性 の問題」 : 日本神話における天上の統治権と 先住性の相貌
著者 ロシェ アラン, ローベル ロラン[翻訳]
出版者 法政大学国際日本学研究所
雑誌名 国際日本学
巻 11
ページ 171‑191
発行年 2014‑03‑31
URL http://doi.org/10.15002/00022470
アラン・ロシェ
(翻訳:ロラン・ローベル)
はじめに
もはや神話(1)に対して、一般的な人間、または神話を生み出した文化のア イデンティティについての根本的真実を明らかにすることをだれも要求して いない(とはいえ、神話の中に文化的特徴の偶発的な跡を拾い集めるという慎 重な試みが不当というわけではない。それらは「間接的に意味する」徴を常に 残しているのだから)(2)。今日では、神話の水平線上に、19 世紀になってか らしか出現せず、それまで知られていなかった気がかりに形を与える観念や問 題を投影することは誤りであることで意見が一致している(3)。しかし、神話に アイデンティティに関する不安を結び付けるというのはあながち時代錯誤で はない。それは「知性の体制」に哲学的(あるいはイデオロジー的)目的の ようなものを付与して、その「知性の体制」を逆の意味で解釈することに還 元される。実際、神話は観念を持たない(神話は観念の前に存在する)。神話は、
様々な用途を持つ母胎を提案することにとどまる(4)。しかし、神話が考えない にしても、考える対象を与えないのではなくて、その点について、国学者は 繰り返されているほどに純朴ではない。本居はそういう神話的な理性の撞着 を完全に意識していた。一方で、それは思考を養い、解釈学的な作業を喚起 しうる明確な観念を一つも提供することがない(5)。しかし他方では、それらの 様相は、それなりに、思想が展開しうる主張あるいは枠組である。今日、我々 の関心を集める先住性の問題は、そういった困難を凝縮している(6)。
日本神話における天上の統治権と
先住性の相貌
先住性について、日本の神話(7)から教わることが何かあるかということを 問うのは適切であろうか。あるいは、その問題をもっと詳しく表現すると、天 の君主という外住性の極端な形式に明白に基づいた認知の体系は、先住性にど のような機能を付与することができるのだろうか(8)。太陽の女神の孫の地上へ の降臨の物語が見せる絶対的異場性は、本来消されるべきものであるからと、
先住性を沈黙、あるいは無意味さに処すのではないだろうか? それでは、日 本書紀の君主が型どおりの文句「あらぶるひとどもをやすみしし、まつろわ ぬをうつ」を与えたプログラムの象徴の乏しさを甘受しなければならないの だろうか。
神話のシナリオは幸いにして、このつまらない軍事的曲言より複雑である。
確かに、先住性は帝国の建設のドラマに端役を演じるにとどまらず、それに 参加して、そのスキャンダルを明かすのである。なぜなら、先住性は象徴的 操作の強烈な作業の中心であるのだから。これからそのいくつかの代表的な 例を挙げようとしよう。
しかし、先住性の形態を提案する前に、神話学者はいくつかの誘惑に抵抗 しなければならない。
a)土蜘蛛、熊襲、隼人、蝦夷などの仮面の裏に、20 世紀初期の考古学者が物 語を字義通りに解釈して「天孫族」と呼んでいた征服者の一族に先立つ実在の 民族を求めるというエウエメロス風な読み方(9)。神話が「原初」の人々の間接 的な足跡を残さなかったというわけではないが(慎重な民族史は記紀の物語 に断片的な情報を要求しかねない)、「神話の再形相」は考古学の反映ではない。
それは、象徴上の問題に答える以上、その相対的な独自性において取り組ま れなければならない(10)。
b)起源の「小説」。テクストの知的な層の下に、政治的な再成立の前の本当 の日本的な世界観を反映しているであろう古代的な層を掘り出そうとするの は、魅力的でありながらも危険な企てである(11)。新しい宗教的政治的言説の 中でリサイクルされた古代的な要素は、その「形式」を保有する場合も時折あ
るが、その最初の声は失われている(12)。それに屈してしまう研究者(民俗学者、
人類学者、歴史家)においては、起源のノスタルジーはしばしば(支配者族 の王制伝統に結び付けられた)空間についての縦の見方と(国家成立に先立つ)
横の見方との対立の形をとる(13)。
c)支配の「小説」。権力が直接に支配される者に行使されて、そして宗教的な 術策(君主の天上の起源という現実を信じさせようとする)を弄してその支 配を永続させようとすると主張するのは、国の建設の神話という「象徴的制度」
を誤解し、それが本来持っていない純朴さを与えることに還元される(14)。
先住性の形態
古事記、日本書紀、風土記は、明らかに同じ表象体制に属していなくても、
我々の物語のメタファーの装置によって大地と起源の徴において位置づけら れると思われる、存在の異質な人間の集団を描写している(15)。これらの近似 的であっても先住性という言葉の使用に根拠を与える特徴には、しばしば、厳 密に結びついている二つの特質が加えられる。すなわち原始的な荒々しさと 共同性である(16)。文章をゆがめずに、仮に、そのような「原初なるもの」を、
スカラー階層に組み込むことができる。以下にその段階を簡単に紹介したい と思う。
1)人跡未踏の大自然。言葉を話すことのできる岩、草、木々は、危機の際に、
不服従の最も根本的な段階を表象している。彼らの突然の表明は、カオスの動 因であるより、秩序の危機の症状である。名前と機能的な輪郭のない、悪意 のある神々(彼らが神と呼ばれるのはまれである)は、「さばえなす」という 枕詞と結びつけられていて、威嚇的な群れのように唸る。スサノオの暴力が 引き起こした悪い精霊の増加、主権の移譲の前の豊葦原中国に生じる喧騒は、
その内在の反抗の最も有名な出現である(17)。
2)最初のカテゴリーよりもっと明確な属性に飾られた、敵意を持った存在の
階級は、坂、海峡、水流の神によって形成されている。空間の境と戦略的な自 然の場所の支配者である、それらの神々は、物的な暴力より魔法の暴力に訴 えながらその土地を侵す人々を襲うか、また時には彼らの移動を妨げることに とどまる。最初の遠征の後、ヤマトタケルの帰京の折は、そうした悪意ある神々 を屈服させる行為が目立つ(18)。
3)原始的な怪物(竜、蛇、鰐、熊、鹿、猪など)は彼らが支配し、また特徴 を共有している領地の自然の発展形であるように見える(ヤタノヲロチは背 が杉に覆われた竜-山である)(19)。怪物は、土地(あるいは海)にまだ「くっ ついていて」、自立していない。それは、自分が結び付けられる領地を支配す る神の使者の地位を持つこともできる(たとえば息吹山の猪の場合である)。
その「動物」のいくつかは、天上の民と(経済的に、夫婦財産性的に、または 軍事的に)交流する集団を形容するのに役立つ類素として機能していること を認識しよう(20)。怪物性はシニフィアンまたはメタファーに過ぎないが、そ れが出現するということだけでも、より古い表象的な価値を含むのである。
4)動物の特質を持った人間。土蜘蛛(21)、熊襲(22)、隼人(23)、蝦夷(24)、そして 他の猟奇では、足名椎と手名椎、あるいは棹根津日子(25)は、自然との区別が よりはっきりした段階を表している。すなわち、物理的連続体は一つの位相 的連続体のために断絶されている(ここで、4 つの類似性の論理についてのフー コーの美しい分析を思う)(26)。土蜘蛛は地中から出て、熊襲は洞穴に暮らし ているなど。時には、動物性の徴は単なる韓愈に帰し得る(尻尾、体毛、四 肢の欠如はそれだけで奇形の軽減された形相である)。
