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小 西 一 雄

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Academic year: 2022

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(1)

西

はじめに

1 預金通貨の創造と預金それ自体の形成との混同 2 自己資本・借入資本・信用資本

3 マルクスの預金論

4 マルクスは預金設定をどのように捉えていたか 5 預金設定と信用創造の関係

6 再び 「預金通貨の創造と預金それ自体の形成との混同」 について 7 「請求権の堆積」 と 「信用創造」 は同じことではない

8 銀行貸出の増大と預金設定の関係, および現金準備の役割 9 不換制への移行の意味と分析の課題

まとめ:社会的な借り手の集中と貸し手の集中

はじめに

信用創造論の提唱者と目されているマクラウドは 世紀末にこう書いている。 「銀行は貨幣 を 借り入れて それを 貸し出す オフィスではなく, 信用の製造所なのであり, バークリ ー主教がいうように 銀行は金鉱なのである 」1)

すなわち, 銀行は預金という形で貨幣を借り入れてそれを貸し出すというような機関ではな く, 「預金創造」 によって貸出を行うのであり, 貨幣を造る機関なのだということである。 「預 金創造」 を重視するこうした考え方は広く受け入れられているものではない2)。 このような考 え方はマルクス経済学の系譜にたつ研究者の一部によって継承され (貸出先行説), 銀行の機 能についての通俗的な理解にたいする批判の重要な武器となってきた3)。 たしかに, 銀行信用

1) Ⅱ Ⅰ

下線部は原文ではゴシックによる強調部分である。

2) 信用創造論という研究領域自体は 世紀に入って, フィリップスをはじめ少なからぬ研究を生んだ。

しかし貸出による預金創造を重視する貸出先行説のような形では, 広く普及したわけではなかった。

3) たとえば, 吉田暁 「銀行の決済機能とは何か」 ( 金融財政事情 年4月 日号), 大槻久志

「金融恐慌」 とビッグバン (新日本出版社, 年) 。 山口義行 金融ビッグバンの幻 想と現実 (時事通信社, 年) , 建部正義 はじめて学ぶ金融論 (大月書店, 年)

(2)

を正しく把握するうえで預金設定をどのように理解するかは大きな重要性をもっており, マク ラウドの認識は事態の重要な一面を衝いている。 しかし一方で, マクラウドの認識は一面的な ものであり, したがって重大な誤りを含んでいることもまた正しく把握する必要がある。 さら に, 「預金創造」 は信用創造の中心であるという認識は, マルクス自身の理解とはまったく異 なること, したがっていわゆる信用創造論からマルクスを読み込もうという方法は重大な欠陥 をもっていることも認識しておく必要がある。

預金設定の意味を正しく理解することは, 現実資本の蓄積にとっての銀行信用の役割を理解 するうえで, さらには不換制への移行が銀行信用にいかなる変化を与えたかを理解するうえで もきわめて重要な論点である。 本稿の課題はマルクスは預金設定の問題をどのように捉えてい たのかを明らかにし, さらにそのようなマルクスの把握が今日でも有効であることを確認する ことにある。

なお, 本稿の表題を 「…再検討」 としたのは, 本稿が信用創造についてのこれまでの筆者自 身の理解の修正を含むものだからである4)

1 預金通貨の創造と預金それ自体の形成との混同

本論に入る前にいわゆる貸出先行説について, あらかじめ若干の指摘をして, 本稿の課題を 補足しておこう。

現在の通貨は中央銀行券と預金通貨からなっている。 そして銀行券を創造するのは中央銀行 であり, 預金通貨を創造するのは市中銀行である。 さらに今日の銀行制度のもとでは, 中央銀 行券は市中銀行の預金が銀行券で引き出されることによってはじめて流通界に投じられるので あるから, 通貨量の増大はまずは預金通貨の創造からはじまるということになる。 この点を少 し敷衍しておこう。

個別銀行でみれば預金通貨は銀行券での入金や手形・小切手の入金によっても増大する。 し かし銀行券は既存の預金が銀行券で引き出されることによって流通に入りこんでいるのだから, 銀行券の入金による預金通貨の増大は一方での預金通貨の減少に対応しており, 銀行組織全体 でみると預金通貨は銀行券の預け入れによって増大するわけではない。 また手形・小切手は預 金の振替の手段であって, これらの個別銀行への流入による預金通貨の形成も, 銀行組織全体 でみるとけっして預金通貨量を増大させるものではない。 結局, 各銀行が手形割引や貸付, 有

4) 筆者はかつて 「銀行の機能と役割」 (谷田庄三・野田正穂・久留間健編 現代金融の制度と理論 (大月書店, 年) 第2章所収) で信用創造論を比較的まとまって説明した。 また 「 信用創造論 と 再生産論 」 ( 立教経済学研究 第 巻第4号, 年3月) で, 川合一郎氏の所説への批判と いう形で信用創造論を取り扱った。 これら拙稿についての現時点での筆者の評価は後掲の注 で述べ たい。

(3)

価証券投資の際に預金設定という形で預金通貨を創造することによってのみ預金通貨は増大す るのである。

さて, 以上のような事柄は日常的な観察から見いだされる事実である。 実際, かつて金属貨 幣が流通していたときには通貨を造り出すのは鉱山であり, 造幣局 (政府) であり, 銀行券の 場合はそれを造り出すのは発券銀行であるということが平明な事実であるのと同様に, 預金通 貨の場合にはそれを造り出すのは市中銀行であるというのも争う余地のない事実である。 そし て預金通貨を創造しこれを取り扱うという点で, 銀行は他の金融機関と区別される役割をもっ ていることを認識することも大切である。 いわゆる貸出先行説がこうした事実を強調している 限りでは, 筆者も異論はない。 ちなみに, マルクスも銀行による 「信用貨幣の創造 (

)」 について次のようにいっている。 近代的銀行制度は 「一方ではすべて の死蔵されている貨幣準備を集めてそれを貨幣市場に投ずることによって高利資本からその独 占を奪い取り, 他方では信用貨幣の創造によって貴金属そのものの独占を制限するのである。」

( . . , S. )

だが, 結論の一部を先取りしていえば, 貸出先行説がその説の名称にみるように, 「預金が 先か貸出が先か」 (建部前掲書 ) と問題をたてたり, あるいは 「銀行は 預金で集めたお カネを貸すところ ではない」 (山口前掲書 ) と断言するとき, そこには預金通貨の創造 と預金それ自体の形成との混同, 通貨の創造と預金形成との混同がみられるのである。

