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筑前国怡土庄故地現地調査速報

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Academic year: 2022

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(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

筑前国怡土庄故地現地調査速報

服部, 英雄

九州大学大学院比較社会文化研究院 : 教授

https://doi.org/10.15017/1520164

出版情報:1999-12-31. 服部英雄研究室 バージョン:

権利関係:

(2)

(付諭)原田庄と藤瀬文書

服 部 英 雄

原因庄は恰土郡の内、長野川流域、神在、東、真方一帯にあった荘園である。この一帯を原田庄といっ たことは、『福岡県地理全書』(『福岡県史』近代史料編)の東村の項にも記載があるO 大宰府の官人、

原田種直の苗字の地として著名であるO 現に東村には種直の墓と伝える宝優印塔も存する(『同上』)。

原田庄の存在は板持庄や深江庄と同様に、恰土庄が恰土郡内一円の荘園ではないこと、郡内にはいくつ かの他庄が存在したことを示すものでもある。原田庄については恰土庄の報告書で論究すべきものでは ないかもしれないが、↑台土郡内の庄である。簡単に言及しておきたい。

原田庄が登場する中世文書は、雷山(大悲王院・千如寺)文書と藤瀬文書が主たるものである。この うち藤瀬文書の調査を98年6月13日に行った。恰土郡条里研究の大先達である是松茂男先生のお誘いを うけたことによるもので、東京大学五味文彦氏、福岡市博物館堀本一繁氏とともに前原市神在の藤瀬利 治氏(明治三九年生まれ)宅を訪問した。

最も著名な寿永元年(1182)の寄進状は『平安遣文』補遺編に収められている。文中には条里(図里)

記載もあり、特に文中の「伍図拾壱里」は文書を伝来してきた藤瀬家のある神在に近接する位置に比定 することができる。包紙の記述によれば、文書群は享保年間(171636)まで東村宮司宅に伝来し、宮 司女子が藤瀬治左衛門妻となったことにより藤瀬家に伝来した。「伍図拾壱里」の比定地域はこの東村 にも近い。条里(図里)に関する正確な知識がそこにある。条里に関する貴重な情報を提供してくれる 可能性を持つ史料としても、注目されよう。

藤瀬文書の古い時代に属する文書群については『九州史学』 30、31号 (1965)に掲載のシンポジウム 記録中の水崎雄文氏の発言や

水崎雄文「原田種直寄進状について」(『大宰府研究会会報』 10、1974年刊)

同「藤瀬文書の裏書発見」(『大宰府研究会会報』 11、1975年刊)

などに詳しい報告、検討がある。また水崎報告以前にも藤瀬家の近世文書については整理が行われてい るようだが、近世文書の目録は十年のちになって、『福岡県立図書館収集文書目録』(第一集、 1985)と して刊行された。またそれ以外の中世後期のものを含む文書についても、福岡市教育委員会で写真撮影 がなされている(昭五一<1976>、現福岡市博物館蔵)。このような先人の調査の記録があるが、現段 階では筆者はそれをほとんど消化吸収できていない。あえてここで本文書について言及する必要はない のかもしれないが、今回閲覧の機会を得たこと、また従来の研究では一連の中世文書のうち、寿永以外 の中世前期の文書への言及があまりなく、その重要性が十分に指摘されていないこと、また中世後期の 文書もかなりの点数があり、『大友宗麟関係史料』に未収録の大友宗麟書状のような重要文書も保存さ れていることなどがあり、ここに報告を兼ねて、所見を述べたい。

まず一連の文書四通を紹介する。各文書に登場する塔原寺とは恰土郡唐原村即ち二丈町満吉の枝郷に あたる唐原にあった寺を指すという。

(3)

(1) 

「奉寄

塔原寺観音堂免田壱町事

在原田・庄内飽田郷伍図拾壱里参坪

右、以当御庄田内、令奉寄意趣者、於当寺者、深山之上、為観音霊験之瑚、利益掲鷲口、然而世巳 及溌季致帰依之人自然中絶之問、為荒廃之地住僧不安堵之由有其聞、因葱以件免田宛子修正二季彼 岸料、且招居僧口令勤行廃退仏事、且為奉祈 本家奉平御庄内興福之由、限永年奉寄如件(泰カ)

寿永元年十二月 日

大宰少弐兼地頭大蔵(花押影)