5)境界の野蛮人。この見解は前のカテゴリーの、中国風の再構成でしかない ように思われる。そういう周辺の野蛮人のシンボル(身体的徴、色と場所)が 中国の相関的形態(陰陽五行思想)の体系で記号化されたと多くの日本人の 専門家は指摘した。蝦夷の場合は、鱗、黒色(あるいは青黒)、そして北(あ るいは北東)であって、隼人の場合は、羽、赤色、そして南であって、熊襲 の場合は体毛と西である(27)。しかし、中国が(編年史の最後に付けられた案
内記の中で、または山海経のような奇妙なものの百科事典の中で)その周辺 的野蛮性の見解を位相的に形成した(28)のに対し、日本はそれを物語風に形成 している。景行天皇がヤマトタケルに命じた任務命令における蝦夷の習慣の 描写はおそらくその野蛮の「発明」の最も詳細な事例である(29)。
6)時には土地の支配者(ぬし、あるじ)として定められた国の神は、怪物の 力と天の神の主権の間にある支配の形を表象している(30)。彼らの力は、神話 の中で、先住性や水平上の外住性(彼らは地上の他の地方から来ることがで きる)という観点で解釈されている。この階級はある場合に、我々の図の二 の範疇あるいは三の範疇を包含することができる。この範疇を歴史化するか しないかに応じて、私たちのテクストは時に、国の神を大化以前の制度にお ける地方の歴史的な支配者に接近させることができる。ヤマトタケルの東征 武勲詩は、非常に細かい政治的行政的用語を使って、相武地方の造の術策の ことをほのめかしている。このエピソードは、地方官吏人と土地の乱暴な神々 との間の秘密の類似を意味しているようだ(31)。
7)反抗している先住民、悪党は、先住性の非神聖化された段階を表している。
そして、彼らを形容するために日本書紀で使われている語彙は魔法的宗教的 な次元の喪失を立証している。あた(「敵」「賊」「虜」という漢字を読むため に)は最も一般的である(32)。不服従の語彙の律法主義の傾向にもかかわらず、
不服従者の行動が初段階の奇形学を思わせる言葉を用いて描写されることは 稀ではない。
その恣意性を隠すつもりのない類素に基づいたこの簡単な表は、一連の指 摘を呼び起こす。私たちが提案した簡単な位相はもちろん神話は時に範疇を 混乱させるように思われるからこそ、参考程度の価値しか持っていない。私 たちの物語の中で、「荒ぶる神」または「荒ぶる人ども」といった描写的であ るより公理的な用語は、紹介したいくつかの段階に適用され得る。先住性は明 白に意味を持ち、ほとんど民族名に適用されうるが、他の文脈においては他 者性の奇形学と結合されたメタファーに過ぎないこともある。騒々しさ、喧騒、
共有的な反応は起源性の徴に見える。要するに、ある特徴は同時にタイプとメ タタイプとして機能している。また、テクストの中で名づけられた存在群が 一つだけで出現するのは稀である。それらは関連付けられているだけでなく、
異なる結合の制度に通じている。隼人と蝦夷は、歴史時代にまで、しばしば共 に引き合いに出され、彼らは二つのよく似た(地理的には対称である)服従さ せるべき先住性を表象している。しかし、遠くのもので最も興味深い対は種を 越えた結合にもとづくものだろう。文明をもたらす英雄は、同時に不服従の野 蛮人と荒々しい神々を屈服させ、それは平定が神学的かつ政治的な企てであ ることを暗示する。妻の弟橘の死去の少し後に、ヤマトタケルは東へ旅を続け、
古事記によると「そこより入りいでまして、ことごと荒ぶる蝦夷どもをこと むけ、また山方の荒ぶる神どもをやわして…」とある(33)。
さて、あらゆる先住性の象徴的な俳優は天上の英雄の単なる引立て役では ない。それらは、天上の主権が直面する独自の問題を立て、解決しようとす る複雑なシナリオに積極的に参加している。
主権の舞台空間における先住性の用途
我々の神話における「先住民」の役割とは何だろうか。物語の組織における それらの象徴的な用途は、それ自体の起源とは無関係に扱われることが可能で あり、また必要である。いくつかの基本的な動詞を使って、天の主権が先住性 に割り当てる「用途」を要約することができる。すなわち否定する、動物化する、
服従させる、話させる、遊ばせる、利用する、属性の交換を課す(34)。
その強制のない(物語論的には簡単な)単純な形において、統治権の神話は 様々な方法で先住性を「自由に使う」ことができる。私たちのテクストの冒 頭が含む連続する集積現象は、博識な編者が、存在者の最初の出現、島の創造、
皇室の祖先である偉大な神々の誕生の間に連続性のあるつながりを設けるた めに発出論的な宇宙開闢説を築こうとしたことを思わせる(35)。大地の民の逸 話的な先行性は、このようにしてより原理的な先行性によって無効にされる。
おそらく私たちの物語の明白にまたは文字通りに唯一の先住主義的な形であ
る、この博学なる構築は、日本の神話が一般的に外住主義的な方法を利用す ることを隠すに足りない。統治権は他の場所(天、南、東、中心など)からやっ て来て、それは、他の場所から来たという点を援用することで、他の過程を 経ることなく服従させるものを圧することができる。しかし、神話はそうい う容易な解決策だけにとどまらない。支配の仕組みを維持するためには、打 ち負かされたもの、あるいは支配されるものは、死んでいるより生きている 方がより有益なのである。
古事記と日本書紀が、部分的にでも、政治的な合理性の最も際立つようなエ ピソードにおいても、神話という形容に値するのならば(36)、それはまさにそ れらが服従の弁証法のあらゆる可能性を展開する物語の装置を「こしらえる」
からであって、また、支配の二項的規範が示唆するものより、ずっと複雑な 方法でなしているからである。特に示唆的ないくつかの構図のみ取り上げる ことにしよう。
1.支配の演出と言語化
権威は、暴力の論理に留まるのなら、その力量の証明を無限に示さなけれ ばならない(また繰り返して自らを危険にさらさなければならない)。ところ で、私たちのエピソードはより(象徴的に)豊かな支配の方式化を示唆する。
すなわち支配される者には自由の喪失の基礎をなす行為を再演すること、ある いはその服従を「言う」ことを強制する、降伏の儀礼化が課される(37)。第一 の場合は、火照の後裔である隼人によって演じられる臣下の徴によく例証さ れる。彼らが自分の祖先の原初的溺死を模倣しようと、または厳粛な行列の 際に吠え声を発しようと、支配される者は、文字通り、そして真剣にかつて の傲慢を倒置する社会の機能を演じながら(彼らは今や朝廷と主権者の警護 役である)、比喩的にまたは滑稽的に自分の自由の喪失を呼び起こす。神話は、
時には、一人の隼人に、自分の集団が背負う地位的な呪いから逃れられるこ とを約束するふり0 0 0 0 0 0をすることはできるが、それは、そういう約束の虚偽性と 非常識さをよりよく確認するためである。不忠な兄弟を殺すために(血縁の
皇子の殺人の汚れを避けるために)曾婆加里は利用され、彼に約束された社 会的出世を妨げるために正式の手続きを踏まずに処刑されるという履中記の エピソードの機能はそのようなものであると思われる。
