表
紙
解
説
古 事 記 に 、 野 原 で 焼 き 殺 さ れ そ う に な っ た 大 国 主 命 を 、 そ の 窮 地 か ら 救 っ た ネ ズ ミ が 登 場 す る 。 大 国 主 命 は 、 大 き な 袋 と 打 ち 出 の 小 槌 で な じ み の 深 い 大 黒 様 。 そ の ト レ ー ド マ ー ク の ﹁ 打 ち 出 の 小 槌 ﹂ と 、 神 使 と さ れ る ﹁ ネ ズ ミ ﹂ を 組 み 合 わ せ た 吉 祥 の 置 物 は 、 縁 起 の 良 い 物 と し て 人 々 に 愛 さ れ て い る 。 こ の 作 品 は 、 作 者 不 詳 ・ 木 製 。 本 学 園 理 事 長 所 蔵佐々木周二学園長名誉校長
創立47周年記念式典 式辞を述べる木村好成理事長
建学の精神を胸にたくましく進め
新年度スタート 対面式 中学生・高校生がお互いに挨拶 校内球技大会 一年生徒研修 建学の精神を学ぶ サマースクール 大志を抱き研鑽を積む
中
学
・
高
校
こ
の
一
年
中
学
・
高
校
こ
の
一
年
文化祭 ミュージカル部の公演
体育祭 色別対抗リレー
国際情報科2年オーストラリア修学旅行 普通科2年修学旅行 安芸の宮島 ラグビー部全国大会2回戦で佐賀工と対戦
第十五号
目
次
平成二十年戊子年
年頭所感
学園長佐々木周二先生の長寿を寿ぐ
木村
好成
︵
9︶
世の中の流れを正したい
私の育った小・中学校時代︵戦中・戦後︶その三
石塚
透
︵
20︶
マッシ
ャー
ブ
ル
ム登山遠征について
赤塚
徹
︵
27︶
高等学校草創期の一齣
(2)
影山
博
︵
41︶
ビバ
ア
メリカ
古口
敏夫
︵
66︶
国際情報科
オー
ストラリア修学旅行
須藤
光三
︵
75︶
第九回
中学校ニュ
ージーランド語学研修
筒井
健介
︵
81︶
﹃江戸時代女性文庫﹄を読む
特にイチョウの雌雄と変体仮名﹁つ﹂について
水代
勲
︵
92︶
すいせいがもたらした天文現象
西沢
敏
︵
96︶
﹁香り﹂への誘い
│
﹁香道﹂の入門編
│
水野
正
︵
99︶
佐賀イン ターハイ報告 山下 宏︵ 51︶ 電話今昔 渡邉 勇︵ 53︶ 心にとめておきたい言葉第十四集 小塙 研一︵ 55︶ 千葉の 〝おっちゃん〟 坂本 一成︵ 57︶ 明日は新しい日 亀山 瞳︵ 59︶ 一 人暮しも楽しいもの 菅又 和彦︵ 61︶ 心理学の先生の言葉 田口 幸子︵ 64︶ଟ ⟢
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Ⅰ
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Ⅱ
痛 み 佐々木和俊︵ 111︶ モー ツァルト偏愛 中島 亨︵ 113︶ 私の二つの同窓会 青木 一男︵ 114︶ ランドセル同盟 菅 麻衣子︵ 117︶ 祖母の味 田原 千晶︵ 118︶ 親友から教わったこと 島田 秋︵ 120︶ ﹁ブ ル ー ノ・タウト展﹂ の印象 大月 一男︵ 121︶ いざ な・
・
・
・
デンマーク往復書簡
瀬賀
正博
︵
123︶
思い出に残る教師像
大島
秀郎
︵
137︶
架空授業
私の漢文講座︵冬期課外編︶
安塚
孝昭
︵
146︶
書に親しむ
︱
漢字と仮名作品を書く
︱
加藤
敏明
︵
172︶
私のオペラ人生
Ⅴ
峰
茂樹
︵
194︶
新米教師の文学散歩
三好
一郎
︵
205︶
ボランテ
ィア
久保田千秋
︵
208︶
創立四十七周年記念講演
世界文化遺産
日光東照宮について
日光東照宮禰宜
高藤
晴俊
︵
212︶
Twenty years
ハン ス・リントゥバー︵
225︶
探検、夢、発見
デビン・ケ ル ソウ︵
233︶
英字新聞に挑戦しよう
村田
真一
︵
238︶
平成十九年度歳時記
太平台
︵
239︶
﹁太平台春秋﹂
の創刊に寄せて
︵
252︶
編集後記
︵
254︶
君に伝えたいことがある 島田 利文︵ 177︶ 私の幸 佐山 洋︵ 178︶ ﹁高校教師﹂ になり たく て 野村 拓矢︵ 180︶ あなたの趣味は何ですか? 金子 茜︵ 182︶ 私の好きなことわざ 田中 千鶴︵ 184︶ 私が目標と す る先生た ち 綾川 浩史︵ 185︶ 亡き祖父に想う 西 克幸︵ 189︶ 自分を振り返っ て 新井 聖貴︵ 191︶ଟ ⟢
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Ⅲ
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平成二十年戊子年の年頭に
今年も一月一日は、東京渋谷キャンパスに齋祀る國學院大學神殿での歳旦祭に、國學院大學栃木学園 理事長・國學院大學理事として参列し、皇室の弥栄と国運の隆昌、学園の発展を祈願し、併せて学園の 役員・教職員、学生・生徒・園児等と、それぞれのご家族のご健勝ご発展を祈りあげ、さらにそのこと の実現のために日日努力・精進することをお誓い申しあげた。 今年平成二十年は、皇紀二六六八年・西暦二〇〇八年である。平成の御世は、昭和六十四年一月七日 に先帝昭和天皇が崩御あそばされて、明治の御世からの元号一代一元の定めにより、新たにご即位なさ る今上天皇の御世となるということで、この日に元号が昭和から平成に改元されたのであるが、あれか ら二十年目の新年を迎えたのである。阿川弘之氏も言っているが、大正時代が十五年に満たなかったこ とを思うと、平成になってすでに十九年を経て二十年目に入るという歳月は、決して短くはない。さら木
村
好
成
学園長佐々木周二先生の長寿を寿ぐ
世の中の流れを正したい
平成二十年戊子年
年頭所感
ȽȽȁIJıȁȽȽ に平成の御世はこれからも当然のことながら続いてゆくのである。 振り返って 、平成になってから今日までの日本の動静を想うと 、内憂外患 、憂慮すべきことが多かった 。 このような世の中の流れは、どうしても変えなければならないと思う。 平成の御世を生きる私たちは 、私たちなりに後の世の人びとに対しての責務を負うていると考える 。 平成の世が素晴らしい時代であったと評価されるようにするためには 、個々人は微力かもしれないが 、 いささかでも世を正すために貢献しなければなるまいと想う年頭であった。
学園長佐々木周二先生は子年生まれ