金属貨幣流通下にあってはこのような混同は生じる余地がない。 預金が金貨幣でなされるか らといって, 預金は金鉱が, あるいは造幣局が造り出すなどという人はいないだろう。 ここで は通貨を造り出すのは誰かということと, 預金の源泉はなにか, 預金を形成したのは誰かとい うこととは別の問題であることが明瞭である。 ところが預金が預金通貨でなされる現在では, 通貨を造り出すことと預金を形成することとが無自覚に混同されることになる。 そして預金通 貨の創造=預金創造=信用創造という誤った連関 (この誤りについては以下行論で説明してい く) を前提として, 銀行業のもっとも重要な本質, すなわち 「銀行は, 一面では貨幣資本の貸 し手の集中を表し, 他面では借り手の集中を表して」 おり, 銀行はまさに集めた貨幣を貸すと ころだという本質が忘れ去られることになる。

前節で示した本稿の課題を別の形で表現するならば, 本稿の課題のひとつは預金通貨の創造 と預金の形成を混同する見解を批判することにある5)

5) 建部正義氏の所説への批判としてはすでに伊藤武氏の以下の論考がある。 「 新しい金融論 とはな にか」 ( 大阪経大論集 第 巻第3号, 年9月), 「 科学的金融論 とは何か?」 (同上論集, 第

巻第5号, 年1月)。

(4)

2 自己資本・借入資本・信用資本

本論に入ろう。 現行のエンゲルス版 資本論 第3部 「第 章 信用制度のもとでの流通手 段」 のなかで, エンゲルスはこう書いている。

「ここで, どのようにして銀行が信用と資本とを創造する ( ) かがわかる。 すなわ ち, ( ) 自分の銀行券を発行することによって。 ( ) 日までの有効期限をもっているが振出 と同時に現金で支払ってもらえるロンドンあての手形を振り出すことによって。 ( ) すでに割 引されている手形で払出をすることによって。 このような手形の信用能力は, まず第一に, ま た主として, 少なくともその地方にとっては, この銀行の裏書きによってつくりだされるので ある。」 ( , . )6)

ここでは 「信用と資本の創造」 が論じられているのであるが, みられるように預金設定ある いは 「預金創造」 についての言及がない。 そして, 総じて 資本論 第3部の第5編では預金 設定についての言及は多くない。 そこで 資本論 におけるこのような預金設定の取り扱いを めぐって, これまでにいくつかの推論がなされてきた7)。 いうまでもなく, それらの議論の共 通の前提は, 銀行の信用創造の中心は預金設定によるものであるという認識であった。 「預金 創造」 こそが信用創造の中心であるのに, なぜマルクスはこれを取り上げていないのかという ことである。 この点で, 西村閑也氏はきわめて端的に問題を投げかけている。 氏は 資本論 第3部第 章の原典紹介において, この部分について次のように指摘している。

「ところで, 世紀のイギリスの民間銀行は, すでに本質的に預金銀行に転化していたので あって, 上の三つの信用創造の方法は, 民間銀行においては重要なものではなかった。 ……そ こで民間銀行が信用=架空資本を造出するというさいに, 最も重要なメカニズムは, 借り手の 預金口座の貸記……による貸出であり, 貸し出された預金が借り手の支払いを通じて, 第三者 の預金口座に入金され, かくして銀行組織全体の預金が増大するということであった。 マルク スは第 章で 事実上, 銀行券は卸売業の鋳貨をなすにすぎず, 銀行で主要事として重きをな すのは常に預金である ……といっておきながら, ここで預金創造のメカニズムを信用造出の 一つの方法としてあげていないのは, 不思議なことである。 これも, 第 章のノートとしての 性格を示すことなのではないだろうか。」8)

6) 以下, 現行エンゲルス版 資本論 からの引用頁はディーツ版全集の原頁を …として記 す。 訳文は大月書店版の岡崎次郎訳によっている。

7) これまでなされてきた 「推論」 の内容については, 西村閑也, 松本久雄, 川波洋一の三氏の見解を 紹介されている大谷禎之介氏の簡にして要を得た紹介 (「 貨幣資本と現実資本 ( 資本論 第3部第

章) の草稿について」 経済志林 第 巻第4号, 頁の注1)) を参照されたい。

8) 西村閑也 「第 章 信用制度のもとでの流通手段」 資本論体系6 利子・信用 (有斐閣, 年) 所収, 頁。

(5)

すでに当時預金設定による貸出が広く行われており, またマルクス自身預金の重要性を指摘 していながら, しかもなお預金設定による貸出を信用創造として記述していないわけである。

この点をさらに, 主要草稿によって確かめておこう。 エンゲルス版のこの部分に対応する 資 本論 第3部主要草稿のマルクス自身の記述は, 「混乱」 と題する部分の冒頭近くにある。

「つまり, 銀行業者たちは信用資本 [ ] を, 自分が裏書きした手形で支払う ことによって, 日払いの小切手 [ ] を (現金と引き替えに) 発行することによって, また銀行券を発行することによって, 調達したのである。」 ( . S. . , 。)9) みられるように, 「信用と資本の創造」 と 「信用資本の調達」 という, それ自体としては少 なくない表現の違いはあるが, エンゲルス版と主要草稿の当該箇所の内容は基本的に異なるも のではない。 ここで 「信用資本」 といわれているのは, 主要草稿でその直前に引用されてい るウイルソンの質問内容を受けてのものである。 すなわちウイルソンが 「実働資本 [

]」 と呼んでいるものに対置していわれているものであり, また 「信用から得られる利 潤であって, ……実際に所有している資本から得られる利潤ではない」 というウイルソンの言 い方を踏まえていわれているものである。 ウイルソンがいう 「実働資本」 あるいは 「実際に所 有している資本」 とは違うものとして 「信用資本」 といっているわけである。 ではマルクス自 身の規定にしたがえば, この信用資本とはいかなるものと考えられるであろうか )。 銀行の資 本構成の内容と区別をマルクスが全体としてどのように把握していたかを確かめるために, 現 行 資本論 第3部第 章における 「銀行資本の構成部分」 の分析を, 主要草稿によりながら 振り返ってみよう。

そこで挙げられている銀行のバランスシートの勘定科目に相当するものは次のようなもので ある ( . . )。 借方に相当するものとしては現金 (金または銀行券), 手形, 有価証券 が挙げられていて, これらをマルクスは銀行資本の 「実物的な構成部分」 とか 「銀行業者の資 本 [ ] の現実の構成部分」 と呼んでいる。 貸方に相当するものでは, 「銀行 業者自身の投下資本 [ ] と預金 (彼の銀行業資本 [

