内なるものへの道
23
0
0
全文
(2) ゴ3イ. 内なるものへ の道. だが,こ うい った こ とは実 の と ころ諸 君 に とって は如 何 とも しよ うの無 い こ とで あろ う。 だが しか し,諸 君 は内的な反 省 へ の手 だてを手 に入 れ る こ とが で きるもの と私 は確信 してい る。 この 内省 こそ,人 び とが皆 自分 の手 でや り 遂 げね ばな らぬ こ とで あ る。 厳密 な意 味 で 神秘 主義 とい うのは,決 して夢 まぼろ しの よ うな出来事 ,心 霊現象 ,ま た,さ も摩 訂不思議 な こ とをや らか す とい った よ うな こ とで はな い。 この よ うな こ とを思 い浮 べ るのは ど うか きっば りと断 ち切 って いただ き たい。 神 秘主義 は まさ しく精神 的,宗 教 的な領域 に属 す る こ となので あ る。 この語 は,ギ リシア語 の ミュエ イ ン,つ ま り “目を閉 じる"と い う動詞か ら 来 て い る。 この言葉 の 由来 は神秘 主義の本質 につ いて ,た しか に二 ,三 の こ とを暗示 して い る。私 が両 眼を閉 じる時 ,私 を取 り巻 いて い る世界 ,つ ま り 事物 の世界 ,日 に見 え る世界 は消え去 って い る。私 を取 り巻 いて い るものは 暗闇 とな って い るので あ る。 しか しなが ら,私 のなかで は光 明が兆 して くる。 内 な る世界が開 かれて くるので あ る。か くして 神秘 主義 とは,外 的な,感 覚 中秘 に満 ちた道 は内面 に 的 な現存在 か ら自己を隔離 す る こ とな ので あ る。「ネ 向 か う」 とい うノヴ ァー リスの この言葉 は,た しか にす べ て の神秘主義が持 って い る特徴 に当て はめ る こ とが で きよ う。 なぜ な ら,神 秘主義 とい うのは 常 に 内 な るものへ の転 向で あ り,内 面化 の こ とだか らで あ る。 しか しこの言 葉 は,そ う した こ と以上 に,な お二 つ の特徴 を あ らゆ る神秘 主義 に付与 して い る。す なわ ち,ひ とつ は道 ,つ ま り理論 的 な教 説,教 義 とい うよ うな もの で はな くて,個 人 的な体験 ,実 行 ,実 践 で あ る こ と。 い まひ とつ,そ れ は何 か神秘 にみ ちた もの,秘 儀 ,す なわ ち無造作 に誰れ で も彼れ で もとい うわ け で はな く,ご く少数 の者 ,修 業極 わ まった もの,帰 依者 だけが ,序 々に会得 して い くもので あ る こ と。 こ うい うわけ で,わ れわれ は,神 秘主義 とい うの は いつで もど こで も内的反省 の秘儀 的実践 で あ る,と 言 って よか ろ う。 イ ン ド,ペ ル シア,ア ラ ビア,ギ リシア, フランス,オ ラ ンダ, シ レジア 等 々に神秘主義 が あ る。た しか にあ らゆ る文 化 ,国 民 ,民 族 にはそれぞれ独 自の神秘主義 が あ る。われわれ は ここで 神秘主義 の さまざまな史 的現象形態.
(3) J.ホ フマイスター著・久保田勉訳. ゴ35. にかか わ ろ うとは思 って い ない。 われわれ はむ しろ文化発展 の,い つ,い か な る段 階 で 神秘主義が通例 と して 姿 を現 わ して きたか とい う問題 ,そ れ と同 時 に,わ が 国 の最 初 に してか つ最 も注 目す べ き唱導者 で あ るマ イ ス ター・エ ックハ ル トの名前 と密接 に結 び つ いてい る ドイッ神秘主義 に 目を向け る こ と に したい。 神秘主 義 は,精 神が その 内的 な素質 と,そ の折 々の顕現可能性 とを完全 に開 花成 熟 した所 に,ま た精神 が こ うした現存 の形態 に拠 り所 と安 らぎとを もは や見 出 しは しない所 に きま って姿 を現 わ して来 る もので あ る。 その さいに. ,. 精神 はその外 的 な現 実 に背を向けて,内 な るものへ と向 って い く,つ ま り内 面化 に努 め るので あ る。 い わ ば,精 神 はその現存 か ら離 れて,自 らの 内へ と 回帰 し,現 存 を衰微す るが ままに してお くので あ る。か くして,神 秘主 義 は 混迷期 あ るいは没落期 の現象,デ カタ ンス の徴標 なので あ る。 そ して 神秘主 義 その ものが衰 退 の単 な る兆 しで あ るのか結果 なのか,あ るいは また原 因 で あ るのか,こ うい った こ とは歴 史哲学 上 の特殊 な 問題 で あ る。 いずれ にせ よ. ,. ドイツ神秘主義 もまた深 刻 な混迷 の時期 に現 われて い る。 マ イ ス ター ・ ェ ッ クハ ル トは1260年 にチ ュー リンゲ ン地方伯 の騎士 の子息 と して,ホ ッホハ ィ ムに生 まれ た。 当時 ,彼 の生 まれ故 郷 だけで な く, ドィッ全土 ,い や 西欧全 域 に動乱 の状 態 が進 行 して いた。世 の 中 はい うまで もな く一段 と深刻 な,厭 わ しい状 態 にあ った。時代 の転換 が始 ま りか けて い たので あ る。 当時 ,チ ュ ー リンゲ ンで は王位 継承 の紛争が た けなわで あ った し,こ の紛争 は1265年 の 分 割条約 によ って終焉 し,ヴ ュ ッテ ィー ン家 の堕 落王 アル ブ レヒ トが王 位 に つ いた。 1268年 にはホー エ ンシュタ ゥ フェ ン家最後 の コ ン ラー ド王が ナ ポ リ で 刑吏 の手 によ って死 に, か くして ここに大 空位 時代 ,「 君主 な き恐 怖 の時 代」 が 始 まった ので あ った。 神聖 ローマ帝 国 は ドイッ民族 の権 力闘争 によ っ て分裂 して しま った ので あ る。 この政治的状況 には精神的状況が 呼応 して いた。 キ リス ト教 ・西欧 の宗教 は,ス コ ラ哲学 のなかで 閉鎖的 な世 界観 に仕上 って しまってお り,こ の世界 :、. 像 の なか で は,懐 疑 も難 問 も,何 ひ とつ と して なか った ので あ る。 教 義を基.
(4) ゴ3δ. 内なるものへ の道. 軸 に して ,按 配 よ く組 立 て られ た体系 ,固 定 した観念 の構築物が そびえ 立 っ て いた。 こ うい う構築物 の 中で,人 間は救 いをゆ め疑 う こ とな く住む こ とが で きたので あ る。 だが しか し,当 時 この構築物 は ぐらつ き始 めて いた。観念 はそれ 自体 で存在 して い る現 実性 を持 ってい るとい う確信 の うち にその構築 物 は組立て られ て いたので あ った。 この観念実在 論 は,観 念 は名 目の ものに す ぎない とい う解釈 に席 をゆず ったので あ る。 観念 が 現実的事物 で あ った り. ,. 人 間 と無 関係 に存在 して い る諸 物 の存在様 式をば観念 に帰す るとす るな らば. ,. 観念 の認識 とい うのは根本 的 にはひ とつ の受動的 な認 容 にす ぎず ,消 極 的 な 所作 にす ぎな い。 しか も,人 間 自身 が付与す る名 目と して 観念 が理解 されて い るとすれ ば,そ れ 自体 で存在 して い る観念 の現実性 は ぐらつ いて こ ざるを えな いので あ る。す なわち,能 動 的 な意志が受動的な知性 に代 って座 を 占め. ,. 精神的世界 を 自力 によ る創作で あ ると公言す るので あ る。観念 は人 間 の恣意 脱 してい くので 的 な措定物 とな る。 こ う して深刻 な疑念 が前時 代 の確信 を祭」 あ る。人 間は再 び安定 を求 めなが ら,徒 手 空拳 の まま天 日の もとへ と歩 み 出 して い く。 つ ま り人 間は 自 らの救 い,自 らの確信 を求 めて 旅路 に 出 ざるをえ ないので あ る。 こ うして宗教 的 な生 活が再 び各人 の 関心事 とな った。すで に. ,. マ イ ス ター ・エ ックハ ル トの数十年前 ,一 人 の偉大 な る反対 論者 が豊 衣満腹. ,. 自己満足 しきって いた教会 に逆 らって 行 動 して いた。「 キ リス トの貧 しき生 涯 の最 初 の私淑者」 ア ッ シジの フラ ンチ ェス コが その人で あ る。 この人 の力 強 く内面か ら輝 き出て くる敬虔 さは,た だ修道 会規約 によ って教会 の枠 内 に だけ維持 され て いた。 そ して また,時 を同 じくして ピエモ ン トで は ヴ ァル ド ゥス派信徒 の大 きな一揆 が起 こ って いた。 この運動 は血 な ま ぐさ く戦 われた ので あ る。 ここか しこに生 きい きと した敬虔 さが,硬 直 した教 義 と救霊手段 の うわ っ調子 な輝 や きに対抗 して立 ち上 っていた。 ドイツ神秘主義 もまたひ とつの宗教 的革新 の試 みを示 して い る。 ドイツ神秘主 義 は,教 義的 に外化 さ れ魂 の抜 けて しま った教 え に対抗 して,政 治 的 に素乱 した状況 に直面 して. ,. 清純 なキ リス ト教 的生活 のために戦 って い るので あ る。留意す べ きは,キ リ ス ト教西 欧世界 を席 巻 して い る この動 きと時を同 じくして,東 方 イ ス ラム文.