(裏書)

「件正文者 依御要事 所被召置御中候也、の封裏口御案文也 文 保 年 六月廿七日 口口口

( 2) 

「下 原田庄内塔原寺 補 任 院 主 職 事

千乗房勝慶

右寺院主職事、中口口吉殊代申請、補任如件、初住侶宜承知、勿違失、故口 承元四年六月十三日

大宰少弐藤原朝臣(花押)

( 3) 

(もと折紙)

「原田庄内塔原寺院主職事、任代々下知状、可被致沙汰之状如件 永仁元

十月十四日 塔原寺乗光御房

( 4) 

盛経(花押)

「原田庄内塔原寺観音堂院主玄意申筑前国原田塔原寺開発免田参町事 任先祖代々寄附登状等旨知行之、可被抽祈祷丹誠之状如件

応永五年卯月廿七日 貞頼(花押)

塔原寺院主御房

永仁文書

まずは)からみる。少弐盛経はこの前後、多数の文書を残している。東京大学史料編纂所編『花押 かがみ』四は十一点に及ぶ彼の花押を採録するが、当該の藤瀬文書も採択されているO 藤瀬文書の花押 の形は細部の運筆では筆が重なって、他と較べれば混然となっているところがあるものの、勢いがあり、

形も含めて問題はなく真正なものと思われた。むろん『花押かがみ』の編者もそのように判断している わけであり、文書もまた真正なものとみることができる(なお盛経の花押のある文書のうち、永仁五年

‑162 ‑

(4)

八月十九日宗家御判物写、同年十二月二十四日雷山(大悲王院)文書の花押は『花押かがみ』には採録 されていない。前者は写だから当然であるが、雷山文書の花押も正しいものと考えられる。福岡市教育 委員会『大悲王院文書』に写真掲載)。花押が位署の左真横にあったり、付年号が本文と同じ大きさで 書かれていたりするが、そうした書き方もあったのだろう。

なお永仁改元(1293)は八月五日。九州においては九月中旬まで正応六年が使われていたが(九月十 五日・詫摩文書『鎌倉遺文』一八三O八)、九月後半には新年号に切替わっている(九月二十四日鎮西 御教書案、大慈寺文書・『鎌倉遺文』一八三七二、ほか同一八三七八、一八三八O、一八三八四)。十月 段階の新年号使用に問題はない。文言にも特に不自然な点はない。

応永文書

つぎには)について。本文書は『大宰府・太宰府天満宮史料』十二に収録されている。前後に少弐 資頼の発給文書が多く収録されているが、様式はまったく合致する。花押についてはいくぶん平板な印 象は受けるが、形状・運筆は貞頼のものとして知られているものに一致する(『書の日本史』九・花押 総覧、福岡市教育委員会『大悲王院文書』)。文言にもとりわけて不自然なところはない。

したがって藤瀬文書の内、まず永仁、応永の二通は真正なものと見ることができる。これらは少弐氏 が発給し、その花押も残る文書として、貴重な存在といえるO 我々が一般的に見ることのできる中世文 書は、たいていは裏打されたり、表装されているから、りっぱにみえる。それに較べるとナマのままの 文本書は、紙も薄く、破損も目立ち、いくぶん貧相にみえがちである。しかし本当は我々の視点の方が まちがっているのだ。後世の手が入っていない藤瀬文書は、そうしたことをも教えてくれるのではない だろうか。

承元文書

つぎに戻って(2)を検討する。これについてはまず本文書の紹介者である水崎氏による検討がある。

水崎氏は本文書の花押が武雄神社文書所収のものと寸分も違わないことなど、花押からその正しさを強 調された。一方川添昭二「鎌倉時代の筑前守護」(『日本歴史』二七四<1971.3>、のち『九州中世史の 研究』<1983>に収録)は偽文書説をとる。すなわち藤原朝臣が少弐資頼だとすると、彼の少弐任官は

『明月記』により嘉禄二年(1226)であることが明らかであるから、承元四年(1210)に既に少弐に在 任していたかのごとき記述のある本文書は疑わしいものだとされている。

川添説の検討

さて嘉禄二年以前にも「大宰少弐」あるいは「前大宰少弐」といわれた人物がおり、関東御教書の宛 先になっていることは、川添論文中にも詳しく、以下のように指摘がある。

0

宗像神社文書・建保五年(1217)七月二十四日「大宰少弐」あて関東御教書(大宮司を補任)

