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明治末~大正初期の「立憲思想」養成の要求と具体的展開 : 日本における公民教育史の基礎研究として

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Academic year: 2021

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(1)Title. 明治末∼大正初期の「立憲思想」養成の要求と具体的展開 : 日本におけ る公民教育史の基礎研究として. Author(s). 新田, 和幸. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. C, 教育科学編, 34(2): 61-75. Issue Date. 1984-03. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/4949. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成の要求と具体的展開 -- 日本に おける公民教育史の基礎研究 として --. 新. 田. は. じ. 和. め. 幸. に. 大日本帝国憲法は, 天皇制 「立憲」 体制を制度的に基礎づけたものであったが それがただちに , 国民統合の主要な手段とはならなかった むしろ 支配・被支 配を権力関係として規定する憲法を , 。 \始末をつける べき教育勅語道徳 が 教育の場を 道義関係の面で \ とおして, 国 民思想の統 合機能 , をはたしたことについては 今さらくりかえすま でもない . しかし, 日清戦争後の日本資本主義の帝国主義的発展にともなって 支配階級は 国家社会に お , , ける国 民の能動的態度形成と個々 人の具体的な諸活動をとおしての新たな愛国心の養成の必要を認 めるに至った. ここに 「立憲」 政治の運用による国民の政治的統 合方式が必然的に前面に押し出さ れてくる要因があった. そして, この 「立憲」 政治への指向は とくに日露戦争後の藩閥官僚にた , いする政党勢力 の攻勢の中で, とりわけ明治末から大正初期の藩閥専制打破をめ ざす運動の高調の 過程で顕著となる。 この動向に相応じて, 「立憲思想」養成 が議会をはじめ教育界などにも具体的な 教育要求として生起し, 国家にとってそれらの要求をどのよう に実現するかが大きな課題とされる に 石÷っ た,. ・論では, 明治末から大正初期 の帝国議会を主とする 「立憲 思想」 養成の要求を具体的に とりあ げ, これをめ ぐる政党と官僚の議論を通して 「立憲思想」 養成方法の特質を明らかに し さらにそ , の方法がどのように施 策化され, あるいは どのような実際的展開をみるのか を追跡したい , 。 この論文は, 副題に示したように, 日本の 「公民教育」 史のひ とつの重要な起因を探ろうとする もの である. 「立憲思想」 養成 の問題は, 大正中期以降政策的重要性 が着目される 「公民教育」 の内 容構成原理設定をめ ぐる論議の中心となって継続さ れるの である 戦前日本の 「体制的人間像」 形 . 成の内面的論理を究明する上 で, 「立憲思想」養成教育の特質を明らかにすることは不可欠の作業で あ る.. 1. 帝国議会にお ける 「立憲思想」 養成の論議 1. 「立憲思想」 養成をめ ぐる政党と官僚の対立点 「立憲思想」養成問題が具体的な教育課題として帝国議会の中 で論議さ れだしたのは26議会( 19 09 年12月~1910年3月)のこと である。 国民党の村松亀一郎は 文部大臣への質問で義務教育の欠陥 , 61.

(3) . 新. 田. 和. 幸. を以下のように指摘した. ルー箇条ガアリ 私ノ・此ニ是非大臣ニ御聞キ申シタイコトノ・ , 初等教育ニ 於テ大ニ欠乏シテ居 ハシナイ カト考 ヘル抑々教育勅語御 発布以来, 之ニ依ツテ 忠君愛国ノ気風ヲ大ニ養成シ, 義勇 公ニ奉ズルト云フ軍国ノ民ヲ作ルノニハ, 頗ル御熱心ニカラ場サレテ居ルヤウデス, 是ノ、固ヨ リ欣ブベ キコトデ, 斯クナケレ バナラヌコトハ申スマデモナイ, 其後又戊申詔書ノ御発布以来, 頗ル産業ノ民ヲ作ルコトニ余程重キラ置イテ居ラレマス, 是亦必要ノコトデアリマシテ, 結構 ノニ ノコトデアリマス, 所ガ弦ニ 欠ケテ居ルコトノ・ , … 初等教育即チ国民トシテ必要ナル今 … . ) ( 箇条ノ外ニ, モウーツ何ニカト云ヘ バ政治的智能ノ教育ガ欠ケテ居ル 村松は, 教育勅 語が現実には主として 「軍国ノ民」 の育成という局面に しかその効力範囲が及ば ないことを前提と した上で, 初等教育の原則として, これまでの 「軍国ノ民」o「産業ノ民」 に加え て 「立憲治下ノ民」 の養成の必要を強調する. 彼はまた, この立憲の民養成の原則が意識的に回避 されてきたこと を示して,「小学校即チ初等教育ヲ掌ルモ ノ, 其他ノ教育総テニ 政治ト云フモノハ如 何ニ忌ムベキ嫌フベキモノ・ヤウナ傾 向ヲ与ヘタノハ, ヤハリ明 治政府ノ罪デアルト思フ, 法律ノ 上デ憲法ヲ布イテ, サウシテ教育 ノ上ニ是ニ背馳シテ居ツテ, サウシテ国民ヲ政治ノ上ニ無道徳無 知識ニシテ, 立憲政治ヲ完ウセシムルコトノ・イカヌ」 と, 教育の面か らむしろ 「立憲政治」 の進歩 を妨げてき た 「明治政府の罪」 を鋭く追求する。 2 ( ) これに対 して小松原文相は 「小学校ノ教育ニ 於キマシテ, 立憲国民トシテ其本分ヲ書スニ於テ 必 要ナル心得」 については 「怠ッ テハ居 ラヌ」 と応じ, 師範学校の 「法制及経済」 で 「既ニヤッテ居 ル筈」 で, 又小学校でも 「修身科ニ於テ 適当ニ教材ヲ排列致シマシテ教へ」 ているとして, 非を認 めようとしなかっ た. 3 )この小松 原答弁について 大石正己は, 「日本ノ本当ノ 忠君愛国ノ精神ヲ発揮 ( サセヤウト云フニハ, 努メテ政治的思想ヲ発揮サセナケレ バナラナイ」 のに 「吾々ノ見タ所デハサ ウ云フ形勢ガナイ」 とくり返し見解の違いを明らかにしている. 4 ( ) 10年12月~1911年3月)の貴族院予算委員 会の質問に, 小松原文相は「就職以来, 翌27議 会( 19 此教科書ノ編纂ニ 於キマシテハ, 殊ニ修身科ノ教科書ノ編纂ニ付キマシテ, 第一ニ我国体ヲ明ニシ, 国家思想ヲ養ヒ, 忠孝一致, 忠君愛国ノ一致, 謂ハユル忠孝愛国 ノ精神ヲ根本的ニ 養成イ タシタイ ト云フコトニ 重キラ置キマシテ, 修身教科書ノ編纂 改良ヲ致シテ居ルノデアリマス」 と自己の職責 し を明らかに している. 5 )村松, 大石が 「政治思想の発揮」 こそが 「本当の忠君愛国」 の道であると ( 高責任者の地位 て 「立憲」 主義を前面に据えようとするに 反して, 官僚小松 原はこのとき文教の最 にあっ て, 家族国家観の間明と忠孝一致観念の強調という反 「立憲」 の方向へと国 定教科書編纂を 指揮していた. そもそも両者の立場の違いは歴然としているのである. 2 7議会衆議院における 「初等教科書中 政治法律経済等ノ事 項ヲ増加スルノ建議案 (村松亀一郎外 三名提出)」 は, 前議会の 「質問」 を具体的な提案となしたものである. この 「建議案」 提出の意図 は, 本会議 での村松の説明によれば 「今日ノ文部省ノ取ツテ居ラレマス ルトコロノ教育 ノ方針ニー ノ改革ラナソウト云フ考」 を貫ぬくところにあった.( 6 } 二点で政府を追求している. 村松は以下の このとき 設置された 「建議案委員会」 で, ひとつは, 従来時事問題を学校の中 で扱うことを禁じてきたことに 対して,「政治ヲ談ズルト云フ コトハ時事問題ヲ談ゼズシテ何ヲ談ズレバー体宜イノデアルカ, 時事問題ニ 多少注意セシメナイ デ 斯ノ如キ文部 立憲国民ヲ作ラウト云フノハ, 実ニ木ニ縁テ 魚ヲ求メルヤウナモノデアリマス 近ケシメ 各生徒ラシテ是ニ 省ノ方針デア ルカラ, 各教員ノ・努メテ政治ノ方面カラ避ケヤウトシテ,. …. 62.