(5) J.ホ フマイス ター著・ 久保 田勉訳. ゴ3/. ハル ト エ 化圏で神秘主義が格調高 く開花 して いることである。土地貴族 ック が1275年 エアフル トの ドミニコ修道院 に入 って いるあいだに,東 方 の偉大 な ハル る神秘主義者 ジェルデ ィン・ル ミが世を去 って いる。また修道士 エ ック トがパ リ大学 のマギ ス ター とな り,ケ ル ン大学神学教授 になって いるうちに. ,. 遥かなるペル シアの地 にはハーフィスが生 まれているが,こ の人 もまた「 神 学教授」 である。ゲ ーテが『 西東詩集』 のなかで,ハ ー フィスの神秘主義 に むけて立派な橋を架けえたとい うことは,た しかにゲ ーテも同 じような歴史 ヘ 的情況 のなかにいたということだけではない。ゲーテは詩集 の序詞『 ギー レ』 において 北 も西 も南 も散 りぢ りに分 かれ 玉座 は傷 つ き,国 土 は揺 れ動 く とい う言葉 で 言 い表 わ して い るが ,ゲ ー テ 自身 もそ こにいたよ うな似通 った 情況 だけがそ の訳 で もな いので あ る。一一 また彼 が19020世 紀 の素顔 を彫 り あげて きたあ らゆ る変革 的 な 出来事 ,す なわち,フ ラ ンス革命 ,諸 国家 の解 体 , ナ ポ レオ ンの失脚 , 技術 の発達 , とい った よ うな こ との証人 で あ った とい うだけで もな い。一一 この ほか に,か の ペ ル シア精神 と この ドイツ精神 段 と深 い連 帯性 と親和性 にもその理 由 はあ った。ゲ ー テが ペ ル との間 の. ,一 シア精神 と,神 秘主義 において遜 逓 して い る こ とは,内 な るものへ の道が とりわ け文化史的,宗 教 史的 な重要性 に関 して人 間 に共 通 した出来事 で あ る ,. とい うだけでな く,わ れわれが考 えて い る以上 に,そ の道 はわれわれ にず っ と親 密 に関わ ってお り,わ れわれ のず っと内深 くに持 って い る精神的 な存在 様式 ,な い しは精神的 な生長 の可能性 を表現 して い るのだ とい う こ とを,少 な くとも示唆 して い るもの とみて よいだろ う。 神秘 主義 その もの に話 をむ けて い く前 に,エ ックハ ル トの生涯 と活動 につ いて手 短か に伝 えて お きた い。 ドミニ コ派 の修道士 は, トン トン拍子 に昇任 し,そ の修道会が授与 で きる高位高職 を順歴 して い る。 30才 台 に して エ ック ハ ル トは修道 院長 で あ り,チ ュー リンゲ ンの管 区長代 理で あ る。 ほぼ40才 で パ リ大学 に講 師 と して赴 き,1303年 に マ イ ス ター と してパ リか ら帰 って きて.
(6) ゴ38. 内なるものへ の道. い る。翌 年 にはザ クセ ンとベ ー メ ンの修道会主 事を 引受. け, も う一 度 ,短 期 間パ リに逗 留。 1313年 か らは シュ トラスブル クの修道 院長 に在職 して い る。 彼 はすで に神学者 ,司 牧者 と して 高名で あ ったが ,当 地 に おいて,説 教師 と して も令 名をか ち得 た し, こ うい った こ とが 後世 いつの 時代 で も彼を忘れが た き者 に して い る。熱 の こ も った弁説 ,喜 悦 に満 ちた. 信仰心 ,精 神的な厳格. さを もって,当 地 で 彼 はその 神秘 的体験 を告 知 してい る。 しか で それ を行 な って い るので あ る。 彼 の時代 に ドイッ語 で. も, ドィッ語. も説教 す る こ とが に すで 普 通 の慣 わ しで あ ったのか ど うか,私 は知 らな い。 だが しか し こ , ん な こ とが ぁ った とい ぅ こ とが ,よ しん ば仮定で あ った として も,エ ックハ ル ,. トの説教 は, この点で ひ とつ の画期 的 な革新 で あ る こ とは 明 らかで あ る。 な ぜ な ら,エ ックハ ル トはその 中世 的な教会 ラテ ン語 の ドイッ 語訳 を,後 には ル ターただひ と りの よ うだが ,あ る程 度 に言語創造 に 的 成 し遂 げていたの だ か ら。 同時 に また漸新 な神体験 に魅惑 的 な,ま た時代 を超 えて生 きて い る表 現 を与 えたので あ った。 マ イ ス ター ・エ ックハ ル トの ラテ ン語 で 著 わ した 論 文 をみ ると,そ の言 ってい る内容 は,本 質 的 には なお ス コ ラ哲学 的な気 がす る。初 めて 母国語 を使用 してい る こ とによ って,彼 には独 自性 ,個 性 ,独 創 性 とい った ものが 躍動 して い る。 これ らは初 めて ドイッ語 を用 いた こ とで一 諸 にな って生 じて くるもので あ り,わ れわれ は彼 の独得 な教 説 の精神的情熱 と迫カーー 精神 と言葉 の統一 の深奥 に臥 して い る奇蹟 を感 じるので あ る。 エ ックハ ル トは大 て いの場合 ,一 般信者 や修道尼 の前 で 説教 を したよ うで あ る。 この人 た ちが彼 の説教 を書 き取 り,後 日それを推 敲 した り,さ らに 清書 して 纏 めあ げた りして 説教 集は流布 したので あ る。 この筆写 と清書 ,た しか に こ れ らには正確 さに欠 け,錯 誤 もあ り,ま たおそ らくは控造 さえ も多 々あ るか も知れ ないが,こ うい った形 だけで ,彼 の教説 は保存 されて きたので あ る。 前世紀 の 中葉 に,こ うした不完全 な流布本か ら,文 面全体 を修 復す る試 みが な され た一― それが1857年 の フ ァイ フ ァ版 で あ る一― また ドイッ語研究 会 の 最 も意義 あ る原 文批判研究が ,マ イ ス ター ・エ ックハ ル トの著作 な らび に説 教集 の 決定版 に捧 げ られて い る。 た とえ これが全 体 的 に成 功す るにせ よ,部.
