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― オスマン 朝 における 文書 ・ 帳簿 の 作成 と 保存

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(1)

1 .オスマン朝の残したアーカイブズの特徴

 オスマン朝は膨大なアーカイブズを今日まで伝えている点で、非西欧世界の歴史研究におい て傑出した地位を占めている。オスマン朝のアーカイブズの世界最大のコレクションは、トル コ共和国のイスタンブルにある総理府オスマン文書館Başbakanlık Osmanlı Arşivi : 地図の1に所蔵 されているが、その数は実に

1

5

千万点以上と推定されている1。ついでトルコ第二のコレク ションは、規模はずっと小さくなるが、やはりイスタンブルにあるトプカプ宮殿博物館古文書館

Topkapı Sarayı Müzesi Arşivi : 地図の2において収蔵されている。ここのアーカイブズは、紙葉体の文

E.=evrak分類と冊子体の帳簿D.=defter分類に大別して整理され、各々の請求番号は文書分

類が

E.1

から

12476

まで、帳簿分類が

D.1

から

10775

までとなっているが、文書に関しては、一 つの請求番号のもとに複数の文書からなりたつ一つの文書群が整理されていることが多いため、

文書の実際の点数は約

15

3

千点とされている2

 大量のアーカイブズが残されているのは、オスマン朝が

14

世紀から

20

世紀初頭までの長期に わたって存続した国家であったことや、首都イスタンブルが戦火にさらされなかったことにも理 由が求められるであろう。しかし伝存するアーカイブズがかくも膨大である最大の理由は、オス マン朝の官僚機構が、たとえば勅令の草稿のような文書の発給過程で生産される個別の文書まで も、一連の文書処理の終了後には不必要になったと考えられるにもかかわらず、基本的には極 力廃棄せずに保管したことにあると思われる。ちなみに意図的な文書の廃棄がそれほど行われ なかったということは、一度文書が作成された料紙は再利用されることが少なかったということ でもあり、紙背文書の存在はオスマン朝においては知られていない。文書の料紙が再利用されな かったのは、オスマン朝の文書処理の方法にも原因を求めうる。一連の文書処理過程の中で同一 の料紙の余白や裏面に次々と別の様式の文書が作成された結果、同一の料紙の上に複数の様式

オスマン 朝における 文書・ 帳簿 の作成 と保存

18 世紀から 19 世紀初頭を中心に

Formation and preservation of the 18th and early 19th centuries Ottoman archives

髙松洋一

TA K A M AT S U Yo i c h i

(本COEポスト・ドクター研究員)

(2)

の文書が共存することがまれではない。したがって任意の

1

枚の料紙からなる文書を眼前にして、

その文書をいかなる呼称でもって記述すべきかは、しばしば困難をともなうことになる3。  さらにこの膨大なアーカイブズのもう一つの特徴は、ほとんど全てがオスマン朝の公権力に よって発給されたか、受領されたりしたかした公文書であることである。上述した二つの機関の 成立の起源が、総理府オスマン文書館は大宰相府、トプカプ宮殿博物館古文書館は宮廷であった ため、各々が所蔵するアーカイブズが公文書中心であることは当然とも言えるが、オスマン朝期、

ことに

19

世紀後半以前の私文書の現物の伝存例は極めて希少である。その結果として、膨大な アーカイブズが残されているにもかかわらず、特定の家系や人物の私的な活動を知ることは相当 に困難なのである。膨大な公文書の存在と、私文書の希少さが、オスマン朝のアーカイブズの大 きな特徴であると言えよう。

 意図的な廃棄がそれほど行なわれなかったとはいえ、オスマン朝のアーカイブズの相当部分は 火災や劣悪な保管のために失われてしまい、今日残存している圧倒的多数は

19

世紀後半以降に 作成されたものである。つまり

1830

年代に一連の「西欧化」改革のもと省庁制の施行と文書の

イスタンブル市内地図

1 総理府オスマン文書館/2 トプカプ宮殿博物館古文書館/A セフェルリ・コウシュ(内廷の小姓の寮)

B 財庫(外廷)/C 大宰相府「足枷の区画」/D 公文書館(ハズィーネ・イ・エヴラーク)

E イブラヒム・パシャ宮殿/F アヤソフィア・モスク

(3)

規格の統一化が行われ、文書の総量が爆発的に増加した後の時期に属するものである4。逆に言 うと、

17

世紀以前に遡る文書は相対的に非常に数が少なく、アーカイブズの作成・保存の実態 を実証するに十分な材料を得ることはできない。そこで本稿では、作成・保存の解明が可能な程 度にアーカイブズの伝存量が増加し、なおかつ大規模な改革が始動する以前の

18

世紀から

19

紀初頭を考察の対象とすることとしたい。

2 .オスマン朝のアーカイブズに関する研究

 アーカイブズの作成や保存に関する研究は、古文書学、アーカイブズ学(文書館学)、歴史学の 立場からそれぞれアプローチが可能である。しかしながら、オスマン朝のアーカイブズに関して は、いずれのアプローチからも従来十分な研究がなされてきたとは言い難い。

