• 検索結果がありません。

夏目漱石における「伝統」と「近代」: 儒学・禅と 西洋思想の交わり

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "夏目漱石における「伝統」と「近代」: 儒学・禅と 西洋思想の交わり"

Copied!
138
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

夏目漱石における「伝統」と「近代」: 儒学・禅と 西洋思想の交わり

藤本, 晃嗣

http://hdl.handle.net/2324/2236001

出版情報:Kyushu University, 2018, 博士(比較社会文化), 課程博士 バージョン:

権利関係:

(2)

夏 目 漱 石 に お け る 「 伝 統 」 と 「 近 代 」 ― 儒 学 ・ 禅 と 西 洋 思 想 の 交 わ り ―

3 C S 1 0 0 1 2 T

日 本 社 会 文 化 専 攻

藤 本 晃 嗣

(3)

目 次

1

「 自 己 本 位 」 に お け る 儒 学 の 影 響

9

(緒言)

9

第一章

「自己本位」におけるイプセンと儒学

漱石の「イブセン流」書簡をめぐって

14

一はじめに

14

二『野分』におけるイプセンへの言及

16

三漱石のイプセン受容について

18

四『文学論』とイプセン『社会の敵』

21

五「一人」であることをめぐって

26

六「イブセン流」と「維新の志士」

29

注記

32

第二章

『それから』における「誠」

日本近世儒学の伝統

36

第 一 部

一はじめに

36

二中国思想における「誠」

39

三日本近世儒学思想と「誠」

43

四誠・自然・天

49

注記

53

晩 年 に お け る 禅 へ の 接 近 と

「 近 代 」 の 関 わ り に つ い て

60

(緒言)

60

第三章

漱石の禅認識と『禅門法語集』

66

一はじめに

66

二『夢十夜』「第二夜」の坐禅描写と『禅門法語集』

68

三「悟り」の認識と禅書

71

四禅と言葉

78

注記

79

第 二 部

(4)

第四章

『行人』における禅

公案との関わりから

86

一はじめに

86

二「珍分漢ノ囈語」

88

三「香厳撃竹」

92

四一郎と公案

95

五『行人』における禅の可能性

97

注記

99

第五章

『行人』における禅と

W・ジェイムズ、H・ベルクソンの交わり

「実行的な僕」をめぐって

105

一はじめに

105

二『行人』の評価と日本におけるオイケンの受容

108

三漱石の文学観とW・ジェイムズ

111

四「中味と形式」の背景と『行人』

117

注記

121

129

【引用・書誌情報について】

・漱石の作品、書簡、評論、講演等の引用は全て岩波書店最

新版の『漱石全集』(岩波書店、平成五(一九九三)年十二

月~平成十六(二〇〇四)年十月)からのものである。

・漱石の朝日新聞社入社以降の新聞紙上で発表された作品や

評論は、いくつかの例外を除いて、「東京朝日新聞」、「大阪

朝日新聞」の両方に掲載されているが、本論文では初出の記

載は「東京朝日新聞」のみとしている。

・儒学関連の資料は、書き下しを引用した。その際、異なる

引用元のものや藤本によるものなどが混在しているため、そ

の形式や語句、仮名遣いに違いが見られるが統一していない。

・禅関連の資料について、本文においては、漢文に句読点を

施したものと書き下しを載せた。その際、書き下しについて、

異なる引用元のものや藤本によるものなどが混在しているた

め、その形式や語句、仮名遣いに違いが見られるが統一して

いない。また現代語訳は、禅籍の性質を考え、論に必要な範

囲で示すにとどめた。注記においては、漢文と現代語訳を載

せた。

・全ての引用について、ふりがなは必要と思われるもののみ

に付し、他は省略した。旧字体は新字体に改めた。

・引用に付した傍線や、番号付きの傍線、波線は、特に断

りがない限り全て藤本によるものである。

(5)

夏目漱石(一八六七~一九一六)は、明治維新の前年にあ

たる慶応三年に生まれ、大正五年に没するというように、ま

さに明治という時代を生きた人物であった。明治期の日本は、

旧来の伝統的な社会から西洋の技術、思想を取りいれて近代

化していく時代とされており、漱石はまさにその流れの中に

身を置いた作家、思想家である。幼い頃に漢学塾へ通い、晩

年に至るまで漢詩を作り、また参禅を経験するなど、維新以

前の伝統的な文化や思想と強い関わりがあるとともに、時代

の変化を敏感に読み取り、大学で英文学を専攻し、英国へ留

学するなど、西洋的な価値観を習得していった。漱石より三

十年早く生まれた福沢諭吉が、明治期の知識人を「一身にし

て二生を経る」(「文明論之概略緒言」())と表現したが、

1

漱石もそのような人生を歩んだと言える。

そして漱石自身も、このような自らの背景に極めて意識的

であった。イギリス留学の成果の結晶とも言える『文学論』()2

が、「漢学に所謂文学」と「英語に所謂文学」の差異から構

想されたことはよく知られている。そこには、漢籍について

は高い学力を持たないものの、漢文学を味わうことができる という自覚がある反面、英文学については、漢籍と同程度の

学力がありながら、「味ふ力」の不足を感じたということが

あった。ここからは、近代的な学問や文化を学びながら、そ

れになじむことができないという違和感、そして幼時から身

につけた教養や文化の影響の大きさを感じていたことが読み

とれる。その一方で別のときには、「余が現在の頭を支配し

余が将来の仕事に影響するものは残念ながら、わが祖先のも

たらした過去でなくつて、かえつて異人種の海の向うから持

つて来てくれた思想である」(「東洋美術図譜」())とも述べ

3

ており、西洋を中心とした近代の思想や価値観が、明治期の

日本において持っていた意義の大きさ、そしてそれらがいか

に自らの思索や作品に大きな影響を与えているかについて強

く意識していたことがわかる。また、「私の頭は半分西洋で、

半分は日本だ」(「将来の文章」())、「中途半端の教育を受

4

けた海陸両棲動物」(「文芸と道徳」())などの言葉は、伝

5

統的な価値観と、近代的な価値観との両者にまたがった存在

として自らを語ったものである。

(6)

このように漱石は、明治という変化の激しい時代を象徴す

る人物の一人と言える。ただしその中でも漱石は、このよう

な伝統と近代、東西両文化に精通した存在として、すでに作

家活動をしているときから評価されていた。大学講師時代に

作家活動を始めたこともあり、ロンドン帰りの英文学者とし

て知られる一方で、その作品が「俳句」や「禅」、「東洋画」

などと関連することが、作家活動の開始時期から指摘されて

いる。このような傾向は、死の前後の時期における、大量の

評論や追悼文の中にも見ることができる。いくつかを例示す

る。

嘗て生田長江氏が漱石氏のユーモアを評して、大部分

lustigerHumor (おかしみのユーモア(?))であるとなし、 VerzweifelterHumor(必死のユーモア)だとか、Galdenhumor(絞首台のユーモア)だとかいふものがないと言つてい

