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吉祥寺シアターにおける公設小劇場の試み

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ヴァンゲンハイム作『鼠落とし』 (1931)の制作における 千田是也の役割について

萩 原   健

1931年12月23日、ベルリン、クライネス・テア一 夕‑ (氾einesTheater、 「小劇場」)で、劇作家で俳優 のグスターフ・フォン・ヴァンゲンハイムGustavvon Wangenheim (1895‑1975)が率いる(劇団1931 Truppe 1931)の旗揚げ公演『鼠落としDie Mausefalle』が初漬 された。劇団は、 1929年の世界恐慌のあおりで空き家と なっていたこの劇場を8日間だけの客演のために借りた のだが、上演は当時広く名の知られていた批評家イェ‑

リングHerbertJheringが「この冬の最も興味深い、か つ重要な一晩」(1)と評すほどの大当たりとなり、その後 のドイツ各地とスイスでの旅公演も大成功を収め、総上 演回数は317回を数えたく2)。

この『鼠落とし』において注目されるのは、その制作 に演出家・俳優の千田是也1904‑94)が参加している ことである。この参加の事実についてはこれまでの先行 研究でたびたび触れられ、知られてはいるものの、その 仕事の内容や役割についての研究はほとんどなく(3㌧ ま たさらに言えば、滞独期を含めた両大戦間期の千田の演 劇活動がどのようなものだったかを明らかにする研究も ほとんどない。本稿では、 『鼠落とし』の制作に千田が どのような形で参加したか、そしてその参加が演劇史的 にみて、および千田のその後の演劇活動にとってどのよ うな意義を持つのかを明らかにし、またこれをもって、

両大戦間期の千田の演劇活動を探る今後の試みの第一歩 としたい。

1.千田の渡独、ヴァンゲンハイムとの出会い

そもそも、なぜ千田が『鼠落とし』の制作に参加する ことが可能だったのだろうか。彼は1924年以来、同年 創立の築地小劇場所属の新劇俳優として活動していた が、創立者の一人、土方与志をはじめとする一部の劇団 員たちと同様、政治的に左翼の傾向を強めるにしたがっ て、西洋の古典ではなく、同時代の西洋の左翼演劇、特

にドイツのそれに大きな関心を寄せ、 27年にはベルリン に渡って当地の演劇を研究していた。 29年、映画監督の 衣笠貞之助が自作『十字路』 (1929)のヨーロッパ公開 のための協力を千田に依頼すると、千田は衣笠とともに 各方面‑打診、これに最初に関心を示したのがヴァンゲ ンハイムだっ,(4)。千田はフリッツ・ラングFritzLang 監督の『月世界の女FrauvomMond』 (1929 の撮影を 見学し、ここで監督と議論をしていたヴァンゲンハイム に、撮影終了後、 『十字路』の話をもちかけたのだった。

一方、ヴァンゲンハイムは演出家ラインハルトMax Reinhardtのもとで活躍した名優ヴインターシュタイン Eduard vonWintersteinの息子で、ラインハルトの俳優

学校で学んだ後にヴイ‑ン・ブルク劇場に所属したが、

第一次大戦に従軍してからは、それまで自分が活動の場 としてきたブルジョア演劇が現実逃避的なものに思えた のだろう、終戦後すぐの1918年に独立社会民主党の党 員になり、草命中はホワイトカラー労働者の評議会員と して活動、 22年には共産党の党員になった。この年の ムルナウF.W.Murnau監督『吸血鬼ノスフェラートウ Nosferah』 (1922)への出演以来、彼は映画俳優として

の活動を始めるが、その一方では、共産主義アジプロ 運動のためのシュプレヒコール『労働の合唱Chorder Arbeit』 (1923)と『7000』 (1924)を執筆、またドイ

ツ労働者演劇連盟(Arbeiter‑Theaterbund Deutschland, ATBD) (5)の芸術評議会に所属し、 29年にはこの連盟の 主宰者ピークArthurPieckとともにアジプロ隊「赤い シャツRoteBlusen」のリーダーになった。こうした活 動を展開していたヴァンゲンハイムが同じ左翼演劇人で ある千田を快く迎え入れたのはごく自然な成り行きだっ たといえるだろう。

『月世界の女』の撮影から間もない29年夏、千田のも ちかけで、ヴァンゲンハイムは(反帝世界連合)ベル リン支部の集会のために、帝国主義と植民地の問題を テーマにしたアジプロ劇『レヴュー・インペリアリズム Revue Imperialismus』を執筆する。二人はヴァンゲンハ イムの家に泊まりこみ、連合本部が集めた資料やレーニ ンの『帝国主義』をもとに、 「訊刺的な小場面、シュプ レヒコール、歌、踊り(ニグロの踊りと日本の剣舞とタッ プ・ダンス)、統計やスローガンや漫画をかいたプラカー

ドなどを豊富につかいながら、それらを一貫したテーマ と緊密な構成によってモンタージュした一時間半ぐらい の脚本」 (千田(6)を練り上げた。この脚本が仕上がると、

先述のアジプロ隊「赤いシャツ」のメンバーを中心に稽 古が行われ、さきの衣笠も、 (日本帝国主義)の役で登 場する千田のための鎧をつくり、千田と一緒に、高下駄 を履きながらの「タップ・ダンス式剣舞」の案を繰った という(7)。また同年秋、千田とヴァンゲンハイムは(赤 色スポーツデー)のデモに参加するATBDのデモの形態

を考案した。千田によれば、 「水着から柔道着までの色 とりどりのユニフォームをつけた三十万の労働者スポー ツマンの行列にまじって、わずか三百人の労働者俳優が 存在を主張しようというのだから、よほど変わったデモ の方法を工夫しなければ追いつかない。いろいろ考えた すえ、短いシュプレヒコールと単純な集団動作とプラ カード式の仮面や象徴を組み合わせた統一的なデモをや ることにきめ、ワンゲンハイムがシュプレヒコールを、

私がプラカードをつくった」(8)という.このように、 31

(2)

年に始まる『鼠落とし』の制作以前、すでに千田とヴァ ンゲンハイムとの問には密接な協力関係があった。

2. 『鼠落とし』制作の背景、内容と構成

ところで、 (赤色スポーツデー)のデモが行われた29 年秋はまさに世界恐慌が起きたときであり、ドイツでも 数多くの破産や銀行の破綻がみられ、失業者数は急激に 上昇し(『鼠落とし』初演時の31年12月で566万人)、

消費はしぼみ、政府は緊急措置をとっていた。この不況 は、それまで困窮からの脱出という考えとは無縁だった 中間層の人々にも影響を与えた。 30年9月の選挙でナチ スが躍進し、同党が中間層に対して強い影響力を持ち、

ここに大きな支持基盤を獲得したことが明らかになった のだった。これを受けて、共産党内では、革命的労働者 と全就労者層とが同盟を結ぶ必要についての議論がなさ れ、それまで党が見過ごしていた中間層とのコンタクト が模索された。そんな中、失業していた労働者俳優の集 団がヴァンゲンハイムに打診し、彼らは(劇団1931)を 結成、中間層を支持基盤として取り込むための作品の制 作にとりかかった。 『鼠落とし』の主人公フライスイヒ

(Fleifiig、ドイツ語で「勤勉」の意)はまさに、ナチス がその大衆的基盤を得ることに成功したその中間層を代 表しており、この層を獲得することが課題としてとらえ られていた(9)。またこの主人公は、当時、社会批評家の クラカウア‑ SiegfriedKracauerがその著書『サラリー マンDieAngestellten』 (1930)で分析した層を代表して もいる(ヴァンゲンハイムは執筆の準備のなかでこの本 を読んでいた)。作中、フライスイヒが扇動される場面 があるが、これがつまり作品の中心的な場面と言える(10)

