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ブロンテ初期作品研究(2) : ブランウェル・ブロンテを中心に

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全文

(1)

ブ ロ ン テ 初 期 作 品 研 究 (

2

)

ー プ ラ ン ウ ェ ノ レ ・ ブ ロ ン テ を 中 心 に ー

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研 究 課 題 番 号

13610564

平 成 1

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年 度

平 成 1

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年 度

科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤 研 究 (C)(

2

)

研 究 成 果 報 告 書

平 成 1

5

3

研 究 代 表 者

岩 上 は る 子

( 滋 賀 大 学 教 育 学 部 教 授 )

(2)

l

ブ ロ ン テ 初 期 作 品 研 究

(

2

)

ー プ ラ ン ウ ェ ル ・ ブ ロ ン テ を 中 心 に ー

研 究 課 題 番 号 13610564

平 成

1

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年 度

平 成

14

年 度

科 学 研 究 費 補 助 金 基 盤 研 究

(C)(2)

研 究 成 果 報 告 書

平成

1

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3

研 究 代 表 者

岩 上 は る 子

(滋賀大学教育学部教授)

(3)

はしがき

本 報 告 書 は 、 文 部 科 学 省 よ り 平 成

1

3

年 度 か ら 平 成

1

4

年 度 の

2

年 間 に わ た り 基 盤 研 究(C)(2)の 補 助 金 を 得 て 、 プ ラ ン ウ ェ ル ・ ブ ロ ン テ 初 期 作 品 に 関 し て 行 っ た 研 究 成 果 の 報 告 で あ る O ブ ロ ン テ 初 期 作 品 研 究 は 、 過 去 15年 ほ ど の 問 に 急 速 に 発 展 し て き た 分 野 で あ る O ブ ロ ン テ 姉 弟 妹 が

1

0

代 始 め か ら

20

代 始 め に か け て 執 筆 し た 膨 大 な 量 の 原 稿 は 、 現 在 、 ょ う や く そ の 編 集 が 完 了 し よ う と し て い る 。 シ ャ ー ロ ッ ト の 散 文 の 初 期 作 品 は ク リ ス テ ィ ー ン ・

A.

ア レ グ ザ ン ダ ー の 編 集 に よ る

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)の第

3

巻 の 出 版 が 間 近 で あ る O 一方、 弟 プ ラ ン ウ ェ ル の 初 期 作 品 は ヴ イ ク タ ー ・

A.

ノ イ フ ェ ル ト に よ る

The

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Branwell Bronte

(New York and London: Ga

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3

巻 が こ の ほ ど 完 成 し たo

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A.

サ イ ミ ン ト ン に よ る シ ェ イ ク ス ビ ア ・ ヘ ッ ド ・ ブ ロ ン テ の 出 版 か ら 半 世 紀 余 り を 経 て 、 初 め て 信 頼 で き る 初 期 作 品 全 集 が ほ ぼ 完 成 し た こ と で 、 今 後 の ブ ロ ン テ 研 究 が い っ そ う 促 進 さ れ る こ と は 間 違 い な いO 本 研 究 で は 、 先 に 完 了 し た 「 ブ ロ ン テ 初 期 作 品 研 究 お よ び 書 簡 研 究

J

(課題番号

0961048

1 ) に お け る シ ャ ー ロ ッ ト ・ ブ ロ ン テ の 初 期 作 品 群 の 全 容 解 明 と 物 語 の 構 造 分 析 に 続 い て 、 十 数 年 に わ た る 初 期 作 品 の 創 作 過 程 の 三 分 の 二 を 共 に 過 ご し た プ ラ ン ウ ェ ル ・ ブ ロ ン テ の 散 文 作 品 の 中 か ら 、 と く に シ ャ ー ロ ッ ト の 活 動 と 関 係 の 深 い 最 初 期 の 主 だ っ た 作 品 を 取 り 上 げ たO 本 報 告 書 で は 滋 賀 大 学 紀 要 に 掲 載 さ れ た 上 記 の 研 究 の 成 果 の 他 に 、 イ ギ リ ス ・ ブ ロ ン テ 協 会 の 会 報 に 掲 載 さ れ た 最 近 の プ ラ ン ウ ェ ル 関 連 の 論 文 の 概 要 も 収 録 し たO さらに

2002

1

1

1

7

日 に ニ ュ ー ・ サ ウ ス ・ ウ エ ー ル ズ 大 学 ( シ ド ニ ー ) で 開 催 さ れ た

J

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(初期 作 品 学 会 ) で の 口 頭 発 表 の 原 稿 も 、 一 般 に は 入 手 し に く い こ と か ら 、 こ こ に 収 録 す 石 こ と と し た 。 11

(4)

2

. 研 究 課 題 :

プ ロ ン テ 初 期 作 品 研 究 (

2

)

ー プ ラ ン ウ ェ ル ・ ブ ロ ン テ を 中 心 に ー 授 教 立 口 学 出 同 教 尚 子

知 貝 滋 子 る + 4 上 山 石

ηJ

4.

研 究 経 費 :

平 成

13

年 度

1

2 0 0

千円

平 成

14

年 度

800

千円

合 計

2

0

0

0

千円

5

.研究発表

(

1

) 学 会 誌 等 l、 岩 上 は る 子 、 プ ラ ン ウ ェ ル ・ ブ ロ ン テ 初 期 作 品 研 究 (

1

)

一 「 若 者 た ち の 歴 史

J

を 中 心 に ー 滋 賀 大 学 教 育 学 部 紀 要 ( 人 文 ・ 社 会 科 学 ) 、 第

5

1

巻、

1

1

7

-

1

3

0

頁、

2

0

0

2

2

、 岩 上 は る 子 、 明 治 期 の ブ ロ ン テ 受 容

-r

ジ ェ イ ン ・ エ アj を 中 心 に 一 滋 賀 英 文 学 会 論 集 、 第

1

1

号、

1

-

1

9

頁、

2

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2

3

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Bronte S

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27

part

2

pp.91-99

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2

4

、 岩 上 は る 子 、 明 治 期 の ブ ロ ン テ 姉 妹 ( 上 )

-

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ジ ェ イ ン ・ エ ア

j

翻 訳 前 史 一

f

英 語 青 年j 第

1

4

8

巻 第

4

号、

2

2

4

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2

2

8

頁、

2

0

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2

(5)

5

、 岩 上 は る 子 、 明 治 期 の ブ ロ ン テ 姉 妹 ( 下 ) 一 水 谷 不 倒 「 理 想 佳 人 」 を め ぐ っ て ー 『英語青年j 第

1

4

8

巻 第

5

号、

304-308

頁、

2002

6

、 岩 上 は る 子 、 ブ ラ ン ウ ェ ル ・ ブ ロ ン テ 初 期 作 品 研 究 (

2

)

滋 賀 大 学 教 育 学 部 紀 要 ( 人 文 ・ 社 会 科 学 ) 、 第

5

2

巻、

125-133

(

2

) 口 頭 発 表

l、岩上はる子、

I

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ジ ェ イ ン ・ エ アj は い か に 訳 さ れ た か 一 水 谷 不 倒 「 理 想 佳 人 」 を め ぐ っ て ー 」

2002

年 度 日 本 ブ ロ ン テ 協 会 公 開 講 座 ( 近 畿 大 学 、 5月

1

1

日) 2、Haruko Iwakami: ‘Post-colonial features of the Bronte Juvenilia'

Juvenilia Conference, University of New South Wales, Sydney, Australia(1

7

November,

2

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2

)

(

3

)出版物

1

、岩上はる子、 (監訳)

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未 だ 聞 か れ ざ る 書 物 の 一 葉 ー シ ャ ー ロ ッ ト ・ ブ ロ ン テ 初 期 作 品 集

II-

,] 、 鷹 書 房 弓 プ レ ス ( 東 京 )

2001

2

、岩上はる子、 「 ブ ロ ン テ 初 期 作 品 に 見 る 植 民 地 的 要 素

J

r

シャー ロ ッ ト ・ ブ ロ ン テ 論 』 第

5

章 所 収 ( 1

05-122

頁)、開文社(東京)、

2001

年 3、 岩 上 は る 子 、 「 鏡 で 読 み 解 く 『 ヴ イ レ ッ ト

JJ

r

イ ギ リ ス 小 説 と イ ン テ リ アj 第 7章 所 収 、 ミ ネ ル ヴ ァ 書 房 ( 京 都 ) 、 印 刷 中 lV

(6)

ブロンテ初期作品研究

(

2

)

- ブ ラ ン ウ ェ ル ・ ブ ロ ン テ を 中 心 に

自 主 た

1

.ブランウェル・ブロンテ初期作品研究(1)

-I

若者たちの歴史

J

を中心に-・

2

.

