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運動情報処理とその疾患の機構解明を目指す視床-皮質神経回路モデルの開発(<特集>脳神経系シミュレーション)

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1. は じ め に

我々が行う運動は日々行っていることでありながら, 脳がどのようにその処理を行っているのか,完全にはわ かっていない.その理解が難しい一つの原因として,脳 と身体という異なるシステムが相互にやり取りすること で運動が行われていることがある.脳では神経細胞の電 気化学的な現象が発生し,筋肉では物理的な運動が発生 する.それらは,脳からの身体への運動指令の信号と, 身体からの脳への感覚信号によって,常に相互にやり取 りを行っている.その相互のやり取りには,神経細胞の 活動の時間スケール,脳と身体の間の信号の遅延,筋肉 の応答速度,身体の質量など,さまざまな要因が関わっ てくるため,全体としてのシステムは複雑である. 脳の理解のもう一つの難しさは,神経細胞の特徴や振 舞いが複雑で,かつ数が膨大なため,観測に限界があり, その活動を十分把握できないことにある.人間の脳には 860億もの神経細胞があり [Herculano-Houzel 09],運 動に関係する大脳皮質,大脳基底核,小脳などの脳部位 に限っても,数百億に達すると見られる.最新の光計測 技術を用いても,数万個程度の神経細胞の活動しか記録 できない.fMRI や脳波測定の場合,脳全体の活動を測 定できるが,それは神経細胞集団の平均的な活動であり, 個々の神経細胞の活動を知ることはできない. このような問題に対して,脳と身体のモデルを構築し 計算機を用いたシミュレーションにより調べるアプロー チが考えられる.神経細胞から筋肉までをまるごとシ ミュレーションすることで,脳と身体の相互作用につい て扱うことができる.例えば,シミュレーションでは神 経細胞のもつイオンチャネルの働きと筋肉の振動の相互 作用について調べることが可能で,脳の活動由来の震え の調査に有効である.また,膨大な数の神経細胞の活動 について,シミュレーションではすべての神経細胞の膜 電位,シナプス電流,イオンチャネル電流など,あらゆ る情報を記録し調べることが可能である.それによって, 全神経細胞の情報から,それらが構成する神経回路全体 の動作を理解することができる. その他にもシミュレーションにはいくつか利点があ る.一つは生理実験では現実につくり出すことが難しい 状態をシミュレーション上で調べることができることで ある.例えば,生理実験では神経細胞間の特定の結合パ ターンをつくり出すことは難しいが,シミュレーション では結合ごとの任意の設定,操作,記録が可能である. もう一つの利点は,類似のシミュレーション実験を異な るパラメータで繰り返し調べることが容易なことであ る.これは技術的な利点であるとともに,動物実験を代 替することで実験動物の数を削減するという,実験倫理 的な問題へ貢献という利点ともなる. このようなシミュレーション研究の可能性を考慮し,

運動情報処理とその疾患の機構解明を目指す

視床─皮質神経回路モデルの開発

A Model of Thalamocortical Circuit Toward for Elucidation of the

Mechanisms of Information Processing and Disorder in Movement Behavior

五十嵐 潤

沖縄科学技術大学院大学神経計算ユニット

Jun Igarashi Neural Computation Unit, Okinawa Institute of Science and Technology. [email protected]

モレン ジャン

(同   上)

Jan Moren [email protected]

吉本 潤一郎

奈良先端科学技術大学院大学情報科学研究科,沖縄科学技術大学院大学神経計算ユニット

Junichiro Yoshimoto Nara Institute of Science and Technology. / Neural Computation Unit, Okinawa Institute of Science and Technology. [email protected]

銅谷 賢治

沖縄科学技術大学院大学神経計算ユニット

Kenji Doya Neural Computation Unit, Okinawa Institute of Science and Technology. [email protected]

Keywords:

motor cortex, thalamus, large-scale simulation, Parkinson’s disease. 「脳神経系シミュレーション」