なお表題の『鼠落とし』はシェイクスピア作の『ハム レット』におさめられている劇中劇の名から取られてい る。ハムレットは彼の叔父である王クローディアスのた めの余興として、この芝居『鼠落とし』を旅回りの劇団 に演じさせる。だがその内容は、ハムレットの父である 先王を、その弟クローディアスが毒殺し、王位についた という経緯を暗示するものである。クローディアスは動 揺し、激怒して芝居を中断させる。一方、これでハムレッ

トはクローディアスが先王を毒殺したことを確信し、復 讐に動く。 (劇団1931)の『鼠落とし』でも同じく、こ

の芝居を観る者、つまり中間層の観客が、主人公の行動 を自らのそれに通じるものととらえることが意図されて いた。上演のねらいはつまり、中間層の観客に、彼らが 置かれた状況を自覚させることだった。また当時は上述 のような経済的・社会的に不安定な状況の一方で、 1932 年のゲーテ没後100年祭の準備が進んでおり、これが 激しい議論の的となってもいた。このテーマも『鼠落と

し』では取り上げられている。劇団は「帝国主義的なブ ルジョアがなお上辺でのみ保護していたゲーテの作品に 対するブルジョア的要求を暴露すること」 (プフエツツ

ナ‑)を課題としてもいたのだった(ll)

ではその内容と構成を見てみよう。作品は、一貫した 筋はないものの、 1930年代の典型的な失業サラリーマ

ン・フライスイヒがつねに物語の軸になっている点で一 貫している。自分が解雇されたのは経営再建担当主任の せいだとし、彼は主任をこらしめようとするが、主任は 労務課長のせいだと言い、労務課長は総支配人のせいだ と言って逃げる。しまいにフライスイヒは、この破局を 生んだのは上役ではなく、支配体制そのものであること に気づき、極度に合理化.自動化された製靴工場バー チヤBata(12)をもじった登場人物タ‑バTabaに象徴され る(資本主義)に立ち向かう。だがフライスイヒはそれ に屈し、乞食歌手として街を妨但しなければならなくな る。彼は(人格Personlichkeit)の価値を思い出し、ゲー テやシェイクスピアを読んで自分を慰めるが、空腹は癒 されず、力強い人格をもった指導的人物が現れて自分の 運命を変えてくれることを願う。そこ‑、雷を増やすた めには弱者の窮乏もよしとするコンツェルンや独占資本 が(資本主義的ヴァルプルギスの夜)という形で現われ、

そしてある靴店の前で一人の魔法使いが手品をやってみ せて、フライスイヒは、需要と供給、恐慌と失業の関係 を理解し、職業安定所で会った労働者たちと剰余価値や 労働の価値について話し合うようになる。だがフライ スイヒはなおそうした問題と正面から向き合うことを避 け、自然の中に逃れようとする。しかしそこへもタ‑バ が追いかけてきて彼を脅すので、ようやくフライスイヒ は、資本主義やファシズムに打ち克つ力を持つのは労働 者階級だけだということを悟る。

以上のような流れの中で注目されるのは、逐一、劇団 員全員が(俳優の集団)として登場し、フライスイヒの 行動を注釈したり、皮肉ったり、時には特定の劇団員が 様々な人物を演じ、そうしてフライスイヒがある決断を 行わざるを得ない状況をつくりだすということである(13)。

いわば芝居は、主人公フライスイヒの存在と自覚につい ての政治的・社会的な議論から発展する。この議論にフ ライスイヒは、第一にフライスイヒという登場人物とし て、第二にそれを演じる俳優として参加する。演じられ たことは直ちにフライスイヒ役を演じる俳優を含めた俳 優の集団によって評価され、主人公フライスイヒはいわ ば、異化的な観察に委ねられる。芝居の基本的な身振り とテンポは、このような、写実的な演技によって示され る場面と、そうして示された主人公の行動に対する評価と の間の断絶によって特徴づけられる。またここでの議論の 結果はフライスイヒという人物の核心に入り込み、そのこ とによって、フライスイヒの成長の過程も示される(14)。

そしてもうーっ特徴的なことに、作中、アジプロ隊の 制作方法が踏襲され、フライスイヒの生活に影響を及ぼ す要因が具体的な人物の姿をとって、あるいは特定の概 念の名で現れ、またそこで新聞・雑誌からの引用が多用 される。現実の出来事の関連を把握して示すことを第一 の課題としていた く劇団1931)にとって、アジプロ隊の 仕事にならったこうした引用は作品制作のための本質的 な要素だった。だが『鼠落とし』はアジプロ隊の仕事の 枠をこえ、さらに、社会的なシステムと、その中に居場 所をもち、自分を合わせようとする個人との関係までを

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示している。つまり1930年代始めの帝国主義的な社会 のシステムがテーマとなり、一サラリーマンの置かれた 状況および彼の視線によって、このシステムをとらえる ための特定の観点が提供される(15)。このような、一貫し たテーマ(この場合帝国主義批判)による綿密な構成は、

短い出し物を適宜並べたアジプロ隊の政治的レヴュー にはないものだった。そしてその下敷きには先述の『レ ヴュー・インペリアリズム』(1929)があv(16)

*w。これが

すでに、訊刺的場面やシュプレヒコール、歌や踊り、統 計・スローガン・漫画がかかれたプラカード等を、帝国 主義批判という一貫したテーマ、および緊密な構成に よってモンタージュした作品だった。ただし『鼠落とし』

は同じモンタージュでも、この『レヴュー・インペリア リズム』のそれとも、また同時代の演出家ピスカートア ErwinPiscatorがしたような、記録映画やスナップショッ トによる解説で劇の内容に一般性を与える、というモン タージュとも異なっていた。『鼠落とし』のモンタージュ は、新聞・雑誌の引用や指導的独占企業の代表の発言と いうモンタージュの要素を単に使うだけでなく、これら をつねにフライスイヒの姿勢と、あるいは成長の過程と 直接関係させている点で独特だった(17)。

3.『鼠落とし』の制作過程と千田の参加形態 また『鼠落とし』は上のような内容と構成だけでな く、その制作過程を見ても独特である。劇団の各メン バーは、これもアジプロ隊の実践を踏まえて、調査・

報告という一種の集団作業をしていた.俳優たちはヴァ ンゲンハイムの、バーチヤのイデオロギーによって分業 化・合理化が導入されていた製靴産業を手がかりにテー マを究明する、という提案を受けて、各自が素材を阻曝 して少なくとも個別の問題については入念な準備ができ るように、作品の制作を部分的に担当した。ある者は銀 行員のところや製靴工場に取材に行き、ある者は自分の 住む地域の靴職人全員に質問し、ある者は中世の手工業 者に関する資料を、またある者は新聞の切抜きを集め、

こうして劇団員全員が、様々な資本家の経営システムや サラリーマン問題、分業化・合理化、そしてこれらの問 題がソヴイエトでどう解決されているかについて、パン フレットや本、学術的著作を徹底的に検討した。14日間 このような作業がされたあと、成果報告会兼討論会が開 かれ、その結びに、この議論の結果をわかりやすく観衆 に伝えるための政治的な基本路線をヴァンゲンハイムが 探った。そしてそこで参照されたのが、シュヴェルバー PeterSchwerberの著書『国家社会主義と技術国家社 会主義運動の精神NationalsozialismusundTechnik.Die GeistigkeitdernationalsozialistischenBewegungJだった。

これは(責任)と(指導者)というテーマ、また労働管 理の(心理技術)について述べたもので、鍵となったの は、「もしも合理化があるていど行き過ぎれば、それは 人格を奪うこと(RaubbauderPersonlichkeit)につなが る」という一文だった。劇団が敵視する反動派は、まさ に、当時の失業サラリーマンに代表される中間層の、責