(4) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成問題. ナイ, 何ニカ毒デモ喰フガ如キ感ジラ有ツテ居ル」 との, 文部省の政治教育に対する消極的施 策へ の批判 であった。 もう一つは, 小学校の教科書が「義務 月則ヲ教ヘルコトノ・甚 ダ勉メテ居ルケレ ドモ」「権利ノ方面 ノ如キハ人民ノ思想ヲ喚発スルコトノ・甚ダ務メテ居ナイ」 から, 権利思想養成の観点からの教科書 編纂みなおしをすべきことを要請している。 ( 7 ) 政府委員として答弁にあたった岡田良平文部次官は, 前者の批判については「時事問題ニ付テノ\ 政治法律経済ノ智識ヲ与ヘルノトハ事ガ変ッテ居りマシテ, 時事問題ノ・今日ノ是ナルコトモ明日ノ・ 非ナルコトモアリ マス, 同ジ問題デモ甲論乙駁デ是非ノ・定メ難イモノデアリ マスカラ, 斯ノ如キモ ノラ以テ若イ子弟ノ脳髄ヲ撹乱スルコトノ・面白クナイ」 として, あくまでも消極姿勢を固持するか まえを崩さない。 後者についても 「先ヅ今日位ノトコロガ適当デハアルマイカト思ッ テ居りマス」 と教科書編纂の 方 針に 変 更 の 余 地 の な い こ と を 明 言 して い る。( 8 ). このような教育における官僚の反 「立憲」 的体質については, 号堂がすでにこれより十年前に指 摘しているとおり である。 即ち, 「立憲時代に於て専制時代の教育をなすもの」 であり「政体と教育 と衝突し, 教育は政体を維持するの原因とならずして, 却っ てこれを破壊するの原因となるの虞れ あ り」 と。( 9 ). ところで, 政党と官僚との間に, 社会主義 を敵とすることにその本質的な共通点があ ることはい うまでもない。 ただ, 村松が 「政治上ノ教養ヲ普カラシメテ, 之ヲ極養 シテ置ケバ危険ナル思想ナ ルモノハ起ル気遣ハナイ」 , 。 ( )というように, 「立憲」主義を社会主義に対する防波堤として積極的に 位置づけるところに政党としての固有の論理を見出すのである。 もちろん, この点にまた 「立憲」 主義の 致命的な限界 が存することもいうまでもない. , . ( ) 日露戦争後の伝統的秩序の動揺と階級対立の現実に直面して, 官僚が家族国家観によるイ デオロ ギー再編と官僚組識の指導強化によって体制維持をはかろうとするのに対して, 政党は, 「立憲」主 義の進展による国民の「合意」形成に基く政治的統合を推進するところに全力を傾注する。 前者が, 愛国心の基礎を皇室崇敬の観念に一層その依り どころを強く求め, 従っ て 「忠君」 観念そのものが 無媒介に愛国心 であるとされるのであるが, 後者においては 「忠君」 観念と次元的に異なったとこ ろで独 自の 「愛国」 観念が要請される。 すなわち, 26議会衆議院の普選法案審議のなか で蔵原惟郭 が 「愛国ノ精神ヲ養成スルニハ国家ニ対スル己ノ関係, 己ノ利害, 己ノ利害消長ト云フコトノ念ヲ 事実ノ上ニ於テ教育シナクテハ空論ニナッテシマフノデアリマス」 と述べているように, , ( 2 )現実生 活上の個人の利害を国家のそれとの 「共通」 関係としてとらえさせることによっ て国家への忠誠観 念の培養をはかろうとする。 この際, 政党は, 利害をむすび合わせるパイ プ役として 自らの政治 , 的地位を確たるものとしなければならなかったし, 普選要求はそれを自ら担保しようとするもので あ っ た。. このように, 政党が, 「立憲」 主義による国民統合を強力に推進しようとして, 国民が「国家」 の 発展に 「立憲」 的方向に沿っ て寄与することこそ本来の 「忠孝」 精神の実践にほかならないとして 「忠君愛国」 の道を説くとき, そこではもはや日常的 o 直接的忠誠の対象は天皇ないしは皇室から 「国家」 へと移行する。 ここに天皇と臣民の間の直接的な道義観念が希薄化せ ざるを得ないし, こ の点にこそ官僚との間に根本的な対立点を生ぜしめたのである。. 63.

(5) . 新. 田. 和. 幸. 2. 「立憲思想」 養成要求の象徴としての 「憲法発布勅語」 奉読式制定の主張 30議会 ( 1912年12月~1913年3月) では 「立憲思想」 養成の具体的方法が提案されている. 議 1日可決) は以下のよう 会に提出さ れた 「立憲思想養成ニ関スル建議案」 (石橋為之助 提出, 3月1 な内容である. 政府ノ・全国ノ公私立諸学校ニ訓令シ毎年紀元節ノ式日ニ於テ在来ノ如ク建国ノ大典ヲ記念ス ルト同時ニ明治二十二年二月十一日憲法発布ノ大典ラモ記念セシムルカ為挙式中 必ス憲法発布 ノ. 勅語ヲ朗読セシメ粒其ノ御趣旨ニ副フヘキ訓話ヲ為サシメ以テ 立憲思想ノ養成ヲ普カラシ. メ ムコ トラ望 ム 右 建 議 ス( 1 3 ). 「立憲 思想」 養成を上のような方法とすべきことについて, 提案者の石橋は 「国民一般ノ、目ラ他 国ノ例ニ見ルガ如 キ, 目ラ革命ヲ運動シテ得タ結果デアリマセヌコトノタメニ, 折角 斯ノ如キ有難 キ憲法ヲ載キナガラ, 其有難味ヲ感 ズル念ノ 比較的薄イ」 ことをその理 由としている. ・ 4 ( ) 欽定という形式がそもそも憲 法に対する国民の無自覚を必然的に結果するという認識に立ちなが ら, ここに示されている 「立憲国民」養成の方法はきわめて屈折したものであっ た. なぜなら, 「紀 元節儀式」 中での 「憲法発布勅語」 奉読という形式による 「憲法思想」 普及の論理は, 天皇の権威 即ち詔勅そのものの威力と 「儀式」 の力に頼ることにおいて, たしかにその有効性の発揮を期待し えたにしても, そのことは同時に, 憲法の欽定的性格=反立憲的性格の是認をこの後もひきづるこ とに外ならないからである. とはいえ, この「建議案」は官僚にと っ て深刻な問題を卒むものであっ た. ここで, 「建議案委員 会」 の中の石橋委員長と政府委員田所普通学務局長の間の発言をみよう. o委員長 (石橋為之助君) 本案ニ対スル政府ノ御意見ノ、如何デスカ 0政府委員 (田所義治君) … 教育勅語ノ方ノ・各学校ヲ通ジテ反復スル故, 少シ進ンダモノ ニハ理解スルコトガ出来ルト信ジ マスガ, 憲法発布勅語ヲ小学校辺デ朗読セシメテ之ヲ理解ス ルコ ト ガ 出 来 ルカ ドウ カ ト 悪ヒマス, 此事ニ付テハ中学校長会議ノ際ニモ相談的ニ話シテ見マ. シタガ, 或所デハ合セテヤッテ居ル所モアリ, 又或ル所デハ憲法発布ノ趣旨ヲ深ク注入シテ居 然シ法制ノ科目ノ、中学校デモ五年デ始ル位故, 教育勅語デヤッテ居ル今日, ル所モアリマ 規則デ以テ中学校等ニ強制的ニ之ヲ為サシムルハ, 如何ノモノカト云フ議論モアリマシタ, 之 レニ付テハ其理解力ノ程度ヤ学校ノ種類ニ付テモ慎重ニ考 量セネバナラヌト存ジマス( ・ 5 } この田所普通学務局長の慎重論は, 「憲法発布勅語」そのものの内容理解の 可否への考慮というよ ここそその理 り, 「教育勅語デヤッテ居ル今日, 規則デ以テ中学校等ニ強制的ニ之ヲ為 サシムル」点も 由 を 求 め な け れ ば な ら な い.( . 6 ). 即ち, 国民教育の絶対的な価値 基準としての教育勅 語の存在が, 「憲法発布勅語」 -- これ自体 は臣民の欽定憲法に対する永遠の遵守義務を調っ たものにほかならないのだが -- をも同時に奉 読することによっ て, まさにそれが同 じく天皇の詔勅 であるという 点で, 相対的存在へと転落せし められる 危険性をもつからである. これを儀式としての性格の面からみると, 千古不易の国体を祭 64.