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我々は戦略プログラム分野 1 予測する生命科学・医療お よび創薬基盤において,脳・神経系と筋・骨格系のシミュ レータを統合し,脳からの末梢への運動指令と,末梢か らの脳への感覚信号のフィードバックが相互作用する状 況における,運動情報処理機構や運動機能障害の理解を 目指している.統合される脳・神経系─筋・骨格系は大 規模なモデルとなり,大きな計算資源が必要であるため, 10 PFLOPS(1 秒間に 10 の 16 乗回の浮動小数点演算 を実行する性能)の計算性能をもつ京コンピュータによ る実行を行っている. 脳・神経─筋・骨格の統合モデル開発において,沖縄 科学技術大学院大学の銅谷賢治が率いるチームが脳のモ デルを担当し,東京大学の高木 周教授,中村仁彦教授が 率いるチームが,脊髄・筋骨格系のモデルを担当してい る.大阪大学の野村泰伸教授の率いるチームは,実際に 診療を行う医師と連携しながら,姿勢制御に関する解析 とモデル化を行っている. 本稿では,脳のモデルの開発に焦点を当てその取組み について紹介する.はじめに運動情報処理に関する一次 運動皮質や一次運動皮質と相互結合を形成する視床のモ デル化について紹介し,次にパーキンソン病に関連する 神経活動のモデル化について紹介する.最後に,京コン ピュータによる神経回路シミュレーション規模に関する 調査について紹介する.

2. 一次運動皮質の運動情報処理とモデル化

2・1 運動の情報処理 随意運動を実行するとき,脳の各領域でどのような 処理が行われて最終的に筋肉による動きの発生に至るの であろうか.その主要な処理の一つは前頭前皮質,前補 足運動皮質,補足運動皮質で行われる,長期間のプラン や意図についてのトップダウンの処理である [Haggard 08].もう一つは感覚皮質や頭頂皮質などで行われる身 体の感覚に関するボトムアップの処理である.これらの 皮質のそれぞれの処理は,ものの価値や報酬に関する大 脳基底核 [Samejima 05] や視床が形成するループ回路の 信号と合わせて行われる(図 1).また,感覚情報のフィー ドバック信号から運動軌道の学習を行うといわれる小脳 も視床へ出力する.脳から身体への出力部位である一次 運動皮質は,これらのトップダウン信号,ボトムアップ 信号,視床を介したループ回路の信号を受けて処理を行 い,筋肉を駆動するための出力信号を生成する. 2・2 運動皮質モデル 一次運動皮質は,これらのトップダウン信号,ボトム アップ信号,ループ回路からの信号をどのように処理し, 出力の信号を決定するのであろうか.比較的よく調べら れているマウスの一次運動皮質の層やコラムなどの空間 構造と併せて説明しよう. 一次運動皮質の脳表面から脳深部の方向に向けての 1~ 2 mm の範囲は,組織染色や神経細胞の特徴の違い から分類される層構造があり,脳表面から順に 1,2/3, 5A,5B,6 と名付けられている(図 1 上)[Oswald 13]. これらの層への主な入出力信号と層間の結合について説 明する.1 層は比較的神経細胞が少ない層で,一次運動 皮質と主に相互結合を形成する視床(以下,運動視床と 呼ぶ),一次感覚皮質と主に相互結合を形成する視床(以 下,感覚視床と呼ぶ),高次運動皮質,体性感覚皮質か らの投射繊維が多く走行しており,2/3 層や 5 層の神経 細胞から伸長している樹状突起上にシナプス結合が形成 される [Hooks 13].2/3 層は一次感覚皮質,感覚視床の 感覚信号を受け,5A,5B 層に強く投射し,他の新皮質 にも出力を多く出している [Hooks 11, Weiler 08].5A 層は 2/3 層と類似した信号を受け大脳基底核の線条体に 投射する.5B 層は複雑な運動の実行に関わる二次運動 皮質からの投射と運動視床からの信号を受け,神経細胞 は脊髄に投射し,運動実行のための信号を生成する.6 層は,意図や欲望に関わる眼窩皮質からの投射を受け, 神経細胞は主に運動視床と視床綱様核に投射する.この 図 1 一次運動皮質への入出力の模式図(上)と三次元上で 構築された一次運動皮質モデル(下)

