はじめに 内モンゴルの詩人 Na.サインチョグト(1914~1973)についての中国国内における研究は,2003年 4月までに発表された論文,論説等だけでも 144,執筆者の数は 100人に達している。その後も 2014年 5月の生誕 100周年に向けて研究は増え続け,Na.サインチョグトを記念するさまざまなイ ベントが各地で行われている。1979年 5月 12日に開かれた「Na.サインチョグト逝去 6周年を記念 する芸術大会」から 2003年 8月に Na.サインチョグト石像がシリーンホト市の公園に設立されるま でのイベントの数は 18回に達した。例えば,1999年 8月 5日に詩人の故郷ショローンフフ(正藍) 旗で行われた「Na.サインチョグト生誕 85周年を記念する懇談会」では 13人がスピーチをしている。 一方,1979年 5月に「逝去 6周年」記念行事が行われたが,これは「文革」(1966~1976)の影響 で「逝去 5年」の記念ができず,その終結後かろうじて Na.サインチョグトに対する評価が始まっ たことを意味するものである。実際,Na.サインチョグトの作品に対する論評は,1964年 2月を皮 切りに「文革」を経て 14年後の 1978年 3月に復活した。現代モンゴル文学研究者の U.ショガルが 執筆した「新しい生活の讃美者である優れた年配の詩人」と題する論文が「文革」以降に Na.サイ ンチョグトとその作品を評価した最初の論文であった。 内モンゴルにおける Na.サインチョグトの「文革」以降の一般的な位置づけは,「内モンゴルの著 名な作家,人民の詩人,優れた翻訳者,内モンゴル現代文学の創基者」とされ,内モンゴルにおける Na.サインチョグトの研究や評論も概ねこの枠内で行われた。特に「文革」後彼の名誉回復を目指し た際に「新しい生活の讃美者」とする評価がなされており,そこから,この無難な表現が慎重に用い られたことが窺える。 「新しい生活」とは,1945年 8月の日本の敗戦以降のことを指し,Na.サインチョグトがモンゴル 人民共和国に滞在していた時期(1945~1947)を含む「社会主義時代」を指すものであろうが,より 厳密に現代中国の政治意識から考えれば,中国共産党が指導する「新中国」時代を指す。そのため, これまでの Na.サインチョグトについての研究も「新しい生活の讃美者」への賛美にとどまること が多く,Na.サインチョグトが日本とモンゴル人民共和国で書いた作品の精神とそこでの活動にかか わる問題についての評価はそれなりに政治的タブーを伴うものである。彼の名前はもともとサイチン ガーであった。1947年 11月にウランバートルから内モンゴルもどる直前に Na.サインチョグトと改 名する。そのため,本稿で彼の日本とモンゴル人民共和国でのことについて述べる際は「サイチンガ ー」を使い,現代中国の視点から彼について論じる場合においては「Na.サインチョグト」を使う。 彼が名前を変えたことにはそれなりの政治的背景があった。 本稿ではまず,内モンゴルを代表する詩人 Na.サインチョグトが「サイチンガー」であった時代 学苑 総合教育センター国際学科特集 No.895 53~65(20155)
内モンゴルの詩人 Na.サインチョグトの
政治的タブー
日本とモンゴル人民共和国での活動をめぐって
フフバートル
に日本と旧モンゴル人民共和国で書いた文学作品や活動について述べる。その事実関係自体について は特に大きい発見があったわけではないが,内モンゴルの近現代史における作家としてのサイチンガ ーがどういう存在であったのかについて政治の視点から考える。また,逆に,サイチンガーを通して 近現代における内モンゴルの歴史を見る。それにより,サイチンガーの精神の原点について考え, Na.サインチョグトに対する評価の複雑さや難しさから現代中国における Na.サインチョグトの政 治的タブーにアプローチする。 一、「戦前」のサイチンガーとその精神 サイチンガーは,1914年に内モンゴル中部チャハルのショローンフフ旗に生まれ,1937年に日本 との協力関係で知られる徳(デムチュグドンロブ)王の蒙古連合自治政府から日本に留学生として送ら れ,1942年に東洋大学教育学科を卒業した。その後 1945年の終戦まで張家口にあった上記蒙古連合 自治政府延長線上の蒙疆政府(俗称:徳王政府)の主席府秘書処と,徳王自らが故郷スニド右旗で創立 した家政実践女子学校に教員として勤めた。 サイチンガーは留学生として東京に身をおきながらモンゴル語による執筆に励み,東京で出されて いた「留日蒙古同郷会」のモンゴル語雑誌 Sin-emong・ul(新しいモンゴル)はいうまでもなく,満 洲国のモンゴル語の定期刊行物にも精力的に投稿した。例えば,「蒙文学会」が開魯で刊行していた Ula・anbars(『丙寅』)誌の第 5期 10号,第 6期 4号,7号,9号,12号(1939年 10月から 40年 12月) にそれぞれ, Mong・ulala・usbidan-u uqamsiral(われわれモンゴル青年の目覚め), Olan-dur sana・ulqu silug(みんなに聞かせたい詩),Kumun kemegci-yin udq-a(人間というものの意義), Mong・ulorun-udorbenularil-unuemi(モンゴルの四季の風景),Mong・ulala・usbidan-uqubi aya・-a(われわれモンゴル青年の運命)などの詩やエッセイを会員として掲載している。20歳代の若