(6) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成問題. るべき式典に, 同時に藩問専制 の側からすれば天皇制国家にとって非本質的な 「立憲」 政体をも相 並べて祝することの自己矛盾の故である。 この 「建議案委員会」 の終結部分をみよう 0政府委員 (田所美治君) 尚同ヒ マスガ御趣旨ノ・公私立全部デ且ツ理解 シ得ル程度ノ学校即 チ中学校程度ト先 ヅ考ヘテヨロシイノデスカ o委員長 (石橋為之助君) 小学校ニモ及ボス意デアリマス ムズカシイト云ヘ バ 教育勅語モ , 同様デアッテ, 此ノ立憲思想ノコトモ国 民教育ニ於テモ, 之ラヤルコトニセネバ, 義務教育ヲ 終 了シタモノガ其知識ヲ欠クコト)ナリマスカラ, 小学校ニ於テモ女学校ニ於テモ之レラヤル コ ト・ セネ バ ナ リ マ セヌ. o政府委員 (田所美治君) ソコラノ点デ大分調査ヲ要スルノデアリマス 0委員長 (石橋為之助君) 他ニ御質問ハアリマセンカ, 別段御議論モナケレバ 採決致シマス , 御異議ガナ ケレバ満場一致 デ可決シマス 議会における政党の 「立憲国民」 養成の要求を, 官僚としても真向から拒むことはもはや でき な いが, 田所はあくまで内容「理解」を口実に中等教育段階にその実施をおしとどめようと抵抗する 。 これに対して石橋は, 国民教育全般にこれを実施する主張を譲らない。 石橋の場合,「ム ヅカ シイ ト 五ヘ バ教育勅語モ同様」 として 「憲法発布勅語」 の内容理解は 二義的な問題とされ, さきにも述べ たように 「儀式」 と 「奉読」 という形式こそ重要とされるの である。 ここに政党の要求する 「立憲 国民」 養成の限界があった。 この30議会では, 村松亀一郎が「国民ノ政治的智徳? 函養ニ関スル建議案」(大正2年3月 22 日可 決) で石橋と同趣旨の案を出しているが, この提案にはあらたに 「各市町村役場ニハ市町村民ヲ召. 集シテ」「憲法発布ノ謝恩会」 を2 月 11 日 に 開催 す べ し と す る 案 が 加 え ら れ て い る。( . 7 ). 1 1 。 「立憲思想」 養成の施策と実際の展開 1。 憲法発布記念の実際の進展と教育界の世論 以上のように, 議会の中 で 「立憲国民」 養成 が具体的な方策として要求されてくるのであるが, ここではもう一方 で施策や実態の面 で実際にどのような進展を示しているかをみよう。 まず, 「紀元節」 を憲法発布の記念日としても祝し, 教育勅語とともに 「憲法発布勅語」 をも奉読 すべしとの考え方は, 日清戦争後に 「国民科」 設置の必要が唱えられた時期にすでにあらわれてい る が,( , 8 ) 実 際に お こ な わ れ る よ う に な っ た の は 明 治 40 年 代 以 後 の こ と であ る と い っ て よ い。. 1 ) 年2月11日, 政府り貴衆両院o東京市などの合同計画による憲法発布二十年記念 90 9 (明治42 の祝賀会が院内で挙行され, さらにこの後, 東京市主催の祝賀会が 「幾万民衆を以て 囲まれたろ」 日比谷公園の音 楽堂 で催された。 . 9 ( ) これと同日, これらとは別に早稲田大学で記念式 が催され, この式典の中 で 「憲法発布勅語」 の 奉読がおこなわれている。 2 。 ( )高田早苗は, この式典において「憲法制定に関係せられし方々, 又は立 憲運動に霊力された人々三十余名を招待して, 其講演を請ひ, 早稲田学園の学生をして, 一層深く 憲法の尊崇すべき所以を悟らしめ, 其立憲思想を滴養すること」 とともに, この奉読を思想養成の 65.