今年平成二十年は、干支︵えと︶を言うと戊子︵つちのえ・ね︶年である。つまり、今年生まれる子 供は子年生まれということである。私たち日本人にはその年の干支に因んで、その年の努力目標を定め る習慣もある。子はねずみ、鼠は子だくさんで子孫を増やし、休みなく動き回る習性をもつことから家 運隆昌が計られる、縁起の良い生まれ年と考えられている。 この前の子年は平成八年で丙子 ︵ひのえ ・ね︶年であった 。 この年の出生者は十二歳になる 。その 前は昭和五十九年で甲子︵きのえ・ね︶年生、二十四歳。このように数えていくと、本学園の学園長で あり中高校名誉校長である佐々木周二先生のお生まれは明治四十五年六月二十四日で、この年の干支は 壬子︵みずのえ・ね︶の年だから、先生は今年九度目の年男ということで、九十六歳になられるのであ る。ご高齢であるが極めてご壮健でいらっしゃることは、誠に目出度いかぎりである。特に六十年に近 い歳月を先生の膝下に仕えてきた私にとっては、心強きことかぎりなく思えるのである。先生こそ、明 治生まれの男の心意気を持ち、子年生まれのめでたさを活かして仕事をされた方である。 佐々木周二先生は中学生時代、当時の日本統治下の京城市︵現韓国ソウル市︶にあった京城中学校在 学中に、不治の病と言われた肺結核を患い、七年間の闘病生活をなさった。その間にご両親があいつい で亡くなられるという、悲しく辛い思いをされたのである。先生ご自身は幸い健康を回復されたが、普ȽȽȁIJIJȁȽȽ 通の者より七年も遅れて中学校を卒業し、東京高等師範学校に進学、東京教育大学教育学部から専攻科 を修了されたのである 。先生は 、大学在学中学業に精励なさるかたわら報徳思想 、つまり二宮金次郎 ・ 尊徳の生涯を研究され 、論文ものこされている 。さらに 、報徳思想の実践にも励まれたこともあって 、 教育への強い信念をお持ちになって今日まで生きてこられた。 先生は、ご自身を律するに厳しく、周囲 の者への心遣いは細やかで、温情溢れる方である。先生を崇敬する者は多い。 佐々木先生は 、昭和十九年に岩崎清一氏が起こされた岩崎学園が 、旧制久我山中学校を創設された時 の大本柱の仕事をなさり、後に校長となって國學院大學と合併させ、國學院大學久我山中学高等学校の 隆昌を築かれて、現在は同校の名誉校長でもある。大学との合併以後は大学理事としても多大な業績を 積まれて、國學院大學理事長に就任され、職を全うされて現在は常任顧問でいらっしゃるのである。一 方で、國學院大學栃木学園が今日の発展を遂げていることも、佐々木先生の高校創立時の校長就任から のたゆみないお働きによるのである。 ○ 本学園の歴史は、本校の創立に始まる。昭和三十五年四月十三日に第一期生の入学式を挙行し、これ をもって開校したのであった。佐々木周二先生四十八歳の年であった。その時から数えて今年は四十八 年目となる。創立五十年という祝いの年を間もなく迎えることになる。学園長佐々木周二先生はその年 に九十九歳になられる。いわゆる白寿の賀の歳にあたられる。先生は日ごろ百歳までは生きたいものだ とおっしゃっておられ 、 ごく最近も事務連絡で先生宅を訪れた小藤勝夫経理部長に 、﹁ 今年の八月に開 催される北京オリンピックはもちろんのこと、次のロンドン・オリンピックでの日本選手の活躍ぶりも 観たいものだ﹂ 、とおっしゃられたという。 高校の四十九期生となる平成二十年度入学生の選抜試験が、 一月六日︵日︶に単願者入試、 十日︵木︶ に併願者入試が行われた。彼等が三年生になる二十二年の秋、十月九日が学園創立五十周年記念日であ る。その日に挙行される学園五十周年記念式は、先生の白寿の賀を祝いながらということになると思う
ȽȽȁIJijȁȽȽ と、これもまた楽しいかぎりで、今から待ち望まれる栄えの記念日である。 近年の本学園中学 ・高校教育の充実ぶりは目を見張るものがあって 、平成十九年春の進学実績が国 公立大学合格者数で一三五名となっていることは周知のことであろう。県内外の人びとからも注目され ているところである。その成果は平成二十年春の卒業生の進路・進学の実績にも引き継がれるであろう が、このことも、佐々木先生が四十八年前に播かれた一粒の麦がもたらした結果である。佐々木周二先 生の長寿を言祝ぎ、ますますご健勝であられることを心からお祈り申し上げるものである。
嘉納治五郎先生の説く﹁精力善用﹂
今年も渋谷キャンパス神殿での歳旦祭に参列したが、これに先だって行われている國學院大學柔道部 の元旦稽古に臨むことも恒例となっている。 この日も、廣井武司総監督・坂本大記監督を初めとする先輩コーチ等と学生部員三十名ほどが参加し ている柔道場に赴いた。稽古の後、柔道部の先輩・ OB 会顧問の立場で、年頭の挨拶と激励をかねての 所懐を述べた。 ○ 道場に二面の額が掲げられているが、一面は﹁精力善用﹂で、講道館柔道の創始者で初代館長である 嘉納治五郎先生の揮毫による書である。私の在学当時の部の師範であった田中徳正九段が、若き日に直 接嘉納師範に揮毫していただいた書を、この道場に寄贈されたものである。 広く一般にも知られているように 、﹁ 精力善用﹂と ﹁自他共栄﹂は 、講道館柔道を修行する者が目指 す究極の目的である 。嘉納先生は 、﹁柔道とは 、 心身の力を最も有効に活用する道である﹂と言い 、こ れが﹁精力最善活用﹂となり、さらに短縮して﹁精力善用﹂となったのである。 嘉納先生ご自身はこの言葉を次のように説明されている。 ﹁どんなことでも人間のすることで、精神︵意思︶と身体︵動作︶を働かさないでできるものはない。ȽȽȁIJĴȁȽȽ 本を風呂敷に包むことでも 、 文章を作ったり 、文字を書いたりすることでもそのとおりで 、 最も上手に本を包み文章を作り、文字を書こうと思えば、その目的に最もよく適するように 精神と身体を、 最も巧みに働かさなければならない。この最も巧みに精神と身体を働かせる 方法を 、﹃心身の最有効使用道﹄とも ﹃使用法﹄ともいい 、どんなことをするにも成功をお さめるためには必要な大原則すなわち﹃大道﹄である。これを柔道と称する﹂と。 つまり、人間の全ての行為のうちで、最も巧みに目的を達しようという考えのもとに、そ の目的に最も有効適切な、無駄のない動作が行われるならば、それが柔道なのだと説かれて いる。この考えをもとにして嘉納先生は、さらに説明を加えて、 ﹁この道を攻撃 ・防禦を目的として応用することを武術といい 、身体を強健にして 、 実生 活に役立たせるように応用することを体育という。 また知を磨き徳を養うためにこの道を応 用すると知徳の修養法となり、社会における全てのことに応用すると、社会生活の方法とな る。このように、一度柔道の根本原理を明らかに知ることができれば、どんなことでもそれ から割り出して判断できるのである。例えば、自分の生活の仕方でも、他人に対しまた社会に対してど うしたらよいかというような時々刻々に起こってくる問題でも、この原理にもとずいて解決することが できるのである。正しい方法で柔道を学んでいれば、おのずとそういう力が養われるはずである﹂と。 この説明で、私たちが考えなければならないことは、普通世間一般の人びとの考えている柔道と、嘉 納先生のいわれている柔道との相異である。すなわち普通一般の人びとが考える柔道は、相手を投げた り、抑えつけたり、首を絞めたり、また間接を逆にしたりする徒手を主とする武術の一種であるとして しか柔道を見ないのであるが、嘉納先生は、そのような武術としての技術ももちろん柔道であるが、柔 道を﹁心身の力を最も有効に使用する道﹂というからには、単に武術だけが柔道と呼ばれるものではな い。それは、武術だけが精神と身体を有効に使用しなければならない人間の行為の全てではないからで ある。だから、徒手を主とする武術としての柔道は、大道としての柔道の一つの面であって全てではな