(7) J.ホ フマイス ター著・久保 田勉訳. ゴ39. 分 的 な成 功 にす ぎないに して も,過 誤 にみ ちた写 本 か らで も本源か らくる活 力や,彼 の核心 を つ いた言葉 の光彩 は陸離 た るものが あ り,教 説 の精華 に何 の疑念 もあ りえないほ どに,大 いに力強 く,か つ凛 々 し くわれわれ に向か っ て その光 茫を放 つ こ とで あろ う。 彼 の経歴 を もっと終 りまで伝 えて お こ う。新 しい世 紀 の20年 代初頭 に,エ ックハ ル トは ドィッで最 も重要 な神学 の講座 に就 くため,ケ ル ンに招 へ い さ れて い る。 しか し彼 は安 ん じて 長 くこの 官職 を 司 どるわ けには いかなか った。 とい うのは,1325年 には異端 の嫌疑が彼 にか け られ たか らであ る。修道会 は 予審判事 ,宗 教裁判判 事を任命 したが,こ の審 間 た るや,マ イ ス ター ・エ ック ハ ル トを これ以上 の弾劾か ら庇護す るには 徒 らに空 しい努力を して い る。 ケ ル ンの大 司教 はね たみ 深 い フ ラ ンチ ェス カ派修道士 と結托 して帰 罪 をあ くま で も支持 して い る。 フ ラ ンチ ェスヵ派 の宗教裁判 までが加 え られ て,1326年 エ ックハ ル トの弁 明陳述 書 は却下 され,1327年 の教会 へ の忠誠告 白 は軽視 さ れ たので あ った。大 司教側 の裁判所 は,彼 に対 す る訴証手続 きを準 備 した。 エ ックハ ル トは異議 を 申 し立 て,教 皇 の前 で 直接 に弁 明す るとい う修道会規 約 を主 張 した。空 しい こ とで あ った。訴証手続 きは遅 々 と して はか どって い ない。 たぶん 当時 は ローマ に一 人 ,ア ヴ ィニ オ ンに一人 ,つ ご う二 人 の教皇 が い たか らで あ ろ う。 1329年 ,ア ヴ ィニ オ ンか ら有 罪教書 が届 いた。 それ に して も これは エ ックハ ル トの言葉 の 精髄 に厳 正 に 目を通 してお らず ,こ れが 漸 く届 いた とき,エ ックハ ル トはす で に黄泉 の人 で あ った。 と ころが,彼 の 遺 稿 ,彼 の信心篤 き同志 と,そ の人 た ちの筆 記 本 に対 して追 訴 が起 されてい たので あ る。 マ イ ス ター ・エ ックハ ル トの 敬虔 さが,当 時 は妥 当 とされて いた神 と人 間 の 関係 につ いて正 しい信 仰 を もつ 警護者 た ちに してみれ ば穏 当を欠 くもので あ った こ とは,彼 の警 喩を読 め ばわか る こ とで あ る。 「 帝 王 あ るいは王 候 が. ,. 一人 の騎士 に心 底 か ら信頼 を よせ て い るか らこそ前線 に赴 かせ るとい う こ と は,ひ とつ の休徴 なのであ る。 私 はあ る紳士 に二 ,三 度 お会 い した こ とがあ るが, この人 はひ と りの男 を 召使 いに雇 いいれ ,夜 分 に使 いに 出 したあ と. ,.
(8) ゴイθ. 内なるものへ の道. 騎 馬 で 追 って 彼 に近づ き,そ の男 と刃を交 えた ので あ った。 また,い つ か こ んな こ ともあ った とい う。 その紳 士 は,ひ とつ 試 してみ よ うと した男か ら死 ぬほ ど痛 い 目に合 わ されて しま ったそ うで あ る。 そ して この男 ,つ ま り召使 い を その人 は後 の ち可愛が りも し, 尊敬 も した とい う」。 と ころで,エ ック ハ ル トの敬虔 さが 目指す所 は神秘 的 な合 一 unio mysticaつ ま り神 と魂 との 一 致 で あ る こ とを諸君 が耳 にす るとき,諸 君が キ リス ト教徒 としてふ だん身 につ けて い る筋 道で感 じた り考 えた りす る場合 ,エ ックハ ル トの大胆 な言 行 に弾圧 を 命 じたあ の宗教裁判 に拍手喝采をす る気 に もな るだろ う。 どんなに 偉 大 な る人士 で あろ うとも,近 寄 り難 い尊厳 さを もってわれわれ の頭上 に君 臨 して い るもの との一致を 自負 で きるのだ ろ うか ,と 諸君 はい うだろ うし. ,. あ まつ さえ この一致 の状態 は遥 かな未来 ,時 の終末 においてで はな く,こ こ で い ま hic nuncっ ま り現在 この 瞬間 に可能 なはず であ るとい う こ とを耳 に す るとき,ど うして さよ うな こ とが可能 なのか ともい うで あ ろ う。 また諸君 が キ リス ト教徒 と して 考 えた り感 じた りしな いか ぎ り,ま ず驚かれ るのは も っともで あろ うし,そ の うえ ,私 が諸 君 に,も うとっ くに古臭 くな って い る か も知れ ぬ エ ックハ ル トの 神 についての言葉 や,そ のほか神学上 の事柄 につ いての言葉を もっと真摯 に受取 るよ う期待す る こ とにも驚 いてお られ よ う。 われわれが 神秘主義 の意味 において ,か りに 内 な るものへ 向 か って い くと し て も,世 界 あ るいは魂 の根源 において ,慈 悲深 い父 の顔 はわれわれを 出迎 え て くれ た りは しないので はなか ろ うか。む しろそ こで われわれを取 り巻 いて い るのは暗黒 と空 虚 で はなか ろ うか。 しか しこの よ うに単 純 に浮 んで くる臆 念 と偏見 とを さ し控 え,何 よ りもまず マ イ ス ター ・エ ックハ ル トが ど うい う 意 味 で 神 的 な もの につ いて語 って い るのか ,虚 心 胆懐 に受取 って いただ きた い。 そ うすれ ば,諸 君 は ここに神学上 の特殊 な問題 ,と くに真 の神 につ いて の陳腐 な,愚 に もつ かぬ論議 が問題 にな って は い ない こ とをす ぐに理 解 され る こ とで あろ う。 マ イ ス ター ・エ ックハ ル トは,生 きい き と した神性 を対 象 と して の 神 ,つ ま り表 象 ,祈 祷 ,思 惟 の対象 と しての神か ら区別 して い る。私 が ,個 物 ,形.
(9) J.ホ フマイス ター著・ 久保 田勉訳. ゴイゴ. 象 ,観 念 と して表象 して い るよ うな神 ,私 の前 に あ り,私 に 向か い合 って い るよ うな神 は,ま だ本質 的 に神 的 な もので はない,あ るいは一一 ヘ ー ゲ ル が い うよ うな一一絶対者 ,つ ま り,そ の生 きい きと した完全性 の 中 に全原 因 を 包摂 して い るもので はないので あ る。 とい うのは,対 象 と しての 神 は人 間 の 魂 と真我 か ら隔離 されてい るもので あろ うし,私 がか りに第七天 国 にい ると して も,神 は私 の外側 に,依 然 と して私 の 向 う側 に坐すか らで あ る。本質 的 な,生 きい きと した神 ない しは神性 とい うもの は,私 の魂 の根源 ,私 の真我 の核 心 とま った く同一 の もので あ る。 マ イ ス ター ・エ ックハ ル トは, これを つ ぎの よ うに比 喩的 に表現 して い る。す なわ ち,人 間 の魂 の 中 には,あ る小 さな き らめ きつ ぶ らな火花 が あ って ,そ れ は まさに「 神 とま った く不可分離 な る一 者 の ご と くに」,「 ネ 申と共 に」 あ るもので ,同 時 に神性 か らくる永遠 な る光 の本質必然的部分 なので あ る。 か くして この火花 は,た だわれわれ の 内 な るものへ の起信 においての み体験 され うるもので あ る。 この火花 は,わ れ われ の 内 にあ る神的 な るもので あ り,そ してただ この起信 においてのみ,わ れわれ は神 的 な るもの一 般 につ いて 何事 かを体験す るの であ る。 とい うのは. ,. かの火花 は一一 まさに本質必然 的部分 と して一一 全体 的 な るものの本質 を も って い るか らで あ る。 この火花 は,永 劫 の彼方 か ら存在 して い るもので あ り. ,. 空間や時 間な どによ って 作 り出 され た り,毀 損 され た りす るもので はない。 魂 か ら分 離 して い る神 ,人 間 に対 置 されて い る神 ,要 す るに,対 象的 な神 は 似 て非 な る神 ,単 な る偶像 とい った もので はないに して も,そ の神 が神秘 的 な実践 を成就す るよ うな神 0魂 関係 の緊密性 に相応 して いない とき,そ の限 りで は, この神 は間 に合 わせ の もので あ り不完全 な もので あ る。 いや,む し ろ こ うした神 は もともと この緊密性 の成立 , この一 致を妨害 す るもので あ る。 とい うの は,そ の神 は一― 神 につ いての単 な る表象 として一一 魂 と生 きい き と した神性 との 間 に位置 して い るか らで あ る。対象 的 な神 は,人 間が想像 の 創造 物 と して ,創 作 した本質 と して表象 した神 なので あ る。 だか らして マ イ ス ター 0エ ックハ ル トは, こ うい った神 は世 界創成 以前 には存在 しなか った の だ ともい ってい る。 つ ま り,こ の神 は創造物 の生成 を ま って 初 めて成 立す.