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ように一次運動皮質では,体性感覚のボトムアップ信号 と意図や複雑な運動指令などのトップダウン信号が特定 の層に入力され,運動皮質内で信号が統合され,特定の 層から他の領域へ出力が送られる. 脳表面から深部への垂直方向の構造の層構造に対し て,それと直交する脳表面の二次元平面方向に現れるの がコラム構造である.コラム構造とは,1 ~ 6 層を貫く 半径数十~数百 µmの円柱状領域内の神経細胞集団が形 成する回路構造で,コラムごとの特徴的な結合パターン が見られ,情報処理の機能単位として働いていると考え られている.新皮質内では脳表面の二次元平面方向に 沿ってコラムが無数に立ち並んでいることが示唆されて いる.一次運動皮質では異なる体部位の運動が脳表面下 の異なる部位の神経細胞集団によって処理されることが 知られているが [Zingg 14],ある特定の運動が,直径約 70µmのコラムに相当する神経細胞集団の選択的な活動 によって実行されていることが,マウス [Hira 13] やサ ルの実験 [Georgopoulos 07] で示唆されている.また層 内や層間において,コラム間をつなぐと見られる水平結 合が存在しており [Kätzel 11, Weiler 08],この水平結 合を通したコラム間の相互作用が情報処理機構の一端を 担っていると考えられている. しかし,一次運動皮質において上述のようなコラム の活動が層間の信号やコラム間の相互作用でどのように して発生するかは明らかになっていない.また,後述す るパーキンソン病の運動症状において,異常な運動に 対応したコラム活動が発生することが予想され,その 発生機構の理解が病気の解明にとって必要である.皮質 の神経回路モデルとしてはさまざまなものが提案されて いて,一般的な皮質の単一のコラム構造をもつ皮質─視 床モデル [Traub 05],運動皮質の層構造をもつモデル [Chadderdon 14, Neymotin 11]などが提案されている. しかし,一次運動皮質の層構造やコラム間の相互作用を 空間構造に基づいて再現し調べたものはない. そこで我々は解剖学,電気生理学的知見に基づき,一 次運動皮質の層や結合範囲などの空間的な性質を取り入 れたモデルを構築し,層間やコラム間の相互作用につい てシミュレーションで調べた. 構築された一次運動皮質モデルは,1.2 mm(脳表面 方向)× 1.2 mm(脳表面方向)× 1.4 mm(脳深部方向) の大きさに相当する(図 1).1,2/3,5A,5B,6 の層 構造をもち,各層の厚み,各層の神経細胞の密度などは 解剖学的データに従って設定し [Lev 97],合計で神経細 胞数は約 8 万になった.神経細胞間の結合に関しては, laser scanning photo-stimulation(LSPS)と呼ばれる, 結合の空間範囲を調べる実験結果に基づき [Kätzel 11, Weiler 08],神経細胞間の結合確率を設定した.結合強 度は生理学的に妥当な範囲のシナプス電流を発生するよ うに設定した.興奮性細胞と抑制性細胞の比率は 4:1 として,神経細胞モデルとしては積分発火型神経細胞モ デルを用いた.神経細胞のパラメータや発火頻度は皮質 の神経細胞のとる一般的な範囲で設定した. 構築されたモデルについてコラム相当の神経細胞集 団を刺激し層内の水平方向の結合について調べると,体 性感覚で見られるような層内の刺激位置とコラム間との 距離に応じた興奮性と抑制性の信号の均衡に関する性質 [Adesnik 10]が一次運動皮質モデルのコラム相当の集団 で見られた.これは,コラム間の相互抑制による特定の コラム活動の選択に働く可能性を示している.また,ボ トムアップの信号を受ける 2/3 層,トップダウン信号を 受ける 5B 層に同時に刺激を与えた場合,側抑制の効果 と層間の信号の加重により,特定のコラム相当の集団の 5B層の細胞が選択的に活性化された.この結果は,一 次運動皮質の最終出力を決定する処理が隣接するコラム 間の相互作用,ボトムアップ,トップダウン信号によっ て実行される可能性を示唆している.

