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「メキシコ六八」五輪 -- その選出の理由 (特集 南米初の五輪を開催するブラジル -- 五輪開催と国の発展)

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(1)

「メキシコ六八」五輪 -- その選出の理由 (特集

南米初の五輪を開催するブラジル -- 五輪開催と国

の発展)

著者

イサミ ロメロ

権利

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization

(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp

雑誌名

アジ研ワールド・トレンド

250

ページ

20-23

発行年

2016-07

出版者

日本貿易振興機構アジア経済研究所

URL

http://hdl.handle.net/2344/00002912

(2)

 は

  一九六八年のメキシコ・シティ 五輪(以下、 「メキシコ六八」 )は、 近代五輪史上初めて「途上国」が 主催した大会である。しかもスペ イン語圏の国において最初に開催 された五輪であると同時に、中南 米で初めて行われた五輪でもある。 以前、いくつかの「途上国」がサ ッカーW杯を開催したことはあっ た が、 「 メ キ シ コ 六 八 」 の よ う に 世界各国の選手が集まる国際大会 の開催は前例がなかった。   厳密にいうと、当時のメキシコ は「 途 上 国 」 で は あ っ た も の の、 現在のブラジルのような 「新興国」 のラベルの方が相応しい。第二次 世界大戦後、中南米の多くの国は 輸入代替工業モデルを通じて経済 の発展を試みていた。そのなかで もメキシコを支配していた制度的 革命党(PRI)政権の経済政策 は目覚ましい高度成長を実現させ ていた。そう考えると、 メキシコ ・ シティの選出は決して想定外のも のではなかった。   ちなみにメキシコの特別なバッ ク グ ラ ウ ン ド に 加 え て、 「 メ キ シ コ 六 八 」 は、 「 五 輪 は 政 治 と 無 関 係であるべき」という国際五輪委 員会(IOC)の美名が無視され た大会でも有名である。まず大会 前にアパルトヘイト政策を実施し ていた南アフリカの参加にアフリ カ諸国が出場ボイコットを発表し た結果、IOCは南ア代表団の参 加 を 認 め な い こ と を 決 定 し た。 また男子二〇〇メートルの表彰式 の 時 に、 優 勝 し た 米 代 表 ト ミ ー・ スミスと三位のジョン・カーロス が黒手袋をはめて片手を高く突き 上げ、母国の人種差別問題に不満 をぶつけた。さらにソ連からの独 自路線を支持する「二〇〇〇語宣 言」に署名したチェコスロバキア の女子体操選手ヴェラ・チャフラ フスカは、危険を感じて身を隠し ながら、最終的に宿敵ソ連を下し て四つの金メダルを獲得した。   とはいえ、スポーツの観点から み る と、 「 メ キ シ コ 六 八 」 は 成 功 した大会であったといえる。海抜 二〇〇〇メートルの高地で行われ たことから陸上競技では多数の世 界記録が誕生した。さらに、五輪 運動に新たな要素が取り入れられ た。まず大会組織委員会の要望で 史上初めて女性が聖火リレーの最 終ランナーを務めることになった。 またドーピング検査が採用された 最初の大会でもある。さらにIO C が 今 ま で 重 視 し て こ な か っ た 「 文 化 」 が 取 り 上 げ ら れ た。 大 会 組織委員会の会長を務めた建築家 ベドロ・ラミレス=バスケスの提 案で約一年間を通じて 「文化五輪」