 オスマン朝のアーカイブズに関する近代的な古文書学研究は、中東欧の研究者により自国史 研究の補助科学として始められた。そのため、研究の素材は自国内に残されたものが中心であ り、オスマン朝の首都イスタンブルに残された膨大なアーカイブズを利用したものではなかった のである。トルコ共和国における古文書学研究も当初はハンガリーの研究の影響が強かったこ ともあり、自国に残されたアーカイブズの全体を包摂するような研究は、最近までなされなかっ た5。またこれまでの研究は、文書の形態論と様式論を中心に蓄積がなされる一方で、機能論お よびとりわけ伝来論に関しての研究はほとんどなされてこなかった。つまりアーカイブズがいか に作成・保存されたかという問題は全くといってよいほど取り上げられなかったのである。

 一方、オスマン朝のアーカイブズに関するアーカイブズ学的な研究は、よりいっそう立ち後れ た状況である。特にトルコ共和国において、この分野の研究成果が乏しいことが目に付き、膨大 な材料に恵まれながらも、理論的な業績は皆無と言ってよい。アーカイブズ学の分野での見るべ き業績は、総理府オスマン文書館の利用案内などごくわずかなものに限られている6。これらの 業績で注目に値するのは、アーカイブズ学の基本をなす二つの根本原則のうち、もっぱら「出所

原則Provinienzprinzip」のみが強調され、「原秩序尊重の原則Registraturprinzip」に関してはなんら

言及がなされていないことである7。また出所原則を強調しながらも、当該の機関に所蔵される 史料が、今日までにいかなる経路をたどって収蔵されるに至ったかという点に関しては、全くと いってよいほど注意が払われていない。このことは、古文書学において伝来論の研究が、ほとん どなされてこなかったこととも密接な関係があると思われる。

 さらにオスマン朝のアーカイブズの作成や保存の実態の解明は、そのほとんど全てが公文書で あるという特徴に鑑みて、歴史学、とりわけ官僚機構の研究と不可分であると思われる。しかし ながら、オスマン朝の官僚機構においてアーカイブズがいかなる扱いを受けていたかという問題 について、制度史、行政史の研究において若干の言及は見られるものの、これといった専論はな く、不明な点が非常に多い8

 総じてオスマン朝のアーカイブズに関する研究は、古文書学の形態論、様式論を除けば蓄積 が少なく、特にその作成や保存に関しては、古文書学、アーカイブズ学、歴史学のいずれの立場

(4)

からも研究が少ない。そこで本稿は、上記の

3

つのアプローチを考慮に入れつつ、オスマン朝の アーカイブズの生成と伝来の過程について若干の考察を試みたい。

3 .文書・帳簿の作成

 オスマン朝のアーカイブズは文書と帳簿からなりたっている。両者の関係は緊密であり、文書 の内容は帳簿に記入され、帳簿の内容は文書に書き写され、両者は不即不離の関係にあったと言 える。オスマン朝の文書行政の中心をなしたのは、首都における二大官僚機構、すなわち大宰相

Bāb-ı Āafīと財務長官府Bāb-ı Defterīであった。このうち大宰相府はひろく内政、外交一般

を統括したが、財政の分野でも、直接国庫の現金の出し入れをともなわない知行tīmārの管理 を職掌としていたことが特筆される。一方、財務長官府は国庫を管理し、財政一般を統括してい たが、上述のように知行の問題は大宰相府の管轄であったために、関与しなかった。両者の内部

はカレムalemとよばれる部局に分かれ、実際の業務はこれを単位として行われていた9。カ

レムはそれぞれの職掌に関わる帳簿を保管し、さまざまな文書を発行、受領していた。なお各カ レムは、人員の多寡、職務の重要度の点で差違は小さくなかったが、基本的には対等であった。

 もっともオスマン朝の中央の組 織において、アーカイブズが蓄積 されたのは、官僚機構に限らな かった。オスマン朝の最高権力者 である君主の宮廷もまた、官僚機 構と並んでアーカイブズが保存さ れる場となった。大宰相は、君主 の絶対の代理人として官僚機構の 頂点に立ってはいたが、政策決定 過程において形式的であるにせよ、

たえず文書による上奏を行ない承 認を得る必要があったからである。

上奏された文書は大宰相に返却さ れることが多かったが、君主の手 元に留め置かれることもあったの である10

 

18

世紀後半のオスマン朝にお ける文書の流れを整理すると、た とえば大宰相府が接受した地方行 政官からの報告は、君主の上覧を

あおぐために、梗概を添えて大宰 1 18世紀後半のオスマン朝における文書の流れ 大宰相府

財務長官府 宮廷(君主)

命令 答申 上奏 命令

地方行政官 勅令 報告

��������

tel���1 �a��-ı hüm�yūn

ferm�n-ı ‘�l� tel���2

emr-i �er�f

図1:18世紀後半のオスマン朝における文書の流れの例 emr-i �er�f:勅令正本

ta�r�r�t: 地方からの報告類 tel���1: 大宰相から君主への上奏

�a��-ı hüm�yūn: 宸筆 ferm�n-ı ‘�l�: 大宰相の命令 tel���2:財務長官の答申

(5)