更に、この虚偽の解放の演出は、政治的決疑論の問題を解決するための中 国の倫理的範疇の最初の明白な使用と一致しているすなわち信(まこと)と 位階制の義務(ぎ)との対比こそが問題になっている。半文明化された手下 のアイデンティティが、良心の問題の形式上の解決を促進したということに は疑問の余地はないが、南方の野蛮人の運命が道徳の面で考慮に入るのは指 摘するべき点として残る(38)。
2.竜退治
竜退治は私たちの神話においては、単なる置替え(自然を文化、地上の価値 を天上の儀式が代用)の装置より遥かに複雑である(39)。ヤマタノヲロチの殺 害は、天上の統治権にとって印として使用される神器がある種の実体変化を なしているという前提にある以上、シナリオは三項系の論理を活用している。
荒々しくて異常な力(蛇の尾)は、それを元の体から引き抜いた英雄によって 明かされた時に、武器になるが、武器は次に昇華され(天上に送られて)、象 徴になる(40)。各階級には、それぞれに見合った活動者(蛇、スサノヲ、アマ テラス)、または独特の力の形式(暴力、悪賢い技法、統治権)がある。竜退 治は、「脱化物」とでも呼びたい。
より一般的な仕組みの変形として現れる。スサノヲが文化的な英雄となるの は、世界中に混乱の種を蒔き、厄介者を演じた後のことであるそして、出雲で、
彼は自分の闇の部分を少し失った。天照自身は、曖昧な部分の切除を受けた 後にのみ、新しい統治権(自分の孫を取り囲む族長たちの列を地上に向かっ て放つという力をもって)の象徴となった。
天上の出会いのシーンは彼女を実際に男(武器と挑発の声)の属性で飾られ た戦士風の女神として描写している。ところで、天の洞窟における彼女の象徴 的な死の後、閉ざされた門の前で行われた鎮魂の儀式のおかげで蘇った天照 は、原初の両性具有の女神ではなくなり、自身の半分となっているのである(41)。
3.宗教的政治的な契約
このシナリオは、国譲りのエピソードにおいてその最も完全な形式で現れ る。すなわち、国の神々(この場合は大国主の神)によってなされる現実の権 力の喪失は、目に見えない世界の支配という慰めの報いによって購われている
(42)。 宗教の原因学として解釈できるその神話は、政治と神学の間の類似の関 係を仮定するだけでなく(かつての権力をゆずる神は、要求する宮殿は王の宮 殿に類似しなければならないと明言する)、原初の契約の忘却のせいで起こる 統治権の危機を予め説明することで物語の続きを用意している。得るべき崇拝 を受けていない神々は、多様な災害を引き起こして復讐する。ホムチワケの神 話(43)、崇神天皇の最初の不運(44)はこの仕掛けを裏付けし、そして我々に抑圧 されたものの回帰がたいてい出雲と結び付けられていることを思い出させる。
4.結婚による属性の交換
結婚による属性の交換とその部分的な失敗は、天とある自然の次元(地あ るいは海)との同盟を築くことと、統治権の制限(不連続性と継承の不可避 性とそれが孕むあらゆる危機)を説明することを同時に可能にする。契約的 な対句変換法は、地上の支配が本体的特質(不死あるいは肥沃さ)の喪失で 払われている以上、一つの不均衡に基づいている(45)。
5.少子相続権と英雄の弁証法
頻繁に出てくるシナリオは、世代的先行性のもとに権力の簒奪、あるいはそ れに対する執着の容疑をかけられた年上の兄弟(あるいは異母兄弟)を罰す る能力が長兄皇子に欠如していることを理由に、年下の皇子の優先性を正当 化する(46)。その二重筋立ては、年上の皇子たちを現実の権力の外へ追い出す ことを可能にするそして、不能の王子は宗教的な機能に帰せられ、そして謀 反者の異母兄弟は自然と死に帰せらせられる。こういうタイプのシナリオは 先住性のテーマから遥か遠くにあると私たちに反論する人々に、私たちは神
話において長子性は原住民性の頻繁なメタファーであると答えよう。隼人は、
海の世界の旅の帰途に、弟に負かされた火の年上の皇子の子孫ではないだろ うか。
結論
他性の神話的な演出は、もっともらしい現実を倒置するように見えるすな わち人類学者と考古学者が弥生以前に列島を占拠していた民族が(かつて言 われていたように全滅されたのではなく)おそらく同化されただろうという 考えをますます確信しているにもかかわらず、想像的なものは文化の物事を 自然の物事に、または交流を分化に変化させて、それらの間にいくつかの明 白な線を引いている。それらのうちに「保存された」ものは、権力の再現示 化という演劇に還元された。
日本の外住性の逆説。まさに先住性が天上の統治権の象徴的な構造であるか らこそ、天の統治権は先住性を必要とするのである。それはその関係において、
すなわち反発にさらされている契約の体系において想像的に構成される。
神話的統治権は単なる支配を意味するのではない。権力の権力として、それ は暴力と法の抽象性の間に位置づけられている儀礼的な形式化に基づく。法論 的理性の象形的な段階であって、それは儀礼的なシナリオの反複を必要とし ている。単に大林が仮定した 3 要素からなる構造だけではない。そして、まず、
支配する「主体」(皇族)は反主体(他の族、あるいは他の皇室の継承)に対 して対立的に自らを構成し、次に国の主、それから国の神々、野蛮人、自然 の神々、そして最後に集団の精霊たちに対し同様のことを行う。
統治権の「言うこと」は統治者の天上の起源を現実に「信じさせる」とい う試みではない(錯覚のレトリックと神学的陰謀にとらわれている啓蒙主義 者たちの典型的な誤り)。それはむしろ、秘跡の遂行性に近い仕掛けに基づく のである(あのsigna quae efficiunt quod dicunt)(47)。この政治的儀礼的な発言
の遂行性の中心性は、神話研究において乱用されている「正当化」という概 念の弱さを対照的に目立たせる。
統治権の二つの瞬間(脱化物と国の主の主権剝奪)は、犠牲になる者たち に暴力の投影と、そしてその反動で抑圧されたものの回帰(たたり)を要求し、
その回帰が今度はそれが儀礼的理性の最終的な盛り上がりによって厄除けの 手順を洗練させることをも可能にしていくのである。
引用文献・参考文献
NKBT:日本古典文学大系(岩波)
NST:日本思想体系(岩波)
1. 「神話」という言葉を単数形の名詞として使用しているのは、主に慣例によるもの である。記号論と物語論の流行の退潮以降、神話が形式的に定義しやすい物語の種 類でなく、また神話の科学の生成という大きいプロジェクトがその約束より質素な 結果を生んだことを認めるのはありきたりのことになっている。
デチエンヌが述べていたように、「神話は見つけられないジャンルである」(デチエ ンヌ、1981:12)。「神話の科学は、カシラーからレヴィ=ストロースまで、『その 対象』を定義することができず、しかもそれには正当な理由がある」(ibid.)。その 千変万化の性格を認めて、そして異なるデイスクールの中にその伝播の結果を引き 出すことの方がより慎重である(また神話の性質により忠実である)。「神話は固有 名と叙事詩、ことわざと神統記、寓話と系譜の間でばらばらになってはいないだろ うか?ミュトスの宿る神話学は様々な言語使用域で述べられることが、言語が選ん だものを忘れ難いものに変換する繰り返しに左右される開かれた領域である(op.