るのは大体に於て首肯し得る所だ。これ儒教思想と俳諧

趣味とに養われた上に、外国文学では常識本位の英文学

に主として親しまれた氏にとつては自然なことであるか

もしれない。

(石山徹郎「夏目漱石氏の芸術」()6

同氏は人も知る如く英京に留学中予て涵養された東洋独

特の俳諧趣味から西洋文明乃至は泰西の思想人生観を冷

かに客観的に観取して此処に同氏独特の詩的才筆を以て 先づ『倫敦塔』を書き(後略)

(「猫の主人公夏目漱石先生逝く」()7

然しあの人のユーモアはあの人独特のものであった。

或る人も云つてゐたやうに、あの人に於て東西の趣味が

融合一致してゐた。この点は鴎外さんも似たところがあ

る。

(徳田秋声「書斎の人」()8

これらは漱石の晩年もしくは死直後に出されたものであ

る。「趣味」の問題などの面で、東西両洋の思想を受け入れ、

表現したことが述べられている。特に徳田秋声のものには、

漱石において東西の趣味が「融合一致」し、そこに独自のも

のが産み出されたことが述べられている。また、この徳田秋

声のものと同じ誌上に載った中村星湖の文章では、漱石につ

いて「東洋思想の神髄を掴まれたもの」()との表現で、その

9

修養の深さが語られる。その他にも、漱石の同時代の評論や

追悼文には、英文学をはじめとした西洋文学や西洋思想に触

れたもの、落語や俳諧、禅や道義観念に言及したものなどが

あり、「東西」や「伝統と近代」という観点で捉えるとき、

様々なトピックが見いだせる。ここには、同時代の他の作家

との比較という点で漱石の独自の位置づけがうかがえるが、

その中でも、自然主義の代表的な論客として漱石とも論争を

した長谷川天渓の次の漱石論は、以降の評価の原型を見るこ

(7)

とができるものと思われる。

現在の日本文学を代表して居られると云ふよりは、寧ろ

日本文学の当に赴く可き、正しい道を指示して居られた

人のやうに思はれるのは、吾夏目さんである。と云ふの

は、日本の今の文学界には、色々のヨオロツパの思潮が

流れ込んで来ては居るが、其れが一向融和統合されず、

各自はなれ

になつて居る姿である。しかるに夏目さ

んは英文学に精通され、漢学の素養が深く其上禅文学を

も究め、凡てこれらのものを悉皆調和して、自分のもの

とされていた。(中略)

若し仮りに東西文明を綜合して居るのが吾日本であると

すれば、東西文学を綜合して居た人が吾が夏目さんであ

ったと

(「故夏目漱石氏の根本思想」()1 0

天渓は漱石を「英文学に精通」するとともに、「漢学の素

養が深く」、また「禅文学をも究め」、そしてこれら全てを

「調和」した存在として見る。論敵でもあった漱石をここま

で賞賛しているのは、漱石の死の追悼として書かれた文章と

いうことが影響しているのであろう。また、他のところには、

「外国の文学を智識的に頭に入れて覚ゑて居られるのではな

く、全く之を自分の血と肉にして人格的に統一されて居た」、

「漢学や禅文学の場合に於ても、之を単に一遍の趣味の上か らではなく、思想そのものの妙諦を取容れて居られた」と、

東西にわたる知識や思想を「自分のもの」としていたことが

説かれている。この天渓の論に見られるような、漱石が伝統

と近代の思想や価値観を「血と肉にして」身につけた作家で

あり、そしてそれが明治期の日本の問題であるという指摘は、

以降の漱石の評論において、しばしば繰り返され、重要な研

究課題とされていくものである。

例えば、漱石の死から二十年ほど経ち、昭和十年に岩波書

店より『決定版漱石全集』が出され、漱石の作品が文学研

究の対象とされていく時期、漱石の弟子の一人であった安倍

能成は次のように述べている。

漱石に於ける重要なテーマの一つは、東洋的情操及び思

想と西洋的情操及び思想との彼の生活に於ける交渉であ

る。これは自ら東洋的

漢詩的、俳句的な

文学と

西洋的

英吉利的

文学との間に立つて、親しく苦

労を重ねた漱石自身の生きた問題であるのみならず、更

に拡げては東洋文化と西洋文化との交渉といふ、文化史

的に見て我が国に独特な全般的問題であり、殊に漱石の

生きて居た明治時代を特徴づける重要な意義を有した問

題である。

(安倍能成「『夏目漱石』を読む」()1 1

安倍は「東洋的情操及び思想」(「漢詩的、俳句的」)と「西

(8)

洋的情操及び思想」(「英吉利的」)との交渉を漱石の「生き

た問題」とし、その問題が広くは「我が国に独特な全般的問

題」であり、「明治時代」という日本近代における重要な問

題であると述べる。このような評価のあり方は、その基本的

な構図において天渓と同型のものである。

また第二次世界大戦後、日本近代文学の研究が本格化し、

漱石研究がその中心となっていく中で、昭和四十二年に出さ

れた『夏目漱石必携』において、吉田精一氏は次のように述

べている。

日本の近代文学、ないし近代思想にとって、最大の問

題の一つは、東西両洋をどのように調和し、あるいは混

融するかということである。いいかえればナショナリズ

ムとコスモポリタニズムを自己の思想として、どの程度

に身に体しているかということである。両者の一方だけ

では、鴎外のいわゆる「一本足」の学者文人であって、

意味のある近代文化の創造に参加しえない。両者のそれ

ぞれの深さが、そしてまた深いところでの混じりあいの

度が、その人間の思想の深みに照応するといってよい。

漱石は鴎外とともに、文学者・作家として、この意味

での典型的な「二本足」的存在であった。東洋と西洋と

が、彼ほど渾然と深いところでミックスした例はまれで

あった。

しかし彼の場合の「東洋」とは、主として中国を意味 する。

(吉田精一「漱石における東洋と西洋」()12

吉田氏は、「日本の近代文学、ないし近代思想」の問題と

いう大きな観点から、漱石を鴎外とともに東洋と西洋にまた

がる「典型的な「二本足」的存在」とし、特に漱石について、

両者を「深いところでミックスした例」としている。このよ

うな捉え方は、天渓や安倍の評価と共通したものである。ま

た、「東洋」について、特に「中国」の思想や文化を強調し、

この後の本論において老荘思想や儒学、禅の影響を検討して

いる。

昭和五十七年に発行された『講座夏目漱石』の第五巻()1 3

には、「漱石と英文学」、「漱石と亜米利加文学」、「漱石とフ

ランス文学」という論文とともに、「漱石と老荘・禅覚え

書」、「漱石と江戸」、「漱石と謡」といったタイトルの論文

が並ぶ。加えて「漱石における古今東西」として、イギリス

留学時期と禅について論じられた岡三郎氏の論文があり、そ

の論の末尾には、漱石が「古今と東西(の文化や学識— 藤

本注)に対して緊迫した関係を保ち」つつ、それらを熟成さ

せていったという指摘がある()1 4

このように、漱石を東西両洋、伝統と近代という観点から

考察することは、漱石の作品を理解するための前提とされて

きたと言える。そしてこの点は、広く日本の近代化を考える

上で極めて重要な課題とされてきた。

(9)