ブランウェル・ブロンテ初期作品研究 (

2

)

- I

侵略戦争」を中心に-・・・・・・・・・・・・・

1

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ブランウェル・ブロンテ研究動向

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by Robin St John Conover

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5

(7)

滋賀大学教育学部紀要人文科学・社会科学 No. 51, pp. 117-130, 2001

プランウェル・ブロンテ初期作品研究(

1

)

「若者たちの歴史」を中心に一一

岩 上 は る 子

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Haruko IW

.AKA1任 プロンテ初期作品研究は、この十数年ほどの聞に急速に発展してきた分野である。その背景には、 ブロンテ姉弟妹4人が10代の大半を費やして執筆した膨大な量のマニュスクリプトの編集が進んだこ とがある。シャーロット・プロンテ CCharlotteBronte, 1816-1855)の散文作品はChristineA. Alexanderの編集による AnEdition 01The Early Writings of Charlotte Bronte(Basil BlackweU) が刊行中で、最後となる第3巻の完成が現在待たれている。プランウェル・プロンテ CBranwell Bronte, 1817-1848)の初期作品は、 1999年に VictorA. Neufeldtの 編 集 に よ る TheWorks of Pαtrick Branwell BronteCGarland Press)全3巻が完成した。これによってシェイクスピア・ヘッ ド版いらい半世紀を経て、初めてフ.ロンテ初期作品の完全版が整備されることになった。 本研究では、十数年にわたる初期作品の創作過程の3分の 2をシャーロットと共に過ごした弟プラ ンウェル・ブロンテの散文作品を対象とする。初期作品の前半をシャーロットとプランウェルは共同 執筆した。二人が単独で創作を行うようになってからも、互いの作品に言及したり引用するなど緊密 な関係にあった。初期の「グラスタウン物語

J

(1826年から1831年〉だけでなく、その後の「アング リア物語J(1832年から1836年)においても、全体の構想や登場人物の造形などでプランウェルが果 たした役割は大きい。 だがプランウェルについては現在ようやく原稿が整備された段階であり、本格的な研究は緒につい たばかりというのが現状である。それでも近年のプランウェル研究で注目すべきものとして Robert G.Collins, The Hand of the Arch-Sinner:・TωoAngrian Chronicles of Branwell BronteCOxford: Clarendon Press, 1993)、およびJulietBarker, The Brontes(Phoenix Giant, 1994)が揚げられる。 またBronteSociety Transαctionsのvols.24, 25, 26にプランウェルを単独で取り上げた論文7点が 掲載されている。プランウェル評価の気運が生まれつつあると言える。

今回は、プランウェルによる寸heHistory of the YQug Men: From Their First Settlement to the Present Time'

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若者たちの歴史

J

1830年12月15日から1831年5月 7日、以下「若者たち」と略 記、日付は15.12.1830-7.5.1831と表記)を取り上げる。これは 1770年に、 140歳の船長の下で12人 のイギリスの若者たちが一隻の船で西アフリカのアシャンティー国に渡り、彼らの王国を建設する物 語である。略史によればこの地には1500年頃、イギリス人たちが30年ほど入植していたが、原住民

(8)

の攻撃や魔神の圧制によって 1537年に引き揚げた。その後、 200年にわたって繁栄を欲しいままに していたアシャンティー族の運命にとどめを刺そうとする若者たちの冒険談が、この作品のストーリー を構成している。 同じ内容をすでにシャーロットが'ARomantic Tale'(4.1826

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ある夢想の物語

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4,500語 、 以 下 「夢想」と略記)に書いていたが、プランウェルはそれを3倍強の6章15.300語に書き改めた。シャー ロットが自作を'Tale'と題したのに対して、プランウェルは'History'としていることからも、彼が 歴史物語を意図していたことが伺われる。 プランウェルは「夢想」では明示されなかった国名、地理的位置関係、領土面積などを詳細に記し たほか、グラスタウン連邦と名付けた見聞きの地図を付けた。その資料となったのは、『ブラックウッ ズ・マガジン

J

1826年6月号に掲載された、探検家MajorDenham, Captain Clappertonらによる アフリカ探検記Nαrratiueof Travelsαnd Discoueries in Northem and Central Africα1822, 1823 αnd 1824の書評に添付されたアフリカの地図であることはすでに知られている。 プランウェルが自作で大幅に書き加えたのは、第2章のアセンション島 (AscensionIsland)にお けるオランダ軍との戦闘、第4章、 5章におけるアシャンティー族との数回にわたる戦闘である。ア フリカ西方の南大西洋中部に浮かぶアセンション島は、ナポレオンが幽閉されたセント・へレナ島の 北西1100キロに位置している。 1815年にナポレオン監視のためイギリス軍が駐留するまでは無人島 で、オランダ人が要塞を築いた事実はない。 13人の勇士が400名の守備隊を壊滅させる爆破作戦の模 様は、『ブラックウッズ・マガ、ジン

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1821年10月号に掲載された‘Campaingsof the British Army at Washington, &c'の影響などが指摘されている (Neufeldt,vo1.1, p.146, n.19)。戦いの発端は、 島で給水しようとした勇士の一人スタンプスがオランダ兵の質問を無視し射殺されたことから、復讐 に燃える勇士たちがオランダ兵ばかりでなく住民も皆殺しにする展開になる。捕虜を閉じ込めたまま 要塞を爆破する決議についても、スタンプスや仲間の死と長老クラッシーの負傷に対する正当な復讐 であるとの判断が示される。 アフリカ上陸後、勇士たちは国王を選出し、奥地探検の部隊を送り出す一方、残りの者たちで街の 建設に励む。魔神との出会い、勇士たちの守護神になるという約束、アシャンティーとの道遇等々、 物語は未知の土地で若者たちを主役とした冒険と建国の物語として次々と展開していく。勇士たちの 最大の敵が原住民アシャンティーである。彼らは「夢想、」ではたんに‘men'と書かれているが、「若 者たち

J

では‘savages'とされている。その姿も「赤銅色の頑強な体躯の裸の男たち」というステレ オタイプである。先に発砲するのは白人たちで¥しかも銃を知らないアシャンティーたちは「この災 いがどこから来るのかわからず、地面に平伏して神に救いを求め」、捕虜となった首領の SaiTootoo Quaminaには保釈金が掛けられる。彼はまもなく金が払われて釈放されるが、虜囚の辱めを受けた ことが後に白人に敵対する原因になる。 物語では白人に友好的だったCashnaQuamina王が死んだ後、王位を継承した息子サイ・トウト ウが13000の兵を結集したため、勇士たちが先手を打って首都クーマシーに攻め込み勝利を収める。 その後、平和条約が結ばれるが、 3年後、ふたたび勢力を盛り返したサイ・トウトウは兵5000人を 率いて勇士の街に攻め入る。敵の部族にはAcroofcroombと呼ばれる人食い人種が含まれている。 これについてプランウェルは注を添え、兵隊人形といっしょに父からプレゼントされた九柱戯(ボー リングの原型)に与えた役柄と説明している。名称に関する説明はないが、 acroof croomb (crumb?) と分けてみると「パンくず、つまらないやっ」の「先端

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頭」となり、英雄の役を与えられた兵隊 人形の傍らで、人間とはみなされない九柱戯への蔑称が感じられる。物語では勇士たちは今度も圧倒 的な劣勢を跳ね返し、敵の本拠地まで追撃し蟻滅する。 アシャンティーとの戦いは極めて誇張されているが、アセンション島の場合のようにプランウェル のまったくの創作というわけではない。アシャンティーは1670年代にOseiTuTuを国王とし、首都 Kumasiをおく実在の国家である。 18世紀を通じヨーロッパ諸国との奴隷貿易によって栄え、西アフ

(9)