ȽȽȁIJĵȁȽȽ い、と説かれている。 従って 、 他の面 、 例えば身体を鍛えようという目的に対して 、また知識や徳育の修養ということにも 同じように心身の力の最有効使用は考えなければならないし 、まして 、日々の生活においてはなおさら にこのことが必要なのである 。 このように 、 どの面にも心身の力の最有効使用が行われるならば 、 それ が柔道といわれるものの他の面 、合理的な身体の鍛錬法であり知徳の修養法であり 、処世法となって社 会生活の上に大きな効果をもたらすものとなる 。このような柔道の理念が 、日常の生活にも応用され 、 それが形となって表れてくれば私たちの生活は、一層楽しく豊かなものになるのである。 このように、広く大きく柔道を考えての日々の稽古や学業への努力こそが、学生柔道の目標でなけれ ばならない 。人間の行動は 、心と体の力が一つになって表れるものだから 、行動の基になる心は ﹁善﹂ でなければならず、力は﹁善から生ずる力﹂でなければならない。 ○ この頃の世の中の動きを見ていると 、﹁善から生まれる正しい心﹂が欠けているように思われる者が 多い 。日ごろの行動に 、﹁善﹂に基づく行動を考えないために 、自分本位で身勝手な行動をするのであ る。親が子を、子が親を殺めるということも、衝動的な欲情に踊らされての行動である。己の行動を抑 制できずに、不特定の人びとに危害を加えるなども、その表れである。 つい先頃のニュースにも 、高校二年生が路上で人に斬りかかる事件があった 。精神を病んでいたかも 知れない 。しかし 、その者が精神を病む以前の心のもち方 ・行動のあり方は 、おそらく自分勝手で自分 本位な行動習慣であっただろう 。自分の考えと世の中の動きが合わないから ﹁切れる﹂などといって 、 反社会的な行動をするなどはとんでもないことだ。 自分というものがまだ人間として完成されていない年代にあっては、常に世の中から種々のことを学 びながら人間性を磨くという謙虚さがなければならない。学びの心の根底には、常に﹁善﹂の心が必要 だと、嘉納先生は教えられているのである。
ȽȽȁIJĶȁȽȽ ○ もう一面の掲額﹁奥妙存錬心﹂は、大学柔道部の名誉師範であった三船久蔵十段の書で、私の在学中 の一日、柔道部の大先輩であり大学理事であった松尾三郎先生の要請で行われた、大講堂での三船先生 の全学対象の講演と実技披露の後に揮毫されたものである。 私が國學院大學柔道部で四年間の部活動をしたことでの幸せは 、良き師 、良き友に恵まれたことで あった。一つは、松尾三郎先生の存在である。先生は大正十五年の大学卒業で、柔道部の創設が大正九 年であったから、部の草創期の先輩であった。先生在学当時の部の師範であった三船久蔵先生は講道館 の至宝と言われた最高実力者で、松尾先生は学生時代から三船先生をいたく尊敬しておられ、戦後の柔 道部員である私たち後輩のために、名誉師範として三船久蔵先生を招聘してくださったのである。三船 先生の謦咳に接し得たことは柔道修行者として最大の幸せであったと思う所以である。 ﹁奥妙錬心に存す﹂は 、柔道の道の奥義を極めることも 、 技が絶妙の域に至ることも 、稽古 のひたすらな反復練習・鍛錬の行き着くところにあるのだから、大きな志を持って、倦まず弛 まず、稽古に励みなさいということである。柔道の道と術の神髄を究めるための全ては、一途 に勇猛心をもって精進すること 、すなわち ﹁勇猛精進﹂ 、ひたすら上を目指しての努力にある という、三船十段の教えである。 この教えと全く一致することを、幕末の剣豪で北辰一刀流を編み出した千葉周作が、初心剣 術稽古心得に遺している。 ﹃気は大納言のごとく、技は小者・仲間の如くせよ﹄ 、と言う言葉で ある。つまり、修行は、志を高く持ち、技の習得は下働きの小者・仲間のように、まめに、忠 実に、こつこつと努力せよ、という教えである。 今年は 、子年である 。 私たち日本人は 、その年の干支に因んで 、その年の努力目標を考え る習慣がある 。子はねずみ 、鼠は休みなく動く習性をもつ 。独楽鼠という言葉もあるが 、弛
ȽȽȁIJķȁȽȽ みなく稽古に、学業に、懸命に精進・努力しなければなるまいと思うのである。
どこまで恵まれれば気が済む
﹁引き算﹂人生で落ち込む日本人
作家 ・ 曽 野綾子さんが、平成二十年一月九日の産経新聞朝刊の正論欄に掲載したエッセイの見出しが、 ﹃﹁引き算﹂人生で落ち込む日本人﹄であった。日ごろ、曽野綾子さんの世の中を見る目の確かさと、簡 明な文章による説得力に敬服している私だが、この文章も私自身がこの頃の世の中の動きに不満を感じ ていることを言挙げして、誤ったものの考え方を正しい方向に導こうとされる曽野さんの考えに賛同し て、私の考えを加えながらここに全文を紹介することにした。 ○ 戦争もなく 、食料危機もなく 、学校へ行けない物理的な理由もないというのに 、そして私流の判断 をつけ加えれば、今日食べるものがなく、動物のように雨に濡れて寝るという家に住んでいるのでもな く、お風呂に入れず病気にかかってもお金がなければ完全に放置される途上国暮らしでもないのに、読 売新聞社が昨年十二月に行った全国世論調査では 、三十 、 四十代では 、自分の心の健康に不安がある 、 と答えた人が四十 % にも達していたという。 ︻人間三十代・四十代は人生の花盛り、働き盛りである。その時を、まともに生きようとする意 欲をもたないでどうするのだろうか。恵まれた現状に感謝する心があれば、生き甲斐も、働く意 欲も、負けん気も、生まれる。何不自由なく生活できる日本に生きていて、今をもてあますとい うことは、甘えきったもの言いだと言うほかに、言葉がない。 ︼ しかも多くの人たちが 、不安の原因を仕事上のストレスと感じているという 。ストレスは自我が未完 成で、直ぐに単純に他人の生活と自分の生活を比べたり、深く影響されるところに起きるものと言われ る。ストレスは文明の先端を行く国に多いと私は長い間思いこんでいたが、まだ残っている封建的社会ȽȽȁIJĸȁȽȽ にも実はあるのだと或る時教えられた。社会の常識が許しているというので夫が複数の妻を持とうとし たり、同族の絆の強い共同生活に耐えようとすると、それがやはりストレスになるという。 ︻ストレスのない生活などあるわけがないだろう。ストレスをストレスと感じないような精神力 を養うために本を読んだり、しかるべき人の話を聞いたりして世の中のことを、勉強することで ある。何もしないで、誰かに何とかして欲しいなどという甘え根性は捨てなさい。身も心も鍛え れば強くなる。年相応に世の中のことを知るための努力・勉強をせよ。 ︼ 私は昔から、自分の弱さをカバーするために、いつも﹁足し算・引き算﹂の方式で自分の心を操って きた。健康で、全てが十分に与えられて当然と思っている人は、少しでもそこに欠落した部分ができる と、もう許せず耐えられなくなる。私が勝手に名付けたのだが、これを引き算型人生という。それに反 して、私は欠落と不遇を人生の出発点であり原型だと思っているから、何でもそれより善ければありが たい。 ︻と考えるのが足し算型の曽野さんの価値観だ。同感です。真似をしなさい。 ︼ 食べるもの 、寝るところ 、水道 、清潔なトイレ 、安全正確な輸送機関 、職業があること 、困った時相 談する場所、ただで本が読める図書館、健康保険、重傷であれば意識がなくても手持ちの金が一円もな くてもとにかく医療機関に運んでくれる救急車、電車やバスの高齢者パス。何よりも日常生活の中に爆 発音がしない。それだけでも天国と感じる。それが足し算型人生の実感だ。これだけよくできた社会に 生まれた幸運を感謝しないのは不思議だと思う。 ︻全くです。恵まれ過ぎていることに慣れきって、不満を感じることを贅 ぜ い た く 沢というのです。 ︼ しかし人間は 、教育し鍛えられなければ 、このように思えない 。子供は幼い時から悲しみと辛さに耐え るしつけが必要だ 。平等は願わしいものだが 、現実として社会はまず平等であり得ない 。しかし不平等な 才能があちこちで開花している。それなのに完全な平等しか評価しない人間の欲求は、深く心を蝕む。 ︻努力した者と、努力しない者とが、平等では、おかしかろう。それを悪平等というのです。 ︼