(10) ゴイ2. 内なるものへ の道. て るに至 ったものである。「神 はもろもろの 被造物 が存在す るに先立 っ 存在 ではな く」 した』一一神的な本質 として,神 性 として一一対象 としての「神 「元始,神 は存在 して いた。そ こに被造物が生成 し 存在 して いたのである。 において神 そ 被造物 の作 り出 した本質が生 じたのである。その神 はそれ 自身 ,. の ものではなか った し,被 造物 において神 となったものである。だか らして こ その神 は被造物 の創造するところに従 って被造物 の神 なのである。 れ と同 このよ うなも じことが,と くに被造物 としての人間 にも妥当す るのである。 ,. のとして人間もまたまったく自分の手で作りあげたような, したがって有限 に して須興的 な神 の表象 を持 つ もので あ る。 しか しなが ら,同 時 に人 間 は被 造 物以 上 の存在 で あ る。 つ ま り,わ が 内 な る神的 な火花 によ って ,ま た,か の何物 か 一一 これ 自 らは創 造 せず一一 によ って , しか もそ の何物 かは被造物 の根源 で あ リーー これ 自 らが神的 な もの一一 神 的 な まま に留 ま ってい る根源 の として 創造 された魂 に付与 されて い るその何物 か によ って被造物以上 の も なので あ る。 その何物 か とい うのは,人 間 の永遠 な る「真我」,「 永遠 な る本 つづ けるべ き」 も 質」,「 人 間が あ った と ころの もの,現 に在 り,永 遠 に在 り のなので あ る。 名詞 Wesen「 本質 」 と助動詞 Sein「 在 る」 の過 古分 詞. gewesen「 あ った と ころの もの」 との 関係 は,も っと言語史 的 に,正 当 に観 に 察 され て 然 るべ きもので あ る。 この 関係 は深 い意 味 を持 った事態 を明 らか こ す るもので あ る。 そ もそ も人 間 の本質 とい うものは,実 に人 間 の過 去性 の とで あ って,そ れ は人間が存在 のなか にふみ込む以前 に,人 間が在 った と こ ろの もの, したが って また,須 央的 な ものが人 間か ら消 え うせ た とき,人 間 になお残留 して い るものなので あ る。 エ ックハ ル トは, この永遠 な過 去性 ,. 永遠 な る本質性 を人 間 の原 初状態 と名付 けて い る。 だか らして ,創 造 以前 に 人間 は神 の原初状態 の うち にあ った もの,な い しは神 の うち に原 初的 に存在 して いた もので あ る。「私 が私 の第 一原 因 の うち にあ った とき, そ こに私 は 神 を もって はいなか った。私 は神 な らび にあ らゆ る事物 か ら解放 されて いた のだ。 しか し私が 自己の 自由意志 を もつ に至 った ときに,ま た私 の創作 した エ 本質 を迎 え入 れた とき,そ こに私 は またひ とつの神 を得 たので あ る」 と ッ.
(11) J。. ホフマイス ター著 0久 保 田勉訳. ゴイ3. クハ ル トはい う。す なわ ち,そ こに人 間 は また神 につ いての創作的な表 象. ,. 有 限 な表 象を 自 ら形成 したので あ る。 また “ 人 間が その原 初状態 において 何 らの神 も持 って いなか った よ うに,人 間 は神 について ,も ちろん何 ひ とつ と して 知 らなか った し,神 を所望 す る こ ともなか った ので あ る。人 間 は ま った く貧 しきもので あ った。 しか しこの赤貧 は実 に神 的本質 の豊 富 さとの完全 な 一 致を意味 してい る"と エ ックハ ル トは言 う。 この神 的 な本質 を創造 と共 に 生 みだ した神 か ら区別す るために,エ ックハ ル トは常 に新 しい観念 を つ くり だ して い る。 神 と神性 ,人 格 と しての神 と本質 と しての神 ,神 と神 の本性 を 区別す ることに エ ックハ ル トは満足 して いない。彼 は神性 につ いて は,た だ 慣習 的 に,第 一原 因 ない しはあ らゆ る事 物 の根源 のよ うには言 って いない。 彼 は神性 を ば深淵 とか,根 拠 な き根拠 ,根 拠 な きもの,な どと呼 んで い る。 しか の みな らず ,神 性 につ いて は「寂 莫 と した荒地」,「 無」, つ ま り有 限 な ものの絶無 とい うよ うに語 って い る。 私が こ うい うこ とを言 ってい るのは. ,. た だ形象や観念 とい った もの が,エ ックハ ル トには満足 な もので はない とい う こ とを示 してお きたいの と,神 秘 的 な神性体験 の深淵を ご く明晰 に してお きたいが ためで あ る。 神秘 的 な合 一 とは,原 初状態 に 関す る この教説 によれ ば,人 間 は 自分 が 被 造物 と して 存在 して い る こ とのす べ てを所有 し,知 識 し,意 欲 してい るもの だが,そ の全部を 自分 か ら取 り除 いて,い ま一度 自分 の神 的 な根源 ,言 いか えれ ば,魂 ない しは人 間 の最 も内な る真我 と, この根源 との 間 に何 の 隔 た り もな い と ころに立 ち帰 ってい くこ とを意 味す る以 外 のなに もので もな い。 そ れ は内な るものへ の道 とい う意 味 で あ り,神 秘 的実践 の精髄 なのであ る。 エ ックハ ル トの説教 や 論文 の す べ て は,倉 」 造 物 らしきもの,感 覚 的 な もの,形 象的な もの,対 象的な もの,お しなべ て一 人 よが りな こ と,利 己的 な こ と. ,. それ にまた人 間 が ま さに被造物 で あ る こ とか ら,神 性 と魂 との 間 を遊動 し. ,. また遊動す るに違 いない もの だが,そ れ ら全部を払拭 し,滅 却す るための手 引 き以 外 の何物 で もな い。 この こ とは創造 によ って生 じた神 に もいえ る こ と で あ る。 だか らして マ イ ス ター ・エ ックハ ル トは,神 す なわ ち創造 され た神. ,.
(12) ゴイイ. 内なるものへ の道. 対 象的 な神 に, 自分 を 自由 に し,妨 げな いよ うに して くれ るよ う請願す る こ とが あ りえ よ う。 とい うのは,創 造 され る前 の神性 に あ って は神 と魂 との 間 に どんな種類 の 隔離 も存在 して いなか ったので あ る し, この 隔離 な き神 的生 ・エ ックハル トの言 i] 命 へ の 回帰行 ,つ ま り この「 ひ と押 し」 で ,マ イ ス ター うよ うに,「 きわめて 大 きな豊 富 さを授 か るので あ るか ら, 神 は 自分 の創 っ た もので あ りな が ら, 私 には満足 す るに足 らぬ もの」 とな るで あろ う。「 な ぜ な ら,私 は この起信 において ,私 と神 とは同 一で あ る こ とを体験す るか ら で あ る」。 ハ 人 間 は何を為 さね ばな らぬか,と い う問 いか け に エ ック ル トは,人 間 に はそ の原初状態 へ の帰郷 が成 就す るものだ とい う こ とを,方 法 は異 な って い 人間 は, 自 るが全 く同 じ意 味 で答 えてい る。彼 はあ る時 こ う言 って い る。 “ 己を空 しくしなけれ ばな らな い"と 。一一 空 しくとい う こ と, これ はすで に われわれ には解 か って い る こ とだが,感 覚 的,観 念 的 な対 象性 の もつ あ らゆ る豊 富 さか ら空 し くあ る こ とで あ り,か くして ,人 間 は神 的 な ものを完全 に こ 具現 で きる場所 な ので あ る。 なぜ な ら,「 全被造物 が空 し くあ るとい う と は神 に満 ちてい る こ とで ある」 か ら。 またあ る時 には貧 困 につ いて 説教 を し て い る。 しか も これ は元来 ア ッ シジの フラ ンチ ェス コが 富裕 にな った教会 に 抵抗 して無 資 産 とい う こ とを主張 して いたのだが, これ に拠 って 自分 の弟子 たちに托鉢修業 の心 構 えを要求 した よ うな意 味 で の無資産 で はな く,内 的 に 貧 し くあ る こと,「 精神 の貧 しさ」,無 所有 ,無 願望 ,神 に 関 して さえ も無 知 で あ る こ とを説 いて い る。 “私 は有 限 な る神 ,対 象的 な神 だけを持 つ こ とがで きるので あ る"と 言 う。神 に対 す る人 の 関係 につ いて頻繁 に用 い られ て い る 父 に対 す る子 の 関係 で す らも,エ ックハ ル トによれ ば当を得 て いない もので あ る。彼 が この象徴性 を用 いて い る限 りで は,そ れ に思 い切 った解釈 を して い る。彼 は,子 の 出生 に ついて ,父 を通 し,父 において 説 いて い るが,ま た 父 の 出生 につ いて も子 において ,子 を通 して説 いて い るので あ る。 その主 眼 とす ると ころは もっぱ ら出生 その もの,す なわ ち魂 と神 との 自己識 別 な らび に一致 の成就す る性格 におかれて い るので あ る。人 間 は生 身 の父 の ご とき神.