相によって提出されていた。君主は上奏に対する返答を、自らペンをとって余白に記して返却 する。それを受け取った大宰相は、たとえば国庫にかかわる問題であれば、個別の事案の処理を、

財務長官に命じる。財務長官は財務長官府内の該当するカレムに問題を処理させ、結果を大宰相 に答申する。大宰相はそれを受けて、大宰相府内のカレムで勅令を起草させ、勅令は最初に報告 をおこなった地方行政官に送られる。このようにして大宰相府を中心として、宮廷と財務長官府 の間でそれぞれ文書のやりとりが行われ、各々においてアーカイブズが形成されていたのである

(図1を参照)

 地方行政官からの報告が勅令としてフィードバックされるまでには何通りかの文書処理の方法 があり、紙幅の関係上ここでそれらを詳述することは出来ないが、その過程で何種類もの様式の 文書が作成された(図2を参照)。一度に送られてきた文書をまとめて箇条書きに要約した包括型梗 概と、各箇条を別の料紙に抜書きした項目型梗概の作成を文書処理の柱として、これらの文書は 様々な補筆を受けながら、部局間でやりとりされていたのである11

 また文書処理の結果とし て作成された勅令のテキス トは帳簿に記録され、後の 文書処理の先例となった。

同様の事案の処理が必要と なった際に、これらのテキ ストは帳簿から抜書きされ て新たな文書のテキストに なったのである(図3を参照)。  以上を要約すれば、オス マン朝における文書処理過 程は、勅令テキストの生成・

蓄積・転用の過程を中心に し て い た と言え る12。一つ のテキストが様々な様式の 文書に姿を変えて、部局間 で流通し、蓄積されていた の で あ る(図 版1,2,3,4,5を参 照。 その結果として、オスマン 朝の官僚機構においては膨 大なアーカイブズが形成さ れることとなったが、その 中には様式は異なるものの

2 18世紀後半のオスマン朝官僚機構における文書処理過程その1 +ferm�n-ı ‘�l�

+�a��-ı hüm�yūn

+ferm�n-ı ‘�l� +ferm�n-ı ‘�l�

+der-ken�r

+der-ken�r +der-ken�r

ta�r�r�t

�ul��a1 tel���1

�ul��a2

�ul��a2 �ul��a2

tel���2 tel���2

+ferm�n-ı ‘�l� +ferm�n-ı ‘�l�

müsvedde

müsvedde müsvedde ��ret

ta�r�r�t: 地方からの報告類

�ul��a1: 包括型梗概 tel���1: 大宰相から君主への上奏

tel���2:財務長官の答申 ferm�n-ı ‘�l�: 大宰相の命令 der-ken�r:帳簿からの抜書き

�ul��a2:項目型梗概

müsvedde: 勅令草稿

図2:18世紀後半のオスマン朝官僚機構における文書処理過程その1

�a��-ı hüm�yūn: 宸筆

+ferm�n-ı ‘�l�

��ret: 勅令草稿の写し

‘ilmü�aber:通知

‘ilmü�aber

+ferm�n-ı ‘�l� +ferm�n-ı ‘�l�

?

(6)

内容的には同工異曲の史料がしばしば見出されるのも事実である。

4 .文書・帳簿の保存

 大宰相府や財務長官府といった官僚機構において、あるいは宮廷においてアーカイブズがどの ような形で保管されてきたかについては、上述したごとくほとんど研究がない。いくらかでも具 体的な情報を知ることができるのは、わずかに

18

世紀後半の状況にすぎない。しかしながら少 なくとも

18

世紀後半においては、アーカイブズが文書か帳簿か、出所が大宰相府か財務長官府 か、あるいは作成年代の新旧で、異なる扱いがとられたことがわかっている13

 まず、当座の執務に使用される帳簿は、上述したごとく各カレムにおいて保管されていた。こ れらが日常の業務の遂行上、必要に応じ、参照され、追記されていったことは明らかである。こ れは大宰相府、財務長官府のいずれのカレムにおいても同様である14

 さらに、カレムにおいて保管されている以外のアーカイブズ、すなわち文書および当面の執務 に必要のない帳簿は、月

ごとに袋詰めされ、さら に袋は年ご と に櫃に収 められて保管された15。  こ の う ち大 宰 相 府で 作 成さ れ た ア ー カ イ ブ ズは、さらに比較的新し い も の と古い も の と で 異なる扱いを受けた。比 較 的 新し い ア ー カ イ ブ ズに関しては、大宰相府 内に あ る倉 庫mazen が文 書 庫と し て利 用さ れた。すなわち参照の必 要の可 能 性の高い最 近 の も の は、カ レ ム の近 く に保 管さ れ た の で あ る。大 宰 相 府は何 度か 大き な火 災に見 舞わ れ たことがあるが、アーカ イ ブ ズ は大 宰 相 府の敷 地の一角にあった「足枷 の区 画omru dā’resi :

defter

mühimme defteri emr-i�er�f

��ret müsvedde

�ul��a2

emr-i��ret: 勅令草稿の写し�er�f:勅令正本

‘ilmü�aber:通知

defter: 財務長官府内の帳簿 (�ayd): 記録

(der-ken�r): 抜書き mühimme defteri: 枢機勅令簿 müsvedde: 勅令草稿

図3:18世紀後半のオスマン朝官僚機構における文書処理過程その2

‘ilmü�aber

(�ayd) (�ayd)