] または借入資本)」 が挙げられ, さらに発券銀行の場合には銀行券が加わるとされて いる。 つまり, 自己資本, 借入資本 (預金), 銀行券である。 さらにマルクスは 「銀行券はさ

9) 資本論 第3部主要草稿からの引用頁は Ⅱ の原頁を S …として記す。 訳文は とくに注記しないかぎり, 大谷禎之介氏の第3部第5章主要草稿についての一連の諸労作 ( 経済志 林 掲載) の大谷氏の訳文によっている。 訳文の引用頁は の引用頁に続いて/印の右側に

…というような形で記すが, は 経済志林 第 巻第2号の意味である。

) 信用資本の用例のひとつとして, エンゲルス版 資本論 第3部第 章においてマルクスはこう述 べている。 「この局面では, たんなる信用資本 (他人の資本 ( )) で盛んに事業が 行われるのであって……。」 ( , , ) ここでは銀行資本ではなく, 産業資本に 関連してこの用語が使用されているのであるが, みられるように 「他人の資本」 を利用するという意 味で信用資本という用語が用いられている。

(6)

しあたりまったく考慮の外に置くことにしよう」 としたうえで, 次のように言っている。

「とにかく明らかなのは, 銀行業者の資本の現実の構成部分 貨幣, 手形, 有価証券 は, 貨幣, 手形, 有価証券というこれらのものが表すのが銀行業者の自己資本であるのか, そ れとも彼の借入資本すなわち預金であるのか, ということによっては少しも変わらないという ことである。 銀行業者が自己資本だけで営業するのであろうと, あるいは彼のもとに預託され た資本だけで営業するのであろうと, この区分に変わりはないであろう。」 ( .

, 。)

「銀行資本の構成部分」 の以上のような叙述と主要草稿で 「混乱」 と題された部分にある先 の叙述とをあわせ読むと, ほぼ確実に次のようにいうことができるであろう。 マルクスは銀行 資本の貸方勘定を, 自己資本, 借入資本, 銀行券にわけており, この銀行券による資本調達が

「混乱」 では 「信用資本」 と呼ばれており, 結局, 自己資本, 借入資本, 信用資本という区分 で貸方の銀行資本の構成を把握しているということである。 そして 「混乱」 においては, 発券 銀行でなくても, 「自分が裏書きした手形で支払うことによって」 また 「 日払いの小切手を 発行することによって」 信用資本が調達できることが, 議会証言の吟味の過程で述べられてい るのである。 もっとも信用資本という用語は, これが表現として十全なものかどうかは議論の 余地があるだろう。 しかし, 「混乱」 のマルクスの記述やエンゲルス版でのそれは, けっして 不完全な記述ではなく, マルクス自身の銀行資本の明確な区分を踏まえてのものであること, 彼らが預金をけっして信用資本としては把握せず, 借入資本として把握していたことは確かで あろう。

こうして改めて, マルクスは預金をどのようにみていたかが問題となる。

3 マルクスの預金論

先の 「銀行資本の構成部分」 のなかで預金についてのまとまった言及がなされているパラグ ラフをみてみよう ( , . , )。

この部分のパラグラフの始まりは次のようになっている。 「預金はつねに貨幣 (金または銀 行券) でなされる。」 これをエンゲルスは 「預金はつねに貨幣でなされる。 すなわち金か銀行 券か, またはこれらのものにたいする支払指図証券でなされる」, と支払指図証券を付け加え たが, いずれの記述にも預金設定による預金創造には触れられていない。 実際, これにつづく 以下の記述もそのようになっている。 ながくなるがそのまま引用しよう。

「準備ファンド (これは現実の流通の必要に応じて収縮・膨張する) を除いて, この預金は つねに, 一方では生産的資本家や商人 (彼らはこの預金で手形割引を受けたり貸付を受けたり する) の手中に, また自分の有価証券を売った私人の手中に, または政府の手中にある (国庫 手形や新規国債の場合であって, 銀行業者はこれらのうちの一部を担保として保有する)。 預

(7)

金そのものは二重の役割を演じる。 一方ではそれは, いま述べたような仕方で利子生み資本と して貸し出されており, したがって銀行業者の金庫のなかにはなくて, ただ銀行業者にたいす る預金者の貸し勘定 [ ] として彼らの帳簿のなかに見られるだけである。 他方では, 商人たち相互間の (総じて預金の所有者たちの) 互いの貸し勘定が彼らの預金にあてた振出に よって相殺され互いに帳消しにされるかぎりでは, 預金は《貸し勘定の》そのようなたんなる 記録として機能する (その場合, それらの預金が同一の銀行業者のもとにあってこの銀行業者 が別々の信用勘定を互いに帳消しにするのか, それとも別々の銀行業者が彼らの小切手を交換 し合って互いに差額を支払うかは, まったくどちらでもかまわない)。」 ( ,

, 。)

この記述を整理すれば次のようなことになる。 ①預金は貨幣 (金・銀行券) でなされる。

②預金された貨幣は準備ファンド部分を除けば貸し出されて産業資本家, 商業資本家などの手 中にあり, 預金は銀行の帳簿上の記録として残っているにすぎない。 ③支払指図証 (手形・小 切手) をとおして預金が振り替えられ相殺される限りでは, 記録にすぎない預金がそのような ものとして機能する。 それは同一銀行内の振り替えであれ銀行間のそれであれ変わりはない。

④したがって預金は, ②③の二重の役割を演じている。 (なお, ③は今日われわれが預金通貨 と呼んでいる預金の機能にほかならない。)

ところでこのように整理してみると, 先のエンゲルスの書き換え, つまり 「預金はつねに貨 幣 (金または銀行券) でなされる」 というマルクスの記述に 「支払指図証券」 を加えたエンゲ ルスの書き換えは余分なことであったことになろう。 マルクスにあっては預金の形成, つまり 新たな預金は金あるいは銀行券で行われ, 支払指図証は既存の預金の振り替えの手段であるか らである。 個別銀行にとってはエンゲルスが書き加えたごとく預金は金, 銀行券, 支払指図証 でなされるが, 銀行組織全体では預金は金, 銀行券によってなされるからである。

では預金設定をマルクスはどう考えていたのであろうか。

4 マルクスは預金設定をどのように捉えていたか

預金設定については, 帳簿信用の開設という用語で, エンゲルス版 資本論 第3部第 章 にまとまった記述がある。 もっとも, ここでの主題は預金論ではない。 銀行学派による通貨と 資本の区別についての批判的検討を主題として, イングランド銀行の有価証券保有量が増加し ても銀行券流通が増加しないのはどのような場合かを検討しているなかで, 預金設定による貸 出に言及しているのである。 しかしこの箇所はマルクスが預金設定をどのように捉えていたか を端的に示すものとなっている。 主要草稿の当該部分は次のとおりである。

