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アジアの動向 パキスタン 1967

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(1)

アジアの動向 パキスタン 1967

著者

アジア経済研究所

権利

Copyrights 日本貿易振興機構(ジェトロ)アジア

経済研究所 / Institute of Developing

Economies, Japan External Trade Organization

(IDE-JETRO) http://www.ide.go.jp

シリーズタイトル

アジア動向年報

雑誌名

アジアの動向1967年版

発行年

1967

出版者

アジア経済研究所

URL

http://hdl.handle.net/2344/00052025

(2)

アジアの動向

J

l

9

6

7

-・重盛磁醤盟函酉・

ア ジ ア 経 済 研 究 所

(3)

この「アジアの動向」〈国別シリーズ) 1967年は,月刊「アジ アの動向」を各国別にまとめ,総目次, 1967年の回顧,年表を 追録したものです。

アジア諸国の政治・経済の動きを適確に把握する基礎資料ど して,月刊「アジアの動向jとあわせて利用ください。

(4)

目 次

1967年の回顧...( i ) 年 表 (1967年) ...折込 l;:1政治家の政界復帰( 1・2)]) 食糧不足と物価上昇( 1・2月〉 〔月間概況〕 l 2 第3次5ヵ年計画修正の背景(3月) •••.••..•..••••.•..•..•.•.•.••.••..••••• 41 アメリカの軍事援助中止(4月〉 .....圃・・・・・a・・e・・・e e・e・・・・e・...79 野党統一戦線結成の動き(4月) ••••....•••.•.••..•...••..•.•••.••••.••....•

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野党統一戦線の結成(5月) . • . . • • • . ‘ . • . . . • . . . ...・・・・・・...・・...103 7月の動向.....................................................‘・・・・・・・・ 155 1967/68年度予算案と経済事情(6月) ...・・・...131 東パ政情不安(8月〉 179 アユプ大統領の三国外交(9月〉 ...・・・・e・a・・・e・・・・・z・・・・・・・e・・・・・・・・・・・・・・ 213 アユブ大統領訪仏(10月〕...241 NAPの内紛(10月) ...・e・...242 ポンド切下げとパキスタン経済(11月) ・ ・ • • • • • • ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 279 ポンド切下げの打撃(11月) a・・・・・・e・....・e・・・・・・・・・e・・・ 279 1レピ一平価維持の背景(11月) •.•.•...•.•...•..••••...•....•..•• 281 〔主要事項] 旧政治家の活動( 1・2月) 4 野党統ーのためのセミナー開催 (1・2月〕...5 プット前外相,情報相と論戦(1・2月).........................、...6 選挙監理委員会, 1964/65年選挙レポートを発表 C1・2月).........‘...8 インフレーションの危険性( 1・2月〕... 8 1965/66年度国際収支(1・2月) ...9 カヲチの物価事情 (1・2月) •.••••..•.•••.•.•••••••.•.••••.•.••••.•••••••• 10 ミメンシンの物価事情 (1・2月) ••..•.•••.•••••••••.••..•••••••••.••••.••• 12 第3次計画修正(3月〕............‘...,45

(5)

日 次 ;!荘パキスタンの資本不足

0

月) SEATO会議について (3J]) 野党統一戦線結成の到き(4)1) アメリカの軍事援助停止(4月〉 アメリカ軍事援助「1r止の反響(4月〕 パキスタン民主主義運動の結成( 5)J〕 1966/67年度パこ干スグン経済'

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'吉( 6)]) 1967/68年度パこ子スタン予算案( 6月〕 ウカイリ蔵相の予算演説(6月〕 税制改革の内容(6月〕 政府公社の活動状況(6月) .46 47 .... 81 ... 82 ... 82 . 105 1:14 . 135 138 ... 138 139 1966. 7∼1967.4の卸売物価指数( 6月) ......,.......・・・・・・・・・・ー・・・・・・・・・・・ 140 パ債権国会議, 3億 2千万ドノレ援助を約束( 6月〕 ...・・ ・・・・・・・・・・・・・・・・ 140 新輸入政策発表( 7月〉 ........... ・・ー・・・・・・・・... 155 新輸入政策に関する政府:説明( 7月) •••.•.••..••..•••••••••••••.•.•.•••••• 156 新輸入政策に対する反響( 7月) .•••••••••.••.•...•••.••••.••.••••••••...• 157 政府,新ジュート政策を発表( 7月) ••••••••••••.••••••••••••••.•.•••.••.. 157 最近のジュート事情(7月) 食糧問題(7月〉 1人当り食糧消費量の減少(7月) 東パAL分裂( 8月).... ... 158 ... 159 .... 160 181 1966/67年度輸出状況( 8)1)..“・・‘・・・・・・・・・・・・・・・・ー・・‘.““・“・・・・‘・・・‘・・ 181 1966/67年度ジュート輸出 (8月) ...・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 234 チッタゴン製鋼所操業開始( 8月) .••.•••..•.•••..•••.••••.••••••.•.•••••• 234 タルベラ・ダム資金計画( 8月〕 • • ・ • • ・ • • ・ • • • • ・ • ・ • • • • • • 183 政府投資事情( 8月〕・ ・ • ・ • ・ • • • ・ • • • ・ • ・ • ・ • • • • ・ ・ • • • ・ • • • ・ • • • • 184 パキスタンの外国投資( 8月〕... 185 ベトナム戦争の見通し (8月〉 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・e・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 185 アユブ大統領,ソ連訪問( 9月) ...••.•••.••..••..•••••••••.•••••.•••••••. 215 パキスタン・ソ連共同コミニュケ要旨( 9月) •.••.•••••••••••..•••.•••••••• 215 パキスタン中央銀行 StateBank of Pakistan年報発表(9月) パキスタン投資公社年報発表(9月) -- 2ー 216 217

(6)

日 次 プット前外相,新社会主義政党結成を発表(10月) •••••••••••••••••••••••••• 243 ポンド切下げに対する措置(11月) •••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 283 yレピー貨維持の重要性について( 11月) •••••••••••••••••••••••••••••••••••• 284 ポンド切下げとルビー(11月) ... 285 東パ公企業払下げ、計画発表(11月〕...285 1917∼1967までの資本発行高(12月) •••••.•.•••••••••••••••••••••••••••••• 275 ポンド切下げとジュート工業 (12月〕...276 〔 資 料 〕 激動する中国(3月) パキスタン第 3次5ヵ年計画修正内容( 3月) ... 66 .. 68 アメリカのパキスタン援助(3月) ••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• ,75 1966/67年度ジュート事情( 8月) •••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 209 パキスタン国立銀行 1966/67年度報告書要旨( 9月) •••••••••••••••••••••••• 236 中国文化大革命の展望(10月) •••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••••• 273 束パキスタン共産党の中共文化大草命批判(10月) •••••••••••••••••••••••••• 274 東西パキスタン経済格差に関する報告書 (12月) •.•••••••••••••••••••••••••• 297 3

(7)

-I

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キ ス タ ン

1967

年 の 回 顧

1967年 1月,アユブ政権により政治活動を禁止されていた旧政治家の政界 復帰を経て,野党側から統一戦線結成の動きが強まり, 5月 1日にはそれが パキスタン民主運動

PD M

の結成へと発展した。しかしこの

PD M

の結成は 皮肉なことに野党の統一ャではなく,その内部矛盾を表面化させることになっ た。というのは野党の中で学生・労働者−・農民等に支持基盤をもっていた人 民連盟

AL

, 全 国 人 民 党

N AP

PD M

への参加をめぐって分裂,野党が

PDM

支持派と反対派に分断されてしまったからである。アユブ大統領は野 党がこうして分裂し,統一して強い行動を起せないと判断するや,一層高姿 勢に転じ, 12月の国会では,野党が国会ボイコットをしているにもかかわら ず,単独審議のまま選挙人団改正法・憲法第8次改正法など,非常に重要な 法案を充分な審議もせずに国会で承認させ, 1970年に予定されている大統領 選挙,国会・地方議会議員選挙の準備をすすめている。また,選挙人団法改 正により 8万人から 12万人に増えた選挙人団選挙に際し,選挙区をこれまで の人口 1200人ではなく 800∼1000人で 1選挙区を構成するよう改変するなど, 一連の政治攻勢をかけようとしている。 1967年は,アユブ政権が経済問題, 与党の内部対立,経済界の東西対立など困難な諸問題をかかえながらも,野 党側がそれら諸条件を十分に利用しえないという状況の中で,野党の分裂を 十分に利用し, 1970年総選挙,およびそれに先だっ 1969年選挙人団選挙を有 利にすすめるための足がかりをつくった年で、あるといえるであろう。 野党統一戦線の結成 1967年 5月,全国民主戦線 NDF,回教連盟評議会派 MLC, Jamaat党, Nizam党,人民連盟 ALの野党 5政党は,年初からの野党統ーのための努 力が実って,野党の統一戦線であるパキスタン民主運動