漱石を伝統と近代という観点から考えるとき、そのトピッ

クは多岐にわたる。比較文学研究者の平川祐弘氏が、漱石に

ついて、「和漢洋の三世界の文化に通じ、自在に文筆をふる

えるような人は、二十世紀の初頭には西洋にも中国にもアフ

リカにもアメリカにもいなかった」()と指摘するように、漱

1 5

石は小説だけでなく、若い時期から晩年にいたるまで漢詩や

俳句を作るとともに、ある時期には英詩を作成している。加

えて文学のみならず、例えば絵画についても、南画や江戸の

書画を好むとともに西洋の印象派絵画も好んだ。そして、そ

れらが漱石の小説になんらかの影響を与えていることは、す

でに様々な研究がある。

このような研究の流れを踏まえ、本論文は漱石の作品や評

論の思想的背景を、「伝統」と「近代」の交わりという観点

から明らかにすることを課題とする。本論文において、「伝

統」は明治維新以前の東洋を中心とした思想を、「近代」は

主に明治維新以後に流入してきた西洋を中心とした思想を指

す。確認したように、漱石は作家であるとともに、明治期を

代表する思想家とされており、その作品や評論の意義を考え

ることは、広く日本近代の問題を考察することにつながるも

のであった。その漱石の作品や評論において、儒学や禅とい

った伝統的な教養と、新たに流入してきた近代的な思想がど のように交わり、吉田氏の指摘する「ミックス」が行われた

のかという点を明らかにする。

すでにこのような漱石の思想的背景という問題についても

多くの研究があるが、分量的に多いのは西洋思想や文学との

関わりである。具体的な作品相互の関連を指摘する比較文学

研究においては、古くは板垣直子『漱石文学の背景』()によ

1 6

り、スウィフトやディケンズ、スティーブンソンなど、数多

くの西洋の作家との影響関係を指摘されている。また近年に

おいても、飛ヶ谷美穂子『漱石の源泉』()に見られるように、

1 7

漱石作品の背景、そのもととなった作品が明らかにされてい

る。また思想面に関する研究も、漱石のジェイムズ受容と作

品への影響を論じた小倉脩三『夏目漱石』()や、ニーチェと

1 8

の関連を論じた杉田弘子『漱石の『猫』とニーチェ』(など

19

の研究書があり、その他事典類での指摘や著書としてまとめ

られていない論文なども数多くある。これらは、作品や思想

の淵源を探るものであり、また日本文学史や思想史における

西洋思想の受容という側面から、漱石の作品を捉えるもので

もある。そして、漱石が西洋文学、西洋思想と問題意識を共

有しつつ作品を創っていたことを前提とし、漱石の作品を、

より広く西洋文学や思想の流れの中に位置づけるものとも言

える。本論文においても、具体的な文章の照応をもとに、背

景となる文学作品や思想書を明らかにすることで、漱石の作

品や評論の中の西洋的文脈を明らかにし、その意義を考察す

る。

(10)

一方で小説作品における伝統文化や東洋思想との関わりに

ついてであるが、例えば近世日本で大きな影響力をもったと

される儒学については、平成四年に発行された『夏目漱石事

典』()に「漱石が禅や老荘の影響を受けていることは一般に知

2 0

られているが、儒学との関連を云々する評者は少ない」とある

ように、分量的にも決して多くはなく、十分に研究されてきた

とは言い難い。禅についても、加藤二郎『漱石と禅』()をはじ

21

めとした成果もあり、その関わりが常に注目されてきたものの、

評論や作品内の禅に関わる部分と禅書との対比など、すべき作

業が多く残されている()。近年発行された『漢文脈の漱石』の

22

「あとがき」において編者の山口直孝氏は「文学者の功績はこ

れまで西洋の思想・文化の受容面からのみ語られがちであっ

た。彼らが最初に獲得した知が果たした役割については、十分

に光が当てられてこなかった観がある」()と指摘しており、漱

2 3

石の文学活動において「漢文脈」が果たした意義をより明確

にしていく必要がある。

具体的なテーマとして本論文で取り上げるのは、「自己本

位」における儒学の役割、そして漱石晩年の禅への接近と西

洋思想との関わりである。

漱石と儒学の関係について、従来の研究の中で重視される

点を大まかにまとめると以下のようになる。初期の『野分』 や『虞美人草』には「封建的な道徳」の主張が読み取れるが、

『それから』以降の作品において、そのような関心が薄れ、

近代知識人の問題が前面に出されるようになる。しかし、そ

の根底には一貫して儒学的な道徳観が残り続けた。すなわち

儒学を旧来の道徳を代表するものとし、それにより漱石の健

全な道徳観が形成されていると見る。一般に、儒学を中心と

した漢学は、明治期以降において衰退の一途をたどったとさ

れることが多く、漱石における漢学についても、西洋思想受

容の上での積極的な意義が語られることは少ない。これに対

し、本論文の第一部において、西洋的な「自己」を中心とし

た倫理と儒学思想との共通性を指摘することで、「自己本位」

の確立において儒学思想が果たした積極的な役割を明らかに

する。

次に、漱石と禅の関係であるが、漱石が晩年において禅に

接近したことは作品や様々な資料から指摘されている。この

禅への接近は近代に対する反発として捉えられるものである

が、それは単純な前時代的なものへの回帰と見るべきではな

い。本論文の第二部においては、漱石の禅認識を明らかにす

るとともに、晩年における禅への接近が、西洋における「反

=近代」の思想と歩をあわせたものであったことを指摘する

ことで、晩年の禅への接近の意義を再考する。

【注記】

()福沢諭吉『文明論之概略』。引用は、『文明論之概略』 1

(11)

(岩波書店、平成七(一九九五)年三月)による。 ()初出は、『文学論』(大倉書店、明治四十(一九〇七) 年五月)。 2 ()初出は、「東京朝日新聞」(明治四十三(一九一〇)年 一月五日)。 3 ()初出は、「学生タイムス」(明治四十(一九〇七)年一

)月。 4 () もともと明治四十四年八月十八日に大阪市で行われた

、演社会資合聞新日朝』(集講講日朝、『はてしと章文。演 5

明治四十四(一九一一)年十一月)に集録。

()「帝国文学」大正五(一九一六)年四月~同年六月。 書研図本日(』成集料資究石引漱目夏『編夫敏岡平は用 6

センター、平成三(一九九一)年五月)の第二巻による。

()「中央新聞」大正五(一九一六)年十二月十日。引用

。成るよに巻二第の』集は料資究研石漱目夏『 7 ()「新小説」大正六(一九一七)年一月、引用は『夏目

。のるよに巻三第』漱成集料資究研石 8 ()「新小説」大正六(一九一七)年一月。引用は『夏目

。のるよに巻三第』漱成集料資究研石 9 () 「時事新報」大正五(一九一六)年十二月十六日。引

。集るよに巻二第の』成料用資究研石漱目夏『は 10 () 「思想」昭和十三年九月。引用は『夏目漱石研究資料 集成』の第九巻による。 11 ()『夏目漱石必携』学灯社、昭和四十四(一九六九)年 12

