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いのち
生命の輝きの倫理学(2)
―妊娠中絶の倫理学的課題―
西 永 兼 康
The ethics of"brightness of life"(2)
The ethical problem of abortion
Kaneyasu Nishinaga
I
はじめに
いの ち 先 に著者 は 「生命 の輝 きの倫理学 (1)- その1
0の捉題-
」 1を著 し、「生命の輝 き」 の概念 をめ ぐって 「生命の倫理学」の素描 を示 した。つ ま り著者の 「生命の輝 きの倫理 学」 とは所謂 「生命倫理」 (バ イオエ シ ックス・
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と一線 を隔 しつつ も2、従来 の倫理的価値観 を覆す現代 の生命倫理の問題提起 と向 き合 い、その上で新 しい倫理学 を 構 築す るこ とをその 目的 とす る旨、指摘 した3。 しか しなが ら前稿 においては現代 の 様 々な生命倫理の問題提起 を十分 に論考す る暇 はなかった。 よってここにその生命倫理 の問題提起 に触 れ、我 々の 「生命の輝 きの倫理学」の視点 よ り評価 を行い、「生命の輝 き の倫理学」 を詳述 しなければならない。その端緒 として生命倫理の領域 において最 もポ ピュラーな問題である、人工妊娠 中絶 について取 り上げたい。 この間題 は前稿 において も簡単 に触 れたが4、現代最 も議論が先鋭化 している問題領域 である。拙稿 では前稿 の 議論 を最低限振 り返 りつつ、我 々の 「生命の輝 きの倫理学」 の構築の一助 としたい。Ⅱ
男性 は「
中絶」について語 る資格がないか ?
さて、我 々の課題である中絶 について論 じるのであるが、その前 にどうして も触れな ければならない議論がある。そ もそ も男性が中絶 を語 る資格があるのか とい うことであ る。著者は男性 である。その男性が専 ら女性の身体の中で しか起 こ り得 ない中絶 につい66 清泉女学院短期大学研 究紀要 (第21号) て どの ように語 る資格があるのか とい うことである。 実 は著者 はある短大でかつて中絶 をその講義で取 り上 げた ことがあった。「生命の尊 厳」の立場か らやは り全面的には中絶の賛成 に組 し得 ない と語 った。その講義 に対 して、 ある女子学生が この ような授業 の感想 を記 して きたのであった5。 「私 は中絶 には賛成です。子 どもがで きた時、その子 はまだ小 さく人格がないか ら、堕 ろ して もよい とい う考 えを持 ってい ませ んが、実際 に妊娠 し、出産 し、子 どもを育てて い く課程で女の人の苦労 は計 り知れない ものだ と思い ます。- もし今、私が妊娠 して し まった とした ら、私は私の将来の夢や、現在の年齢での妊娠 とい う不安のため に、その 子 を堕おろ して しまうと思い ます。それは、今何の力 も経済力 もない私が子 どもを産ん で育てていけるはず もない し、子 どもがで きたことが理 由で相手 と結婚 とい うことも考 えられないか らです。- どう考 えて も苦労す るのは女の方だ と思 うので、先生 の意見 に は失礼ですが、無責任 さを感 じて しまい ました」。 後述するパー ソン論- 胎児 には人格が認め られない故 に、積極的には人 とは認め ら れないので、中絶 は許 される との論- には簡単 には組 してはいないのであるが、結局 望 まない妊娠 を し、その結果、出産養育 とい う苦労 を負 うのは一方的に女性 の側である ので、その労苦 を負 うことの無い男性が軽 々に中絶への意見 を述べ るとい うのは、実 に 無責任である とい う訳だ。 この学生は著者が中絶 に対 して否定的なことを述べ て、それ に対 してはっきりと中絶 を容認す る意見 を述べ た訳で、その意味では非常 に貴重 な意見 である と著者 は感 じた。 しか し同時に感 じたことは、余 りに も簡単 に中絶 を考 えていな いのか とい うことである。第一妊娠 して しまったことに対 して、本来ならば避妊すべ き であったことについては、何一つ述べ られていなかった (この学生 は結婚 していない こ とは明 らかであ り、未婚の性交渉 についての是非はここでは敢 えて問わない ことにする が)。そ して 自分 の将来の夢 や現在の経済力 とい う理 由で、中絶 を行 うと言明 している のである。 もちろん実際の場面 に立った場合、 もっと激 しい感情が吐露 されるであろう し、意見が変わることもあろ う。 しか し著者 はこの意見の中に中絶 に関する、女性の側 か らの典型的な意見を見る思いがするのである。結局は苦労す るのは女性の側である。 だか ら致 し方が ない場合 には中絶 は許 される し、その ことに対 して男性の側が とやか く 意見 を述べ、 ま してや反対意見 など提 出するなどとは、女性 の側の労苦 を無視する無責 任 な意見であるとい うのだ。
西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 67 果た して男性 は中絶 について語 り、なおかつ反対意見 を表明す る資格が ないのか。著 者が ここで一先ず述べ たいことは、男性 にも語 る資格がある とい うことである。少 な く とも人の生命がかかっている中絶の事柄 に (もちろん胎児 の生命 とは何か と言 うことは 明確 にされなければならないが)人間の片方の性 である男性が意見 を述べ られない とい うのははなはだ不公平である と思われる。ただ し女性 の側が 「無責任 だ」 と意見 を述べ ることには、十二分 に注意 しなければな らないであろ う。今 はその ことを確認す ること にとどめ、男性が中絶 を語 る資格があるやな しやの論 は最後 にまた触れることに したい。 この問いに正 しく答 えられるか否かで、拙稿 の成否が問われることにもなろう。
Ⅲ
中絶の現状
さて以上の ことを踏 まえ、我 々は現在の 日本の中絶の現状 について述べ てみたい。現 在、中絶の実数 は1年間に33万件6である。 1年間で産 まれて くる幼児が約120万 人であ るので、一対四の割合であ り、相当に数が多い との印象があ る。 これは国が把捉 してい るだけの数字であ り、実際 には もっ とその実数が多 い と考 え られ よう。そ して 日本 は 「中絶大国」 な どとも邦旅 されているのである。 ここで注意 しなければならない ことは、 その年齢層である。一般 に妊娠 中絶 と言 うと低年齢層 で顕著の ように考 えられる向 きが あるか もしれない。確 かにテ ィー ンエージャーによる妊娠 中絶 は大 きな問題であるが、 中絶全体か らの割合で最 も多いのは、20-24歳であ り、次 いで30-34歳及び35-39歳で ある。つ ま りこの原因 と考 えられることは、結婚 した夫婦で、事情があ り複数の子供が 持 ちに くいか、 または子供がほ しくないことであろう。 しか しなが らこの ような現状 に 陥るまでには、様 々な歴史的な経緯 を経 たのであった。 ここではその経過 をた どらなけ ればならないが、その際 にキーワー ドが三つある。それは、堕胎罪、優性思想、そ して 経済条項である。 まず ここで確認 しなければな らないことは、一般的に妊娠 中絶 は現在 に至 るまで も、 刑法 に規定 されている犯罪である とい うことである。妊婦 自らが行 う 「自己堕胎罪」(刑 法212条)、妊婦 の同意 を得 て第三者が行 う 「同意堕胎 罪」 (同213条)、医者 な どが行 う 「業務上 同意堕胎 罪」 (同214条)、 また妊婦 の同意 を得ず して行 う 「不 同意堕胎罪」 (同 215条)が定め られてお り、た とえば自らの手で堕胎 を行 った者 には、一年以下の懲役 が、また医者が妊婦 に依頼 された場合では、三月以上五年以下の懲役が処せ られるので68 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) ある。 この ように事細か にその処罰が規定 されているが、実際 としてはこの法律 が適用 されて罰せ られ ることが殆 ど皆無 なのである。 この刑法 は
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年 の明治期 に制定 された ものであるが、実 は戦後す ぐの1