PDM

を結成,基本 綱領ともいうべき

8

項目要求を発表した。この

8

項目要求とは①議会民主主 義の復活,②パキスタンを連邦制とし東西パキスタン州市治の確立,③中央 政府は国防・外交・通貨・財政・貿易を司り,他は州政府に移管,④10年以 内に東西経済格差是正。その聞東パの得た外貨は東パが使用する。また外国 5 1 i − , ム 一 一 1 一一

(8)

パ キ ス タ ン 援助・借款配分の優先権を東パに与える,(5)通貨・外貨・中央銀行・州間取 引・外国貿易などについては,東西両州議会メンバーが選出する代表(東西 同数)がつくる委員会が管理する,(6)最高裁・中央政府機関・公社などは東 西両州から同数のメンバーで構成する,(7)国防力を東西同じにし,東西同数 のメンバーからなる国防会議をつくり,海軍の総司令部は東パに移す,(8)

PDM

の組織,などである。この

8

項目要求の基本的考えは東パキスタン自 治権の強化を目指したものであり,

1

9

6

5

3

月,東ノξキスタンの独立,イン ドの西ベンガノレ・アッサムを含めた「大ベンガノレ国」の結成への指向をさえ 含んでいた

AL

C人民連盟)の

6

項目要求に比ベラ非常に穏健なものである といえるだろう。さらにこれら諸要求は議会民主主義の復活ということの外 パキスタンのもつ諸問題,たとえば大土地所有制の問題,独占資本の問題, 外交問題とくに対米関係,カシミーノレ問題などについて何も触れていないの である。

PDM

(パキスタン民主運動)の運動がこのように非常に限界のあるものに なることは,その構成する政党からも予想されていた。というのは主として 東パキスタンの地主や財界に支持基盤をもち,東パが政治的経済的に西パキ スタンに支配されて自己の権益をのばすことのできないことに不満をもった 人々,すなわちもし東パキスタンの自治が確立すれば,支配的立場に立つ人 人を中心とする

MLC

(回教連盟評議会派)や

NDF

全国民主戦線が

PDM

(パ キスタン民主運動)を推進してきたからである。この運動が労働者・農民に 支持基盤をおく

NAP

(全国人民党)を最初から排除してきたことも,

PDM

(パキスタン民主運動)の立場をよく示しているといえるであろう。こうし た

PDM

(パキスタン民主運動)のもつ限界は

PDM

参加を表明した

AL

(人民 連盟)の内部対立を表面化させ,とくに東パキスタンを中心とする左派は同 党委員長ムジブソレ・ラーマン(現在逮捕されている)の 6項目要求を強く支 持,

PDM

(パキスタン民主運動)の

8

項目要求は

6

項目要求と相いれないも のであるとの態度を堅持,ついに

8

1

9

日,

AL

(人民連盟)は

PDM

賛成派 と反対派に分裂してしまった。

PDM

に参加をしなかった

NAP

(全国人民党〉 も,内部から参加すべきだとの声もあがり, 12月には分裂状態になってきて いる。また11月30日にはプット前外相が,新しい「社会主義政党」と称して 一一 11一一 円 り 寸i 噌 E Z A

(9)

パ キ ス タ ン “人民党”を結成した。 このようにして,野党統一の運動は:それぞれの野党内部に深刻な対立を惹 起し,

AL, NAP

は内部分裂を惹起してしまった。すべての反アユブ勢力の 結果をめざした

PDM

(パキスタン民主運動)は,その意図とは別に,これ までばらばらになっていた野党勢力を,支配者側の立場にたつ層と被支配者 組Jiの層に,換言すれば

PDM

(パキスタン民主運動)派と

AL

(人民連盟)

NAP

(全国人民党)左派,隠健派と急進派に再編するに役立つたといえるよ うである。

ALC

人民連盟)の反

PDM

(パキスタン民主運動)派および

NAP

(全国人民党)左派は現在のところ別行動をとっているとはいえ,前者は

NAP

(全国人民党)の主張一一西ノξキスタンをシンド・パノレチスタン・パン ジャブ・北西辺境区の4州に分割し,州自治を与える−ーを認めると発表し ており,近い将来,何らかの形での共同行動が予想されている。とすれば両 党は現在まだ再編成の過程であり,内部統ーができていない時期であるけれ ども,この再編成の完成はアユブ政権にとって必ずしも好ましいものではな いといえるだろう。アユブ政権にとっては,野党がこれまでのように内部に 諸矛盾をかかえながら,個々ぱらぱらの小政党のまま,お互いに対立してい た方が,再編成されすっきりした形で反政府運動をすすめるより,制御しや すいからである。 高姿勢に転ずるアユブ政権 長期的にはともかく,野党の内部が混乱していることはアユブ政権にとっ て好都合なことであった。それはアユブ政権内部の対立を野党が十分利用し えない状況をっくり出したからである。政府内部の対立とは経済政策をめぐ る対立である。政府は1967年6月に綿花統制局設置を発表したのにつづき, 8月には財界の反対をおしきって政府貿易公社を設立,同月ジュート取引公 社も設立するなど,流通部門に対する政府の介入を深め,これら公社に対し ては高級官僚を送り込んでいる。例えば貿易公社は商相および各省次官が公 社理事に送り込まれ,ジュート取引公社に対しては投資促進局長が総裁に任 命されている。これら公社の任務は民間企業と同じで,いわば民間企業と競 争して存在するものなのである。しかも綿花,ジュートなどパキスタンの主 要換金作物を取り扱い,貿易についても後進国では最も利潤を得やすい部門 -117- 一− 111−ー

(10)

パ キ ス タ ン であることから,これら流通部門への政府の介入は,国家資本をパックにし た巨大な競争相手の登場であり,官僚と結び、ついて利益をあげうる財閥系大 資本家はともかく,零細な資本でジュート,綿取引を行ない,また外国貿易 を営む中小資本家にとって,非常な打撃であった。とくに貿易公社に対する 中小資本家の反対運動は激しく,パキスタン商工会議所連盟も9

23

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,「政 府の貿易公社設立は,私企業の貯蓄・投資を後退させ,経済成長を妨げるも のであるjとの声明を発表し,反対を表明せざるをえなかったのである。 7 月3日,ファノレーク商相が辞任したことも,この反対運動と無縁ではない。 これら公社設立をめぐる動きは,これまで一本化してアユプ体制を支持して きたかにみえた財界の中に,財閥を中心とする大資本勢力と中小資本勢力の 対立があることを明確にした。公社の設立は前者が官僚と結びついて,パキ スタン経済支配の確立を意図したものといえるであろう。 こうした大資本と中小資本の対立は,ただそれだけにとどまらず,東西ノξ キスタンの対立を激化させずにはおかなかった。何故なら,パキスタンでは 独立以来のいきさつから経済の実権はほとんど西パキスタンが握り,したが って財閥も西パキスタンを中心に成立,現在東パキスタンの工業は政府公社 である東パ産業開発公社