さで,かつ留学生の身にしては極めて多くの作品を書き著し,東京で,あるいは帰国直後に編集して 刊行した。1944年 10月の時点で蒙疆政府の主席府印刷所(terigunnoyan-uordun-udarumal-un・aar) から出版された 31種のモンゴル語出版物に彼の次の 5の作品が含まれていた1。その中で②の Sedkil-unqani(心の友)は詩集で,その他はエッセイ風に書かれた作品であった。
① Elesumangqan-uekenutu・(砂漠のふるさと,1941年 11月)(写真①参照) ② Sedkil-unqani(心の友,1942年 7月)(写真②参照)
③ Jiruken-ugerel(心の光,1942年 8月)
④ Ayil-iyanogedelegulkubicig(家庭を向上させる書,1942年 10月)
⑤ Man-umong・ul-unmanduquda・un(わがモンゴルの振興の声,1944年 4月)
そのほか,1945年には教員向けに書かれた冊子 Kumuigulku ar・-a(教育法)がガリ版印刷され ている。また,Uru・silaqu bidan-u u・ur-un da・un(邁進するわれわれの臼の音)と題する詩集刊行 の真偽についての議論がある2。 サイチンガーはこれらの作品の中でモンゴル人がおかれていた状況をあるがままに描き,モンゴル 人が現状から目覚めることを強く唱えてきた。彼は自ら理念をもって教育に従事していたこともあり, 内モンゴルでは「啓蒙家」,「教育家」としても評価されている。実際,外モンゴルやモンゴル人民共 和国を含むモンゴル民族の近代史において,サイチンガーほど民族の振興をストレートに訴えること ができた作家はほかにいなかったであろう。それを可能にした政治的環境として,日本の「興蒙」政
策やモンゴルの文化的自立を支援する政策があったと考えられるが,サイチンガーのその精神力はい ったいどこから湧き出たものであろう。 「国のため」という意識の強い時代の日本に留学していた彼には「国」というほどのものはなかっ た。いわゆる「蒙疆政府」の支配地が彼の帰国先で,そこにはサイチンガーの心のよりどころの「砂 漠のふるさと」があった。そのふるさとには満洲,中国,日本といった他民族支配により蹂躙されて きた長い歴史をもつ「モンゴル」という,牛や馬に囲まれて生きる人々がいた。しかし同時に「モン ゴル」には世界を震撼させた雄大な歴史があることをサイチンガーはよく知っていた。このような現 実と歴史との藤の中でサイチンガーの精神は培われたのである。いろいろな意味においてそのよう な現実に質的な変化が生じなければ,サイチンガーの精神は生き続けるものだろう。 Na.サインチョグトの現代中国での評価に関しては,サイチンガーのこのような「ふるさと愛」を 中国人としての「祖国愛」に強引に結びつけようとする論評も見られた。しかし,サイチンガーは徳 王政府から送られた若者で,その後も徳王の身近にいたエリートだったため,彼がそれなりに徳王か 写真① Elesumangqan-uekenutu・(砂漠のふるさと)の表紙(左)と「まえがき」の終わりの部分(右)。 写真② Sedkil-unqani(心の友)の表紙(左)と作品の一部分。日本の言語学者服部四郎への献本。 (写真①と②はいずれも島根県立大学メディアセンター「服部四郎ウラルアルタイ文庫」所蔵)
ら思想的影響を受け,徳王に忠誠を尽くしていたことはいうまでもない。例えば,サイチンガーは 自ら教えていた生徒たちが徳王に褒められることを誇りに思い,「君らの成績がよければ主席官 (terguulegch zahiragch,徳王を指す)はご機嫌がよくおなりになるのであり,われわれモンゴルのこ とも順調に進むのだよ」と,教育の現場で徳王の存在を強く意識していた3。それに,サイチンガー の詩 Dorben situlge(四つの信仰)は次の四行で始まっていたが,後に Situlgeと改題され「全集」 (Sayinco・tuNa.okiyaba,1999)に収録された際にこの四行は削除されている4。
Ondurta・alaltaiolumiasaraltai (深い恩恵を授かった) Obedegsiterigulegci-degen (偉大なる主席のために) Unensidur・u-barbisirenidkuegey-e(忠誠心を以って尽力せよ) Oruceurgulitutu・ur・atanmini (心が通じ合う同胞たちよ)