cit. p.236)。従って、私たちは神話を過程として考える方がより正確であると信じて、
その調査の終わりにレヴィ=ストロースが概略を描いた「神話性」の観念の利用を 提案する(レヴィ=ストロース、1971)。この用語に頼ることは当然、物語論的形 式主義の止揚を意味している。神話主義の中に言語の文化における記憶性の主要な 現象を認めることは、神話を文学ジャンルあるいは定まった物語の一タイプとして 除外することである(デチエンヌ、loc.cit.)。
2. (ドイツのロマン派によって精錬された)民族精神あるいは(グミリョフにとって 貴重な)生命力という古い観念は今日、真剣な擁護者を得るためにあまりにも本質 主義が強調されているだけでなく、神話が民族や文化のアイデンティティの優れた 媒介者であることも、もう信じられていないのである。この点に関して、文学の多 様なジャンル(散文に関しては平安の物語、詩に関しては和歌)の中に文化的(あ るいは心理的)特徴の跡を探求し、そして形而上学より美学に熱中していた国学者 の明晰さを思い出そう。『古事記伝』の著者自身が常にhomo lyricus(抒情的人間)
であることを自認していた。一方、神話性が、その一般的な論理(統辞論そしてテー マ論)において、普遍的な特徴を持っているが、それが局地的に機能し、または独 特な意味の効果を生み出すということに変わりはない。イザナキとイザナミの神話 は、汎アジアの典型的な意味(原初の大洪水+兄妹間の近親相姦)と、特殊な意味
(日本の神話においては、ヒルコの失敗に終わった出産とスキャンダルの起源にあ
るのは、女性の主導性である)を持っている。ベンヴェニストの「意味」と「意義」
の対立を借りて、神話の意味論の(一般的/特殊的・文脈上の)二つの面を指し示 すことができる。
3. アイデンティティ化0 0 0 0 0 0 0 0 0の問題が神話(族あるいは同業組合の起源の物語、種属の特徴 の理由論)において頻繁に現れるとしたら、そのアイデンティティ化は単に差異の 標識として機能するのであって、決してアイデンティティの本質主義的な理解へ脱 線することはない。逆に、たとえば十九世紀のヨーロッパに生まれた、あるいは日 本文化論において日本で表現されたアイデンティティ思想は、4 つの特徴を持って いる。それは関係を中身の詰まった質として捉えて、それらを永遠にも似た非常に 長い時間性の中に内接させ、特徴の「一定の」体系の器質性を信じ、そしてその特 徴に(伝統的な水平線上にはない)「国家」という新しい枠を与える。アイデンティ ティの擁護者がほとんど意識することのない面白い逆説によって、共有的な主体と しての国家という概念は、並行的な発展を辿っている個人の観念のある特性(そし て欠陥)を借りることでしか成立されることも、豊かになることもできなかった。
4. 神話は二つの違う方法で考えさせる。一方では受動的に、すなわちそれは、どのよ うなイデオロギーによっても満たされうる空洞の物語の枠を提供している(アリス トテレスが『詩学』の中で「ミュトス」と名付けるものは我々が理解する「シナリオ」
というものに近い)。一方、能動的に、「根本的なもの」を述べて、また多様な領域 において訳しうる問題を展開しながら行うことができる。しかし、イデオロギーと 永続的に結合して、問題のない真実を例証しようとし、「信じさせる」という策略 に巻き込まれるがままであるとき、それはもう神話ではなく、黄金の伝説となる。
「修身」の近代的伝統における道徳的な強化目的のための神話の利用はこの脱線の 最も適切な例である。道具の位になり下がり、神話は二つの最も深い性格を失って しまうそして、創立のスキャンダルの意味と婉曲的な意味(神話は覆いながら見せ る)である。
5. 一方で、神話は自意的である(言っていること以外に何も言っておらず、そしてこ の点について、本居は、神話の哲学の講義の中で寓意的な解釈を批判するシェリン グと同調である)。他方、それは、最も抽象的な理論も避けられない根本的な構造 を演出している。
6. (たとえばギリシャの)反省的な先住性とは違って、外住民によって想像された投 影的な先住性は複雑な現象である。それは一方では、(ヘロドトスのスキタイのよ うに)他者性の対立的構造である。しかし他方では、自己の成立に厳密に結びつい ている内的な他者性でもある。支配される先住者は、自己のごく新鮮なアイデン ティティを補強または賛美するためにリサイクルされた名のない祖先であるか、あ るいは「消化された他者」である。
7. 「神話」という言葉の使用は日本の文脈においては当然疑わしい。西洋人が自然に 神話と呼ぶものを全力を尽くして復活させようとした国学者たちはそれらを指す ための特別な言葉を一度も作ろうともしなかった。古事記の「記」を読むために本 居に使われている「ふみ」という言葉は、あらゆるディスクール的な特質を拒絶す る見事な一般性を持っているのである。神話という学問的な言葉は、古代日本文化 の三つの中心に関するシャンベルランのエッセーの邦訳と高山樗牛の創設的な論 文と同時に表れた造語である(松本、1971:87)。この言葉の創造の遠いきっかけを、
馬場辰猪とテイラーの出会い、また 1876 年の王立人類学会における発表にまでさ かのぼるということは不可能ではない。概念としては、ひとまずその普遍性を仮定 すること(レヴィ=ストロースが暗示していた神話の神話としての直接的な認識)、
それを古事記と日本書紀が展開するシナリオの「類似」において、再発見すること はもちろん魅力的である。しかし、神話の再利用の(儀式的、政治的、または知識 的な)力学がそのいわゆる初めの形相の識別と同じぐらい大切であることを忘れて
しまう危険がある。
8. 津田左右吉から遠山美都男まで、古代史の歴史家は天上の統治権のテーマを(石母 田正の言葉を借りると)小帝国の成立の各段階と厳密に結び付ける傾向がある。そ れは(欽明天皇と天武天皇あるいはその未亡人であった持統天皇によってゆっくり と練り上げられて)比較的遅いフィクションの結果であり、天皇(すめらみこと)
という概念の結晶化のすぐ後に生起したとされている。しかし、我々はその結合を 受け入れなければならないというわけではない。物部は、(神武記の中で語られて いる饒速日の降臨が見せるように)皇室とは無関係に、自分の天孫降臨のバージョ ンを知っていただけでなく、多くのアジアの民族は族の祖先の天から降下の神話を 伝えていて(韓国、モンゴル語圏など)、そして天を、偉大な人々あるいは貴族の 祖国としているのである。帝国の成立は、王的なイデオロギーにすでにあった観念 に、新たな複雑さを与えるという結果になるだけである。
9. シャンベルランから松前健まで、日本の神話の起源についていくつかの違った源を 認識し、そうした源をいくつかの民族に結び付ける習慣が根を下ろしている。高山 樗牛は自身が「天孫民族」と呼ぶものにおいて、南海から来た征服民族のメタファー を見ている(松本、1971:98)。同じ論文にて、彼はまた西の国の先住民を指すた めに出雲民族という表現を使用している。ついでに、日本考古学の黎明期には二つ の次元の外住性(アイヌにとって代わった日本人の祖先)と、三つの次元の外住性
(モールスと坪井が主張したモデルによると、先アイヌ・アイヌ・日本人)との間 で長く迷っていたことを指摘しよう。
物語の人物と先史時代あるいは原始時代の民族との間に少なからず直接的な同等 性の確立(神話学と古人類学を融合することに還元されるのであるが)は、今日で もまだ見受けられる誘惑である。たとえば、現代の人類学者の筆によって、熊襲、