0

益永文書・承久三年(1221)十二月十一日「前大宰少弐」あて関東御教書案(宇佐忠輔が買領した豊 前散在所領の安堵)

O

到津文書・貞応元年 (1222)五月二十八日「前大宰少弐」あて散位某奉書案(宇佐神官領に付き、関 白近衛家下知状ほか証文を見参に入れる、子細なくば安堵し、子細あれば言上せよとの仰せ)

0

宗像神社文書・嘉禄元年 (1225)十二月二日「前大宰少弐」あて関東御教書(宗像社の造宇佐宮用途 料を免除)

O

『太宰管内志』(「宇佐宮記」)所引嘉禄元年 (1225)十二月三日「前大宰少弐」あて関東御教書案

(5)

(宇佐宮造営雑事を諸国が対拝、そのため左衛門尉師員法師を遣わす。奉行せしむべし)

これらによって建保五年(1217)段階に大宰少弐の現任であって、承久三年 (1221)以降は辞任して

「前大宰少弐」を名乗り、かっ関東御教書の宛所となりうる人物、すなわち鎮西管内における鎌倉幕府 機構の統治責任者がいたことが分かる。この人物について川添論文は上記の理由によって「嘉禄二年 (1226)以前の「大宰少弐」「前大宰少弐」を資頼と認めることはできなしリと結論される。しかしその ように称した人物が確実にいた以上、藤瀬文書のもののみを偽文書と見ることはできるのだろうか。ま た一体この「大宰少弐」とはだれになるのだろうか。

奥付によれば川添論文に半年強遅れて竹内理三編『大宰府・太宰府天満宮史料』七 (1971.10)が刊 行された。ここではこの人物をいずれもみな「(前)大宰少弐藤原資頼」に比定して綱文を立てているO

また石井進『日本中世国家史の研究』 111頁には

「佐藤(進一)氏は『民経記』の記事によって嘉禄二年(1226)十月を資頼の少弐任官の最初とされる ようであるが、すでにそれ以前の建保五年 (1217)に「大宰少弐」、承久三年 (1221)から嘉禄元年 (1225)まで「前大宰少弐」と幕府関係の文書でよばれている人物があり、種々の徴証から資頼をさす ものとしか考えられないから、その少弐補任はさらにさかのぼるものとおもう。最近水崎雄文氏らの発 見された「藤瀬文書」中の承元四年六月十三日の武藤資頼下文には、差出書に「大宰少弐藤原朝臣Jと して花押があり、水崎氏によれば資頼の他の花押と完全に一致する由である(『九州史学』三

0

・三一 合併号「シンポジウム」 31頁)」。

とされ、原本未見として最終判断は保留されるが、少弐補任を承元までさかのぼらせることができるで あろうとされた。

つまり従来の研究には彼を資頼とする水崎雄文説、竹内理三説、石井進説と、それを否定する川添昭 二説の両説があった。

佐藤進一氏以来指摘があるように、武藤資頼は建保三年(1215)の武雄神社文書において、大宰府官 人である大監、権大監、少監、監代らの位署する「守護所牒」に大宰府の現地最高責任者として袖判を 加えていた(佐藤進一『鎌倉幕府訴訟制度の研究』、石井進『前掲書』)。大宰府の実質上の統括者であ る。大宰府府官の連署に袖判を押した人物こそが関東御教書の宛先にふさわしい。

川添説は本文書の史料批判の鍵である。以下に詳しく検討しておきたい。川添論文の背景・伏線には のちの仁治二年(1241)六月三日関東御教書(宗像文書<出光佐三氏旧蔵文書>)の宛先である大宰少 弐について、『大日本史料』が藤原為佐に比定していることがあるようだ。川添論文は少弐資能の「筑 後守」から「少弐」への呼称の変化の時期(正嘉二年<1258>二月〜四月)を勘案され、上記の比定を も受けて、仁治の彼は少弐資能ではありえないとされた。一方『大宰府・太宰府天満宮史料』八はこの 人物を少弐「資能」に比定している。