いうまでもなく,徳王の「愛国心」や民族愛を中国が強調する「祖国愛」と同等にみることはでき ない。それならばサイチンガーの場合も同様ではないだろうか。もし徳王の「愛国心」が中国が強調 する「祖国愛」と本質的に変わらないものであったなら,彼は「終戦」から現在に至っても中国で批 判の対象になり続けることはなかっただろう。だからこそ,サイチンガーは,「新中国」で生きてい くために「サイチンガー」と別れ,「Na.サインチョグト」と名前を変えたことの意義を強調しなけ ればならなかったのであろう(後述)。そればかりか,「Na.サインチョグト」と名前を変えた後のサ イチンガーは 1957年に,内モンゴルの「民族右派」の「民族愛」を批判した文章の中で徳王の「民 族愛」について具体的な例を挙げながら痛烈に批判している5。Na.サインチョグトのこのような作 品についてはその後の内モンゴルにおける「Na.サインチョグト研究」では「当時の政治運動の影響 によるものである」として論評を避けている6。 しかし,サイチンガーが「サイチンガー」と別れを告げて,「Na.サインチョグト」になってから 約 70年が経過した現在も,サイチンガーの精神は一種の政治的タブーでありながら内モンゴルのモ ンゴル人たちに引き継がれている。 二、政治イデオロギーから見たサイチンガーの作品と D.ナツァグドルジの作品 1945年 8月 11日,日本に宣戦したソ連モンゴル軍が内モンゴルへ進軍し,ドロンノールにチャ ハル盟各旗の役人を集めて会議をした。そこでサイチンガーはチャハル副盟長に任命されたが,1945 年 9月末,モンゴル軍が内モンゴルから引き揚げた際,モンゴル人民共和国で学びたいという彼の申 請が承認され,モンゴル人民共和国副首相ルハムジャブの飛行機に便乗して,ウランバートルに赴い た。その時,彼は副首相の秘書に「あなたは作家ですよね。あなたの作品をわれわれはよく読んでい た」と声をかけられた7。1940年代まで同じモンゴル文字を使っていた両側のモンゴル人同士が終戦 直後から相互の出版物を利用しはじめたことは容易に考えられるが,モンゴル人民共和国のモンゴル 人たちがいつから,どのようにサイチンガーの作品を読んでいたかはさだかではない8。 一方,モンゴル人民共和国側の文学作品の出版状況はどうだったであろう。モンゴル人民共和国の 近代文学の創始者として知られている D.ナツァグドルジの作品集が Ts.ダムディンスレンの編集に よって初めて出版されるのは 1945年である。その前の年に Ts.ダムディンスレン自身の作品集が出 版されている。次いで,T.ツェヴェグミド,Ts.ツェデンジャブ,Ts.オラムバヤル,Ch.ルハムス
レン,Ch.オイドブ,D.センゲーなどの作品集や作品が出版された9。 サイチンガーの作品を D.ナツァグドルジに代表されるモンゴル人民共和国側の文学作品と単純に 比べることはできない。しかし,出版年代と出版物の分量にはそれなりの差が認められるだろう。両 者の最大の違いはなんといっても,モンゴル人民共和国の文学には社会主義という政治イデオロギー とスターリン主義の背景があったのに対し,サイチンガーの作品の特徴はモンゴル民族の苦難と振興 についてそれなりに自由に語られたところにあるだろう。実際,モンゴル国の作家,上記 Ts.ツェデ ンジャブはサイチンガーのエッセイ『エレスマンフニーエフノタグ』について,「われわれの [わが国の=引用者]詩に比べて実に個性的な喜怒哀楽を自由に表現できた芸術性の高いすばらしい作 品だった」と表現している10。 これについては具体的に,D.ナツァグドルジの代表的な詩「ミニーノタグ」(わがふるさと)と, ある意味ではサイチンガーの代表的な作品の一つと言える上述のエッセイ『エレスマンフニーエ フノタグ』(砂漠のふるさと)の二つの「ノタグ」(故郷ふるさと)を比較してみることができるだ ろう。筆者はその違いを ideologyと nostalgiaの視点から論じることを試みている。すなわち,前 者のノタグには「祖国の賛美」(祖国愛)という政治イデオロギー色が強く,後者のノタグは素朴な 「郷愁」(ふるさと愛)をリアルに描いたもので,モンゴル人が本来もつノタグの観念に近く,より本 源的で,より自然であると考える11。 実際,D.ナツァグドルジの「ミニーノタグ」は,1954年に中国で「我的祖国」(わが祖国)と訳 されている通り,モンゴル人の伝統的なノタグの観念とは異なる「社会主義祖国」への讃歌であった。 つまり,D.ナツァグドルジの作品の中の「ノタグ」の地理的範囲は旧モンゴル人民共和国の領土に 限るもので,同じ「モンゴル人」としてのアイデンティティをもつサイチンガーのノタグを含むもの ではなかった。逆に,サイチンガーが語る「ノタグ」は,狭義的に自らの生まれ故郷としての特定の, あるいは一定の自然環境をイメージするものであるが,広義的にはモンゴル高原全体をカバーし,近 代国民国家の領土や国境線にこだわらない概念であった。 