隼人、蝦夷を縄文人としてみなす明らかな傾向がある(埴原、1984:203)同じ人 類学者は大国主命という神を近畿の縄文人の子孫とするのをためらわない。
10.一つだけ例を挙げると、日本書紀の中で蝦夷と呼ばれている人々の現実を否定する ということは断じてあってはならない。彼らの「反抗」の描写は、彼らの存在を疑 うために、あまりにも十分詳細であるし、その記述は遠く平安時代にまでさかのぼ る。しかしそれらの民族は、物語において名づけられるやいなや、固有の性質を付 けられて、そして権力の舞台装置の中ではっきりした役割を演じることとなる。彼 らはすなわち、有名なヘロドトスのスキタイよりも明確に、イデオロギー的な人物
(野蛮のイメージ)になる(ハルトグ、『ヘロドトスの鏡』参照)。
11.8 世紀の初めに編纂されたテクストがより前に書かれたテクストと系譜に先行され ていると考えることのは当然である。古事記の序文における帝紀と本辞の言及、ま たは日本書紀の多数の異本(一書曰)は、それを証明するのに十分である。しかし、
「柱状採泥」を実行する地質学者のように、その最終の姿からテクストの様々な堆 積を再構成することができると思うのは、それは、編纂が、たとえそれが過去を入 念に保存しようとしているにも関わらず、徹底的にその素材を再組織する形態的な 体系であることを忘れるということである。
神話主義の特徴であるリサイクルのはたらきは、原初的な地層を不可視にする。原 初の状態を再構成するという意志は、他の断固たる見方を隠している。それは、神 話の歴史(そしてその再利用の過程)が必然的にある変性であるという考えである。
この姿勢は、時間の始まりに啓示されて、あらゆる神話の出発点になった伝統を想 像していた神智学者の原理主義を思い出させざるを得ない。
12.人類の起源神話(最初の子あるいは原初の神の解体のテーマを用いた)は雷と火の 起源についての物語に変化する(カグツチの父による解体)。死の起源神話(「悪い 選択」という普遍的なシナリオにもとづく)は、天皇の治世の短さ(と君主の短命)
の神話に変化する。この類の変化は「原義」の歪曲として解釈することはできない
だろう。なぜなら神話は原義をもたないのだから。
13.一つだけ例を挙げると、よく指摘されることとして、神武の大和への旅は垂直の空 間性(天から地上への降下)に従わず、水平面において展開された。何人かの神話 学者はさらに、神武とその兄弟の「海」の血統を強調した。それは皇族の純粋な る天上の血統に反する。しかし、大和の制圧のエピソードが密接に、そして決まっ て国譲りと天孫降臨の神話と結び付けられていることを忘れてはならない。天子 が進軍に行き詰まるという物語の決定的な瞬間において、知恵を授け(夢の中で)、
また天子自身が移動したくないときにタケミカヅチの魔法の剣を渡すのは天上の 神々なのである。物語の少し前の部分では、神武の兄が「土着民」の矢によって瀕 死の傷を負ってしまうのだが、その際、彼はその傷を自分の天上の起源の失念とし て説明する「太陽の女神の子孫が太陽に戦いを挑むのはよくない」。日本書紀のバー ジョンはさらにはっきりと述べられているといえる。というのも、天子自身が、長 髄彦の一味に対する初期の失敗の後、見掛け上の退却を実行する前に天上と地上の 神々を讃えることを提案するのだ。
14.啓蒙主義の合理論、あるいはまたときにはフォイアーバッハの哲学に根を下ろすこ の説は今日でも、ジャン・ギレーヌやジャン=ポール・ドゥムールなどの先史学者 の研究を単純化する通俗化のテクストに表れている。学術誌『科学と生の研究手帳』
の 124 号は、「神聖なるものの世界への神々の乱入」という表現を用いて、臆せず に神々と神殿の発明を青銅器時代と新石器時代の後期の間の変動の時期に帰して いる。新興の首長の権力は彼らの「他の者たちを彼らが神々と親近性があるのだ と納得させる」(2011 年 8-9 月、124 号、94 ページ)能力にかかっていたといえる。
マルク・オジェ、ダン・スパーバー、またその他多くの人類学者たちは、「信仰」は、
宗教の根本的な属性ではないと示した。ましてや、神学政治学であるこの使役の信 仰(自分の天上、あるいは神性の起源を信じさせること)は、恐らく相対化しなく てはならない現象である。
15.原地性は、空間に関するメタファー(そこに既にある)、血統に関するメタファー
(末っ子に対する長兄)、技術に関するメタファー(原住民は原始的な道具や実践に 関連付けられる)、個体地質学的なメタファー(原住民は地中、水中、木の中、あ るいは空気の中に生息する)、奇形学あるいは動物のメタファー(毛、うろこ、羽 など)といった様々な様相から推測されうるだろう。
16.これらの基本的な神々の集団共有の特徴は、彼らの名前(つまり個々の特徴)の欠 如に密接に結び付いている。数字の 80 は文中、頻繁に用いられ、これらの悪をな すものの集団を指す。大国主の 80 人の兄弟、神武の進軍に歯向かうシキの 80 の「悪 党」など。彼らは、「荒ぶる」と形容されていようがいまいが、しばしば暴力と関 連付けられ、それは服従することの拒絶の神話的メタファー以外のなにものでもな い。神学の婉曲化と政治学の平定が類似していることをここで指摘しておこう。前 者においては、霊魂を「静かな」霊魂(ニギミタマ)の段階に移行させることであり、
後者においてはそれらを決定的な服従に置くことである。
17.日本書紀によって伝えられる天孫降臨の一つのバージョンにおいて、高御産巣日が 80 万もの天上の神々に言葉をかけ、天の下の世界の混乱状況を描写する。「高皇産 靈尊 勅八十諸神曰 葦原中國者 磐根木株草葉 猶能言語 夜者若火而喧響之 晝者如五月蠅而沸騰之」。文中のもう少し前に(第二巻の初め)、大地の不服従の 状態が、今私たちが引用したものに非常に近い二つのメタファーを借りて描かれて いる。「然彼地多有螢火光神 及蠅聲邪神」。スサノオの反乱によって引き起こされ た災禍は古事記において同じイメージの力を借りて描かれている。「邪悪な神々の 声はあちらこちらで響き渡り、苗の植え替えの月の蝿のように溢れかえっていま す」。日本書紀に収められている国譲りの一つのバージョンは、服従しない神々と 野性の神々とを同類視している。「是以悪神之音如狭蠅皆滿」。これらが多くの箇所
において基本的な神々のように描かれているとするならば、日本書紀の合理主義的 な傾向は、他の箇所においては同じような類のものがただの草々や岩々の民と似て いると説明する。大野晋と西郷信綱は接頭辞(-ち、-み、-ひ)の形で表れる神 学用語は個体化の前の原始的な宗教の階層を反映しているようだと指摘している。
18.一般的にこれらの荒々しい神々は 、集団の神々よりもう少し具体的な特徴を与え られている。一方で彼らは個性の萌芽のようなものを与えられているようで、他方 では彼らは独自の地名に関する 特性(坂、峠、浅瀬など)に結び付けられている。
古事記によると、熊襲兄弟を打ち破った後、ヤマトタケルノミコトは首都への帰路 に自然の様々な神々を服従させる。すなわち「戻るとき、彼は山々の神々や川の 神々、海峡の神々を服従させ、鎮めた」。