(7) . 新. 田. 和. 幸. 重要な一手段として意味づけている. また, 「立憲思想の普及, 対外観 念の発達」 「此二者は日本国 民をして 忠君愛国の道に就かしむる唯一の手段 であり, 方法である」 として, いわゆる 「立憲的帝 国主義」 の針路とその実践者養成の具体的指針を明らかにしている. ( 2 ・ } 1 9 10年2月 4日)以来 」 ( 会での村松亀一郎の質問 帝国議会では26議会の衆議院予算委員 ,「奉読」 を制度化すべしとの要求が毎年主張されるに至った. この要求に対して政府は対応をせまられるこ ) 年5月に召集 した 「全国中学校長会議」 912(明治45 とになるが, 文部省はそのてがかりとして1 で出席者から意見聴取をしている. この会議の中で田 所議長 (普通学務局長) は, 議会の要求に対 して 「文部省デハ慎重考慮中ニ属シテ居りマスカ ラ諸君ノ御意見ヲ 尚ホ参考シマシテ考慮ノ材料ニ 致」 したいとして参考意見を聴している. 2 2 ( ) この場 では数人が意見を陳述している. たとえば私立早稲田中学の増子喜 一郎は, すでに数年来 実施していると述べて, 以下のようにその 実態を明らかに している. 私共ハ ニ月十一日ノ紀元節ノ祝典ヲ挙行シマス トキニハ教育勅語ヲ奉読シ併セテ憲法発布ニ 付テ下賜ハリタル詔勅 ヲ奉読シテ尚憲法ノ事ニ付テイロイロ研究シテ居 ルトコロノ学士博士ヲ 階シテ憲法ト云フモノハ実ニ貴イモノデアル忠君愛国ノ至誠ヲ本統ニ書スニハ此憲法ノ御 趣旨 ヲ十分 知ラネ バナラヌト云フコトラ毎年ノ如クニ 繰返シテ学生ニ申スノデアリマス今日憲法政 治ノ世ノ中ニ当ツテハ ドウシテモ忠君 愛国ノ思想ヲ養成スルニハ是非トモ憲法ト云フモノハ ド ウ云フモノデアルカ, ドウ言フ訳デ憲 法ヲ下賜ツタモノデア ルカト云フコ トラ青年ニ教育シナ ケ レ バ ナ ラヌ ト 思 ヒ マ ス( 2 3 ). このように, 「立憲政体」 下の 「忠君愛国」 が専ら 「立憲」 思想の発露にありとして, その思想養 成のための具体方法として 「奉読」 を位置づける考え方は全体を通して共通に主張された点であっ たが, 私立錦城中学 (東京) の田中義能は, 以下のように 「危険思想」 対策の有効 手段として 「立 憲」 思想普及の必要を述べている, テハレテ居りマシテ或ノ、社会主義トカ何 トカ云フヤウナ 思想ノ 軌近不健 全ナ ル思想ガ社会ニオ 起ルノハ多クハ我国家ノ 組織, 我憲法ノ由来, サウ云フ事ニ対シテ十分 ナル思想ヲ懐イテ居ラ ヌカラ, サウ云フ不健全ナル思想ニ陥ヒルノデアラウト思ヒマス, ソレデ此点ノ、中学教育ニ於 テ 最 モ カ ラ 用 ヰ ナ ク テ ハ ナ ラ ヌ ト 思 ヒ マ ス( 2 4 ). また, 新潟県佐渡中学の柏倉一徳は, ごく 一般的に普及していることを今さら議会に問題にする こと自体 「実ニ以外」 で, この 会議として実施化をすすめるよう文部大臣に建議すべきであると提 案している. 2 5 ( } 田所議長は「別ニサウ云フ事ヲ同 ッテ居ル訳デハアリマセヌ」とこれを制して, 「是 デ 止メ テ 置 キ マ ス」 と 意 見 聴 取 を 終 え て い る.( 2 6 ). その他の発言も一例を除いて,( 2 7 )「奉読」を教育上重要な方法と してすでに実施しているというも のであり, 発言者の所属学校も上にあげたもののほか東京府立第三中学, 鹿児島県立川内中 学など であり, 中学校においては公私 立や地域を問わず一定程度普及していたといえる. さらに進 んで, 上のような 「立憲国民」 思想の養成方法確立の要求は小学校教育段階にまで広く 及ん でいる. 憲政擁護閥族打破の運動のさなかの1913(大正2) 年1月, 東京市教育会は 「憲政に 関する教育調査委員 会」を組織して, 「小学校ニ於テ紀元節ニ憲法発布ノ当日ナ ルコトラ記念セシム ルノ可否及ビ可トスレハ其方法如何」 及び 「小学校ニ於テ選挙権ヲ尊重スベキコトラ徳育上ヨリ周 66.

(8) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成問題. 知徹底セシムルノ方法如何」についての調査を行 なわせた 上の調査事項の前者について 「教育調 . , 査委員会」 の 「調査報告書」 の内容を以下に示そう . 小学校ニ於テ紀元節ニ憲法発布ノ当日ナルコトラ記念セシムルラ可トシ左ノ方法ニ嫁 ルラ適 当ナリト認ム ー, 紀元節式場ニ於ケル校長講告中ニ憲法発布ニ関スル談話ヲ附加 スル事 二, 紀元節式後左ノ方法ヲ適宜ニ行フ事 1, 憲法発布ノ詔勅ヲ奉読スル事 2, 憲法ニ関スル唱歌ヲ合唱スル事 3, 憲法ニ関スル講演ラナス事 4, 記念学芸会, 運動会遠足会, 展覧会等ヲ開催 スルコト 注意. 当日成 ルヘク学事関係者児童保護者等ノ参席ヲ求ムル事. 附記. 憲法尊重 ノ念ヲ養成スル為平素左ノ方法ヲ行フ事 -, 教科書中ノ憲法ニ 関スル条項ノ・特ニ注意シテ説明スル事 二, 適当ノ時期ニ於 テ特ニ憲法ニ関スル談話ラナス事 三, 児童ニ貴衆両院府県会議事堂等ヲ参観セシムル事 四, 補習学校及中学校ニ於テモ小学校 ノ方法ニ準スル事 この調査報告では, たんに紀元節における 「奉読」 のみにとどまらず 憲法尊重心 を養なうため , の日常教育上の具体方法が明示されている ( これは尾崎幸雄市長自ら が「立憲」教育を強く先導 し 2 9 ) . たことによるものでもあった. さらに, 1 913 (大正2) 年5月 3 日から 5 日ま で帝国教育会主催に よる第九回全国連合教育会に, 東京市教育会は上の憲法尊重心養成方法ともう一つ選挙権尊重の徹 底方法を協議題として提出した この両案は一括して可決された ( o )これは,初等教育界においても . .3 「立憲国民」 の養成 が, すでに現実的な教育課題として意識されはじめていたことを物語るも ので ある. この思想養成の方法の中で 「奉読」 という 「儀式」 が最も重要な地位を占めていたことはも ち ろ ん であ る.( 3 . ). 世論一般をみても, 藩閥官僚への批判と政党政治の発展の気運が急展開する中 で 『中央公論』春 , 季大附録号が 「全帝国に脹れる政治的覚醒を善導して真正なる立憲国民を作るの方策如何」 の特集 を組み, この中 で大隈重信, 高田早苗 鎌田栄吉その他の政党政治家 学者 ジャ ーナリストたち , , , が一様に 「立憲教育」 の争務を叫ん でいる一例をあげるまでもなく 政党やジャーヤリ ズムが最も , 強く 「立憲主義」 を高唱した時期 であっ た , 2. 中等学校 「法制及経済」 科の位置 1 901(明治34 ) 年に中学校 の学科の中に 「法制及経済」 科が設置された そもそもこの科は 日 。 , 清戦後の国民の政治的統合によるあらたな国家主義思想の確立をめ ざすべき時代の要請から生まれ たもの であった, それは, 従来の忠孝道徳を軸とする 「修身」 科とは別に 社会 「公共」 上のモラ , ルと国民の能動的政治経済活動を媒介とする国家への忠誠心の養成を軸とする道徳 でなければなら なか っ た。. しかし, 最終的には, 「法制及経済」 科の内容は, 藩閥官僚にとっ てそれが政党の 「立憲政治」 実 67.