四月

()三好雄好他編『講座夏目漱石第五巻〈漱石の知的 月十四年)二八九一(七五空和昭、閣斐有』〉間 13 ()『講座夏目漱石第五巻〈漱石の知的空間〉』頁 14

133 ()平川祐弘『内と外からの夏目漱石』河出書房新社、平 成二十四(二〇一二)年七月、頁 15

484 ()板垣直子『漱石文学の背景』鱒書房、昭和三十一(一 九五六)年七月 16 ()飛ヶ谷美穂子『漱石の源泉創造への階梯』慶應義塾 月(十年)二〇〇二四大十成平、会版出学 17 ()小倉脩三『夏目漱石ウィリアム・ジェームズ受容の 月(二年)九八九一元周成平、堂精有』辺 18 () 杉田弘子『漱石の『猫』とニーチェ稀代の哲学者に 二』(二十二成平、社水白ち震た性知の本日代近たし撼 19

〇一〇)年二月

()三好行雄編『夏目漱石事典』学灯社、平成四(一九九 二)年四月 20 ()加藤二郎『漱石と禅』翰林書房、平成十一(一九九九)

十年月 21

() 松本常彦「漱石と禅

「行人」の場合

」(「語 塵)「』人行『に)月二十年六文〇〇二(八十成平」究研 22

労」篇について、一郎が希求する「禅的世界」の内実、

またその限界を探るためにも「「禅的」文脈を一旦は禅

の章句と具体的に対比する作業が不可欠」という指摘が

(12)

ある。 ()山口直孝編『漱石と漢文脈』翰林書房、平成三十年三

、月頁 23

204

(13)

第 一 部

「 自 己 本 位 」 に お け る 儒 学 の 影 響

よく知られるように漱石は「私の個人主義」()において「私

1

は此自己本位といふ言葉を自分の手に握つてから大変強くな

りました」と、ロンドン留学中に到達した自らの「自己本位」

の立場について述べている。この「自己本位」は自らに対す

る次のような反省によるものである。

今迄は全く他人本位で、根のない萍のやうに、其所いら

をでたらめに漂よつてゐたから、駄目であつたといふ事

に漸く気が付いたのです。私のこゝに他人本位といふの

は、自分の酒を人に飲んで貰つて、後から其品評を聴い

て、それを理が非でもさうだとして仕舞ふ所謂人真似を

指すのです。(中略)譬へばある西洋人が甲といふ同じ

西洋人の作物を評したのを読んだとすると、其評の当否

は丸で考へずに、自分の腑に落ちやうが落ちまいが、無

暗に其評を触れ散らかすのです。

(「私の個人主義」)

漱石の「自己本位」は、「他人本位」からの脱却であり、 その「他人」とは何よりもまず、当時支配的であった西洋人

による評価や価値観であった。それではこのときの漱石の「自

己」を支えるものとは何であったのか。「自己本位」を獲得

したとされるロンドン留学中の自らを振り返ったものに『文

学論』の「序」()があり、その経緯が次のように語られてい

2

る。

翻つて思ふに余は漢籍に於て左程根底ある学力あるにあ

らず、然も余は充分之を味ひ得るものと自信す。余が英

語に於ける知識は無論深しと云ふ可からざるも、漢籍に

於けるそれに劣れりとは思はず。学力は同程度として好

悪のかく迄に岐かるゝは両者の性質のそれ程に異なるが

為めならずんばあらず、換言すれば漢学に所謂文学と英

語に所謂文学とは到底同定義の下に一括し得るべからざ

る異種類のものたらざる可からず。

(『文学論』「序」)

漱石の「自己」を支えるものとして、西洋的な感性とは異

(14)

なる、東洋的な感性があったことは確かである。もちろん、

東洋的な趣味をそのまま「自己」とみなしているわけではな

い。この「序」が書かれた一年ほど前には次のように述べて

いる。

凡て物を判断するの標準は世と時とを問はず現在が標準

である、自己が標準となるのである、千古に貫く標準と

か或は東西を通じた標準もあらう、然し茲所にはそれは

サテ措て、ツマリこれらの有無に拘はらず標準は自分自

身で定めねばならぬ、昔から今日に至るまでの歴史の中

から自から得来つた趣味と、西洋の文化から自からが得

来つた趣味とが標準となるので、これが吾人の標準であ

る、これが自分の標準となるのである、然るをそれを棄

てゝ単に西洋の批評家が言つた事をそのまゝに解釈しな

ければならぬ、ソウ解釈したくはないが西洋人が言つた

ことであるからなどゝいふのは、西洋に心酔したもので

随分馬鹿気た話である、

(「戦後文界の趨勢」()3

漱石のこの言葉は、当時の「西洋の批評家」を受け売りす

る風潮に対するものである。ここから、西洋人の価値観をそ

のまま受け売りすることを否定する姿勢に漱石の「自己本位」

があり、その支えとして「漢学」、「昔から今日に至るまで

の歴史の中から自から得来つた趣味」が存在した、と一応は まとめることができる。注目したいのは、「自己本位」とい

う一見極めて西洋的な価値観をもとにした言葉にも、東洋的

な思惟が影響を与えているという点である。

漱石と漢学との関わりは、その生涯のあらゆる時期に様々

な形で見ることができる。幼い頃から漢籍に親しみ、明治十

四年には漢学塾である二松学舎に入学し、一年ほどではある

が漢学を学んでいる。後年「元来僕は漢学が好で随分興味を

有つて漢籍は沢山読んだものである」(「落第」())と回想

4

するように、漢籍は漱石の教養形成の基盤となった。また晩

年には、「午後の日課として漢詩を作ります」()と書簡で述

5

べるように、漢詩を書いている。

このような漢学による教養の中で、特に重視すべきものが

儒学の影響である。ただ、漱石が学んだ儒学がどのようなも

のであったのかについては一定の研究があるものの、漱石の

言及が乏しいなどの資料的な制約もあり、十分に明らかにさ

れていない。先に触れた談話「落第」では、「漢籍」を「沢

山読んだ」とあるが、この「漢籍」について、「考へて見る

と漢籍許り読んで此の文明開化の世の中に漢学者になつた処

が仕方なし」などとも語られる。ここでの「漢学者」は、例

えば『吾輩は猫である』の迷亭の台詞に「なあに漢学者でさ

あ、若い時聖堂で朱子学か、何かに凝り固まつたものだから」

(三)とあることなどから、江戸時代に正学とされた朱子学

を中心とした儒学を修めた人物としてイメージすることがで

きる。ここから、「漢籍」の中味として儒学に関連した書籍

(15)