ブランウェル・ブロンテ初期作品研究(1) リカ一帯に領土を拡大し、 OseiBonsuの時代(在位c.1801-24)に強力な中央集権国家となった。当 時ゴールド・コースト周辺地域に貿易拠点を置いていたイギリスと衝突し、 1824年にはイギリス軍が 敗退している。その後も戦いが繰り返された後、 1831年に講和条約が結ばれ、それから30年間は戦争 は回避される。だが、 1863年にアシャンティーが再び蜂起し戦闘が続き、最終的にイギリスの植民地 に併合されたのは20世紀になってからであるら こうした西アフリカの状況は新聞や雑誌などによってイギリス圏内に伝えられた。ブロンテたちの 創作の大きな情報源の一つであった『ブラックウッズ・マガジン』の20年代、 30年代の号を見ると、 ほとんど毎月アフリカ関連の記事を掲載している。その中の一つに M.J.Fordeによる 'TheBritish Settlements in Western Africa' 0829年9月号)という記事があり、西アフリカの植民地(特にア シャンティー地域)の劣悪な状態を伝え、アフリカ貿易の利益に疑問を投げかけている。この記事に

は“Andof the cannibals that eat each other, the Anthropophagal,j And men whose heads do grow beneath their shoulders."という副題が添えられ、原住民が敵の部族の人肉を食した記述が見 られる。プランウェルの作品に登場するアクロフクルーム人の描写に影響していることは明らかであ る。 だが同じ資料を読み、同じ物語の舞台を創り上げ、同じ内容の物語を書いても、シャーロットとプ ランウェルではその世界は異なっている。アシャンティー族の扱いだけを見ても、「夢想、」では、捕 虜となった首領らしい男(名前は記されていなLウが「私がかつて見た誰よりも澄んだ眼をしていた」 という印象を書き添え、一人の登場人物として個性的側面に留意している。プランウェルが「若者た ち」でカシュナ・クォーミナとその息子サイ・トウトウ、さらにその弟クォーシャという一族の関係 を作り出したことを受けて、シャーロットは‘TheAfrican Queen's Lament (9.1833)、‘ALeaffrom an Unopened Volume'(1.1834)などの作品で、ウェリントン公爵やザモーナ公爵一族に対する敵対 者として異彩を放つアシャンティー族長クォーシャ・クォーミナを創り上げていくことになる(拙論 「初期作品に見る植民地的要素

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シャーロット・ブロンテ論

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pp.105-122,開文社、 2001、参照)。プ ランウェルの作品が筋書きだけのストーリーであったのに対し、シャーロットはプロットを作り上げ たのである。彼女の視点が白人中心的で、あることは否めないまでも、クォーシャの敵対には因果関係 が描き込まれていた。一方、プランウェルはこれほど熱中して描いたアシャンティーもこの作品で終 わり、次の散文作品‘Lettersfrom an Englishman' (9.1830-8.1832)では関心がアレグザンダーと いう反逆者に移り、もっぱら彼による反乱、革命の記述に没頭することになる。 若者たちを主人公とする物語は、プランウェルが父からもらった兵隊人形に端を発している。姉妹 たちに人形を貸し、それぞれに与えられた役割を演じることから物語が生み出されていった。なぜ兵 隊人形を必要としたのか。それは兵隊人形がもっているイメージに強く惹かれてのことであった。言 うまでもなく、兵隊という記号は行動的で遣しい勇士、闘士を意味する。それに加えて、戦いの相手 は自国人ではなく外国人であり、戦場は自国ではなく異国を当時は意味していたからである。 7'ロンテたちの生活の舞台は狭く、変化に乏しい閉鎖的な社会であった。だが日々拡大していく海 外領土や未知の領域への探検のニュースを雑誌や書籍で知ることで、かれらの想像力は異国に向けら れていった。そこにかれらは自由に行動できる世界をイメージできたからである。その魅力は男子プ ランウェルにとってばかりでなく、ヴィクトリア朝の制約の強い社会に生きる姉妹にとってはさらに 強いものであったろう。 10代、 20代の若者が異国の地で自分たちの国を創り上げるファンタジーの中 で、ブロンテたちはその主人公になったり、かれらを見守る魔神になって死者を蘇らすなど、変幻自 在の役を演じることになる。それはかれらにとって一つの生活の場になったことを意味する。 「若者たちの歴史」の勇士たちは、アセンション島でオランダ総督の許可なく上陸し、とがめられ ると殺裁と焼き討ちで応じる。アシャンティーに上陸するや、不法にも土地を占領し、再三にわたっ てアシャンティーの住民たちと戦火を交える。若者たちは当然のごとく勝利し、アシャンティー国に 自分たちの国を建設する帝国主義的野心を隠さない。いずれも侵入者として非難されるべきは若者た -3・

(10)

ちである。だが、この作品のモラルをプランウェルは、現実のイギリス政府の対外政策によって肯定 されると思っていた。子供のファンタジーと

1

9

世紀イギリスの植民地主義という時代状況との奇妙な 混交が見られるのである。 これ以降、初期作品はプランウェルが建設した国を舞台に、彼が登場させた人物たちを中心に展開 していくことになる。 (翻訳) 序文 「若者たちの歴史」 西暦1830年12月15日 西 暦1824年の夏の頃であったろうか。一組の兵隊人形が欲しくてたまらず父にねだったところ、その 後まもなくしてブラッドフォードから買って来てくれたのだ。 12個組で1シリング6ペンス。それま での最高のものだった。それからしばらくして、キースリーでもう一組自分で買ったが、人形たちは 一年ぐらいの内に負傷したり行方不明になったり焼死したりと、さまざまな惨事に見舞われ、 「全滅し、後には残骸すら残らざりしリ そのためこれまでのものでは満足できなくなり、キースリーでトルコの楽隊人形を買い求め、それは 西 暦1825年の夏まで手元にあった。その頃、シャーロットとエミリーが学校から帰ってきて、人形た ちは忘れられたまま10カ月ほど過ぎた。西暦1826年6月5日、パパがリーズでもう一組 (12個)買っ てくれ、私はそれを 2年ほど保存していた。これを記している現時点(西暦1830年12月15日)では、 残存しているのはそのうちの2、3個だが。 1827年のいつ頃か、私はハリファックスでさらにトルコ の楽隊人形を買った。さらに1828年、ハワースで最後となるインディアン人形を購入した。これらは いずれもまだ手元にある。私が買った、あるいは買ってもらった人形の目録は以上である。最後に次 のことを述べて、すでに元長に過ぎるこの序文を締めくくらねばならない。すなわち、以下の歴史物 語に述べられていることは、私とシャーロット、エミリ一、アンが「若者たち

J

(人形たちに付けた 名前である)の間で、約6年間に起こったと空想した出来事の記録である。何カ所かは、先の若者た ちの姿と好みに合わせて若干の変更を行っている。この物語は、彼らの中で最高の散文作家であるジョ ン・パッド大尉の記述によるものとする。 PBブロンテ ハワース、西暦1830年12月15日 第1章 1、古代プリトン人およびガリア人 2、1500年のイギリス人の入植 ギニア別名アシャンティーは大国というか、いくつもの国々の集まりで、その領土は東西1700マイル、 南 北500マイルにわたっている。東はアフリカ奥地にまで伸びる広大な砂漠と接し、西は北大西洋、 南はギニア湾がせまり、北はジベル・クムリすなわち「月の山

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の延々たる山嶺に遮られている。ア フリカのこの地域に L、かなる民がいつ頃から居住するようになったかは、かくも時を経た現在では明 確なところはわからない。だが最もあり得ることとしては、最初の居住者は古代プリトン人とガリア 人で〔紀元前)2000年頃に到来し、南東部に住み着いたということである。彼らのその後については 知る由もないが、「ある夢想のお話」の著者のように数十年ほど前に本を出した者もいる。そこでは 長年にわたる惨たらしい内戦の後に、住人はそれぞれの故国に帰還したとされている。一方、残忍で 悪名高い魔神たちの圧制に対して果敢に挑んだ住人たちは、無慈悲な怪物どもに根絶やしにされたと