19.スサノオによって打ち破られた大蛇(ヤマタノオロチ)は古事記において次のよう に描写されている。「その目はホオズキのように赤く、その体は八つの頭と八本の 尾が生えている。背の上には苔、ヒノキとスギが生えている。その長さは八つの谷 と八つの山頂に広がるほどのものである。腹の方をあらゆるところから血が溢れて いる」(古事記、NST、1、56 ~ 57)。原初の竜の神話の詳細な分析については、フォ ンテンローズの『パイソン』(1959)を参照。私たちの神話に現れる他の怪物じみ た動物たちはその中でより簡潔に取り扱われている。熊野の熊の出現と消滅が神武 とその軍を邪悪な睡魔に沈ませるのがその例である。ヤマトタケルの遠征を際立た せる動物の出現はより強い意味を持っているように思われる。東の地方から戻る 際、ヤマトタケルは伊吹山の神の使者に出会う。その使者は古事記では牛のように 大きな白い猪の姿をとり、日本書紀では大蛇の姿をとっている。物語の文脈といく つかのエピソードから推論できるように、この奇形の神々のカテゴリーはときに、
密接に先ほどの範疇の神々と結び付けられている。怪物あるいは異様な動物は、土 地の神の目に見える出現なのである。足柄の坂本の峠のふもとで、ヤマトタケルは 大きな白い鹿(文章中で峠の神として定められている)と出会い、それを殺す。
20.動物(あるいはときに単なる動物の特性)より精巧な記号論的な価値を獲得するこ とができ、同一化の類素として機能したり、あるいは他性のある形との契約を形式 化するのに役立ったりする。異類女房あるいは異類婿の象徴体系が担うのはこの役 割である。豊玉姫の出産が、私たちに産婦が、地面を這い、よじる八尋もある海の 怪物(ワニ)へ変身してしまうのを語ることを思い出す。このタイプの物語で言及 される怪物性は、非常に複雑なメタファーである。それはまず、ほとんど社会学的 な他性の特徴(女は出産しなくてはならないとき、自分の仲間のもとに戻り、本来 の姿を取る)で、トーテムの同一化の方法で機能しているように思われる。しかし、
それはまたより徹底した他性のシンボルなのだ。それは別世界(この場合、海の世 界)と関連するものを象徴する(いくつかの場合では死、他の場合は肥沃さ)。異 類女房、異類婿の対称的な形式は、三輪の有名な神話が示すように他性を男性の配 偶者に与える。
21.土蜘蛛は先住性の象徴性において特別な位置を占めている。彼らが神々として現れ るのはほとんどないが(前の範疇とは反対に)、彼らにはまだ蝦夷や隼人の持つほ とんど民族的な集団の性格はまだ持っていない。彼らに与えられた「土の蜘蛛」と いうメタファーであるとともに強く軽蔑の意もこめられた用語からはまだ神話的
(彼らは尾を持ち、土の中に住んでいる)であって、他性と区別していない(彼ら は集団で行動し、特別な地域に結び付いていない)物の見方が伝わってくる。古事 記における神武の武勲詩の勇壮な一節は、久米一族の戦士たちの容赦ない攻撃を受 けての敗北を歌う前に、簡潔に土蜘蛛の住みかについて描いている(「彼が忍阪の 大室に着いたとき、そこには、80 の強大で尾のある土蜘蛛が彼らの穴のような住 みかの中で騒々しい音を立てながら待ち構えていた」)。土蜘蛛のより平穏な現れは 神武の同じ旅の道中でにあり、このサブカテゴリーは神学的な地位(彼らは土地の
神と形容されている)を備えており、個別の性格(井氷鹿と石押分之子は名付けら れている)を持っている。彼らが天上の支配者の代表者に自発的に服従するとき、
土蜘蛛は古代の王政の社会・政治的組織図の中に復帰させられている。井氷鹿は吉 野の首の祖先であり、石押分之子は吉野の国栖の祖先である。日本書紀は土蜘蛛の 動物性のあまり好ましくない描写を表している。神武記の中で、彼らは彼らの名前 の語源を裏付けるような奇妙な外見(彼らの胴は短く、肢体は長い)をしていて、
低俗な野禽獣のように(網で)狩られている。日本書紀の少し後の部分では、景行 記(日本書紀、景行記、12 年)の中、熊襲討伐を背景に再び現れているのがわかる。
速水邑で、速津媛と呼ばれる女が筑紫内に隠れている複数の土蜘蛛の存在を天皇に 告げる。その一節はほとんど熊襲と土蜘蛛の同一性とまでは言わなくとも、少なく とも類似性を前提としているように思われる。これらのいくつかの例は二つの可能 な解釈を暗示している。a) 土蜘蛛は先住民の中で最も古いものであるだろうとい うこと、b) 仮説 a)の歴史的妥当性とは無関係に、ほとんど隼人、蝦夷などのほ とんど民族的な名称が未開に関する博学な(大陸的な)物の見方と中央集権国家の 建設のより新しい形を反映しているのに対し、全ての先住民を全体的に示すための 土蜘蛛という用語の使用は主権の古い形と一致している。
22.もはや熊襲を先史あるいは原史時代に列島の南西を支配したオーストロアジアの民 と考える時代ではなくなった。大林太良はこの人類学的な読みの弱点を見せた(大 林『隼人』)。熊襲の最初の特徴は非常に明確な地理的定住(筑紫の中央と南西部)
である。ある人たちは、用語をクマ(球磨川流域と同名の球磨郡)とソ(「裏」、「背」
のメタファーは大隅の地方を指しているように思われる)の二つの地名に分解する ことを提案した。したがって、彼らが私たちのテクストの純粋に神話的な章に関 わってこなくても、王家の強化(そして後には小帝国)とそこから生じる空間的組 織に結び付いているのは当然である。ヤマトタケルの遠征の物語では、熊襲は南に あって蝦夷の対をなすものである。若き英雄はまず前者を討伐しようとし、天皇は 彼を最初のものと対称をなす使命の中で、後者を平定するために送り込む。彼らの 特徴の中のいくつかは彼らを土蜘蛛に似通わせる(景行記)。別の点では、複数の 専門家が熊襲と隼人の用語は同じ人々を指したのかもしれないという考えを持ち だした(大林の『隼人』参照)。彼らの「有害さ」は年代記の物語の隅々まで触れ られている。日本書紀は神功の新羅における有名な冒険は、仲哀天皇によって進め られた対熊襲遠征の「派正物」でしかないとはっきりと見せた。このようにして私 たちは熊襲の戦略的な重要性と、大陸との考えられ得る結び付きを計るのだ。
23.筑紫の南と南東に属したこの南の民の起源は、神話によって、木花咲耶姫の火の試 練から生まれた火照(ほでり)、火遠理(ほおり)の二人の兄弟(ある系図の注釈 によると火照は君の位を持つ阿多の隼人の祖先である)の間の対立に刻み込まれて いる。海の神々の助けによってもたらされた兄の最後の降伏は、末っ子の優先権の 逆転、また兄の敗北を永続させる儀式的な契約として理解される。彼は定期的に 末っ子によって陥れられた溺死の危険を演じなければならず、その子孫は支配者 に召され警護にあたることとなる。後の文献はこの「宮廷の警護」という役職は、
ある種の行列の際に当事者たちのあげる形式化された叫び声によって強調されて いたと裏付けている。隼人のオーストロネシア解釈が熊襲のオーストロアジア解釈 と同じ運命をたどっただけでなく、何人かの日本人専門家は熊襲と隼人の名称が全 体として南方の同じ人々のことを指すのではないかという仮説を立てた。しかしな がら、考古学と歴史は隼人の非常に際立った文化的特徴を物語っている(『隼人族 の生活と文化』、1993 年、参照)。日本書紀には、朝廷への忠誠を示すための訪問 に関する言及が非常に多くある。清寧記によると隼人たちは雄略天皇の墳墓のそば で嘆き悲しみ、自分たちが(忠実な犬のように)死に絶えるがままである。同じ治 世の終わりに、蝦夷たちと隼人たちは尊敬の意を表明するために天皇のもとに赴い
ている。欽明天皇の治世の初め(一年目、三ヶ月目)には、蝦夷と隼人が新しい支 配者に忠誠を誓うために訪れている。斉明天皇の治世の初めにも、蝦夷と隼人は支 配者に敬意を表して訪れ、贈り物を献上している。天武天皇の治世の 11 年目には、