3.運動視床の振動現象とモデル化

視床は間脳の一部で大脳新皮質よりも脳の中心部付 近に位置する.視床には新皮質ごとに対応する下位領域 が存在し対応する新皮質と相互に結合している.視床の 注目すべき特徴は振動的な神経活動で,次章のパーキン ソン病で見られる振動的な神経活動や震えの症状との関 連が示唆されている [Guehl 03,Timmermen 03].視 床は睡眠・覚醒状態によって,δ(1 ~ 3 Hz),θ(4 ~ 7 Hz),α(8 ~ 13 Hz)などの周波数帯の振動的な神経活 動を発生する [Hughes 05].この振動的神経活動の発生 には,視床の神経細胞のバースト発火と呼ばれる現象が 関係している.バースト発火とは,神経細胞が高頻度に 発火する期間と発火しない期間を交互に生じるときの前 者の期間の発火群のことをいう.視床の神経細胞は数十 ~数百 ms の間のバースト発火を周期的に発生し,視床 の振動的神経活動の発生源となっている.このバースト 発火は視床の神経細胞のもつ T 型カルシウムチャネルの 性質によって起きる.一次運動皮質で観測されるα振動 は運動視床のα振動に主導されて発生していることが示 唆されており [Hughes 05],一次運動皮質の振動を用い た情報処理 [Igarashi 13] に関与すると考えられる.後 述するパーキンソン病の震えとα振動は密接な関係をも つため,特に運動視床の神経細胞の振動現象は再現して 調べる必要がある.そこで,我々は Vijayan と Kopell [Vijayan 12]と,Destexhe らが開発したバースト発火 や振動的な神経活動を示すコンダクタンスベースの神経 細胞モデル [Destexhe 96] を用いて,また,神経細胞間 の結合の電気生理学的データを参考にして [Lorincz 09], 運動視床の神経回路モデルを開発した.構築されたモデ ルでは,バースト発火を発生する視床細胞が,視床網様 核の神経細胞や介在神経細胞の抑制性信号によって同期 されることで,θ周波数帯やα周波数帯の振動的同期活

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動が現れた.次章では,この振動的活動を発生する運動 視床と一次運動皮質を結合したモデルによる,パーキン ソン病の振動的な神経活動の再現について見ていく.