任を求める意志、人格の喪失をめぐる不安、指導者を求 める願望を利用して、彼らの心をつかむすべを心得てお り、彼らを社会主義と労働者階級に対する闘争に仕向け ようとしていた。 (責任)と(人格)、および(指導者) という問題の解明がこうして最終的に(劇団1931)の芝 居の中心となり(18)、ヴァンゲンハイムはまもなく脚本を 仕上げ、劇団員全員がこれに目を通し、議論がされ、脚 本は削られたり補足されたりした。そして8月28日に 稽古が開始され、 85回の稽古後、 11月末の数日間に、

サラリーマンや公務員、職人、労働者、芸術家、知識人、

党の活動家などの入念に選ばれた観衆の前で非公開の上 演が行われた。上演後は翌朝まで議論が行われ、脚本は 再び削除され、あらためて三週間の稽古がされたのち、

公立私立の劇場監督の前で再び上演が行われた。これが 成功すれば、当時ベルリンに多くあった、空き小屋に なっていた劇場が彼らに開放されることになっていた(19)

さて、千田はこの『鼠落とし』の制作にどう関わって いたのだろうか。彼もまた上のような調査や報告を行 なったかどうかは定かではないが、小道具や仮面の制作 者として極めて大きな役割を果たしていたことは確かで ある。プフエツツナ‑は「日本人学生・伊藤[千田の本 名、引用者注]との長年にわたる交流は彼[‑ヴァンゲ ンハイム]の創作に大きな影響を与えた。伊藤は20年 代末からベルリンで学び、非常に早くに革命的労働者運 動と接触し、この地で『赤旗』の挿絵画家として、また アジプロ隊の俳優・作家・舞台画家として活動の場を見 出した。彼の手からはまた、 『鼠落とし』上演の、タ‑

バⅠとⅠⅠの据付け仮面、および半仮面(Halbmaske)辛 被り仮面(Ganzmaske)が生み出された」 (20)と記してい

<o .

それではその仮面を始めとする小道具類・装置類につ いて見てみよう。装置類は簡素で、また図解を旨とした ものだった(図1(21))。簡素な装置は、ベルリンの集会 場の小さな舞台が当初上演場所として想定され、また最 小限の装置・小道具・衣装で行われる旅公演が計画され ていたためだった(結果としてはベルリンでの最初の成 功後、上演は通常の劇場で行われ、旅公演中の上演もほ とんど劇場の舞台で行われた)。舞台は両脇と後ろを高 さ約3メートルの黒い目隠しで、もしくは、すのこまで の高さのある黒い幕で区切ったもので、この目隠しない し幕の中央にゲーテの肖像画がかかり、その両脇には 細長い看板が二つあって、ここにはゲーテの『西東詩集 west‑ostlicherDivan』 (1819)の「ズライカの巻Buch SuleikaJ 1815年9月26日)からの一旬「地上の子の 最高の幸福は人格なれHochstes Gliick der Erdenkinder / Sei doch die Personlichkeit」が書かれていた。上手と下 手それぞれ3分の1の舞台ばなには低い台が四つあり、

ここには、タ‑バが登場する場面でタ‑バの据付け仮面 が取りつけられた(22)。これらにくわえ、舞台写真からは、

その他の装置類として、製油業界を図示した小道具や、

工場の光景を描いた書き割りなどが適宜使われたことが うかがえる。

(4)

また千田はこれらの装置類を制作するだけでなく、劇 中の(小道具係)として出演することにもなっていた(23)。

この役は場面転換のさいに登場し、新しい場面の始ま りを告げ、必要な小道具や仮面を俳優に手渡すという 役である(図2(24))。これはプフエツツナ一によれば中 国演劇にならったもので、 ‑セルトンGeorgeCochrane Heszelton作『黄色い上着Die GelbeJacke』のラインハ ルトによる演出1914)で俳優シルトクラウh RudoM Schildkrautが演じた く舞台監督Biihnenmeister)の機 能が『鼠落とし』におけるそれと同様のものであり、こ れをヴァンゲンハイムは参考にしたという(25)。だがこ の(小道具係)は機能的に見ると、台詞を口にはするが、

歌舞伎の黒子にも似ており、千田が何らかのヒントを与 えた可能性も決して否定はできないだろう。

4. 『鼠落とし』制作における千田の参加の意義 さて、最後に作品『鼠落とし』の演劇史的位置づけに ついて、またその制作過程、そしてそこへの千田の参加 にどのような演劇史的意義があるのか、また千田のその 後の演劇活動についてどのような意義があるかについて 考察したい。

1930年前後の当時、労働者階級による革命‑観衆を 動機づけることを意図した作品は『鼠落とし』の他に も、上海の女工が同時代の中国革命に身を投じる経緯を 扱うヴォルフFriedrichWolf作『タイ・ヤンは目覚める TaiYangerwacht』 (1930)辛(これほどスカートアの演 出1931によって大きな成功を収めた)、同じく、デ モの混乱で命を落とした息子の遺志を継いで革命運動に 参加する母の成長を措くブレヒトBertoltBrecht作の『母 DieMu仕er』 1931/32)などが書かれており、またこれ らはすべて、 (学ぶ主人公)という類型を発展させてい ることで共通する(26)。だが『鼠落とし』はいわば開かれ た形式の作品だということ、つまり、主人公フライスイ ヒが明確に特徴づけられた登場人物と対話をしたり何か をやりとりしたりすることがなく、その代わりに、俳優 の集団が、フライスイヒと、あるいは観衆と、または集 団内で、同時代の困窮を引き起こしている社会の矛盾に ついて議論を展開する、という点で独特である。

そしてこの(議論)は、俳優たち自身による準備段階 での議論、とりわけ、制作過程において重要な一段階 だった、先述の調査報告会の議論から発展したものだっ た。ここに集められた資料の解釈はときおり俳優独自の もので、全体の水準を上げることに寄与したが、報告会 とそれにまつわる作業の意義はむしろ別のところにあっ た。当時俳優の一人だったインゲ・フォン・ヴァンゲン ハイム(ヴァンゲンハイムの妻)は、 「飛びぬけて創造 的な発想は私たち俳優にはなかった」と言い、銀行員や 靴職人を取材したり新聞の切り抜きを集めたりするとい

(5)

う「(非芸術的な)作業」において「素材の(経験) (das

・Erlebenくdes Staffs)」が始まり、これが「俳優の芸術的 な仕革(kiinstlerische Leistung)のための前提だった」

と記している(27)また同じく、クリストも当時を回想し て、 「(劇団1931)との作業で、例えば表情による表現な

どは全ての人間に固有のものであり、従って演劇は素人 にとっても可能なものなのだ、という理論的な認識が明 らかになった」(28)として、劇団内部における演劇観の変 化を認めている。まさにこのような、 (非芸術的な)作業、

そして「演劇は素人にとっても可能なもの」という認識 が、ドイツ語を母語とせず、台詞を流暢にはあやつるこ

とのかなわない千田も制作に参加できるようになるため の素地だったと言える。

そして、千田が制作を担当した小道具や仮面、および これらを舞台上に持ってきたり舞台上から持ち去ったり する(小道具係)が芝居の重要な要素となっていること

に注目したい。 (小道具係)が新しい場面の始まりを告 げるために登場し、芝居の構造を露わにするたび、観客 は〜種、虚構の世界から現実へと引き戻される。これは 観客に舞台上の出来事を客観的にとらえさせるための、

いわゆる異化効果である。同じ頃、ブレヒトも同様に新 しい場面の始まりを告知するプラカードを用い、のちに 異化効果理論を発展させたが、その素地となった実験に ついてみれば、何もブレヒトだけがしていたわけではな かったのである。

このように『鼠落とし』は数々の点で独特であり、ド イツの演劇史において大きな意義をもつ作品だと言え る。そしてその制作で大きな役割を果たした千田の仕事 は、ドイツの演劇史において少なからぬ役割を果たした と言っていいのではないだろうか。