『大日本史料』の当該記事の直前の項、仁治二年六月一日条に、図書寮本「諸官符口宣古宣命等古文 書」が掲載され、そこには「従五位上行少弐藤原朝臣為佐」とある。じつはこの少弐藤原為佐は『吾妻 鏡』に頻出し、仁治元年五月十五日には評定衆、寛元四年(1246)六月には反時頼派として解任される が、建長五年 (1253)十二月二十二日には四番引付にもなっている。「宿老」と表現されるときもあっ た(建長六年十二月十二日条)。歴とした御家人で幕府の吏僚であった。鰐淵寺文書・宝治元年十月

日杵築社神官解状(『鎌倉遺文』六八九四)にも「前太宰少弐為佐所領国富庄」とみえるO 彼は暦仁元 年一月までは肥後守、以後六月までは前肥後守、暦仁二年(仁治元年)一月十五日から同年十二月二十 一日までは「大宰少弐」(または「権少弐」)を名乗る現任であって、そして翌三年一月には「前大宰少 弐」と現任を外れた。

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PO

 

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(6)

したがってこの間の幕府側文書に出てくる「大宰少弐」「前大宰少弐」は藤原為佐になる。彼は鎌倉 に在住したから逢任で、代官を派遣したのだろう。仁治二年の少弐については竹内説よりも川添説に利 があり、『大日本史料』以来の比定が妥当であろう。資能の場合は当時は「豊前前司」といわれていた。

鎌倉にいる人物にあてて、鎮西あての文書が出されることも稀にあったものか。

ほか『関東評定伝

J

『吾妻鏡』によれば康元元年 (1256)以降文永三年 (1266)七月まで、景頼が武 藤少卿、太宰少弐、大宰権少弐を称している(『大宰府太宰府天満宮史料』八 六三頁、『吾妻鏡人名索 ヲ

i

』、弘長三年<1263>十一月出家)。

しかし一世代前、嘉禄以前に登場していた「前大宰少弐」は誰になるのだろうか。無前提に武藤資頼 に比定するわけにはし1かないことは川添氏の説くとおりである。また『吾妻鏡』人名索引を見る限り、

資頼でさえも左衛門尉、筑後前司としかみえていない。少弐を名乗った御家人についての手がかりは、

なるほど直ちにはない。

嘉禄元年十二月三日の関東御教書は、(関東)「御使師員法師」とともに行動するよう前大宰少弐に命 じたものである。この二年後、嘉禄三年二月十八日にも大宰少弐あての関東御教書(案)が残っている

(『鎌倉遺文』三五七七)*。その本文中には「資頼朝臣・師員法師相共」とあるO 元年の前大宰少弐と、

三年の大宰少弐は同一の立場にあったことは明白であるO またこの間、「宇佐官御造営新古例書」が引 用する嘉禄二年四月十七日関東御教書写(『宇佐神宮史』五一一八四頁、『鎌倉遺文』未収録)でも「前 大宰少弐殿」が宛先になっている。武藤資頼が大宰少弐に(再)任官したのは先述のように嘉禄二年十 月十三日のこと(『明月記』『民経記』)。宛先の人物はこの日を前後して、前大宰少弐から大宰少弐に変 わっているO それは資頼の任官時期に符合する。

*ほかに『鎌倉遺文』三四六三には嘉禄二年二月十八日の関東御教書が入っているが、嘉禄二年という部分の「二」の字 をのぞいて、三年同月同日の三五七七と全く同文である。『鎌倉遺文』以外の史料集は三年のもののみ採録する。『鎌倉遺 文』の誤りか。

先の嘉禄元年、三年文書の関連史料として、『大宰府・太宰府天満宮史料』七一三八八頁および『宇 佐神宮史』五一二

0 0

頁に引かれた益永文書には

「一正殿造営奉行人之事

(略)嘉禄越中七郎左衛門師貞*、少弐資頼法名覚仏」

とある(*師貞は師員の誤りであろう)。造営を奉行せよと命じた一連の関東御教書の宛先の人物は、

ここでは資頼と認識されている。先の「宇佐宮御造営新古例書」所引文書も「前大宰少弐殿」の下に

「資頼」と小さく割字で注記する。『宇佐神宮史』五一一三六頁に引く「宇佐宮式年御造営記」(益永文 書)にも同様の記事がある(なお『向上』二O四頁所引小山田文書、二一一頁所引宇佐官勘註<益永家 記録>も参照のこと)。師員を越中七郎左衛門と記すような史料はほかにはなく、これらは当時に近い 時期の記録ではないか。宇佐宮では当時から「前大宰少弐」は資頼であると認識していた。