EPIDC

のものの外,大部分が西パキスタン財閥系 の資本で占められているからである。東パキスタンにおけるべンガル資本は 地場産業であるジュート取引およびジュート工場や貿易業などに主として投 下され,その規模は西パ財閥系のアダムジー・ダウッド等に比べ非常に小さ い。こうした中小企業にとって,政府がジュート取引や貿易に介入すること は死活問題である。政府公社設立をめぐって,東パキスタン各地が商工会議 所は一斉にその反対を決定した。さらにそれだけにとどまらず東西経済格差 の是正,とくに外貨の東西配分を「商業用の外貨割当については60%,工業 用については70%を東パ lこ割り当てる」 (チッタゴン商工会議所8.3)ょ う要求,さらにパ商工会議所連盟についても「現在の連盟には東パキスタン 代表が全体の%を占めているにすぎず,したがって連盟は西パの大企業の思 惑によって動かされている。東パにも独自のパキスタン商工会議所連盟の設 立を認めて欲しい」(チッタゴン商工会議所 8.3)との主張を行なっている。 公社設立をめぐるこうした東西経済界の対立の激化は,東ノミキスタンの白 一 一 lV 一一

(11)

-118-パ キ ス タ ン 治を主張する野党にとって絶好のチャンスであった。しかし野党は前述のよ うに混乱を重ね,この好機を利用できなかったようである。アユブ大統領は 野党勢力が分裂,混乱していることに乗じ,自らの内部に対立をかかえなが ら,この弱みを被いかくすべく,激しい政治攻勢をかけてきている。アユブ 政権の高姿勢を示すーっの例は 12月の国会運営をめぐる与野党対立で,与党 のとった態度であろう。同会議長が野党議員3人を同会の権威を傷つ付たと いう理由で追放したことから端を発したこの対立は,政府与党の一貫した強 い態度で、ついに決裂,国会は野党退場のまま与党の単独審議に終始した。し かも政府は単独審議のまま選挙人団改正法(選挙人団の数をこれまでの8万 人から 12万人に増やす〉および憲法第 8次改正案(国会・州議会議員の人数 をこれまでの156人から 168人に増やす)などの重要法案の国会通過をはか り,殆ど審議なしにそれを成立せしめたのである。次期の大統領選挙を1970 年初にひかえ,選挙人団選挙は1969年末に行なう必要がある。そのためには 1968年からその準備工作が必要となる。国会は 1968年6月にも聞かれるが, その時は予算に関する審議が中心となり,政治問題が審議される余裕はない。 もし選挙人団を8万人から 12万人に増加させるとすれば,それは選挙区をこ れまでの人口 1000∼1200人に 1人の選挙民から, 800∼1000人に 1人の選挙 区へと組みかえねばならぬ。その場合前回の選挙で政府側に不利であった選 挙区は再編成させなくてはならない0 6月の国会が使えないとすると 1968年 後半までこれら法案の国会提出はできず,その承認を得てからでは選挙区改 変が間に合わなくなってしまう。とすれば今年度国会会期中にこれら2法案 が国会を通過することは重要である。アユブ政権がこれら法案の成立を急い だ理由は以上のような時間的理由もあったであろう。それと同時に野党の混 乱がアユブ政権が高姿勢をもたらす理由でもあったといえるであろう。アユ ブ政権はこの勢いにのって早速選挙人団選挙の選挙区を改訂,現在人口約 1000∼1200人に I人の割合で選出してきた小選挙区をさらに狭くし, 800∼ 1000人に 1人の割合に区分け,前回選挙で与党が不利だった地域については 有利になるよう,一種のゲリマンダーを行なってくることが予想されるので ある。とれが野党の利害と対立することはいうまでもない。野党がこうした 攻勢をどの程度くいとめうるかは

PDM

(パキスタン民主運動〉を中心とする 一 − V 一一

(12)

パ キ ス タ ン 統一戦線および11月末に結成されたプット前外相の人民党, AL(人民連盟〕, NAP (全国人民党〉左派がこの問題をめぐってどこまで結束できるか,また パキスタンの経済がどのように展開するか,にかかっているといえよう。 食糧不足と第3次計画の修正 1966年を特徴づける経済危機,すなわち食糧不足,外国援助不足と工業界 の沈滞,物価上昇とインフレ傾向の激化等々は, 1967年に入ってもひきつづ き継続して存在した。とくに食糧不足は1966年から67年にかけた PL480に より小麦130万トンその他食糧の供与にもかかわらず解決せず, 1967年3月 には西パキスタンで10万人以上の都市に配給制が導入され,食糧価格の急騰 がつづいた(表 1)。食糧不足に加え, 外国援助不足から工業生産が伸びな ゃみを示し(表2),一方通貨発行高は減少せず,インフレ傾向が強まってい る。 1967年初,ノレピーの平貨切下げがささやかれ,政府がその噂を否定する 発言を何度もくり返さなければならなかったことは,インフレの危機がいか に深まっていたかを示している。 表l 卸売物価指数(1959/60=100)

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別 4/65 I山 ! 叫 1111 921 103 96 1211 1231 661叫 凶I1141 1011 1071! 107 1965/66

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1341 1241 1421 1461lB 1481 1661 1681 991 1251 1261 1231 1171 117! 116 (Monthly Statistical Bulletin1967. 9より作成) 表 2 工業生産指数(1959/60=100) 工 業 生 産 指 数 前 年 度 増 加 率 1963/64 184.2 1964/65 210.6 1965/66 234.4 1966/67 260.0 +22.3 +26.4 十23.8 +15.6 政府はこれに対処するため,食糧の増 産・経済援助とりつけのこ面に解決の道 を見出そうとした。まずP L 480による 援助については小麦150万トンをアメリ カに要求(3.1),この要求は8月3日お よび12月26日の2度にわたり結ぼれた協定により満たされることになった。 供与を約束された食糧は小麦150万トン,食用油12万トン,ドライミルク4千 トン,綿花2万パーレ,タバコ 900トン,タロー4万5千トンで, 総額1億 一 一Vl -

(13)

-120-ノミキスタン 5千万ドノレにも達している。こうして多量の食糧援助供与が約束され, 7月 以降食糧価格はようやくやや落つきをとり戻してきたようである。しかしd

性的な食糧不足を解決するため,食糧を外国に依存する方法は,長期的にみ て,好ましい方法ではない。それは一時的に食糧の不足を補うだけで,農業 問題の根本的解決をおくらせ,さらにアメリカ製の安い小麦はパキスタン農 業を破壊する危険性をはらんでいるからであり,また食糧援助国は食糧を制 することにより被援助国の経済・政治に関与する口実を得るからである。パ キスタンが3月30日,第3次5ヵ年計画を修正し,その規模・生産目標は不 変のまま,資金の配分において工業中心から農業中心へと変更したことは, アメリカの“平和のための食糧計画”と名をかえたPL480の条件,すなわち 食糧被援助国は食糧の自給体制確立に努力するという条件と無縁ではないで あろう。 第3次計画の修正は, 2年にわたる早越のための食糧不足および PL480に ともなうアメリカの圧力のもとに行なわれたものであった。その内容は前述 の通り規模・生産目標は不変のまま,公共資金の配分において,年間投資額 の変更および優先順位の変更という形をとっている。優先順位は農業部門に おかれ,工業投資は長期プロジェクトから短期へ,さらに国内資源を利用す るプロジェクトへ,および農業の生産性を高めるためのプロジェクトへと変 更されている。 アーマッド計画委副議長は計画修正に当り「1970/71年度までに食糧の自 給体制をつくる」ことを目標とする旨のべている。そのための政府の政策と しては水力開発に力を注ぎ,改良種子・肥料の使用を広めることなどがあげ られている。しかしこうした諸方策はどの程度有効なのだろうか。政府が水 力開発・濯蹴用水の開発を行なったとしても,濯

i

隊用設備のとりつけ費用, 利用資金等の調達ができるのは中農以上の農家でしかなく,自活できるだけ の土地を所有していない自小作農が圧倒的な,パキスタン農業構造のもとで は,こうした政府の計画は少数の中・大農に利益をもたらすだけの結果に終 る危険がある。また政府の奨励する改良種子・肥料・薬品の利用についても それらを購入する資金をもつものは中農以上の農家であって小・貧農ではな い。しかも政府の農業開発公社等からの営農資金なども,担保も保証人もな -121ー 一一 vn

(14)