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年 に、優生保護法 とい う新 しい法律 が制定 され、堕胎罪 を含 む刑法下の もので、 中絶の道が開かれることとなった。その優生保護法の思想的中核 こそ、所謂優生思想で あ り、優生思想 とは、ある視点か ら見 て 「劣 っている」 と思 われる人々- 障害者や能 力 のない人- の子孫 を残 さず、反対 にある視点か ら見 て 「優 れている」と思 われ る人々 - 健康 な人や能力のある人- の子孫 を積極 的に残 してい こうとい う思想 である。歴 史的 に見て最 も典型的な しか し同時 に極端 な例 は ドイツのナチス政権下での断種 法 に代 表 され る動 きであろう。それ に呼応す るかの如 くに、 日本 においては1
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午 に 「国民優生法」が制定 されたのである。 もっ ともこの国民優生法 においては中絶が許 容 された訳ではない。 この法律 によっては遺伝性疾患 のある者 の不妊手術 (所謂 断種手 柿 )が行 われるに至 ったのであ り、か えって中絶 を厳 しく取 り締 まる旨、記 されている のであ る7。ただ この法律 に よって、現在 に至 るまで も脈 々 と流 れ うってい る優 生思想 が一つの形 を取 って現れ、 これが戦後の1
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年 の 「優生保護法」 の成立 につ なが り、 ここに中絶が初 めて許容 されるに至 ったのである。 この法律 はその名前の通 り、いわゆる 「優生思想」 の もとに、遺伝性疾患 のある者へ の不妊手術 を引 き続 き認め、 なお 「遺伝性」疾患 の可能性が認 め られる胎児 の堕胎 を国 家が認めてい る ものである。 ただ ここで特記 しなければな らない ことは、それ に付随 し て中絶がで きる場合 として、出産が 「身体的又 は経済的理 由 によ り母体の健康 を著 しく 害す るおそれのある」場合 と、「強姦」による妊娠 の場合 とを並べ て規定 した ことである。 経済的 な理由 を もってすれば、中絶で きる道が ここに開かれた訳である。つ ま りこの優 生保護法 においては、戦前 か らの優生思想 に基づ く断種手術 や、「優生保護法」に基づ く 中絶 を認めつつ も、戟前では認め られなかった経済的 自由に よる中絶が認め られたので ある。元来違 う考 え方の もの を、当時の問題 となった爆発 的 な人口増加 に対す る策 とし て、一つ にまとめ られた ものであった。そ して この優生保護法 は戦後ず っ と保持 されて きて、その優生思想- の批判 の もとに、1
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)年 に 「母体保護法」 に名称が変 更 され、いわゆる 「優生条項」が廃棄 されたのである。ただ政府 は1
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年代 よ り中絶の 許可理 由 としての 「経済条項」撤廃 の動 きを見せ ていたが、符余 曲折 を経 て 「母体保護西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 69 法」が施行 され、現在 に至 っているのである。 この ような現在の妊娠 をめ ぐる状況であるが、法律的に見て、三つのキーワー ドで述 べ られる状況が錯綜 していることが分かる。す なわち一貫 としているのが、刑法 による 「堕胎罪」が生 きているとい うことである。そ してその例外規定 として、障害者の子孫 を 残 さない ようにす るための、戦前の国民優生法そ して戦後の優生保護法 とい う 「優生思 想」 による法律が並立 していた。現在 は優生思想 による条文 は削除 されたのであるが、 後述するが出生前診断 とい う現代 の生殖医療 の技術 による新 しい優生思想が台頭 して き ている。そ して ここで特記 しなければな らない ことは、現在の母体保護法へ と繋が る優 生保護法 に、優 生思想 と本来違 う考 え方 であ る経済的困窮 に よる中絶 を認 め る とい う 「経済条項」が含 まれているとい うことである。つ ま りここに至 って経済的理由での中絶 が、法律 によって認め られることとなったのであった。 この ような法的 に三つの錯綜 し た流れであるが、 この流れがそれぞれ中絶 に関す る現在の人々の考 え方 を、結果 として 支 えているとい うことが言 えよう。 す なわち中絶 に対 して反対の人々がいる。 この人々の考 えを支 える もの としては、 も ちろん刑法の 「堕胎罪」がある。 この法律 を盾 に取 り、中絶への断固たる反対 を表明 し ているのだ。 しか し現在 中絶 に結果 として賛成 して、その中絶 を容認 している人々がい る。そ して中絶の実数の殆 どは、「経済条項」によ り中絶が行われているのである。 しか も現在 においては破棄 された優生保護法であるが、現在 は出生前診断 とい う形で新 たな 「優生思想」的発想が現れて きているのである。 それではこの ような三つの法的側面 によって支 えられている、中絶 に対す る考 え方 と は一体何であるのか。その反対賛成のそれぞれの論 を順次見てい きたい。 Ⅳ
中絶反対論
著者の考 えによれば、中絶反対 を唱える者の タイプは、以下の3タイプに分 け られる。 1)数量的及び文学的表現 をもって生命の尊厳 を強調す る主観的 タイプ、 2) ヒューマ ニズムに素朴 に訴 えかけ、中絶の悲 しみ を訴 えるタイプ、3
)宗教的確信 をもって中絶 をあ くまで も嫌悪 し、中絶する者 を断罪す る タイプ。70 清泉女学院短期大学研 究紀要 (第21号) 1.主観的 タイプ - 数量及び文学的表現 をもって生命の尊厳 を強調する主観的タイプ まず第一の タイプであるが、た とえば井上紫電が
P.
マルクスの 『産 まない 自由 とは 何か』 8の中で記 した 「日本の堕胎」と題す る ものがその典型 として考 えられる。 まず氏 は中絶 を反対するために日本の中絶の現状 を述べ る。そのために数値 とい う客観的デー タをもとに、如何 に中絶が多 く行われているのかを訴 えかける。日 く、「有配偶者の42% が 中絶経験者」であ り9、その うち 「身体の変調 に悩 んだ婦人は31.2%に上 っている」 10 と看破するのである。 これ らの数値 を次 々 と持 ち出す ことによって心理的にい とも簡単 に中絶が行われ、その非人間的なことを訴 えかけているのである。氏の論理 は論理では ない。初めか ら中絶 に反対することを訴 えかけんがために、あ りとあ らゆるデー タを持 ち出そ うとす るのである。そ して氏が中絶反対 を訴えるために、その数値 とともに持 ち 出すのは、ある文学的表現である。氏 はポーラン ドの司教であるヴイシンスキー枢機卿 の 「胎児の 日記」 を紹介す る。その 日記 は十月五 日か ら始 まって、胎児が 日記 を書 ける もの と想定 し、あたか も胎児が文字 を書 けるかの如 くに、胎児の心 を記 しているのだ。 その 日記 は受胎 の瞬間か ら始 ま り、こう記 されている、「今 日私のいのちがは じま りまし た」 11.そ して胎児の成長ぶ りを胎児の一人称 の語 りかけをもって記す。た とえば 「十二 月二十四 日」 にはこうある。
「お母 さんは私の心音 を聴いているか しら。 (中略)私の心 臓 は規則正 しくタッ、 タッ、 タッと鼓動 してい ます。お母 さん、あなたは健 やかな女の 子の母 となるで しょう」 12。その直後、急転直下、次の ように記 されてこの 日記 は終わる。 「十二 月二十八 日 今 日お母 さんは私 を殺 して しまい ました」13。つ ま り 「妊娠 中絶」が 行 われたのである。 ここには中絶 を客観的に捉 える中絶論 はない。あるのは中絶 を絶対 に反対 しようとす る著者の強い主観的な決意だけである。その故 に客観的数値 を列挙す ることによって、氏の意見 を基礎づけ ようとし、文学的表現 をもって、読 む側のある感 情 に訴 えかけようとするのである。2.