この議論は単純に D.ナツァグドルジの一作品に触れることで現代モンゴル文学における D.ナツ ァグドルジの権威とその文学性を云々しサイチンガーと比較することを目的とするものではない。モ ンゴル人民共和国に留学したサイチンガーもその後 D.ナツァグドルジの作品をはじめとする現代モ ンゴル文学,または現代モンゴル革命文学に学んだことは周知の事実であり,実際,サイチンガーが モンゴル人民共和国に留学した時期は,新しい文学の出版が始まったモンゴル(革命)文学の最盛期 であった12。そのような時代とは対照的に,それ以前のサイチンガーの作品は,政治的には当時の社 会のあらゆる邪悪なものに蹂躙されつつあったふるさとの姿を,海外に留学した若者の鋭い目に映じ た通りにつづるものであった。その点について,また,サイチンガーの作品全体の傾向について,上 記 Ts.ツェデンジャブは次のように述べている13。 サイチンガーの以前の詩,とくに,東京にいた時に書いた詩は,政治的(賛美)詩から解放された(Ulus toru-yinuyan・-a-acacilugetei),自らのふるさとモンゴル(ekenutu・)の大地(・aarsirui)を尊んで謳った, 自然の美しさを描き出した,主として民族の誇りを示すような詩であったように思われる。それでも彼はわ が国の詩人たちの政治や人民を賛美した詩を高く評価していた。
一方,同じくモンゴル人民共和国留学当時のサイチンガーの友人であった作家の B.バーストは, 1957年にモンゴル作家局(Mongolynzokhiolchdynkhoroo)がウランバートルで出版したサイチンガ ーの詩集 Manaikhuchirkheg duun(われわれの強壮な声)について語るにあたり,サイチンガーが モンゴル人民共和国で書いた詩について,「よい面と悪い面の両方があった。ある詩[複数=引用者] はあまりにも平凡だった」と評し,「そのようなあまり評価できない詩を書いたことには,当時のわ が国の状況やわれわれが消極的で体制的であいまいな詩を書いていた方法が影響を与えたのかもしれ ない」と述べている。また,本詩集に収録されたサイチンガーの帰国後の詩についても,「Khokh torgonterleg(青いシルクのテルレグ モンゴル服)など数少ない詩以外は,政治化した,陳述形式 の,誉め称えるような詩だったように思われる」と回想している14。 三、ウランバートルにいたサイチンガーと内モンゴル出身者たちの遭遇 ソ連モンゴル軍の内モンゴル進出後,内モンゴル人民共和国臨時政府を樹立させたシリーンゴル 盟スニド右旗にいたサイチンガーは,その政治的活動を継続させ,ウランバートルに到着後,「サイ チンガーの私見」と題する要望書を 1945年にモンゴル人民共和国側に提出した。その中でサイチン ガーは,ソ連は「モンゴル人民共和国を助け,各地域のモンゴル民族を統一できる真の救い主である」 と述べ,民族統一を実現するため尽力したいと表明していた15。実際,「私見」でサイチンガーは 日本の内モンゴル統治を批判し,モンゴル人民共和国についての認識を示し,モンゴル人民共和国に 赴く意思を表明していた16。しかしその後まもなく内モンゴルは,内外モンゴルの政治的統一の希望 を委ねていたモンゴル人民共和国にその願いを拒否された。1945年 9月,モンゴル軍の進出に伴い, 内モンゴルに来ていたモンゴル人民共和国副首相のルハムジャブはスニド右旗でシリーンゴルの盟長 松(ソゥンジンワンチグ)王などに対して次のように話した17。 われわれは現在の境界線と領土のままであることを条件に中国に独立を承認されたばかりだ。内モンゴル の問題には干渉できない。あなたたちのことはあなたたちでやってください。われわれは助けたいが,力が 及ばない。今度は中国政府も理解しているので,昔のようにあなたたちを抑圧することはなく,状況は改善 されるだろう。 その後,ルハムジャブ副首相は,内モンゴルで出会ったモンゴル民衆のモンゴル人民共和国と統合 する願望について政府に報告している。その中で,具体的にはチャハル盟ミンガンタイブス右旗な ど多くの旗において一般民衆や官吏ら 1184人の署名を集めた運動を行ったこと,そして,チャハル 盟のイダムジャブがサイチンガーとともにモンゴル人民共和国政府代表部に出向き,内モンゴル人民 の悲惨な状況について次のように訴えたと記述している18。 日本人は内モンゴルの人民をたいへん残酷に抑圧し,略奪していたことは言い尽くせない。内モンゴルの すべてのことを日本人が掌握していた。モンゴル人は官吏であっても何の権限もなく,ただ木の看板のよう なものだった。われわれ若者たちは人間として生まれてきた意味がない。人間としての尊厳をもちながらこ のようにいじめられることには,たいへん不満をもっていた。われわれは,このような状況からわれわれを 解放した外モンゴルに従ってよい道を見つける以外にない(中略)。