ȽȽȁIJĹȁȽȽ 叱る先生は父兄に文句を言われるから﹁生徒さま方をお預かりする営業的塾の教師﹂のようなことな かれ主義になった。何か事件があると、マスコミは校長や教師を非難するが、子供の成長に誰よりも大 きな責任を有するのは、他ならぬ親と本人なのである。生活を別にしている教師など、子供の生活のほ んの一部を見ているに過ぎない。 ︻あなたの子供とあなたの人生はあなた方が主役です。あなたの子供とあなたは親子なのですか ら一生行動を共にしなければならない不離一体の関係なのです。教師は、あなた方と何時までも 一緒には生きられない。教師は一時の助言者です。不可分な関係だなどと無理な要求はしないこ とです。無理なことを言って、それが通れば道理が引っ込みますから、世の中がおかしくなるの です。 ︼ 躾る親も少ない 。 子供たちは叱られたことも 、家事を分担させられたこともない家庭が多いという 。 親たちも享楽的になって、来る日も来る日も家庭で食事を用意するという人間生活の基本をみせてやる 親も減ったと言うから、人格を作る努力や忍耐の継続が生活の中で身につかない。だからいつまで経っ ても、自分は一人前の生活をできる存在だという自信もつかない。この自信のなさが、荒れた性を生む のである。 ︻子を正しく導くには、親が正しい考え方ができなくてはなりません。ときには子を叱ることが 必要です。叱って正しく教え導くのです。これを叱正といいます。叱れる親になりなさい。叱り 上手な親になる 。そして叱られ上手な素直な子を育てなさい 。教師も勇気を持って叱りなさい 。 教師と、親と、子の関係は、甘えない、甘やかさないことが大切。 ︼ 何より怖いのは 、子供たちが本を読まないことだ 。 つまり自分以外の人生を考えたこともない身勝 手な意識のままの大人になる。本の知識はテレビやインターネットの知識とは違う。 ︻考える力を養いなさい。愛にもいろいろあって、読書をすれば、自愛が他愛を生み他愛が博愛 に発展することが分かる。学びなさい。学べば、勇気・忍耐・勤勉、いろいろなことが分かる。
ȽȽȁIJĺȁȽȽ ﹁吾思う故に吾在り﹂ 、これが人間の考え る 力を生むのです。 ︼ 戦後教育は ﹁皆いい子﹂と教えた 。ところが人間性の中には 、見事さと同時に底なしの残忍さも共存 している 。 このおぞましい部分を正視してそれに備えていないから 、思いつきで人を殺す 。 たぶん罪 を犯したこじつけの言い訳だけはちゃんと自分の中に用意しているのだ 。 今は DN A鑑定にも何故か 黙っているが 、 昔は指紋登録だけでも人権侵害だと言って大騒ぎした人たちがいた 。言うことの筋が 通らない。 人間は自分のためだけでなく 、人のためにも生きるものだという考えは 、すべて軍国主義や資本主 義の悪に利用されるだけだ 、 と言う人は今でもいる 。人は自分独自の美学を選んで生きる勇気を持ち 、 自分の意思で人に与える生活ができてこそ 、初めてほんとうの自由人になる 。 受けるだけを要求することが人権だなどと思わせたら 、今後も不安と不幸に 苛まれる人は増え続けるだろう 。今年は政治や社会がそのことに気づくかど うか。 ︻人のためになる生き方こそが 、一人前の人間の生き方です 。そのために は、 まず、 私欲から離れること。無欲になって人につくすことを考えなさい。 利他が考えられれば 、 ﹁自他共栄﹂が人の道だと分るでしょう 。本校の校訓 たくましく 、直く 、明るく 、さわやかに 、を正しく理解し 、素晴らしいと 思ってください 。 そして人間として正しく生きるために校訓の教えを実践し なさい。 ︼ ︵理事長・学校長︶
ȽȽȁijıȁȽȽ
中学校入学への準備
昭和二十年八月十五日、国富の四分の一を失い太平洋戦争 は終わった。私は小学校の四年生であった。その時までの軍 国日本の少年たちは、軍人になることだけを考えていて、私 も子供心に海軍兵学校に進むことを考えていたのだが、その 夢は消え去った 。戦後社会の混乱の中 、 昭和二十三年三月 、 に小学校の課程を修了した。卒業式を前にして、自分たちが 毎日使っていた机と椅子を半日かけて綺麗に雑巾をかけ、新 築なった中学校に運ぶ準備をした。 机と椅子の中学校への搬送は、卒業式の翌日に上級生たち と一緒に行った。中学校の校舎は、小学校から約三キロメー トル離れた地に 、山林を切り開いて新築されていた 。私に とっては、六年間毎日通学していた小学校の途中につくられ た中学校校舎だったので、山林の伐採から校舎の完成までの 工程を、自宅からの登下校の途中に寄り道しながら見知って いたから、中学校への机、椅子の運び込みには新鮮な張りつ めた気持ちは感じないままの移動であった。とはいえ三キロ メートルの道を何回も休みながらの搬送である。現在と大き く違うところは、道路が砂利道であること、更に自動車が行 き来するわけでもなく交通事故の心配は全くないということ であったのだが、搬送が完了したのは夕方であった。机・椅 子以外の校具は、当然のことだが生徒だけでは不可能で、荷 馬車を使ったということも、時代を感じさせることだった。中学校生活のスタート
部屋村立部屋中学校は平地林を切り開き、神社に隣接した 高台の地に建設された。現在では南方に大きな堤防が造られ 渡良瀬遊水池を中学校から見下ろすことはできないが、建設 された当時の中学校は遊水池と地続きであった。江戸時代に は、直接江戸から江戸川・利根川・渡良瀬川・巴波川と繋い で、遊水池に船で乗り入れすることができたという。実際中 学校の建設当時は葦が生い茂り、船での通行はできなくなっ ていたが、川沿いに進めば遊水池には容易に行くことができ私の育った小・中学校時代
︵戦中・戦後︶そ
の
三
石
塚
透
ȽȽȁijIJȁȽȽ た。遠い昔、神社付近は船着き場であって人の往来も盛んで あったという。 建設された中学校校舎は、中央に正面玄関があり、その両 隣に校長室・職員室、宿直室・事務室をおき、東西ともにそ の先に五つの普通教室が配置されていた。また、校舎の北側 には用務員さんの家族住宅と倉庫があった。一年生は東側の 三教室 、二年生は中央の教室 、 三年生は西側の教室に入り 、 昇降口も東西別々に分けられていた。 学年の担任としてご指導いただいたのは、大学を卒業した ばかりの C 先生、学徒出陣で帰ってきたばかりの T 先生、剣 道の有段者で教職の経験を持つ S 先生の三名であった。この 三名の先生は、クラス替えが一度もなかったので三年間クラ ス担任としてご指導いただいた。私は一組で S 先生のクラス だったが、先生は何事にも熱心に取り組み、生徒と共に汗を 流してくれる先生であった。真新しい校舎は、何度か水没し てぎくしゃくした小学校の校舎に比べ、これが学校だという 体裁を整えていたが、設備は何もなかった。またグランドも グランドとしての体裁を整えていなかった。ただ一つ、グラ ンドになる敷地の東端に、鉄棒だけがぽつんとあったが、な んとも違和感のある光景であった。
厳しい食糧事情