(13) J.ホ フマ イ ス ター著 0久 保 田勉訳. ゴイ5. を どん な場合 に も決 して 持 たぬ もので あ り,神 が「神 の子 を生 み」 給 うとす れ ば,神 はその子 を「 ここに,い ま」,「 間断 な く」生 み 出 し給 うので あ る。 同 じくまた,人 間 は何事 も要 求 す るべ きで はない。 エ ックハ ル トは,現 世 の 果報 ,あ るいは また来世 の果報 のために,神 に仕 え神 を愛 す るもの,神 に恭 順 で あ る者 な どに対 して, こ とのほか 峻烈 な言葉 を用 いていた。 エ ックハ ル トは, こ うした見地 か ら,神 殿 (魂 )か ら商人 を追 い払 うこ とを神秘 的 な実 践 と解釈 して い る。 断食 ,徹 夜,祈 祷 の よ うな こ とを して,主 がそれ によ っ て 自分 た ちの欲す ると ころ に何 ほ どかむ くい給 うこ とを願 って,敬 神 の意 を 払 うが ご とき善行 を為 す人 た ちは「 す べ か らく商人 で あ る。 なぜ な らこの者 た ちは何かを他 の もののた めに与 えた り,意 欲 した りす る者 た ちで あ り,か くして 彼 らは,わ れ らが主 と取 引 きを しよ うと してい る者 た ちであ る」 と彼 はい う。真摯 な宗教 的生 活を完全 に実現 で きるためには,人 間 は こ うい った 商売人 の よ うな こ とをやめ なけれ ばな らな いの だ し,「 理 由を抜 きに して」 生 活 し,活 動 しな けれ ばな らな いので あ る。 神 その ものに対 して さえ も,人 間 は願 い事をす べ きではない。神秘 的 な実践 は, この願望 の放 棄 を要 求 す る もので ある。 そ うは い って も,人 間 が願 い事 ので きるもの といえ ば,い ずれ にせ よ対 象的な神 だけで あろ う。同 じこ とが,神 を知 る こ と,認 識 ない しは 理 解 す る こ とに関 して もあて は まる し, この こ とはまた精神 的所産 に もい え る こ とで あ る。 なぜ な ら, この さい も,人 間 はあ る対 象 な い しは客体 との 関 係 の うちに捉 らわれ た ままで い るか らで あ る。 客体 と して認識 された り思考 され た りした神 的 な ものは制約 され た もので あ る。 だか らして,神 秘 的 な実 践 には一一 と りわ け初期 ス コ ラ哲学 に対 す る論争 の場 に あ って は一一 神 の観 念 的 な対 象性 を克 服す る こ ともなけれ ばな らな い。 この さい,エ ックハ ル ト は決 して神 的 な事 柄 におけ る知 識 ,認 識 ,理 解 の不用意 な反対 者 で はない。 彼 は,神 的 な ものはただ信仰 の うち にだ け姿 を現 わ して くる こ と,ま た信仰 の事柄 に お いて は ラチオ,つ ま り悟性 は沈黙 して い なけれ ばな らな い とか. ,. あ るいは神 的 な ものは純粋 な感情 の事柄 で あ るとか,そ うい う こ とを主 張 し て い るので はない。 エ ックハ ル トの神秘 主 義 は神秘 主義 の あ らゆ る他 の形 式.
(14) ゴイδ. 内なるものへ の道. と同 じく,反 神秘 主義 ,超 神秘 主義 ,あ るいは非 合 理 的神秘主義 とい った も ので はな いので あ る。 それ はむ しろ ラチオ の 助 けをか りて ,い や あ らゆ る認 識能 力 の最大可能 な傾 注 を基礎 と して ,悟 性 の到底 およばな い よ うな 目標点 に到達 す る こ とを 問題 に して い るので あ る。 だか らエ ックハ ル トの神秘 主義 は超 合 理 的 な もので あ る。 それ は思惟す る認識 お よびその識別 の す べ ての範 囲 や程度 を通 り越 え 出て まさに合 一 に まで達 して い くもので あ る。神秘 主義 は科学 に対抗 す るもので はな い。 それ は科学 的知識 を用 いなが ら科学 を超 え て い るもので あ る。無 知 とい う ことは最後 にな って初 めて あ らわれ るもので あ る。 それ はあ らゆ る 知 の 極 わ まると ころ で あ る。「博学 の無学」 Docta ignorantia, クエ スの ニ コ ラウ スの この表現 を もって,エ ックハ ル トの立場 を言 い表 わす こ とが で きよ うO貧 しくあ る こ とは,結 局 は意志 に もいえ る こ 人 び とは神 の御 旨を果 たす こ とで あ る。 エ ックハ ル トは こ う言 って い る。 “ との ほか何 も果 そ うと しな い人 を貧 しき者 だ と思 って い る。 だが,こ れ はま だ本 当 の貧 しさで はな い。 なぜ な ら,人 間 が まだ神 の御 旨を果 そ うと して い る限 り,た しか に人 間 はなお何事 かを欲 して い るか らで あ る。 しか し,人 間 が神 の うち に原 初 的 に存在 して いた とき,人 間 は 自分 の意志 を持 って はいな か った。 そ こにはただ神 だけが存在 し,人 間 は神 と一 体 の もので あ った。 だ か らして ,人 間 は神性 の活動場所 で あ るとい う表象す らも成立 しな いので あ る。人 間 が独立 した存在 で あろ うと して い るあいだは,ま だ極貧 とい うと こ ろまで は い って いない。 神 が魂 の 中 に顕現 しよ うと し給 うさい に,神 が その 中 に顕現 し給 いた くな るよ うな場所 で なけれ ばな らぬほ どに,人 間 は神 と神 の あ らゆ る御業 か ら解 き放 たれ た状 態 にな けれ ばな らな いので あ る",と 。 諸君 は,こ こに エ ックハ ル トの問答教示法 が いか に神秘 的 な実践 であ り,形 象的 =対 象的 な ものの滅却 その もので あ るか, とい うこ とに気 づ かれ るで あ ろ う。 こ ぅい った意 味 で の貧 しさは,エ ックハ ル トにあ って は 隠棲 Abgeschie‐. denheit一 一 神秘 主義 の もっとも 重要 な概念 のひ とつ一― と同義 の もので あ る。私が原文 の箇所 に沿 うて これを解説す るのは,諸 君 がその概念 につ いて.
(15) J.ホ フマイス ター著・久保 田勉訳. ゴイア. の考 え方 とか表現 の仕方 のなかか ら感銘を得 られんが ためで あ る。す べ ての 徳 について,彼 が 綿密 に考究 した論文 によれ ば,エ ックハ ル トは こ う言 って い る。す なはち, “自分 には隠棲 が最高 の徳 の よ うに思 われ る。 なぜ な ら ,. 人 間 は神 の 内 にいたが ゆえに,隠 棲 によ って 神 の形姿 に一 番 よ く似 た もの に な るで あろ うか ら",と 。 た しか に,人 は愛 とか 謙虚 ,そ れ に また慈悲 を 回 に して は きた。 しか し愛 には苦悩 が あ り,私 が愛 を注 いで い く被造物 へ の傾 斜 が あ る。だが しか し,隠 棲 はあ らゆ る被造 物 か ら解放 されて い る こ とで あ る。 謙虚 は 自己滅却 に 向か うもので あ り,被 造物 の下位 に身を置 くこ とで あ る。だが 隠棲 は上 も下 も知 らぬ もので あ る。 なお慈愛 にあ って は,魂 は憐憫 の 情 によ って掻 き乱 されてい る。 しか も,本 当 の 隠棲 とい うのは,精 神が愛 と 苦悩 ,栄 光 と屈辱 とい ったあ りとあ らゆ る偶然 的 出来 事 の さなかで,ま さに 微風 を うける泰 山 の ご と く,悠 然 とそびえて い る姿 を措 いて ほか に あ るまい。 ―― われわれ は雨余 の諸徳 をなお ざ りに して い るとい う意 味 に,す なわ ち. ,. われわれ は無愛想 に,傲 慢 に,無 慈悲 に,隣 人 を見放 して い るのか も知れ な い とい うよ うに この教説 を一面 的 に理 解 しないでいただ きたい。む しろ この 教説 は, これ らの諸徳 はす べ て 隠棲 によ って ,あ たか も心髄 が つ か まれて い るときに結果 と して生 じるもので あ り,こ の心 髄 か ら発 して諸徳 は真正 な精 神 の 中で 初 めて活動で きるものだ とい うこ とを言 お うと して い るのであ る。 か くして ,こ の教説 は,人 間 には気 にか け るよ うな こ とは何 もな い とか,人 間 は い わ ば利 己的 に 自分 の魂 だけを救済す るために,創 造物 か らひ そか に忍 び 出 るべ きだ とい う こ とを決 して述 べ て はいな いので あ る。人 間 はみな好 ん で世俗 的 な事 へ と向か って い くにあた って,ま た被造物 へ の あ らゆ る慈悲 深 い献身 にあた って,精 神的 にい つで も自由 の ままであ るべ きだ とい うこ とに 思 い至れ ば,わ れわれ は この教説 を もっと正 当 に理 解 して い るのであ る。 隠棲 に 関す る教説 はひ とつの 自由論 で あ る。 マ イ ス ター ・エ ックハ ル トも 精神 とい うものは,そ もそ それを 自由論 と して明確 に言 い表 わ して い る。 “ も自由でな けれ ばな らぬ もので あ って,そ れ はす べ て 名指す こ とので きる諸 事物 に執着 して いない こ とで あ る。 それ にまた諸事物 は精神 に くっつ いて い.