素朴 なヒューマニズム的 タイプ - ヒューマニズムによ り素朴 に訴 えかけ、中絶の悲 しみを訴 えるタイプ 人間のある感情 に訴 えかけようとす るのは、第二の タイプ、すなわちヒューマニズム に素朴 に訴 えかけ、中絶の悲 しみ を訴 えるタイプも同様である。た とえば実子特例法 を西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 71 生み出す きっかけを作 った菊田昇医師が翻訳 したウイルキー夫妻の本の題名 は こうであ る
。
『わた しの生命 を奪わないで』14。 この書物 の表紙 をめ くった第一頁 にはカラー写真 が掲載 されている。その写真 はわずか六週の胎児の写真である。 はっきりと人間の胎児 であることがわかるシ ョッキ ングな絵である。 これは明 らかに堕胎 された胎児が撮影 さ れた ものであ り、そのカラー写真が実 に鮮やかに 目に飛 び込 んで くる仕組み になってい る。 また同様 に生命尊重セ ンターが出版 している 『豊かな 「いのち」
一胎児 は未来 をは こぶ人』15は全 く素朴 に中絶が如何 に非人間的であるのか を、各界の意見 を掲載す る形で 述べ ている。た とえば三浦綾子 はその中で この ような意見 を寄せ ているのだ。「胎児 は 母親の胎内に何の怖れ もな く、安 らかに成長 していたのだ。 にもかかわ らず、ある 日突 如無体 にも自分の体がばらば らに切 り刻 まれ、引 きず り出 される極刑 に遭 う。その命 を 奪 う者は親であ り、医師なのだ」 16。 また元 アメ リカ大統領の レーガ ンは原著 『中絶 と国 民の良心』 を記 しているが、邦題はこうつけ られている。『私 は許 さない』 17。題名 だけ で もう語 りかけている。確 かにこの書物 は レーガンら三人の論が掲載 されているのであ るが、「アウシュビッツ」を安易 に引用 し、中絶 と全 く同列 に置いた り、また直接 中絶の ことを述べ ていないマザーテ レサの言葉 を紹介 し、生命の尊重 を素朴 に訴 えかけ ようと しているのだ。すべ ての論 は、初めに答 えあ りきなのである。3.
宗教的排他的 タイプ - 宗教的確信 をもって中絶をあ くまでも嫌悪 し、中絶する者 を断罪するタイプ そ して もっ とも中絶反対 の意見で激 しいのは何 と言 って も宗教者 の意見であ る18。周 知の ようにカ トリックは中絶 に絶対反対であ り、 日本の宗教界 に もその ような意見 は根 強い。初め に紹介 した井上紫雲 はある特定の宗教団体 の指導者であ り、その団体が支援 母体 となって、優生保護法か ら所謂 「経済条項」 を撤廃 させ ようとしたことは、周知の 事実である。 しか しともすれば宗教者の意見 とい うのは、中絶する もの を徹底 的 に裁 き かねない ところがある。そ こに大 きな疑 問 を感 じて しまうのである。 アメ リカの所謂 「生命擁護派」 (プロ ・ライフ)ユ9の一大勢力が プロテス タン トの保守派のグループである ことはよく知 られていることであ り (その代表者 の一人は何 といって もかの レーガ ン元 大統領である)、相手 を徹底 的 にね じ伏せ ている趣 がある。その故 に論争 を不 毛 な もの としていると思 われる。宗教的確信 をもって絶対 に中絶 を しない と言 うまでは よいであ72 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) ろう。 しか しその意見 を他の人に押 し付 け、我 だけが正 しい とす るその姿勢 は問題であ ろ う。 この ように見て くると、中絶反対 の意見 には、論理的構成力が弱い ように思われる。 そ して感情 に訴 えかけようとし、あの手、 この手 を用いて、相手 を説 き伏せ ようとして いるのである。
Ⅴ
中絶賛成論
これに対 して中絶賛成派 (プロ ・チ ョイス)は どうであろうか。そこにはある論理 を 貫 こうとする姿勢 も見 られ、中絶 反対派 はその論理 を打 ち負かそ うとす るが故 に、か えって感情的になっている とも思 われるのだ。以下 にその中絶賛成派の意見 を紹介する ことにす るが、 これ も三つのグループに分かれる。 1)アメリカ等 の生命倫理学者の意 見、 2) フェミニズムの意見、 3)素朴 な女性の意見。 1.アメ リカ等の生命倫理学者の意見 まず第- に、現代の生命倫理学者の見方であるが、その見方 を知 るためには、 アメリ カを初め とする英語圏の生命倫理学者の見方 を捉 えなければな らない。 日本の生命倫理 学者 は総 じてこの英語圏の生命倫理20を踏 まえて論 を進めてお り、その解釈の域 を出て いない ように思われる。 それではアメリカの生命倫理の立場か ら見て、中絶の問題 は どの ように考 えられてい るのであろうか。それはまず所謂 「人格論 (パーソン論)」として展開 されているのであ る。一体パーソン論 とは何であろ うか。それは、 自らに対する意識、すなわち自意識 を 持つ者 を人格 として認め ようとす る考 えである。そ してこの考 えを中絶 に応用 してい く と、当然胎児 には所謂 自意識 なる ものはな く、 よって胎児 には人格 はない。その故 に結 果 としてその ような胎児 に妊娠 中絶 を施 して も、人格 を持 った人 を殺 したのではな く、 ただ妊娠の継続 を途中で まさしく途絶 えさせただけであ り、殺人ではない とする考 えで ある。 自意識 を持 った ものを人間 とみなすのは、「人格」を基礎づ けたカン ト以来の伝統 がある と見るのが 自然であろうが、その人格概念 を中絶の正当化 に持 ち出す訳である。 この論 を展開 しているのは、 トウ- リーである。彼 はこう考 える。ある者がXに対 し て権利 を持つためには、その者がそのXを欲求 している とい う意識がなければな らない西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 73 のだ、と21。 これを中絶 に当てはめた場合、このⅩ とい うのは胎児が生 きてい くことであ るが、その生 に対す る欲求はないが故 に、その生 を持つ権利があるとは考 えないのであ る。そ して彼 はその論理的帰結 として、妊娠 中絶 を施 される胎児 よ りも、た とえば生へ の欲求 を持 っていると考え られる動物の方 に実際、その生 きる権利 を認めて しまってい る。そ して嬰児 は自意識 を持 たない故 に、その嬰児 を殺す、嬰児殺 しをも正当化 して し まっているのである。 ともか くもこの論で考えてい くと、た とえば胎児 は人格 とは認め られず、中絶 はい と も簡単 に正 当化 されて しまうのである。その ことを防 ぐ為 に、エ ンゲルハ ー トはこの人 格論 を修正 して、パーソンを 「厳密 な意味での人格」 と、幼児 と小 さな子供、新生児、 痴呆性の老人、精神病患者 とに分け、「厳密 な意味」 で人格 は持 たない まで も、「人格 の 社会的意味」か ら人格 として認めてい こうとしだ22。 しか し社会的意味での人格 は、あ く まで も 「厳密 な意味での人格」 を持 った者 に依存 してお り、その者 に決定論 を委ねてい こうとしてお り、中絶 を結果 として容認 させ る論 となるのである。 またファイ ンバーグはこう述べる