「銀行は, 紙券のかわりに帳簿信用を与えることもできる。 つまりこの場合には, 同行の債 務者が同行の仮想の預金者になるのである。 彼は銀行あての小切手で支払い, 小切手を受け取

(8)

った人はそれで取引銀行業者に支払い, この銀行業者はそれを自分あての銀行小切手と交換す る (手形交換所)。 このような場合には銀行券の介入はぜんぜん 生じ ないのであって, 全 取引は銀行にとっては自分が応じなければならない請求権が自分自身の小切手で決済されて, 銀行が受ける現実の補償はAにたいする信用請求権にあるということに限られる。 この場合に は, 銀行はAに自分の銀行業資本の一部を前貸ししたのである。 というのは自分自身の債権の 一部を前貸ししたのだからである。」 ( , , ) )

ここでマルクスが述べていることを銀行のバランスシートで示せば, 次図のとおりである。

①甲銀行はAへの貸出を預金設定によって行った。 ②Aはこの預金を見合いに小切手を振 り出してBに支払い, Bは小切手を取引銀行乙に入金した。 ③乙銀行は手形交換所で甲宛小切 手と甲銀行保有の自行宛小切手とを交換し相殺した。

このような取引は, いうまでもなく, 現在でも日常的にみられるものである。 これをマル クスの文脈に即していえば次のようになろう。 すなわち甲銀行にとっては自分が応じなければ ならない請求権, すなわち自行宛小切手が自分が保有する他行宛小切手で決済されて, 甲 「銀 行が受ける現実の補償はAにたいする信用請求権」, すなわちAに対する貸出残高だけである。

そしてこのことはマルクス独自の把握というよりも, 実務的な観察が示す平明な事実であろう。

むしろここで注目すべきは, マルクスがこのような対A貸出を 「自分の銀行業資本の一部の前 貸」 「自分自身の債権の一部の前貸」 と規定していることである。 )

ここでの銀行業資本の意味は 「銀行資本の構成部分」 でみた借入資本 (預金) と等置されて いたそれとは明らかに違っている。 その意味は, この帳簿信用に関する記述にすぐ続くパラグ ラフから明瞭に把握することができる。 そこでは 「銀行業資本, つまり銀行業者の立場から 見ての資本」 といわれており, さらにその具体的内容については 「すなわち, 金, …イング ランド銀行券, …公的有価証券…」 というように説明されている ( , ,

)。 要するにここにいう銀行業資本とは 「銀行資本の構成部分」 でマルクスが, 銀行資 本の 「実物的な構成部分」 とか 「銀行業者の資本の現実的な構成部分」 と呼んでいるもの, つ

借方 甲銀行 貸方 借方 乙銀行 貸方

+対A貸出 +A預金 ①

② +対甲小切手 +B預金

−対乙小切手 − 預金

−対甲小切手 −C預金

) この引用文邦訳の最後の二つの文章の部分は, 筆者自身の訳である。

) エンゲルス版では 「銀行業資本 」 が 「銀行資本 」 に変更されてい る。 また 「自分自身の債権の一部の前貸し」 ではなく 「自分自身の債権の前貸し」 というように変更 されている。

(9)

まり銀行のバランスシートの借方の現金 (金または銀行券), 手形, 有価証券などのことにほ かならない。 ここでマルクスは, 銀行学派の通貨と資本の区別についての批判的検討のなかで, 資本といってもこの場合は銀行業者の立場からいう資本であって云々, という文脈のなかで銀 行業資本という言葉を使っているのである。 (なお, エンゲルスは本稿の注 で述べたように, ここでの銀行業資本を銀行資本と書き換えているのであるが, このような文脈からみると, 用 語の一貫性という点で適切な変更であったということになろう。)

要するに, マルクスは預金設定による貸出を, 金, 中央銀行券(市中銀行の場合), 有価証券な どでの前貸しと同様のものとして捉えており, ここでのAに対する前貸しの例でみれば 「債権 の一部」, つまり他行宛小切手での前貸しとみなしているのである。 先の図中の斜線で示したよ うに, 甲銀行で生じていることは結局のところ対乙銀行小切手の減少と対A貸出の増加である。

もし甲銀行が対乙銀行宛小切手をもっていなければ, その場合には甲銀行は交換負けの部分を 中央銀行預け金・金・イングランド銀行券で決済するか, あるいはそれらを手に入れるために 有価証券を売却するか, あるいは金融市場からの借入で賄うかを余儀なくされることになる。

このような記述は, 預金設定による貸出を信用創造とする理解とは大きく離れている )。 預 金設定と信用創造の関係については次節で改めて論じるが, マルクスは預金設定による貸出を, 受け入れた預金を利子生み資本として貸し出すことと本質的に同じことだと把握しているので ある。

このようにみてくると, 銀行券による貸出と預金設定による貸出のマルクスにとっての区別 はきわめて明瞭だということになる。 発券銀行が銀行券で貸出をした場合, その一大部分は常 に流通の内部にとどまっていて, また一部は環流してくるのであって, それが兌換請求にさら されない限り印刷費以外いかなる銀行資本も要しない。 発券銀行ではなくても, 同じことはよ り短期間であるが 「自分が裏書きした手形で支払うことによって」, あるいは 「 日払いの小 切手を発行することによって」 生じる。 前者にあっては手形の満期日までの間, 後者にあって は21日間, それぞれに発券による貸出と同様の効果が得られる。 信用資本の調達とマルクス が呼んだこれらの方法での貸出と, 受け入れた預金を貸し出すこと, あるいは預金設定によっ て貸し出すこと, これらとの区別はマルクスにあっては自覚的な区別であったのである。

5 預金設定と信用創造の関係

以下では, 銀行のバランスシートの借方勘定の金, 中央銀行券, 有価証券を簡単に 「銀行の

) 大谷禎之介氏は, 「帳簿信用を与える」 ことを述べた先の引用文でマルクスが 「自分自身の債権」

としているところについて, 「 債権 は 債務 の誤記ではな

いかと思われる。」 と注記されている ( , )。 これは, ここでの銀行業資本を預金と理解し, さらに預金設定を信用創造と捉える見地からの疑義の提出であろうと思われる。

(10)

