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マハヴィーラの業説

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ジャイナ教の聖典によれば、ジーヴァ含ぐゆ、活命・生命、霊魂、精神原理︶は∼それ自体、完全なる見︵留泳四国沙﹀ §甘困g︶、智言目色︾鼠目︶、力︵く胃冒︾く目冨︶、楽︵、具冨﹄、巨冒︶を有するが、このようなジーヴァの本性が 自由に発現するのは解脱に到達した聖者においてのみである。外界にはカルマ︵冨罵冒騨︸業︶になりうるプドガラ ︵自侭己山。物質︶が充満していて、ジーヴァが身口意の動作含○咽︶を起すと、それにしたがって、ジーヴァの中に その物質が入りこみ、附着する。これを漏入︵倒閏秒くいゞ四目葛の︾倒閨ぐの︶と称する。ジャィナ教徒が業と呼ぶのは、 身口意の動作の結果ジーヴァに附着したこの物質のことであり、そのためにジーヴァの本性が覆われ、縛︵冨且目︶ が生ずる。したがって、ジャイナ教説によれば、業が輪廻転生の原因となる。ジャイナ教聖典では、︲ ① ﹁無始の輪廻に於いて、諸の業は種子たり。﹂ ﹁総ての有身のもの︵笛ぐぐ四︲号冒ご︶の輪廻に於いて浬藥せざるは業を根とす。諸の苦は業を根とし、生はまた ② 業を根とす。﹂

マハーヴィーラの業説

一 長

四○四

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と説かれているのは、そのためである。 それでは、このような迷いの生存から脱し、解脱するには、どのような方法があろうか。附着した業の束縛から ジーヴァが脱するとき、その本性が現われる。それ故、正しい宗教生活によって新たな業が入るのをくい止め︵す なわち遮の騨昌︲ご四国︶、すでに入った業を苦行︵冨冨戸冨ぐ①︶によって減しなければならない。これを減︵己ユ四国・ 且舌国︶といい、これによって解脱︵目鼻笛︶が得られる。 ところで業は、道徳的善行によって得られる場合が福徳e目圃︶であり、悪行による場合悪︵凰圃︶であるが、 両者とも輪廻の因である。ジーヴァと結びついて輪廻転生を続けるのは、業身︵目黒日⑳邑騨の四目目白﹀冨日自侭騨昌 の四日騨昌︶という物質からなる微細な身体である。さらに物質としての業は、ジーヴァの本性を阻害するもの命目武︲ 冨儲目色︶と阻害しないもの︵動唱弾房肖目四︶との二つに分けられる。前者には]倒目ぐ胃餌昌冒︵智の覆︶、目泳四目︲ ご胃塑昌冒︵見の覆︶、目○目昌冒︵愚痴︶、四口国圃冨︵障碍︶の四種を数え、後者にはぐの3昌冒︵苦楽の感受を起すも の︶、9口曙騨︵寿命を決定するもの︶、目目色︵個性を作るもの︶、噌吋四︵種族を決定するもの︶の四種があり、合わせて 八種となる。この八種の業はさらに細分され、全部で一五八種となる。 以上述べたジャイナ教の業説は、ジャイナ教の聖典にもとづく伝統的な解釈である。したがって、ヨーロッ。︿や インドの学者がジャイナ教の業を論ずる場合、ほとんど一﹂の伝統的業説を述べている。もちろんジャイナの業説に ③ は、その分類に主眼がおかれ、思想的展開がなされなかったからであり、原始聖典に見られる業説は、ジャイナ教 の開祖マハーヴィーラの業説と根本的に大差がないと考えられるからである。たしかに、。#四国号剴菌冒四に説か れている業論も、国彦樹勢ぐ鼻尉昇困におけるそれも、園胃目侭国旨昏四で論ずる業も、その本質における教義上の展

↓、︿−ヴィーラの業説四○五

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開は見られず、 及びインドのへ 的傾向である。 伝統的業説とは大きな相違はないとしても、ジャイナ教祖マハーヴィーラは、業をどのように説いたであろうか。 ジャイナの原始聖典には、古い資料とともに新しい資料も混在しているので、新古を区別するのがなかなか困難で あるが、そのうちでも最古と考えられる普制盟曾︵普禽P肩昇目盟︶第一部と崔剴国侭四第一部、さらにそれに つづいて古い部類に入る房ご目巴箇眉とか己閉騨ぐ①乱辱四においても、伝統的解釈で云われるような業説が具体 的に説かれておらず、もっと素朴なかたちで業を語っている。したがってマハーヴィーラの業説を考察してみるこ われわれは業を行為とか生活とかと考える佛教の業説に慣らされているためか、業を物質とする教義に対し異質 なものを感ずる。さらにその業は、身口意の行動︵冒盟︶によって引寄せられた物質であるとする場合、業は行為 ではなく、行為の余勢がジーヴァに附着したすがたである。何故に行為によって生ずる物質を業と呼び、身口意の 行動を業と云わず、冒窓という言葉を用いたのか。後の註釈家は冒盟をジーヴァの振動︵富国名閏︺§︶である ④ と解釈しているが、何故にそのような解釈が生じたのであろうか。これらの問題点を含め、マハーヴィーラの業説 を論ずることにしよう。なお、ジャイナ教の伝統的業説に関しては、別の機会に詳しく論ずることにする。 とも無駄ではなかろう。 的に説かれておらず、‘ ① 註 ]唾一三国普言自己国︾画三﹃.⑫。ご芦一︶国]︺ぬ﹄房一豆一画蟹寮昌ゴ︾同旨]己三色︲弓⑦x汁︵房]︲一辱三︶函︵量馴︾z國亘一月,旨二言﹀二/|筆○巨旦の].シ一s壱︵一C二三の 後期になるにつれその分類を詳しく述、へ、枝末的な発展しか認められない。したがってヨーロッ・︿ 一ヤイナ学者がジャイナ教の業説を論ずる場合、業の伝統的解釈と詳しい分類を主題とするのが一般 四○六