-パ キ ス タ ン い小・貧農にではなく,中・大農に供与されるという結果となる。こうみて くると,第 3次計画の修正により 1970/71年度までに食糧の自給を達成させ るという政府見通しは,あまりに楽観的で、あるといわねばなるまい。政府は 1967年の食糧生産は良好であると発表した。気候条件は前年度よりよく,食 糧生産高はたしかに前年を越えるかもしれなし、。しかし気候条件が悪化すれ ば再び深刻な食糧不足に見舞われることは必至であろう。問題は未解決のま ま残されたわけである。 PL480以外の経済援助として, 6}j初めロンドンで開かれた債権国会議は, 1967/68年度に 3億 2000万ドルの援助を約束した。内訳はプロジェクト援助 1億2000万ドル,商品援助 2億ドノレとなっている。これはその後アーマッド 計画委副議長が債権国会議諸国を歴訪して援助額の要請を行ない, 10月には 4億4600万ドノレの援助が約束されたと伝えられている。この援助額は過去 4 年間で最大のものである。内訳はずロジェクト援助 2億3000万ドノレ,商品援 助 2億 1600万ドノレとなっている(国別援助額などの詳細は未発表)。このほ かソ連とはアユプ大統領が訪問した際援助の約束(金額等は未定)がなされ 中国からも 12月に結ばれた協定により, 1969/70年度までに 4200万ドル〆の無 利子借款 (1400万ドノレは商品援助, 2800万ドノレはプロジェクト援助)が約束 されている。またインダス河流域開発計画の一環として,世界最大のタノレベ ラ・ダム建設に対し, 2億4000万ドルの援助が約束されている。 以上のように多額の経済援助の供与が約束されたことは,経済開発計画・ 公共投資の45%近くを援助に依存するパキスタン経済にとって明るい見通し を持たせるものであった。しかしそれと同時にこうした援助依存の経済体制 は,いくつかの間題をはらんでいる。第 1は1965年の事件が示したように, 経済が非常に不安定なものとなること,第2はしたがって援助国に支配され 易いこと,第3は借款に対して支払わなければならない利子および返済金額 が年々増加し,それが国際収支を圧迫せざるをえず,借金を返済するために さらに借金をするという,援助経済にありがちな危険が目前に迫ってきてい ること,等々である。経済援助の停止は 1965年以降のようにパキスタン経済 を非常な苦境におとし入れることになった。そしてそれが再開されると,今 度は返済の問題で破碇を来すことになる。これがあまりに多くを援助に依存

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-122-パ キ ス タ ン する経済の実態なのである。 残された問題 1966年経済の大きな問題となった食糧不足と援助資金の不見は, 1967年に 入ってやや好転した。しかしそれと同時にパキスタン経済はこれまで残され てきた諸問題のほか,し、くつかの新たな問題に直面することになったのであ る。第1の問題は残されてきた食糧問題である。前述のように PL480および 気候条件好転のため,食糧不足は一時的に解消したものの,その根本的解決 は得られないまま残されることになる。第 2は援助経済の問題である。利子 および元本返済額が輸出の14%を越え, 1970年までには20%を越えると予想 され,借金返済のためにさらに借金を重ねるという危険があること,この問 題も未解決のまま残されている。第3の問題は 11月に行なわれたポンド切下 げがパキスタン経済に与えるマイナス効果をどのように克服するかという点 である。パキスタン政府はポンド切下げにもかかわらずそのノレピー貨の平価 維持を決定,さらに輸出振興策としてジュート・綿花への輸出税廃止,輸出 ボーナスの10%加算(但しジュート製品は従来通り 20%入ポンド切下げ前に 契約したジュート・綿輸出については7∼8 %の補償金供与,輸入抑制策と してはボーナス輸入品目を除く輸入品に10%の輸入税課税を決定した。 10% の輸入税は直接工業用原材料・機械の価格と昇をもたらすであろうし,輸出 ボーナスの10%加算はパキスタン・ノレピーの実質購買力をさらに下げること にもなる。香港市場におけるパキスタン・ルビーは, 11月末で 1ドノレ約 8ノレ ピー(公定は1ド、ノレ4.76ノレピー)にもなっている。ここにインフレの危険が ひそんでいるのであり,この問題も1968年の経済に残されたわけである。第 4の問題は東西経済格差是正の問題である。政府は12月,国会に東西経済格 差に関するレポートを提出した。それによると格差が拡大する率は年々縮少 しているとはいえ,格差そのものが縮少するところまでいっていないことを 認めその最大の原因として民間投資・

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などの投資が西パキスタンに集 中していることをあげている(表3・表4。) 以上のベてきたこれら諸問題の解決は決して容易ではない。 1968年はとく にポンド危機・ドノレ危機の叫ばれている国際経済の中で,輸出の伸びもあま り期待できず,インフレ問題,経済格差問題等もいろいろな形で表面化せざ リ 、 υ リ ︼ ’E A 一日IX 一一

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パ キ ス タ ン (100万ノレピー) 表 3 民 間 投 資 1 4 7 一 つ 山 9 1 9 一 O

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p o r o r o / f J r ///,// F 一 f i 1 3 4 5 三 日 ハ り β り 6 − 日 可 U ハ 可 d A 可 u t E ム 1 1 ム ’ I A 2,046 中央統計局(東西経済格差レポートより〉 (100万ノレピー〉 表 4 公 共 投 資

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東 西 1,539 1,782 1,962 2,440 2,061 ノ、 第2次計画期(年平均) 1965/66 (実績) 1966/67 ( ,, ) 1967/68 (計画) 第3次計画期(年平均) (55) (56) (43) (46) (47) (45) (44) (57) (54) (53) 1,251 1,421 2,582 2‘860 2,288 計画委員会レポート(東西経済格差レポートより) るをえず,それらが野党の動きと結び、ついて政治問題化する可能性は十分あ るといわねばなるまい。 訪問外交の展開 1967年9月25日から10月4日までアユブ大統領はソ連を訪問したことにひ きつづき, 10月16日以降はフランス,ノレーマニア, トルコを歴訪している。 このアユブ訪問外交のネライの一つは, 4月に発表されたアメリカ軍事援助 再開せずとの決定により,不足する軍事力を補うため,軍事援助を要請する ことであり,それと同時に経済援助のとりつけおよび、援助条件の緩和をとり つけることにあったようである。 これまで軍需物資の殆ど80%をアメリカの軍事援助に依存してきたパキス タンにとって, 1965年9月,カシミーノレをめぐるパ・イ戦争でアメリカの軍 事援助が停止され, 4月にはその再開が不可能になったことは,非常な打撃 であったに相違ない。一方インドはそのアメリカ軍事援助への依存はパキス タン程大きくなく,英国・ソ連等からも援助を得,国内にも軍需工場をもっ -124ー 一 − X 一一

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パ キ ス タ ン ている。したがって米軍事援助が停止されたままにしておくことはインドと の軍事的アンパランスを益々拡大することになる。 「パキスタンはその防衛 を放置するわけにはいかない。したがってわれわれは国防力強化のため,他 の国に軍事援助を求めねばならないだろうムアメリカが軍事援助再開せずと 発表した際,外務省スポークスマンはこのように発言した。アユブ大統領の 訪ソ・訪仏はこうした文豚の中で促えられるであろう。しかしこの軍事援助 確得という目的は達成で、きなかったようである。ソ連・フランスとも,イン ドとの関係を犠牲にしてまで、パキスタンを援助する理由はなかった。フラン スではミラージュ戦闘機のパキスタン供与がl噂されていたが,実現はしなか ったようである。ソ連は第3次計画(1965∼70),第 4次 計 画 (1970∼75) 期間中に,拡大する規模での経済援助を約束したにとどまり,フランスも援 助条件を緩和することに同意したにすぎない。 軍事援助とりつけがうまくいかなかったことは,その結果としてインドと の関係の改善を余儀なくされる。 5月にヒ。ノレザダ外相がソ連を訪問,帰国す るや!駐パ・インド高等弁務官と会談し,政府与党の中から,カシミーノレ問題 解決よりもインドとの関係調整が第