先の御教書発給のわずか十日ばかり前のこと。嘉禄元年十一月二十三日に関東で出された鎌倉殿御下 文が十二月二十三日に大宰府に到着した。それを受けて、その日のうちに出された大宰府守護所牒が残っ ている(高牟礼文書・『鎌倉遺文』三四四四)。その袖判は武藤資頼のものだった(『花押かがみ』、本書 169頁にも転載)。

「少弐」とあるからといっても直ちに武藤氏をさすとは限らないという川添氏の提言そのそのものは 貴重だった。しかし先行研究の発表後、当時未刊だった史料が多く活字化された。それらをあわせ考え てみても、鎮西の統治機構、大宰府守護所に向けて出された幕府からの一連の指令書の宛先「前大宰少 弐」は武藤資頼としか考えられない。

(7)

律令制の官職である「少弐」には任期があり、任期が終われば他の官に任じられるまでは「前」を名 乗る。資頼は承元以前に少弐に任官、承久以前には一旦は少弐の職を辞していた。だから数年(五年か ら九年)ぶりに再任されたのだろう。同じポストへの再任はふつうの官ならばおかしいが、まさしく

「少弐」という現地、大宰府機構の頂点に立ちうる官職であるが故に、武藤氏の再任が行われた。

以上によって、藤瀬文書(2)を偽文書と判定された川添論文の最大の論拠は否定される。本文書を 生かせば資頼の少弐在任は

←承元四年〜建保五年(1210〜17)・<承久三年 (1221)以前>→(辞)一一一

O

嘉禄二年(1226)→

となり、さらに遡る。

この文書について、)||添論文は「内容、筆跡ともに疑点がある」とする。たしかに意味が通りにくい ところはある。

だが花押はどうか。武藤資頼の花押は『花押かがみ』(二一二O二)に三点採録されている。一点は 出家後のもので形が違う。水崎氏御指摘のとおり、この藤瀬文書のものは出家以前の資頼のものに似る。

形状・運筆は全く同じである。多少平板な印象はあるO 写かとも考えたが、本文とは墨の濃淡を異にし ている。本文書( 2)には決定的な難点はなく、正しい少弐資頼下文そのものか、ないしは忠実な写と 判断したい。

以上検討の結果(2) (3)  (4)は正しい文書ということになった。つぎ、に問題の (1)を検討する。

寿永文書

水崎氏は裏書に依拠して、本文を文保年間 (1317〜19)に作成された案文であるとしている。しかし この裏書には問題点があるO まず位署者の署名および花押はあるが、承認機能を持つ機関・人物が証明 したものとも考えにくいように思われた。文字を詰めないで、ところどころで字を開けているようにみ えるが、閥字に相当する箇所ではないから違和感がある。さらに裏を封じたことによって、文書の効力 が発生するはずだ、から、裏書こそが重要で、アピール度が強くなければならないのだが、逆にそれが弱々 しい。つまり裏書が裏の中央に堂々と書かれておらず、字が細く力強さが感じられない。加えて案文の 裏を封ずるといっているのに、表に花押があることも一貫性がないという印象を与えるO

それでは表の本文についてはどうか。裏書で正文は別にあり、案文であるとしているO 案文・写とし てみた場合には難点も救われるといえるのかもしれない。ただ水崎氏も指摘されたような「大宰少弐兼 地頭大蔵」という表現、つまり大宰少弐と(原田庄)地頭がこのように並記されるのかどうかなど、問 題はいくつか残るかと思われた。

この藤瀬文書四通に共通するキーワードは「塔原寺院主職」である。(3) (4)では「任代々下知状」

「任先祖代々寄附詮状等旨」といっているが、その作成当時には存在したであろう下知状類は、いまは 現存しない。あるいはそれに相当するものとして (1)(2)があるのであろうか。してみると、中世 の中後期に、紛失していた下知状類など相伝文書を補充すべく作成されたか、ないしは手元の文書を写 したのが本文書ということになろう。作成当時には図里記載を含む作成の原材料となる書類が、作成者 の手元には確かにあったことになる。文書作成の時期は上限は文保となるが、実際はそれよりはかなり 下るだろう。しかし下ったとしても条里(図里)が現実に機能しており、その知識が正しく継承されて いた段階の坪付類を利用できたことはまちがいない。