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原始佛教経典にはニガンタ・ナータプッ.タ︵冨阻員gz弾眉ロヰ四︶の業説が数ヶ所に見出される。ニガンタ・ナ ① −タプヅタはジャイナ教の開祖マ︿−ヴィーラ︵冒四闘昌3︶を指すことは言うまでもない。’一ガンダ︵離繋︶とは かれ以前にあった裸行の一派の名称であり、その派からジャイナ教が展開したといわれる。ナータプッタはナータ 族の出身者を意味する。かれは釈尊と同時代の人であり、釈尊とほぼ同じ地方で布教活動を行なっている。したが って阿含ニカーヤには、同時代のライバルとして、ジャイナ教徒に関説するところが数多い。業に関する場合、主 にマハーヴィーラの業説を批判するために引用されているが、その伝えるところは佛教徒によって歪められた学説 ではなく、信想性があると考えられる。 それでは一一ガンタ・ナータプッタの業説を、まず増支部七四︵二二○’二三一頁︶から引用することから始めよう。 場所はヴァイシャリーである。リッチャヴィ族のアゞハャがアーナンダ︵阿難︶に次のように語った。 ﹁大徳よ、’一ガンタ・ナータプヅタ︵離繋若提子︶は一切智者︵39畠目︶、一切見者︵里︶冨烏の困昌︶なり、

マハーヴィーラの業説四○七

③宇野淳教授によれば、クンダクンタのみは、業論に独創的見解を展開せしめていることを明らかにしている。︵宇野淳﹁ジ ②目︵一烏〆.]. ャイナの業論﹂日本佛教学会年報︶。 ④弓.留冒耳旨四目の闇呂﹃①烏剖看冒開﹀印邑里. ︵胃乏騎mg釦。富津。]]旨の茸昏晶①ロ営昌○一c唱質︺言l目算︵︶且印g①国。膿①︺屋怠zH&亘巨︵一后臼・松濤誠廉﹁聖仙の語録﹂︵九 州大学文学部四○周年記念論文集︶参照。 一一

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︹彼は︺智見余す所無しと称すI我は行いても、住まりても、眠りても、覚めても、恒に断へず智見現起せ り、と、彼は苦行によって︵冨冨閏︶諸々の古い業︵冒働目口少昌冨日日目色日︶を破壊し、新しい業︵邑曾ぐ目空目 百日目目四日︶を不作によってくい止める。このようにして業宥ゅ日日②︶尽くることによって苦︵目匡満冨︶尽く 苦尽くることによって受︵ぐ①§鼠︶尽く、受尽くることによって一切の苦︵“号9日目戸丙9日︶が尽くるであ ② ろう。このように、この現に見られる滅尽清浄によって、︹生死の︺超出がある。﹂ この引川経典のうち﹁一切智者、一切見者:⋮⋮眠りても、覚めても、恒に断へず智見現起せり﹂と同じことが 増支部四︵四二八頁︶では富藺那迦葉︵勺胃眉四炭騨の困冨︶に対しても言われているから、これはニガンダ、ナータ プッタにのみ言われることではない。したがって、ニガンタ。ナータプッタの業説は、苦行によって古業を破壊し 新しい業をくい止めること、及び、業滅←苦滅←受滅←一切苦滅←︹解脱︺、に要約できる。 これとほぼ同じ内容の業説が中部一○一天臂経e①ぐ且煙冒︲2洋騨︶において次のように語られている。 ﹁比丘等よ、ある沙門、婆羅門あって、このように説き、このように見る。﹁この人が如何なる楽︵“鳥目︶、 あるいは苦︵自国︽富︶、あるいは不苦不楽︵且烏戸冨儲鳫冒︶を感受しようとも、そのす、へては前に作られたも のを因宕目ご鳥鼻四台①目︶とする。﹄このように云って、苦行によって諸点の古い業︵官田圃口四日園日日目”目︶ を破壊し、新しい業︵ロ四乱ロ四目菌日日目四目︶を無作によって未来に影響︵煙く儲闇ご色︶を残さず、未来に影響 を残さないことより業の滅尽あり、業の滅尽によって苦の滅尽あり、苦の滅尽によりて受の滅尽あり、受の減 ③ 尽によりて一切苦が尽くるであろう。﹄比丘等よ、’一ガンタ︵尼乾︶はこのように説いた。﹂ ここで説かれている業説も最初に引用した増支部七四と同一であるが、人が楽、苦、不苦不楽を感受するのは、 四○八

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すゃへては前に作られたものを因とする、と記されていることが注目される。これと全く同じことが増支部三・六一 にも説かれ、それに相当する漢訳中阿含第十三経では、﹁入所し為一切皆因二宿命造一﹂となり、いわゆる宿作因説と ④ 言われ、釈尊は、そのような業説においては意欲も努力もないとして批判している。 さらに先に引用した中部一○一天臂経では、次のようにも説かれている。 ﹁諸賢尼乾よ→汝等前世に悪業を為した。それをこの烈しい難行によって壊滅せよ。また今ここに身をもって 防護し、口をもって防護し、意をもって防護すれば、それは未来において悪業をなさしめない。このようにし ⑤ て苦行によって諸々の古い業を破壊し、l︹中略︺’一切苦が尽くるであろう。﹂ ⑥ 中部十四﹁苦湘小経﹂においても同一の説が見出されるが、すでになした行為によって生じた悪業を苦行によっ て減し、未来に悪業をなさしめないために身口意による防護を勧めたものである。ここで注意す︽へきことは、身口 意を業とは呼んでいないことである。 ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 註 シz胃︾や四画Cl図画房 旨zS]︵[旨﹄や 舟橋一哉博士は、 旨zs胃倉目︺や 旨z匡芦﹀弔罵︶ ニガンタ・ナータプッタは六師外道の一つに数えられている。雲井昭善﹁佛教興起時代の思想研究﹂︵平楽寺書店︶参照。 マハーヴィーラの業説 西澤一︶・ これについてすでに指摘しておられる。舟橋一哉﹁業の研究﹂︵法蔵館︶二’三頁。 西澤函︶。 四○九