4.パーキンソン病の振戦に関する神経活動の再現

本章ではパーキンソン病のモデル化の取組みについて 紹介する.パーキンソン病は神経疾患で 50 歳以降での 発症が多い.世界で数百万人の患者がいるといわれ,脳 の病気の中でも非常に人口が多い病気である.動作の困 難や動作が遅くなる“無動”,筋肉がこわばる“固縮”, 主に手足が 3 ~ 6 Hz で震える“振戦”,体のバランスが 取りづらくなる“姿勢反射障害”などの運動症状が現れ, 患者によって発生する症状にばらつきが見られる.運動 症状以外にも睡眠異常,精神疾患などが見られることも ある.原因は中脳黒質緻密部のドーパミン産生ニューロ ンの減少によるドーパミン量の減少である.ドーパミ ン産生ニューロンは大脳基底核に強く投射をしているた め,パーキンソン病では大脳基底核が大きな影響を受け る.治療法はドーパミンの前駆体である L-ドーパやドー パミン受容体刺激薬などの薬物療法,脳の深部に微小電 極を埋め込み刺激する深部脳刺激療法,大脳基底核の淡 蒼球破壊を行う手術療法などがある. 我々はパーキンソン病の運動疾患のうち,手足が震え る“振戦”の機構の解明をはじめのターゲットとしてい る.振戦発生時のパーキンソン病関連脳部位の神経活動 について以下にまとめる. ● 大脳基底核では異常なβ振動(8 ~ 30 Hz)が発生 する [Hammond 07]. ● 運動視床の細胞は振戦関連活動である 5 ~ 6 Hz の バースト発火を起こす [Guehl 03]. ● 一次運動皮質はα振動 8 ~ 13 Hz と 3 ~ 6 Hz の成 分を示す [Timmermann 03]. ● 振戦を発生する末梢の筋電位は 3 ~ 6 Hz の振動を 示し,その振動は一次運動皮質のα振動に対して 1: 2の同期を示す.屈筋と伸筋の筋電位の振動は逆相 同期する [Timmermann 03]. パーキンソン病の振戦の振動は脳由来であることが 多く示されているが,上述のように各脳部位の振動周波 数はさまざまで,大脳基底核の異常なβ振動と振戦の周 波数帯は異なっている.一方,一次運動皮質と運動視床 の活動については振戦の振動との関係が見られる.これ らの現象がどのようにして起きるかを調べるため,大脳 基底核の異常なβ振動やドーパミンの減少の効果を想定 し,運動視床と一次運動皮質で構成される神経回路シ ミュレーションを行った.その結果,運動視床の細胞は 振戦の周波数と同様のバースト発火を発生し,細胞間の 水平結合の働きで空間的に近接した神経細胞集団は約 5 Hz程度のバースト発火を同時に発生した.この運動視 床における空間的に近接した神経細胞集団の活動は一次 運動皮質に伝わり,空間的に限定された 5B 層の神経細 胞集団に約 5 Hz の振動的な発火を引き起こした.この 結果は,空間的に限定された運動視床の神経細胞のバー スト発火が一次運動皮質の特定のコラムを周期的に活性 化することで,特定の運動を周期的に誘発し,振戦の原 因となる可能性を示唆している(図 2).

5.京の神経回路シミュレーション規模に関する

調査

冒頭で紹介したように,脳の運動に関する情報処理 は,前章で紹介した運動系の皮質,視床に加え,体性感 覚系新皮質,大脳基底核,小脳などの複数の脳領域の協 調的な活動によって実現されている.脳で多くの結合を もつ新皮質では領域内,領域間で信号をやり取りするた め,神経細胞は結合の約半数を同じ領域内の隣接部から 受け,残りの約半数は領域間をまたぐ遠方の領域から受 ける.このモデル化において,局所領域のみの神経回路 モデルでは,遠方の領域からの約半数もの信号をモデル 化できない.これを避ける単純な方法は関係する複数領 域全体のモデル構築をすることである.しかし,現在の 一般的に用いられるデスクトップコンピュータでは,複 数の脳領域を含むような大規模なモデルを扱うには,演 算性能,メモリ容量,メモリ帯域幅などの面で不可能で ある.そこで我々は,運動に関する複数脳領域のモデル 開発を進める前に,比較的単純な神経回路モデルを用い て京で実行可能なモデル規模の上限と大規模モデルの動 作の確認を行った.その試験についてご紹介する. 京における神経回路モデルの大規模実行試験は 2013 年夏に Juelich Research Centre,理研,沖縄科学技術 大学院大学の共同グループにより実行された [Kunkel 14].実行したモデルは,Morrison らが開発した皮質局 所回路モデルで,大脳皮質の生理学的な特徴を取り入れ 図 2 斜め上から見た一次運動皮質と視床モデルのあ る時刻における発火活動. 上部のフレームで囲まれる領域が一次運動皮質, 下部が運動視床を示し,発火を生じた神経細胞 は点で表されている.運動視床の神経細胞の活 動の空間的な偏りが現れ,それによって一次運 動皮質の 5B 層細胞の空間的に限定された活動 パターンが発生した.右下のスケールバーは x, y, z方向の 0.5 mm に相当