がかなりの量をしめていたことが予想される。また、ここで

は朱子学が語られているが、一方で漱石の儒学の教養が陽明

学を中心としたものであったという指摘もある()6

また二松学舎で漱石がどのような教育を受けたかについて

も、やはり充分に明らかにされていない。「落第」で「講義」

を聞いたことが語られており、当時の中洲の講義が『論語』、

『孟子』、『文章規範』、『荘子』、『書経』、『韓非子』、『中庸』

などをテキストに用いて行われていたとされる()が、具体的

7

に漱石が何を学んだかは断定できない。ちなみに中洲自身は

陽明学を信奉していたが、そのテキストの多くは朱子の注に

よるものであったらしい()8

その他、日本の近世儒学については、「余が文章に裨益せ

し書籍」()で「漢文では享保時代の徂徠一派の文章が好きだ。

9

簡潔で句が締つてゐる。安井息軒の文は今も時々読むが、軽

薄でなく浅薄でなくてよい。また林鶴梁の『鶴梁全集』も面 白く読んだ」や『思い出すことなど』()で「子供の時聖堂の

10

図書館へ通つて、徂徠の蘐園十筆を無暗に写し取つた」など

と語られている。

このように幼少期に儒学を学んだことは一体いかなる意味

を持つだろうか。渡辺和靖氏は、明治維新前後に生まれた人

たちが受けた、このような幼少期の儒学の学びを「直接体験

としての儒学」とし、「素養」という言葉で表現した上で、

「それは単に思想形成の一要素というにとどまらず、少年時

代の生活全体を通じての直接体験として彼らの精神の内奥に 深く獲得された」ものと述べ、その影響の大きさを指摘して

いる()。このような儒学の「素養」が、漱石においてもその

11

後の思想形成に大きな影響を与えたことが予想される。そし

てそれはもちろん漱石だけの問題ではなく、次のように広く

明治期の日本の知識人にあてはまる問題であった。

わが国における哲学の歴史的特質について考える場合、

まずわれわれが留意しなければならないのは、最初に哲

学を受容した人たちの経歴であろう。彼らはいずれも人

生の前半において漢学(とくに宋学)を学び、中途で洋

学に転向している。西周、津田真道、西村茂樹、加藤弘

之、福沢諭吉等、いずれもそうである。その理由や動機

については人によっては多少の違いはあっても、幼少の

頃から儒学で鍛えられ、その後に蘭学や英学に転じたと

いう点では一致している。彼らは彼らの生涯において二

度、教育を受けた。しかも、それはまったく異質な教育

であった。そして、そのことがわが国における哲学の主

要な特質を形成した。すなわち彼らは西洋の哲学を受容

する際、彼らが幼少の頃から身につけた儒教的教養でも

ってそれをおこなった。いわば儒教という眼鏡をとおし

て、その眼鏡に映った西洋の哲学を理解しようとしたの

である(のちに、これに仏教という別の眼鏡が加わっ

た)。

(小坂国継「日本の近代化と哲学」()12

(16)

明治知識人の「儒教的教養」から、一見西洋的な思想や考

えと見られるものに、儒学が深く浸透することで変容する可

能性が触れられている。同様の事態は、先に見た漱石の「自

己本位」の考え方にも想定される。

第一部では、漱石の「自己本位」や作品内での「自己(自

我)の確立」といった問題について、西洋的な思想を受容し

つつ、それらが漱石の中でいかに変容していくかという点に

ついて考察する。まず第一章において、漱石の書簡の「イブ

セン流」という言葉の背景を考察することを通して、「自己」

の問題を考察する。明治四十年ごろに流行したイプセンは、

その代表作として知られる『人形の家』(ADoll'sHouse)に

見られるように、西洋的な「自己」を主張する「新しい思想

家」()として受容されていた。本章では、漱石がイプセン作

13

品から「自己」の意義をどのように捉えたかという点を儒学

との関わりから検討する。次に第二章では、『それから』を

取り上げる。主人公である代助は、「誠」に代表される「旧

時代の日本」の価値観を否定する「近代的知識人」であり、

その代助の三千代への告白は、「自己(自我)の確立」とし

て読まれてきた。本章においては、代助の行動の背景に「誠」

という日本近世儒学思想の影響を読み込んでいく。

【注記】

()もとは大正三年十一月二十五日に学習院で行われた講 1

演。文章としては、『孤蝶馬場勝弥氏立候補後援現代

文集』(実業之世界、大正四(一九一五)年三月)に集

録。

()『文学論』の「序」は、『文学論』に先だって「読売新 さ)載掲に)日四月一十年六聞〇九一(九十三治明(」 2

れた。

()初出は、「新小説」明治三十八(一九〇五)年八月。 3 () 初出は、「中学文芸」明治三十九(一九〇六)年六

。月 4 () 大正五(一九一六)年八月二十一日、久米正雄・芥川 龍之介宛書簡 5 ()佐古純一郎「夏目漱石の文学と陽明学」(『漱石論究』

)九月五年)〇九一朝(二成平、社文 6 ()阿部和正「漢学塾のなかの漱石

漱石初期文芸にお

、『房書林翰』石漱の脈文漢編け孝直口山(」」者学漢「る 7

平成三十(二〇一八)年三月)

() 海老田輝巳「夏目漱石と儒学思想」(「九州女子大学紀

)〇月二年)〇〇二要(二十成平」 8 ()初出は、「文章世界」明治三十九(一九〇六)年三月。

9 () 初出は、「東京朝日新聞」明治四十三(一九一〇)年 日(十二月二年)一一九一四十十四治明らか日九十二月 10

まで、三十二回にわたって断続的に掲載。

() 渡辺和靖「Ⅰ方法論的考察」(『明治思想史』ペリ

)一月一十年)八七九(カ三十五和昭、社ン 11

(17)

() 小坂国継『近代日本哲学のなかの西田哲学』ミネルヴ 頁〇~、月九年)六一二ァ(八十二成平、房書 12

7 8 () イプセンの死の直後、「早稲田文学」の「イプセン特 も「かし、りな家徳道は君を集ンセプイは郊月安高で」 13

老朽せる権威に服せざる者なり、腐敗せる形式を破る者

なり、新代の要求を解し、精神の上に、真情の上に新な

る道徳を置かんとする者なり、しかも抽象的に論ぜずし

て、具象的に示し、哲理的に説かずして、劇的に提出す」

(「イブセンを吊ふ」(「早稲田文学」明治三十九(一九

〇六)年七月)と述べている。このようなイプセン受容

を藤木宏幸氏は、「イプセンがひとりの劇作家としてよ

りも、「新しい思想家」として衝撃をもって迎えられた」

とまとめている。(「イプセン」(福田光治他編『欧米作

家と日本近代文学第三巻ロシア・北欧・南欧篇』、

教育出版センター、昭和五十一(一九七六)年一月)

(18)

第 一 章

「 自 己 本 位 」 に お け る イ プ セ ン と 儒 学 ― 漱 石 の 「 イ ブ セ ン 流 」 書 簡 を め ぐ っ て ―

一はじめに

只きれいにうつくしく暮らす即ち詩人的にくらすとい

ふ事は生活の意義の何分一か知らぬが矢張り極めて僅少

な部分かと思ふ。で草枕の様な主人公ではいけない。あ

れもいゝが矢張り今の世界に生存して自分のよい所を通

さうとするにはどうしてもイブセン流に出なくてはいけ

ない。

此点からいふと単に美的な文学は昔の学者が冷評した

如く閑文字に帰着する。俳句趣味は此閑文字の中に逍遥

して喜んで居る。然し大なる世の中はかゝる小天地に寐

ころんで居る様では到底動かせない。然も大に動かさゞ

るべからざる敵が前後左右にある。苟も文学を以て生命

とするものならば単に美といふ丈では満足出来ない。丁

度維新の当(志)士勤王家が困苦をなめた様な了見にな

らなくては駄目だらうと思ふ。間違つたら神経衰弱でも

気違でも入牢でも何でもする了見でなくては文学者にな れまいと思ふ。(中略)