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であるとの声が出てきたこと,

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月に両国外交官の追放事件が発生したにもかかわらず, 10月には両国通信網 回復の話合いがまとまり,インド陸軍総司令官の訪パ, 12月にはパキスタン 側がガンジス河開発問題で、会談の申し入れをするなど,パ・イ関係は改善の 方向にむかっているように思われるのである。 このようにパ・イ関係が改善の方向にむかった背後には,もちろんソ連の 積極的な働きかけもあったであろうし,アメリカの軍事援助なきあとインド と事を構えるのは不利だとの判断もあろう。それと同時にアメリカ側からも 種々の働きかけがあったと思われる。食糧不足に悩むアュブ政権に1億5000 万ドノレにのぼる多額の食糧援助を供与,経済援助についても 5月初,商品援 助で1億4000万ドルの供与を約束,その際,パキスタンに対しイン

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ごとの関 係改善を条件にしていたといわれている。パキスタン政府としても経済援助 停止の痛手が1966年経済に非常な打撃を与えた経験をふまえ,アメリカとの 関係を悪化させることはできないと判断したのであろう。 1967年のパ・米関 係は援助問題だけにとどまらず, 1965年当時とはかなり変っている。アユブ -125- 一− Xl −ー

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パ キ ス タ ン 大統領の演説「パ・米関係について,過去は終り,よい方にむかっている。 われわれの立場をアメリカは十分理解してL、るjとのべたこと, 4月,アメ リカが軍事援助を再開せずと発表したにもかかわらず,国内の反米運動を極 力おさえ新聞界に対しでも反米キャンベーンをしないよう抑制したこと,等 はアュブ政権の対米政策をよく物語っている。パ・米の人事交流も盛んでヲ ヒ。ノレザダ外相の訪米,ザファーノレ法j:日を団長とする国会議員団の訪米,そし て12月末にはベトナムからの帰路カラチ空港に立ちょったジョンソン米大統 領とアュブ大統領の突然の会談などを通じ,パ・米関係は旧に復したといえ るようである。 一方中固との関係もヨーロッパ筋はプット前外相なきあと冷却するのでは ないかとの予想、をしていたが,それはまだ表面化していない。 5月には国防 相が訪中, 9月にはパ・中文化協力協定, 9月末から 10月にかけて情報相を 中心とする代表団が国慶節参加のため訪中,カラチ・ラホーノレなどでは国慶 節を記念する行事が中国側主催でかなり大規模に行なわれ, 10月にはパ・中 陸路交易で協定,ギノレギット・新涯を結ぶ旧交易路を復活させることに同意, 同月に中国から貿易使節団が訪パラ 12月にはパキスタン側の経済使節団が訪 中,第3次計画期間中に4200万ドノレの援助約束をとりつけるなど,めざまし いものがある。 1967年後半におけるアュプ大統領のこの積極的三面外交政策は何を意味す るのであろうか,それは 1965∼66年にかけての食糧危機,経済危機を外国援 助によってようやくきりぬけ,いくつかの問題は残しながらもラ経済的に落 着きをとり戻し,政治的には野党の分裂・混乱から余裕をとり戻したアユブ 政権が,その威信を内外に示すことに役立つたかもしれない。しかし,米・ ソ・中の聞に立って,そのどの困とも友好関係を保っていこうとする現政権 の三面外交が,いつまでも可能であると考えるのはあまりに楽観的であると いえるだろう。とくに造反外交といわれる中国の最近の外交にとって,その 対パキスタン政策がどのように展開するか,大きな問題である。中国側とし てはカシミーノレ問題で、全面的にパキスタンを支持することにより,パ・イの 離反をはかつてきた。これは当面のところ,中国にとってパ・イ両国が合同 で中国に対抗する体制をとることの不利を考えた上での戦略的なものであり 一一Xll -

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-126-パ キ ス タ ン また,パキスタン国内に中国の勢力を入り込ませる足がかりをまだっくりえ ない状態にあることを示すものでもあろう。しかしその量はまだ少ないとは いえ軍事援助・経済援助および人事交流を通じての対ノfキスタン工作が進ん でいる一方,パキスタン国内でもとくに東パキスタンを中心に

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な ど労働者・農民・学生インテリ階層を中心とする反政府勢力が力を結集しつ つある。もちろんこうした勢力はまだ弱く,アユブ政権を脅かすところまで はいっていない。しかし,もし中国側がこれら勢力の後援という政策に踏み きれば,アユブ政権の三面外交はくずれざるを得まい。ベトナム戦争の深ま り,ピノレマの反乱活動の激化,そしてインド内部での政情不安,とくにナク サルパリにおける武装反乱など,アジアの動きは急激にそのテンポを早めて いる。そうした中にあって,パキスタンがいつまでも激動の波に洗われずに すむと考えることはできないであろう。 -127- 一 司 Xlll」 ー

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キ ス タ ン

旧政治家の政界復帰 1958年のアユブ政権以来, 8年の間政治活動を禁止されてきた!日政治家は 1967年1月 1日にその禁止をとかれ,新たに政界に復帰した。この人々の禁 止期が昨年末にきれたとはいえ,アユブ大統領がもしその気になれば,期間 の延長は容易にできたはずである。大統領が!日政治家を政界に復帰させたこ とは,それ相応の理由があったに違いない。その理由とは,主として西パキ スタンの

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政治家に対し,相応の厚遇を条件に与党に参加するよう工作を進 めてきたのであり,そのT.作がある程度成功したと判断したことであろう, 与党である回教連盟の幹部達が!日政治家の政治活動侮帰を歓迎するとのべて いることは,その辺の事情を物語っている。一方旧政治家の動きはどうであ ろうか口まず西パキスケンから見ると,旧政治家48人のう九与党で、ある同教 連盟に加盟を発表した人は11人,シンド地方をはじめ,かつて政権を相当し ていた主な人々の多くは与党に参守加を表明している。野党である|司教連盟評 議会派に加盟を表明したのは2人,加盟を予想されている人 1人を加えて 3 人でしかない。旧政治家の中で主なメンバーのほとんどを与党に加盟させる ことに成功したアユブ大統領は,西ノξでもっとも影響力をもっ回教連盟評議 会派をも手中に収めるべく,両者の合同を画策しているといわれている。 一方東ノミキスタンの方はどうであろうか。東パで政治活動禁止を解かれた 30人のうち,はっきりと態度を表明したのは前東パ首相を務めた人だけであ る。彼等は議会主義と1956年憲法への復帰を要求し全国民主戦線に加盟する ことを明らかにしている。その他多数の旧政治家はまだ態度を表明していな い。ここでも若干の人々は与党に参加するものと見られている。こうした旧 政治家の動きに対し,野党側は回教連盟評議会派,全国民主戦線を除き,非 常に冷淡に見ているようである。全国人民党のパシャ一三党首は「!日政治家 の活動が自由になっても,それが政情に大きく影響を与えるとも思えない。 国民は議会制度時代の政治家のみにくい争いに反対しなくてはならない」と のべている。また人民連盟指導者グーラム・ジラーニ氏が,今だに自分の態 F h u 戸 り つ 臼

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パ キ ス タ ン (1

2月〉 度を明確にしない旧政治家を批判, 「彼等は8年も前からいずれ政界に復帰 することを知っていたのに,その政治活動禁止を解かれた今になってもなお, 自分の政治的立揚を明確にするのにもっと時聞がほしいという。彼等は政治 の表面からはなれている聞に,パキスタン人民の希望が何で、あるか見つめる 時間を十分もっていたはずだ。国民はこうした政治家には十分注意しなくて はならない。彼等は権力を望んでいるだけなのだ」 (1.10)とはっきり断言 しているO 野党の中には旧政治家をめぐって二つの明らかに対立した態度の あることがはっきりしてきた。一方は旧政治家をむかえ,その勢力を増す動 きであれ回教連盟評議会派,全国民主戦線などがそうである。他方は全国 人民党,人民連盟のように批判的な態度をとる動きである。

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日,ヌー /レノレ・アミン全国民主戦線議長による野党統ーのためのセミナーがダッカで 開催され,統一野党戦線を結成する提案が出されたが,各野党代表は統一4 の 必要を訴えながらも,どのような方法で統一するかとし、う問題では怠見が一 致せず,みるべき結果を生まなかった口政府の人民連盟への弾