間もなく,ウランバートルでスフバートル高級党学校に入学したサイチンガーは,社会主義という 高処から民族の自由を展望し,社会主義賛美の詩人に生まれかわった。ウランバートルでは,人民共 和国の作家たちに謙虚に学び,ハルハ19の同胞たちとの親交を楽しんだ。すきな作家で友人でもある D.センゲーの作った「祖国」をテーマにした歌を涙しながら歌った20。D.センゲーは中国の大地と 毛沢東の革命精神を賛美した詩をサイチンガーのために書き,その中で「それが君の祖国で,その人 が君の父上だ」と告げ,「そのような祖国を持ち,そのような父上をもっていることを君は誇りに思 って行け。サインチョグトよ。そのような友をもっていることを,そのような頼める人がいることを 私も誇りに思って行こう。君の友。」と書いた21。 一方,D.センゲーのことを Na.サインチョグトは「モンゴル国に留学していた時期,私を祖国,人 民に忠誠を誓った奉仕者として革命化するにつけ,助けてくださった多くの親愛なる友人の中の親し い友人である」と表現している22。そこで,サイチンガーと D.センゲーとの関係は異常に「革命化」 していたことがわかる。当時の中国の状況は国民党軍の勢力が強く,内モンゴルの共産主義化はモン ゴル人民共和国政府にとって重要な課題であった。その任務を実行するのが内務省で,D.センゲー とオラムバヤルがサイチンガーと親しかったのはそうした政治的雰囲気と関係があったのではないか23。 「毛沢東は君の父上だ」と教えた D.センゲーとそう教わった Na.サインチョグトの毛沢東への情 熱は,実際,1950年代に北京で毛沢東に会った D.センゲーの作品から,そして,Na.サインチョグ トの場合は,1956年に毛沢東に会った時の写真から,その無限の幸福感が伝わってくる。この,モ ンゴル人作家の中国の指導者への過度の敬愛ぶりが現在の内モンゴルの若者たちの間ではインターネ ット上で話題になっている(写真⑤参照)。 ここ十数年来,サイチンガーのウランバートルでの活動に伴うあるエピソードが広く伝わっている。 サイチンガーがウランバートルで書いた作品の手書き資料が出版されるにあたり,モンゴル国側の当 時の友人たちの回想録が出されたからであった。それが本稿でも多く引用された Na.Sayinco・tu-yin mong・ululus-tubayisan・・ardebter・-unsilug-ud,(Na.サインチョグトがモンゴル国にいた時の「手 書き本」詩集,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba,1999)である。
内モンゴルでは啓蒙家,教育家としてまじめなイメージのサイチンガーが,ウランバートルで気に 入った舞台女優ロブスマーを詩に描き,それが話題となり,彼女と親しい友人となり,別れを惜しん
写真⑤毛沢東の胸に顔を当てるサイチンガー
(中)右上の写真は日本に留学当時のサ イチンガー
(出典:Sayinco・tuNa.okiyaba,1999,・ 3)
写真③サイチンガー(中)と写真④サイチンガー (左)とモンゴル国の作家たち(③の左 Ch.オ イドブ,右 Ts.オラムバヤル,④の右 Ts.ツェデ ンジャブ,ともに 1947年)
だ24。30歳を過ぎた彼にはすでに内モンゴルに妻子がいたが,内モンゴルにもどる間際に彼女を誘っ たことに彼女自身も驚いた。これについては男女の関係云々よりもその政治的背景に注目すべきで, ロブスマーがサイチンガーに会ったのは偶然ではなく,彼女は内モンゴルから来ていた若者たちの監 視役であったとも言われていた25。いずれにせよ,モンゴル人民共和国での「女性スキャンダル」を不名 誉だと思った内モンゴルの人たちの間では「われわれの偉大な詩人にそんなことがあっては困る」と いうような意味あいで,そのエピソードが内モンゴルで出版されることには抵抗感を抱いていた26。 その後ロブスマーは,サイチンガーがいた時からの恋人で,サイチンガーのよい友でもあった内モ ンゴル出身のエリート,チョグバドラフの妻となった。徳王の秘書官だったチョグバドラフは,偶然 の出会いでモンゴル軍に誘われ,モンゴルに貢献することを目指してモンゴル人民共和国にわたって いた。D.ナツァグドルジの「ミニーノタグ」を中国語に翻訳し,ロシア語の学習に励みながらマ ルクスの『資本論』をロシア語で 2回完読したことを妻のロブスマーに語っていたチョグバドラフは, モンゴル人民共和国と中華人民共和国との外交関係にもたいへん重要な役割を果たしていた27。 しかし,チョグバドラフは 1950年 10月 12日の夜内務省に連行され,その後銃殺されたことが 1952年 12月 5日に知らされた。銃殺される寸前に彼は「同胞たちよ,射撃に失敗がないように」 (Akh duu narminionojbuudaarai)と叫び,自ら胸を広げて撃たせたという。その言動をどう理解 すべきであろうか。信じてやまなかった「民族愛」への否定を恨んだ叫びだったと理解することも可 能だろう。