僕は一面に於て俳諧的文学に出入すると同時に一面に於

て死ぬか生きるか、命のやりとりをする様な維新の志士

の如き烈しい精神で文学をやつて見たい。

これは、漱石が明治三十九年に鈴木三重吉に宛てた書簡()1

である。漱石がこの書簡において、自らの文学に対する姿勢

を「イブセン流」と表現したことはよく知られている。従来

の研究においてもこの書簡は、「草枕」()から「二百十日」()

2

3

「野分」()における作風の変化にあわせて、「「草枕」否定

4

から「志士的文学」へ」()や「文明批評家としての作家漱石

5

の自立」()などと注目されてきた。そしてここでの「イブセ

6

ン流」という言葉もまた、そのような流れの中で、たとえば

「野分」が「イプセン流の問題小説」()と述べられるように、

7

社会問題にかかわっていく側面を強調するものとして捉えら

れてきた。

後述するように、このころ漱石は談話などでイプセンにつ

(19)

いて言及しており、イプセンの作品に対して高い評価を与え ている。一例としては、談話「文学談」()において文学を高

8

い見識をもった作者による「一種の勧善懲悪」であると述べ、

その代表者にイプセンを挙げている。当時の漱石が、イプセ

ンの作品に自らの文学に対する姿勢と共通したものを見ると

いう、強い親和性を感じていたことがわかる。

しかし一方で、漱石はイプセン作品を否定的にも語ってい

る。「文芸の哲学的基礎」()において、この頃興隆してきた

9

自然主義が「真」を描くことのみを重視する風潮を「真に対

する理想の偏重」として批判する上で、その代表としてイプ

セン作品があげられている。

必竟ずるに只真と云ふ理想丈を標準にして作物に対する

為ではなからうかと思ひます。現代の作物に至ると、此

弊を受けたものは枚挙に遑あらざる程だらうと考へる。

ヘダ、ガブレルと云ふ女は何の不足もないのに、人を欺

いたり、苦しめたり、馬鹿にしたり、ひどい真似をやる、

徹頭徹尾不愉快な女で、此不愉快な女を書いたのは有名

なイブセン氏であります。

(「文芸の哲学的基礎」第十八回)

漱石は、『ヘッダ・ガブラー』(Heddagabler )のヘッダを、

「徹頭徹尾不愉快な女」としてその嫌悪感をあらわにしてい

る。このような「真」の偏重というイプセンの特徴は、例え ば長谷川天渓が「幻滅時代の芸術」()で「真実其の物に基礎

1 0

を定めた」芸術の代表としてイプセンを論じているように、

典型的なイプセン理解の一つであった。当時は、先の「イブ

セン流」という言葉が、「このような表現で大まかな意味が

通る程にイプセンの作品は当時の日本人の間で読まれてい

た」()とされるほど、イプセン作品の受容熱が高まった時代

1 1

であった。漱石は自らが否定的に扱うイプセンの特徴が、一

般に理解されるイプセンの特色であることを知りながら、そ

れでもあえて鈴木三重吉に自らの文学に対する姿勢を「イブ

セン流」として表現したと考えられる。そこには、先に見た

イプセンに対する高い評価からも、「文学者の社会的参加」()1 2

という自らの姿勢を述べたにはとどまらぬ、当時の漱石がイ

プセン作品に対して感じていた強い親和性の存在が考えられ

る。それでは、この親和性はイプセン作品のどのような点に

由来するものであろうか。

また、この書簡では自らの文学の姿勢を語る上で、「イブ

セン流」と表現するとともに、「維新の志士」という言葉も

使っている。この言葉は、「死ぬか生きるか、命のやりとり

をする様な維新の志士の如き烈しい精神で文学をやつて見た

い」と、まずはその意気込みや覚悟の強さを表すものとして

受け取れる。しかしこの点はそれだけにとどまらず、漱石が

イプセン作品の中に「維新の志士」と通底するものを感じて

いたことを推測させる。この時期の漱石の「志士」的な意識

について、例えば次のような指摘がある。

(20)

「左国史漢」の史書類は、高度な社会的倫理的批判性を

もつその士大夫的もしくは国士的要素に連なり、「唐宋」

の詩文を範とする文人的要素は、一面においてその強烈

な自意識の処理や静的な自己凝視への方向に結びついて

いた。これが漱石における漢学の意味であった。そして

それが、彼の内部にようやくはぐくまれてゆく西欧的な

近代思想と対決しつつ、実はかえってその近代的な内容

に、例の自然主義的な平面写実の域を越えた、まったく

独自な輪郭を与えていくのであって、前者からは『坊ち

ゃん』『二百十日』『野分』などの「志士的文学」が生

まれ、後者からは『漾虚集』や『草枕」などのいわゆる

「俳諧的文学」、初期の俳句や晩年の漢詩があらわれる。

(猪野謙二「日本の思想家・漱石」()1 3

ここでは、「『坊ちゃん』『二百十日』『野分』など」の作

品を「志士的文学」とし、「漢学」との関わりが指摘されて

いる。ここでの「漢学」は主に儒学を指すものと考えてよい。

儒学が幼少の頃からの教育に関わるものであったことを考え

るならば、先の書簡の「イブセン流」と「維新の志士」のつ

ながりは、漱石の教養の根底にある儒学的なものが、イプセ

ン作品を受容する上で、一定の影響を与えた可能性が想定さ

れる。

本章においては、まず先の書簡に関わる点を中心にイプセ ン受容の様相を考察した上で、この時期の漱石の文学に対す

る姿勢においてイプセン作品が与えた影響を明らかにする。

その上で、そのイプセン作品受容の背景として、儒学思想の

関わりを論じる。

二『野分』におけるイプセンへの言及

『野分』は、明治三十九年十二月九日に執筆が開始され、

同年十二月二十日ごろに擱筆したと考えられる。先の書簡に

ある「イブセン流」という言葉を実践した作品と考えられ、

その言葉の意義を問う上で格好の材料と言える。

『野分』において、「イブセン」の名前は、道也の演説「現

代の青年に告ぐ」に見ることができる。ここでイプセンは「自

己を樹立せんが為めに存在した」(十一)代表者として、メ

レジス、ニーチェ、ブラウニングらとともにあげられている。

この道也の演説については、『野分』執筆前に、高浜虚子に

宛てた書簡において、「「現代の青年に告ぐ」と云ふ文章を

かくか又は其主意を小説にしたいと思ひます」()とあること

14

から、『野分』一篇のそもそものモチーフとなっている。ま

たこの演説では、明治四十年を「則とるに足るべき過去は何

もなく」(十一)、そのため「現代の青年たる諸君は大に自

己を発展して中期をかたちづくらねばならぬ」(十一)とし

て「自己」を強調し、イプセンが当時の青年に対する一つの

理想像として示されている。この演説のもととなったと思わ

(21)