(�ayd)

(der-ken�r)

(der-ken�r)

�ul��a2:項目型梗概

3 18世紀後半のオスマン朝官僚機構における文書処理過程その2

(7)

図のC」の倉庫に保管されていたとされている16。一方古いアーカイブズは、トプカプ宮殿の外 廷にあった財庫azīne-i hümāyūn : 地図のBに収められていた17

18

世紀には大宰相府と宮廷は制 度的にも物理的にも完全に分離していたが、オスマン朝の国政機能が宮殿の「ドーム下の間

ubbe altı」で行われる御前会議dīvān-ı hümāyūnに集中していた時代には、アーカイブズはもっぱ

らドーム下の間に付属する部屋で保管されていた。大宰相府が独立した後においても、その古い アーカイブズが、トプカプ宮殿のドーム下の間に隣接する財庫に送られ、そこで保管されたのは、

この名残とも考えられる。

 一方、財務長官府のアーカイブズは、ヒッポドロムAtmeydānıの近くで保管されていたこと が知られている。研究者により、その保管場所は「古倉庫mazen-i ‘atī」とも「天幕係の兵舎

mehterān-ı ayme kışlası」とも言われ、一致をみないように見える18。しかしながら、これらは結局、

いずれも全てヒッポドロムに東面し、時代によって様々に転用された旧イブラヒム・パシャ宮殿

İbrāhīm Paşa Sarāyı : 地図のEの敷地にあった建物を指していると考えられる19。実際

1930

年代にお

いてなお、相当な量のアーカイブズが、比較的良好な保存状態で旧イブラヒム・パシャ宮殿に保 存されていたことが知られている20

5 .アーカイブズの伝世

 オスマン朝のアーカイブズが今日まで伝世するにあたって

1846

年に設立が決定され、

1848

に完成した公文書館azīne-i evrā : 地図のDの存在が大きかったことは否定できない。総理府オ スマン文書館の前身で、タンズィマート改革の一環としてムスタファ・レシト・パシャMuafā

Reşīd Paşaが西欧に範を取って設立したこの近代的な文書館は、保存状況のよくない場所に分散

して保管されていたアーカイブズを、参照の便のために一括して保管するために建設された。タ ンズィマート期以降のアーカイブズが今日まで比較的よく整理され、良好な保存状態で伝存して いることは、この公文書館が果たした役割が大きかったことを物語っている21

 しかしながら、タンズィマート期以前のアーカイブズに関しては、設立の意図に反して、この 公文書館は積極的な貢献をもたらさなかったのである。なぜならタンズィマート期以前に作成さ れた古いアーカイブズは、実際には公文書館の当面の収蔵の対象から外れてしまったからである。

そのためこれらは、保管場所が一定せず、その後もイスタンブル内で移転を繰り返したばかりか、

かえって保存状況が悪化するという事態を招いたのであった。さらにトプカプ宮殿は、

1850

代に新市街にヴェルサイユ宮殿を模したドルマバフチェ宮殿が建設されると、宮殿の機能を失っ て顧みられなくなり、倉庫にあったアーカイブズも劣悪な状況のまま放置されていた。またアー カイブズの一部はいつからかアヤソフィア・モスクAyaofya Cāmi‘i : 地図のF

1

階に置かれるよ うになっていた。これらはさらにドイツ皇帝ヴィルヘルム

2

世のアヤソフィア訪問時に、参観の 障害になるという理由で

2

階ギャラリーに移動されたという22。こうして公文書館の収蔵対象か ら取りあえず外されたこれらのアーカイブズは、様々な場所に移転を繰り返しているうちに、本 来大宰相府を出所とするそれと財務長官府を出所とするそれとが混交してしまったと考えられ

(8)

23

 このように公文書館の果たした役割は、タンズィマート期以降のアーカイブズに関しては、い くら強調しても強調しすぎることはできないが、それ以前のアーカイブズに関しては、公文書館 設立後にかえって保管状況が悪化してしまったことは、皮肉な事実であると言わねばならない。

 このような劣悪な状態におかれた古いアーカイブズが再び日の目を見たのは、ようやく

20

世紀に入り、青年トルコ革命でアブデュルハミト

2

世の専制が終焉を迎えて以後のことである。

1909

年、オスマン歴史学協会の会長で、最後の修史官でもあったアブドゥッラフマン・シェレ フがトプカプ宮殿の倉庫にあった文書を再発見し、大宰相府の敷地にあったジェヴァト・パシャ

図書館Cevād Paşa Kütübānesiに移転した。彼がトプカプ宮殿の倉庫に入ったとき、長年の雨漏り

や湿気などにより、アーカイブズがいかに悲惨な状況におかれていたかが、オスマン歴史学協会 の会報創刊号の巻頭論文で述べられている。それによれば、この時ジェヴァト・パシャ図書館に 運び込まれたアーカイブズの分量は、荷車