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プランウェル・ブロンテ初期作品研究(1) する著者もいる。今となっては、いずれの説が正しいかを決することなど虚しい。なぜなら西暦1830 年の現在にあって、紀元前2000年に何があったかなど、もっともらしく語れる者がどこにいるだろう か。現在言えることはただ、アシャンティーに確かに住人はいたが、遠い昔に消滅したということだ けである。ブリトン人とガリア人が去った後は、原住民たちがカルタゴのローマ人からもアフリカの 他の政府からも侵略を受けることなく、 3000年余にわたって生活していたという。そして西暦1500年 頃、イギリス人入植者の一団が南海岸に住み着き、 30年ほど暮らしていたが、原住民の攻撃や魔神の 圧制に耐えかねて出国を決意し、 1537年8月、イングランドに向けて出港した。彼らの手になる建築 物がいくつか残っているが、中でも重要なのがキルデニー・ホールである。グラスタウンの裁判長に して王立考古学協会会長のジョン・ギフォード殿の邸宅であった建物である。なお、我が国の初期の 状況についての記述の多くは、この人物の勤勉かっ適切な調査に負うところ大である。当時の建築様 式を偲ばせるものがもう一つ、グラスタウンの東方30マイルの所にある。そこに聾える堅固な城は、 ギフォードとリーフによれば総督の本拠とされている。これら以外にもアシャンティーの沿岸には、 城、教会、家屋が数多く散在している。この時代の記述に充てた紙数は尽きてしまった。ともかくイ ギリス人たちが去った後、この国はふたたび野蛮人どもの支配するところとなり、およそ200年 に わ たって南アフリカ諸国の皇帝その他の君主が繁栄と栄華を欲しいままにした。だが運命の糸車は決し て回転を止めることはない。人も王国も繁栄の絶頂にあったかと思うと、次の瞬間には暗黒の絶望の 極みへと転落する。アシャンティー族の運命もかくの知しであった。あらゆる危険から遠く離れ、世 界中の称賛を集めていると思いこんでいる最中にも、いまだかつてない恐ろしい、そして彼らを完全 に打ちのめしてしまうような異変が、思いもよらない彼らの頭上に降りかかろうとしていたのである。 (P Bブロンテ 西 暦1830年12月15日)第一章の終わり 第2章 1770年1月7日から1770年6月5日まで 1、12人の勇士たちの名簿 2、その性格 3、インヴィンシブル号の出帆 4、スタンプスの戦死 5、オランダ人のせん滅 6、アフリカ漂着 7、締めくくりのことば 西 暦1770年の初頭、イングランドから一隻の船が出帆した。インヴィンシフツレ号で、ある。行き先はア シャンティー。乗組員13名は身体社健にして意気軒昂な者ばかり。彼らの名前は、 ノfター・クラッシー 船 長 140歳 つ アレグサンダー・チーキー 船 医 20歳 ワ アーサー・ウェjレズリー らっぱ卒 12歳 40 ウィリアム・エドワード・ノfリー らっぱ卒 15歳 40 アレグサンダー・スニーキー 水 夫 17歳 70 ジョン・ロス 中尉 16歳 15 ウィリアム・プレイヴィー 水 夫 27歳 70 エドワード・グレイヴィー 水 夫 17歳 60 フレデリック・グウェjレフ 水 夫 27歳 スタンプス 少尉候補生12級 46 マンキー 少尉候補生11級 52 トラッキー 少尉候補生10級 45 クラッキー 少尉候補生5級 20 この時代の記述に入る前に、これら12人の街の建設者にして我れらが建国の士たちの性格を簡単に紹 介しておいた方がよいだろう。船長のクラッシーは叡知溢れる長老で、チーキーは乗組員の中で最も -5・

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勇敢な男である。容貌も気質もあまり好感が持たれないのは事実だが、勇猛果敢なることはある夢想 おの白 の話の著者の次の言葉に伺われよう。すなわち嵐に見舞われて日く「さしもの我れらが船医すら戦い た」という。アーサー・ウェルズリーは向こう見ずな若者で、軍功と名誉に情熱を燃やしていた。弱 冠12歳だが、疲れを知らぬ忍耐強さと危機に際しての沈着冷静さは年長者も顔負けであった。 WEパ リーは、いかにも若さ溢れる勇敢な水夫といったところだが、一点だけ水夫らしからぬ所があった。 いささか逃げ口上が得意な点である。嘆かわしい! 勇士たちにも欠点はあるということか! ずる 賢い嘘つきだが、怖いもの知らずのスニーキー。開けっぴろげで正直者のロスは、戦闘で勇気を奮う 時は狂ったかのよう。そのロスに似ているのがプレイヴィー。ただしその顔立ちも気質も、元気を出 せ、飲め、食え、踊れ、陽気に行こうぜ、と言わんばかり。こうした面々とまるで違うのがグレイヴィー である。生まれもつての生真面目と気響に、さらに仲間たちが嫌うあの嫌味な笑い方が加わって、いっ そう陰気に見えるのだ。だが勇敢で恐れを知らないことは誰にもヨ!けをとらない。ヨーク公フレデリ ッ ク・グウェルフは後にグラスタウンの王となる人物だが、彼に関する情報はほとんどなく、今後も追 加される見込みはない。なぜなら彼はすでに故人となり、勇士たちは初期の歴史についてはきわめて 寡黙で、ことヨーク公に関する質問には完全に口を閉ざしているからである。それでもリーフやその 他の初期の歴史家たちによれば、公は度量の広い勇猛な指揮官であったようである。残り 4名の水夫 たちについては詳しく述べるまでもあるまい。少尉候補生の例にもれず、彼らも陽気で軽薄でスポー ツ好きで、将来のことなど考えない若者たちと言えば事足りるだろう。脱線はこれぐらいにして、物 語を進めなければならない。準備万端整い、風も良好な西暦1770年 2月 5日、恐れを知らぬ英雄たち を乗せた船は帆を揚げた。彼らの多くが二度とふたたび見ることのないイングランドに別れを告げ、 英仏海峡を速やかに南下して、霧と波に囲まれたイングランド島を回ると、彼らの視界に陽光降り注 ぐフランスの平原が見えてきた。 「波立つ海辺に沿いて黄金の糸のごとく伸びて」 ヤング・スノレト

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日、スペインの海岸に達し、食料を補給。南西の風を受けてトリニダード島に向かう。暴風雨に遭っ たものの、島で船を修理してふたたびアフリカ海岸を目指し、当時オランダ領であったアセンション 島に到達する。この航海の途上の 5月18日、スタンプスが戦死。アーサー・ウェルズリーとグウェル フと共に水の補給のため上陸し、持ち帰るところで守備隊所属のオランダ兵8名に道遇したのである。 総督の許可なく上陸して何をしていたかと尋問されたが、これに答えなかったことからオランダ兵た ちが発砲。一発目がスタンプスに命中して倒れたのである。彼は「我が仇を討て」と叫んで事切れた。 ウェルズリーとグウェルフは懸命に狙いをつけ、敵のうち 3人を撃ぢ殺した。敵はこれを見て砦へと 逃げ出したが、ウェルズリーとグウェルフはさらに2人を射殺し、急ぎ船に引き上げた。この戦闘お よびスタンプス戦死の報告を受けた乗組員たちは、直ちに対策を協議するため戦争評議会を招集した。 グレイヴィーは12人の若者というか若造が、 400名もの守備隊を備えた街を攻撃することの愚を説き、 直ちに帆を揚げるべきだと提案した。「何だと」と叫んだのはプレイヴィーである。「俺の息子を犬の ように、ならず者と一緒くたに葬れと言うのか」スニーキーは奇襲攻撃を提案した。まず6名を事態 の解決のためと称して総督の居城に派遣し、護衛の守備隊を深夜まで引きつけておく。頃合いを見て 3名が密かに街に入り、手当たり次第に殺裁と焼き討ちを行う。残る 3名は港に船を入れ街を砲撃す る。この危機に乗じて6人の使節は総督と部下たちを皆殺しにし、仲間のところに戻って勝利を祝う。 続いて立ち上がったウェルズ‘リーが提案した。最初の退却案は臆病であり、次のだまし討ち案は卑劣 である。正々堂々と危険に立ち向かう以外に道はない。我らは誰もが成しえなかったことを達成する という決意を持ってイングランドを出港したのではなかったか? 最初の機会を前に早くも尻込みす るつもりか? 自分なら卑劣極まる作戦を用いるより、街に突入して怒り狂っているオランダ人たち の手に掛かった方がましだ。私は問いたい。殺されたスタンプスの父、伯父、兄弟たちなら、一矢も 報いることなく、恨みを晴らす気概を見せずして退却するだろうかと。名誉ある最善の方法は、港に