隼人の使節が朝廷にやってきて、大隅と阿多の隼人たちとの間で闘技(相撲)を開 催する。持統天皇のもと(三年目)では、筑紫の統治者が朝廷に 174 名の隼人を衣 服や鹿の皮とともに送っている。9 年目、女帝は大隅の隼人たちの祭りを開き、隼 人の兵たちの間の演武に出席している。
24.ここまで私たちが見てきた全ての名称の中で、列島の北東に住む民たちに限られた 名称である蝦夷は、真正なる民族の名称にもっとも近い。これらの伝統的に中央政 権に対して抗ってきた民族を近代のアイヌの祖先に同化させたいという誘惑が理 解される。このような同化の人類学的困難については言うに及ばず、ここでは蝦夷 の定義と位置付けは蝦夷を「北方の未開人」の全体と混同することを禁じていると いう点に留意しておこう。彼らは「東の服従しない 12 の民」に属する0 0 0。景行天皇 の治世下、武内宿禰(たけうちのすくね)は私たちに最初の蝦夷の描写を提供し ている(NKBT、67、pp.297-298)。その 40 年目の治世において、景行天皇自身が 平定のための使命に送り込むヤマトタケルに対して蝦夷を描写している(NKBT、
67、p.302)。彼は「蝦夷たちが東の野蛮人たちの中で最も兄弟である」という点を 強調している。その次に彼は彼らの蛮行について中国の価値に影響されていると思 われるような粗描をする。彼らは荒々しく、執念深いだけでなく、いかなる権力を も認めず、世代間の差(父子の関係における)を尊敬せず、さらには女と男は完全 なる雑居状態で生活している。古代の日本人は蝦夷に対して、中国人たちが自分た ちの北方の未開人たちに与えた二つの戦略をとった。境界の外に位置した還元され えないものたちは、動物あるいは怪物(怪物として退治される)とみなされたそし て、最も近いものたちは、服従の行為を受け入れさえすれば、同化され、ある程度 の配慮を得ることができた(敏達記、10 年目参照)。これらのいくつかの蝦夷は位 を授かるまでに「組み込まれた」(斉明記、1 年目、持統記、9 年目)。彼らは素早 く上流の文化に到達したようだ。持統天皇の治世の年代記(日本書紀、持統記、3 年目)は、道信という仏僧についてまで報告している。
25.足名椎(アシナヅチ)と手名椎(テナヅチ)の名前は(現実あるいは想像の)民族 を指すのではなく、神話に登場するある二人の人物であり、彼らは大蛇ヤマタノオ ロチに約束された若い娘(クシナダヒメ)の両親である。しかし、彼らははっきり と国の神として定義されており、山の神(オオヤマツミノカミ)の系譜に直接結び ついている。そのような理由があるため、彼らを先住民の大きな血族に組み込むの は不当とは言えないだろう。彼らの名前の語源は興味をそそる。「腕のない命」と「足 のない命」と理解しなくてはならないのなら、この老夫婦は娘を差し出す相手の恐 ろしい怪物と同じ属性を持っているように思われる。土地神信仰に献身する神官の ようなものとして、彼らは隠喩的な意味で、主人の爬虫類を思わせる体を持ってい る。神武の東征の際に、出現する棹根津日子は、自分を国の神であると定めるそし て、亀にまたがり、速吸の海峡の真ん中で、彼らは海鳥のように翼をはばたかせる。
(古事記、NST、1、pp.116-118)。スサノオ自身は、彼が根の国で大国主と争うエピソー ドでは、その前半生における未熟で乱暴な末っ子とはまったく違っている。彼は地 下の国の主人であるだけでなく、その冥界の住みかに見合った怪物の属性(その毛 髪は大量のムカデを隠している)を所有しているようである。
26.フーコーの著作『言葉と物』の第二章「世界という散文」は私たちに前近代(中世 の終わりと 16 世紀)の思想の中のアナロジーの機能に関する美しい描写を提供し てくれる。しかし、この分析は神話主義とレヴィ=ストロースが「末開の思想」と 呼んだものの研究の大部分に対しても適用することができる。
27.中国の陰陽体系は「金」の柱に東、白色及び毛のある動物の象徴を置いている。甲皮、
南、そして黒色の象徴である亀は、「水」の柱に置かれている。「火」柱には、赤い色、
羽のある動物と南の象徴がある。より詳細な点に関しては、A・ロシェ『日本神話 の起源の形象』(グルノーブル、博士論文、1988 年、pp. 308-310)を参照すること。
28.『山海経』の奇形学は位相の秩序に組み込まれ、類別的論理に参与する。章立てを 見ればすぐにわかるすなわち第一章は南山経、第二章は西山経、第三章は北山経、
第四章は東山経など。日本語版、『全釈漢文大系、33、集英社、1975 年を参照する 29.日本書紀、景行記、NKBT、67、pp.302-303 を参照。こと。
30.「国の神」という名称がしばしば「天の神/国の神」という二つの要素からなる体 系の中の単なる類素として機能しているというなら、それは実際には見掛けより ずっと複雑なものである。その神学的な次元において、この名称は、天上の神々と 区別される限りにおいて自然の神を包含する。表向き、彼らは全てイザナキとイザ ナミによって生み出された神々の系譜に結び付いているのだが、多くの徴候が彼ら が彼らの血統とは無縁の天上の神々より前からいたことをほのめかす。彼らの魔力
(山の神あるいはその一番上の娘は生と死の秘密に結び付けられているそして海の 神あるいはその娘は肥沃さと永遠の生と関係があるなど)。その民族名称的次元に おいては、「国の神」という名称は野蛮人や先住民たちによって天上の神々の子孫 を前に自分たちを定義するために主張される。政治的な次元においては、国の神と いう言葉は、「天上の管理」(シラス、オサムなど)に対する領地(ウシハケル)に おける「従属関係」によって示される天皇の権力より前のタイプの権力を表すと思 われるメタファーである。神野志は非常な緻密さをもって国譲りのエピソードの中 の「政治的所有」の語彙を分析し、私たちはその結論に依拠する。自発的に朝廷(あ るいは王室)権力に忠誠を誓う「国の神」のいくつかは、神武記の棹根津日子のエ ピソードに見られるように未来の国造の祖先である。
31.東征の初めにおいて、相武の国に着いた際、ヤマトタケルは地元の国造に騙されて しまうそしてこの者は相武の沼にとりつく荒ぶる神と呼ばれる者の悪行を引き合 いに出す。ヤマトタケルが指定された場所へその反抗者を制圧しに向かうと、国造 は英雄を殺すために平原に火を放つ。このように悪だくみはそこに場所の主人と荒 ぶる神との間の皮肉な自己同一化を隠している(古事記、NST、1、pp.182-183)。
32.使われている漢字の豊富さとその読みに割り当てられた訓読みの相対的な乏しさか ら判断するに、未開人を悪党、泥棒、敵のように定義する「律法主義」のメタファー の起源は中国にあるようだ。五瀬命の登美彦の攻撃による傷(とその死)を描写し た神武記の有名な一節はどちらかというと社会学的な類素を用いていることに留 意しておこう。死の矢の主は「卑しい奴隷」として描かれている(古事記、NST、1、
pp.118-119)。
33.古事記、NST、1、pp.182-183。「自其入幸悉言向荒夫琉蝦夷等亦平和山河荒神等而…」
34.このリストに加えないのは、従属の最も基本的な形であるいかなるドラマも必要と していないからである。先住民の自発的な従属は、ただちに暴力の問題を排出する というシナリオの欠如である。神武の武勲の最初の段階において多くの事例を見る ことができる。