戦後の食糧難は、学校で友と机を並べて学習活動をする余 裕を与えてはくれなかった。生きるためにまず何をなすべき かとなると、飢えをいかにして解決して行くかということに なる。生活困窮状態に追い込まれたどの家庭も、食料を確保 するための労働力の確保を図ることが先決で、猫の手も借り たいという言葉どおりの状態であった。 そのため農繁期になるとクラスの半数の生徒が欠席するこ ともあった。学校は数日間、農繁期の休みを取り、家庭の手 伝いをさせる措置も取っていた。私の家もまた他聞に漏れな いということであった。母は医者の家に生まれ、草取りひと つせずに育ったというが、時代は何もせずに生活することを 許さなかった。農地改革と食糧難によって、新制中学校長の 職にあった父の給料だけで生活することはできなかった。そ こで作男の爺やと一緒に農業を始めたのである 。農業労働 は 、 主婦が片手間でできるほど生易しいものではなかった 。 作物の生育については爺やに教われば理解することはできる が、鍬の持ち方、鎌の使い方等、何もかも未経験のものであ り、手に豆を作りながら土と戦っていた。しかも生まれなが らの華奢な身体は、労働には不向きで、少し無理をするとす ぐに床についてしまった。床につくと母の兄は医者を開業し ていたので大きな鞄を提げて、人力車に乗ってブドウ糖の注 射をしにくる。帰り際に必ず﹁無理するな﹂といって帰って 行く。子どもの私にも、母が無理をして農作業している姿は よく分かり、床につく度に、少しでも母の手助けをしなけれ ばと思うようになっていた。母は私に長男としての自覚、一 族の長としての覚悟を自覚させたかったのかも知れない。長ȽȽȁijijȁȽȽ 男であることの覚悟は 、 小学生の時からの墓地の清掃 ・ 管 理をはじめ、分家の叔父と行う山林の巡回など、いろいろな ことで自覚させられた。私は長男とは何と損なものであるか と思っていた。反面、長男であるがゆえに、すすんで母を助 け頑張らなければと思うようにもなっていた。病弱な母が留 守がちの夫を助けて立ち働く姿が私に母の手伝いをしなけれ ばと感じさせたのだろうが、母はいつも凛としていた。いつ 床につき、いつ起きるのかも分からなかった。床についてい るのは、病気で水枕をし、額に氷のうを乗せている姿しか見 たことがなかった。貧しい生活の中でも、私が勉強をしてい ると必ず十時頃には﹁お茶ですよ﹂と言って、茶を入れてく れたし、子供達が寝るまで茶の間で針仕事をして待っていて くれた。このような母の子どもへの思いが、私の行動を規制 することになったのか、私は横道にそれることなく、まがり なりにも真直ぐな生活を送ることができたのかとも思ってい る。加えて当時の生活の苦しさは、村落共同体社会の人の繋 がりが子どもたちを横道にそれることを許さなかったのかも しれない。下校時に寄り道をして遊んでいると、誰というこ となく﹁早く帰りなさい﹂と叱責の声がかかってきた。また 自分の家にも状況報告的なものがあったので 、帰らざるを えなかった 。当時の遊びは小学校の時までで 、中学生にな ると家の手伝いをすることが当たり前になっていた 。それ ほど農村では労働力を必要としていたのである 。私も 、母 の手伝いを良くしたと思っている 。生活するための苦しさ は 、 家族の繋がりや結束を生み 、いたわり慈しみの心を育 ててくれたのである 。そしてこの時代は 、貧しさの中にも ある種の豊かさがあり 、ゲマインシャフト的な雰囲気が支 配していた 。また共同体を構成している住民には帰属意識 が濃厚であった 。しかし経済の成長は 、住民の生活を豊か に変化させてくれたが 、その社会もしだいに溶解しはじめ て行くのである。
楽しかった部活動
中学校生活がスタートしても社会の混乱、経済の疲弊は依 然として続いていた。新制中学校の設備の充実は、遅々とし て進まなかった。教室は、ホームルームを行う普通教室だけ で音楽室 、家庭科室 、美術室等はなく 、体育館もなかった 。 そのような中にも 、 二百メートルのトラックが翌年には造ら れた。トラックといってもただの平地で、体育活動をしてい て木の根につまずくこともあり、ただ二百メートルのトラッ クが取れたというグランドであった。そして運動場の南側に は、高低の異なる鉄棒が二つほど新しく追加された。 凹凸があり貧弱ではあるが 、トラックの完成によって体 育活動がスタートした。ツルハシやシャベルを持っての授業 でなく、級友と共に体育的な運動ができるようになったので ある 。そして放課後には 、部活動も行われるようになった 。 真っ先に活動を開始したのは野球部であった。部活動といっ ても、顧問の先生がいるわけでもなく、今行われているようȽȽȁijĴȁȽȽ な正式な部活動ではない。どちらかといえば先輩を中心とし た同好会的な活動であった。私も早速活動に参加した。メン バーは三年生が中心であるが、顧問の先生もときどき活動に 参加してきていた。三年生になると野球以外にもいくつかの 種目の部活動も結成され愛好者によって練習が開始された 。 私は母の手伝いをしなければならないので、毎日練習をする 野球部から、活動が他の部に比較して自由なテニス部と卓球 部に入り身体を動かした。学年はどの学年も在籍者は一五〇 名前後なので、計算の上ではどの部活動も毎日の活動に支障 はないはずだが、世の中の経済状態は依然として厳しく、ど この家庭でも子どもの労働力を必要としていたので 、練習 に必要な部員の確保ができず、活動も毎日行うことはできな かった。 私がテニス部に入部した理由は二つあった。一つは、父が 戦前に使っていたラケットが家にあったということ。もう一 つは 、校長先生がテニスの指導をしてくれるということで あった。校長先生は母の遠縁にあたる人で、私の家にもよく 見えていた。母の話では、陸上競技で旧制の中学校時代、選 手として大活躍していたということであった。スポーツマン らしくいつも颯爽としていた。先生は現在の美田中学校近く に家があって十キロメートルの道を自転車で学校に通って来 ていた。練習はユニークというか、プレーというにはお粗末 すぎるものであった。コートに白線を棒で引き、ネットは木 の枠を規定の高さに切ったものを一列に並べてプレーするの である 。よくぞ球が相手のコートに飛んでいき 、 プレーが できたものだと思う 。それでも生徒達は額に汗しながら楽 しく練習に励んだ 。 校長先生は 、一週間に一回位の割合で 練習を見てくれていた 。 背筋をぴんと伸ばし打ち下ろして くるサーブは、 驚異的なものであった。校長先生は、 ラリー を続けなさい 、サーブは正確に入るようにということを繰 り返し指導していた。 卓球は、二年次の夏休み前に卓球台が一台購入された。練 習場所は生徒昇降口で 、女子が主に練習をしていた 。私は 、 雨の日に友と遊びでゲームをしていて入部を勧められ試合の 時だけ出場する部員となった。実にいい加減といえばいい加 減な活動であった。もっとも、当時の部活動はそういうもの であった 。だから他校との合同練習試合が組まれると急遽 、 選手の選考があって出て行くのである 。私もいろいろな競 技に参加した。対等に戦うことのできたものは野球だけであ る。テニス、卓球、陸上競技などは地区の大会が組まれ、隣 接の学校に出かけていったが観戦が主体であった。しかし一 つの競技だけでなくいくつもの競技に参加して汗を流したこ とは中学校生活を楽しくしてくれた。活動を通して人間を磨 くという本来の目的にはほど遠い部活動であったが、友との 友情は大きな宝となった。
学習の厳しさ