(16) ゴイ8. 内なるものへ の道. るもので はない", とtヽ う。か くて ,あ らゆ る隷属 ,あ らゆ る拘束 に さい し て も,ず っと 自由 を通 す こ とは可能 で あ ると彼 は説 く。 エ ックハ ル トは次 の よ うに説 明 して い るのであ る。「 お しなべ て , 人 間 には二 種類 の者 が い る。 一人 を外 的人 間 といい, これ は感性 的人 間 で あ る。 もう一人 を 内的人 間 とい い, これ は内面 的人 間 であ る。 さて,あ なたは神 を愛 して い る人 間 は誰れで も,そ の魂 の諸 力を外 的人 間 のために,五 官 がいよ いよ必要 と してい る場合 以上 には使わな い とい うこ とを知 ってお くべ きで あ る。 ……魂 に留 ま って い る諸 力 は内的人 間 に与 え るものだ。 また人 間 があ る高 尚で けだか い 目的物 を 持 って い るとき,魂 は 自分 が五 官 に授 けたす べ ての 力を 自己の うち に引 き寄 せ て い るので あ る。 こ うい った人 間 を脱 魂 して い る人 ,あ るいは感覚 か ら出 て しま って い る人 とい うので あ る。 …… さて,あ なたはまた,外 的人 間 が至 って調子 よ く活動 して いて も,そ れ で も この さい内 的人間 は 自由であ りうる し,ま た心を動 さず に居 れ るものだ とい う こ とも知 ってお くべ きであ る。 こ れ と同 じこ とを讐 え話 で取 りあげ てみ よ う。 ドアが蝶番 で 開閉 して い るとす る。 さて , ドアの外板 を外 的人 間 に見 たて,蝶 番 を 内的人 間 に見 たててお く。 ドアを開閉す るとき外板 はあち こち と動 く。 しか し蝶番 は じっと して動かず. ,. その まま微動 だに しないので あ る。 …… 隠棲 の心 とは こ うい った状態 なので あ る」。 た しか に この教説 は閉 じこめ られた よ うな, 気 の重 い, 立 つ 瀬 な し とも思 われ るわれわれ の現存在 に あ って,人 の心 を鼓舞 して くれ るもので あ る。 精神 は生 活 の あ らゆ る偶然 的 出来事 の なか に,創 造物 の 懸念 と悲 哀 のな か に,愛 と悩 みのなか に,神 秘 的 な観照 の脱魂状 態 のなかで す らも, 自己の 中 に,す なわ ち神 の 中 に 一一 エ ックハ ル トにあ って は,こ の場合 それ は同 じ こ とで あ る一一 しか と根 をお ろ し, この最 も内な るもの か ら,惑 わ され る こ とな く生 きて い るものであ るか ら,「 精神 の最先端 に 位す る梢 は曲 げ られ る こ とがな く」, また俗塵 の洪 水 に沈 む こ ともな いので あ る。 これが エ ックハ ル トの 自由 の福音 で あ る。. この教説 にい ま しば らく踏 み とどま って お きた い。 とい うのはそ こか ら ドイ.
(17) 」。ホ フマ イ ス ター著 ・ 久保 田勉 訳. ゴイ9. ツ神秘主義が ともすれ ば さ らされ勝 ちな誤解 が とけて くるか らで あ る。 精神 その ものが,神 秘 的観照 の脱魂状態 に沈 み こんで はな らぬ こ とを い ま耳 に し たばか りで あ る。観照 の脱魂状 態 は, しば しばそ こに神秘 的合 一 が露 われて くる態 度 で あ る。 神 と魂 の一 致 を可能 にす るためには,実 に認識 態度 が投 入 され なけれ ばな らな い こ と, しか し認 識能 力 とい うものは対 象性 との関係 に 留 ま って い るのだか ら一致 その ものは,も はや認識能 力 によ って は果 た され えない とい うこ とをわれ われ はす で に見 て きたので あ った。認 識能力 は対 象 性 を解 消す る こ とはで きる。 けれ ども克 服す る こ とはで きない。対 象性 の克 服 は観 照 において,観 照 しつつ あ ると ころ に,ま た観 照 した と ころ に生 じる ので あ る一― これ らは, いわ ば どの よ うに 言 いか え て もいい もので あ って 一― みな同 じこ とで あ る。 た しか に この観 照 は,あ らゆ る神秘 的 な実践 の 目 標 で あ る。 あ らゆ る神秘 的実践 ,創 造物 その ものの あ らゆ る精神 的解 消 は観 照 と共 に終焉 す るので あ る。 そ うだ とすれ ば この観 照 は神秘 的 な合 一 ,魂 の 安 らぎ,あ らゆ る有 限 な るものの忘却 ,神 的 な深 淵 に沈潜す る こ とを意 味 し て はいないのか,と い うこ とが当然 に問題 にな って くる。 またか よ うな教説 「 解 を もつ ドイッ神秘主義 は,仏 教 に,と りわ け最 高 の境地 を ば空無 ,涅 槃 脱 と考 えてい る所 に似通 って はいないか 。 それ に また この言葉 は,精 神 的 な 消極性 の東洋的刻 印 と同 じよ うに西 欧的刻 印 と して あ らゆ る神秘 主義 に おい て語 られ て はいないか 。 どの神秘主義 も静 寂主義 ,現 世否定 ,離 俗安 息 で は ないのか 。神秘主 義が観 照 へ と尊 く絶対 的境地 と,西 欧 の生活感情一般 …… これを 決定 的 な もの に して い るのは,何 とい って も烙勤精励 ,行 為 ,活 動 と い った ものだが…… とは矛盾 して はいないか 。か くして エ ックハ ル トの神秘 主 義 は どち らか といえ ば東洋的な観想 ,仏 教 的 な難業修業 を 支持す る態度 の こ とで はないか 。 マ イ ス ター ・エ ックハ ル トが 神 との一 致 とい う幻想 的体験 にお ける隠 に 棲 関す るあの教説 だけをわれわれ に与 えたにす ぎず , この こ とだけを告知 した に止 まるとすれ ば,た しか に,わ れわれ はイ ン ド僧 たちの 自足 自在世 間虚仮 とい う考 えか ら遠 か らぬ エ ックハ ル トの傍 にい ることで あろ う。彼 の神秘主.