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五(f,項目要 求をめぐって), Jamaat党への弾圧 (1.29,家族計画反対,断食明けの日決 定をめぐる対立による),そして回教連盟評議会派,全国民主戦線などへの懐 柔などを通し,これまでのところ,アユプ大統領の野党分断政策は成功を収 めているように見えるのである。しかし,プット前外相も指摘しているよう に,そうした力による弾圧政策はいつか必ずお返しがあることを覚悟せねば なるまい。とくに以下にのべるように物価上昇,インフレの克進などがます ます顕著になり,それが農民や賃労働者,都市の役人などの生活を脅かすよ うになってきていることを考えると,生活を守る闘いがやがて民主主義制度 を要求する野党の闘いと結び、っき,反政府的動きへと発展するものと考えら れる。 2月初めの西パ鉄道労働者の全面ストは,わずか 2日間で中止された とはいえ,下部の労働者が政党指導者や一部労働組合幹部の指導に服さなく なっていることを示したのであり,今後の労働運動に大きな影響を与えるも のとみられるのである。 食糧不足と物価上昇 PL480その他の食横援助にもかかわらず,パキスタンの食糧事情はいっと 一( 2 )ー

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-266--パ キ ス タ ン (1

2月〉 うによくならず, 1月 3日にはカラチの製パン業者が原料の値上りと不足を 理由に一斉に閉店するという事態まで発生した。これまで主として大都市と 東パの都市に敷かれていた配給制度が西ノξのリアノレプール,パハワルプーノレ にも導入されるようになった。こうした食糧不足を反映して食糧の価格のみ ならず,一般諸物価も上昇をつづけている。カラチの物価を見ると, 1966年 中に小麦(パンジャブ産)で62%,米(ジョシ米)で61%と上昇,東パのミ メンシンからの調査報告によれば, 1966if.12

15LIから 1967年 1月15日まで の 1ヵ月間に米価が10%程度,野菜類も上昇をつづけているという。こうし た食糧不足に対し,野党は「この食糧不足は人為的なものであり,大地主と 製粉・製米業者の神聖同盟によって起ったものであるjとし,政府に対し全 都市に食糧配給制度を導入すること,食糧価格の引下げを要求,さらに食糧 の流通機構を固有化するよう要求している。西パキスタンで3期つづいた早 魅により,たしかに食糧の生産高が減少しているにしても,最近の米麦の価 格上昇は異常で,大地主・製粉・製米業者による人為的なつり上げという面 も大きく作用していることは疑いない。 政府はこれに対し農業生産を増加させることを開発計画の最優先とし,そ れによってその他工業開発・社会開発がおくれるのも止むなしとの判断を下 したようである。2月23日から3日間の長きに亘って聞かれた知事会議では, 第3次計画を変更し,農業生産を増大させるよう資金配分の調整を決定した とみられる。しかし,パキスタンの農業問題は品種改良とか,肥料の使用と か,濯j陵地の拡大などでは解決しえない多くの問題を含んでいる。土地所有 のあり方はもちろんのこと,農業金融の問題をとっても中・富農には有利と なっても,真に資金を必要とする貧農層は担保物件がないとか保証人がない などの理由で利益をうけられない。また濯

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械設備ひとつをとってみても,排 水ポンプ 1台を使用するのに使用料として 1エーカー当り年間;30;レピーを支 払わねばならない。こうした料金を払えるのは,決して貧農ではないのであ る。政府は第 3次計画終了の 1970/71年度までに食糧の自給を達成しようと している。しかしその実現はかなり悲観的だといわねばなるまい。 食糧問題に加え大きな問題となっているのは,通貨量の増大とインプレー シヨンの危険で、あろう。国立銀行の通貨発行高は 1965年以後急速に増大し, -267- 一( 3 )ー

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パ キ ス タ ン (1

2月〉 1965年10月に比し, 1966年9月には17.43%も増大, GN Pの伸びをはるか に上回っている。 1965年はパ・イ戦争の年であり,西ノfの早魅による農産物 の減少,アメリカ援助停止による資金不足,戦争支出の増大,若干の開発プ ロジェクトの中止など,生産を低下させる諸要素があったことを考えれば, この通貨発行員;のよ自加は正常なものとはし、えなし、であろう。 2月に入って特 に東パキスタンを

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心にパキスタン・ノレピーの、

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付面切

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ごげの|噂がささやか れ, 19日にはウカイリ蔵相が,初日には凶立銀行総裁がこうした噌を否定し なければならなか−_)たということは,こうした通貨発行量の異常な増加,し たがってインプレーションの危険というものを背景にしているのである。 1967年はこうした経済的諸困難に加え,外国援助,とくにアメリカのプロジ ェクト援助の見通しが次第にくらくなってきていることがあげられる。アー マッド計画委副議長の訪米にもかかわらず,アメリカはこの問題に対して態 度を明確に出していない。これはアメリカがパキスタンの外交政策に寸必分な 信頼を置し、ていないということを示すものであり,ベトナム問題を討議する ため

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月に聞かれる予定の

SEATO

会議でも,微妙な立場に立たされるもの と思われる。アメリカのプロジェクト援助がなければそれはカラチ製鋼所の ような基幹産業の発展がおくれることであり,その結果経済活動全体が停滞 して失業者が増加する。それは前述の物価司上昇,食糧不足,インフレなどと 共に一般の人々の生活を圧迫し,ここに野党の活動基盤が準備されることに もなりかねまい。 番多旧政治家の活動 1958

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の政治活動禁止令で活動の自由を奪われていた旧政治家78人のうち故人とな った7人を除く71人は, l月1日から政治活動禁止を解かれた。このうち若干の人々 は与党である回教連盟への加入を表明, 若干の人々は野党(西の場合は同教連盟評議 会派,束の場合は全国人民戦線)に加入, 残りの大多数はまだ態度を明雄に表明して いない(与党に参加を表明した人は2月末までに11人, 回教連盟評議会派に参加した 人は3人,全国民主戦線に参加した人は2人〉。 こうした旧政治家の政界復帰について, Dawn紙, PakitsanObserver紙とも次の 一( 4 )ー -268ー

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パ キ ス タ ン (1

2月〉 ような論評を掲載している。その要旨は以下の通り。 ① Dawn紙 旧政治家が政治活動を禁止されていた8年間に,パキスタンは 大きな変換をみた。彼等はこの変化した現状を公平に評価し理解すべきである。自 分たちが参加せず,承認もしていなし、政策に反発し,我流を貫こうとする危険を防 がねばならない。 11,J政治家が私利私慾にとらえられることなく,どの政党に参加し たにせよ凶の直i面する諸問題を一般国民の利益となるように解決寸−るん−法を見つけ

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して欲しし、。( 1リ67.1.6) ( め Paki、−・tan

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bserver紙政治活動禁止をとかれたIH政治家に対 L多数の人々 はある種の期待をもっている。しかしそれは正しくない。 立物といわれる人々も地元を除いては人気ある人物ではないL,大衆運動を結成し 指導する力量をもった人はいない。旧政治家の中には与党に接近し,それ相応の厚 遇を条件に与党に参加する人もし、る。担l教連盟の幹部がI[::!政治家の政治活動復活を 歓迎するとの声明を発したことは驚くに足りない。アユブ大統領も彼の示した条件 を承認すれば旧政治家を入党させ,それ相応の待遇をする意向であるといわれてい る。 野党の中でも与党に近い回教連盟評議会派は,与党と合流しようと絶えず努めて いる。したがって野党が旧政治家を入れて大同団結をするならば,彼等は政界で交 渉能力を発揮できょうが,これは実現困難であろう。というのは野党連合は,前同 の大統領選挙で多くの有利な条件があったにもかかわらず敗退したことからも明ら かなように,非常にむずかしいのである。しかも現在,以下にのべる有利な条件と いうのは,少しも存在していないのだ(①現在の政状下では最大限可能な規模で総 選挙をすることに成功したこと,③国民の与党に対する不平不満,③ジンナ一女史 を統一J候補にしたこと,④当時の外交政策を転換させるため,与党の勢力を弱める よう特定の外国勢力が動いていたこと,⑤選挙運動が長い期間に亘って可能であっ fここと)u 多野党統一のためのセミナー開催 国会野党指導者で NDFの議長でもあるヌールル・アミンの呼かけにより,野党統 一のためのセミナーがダッカで開催:された。このセミナーにはMLC, N DF, AL, N