518

台分に上ったというから、いかに大量であったか が想像される24。こうしてオスマン朝の古いアーカイブズはようやくにして脚光を浴び、整理の 機運が盛り上がるかに見えた。

 しかしながら、この時移管されたアーカイブズが実際に整理に着手されるまでには、なおも時 間を要した。ジェヴァト・パシャ図書館内の文書の整理が開始されたのは、移転後

10

年近くが 経過し、オスマン朝の終焉も近づいた、

1918

年のことであった。このとき整理にあたったのは、

文献学者、古典籍の蔵書家として名高い碩学アリー・エミリー‘Alī Emīrīであった25。ところが 専門のアーキビストではなかったため、彼が採用した分類原則は、近代的なアーカイブズ学の原 則にのっとったものではなく、オスマン朝の歴代の君主の在世により文書をえり分け、番号づけ をするというものであった。その上アリー・エミリーは病気を理由に、大半の文書が未整理のま ま、

1921

年に整理作業を辞してしまった。

 文書の整理作業は同年中に、伝記作者として知られるイブニュルエミンİbnülemin Mahmud Kemal İnalによって受け継がれた26。ところが彼は、アリー・エミリーの分類原則を踏襲せず、時間軸 とは無関係に分野別に文書を整理するという方針を採用した。これもまた近代的なアーカイブズ 学の原則にのっとったものではないことは言うまでもないが、分野の立て方といい、分野の帰属 の判定といい、整理者の主観に大きく左右されるという点で、むしろアリー・エミリーの分類よ り後退してしまっていると言える。ただしイブニュルエミンが整理した文書のほとんどが

18

紀より前の時代のものであることから、彼の作業はアリー・エミリーによる年代別の整理の基盤 に立ち、おそらく古いものから順に整理に着手したのではないかと考えられる。しかし彼の整理 作業もまた未完のまま、オスマン朝の終焉とともに頓挫してしまったのである。

 オスマン朝政府の崩壊、トルコ革命、新生トルコ共和国の成立という動乱期にあって、オスマ ン朝時代のアーカイブズが顧みられなかったことは言うまでもない。ジェヴァト・パシャ図書館 に移転された旧トプカプ宮殿所蔵のアーカイブズも、旧イブラヒム・パシャ宮殿の倉庫に所蔵さ れていたアーカイブズも、しばらくの間は整理作業が行われることなく放置されていた。

(9)

 しかし事態は

1931

年になって急転した。イスタンブル財務局の管轄にあったオスマン朝期の アーカイブズの一部が、古紙として数十トンもブルガリアに流出してしまったのである27。文書 を買い取ったのは、ブルガリアで製紙工場を経営するスイス企業であったが、幸いにもトルコ政 府の連絡を受け、製紙原料として溶解されるという最悪の事態は回避された。しかしながら、た びたびのトルコ政府による返還要求にもかかわらず、ブルガリア政府は一部を返還しただけで、

主要な部分はブルガリア国内に留まった。ちなみにこのときブルガリアに運ばれたオスマン朝 のアーカイブズは、現在ソフィアの国立図書館の東洋部Народна Библиотека Св. Св. Кирил и Методий,

Ориенталиския Отделに収蔵され、総理府オスマン文書館に次ぐ世界第二のコレクションとなって

いる。

 アーカイブズの流出という事態をうけ、トルコ国内においても、オスマン朝のアーカイブズ の保護、整理を求める機運が高まった。こうして

1932

年、ブルガリアへの売却を告発し、保護 運動の先頭に立っていた、ムアッリム・ジェヴデトMuallim Cevdet İnançalpを首班とする委員会 により、ジャヴァト・パシャ図書館の文書の整理が再開された28。このときの整理は、さきのイ ブニュルエミンの整理法を踏襲し、分野別に行われたが、分野の項目数がイブニュルエミンの時 よりも増えたため、分類基準は必ずしも一致していない。また分野分けの判定が恣意的だったこ とは、同一人物を差出人とする、同一の内容の日付の異なる嘆願書が、複数の分野にまたがって 別々に整理されていることからも明らかである。結局ムアッリム・ジェヴデトらによる整理は数 年間継続したが、ジェヴァト・パシャ図書館にあった全ての文書を分類しおえるには至らなかっ たようである。しかしながらイスタンブルに分散していたアーカイブズの収集は徐々に進んでい き、

1936

年には、アヤソフィアの倉庫にあった文書がジェヴァト・パシャ図書館に移転された。

 こうした中でオスマン朝のアーカイブズの整理にとって画期となったのは、

1937

年、ハンガ リーより古文書学者フェケテFekete Lajosが招聘されたことである29。フェケテは翌々年にも滞 在し、イスタンブル内に分散していたオスマン朝のアーカイブズの現状を調査・報告するととも に、はじめてトルコ共和国の文書館に出所原則を紹介した。かくしてこれ以後総理府オスマン文 書館の所蔵のアーカイブズは全て出所原則に基づいて整理されることとなった。さらにフェケテ は、出所の特定の相対的に容易な帳簿の整理を、文書に優先することも提言した。この提言を受 けてキャーミル・ケペジKamil Kepeciによって出所のカレムごとに分類された帳簿群が、今日 キャーミル・ケペジ分類として知られるフォンドである30。さらに帳簿につづいて未整理のまま 残されていた膨大な文書も、徐々にではあるが整理が進み、今日では未整理のままだった