が開催された。ここでは各国の芸 術家が自国の文化を紹介するため に メ キ シ コ・ シ テ ィ に 集 結 し た。 その結果、一般競技では輝けない 多くの「途上国」が活躍の場を得 ることができた。   ところが、メキシコ国内におい て自国開催の五輪への評価はネガ ティブである。メキシコ選手団が 九個のメダル(金メダル三個、銀 メダル三個、銅メダル三個)を獲 得したものの(メキシコ・スポー ツ史上最高の成績) 、その「栄光」 を評価する声は少ない。その背景 に は、 サ ッ カ ー W 杯 と は 異 な り、 メキシコ人が五輪をエリート層の 「 娯 楽 」 と し て み て い た こ と が 関 連しているが、五輪開催が国内経 済に及ぼした悪影響を今でも不満 に思っている人が多いこととも関 係している。事実、一九七〇年代 に起きた経済危機の要因が五輪開 催にあったとの見解を政府も示し ている。   し か し、 「 メ キ シ コ 六 八 」 が 評 価されていない最大の理由は、や はり「トラテロルコ虐殺」と呼ば れる、政府による反五輪運動への 弾圧の存在である。メキシコでは 一九六〇年後半、五輪開催に反対 する学生運動が全国規模で展開さ

五輪

選出

理由︱

南米初の五輪を開催する

ブラジル

―五輪開催と国の発展―

特 集

(3)

れ た。 こ れ に 対 し て、 グ ス タ ボ・ デ ィ ア ス オ ル ダ ス 大 統 領 ( 一 九 六 四 ~ 七 〇 年 ) は、 五 輪 開 催直前に反対デモを終わらせるべ く学生運動への弾圧を強めた。そ の 結 果、 一 九 六 八 年 一 〇 月 二 日、 市内中心部のトラテロルコ広場に おいて、集まっていた一万人の学 生 と 軍 隊 と の 間 で 衝 突 が 起 き た。 この衝突による死亡者数は、政府 の公式発表では三五〇人とされて いるが、それ以上だと考えられて いる。結局、多くの犠牲者があっ たにもかかわらず、IOCは予定 ど お り 五 輪 開 催 の 日 程 を 進 め た。 これが多くのメキシコ人にとって 今でも許せない点である。この意 味 か ら、 「 メ キ シ コ 六 八 」 を 語 る 時にはどうしても「トラテロルコ 虐殺」を思い出す人が多く、自国 での五輪開催の「栄光」に影を落 としている。   本稿では、このような従来の議 論 か ら 距 離 を 置 き、 「 ト ラ テ ロ ル コ虐殺」には焦点を当てず、あま り取り上げられていない点を紹介 したい。それは「途上国」開催の 五輪を考える際に重要である、I OCは何故メキシコのような「途 上国」の都市を選出したのか、と いう点である。

 メ

  メキシコでは一九世紀末からス ポ ー ツ が 行 わ れ る よ う に な る が、 当時の政府はその振興に無関心で あり、スポーツは上流階層の娯楽 にとどまっていた。これに加えて、 メキシコ革命 (一九一〇~一七年) の勃発の影響で国全体が混乱状態 になり、スポーツを広める余裕が 政府にはなかった。しかし、オブ レ ゴ ン 政 権( 一 九 二 〇 ~ 二 四 年 ) の教育改革によって体育の授業が 学校のカリキュラムに取り入れら れ る と、 ス ポ ー ツ の 普 及 が 進 み、 次第にスポーツを振興する団体が 結成され、その幹部が国際大会の 開催に関心をみせ始めるようにな った。一九二三年には、第三代I OC会長(一九二五~四二年)の ア ン リ・ ド・ バ イ エ = ラ ト ゥ ー ルがメキシコを訪問した。ベルギ ー出身の同氏は、メキシコが中南 米のスポーツの普及に貢献するこ とを要望した。これを受けて、メ キシコ五輪協会(COM)が創立 され、一九二四年には、パリ五輪 にメキシコ代表団が参加した。そ して二年後には、メキシコ・シテ ィにおいてCOMが第一回中米カ リブ海競技大会を開催した。ただ しその後、第二次世界大戦の影響 で米州地域においてスポーツ大会 は中断されることになる。