35.あらゆる部分から作り出された一節とまではいかなくとも、少なくとも朝廷の観念 論者たちによって大幅に修正された節のように、神々の系譜を三柱の偉大な神(天 之御中主神、高御産巣日神、神産巣日)の誕生とイザナキとイザナミの神話の間に 位置付けるというのは長らく確立した説であった。冒頭に引き合いに出される道教 の文献(淮南子、列子、三五歴紀)の日本における対となりえ、存在論的進化継続 主義を例証する発出論的な言説を生みだすための努力は、「独神」つまり対になっ た神々と組になった神々の間の段階によって説明される。しかし、それはとりわけ 原初の水(油・クラゲ・葦の芽・葦の芽の神など)からの最初の神々の出現を描こ
うとする企てである。
36.ここで私が言わんとしていることは、「疑わしい」のではない物語(スキャンダル、
暴力、登場人物の間の対立を避ける)は、神話と呼ばれるに値しないが、黄金神話 あるいは単にイデオロジー的な語りに帰着するということである。
37.私たちはここで、神野志隆光の「コトムケ」という概念に関する分析を参照する(『古 事記の達成 ―コトムケの原理』pp.134-165)。
38.曾婆加里に大臣の位につかせると約束して殺人を依頼した水歯別皇子は、自己欺瞞 という問題を、大臣の位への偽りの任命を企て(こうすることで約束を破ったと 非難されることはない)、他方では任命の直後に物理的に隼人を排斥する(忠誠の 原理を破ることの推奨で非難されることがない)ことによって解決する(古事記、
NST、第一号、pp.288-289-290)。日本書紀が卑しい隼人の大臣の位への現実離れし た出世に言及しないことを確認するのは興味深い。そして日本書紀は、手下への曖 昧な贈り物というほのめかしに留まる。
39.竜退治の象徴に関しては、今や古典的研究となったフォンテンローズの『パイソン』
を参照した。
40.スサノオが天照に剣を贈った際に、剣はその性質を変え、三種の神器の一つとなる。
武器の「神格化」は文字通り天への昇天として演出されている。三種の神器のうち、
剣は唯一性質の変化を受けたものである。
41.古事記、NST、1、pp.42-45。彼女のまとう大げさな武装は具体性を持たない天上 の女神よりも一兵士にこそふさわしい。彼女が威嚇する歩みを際立たせるためにあ げる挑発の叫びはテクストの中ではっきりと「雄の叫び(雄たけび)」と形容され 42.古事記が語る天孫降臨のバージョンを除くならば、驚くことに太陽の女神が、ている。 「復活」
の後、まるで支配権力の宗教的な次元と政治的な次元の分離が神々の構図にも表れ ていなくてはならないとでもいうかのように、重要な決定を行う高木神あるいは高 御巣日神によって補助されたり、脇にさえ追いやられる精彩のない登場人物である ということだ。
43.この権限の移譲の古事記のバージョンに関しては NST、1、pp.92-93 を参照。
44.ホムチワケ皇子の無言は忘れられたと思う出雲の神の呪いのせいにされている。神 は、垂仁天皇の夢の中でその要求を表現している(「私に王宮のような神社を築い てくれれば、皇子は言葉を話すだろう」NST、1、p.166-167)。崇神の治世の最初 を飾る多様な災害に関しては、いくつかの地方的な神に負うべき多様な崇拝の喪失
(あるいは不在)のせいにされている(NST、1、p.149-151)。
45.異類女房構造の利用はその天と地と(ニニギと木花咲耶姫/石長姫)、または天と 海と(ホヲリとトヨタマヒメ)の間の結婚を強化させる。神話は登場人物が誤りを 犯さなかったなら、共に存在の次元(永遠)と所有の次元(土地)において勝つこ とができただろうということを示すようである。
46.神武の継承を際立たせる悲劇は、古事記と日本書紀によく出てくるこの構造の最も 典型的な例である。
47.イレーヌ・ロジエ=カタシュ『効果的な言葉』、特に第一章(「秘跡、しるしと理由」、
p. 35-95)と第二章(「秘跡の効果法に関する議論」、p. 99-172)参照。
参考文献デチエンヌ、マルセル、『神話の発明』ガリマール、パリ、1981 年
フォンタンロズ、ジョゼフ、『パイソン、デルフォイの神話とその起源の研究』カリフォ ルニア大学出版、バークレー、1959 年
フーコー、ミシェル、『言葉と物』ガリマール、パリ、1966 年 埴原和郎(編)、『日本人はどこから来たか』小学館、東京、1984 年
埴原和郎(編)、『日本人の起源』小学館、東京、1986 年
アルトグ、フランソワ、『ヘロドトスの鏡』ガリマール、パリ、1980 年(増版に関して は 2001 年)
隼人文化研究会(編)、『隼人族の生活と文化』雄山閣、東京、1993 年 樋口隆康、『日本人はどこから来たか』講談社、東京、1971 年
平藤喜久子、『日本の神話と国家主義の研究』、日本文化と神道第 3 号、2006 年 池田次郎、『日本人の起源』講談社、東京、1982 年
池田次郎、『日本人の来た道』朝日新聞社、東京、1998 年 磯前順一、『記紀神話と考古学』角川学芸出版、東京、2009 年
Isomae, Junichi, Japanese mythology: hermeneutics on scripture. London: Equinox Publishing, 2009 (『記紀神話のメタヒストリー』の英訳).
伊藤清司、大林太良(編)、『日本神話研究』全 3 巻、平凡社、東京、1977 年 神野志隆光、『古事記の達成』東京大学出版会、東京、1983 年
神野志隆光、『古事記の世界観』吉川弘文館、東京、1986 年
レヴィ=ストロース、クロード、『神話論理:裸な人間』プロン、パリ、1971 年 マセ・フランソワ、『古事記神話の構造』中央公論社、東京、1989 年
松本信広(編)、『論集日本文化の起源』第 3 巻、平凡社、東京、1971 年 松本信廣、『日本民族文化の起源』(全 3 巻)講談社、東京、1978 年 三品彰英、『日本神話論』平凡社、東京、1970 年
「日本神話と氏族」『講座日本の神話』第 8 巻、有精堂、東京、1977 年 大林太良、『日本神話の起源』角川、東京、1961 年
大林太良、『日本神話の構造』弘文堂、東京、1975 年 大林太良、『東アジアの王権神話』弘文堂、東京、1984 年 大林太良、『東と西、海と山』小学館、東京、1990 年 大林太良、『神話の系譜』青土社、1986 年
大林太良(編)、『蝦夷』日本古代文化の研究、社会思想社、東京、1979 年 大林太良(編)、『隼人』日本古代文化の研究、社会思想社、東京、1975 年 尾畑喜一郎、『古事記事典』桜楓社、東京、1988 年
大橋信弥、『日本古代の王権と氏族』吉川弘文館、東京、1998 年
ロシェ、アラン、『日本における神話と統治権』P.U.F.(フランス大学出版)、パリ、
1997 年
ロジエ=カタシュ、イレーヌ『効果的な言葉‐記号、儀式と神聖なる物』スイユ、パリ、
2004 年
西郷信綱、『古事記注釈』(全 4 巻)平凡社、東京、1976-1980 年 西郷信綱、『神話と国家』平凡社、東京、1977 年
シ ェ リ ン グ、 フ リ ー ド リ ヒ、『 神 話 の 哲 学 』( 全 2 巻 )Wissenschaftliche Buchgesellschaft (科学出版社)ダルムシュタット、1986 年(第一出版、1856 年)
「山海経」、『全釈漢文大系』、第 33 巻、集英社、東京、1975 年。
諏訪春雄(編)、『日本人の出現』雄山閣、東京、1996 年 高木敏雄、『日本神話伝説の研究』、荻原精文館、東京、1943 年 遠山美都男、『天皇誕生』中央公論新社、2001 年