千田は1932年に帰国し、以後、ドイツの同時代演劇 から学び取った成果を当時の日本で活かす試みを重ね る。そしてその中で、 『乞食芝居』の題で上演されたブ レヒト作『三文オペラDie Dreigroschenoper』の日本初 演(1932)、あるいはその後、東京演劇集団(TES)を設 立したさいに、生活苦にあった日本の俳優たちを組織す

るという仕事において、千田の(劇団1931)での経験は 見事に生きたものと思われる。だがその一方、 『鼠落と し』という作品についてみると、 1930年代当時の日本で、

左派の演劇人たちの間では社会主義リアリズムが支配的 だったために、 『鼠落とし』、あるいはそれに類した作品 が上演されることはなかった(29)。そして戦後になっても 千田は手記やインタヴューでこの『鼠落とし』にはほと んど触れていない(30)。これは読み手側・聞き手側の期待 に応えるため、つまり、モンタージュ的構成からなる『鼠 落とし』のような劇作よりも、それ以前に西洋演劇の伝 統にあった、厳格な構成をもつ劇作を普及させることが 第‑と千田が考えていたためだろう。別の言い方をすれ ば、千田は『鼠落とし』を、いわゆる(芸術)作品とい うよりはむしろ(アクション)と呼ぶべきものとして、

さほど評価してはいなかったのではないだろうか。だが

彼ら(劇団1931)が展開したこの(アクション)こそ、

現実に起こる出来事と真っ向から掛かり合おうとする、

1990年代以降の(ポストドラマ演劇) (レーマン)と関 連をもつものである。この意味で『鼠落とし』は、 21世 紀の現在において参照する価値の高い作品と言えるだろ

う。

注( 1 ) Berliner Borsen‑Courier, 23.12.1931, zit. n. PRitzner, Klaus: Ensembles und Auffilhrungen des sozialis‑

tischen Berufstheaters in Berlin (1929‑1933). In:

Schnften zur Theaterwissenschaft. Schriftenreihe der Theaterhochschule Leipzig. Herausgegeben von Rolf Rohmar. Bd. 4. Berlin 1966, S. ll‑244, bes. S. 120‑145, hier S. 124.

2 ) Vgl. Pfutzner, a.a.0., S. 124.

(3)なお、日独演劇(人)の関わりというテーマでは、

20世紀始めの演出家ラインハルトMaxReinhardtに よる回り舞台・花道の導入や、 1930年の剣劇俳優・

筒井徳二郎によるベルリン客演などが知られ、これ らのテーマについては、九本隆:ドイツにおける日 本演劇受容の問題点19世紀末‑1930年[大阪外 国語大学研究留学生別科『日本語・日本文化』第9 号1980 、 93‑122頁]、田中徳一:筒井徳二郎と 欧米巡業の顛末[田中ほか:演劇は異文化の架け橋 (栄光出版社、 1998)、 13‑114頁]、同:筒井徳二 郎一座の欧米巡業旅程[日本大学『国際関係研究』

第20巻2号1999、 17‑39頁]、同:筒井徳二 郎一座海外巡業のレパートリーについて[日本大学

『国際関係研究』第21巻4号(2001)、 223‑ 248頁]、

同:筒井徳二郎の海外公演と西洋演劇人の反応‑コ ポー、デュラン、ピスカートア、ブレヒト、メイエ ルホリドの場合[日本演劇学会紀要『演劇学論集』

42号 2004 、 89‑114頁]などの研究がある。

(4)ヴァンゲンハイムの助力で『十字路』の公開は実現 したが、ドイツ語の題名は彼の提案で『ヨシワラの 陰でIm Schatten desYoshiwara』と変更された。ち なみにこれはヨーロッパで公開された初の日本映画 である。

(5)同連盟は第一次大戦前、全労働者演劇団体の集合体 として結成され、 1928年からはピークArthurPieck の指導の下、共産党が宣伝する(左派統一戦線Iinke Einheits血‑ont)の文化団体となり、 「労働者階級の文 化的解放」を目標に活動した。

(6)千田是也:もうひとつの新劇史(筑摩書房) 1975年、

193頁。

(7)千田前掲書、 192‑193頁参照。

(8)千田前掲書、 197頁。

( 9 ) Vgl. Kえndler,氾aus: Drama und氾assenkampf. Bezie‑

hungen zwischen Epochenproblematik und drama‑

tischen Konflikt in der sozialistischen Dramatik der Weimarer Republik. Berlin; Weimar 1970, S. 240‑241.

(10) Vgl. Riihle, G也nther: Zeit und Theater. Von der Repub‑

Ilk zur Diktatur 1925‑1933. Berlin 1972, S. 825‑826.

(ll) P鮎tzner, a.a.O, S. 231, Anm. 81

(12)バーチヤはチェコスロヴァキア(当時)のズリーン Zlinに本社を置き、自動車産業におけるフォードの

(6)

原則にならった大量生産・大量供給・合理化の方針 を製靴業界に導入したこと、また生産を平凡な品や ゴム製オーバーシューズ(Galoschen)という特定 の製品に限定したことで知られる(Vgl. Riihle, a.a.0.,

S.830 。

(13)千田前掲書、 215 ‑ 216頁、 K注ndler, a.a.0., S.240 参照。

(14) vgl. K注ndler, a.a.0., S.241‑242.ただしケンドラ…は これに関連して、フライスイヒが作品全体の構造上、

ひとつの典型にとどまらざるを得ず、個々の場面 でのみ個人的な人格になりうるということを欠点と し、また彼の完全な成長が、台詞の間の明らかな断 絶、個々の具体的な筋‑行動(Handlung)の頻繁な 転換、分析されるべきシステムへの参照指示によっ

て阻まれていると指摘する。

(15) vgl. K畠ndler, a.a.0., S. 239‑240.

(16)千田前掲書、 193頁参照。

(17) vgl. Kandler, a.a.0., S. 241.

(18)千田前掲書、 215頁、 Inge vonWangenheim, zit. v.

Riihle, a.a.0., S. 828‑829参照。

(19) vgl. Pffitzner, a.a.0., S. 123‑124.

(20) Pfiitzner. a.a.0., S. 231, Anm. 82

(21) wangenheim, Gustav von: Die Mausefalle. In: Junge Kunst, 2. Jg., H. 10(1958.10), S. 48‑80, o.S.

(22) Vgl. P:丘itzner, a.a.0., S. 125‑126.

(23)残念ながらこの出演は、千田が31年夏にモスクワ で開かれた国際労働者演劇連盟IATB 第1回拡大 評議員総会で書記局員に選出され、日本で本部との

連絡や極東書記局の設立に当たることになり、同年 冬に帰国せざるを得なくなったために実現しなかっ

た(千田前掲書、 216頁参照)。

(24) Wangenheim, a.a.O., o.S.

(25) pRitzner, a.a.0., S. 231, Anm. 84.なおプフエツツナ‑

が上演年としている1923年は誤りである(Vgl.

Huesmann: Welttheater Reinhardt, Munchen 1983, S.740)

(26) Vgl. Riihle, a.a.O., S. 829.

(27) wangenheim, Inge von: Mein Haus Vaterland (Berlin 1962), zit. v. Riihle, a.a.O., S. 827‑828.

(28) Christ, Richard: Erinnerung an Gustav von Wangen‑

heim (1976). In: Wangenheim, Gustav von: F宜hrmann,

wohin? Erz;弘Iungen und Novellen. Berlin 1977, S. 5‑18, S.ll.

(29)ドイツにおいても『鼠落とし』が戯曲として公に なる機運は30年代当時になく、活字になったのは 戦後、ようやく1958年になってからである(雑誌

『若い芸術Junge Kunst』誌上)。また日本では1973 年2月1日、千田による演出で初演された(Vgl.