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プランウェル・ブロンテ初期作品研究(1) 船を進め、直ちに砲撃を開始して街を灰燈に帰せしめることだ。以上が私の提案である。必要とあれ ば、上陸して敵と交戦することにもなるだろう。 3つの提案について、評議会の意見は次のように割 れた。 グレイヴィー案 1 スニーキー案 4 ウェルズリー案 6 ウェルズリー案を指示する多数派に賛成 2 かくして評議会の承認を得た提案はクラッシーの認可を得て、直ちに実行に移された。まずグウェル フの指揮の下、 4名(ウェルズリ一、トラッキ一、プレイヴィ一、マンキー)が陸上のオランダ軍を 攻撃するため長艇で出発する一方、本船は港を目指して航行した。以上のような対策が船上で取られ ている聞に、生き残った3名のオランダ兵たちは総督ヴァン・ハーレンの元にたどり着いた。事件の 報告を受けた総督は、船の規模も把握しないまま10名の小隊を海岸に派遣し、住人に対して警戒発令 を行う一方、砦に守備体制を取るよう命じた。海岸に着いた部隊は岩陰から銃撃を受け、戦死者1名、 負傷者3名を出した。部隊は直ちに攻撃拠点に突入したが、すでに反対側の砂堤に移動していたイギ リス人たちから再度一斉射撃を浴びることになった。これでさらに4名が戦死。残る 2名は撤退しよ うとしたが、隠れ家から突進した勇猛な卜ラッキーとマンキーによって刺殺された。こうして部隊を 全滅させた4名は岩陰から飛び出して作戦の成功を喜び合い、空に向けて照明弾を放った(今や夜に なっていたのだ)。すると鋭い砲弾の音につづ、いて、マスケット銃の音が響いてきた。それは街の方 角(彼らが現在いる場所から 1マイルほどの所)からで、本船と守備隊の戦闘の火蓋が切られたこと を告げていた。フレデリックは意気揚々として命令した。「さあ、若人たちよ、街を木っ端みじんに するのだ。もう少し灯りを明るくしてやろうじゃないか

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一団は先ほどの島の一角を目指した。家々 に火を放って住人を皆殺しにしようというわけだが、この勇ましい連中のことはしばしおいて、もう 一つの戦闘について述べておこう。港に侵入した一団は、街の正面に錨を降ろし砲撃の準備を整えた。 ところがそのときパリーが叫んだ。「あんりやまあ、ふねがみつつ、こっちさくるでえ」それじゃあ、 やつらに大砲の照準を合わせろとロス中尉が応じた。よしきた、目にもの見せてくれよう。パリーが 言い終わらないうちに、中央にいたオランダ船が雷光を発したかと思うと、続いて耳をつんざくよう な轟音がとどろいた。戦闘の開始であった。ロスは微動だにせず、被害はどうかと聞いた。砲手スニー キーはへっちゃらだと答える一方、発砲した船に対して30ポンド砲を2、3発お見舞いした。舷側と 船底に穴を開けられた船は、つぶれた卵の殻のようになって沈んでいった。お見事! もう一発とい う声が響いたが、準備が整わないうちに砦から一斉射撃を浴びてマストの天辺が折れ、ロスとクラッ キーが甲板をのたうち回った。一人は片腕が千切れ、もう一人は両足が吹き飛ばされていた。これに 対する反撃は凄まじく、残りのオランダ船2隻も間もなく沈没した。無謀にもこちら側の船に乗り移 ろうと接近したのだ。砦からの激しい砲撃に、グレイヴィーがマストもろとも海に転落した。今や戦 況は極めて不利になった。船に残されたのは4人だけで、しかも航行不能に陥っていた。 13門も備え た砦からの留まることを知らない砲撃に耐えられょうか。思案にくれていると、驚いたことに砲撃が 止んだ。街に大音響が轟いたかと思うと、砲撃のような火の手が街のあちこちに上がった。街に侵入 した陸上部隊が勝利を収め、焼き討ちと殺裁を展開していることは疑いなかった。クラッシーは小舟 をすべて岸から切り離すよう命じた。自分たちの船を攻撃できる敵がいないことを確認すると、クラッ シーは残った乗組員たち(すなわちチーキ一、パリ一、スニーキー)に、街を目指して力の限り漕ぐ よう命じた。上陸して仲間に加勢するためである。まず彼らの眼に入ったのは、 30人ほどのオランダ 兵や住人たちが崩れ落ちてくる家々の聞を縫って逃げまどう姿だった。屋根の下敷きになって死んだ 者も多く、イギリス人たちは怒り狂って銃撃だけでなく材木を投げつけるなどしていたので、オラン ダ人たちは船から新たな援軍が加わったのを見ると、大声で慈悲を請い始めた。彼らは恐怖のあまり パニックに陥っていたので、イギリス人たちが小人数であることもわからず、幽霊や悪魔の大部隊が ウ r

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一斉に自分たちの上に解き放たれたと思いこんだのだ。「よし、情けをかけてやろう」とチーキーと パリーとスニーキーは言い放ち、老若男女かまわず殺しまくった。クラッシーを先頭に焼き討ちと殺 裁と破壊を続けながら通りを進み、やがて公会堂に到達した。建物の前にはグウェルフ、ウェルズ、リ一、 プレイヴィ一、マンキーがいて、逃げ延びてきた敗残兵をやっつけていた。海上部隊がかれらの姿を 見て勝ち闘を上げると、陸上部隊はさらに大きな勝ち関でそれに応えた。グウェルフが叫んだ。「若 者たちょ、そちらはどうだ? こちらはトラ ッキーがやられたが、他は大丈夫だ」それに対するチー キーの返事は、ロスとクラッキーとグレイヴィーを失ったというものだった。今や8人となった一行 はクラッシーを先頭に「復讐だ、復讐だ」と雄叫びをあげながら、砦を襲撃すべく行進した。守りを 固めた砦には130人の男たちが待ちかまえていた だが一行が砦に着くや否や、一発の銃弾がや んごとなきクラッシーの腕を貫き、彼は血の気を失って地面に倒れ伏した。この非礼極まる挨拶に怒 り心頭に発した彼らは、砦を落とした暁には男も女も、たとえ子供でも誰一人生かしてはおかぬと誓っ た。一行はグウェルフを先頭に壁を這い上がり銃眼付きの胸壁をよじ登った。爆破のため火薬を仕掛 けようとしていたところに、 90名の兵士を率いて総督が駆けつけ、彼らの侵入を非難し始めた。復讐 を叫ぶイギリス人たちと絶望に駆り立てられたオランダ人たちの間で激しい衝突が起こった。 2名を 従えたウェルズリーは瓦離の上に登って、オランダ兵たちの群に銃弾を雨震とばかり浴びせかけ、グ ウェルフに率いられた3名は長く鋭い銃剣を休みなく繰り出した。だが敵の反撃も凄まじかった。戦 いが頂点に達したとき、決定的な一撃で戦いを終結させたいと考えた総督は、グウェルフに躍りかかつ て致命的な傷を負わせようとした。だが総督の怒りにまかせた一撃は外れ、グウェルフに喉を刺され て、さらにそこに来合わせたパリーとスニーキーに軍万で頭蓋をうち砕かれて最期を遂げた。イギリ ス人たちは再び弾薬、を仕掛けようと、各自が燃えさしを手に正面突破して中に駆け込んだ。ふたたび 結集したオランダ人たちの攻撃の前にマンキーとブレイヴィーが倒れた。だが「逃げろ、逃げろ、も うお終いだ」という叫びがオランダ人たちの聞に起こり、一瞬の後、とてつもない爆発音が響き渡っ たかと思うと、巨大な白っぽい焔が夜空に高く舞い上がり、爆薬が破裂したことを告げた。この戦標 すべき知らせの後には、深い恐ろしいほどの沈黙が続いた。誰もが呆然、と立ちつくし、まるでそのま ま石になったかのようであった。だがこの静けさも、小石や建物の破片が海に飛び込むじゅっという 音や地表にばらばらと降り注ぐ音によって破られた。残骸はオランダ人たちの上に駿雨のように降り 注ぎ、彼らのほとんどが死傷した。残る仕事は彼らを捕虜にすることで、街と砦に残った兵隊、男、 女、子供のすべてを捕らえ、総勢180名を城内の狭い一室に閉じ込めた。イギリス人たちは大地に身 を横たえ、一日の疲れを癒した。朝になると、激戦を生き抜いたグウェルフ、ウェルズリー、パリ一、 スニーキ一、チーキーは捕虜たちの処遇について議論し、城もろとも爆破することに決した。これを 残虐非道だと思う人もあろうが、クラッシーに深手を負わせたのは連中であることを思い出してもら いた ~'o 許せる道理か?この正当な復讐を果たした後、クラッシ一、ロス、プレイヴィ一、マンキ一、 クラッキ一、トラッキーの亡骸を集め、いつもの方法で生き返らせた。だが必死の捜索にもかかわら ずスタンプスの遺体は見つからなかった。街を焼き払い、住人を蟻滅して、今や12名(全員が真の英 雄である)になった一行は、 5月20日、島を離れた。それから23日間の航海の後、 6月2日、見張り 役のマンキーが陸が見えるぞと叫んだ。その声に全員が甲板から目をこらして、長らく探し求め待ち 望んだ巡礼の目的地、アシャンティーの海岸を探した。やがて奥地の山並みの姿が遠くかすかに見え、 陽光の降り注ぐギニアの海岸線が見渡せた。さらに