大友宗麟文書

さて以上検討を重ねてきたO 最後になったが官頭にも述べたように藤瀬文書には従来未紹介かと思わ

‑166 ‑

(8)

れる大友宗麟文書もある。

(端裏切封)

「(墨引)」

「今度於其堺覚外之儀出来、無是非候、方々静論之湖、以私之宿意、及乱悪候、他郡之聞不可然候、

先書如申候、了栄心底連々令存知候之問、縦親種短慮之存分等候共、能々被加御助言早々無事之才 覚肝要候、猶年寄共可申候、恐々謹言

閏正月廿一日 宗麟(花押)

原田劉雲軒

(奥端裏・異筆)

「豊後ノ屋形大友左衛門督源義鎮入道宗麟卿ノ御文也筑前恰土郡高祖へ到来也、潤正月ハ天正十一年美 未ノ年歎守而可改也 義鎮ハ永禄十一戊辰年剃髪と云々然、則剃髪以後十六年後ノ御文歎」

後筆は閏正月により天正十一年 (1583)のものと考証しているが、元亀三年 (1572)にも閏正月はあ るから、この地域における支配関係を考え、元亀のものとみたい。料紙は雁皮。宗麟は雁皮を料紙に用がんぴ

いている。堀本氏は「雁皮は宗麟文書の正しさの証明と同義であり、雁皮でできた偽物は今の所見つかっ ていない。右筆もかっちりした書き方をする。本文書にはそれがよく出ている」という。ほかには

永禄四辛酉 (1561)十二月吉日鹿賀大土河名坪付 永禄八乙丑 (1565)七月廿六日藤瀬織部忠殿あて書状 元亀二年辛未 (1571)六月朔日深江庄今石分坪付 元亀二年辛未 (1571)六月朔日鎮永書下

天正十四年 (1586)卯月廿九日小金丸名坪付

があり、これ以外にも数点の中世文書が残されている。元和二年 (1616)の数点の神有村検地帳、ある いは井堰関係の文書はこの地域の景観復原には役立とう。また近世文書の一部は『角川旧本地名大辞典・

福岡県』の満吉の項などに利用されている。

結 論

藤瀬文書の中世文書のうち、承元、永仁、応永のものは正しい。

寿永のものは当面、全面的に信頼できるかどうかは保留するが、中世文書を基に構成された可能性が 強く、後世に全く根拠なく作られたようなものではない。

藤瀬文書には他にも数点の戦国期文書がある。

楠田寺

なお文書調査の後、藤瀬氏、是永氏のご案内で、原田種直墓、そして楠田寺を訪れた。楠田寺は無住 になっているが、立派な堂宇がある。中世の原田庄楠田寺に関する記述は雷山千如寺(大悲王院)文書に

マガタ

多い。『福岡県地理全書』も楠田寺が東村の真形に現存すると述べる。小字名にも「楠田寺の前」とある。

この寺の前からは雷山を仰ぎみることができる。ちょうど頂が雲に隠れ、驚くほど立派に神々しくみ えた。楠田寺は雷山信仰の里における拠点だった。いまでこそ三坂方面が雷山の正面のように考えられ ているが、かつては長野川流域にも太い信仰の道があった。楠田寺周辺にはそうしたことをうかがわせ てくれる景観が確かにあった。

最後に貴重な歴史資料であり、中世文書も含まれる本文書群が、早い機会に文化財に指定され、十全 の保存が図られることを希望する。

(9)

寿永元年十二月 日 大蔵寄進状

向 上 裏 書

‑168‑

(10)

武藤資頼下文 承元四年六月十三日

※資頼五十一歳

武藤 資頼 の花 押︵

﹃花 押か がみ

﹄二 より

2 y

O建保三年十月九日大宰府守護所牒袖宇十六

嘉禄元年十二月廿三日大宰府守護所牒写

O六十も刊占T

(11)

永仁元年十月十四日 武藤盛経書下

応永五年四月二十七日 少弐貞頼書下

‑170 ‑

(文書写真は堀本氏撮影)

(12)

藤瀬利治氏、左は堀本氏 手にしている文書は 閏正月二十一日宗麟書状

参照

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