Christ,a.a.0,,S.5、ワンゲンハイム、グスターフ・

フォン(千田是也訳) :鼠おとし[桐朋学園短期大 学演劇科])

(30)千田前掲書の他、同:千田是也演劇対話集 上・下 巻(未来社1978年、同:千田是也演劇論集 全9 巻(未来社) 1980‑92年、藤田富士男(監修) :劇 白千田是也(オリジン出版センター1995年などを 参照。

(7)

公立文化施設の新たな潮流

吉祥寺シアターにおける公設小劇場の試み

1.リーディングプロジェクトとしての吉祥寺シアター 2005年5月21日、武蔵野市立吉祥寺シアターがオー プンした。

吉祥寺シアターは、 「現代演劇やダンス等、同時代の 舞台芸術の上演に適した劇場施設と長期上演を支援する 運営方式を備えた公立ではめずらしい単館小劇場」 (武 蔵野市立吉祥寺シアター「施設と道営の概要」記者発表 用資料 2005年2月9日)である。

吉祥寺シアターの施設面での最大の特徴は、最大定員 239名のブラックボックス型の小劇場と付属するカフェ、

稽古場及び管理部門から構成される施設が単独の建物と して建設されたことである。こうした200席程度の小規 模な劇場は、大ホールに併設されているか、あるいは他 の機能との複合ビルに組み込まれているのが一般的であ る。また、機能面でも市民利用を想定した多目的ホール であることが多く、吉祥寺シアターのように「現代演劇 やダンス等、同時代の舞台芸術」に特化した劇場機能を 持つ例は少ない。

管理運営面での最大の特徴は、長期上演を支援する運 営方式を備えている点であり、 「公の施設」である公立 文化施設の劇場・ホールの場合には、公平性・平等性を 担保するために連続使用を制限する方向であるのに対し て、吉祥寺シアターではむしろ推奨している。

こうしたハード、ソフト両面からの特徴を重ね合わせ ると、吉祥寺シアターは「公設小劇場」という新しいタ イプの公立文化施設として位置づけることができる。

ここでは「小劇場」という用語は単に客席数の少ない 劇場という意味ではなく、 60年代に起こった「小劇場演 劇」あるいは「小劇場運動」というときに用いられてき た「ノJ、劇場」を起点とする劇場形式を指す言葉として使 用している。

筆者が1983年に発表した論文、 「「可能性」としての 小劇場」 (建築知識1983年8月号、 「特集・小ホール」

pp.74‑77)において、小劇場を建築計画学的に分析し ている。小劇場の定義として、 「60年当時の小劇場を分 類すると、ひとつは他の用途に使われている空間、例え ば喫茶店や集会場を一時的に劇場として使用するもの、

もうひとつは劇団の活動拠点である稽古場を公演時に劇 場として使用するものだった。稽古場といっても工場や 倉庫、地下室の空間を改装したものだったわけで、いず れにしろ小劇場とは、本来劇場として計画されたのでは ない空間を劇場化したものである」としている。また小 劇場が劇場種別のひとつであることについては、 「小劇 場が誕生した最大の要因は、なんといっても新しい演劇

伊 東 正 示

運動の担い手たちの経済力の乏しきであり、消極的に選 びとられた空間に過ぎなかった。彼らが自分たちの稽古 場兼劇場として手に入れることができた小空間で最初に 行った作業は、既成の劇場概念に基づいて、この空間を 劇場化していくことであった。しかし、小劇場の空間に はプロセこアム劇場の論理は全く当てはまらなかった。

舞台上に劇的なイリュージョンの世界を構築し、観客は それをプロセニアムアーチを通して覗き見るという関係

を成立させるためには、小劇場の空間はあまりにも小さ 過ぎた。小劇場ではなにもかもが見え過ぎてしまうため、

プロセこアム劇場のように、虚構の世界にリアリティを 与えることができないのである。結局、彼らが選びとっ たのは、元の通りの何もない空間だった。しかし、その 空間は意識の上で明らかに変質したのである。小劇場は 消極的な理由で選びとられた空間であったが、そこに積 極的な価値を兄い出したとき、小劇場は確立されたと見 なすことができる。」としている。その後、常設の貸し 劇場としても小劇場が登場することにより、さらに普及 していくことになるが、この時点で「小劇場とは、本来 劇場として計画されたのではない空間を劇場化したもの である。」という当初の定義が成立しなくなる。つまり、

最初から小劇場として計画された劇場空間が登場したと いうことであり、極論をすれば、 「小劇場とはどのよう な空間であろうとも演劇公演を行うために作られた小空 間および演劇公演が行われる小空間のこと」となる。そ こでは、従来のプロセニアム劇場にとっては重要である 舞台袖やフライズを含めた舞台空間あるいは舞台機構、

音響、照明といった舞台特殊設備も、上演を支える舞台 裏の空間も重要ではない。逆に、最も重要となるのは上 演空間としての魅力であろう。前出の論文では、 「劇場 建築の視点から眺めると、小劇場のもたらした最大の功 績は、どのような空間でも劇場となり得ることを示した ことであろう。多くの小劇場では、観客の鑑賞条件は劣 悪であり、舞台裏と呼べるようなスペースもないのだが、

それらの欠点を補っても余りある魅力的な個性を持ち得 ていることによって、既に小劇場は劇場としての市民権 を得ている。それは見方を変えると、劇場としての個性 を持つことがいかに重要であるかを示しているともいえ る。」と記述している。

この論文は建築界に向けたものであり、小劇場の存在 を知り、理解してもらうことを主眼としたものであるが、

ひとつの小劇場の捉え方を示しているものであろう。

また、この論文は20年以上も以前に書かれたもので あり、現在では演劇界も劇場建築も、またそれらを取り 巻く環境も大きな変革を遂げているが、吉祥寺シアター

(8)

を60年代に誕生した小劇場の系譜に位置づけ、当時の 若き演劇人たちが目指した演劇運動の延長線上にある劇 場として捉えたい。かつて、演劇人の手によって作られ た小劇場が、これからは自治体によって設置される「公 設小劇場」の時代‑と展開しているのである。

大都市においてはすでに劇場・ホールが飽和状態と なっており、新たな公立文化施設の設置については多く の議論があるところである。また、小劇場は民間によっ て支えられてきたという日本の演劇界の流れもあり、民 業圧迫という批判の声もある。一方、吉祥寺シアターに よって提示された「公設小劇場」という新たな公立文化 施設の形態は、他の自治体が計画している芸術文化施設 にも同類のものが現れ始めている。

それは、杉並区で計画を進めている新高円寺会館や川 崎市が新百合ヶ丘に建設する川崎アートセンターなどで あり、 200席規模の小劇場とそれに付随する舞台芸術の 創造空間を設置し、運営についても従来の市民利用の貸 館主体とは異なる、新たな運営組織のあり方や事業展開 などが検討されている。こうした傾向は、吉祥寺シア ターをリーディングプロジェクトとして、 「公設小劇場」

という公立文化施設の新たな潮流が起こる可能性を示し ているといえる。

本稿では、吉祥寺シアターを題材として、公設小劇場 の建設がどのようなプロセスによって進められたのかを 紹介し、公立文化施設の今後の可能性について検討する 材料としたい。

また、筆者は吉祥寺シアターの計画にあたり、計画の 始まる時点から完成に至るまで、株式会社シアターワー クショップ(以下、'IWとする。)の主宰者としてハード、

ソフト両面の計画に関わってきた。したがって、本稿で はTWが作成した資料を数多く引用しているが、それら の資料は担当者の大洋寅雄、黒揮淑子、小林徹也、平山 瑞絵などTWのスタッフと共に作成したものであり、筆 者の責任のもとにTWが発表したものであることをお断