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ているが,皮質の空間構造などはもたないモデルである [Morrison 07].神経細胞は比較的単純な積分発火型神経 細胞モデルを採用しており,興奮性細胞と抑制性細胞が 4:1 の割合で含まれている.シナプス結合は神経細胞 当たり 6 000 本に設定され,神経細胞間でランダムに形 成された.興奮性細胞同士の結合については,二つの神 経細胞間の発火時間の差によってそれらの間の結合の強 度が変化する発火タイミング依存性可塑性というシナプ ス可塑性ルールが適用されている.シナプス可塑性とは 脳が行う学習の基盤となる現象と考えられている.上記 のモデルは NEST simulator という神経回路シミュレー タを用いて実装された [Gewaltig 07].NEST simulator は,オープンソースソフトウェアで,Juelich Research Centreの Markus Diesmann 教授,Abigail Morrison 教授らの主導するグループを中心に開発されている. NEST simulatorは我々が開発を行っている筋骨格─脳モ デルの開発において,前章で説明した一次運動皮質と運 動視床に加えて,大脳基底核,脊髄のモデル化でも活用 されており,京コンピュータでの実行に用いられている. 哺乳類の複数脳領域や全脳規模に匹敵するような神 経回路モデル実行において,現実的な神経細胞やシナプ スの振舞いを再現する数値精度,シナプスの多様性,高 速なデータ検索を実現しようとすると,シナプスの定数 や変数,データを取り扱う基盤部分のメモリ量が膨大に なり,京のようなスーパコンピュータのもつペタバイト 級のメモリですら足りなくなる.より大規模な神経回路 シミュレーションを実現するにはメモリ消費をできるか ぎり抑えて,多くの神経細胞やシナプスに関するデータ をメモリに“詰め込む”ことが必要になる.京都大学の 石井 信教授らが主導した次世代生命体統合シミュレー ションソフトウェアの研究開発 ISLiM の脳神経チーム における取組みで,Markus Diesmann 教授,Abigail Morrison教 授 ら は,NEST simulator の ス ー パ コ ン ピュータ上での大規模モデル実行に向けて,神経細胞や シナプス結合に関するデータ構造の最適化を行った.そ の最適化では,スーパコンピュータがデスクトップコン ピュータと異なり,数万もの計算ノードから構成される という性質を利用している.神経回路モデルにおいて, 一つの神経細胞のみを見たとき,その神経細胞は他の数 千個程度の神経細胞と結合しているが,それらはスーパ コンピュータの数万の計算ノードにまばらに配置され, 並列に計算される.このデスクトップコンピュータには ない,結合する神経細胞のペアがまばらに配置されると いう性質を利用して,効率的な神経細胞やシナプスに関 するデータ構造を NEST simulator に新たに導入し,大 幅なメモリ消費量の削減が達成された.その最適化さ れた NEST を用いて,京における神経回路モデルの大 規模実行のテストを行った.