 ●

 五

  大戦の終結後、COMの幹部は 五 輪 開 催 の 夢 を 描 き 始 め、 一九五六年大会へのメキシコ・シ ティの立候補を決断した。しかし、 一九四九年四月にローマで開催さ れたIOC総会では、一〇都市の うちメキシコ・シティは五位に終 わる。それにもかかわらず、国際 大会の開催に対する幹部の意欲は 消 え な か っ た。 一 九 五 四 年 に は、 第七回中米カリブ競技大会をメキ シコ・シティで開催し、翌年には 同じ都市で第二回パンアメリカン 大会を行った。そして一九五五年 六 月、 パ リ の I O C 総 会 で 一九六〇年五輪の開催都市にメキ シコ・シティは立候補するが、再 び選出には至らなかった。   ちなみに、スポーツの観点から みると、当時のメキシコは現在の 中国のような「スポーツ大国」で はなかった。また球技における現 在のブラジルのようなプレゼンス を持っていなかった。メキシコの スポーツの発展は、サッカーとマ イナー・スポーツを除けば依然未 熟であった。COMはスポーツの 普及よりも、単に五輪を開催した かったといえる。   ど う し て メ キ シ コ・ シ テ ィ は、 それまで五輪開催都市に選出され なかったのだろうか。その最大の 理由はメキシコ政府の支援がなか ったからである。事実、COMは、 ル イ ス = コ ル テ ィ ネ ス 政 権 ( 一 九 五 二 ~ 五 八 年 ) の 支 援 が な かったことから一九六四年大会の 開催都市の立候補を断念した。だ が、 続 く ロ ペ ス = マ テ オ ス 政 権 ( 一 九 五 八 ~ 六 四 年 ) の 発 足 で 状 況は大きく変わる。新しい大統領 は ス ポ ー ツ の 普 及 に 関 心 が あ り、 五輪の開催が、新政権の柱であっ た積極外交に貢献すると考えてい た。政府の全面的な支援を受けて、 ヘ ス ス・ ク ラ ー ク C O M 会 長 は 一九六八年五輪への立候補の準備 を進めたが、当時のIOC委員が メキシコ・シティを支持する保証 はどこにもなかった。その時に立 候補したのは四つの都市(メキシ コ・シティ、デトロイト、リオン、 ブエノスアイレス)であった。 か し 国 外 の メ デ ィ ア は、 メ キ シコ・シティが高地であり公害問 題を抱えていることに加えて、重 要な国際大会を開催したことがな いメキシコのような「途上国」は

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五輪を開催できないと指摘し、西 ドイツのバーデン=バーデンで開 催された第六〇回IOC総会では ( 一 九 六 三 年 一 〇 月 ) デ ト ロ イ ト が選ばれると予想した。   それにもかかわらず、 メキシコ ・ シティの招致委員会は地道に誘致 活動を続けた。特にアフリカ、ア ジア、社会主義圏の国々に対して 積極的なロビー活動を行った。ま た、五輪競技場をはじめとする多 くのスポーツ施設が既に存在して いる点を主張し、不足している施 設の建設は開催日までに間に合う ことを約束した。そして、古代ア ステカやマヤ文明の銅像をバーデ ン=バーデン会場まで運び、メキ シコが 「近代」 と 「エキゾチック」 が共存する国であることをアピー ルした。結局、メキシコ・シティ は一回目の投票で過半数以上の票 を集め、ついに五輪開催都市に選 出された。しかも宿敵デトロイト の二倍もの票を獲得した。