資産」 と呼ぶことにしよう。 そうすると, 預金設定による貸出についてのマルクスの把握を一 言でまとめれば次のようになる。

預金設定によりつくりだされた預金は, 銀行券の場合とは異なり, 銀行の資産 (金, 中央銀 行券, 保有有価証券) で決済されなければならない。 そして 「預金が貨幣・・・への単なる請 求権として働くことができるのは, ただ債権の相殺によってのみなのである」 ( ,

, )。

自行宛小切手が自行に入金される場合には常に相殺が実現し単なる預金の名義の振替が行な われるだけであり, 「預金が貨幣への単なる請求権として」 働いている。 自行宛小切手が他行 に入金される場合, それが相手行宛小切手で相殺されない限りでは, 現金準備などの資産によ って決済されなければならないことになる。 いずれの場合でも, 預金は, 銀行券とは異なり, 相殺される限りにおいて単なる貨幣請求権として機能することができるのである。

さてここで述べた 「預金設定によりつくりだされた預金は, 銀行の資産で決済されなければ ならない」 ということ自体は, 事実認識の問題としては, おそらくいかなる論者も否定しない であろう。 自行宛小切手を他行宛小切手で相殺する場合, これも銀行の資産 (ここでは他行宛 小切手) で決済している事例であることは否定されないであろう。 だがこの相殺の事例をどの ように理解するか, この点で分岐点があるのである。

この点にかかわって, 三宅義夫氏の信用創造についての記述をみておこう。 次の引用中の下 線部は筆者が付したものであるが, そこに注意しながら読み下していただきたい。 「…甲銀行 においてAにたいして貸出が行われるとき, まずAの当座預金の口座にその金額が記入され, Aはこれ宛に小切手を振出してこの金額を使用するのであるが, この小切手の受取人Bの取引 銀行が同じく甲銀行であってBがこれを甲銀行の自行の口座に預け入れる場合は, 甲銀行はな んら現金準備を減少することなく貸出をしたことになる。 また受取人Bの取引銀行が乙銀行で あって, Bがこの小切手を乙銀行の自己の口座に入れた場合は, 手形交換を経て乙銀行にたい して甲銀行はこの小切手金額を支払わねばならないが, しかし同時に乙銀行においても同様に Cにたいして貸出が行なれ, そのCの振出した小切手がDによって甲銀行に預入れられたなら ば, 甲乙両銀行間でこの金額は相殺され, 差額だけの決済が行われることになる。 そしてこの 相殺されるかぎりにおいて, 甲乙両銀行はACにたいして支払準備である現金準備を減少する ことなく貸出をしたことになる。 前の場合でも後の場合でも, なんら費用を要しないで, 甲銀 行はAから, 乙銀行はCから, 利子の支払いと返済期日には貸出した金額の返済とを受けるこ とができる。 すなわち両銀行はいわば架空に預金を設定して, これを資本として機能させえた ことになるのである。」 )

みられるように, ここでは信用創造は 「費用を要しないで…いわば架空に預金を設定して,

) 三宅義夫 金融論 (新版) (有斐閣, 年) 。

(11)

これを資本として機能させえたこと」, として把握されている。 この規定の最も基本的な内容 を 「信用創造とは費用を要しないで銀行が資本を創り出すこと」 と理解するとすれば, このよ うな信用創造の把握はマルクスのそれと異なるものではない。 しかし問題は次の点にある。

ここでは 「費用を要しない」 ということは, 「この相殺されるかぎりにおいて, ・・・・現 金準備を減少することなく貸出をしたこと」 というように理解されている。 しかし, 預金が相 殺によって貨幣請求権のままで機能できるということを信用創造と呼ぶとすれば, それは言葉 の濫用といわざるをえない。 相殺とは無から有を生むものではなく, 債務を債権で相殺する, つまり資産を利用してはじめて可能なものなのだからである。

このことはいいかえれば, 相殺によって現金準備は減少しなかったが, 他行宛債権のような 他の資産は減少したということである。 マルクスにあっては, 先の筆者の理解が正しいとすれ ば, 費用を要しないという意味は, 現金準備 (中央銀行預け金と手元現金) だけではなく, よ り広く銀行の資産を使用することなく, という意味で理解されているのである。 そして, 「費 用を要しない」 ということの意味を現金準備に限定して理解するならば, 預金設定による貸出 と銀行券による貸出との同質性が強調されることになり, その意味を銀行の資産全体とかかわ らせて理解するならば, 預金設定による貸出と銀行券による貸出との相違, および預金設定に よる貸出と金貨幣での貸出との同質性が強調されることになるのである。 この点をバランスシ ートによって確認してみよう (なお次図の預金設定の事例は, 自行宛小切手を他行宛小切手で 相殺する場合である)。

現金準備の増減だけをみると, 金での貸出の場合だけ現金準備が減少し, 銀行券での貸出と 預金設定での貸出では共に現金準備は減少していない。 しかし銀行の資産全体の増減をみると, 銀行券による貸出の場合にだけ資産が貸出という形で増大している。 これに対して金での貸出 の場合と預金設定での貸出の場合はともに資産は増加していない。 前者では金の形での資産が 貸出の形での資産に置き換わっており, 後者では他行宛小切手の形での資産が貸出の形での資 産に置き換わっている。

金での貸出 銀行券での貸出 預金設定での貸出

−金

+貸出

+貸出 +銀行券 +貸出 +預金

−他行宛小切手 −預金

結果↓

−他行宛小切手

+貸出

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マルクスがいう信用資本の調達とは, まさにここでの銀行券での貸出のように, 銀行の資産 を使用することなく貸出が行われる場合である。 これにたいして, 預金として受け入れた金貨 幣をそのまま貸し出す場合はもちろんのこと, 預金設定による貸出の場合でも, これらはとも に 「自分自身の債権の一部の前貸し」 であり, 預金設定による貸出は銀行の資産によって決済 されなければならないのである。 そして預金が貨幣請求権のままで機能できるのは相殺される 限りでのことなのである )。 (なお, 貸出が金貨幣でなされる場合であれ, 発券でなされる場 合であれ, 預金設定でなされる場合であれ, それらが当該銀行に預金として還流する限りでは, いずれの場合でも事態はまったく同じである。 金, 銀行券, 小切手のいずれかの入金の結果, 貸出残高と預金残高が残る。)

要するに, 相殺できることをもって信用創造と呼ぶことによって, 預金設定と発券による文 字通りの信用創造との区別が見失われ, 銀行は自身の資産を利用することなしには勝手に預金 設定はできないこと, したがって銀行は本質的には集めた貨幣を貸すのだという点が見失われ ることにもなるのである。