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日ほと、航海をつづ、け、今日ではグラスタウン港 と名付けられた地点に上陸した。そこは今でこそ世界で最も華やかな都市となっているが、当時は葦 の生い茂る荒れ果てた入り江であった。西暦1770年6月5日、午前6時、船は錨を降ろした。最初の 行動は自分たちの身と物資を野蛮人や野生動物から守るための小さなキャンプを設営することであっ た。その日はそこに宿泊し、翌日、王を選出し、それから探検に出発することになった。 我々もこの驚くべき旅の終点に到着した。何千マイルにも及ぶ巡礼の旅のあいだ、我々は13名の英 雄たちに数え切れないほどの危険や困難に道遇させた。彼らがあらゆる危険を乗り越える様を見てき

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プランウェル・ブロンテ初期作品研究(1) た。ときには不屈の気高い精神の持ち主でなかったらとても這い上がれそうもない深淵に落ち込むこ ともあったが、彼らは長らく探し求めてきた港に辿り着いたのである。彼らはあらゆる名誉を与えら れ、およそ人間の業績がもちうる限りの栄光に包まれた。そのことごとくを目にした今知りたいこと は、彼らがいかなる魔法あるいは魔力に支えられて嵐を乗り越え、名声を極めるに至ったかという点 であろう。かの偉大にして神秘なる魔神の長たちの力であったろうか。彼らは宇宙の創造よりこの方、 上から見守り、アシャンティーの国を治める守り神(7)と考えられてきた。彼らがなにゆえにこの 地に王座を置いたのかは、人間などの知りうるところではない。この国を華々しい名誉と繁栄の地と してうち立てようと、仲間内で決定したのであろうか。 13名の男たちが生まれる遥か昔から、かれら がこの企てを実行することを決め、ある種の運命によって彼らをこの無謀と思われる企てに向かわし めたのであろうか。この主題の意味合いをあらゆる方面から考えてみよ。偉大で尊い長老クラッシー による報告書における彼らの初期の歴史に関する部分では、 12名が不思議に口を閉ざしている点を考 えてもみよ。なかんずくあの巨大な塔と堅固な港を見るがよい。それは魔法の為せる技ではなかった か。賢明にして分別ある人ならば、だれしも私の意見に同意するのではあるまいか。 (梗概) 第3章 フレデリック 3世 西暦1770年6月 5日から西暦1770年6月 9日まで。勇士暦元年。 1、国王選出のための会議 2、宣言文の写し 3、奥地探検 4、魔神との出会い 5、パッド大尉による締めくくり、西暦1831年1月10日 翌朝、クラッシーは会議を開いて、勇士たちに国王を早急に選出する必要を説く。すなわち、 我々は故国を離れ、長い困難な旅の末にようやく目的地にたどり着いた。ここに来たのは惰眠を むざぼるためではない。収穫の前にはまだ乗り越えなければならない試練と危険が山ほどある。 君たちは血気盛んな若者だ。一人一人がそれぞれの野望に燃えているが、現在のままではまとま りもなく、目的を果たせぬままに探検は失敗に終わるであろう。それでは結束のためには何をな すべきか?それは国王を選ぶことだ。骨の折れる重要な職務に最も適格な人物は誰か、よく考え て選んでほしい。これについては君たちに任せたい。自分たちの手に余るとなったら相談してく れ。そうしたら私が指示を与えよう。 拍手が鳴り止むと、最初にエドワード・グレイヴィーが立ち上がって言った。畏れ多くも自分は偉大 な父の言葉にさらに言葉を重ねるものではないし、弱冠17歳の身で皆に指図をするつもりなど毛頭な い。ただ長老のお言葉に照らして見回してみたところ、私が王位に着いて欲しいと思う人物はジョン・ ロス以外にはありえない。彼は頑健で男らしい外見だけでなく、剛胆で決然として冷静という王の資 質を備えている。危機に瀕しても怯むことなく、戦いに臨んで揺らぐことはない。彼を国王に選出す れば征服につぐ征服となるだろう。さもなければ希望の太陽は沈み、果てることのない危難と餓えと 荒廃が続くであろう。 スニーキーが口を挟んだ。皆が全員、おまえと同じ考えだと思うな。この叡知の固まりのような完 壁なアポロなくしては、我々は滅亡だとおまえは言う。だが、はたしておまえの言うような完全無欠 な人聞がここにいるか。俺は誰も推薦しないが、誰か立ち上がって、この脳足りんに反対してくれ、 誰も立たないとあれば、俺が買って出る。 ウェルズ、リーの出番。結束を、という長老のお言葉をもう忘れたのか? 一人が提案すると、すぐ さまそれに反対するものが現れる。そんなことでよいのか? といって私はグレイヴィーの提案に賛 成なのではない。ジョン2世を推挙するという彼の言葉を聞いたときの驚き! これ以上拙い選択が

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あろうか。国王不適格の理由を述べたいところだが、すでに日も高く直ちに探検に出発しなければな らないので、端的に言う。私が推挙するのはジョージ3世のご次男にしてヨーク公爵のフレデリック・ グウェルフ殿である。イングランド王の息子である彼ほど王冠に相応しい人がいるだろうか。 演説の残りの部分やその後の会議の行方を記したリーフの原稿は残されていない。ともかく委員会 はフレデリックを選出し、今後、彼をヨーク公あるいは国王と呼ぶことになる。 かくして国王に率いられたA・ウェルズリ一、 W・パリ一、 A・スニーキ一、

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・ロスは、長老の 助言と祝福を受けて奥地探検に出発する。一日目は人影ひとつ見えない平原を進んだ。 2日目の昼頃、 食料を探索していたスタンプスが息を切らして国王の元に駆けつけ、