徳王のもう一人の秘書官でアメリカに亡命したハンギンゴムボジャブは,そこで博士学 位を取得し,インディアナ大学でモンゴル研究をスタートさせた。1970年代にモンゴル人民共和国 を訪れ,チョグバドラフが銃殺されたことを聞き,「モンゴルでは珍しい文人だったのになぜ銃殺か」 と泣いた28。チョグバドラフは徳王の長男ドゴルスレンと同時に処刑されていた29。ほかにも,ウラ ンバートルでは「祖国」を目指して行ったはずの内モンゴルの多くの若者たちが日本軍捕虜とあまり 変わらない重労働を課せられた。「たくさんのモンゴル人が旧満洲国のホロンボイルを始め,蒙古連 合の各地から,外モンゴルに連れてこられていたのである。彼らはモンゴルのあちこちの収容所に入 れられ,そこから毎日工事現場に連れていかれた」。それを目撃していたのがサイチンガーのウラン バートルでの同級生であったソヨルジャブだった30。 一方,内モンゴルの情勢は,全体的にはソ連モンゴル軍によって日本の占領から解放されていた が,サイチンガーがいたスニド右旗などソ連モンゴル軍進軍沿道のシリーンゴルとチャハルではソ 連軍による家畜と物資の略奪,王府等の破壊が各地であった31。家畜の略奪をしたのはソ連軍ばかり ではなかった。ソヨルジャブはモンゴル人民革命党組織部長に次のことを話している32。 戦争が終わって,(外)モンゴルの兵隊たちがシリンゴルとホロンバイルから多くの牛と羊を連れてきて います。それも何千,何万という膨大な数です。それらはけっして『日本帝国主義者』のものではなく,草 原の,地元の牧民たち,つまりモンゴル人の財産です。それを戦利品のように分捕ってくるのはおかしいの ではないですか。内モンゴルと言っても同じモンゴル人民のものではないですか。 ほかにも,モンゴル軍が進駐したところでは,外部との通信が遮断され,地元のモンゴル人の銃が 回収されていた。これでは内外モンゴルの統一どころか,故郷のモンゴル人たちはどうやって生き, どうやって漢人の襲撃から家畜と身を守れるのかと,ウランバートルで発言の口火を切ったのもサイ チンガーと同じくスフバートル高級党学校の優等生の上記ソヨルジャブだった。彼はフルンボイルか
ら送られてきたハルビン学院出身のダゴールモンゴル人エリートだった。1947年に,帰国直前に 逮捕され,25年間の刑を言い渡され,ウランバートルで 7年間服役して,中国に送還されてもモン ゴル人民共和国での断罪は変わらず,長い囚人人生を送った33。 サイチンガーとソヨルジャブ,これらのウランバートルにいた二人のエリートは,まさに当時の内 モンゴルの「理念」と「現実」の象徴的な存在だったと言えるかもしれない。二人はいずれも日本の 教育を受け,日本軍支配地に勤めていた履歴があった。その履歴を自らどう表現し,その履歴が現地 の政府でどう扱われるかが,誰にとっても致命的な問題だった。前にも触れたが,サイチンガーは, モンゴル人民共和国に滞在した 2年間に日本に留学したこと及び数冊の本を出版したことをモンゴル 人民共和国の友人たちには話さなかった。モンゴル人民共和国政府側もサイチンガーを作家たちに紹 介した際に,彼の履歴の詳細については聞かないように指示していた34。 詩人として社会主義の理念を求めていたサイチンガーは,1947年 7月にスフバートル高級党学校 を卒業し,11月に突然帰国することとなった。サイチンガーの帰国については,ロブスマーは会い に来た当日の服装で察知したと回想しているが,内務省の任務を実行していた数名の作家しか知らず, 内務省の調整により出国した35。出国する際に,国民党側が気づかないようにモンゴル側で送別式も せず,同行者は全員名前を変えられ,サイチンガーは,「サインチョグト」となった。帰国後ほかの メンバーは本来の名前に戻したようだが,サイチンガーは父親の名前ナサンデルゲルのイニシャルを 取って Na.サインチョグトとした。帰国後オラーンホトでは新生内モンゴル自治政府主席のオラー ンフーも面会した。オラーンホトにあった内モンゴル日報社に勤めるようになったサイチンガーは, 1948年 9月 22日の内モンゴル日報に載せた記事に Na.サインチョグトの名前を初めて使った。名前 を変えたことについて,サイチンガーは 1947年冬のある日,教え子に対して「古いサイチンガーは 死んで,新しい Na.サインチョグトになったよ」と言い,また,「先生」と呼ばれたことに対して 「古い時代の先生と教え子の関係は終わり,新しい革命の同志になった。わたしにはこれ以上貴重な ものはない」と言った36。 おわりに Na.サインチョグトは,内モンゴルでは「内モンゴルのナツァグドルジ」,「モンゴル民族の魯迅」 とも言われている。サイチンガー,または,Na.サインチョグトとナツァグドルジとの関係について はすでに触れた。Na.サインチョグトを魯迅に喩えるのはおそらく「啓蒙家」という意味からであろ う。それなら Na.