れる「断片」のメモにも「イブセンは自己ノ為メニ生存セル

人ナリ」(「断片」明治三十九年)という考えが述べられて

おり、「先例のない社会に生まれたものは、自から先例を作

らねばならぬ」(十一)代表としてイプセンが捉えられてい

る。

また同様に道也の文章である「解脱と拘泥」に関して、そ

のもととなったと考えられる「断片」のメモにおいて、イプ

センの名前があげられている。

ハ他人ガイクラ拘泥シテモ自分ハ拘泥セヌコトデア

罵聳モテシ評冷モテシカヤヲル耳、モヽテ峙ヲ目ガ人。 (一)

詈シテモ、自分丈ハ拘泥セズニ勝手ニ振舞フノデアル。

(中略)

右ノ解脱方ノウチハ自己ガ本位デアル。非常ニ自

(一)

己ガエライ人、若クハ他ヲ念頭ニ置ク必要ノナイ程ナ権

力アル人(学者デモ、宗教家デモ、或ハ外部ノ権威者ナ

ポレオン、豊太閤デモヨイ)ガヤル解脱法デアル。ニイ

チエ、イブセンノ主唱スル理想ハコヽデアル。

(「断片」明治三十九年)

の内容が『野分』において道也の主張する「解脱」法に

(一)

あたることは明らかであり、それが「自己ガ本位デアル」も

のとして説明され、その代表者としてニーチェとともにイプ

センの名前が挙げられている。 この「自己ガ本位」という言葉から、漱石が後年「私の個

人主義」()において、英国留学中の体験から形成され、以後

15

の自らの中心的な思想として語った「自己本位」との関連が

考えられる。この「自己本位」は、当時の「西洋人のいふ事

だと云へば何でも蚊でも盲従して威張」(「私の個人主義」)

っていた風潮を批判し、自らの意見を確立しそれを貫くこと

の大切さを主張するものであり、事実漱石は、談話「戦後文

学の趨勢」()などにおいて「自己の標準」を確立することの

1 6

重要性を説いている。さらに同じ時期に漱石が、「自己本位」

確立の経緯を述べた『文学論』の「序」()を書いていること

17

を考えるのであれば、この「自己本位」がイプセンと漱石の

つながりの要にあるものと言える。そしてこれは、『野分』

において「凡ての理想は自己の魂である。うちより出ねばな

らぬ」(十一)と説く道也にそのまま活かされている。さら

に、そのような道也の姿勢は「妻君は常に此単純な世界に住

んで居る。妻君の世界には夫としての道也の外は学者として

の道也もない、志士としての道也もない」(一)と、「志士」

という言葉でも表現されている。

先の「イブセン流」などの言葉に見られる、漱石が感じて

いたイプセン作品に対する親和性も、このような「自己本位」

の姿勢がその核にあると考えられる。では、漱石は自らの姿

勢と通底する「自己本位」をイプセン作品のどのような点に

見ているのであろうか。

(22)

三漱石のイプセン受容について

ここではまず漱石のイプセン受容のあり方について検討す

る。漱石が読んだイプセン作品とその時期については、次の

ようにまとめられる()1 8

〈購入時期、読書時期ともに留学時〉

・『ヘッダ・ガブラー』〈傍線あり〉

・『社会の柱・幽霊・社会の敵』(ThePillarsofSociety,

Ghosts,andAnEnemyofSociety )〈書き込み、傍線と

もにあり〉

・『人形の家』(ADoll'sHouse

・『ブラン』(Brand )〈但し、読書時期は不明〉

〈明治三十九(一九〇六)年頃に購入、明治四十(一九〇七)

年中頃から後半頃にかけて読書〉

・『棟梁ソルネス』(TheMasterBuilder )〈書き込み、傍

線ともにあり〉

・『小さなエイヨルフ』(LittleEyolf)〈書き込み、傍線と

もにあり〉

・『私たち死んだものが目覚めたら』(WhenWeDead

Awaken )〈書き込み、傍線ともにあり〉

・『ヨーン・ガブリエル・ボルクマン』(JohnGabriel

Borkman)〈傍線あり〉 〈明治四十(一九〇七)年に購入、明治四十(一九〇七)年

後半頃に読書〉

・『ロスメルスホルム・海の夫人』(Rosmersholmandthe

LadyfromtheSea

次に評論や談話において、漱石がイプセンに直接言及して

いるものを時期ごとにまとめ、その全体的な傾向を確認する。

『漱石全集』の調査をもとに、漱石が評論や談話でイプセン

に言及しているものは以下の如くである。小説で触れている

ものも併記した。

〈明治三十九(一九〇六)年〉

・談話「夏目漱石氏文学談」(八月)

・談話「文学談」(九月)

・小説『草枕』(九月)

〈明治四十(一九〇七)年〉

・小説『野分』(「ホトトギス」(一月)

・評論(もとは講演)「文芸の哲学的基礎」(五月~六

月)

・『文学論』(もとは講義)(五月)

・評論「虚子著『鶏頭』序」(十二月)

(23)

〈明治四十一(一九〇八)年〉

・談話「愛読せる外国の小説戯曲」(一月)

・評論(もとは講演)「創作家の態度」(四月)

・談話「近作小説二三に就て」(六月)

・小説『三四郎』(「東京朝日新聞」九月~十二月)

・談話「文学雑話」(十月)

〈明治四十二(一九〇九)年〉

・談話「予の希望は独立せる作品也

予の描かんと

欲する作品」(二月)

〈明治四十二(一九〇九)年〉

・小品(随筆)『思ひ出す事など』(十月~翌年二月)

〈明治四十五(一九一二)年〉

・談話「ノラは生るゝか」(二月)

〈大正三(一九一四)年〉

・評論(もとは講演)「模倣と独立」(一月)

これらを見てまずわかることは、漱石のイプセンに対する

言及が主に明治三十九年から明治四十一年頃に集中している

ことである。また、この時期にイプセン作品を数多く読んで

いる。これらはいくつかの要因が考えられる。まず、単純に この時期において漱石は談話や講演の機会が多かった。また、

このころにイプセンが一種のブームとなったことも影響して

いるだろう()。しかしもちろんそれだけではない。明治四十

1 9

年三月に朝日新聞社の専属作家となる漱石であるが、明治三

十九年頃からすでに大学を辞めて作家として生きていくこと

を考えていた。そのような中、自らの文学に対する考えを検

討する上で、イプセン作品が参考にされたのである。

漱石のイプセンに対する評価は、一貫して高かった。先に

触れた三重吉への書簡の他にも漱石はイプセンについて、そ

の作品を高く評価するような言葉を述べている。例えば談話

「愛読せる外国の小説戯曲」()において漱石は、「イブセン

2 0

は豪い」と述べている。また談話「予の希望は独立せる作品

予の描かんと欲する作品」()では、漱石は自らの書こ

21

うとする作品に関して、「何者の支配命令も拘束も受けずに、

作品其物を作り上げるを目的として作られた作品」と述べ、

その観点からイプセン作品を高く評価している。先に見たよ

うに、漱石が感じていたイプセン作品に対する親和性は「自

己本位」の姿勢に関わるものであった。ここでは、これらの

うちで『野分』が書かれた明治三十九年頃を中心に、「自己

本位」の姿勢と関連したものについて検討する。

評論や談話において漱石がイプセンに関して言及している

ものの中で、最も古いものは「夏目漱石氏文学談」()である。

2 2

この談話はまず、漱石が島崎藤村の『破戒』を非常に高く評

価していることが語られ、そこから漱石は「文学は進めば進

(24)