18

紀末までの文書のほぼ全てが、部局名がついたフォンドごとに分類されるようになったのである。

 こうして出所原則は、オスマン朝のアーカイブズの整理の基本原則として完全に根づいたので あるが、しかしながら奇妙なことに、フェケテが近代アーカイブズ学のもう一方の柱である原秩 序尊重の原則を紹介した形跡は見当たらない。前述のごとく、総理府オスマン文書館は、出所原 則に従っていることを今日常に標榜しているが、原秩序尊重の原則に言及した事実は管見の限り 皆無である。

(10)

6 .出所原則と原秩序尊重の原則から見たフォンドの特徴

 以上に述べた伝来の経緯をふまえた上で、各文書館におけるタンズィマート期以前の文書を含 むフォンドの特徴は、以下のように概観できよう31

 まず総理府オスマン文書館においてタンズィマート期以前の文書を含むフォンドは

3

つのグ ループに分けられる。

 第一は、出所原則が非適用のうえ、原秩序が完全に崩壊しているフォンドである。

Ali Emirî

İbnülemin、Cevdet

3

つのフォンドがこれにあたる。

 これら整理者の名で呼ばれているフォンドは、上述したフェケテが調査を行う以前に出所原則 を適用せずに個々別々の基準で整理されたものであり、上で見たごとく、

1909

年にトプカプ宮 殿からジェヴァト・パシャ図書館にもたらされた文書からなりたっていると考えられる。トプカ プ宮殿の倉庫には本来大宰相府のアーカイブズのうち比較的時代の古いものが収められていたは ずであるが、明らかに財務長官府の文書も混在している。また時代の下ったものの中には、トプ カプ宮殿が放棄された年代の文書も含まれているから、年代の面でもトプカプ宮殿の倉庫には何 らかの混入が生じてしまったことが理解される。

 第二は、出所ごとに再編されたフォンドである。ただし原秩序はすでに崩壊してしまって いることに注意する必要がある。このグループのフォンドは、

A.DVN

Bab-ı Asafî Divan-ı Hümayun

大宰相府御前会議局)、

D.BŞM

Bab-ı Defterî Başmuhasebeci Kalemi

財務長官府主 計局)のように出所のカレムを示すコードが付けられている。

 これらは、フェケテが出所原則を紹介してから、新たに整理されたものである。しかしなが らこの時点までに出所を異にするアーカイブズが混交してしまっていたため、一点ごとに新たに 検討を加え、カレムごとに整理し直したフォンドである。整理を開始した時点までに、これらの アーカイブズは移転を繰り返して、現用当時の秩序は失われてしまっていることは明らかである が、整理段階においてどのような形で伝存したかにかかわらず、後から推定された出所にもとづ いて整理し直されてしまったために、伝世の過程での秩序も崩壊してしまっている。またこれら の出所はあくまで推測にもとづくものであるために、明らかに不適切な分類を受けてしまってい る例も、残念ながら散見される。これらは、トプカプ宮殿からジェヴァト・パシャ図書館にもた らされた文書のうち、上記の

3

度にわたる整理作業に漏れたものに加え、アヤソフィアからもた らされた文書や旧イブラヒム・パシャ宮殿の倉庫にあったアーカイブズからなりたっているもの と推定される。

 第三は、出所が明らかでなおかつ原秩序が維持されているフォンドである。

Hatt-ı Hümayun

分類がこれにあたる。

 これは

19

世紀初頭に袋に封入されてトプカプ宮殿で保管されたのち、公文書館に移管され、

まとまってフォンドとして伝世している希有な例である。内容から、これは大宰相府の中で君主 への上奏文を起草し、君主の返信を受け取って保管していたアーメディー局āmedī alemiを出

(11)

所とする文書群であると考えられる。ただし一部に最近になってこのフォンドに追加された文書 を含み、これらに関しては、伝世経路は不明である。またアーメディー局を出所とする文書の全 てが含まれているわけではないことにも留意すべきである。

 一方、トプカプ宮殿博物館古文書館に所蔵されている文書は、 前述のように一括して

E.