なお, 本節の終わりに三宅説について付言しておきたい。 三宅氏の信用創造論や預金創造論 は今日の建部氏によって純化されたような形での貸出先行説とは区別されるものであり, 銀行 が社会的な借り手を代表し貸し手を代表するという基本的な見地を堅持している。 またその叙 述の内容も, 相殺の場合を信用創造と把握するかどうかを別とすれば, マルクスの信用論の内 容を全体として正しく解説してくれている。 しかし三宅氏の 「商業信用と銀行信用」 ( マル クス信用論体系 日本評論社, 年所収) などは, 銀行組織における相殺を信用創造と把握 することによって純化された貸出先行説に道を開く要素をもっていた。

6 再び 「預金通貨の創造と預金それ自体の形成との混同」 について

これまでの叙述を踏まえて, 改めて預金通貨の創造と預金それ自体の形成との関連と区別を 整理してみよう。

まず市中銀行が銀行券を発行している場合からみてみよう。 いま機能資本家Aは販売代金を 手形で受け取り, この手形を銀行に銀行券で割り引いてもらい, その一部は準備金として積み 立てることにした。 そして満期日に手形代金は銀行券で入金された。

さてこの一連の過程で銀行は発券という信用創造によって割引料を稼ぎ出した。 一方機能資 本家Aは保有する預金を増加させた。 そしてこの簡単な事態のなかに本稿で論じている主な問 題がほぼ出そろっている。

) より正確にいえば, 預金の流出によって支払い請求が現実になされ銀行の資産による決済が要求さ れるまでには若干の時間がある。 そして経営的にはこのことは重要である。

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①銀行は何ら費用を要することなく, 自らの資産を使用することなく新たに銀行資本を創造 し利子を稼ぎ出した。 ②銀行が創造したものは銀行券という通貨である。 ③ここで増加した預 金の実体はどこまでも機能資本家Aによって準備金として再生産過程から引き上げられた貨幣 資本であり, この預金増加の基礎は再生産過程の拡大にある。

ところがこの事態を, 預金に先行して発券という行為があることをもって, この預金増加は 発券によるものであると把握すること, つまり銀行は発券という信用創造によって預金を造り 出したと理解すること, これが貸出先行説の一部がおちいる陥穽なのである。 実際には, ここ で生じていることは預金が銀行券でなされたということ以上でも以下でもない。 ここでは再生 過程の一段階にある貨幣資本 ( ) が貸付可能な貨幣資本 ( ) に 転化するに際して, 銀行券が利用されたのであるが, 銀行は銀行券という通貨を創り出したが, けっして預金を創り出したのではない。

先の例を金貨幣にかえて考えてみよう。 銀行は金貨幣で割引を行い, 満期日の入金も金貨幣 でなされるとしよう。 先の例との違いは, 銀行は割引料を稼ぎ出すために金準備を使ったとい う点である。 ここでは, 銀行は自らの資産を使って利子を稼ぎ出したのである。 そしていうま でもなく, 預金増大はなんら信用創造とは関係のない事柄である。

次に預金設定を導入して先の例を考えてみよう。 機能資本家 は銀行に手形を割り引いても らい預金を受け取る。 Aはその一部を準備金として残して, 残りは小切手を振り出して支払い に充てる。 手形の満期日に入金が銀行券でなされるにせよ, 小切手でなされるにせよ, 銀行は 預金設定によって割引料を稼ぎ出した。

さてこの事例で, ①銀行は預金設定によって割引をすることによって利子を稼ぎ出した。 ② 銀行は預金通貨を創造した。 ③ここで増加した預金の実体はどこまでも機能資本家Aによって 準備金として再生産過程から引き上げられた貨幣資本であり, この預金増加の基礎は再生産過 程にある。

ここでは預金が通貨として機能している。 しかし銀行券での場合と同様に, この増加した預 金の実体はどこまでも機能資本家Aによって準備金として再生産過程から引き上げられた貨幣 資本であり, その意味でこの預金増加の基礎は再生産過程にある。 ここでは再生過程の一段階 にある貨幣資本 ( ) が貸付可能な貨幣資本 ( ) に転化するに際 して, 預金通貨が利用されたのであるが, ここでは 「預金は預金通貨でなされる」 ということ になる。

金貨幣, 銀行券, 預金通貨のいずれが通貨として機能するのであれ, ここで割り引かれる手 形は販売された商品の価値を表し, 手形で当該商品を販売した資本家が将来入手するはずの貨 幣を先取りしたものである。 つまり再生産過程のなかで資本家が商品形態で相互に与え合う信 用である。 そして預金形成とは, ここでは, この商業信用を銀行信用に置き換えることであり, それが金貨幣でなされるのか, 銀行券でなされるのか, 預金通貨でなされるのかによってはこ

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のような本質的連関はいささかも変わるものではない。

金貨幣が姿を消し, 発券が中央銀行に集中され, 兌換が停止されている現在の不換制下では, 通貨はまずは市中銀行の預金設定によって, 預金通貨として創り出される。 今日では通貨は市 中銀行が創り, ついで中央銀行が銀行券という通貨を創る。 しかしかつては市中銀行も銀行券 を創った。 さらに金貨幣流通下では金鉱からの新産金の産出, そして金輸入によって一国の金 貨幣が増大した。 ここでは通貨はまさに金鉱が作り出していた。

いわゆる 「預金創造」 とはまさにこのような通貨の創造, 預金通貨の創造のことにほかなら ない。 このことと預金それ自体の増加, あるいは預金の源泉とを混同するのが本稿冒頭で掲げ たマクラウドの見解にほかならない。 いみじくも 「銀行は金鉱なのである」 という比喩には事 態の転倒的把握が見事に集約されている。 金鉱は金貨幣を作り出すところではあっても預金を 創りだすところではない。 通貨の創造と預金それ自体の形成の関連と区別を理解するならば, 銀行はまさに再生産過程から引き上げられた貨幣を, またさまざまな個別の準備金や遊休貨幣 を借り入れてそれを貸し出す機関にほかならないことが理解されるであろう。

このことは, 先にみた手形割引の事例とは区別される, 貸付によるいわゆる資本の前貸の場 合でも, 同様である。 銀行は自己の資産を利用することなしに預金設定によって資本前貸しを することはできないのである。

通貨の創造ということは重要な事柄ではあるが, そこに目を奪われて預金についての本質的 な連関を見失うことは, これまたひとつの俗論にほかならない。 不換制下の今日, 通貨はまず は預金通貨という形で市中銀行が創りだすということを理解すること, そして同時に 「銀行は 貨幣を借り入れてこれを貸し出す機関である」 という本質的連関を正しく把握すること, この 両者が必要なのである。

