形態における諸貢献が小物成に再編され、それが第二の形態と組合わ されて漁業秩序を形成している。江戸時代の漁業法上の原則は「磯漁は地付.根付次第也、沖は入会」と明文化さ
れている。磯猟場は幕藩の領域として、貢租賦課の対象とされ、また村の領域 として村の支配進退を許された漁場である。この種の漁場は居村地先海面を通 例とするが、隣接村が相互の地先海面を中分支配すると水先例によりもしく は貢租を負担して、他村地先海面を支配したこともある。沖漁業は特定の領主、村落の領域をたさず、しずれの領民、村民も自由に漁労に従事し得た水域である。
磯漁業と沖漁業の境界1.先規により、或は干潟・擢立・磯根続き等を基準に設 定された。両者の区分に関して磯漁場の劃定によって抑制したという見解と逆 に、沖漁場の自由漁労の無制限適用を抑止して磯漁場を劃定したのであるとい う見解が対立している。磯漁業には三形態の入会漁業が成立した。川漁場は略 磯漁場に準ずる。第一は村中入会の1村専用漁業である。第二は数村入会で或 は慣習により、或は一定の貢租を数村が負担することにより、或は分郷分村の 結果として、或は関係村の協定により、時には入作類似の関係を原因として発 生し、原則として入会村の権利は平等であった。第三は他村入会で地元村の恩 恵ないし、一方的許与によって発生し、地元村地先海面を利用する他村から、 地元村に浜銭.浦銭等の代償を支払い、採集区域補魚方法・操業規則等は地方村の定めに従い、概して地元村より劣位の利用権が他村に許容された。磯漁は
海藻・根付魚・浮魚の採集につぎ諸種の方法を可能にするが、特殊操作による定置漁業.養殖漁業.曵網1鰈熱ま、領主の特別の許与・ないし、特別の貢租負担をもとに
成立せしめられた(滝jll政、(郎日本法則史)。例えば尚敬時P代0715~1751)察温は己れの
-17-W少
宰領地具志頭間切の磯漁業地域に魚グムイ・ガニグムイを設定し、:雫冊封使接待《
用に供し、また両惣地頭家に献進魚を送らした如く、久高島にはノロクモイのiノ
、、、、、、ために、磯漁のうちエラブウナギを献上させる規定を設けたように、さまざま~
た方法で領主や神官は、貢租にすりかえる方法をとっていた。
磯漁場における諸種の利用関係と公租との関連から、漁民ないし浦方は単に領;
主によって漁場の用益を許されたにとどまるという説もあるが、通説によると、b
磯漁場は漁民ないし浦方に帰属した村持漁場ないし数村持漁場を典型とする力3
村内の戸数増加や階層分化につれて、一般漁業に関しても、I有株者が網株・網
組などを結成して、無株者の利用を排除したり、多額の資本を要する特殊漁業
に仲間株ができたりして、村持漁場扱仲間持漁場に転じ或いは恩給・役給と
して領主から賜与され、また請負に付された漁場には個人持もあった。磯漁場
の外部の沖漁場は自由漁労水域であるが、沖場稼ぎの漁業者の増加、漁具漁法
の発達などが既存漁業者の地位を脅かすに至り、地域的又は業種別に組合を結
成するようになった。「この組合は漁業者数.漁船数.漁具等を制限し、専用
漁業者による漁業独占を規律するなど、商工業者の株仲間とその性質機能の点
に於て類似すを」(石井良助日本法制史)。その結果従来入会漁業を慣習とし
て認められていた他部落の漁業者と大衝突を演じ、あわや血の雨を降らす惨事
に立至ろうとした例があった。宮古佐良浜村は18世紀中頃(1720年)母村池間村が耕地狭縊で、をりわいの
苦しさに、向いの伊良部島に飛地を求めて、追友に移住し、他村からの移住者
をまじえて創立した村であった。村の漁師の大部分が池間村から移住してきた
ものであるから、母村に親.兄弟が居り、連日小舟を利用して往来し、山苞や
海の獲物を持運ぶ連日であった。このわずらわしさに或者は、母村に残した親
兄弟をあげて伊良部島に移る者が居り、或いは、原番屋をたたんで生れ島に帰