サインチョグトの前半生であるサイチンガーがそれにあたるであろう。しかし, Na.サインチョグトを魯迅に喩えたことについて言うなら,本稿で述べるにはあまりふさわしくない 流言がある。 ある人が毛沢東に「毛主席よ,もし魯迅先生がまだ生きていらっしゃっていたなら今ごろどうなさ っていらっしゃるだろう」と聞いた。それに対して毛沢東は「そうだね,牢屋にいるか,それとも書 いていないかな」と答えたそうだ。こういう意味では,Na.サインチョグトは魯迅に喩えるには値し ないだろう。Na.サインチョグトは名前を変えながら書き続けたからだ。もしくは,書き続けなけれ ばならなかったのかもしれない。政治イデオロギー的には時代により,立場により評価が変わっても, 内モンゴルの新しい文化への貢献度からそれを非難するモンゴル人はいないだろう。 一方,日本がすきな魯迅が日中戦争直前に亡くなったことについても,「もし,魯迅先生が日中戦
争を目の当たりにされたならどう思われただろう」という話もある。これについては,Na.サインチ ョグトに喩える素材はないが,もし,Na.サインチョグトが後年の中国の「改革開放」を見て,孫に 当たる世代のモンゴル人が数千とも数万とも日本に留学したことを見たなら「死んだサイチンガー」 についていかなる感懐を抱いただろう。 「サイチンガー」と「Na.サインチョグト」の間には到底渡ることのできない深い溝があった。そ れは第二世界大戦後の資本主義と社会主義,日本とモンゴル人民共和国,日本と中華人民共和国の関 係そのもので,さらに重要なのは,内モンゴルと戦前の日本との関係の象徴的な存在として「サイチ ンガー」があることだった。いうまでもなく,それはサイチンガーという人物そのものよりもサイチ ンガーの作品であった。本人は両者を完全に割りふって後者の「Na.サインチョグト」を選択したつ もりだっただろうが,中国の「文革」はそれをまったく認めず,Na.サインチョグトは 1973年 5月 13日 59歳で亡くなった。 「サイチンガー」と「Na.サインチョグト」のこのような溝から生まれたのが敬愛される詩人を扱 ううえでの数々のタブーだった。モンゴルの伝統による「道徳のタブー」をはじめ,日本帝国主義に よる「歴史のタブー」,モンゴル民族の復興を唱えてきた古い作品からの「民族のタブー」などであ った。しかし,1970年代末期以来,中国で「改革開放」政策が進められ,日本との関係が急速に改 善された。また,1990年代初期に冷戦が終了し,モンゴル人民共和国は民主制度のモンゴル国とし て生まれ変わり,日本とはたいへん親密な国となった。これにより,資本主義と社会主義,中国と日 本,モンゴル国と日本との緊張関係は解け,サイチンガーをめぐるタブーはほとんど取り払われた。 しかし,Na.サイチョグトの前半生であったサイチンガーの作品に深く刻まれた「民族」は,中華民 族の大統合が前提とする中国現代政治においてはタブーのままである。裏を返して言えば,Na.サイ ンチョグトが投身した社会主義イデオロギーは吹きとばされ,残されたのはサイチンガーが克明につ づった「民族」だったのである。皮肉なことに,こういう意味においてサイチンガーは残る詩人であ り,幸運であったと言える。一方,Na.サインチョグトの社会主義イデオロギー及び中国現代政治に 強く結びついた文学作品もその政治イデオロギーのいかんにかかわらず,内モンゴルの現代文学と現 代モンゴル語書きことばの発展に対する巨大な貢献であった。このように,Na.サインチョグトをめ ぐる政治的タブーとして残された「民族」は,社会主義イデオロギーと新中国の政治及びモンゴル文 化への Na.サインチョグトの貢献度により現代中国の政治においてかろうじてバランスを取って並 存している。 Na.サインチョグトをめぐる政治的タブーとしての「民族」は,まさに Na.サインチョグトにつ いての研究の永久の課題である。中国の「文革」の間,Na.サインチョグトはなぜ被害を受け,どの 作品が批判の的となり,どのような批判を受けたのか。これは決して「文革」の嵐とともに消え去っ た問題ではない。それを知る資料として,静岡大学教授楊海英編「内モンゴル自治区文化大革命 7」 (『モンゴル人ジェノサイドに関する基礎資料(7) 民族自決と民族問題 』風響社,2015)がある。 注
1 Bayi・alTobcudemkidgebe(2014),pp.701705。これらの作品の原本はその時代に中国領内で出版され た他のモンゴル語出版物と同様,わずかしか残っていない。それについては桜美林大学のバイカル准教授が 詳述している(Bayi・alTobcudemkidgebe,2014,pp.15)。筆者は島根県立大学メディアセンター「服 部四郎ウラルアルタイ文庫」で①と②を,アメリカのインディアナ大学 CentralEurasian Studies
SRIFIASLibraryで①と⑤の所蔵を確認している。 2 Bayi・aliTobcud(2014c),pp.4041.