AP, Nizam,

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amaatの 6大野党代表,元東ノf首相アタウル・ラーマン・カーン,アジ

Jレ・ラーマン国会野党副指導者(AL)などが参加,野党を統一して統一野党戦線

(United Opposition Front)を結成する問題について意見を交換した。各政党の主張要

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パ キ ス タ ン (1

2月) 旨は以下の通りである。 ヌールノレ・アミン(議長, NDF〕一一一現在ほど野党の統一の必要を迫られている ときはない。野党は最少限の要求,すなわち普通選挙の要求のもとに,あらゆる意 見の相違をすて大きな利益のため統一すべきである。私はこれまでも統ーのため各 野党の指導者と会談を重ねてきた。この中でもっとも問題なのはALである。今日 のセミナーにもAしの正式代表は山席してし、ないυ というのはALの主な指導者は ほとんど逮捕されてしま,Jたからなのだ。 アタウノレ・ラーマン・力一ン(元東パ首相)一一野党相互間の理解の不足によっ て現政府が8年以上もこの凶を理不尽に支配するのを許したのだ。政府は野党の意 見の相違を利用し,野党の対立をはかるようしむけーてきた。今こそ野党が統一して 抑正者である現政府に反対し,失われていた人民の権利をとりもどす時である。 アジズーノレ・ラーマン(同会野党副指導者, AL)一一野党統一の諸問題について 各野党指導者による非公式な会談をもっ必要がある。統一なしにはよい結果は生ま れまい。 アブドノレ・フク(NAP)--NAPは社会主義の樹立という立場から現政府に反 対するいかなる統一運動にも参加する用意がある。しかしこの統一運動は基本的に 反帝国主義のものでなくてはならないと考える。内政に対し外国勢力が関与するこ とは決して見過してはならない問題だ。外国勢力の関与が民衆の運動に非常な障害 となっており,もしそうした関与がさけられないならば,国民の闘いは失敗に終る だろう。

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.イスラム(MLC)−野党の統ーにあらゆる可能な限りの援助をおしまない だろう。 ゴーラム・アザム (Jamaat党〉一一統ーというものは各野党の考え方が一致しな ければならないだろう。統ーには賛成だ。 ファリッド・アーメッド(Nizam党)一一政府はその権力を喜んで人民の手に移 すようなことは決してなU、。人民は現体制と闘ってそれをとりもどさなくてはなら ない。そのためには統一aこそ急務だυ 番多プット前外相,情報相と論戦 プット前外相はシャハプッディン中央情報相が2月15日,ダッカのプレスクラブで “パキスタン・ソ連の関係”と題して行なった演説を批判, 2月23日, ラホーノレの Inter-Collegiate Students Bodyの集会で演説,中央情報相に対し公開討論を行なうよ 一( 6 ) -

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-270-パ キ ス タ ン (1

2月〉 う要求した。両者の主張要旨は以下の通りである。 ① シヤハブッデイン中央情報相一一プット前外相はタシケント会談に参加後ノξ キスタンに帰ってから同宣言に否定的態度をとり,あたかもこの会談に参加してい なし、かのようなことをいっている。しかし同氏は会談のメンパーだっただけでな く,この立言を現状勢のもとではベストのものだと言っていたし,大統領に対して も“宣言は偉大な成果だ”とのべている。もしプット氏が自分の忠告が入れられな いことを理由に,またタシケント宣言に同意できなU、ことを理由に,辞任したのな ら何故6月まで外相の職にとどまっていたのか不思議だ。プット氏のねらっている ことは九4般の人々に混乱を惹起し,ひいてはパ・ソ連関係を冷たくすることに外な らない。 ③ プット前外相一一司情報相ののべたことは一一部分真実であるか,または全く虚 偽である。同情報相の批判に対するため,同相とタシケント宣言に関するあらゆる 諸問題について公開論争をするよう提案する。このためには以下の10の論点につい て論争するよう提案する。 1. ソ連が私に行なったタシケント会談への出席要請を私自身が如何に評価し 解釈したか。 2. タシケント会談で私のはたした役割。ジャム・カシミーノレに対し不戦宣言 を為すことを強要したインドの魂胆を含めて,その他の重大な論争点につき私の 発表した意見。私が会議の立役者であったか否かの問題点。 3. パキスタン代表団とインド代表団との聞に行なわれた最初で最後のタシケ ント閣僚会議で,私がインド代表団と行なった討議の内容。 4. タシケント宣言原案を手交された場合に私が同案につきソ連外相に語った 批評。 5. タシケント宣言原案をインド代表団にもどすようパキスタン高等弁務官に 要請した場合,私が同弁務官に宛てて発した訓令。 6. 顧問団を列席させずに両国首席代表の問で行なわれた会談の回数。 7. これもの会談で行なわれた意見交換の記録。 8. パキスタン,ソ連両間代表団の聞で行なわれた重要会談の討議事項。 9. 政府と見解を異にする一部代表はタシケント会議後にその旨の公式声明を 発すべきであったとの情報相の主張が確乎たる根拠ある主張か杏かとの点。 10. 私が外相の職を辞した理由。タシケント会談終了後に内閣を去ることが当 然であったか杏かの問題点と私の辞職によって利益を得た者が誰かとの問題点。 -271ー 一( 7 )ー

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パ キ ス タ ン C1

2月〉 これらの問題点については私は私の出処進退の主なる事由がパキスタンの利益の ためにほかならなかったことを参考までに申L添える。タシケント宣言に関する 公開計論では私はジヤハブッディン情報相だけに限らずどの閣僚とも対決するこ とを望んでいる。だが私としては少しも後楯を必要とせず孤立無援で充分満足し ている。要は国民の厳正な審理と公平な批判とを乞うにある。 多選挙監理委員会, 1964/65年選挙レポートを発表 パキスタン政府は 1964年末か F》1965司.fj月までに行なわれた基本的民主主義者選 挙,大統領選挙,国会議員選挙,地方議会議員選挙に〆功、ての選挙監理委員会の報告 を発表した。その主な内容は以下の通り。 ①投票の秘密が破られたケースは・つもなかった。 ② 1枚の投票用紙も投票所から盗まれていなし、。したがって不正な書替えはな かった。 ③投票用紙をもって投票所に来た投票者が名前の照合ではねられたことはなか っf乙。 ④不正な,あるいは異なった投票用紙が投票箱から出てきたこともなかった。 ⑤投票用紙が選挙の監督官から配られたことはない。 ⑥選挙結果のコピーが発表され次第,ただちに投票所に発表されなかったとこ ろはどこにもない。 この選挙監理委員会報告を発表するに当り法相は“委員会の勧告により若干の法律 を改正する必要がある。それは,①選挙人団法, ③大統領選挙法,③議員選挙法,な どである”とのベたO 移インフレーションの危険性 パキスタンにおいて再びルピー貨の切下げの哨がさ与やかれるようになってきてU、 る。というのも食糧危機,経済活動の沈滞などから物価\上昇が激しく, インフレーシ ヨンの危険があるからである。 PakistanObserver紙はこの問題につき,し、くつかの 重要な論文を発表しているが, それらの中から要点をまとめると次のようになる。 ① 1965/66年度の通貨供給量は流通貨幣量および銀行預金量とも非常に増大し た。 1965年 9月の戦争,米援助資金の停止,戦争支出の増大,多くの開発計画の中 止などを考えれば,この通貨膨脹は生産の増大によって起ったのではなく,生産が 縮少したにもかかわらず起ったものと言わねばならず,その結果純粋なインフレ効 一( 8 )ー