7 「請求権の堆積」 と 「信用創造」 は同じことではない

マルクスは 資本論 第3部第5編 (草稿では第5章) で銀行信用を中心とする信用は膨大 な貨幣請求権の堆積であり, したがって架空なものであることを強調した。 マルクス自身が

「比類なく困難な課題」 といった主要草稿でⅢ) と付された貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積 の分析 (エンゲルス版 資本論 第3部第 章以下) でも, この見地は一貫している。 そこで の二つの主要課題のうちのひとつ, すなわち貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積との区別, 貨幣 資本蓄積の独自性を分析する際も, またいまひとつの主要課題, 一国に存在する貨幣量と貸付 可能貨幣資本との関係如何の問題の分析においても, 請求権の堆積と架空性という見地が貫か れている。

しかしいわゆる信用創造 (マルクスの言葉では 「信用資本の調達」) は請求権の堆積の一部 の内容をカバーするものであって, けっしてその中心的な概念ではない。 信用創造とはマルク

(15)

スにあっては, 銀行がなんら費用を要せずに, 資産を利用することなく, 無から有を生むよう に資本を調達するということを内容とするものであって, 典型的には発券による貸出がそれで あった。 このような理解は, エンゲルス版における次のような記述からも読み取ることができ る。 「イングランド銀行がその地下室にある金属準備によって保証されていない銀行券を発行 するかぎりでは, この銀行は価値章標を創造するのであって, この章標は単に流通手段を形成 するだけではなく, この銀行にとってはこの無準備銀行券の名目額だけの追加の―架空のだと はいえ―資本をも形成するのである。 そして, この追加資本はこの銀行のために追加利潤をあ げるのである。」 ( .S. ) そして発券との関連で, 中央銀行の預金設定による貸出は 次の点で市中銀行のそれとは異なる性格をもっている。 すなわち, 兌換請求がない限りでは, いいかえれば預金の引出しに銀行券で応じればよい場合には, 預金設定と発券との間には, そ の限りでは, 事実上区別はない。 そして銀行券は, 兌換請求がない限りでは, それは転々と流 通を続けるか銀行に還流してくるのである。 かくして, 中央銀行は市中銀行とは異なり飛躍的 な 「信用資本の調達」 力をもっている。 兌換停止は, 後にみるように, この力をさらに増強す ることになる。 このように信用創造は信用制度における中央銀行信用の分析において大きな位 置をもつ。 しかし, 繰り返しになるが, 請求権の堆積や架空性の問題を信用創造の問題を中心 に把握することは, マルクスの叙述を理解する道を大きく閉ざすことになるのであって, その 意義の限定性をあわせて認識しておくことが重要であろう。

なお, 貨幣資本と現実資本の問題に関連してさらに付言しておきたい。

マルクスが, 貨幣資本と現実資本を論じる際, 同じ金貨幣なり銀行券なりが繰り返し預金さ れることによって預金総額が増大するという説明をしていることについて, これを 「現金的信 用創造論」 だとみる理解があるが, これは筋違いである。 マルクスは一国の貨幣量と貸付可能 貨幣資本の量との関係如何という問題についての考察の一環として, すなわち, 貨幣量と貸付 可能貨幣資本の量は一致しないということの説明の一部としてこの事例をあげているのである。

そしてマルクスにあっては, 貸付可能貨幣資本の存在形態はなによりも預金そのものである。

この点に関連して, 預金については次の点を注意しなければならない。

いわゆる預金通貨は支払指図を媒介としてはじめて支払手段として機能するという点で, す なわち, それ自体通貨機能を果たす手形・小切手 (紙媒体であるかどうかは問わない) の媒介 を必要とするという点と, 狭義の流通手段 (購買手段) としては機能しないという点において, 厳密な通貨概念とは一致しない。 また預金は通貨機能の一部を担うだけでなく, 今日でも貸付 可能貨幣資本の中心的形態である。 預金が支払手段として機能するという点で預金通貨という 把握は妥当性をもってはいるが, 一方でここで述べたような預金の他の重要な側面を軽視する ことがあってはならない。

(16)

8 銀行貸出の増大と預金設定の関係, および現金準備の役割

さて, 預金通貨の創造と預金自体の形成・増大とを区別する本稿のような理解は, 銀行によ る預金設定の意義を小さくするものではない。 銀行貸出の増大と預金設定の関係を考察しなが ら, 預金設定の意義を改めて考えてみよう。

すでにみたように, 個別銀行は預金の増大なしに一方的に預金設定によって貸出を増やすこ とはできない。 しかし, 銀行組織全体が預金設定を増加させるとすれば, 事態は新たな展開を みせることになる )。 A銀行が預金設定によって貸出を行い, この預金はB銀行に流出する。

しかし他方でB銀行も預金設定によって貸出を行い, この預金はA銀行に流出する。 こうした ことが全銀行組織で生じるならば, ここでは銀行組織が借り入れた貨幣の量を超えて預金量を 増大させることができ, したがってまた銀行組織全体で新たな資本と購買力を創造するように みえる。 だが銀行組織全体が貸出態度を積極化するプロセスを考えれば, ことはそれほど簡単 ではない。

各銀行は談合をして一斉に貸出を増やすわけでもなく, 集権的な計画にもとづいて貸出を増 やすわけでもない。 そこで, それまでよりも貸出を積極的に拡大した銀行は, 手形交換所でま ずは交換負けという事態に直面することになり, 現金準備の減少に直面することになる。 した がって他の条件を一定とすれば, この銀行は貸出を抑制することになる。 しかしもし現金準備 の補填が容易になされるのであれば, 積極的な貸出態度は維持されることになる。 では各銀行 が現金準備の補填を容易になしうるのはいかなる条件のもとにおいてであろうか。 ひとつは, コール市場など銀行間市場において他行から低利で現金準備を調達することが可能な場合であ る。 これは結局のところ, 銀行組織全体で預金を融通している事態にほかならない。 いまひと つは, 中央銀行が市中銀行の現金準備補填を容易にするように行動している場合である。 そし てこの後者の場合こそ, 銀行組織が借り入れた貨幣量を超えて預金量を増大させることができ る事例である。

古典的な対市中銀行貸出であれオペであれ, 中央銀行の対市中銀行信用の拡大は結局のとこ ろ中央銀行の発券能力 (信用創造能力) にかかっている。 市中銀行の預金設定と中央銀行の発 券能力が結びつくことによって, 金貨幣流通下ではなしえなかった銀行信用膨張の拡大が可能 となるのである。