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われわれがこれから行なおうとする作業は、以上のニガンタ・ナータプッタの業説が、はたしてジャイナ教の古 層聖典に説かれているか否かを調査し、もし一致する説が見出されるならば、新古の資料が混在するジャイナ教聖 典の中において、その部分はマハーヴィーラの説に近いはずである。このようにして、両資料の一致するところを 集めれば、ジャイナ教の初期の業説がある程度知られるはずである。 に j l く 引 まず最初に1から検討することにしよう。古い業︵冒国冨日]3日目四日︶とは、過去になした行為の結果ジーヴ 仁 ァの周囲に附着した業であると理解してよい。新しい業︵.色ご曾召冨目目色眉︶とは、未来に行為をなした場合漏入す 以上によってニガタン、ナIタプッタに帰されている業説がほぼ明らかになったが、さらにそれを検討するため 、ここに整理してみよう。 J 1苦行によって古い業を破壊し、新しい業をくい止めること。 X 2業滅←苦滅←受滅←一切苦滅←︹解脱︺ I 3楽、苦、不苦不楽を感受するのは、す、へては前に作られたものを因とする︵宿作因説︶。 に ﹄ 4過去の行為の結果生じた悪業を苦行によって減し、未来に悪業を生じさせないために身口意による防護を 吃 −斗一 9 る 0 三 四一○

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という資料は苦滅←受滅と同じ意味に理解できよう。受とは感受性であり、世俗的な生活の根底にあって働いてい るが、解脱するためにはそれをも減しなければならない。だから業滅←苦滅←受滅←一切苦滅なる解脱に至る過程 が成立っのである。ところで業によって苦が減し、受が減し、最後に一切苦が減するとする場合、業が、要するに 苦の原因であり、受の原因であり、一切苦の原因であることになる。さらに業が苦も受も一切苦をも含むことにな り、苦を感ぜしめるのも業であり、受を成立させるのも業であり、一切苦を感ぜしめるのも業となる。ジャイナ教 の伝統的な業の解釈によれば、業には甘習剖騨目昌菌︾鳥貝蟹目く閏騨冒冒﹄目○目昌冨ゞ抄冒菌国富なるジーヴァの本 性を害するもの、及びぐの目昌匂騨︾身扇制︾冒凹昌沙︾噌茸解なるジーヴァの本性を害さないものとがあった。このよ うな業の分類は、要するに苦を感ぜしめる業、受審感ぜしめる業、一切苦を感ぜしめる業を八つに分類したことに なる。そこにはわれわれが考察している受︵ごc§目︶と関係づけられるぐの目昌冨も含まれている。ぐの§日置と は、快、不快を感ぜしめる業である。したがって→パーリのニカーャに見られる﹁業減←苦滅←受滅←一切苦滅﹂ も;現存する古層に属するジャイナ教聖典には、それを裏づける洲足な資料は見出されないけれども、ジャイナ教 の業論から充分に論証できうる。したがって、﹁業滅←苦滅←受減←一切苦滅﹂と﹁業尽←苦尽←苦辺を得る﹂の 両説ともニガンタ・ナータプヅタに帰してよいであろう。 ところで、相応部三五・一四五に﹁業の滅尽﹂﹁業の滅尽に達するの道﹂を説く経典があるが、佛教においても ﹁業の滅尽﹂を説くのであろうか。まずその教説を見ることにしよう。 ﹁比丘等よ、新古の業︵冒臼ぐ名冒国目昌冨目白倒昌︶、業の滅尽︵園日日甲昌儲○自騨︶、業の滅尽に達するの道 ︵富日日鰐︲員一・○号四囲目目[冒匡冨箇︶を説こう。それを聴け、よく思惟せよ、それを語ろう。比丘等よ、何を古

マハーヴィーラの業説四一三

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い業とするか。眼は作為されたる︵号冒$且隣富国︶、意思せられたる︵号ご鋤昌o①冨琶冨︶、感受せらる兼へき ︵多細の3国茜︶、古い業令胃倒目︲菌日日四︶と見る。へきである。耳は⋮。:鼻は:⋮・舌は⋮・身は・・⋮意は作為され たる、意思せられたる、感受せらるべき∼古い業と見る、へきである。比丘等ょ、これを古い業という。 比丘等よ、何をか新しい業とするか。比丘等よ、如何なる業にても今身にて語にて意にて作すところのもの 比丘等よ、これを新しい業という。 比丘等よ・何を業の滅尽とするか。比丘等よ、何ものにても身業語業意業の滅尽よりして解脱に触るれば、 比丘等よ、それは業の滅尽といわれる。 比丘等よ、何を業の滅尽に達するの道とするか。これが聖なる八支の道なる、即ち正見、正思惟、正語、正 ⑩ 業、正命→正精進、正念、正定である。﹂ この経典の説くところは、ジャイナ教の業を論じてきたわれわれにとって、はなはだ奇怪に思われる。なぜなら ば、﹁古い業﹂﹁新しい業﹂というジャイナ教の業にのみ用いられる用語が出ている。しかも、現在ある六根が古 業であるとは、前世の業の結果としてのものであり、ジャイナ教の古業の意味をそのまま用いている。﹁新しい業﹂ とは、今身口意によって作すところのものであり∼ジャイナ教の新業とは一致しないが、次の﹁身業語業意業等 の滅尽よりして解脱に触るれば、“⋮・・・それは業の滅尽﹂なる記述は→業の減によって解脱に到ると説くジャィナ教 の業説に順じた理解をしなければならない。最後にその﹁業の滅尽に達するの道﹂とは八聖道であると説いてはい るけれども、理解に苦しむ説き方である。ジャイナ教の業の思想がその背後に感じられてならない。なぜならば八 聖道を﹁解脱﹂とか﹁浬樂﹂に入れかえれば、全くジャイナ教の教説であると見ることができる。それでは何故に 谷 四一四