むほどある意味に於て個人的なものである」という考えを述

べる。「個人性」というのは、漱石が「たとへば日本の旧派

の和歌などといふものは、作者の名を消して見ればどれも

殆ど同様で、一つも明瞭に作者の個人性といふものが現

はれてゐない」と述べていることからも、作者の「個性」と

して捉えてよいだろう。漱石はここで、文学における作者の

オリジナリティとしての「個人性」の重要性を指摘しており、

そのような問題との関連でイプセンについて次のように言及

する。

あくまでも個人の自由を十分に与へて働かして見なけれ

ばいけない。しかし現今の文明が又一方に於てこの個人

主義に対するレリング、テンデンシー(平衡的傾向)

とでもいつたやうな傾向があつて、個人的な傾向ばかり

進まして置かぬやうになつてゐる。つまり強い烈しい個

人主義と、これを平均しやうとする一般の傾向と、この

二つの相反した傾向が妙な具合に並んで進んで行くので

す。詳しく言へば少しは面白い事が云へさうです。で個

人主義のことを自覚といつても、無論悟りといふのとは

違ひませう。イブセンの描いた人物などが、このレ

リング、テンデンシーに対して個人主義の矛盾を自覚し

たものでせう。

(「夏目漱石氏文学談」) ここで漱石は、文学の「個人主義」の重要性について語る

一方で、それに反する傾向としての「レリング、テンデ

ンシー(平衡的傾向)とでもいつたやうな傾向」の存在を指

摘している。この問題について中村都史子氏は、『草枕』に

おける画工の文明論とともに、近代社会の「個人の解放」と

それと「ひきはがすことの出来ない裏面として、個性の平準

化、画一化」を漱石が指摘しているとし、そこに漱石とイプ

センに共通の問題として「エリート対大衆の対立的葛藤の問

題」を見ている()。このことは後でも見るように重要な指摘

2 3

であるが、ここではまず漱石が自らの主張する文学の「個人

性」の意義を、イプセン作品を通して説明している点に注目

したい。文学と「個人性」の問題はこの当時における漱石の

主要な問題であった。先にも触れた『文学論』の「序」にお

ける「自己本位」の重要性の指摘、西洋の評価におもねるこ

となく、自らの評価基準を確立する必要性を漱石が述べてい

ることに加え、この「個人性」ということについては、この

頃の談話で頻りに繰り返されている。

それではこの時期に漱石が強調する「個人性」とは如何な

る意味での「個人性」であるのか。それから一ヶ月後の談話

である「文学談」()を参照したい。漱石はこの談話で、「何

2 4

うしても小説には道徳上に渉つたことを書かなくてはならな

い」と述べ、「文学は矢張り一種の勧善懲悪」であるとする。

そしてそのために、「作者は我作物によつて凡人を導き、凡

人に教訓を与ふるの義務があるから、作者は世間の人々より

(25)

は理想も高く、学問も博く、判断力も勝ぐれて居らねばなら

ない」ことを強調する。そしてこの「道徳上」の「勧善懲悪」

について、「自己の見識に負かぬ様に」することを強調し、

その代表としてイプセンを挙げている。ここから先にみた「個

人性」というのが、「道徳上」の問題における「個人性」で

あると捉えられる。このように漱石は文学の道徳性と、個性

の発露という点を挙げ、その代表の一つとしてイプセンを捉

えている。

問題は、このような高い見識による「個人性」の意義であ

る。それは漱石がイプセンの文学の意義をどのように捉えて

いたのかという問題でもある。この点について、先の「夏目

漱石氏文学談」の内容に対応するものとして『文学論ノート』

に次のようにある。

文芸ノindividual ナルハ所々ニ述ベタリ.而シテ皆有益

ナリ一ヲトリ他ヲ棄ツベカラズ.惰弱ノ人ニハ雄壮(殺

伐ナルモ)ナル文学趣味ヲ吹キ込ムベシ殺伐ナル者ニハ

平和文学ヲ教フベシ.名利ニ齷齰タルモノニハ名利以上

精神界アルヲ感ゼシムベシ.壺中ノ天地ニ独住スル者ニ

ハ天下ノ志ヲ起サシムベシ要ハ時弊ニ適スルニアリ.又

人々ノ弊ヲ拯フニアリ.

故ニ外国ニ賞翫セラルヽ者必ズシモ可ナラズト知ルベ

シ.又他ノ賞スル方必ズシモ妙ナラザルヲ知ルベシ.弊

極マレバ之ニ反抗スル文学ハ必ズ生ズベシ是人間ノ性情 ヲ満足スルニ必要ナレバナリIbsen 然リTolstoi 然リ

(「文芸のPsychology 」()25 注目すべきは、「文芸ノindividual 」が、「弊極マレバ之ニ

反抗スル」ものとして捉えられている点である。「個人性」

は、決して単純な個人の見解というものではなく、「時弊ニ

適」し、「人々ノ弊ヲ拯フ」ものとして考えられている。つ

まり、漱石はイプセンの「個人性」を、単なる利己的なもの

としてではなく、より広く社会性を持つものと捉えているの

である()。イプセンが高い見識を持った作家であるという漱

26

石の評価は、この点を土台にしたものと考えられる。

四『文学論』とイプセン『社会の敵』

以上をもとに、具体的な文脈をもとにイプセン作品が漱石

に与えた影響を考察する。イプセン作品のうち「自己」とい

う言葉でまず思い浮かぶものは、『人形の家』のノラや『ヘ

ッダ・ガブラー』のヘッダであろう。しかし先に見たように、

漱石がヘッダを「徹頭徹尾不愉快な女」と嫌悪しており、ま

た『野分』の次に執筆された『虞美人草』()で、「我の女」

2 7

藤尾を「嫌な女」と述べ()、殺していることを考えると、先

28

に見た漱石の共感がこれらの作品にあると考えるのは的外れ

に思われる。また『ブラン』については、道也が演説で「行

ける所迄行くのが人生である」(十一)、「斃るゝ覚悟をせね

参照

関連したドキュメント

Horikoshi Characteristics of multivalent impurity doped C60 films grown by MBE 14th International Conference on Molecular Beam Epitaxy, Tokyo, Japan, September 3-8, 2006..

Cioffi, “Pilot tone selection for channel estimation in a mobile OFDM systems,” IEEE Trans.. Sunaga, “Rayleigh fading compensation for QAM in land mobile ra- dio communications,”

士課程前期課程、博士課程は博士課程後期課程と呼ばれることになった。 そして、1998 年(平成

[r]

 工学の目的は社会における課題の解決で す。現代社会の課題は複雑化し、柔軟、再構

区分 授業科目の名称 講義等の内容 備考.. 文 化

14 主な研究書に以下のものがある.Andrezej Jakubowski, Cultural Rights as Collective Right: An International Law Perspective (Brill, 2016). Lillian

VII (Richard Bronaugh ed. Kahan et al., Whose Eyes Are You Going to Believe? Scott v. Harris and the Perils of Cognitive Illiberalism , 122 Harv. Langbein, The German Advantage