り往くものであった。しかし漁民の多くはそのまま居続けていて、かつて母村
の兄弟達と沖漁をやった島の北方4里も離れた八重干瀬に乗りこんでは魚介を
捕り、時化の際には途中母村に泊って時化のおさまるのを待つという生活を幾
.~‘ 百年も繰!)返してきた。昭和になってから池間村の漁業組合に仲間貞夫という大学(明治大学
)出身のインテリが理事におさまった。-方佐良浜村にも中央
-18-大学中退の若者が、東京から帰って村の漁業組合の理事におさまった(故人
伊志嶺朝常氏)。佐良浜村の漁師たちは例によって、当時はやりのアギヤーとい
う追込漁業に専念していた。魚は連日大漁である。昭和の初頃からさかんにな ったグルクン(赤むろ鰺)の漁獲が思いきり行なわれると、町に運ばれて安い 値段の魚が面白い程売れた。Nb間村の仲間理事は、そのうちに池間漁業組合百 八重干瀬の専用漁業権を獲得した。昭和8年春(5月)頃から組合の巡視船は 八重干瀬まで廻航して、入会地とたかをくくって漁獲に無中にたっている佐良浜 漁民の漁獲物を威嚇して没収した。こんなことが数カ月に及んだ。激昂した佐良浜のテギキニ組数十隻の漁民は島に帰ると、漁を休丹人、手に手に鏑包丁・長
刀・鎌をもって、戦斗体制に入った。昭和の保元の乱である。親兄弟親族の者 が敵味方に分れて戦斗を開始しようとするすさまじい光景は、目をそむけさせ た。佐良浜勢はまず島を取りまきその罵声怒号は天地も壊けよといわぬばかり である。さしも剛勇をもって鳴る池間村の漁民たちは息をころして見入るばか りである。たまりかねた他聞魚民は仲間理事の命令一下島を脱出する機会をま づていた。たまたま前日打電された那覇警察署は勇荘な警察官を選抜して急拠 池間島に到着しプヒ・佐良浜勢はとうとう尻尾を戎いて逃げ帰ったが、総指揮官 ともいうべき、伊志嶺理事は騒擾罪に問われたとかで豚箱入から懲役刑に処せられて、専用漁業権問題もけりがついた」(拙著宮古島地誌)。
「上にあげた諸種の漁業に対して、公租賦役が課せられたが、漁猟役は主とし
して、小物成・浮役。運上氷・冥加永などの何れかにあたり、時代と共にその種類 名目は海高浦役永・網役・網代役等女と多岐多様をきわめたd漁場支配の権能が それに相当する貢租の負担によって明確にされた点に汪目すべきであろう。明治8 年(1875)の雑税廃止と海面借区制採用は政府の特許による使用料の上納とい う形式で租税徴収の統一化を期するための、漁場関係再編措置と解されるが、各 地各様の複雑な漁場関係はこの措置に対応できず、翌年に借区制は廃止され、 旧慣を基礎として、漁場関係を規律する方向に転じ、明治54年(1901)に漁 業法の成立をみるに至った。この漁業法は公有水面の漁業を自由漁業・沖合漁 業・免許漁業に区分し、更に免許漁業を分けて、定置・区劃(養殖)‘特別。 専用の4種とし、入会漁業を共同の慣行専用漁業権か、入漁権かにした。これ -19-は幕藩時代の沖漁と磯漁の区別を承継し、特殊漁業及入会漁業を近代法的な概
念構成によって、物権関係として整理したものである。明治45年の改正で、漁
業権の物権的効力がいっそう明確強化されたが、昭和24年の新漁業法で全面的改正が試みられた」(石井良助日本法制史参照)。
漁業法上沖繩の入会漁業を展望すると、古代部落では漁労地の境界について何 等かの協定ができていたらしく、それが部落の内法として後世まで存続してい、、、 た所もあった。海方切という境界はこうした漁労の境界であった。それは陸地の場合の間切と同じ意味で、間切すなわち処切、国語の限り、区切が転じて包
、、括の意味に使用されたのと同じことで、方切は村落の境界に属する海岸叉は磯