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⑪ このような教説が佛説として伝えられているのてあろうか。 よく知られているように、マハlヴィーラはヴァイシャリー︵靜蔬倒三の近くのクンダプラ︵医目曾冒国︶に生れ 長い苦行の後大悟を開いてからマガダ︵巨樹邑冨︶のラージャグリハ角倒毒四目︺閃身煙唱冨︶からコーサラ︵因○協冨︶ のシュラーヴァスティー︵碑倒ぐ、﹃牌目︾閏ぐゅ茸宮︶、そしてアンガ参口噌︶のチャンパ宕四目吊︶p︶からヴァンサヨ四日印P︶ のカウシャーンビI︵民煙尻倒冒冒︾園○の騨日宮︶に布教の旅を続けたが、とくにラージャグリハは関係深い場所である。 一方ブッダ釈尊は、マハーヴィーラよりも布教範囲が広く及んでいるけれども、とくに関係深かった所は、シュラ ーヴァスティー、ラージャグリハ、ヴァイシャリーなどであり、マハーヴィーラの場合と全く一致している。した がって、ジャイナ教と佛教とは、地理的な面ばかりでなく、教義においても、交渉関係があったことは否定するこ とができない。原始佛教経典においてニガンタ・ナータップに言及する箇所が数多く見出されるばかりでなく、ジ ャイナ教の原始聖典においても佛教の教義に数多く触れるところがある。 ところで今問題としている相応部三五・一四五において説かれている教義が、仮面をかぶったジャイナ教の業説 である理由として、次のように考えるゞへきであろう。釈尊は、ジャイナ教徒あるいはマハーヴィーラの布教した地 方で説法することが多くあったので、それらの地方の人々のために、対機説法として、具体性をもたすために、最 初にジャイナ教の業の用法をそのまま用いて説法し、最後に八聖道に導き入れるためであった。いずれにしても、 このような教説が相応部に入れられて伝えられたということは、注目す令へきことである。このような観点から理解 すれば、ジャイナ教の業説はかなり佛教徒に知られていたことになり、阿含一一カーャに説かれている一一ガンタ・ナ ータプッタの業説は信想性があると考えてもよかろう。

マハーヴィーラの莱説四一五

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j 阿含一一カーャに見られる一一ガンタ・ナータプッタの業説の中の、3楽、苦、不苦不楽を感受するのは、す籍へては f 前に作られたものを因とする︵宿作因説︶、について検討せねばならない。佛教の伝えるジャイナ教の宿作因説を 裏づけるそのままの記述はないけれども、次に引用するジャイナ教聖典はその説と符合する。 ⑫ ﹁業がなさるるそのま上の結果が享受され、︵それは︶種を異る行動によりて出されたる苦或いは楽なり。﹂ ⑬ ﹁自己のなせる諸々の業の結果を自我は享くるなり。その故に自己のために悪に関して避く毒へし。﹂ 宿作因説とは、過去世になした行為の結果によって、現在の苦楽が決定されるという運命論であるが、釈尊はそ れを、自在天の化作を因とする尊祐説と、苦楽の決定は無因無縁であるとする無因無縁説とともに非難し、それに 反対する釈尊の立場を明らかにしている。そこで、宿作因説に対する釈尊の論点を引用しよう 勺。 ﹁前世に因を作りしが故に当に殺生すべし、前世に因を作りしが故に当に与へられざるを取るべし、前世に因 を作りしが故に当に非梵行を行うぺし、前世に因を作りしが故に当に妄語すべし、前世に因を作りしが故に当 に離間語す、へし$前世に因を作りしが故に当に鰯悪語すべし、前世に因を作りしが故に当に雑械語す、へし、前 世に因を作りしが故に当に負欲者なる、へし、前世に因を作りしが故に当に愼志者なるべし、前世に因を造りし が故に当に邪見者なるべし、比丘等よ、また前世の所作を堅実なりと執する人々には、これは作さる尋へし、こ れは作さる$へからずという意欲︵。g且沙︶もなく、また努力︵乱乱白煙︶もなし。しかるにかくの如く作さる ・へきと;作さるべからざるとが実に確に知られざるときに、失念して護るところなく住する人友には、自ら沙 ⑭ 門なりと称することの理由はない。﹂ 3 1 阿含ニカーャに見られる一再 前に作られたものを因とする 裏づけるそのままの記述はない ) 四 陰画J一 ノ、

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すなわち釈尊の非難によれば、宿作因説においては、﹁これは作さる、へからず、これは作さる、へし﹂という人間 の意欲も努力も認められないことになると言う。ジャイナ教の立場からすれば、それは必ずしも妥当とはいえない。 ジャイナ教でも意欲や努力を次のように許していると見るゞへきである。 ﹁汝の有するこの悪業を発展せしむるもの︵葛冒︲冨冒昌騨︲預弓P倉冨目︶を断ち終りて、最高のすぐれた目的 ⑮ を取るもの︵ロヰ騨日﹄農冒騨ぐ閏﹄騨脂倒巨︶となりて、努力するために︵く日冨茸倒①︶︵人は︶出家す簿へし。﹂ ⑯ ﹁自己は自己によりて作られたる諸業の果を享く。故に自己のために悪に関して︵創母四︶避くくし。﹂ ⑰ ﹁輪廻における苦の根本は、先になされた悪業なり。悪業の減のために、比丘は正しく出家す琴へし。﹂ ジャイナ教によれば、行為の余勢とでもいうべき業が∼行為者の上に残る形を説明し、行為の結果ジーヴァに微 細な業物質が附着するとなした。したがって、過去になした行為は、直接今の苦楽を決定するのではなく、ジーヴ ァに附着した業によって、間接的に行為者の上に苦楽の影響を与える。だからその業を自分の意志によって抑えた り→減したりする道をとることも可能である。業は輪廻転生の因であり、苦の原因である。それを減しなければな らない。釈尊によって宿作因説として非難されるように、マハーヴィーラの業説は運命論に解釈できるが、その業 説をそのまま受け入れた生き方を勧めるのではなく、業の減に向う宗教生活に導くために業を問題とするのである。 したがって宿作因説を非難する釈尊の立場は、苦の因である業そのものに限って論じたことになり、その減を説く マハーヴィーラの業に対する態度を無視した非難であると言うゞへきである。古業を如何にして減するか、さらに未 来に新業が漏入するのを如何にして防ぐかを教えることが、業諭を展開する主なる目的である。 マハーヴィーラの業説 四一七

(15)