我々の大規模モデルの試験 の結果では,最大構成で京コンピュータの全計算ノー ド 82 944 個(約 70 万個の CPU コア)を使用し,17 億 3 000万個の神経細胞が 10 兆 4 000 億個のシナプスで 結合された神経回路の 1 秒分の活動に関してシミュレー ションを行い,約 40 分の計算時間で実行することがで きた.京の高い演算性能に加え,京の理論演算性能に対 して比較的メモリ搭載量が多いというハードウェアの特 徴も大規模モデルの実行に寄与している.実行された神 経細胞の数を実際の生物の脳と比較すると,マーモセッ トなどの小型のサルの脳の規模を上回った.我々の対象 としている運動情報処理を行う新皮質,大脳基底核,視 床などの脳領域のみをみた場合,マカクザルなどの大型 のサルでも実行が可能であると見積もられている. こ の 結 果 は 裏 を 返 す と, 京 の 計 算 性 能 や NEST simulatorの最適化によっても,約 860 億の神経細胞か らなるヒトの脳 [Herculano-Houzel 09] の規模のシミュ レーションは無理であることを示している.それではこ れからのコンピュータの性能向上で,人の脳規模を実現 できる可能性はあるのだろうか.京での結果を含め関 係する話題について少し紹介しよう.CPU チップ上の トランジスタ数が 18 か月で倍増するという,いわゆる “ムーアの法則”はこれまで約 50 年間続き,電子計算機 の性能は指数関数的向上を続けている.近年,ムーアの 法則の終焉が近いといわれているが,本稿が執筆されて いる 2015 年 7 月時点から少なくともあと数年間はムー アの法則は続くといわれており,2020 年前半にはスー パコンピュータの性能は EFLOPS(1 秒間に 10 の 18 乗回の浮動小数点演算を実行する性能)に達すると見ら れている.これを見据えアメリカ,EU,中国,そして 日本など,世界各国でエクサフロップス(EFLOPS)級 の次世代の計算機開発に向けた計画がすでに始まってお り,実行するアプリケーションについても検討されてい る.著者が参加した「今後の HPC 技術の研究開発の在 り方を検討するワーキンググループアプリケーション作 業部会」の調査によると,細胞の形態を考慮した詳細な 神経細胞モデルで構成される人間の脳全体規模の神経回 路シミュレーションがエクサフロップス級計算機によっ て可能になると試算されている [アプリケーション作業 部会 12].前述した京による神経回路の大規模計算の結 果について,京の計算性能(10 PFLOPS)と神経回路 規模(約 17 億神経細胞)の比から,エクサフロップス 級計算機の場合を単純に計算すると,1 700 億神経細胞 となり人間の脳の規模を上回ることになる.一方,IBM で大規模神経回路を行っている Modha 氏は 2019 年頃 までにヒトの全脳のシミュレーションを行うのに十分な 性能をもつスーパコンピュータが登場すると予測してい る [Modha 11].さらに 2013 ~ 23 年までに総額 12 億 ユーロの予算を使って実施される EU の Human Brain Projectでは,ヒトの脳のシミュレーションを行うこと を計画として掲げており,プロジェクトはすでに始まっ ている.これらのことから,2020 年前半でのヒトの脳 規模のシミュレーションの可能性は高いと見られ,各国