昭和二十一年に郷土を襲った大洪水は、輪中に暮らす住民ȽȽȁijĵȁȽȽ に大きな被害を残した。時が経つと共に田畑の整理やや住環 境の整備が行われ、徐々に回復の方向に進行していたが依然 として生活は厳しかった。昭和二十五年朝鮮戦争の勃発にと もなう特需もあったが、生活が目に見えて一変したというよ うには行かなかった。しかし確実に好況に転じていることは 高校へ進学する生徒の数からも理解することができた。私の 一級上の先輩達は、定時制の高校をも含めても一割にも満た ない進学状況であったが、私達の学年は一割五分の者が進学 した。景気は確実に好転し村人の生活を豊かにしつつあった のである。 学校の授業も 、一 ・ 二 年の時と少しずつ変わって行った 。 当時、高等学校の入学試験は中学校で履修している総ての教 科、八科目で行われることになっていた。そのために高校へ の入試に対応できる授業が展開されるようになっていった 。 その代表的なものが音楽と家庭の授業であった。音楽の授業 では、歌唱以外にモーツァルトや滝廉太郎等の作曲家や音符 についての説明などが取り入れられた。歌うことを大の苦手 とする私には大変嬉しいことであった。これまで音楽だけは どうしても評価三以上をとることはできなかったが、ようや く五の評価をとることができるようになった。 もう一つ、六時間の授業が終わってから高校進学を希望す る者には、英語の補習を週一時間の割で受けることが半ば義 務づけられた。高校の入学試験科目は、音楽・家庭も加えた 八科目で、英語は入試科目ではないが高等学校に進んだとき には必ず重要な教科になるということで 、半ば強制的に補 習が行われた。この措置に母などは大変喜び担任の先生達の 見識に敬意を表していた。しかし高校に入学してからわかっ たことであるが 、どこの中学校でも英語の授業を受けてい たことを知り少なからず驚いた。授業の変化もさることなが ら、欠席者が少なくなってきたのも大きな変化であった。二 年次までは、クラスで五名前後の者が長期の欠席をしていた が、三年になると欠席がぐんと少なくなった。社会の混乱も 少しずつ回復し、経済的にも安定してきたのである。部活動 も、二年次よりも活発に行われた。しかし、夏休みが終わり 運動会や各種の行事が終わると、高校入試に向けての進学希 望者に対する特訓課外が十一月の終わり頃から始まった。課 外は担任の先生が主に宿直の時 、夕ご飯をそれぞれ自宅で 採ってから、先生が指示した時刻に集まるのである。私が属 した一組は、三クラスの中で一二名と一番多くの高校進学の 希望者を抱えていた。一二名は、担任の先生を囲み、休憩も 何回か取りながら十一時頃まで指導を受けることもあった 。 先生の宿直当番は 、一週間に大体一回位の割合で行われて いたと思う。指導は男女一緒の指導であったが、帰路はそれ ぞれの方向に一緒に自転車を併走して、女子生徒を自宅まで 送って行った。 特訓課外は 、国語 ・社会 ・数学 ・理科の四教科が中心で あった。先生の教卓を囲んで半円を描くような形に座席をと り、二年次と三年次の教科書を中心に学習した。先生自身の
ȽȽȁijĶȁȽȽ 教科の指導もあったが、前もって教科担当者から担任の先生 が受け取った問題を受講者が解答し、全員ができあがった時 点で正解を出してゆくやり方を採った。担任の S 先 生は新婚 ほやほやであったが、私達のために労を惜しまずとことん教 えてくれた。先生の授業中に見せる顔と、特訓課外で見せる 顔ではずいぶん違っていた。特に間違いを多く持つ生徒への 指導は親切で、とことん理解するまで教えてくれた。私はこ の特訓課外に、最初こそ完璧に出席していたが、少しずつ欠 席するようになっていた。高校への進学は私にとっては至極 当然で、改めて意識するということもなかった。というのも どの叔父や叔母の家庭を見ても義務教育の課程だけで修了す る者はいなかったのである。高等学校は中学校の延長線上に あるという感じしかもっていなかった。その結果、受験だか らといって特別なことをするという意識にはなれなかったの である。ある時、担任の先生から別室に呼ばれて欠席の理由 を聞かれ、大変強く叱られた。私はただただ赤面するのみで あった。小学校の時から友達を殴ったり、いたずらなどで叱 られることは度々あったが、学習活動での注意はなかったの で深く反省させられた。そして注意を受けてからは休むこと なく出席した。 その課外も冬になり木枯らしが吹き始めると大変である 。 木枯らしの吹く中を自転車を走らせて行くのは、中学三年生 という若さでも一苦労である。特に私の家は中学校の西側に あるので、まともに赤城・男体颪 おろし の風を受けると、自転車も なかなか進まないのである。良いこともあった。西風は星座 の勉強にはこの上ない状況を創り出してくれる。北極星を中 心に銀漢冴えて天空を照らし 、星座の勉強にはこの上ない 。 本を片手に天空を見上げると、オリオン座、双子座、北斗七 星等々を目印にして一 ・ 二等星を中心に頭にたたき込んだも のである 。現在では 、早朝にしか星座を見ることができず 、 当時のようには行かない 。中学校の体験学習で奥日光の丸 沼、菅沼に宿泊するが、奥日光に行かなければ眺めることが できないのは、実に寂しい限りである。 冬休みも終わり、三学期がスタートする。一番の話題は進 路の決定である。クラスメート五十名の進路は上級学校への 進学を希望する者と、家の手伝いのため村に残る者との比率 は半々であった。半数の者は生まれ育った村を離れていくこ とになる。いよいよ別れの時期になると教室のあちらこちら で 、 卒業と同時に行くであろう企業の資料などを友に見せ 、 胸をふくらましている様が多く見られるようになった。生ま れ育った郷里を離れていくのは見送る側にとっても寂しいも のである。当時の経済状態を考えれば、長男は親の跡を継い で農業を、それ以外は家を離れて外に出て行くというのはご く自然ななりゆきで、村落共同体の色彩が色濃く残っていた 当時にあっては致し方ないことであったのかもしれない。友 よ、錦を飾って故郷に戻れと祈るのみである。 授業は、すでに進路先の決定などもあって実の入らないこ ともあったが、大きな問題もなく進行した。特別課外も淡々
ȽȽȁijķȁȽȽ と行われた 。 そして卒業式 、高校入試へと進行した 。入試 の結果は、クラスメート全員が希望校に合格した。他クラス では数名の不合格者が出たが、熱心に担任の先生方が指導さ れたので前年度と比較してみると大変な好結果であった。こ の学年は、中学校に入学してから卒業まで一度もクラス替え もなく、さらに担任の先生も変わらないという珍しいクラス 編成であったので、どんな結果となるか不安に思われていた が、有終の美を飾って終了した。 担任の S 先生は、後で分かったことだが相当の不安を持っ て学年リーダー、担任をしていたようである。三カ年同一ク ラスの担任・リーダーとして持ち上がり、卒業生を出すとい うことは、良くも悪くも力量を問われることであると認識し ていたようである。重ねて、入試に望む姿勢としては、やり 過ぎるということはないのだと語っていた。努力に比例して 自信がつくものである。そして自信は、平常心となって落ち 着きを取り戻すという。 S 先生・剣道五段の言である。 人の出会いは、人の生き方を左右するといわれる。私はこ の世に生を受けてから、たいへん人に恵まれてきたと思って いる。小学校の時の担任の先生もさることながら、中学校の S 先生には本校に勤務するようになってからも、公立中学校 長という立場で 、生徒募集等でご指導ご協力をいただいた 。 人に恵まれ、人の愛に支えられて現在まで来たことをしみじ みと日々感謝している。 ︵中学校長︶