(18) ゴ5θ. 内なるものへ の道. い こ 義 は本質 的 に東洋風 の もの とみ て よいだ ろ う。世 間逃 避 ,世 間虚仮 と う し とは,西 欧 の現実肯定 な い しは現実志 向を完全 に凌駕 す るもので あろ う。 ハ ル トには当 らぬ エ か し これ はわれわれがす で に窺 が い見 て きた よ うに ック こ とで あ る。 つ いて マ イス ター ・エ ックハ ル トは マ リア とマル タに関す る聖書 の警 喩 に まる解釈 をす る ことによ っ 説 教 を した ことが あ る。彼 は この警喩 に大胆 きわ か つ 特異 な意味を与 て 約聖書 の 中 での叙 述 に期待す る以上 に,全 く漸新. ,新. な る消極 的 な世 間 えた ので あ った。わ れわれ が この説教 を理解す るとき,単 ハ ル ト神秘 主義 の カ リカチ ュアはた ち エ 逃避 的 な,諦 観論 とい うよ うな ック ・ エ ツクハ ル トは,わ れわれ か らみれ ば西 欧世 界 まち崩れ去 り,マ イ ス タ この 自我 意識 は,の で の 自我 意識 の偉 大 な形成者 の列 に伍 して い く者 あ り, その完成 をみ るもので あ る。 ち に ドイツ ・ イデ ア リスムスにお いて につ い マ イ ス タ ・ エ ツクハル トは活動的生活 と観想 的生活 の価値 と段階 て い る。 この讐喩 その ものを て の 問 題 とい う見地 か ら,さ きの警 喩 を取扱 っ マル タ姉妹 の所 にや って来 られ る。 マ リア 想 い返 してみ よ う。主 が マ リア と ども,マ ル タは主 の まわ りを は主 の足許 に無 言 の喜 悦 の うち に坐 わ る。 けれ て い る。 そ して ついに は,主 に 自分 の妹 に 歩 きまわ り,主 のために世話 を し つ さい と願 って い るので あ る。 さて諸 も同 じよ うに振舞 うよ う,お 言 い け下 神 の子 が 自分 の家 にお 出で たい。 “ 君 ,エ ツクハ ル トの解釈 に耳 を傾 け られ に きわ ま って しま った ので あ る。彼女 下 さ った ことで,マ リアは神 の御 意 感 つ ま り,マ リアは 自分 で は何 はえ も言 われ ぬ願 望 に満 ちて いたの で あ った。 のだ ろ うが熱望 して お り,何 を欲 し を熱望 して い るのかわ か つて いなか った て い る。 しか も彼女 は神 の御 て い るのかわか つて いなか っただろ うが,欲 し の め と悦惚 に満 ちて いたので あ る。 声 を耳 に した よ うな気 が した ことで ,そ 慰 しろ彼女 自身 の悦 びの さ らに マ リアは精神 に うな が され て とい うよ りは,む い違 いを して い る。 しか しマ ために そ こに坐 わ り込 んだ のだ とわれわれ は思 に主 に仕 え ル タは女 らしい如才 な さで ,最 も身 近かな ことに,ま た一心不乱 を愛 の命 じるが ままに行 た ので あ り,聰 明な理解力 で もって ,外 面 的 な仕事.
(19) J.ホ フマイスター著 0久 保田勉訳. ゴ5ゴ. な う こ とを心 得 て いたので あ る。 マ リアは歓喜 の感情 にひた り切 って いたが. ,. マル タは世話 をす るとい う振舞 いに精神 か ら満足 していたので あ る。 マル タ は物事 の真只 中 にいた し, しか もそれ らを超 え,そ れ らに妨 げ られ る こ とな しに,す ぐれ た, しっか りと身 につい た徳 と 自由な心 情 に身をお いて いたの で あ った。 彼女 は本質 的 な ものの なか に しか と身をお いていた が ゆえ に,そ の 振舞 いす べ て が永遠 な る救 いへ と彼女を導 いたので あ った。 その 間,彼 女 は妹 の マ リア につ いて,妹 は願望 の と りこ とな って 向上 しないのではない か と気 を使 って いたに ちが い ない"。 エ ックハ ル トは次 のよ うに結 んでい る… ・… “マ リアはその脱 魂 した観 照 によ って生 きる こ とを学 ぶ ために ,初 めて入 マ したよ 学 うな もので あ った。 リアは真 実 の マ リアであ りうる前 に,ま ず は 一人 の マル タにな らなけれ ばな らなか った。 つ ま り,マ リアは 自分 の観照 し た こ とを ひたす ら日常 の俗事 に精 しみ励む こ との 中で証 さな けれ ばな らなか ったので あ る"と 。 な るほ ど,始 ま りと終 りには神秘 的 な観 照 の至 福 な る安 息が あ る。 しか しその 中間は「 現世 にお け る生 業 と活動」 で あ る。 マ イ ス タ ー ・エ ックハ ル トは,人 間は この人生 において 活動 な くして あ り得 ぬ もので あ る一― 活動 は人 間 の本性 の一 部 で あ る一― とい うこ と,ま た現世 の所業 は. ,. 「 行為が虚心 で あ る」 よ うに,つ ま り神 に没入 して い る こ とと ま った く同 じ く,き わめて高貴 で あ りうる こ と, ぃやそれ だ けで はな く,「 外 的人 間 の所 業 を慈悲 深 く行 な う こ と」 は,「 もっと善 い」 こ とであ る。 なぜ な ら,「 内的 人 間 の虚 心 さの 中 に …… その身を置 くこ とであ るか ら」 と明確 に説 いて い る。 諸君 の 中 には, す ば らしい次 の言葉 を ご存 じの人 が多か ろ うか と思 う。「聖 パ ウ ロの よ うに,誰 れかが その よ うな脱魂状態 に あ ると る その す 。 人 か ら一 さ じの スー プを恵 まれ たい と思 ってい る病 み疲 れ た人 を知 って い るな ら,そ の人 は愛 と脱魂 の状 態をす てて,一 段 と偉大 な る愛 の なかで神 にお仕 えす る こ との方 が,私 は遥 か にす ぐれてい ると信 じたい」。 マ イ ス ター ・エ ッハ ル トが,神 秘 的 な観 照 の危 険,怠 堕 な遊楽 ,飽 食 三 昧 の色情 ,信 仰 陶酔 の精神状態 とい った行 きす ぎた邪道 に対 して 戒告 して い る こ と,ま た彼が これ らの危険を考慮 して,隣 人愛 その もののた め に ,隣 人愛.
(20) ゴ52. 内なるものへ の道. の飾 り気 のない行使 を愛 の正 しき所 と したのはまぎれ もな い こ とで あ る。 だ が しか し,わ れわれが,エ ックハ ル トの思想 にただキ リス ト教 的 な隣人愛 の 美徳讃美 だけをみた り, この 隣人愛 の 中 に神秘 的観照 の危 険 に対 す るひ とつ の均衡論 だけ しか見 て いない と した ら,世 俗 的 な行動 の価値 に 関す る彼 の思 想 が もって い る偉大 な意義 に,ま だ まだ十分 に正 当な評価 が な されて い ない こ とにな るだ ろ う。仕事 日や職業 にお け る活動的生活 は,マ イ ス ター ・エ ッ クハ ル トに とって 神秘 的 な実践 と同 じ く,ま さ しくそれ 自体 で意 義多 く,ま た価値 多 き道 なので あ る。たびたび エ ックハ ル トは活動的生 活 につ いての 明 解 な教 説 を くりひ ろげて い る。 この こ とは彼 に とって ,い か に この点 が重要 な もので あ るかを証 明 して い る。彼 は活動 的 で あ る こ とを,内 面か ら外面 へ の規則 正 しい,理 性 的 な,ま た意 識 的な所業 と して,と くに単 な る多忙 さと 区別 して い る。 「 多忙 とい うのは, 外面 的 なわ ざと らしい所 作 で あ る。 だが しか し,活 動 的 で あ る こ と, これ は人が 謙虚 さを もって」―一 つ ま り勝手 を 知 り,物 事 に精 通 していなが ら一一 「 内面 か ら行 な う こ とで あ る。諸事物 に つ いて 然 るべ き態度 で い る者 ,つ ま り事物 の 中 には ま り込 んで いない人 こそ 正 しい人 間 なので あ る。 この人 た ちはそ の心 に所 有 して い るもの と近 い 関係 に あ り,こ の所有 して い るもの を本 当 に正 しく処理す る者 で あ り, しか もそ の さいに, いつで も永遠性 の縁 にい ることだ けを重ん じる者 であ る」。 ここ で これ らの言葉 が言 わん と してい る こ と以上 に, これ らの言葉 に,と くに近 代 的 な もの を混入 しないよ うに意 を用 い なけれ ばな らな いのだが,そ れ で も 私 は この解釈 に 関す るか ぎ り,そ こに何 か 中世 的 でない ものを窺 い見 る こ と がで きるよ うな気 がす る。す なわ ち,か つ て 外面 的 な行動 が い わば永遠 とい うもので測 られ る こ とによ って,当 時 は まだ持 って い なか った責務 の観念 を もつ に至 った こ と, しか もまた,人 間 に とって この責任 あ る,尊 重す べ き活 動 の 中 で 養 なわれ て い く意 味 が存在 して い る こ とであ る。われわれがす で に マ リア とマル タの書 喩 が もつ 意 味 に 目を向けた よ うに,人 間 が人格 的 に完成 す るた めには現世 の所業 を必要 とす るもので あ る。 エ ックハ ル トは,そ の こ とにつ いて 次 の よ うに も言 って い る。「私 た ちは, 自分 た ちの理性 的 な活動.