(9) . 新. 田 和. 幸. 現要求との 結びつき を避けるべきものでなければならなかっ たために, 最少限の 政治経済的「知識」 の 教 養 に と どめ ら れ た.( 3 3 ). )これ ) 年に師範学校本科の男子生徒に 「法制及経済」 科が加設された 輩4 07 (明治40 その後, 19 時にその設置を決議し 中学校と同 育会議で ) 年12月の高等教 00 (明治33 については, すでに19 , ていたところであっ たが, 文部省は今回の 改正について 「社会ノ趨勢ト従来ノ経験トニ徴シテ」 こ 3 5 }また, これを必修としたが, 「当分ノ の 科 を加 え る こ と に し た, と 簡 単 に 説明 し た だ け であ っ た.( 内之ヲ欠クコトラ得」 と楢予を認めている。 3 6 ( ) 現在のところ直接 的 師範学校への 「法制及経済」 設置がこの時期に具体化されたことについて, , な契機 を解き明かすことはでき ない. しかし, 以下に示す一例は, 文部当局の中に教員の法制経済 的力量の養成を緊 急課題とす べき考えが一貫して底流をなしていることを 認めさせる ものといえ る.. 5 70頁) ) 年1月13日発行の東京市教育 会編 『国定教科書に於ける法制経済・全』 ( 1906 (明治39 は, 号 堂の 「序」 によれば 「教員其者ノ頭脳ニ明瞭ナル法制, 経済ノ看念ヲ描キ出サシムル」 こと の喫 急の必要から同教育 会あげてとりかかっ た仕事のひとつであっ た. 沢柳普通学務局長は, この 著によせた 「序」 の中で次のように述べている。. ・ … 道徳教育及国民教育ノ基礎並其ノ生活ニ必須ナル普通ノ 小学校令ノ第一条ニ小学校ノ 知識技能ヲ授クルラ以テ本旨トス トアル. 道徳教育ノ何 タルカハ今改メテ云フマデモナイ, 国 民教育トノ・何デアルカ. 国民トシテノ教育ヲ知ルニハ先 ヅ国家ノ何タル社会ノ何タルラ知ラナ ケレ バナ ラヌ, 国家社 会ノ何タルラ知 ルニハ法制ノ何タル経済ノ何タルラ知ルラ要スル 戸 o 右ノ次第デア ルカラ修身書及ビ国語読本ノ中ニハ法制, 経済ニ関シタ事項ガ沢山ニアル。 シ カルニ小学校ノ教師ハソノ師範学校ニアルトキ修身ノ中デ憲法ノ大体ヲ習フ トキ僅ニ法制ノ観 念ヲ得ルニ止リテ, 十分ノ法制ノ知識ガナイ. … ・現在ノ教師ノ養成法 ヲ考ヘルト己ムコト. ラ得ナイガ小学校令第一条ノ本旨ヲ貫徹スル上ニ於テ甚ダ遺憾デアル。 …. 又生活ニ 必須ナル普通ノ知 識ヲ授クルトアル, ソノ 生活ニ必須ナル普通ノ知識トノ・何デアル カ. 日常須知ノ 言語ヤ日常ノ生活ニ関係アル計算ヤ自 然界ノ諸現象ノ如キ素ヨリ生活ニ 必須ナ ル普通ノ知識デアルガ, 又国民 トシテ公民トシテ住民トシテ又社会ノ一員 トシテ日々接触スル ・ナケレバナラヌ, 即チ此点カラ見ルモ法制経済ノ知 識ノ、 普通ノ事項ノ如キモ其 内ニアリト云ノ , 小学校ノ教師トシテ必ズ有シテ居 ラナケレ バナラヌ. この沢柳の小 学校令第一条解釈は, 小学校教育の目的を, 「国民教育 ノ基礎」 はもちろんのこと, 「生活ニ必須ナ ル普通ノ知識技能」をもすべて,国家社会の諸々のレベ ルでの国民の日常的な政治経済 的活動の面からと らえかえそうとする ものであった. したがって, ここか ら, 指導者としての小学 校教員の 「法制経済」 上の力量増大がますます 緊急の課題であると認識されるのである. 師範学校 への 「法制及経済」 科の導入は, この考えを教員 養成の面で具体化 したもの であっ た。 そして, そ れは, 全国民を対象とする初等義務教育の中に, あらたな 「国民」 形成の論理の 必要を積極的に認 めようとするにほか ならなかっ た. このように, 教育が全体としてひとつの方向づけを与えられつつあるが, ただそれが順調な歩み を た ど っ た の で1まな か っ た.. ) 年には上のような方 向に対する逆行現象が見られる。 それはこの年5月に召集さ 1912(明治45 れた全国中 学校長会議の 「決議」 とそれにかかわる文部省の対応とであっ た。 68.

(10) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成問題. このときの 「会議」 の文部大臣からの 「第七諮問」 は 「中学校ノ教育ラシテ其ノ目的ニ 一層適切 ナラシメンカ為ニ現行規程其ノ他 諸般ノ施設中改善ヲ 要スル点ナ キカ」 であっ た 3 7 ( )これにた いし . て9名の委員が提案した答申案原案の 「四項」 は以下のよう であっ た 法制及経済, 唱歌ノ・之ヲ欠クコ トラ得シメ当分ノ内ト限ラサルコト 中学校令施行規則 第一条第四項中 「当分ノ内」 ノ四字ヲ削除ス( 3 8 ) この原案について, 私立早稲 田中学の増子喜一郎 は即座に以下の反対論を唱えている . 是ノ・甚 ダ遺憾ナ ガラ此四項ヲ削除スル提議ヲ致シマス 今日立憲政治ノ世ノ中ニ当 テ法制 ッ , 経済ヲ欠クト云フコトノ・ドウモ面 白クナイコト 一恵フノデアリ マス 文部省ニ於キマシテ法制 , 経済ノ・成ルベ ク疾ク必須科目ニシテヤラセタイ ケレ ドモ教師ノ都合デ当分ノ内トシタコト デ , アラウト思ヒマス, … 今日ノ中学校ノ・成程高等学校ニ這入ル階梯ノヤウデハアリ マスケレ ド モ, 大多数ノ 者ノ・中等国民トナッテ自分ノ家ニ退イテ家政ヲ執 ルノデアリマス 成 ルベ ク疾ク , ( ) ママ 此教員 ヲ養 成シテ, 法政経 済ノ如キハ 必 ズ教授 ス ルト云フ 時運ノ 来ラ ンコトラ希望 致シ マ ス( 3 9 ). この増子の発言に続いて私立錦城中学の田中義能 が増子支持の意見を述べ た直後 ほとんど討論 , なしで採決され原案が可決された かつて文部省が 「法制及経済」 科を中学校の課程に新設したと . きに, 教員の不足と 「地方経済」 の事情から 「当分ノ内」 欠く ことも止むな しとしたの であ たが っ , この会議の答申は事実上この科を随意科扱いとするもの であっ た . 『教育時論』 はこのような後向きの決議を次のよう にきびしく戒めている . 其答申の文面に於ては同科を廃止すべしと言は ざれども 有っ ても無くてもよき学科なりと , 認めたるに由るなるべく, 決議の本旨は寧ろ同科廃止にありとも見らる・なり … 普通教育 . に於て, 法制経済に関する知識を与ふるの必要なしとする思想を以て危険思想の一なりと信ず る 者 なり.( 4 o ). ところ で, この 「決議」 について田所普通学務局長は以下のように述べている . それから第七問の現行制度其の他の改善問題の如きも 当局よりは何らの制 限もなく 自由 , , に其の所見を吐露せんことを求めたのであった 随っ て当局が将来現行の規程及施設をば如何 . 様に改良すべきかといふに 就き, 重要なる 参考資料を得たことをば喜 ぶ 依っ て文部省は 此 , , の決議をば事情の許す限り, 緩急を図って成るべくこれを実行せんことを期する といふ方針 , を 執 る こ と と 思 ふ.( 4 , ). 田所は会議の答申決議に満足の意 を表し, これを政策的な足がかりとして積極的に観迎するかの 態度を示している. 実は, これにはすでに 文部省がある付石を投じていたのである 文部省はこの . 年の3月に, 「師範学校 中学校高等女学校 教員試験検定」 の学科目中から突如 「法制及経済」 を除外 した, 4 ( 2 ) 『都市教育』 はこれについて, 「文部省に於ては法制経済の中等教員は目下其の需要を感ぜ ざるに依り 四十五年度より中止する事 となりたり」 と報じた 4 (3 ) , 69.