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マイルほど先の小さな谷で巨 大な足跡を発見したと叫んだ。それはつま先から腫まで14フィートもあり、ほかにも 2、3フィート の長さの足跡が無数にあったという。現場に駆けつけた一行が足跡に見入っていると、それまで青く 澄み渡っていた空がにわかに曇った。熱風が吹き荒れて息苦しく、西からは硫黄の臭いを含んだ煙が 流れ込んだ。この異変に驚いていると、まもなく西の方角から途轍もなく大きな巨人がこちらに向かつ て来るのが見えた。雲に届くその頭の回りには光輪が赤く燃え、鼻の穴からは焔と煙が出ていた。供 回りには、大きさはずっと小さいが似たような姿の怪物たちを大勢連れていた。かれらは一行を見つ けると走って来て、恐ろしい声を上げ今にもむさぼり食おうとした。だがその前に巨人が若者たち全 員を掌に載せて、一飛びしたかと思うと、たちまち巨大な宮殿に降り立ち、途方もなく広く華麗な広 間に入った。部屋の一方には彼と同じような大きさで、やはり雲をまとい頭の回りに焔の光輪を輝か せた3人の巨人たちが座していた。最初の巨人が一行を彼らの前に降ろすと、 3人の中で一番背の高 い巨人がアーサー・ウェルズリーをつかんだ。次の巨人がE.W・パリーを、そして最後の巨人がJ・ ロスをつかんだ。最初の巨人が「さあ、おまえたちの手にある人間たちをそれぞれの保護にゆだねよ う。だが与えるわけではないぞ」これを聞いて3人は国王や仲間たちとは永遠に逢えないのかと思い 泣き叫んだが、 3人の巨人たちはすぐに放してやるといい、今後、どこへ行こうともおまえたちの守 り神として見守ろうと約束した。最初の巨人はスニーキーをつかんで言った。「おまえを守るのは私 だ。おまえたちはだれもがいつか国王になるだろう」巨人が手をひらひらさせ、出発だ!と叫んだか と思うと、一行は小さな渓谷にいた。空は雲一つなく晴れ渡り、太陽が静かに沈もうとしていた。こ の不思議な出来事を報告するために、一行は翌朝早く帰途についた。それぞれがいつか国王になるだ ろうという不思議な予言について思いめぐらしながら。 この章を終わる前に、これら偉大な英雄たちの怯む事なき勇気について一言述べておきたい。みず から故国を離れ、見知らぬ野蛮な国を目指し、そこに着いてみれば邪悪な砂漠や彼らを憎悪する原住 民たちに取り固まれ、それでもなお街を建設し、奥地を探検し、敵と対決しようなどという若者たち が、今時いったいどこにいるだろうか? その後、二度とこんな例はなかったし、今後もありえまい。 第4章 フ レ デ リ ッ ク 3世(続) 西暦1770年6月から1779年11月まで。勇士暦7年。 1、12人の勇士の街の建設 2、発見の旅の一行の帰還とクラッシーの謎の出発 3、カシュナ・クォー ミナの死 4、ローゼンデイル・ヒルの戦いとフレデリック 1世の死 5、墓碑名 探検隊の留守中、後に残った勇士たちは街の建設に奮闘していた。基礎を掘り始めて1週間後には、 侵入者を寄せ付けない強固な新しい街が完成し、新しい港には自分たちの船を係留して野蛮人の攻撃 に備えた。すべてが完成すると、長老クラッシーはチーキ一、プレイヴィ一、グレイヴィ一、マンキ一、 トラッキ一、クラッキーの全員を呼び集め、広間で祝宴を催した。晩餐を始めようとしたそのとき、 探検隊が大慌てで戻ってきた。リーダーの国王は自分たちの体験した不思議な出来事や、自分たちの 守護者になろうと誓った奇怪な巨人たちのことを一同に報告した。不安げに聞いていたクラッシーは、 間もなく部屋を後にした。

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プラ ンウェル・フoロンテ初期作品研究(1) 翌朝になっても戻らないクラ ッシーの捜索のため、

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・ロスを隊長にスニーキ一、プレイヴィ一、 マンキーによる捜索隊が結成された。一行がまだそれほど進まないうちに陽がのぼり、かれらの自に まず映ったのはこちらに向かつてくる野蛮人たちの群れであった。赤銅色の肌をした男たちは長身で 頑健な体躯で、槍、弓、盾で武装していた。 4、50人の先頭に立っている長身の若者が酋長らしく思 われた。ロスは直ちに発砲を命じた。銃声と仲間が倒れたことに驚いて立ちつくすアシャンティーた ちに、再び銃火が浴びせられた。この災いがどこから来るのかわからないかれらは、地面に平伏して 神に救いを求めたが、勇士たちは構わず軍万を振りかざし全員を捕虜にした。わずか4人で10倍もの 数の敵を倒した一行は、捕虜を連行して街に帰った。 クラッシー捜索の方法を広間で議論していると、「ある夢想、の物語」の無名の作者が「テープルの 上のワインカッフ。からこぼれそうになった」と書いているように、部屋が揺れ稲妻が走り雷鳴がとど ろいた。皆が呆然としていると、先の巨人がクラッシーを掌に乗せて現れた。巨人は彼を下に降ろし て言った。「我が名は魔神プラニー。他に3名いる。ウェルズリーを守るはタリー。パリーを守るは アニー。おまえたちは強大な国家を作り世界を支配するだろう

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そう告げると、魔神たちは飛び去っ た。この魔神たちとの出会いの後どうなったかは、我われにはわからない。とにかくおよそ一月後、 原住民の一行が街を訪れ、捕虜たちの身代金を払って連れ帰った。それから 8年間は12人の勇士たち は平和を楽しんだ。自分たちの勇気と強さへの自信に加えて魔神たちの保護があったので、かれらに は恐いものは何もなかった。アシャンティーたちも温厚なカシュナ王の下で、勇士たちと交易するな ど友好関係を維持した。 だがその幸福な時期も長くは続かなかった。西暦1779年8月3日、在位46年を数えるアシャンティー 王カシュナ・クォーミナが90歳で世を去った。国民に敬愛された徳高き王であったが、その息子サイ・ トウトウ・クォーミナは復讐心の強い強情な若者だった。かつて虜囚の辱めを受けたことを恨み続け ていた彼は、火器の使用法を習得し、王位についた今、公然と復讐を口にしていた。勇士たちは旧王 の死に弔意を示す名目で偵察を兼ねた使節団を派遣したが、新王は一行に会うこともせず追い返した。 この非礼に勇士たちは憤り、即刻アシャンティーを攻め滅ぼすという意見が続出した。だが国王はク ラッシーを遣わして魔神に意見を求めた。 2週間後、クラッシーが持ち帰った魔神の回答は次の通り だった。「勇士たちょ、立つがよい。恐れるな。我らがついている。厳しい試練が待ちかまえている だろうが、勝利はおまえたちのものだ」 西暦1779年11月1日。勇士たちはアシャンティー国の首都クーマシーを目指して進軍した。 4日目 の朝、街が見える地点に至った。勇士たちは小高い丘の上に陣取り、聖壕や倒木で備えをし、サイ・ トウトウ率いる13000人の攻撃を待ち受けた。勇士たちの陣地は窪地で、背後には険しい崖が迫り、 手前には雨で水かさを増した川が流れていた。また周囲は岩や倒木で被われており、騎馬兵は近づけ そうになかった。だが、いかに地の利があるとはいえ、わずか12名で13000の兵士たちを迎え討てる と確信している者は、この勇士たちくらいなものであろう。 ラッパの音に率いられた無数の敵が山の麓に押し寄せ、崖を登り始めた。それに対してヨーク公は 密かに山頂まで号│いてあった川水を逆流させ、敵を一挙に押し流した。岩石、倒木を含んだ泥流は下 の川をせき止め、堤防が見る見るうちに決壊した。アシャンティー軍は壊滅的な打撃を受け、勇士た ちを神と思い込んで敗走する兵士が続出した。残った兵はわずかに700人だった。だが彼らは命知ら ずの武者で、味方の屍を乗り越えて勇士たちの陣地に攻め入り、歴史に名高いマラソンやテルモピレー の戦いに勝るとも劣らない決戦が繰り広げられた。 1時間あまりの戦闘の後、一挙に・決着をつけよう と、アシャンティー王の弟クォーシャ・クォーミナがグウェルフに襲いかかった。激しくもみ合うう ちに、グウェルフは胸を刺され絶命した。クラッシーも負傷し、指揮官を失った勇士たちは精魂尽き て魔神に救いを求めた。雷鳴と暴風と共に魔神が現れ「立て、勇士たちよ。おまえたちに力を戻して やろう」と告げた。元気を取り戻した勇士たちは、今や手勢わずか50名となったサイ・トウトウ・クォー ミナ王を撃退した。戦闘後、勇士たちは失った仲間を ‘生き返らせ'、ヨーク公フレデリック・グウェ -11