3 Sayicung・-a,Man-umong・ul-unmanduquda・un,degudubulug,arba.1944.4.
4 この詩の掲載は 「ニューヨークに居住するロブサンとサイチンガーの提供による」(Sayinco・tu Na. okiyaba1999,・ 3,p.158)。筆者はどこかの原典からこの四行を控えているが,出典を書き損なっている。 5 Sayinco・tuNa.(1957),p.21.「代々世襲してきた日本の『天皇』の真似をし,モンゴル民族の『天皇』に
なることを志した徳王は,漢化したモンゴル人にモンゴル語を学ばせた慈悲深い領主という名誉を高揚する ため,トゥメドモンゴル人の子供たちを父母の暖かい胸から引き離して遠く離れた他郷に連れていった」と し,その子供たちのことを「水から離した魚のようだ」と比喩している。
6 Oleibatu.S,Sarancimeg(2004),p.280.Na.サインチョグトのこの論文 Jirukenikorugsen・liuabu・a i・は 1957年 12月に Onirceceg・ 27に掲載されているが,ここでは同誌の「1958年 2月号に掲載」とな っている。
7 Oleibatu.S,Sarancimeg(2004),p.152.
8 サイチンガーが数冊も本を出版した作家だったことは彼がウランバートルにいた時もモンゴル人民共和国の 作家たちの間で知られていなかった(Boke-yinBa・asutu,Sayinco・tukemegdegsenSayicung・-a,Cedub. Do,Gerelabnayira・ulba,1999,p.448.Bayi・aliTobcud,2014c,p.43)。一方で,サイチンガーが『砂 漠のふるさと』をモンゴルの作家 Ts.ツェデンジャブと副首相ルハムジャブに渡している(Cerengdori -yinCedenab,MinuSayicung・-a,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba,1999,p.440.「文芸戦報」編輯部 1967)。
9 Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999),p.25. 10 Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999),p.440.
11 フフバートル「D.ナツァグドルジの Miniinutagとタブーの詩人サイチンガーの Ekhnutag ideologyと nostalgia 」(口頭発表,モンゴル語)「世界文化遺産元上都遺跡与蒙古歴史文化 『正藍旗扎格斯台学 校』一書物研討会」(正藍旗,2013年 6月 17日)。 一方,D.ナツァグドルジの記念碑には「ミニーノタグ」という詩が刻まれているのに対し,ショロー ンフフ旗文化センター前に建てられた Na.サインチョグト記念碑の代表作品紹介欄には『エレスマンフ ニーエフノタグ』(砂漠のふるさと)のタイトルすらなかったことについて,筆者はそれがサイチンガ ーの政治的タブーの現れではないかと指摘している。
12 Boke-yin Ba・asutu,Sayinco・tu kemegdegsen Sayicung・-a,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999), p.449.
13 Cerengdori-yinCedenab,MinuSayicung・-a,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999),p.441. 14 Boke-yin Ba・asutu,Sayinco・tu kemegdegsen Sayicung・-a,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999),
pp.453454.
15 ボルジギンフスレ(2011),119頁。 16 Bayi・aliTobcud(2014b),p.98. 17 扎奇斯欽(1993),137頁。
18 モンゴル国国立中央文書館 khorog F ・ 1dans3333.昭和女子大学大学院生ボルジギンハス提供。こ こに謝意を表したい。
19 モンゴル人民共和国に対する内モンゴル側からの呼称。「ハルハ」はモンゴル国の主なモンゴル支族名。 20 Cerengdori-yinCedenab,MinuSayicung・-a,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999),p.442. 21 Sayinco・tuNa.okiyaba(1999),pp.221222.
22 Sayinco・tuNa.okiyaba(1999),p.221.
23 Bayi・aliTobcud(2014c),p.43.ここでバイカルはサイチンガーとともにウランバートルに留学していた 同郷人ソドセチンへのインタビュー内容に基づいて述べている。
24 Cerengdori-yinCedenab,MinuSayicung・-a,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999),p.443. Dori-yinlubsam-a,Qubiaya・an-uerke,Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999),pp.464477. 25 Bayi・aliTobcud(2014c),p.42.
26 Cedub.Do,Gerelabnayira・ulba(1999)の編集者であるモンゴル国の詩人,モンゴル文学研究者,東京 外国語大学元客員教授 D.ツセデブ氏が筆者と本書について雑談した際に語っている。
27 Bilegt.B(2015),p.69. 28 Bilegt.B(2015),p.70.
29 Bayi・aliTobcud(2014c),p.42. 30 細川呉港(2007),91頁。
31 扎奇斯欽(1993),132133頁。細川呉港(2007),67頁。 32 細川呉港(2007),95頁。
34 Bayi・aliTobcud(2014c),p.42. 35 Bayi・aliTobcud(2014c),p.42.
36 Oleibatu.S,Sarancimeg(2004),p.181. 参考文献 日本語 内田孝(2002)「内モンゴルの詩人サイチンガの日本留学期における著作」『日本モンゴル学会紀要』No.32 内田孝(2008)「『新モンゴル』誌第 2号とモンゴル人留学生による文芸活動」島根県立大学北東アジア地域研究 センター『北東アジア研究』第 1415合併号 内田孝(2015)「内モンゴル近現代文学研究からみた『青旗(フフトグ)』紙 モンゴル語定期刊行物の研究 現況に言及しつつ」堤一昭田中仁編『戦前期モンゴル語新聞『フフトグ(青旗)』のデジタル化と公開の 可能性 東洋文庫政治史資料研究班研究セミナーの記録 』Osaka University Forum on China OUFC BOOKLET Vol.72015/3
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