(11) . 新. 田. 和. 幸. このように, 中等学校の 「法制及経済」 科の設置の割合がま だ低く, かつ有資格教員が非常に数 少ないうちに, 文部省が教員検 定を 「中止」 することはこの科の廃止をもくろんだものとの非難を 免れ得ないし, またそのこと 自体中学校長会議にたいする強い方向づけとなっ ていることを否定で き な い.. 翌191 3年3月, 政府委員として議会の答弁に 立たされた田所は, 自ら教員確保の 道を閉ざしてお きながら, 政府の姿勢を追求されて 「昨年中学校長会議ノ時ニモ法制経済ノ欠ヲ補フ様ニ話シテ置 弄しな キマシタ」 , 「漸時適当ノ教員ヲ得次第其欠ヲ補フテ往ク筈デアリマス」 と事実に反する言を け れ ば な ら な か っ た.( 4 4 ). 912 「立憲主義」の風潮の高揚と藩閥官僚にたいする 政党の攻勢が継続する中 で, この検定中止は1 年だけに限られざるを得なくなっ たのであっ たが, それは 「立憲思想」 養成の歴史の中 で見落せな い事件であった. 3. 憲法発布記念の方 法実現と 「立憲思想」 養成の具体方法の模索 前に述べたように, 「立憲思想」 養成の要求は主として 「憲法発布勅語」 奉読式の設定にむけられ ていった. この 議会の要求に たい して行政府は 具体的な 施 策に 踏み切 ることを回避 して いた. 191 3 (大正2) 年の夏, その理由について福原文部次官は次のように語っている.. …. 小学校は随意に之が奉読式を挙行するが如きは敢て妨げざるべしと難も政府当局に於 て之が実行を命令するが如きは今暫らく 研究したろ後ならざれば断定すべからざるなり, 殊に 該奉読式の挙行に際し一事の困難とも云ふべきは元来憲法発布の紀念日は帝国三大節の一たる 紀元節にして同日は既に定りたる奉読式ありて『教育勅語』『戊申詔書』の二大勅語奉読あるに 今又更らに憲法発布の勅語を奉読せんか如何にお儀式とは云へ余りに 無意味に了らしむるなき か を 憂 ふ る な り( 4 5 ). ここで福 原が 「憲法発布勅語」 の奉読式日の制定をためらったのは, 先だって田 所普通学務局長 も議会 で抵抗を示したのと同じく, 「立憲思想」 養成の効果的方法の配慮からではなく, 「国体」 の 紀元を祝すべき意味の相対化・ 希薄化への危倶の一点から であっ たことはいうまでもない. だが, すでに教育界においても大きな世論となりつつあり, 議会でも根強い要求が続く なかで, もはや具体的対応を避けることはできなかった. 34議 会には, 前年の二つの建議を背景に, 以下の 「質問書」 が提出さ れている. 国民ノ政治的智徳癌養ニ関スル質問主意書 右成規ニ依り提出候也 大正三年二月七日 提出者 一. 村松亀一郎. 賛成者. 岩崎安次郎. 外九十人. 国民ノ政治的智徳癌養ニ関スル質問主意書 国民ノ政治的智徳ヲ緬養スル為 毎年二月十一日ヲ以テ憲法発布ノ謝恩会ヲ起シ各学校ニハ 学生ヲ又各市町村役場ニハ市町村民ヲ召集シ鴻大 無量ノ 聖恩ヲ奉謝スルト同時ニ憲法発 布ノ 勅語ヲ捧読シ深厚ナル 聖 旨ノ存スル所ヲ講演シ 以テ国民ラシテ憲政ノー日モ忽諸 ニ付スヘカラサル所以ヲ会得セシムルハ 目下ノ急務ト認ムトハ第 三十回議会ニ於テ本院ノ. 70.

(12) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成問題. 殆ト満場一致ヲ以テ建議シタル所トス政府ノ・此ノ建議ニ対シ如何ナル処置ヲ取りタルヤ ニ. 此ノ建議ニ向ヒ未タ何等ノ施設ヲ為サストセハ其ノ理由如何. 右及質問候也( 4 6 ) 上の 「質問書」 にたいして, 政府は以下の 「答弁書」 で応えている. 函養ニ関スル質問ニ対シ別紙答弁書差進候 衆議院議員村松亀一郎君提出国民ノ政治的智徳? (別紙) 衆議院議員村松亀一郎君提出 国民ノ政治的智徳? 函養ニ関スル質問ニ対スル答弁書 一. 国民ノ政治的智徳? 函養ニ関スル第三十回帝国議会建議ノ旨趣ノ・政府ニ於テモ同意ナルラ以 テ紀元節ノ当日中等教育程度ノ諸学校ニ於テハ憲法発布ノ勅語ヲ捧読セ シメ小学程度ノ諸 学校 ニ於テハ右勅語ノ御旨趣ニ副フベキ訓話ラナサシムルコト・シ全国ヲ通シ本年ヨリ之 ヲ 実 施 セ シメ タ リ. ー. 函養ニ関スル第三十回帝国議会建議ノ趣旨ノ・政府ニ於テ同意スル所ナリ 国民ノ政治的智徳? ト錐モ市町村住民ヲ市役所又ノ・町村役場ニ召集スルニハ特別ノ設備ラモ必要トシ且其方法 容易ナラサルモノアルラ以テ未タ適切ナル処置ヲ採ルノ時期ニ達セス. 右及答弁候也 大正三年三月三日 内務 大臣. 原. 文部大 臣法学博士奥田. 敬. 義 人( 4 7 ). 政府は, 議会の要求のうち, 市町村民の 「謝恩会」 は容れず, 「憲法発布勅語」 の奉読については 中等教育段階にのみ実施することにした, と答弁している。 具体的には1 914年(大正3)年2月 6 日付の 「官普43号 各地方庁並各高等師範学校へ 普通学務局長通牒」 で指示が下されている。 中等教育程度ノ公立私立諸学校ニ於テ紀元節ノ挙式ニ際シ教育ニ関スル勅語ノ外憲法発布ノ 勅語ヲ奉読セシムルコトノ・憲法発布ノ大典ヲ記念セシムルノミナラズ教育上必要ノ儀ト被存候 ニ付貴県 (府) 中等教育程度ノ諸学校ニ於テ今之ヲ実施セシメラレ候様致度尚小学校程度ノ諸 学校ニ於テハ単ニ右勅語ノ御旨趣ニ副フベキ訓話ヲ為サ シメラレ度様御取計相成度依命此段及 通 牒 候 也( 4 8 ). 結果的に, 「奉読」は中等教育段階だけでおこなわれることになり, 国民大衆の教育にはそれをも ちこもうとせず, 小学校においてはたんに 「訓話」 をなさしむることになっ た。 上の通牒実施上の 注意を田所普通学務局長は次のように指示している。 すなわち,「我が憲法の由来する所夫壌 と共に 窮りなき我が国体の特質に存」することを大前提とし, 「国民の立憲思想をして其の基礎を我国民道 徳の特質に置かしむるを念とせ ざるべからず憲法発布の勅語の聖旨を貫徹せんには教育に関する勅 語の聖旨を貫徹するを以て其の基礎とせ ざるべからず」 として, 極力 「国体」 思想への回帰に注意 を 喚 起 す る の であ る。( 4 9 ). しかし, 議会をはじめとする 「立憲思想」 養成の要求は, 上にのべたように最終的には形式o内 容面 でさま ざまの制約を与えられたのではあっ たが, その要求が公教育制度の中に明確なかたちで 71.