では中央銀行の発券能力はなにによって制約されるであろうか。

) このようにいうことは, フィリップス流の信用創造 「一行不能, 全行可能説」 とは似て非なるもの であることを念のため断っておきたい。

(17)

9 不換制への移行の意味と分析の課題

兌換制下にあっては中央銀行の発券能力は第一に金準備によって制約されていた。 そして金 準備の量は主に対外的な金流出入によって左右されていた。 第二に, 中央銀行の資産の健全性 の維持という課題によって制約されていた。 つまり不良債権の増大につながるような貸出は中 央銀行といえどもできなかった。 中央銀行信用の動揺が兌換請求増大につながる可能性がある 限り, 中央銀行貸出には自ずと限度があった。 この二つは要するに金による制約である。

不換制への移行はいうまでもなくこの金による制約を著しく緩和することになる。 第一の金 の流出入による金準備による制約についてみると, 不換制下であっても 年の金ドル交換停 止までとそれ以降とでは異なっている。 金ドル交換下ではアメリカには金準備の制約が制度と しては残っていた。 アメリカ以外の各国は金準備の変わりに外貨準備, 具体的にはドル準備の 制約があった。 金ドル交換停止以降, アメリカから金準備の制約が取り除かれ, アメリカの対 外赤字拡大につれて各国にとってのドル準備の制約が緩和された。 このことは今日の信用膨張 と貨幣資本の蓄積に決定的なインパクトを与えているのであるが, これについては別の機会に 改めて論じることにしよう )

第二の中央銀行資産の健全性維持については, 中央銀行債務が金債務でなくなっている現在, 中央銀行は対市中銀行への信用供与を兌換制下とくらべて大きく拡大することが可能となり, 資産の劣化に耐えうる余地も増大している。 とはいえ, 年以降の公的資金導入過程でも明 らかなように, 中央銀行信用だけで不良債権を買い取ることには依然として限界がある )

そして, 周知のように, 中央銀行の発券能力の限界を画する不換制下に固有の要因がインフ レーション (紙幣減価) である。 かつて三宅義夫氏は, 中央銀行が兌換制下の限度を超えて対 市中銀行取引, 対政府取引を拡大すること, ということを軸にインフレを説明されたが ), こ れは卓見であった。 中央銀行の発券能力=現金準備補填能力の拡大と限界という問題の建て方 はインフレーション論の重要な一側面である )

だが本稿で強調したいのは以上のような問題それ自体ではない。 こうした中央銀行 「信用」

の変質とそれに規定された銀行信用の変容が今日における現実資本の蓄積と貨幣資本の蓄積の

) この点については簡単にではあるが, 次の論文でスケッチを試みた。 参照いただければ幸いである。

拙稿 「 金融バブル の形成と崩壊―現代の国際通貨関係と産業循環」 ( 資本論体系9 1 恐慌・産 業循環 (上) 有斐閣, 年, B 2所収) 。

) この点については拙稿 「金融ビッグバンと現代の金融危機:マルクスの貨幣・信用論と現代」 ( 経 済理論学会年報第 集 青木書店, 年所収) を参照されたい。

) 三宅義夫 金 (岩波書店, 年) , ほか。

) インフレーション論そのものについては, 今日の到達点として, 久留間健 貨幣・信用論と現代:

不換制の理論 (大月書店, 年) 第一章, 第二章を参照されたい。

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関係にいかなる影響を与えているのか。 別の言い方をすれば, 今日の産業循環と恐慌にいかな る影響を与えているのか。 筆者はこれこそがわれわれが取り組むべき最重要の課題だと考える のであるが, その際, マルクスから何を学ぶかという点で, 純化された貸出先行説はその道を 閉ざしてしまう危険性をもっていると危惧されるのである。 預金通貨の創造=預金創造=信用 創造という考え方からはマルクスの信用論はほとんど理解不能となるか, あるいはマルクスの 時代の制約という理解しかでてこないであろう。 貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積というマル クス信用論のもっとも重要なテーマを理解し, 今日に活かすうえで, 改めて信用創造論の再検 討を試みた理由もここにある。

まとめ:社会的な借り手の集中と貸し手の集中

周知のようにマルクスはこう書いている。 「銀行は, 一面では貨幣資本の, 貸し手の集中を 表し, 他面では借り手の集中を表しているのである。」 ( , , )

ここにいう 「集中」 という契機は銀行信用を理解するうえで決定的に重要である。 個別資本 の準備金を集中し共同の準備金に転化すること, また広く再生産過程に緊縛されていない遊休 貨幣を集中し機能資本に用立てること, これらは集中という契機なしにはありえない。 さらに 無準備の一覧払い債務を負って貸し出すということ自体が集中の契機なしには不可能であり, 預金通貨の成立自体がこの契機に負っている。 そしてこの集中によって貨幣市場 (金融市場) が成立し利子率が形成される。 そして証券市場も貨幣市場の成立と利子率の形成を離れては存 在せず, また今日では, 銀行を経由しない貸付可能貨幣資本はありえない。 現実資本の蓄積と 区別される貨幣資本蓄積の独自な契機もこの銀行資本における集中なしには成立しえない。 そ してこれらは銀行は 「預金で集めたおカネを貸すところ」 だという本質的連関を基礎にしては じめて理解できることなのである。

本稿はマルクスの草稿の検討と現実の観察をとおして, 預金通貨の創造と預金それ自体の形 成を混同しないこと, 預金設定を信用創造と同一視しないこと, 信用創造の問題が信用論全体 のなかでもつ意味の限定性を理解すること, これらのことについて述べてきた )。 第8節以降 については依然スケッチの域を出ていないが, その展開については別の機会に期したい。

( 年3月)

) 注4) で言及した旧拙稿 「銀行の機能と役割」 には 「本源的預金」 「派生的預金」 などの混乱した 用語が残っている。 また貸出先行説の色が濃くにじみ出ていて記述の曖昧性もある。 だが, これらの 留保点は別とすれば, そこで展開されている基本的内容は, いま読み返しても本稿の見地と抵触する ものではない。 しかし, 川合一郎氏への批判論文である 「 信用創造論 と 再生産論 」 についてい えば, 川合氏への批判, すなわち氏の信用創造論は銀行信用を商業信用へ解消してしまうものである という基本的な批判点は今日でも堅持しているが, 筆者の信用創造論それ自体は本稿で批判的に検討 した三宅義夫氏の所説と同じ問題点をもっていた。

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