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海外登山遠征の経緯
私の所属している栃木県南地区山岳協議会 ︵以下本協議 会︶は、昭和五十年に県南地区に在って栃木県山岳連盟に加 盟している九団体をもって創立された協議会である。 海外登山については 、平成七年頃までは個人の立場で他 の山岳団体組織の海外登山研究会あるいは遠征登山に参加 していた。時代が下って、本協議会が主催して最初に海外に 登山隊を派遣したのは平成八年の第一次インドヒマラヤ・ヌ ン峰︵七一三七メートル︶であったが、頂稜七〇二〇メート ルに到達しながら悪天候による時間切れのため撤退。第二次 派遣は平成十三年のカラコルム・ガッシャーブルム Ⅱ 峰 ︵八 〇三五メートル︶で、好天に恵まれ七人が登頂に成功、栃木 県内山岳団体としては八〇〇〇メートル峰初登頂の快挙で あった 。その栄誉を称えられ読売スポーツ奨励賞を受賞し た。第三次の派遣は、平成十五年ネパールヒマラヤのアイラ ンドピーク︵六一八九メートル︶で、一人が登頂。メラピー ク︵六四七三メートル︶は頂上直下に達しながら濃霧のため 撤退。第四次の派遣は、平成十七年本協議会として二度目の 八千米峰、ネパール・中国領のチョーオユ︵八二〇一メート ル︶であった。極めて順調に最終キャンプ C 3 ︵1︶ を設営、登頂 に備えベースキャンプ ︵2︶ に戻り英気を養って、頂上アタックに 向かった。しかし C2 まで登ったとき天候が急変し猛烈なブ リザード ︵3︶ に襲われて登頂を断念、撤退を余儀なくされた。 第五次の派遣は平成十九年夏、本協議会が創立以来今日ま で積み重ねてきた登山活動の実績を礎に本協議会の総力を結 集してカラコルムのマッシャーブル︵七八二一メートル︶に 派遣することを決定したのである。 私は第二次と第五次の実行委員長を務めた。特に今回は隊 員の一人として参加する予定だったので総隊長をも引き受け ることにした。従って二年前の計画発起から意欲的に体力づ くりなどのトレーニングに励み遠征に備えた。ところがその ことでオーバーワークとなり、今年の春健康診断を受けた結 果医師から秘境の山岳へ行くのはいかがなものかと言われた。マッシャーブルム登山遠征について
赤
徹
ȽȽȁijĹȁȽȽ 夢にまで見、楽しみに心躍らせていたのに残念至極であった が健康上の理由から参加を辞退した。 この稿はその遠征の活動状況をまとめたものである。
マッシャーブルムという山
マッシャーブルムはパキスタン国バルテイスタン地方 、 レッサーカラコルムの最高峰、マッシャーブルム山脈のマッ シャーブルム山群。 K 2 ︵世界第二位の高峰︶の南西三十二 キロメートル。標高は北東峰七八二一メートル、南西峰七八 〇六メートル。バルトロ氷河左岸のマンドゥ氷河、イェルマ ネンド氷河とフーシェ谷源頭に聳える双頭の独立峰である 。 一八九七年インド測量局によって測量され、カラカルムの頭 文字と測量番号の 1 を とって K 1 と 命名された。山名はサン スクリット語で最後の審判日の峰というが、黒い山の意とも いわれる。またマッシャーを貴婦人または女王の意だという。 登頂記録には一九六〇年アメリカ ・パキスタン合同隊 の初登頂以来 、日本人としては一九八三年京都岳人クラ ブ、一九八五年関西カラコルム登山隊のみである。 世界の山岳や登山技術について調査研究し本邦登山界に多 大な貢献をしている日本ヒマラヤ協会理事長山森欣一氏に本 協議会がマッシャーブルムに登山隊を派遣することになった と話をした。氏は言下に赤塚さん高所遠足 ︵4︶ とは違う厳しい山 であるから心して取り組むようにとのアドバイスを受けた。 広義のヒマラヤ山脈のなかでもこのマッシャーブルムは標 マッシャーブルム附近概念図ȽȽȁijĺȁȽȽ 高において八〇〇〇メートルに満たないが、多くの装備を担 ぎ上げ独自にルートを切り開き、雪崩などの危険と接しなが ら頂上を目指すのである。それゆえにヒマラヤの高峰を目指 す登山家にとっては魅力に満ちた人跡の極めて少ない秀峰と 言える。世界各国の実力ある登山隊が挑戦し、なかなか登頂 させてもらえない登頂難度の高い山である。
計画の概要
一、登山隊の名称 栃木県南地区山岳協議会 マッシャーブルム登山隊二〇〇七 二、主 催 栃木県南地区山岳協議会 三、目 的 マッシャーブルム北東峰︵七八二一メー トル︶東南壁ルートからの登頂 四、隊の構成 総 隊 長 赤 徹 登山隊長 粂川 章 登 山 隊 隊長以下四名 トレッキング隊 田中孝介隊長以下十名 五、期 間 平成十九年六月八日∼八月三日 登山隊日程 六月 八日 成田∼イスラマバード 九日 ブリーフィング ︵5︶ 十一日 イスラマバード∼チラス 十二日 チラス∼スカルド 十四日 スカルド∼フーシェ 十八日 キャラバンスタート 十九日 ベースキャンプ地 二十日 ベースキャンプ設営 二十一日 登山活動開始・セラック氷河 ルート工作 七月 二日 A B C キャンプ設営 七日 C1 設 営 十一日 C2 設営 十五日 アタック活動開始 二十四日 登山活動終了 二十六日 ベースキャンプ撤収∼フーシェ 二十八日 スカルド∼イスラマバード 八月 三日 イスラマバード∼成田 トレッキング隊日程 トレック Ⅰ 隊員六名 六月 三日 成田∼イスラマバード 二十日 マッシャーブルムベースキャンプ 二十八日 ナンガパルバットベースキャンプ 三十日 ラカポシ・ディランベースキャンプ 七月 二日 カリマバード∼イスラマバード 六日 イスラマバード∼成田 トレック Ⅱ 隊員四名 七月 十六日 成田∼イスラマバード 二十二日 マッシャーブルムベースャンプȽȽȁĴıȁȽȽ 二十八日 ナンガパルバットベースキャンプ 八月 一日 チラス∼イスラマバード 三日 イスラマバード∼成田 六、後援団体 栃木県山岳連盟 栃木市体育協会 下野新聞社 株式会社とちぎテレビ 栃木ケーブルテレビ 七、登山隊装備 共同装備 幕営用具 テント九張、コッヘル ︵6︶ 三台、ガスコン ロ四台、他二一品目 登攀用具 メ イ ン ロ ー プ 三本 、フ イ ッ クス ロ ー プ ︵7︶ 七〇 本︵ 長さ五〇メートル︶ 、スノーバー ︵8︶ 五〇 本、 アイススクリュー ︵9︶ 一〇本、 アイスバ イル二本、 カラビナ二五個、 他 一〇品目 通信機器 トランシーバー三台、衛星携帯電話一 台、充電用ソーラーパネル一台、携帯 ラジオ一台 食 糧 ベースキャンプの食事はすべてパキス タン人のコックが調理してくれる。 上部キャンプ食 ︵A B C キャンプ ・ C 1 ︶ 主食 インスタントラーメン八〇 食 、 ア ルファー白米四〇食、アルファー五目 御飯四〇食、パスタ他六品目 行動食 カロリーメイト、ソイジョイ、 アミノバリュー、ポカリスエット、ゼ リー、チーズ、ソーセージ、のど飴他 一二種類 医療薬品 医療機器 緊急用酸素ボンベ三本、 携帯 用パルスオキシメータ三台 、 体 温計等 薬品 高山病症状用剤 、消化器症状用 剤、皮膚症状用剤、口内症状用剤、抗 生剤、目薬、風邪薬等三二種類 個人装備は省略 総重量 一六〇〇キログラム ︵トレッキング隊は個人装備なので省略︶ 八、登山隊員 隊長 粂川 章︵五五歳︶ 渉外・会計担当 隊員 大内 一成︵六五歳︶ 総務・食料担当 隊員 片柳 紀雄︵五八歳︶ 装備・梱包・輸送・医療担当 隊員 佐久間利美︵五三歳︶ 記録・通信・気象担当 隊員の構成は比較的高齢であるが国内の難度の高い山岳登 山は勿論バリエーションルートの登攀︵冬季初登攀の記録保 持者もいる︶そして全員が国外の八〇〇〇メートル峰あるい は七〇〇〇メートル峰登頂を経験している本協議会屈指の精 鋭である。