りしておく。

2.吉祥寺シアターの演劇空間

吉祥寺シアターの計画は、吉祥寺東部地区にある市政 センターの移転計画から生まれた。

武蔵野市では吉祥寺駅周辺再開発計画を進めており、

吉祥寺駅周辺は4つのブロックに分けられている。吉祥 寺シアターの建設地である吉祥寺東部地区は、長い間

「近鉄裏」と呼ばれ、低利用の土地が多く、商業集積の 遅れや風俗営業の店舗が密集していることから環境浄化 問題が課題となっているゾーンである。武蔵野市は環境 浄化のために吉祥寺図書館を設置するなどの対策を講じ てきたが、さらに市政センターの跡地に文化発信の拠点 施設を設置することで、商業の活性化を図り、健全で安 心できる生活環境の創出を図りたいと考えていた。そこ で構想されたのが、吉祥寺シアターである。

劇場の建設においてはソフト先行が望ましいと云われ るが、今回は建設地が決定しており、かつ敷地条件が厳

しいことから、事業内容や運営組織といった管理運営計 画の検討を行う前に、そもそもこの敷地にどのような劇 場施設が建設可能であるのかというハードの検討から始 められた。

計画のスタート時点で想定されていた敷地面積は、

777.03nrとかなり狭く、用途地域が近隣商業地域であ るため、劇場を建設するには客席面積を200m'未満と し、かつ高さについても10m未満に抑えることが条件 であった。これらの条件を加味しながら、 TWでは2つ のタイプの素案を作成し、検討を行った。

ひとつの案は客席部分を完全に地下に埋めて、舞台の フライズ部分のみが地上に飛び出すプロセこアムステー ジ形式の劇場であり、もうひとつの案は舞台上部にフラ イズを持たないブラックボックス形式の劇場である。い ずれの形式でも客席面積の条件から、客席数は200席程 度とした。

プロセニアムステージ形式案は劇場の主要部分が地下 になるため、一階部分は開放的な空間とすることが可能 であり、さらに2、 3階部分に関連機能の諸室を設置で きるという利点がある。反面、舞台が地下になるために 搬出入用リフトの設置が必要なことや遮音性能としては 有利だが、防坂のためには地中連壁で隣地との間を区画 しなければならないなど、地下に設置することによる工 事費の大幅な増加が見込まれた。

ブラックボックス形式案は、最大高さを10mに抑え ながら劇場部分を地上レベルに設置する案であり、地下 部分が少なく、建設費が軽減でき、工事期間も短くて済 む。また、舞台と客席の可変性を高めることによって、

ワークショップスペースとしても活用できるなど、 21世 紀型の小劇場として新たな舞台芸術の創造に寄与する劇 場空間になり得る。反面、従来の劇場という既成概念と

は異なる空間となるために、利用者が限定される傾向が ある。特に、地域で芸術活動を行っているアマチュアの 人々にとっては使いにくい施設となる可能性がある。小 劇場が市民権を得たといっても、一般には劇場イコー ルプロセニアムステージ形式という固定概念が存在して おり、ブラックボックス型の劇場は市民の芸術文化活動 団体には認められない傾向が強い。しかし、都内の劇場 では200席以下のものが半数を超えており、それらの劇 場はほとんどすべてがブラックボックス型であり、若手 劇団などの演劇公演はこうした小劇場空間で行われてい る。また、公立文化施設の小ホールはむしろ集会施設と しての性格が強く、舞台芸術に特化することはなく、平 土間として展示等にも使用できる多目的ホールが多く

なっている。

そうした状況を踏まえながら、吉祥寺シアターは演劇 上演を目的とする施設であり、かつ用途地域や高さ制限 といった建築条件と建設コストを出来る限り抑えたいと いう行政からの要望により、ブラックボックス型の小劇 場を基本案とした。

設計者の選定は′Ⅳの提案に基づき、指名プロポーザ ル方式とし、市民の理解を深め、認知度を高めるために

(9)

公開ヒアリングを実施した。

設計候補者として6名の若手建築家がノミネートされ たが、今後の活躍が期待される若手の建築家たちだけに、

それぞれが独創性に富んだ斬新な提案を行った。基本的 にはブラックボックス型ではあるが、より自由度の高い 演劇空間を求めており、舞台と客席という密室空間を開 放する試みが数人の建築家から提案された。例えば、舞 台と客席の境を失くすだけではなく、舞台と客席を取り 囲む壁も失くして、演劇空間とホワイエとが一体となる 提案や、さらにはストリートとも連続した空間として演 技が街路‑と拡がったり、逆に道行く人びとを自然にパ フォーマンスに引き込む空間構成なども提案されてい た。建築家の発想はとても自由であり、形に捉われるこ となく演劇の本質に迫るものや、新たな社会と演劇との 関係を構築しようとする積極的な提案などが登場した。

厳正な審査の結果、佐藤尚巳氏が設計者に選定された。

佐藤尚巳氏はラフアユルビイニオリ建築士事務所に在籍 していたときに、東京国際フォーラムの設計監理統括を 務めた経験を持っている。佐藤尚巳氏の提案は、おおま かには建物を3つの部分に分節化している。中央に位置 する劇場はからくり回廊によって二重の壁に囲まれた空 間とし、観客動線と出演者動線を確保すると共に、遮音 性能を高めている。また、前面道路側には二層の都市回 廊を設け、まちとのつながりを演出するという案であっ た。

基本設計、実施設計を通してカフェの位置など若干の 変更は行われたが、ほぼプロポーザル案に準じた施設構 成と配置になっている。ローコストにするため、機能重 視とし、形態はシンプル、装飾は排除というデザインコ ンセプトは、むしろ爽やかな魅力を持つ空間を作り出す ことに成功している。劇場空間の特徴としては、以下の 5点が挙げられる。 (前掲、武蔵野市立吉祥寺シアター

「施設と運営の概要」記者発表用資料より)

・舞台への集中力、劇場内の一体感を増すブラックボッ クス型の劇場空間

・舞台の見やすさを重視した段床の客席

・演出の可能性を広げる多様な舞台/客席の配置(組立 て式)

・劇場を取り囲む裏方多用途空間(からくり回廊)

・設備更新や持込を想定しインフラに重点を置いた舞台 特殊設備

3.吉祥寺シアターの設置日的

TWでは、検討のためのモデルプランを作成した後に、

策定業務を受託するための営業ツールとして「吉祥寺東 部地区活性化計画内公共施設計画基本計画策定業務企画 提案書 2001年8月9日)」を作成した。この企画提案 書が、その後の吉祥寺シアターのコンセプトや管理運営 計画を作り出す基礎になっており、重要な役割を果たす

ものであった。

また、重要なポイントのひとつは、業務名称でも明ら かなように吉祥寺シアターの計画は吉祥寺東部地区の活

性化計画の中に位置づけられていることである。つまり、

完成後の劇場は芸術文化面での評価が大きく取り上げら れるが、計画段階においてはむしろまちづくりの視点の 方が上位であり、芸術文化振興や普及といった劇場本来 の機能に関わる目的が第一義ではないという点である。

この事は劇場という施設が舞台芸術のためにあるという 以前に、まちづくりやひとづくりといった都市機能ある いは社会機能のひとつでなければならないと考えるべき であることを示している。公設小劇場はすべての市民に 開かれた施設として、舞台芸術関係者や愛好家のためだ けではなく、人々の福祉の向上に貢献する施設としての 役割を担うという認識が重要なのである。