(13) . 新. 田. 和. 幸. 位置づけられるに至った点に注目しなければならない. さらに1 914(大正3)年5月15日の地方長官会議で, 大隈首相は施政の全般にわたっ て「憲政ノ 運用ヲ完セム」 とする政綱を示した. 大隈はその中で 「教育ノ改善刷新ノ・朝野多年ノ宿題タリ政府 ノ・鋭意之力調査ヲ進捗 シ適当ナル解決ラナシ特ニ忠良ナル立憲国民ニ必要ノ思想及徳性ヲ癌養セム コトラ期ス」と歴代の内閣の中 では じめて「立憲国民」の養成を教育の重要課題にかかげた. 5 o ( )大隈 首相自ら, 立憲思想養成の必要から国定教科書制度の見直しを意志表明したことについてはすでに 指摘さ れたが, 5 . ( ) このような内閣の姿勢が文教政策にも 反映されている. これ以後文部省は, 帝国教育会主催の各種の教員会や文部省が召集する学校長会議などの中で, 「立憲思想」 養成に留 意すべき旨をとくに指示している. 2 ( 5 )そして, 1915(大正4) 年の11月下旬 に帝国教育 会が主催 した全国教育大会と同12月上旬に文部省が召集 した全国中学校長会議の双方 に, 文部省はそれぞれに小学校児童と中学校生徒とに対する 「立憲国民として必要なる思想性格を 緬養するに最も適切なる方法如何」を諮問している. 5 3 ( )こうして文部省は「立憲思想」養成の具体的 な教授・訓練の方法を模索しはじめていた. このときの中学校長会議は, 前回とはう って変り 「法 制及経済科を活用せしめ」 る方針を明らかに したのみならず, 教科課程と学校運営とを全体として. 「立憲 思想」養成の方向へと導こうとするなど, 積極的な姿勢を示して いる.( 5 4 )それは全国教育大会 の小学校教育の答申 の場合も同様であった. 今や 「立憲思想」 養成は教育施策上もっ とも大きな問題となりつつある.. む. す. び. 日露戦争後の伝統的秩序の動揺と階級的対立の進行の中で, 政党はますます 「立憲」 主義による 国民の政治的統合を軸として 「帝国」 の発展をめ ざす方向を強くするが, 国民の 「立憲 思想」 養成. の必要は政党政治実現要求と不可分 のものとして主として政党によっ て主張された. それは, 国民 の政治的権利 の拡大要求を前提としつつ, 国民の 「権利」 意識の発揚を基礎とした国家への忠誠観 念の養成を目的とするものであっ た. これにたいして藩閣官僚勢力は, 家族国家観にもとづくイ デオロギー的再編によって, 「立憲」主 義 の侵蝕をおさえ専制体制 の維持をはかろうとする. この点から官僚は, 一方 で国定教科書のイ デ オロ ギー強化を急ぐと同時に, 他方では議会における政党の要求に抵抗しようとするが, もはやこ れを正面から拒むことはかなわぬ状況となっていた. したがって, 現象面からみるとこの時期は, 両者の教育的方向性が対立面を卒んだまま同時に 進行した時期 であっ たともいえる. しかし, 大勢 からみると, 「立憲思想」養成が時代の要請として人間像形成の内面的論理の中にその位置を獲得す る方向へとつきすすむのである. 政党はこの時期もっ とも直接的に 「立憲思想」 の養成を主張したが, その象徴的な要求が 「憲法 発布勅語」 奉読式の制定化であっ た. それは天皇の権威と 「儀式」 の威力 によって 「思想」 養成の 効力を獲得しようとするもの であっ たが, 実はこの方法自体本来 「立憲 思想」 養成手段としては倒 錯したもの であっ た. ここに政党の 「立憲」 主義自身の限界が映し出されているといえるが, しか しそれとて官僚にとっては容易に実施されるべきこと ではなかった. それは絶対不動の 「国体」 と 国民道徳の絶対的価値基準としての教育勅語の相対化への危険を察知 したからであった. だが, 政党が, 藩閥官僚勢力 への 攻勢の中 で, 形式・内容面において制約を受けながらも公教育 の中での憲法記念方法の制度化を実現させたことは教育 政策上の一つの転機をもたらした点 で大き 72.

(14) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成問題. な意味をもつの である. これ以後, 国家は 「立憲思想」 養成を普通教育の重要な施策に位置させる こ と に な っ た し, そ の 内 容 o 方法を具体的に模索する方向をとるに至ったの である この意味で . , それは橋頭量的役割 を果したものであるといえる。 このように明治末から大正初期の時期に, 「立憲 思想」養成問題は明らかに前進を示した もちろ . ん, この過程がさま ざまの肢行的な歩みをた どったし, 「思想」 養成の内容・方法がそもそも大きな 限界をもっていたことを前提としながらも, 教育が新たな変化を示した時期として画すること がで きよう。 最後に, ここでは 「立憲 思想」 養成の一面から教育的な面での変化をみるにとどま っ たが 教育 , の全構造的な変化と「体制的人間像」形成の論理の変容を総体的にとらえるま でに及ん ではいない 。 今後の課題とするところである。. 〈注〉 ( 1 ) 第2 6帝国議会衆議院委員会議録, 「予算委員第一分科 (外務省, 司法省及文部省所管) 会議録 (速記) 第五回」 (明治43年2月 4 日) ( 2 ) 同上 ( 3 ) 同上 ( 4 ) 同上 ( 5 ) 第27帝国議会貴族院委員会議録, 「予算委員会議事速記録第五号」(明治4 4年2月 22 日) ( 6 ) 第27帝国議会衆議院議事速記録, 5 4 9頁 (明治4 4年3月1 8日) ( 7 ) 第27帝国議会衆議院委員会議録,「初等教科書中政治法律, 経済等ノ事項ヲ増加スルノ建議案外三件委員会議 録(漉き )第一回」(明治四十四年三月ニ十日) . なおこの後, 会期切れのため審議未了となっている。 ( 8 ) 同上 ( 9 ) 「尾崎号堂全集」(公論社刊) 第四巻, 4 15~4 1 6頁 ( l o )2 8帝国議会衆議院議事速記録, 4 37頁 (明治4 5年3月 22 日) . ( 1 1 ) しかし, 26議会衆議院の「普通選挙ニ関スル法律案委員会」での日向輝武委員長の以下の発言などをみるとき , 藩閥官僚の社会主義への対応との本来的な相違を見出すことができる . 此制度〔普通選挙制度のこと -- 筆者〕ヲ執行シタ結果, 国民全階級ノ代表者ガ国会ニ現ハレルト云フコトニ ナリマスガ, 従ッテ労働党ノ首領モ出テ来ルカ知レヌ, 或ノ・社会党ノ首領モ出テ来ルカモ知レナイ 併ナガラ是 , ノ・立法ノ基礎ヲ拡張スルト云フ効能ガアッテ, 其外何等少シモ憂フベキコトノ・ナイト信ジテ居ル 労働党ノ議論 , デアリマシテモ, 其議論ガ日本国民自身ノロカラ出テ, 正義ノ上ニ之ヲ争フト云フ以上ハ 吾々ノ・之ヲ国会ノ議 , 政ノ壇上ニ迎ヘテ何ヲ恐し, 何ヲ憂ヘヌト, 悪フノデアリマス … 〔第2 6帝国議会衆議院委員会議録, 「普通選挙 ニ関スル法律案委員会議録 (速記) 第三回」(明治4 3年3月 9日) 〕 即ち, ここには権力的思想弾圧を専らの手段とする官僚と異なって, 言論を保障してあくまで 「議政壇上」 で の決着を本としようという政党政治家特有のオプティミズムをみることができよう . ( 1 2 )Q I )と同じ 「委員会議録」 による. ( 1 3 ) 第30帝国議会衆議院議事速記録, 87頁 (大正2年3月 8 日) ( 1 4 ) 同 上, 87~88 頁. Q ) 第30帝国議会衆議院委員会議録, 「立憲思想養成ニ聞スル建議案委員会議録(筆記)第一回」(大正2年3月1 5 0 日) ( 1 6 ) 田所は中学校長会議の中でこのような議論があったかのような表現をしているが 中学校長会議の議事録の中 , には見あたらない。 ( 1 7 ) 第30帝国議会衆議院議事速記録, 21 3頁 (大正2年3月 22 日) ( 1 8 ) 『教育時論』4 62号 (明治31年2月1 5日) は, 「帝国憲法と紀元節」 と題して, この点を以下のように論じて いる。. 73.