これは、原始佛教経典の伝えるニガタン・ナータプッタの業説のうちの一つであり$これについて検討しよう。 今までに、過去の行為の結果生じた古業を減するためには苦行によることを述令へたが∼ここで問題とするのは、未 来に漏入する新業を防ぐ方法である。﹁身口意によって防護すべきである﹂というのが、新業がジーヴァに附着さ せない方法である。それは次のジャイナ教の古層聖典と全く一致する。 ﹁愚かならずして!智と苦行と自制︵困日冨日四︶とに正見を有し、苦行によりて古昔の悪︵業︶を振り捨て、 ⑱ 意と語と身とに於いてよく守られたるは、比丘なり。﹂ ⑲ ﹁身と語とまた意とによりて、三護によりて守られ、汝、勝者︵冒色︶の語に住すゃへし。﹂ 以上によって、釈尊の言及する新業防護の仕方が明らかになったが、ここでジャイナ教で用いる身口意について 触れておきたい。佛教では身口意の三業と言うが、ジャイナ教では業︵冨尉目騨︶ではなく、冒彊︵言盟︶と呼ぶ。 すなわち、 ﹁身︵園百︶と語︵ぐ胃︶と意︵目“罵易︶のはたらき︵厨H冒騨︶ と説明されている。そしてジャイナ教特有の意味に用い、ジィーヴ いう。さらに後の註釈家は、ヨーガをジーヴ︸/の振動︵園ご醜冒弓︹言︶ 殊な術語を使用するに到ったのであろうか。 。 4過去の行為の結果生じた悪業を苦行によって減し、未来に悪業を生じさせないために身口意による防護をす rIL マCO (4) ⑳ は行為つ﹃○醤︶である。﹂ ァが身口意を動かして業物質を漏入する作用を ⑳ であると解釈している。何故にこのような特 四一八

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j ジャイナ教の古層聖典では、冒畷︵宕唱︶には、だいたい次のような用法が見出される。A行為一般に用いる場 E

⑳⑳⑳

合l鰊を引き抜く冒盟︵行為︶、非難すべき冒彊︵行為︶、行動︵ぢ暇︶、諸ヨーガ︵身口意の活動︶を減して最

⑳⑳、j

高位に入る、行為︵冒盟︶の捨離l、B精神統一としての所謂ヨーガー諭伽︵宕鴨︶に結ばれたる賢者の諸の悪 仁

⑳、j、︺、j

業は減せられるl、CAの意味かBの意味か明瞭に区別できない場合l警戒せよ。眠る勿れ。放逸なる汝の法 にE f

⑬﹃j

行に於いて、抑制の言盟︵行為?球伽?︶に於いて、盗賊どもが賤しき行為をなさざらん一﹂とをI、D結合の

⑳〆L

意味の場合I︵体内の︶火が身と食とを結合含o盟皇。噌︶によってI ﹄ ここにおいて問題となるのはAの意味であるが、古典サンスクリットにおいても、冒唱は﹁活動、努力、奮励﹂ に

⑳1−⑪

の意味に用いているから、Aは必ずしも特殊な用法ではない。・ハーリ語にもこの用法が見出される。したがって、 仁 初期のジャイナ教では身口意の冒盟とは、一般的に身口意の行為の意味に用いられたと考えられる。冨禺目四力 や、凡 行為の結果としてジーヴァに附着する業物質を意味することになったので、それと区別するために身口意には旨盟 の語が採用されたのであろう。さらに、ジャイナ教では、身口意の行為とジーヴァの関係を結びつけて、身口意を はたらかす作用がジーヴァの側にあると解釈されると、ヨーガは、ジーヴァが身口意を動かす作用を意味すること になり、ジャイナ教独特の意味が加えられる。さらに冒盟をの里①ご細目く貝冒目︵心的色彩のある力︶であると 定義されるようになり、おのずから後の註釈家がヨーガをジーヴァの振動令閨尉冒目砂︶であると解釈した理由が 明らかになる。しかしながら、われわれが問題としてきたマハーヴィーラの場合には、ヨーガには、まだそのよう な特殊な意味が加えられてはいないはずである。 原始佛教経典とジャイナ教の古居聖典とが一致して、未来に悪業を生じさせないために身口意による防護を説い

一入1ヴィーラの業説四一九

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ていたから、ジ、ヤイナ教の伝統的業説におけるように、ジーヴァが業物質を引入れる原因として身口意のヨーガが 考えられる。しかし阿含ニカーャにおけるジャイナ教の業に関する言及にも、ジャイナ教の古層聖典にも、身口意 のヨーガによってジーヴァが業物質を引寄せるとは、まだ充分に説かれていない。もちろん ﹁自制せずして歩みつ坐⋮・・・立ちっ上。:⋮坐しっ上。:⋮臥しっ上・・・⋮食しっL・・・⋮語りつょ、人は、生類を害 のように、殺生によって悪業を結ぶと説いているが、身口意のヨーガによるとは明確に言っていない。それに対し ⑬ ﹁煩悩︵§出冨︶とまた結とは業の執持の原因なり。﹂ のように$菌困冒によって業を引き寄せることを説いている。伝統的業説では、冒盟と冨出苗によってジーヴ ァが業物質を引寄せると説いているが、ここではまだその前段階であり、殺生等の行為とか煩悩が業を結ぶ原因で あると説いていたにすぎない。その後殺生等の悪業が身口意のヨーガ︵行為︶になり、さらにそのヨーガが、ジー ヴァとの必然的連結が明らかにされると、ジャイナ教独自の伝統的解釈が成立し、身口意を動かすジーヴァの作用 とか、ジーヴァの振動であると解されることになる。 以上が原始佛教経典に伝えられるニガンタ。ナータプッタの業説であるが、その他マハーヴィーラの業説に言及 する箇所が二三見出される。例えば、中部五六ウ。ハーリ・スッタンタ︵優波離経︶には次のように伝えている。 ﹁離繋派のナータプッタは悪業︵圃冨昌冨冒冒四目︶の成就、悪業の展開に関して、幾何の業を施設するや。﹂ ⑫ し、悪業を結ぶ。﹂ 5) 四二○

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﹁離繋派のナータプッタは﹃業︵冨目日酬一︶なり、業なり﹄と施設するを常とせず。卿崔曇よ、離繋派のナータ ブッタは、﹃罰︵烏昌曾︶なり、罰なり﹂と施設するを常とす﹂:⋮. ﹁離繋派のナータプッタは悪業の成就、悪業の展開に関して、三罰を施設す。即ち身罰、口罰$意罰なり﹂ ⑭ 。:⋮﹁・⋮:悪業の成就、悪業の展開して、身罰最も重し︵日四颪︲出ぐ且言苗圃︶と説く。・・⋮・﹂ すなわち﹁悪業﹂に対して﹁業﹂とは云わず、﹁罰︵3目色︶﹂と言う語を用いている。これは、すでにわれわれ が述べてきたように、ジャイナ教では、ジーヴァに附着した業物質を﹁業﹂という語で表わしているため、当然の ことである。ジャイナ教の古層聖典においてもgp3という語は﹁罰﹂という意味において、非常によく用いら