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年 に、ジ ミー ・カー ターは6
歳であったが、 その とき彼 は、 自分ではその ことを知 らなかったのではあるが、アメ リカ合衆 国の潜在 的な大統領であったわけである。その ことは彼 に、その時点では、アメリカ陸海軍 を指 揮す るとい ういかなる要求 も、たとえ非常 に弱い要求す る、権利 としては与 える もので はかった」23。つ ま り後 に大統領 となるカー ターが、6歳の時に 「潜在的」には大統領 で あろうが、だか らと言 ってその権利 を行使で きないの と同様 に、胎児 はあ くまで も 「潜 在的」 な人格であることは客かではないが、実際 にはその人格であることの権利 を行使 で きない とい うのだ。 よって人格 としての権利 を行使で きない以上、生 きるとい う権利 をも自ら行使で きないことにもな り、結果 として この 「潜在的」 なる人格 である胎児 を 中絶 させて も構 わない論理 になるのだ。 これ らの論 は、ひとまず論理的整合性 はある と考 え られる。 しか しなが ら、た とえば ファイ ンバーグの論証 は、中絶 を考えるために、大統領の統帥権 と胎児の生存権 とを類 比 させている訳であ り、その点やは り無理がある と言 わ ざるを得 ないだろう。その よう な類比 をもって、中絶 を容認 してい く考 え方の典型的例 は トムソンに見 られる。彼 は実 に奇妙 な例 えを考 えている24。ある人が朝起 きてみ る と、意識不明状態 の有名 なヴ ァイ オリニス トの循環器系統 と管で繋がれて しまっている。彼 は腎臓病であ り、そのため に74 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) 臓器が適合 したその人に、そのヴァイオリニス トの愛好家が一方的 に繋いで しまった と い うのだ。つ ま りその人は別に自分の体 をヴァイオ リニス トに貸す義務 はな く、一方的 にその ような状態 に置かれた といって も、今後 はある好意 をもって 自分の体 を貸 し与 え ているにす ぎない とい うのだ。 もちろんこの場合、 ヴァイオ リニス トとは胎児の ことで ある。 このヴァイオ リニス トたる胎児が生 きる も死ぬ も、その循環器系統 を貸 し与 えて いるその人次第であるが、その人が別 に管 を取 ることを選択 して も、その人の罪 にはな らない。ただその人が、つ ま り母親が好意 をもって胎児 を生かすか どうかは、その母親 の好意 にかかっているのであ り、決 して義務ではない とい う訳だ。そ して管 を外 して し まうとい う決断、つ まり中絶 も容認 されることになる。 現代 の生命倫理の議論 は しば しば この ような実 に奇妙 な例 を持 ち出す。それは どうし てか。それは自らの論の正 しさを論証せんがためである。 しか した とえば今述べ た トム ソンの例 は、妊娠の事実 を、勝手 にヴァイオ リニス トの愛好家たちが管 を繋いで しまっ たことと同一化 してお り、やは りこれは無理がある論理であろ う。た とえばある暴力 に よって妊娠 させ られた場合 はこの類比 として考 え られな くはないが、やは り妊娠 の事実 と、勝手 に管が繋がれた男 とを一緒 に考えるのは問題がある と言わ ざるを得 ない。 確 かに彼 らの何 とも奇妙 な前提 を認めるならば、その論 は論 としてある正当性 、論理 一貫性 を持 っているのか もしれないが、それはあ くまで も論議のための論であ り、全て が全て納得 させ られるものではない。ただ自らの意見 を論証す るための もの と言 えるの だ。 もちろんその ように自らの正当性 を論証するために学問的 に努力 を している訳で、 その知的作業 を著者 を含めた 日本の学者 たちが行 っているのかは反省せ ざるを得 ない。 しか しなが らやは り中絶賛成 とい う大前提 をもっての論議であることは否定で きないで あろう。
2.
フェミニズムの意見 では何故、前述 したアメリカの生命倫理で見 られるような議論が出て くるのであろう か。その背景 を探 らなければな らない。その背景 こそ、中絶賛成の第二の タイプ として の所謂 フェミニズムの考 えである。特 に近年、 リプロダクテ ィプライツ (性 と生殖 に関 す る権利) とい うことが提唱 され始めて、女性の 自己決定が重要視 されて きた。その流 れ を論理的に擁護するためにアメ リカの生命倫理学者の論が援用 されて きたのである。西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 75 そ して 日本 においては女性 の権利 を守 るために中絶容認の意見が出 されているのである。 た とえばその主張 とは、その書物の題名 を読 むだけで一 目瞭然 の ものである
。
『悲 しみ を裁 けますか』 25『産む/産 まないを悩 む とき』 26『生殖技術 とジェンダー
』 27。女性 とし ては 「産む」
「産 まない」 ことを 「悩 む」 ことがある。現代 の 「生殖技術」の中で様 々な 決断を迫 られる時がある。 しか し女性 は歴史的 に見て決定的に不利 な立場 に置かれて き た。望 まない妊娠 を し、産む決断をして も、一方的に負担 を負 うのが女性 の立場 である。 その ような女性差別 を解消 されない中で、一方的 に中絶 を反対 して も始 まらない。た と えば男性が多数の国会議員が中絶の許可条件 を狭 める法案 を作 って も (つ ま り女性 の中 絶の隠れ蓑 に もなっている 「経済条項」の撤廃 を画策 して も)、女性差別 を無 くす る とい う 「ジェ ンダー」 の視点か らは到底受 け入れ られる ものではない。中絶す る側 に も 「悲 しみ」 は深 く、そ うせ ざるを得ない状況が存在す る以上、『悲 しいけれ ど必要 なこと』 28 なのだ。 まさしく中絶 を一つの女性の重要 な人生 の選択 (チ ョイス) として捉 えている のであ り、『中絶 は殺人ではない』 29のだ。 これ らの主張 はその論 にヴァリエーシ ョンを持つ ものの、同 じ響 きを持つ。つ ま り女 性差別の解消 とい う通低音である。すなわちフェ ミニズムの運動の一環 として中絶の問 題が取 りこまれて しまっているのである。そ して女性 の権利拡張 をうた う時 に、胎児 の 人 として生 きる可能性が中絶 によって断たれて しまっているとい うことが読み取れない のである。その ことが実 に不思議 に思 えて しまうのである。ただ一方的な女性解放 を叫 ぶだけでは、中絶の問題 は解決 されないであろ う。た とえ 「潜在的」であるにせ よ (た とえば「
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歳のカーター大統領」の ような存在であるにせ よ)、生 きる可能性 を持 った胎 児の生命 を断つ とい う側面 を打 ち忘れた ところで、女性解放 を声高 に叫 んで も、響 かな い ところがあるのである。3.