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の取組みが本格化していくと思われる.この計算機性能 の向上に加えシミュレーションに必要な脳のデータに関 しても,脳の全配線“コネクトーム”の測定技術や,遺 伝子技術を用いた大規模な脳の活動データの観測技術が 現在急激な速度で発達しており,脳のシミュレーション 開発をこれからさらに後押しするだろう.

6.お わ り に

運動情報処理とパーキンソン病の運動症状の解明に向 けた取組みや,京コンピュータによる神経回路の大規模 計算について紹介した.運動情報処理機構に関する今後 の取組みとしては,運動視床のα振動による一次運動皮 質の情報処理機構や [Igarashi 13],大脳基底核の価値情 報による一次運動皮質の運動選択について調べていくこ とができるであろう.感覚皮質や高次運動皮質など複数 領域にわたるモデルへの拡張によって,自己の位置に基 づく運動のコントロール,単純な運動を組み合わせたよ り複雑な運動の情報処理,自己や他者の仮想的な運動表 現を行うメンタルシミュレーションなどの認知処理へと 発展させることも考えられる.神経疾患に関する今後の 取組みとしては,パーキンソン病の無動や固縮など他の 症状の機構解明に加え,ハンチントン病などの大脳基底 核に関係する運動疾患への応用が考えられる. 京を用いた大規模神経回路の計算については,小型サ ル程度の規模の脳モデルの可能性が示され,日本のマー モセットに関するプロジェクト,Brain/MIND と京コン ピュータの連携,さらには,ポスト京と呼ばれる次世代 のスーパコンピュータによる人間の脳規模のシミュレー ションへと展開していくことが期待される. 今後,そう遠くない将来に,エクサフロップスの計算 機の登場とともに,全脳規模のシミュレーションで,脳 の情報処理と病気の機構解明に向けて取り組める時代 がやってくるだろう.本プロジェクトでの京による脳の シミュレーションの経験や開発されたソフトウェア資産 が,次の世代での取組みに役立つことを願い,これから も取組みを続けていきたい. 謝 辞 本研究開発は,文部科学省 HPCI 戦略プログラム分野 1 「予測する生命科学・医療及び創訳基盤」の元で実施し た(課題番号:hp150236).

◇ 参 考 文 献 ◇

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著 者 紹 介

五十嵐 潤 2004年九州工業大学大学院生命体工学研究科脳情報 専攻博士前期課程修了.2007 年同専攻博士後期課 程修了.嗅内皮質二層の時系列記憶に関するシミュ レーション研究を行う.2007 ~ 09 年九州工業大学 大学院生命体工学研究科にて研究員.2008 年株式会 社ホンダ・リサーチ・インスティチュート・ジャパ ン客員研究員.脳情報工学の応用研究,マルチコア や GPGPU による神経回路モデルの高速計算の研究に従事.2009 ~ 13 年理化学研究所次世代計算研究開発プログラム特別研究員.運動皮質の 振動的活動の解析と京による大規模神経回路の計算の研究に従事.2013 年~現在,沖縄科学技術大学院大学神経計算ユニット研究員. モレン ジャン(Jan Moren) スウェーデンのルンド大学にて扁桃体の情動処理モ デルの研究で計算機科学の修士号と博士を取得.情 報通信研究機構と国際電気通信基礎技術研究所では 生物学に着想を得た機械視覚処理についての研究, 京都大学では初期視覚システムの大規模神経回路モ デルの研究に従事.現在,沖縄科学技術大学院大学 神経計算ユニット研究員. 吉本 潤一郎 1998年関西大学総合情報学部卒業.2000 年奈良先 端科学技術大学院大学情報科学研究科博士前期課程 修了.2002 年同研究科博士後期課程修了.博士(工 学).科学技術振興機構研究員,沖縄科学技術基盤 整備機構研究員などを経て,2011 ~ 15 年まで沖縄 科学技術大学院大学学園神経計算ユニットグループ リーダー.2006 ~ 15 年まで奈良先端科学技術大学 院大学情報科学研究科客員准教授を兼任.2015 年 8 月から奈良先端科学 技術大学院大学情報科学研究科准教授となり現在に至る.統計的学習理 論,計算神経科学,システム神経生物学などの研究に従事. 銅谷 賢治 1961年東京生まれ.東京大学卒業,博士(工学). 東京大学工学部助手から 1991 年にサンディエゴ に移り UCSD,ソーク研究所などで脳科学を学ぶ. 1994年から京都の ATR 研究所にて自ら行動を学習 するロボットの開発と,脳の学習の仕組みの研究を 行う.2004 年より沖縄科学技術大学院大学先行研 究代表研究者.2011 年沖縄科学技術大学院大学神 経計算ユニット教授,副プロボースト.新学術領域研究「予測と意思決 定」領域代表.2007 年学術振興会賞,塚原仲晃賞,2012 年文部科学大 臣表彰科学技術賞受賞.Neural Networks 誌共同編集長.International Neural Network Societyフェロー.Society for Neuroscience,日本神経 回路学会,日本神経科学学会各会員.

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