TWが作成した企画提案書でも、その点を配慮した内 容となっている。

第1章の「本計画のフレーム」では、武蔵野市の都市 計画マスタープランを引用し、将来の市民生活像として

「身近な場所で憩い、遊び、学ぶことができる」 「多様な 人々が集い、交流が盛んになる」という方針と「文化活 動、生涯学習、コミュニティ活動の場と機会」が望まれ ている現状を示している。さらに、吉祥寺地区は「中央 線沿線の成熟した"大人の文化"を土壌に、井の頭線沿 線の活気ある"若者の文化"が合流する街」であり、駅 周辺には大型の商業施設が集積し、沿線の教育施設が充 実していることから、学生を中心とする若者が集まる活 気ある姿を現していると分析している.一方、建設予定 地である東部地区には、 「周辺住民がより安心して暮ら せる良好で快適な環境づくり、にぎわいが溢れるコミュ ニティづくり」と「周辺地域における子供から高齢者ま でが気軽に訪れることができ、芸術文化を媒介とした世 代間や地域間の交流が生まれる場と機会」が望まれてい ることを指摘している。さらに本計画の目的として、 「吉 祥寺東部地区内公共施設に、幅広い市民に対する芸術文 化を媒介としたコミュニティの形成、地域に根差した生 涯学習と社会活動の活性化」を目的とした新たな文化施 設を提案している。つまり、吉祥寺東部地区に公共施設 を設置するのは、芸術文化に関する振興や普及が目的な のではなく、芸術文化を媒介としたコミュニティの形成 及び生涯学習と社会活動の活性化こそが目的であるとし

ている。

しかし、コミュニティの形成及び生涯学習や社会活動 の活性化が目的であるなら、芸術文化を媒介としなくて も多くの別の選択肢があるのであって、なぜ芸術文化が 最も有効なのかを示すことが重要になる。そして、芸術 文化がある特定の人々のためだけのものではなく、すべ ての市民にとって有効であることを示さなければならな い。そのことは第2章において示している。

第2章は「計画全体の考え方」とし、前章での全国、

武蔵野市、吉祥寺、建設予定地という広域から敷地に至 る現状や傾向を受けて、 「芸術文化を取り巻く全国的な 傾向や、市内の地域的特色、文化施設等の状況を考慮し た上で、 21世紀の武蔵野市にふさわしい、都市生活者が 求める新たな文化施設と行政の試み」を計画全体の考え

(10)

方とし、次の3つの提案にまとめている。

第1の提案は、市民が親しみをもつことのできる魅力 的な文化活動の拠点とすることである。すなわち、 「居 住者だけでなく、通勤、通学者を大きな意味の市民とし て捉え、それらの市民が生活、仕事、勉強等の合間に、

日常的に立ち寄ることができるアメニティ施設」であり、

「訪れた市民が芸術文化に関する情報を入手したり、気 軽に参加できる場を提供することで、明日‑の活力と刺 激を享受できるような施設」であり、 「芸術文化活動に 関わる人だけでなく、幅広い市民が"居心地がいい" "莱 しいことが見つかる" "新しい仲間が見つかる"といった 気持ちになるような、親しみのある魅力的な施設」とす

ることを提案している。

第2の提案は、地域住民が主体となって、地球市民と しての活動を展開する場所とすることである。それは

「芸術文化を媒介とする"知縁"の形成のために、市民 主体のネットワークや自主的な活動の展開を支援する場 所」を意味している。そこで行われる活動は、 「特に大 学、各種学校、高校等の若者が、学校という枠を越えて 交流し、地域に根差した継続的な活動」であり、 「そこ から優れた人材養成に繋げること」を提案している。ま た、 「地域住民が主体となり、地域内外や国内外の芸術 文化に関する情報を集積、創造、加工、発信することで、

多様な価値観を認め合い、共有できる地球市民としての 活動」を提案している。

第3の提案は、多様な芸術文化に、多様な形で出会う 場所とすることである。具体的には、 「従来の公共ホー ルの中心であった鑑賞型事業だけでなく、芸術文化につ いて学び、練習し、創造し、交流するといった、多様な ふれあいの機会」を作り、 「若者を中心としながら子供 から高齢者まで、また、居住者以外の通勤通学者にも、

積極的に芸術文化活動‑の参加を促す仕掛け」を施し、

「舞台芸術や音楽のみならず、現代芸術、伝統芸能、サ ブカルチャー等、芸術文化の領域を拡大し、市内在住の 優れた人材に協力を求めながら、多様な芸術文化に多様 な形で出会う場所」とすることを提案している。

これらの提案は、施設の設置日的がまちづくりやひと づくりであったとしても、芸術文化を媒介とする必然性 を明確にするためのものであり、芸術文化の持つ特性が いかにまちづくりやひとづくりに有効であるかを示すた めのものとなっている。

第3章は「基本計画の考え方」であり、計画を具体化 するために必要となる、基本計画段階での各項目ごとの 基本的な考え方を示している。

施設計画では、敷地条件に適合した施設計画、基本設 計へのスムーズな移行。事業計画では、地域住民のニー ズに応え、ニーズを開拓する事業。組織計画では、民間 との連携、協力、委託等の効率的で開かれた組織。管理 計画では、利用者サービスを第一義とする利用規則や管 理体制。収支計画では、公益性の重視と経営的戦略によ るアーツ・マネジメントをそれぞれの基本的な考え方と し、さらに各項日ごとに説明を加えている。基本計画段

階では大きな方向性を示すだけで、詳細な検討は次の段 階としている。しかし、将来的な事業実施計画や条例・

規則を制定する場合の拠り所となるため、具体的な展開 を見据えた提案が求められる。ここでは、市民や芸術文 化活動を行う個人や団体に開かれた運営を提案している が、これを具体化することによって従来は希薄であった 演劇人と市民との交流を生み出すことが可能になり、演 劇人には施設利用の優遇や補助金などの税金を財源とし た支援をもたらすことを示唆する表現としている。

2001年9月に武蔵野市とTWは業務委託契約を結び、

基本構想の策定作業に入った。策定作業を進めるにあ たって、市は同年10月に「吉祥寺東部地区文化施設基 本構想検討委員会」を組織した。

委員会は6名の委員で構成され、委員長には福田重雄 氏(武蔵野文化事業団理事・日本女子体育大学大学院客 員教授)、副委員長は富永一夫氏(前俳優座劇場支配人)、

委員は高萩宏氏(世田谷パブリックシアター制作課長)、

美山良夫氏(慶庵義塾大学文学部教授)、山崎靖明氏(劇 団影法師代表取締役)、吉本光宏氏(ニッセイ基礎研究 所主任研究員)が就任した。

武蔵野市第三期長期計画第二次調整計画(平成13年 度から6カ年の計画期間)では、吉祥寺東部地区の整備 について、 「吉祥寺図書館を一つの核とし、吉祥寺市政 センター跡地を文化発信の拠点に利用するなど、都市文 化の発信エリアとして新たなイメージの創出を推進す る。」として、吉祥寺市政センター跡地を文化発信拠点 に利用することが位置づけられた。

委員会は、それを受けてどのような文化発信拠点とす るかを検討し、その基本構想を答申することが求められ た。委員会の進め方としては、 ′IWと市の担当課が作成 した資料に基づいて協議を行う方式とし、 3回の委員会 の中で、各委員から出された意見や協議結果に基づいて 資料を修正し、 2002年2月に報告書をまとめた。

武蔵野市は、委員会の答申にさらに具体的な内容を加 え、 12月に基本計画案とし、市民や市内の劇団・ダンス カンパニーからの意見や要望を加えて、翌2003年2月 に基本計画を公表した。

2005年2月9日の記者発表用資料「武蔵野市立吉祥寺 シアター 施設と運営の概要」では、設置目的をさらに まとめ直して、以下の3項目としている。

(1)市民交流の拡大と深化

・舞台芸術を通じて、市民の交流を促進すること

・感動を共有することで、人々の交流の輪を拡げること

・多様な価値観を認め合いながら国際交流に繋げること (2)新たな都市文化の発信

・吉祥寺の新たなイメージを舞台芸術によって市内外に 発信すること

・様々な人々の関心を得、人々にとって魅力あるまちと すること

(3)日常的なまちの活性化

・多くの来場者や利用者が日常的に施設に訪れること

・市内外の人々に、吉祥寺東部地区の情報を伝えること

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・吉祥寺東部地区の賑わいと活性化を牽引すること この時点で初めて設置目的の中で舞台芸術に関わる項 目が先頭に置き換えられた。演劇担当の演劇担当のこの ことは、吉祥寺シアターのオープンを間近に控えた記者 発表用の資料であるとしても、検討委員会報告書では設 置日的の中に「舞台芸術」という言葉さえなかったとこ