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-ルフを鄭重に葬り、その墓石に「西暦1779年11月4日、ローゼンデイル・ヒルの戦いにて戦死」と刻 んだ。後に、そこは巡礼地となった。 アシャンティー王が和議を申し入れ、勇士たちはクラッシーの助言により和平を結んだ。かくして わずか12人で13000人に勝利した、史上例を見ない戦争は終結した。そしてフレデリック 1世 の 治 世 も終わりを告げた。臣下に慕われ敬愛された国王の死に対する勇士たちの嘆きは深かったが、いつま でも嘆き悲しんではいなかった。勇士たちは女々しい男たちではなかった。その頃のわずかに残るリー フの記録によると、王は世襲ではなく選挙によっていた。王の権限は (1)軍の指揮権と戦争遂行およ び停戦の決定権 (2)犯罪者の処罰 (3)課税および委員会を招集し法律を立案する、の 3つであった。 その力は強大でも微弱でもなく、あくまで国王でありながら、国民も自由を楽しむことができる理想 的なものであった。 第5章 フレデリック 2世 西暦1779年11月30日から西暦1782年8月3日まで。勇士暦9年。 1、王の選挙のための会議とスタンプスの選出 2、アシャンティーへの侵略と街の攻撃 3、アク ロフクルーム人たちの行為 4、 第2の戦い 5、アシャンティーの追跡とアクロフクルームの焼き 討ち 勇士たちは街に戻ると新王を選出するための会議を招集した。そこにアセンション島で死んだはず のフレデリック・スタンプスが骸骨のような姿で現れた。海や山を一人で超えて勇士たちに合流した スタンプスの勇気と知恵に感服したクラッシーは、スタンプスを新しい国王に推挙した。先王もスタ ンプスを後継者に望んでいたことから異を唱える者もなく、全員一致で彼が新しい国王に選ばれた。 その後3年間は平和であったが、西暦1782年7月には、それまで鳴りをひそめていたアシャンティー が再び勢力を盛り返していた。ローゼンデイル・ヒルの惨敗から立ち直ったサイ・トウトウは5000人 の兵を組織し、いかにも野蛮人らしく宣戦布告もなしに勇士たちの街に向かつて進軍を始めた。それ を最初に発見したのは狩りに出ていたアーサー・ウェルズリーであった。彼は6マイルもの道のりを 半時間足らずで駆け戻り、ただちに街の門を閉鎖し城壁に人員を配置した。敵はアクロフクルームと いうアシャンティー地方の人食い人種で、勇士たちを捉え次第、血をすすり肉をむさぼり食うと豪語 していた。城壁の下まで迫った敵たちは凄まじい攻撃を仕掛けた。 4日間にわたる攻防が繰り返され たが、 7月30日、ついに城壁が破られ、敵が街に流れ込み通りをことごとく埋めた。屋根にのぼった 勇士たちは石や屋根のタイルや梁を投げつけて応戦したが、たまりかねた

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・ロスは槍を手に敵の群 れに飛び込み縦横無尽に槍を振ったものの、ついに満身創演となって倒れた。

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・ウェルズリ一、

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プレイヴィ一、 A・チーキーがこれに続いた。敵の手に落ちたチーキーはロスと一緒に首長の食車に のぼり、負傷したグレイヴィ一、クラッキーも他の死傷者とともに、手下どもに丸焼きにして食われ たということである。これを知った勇士たちの怒りは凄まじく、夜陰に乗じて敵の陣地に侵入し数百 人を殺した。気がついたアシャンティーたちに包囲され、勇士たちは円障を組んで応戦した。スニー キーとトラッキーが倒れたが、 1時間にわたる激闘の末、アシャンティーは退散した。後には1500も の屍が放置され、捕虜になった5人の首長は樫の木に吊された。クラッシーが魔神に祈ると、負傷し たり食われたりしたはずの勇士たちが生き返った。元気を回復した勇士たちはウェルズリーの呼びか けで、休む間もなくアシャンティーを追跡し、部隊を一つ残らず壊滅させ、ついに彼らの根城である アクロフクルームにまで攻め込んで街に火を放ち、無抵抗の住民も皆殺しにして、自分たちの街に帰 還した。これらを 3日でやってのけた。 第6章 フレデリック 2世(続) 西暦1782年8月3日から1790年11月30日まで。勇士暦12年。

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プランウェル・ブロンテ初期作品研究(1) 1、フランス革命 2、勇士たちの国への大使とウェルズリーの出発 3、選挙での誇い 4、アシャ ンティーとの戦い 5、ウェルズリーの作戦 6、次なる勇士たちを連れてアシャンティーに帰る 7、スタンプスが王冠を返還 我々の歴史も、いよいよ世界史において類を見ないほど多彩な事件に満ちた時代に入ろうとしてい る。初めは12人の若者たちによる国家が、世界でもっとも強大にしてもっとも絢燭たる国家へと成長 するのを見てきた。この国の前にあってはベルシャ、ギリシャ、ローマ、イングランドですら顔色な しである。だがここでヨーロッパの状・況について語っておかねばならない。 西暦1769年、フランスではルイ 16世が処刑され、代わって共和主義政権が樹立された。ところがこ の新政府の指導者が前例のない残虐行為を繰り広げたことから、ヨーロッパ中の君主が立ち上がり戦 争状態になった。だが1779年、フランスの凱旋将軍ナポレオン・ボナバルトが権力を掌握し、 1782年 にはフランス皇帝およびイタリア国王を僧称した。その頃はプロシアもオーストリアもロシアもナポ レオンに対抗する力はなく、唯一立ち向かえると思われたのはイングランドだけだった。多くの英雄 を有するイングランドだが、それでも対ナポレオンとなると、圏内には見あたらなかった。そこでピッ ト首相はアフリカに人材を求めるため、かのジョン・リーフ殿(アフリカでは名著 f12人の勇士の偉 業」の著者として高名)を使節として派遣することにした。リーフはアフリカに上陸すると直ちに国 王フレデリックに挨拶し、 12人の勇士たちを見て彼らの強靭な肉体、高貴な顔立ちに感激した。リー フの要請に誰もが志願したが、クラッシーが魔神にお伺いを立てたところ、一本の杖を渡されその長 さの身長の者を遣わせと言われる。それがぴったりだったのはアーサー・ウェルズリ一一人であった。 リーフはそのままアフリカに残ることになり、彼の副官とともに、ウェルズリーはイングランドに向 けて出発した。 1783年1月1日の朝であった。 ウェルズリーが去った後、ときおりアシャティーとの小競り合いはあったが、おおむね平和だった。 勇士たちの間ではロスとプレイヴィーが国王に逆らったり、パリーとトラッキーが喧嘩をしてそれぞ れの魔神が助成に現れたりと、小波が起こっていた。だがそんな内輪もめも、ふたたびアシャンティー 族が攻め寄せて来たことで解消した。 1785年春、勇士たちは結束して攻め寄せる敵に果敢に応戦した が、最後は魔神の軍によって窮地を救われた。リーフの記録があまり残っていないので、その後のこ とは詳しくはわからないが、それから 5年間は平和が続いた。 一方、アーサー・ウェルズリーは順調な航海の後、 1783年6月5日にイングランドに到着した。彼 は陸軍大将の称号を与えられ、 20000人の兵を率いてナポレオンが霞摘していたスペイン・ポルトガ ルに進軍した。 4年にわたる戦闘の末にフランス軍を撃退し、ナポレオンはオーストリアとロシアの 連合軍に捕らえられてエルパ島に流された。だがヨーロッパ中が暴君からの解放を喜んだのも束の間、 脱出したナポレオンは国王ルイ18世を失脚させ、ふたたび権力を掌握した。かくしてウェルズリーは 陸軍元帥の称号とウェリントン公爵の爵位を授けられ、 30000の兵を率いてウォータールーの平原で 再度ナポレオンと対決することになった。戦いの詳細は誰も知るところであろうから、ここで言葉を 重ねない。イギリス軍の手に落ちたナポレオンは1790年7月1日、セント・へレナ島に流された。ウェ リントン公爵はその軍功を称えられ恩賞を賜るが、望郷の念止みがたく、摂政の宮にアフリカ帰還の 許可を願い出る。宮は公爵の願いを聞き入れ、他に望みはないかとお尋ねになった。公爵は共に戦っ た部下たちを連れて行きたい旨を答えた。 1790年10月1日、ウェリントン公爵は30000の兵を乗せた 艦隊を率いてアシャンティーに向けて出港した。 1790年11月30日。城の塔に旗を揚げていたリーフが、近づいてくる艦隊を発見した。アーサーの帰 還は歓喜の声で迎えられた。宴の席で戦果を報告するウェルズリーに、国王フレデリックは、彼こそ 国王に相応しいとして王位を譲ることを申し出、全員が「アーサー王に栄えあれリと歓声を上げた。 -13

参照

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平成 14 年( 2002 )に設立された能楽学会は, 「能楽」を学会名に冠し,その機関誌

〔注〕

いずれも深い考察に裏付けられた論考であり、裨益するところ大であるが、一方、広東語

38  例えば、 2011

「心理学基礎研究の地域貢献を考える」が開かれた。フォー

しかし私の理解と違うのは、寿岳章子が京都の「よろこび」を残さず読者に見せてくれる

さらに体育・スポーツ政策の研究と実践に寄与 することを目的として、研究者を中心に運営され る日本体育・ スポーツ政策学会は、2007 年 12 月