のことであろう。方切は古代7代官の頃、東西南北の4方を表わすのに方切と 、 、 、 いう語が使われていて、島尻方・中頭方・国頭方という唱えが、寛文頃出され た羽地仕置の中に記録されている。 沖縄1日慣制度内法の中に、海中取締の部があって次のように記録されている。 、、、 -,海方切内|/亡於て他間切の者漁業する者は舟網道具等を引揚げ、科銭申付以後上様の漁業不致段証文を徴収の上舟・網・道具等差返す、他間切の者
海方切に於て、魚介類を採取する者は逮捕し、直ちに本籍の村屋へ引渡し科銭申付」とあり、陸における農耕叉は狩猟の区劃があったように、海に於ても漁
労の区域があり、協定されていたものであろう。
オモロ15巻49にも 1.ぢやなのひやりよい、 いぢへきひやりあい かなであんじにおもわれて 叉うみむおやもん たきやむおやあん とあり、又オモロ14巻17にも、 1.円ふちへえり おかちへえりをなりあじうみちへまI土をかちへまは、えけりあじ」
とあるように、この神歌の解釈からみると、陸の耕地や原野の所領と同じよう
に、海にも領主があって、貢物を差し上げたり、またその所有権を譲渡するこ
-20-とが行なわれていたようであるoこうして海方の所領又は海の貢物ということ は、漁労によって生活していた村落社会におこったことであって、これが内法 として後世まで残ったものであろう。 後世農耕社会にたると、海方や山野の境界について紛争がおこり、獲物の争奪 で問題が起っても、それ程死活問題ではないから、舟や網を没収することで、 紛争がおさまるのである。
宮古地方では15世紀頃霞で領主のために、海の獲物を献上す言灘があった
区域としては宮古島全沿岸を指示し、特に池間島の漁民たちに親漁という貢租を納めさせていた(その額は漁獲物の十が ̄というきまりである)。にも拘
らず領主は己れの権威をかさに、池間漁民を連日強制命令によって漁労に従事 させるのであった。こうした強制命令は沖縄本島にはなかったらしく、長禄5年 (1459)の朝鮮漂流民金得山一行が記録した季朝実録によると、御物城と付近 を次のように記録している。「江辺に城を築き中に酒庫を置き房内に大甕を排 列し、酒膠盈ち温る、1.2.5年酒庫其の額を分書せり、又軍器庫を置き、鉄 甲槍剣弓矢その中に充満せり」、とあるが、これは尚泰久時代南洋諸国から種 女の酒類を輸入し、また支那へは種Arの武器を輸出していた。’日記によると「 御物城在那覇津中、昔有諸国船到来本国、又琉球至り諸国、以j更貿易、時創築城 此城建公倉干其中以貯貨物而有御鎮側官掌管其事然而倉屋已廃、遺ht猶 存云々」ともあり、この付近は入会地でありながら、漁業は行なわれなかった らUへ。 ところが、仲島小堀から壷川村に至る間は王庁の地先漁業地であって、ここか らの獲物がさかんに首里や那覇に利用されていたらしいことが、次の記録によ ってうかがえる。 、、 「泉崎村居住の得魯という唐人の教によって、漁民は士俵をつく!)、潮の入 口を塞いで溜池としたところから仲島小堀の名があるという」小堀はもと泉崎 村の地先漁業の行なわれたところで、魚類が多く捕獲されたから、首里,那覇 の里主所や御物敏の用途に応じていたといわれる。しかしその後浮得所となり、 d堀だけで年450頁文の浮得分をあげたと記録されている。明和5年(1766) 泉崎村の願出によって、この浮得分を竣喋料に充てることになった○との地に -21-続く壷川の地も、漫湖北岸一帯の海域を入会地として、さかんに魚類蟹類の捕
宅、、、、勺獲をしてwを。壷)11ホウホウの名のおとりも、、と漁民が上げ潮に乗ってくる
魚を、。冊を横たえて、水面を叩き叩き魚を舟中に躍り込ませることからおこっ
た名と伝えている。魚が多いだけに、この地の住民はまた網打の名手として知
られていた。この地にさえたどりつくことができれば大小さまざまの魚類がい
くらももらえたと言う。この状景は冊使李鼎元の使録にも見える。「長史請観漁
,偕介山渡地登舟.漁舟数十隻漫湖.背潮雁排提網立.裁湖而撤之.徐逐網進
・挙約似金声.溌刺不絶.置船頭層検至尽理而張之肘.再撤再進.且漁具行.