素朴 な女性の意見 ところで中絶す る女性が、全てが全て フェ ミニズム運動 に従事 している訳ではない し、 またアメリカ流の生命倫理の議論 に精通 している訳で もない。実 にそれぞれ悩 みなが ら 中絶 し、その中で もある素朴 な考 え方 を示 しているのである。その ような一般の素朴 な 女性の意見 を見ることは、中絶 とい う行為 を考 える場合、重要であると思 われる。 とこ ろでここではある一人の主婦-2
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歳の主婦- のある雑誌への投稿 を見てみたい30。76 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) 前述の ように一番中絶の実数が多いのは、20歳台30歳台の主婦であ り、ある典型的な意 見 を見 ることがで きるのだ。 この雑誌 は所謂子育て雑誌であ り、そ こに出ている投稿で ある。 この
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歳の専業主婦 には既 に 1歳の子供がいる。 しか しそ こで 「予想外の妊娠」 を し て しまう。夫 と実母 も喜 んで くれるが、義母が 「早い」 と言い、中絶の可能性 を示唆す る。そ して6週 目で中絶 を して しまう。 しか し中絶の次の 日か ら 「ものす ご く大切 な も の を、自分でな くして しまった」 と思い始め、「今 までにないほ どの失望感」 と 「今 まで の 自分 をすべてな くして しまった ような・-強い喪失感」 を抱 くに至 った。 自分は 「人間 として最低で、 どうしようもない未熟 な母親」であ り、誰かの意見 を聞 きたい と語 って いるのである。 これ に対 して後の号31で、2
人の主婦 の意見が掲載 されている。 2
人 とも中絶 をかつ て したか、 または しようと思 っている二人である。一人は妊娠初期 に風邪薬 を呑 んで し まい、医者 に 「奇形か障害のある子 どもとして生 まれて くる可能性」があるといわれ、 中絶 を決意するに至 る。そ して もう一人は、既 に二人子供がお り、や っと子育てか ら少 し解放 された と思 った時 に、三 人 目を中絶 しようとす る。その理由 とい うのはこうだ。 「これで仕事がで きない。あの子 どもにまとわ りつかれる 日々に逆戻 り。 タバ コも吸 え な きゃ、好 きなビール も飲めない、趣味の仲 間たちとも遊べ ない。何 よ り、年齢的に不 安で体力が もつだろ うか、私が動か ない と生活 は どうなるの」。後者の主婦 は夫の子育 てへの無理解 を口にもす る。そ して この2人は初めの主婦 を口々に慰め励 まそ うとす る。 日 く、「上のお子 さんのために も笑顔 で頑張 って くだ さい。子 どもはお母 さんの笑顔が 大好 きです」
「生 きていればいろんなことがあ ります。次 にあなたが授かる子 は きっと今、 天で待 っています よ。あせ らず、自信 をもって生 きて くだ さい」。終 わ りの言葉は 「お腹 の子 ども」はどんな子 どもであろ うとも- た とえ中絶 した子 どもであろうとも- 「天 に帰 って大事 に育て られ」 そ して また 「生 まれて くる 日を待つ」 とい う話 しか ら来 る も のである。 これは迷信であろう。で も迷信で しか救 われない現実がある。誰 も中絶か ら は 目を逸 らしたい。 目を逸 らさない と生 きていけない。そ こにすがる しか道がないのだ。 今紹介 した三人の投稿 には、女性が中絶す る場合のかな りの多 くの理由が記 されてい るように思 える。避妊 をせず に 「予想外の妊娠」 をす るに至 る。未だ義母の意見 に左右 されて しまうような封建的雰囲気の中にもある。 また出産 して も夫の手助 けが望めない。西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 77 そ して妊娠 して しまった ら、結局 自分の 自由になる時間がな くなる とい うのだ。 また不 注意で風邪薬 を飲 んで しまう場合 もある。障害 を持つ可能性がある子 どもを産 む自信が ない場合 もある。 もちろん中絶 を喜 んでいる訳ではないが、様 々な葛藤の中、中絶 を決 断 して しまうのだ。 この ような中絶の場合、法律 的には所謂 「経済条項」の故の中絶 となって しまう。「妊 娠の継続又 は分娩が身体的又 は経済的理由によ り母体 の健康 を著 しく害するおそれのあ る」(母体保護法第14条 1項)場合が、これ らの主婦 の場合 である とい う訳 だ。 自分 たち の生活 を考え、素朴 に中絶 に至 る。別 にここにあるのはフェ ミニズムの主張で もな く、 ましてはアメ リカ流の生命倫理の小難 しい議論 で もない。あるのは、一面か らす る と身 勝手 な申 し分であ り、一面か らすると生活 を守 るための 「ぎりぎり」の選択 なのである。 これが中絶の現状である。
Ⅵ
争点
さて以上、中経の賛成反対の両論 を述べ て きたが、その争点 とは何か。 ここでは3点 に絞 り、述べてみたい。 1.母親の権利 か胎児の生命 か 中絶の問題で最 も根本的な問題 とは結局の ところ、 この間題 に逢着す るように思われ る。す なわち中経す る権利 は、胎児 の生命 を犠牲 に して まで も、果 た して女性 が本 来 持 っているところの権利であるのか とい うことである。 もし女性 には中絶 を行 う権利がない と仮定 した らどの ようなことが起 こるのであろ う か。「望 まない妊娠」を した場合、その妊娠 をわが身の出来事 と感 じるのは、何 と言 って も女性 の側である。男性 の側は物理的に傍観者 た らざるを得 ない。 もちろん男性 の側が 妊娠 とい う出来事 を共 に受 け とめるパ ー トナー となることは考 え られる。世の男性の全 てが 「望 まない妊娠」 を した場合、逃 げてばか りいる訳ではないであろう。女性 と共 に 妊娠 を受け とめ、中絶の是非 を悩みあ ぐねつつ考 えることはあろう。 しか しその ような 例ばか りではな く、何 と言 って も男性 は物理的 に妊娠 とい う事柄 をまさしくわが身の こ ととして感 じることはで きないのだ。 しか し女性 は逃げる訳 にはいかない。逃げ ようと 思 って も、お腹 の子 どもはどん どん成長 して しまう。妊娠 とい う出来事 を女性 は有無 を78 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) 言わず に受 け入れなければならないのだ。するとどうなるのか。その子供 を産み育てて い くことに、 自分の生活 を注 ぎ込 まなければならな くなる。 またその妊娠が暴力 によっ て起 こった とい うことも場合 によっては考 えられる し、 またその妊娠の継続が母体の健 康 を損 なう場合 も考 えられる。事実、 日本の母体保護法 はこれ ら二つの例- 強姦 によ る妊娠 と健康 を損 なう場合- による中絶 を認めているのである。 もしこれが認め られ ない となると、た とえば医学的に言 って母体の生命がかな りの確率 をもって危 ない とい うことが分かっている場合 には、妊娠の継続はそれこそ命がけ とい うこととなる し、実 際死 と同義 となる場合 もある。 またレイプによる妊娠 も、中絶が全 く認め られない とな る と、母親 に非常 なる精神的な重荷 を負わせ ることとなって しまう。 この ような場合 に は中絶が絶対的に悪であるのか とい うと、必ず しも言 えない と思 われる。 しか しなが ら、かの 「経済条項」 による適用の場合 は どうであろうか。 この条項の よ うに妊娠の継続が経済的 に著 しく母体の健康 を損 ねる場合が、現在の 日本 においては、 極 めて少 ない と言 える中で、 この 「経済条項」 による妊娠 中絶 は許 されるのか。 これが 大 きな問題 となって くる。実際 に
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年代 よ りの 「優生保護法」改定論 も、 この 「経済 条項」 の撤廃 に大 きな主眼があった。 ともか くも前述 した 「素朴 な女性 の意見」 に見る ような、言わば親の身勝手 による妊娠中絶 も、女性の権利 として認め られるのか とい う ことである。 た とえばフェ ミニズムのある考 えでは、女性が中絶 を行 うとい うことは、「女性の基本 的人権 の一つ」 32と語 ろ うとす るのだ。果 た して この ような 「素朴 な女性」の 「経済条 項」による 「身勝手」 と言 えるような妊娠 中絶 も、「女性 の基本的人権の一つ」と言える のであろうか。その ような中絶 をする権利 は、胎児の生命 よ りも重い と言 えるのか。胎 児の生命 を犠牲 に して まで も、人間 として当然守 らなければな らない ような権利 と言 え るであろ うか。 もしどんな場合で も中絶が女性 の権利であるのならば、胎児が生 きる と い う権利 はどうなるのか。つ ま り二つの権利が衝突 している。 どちらか を立てれば片方 が成 り立たない。その ような二律背反である二つの権利 をいかに考 えてい くのか とい う ことである。 既 に紹介 した トムソンが考えたヴァイオリニス トの例では、腎臓 を繋がれた人は、か のヴァイオリニス トに管 を貸す義務 はなかった。つ ま り妊娠 した女性 は胎児 に自らの体 を貸 し与 える必要 はな く、女性 の側 の権利 として中絶 は認 め られ るのであ った。かの西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 79 ヴァイオリニス トの場合 には、腎臓 を繋がれた人は一方的に管 をつながれ、そ こにはそ の者の意志 は働 いてはいなかった。 しか し妊娠 は どうか。 もちろん妊娠す るか しないか とい うことは、人間の手の及ばない ところにある。 しか しそ こには少 な くとも性交渉 と い うことがなければ妊娠 とい う事態 には陥 らなかったはず だ。その故 に責任が問われる のは当然である。一体女性の権利 とは何であるのか。そ して何 よ りもその女性 の権利 と 対決す るところの胎児の生命へ の権利 とは何 であるのか。その ことが問われるであろ う。 繰 り返すが二つの権利が衝突 している。女性の中絶す る選択の権利 と、胎児の生命 の 権利、つ ま り女性 の選択権 と胎児の生存権 との衝突である。そ して問われなければな ら ないことは、その胎児の生存権 とは、本当の人 としての生存権であるのか。それ ともあ る意味で一段落 ちた生存権であるのか とい うことである。 もしそ うであるのな らば、そ の ような生存権 は女性の選択権 より上 とは言 えないのか もしれない。つ ま りここで我 々 は次の問題- と論議が移 らなければならない。すなわち胎児の生命 とは何 か とい うこと である。
2.