(21) J.ホ フマイ スター著・久保 田勉訳. ゴ53. によ って 神 に一段 と近 づ き,神 にい っそ う似 るた めに この現世 にい るので あ :Tる 」 と。 また後 に フ ィ ヒテは「 神 と共 にあ る こ とな き誠意 の こ もった労働 は. な い 。 それ は永遠 な るものに向け られ てお り,そ の結果 は永遠 な るものに留 まって い るのだ」 とい ってい る。 現世 にお ける神 的 な ものへ の奉仕 ,人 格形成 の手段 ,外 的 な ものにおけ る 内的 な ものの成 就 と しての活動 的生 活 ,す なわ ち ドイツ精神 の この永遠 な る 課題 は,私 には マ イ ス ター ・エ ックハ ル トと共 にか す かで はあ るが力強 くひ び き出 して い るよ うに思 われ る。 だが しか し同時 に,こ こに はまた新 しい宗 教 的精神 か ら,人 格 の意 味 につ いて ,ひ とつの新 しい解 釈 が始 ま って い るの で あ る。 マ イ ス ター ・エ ックハ ル トは「 過激 な言葉使 いを した り,特 異 な挙 動 をす るの と同 じよ うに,着 るもの,食 べ るもの,言 葉使 いに あた って,す べ て 特殊 な こ とは避 けな さい。 しか し,あ なた はす べ ての特殊 な こ とは禁 じ られ て はいな い とい う こ とを知 って お くべ きで あ る。なぜ な ら,何 か変 った 所 のあ る人 間 は どうして も特殊 な こ とを さまざまな方法 で,い ろい ろな時代 にや っての けるにちが いない」 と言 って い る。 さて ,終 りに臨 んで ,わ れわれ は この教説 を もっと幅広 く理解 してお く必 要 が あ る。われわれ は魂 に創造 と共 に与 え られ て い るものす べ てを解消す る ことによ って,再 び魂 の淵源 ,つ ま り神性 へ と連 れ もどす こ とが神秘的な実 践 の 目標 で あるとい う こ とを眺 めて きた。 さて ,い か に して この 目標を活動 的生活 に 関す る教説 と両 立 させ る ことがで きるか。 これを マ イ ス ター ・エ ッ クハ ル トにたずね るとき,わ れわれ はひ とつの解答 に 出会 うので あ るが,こ の解答 はな るほ どエ ックハ ル トの神秘主義 を 目の前 に して世界 の形態 に 関 し 勝手 に言及す るわ け にはいか ぬか も しれぬが,そ れ で もなお,認 識 によ る世 界看取 の思 想 にきわめて近 い もので あ るか ら, ドイツ ・ イデ ア リスムス,と くに ヘ ー ゲ ル を ほ うふ つ とさせ るものがあ る。一― ちなみ に この解答 には. ,. エ ックハ ル トの世界 像 その ものが美事 に完結 してい る。 マ イ ス ター ・ エ ック ハ ル トは,神 と魂 との 間 の直接 関係 に対立 して い る ものは,も ともと全被造 物 ,全 世界 その もので あ る こ と,か くして ,魂 が 神 へ 回帰す る こ とは,ほ ん.
(22) ゴ5イ. 内なる ものへ の道. らい人 間 が全 被造物 を この 回帰 に あた って解 消す るとい ったその程度 に応 じ て成 就 で きるのだ とい うこ とを 洞察 して い るので あ る。 “ 人 間 は魂 の被創 的 存在性 ,対 象性 を滅却 しなけれ ばな らぬ もので あ り,世 界を非対象的な もの に しなけれ ばな らぬ もので あ る。 しか も,人 間 には,こ の こ とが 可能 で あ る。 なぜ な ら,現 世 に あ って 精神 的 な活動 者 で あ る こ とは神 へ の帰 向で あ り,事 物 を精神 に変 え る こ とで あ るか ら。 あ らゆ る被 造物 は,人 間 の本性 の うち に その名前 をかえ,人 間 の本性 を通 じて気高 くされて い く。 つ ま り,人 間 の本 性 の うち に被造 物 はその本性 ,つ ま りそ の被造物 らしい と こ ろを放棄す るの で あ る。 被造 物 は精神的な もの とな り,永 遠 な る何物 かを 獲得 し,か くして. 根源へ と回帰 してい くので ある",と マ イス ター ・エ ックハル トはいう。 『名 状 し難い事物 について』 とい う説教 の中には, この精神へ の変容,創 造物が 自らの神的な根源へ と回帰 してい くことについて,格 調 の高 い言葉がある。 おそ らく私はヘーゲルを述べ るさいに今 い ちどこのことに話を もどすで あろ う。 しか しこの言葉 で もって私はマイス ター・エ ックハル トがわれわれに語 りかけていることを少な くともい くらかは諸君 に申し伝えたとい う期待を も って, 今 日のところは終 りといた したい。「神 はあ らゆる事物 の中で 自己自 身楽 しんでお られる。その太陽はあ らゆる被造物 の上 に明るい 日射 しを注 ぎ. ,. この太陽がその 日射 しを注いでいるものを 自らの うちに引寄せ, しか もその 光力を失なうことがない。あ らゆる被造物は太 陽か ら生命 と本質 とを得 てい るのである。か くして,私 の理性 もあ らゆる被造物を 自らの中に引寄せ,被 造物は私において理性的 となるのである。か くて私はあ らゆる被造物を今い ちど神 の御許へ とつれ戻すので ある。だか らして,皆 さんのなされる所 に心 を くば りなさい。」. ※HOFFMEISTER,J.Die Heimkehr des Geistes,Sι %″θ π χ%rDた ん″ zη g %η ノ Pん グ Jο sψん グ θttr. ι Gο θ んθ グ ι χθ .1946の 一 部 Meister Eckehartを 取扱. った 部分 の 試訳 で あ る。 原書全体 を構成 して い るのは, この部分 に続 いて.
(23) ゴ55. J.ホ フマ イス ター著 0久 保 田勉訳. Kant,Schiller,Goethe,Hё lderlin,Hegelで あ る。私 は ドイツ精神史 に関 して強 い 関心 を持 つ者 で あるが,1970年 ,ヘ ー ゲ ル生誕 200年 に 当 る この年. ,. た また ま在独 中で あ って,マ イ ンッの 古書籍店 で 出会 ったのが本書 で あ る。 訳 出部分 は,副 題 に示 された範 囲 に入 って いないが,カ ン ト以下 の叙 述 に対 して 立 しなが らも, 導入 的役割 を果た して い る。「 エ ックハ ル トと共 に. ,独. 僅 かなが らも形而上学 的 な い しは宗教 的=人 間学 的手掛 りが現 われ て くる。 この手掛 りた るや ,そ の ご数百年 の あ いだ,時 には姿 を潜 め,時 にはグノ シ ス派 の よ うにはび こ り,時 と して合 理主義 的 に狭 随 とな り,あ るいは一段 と 隆盛 をみた りした もので あ るが ,結 局 の と ころ,カ ン トの周到 な準備 を土 台 と し,ヘ ーゲ ル にその完全 な容姿 をみ るに至 った もので あ る。 ……」 精神 はおのが棲家 の外 に在 りて わが家 へ の道を見 出 しはす ま じ ハ ンス 0カ ロ ッサ の詩 の一 節 を引用 しなが ら, ドイツ国民 の魂 が久 しきにわ た り,そ の進む べ き道を逸脱 し,真 実 な る魂 の故 郷 へ の道を失 した現状 の 中 か ら,故 郷 な き放 蕩 の息子 とな り果 てた ドイツ精神 の帰郷 を著者 は呼 びか け る。「 われわれ は今 や遼巡す る こ とも選択す るもの もな い 。 この零落 の後 に くるわれわれ の外 的運命 が いか な るもので あろ うとも,わ れわれ は故 郷 へ と 帰 らね ばな らな い。 もはやわれわれを妨 げ た り,迷 わせ た り,陶 酔 させ た り す る幻 像 な どあ りは しな い。行 く手 はまさに 開 かれ て いので あ る」 と。 ドイ ッ精神 の本質 に対す る根底 的反省 が,愛 国 の情念 を こめて語 られ て い く。 あ たか も,か っての フ ィ ヒテが ベル リン大学 で行 な った あ の講演 の よ うに。 1977。 12。. 5..
(24)
関連したドキュメント
「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない
遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば
○事業者 今回のアセスの図書の中で、現況並みに風環境を抑えるということを目標に、ま ずは、 この 80 番の青山の、国道 246 号沿いの風環境を
黒い、太く示しているところが敷地の区域という形になります。区域としては、中央のほう に A、B 街区、そして北側のほうに C、D、E
大村 その場合に、なぜ成り立たなくなったのか ということ、つまりあの図式でいうと基本的には S1 という 場
神はこのように隠れておられるので、神は隠 れていると言わない宗教はどれも正しくな
自分ではおかしいと思って も、「自分の体は汚れてい るのではないか」「ひどい ことを周りの人にしたので
したがいまして、私の主たる仕事させていただいているときのお客様というのは、ここの足