ろから出発し、舞台芸術を提供する場としての重要度が 増大したと解釈することができる。

4.小劇場の管理運営

2002年8月に社団法人日本芸能実演家団体協議会が発 表した「劇場事業法(仮称)の提案一舞台芸術の振興の ために「劇場」の基盤整備を‑」は、指定管理者制度や 拠点劇場を予見する記述があり、たいへん興味深い資料 であるが、検討の論点として「劇場」を再定義している。

すなわち「劇場」とは, 「舞台芸術に携わり、舞台作品 の創造に関わってきた者にとっては、ごく当然のことと して、創造の場であり、作品が生まれ、観客によって育 まれ、発信される拠点であり、人が集まる場所である。」

と定義している。

小劇場を劇場の一形態として認知させる要因として は、上記の劇場としての要件を満たしていることであり、

事業や組織における専門性が求められる。

吉祥寺シアターの検討委貞会報告書では、公設小劇場 としての管理運営のあり方として、下記の基本方針を示

している。

事業方針としては、 「"同時代の舞台芸術"を提供する」

ことが挙げられており、 「同時代の舞台芸術とは、現代 演劇やダンスなど、その時代における文化の新しい方向 性を生み出す舞台芸術のこと」と定義している。また、

事業プログラムを具現化する手法としては、上演活動の 誘致や上演団体による事業運営の参画、舞台芸術の流通 ネットワークの形成と活用といった、開かれた運営によ る事業展開を提案している。

運営主体については、市直営、既存の財団法人武蔵野 文化事業団、新たを非営利組織の設立という3つの形態 とそれらの組み合わせを提示し、今後の検討としている。

ただし、組織の構成については、より明確なヴィジョン を提示し、 「上演団体や市民など民間との協働体制をつ くり、シアターを核とする交流の活性化に繋げる。その ため、組織の内部は弾力的で柔軟性のあるコンパクトな 体制」であることを求めており、プロデューサーやテク ニカルディレクターなどの「劇場運営に必要な知識や技 術を持つ専門的人材を配置する」こととしている。

もうひとつの重要なポイントは、管理計画の中で、 「優 れた舞台芸術の上演団体に対しては、一定期間の連続利 用等の優遇も検討」することとし、自主事業においては、

「新たに提携事業等のシアターと上演団体との多様な協 力体制を検討」することを提案している。また、管理の 手法として、自主事業と舞台芸術利用の優先、優れた上 演団体による長期連続利用、舞台芸術に適した柔軟な規 則、利用者との共同管理の4項目を提案している。

これらの基本方針を具現化する手立てとして、条例や 施行規則が制定されたが、舞台芸術の上演を目的とする 5日以上の長期利用を優先的に受け付けることや、その 場合には劇場使用料金、設備使用料金が共に2割引とな る規則が作られている。申し込みの受付は2ケ月ごとに 行われるが、ほぼ2ケ月単位での連続使用も可能であり、

これまでの公立文化施設が公平性・平等性の名のもとに 定めていた連続利用の制限とは逆方向の規則となってい る。連続利用の制限という考え方は、地方自治法244条 の「公の施設」に関する条文にある「住民が公の施設を 利用することを拒んではならない」あるいは「不当な差 別的取り扱いをしてはならない」という規定に基づく解 釈であるが、吉祥寺シアターの規則は「住民の利用とは、

施設を借りて使うことではなく、文化的サービスを受け ることが利用であって、 「貸し館」として貸し出すこと だけが利用ではない。」 (前述、 「劇場事業法(仮称)の 提案」)という考え方と同じ解釈によるものである。

運営組織については、武蔵野市の既存文化施設の管理 運営を行っている財団法人武蔵野文化事業団が管理運営 主体として指定管理者となったが、開館に先立って吉祥 寺シアターの支配人の公募を行っている。武蔵野市では 市立図書館でも図書館長を公募した実績があるが、吉祥 寺シアターの支配人として、舞台芸術や劇場経営の経験 者、あるいは民間の芸術文化活動を支援している企業・

団体において、芸術文化関連部署での管理職の経験など を有することを応募条件として募集を行った。また、 「舞 台芸術や劇場経営を通じたまちづくりに関心と熱意」を 持っていることもまた条件となっており、ここでもまち づくりの重要性が示されている。

支配人に選ばれた箕島裕二氏は夢の遊眠社、劇団四 季、松竹、 Bunkamuraなどでの豊富な演劇制作の経験を 持ち、日本大学芸術学部が江古田のまちぐるみで行った 演劇公演のプロジェクトにも参画するなど、まちづくり

にも深い関心を持つ日本の演劇界でも数少ない存在であ る。箕島支配人のもと、劇団あるいは劇場での実績を持 つ制作と技術の専門職貞が配置され、少人数ながらも経 験豊富なスタッフ構成が確立されている。

事業については、自主事業として鑑賞・普及、参加・

交流、創造・育成の3つのプログラムを核として展開す る方針としており、 2005年6月にスタートしたオープ ニングステージでは2本の演劇公演と1本のダンスと演 劇の枠組みを超える新たなパフオーミングアートの公演 を行っている。これらの公演は事業団の単独主催ではな く、制作会社あるいは上演団体との共催という形式を とっており、構想段階での「提携事業等のシアターと上 演団体との多様な協力体制」を具現化している。共催と することによって、観客動員やリスク分担さらには他の 劇場・ホールとのネットワークを図る可能性も生まれて おり、効率的で効果的な事業の実施が行われている。ま た、創造・育成プログラムは主催事業として取り組んで いるが、 「夏休み子どものための体験型ワークショップ」

として、小学校高学年から中学生を対象とした「演劇講

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座〜ことばとからだで表現してみよう〜」と「ダンス講 座〜自分のからだを感じる〜」を開催した。また、 10月

には初心者を対象としたダンスワークショップとして

「コンテンポラリーダンス体験〜感じる、向きあう、ダ ンスする身体〜」も行っている。

貸館事業の考え方は、市内外の劇団等に対する積極的 な貸館を行うこととし、 「自主事業と貸館事業が共に劇 場の特色を形成する大切な要素」と位置づけている。 4 つの運営方針のひとつとして、 「新たな劇場ブランドを 目指します。」としているが、その方法としてはすべて を自力で行うのではなく、協働やネットワークという手 法を駆使して行うところに21世紀型の新しいスタイル

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組織や事業に現れる吉祥寺シアターの管理道営の姿勢 は、劇場と呼ぶにふさわしい内容であり、施設的な特徴 と合わせて、吉祥寺シアターを公設小劇場と呼ぶことが できるだろう。

5.今後の展開

吉祥寺シアターは開館したばかりであり、その成果が 明らかになるのは今年度末あるいは一年間の通年での利 用が終了する来年度末になると予想されるが、計画段階 から長い期間をかけて、多くの専門家と共に検討してき た公設小劇場という新しいタイプの公立文化施設には多 くの可能性が潜んでいると考えられる。

東京のような大都市圏に限らず、市町村合併に伴い突 然複数の劇場・ホールを持つことになった地方自治体で も、文化施設の機能分担などの新たな課題が生まれてい る。吉祥寺シアターは、そうした近未来的な日本の芸術 文化施設のあり方に対するひとつの方向性を示すプロ ジェクトであり、吉祥寺シアターが提示した「公設小劇 場」は公立文化施設の新たか朝流になる可能性が大きい。

既に新高円寺会館や川崎アートセンターの計画が進行し ている状況がそれを証明している。

筆者はTWの主宰者として、吉祥寺シアターの計画 の発端から参加し、ハード、ソフトの両面からコンサル ティングを行ったことからも、吉祥寺シアターの今後の 展開と日本の芸術文化環境に与える効果などに注目して

いきたい。

参照

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