胎児はどの程度に人であるのか ここに至 って、我 々の問いは絞 られて くる。つ ま り胎児の人 としての資格 とい うこと である。そ して この資格が問われる時に、一体いつか ら胎児 は人 となるのか とい うこと が問われて くる。そ して中絶反対論 を主張す る ものは、受胎 の瞬間 より人である と考 え ている。つ ま り受胎 の瞬間よ り人であるのな らば、妊娠 中絶 はす なわち胎児殺人 となっ て しまうのだ。はた して人は受胎の瞬間 よ り人であるのであろ うか。 ところで先 ほ どのヴァイオ リニス トの例 を述べ た トムソンはこの ような例 を述べ る33。 日 く、「どん ぐりはオークの樹 ではない」。つ ま りどん ぐりが大 きくな りやがてオークの 木 になる。 しか し今の時点 においてはオークの木 とどん ぐりとは同 じもの とは言い得 な い。だか ら結論 は こうなる。
「受精 したばか りの卵子、つ ま り着床 したばか りの細胞塊 は、どん ぐりが オークの樹でないの と同様 に、人ではない」。確 かに着床 した細胞がやが て成長 し、誕生の時 を迎 えることはで きるであろう (少 な くともその可能性 を持 ち得 て いる)。 しか し今 の時点 においては、人 とは言 えない。 ただ成長す る可能性 を持 ってい るだけであ り、現時点 においては 「人」ではない。それは どん ぐりとオークの木が違 う の と同様である とい うのだ。 この ような主張 は、上述のパー ソン論の範噂 に入れ られ る80 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) ものであろう。人 となる可能性 は持 ち合わせているものの、 まだ人ではない。 自意識が な く、人格 -パ ーソンとは言 えない とい う訳 だ。 ところがここで問題が起 こる。一体何時か ら人であるのか。その線引 きをどこに置 く のか とい うことである。た とえば 日本 においては中絶 は、現在妊娠満
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週末満 に限 り認 め られている。 これは優生保護法の 「胎児が、母体外 において、生命 を保続す ることの で きない時期」 を実際の運用のために定め られた ものだが、ただこの2
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週未満 との根拠 も、だいたい これ くらいの時期 までは、母体外では生 きることがで きず、生物体 として 人 と認め られる と判断 しているにす ぎない。 しか しこの2
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週で線 を引 くと言 うことも、 懇意的 ともいえる。た とえば2
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過 に満 たな くて も、母体外 において生育が可能 な胎児が いる可能 もあるか らである。 しか しなが ら中絶 を認める場合 には、 どこかで線 を引かな ければな らない。その線引 きの妥当性が問われなければな らないのだ0 ここでアメリカでの裁判 をめ ぐる議論 を紹介することは有益であろう。その際、何 と 言 って も重要 なのは、1
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年の 「ロウ対 ウェイ ド裁判」である。 この連邦最高裁判所の 判決はアメリカで初めて中絶す る権利が認め られた もので、その意味で画期的な判決で あった。 この判決の特徴 は、妊娠 を3期 に分 けていることで、それぞれの期 に従 って中 絶 を認めるか否かに違いがある ものである。すわわち、12過 までの一期 には中絶する者 の権利 を認め、一期の終 わ り以降については、必要な らば国が中絶 を規制 して よい とし、 三期以降は、母体の生命及び健康等のために中絶が不可欠な場合 を除 き、中絶 を規制 し た り禁止 して もよい とい うものだ。つ ま り中絶 を認め、中絶す る時期 を定めるガイ ドラ インを示 した ものである。 もっともその後、1
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年 にはウェブス ター判決 によって州政 府 による中絶規制 を認める判決が出され、以後議論が実 に喧 しく行われている。ただア メリカのロウ対 ウェイ ド判決 に見 られる ものは、明かな線引 き論であ り、中絶 を許容す る期間を定めた重要 な判決であった。 しか し中絶が認め られた12週 までの胎児であるが、 これは人ではないのか。確 かに人 格 とい うものがあるのか どうかは議論が分かれるのであ り、体外での生育可能性 を持 た ないであろうが、 これをオークの木 とどん ぐりが違 う様 に、人 とは認め られない とは簡 単 には言 えない と思 う。 しか し中絶 を認め ようとするためには、 どこかで線 を引かなけ ればならない。そ こでパーソン論が導入 されたのであるが、その線引 きもどこかで懇意 的 となって しまうのだ。西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 81 つ ま り中絶 は どこかで認め られなければな らない とい う前提がある。母体の健康の問 題、暴力 による妊娠の問題、 また女性 の選択権 の視点 も考 え られ よう。 しか し中絶が喜 ば しい、推奨 されるべ き行為であるとは誰 も思 っていない。その実際的な解決策 として、 なるべ く多 くの人が納得する形での線引 きが考 え られたにす ぎないのである。 一体何時か ら胎児 は人 となるのか。胎児 は どの程度 に人 となるのか。それは各人の視 点 によって異 なって くる。だか らここではこれ以上 この議論 には立 ち入 らない ことにす る。立ち入 ろうとする と、胎児 は人であるのか とい う各人の視点か ら異 なる結果が生 ま れて しまうのだ。議論 しなければならないのは、 どこか ら胎児が人 となるか とい うこと ではな くて、中絶が果た して よいのか。許 されるのな らば どこか らが許 されるのか とい うことである。ただ中絶 を認め ようとす る場合 には、 どこかで線引 きをしなけばな らな い。 しか しこの場合 にも万人が納得で きるような線 な どは存在 しないであろう。その賛 成の数だけの線があるだけなのである。 著者 は もし中絶 を認めるのな らば、法律 としては所謂
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期説 に立つ ことは蓋然性があ ると思 う。妊娠後期では (語弊がある言い方であろ うが)かな り人に近づいて とも言 え ようし、見方 によっては、人 と言 って もよい状態であろう。 しか し初期の頃は、 まだそ れ程 に人に近づいているとは言 えないであろ う。中絶 を認めるのならば、その時期 まで しかない と思 えるか らだ。3.