 メ

輪 の 開 催 地 を 選 ぶ 時、 I O C 委員の投票は基本的に公にはされ ない。しかもIOCは過去の総会 の 資 料 を 公 開 し な い 方 針 で あ る。 その意味で、開催地の選出は常に ミステリーである。どうして先進 国の都市であるデトロイトやリオ ンではなく、のんびりとして責任 感に欠ける「途上国」である「マ ニャーナ(明日)の国」メキシコ の首都が選ばれたのだろうか。   当時の放送技術の発展がひとつ の鍵かもしれない。一九六四年の 東京五輪でも示されたように、衛 生放送を通じてどのような場所か らでも五輪を生放送できる技術が すでに存在していた。しかも五輪 の放送権を握っていた米国のテレ ビ会社にとって、時差問題のない メキシコ・シティは都合のよい開 催都市であった。票の買収の可能 性も否定できないが、IOC委員 がメキシコ・シティを魅力的な開 催都市だと感じたからこそ、票を 投じたと考えるのが妥当であろう。 以下、メキシコ・シティの勝利を 説明する五つの要因を紹介したい。   第一の要因は、米国出身の第五 代IOC会長 (一九五二~七二年) アベリー・ブランデージの存在で ある。ブランデージはデトロイト に票を投じたとされるが、メキシ コ・シティの立候補を妨害するよ うな行為を行わなかった。むしろ、 ブランデージは以前から 「途上国」 の五輪開催に賛成であった。しか もブランデージとクラークCOM 会長は昔から親しい関係を維持し ていた。両氏はパンアメリカンス ポーツ機構の成立以降、米州にお けるスポーツの普及に尽力してい た。その観点からみても、IOC 会長はメキシコ・シティでの五輪 開 催 に 好 意 的 だ っ た と 考 え ら れ る。   第二の要因は、当時IOCの内 部で起きていた変化である。第二 次世界大戦後、多くのIOC委員 は 伝 統 的 な 欧 米 の 都 市 で は な く、 新たな場所で五輪を開催してもよ いと考えていた。これを象徴する のがメルボルンと東京の五輪開催 である。おそらくメキシコ・シテ ィの選出の場合も、何人かのIO C委員は、同市を選ぶことにより 「 第 三 世 界 」 に お け る 五 輪 運 動 を 拡大できると期待したのであろう。   第三の要因は、一九六三年一一 月にインドネシアで開催予定だっ た新興国競技大会 (GANEFO) の 脅 威 で あ る。 G A N E F O は、 一九六三年四月にIOC加盟資格 が停止されたインドネシアの反I OC運動の象徴であった。そのき っかけは、一九六二年のジャカル タで開催されたアジア大会に遡る。 インドネシアは政府の方針により、 台湾とイスラエルの参加を認めな かった。これは政治とスポーツを 切り離すIOCの方針に反するも のであった。結局、IOCとイン ドネシアとの間の溝が埋められな いまま、第六〇回IOC総会が開 催された。 アフリカやアジアの 「途 上国」のなかでは、インドネシア にシンパシーを持つ国が多く、デ トロイトやリオンが選出された場 合、IOCへの不満が増大する可 能性が高かった。したがって、こ の問題を避けるために、ガス抜き として何人かのIOC委員は「途 上国」の開催都市の選出が望まし いと考えたのだろう。これがメキ シコ・シティに票が集まる要因と なった。   第 四 の 要 因 は 冷 戦 で あ る。 一九五二年以降、ソ連が本格的に 五輪に参加していた。ソ連にとっ て五輪は米国との戦いの場であり、 リオンまたはデトロイトが開催都 市になるのを基本的に歓迎してい なかった。また一九六一年のベル リン危機後、米仏が自国開催の大 会に参加する東ドイツ選手にビザ を 与 え な い 方 針 を 取 っ た こ と に、 ソ連と社会主義陣営は不満を表明 していた。その結果、多くの社会

(5)