近中島聚獲而験之.大近百尾4,余千頭、」とあって、打網と追込によって、大
量の漁獲を得ていたことがわかる。、
彼等はこの入会漁業に主って得た漁獲物を'if鵜に積上げ、農村から持ってく
る米や麦、粟と交換して生計をたてでハだ。また那覇湾内が首里親国の入会漁
業地であったことは多くの神歌にもうたわれている。そして国王や王子達の御
舟遊正ノピが、たびたび催されていたことが知られる。 1.「ぎすす大やこがいぢき大やこが あくかくよよはりあまやかせ あじそいがおや御舟思い子のおやおうね」 、、、、 沖縄の魚のふしに』二ると、 おぎやかあじはえや 島寄せが振舞ど見物 はたみいぐさとが 御酒欲しやあらす 御船寄り添いよ しげち欲しやあらす 御船寄りそいやこれは那覇湾内における風物詩というぺきもので尚真時代(1477~1526)
の模様をえがいている。これよりも前察度王(1550~1595)は牧港を開港
しちつな場にして、海外貿易の根拠地にしているし、且領内の磯を入会としてさかんに白綱
を催して、魚介類の献上を強いていた。その模槻士次の神歌によくうかがえる。
-22-ぢやなのひやりよい、 いぢへきひやりよ'もい かたて按司におもわれて ぢやなのよカユbしま 海近さあものとぎやは魚つく いぎ』二も鮪つく海屯おや物 たきやもおやもん
とあり、海の幸に恵まれた地域を、謝名村の入会として、さかんに魚介の採捕
を行なわしめていたことを物語っている。また糸満の磯が入会地域として著し
く発展したのは乾隆16年(1751)ごろからであったらしく、当時察温摂政の
ときともあって、山林の統制取締が厳しく、且つ小舟製造に比較的大木を要し
たため、唐貿易船や楕船建造に用材の欠乏を来ずおそれがあるとの理由から、
大木利用が差止められた。 さばに糸満の漁師達はこれを機会に「はぎ小舟」の製造を工夫し、従来磯近くの魚
介採集しかできたかったのを、はぎ小舟を利用してやや遠い海洋まで進出して
限りなく、漁獲をつづけるようになってからであろうと思われる。
西原間切津覇村と幸地村もその地先を海方切して、入会を設定し、それぞれ漁
民に十分一税を納めさせていたことは口碑に幾らも残っている。同村のおもろ
(巻10の29)に 1.いちなはの鴫響み補(市漁場のとよみ補) あ雀へ歓よわる2$よらや あらさきのとよみ浦 今日の主かる日に けうの輝ける日に 小糸やおろちへ あら米やおろちへこれを訳してみると、市漁場のとよみ浦に、大漁の知らせがあったので、農
村の共同体の人友が、早速米や穀物をもって、分配や饗宴に必要な、魚類と交
かき換しにやってきたという意にたろう。この両村の入会では未だ網代があり、背
-23-後の農村に、農業が発達しなかった頃ICは磯漁業がさかん左場所であった。 そうして白網漁(地曳網漁)を行なったであろうということは、恩納間切恩納 、、、、、、、、 村のしらつなのおiもいによくあらわれている。 「あまんちよのしれんちよの もどく御舟持ちおろし
鱒看ん持ちおろちへ
食し銘ん持ちおろし
やをのたたかんうち廻あし ぎしふのたなかんかね廻あし まくぶ魚んふく血允らちへ たまん魚ん赤血尤らちへ 大どろの前等おしやげわすれ 古ごろのまへたねえしわすれ」とある。 をた宮古島祀事仕次の中に、 しらつな 「此日の白繩過分に魚を得たり、大殿も空広が才知を測らんと思い、汝いてて 今日の魚だ古をうたせよとの給う。空広即ち領掌し、大分の魚を割符する事親 疎無うして、そのすみやかたる事妙を得たり、大殿も大きに感じ給へ皿云と。 網代が広く利用されていたことは、地名にも現われている。那覇の垣花は恐ら く、嘉靖52年頃雀では渡地からの干瀬続きであっただろう。従って干潮のとき には徒渉できる場所であった。この干瀬の続くところに、満潮のとき湾内にはいった魚群が、退き潮に出てくるのを捕獲する為に網代をめぐ婁傘拙口には
白網をのべてこれを待ちうけていたらしい。この雛がすなわち垣端→垣花の
地名として残ったであろうことは、玉城間切垣花に、この地と全く同様な漁法 をとったところから、同名の地名として残っていることによって想像されよう。 前述のように沖繩の海岸の村々に、地元の入会権があったことは周知の事実で あるに拘らず、どの方切にも境界の目標がついていたいということである。た とえ協定によって入会が設定されたとしても、目標がなくては、紛争を解決す ることは困難であっただろう。しかし沿岸の漁師は、目分量で篭か彼方に目標 物を設け、陸の起点との間の直線を仮定していたことl」確かであろう。この実 -24-例は瀬戸内海の沿岸香川県の多度津の村と岡山県尾道村の領海に目分量で設定
された地上物が、今日でも境界確定に有効な目標として残っていることなどに
よって知られ上う゜