「消極的容認論」の主張 中経 は果た して認め られるのか、認め られないのか。 ここではこの問いに対す る答 え が求め られている。著者が まず考 えるに、 この答 えについては余 り止も極端 な意見 は排 除 されるとい うことである。す なわちどんなことがあって も絶対 に中絶 は反対 である と い う意見や、無条件で中経 を認め ようとする意見 を、著者 は取 らない。何故 な らば もし 中絶絶対反対論 を貫 くと、妊娠 ・出産 によって母体 を危険 をさらす ことなって しまう し、 暴力 によって妊娠 を した女性 に対 し過酷 な出産育児 を強いる結果 になって しまうか らだ。 また無条件 に許 されるもので もないのは当然の ことであろう。少 な くとも 「潜在的」 に 人である胎児の生命 を無条件で中絶 とい う形で奪 うことは、 どう考 えて も好 ま しくはな い と考 えるか らだ。 た とえば、英語圏の生命倫理の学者で、あの何 とも奇妙 なヴァイオリニス トの例 を持82 清泉女学 院短期大学研究紀要 (第21号) ち出 して、中絶 を容認 したのは トムソンであったが、 この トムソンはその論文の最後で この ようなことを述べている諌I。 自分は 「レイプによって妊娠 し、悩 んでひどくおぴえて いる
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歳の女生徒」 ならば当然妊娠 中絶 を選ぶ ことがで きるのは当然の ことであ り、ま たある婦人が 「妊娠7カ月であるのに、 自分の海外旅行 を延期す るのは面倒 だ」 とい う 理由で中絶するようなことは 「全 くもって不謹慎」である と考 えているのだ、 と。ご く ご く自然 な考え方である と思 う。 この意見 に対 してそれ程多 くの者が異議 を挟 む とは思 えない。 ご くご く常識的であ り、一般的に言 ってかな り納得 させ られる意見であろう。 中絶容認のためにあの ような極端 なヴァイオ リニス トの例 を持 ち出 した トムソンが、 こ の ようなごくご く常識的な意見 を述べているとい うことに、ある驚 きを覚 えるのである が、 トムソンとて この 「常識的な意見」 を論理付 けるために、す なわち何 とか して中絶 を容認 させ るため に、あの ような少 々無理 とで も言えるような議論 を展開 した訳である。 我々は、 どうして も妊娠 を継続 させ、出産そ して育児へ と至 ることが無理 な場合があ ることを認めなければならない。 しか しまた他方、既 に見た賛成論の中の 「素朴 の女性 の意見」 に見 られるようなエ ゴイステ ィックな選択 を無条件 に許す訳で もない。それな らば どんな結論 が あ る とい うのか。それ は中絶 を 「容認 はす るが減 ら してい く」 (ロ ジャー ・ローゼ ンブラッ ト)35方向 しかない と思 う。誰 しも中絶が善 とは思 っていない。 だか ら減 らしてい く方向に異 を唱える者はいない。 しか しだか らと言 って絶対 に禁止で あるとす ると、 これ も実際的に無理が生 じて くるのは今見た通 りである。中絶 に対 して 大手 を振 るって賛成す るのではないが、実際 には 「三期説」 に従い、実際の判断は容認 してい く。ただ同時に減 らす努力 を行 ってい く。それが結論である。だか らこの 「容認 はす るが減 らしてい く」 とい う消極的容認論が、最 も現実的な論 であ り、かつ中絶の論 争 においては生産的な論 となる と考えるのだ 6。 中絶反対派が様 々なヴァリエーシ ョンをもってその論 を訴 えて も、論議は深 まらない。 どの ように 「数量及び文学的表現」をもって生命の尊厳 を強調 して も、「ヒューマニズム によ り素朴 に訴 え」 てみて も、 ま してや 「宗教 的確信」 か ら中絶する者 を断罪 してみて も、中絶 を容認する側 を納得 させ ることはで きない。 なぜ な らば中絶反対派 は絶対的に 中絶 に反対なのであ り、その大前提 を決 して崩そ うとは しないか らである。だか ら中絶 を容認する者 は、(かの生命倫理学者の ように)論理武装 をもって中絶 を認め させ ようと す るか、(フェ ミニズムの立場か ら)女性の権利 を絶叫する しかないか、(素朴 な女性の)西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 83 大人のエ ゴ丸だ しの論理で中絶 を行 うしかないのである。その故 に争点が実際 に争 われ ることはない。両者の論が冷静 に話 し合われることが少 ないのだ。それ を打 ち破 る もの は 「容認 はす るが減 らしてい く」 この消極 的容認論 しかない と思 う。その場 に立つ こと で、初めて冷静 な議論が生 まれ、誰 も善 とは思 っていない中絶 を減 らす道 を探 ることに もな り、結局は 「消極的容認論」 こそが積極的 に中絶 を減 らしてい く道 なのである。 ここで冒頭 に提示 した問いに初めて答 えることがで きよう。問い とははた して男性 は 中絶 について語れるのか とい うものであった。やは りその妊娠 とい う事柄が決 して 自ら の体の中では起 こ り得 ない男性が一方的に中絶反対 を語 ることは、「無責任」との誇 りを 免れないであろ う。 しか し 「容認」を示 しつつ、「減 らしてい く」方向で議論 を進めてい くことならば、男性 も積極的 にこの議論 に関われる し、関わっていかなければな らない と思 うのだ。
4.
新 しい課題 としての 「出生前診断」 以上、我 々の一先ずの結論 を示 したのであるが、 ここで現代 の新 しい課題 を考察 しな ければならない。それは出生前診断であるが、その関連で拙稿 の課題である中絶の問題 が新たな様相 を呈 して きたのである。 ではこの出生前診断 とは何 か37。それは出生の前 に胎児 の状態 を診断 し、それ によっ て胎児が病気である場合 には胎児への治療 を行 うと共 に、母親又 はカップル- の分娩方 法の決定への情報 を与 えるものである。 この主 な検査方法 とは、 ブローベ を当て超音波 による画像 を見 る超音波断層写真の他、羊水 を分析 し、染色体分析、DNA
診 断 を行 う 羊水検査や、母体の血液 を検査 し、胎児の状態 を知 る母体血清マーカーなどの方法があ る。 もしこれ らの方法が純然 と医療行為 に留 まるのな らば、全 く問題 はないのであるが、 ただこの出生前診断が実際には母親 またはカップルに妊娠継続の可否す るための情報 を 提供 して しまうことが問題 なのだ。た とえば胎児 に大 きな障害があることが分か って し まった場合、その結果中絶 とい う選択 を取 ることがある とい うことである。 また35歳以 上の所謂高齢 出産 による場合 には、ダウン症の子供が生 まれて くる可能性が高 くなる と 一般では言 われてい る。そ してその ような障害が、子供 が生 まれる前 にあ る確 率で分 かって しまう時 に、その結果妊娠中絶 とい う処置 を施す ことにもなって しまうのだ。 一般的に中絶 を望む母親の場合、多 くが 「望 まない妊娠」 である場合が多い。望 まな84 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) いのに妊娠 をして しまい、その故 に妊娠中絶 とい う選択 を行 うのだ。 しか した とえば高 齢 出産 を行 う妊婦 の場合 には、年齢 を重ねた とい うこともあ り、 また長 らく欲 しくて も で きなかたった とい うケース も考 え られ、その妊娠 は 「望 まない妊娠」 とい うよ りは 「望 まれた妊娠」である場合が多い とも言 えよう。 しか しなが らある障害があると医師 よ り判断 されると、中絶 とい うことになって しまう場合があるのだ。 そ して特 に現代 の問題点は、 これ らの出生前診断が、多数の受診者 を抱 え込む、 トリ プルマーカーや ダブルマーカー とい う血液 を採取するだけの方法で、検査が可能 となる ことである。 