主義の国と国交を維持していたメ キシコの首都が望ましかったので ある。おそらく親ソ連のIOC委 員は、この理由からメキシコ・シ ティに投票したと考えられる。も ちろん、この状況を米国側は十分 に理解していた。したがって米政 府はデトロイトを支持したものの、 メキシコ・シティの立候補を妨害 することはしなかった。当時、社 会主義陣営が不満なく参加できる のは、同市であることを十分に理 解していたのだろう。   最後の要因は戦後の脱植民地運 動である。当時、日欧米から独立 した国々がIOCに加盟した。彼 らは「途上国」であるメキシコに シンパシーを抱いていた。ここで 興味深いのはブエノスアイレスで はなくメキシコ・シティに票が集 ま っ た こ と で あ る。 そ の 理 由 は、 アルゼンチンの国内問題が関係し ている。当時のアルゼンチンは政 治的不安定、高いインフレ率、軍 事政権などの点で、中南米のネガ ティブなステレオタイプの象徴で あった。これに対してメキシコは、 のんびりとした 「マニャーナの国」 であり、民主主義体制と呼べるも のは存在しなかったが、PRIの 一党独裁体制の下で国政選挙やシ ビリアン・コントロールが実現し、 高い経済成長を達成していた。し かもアルゼンチンは米国の対「キ ューバ封じ込め」政策に協力して いたため、キューバ革命政府と共 存を選んだメキシコの方が社会主 義諸国にとって魅力的であったに 違いない。

  以 上 の よ う に、 「 途 上 国 」 で あ ったにもかかわらず、メキシコは 五輪の開催を獲得した。メキシコ の経済発展と政治的安定が鍵であ ったが、当時の国際情勢も影響し たといえる。また「近代」と「エ キゾチック」を統合する構想も魅 力的だったであろう。しかし、五 輪開催地を獲得したことによって、 メキシコの本当の挑戦が始まった。 メキシコの指導者は自国が「マニ ャ ー ナ の 国 」 で は な く「 先 進 国 」 であることをアピールする必要が あった。ただし、その後の歴史が 証明するように、その過程は困難 であった。   前 述 し た よ う に、 「 メ キ シ コ 六八」は無事に開催された。その 背景には、メキシコの指導者、C OMとIOCの幹部たちの多大な 努 力 が あ っ た こ と は 確 か で あ る。 しかし、一部の政治家や幹部は自 分の名誉と利権を優先し、肝心な メ キ シ コ 市 民 の 存 在 を 軽 視 し た。 これが学生運動による非難に繋が り、五輪史上初の「途上国」開催 の理不尽な部分が浮き彫りとなり、 悲劇的な「トラテロルコ虐殺」が 起きてしまった。   そう考えると、どうして「途上 国」は自国の能力を超えてまで五 輪を開催する必要があるのだろう か。この疑問は、今度のリオ五輪 に対しても当てはめることができ る。五輪開催を前にして、景気の 低迷と汚職や統治能力の低下から ジルマ・ルセフ大統領の辞任を求 める声が高まり、不安定な状況に 陥ったブラジルをみると、やはり 改めて「メキシコ六八」を考える 必要があるかもしれない。 ( Isami Romero /帯広畜産大学講 師) 《参考文献》 ① 池井優 『オリンピックの政治学』 丸善、一九九二年。 ② 小 倉 英 敬『 ラ テ ン ア メ リ カ 一 九 六 八 年 論 』 新 泉 社、 二〇一五年。 ③ エレナ・ポニアトウスカ『トラ テ ロ ル コ の 夜 』 藤 原 書 店、 二〇〇五年。 ④ C la rie B re w st er a nd K eit h B re w st er , R ep re se nt in g th e Nation: Sports and Spectacle in Po st-R ev olu tio na ry M ex ico ,

New York: Routledge, 2010.

⑤ K eit h B re w ste r e d., Re fle ctio ns on M ex ico '6 8 , W es t Su ss ex : Wiley-Black Well, 2010. ⑥ A rie l R od ríg ue z K ur i " G an ar la s e d e . L a p o lí ti c a in te rn ac io na l de lo s ju eg os olí m pic os d e 19 68 ," H ist or ia Mexicana, 44(1): 2014, 243-289 ⑦ K ev in W ith er sp oo n, B efo re the Eyes of the World: Mexico an d th e 1 96 8 O lym pic G am es , N or th er n Ill in ois U niv er sit y Press, 2008. 特集:「メキシコ 68」五輪―その選出の理由―

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