⑮⑯

れている。さらに身罰が最も重いということに関しては、すでにヤコービが指摘しているように、普茸農樫薗凋沙 の中にそれに一致する記述がなされている。すなわち∼知能や意識が発達していない人の場合、身口意の行為を意 ⑰ 識しないけれども、罪を犯すこともあるし、無意識に罪を犯すことのあることを述べている。さらにこれに関述し て、釈尊の業説が動機とか意図にかかわって解釈されていることに対し、同じ普酎巴自国侭曾において、厳しく 非難している。その要旨を記せば次の如くである。 ﹁もし一人のムレッチャ族が、穀物倉を本当の人間であると思って焼串をさしたり、瓢箪を本当の赤児である と思って焼串にさして焼くならば、佛教徒によれば、彼は殺人の罪があるだろう。 もし一人のムレッチャ族が、本当の人間を穀物倉の断片$あるいは赤児を瓢箪と間違えて焼串をさし、焼い たならば、佛教徒によれば、彼は殺人の罪はない。 もし人間や赤児を、それによく似たものと思って火の上にのせて焼いたならば、それは佛教徒に適当な食事

マハーヴィーラの業説四二一

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しろ、身業最も一 明らかになった。 もう一つ、業とその果報に関する記述をニヵーャの中から引用しよう. ﹁大徳よ、’一ガンタ。ナータプッタは弟子等のために是の如く法を説く、﹃誰人にても生命を破却する︵凰冒目 四首目叫胃は︶ものは総て離去処・地獄に堕っ、誰人にても与へられざるものを取る︵座呂目崖冒倒呂冨gものは 総て離去処$地獄に随っ、誰人にても諸欲に於て邪まに行う︵圃日omp目CO園83gものは総て離去処、地 獄に堕っ、誰人にても妄りて語る︵旨目出目沙箇は︶ものは総て離去処、地獄に堕っ。凡そ住する所多ければ、 その多きに随って導き去らる﹄と、大徳よ、ニガンタ・ナータプッタは是の如く弟子等のために法を説く、と︵ 聚落主︵アシ、ハンダカプッタ︶よ、ニガンタ・ナータプッタの教の如く﹃凡そ住する所多ければ、その多きに ⑲ 随いて導き去らる﹄と若し是の如くならば、何人も離去処・地獄に堕つるものなかる綴へし。﹂ これは、ジャイナ教の五大誓︵日P目ぐ箇菌︶を破った場合に、その果報として地獄に堕することを説いている。 五大誓を破ることによってその果報を得ることは、ジャイナ教聖典に一般的に説かれている。五大誓とは、不殺生 真実語、不盗、不婬、無所有であるが∼今引用した相応部経典に言う﹁凡そ住する所多ければ、その多きに随いて ⑳ 導き去らる︵圃冒冨冒医管制昌冨冒冨冒昇言沙昌は房]国、蔚冒四目ご“g﹂が、はたしてジャイナ教の﹁無所有を 破ること﹂に一致するであろうか。無所有とは、出家ならばす蕊へての所有を捨てることであり、在家ならば、自己 であるC﹂ このように、自分の行為の善悪を、人の意図にかかわっているとい ろ、身業最も重しとする原始佛典の伝えるジャイナ教の業説が、幸 ⑬ いう佛教徒の主張が非難されている。いづれに ぷ則 ジャイナ教聖典においても記されていること力 四 二 二二

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⑪ の所有に満足し、それ以上欲求しないことである。﹁所有︵種目唱伊言冒︶とは欲求︵目胃c颪︶なり﹂と定義されて いるように、物を所有しようとする欲望である。しがたって、﹁凡そ住する所云々﹂なる文章を﹁凡そ住すること を多く欲すれば欲するほど、その多きにしたがって導き去らる﹂と読めば、ゞシャイナ教の所有と関係して理解でき よう。佛教の五戒では最後の無所有が不飲酒になっている。したがって、釈尊は無所有を認めないので、無所有を 破ることによって、﹁何人も離去処・地獄に堕つるものなかる雫へし﹂と非難している。 以上、阿含ニカーャに説かれているニガンタ・ナータ・ブッダの業説をとりあげ、その業説はすべて、ジャィナ教 の古層聖典に説く業説と一致することが明らかになった。したがって、原始佛教とジャィナ教の古層聖典との両者 に一致する業説は古い部分、すなわちマハーヴィーラの業説に近いと考えてもよかろう。業に対する根本的な概念 には相違はないが、形式的な分類を重視する伝統的業説に比較すると、素朴ではあるが、宗教的実践と結びついて 生きている業説を感ずることができる。 ⑥ ⑤ ④ ③ ② ① 註 こいめPご①く劉屋ぐ色目員 くり、 ︹︺詐計山計画Q百ぐゆぐ四二画 Lく ]ず︺。.︺肉︾内胃︺飼い﹃、 雑阿含第二十一︵大二・一四七c︶・ 中阿含第十九︵大一、一四二C︶・ 根本説一切有部毘奈耶破僧事のチベット訳に離繋派の業説が説かれていることについて、高木評元氏の論文﹁・ハーリ沙門

マハーヴィーラの莱説四一三

目[︺扇松濤誠廉﹁ダサヴェーャーリヤ・スッタ﹂︵大正大学研究紀要第五十三輯︶参照。 国〆〆團瞬胃.