この ようなマスス クリーニ ングによって、必要以上 に妊婦 らに不安 を与 え る場合がある。ある資料 による と、35歳以上のいわゆる 「高齢 出産」で もダウン症の確 率 は三百分の-であ り38、それ程 に高い ものではない。 しか しなが ら高齢 出産が即 ダウ ン症の子供 を産むことにつなが る と、医療す る側及び製薬会社等が不安 を掻 き立ててい るとい う現実があるようである。そ してこの ようなこ とは、障害者排除の優生思想 につ なが ることは否定で きない と思 う。 また現在の医療の発展 によ り、遺伝子診断が進み、 究極の出生前診断である着床前診断 さえも可能 となって くるに及んで、余計 にこの優生 思想への危険性 は強 まっている と思 われる。 一体障害があることが、悪い ことであるのか。出生前診断 をあ くまで も推 し進めるこ とによって、安易 に中絶 されるのはやは り問題であろう。勿論育てるのは親である。親 の判断で中絶す るのならば致 し方がない とい う面 はあろう。 しか しある障害 を子供が持 つか らと言って中絶が即決断 されるのは問題であると思 うし、その ような判断 をもた ら す出生前診断にはある留保 をもって接 していかなければならないであろう。 Ⅶ
「
生命の輝 きの倫理学」か らの視点か ら
- 中絶是非論 から堕胎者論へ この 「妊娠中絶の倫理学的考察」とは、「生命の輝 きの倫理学」の枠内で記 された もの である。生命が輝 くとは如何 なることであるのか を考察す る我 々の倫理学か ら見て、 こ の妊娠 中絶 をどの ように考察 してい くべ きであろうか。それが最後の問いである。 ここでは前拙 において提示 した提題3において示 した一先ずの結論の三点 を確認 した い 390 ① 妊娠 中絶 は安易 に行 われるべ きではない。人格へ と至 る生命 を持 った胎児の生命の西永 :生命の輝 きの倫理学 (2) 85 輝 きを、親 といえども失わせ ることは許 されない。 (∋ 「やむを得ず」中絶 を行 う場合 には、とことんその状況 を考 えるべ きである。悩 むの ならば産むべ きであろう。 (勤 中絶 した者 の悲 しみ は誰 に も分か らない。その悲 しみ を乗 り越 えさせ る何 か を、 「生命の輝 きの倫理学」 は提供 しなければならない。 我 々が到達 した 「消極的容認論」は積極 的容認論ではない。その故 に 「安易 に」 中絶 が行 われることには歯止めがかけ られなければな らない。胎児 の生命の輝 きをむ ざむ ざ と失わせ ることには十二分の議論が必要であろう。だか ら 「やむを得ず」 中絶 を行 う場 合 にも、その状況 をとことん考 えるべ きであろ う。悩 むのな らば産むべ きだ とも思 うの だ。 実 に中経 を考察す るこ とに よって、生命 とは何 か とい うこ とが示 されて くる。何 故 人々が中絶 についての是非 を述べ、それが非常 に先鋭化 された形の議論がでて くるのか とい うと、そ こには生命が関わって くるか らである。 この場合の生命 とは、 まず もって 胎児の生命である。生命 を輝かせ るためには、 まず胎児の生命が守 られなければな らな いのだ。その胎児の生命が輝 くように、中絶の議論 を考 えてい くべ きなのである。 しか しなが ら 「生命 の輝 き」 とは、胎児の生命 だけの輝 きを意味 しない。す なわち中絶 に関 わる大人、それは何 と言 って も中絶 して しまう女性 の生命 も問題 にされなければならな いのだ。 生命ある者が中絶 を行 う。それは、 自らの体の中にある新 しい人格 を持つ可能性 のあ る胎児のその可能性 を断って しまうことである。その時、女性 は大いなる悲 しみ を経験 す る。そ してその時 には自分の生命の輝 きさえ も失われて しまう程である。アメ リカの 心理学者 ドゥカは、「公認 されていない悲嘆」 とい うことを述べ たが40、 まさしく世で認 め られていない悲 しみである。人にも相談で きなような悲 しみである。水子供養 な どと い う商売 にも利用 されて しまうような悲 しみである。その悲 しみ を乗 り越 えさせ る何 か を、我 々は提供 させ なければな らない と思 う。中絶 した者 も生 きている。その生命 を生 き生 きと輝かせ なければならない。その意味で従来の妊娠 中絶論 には、中絶の是非論 は あって も、堕胎者論がない と思 う。堕胎 した、堕胎 に追い こまれた女性 を論 じることは 薄かったように思われる。 中絶是非論か ら堕胎者論-の視点 こそが、我 々の 「生命 の輝 きの倫理学」の視点であ
86 清泉女学院短期大学研究紀要 (第21号) る。 この視点 を もって、 なお 「堕胎 者論」 を今 後展 開 していか なけれ ばな らないので あ る。 1西永兼康 「生命の輝 きの倫理学 (1)- その10の提題-」、『清泉女学院短期大学研究紀要』、 第20号、2001年、71-95頁。 2同、73-74頁、「提題1」。 3同、78-79頁、「提題4
」
。
4 同、74-78頁、「提題3」
。
5文章表現等、原文 を適宜変更 している。 6厚生省監修 『厚生 白書 (平成10年版)』、1998年、 ぎょうせい、65頁。なお数値 は1996年の も のである。以下の数字は同書 による。 7詳 しくは以下 を参照のこと。天笠啓祐 『優生操作 の悪夢一 医療 による生 と死の支配[増補改訂 版]』、社会評論社、1996年、107頁以下。 8 p.マルクス、土屋哲訳 『産 まない 自由 とは何か』、 日本教文社、1972年。 9 同、259頁。 10同、260頁。 11同、264頁。 12同、267頁。 13同頁。 14ウイルキー博士他、菊田昇訳 『わた しの生命 を奪 わないで』、燦葉出版社、1991年。 15生命尊重セ ンタ一編 『豊かな 「いのち」一胎児 は未来 をはこぶ人』、東信堂、1993年。 16同、59頁。 17ロナル ド・レーガン他、中山立訳 『私は許さない 中絶 と国民の良心』、データハ ウス、1984年。 18辻岡健象 『小 さな鼓動の メッセージ』、いのちの ことば社、1993年。 19 ァメリカでは反対派 を生命 を守 るためにとい う意味で 「プロライフ」 と呼び、賛成派 を中絶 する選択 を大事 にするとい う意味で 「プロチ ョイス」 と呼んでいる。 20この論 は以下の翻訳書 にコンパ ク トに纏め られている。H.Tエ ンゲルハー ト他、加藤尚武他 訳 『バ イオエ シックスの基礎 欧米の 「生命倫理」論』、東海大 出版会、1988年。 なおこの書 の紹介は以下 を参照の こと。加藤 尚武、加茂直樹編 『生命倫理学 を学ぶ人のために』、世界思西永 :生命の輝 きの倫理学(2) 87 想社、1998年。 21ェ ンゲルハー ト、102頁以下。 22同、26頁以下。 23同、61頁。 24同、83頁以下。 25日本家族計画連盟編 『悲 しみ を裁けますか 中絶禁止への反問』、人間の科学社、 1983年。 26九本百合子 ・山本勝美 『産む/産 まない を悩 む とき 母体保護法時代 のいのち ・か らだ』、岩 波 ブ ックレッ ト426、1997年。 27江原由美子編 『フェミニズムの主張3 生殖技術 とジェンダー』、到葦書房、1996年。 l'8マグダ・ディーンズ、加地永都子訳 『悲 しいけれ ど必要 なこと 中絶の体験』、晶文社、1984年。 29太田典礼編 『中絶 は殺人ではない』、人間の科学社、1983年。 30『プチ タンフアン』、婦人生活社、2000年 2月号、136頁以下。 31同、2000年 4月号、149頁以下。 32大嶋果織 「人工妊娠中絶」 (神田健次編 『生 と死』、講座現代 キ リス ト教倫理 1、 日本基督教 団出版局、1999年)、82頁。 33ェ ンゲルハー ト、前掲書、82頁以下。 34同書、92頁以下。 35ロジャー・ローゼ ンブラッ ト、 くぼたのぞみ訳 『中絶 生命 をどう考えるか』、1996年、晶文 社、224頁。 36その意味で井上達夫の 「道徳的葛藤」論 を積極的に評価 したい。参照 :井上達夫 「胎児 ・女 性 ・リベ ラリズムー生命倫理の基礎再考