では じまる整理番号のもとに単一のフォンドとして扱われており、フェケテによれば、

1937

年当時 においてトプカプ宮殿の旧セフェルリ・コウシュseferli koġuşu 内廷の小姓の寮 : 地図のAで保存され ていたアーカイブズである32。これらは大宰相府を出所として外廷の財庫に保管されていたアー カイブズとは別に、内廷において蓄積されていたアーカイブズであると考えられる。したがって 宮廷関係のもの、君主に提出されたものが中心であることは間違いない。しかしそれにとどまら ず、特定の名宛て人に関する文書群がまとまって整理されているのが、大きな特徴である。たと えば

E.37

として整理された文書群のうち名宛人が明示されているものは、全て

1785

年に処刑さ れたラーイフ・イスマイル・パシャRā’if İsmā‘īl Paşaに宛てられたものである。つまりこれは処 刑後の財産没収によって、故人の遺品として内廷の財庫に接収された中に含まれた文書群であり、

没収当時のまま分散せず原秩序が保持されているものと考えられる。このように特定の人物の手 元にあった文書をまとまった形で含むがゆえに、トプカプ宮殿博物館古文書館のアーカイブズは、

総理府オスマン文書館には基本的に存在しない種類の史料を含んでいる。たとえば中央から名宛 人の手に送られた勅令や大宰相の書簡の正文や、その人物が地方官をつとめた地域の住民からそ の人物に直接あてた請願書などである。したがって、数量は総理府オスマン文書館よりはるかに 劣るとは言え、トプカプ宮殿博物館古文書館のアーカイブズにはやはり固有の高い価値が認めら れるのである。

7 .まとめ

 以上で概観したように、オスマン朝の末期からトルコ共和国初期にかけて劣悪な保存状況のた めに、オスマン朝のアーカイブズの一部が湮滅してしまったことは明らかである。圧倒的な数量 を誇るオスマン朝のアーカイブズではあるが、利用の際にその量に幻惑されて、タンズィマート 期以前のものに関しては、相当部分が失われてしまっているという事実を忘れてはならない。ま たオスマン朝の末期からすでにアーカイブズの混交が生じて原秩序が失われてしまった以上、い ずれかのフォンドに特化して研究するという手法は危険である。前節においてまとめたように、

フォンドの分立状況はきわめて恣意的であるため、フォンドの違いは積極的な意味を持たない場 合が多い。とりわけ

Ali Emirî, İbnülemin, Cevdet

の三者には本質的な違いがないはずである33。  このようにオスマン朝のアーカイブズを利用するに当たっては、各フォンドの来歴に留意しつ つ、現用当時の秩序を自ら再建する必要性があるのである。

(12)

1 Başbakanlık. 2000b : xxxv. トルコ共和国総理府オスマン文書館の概要に関しては、林2003

参照。

2 Uzunçarşılı, Baybura & Altundağ. 1985 : viii, x.

3 さらに呼称の困難さを助長するのは、オスマン朝においては、文書の様式と呼称とが、多対 多対応の関係にあり、非常に複雑であることである。たとえばtelīという呼称の文書は、大 宰相から君主に対する上申文書の様式の呼称であるが、大宰相の要求に応えた財務長官の答 申に対しても同様に用いられる。その一方で財務長官の答申はi‘lāmと呼ばれることもあり、

さらにi‘lāmという語は、イスラーム法官から中央に送られる報告にも使用される。オスマン

朝のアーカイブズを理解するには、そのほとんどが公文書であるという性格上、当時の官僚 機構における用語法を正確に理解する必要がある。

4 1830年代以降の文書の変化に関しては、Akyıldız. 1995aを参照。

5 オスマン古文書学の研究史に関しては、Stojanow.1983を参照。トルコ共和国における最新に して最大の成果は、Kütükoğlu.1994 である。本書に関して詳しくは髙松1997を参照。

6 代 表 的な も の と し て は、Sertoğlu.1955, Çetin. 1979, Başbakanlık.1992, Başbakanlık. 1995, Başbakanlık. 2000bがあげられる。

7 出所原則および原秩序尊重の原則に関しては、安藤1986: 124-128、青山2004: 13-14を参照。

8 この問題に関して有益な情報を提供する制度史研究としてUzunçarşılı.1948, Ahsıkalı. 2001 あげられる。

9 カレムに関しては、Uzunçarşılı.1948, Findley. 1980, Doğan. 1999, 髙松2004bを参照。

10 宮廷と君主に関しては、いまなおUzunçarşılı.1945が基本文献である。

11 梗概という文書様式と、オスマン朝の官僚機構における文書処理の実態に関しては、髙松 1999を参照。

12 髙松2004aを参照。

13 Uzunçarşılı.1948: 76-78. Türkay. 1968: 44によれば、18世紀以降オスマン朝のアーカイブズ の保管状態は悪化したと言われているが、さしたる根拠はないように思われる。実際1785 には大宰相府の敷地内にアーカイブズを収蔵するための石造りの建物の建設が命じられてい る。 Türkay. 1968: 46-47, Aktaş. 1985: 67, Başbakanlık. 2000a : I, 104, II, 22.