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⑬ ⑰ ⑯ ⑮ ⑭ ⑬ ⑫ ⑪ ⑩ ⑨ ③ ⑦ のz観.]岳色気や屋甲届巴・相当する漢訳なし。 ﹁眼・耳・鼻・舌・身・意は為作せられたる、意思せられたる、感受せらる尋へき、古業であると見る、へきである﹂命z閉. 匡巴︾﹁この身体︵恩恵︶は為作せられたる意思せられたる感受せられたる古業であると見るぺきである﹂命z届.雪﹀雑 阿含一二・一三︶に対して、舟橋一故博士は次のように述べておられる。﹁これらの経典に言ふ所を文字通りに理解すれば、 これはいかにも耆那教的であって、業を物質的にしか考へてゐない事になるが、これは恐らく漢訳が理解してゐるやうに、 六根とか身とか言はれるものは、前世の業の結果であると見たものであって、そこには輪廻の思想が前提となってゐるので あらう。さうとすれば、これは佛陀の業説の純粋な形ではない。﹂︵﹁業の研究﹂三○頁︶・ 房旨彦脚固く巴昌〆〆〆,酌 四二四 果経における離繋派の学説﹂︵密教文化第一○四巻、九○’九一頁︶において指摘されている。氏の論文は、パーリ沙門果 経にあらわれている離繋派の四種禁戒の内容をめぐる問題を論及したものである。直接ジャイナ教の業論をとりあげたもの ではないが、資料等の点で啓発されるところがあった。 胃望ご彦國固く群胃口胃﹀か画陣 ロヰ四国Q戸ぐゆぐゆ口四〆桝〆昌︾式 戸z騨臼角︶ 胃の︺ずロ凶巴罰脚ヨ冒 芹︶己.〆ぐ︾昌司 旨己.桝曼.鱒 号冨.〆〆〆員.、割’やや ロヰ囚風Q声﹃四罰秒口四〆叫 己儲冒割&﹃色戸く宙滅︾﹃ 01ゴ● 典 閂里ご彦脚固く脚ごづ︾ 。L合 芹︶旨.〆侶く.]つ 戸z騨臼角︾ 昌 勺 一 ー ご ) ∼ 。 . 、 e

(22)

⑯ ⑮ ② ⑳ @ ④ ⑳ ⑳ ⑳ ⑳ ⑳ ⑮ ⑳ ⑳ 、 ④ ⑳ ⑲ 旨屋.〆ご旨︾鈎 己餌閨ぐ昌豊々四局﹄馬ゞ﹁意と語と身とによりて、三種の行動の関係によりて言く房①匡騨冨罵唇騨︲]︵︶c程︶﹂︵旨匡.自﹄胃︾ 壁︶産房仁︶﹁三昧︵閨昌目冨︶の活動︵旨︶咽︶に於いて﹂言〆︾民息︶・ 昌玲拝四吋脚︵潭胃ぐ四くゅ昌凹昭肉︺肉胃昭い堕詳 くt 閂巴ご迂回巴く凹旨口胃﹀か]画 旨︹一.〆昌、鯉この場合、ヨー︲ガは行為の意味にもとれるので、多少あいまいである。 シ⑳幽自叩丙引再︲同旨哩厨丘口旨辻○画四時篭①︵].ご︾﹃冒○己︵肖上舅冒四日い︵○×片︶He︾︽罰○mい︾の垣︿目今琴照。 秒のpくい旨四日唇昌働冒冒鳴冒日日制︵シz員謁︶・浬樂を意味する冒盟︲原①目色︵安穏、寂静︶ 為︲一の意味ではなかろうか? 己四ゆ留品ぐ巴弓凹胃ぐ︼岸1つ己四ゆゆくの昌臣匂い胃ぐ乳 IIJ“ 胃凰ご言勤め甘割四身糧胃﹀か切 言z凋己雪蝉中阿 シぐ動司旨︺唄一︵毎o智型 く 、 、“︵閏のユ弱○○澪mC崩孟 岸︶昼.〆暑目、い 岸︶丘.〆〆〆ぐ﹄ 号巨.〆ぐ員︾刃 房ぎぽ剖弓日日〆ぐ目︾印 言.砕冒胃旨醇目のF①耳①︹一①H舂旨四m︾印巨腎.金倉円照﹁印度精神文化の研究﹂︵岩波書店︶一六一頁。 目印洋くい鼻彦脚Q巨函四目四目耳四ご凋岸 岸昌Q・︺応昂胃司 マハーヴィーラの業説 ]、 中阿含一三三︵大一、六二八a︶・ 胃・︶鼻]・吟ご津、一国昌昌色冒騨口夢〆〆〆[︾﹄の言. 旦昏⑦詞四再司昌.〆屑ぐ]昌昌国“目扇勗弓曽俳昌︶冒首︵︶︵盲95.〆毎二 四二五 の場合も、旨盟は﹁行

(23)

マハーヴィーラの業説を明らかにするための方法論として、彼と時代的、地理的に最も関係深かった釈尊が言及 するところの一一ガンタ・ナータプッタの業説をとりあげ、それと一致する説がジャイナ教の古層聖典に説かれてい る場合、その業説がマハーヴィーラに帰すると結論してきた。もちろん原始佛教経典に伝えられない部分もあろう が、新古の資料が混在するジャイナ教聖典の中において→少くとも原始佛教経典とジャイナ教の古層聖典とに共通 する部分は、間違いなくマハーヴィーラの業説に近いはずである。したがって、今迄行なってきたわれわれの作業 によって、マハーヴィーラの業説の一部が採り出されたことになる。 ここにマ︿−ヴィーラの業説の一部、と言ったのは、その中に他の人の説も含まれているからである。周知の如 く、マハーヴィーラはジャイナ教の第二十四祖であり、第一祖切厨号冒から第二十三祖パールシュヴァ︵勺胃少﹃少。 U劉圏︶までの間に二十三人の祖がいる。もちろん。ハールシュヴァ以外はす簿へて歴史的人物であるとは考えられない。 。ハールシュヴァは、マハーヴィーラより二百五十年前の人物であるとされているが、。︿−ルシュヴァの一派がマハ ⑪ ⑳ ⑳ ⑬ ⑰ め働詐円己角詳抑画的色目︺鍔昌鹿, ご豆.目ふゞ91鴎.原文の要約である。 mzお.、つぐ︾固皆ご・ ﹁以多行故則将至彼﹂︵雑阿含三二巻一二経︶、﹁随作時多、必堕地獄﹂︵別訳雑阿含七巻一○経︶・ 目蟄洋く胃讐勤皇自侭四目騨昌茸少ご目︶届. 四 四 。ーL一 ノ 、

(24)