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-272-パ キ ス タ ン (1・2月〉 果をもたらし,消費財価格が急騰したのである。 ③ 1966年 6月30日現在国立銀行の発行した通貨は, 59億 9000万ノレピーであっ たりこの内銀行部所有額は 1億3520万lレピーである。一方発券部が所有する資産額 は金貨・金塊・外貨で; 13億5000万ノレピー,政府債券・国内社債などで44億5000万/レ ピーとなっている。換言すれば国立銀行は通貨をより多く発行するため金・外貨以 外の資産の割合を高めているのである。金・外貨の発行された銀行券に対する割合 は1966年 6月には24%であったが, 12月には 19%になっている。 ③ インフレを反映しての物価上昇は 196S/66年度に入って急昇 L,特に食糧・ 原料などにおいて著しいの東ノミは西パに比べ物価上昇が激しい。東は全人口の55% を占め, 1人当り所得では東ノミのそれより 60%も低い。食事も主として米で,魚類 の摂取量は少なく,小規模工業が主で,そこに全労働者の%が働らいている。 ④ 物価上昇は賃金労働者,中産階級,農民にとって大きな打撃である。賃金と 物価のギャッフ。がつづけば,深刻な社会的・経済的・政治的連鎖反応を起すように なろう。我々はこの物価上昇を政府の経済政策の副産物であり,そこから派生した ものだと考えている。その原因の一つに輸出ポ}ナス制がある。これは消費者,小 規模輸入業者,小投資家の犠牲のもとに大企業が利益を得ているのであり,これが 物価上昇,とくに輸入品価格を引上げている。その他関税制度,船舶輸送のボトル・ ネック,食糧政策などに問題がある。 (PakistanObsever, 1967.1. 4, 7, 17より〉 多1965/66年度国際収支 政府は 1965/66年度国際収支を発表した。要旨は次の通り。 ① 1965/66年度の国際収支は7240万ルピーの黒字となった。 1964/65年度の6360 万ルピーの赤字に比べ,大幅な改善である。その内訳は商品およびサービスの赤字 23億0520万ノレピー,振替勘定( 10億 5810万ルピー)と資本収支( 13億 1950万ノレピ ー)の黒寸てお億t7760万/レピー,差額7240万ルピーの黒字となっているの @ 金・ド/レ・スターリング保有高はこの年度中に3億1160;レピー増加,はじめ の 9億5170万ルピーか九, 1966年 6月末には 12億6330-万ノレピーになった(ただしこ の中には 1965年 7月 IMFのスタンドパイ・クレジット引出分 3750万ドノレ,約 1億 7860万ノレピーを含んでいる)。 ⑨ 四半期毎の動きをみると, 1965年 7Jj∼9月までの第 1四半期は l億8070万 Jレピーの赤字,次いで 10月∼ 12月は4090万ルピーの赤字。しかし1966年 1月∼ 3月 の第 3四半期には 2億7890万ノレピーの黒字となり,同 4月∼ 6月には 1510万ノレピー -273ー 一( 9 )ー

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2月〉 の黒字となっている。 ④ この期間中,貿易収支は16億7890万ソレピーの赤字で,前年度22億5540万ノレピ ーの赤字に比し,改善されている。この理由は輸出拡大(2億8320万ノレピー増〉と 輸入の減少(2億9330万ノレピー減〉による。総輸入額43億6570万ノレピーのうち,外 国援助による分は10億5070万ノレピー(前年度11億7440万ノレピー〉,贈与・PL480・ ノレピー返済援助は4億5911]jγレヒo一(前年度7億9600)iルビー〉となってし、るり輸 入が減少したのは,外国援助が少なかったことによる。また外国投資は:l090万/レピ ー。インダス河流域開発資金による輸入の4億4840万ノレピーを除けば成りの23億 6610万ノレピーはパキスグンの外貨による輸入分である。 ③地域的にみると,イギリス(−2億2380)jルビー), アメリカ(十6080万ノレ ピー〉,極東C+ 2億4360万/レピー〕,日本(−2億4260万ルピー),インド C+6490 万ノレピ−), 中近東(十1億6940万ノレヒo一),東欧(十4510万ノレピ−), 西欧(−1 億5700万ノレピー〉。 4争力ラチの物価事情 (Dawn紙 1967. 1. 9) 品 名 1966. 1. 1 1966. 12. 31 増(加%率) <穀 類> (シーア単位) (ノレピー) (ノレピー) 麦(パンジャブ〉 0.50 0.81 62

(シンド〉 0.48 0.80 66 小 麦 粉 ( 輸 入 〉 0.42 0.47 12

〈国産) 0.54 0.84 56 麦〈加工乳〉 0.68 1.52 124 米 (Sugdasi) 0.87 1.22 40 II (Kangni) 0. M. 0.59 0.97 64 II (Joshi) 0. M. 0.59 0.97 64 <豆 類> (split) (シーア単位) Mash (飼料) 1.24 1.50 21 ひ よ こ 立 0.52 0.69 33 <魚 肉> (シーア当り〉 卵 (ダース当り〉 山 羊 肉 4.15 4.25 2 牛 肉(雌牛〉 1.58 1.70 8 魚 肉(Rahu) 2.42 2.50 3 一( 10)ー -274ー

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パキスタン( 1・2月) 魚 肉(小えび〉 2.00 3.75 87 鶏 卵 3.19 3.20 0.3 <里子 菜> (シーア当り〉 じゃがいも 0.51 0.55 8 玉 ね ぎ 0.46 0.48 4 ト マ ト 1.48 0.76 -50 く 食 用 油 > 〈シ}ア当り) か ら し 油 3.00 4.50 50 綿 実 油 2.90 3.98 37 ご ま 油 3.25 4.50 38 ヤ シ 油 ( 輸 入 〉 4.60 4.65 10 < 乳 製 品 > (シーア当り)

4

-

:

.

L 0.90 1.00 10 水 牛 乳 1.00 1.00

凝 手L(curd) 1.50 1.67 11 バ タ ー 油 (ghee) 6.90 8.40 22 <塩,調味料> (シーア当り〉 海 水 塩 0.19 0.19

疋μ三, 0.25 0.31 24 乾とうがらし(小〉 2.00 4.51 125 とうがらし粉 2.80 4.70 68 ジンジャー 2.65 2.20 -17 <糖 類> (シーア当り) 精 製 糖 ( C. R) 1.50

"

(0. M〕 1.76 1.37 -12 甘 薦 糖 1.23 1.00 -19 インドグルー(黒糖〉 0.70 0.54 -13 < 茶 > (2オンス当り〉 リプトン(白ラベル〉 0.60 0.77 28 プルック・ボンド(3Roses) 0.60 0.77 28 <燃 料> (モーンド当り〉 薪 (アラビアゴムの木〉 4.00 4.50 12 -275- 一( 11 )ー

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2月〉 炭 (混合物〕 < 上 質 綿 布 > 〈ヤード当り) さらし−15,000(コロニー〉 グ ーコック(ダウッド〉 グレイ(コヒヌーア)

w

.

36’' II (コヒヌーア)

w

.

54” 9.25 1.75 1.62 1.16 1.62 12.20 争ミメンシンの物価事情 (PakistanObserver 1967. 1. 30) 1967. 1. 15 50∼60(ルピー) 米(a)精米( i ) atap ( 1モーンド)

" (ii)パーボイルド グ(b) Medium 11 ( c) Coarse か ら し 油 豆(a)Masur 11 ( b) Moogh グ(c) Khesari " ( d) Kalai とうがらし 玉 ね ぎ に ん に く し ょ う が 黒こしょう Jeera Dhania (1シーア) 野菜(a)なす グ (b)じゃがいも グ (c)立 グ (d)えんどう立 グ (e)トマト グ

C

f

)カリフラワー グ (g) キャベツ C1個) 一( 12)一 42∼43 39∼41 38 5.50 1.25 1. 75 0.75 1.25 4∼5 1 2.50 1 1 7 1 0.75 0.75 0.87∼1 1 0.25∼0.75 l量2 -276-1.95 1.86 1.30 1.80 32 1 5 2 1 1i11 噌i 句 i 1966. 12. 15 55∼65(ノレピー) 43∼44 39∼41 38 5.50 1.25 1.75 0.75 1.25 5∼6 2 1.25 3 1.25 1 7 1 1 1 1∼1.25 1.50 1.50 0.37∼1

参照

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