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登山活動の実際
粂川章登山隊長の記録をまとめたものである。 六月八日 晴 二時間遅れの午後四時、大勢の山仲間に見送られパキスタ ン航空 PI A八五三便、北京経由イスラマバード行きで成田 を出国 。機内荷物の預け重量は一般乗客が二十キログラム なのに登山隊は五十キログラムまで認められ得をした感じで あった。インド上空を飛べばイスラマバードに早く着くのだ が、インドとパキスタンはカシミール紛争で対峙している関 係から殆ど中国上空をフライトした。イスラマバード空港に は八日の午後十時過ぎに着いた。空港内は夜間ということも あって人影はまばらで閑散としていた。ザックを受け取り宿 泊先のゲストハウスに直行した。 六月九日∼十二日 晴 パキスタンとりわけイスラマバードで一番暑い時期は五 月・六月で日中晴れると摂氏四五度くらいになるのが普通で まさに炎熱地獄である。タクシーはエアコンが付いていない のに日中でも窓を閉めて走る。空けておくと熱風で息がつけ ないとのことである。走っている車のおよそ九十パーセント は日本製の中古車だ。六年前に来たときよりも車の台数がふ えていた。 ここイスラマバードの滞在は経費削減のためホテルに泊ま らず廉価のゲストハウスにした。朝食は近くの売店でチャパ マッシャーブルム山容ȽȽȁĴijȁȽȽ ティ・ジャム・ミネラルウォータなどを買ってきて済ませた。 チャパティは四枚で十八ルピー︵約二円︶ 、ジャム七十ルピー、 ミネラルウォータ︵一 ・ 五 リットル︶二十五ルピーであった。 イスラム教のパキスタンでは男性の姿ばかりが目立ち女性は あまり見かけない。 滞在の二日間は登山装備の確認、特に医療用の酸素ボンベ、 マスク、付属部品を入念に点検した。十一日はレスキューヘ リコプターの申請にパキスタン軍の事務所に行き事故、病気 など緊急のとき直ぐ出動してくれるよう依頼する。 六月十二日∼十三日 晴 政 府 観 光 省 とパキスタン山 岳 会 で ブリーフイングを受 け 、入 山準備が整い午前十時三十分、スカルドを目指しジープ三台 を連ねて出発。道路はインダス川に沿って、カラコルムハイ ウエーを行く。川の流れは速く水は濁っていた。この道路は 中国の資金援助で整備されたものであるが、近年老朽化が進 み舗装路面のあちこちに穴が開いていて、運転手もハンドル 操作が大変難しく気の休まる時がない。出発が遅れたことも あってスカルドまで行けず午後十時三十分、 ダ ッソーに着く。 宿泊は地元の人が利用するインダス川沿いの安宿であった。 六月十三日∼十五日 晴︵十四日午後雷雨︶ インダス川沿いの側壁に作られた道路を上り詰めると突 然草木のない荒涼とした広大な平地が広がる。そこがスカル ド︵二五〇〇メートル︶でカシミール地方の中核都市である。 軍の基地、民間空港、大学、病院などもありカラコルム山脈 を目指す登山隊の最終準備基地にもなっている。私たちのホ テル・コンコルディアはインダス川を見渡せる地点にあり昼 間は晴れると暑いが夜は涼しく快適であった。日本に郵送す るハガキは自分たちで郵便局に持って行き直接局員に手渡す。 現地の人に頼むとかあるいはポストに入れた場合、日本に届 かないこともあるから要注意である。 六月十五日∼十七日 雨時々曇り 午前六時四十五分、 最奥の村フーシェ ︵三五〇〇メートル︶ を目指し出発 。ここからは道路がさらに悪くなる 。途中の マチュールに午前九時三十分着。この村で三時間ほどのんび り休憩してその間昼食を摂る。麦畑が点在し収穫前のアプリ コットがたわわに実をつけていた。二〇〇一年のガッシャーブ ルム Ⅱ 峰登山遠征の帰途一泊した懐かしい場所でもある。そ の時お世話になったハイポーター・オラム・フセインは登山 学校を兼ねたゲストハウスを経営している。残念ながら本人 は仕事で不在のため会えなかった。フーシェは一時間後の午 後一時三十分に着いた。晴れていればマッシャーブルムの頂 上が望めるはずだが、天気が下り坂になっていて見えなかっ た。パキスタンの市街地ではほとんど男性の姿ばかりで女性 を見かけることは稀であったが、フーシェなどの農村では女 性・子供が麦畑の草取りや用水路の水管理、薪集めなどの仕 事をしている。 男性は登山隊の使役 ︵ローポーター︶ などで家 を空けることが多い、家に居るときは仲間同士が集まってタ バコをふかして寛いでいる。ここから先の宿泊はすべてテン
ȽȽȁĴĴȁȽȽ 守などを指導するのである。 ベースキャンプは通常の地点より一〇〇メートル高い標高 四二〇〇メートルの氷河上に岩石砂などが堆積していて、氷 が見えない場所いわゆるモレーンに設営した。マッシャーブ ルムの頂上が見え、最初の難関であるセラック氷河を正面に 見据えて、その後の登山活動に最適な場所であった。ベース キャンプは高度の影響を受けず、厳しい登攀活動を行なうた めの充分な休養ができる場所でなければならない。またキャ ンプに居る隊員がいつもプリズム双眼鏡で仲間の動きを見守 りルート の偵察を す る こ と が できる位置でもなければならな い 。 六月十九日 晴 午前八時、ベースキャンプ開きを兼ねた祈願祭を執り行っ た。岩石を小高く積み上げ中央の高いところにポールを立て、 日本・パキスタン両国旗と登山隊旗を掲揚、正面に神酒︵日 本酒天鷹・心︶菓子など供えて祭壇を設えた。最初にイスラ ム教方式の祈願をパキスタン人のキッチンボーイが執り行っ た。そのあと大内一成隊員が般若心経で登山活動中の隊員の 安全無事と登頂を祈願した。カラコルムの空は限りなく青く 澄みへんぽんと翻る両国国旗は、これから展開する登山活動 の前途を祝福するかのようであった。 ベースキャンプの食事は現地で雇ったコック通称キッチン ボーイの作ったパキスタン料理を食べる 。主にチャパティ 、 ダルカレー、玉子焼き、チキンスープ、イスラム教なので豚 肉はない。時々日本風料理、焼きそば、インスタントラーメ トを利用する。いよいよ山での生活が始まったなと実感する。 六月十七日∼十八日 晴︵十八日晴のち雪︶ ベースキャンプへはフーシェから二日間のキャラバンであ る。ポーター六〇人を雇った。ポーター組合の協定で決まっ ている一人当たり二十五キログラムの隊荷を背負うが、彼ら は富士山の頂上と同じ高度で生活しているので強靭な心肺機 能と足腰をしている。高度順応の出来ていない私たち登山隊 は空身でも彼らの歩行にはついていけず 置いていかれて しまう。ベース キャンプからは ハイポーター二 人を雇った。 パキスタンの 登山︵標高六〇 〇〇メートル以 上の高山︶には 同国の法律に基 づいてリエゾン オフィサー︵連 絡将校︶を同行 させねばならな い。ベースキャ ンプに駐在して 登山隊の法令遵 ベースキャンプ地