(15) . 新. 田. 和. 幸. 夫の教育に関する勅語の下りしより, 弦に九年を経過して, 其ノ旨趣, 今は全国に普及し, 教育上唯一の宝典 として尊重せられ, 国家教育の上に不抜の基礎を与へたり. 然るに, 我が帝国憲法は, 日本国民の子々孫々に至 るまで遵法すべき千歳不磨の宝典にして, 恰も十年の年所を経過したるにも拘はらず, 教育社会に於ては, 夫の 教育勅語の如く, 特に其旨趣の普及を図るべき施設なきは転遺憾に堪へざるなり. … 吾等は, 学校に於て, 一定の歳時に, 教育勅語を奉読するが如く, 毎年紀元節に於ては, 憲法発布の紀念として, 教育勅語の奉読と・もに, 帝国憲法発布の勅語, 及帝国憲法の条文を朗読し, 簡単に, 其大意を説示するの慣例 を作らんことを希望するなり. 0日) の記事他によ 2日付, 及び 『東京市教育会雑誌』 第54号 (明治42年3月1 Q 9 0 「大阪毎日」 明治42年2月1 る.. 2日付 ) 「大阪毎日」 明治42年2月1 側 0頁) 2年2月11日> 03号 〈明治4 『日本及日本人』5 加 ) 高田早苗 「憲法発布二十年の紀念について」( , 29~3 58頁 鰹 ) 文部省普通学務局編 『明治四十五年六月全国中学校長会議要項』 の 「会議速記録」2 同 上, 258~259 頁. 回. ( 2 4 ) 同上, 26 0頁 同 上, 260~261 頁. 回. ( の 同上, 2 1頁 2 6 ( 2 の 「奉読」 に参成を示さなかった一例については, むしろ 「法制及経済」 の必修化や 「立憲国民」 養成の教育内 容面での充実を強く主張し, 思想養成がたんに形式に堕す危険を指摘している. 0日) 園 『都市教育』1 01号 (大正2年2月1 , 43頁, 東京市教育会 ( 2 9 ) なお, この調査委員会が東京市教育会に出した建議には, 以下のような法規の改正案がもりこまれている. 第一間案ニ関シテハ東京市教育会ヨリ文部大臣ニ左ノ建議ヲ提出セラレンコトラ希望ス 小学校令施行規則第二十八条ノ三, 四ニ左ノ但書ヲ加フル事 三ノ但書 但紀元節ニ於テハ憲法発布ノ詔勅ヲ奉読ス 但紀元節ニ於テハ憲法発布ニ関スル詔勅ニ基キ聖旨ノアルトコロラ訴告ス 四ノ但書 ( 『都市教育』1 01号, 45頁) 側 ) 『帝国教育』371号 (大正2年6月1日) , 75~84頁 例 憲法記念の式日を2月11日にすべしとするのが通例 であったが, 以下のように紀元節とは別に設定しようと する考え方もあった. 0日) は, 新潟県教育会が 「第二十二回総集会」 で「第一回帝国議会 4 『越佐教育雑誌』2 7号 (大正2年7月1 の開院式を挙行せられたる十一月二十九日を以て帝国議会紀念日とし全国各学校をして式を挙げて憲法発布の 2 3~2 5頁, 勅語を奉読せしむるの恒例を定められんことを文部大臣に建議するの議」を可決したと報じている. ( 「新潟県教育会第二十二回総集会記事」 ) ( 3 2 ) 『中央公論』2 90号 (大正2年4月1日) 参照 ) これらの点については, 拙稿「日清戦争後の 《公徳》 養成の教育と《法制及経済》科の成立」(北海道大学教育 鰹 98 4年1月) を参照されたい. 学部教育史・比較教育研究室編 『教育史・比較教育論考』 第10号, 1 3頁)なお, 51~5 7 『明治以降教育制度発達史』第5巻, 5 0年4月17日文部省令第12号「師範学校規程」 ( 綿 明治4 本科女子生徒には 「規程」 8条で 「法制上ノ事項ノ大要」 を 「修身」 科の中に含ませて教授することとされてい る,. 75頁) 『明治以降教育制度発達史』 第5巻, 5 ◎ 明治40年4月17日文部省訓令第6号 ( 岡 同上 師 文部省普通学務局 『明治四十五年六月全国中学校長会議要項』 , 14頁 ( 3 め 同上 『要項』 の 「議事録」1 73頁 4頁 焔の 同上, 20 1頁) 84号, 大正1年8月15日, 1 『教育時論』9 回 奥山新治郎 「中学校法制経済科の存廃 (上)」( 5日, 3頁) 『教育時論』9 78号, 明治45年6月1 回 普通学務局長田所美治談 「中学校長会議所感」( 「官報」 明治4 5年3月15日) 回 文部省告示第59号 ( 明治四十一年文部省令第三十二号教員検定ニ関スル規程ニ依り左ノ学科目ニ就キ師範学校中学校高等女学校教員 試験検定ヲ施行ス受験者ノ・本年五月十日マテニ同規程第四条ニ依り願書ヲ地方庁ニ差出シ地方庁ノ、六月十日マテ ニ到達ノ日取ヲ以テ進達スヘシ 74.

(16) . 明治末~大正初期の 「立憲思想」 養成問題. 明治四十五年三月十五日 文部大臣長谷場純孝 試験検定学科目 修身 教育 国語及漢文 英語 歴史 地理 数学 物理及化学 博物 理科 図画 家事 裁縫 体操 簿記 農業 商業 手工 手芸 (刺繍, 造花, 編物) はめ 東京市教育会編 『都市教育』92号 (明治45年5月1 0日) の 「桑報」 らん ( 4 4 ) 第30帝国議会衆議院委員会議録, 「立憲思想養成ニ関スル建議案委員会 (筆記) 第一回」 姫 ) 福原文部次官談 「立憲思想養成と国民教育」( 『越佐教育雑誌』2 4 8号, 大正2年8月1 0日, 3頁) 包 め 第34帝国議会衆議院議事速記録, 3 9 0頁 は ) 同上, 3 7 91頁 包 8 ) 『大正三年 文部省例規類纂』 文部大臣官房文書課, 大正4年3月 25日発行 5頁 , . ) 田所義治普通学務局長「立憲思想養成と憲法発布勅語奉読」( ” 9 『帝国教育』38 0号, 大正3年7月1日,41~4 2頁) ( 5 0 ) 『地方長官会議ニ於ケル内閣総理大臣訓示集』 1年 , 内閣編, 昭和1 ( 5 1 ) 土方苑子 「国定教科書批判論の系譜 -- 大隈首相の国定打破論をめぐって --」( 『信州白樺』 第49 .50合併 号, 1982 年 7月 20 日) を参照のこと , ( 5 2 ) 『帝国教育』3 82号 (大正3年9月1日) 及び 『大正三年十月全国師範学校長会議録』(大正4年5月) などに よる.. ( 5 め 東京府教育会 『東京教育』3 0 8号 (大正5年1月) 3頁及び文部省普通学務局 『教育会等に対する諮問事項並 ,4 答申要領』(大正8年) 7~5 8頁参照。 ,5 回 答申内容は同上 『答申要領』 (本学助手・岩見沢分校). 75.

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