① lヴィーラの時代にも存在したと言われているし、マハーヴィーラ自身・ハールシュヴァの学説をかなり受継いでい るわけである。したがって、われわれの採り出したマハーヴィーラの業説の中にもパールシュヴァの業説が含まれ ているはずである。そこで、どこまでが。ハールシュヴァから受継いだ業説であり、マハーヴィーラ自身の独創説は どこにあるかを区別することによって、初めてマハーヴィーラの業説が明らかになる。 幸い、・ハールシュヴァの業説を伝える資料が、ジャイナ教の古層聖典に属する房ご目、萄倒目︵望︶に伝えられて いるので、それを引用しよう。 ﹁③上昇するものが諸々の命舎ぐゅ︶なり。下降するものが諸々の物質含○閼巴餌︶なり。⑪諸為の命︵盲智︶は 業の力︵菌日日窪︲弓昏冨く蛍︶とし、物質は︵本質にそなわる︶変化︵冒凰目白鱒︶を力念号冒ぐ沙︶とす。⑥ 業︵百日目四︶を得て諸々の命含ぐゆ︶には果の異熟︵冒騨医︲く弓堅畠︶あり。︵本質にそなわる︶変化を得て諸々 の物質には果の異熟あり。⋮:. ⑧諸々の命︵首騨︶は上昇するもの︵口危冨昌︲魁目︾にして、諸々の物質so開己四︶は下降するもの︵且厨︲ 風目︶なり。⑪⑥悪業の行為によりて︵菌く四︲冨目日騨︲厨:9日︶諸々の命には変化︵園は目目四︶あり、悪業 の行為によりて諸点の物質の変化あり。⑥如何なる時にも生類は不苦をなささりき、と。⑥諸々の命は自己に よりて作られたるものなり。為しつつ、為しつつ苦悩を感ず。即ち、殺生により︵圃目は32餌日︶︽乃至︾ 所得により︵冨凰麗昏の冨日︶︵苦悩を感ず︶。実にこの覚らざる、その業の護られざる︵開四目ぐ且餌冨日日曾昌①︶ 四の戒︵。煙↑ロ菅日蝕︶︵’四つの目四目ぐ昌冨︶を行う離繋者は八種の業縛をなす。︵四宮gag目冨昌目色︲盟員冨昌 冨窓時。茸︶彼はまた、四つの位によりて異熟に到る。即ち、諸々の地獄により、諸々の畜生により、諸々の人

マハーヴィーラの業説四二七

(25)

∼ まず㈲の点に関しては、昇天の思想がその背景になっている。われわれがまとめたマハーヴィーラの業論には昇 天思想はなく、苦の因たる業の減がそのまま解脱であるとする。マハーヴーラの業論は、この点において彼以前の パールシュヴァの業論と区別できる。次に⑪⑥は、マハーヴィーラの業説の中に流れている。⑥の八種の業縛につ いてであるが、z母騨︽旨によると、ジーヴァは殺生ゞ妄語乃至邪見により、その重量のため地獄の底に達し、 八種の業を除くとき、上昇して世界絶頂に安立すると、マハーヴィーラが説法したとなっているが、これは明らか にパールシ↓一ヴァの説であり、マハーヴィーラの業説と区別すべきである。㈲カルマの意味は明確になっていない。 行為の意味にも、業物質の意味にも用いられているようである。。ハールシュヴァは、業を新業古業に分ける解釈を 四二八 間により、諸々の天により。諸為の命含ぐゆ︶は自己によりて作られたるものにして、他によりて作られたる ものに非ず、為しつつ、為しつつ苦悩を感ず。即ち、不殺生を避けることにより、︽乃至︾所得を避けること により。実にこの覚れる人にして業を護り四つの戒︵8口昔日倭︶︵’四つの日四目く菌冨︶を行なう離繋者は八 ② 種の業縛を作らず。彼はまた、四種の位によりて異熟に到らず。⋮⋮﹂ その他、世間はジーヴァとアジーヴァ︵昌くゅI非命︶からなること、四種の世間等も、すでにパールシュヴァが 説いたことになっている。ところで彼の業説は体系的に組織されておらず$整理することは困難であるが、だいた い次のようにまとめることができよう。 ③ジーヴァは上昇するもの、物質は下降するもの。⑪悪業なる行為によってジーヴァに変化がある。悪業の行 為によって物質の変化がある。⑥殺生乃至所得により業縛をうける。⑥八種の業縛。⑥業︵カルごを行為の 意味にも用いている。 $

(26)

なしていない。したがって業を減する方法にも言及していない。身口意のヨーガという言葉も用いられていない。 パールシュヴァの業説は昇天思想と結びついて説かれているが、マハーヴィーラの場合は、どのように理解す、へ きであろうか。確かにジャイナ教聖典には、マハーヴィーラの業説にも昇天思想が現われているけれども、マハー ヴィーラの場合、業を減したそのままの境地が解脱であると考えるべきである。すなわち、﹁過去の行為の結果生 じた古業を苦行によって減し、未来に新業を生じさせないために身口意による防護をする。﹂というマハーヴィー ラの場合、苦行によって古業を振り捨て、身口意においてよく護られている状態が解脱である。それは、﹁業滅← 苦滅←受滅←一切苦滅←︹解脱︺﹂とも言われるように、一切苦を減した至福の境地である。したがって、われわれ が採り出したマハーヴィーラの業説は昇天思想と結びつけるべきではなかろう。 以上、パールシュヴァの業説とマ︿1ヴィーラのそれとを比較することによって明らかになったことは、輪廻思 想に結びついた業そのものの思想は受継いでいるけれども、パールシュヴァの業説とマハーヴィーラのそれとの間 にはかなり隔りがある。われわれが集めたマハーヴィーラの業説の大部分がマハーヴィーラの説に帰するといえる。 マハーヴィーラは、輪廻転生の因として業をとらえ、行為の余勢がどのように次の生存を決定していくかをきめる 原因を説明して、漏入によって業物質がジーヴァに入るとなした。マ︿1ヴィーラがこのように鋭く業に目を注い だのは、苦の原因としての業を減する道を説くためである。 註①ぃ国.ロ①○︽国騎3Hq k へり厨号彦脚里到倒日〆〆畔国 マハーヴィーラの業説 g]m自国雪○.PO巨狛目︵も○○]︺い︶己急、く$・国烹侭自国画く.P ︵昭和四十九年度文部省科研﹁総合研究﹂による成果の一部︶ 四二九

参照

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