14 財務長官府の帳簿の主要なものは、今日総理府オスマン文書館において「旧財務省移管帳簿

群(Maliyeden Müdevver Defterler)」として独立のフォンドを形成していることから、財務

長官府の諸カレムにあった帳簿の多くは財務長官府が財務省に改組された後、そこで保管さ れ続けていたものと考えられる。

15 Uzunçarşılı.1948: 77.

16 Elker. 1952: 183, Türkay. 1968: 44.

17 Uzunçarşılı.1948: 76, Türkay. 1968: 44-45.

18 Elker. 1952: 183, Türkay. 1968: 44-45.

19 イブラヒム・パシャ宮殿に関しては、Konyalı. 1942, Atasoy. 1972を参照。今日この建物は、

トルコ・イスラーム芸術博物館(Türk ve İslam Eserleri Müzesi)として利用されている。

(13)

20 Fekete. 1937: 28-29.

21 1848年に大宰相府の敷地内で完成した公文書館の活動に関しては、Elker. 1952, Aktaş. 1985, Akyıldız. 1995b, Başbakanlık. 2000aを参照。

22 Türkay. 1968: 45-46.

23 Elker. 1952: 183, Türkay. 1968: 45.

24 ‘Abdu’r-ramān Şeref. 1911a: 16-19. なおジェヴァト・パシャ図書館は、1891年から95 にかけて大宰相を務め、自身も軍事史家であったアフメト・ジェヴァト・パシャ(Amed

Cevād Paşa)が大宰相府の敷地内に職員のために建設させたものである。しかしながらこの

建物は、アブデュルハミト2世の翻意によって、図書館としては結局利用されなかった。İnal.

1940-1953 : 1531-1532.

25 アリー・エミリーの整理作業に関しては、Başbakanlık.1992 :393-394, Başbakanlık. 1995 : 3-7, Başbakanlık. 2000a :I, 384-389, II, 304-311, Başbakanlık. 2000b : 408-409を参照。

26 Başbakanlık.1992, Başbakanlık. 1995.

27 この事件に関しては、Başbakanlık.1993, Başbakanlık.1994aに詳しい。なおブルガリアにお けるオスマン古文書研究が、他の諸国に先駆けて独自の発展を遂げることができたのは、こ のときのアーカイブズの流出のおかげであると考えられる。代表的な研究としては、Недков.

1966-1972, Velkov. 1979, Велков. 1986があげられる。

28 ジェヴデトによるアーカイブズの保存運動及び整理作業に関しては、Ergin. 1937 : 106-209 詳しい。

29 Fekete. 1937. オスマン朝のアーカイブズに関するフェケテの貢献に関しては、Başbakanlık.

1994bを参照。

30 Başbakanlık. 1992 : 394-396, Başbakanlık. 1995 : 172-176, Başbakanlık. 2000b : 410-411.

31 総理府オスマン文書館におけるフォンドの現況に関しては、Başbakanlık. 1995, Başbakanlık.

2000bを参照。

32 Fekete. 1937: 32-33.

33 ただし一般的な傾向として、年代的にİbnülemin分類とCevdet分類は相補分布をなしている ため、研究対象の年代によってはどちらか一方だけをAli Emirî分類と合わせて見れば事足り る場合もあるであろう。

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(17)

図版1:BOA, Hatt-ı Hümayun 5318-F

エジプト州総督エブーベキル・パシャ(Ebū-bekir Paşa)から送られた書簡(mektūb)。書簡には通常日付を記さないが、同 時に送られた他の文書からヒジュラ暦1211年ラビー・アル・アウワル月11日(17961014日)のものとわかる。

(18)

図版2:BOA, Hatt-ı Hümayun 5318

ヒジュラ暦1211年ジュマーダー・アル・ウーラー月21(17961122)付の包括型梗概(h˘ulāşa)。エジプト州総督エ ブーベキル・パシャから送られたHatt-ı Hümayun 5318-Fなど書簡2点、カーイメ(kā’ime)5点を、ジッダ県知事兼エチオ ピア州総督ユースフ・パシャ(Yūsuf Paşa)から送られた書簡1点およびシュッカ(şukka)1点とともに13箇条に要約した もの。このうち第4条と第5条が書簡Hatt-ı Hümayun 5318-Fの要約にあたる。各箇条の上部余白に斜めに書かれた註釈は赤 インクで記されている。

(19)

図版3:BOA, Cevdet Dahiliye 5009

ヒジュラ暦1211年ジュマーダー・アル・ウーラー月21日(17961122日)付の項目型梗概(h˘ulāsa)。包括型梗概

Hatt-ı Hümayun 5318の第4条と第5条を別の料紙に書き抜いたもの。2箇条のテキストの下の余白に、案件に関して以前ど

のような勅令が発布されたかについて御前会議局に調査を命じる文言と、この問題に関しては過去に勅令が発布された記録 がないという1211年ジュマーダー・アル・アーヒラ月13日(17961214日)付の御前会議局の回答が見える。

(20)

図版4:BOA, Cevdet Dahiliye 5009

ヒジュラ暦1211年ジュマーダーアルアーヒラ月中旬(17961211-21日)の日付のあるエジプト州総督エブーベキル パシャ、シャイフ・アル・バラド(şeyhü'l-beled)のイブラヒム・ベイ(İbrāhīm Beg)、およびムラード・ベイ(Murād Beg)

(21)

図版5:BOA, Mühimme-i Mısır vol.10, p.256(No.574)

エジプト関係枢機勅令簿に記録されたヒジュラ暦1211年ジュマーダー・アル・アーヒラ月中旬(17961211-21日)の 日付のあるエジプト州総督エブーベキル・パシャらに宛てて発布された勅令の控え。No.574はページの最後に斜めに記され ている。テキストは勅令草稿Cevdet Dahiliye 5009と一致する。

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