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21 世紀社会デザイン研究 2014 No.13

「存在」と「表現」

ありのままを受容し「表現」を獲得した「べてるの家」の事例を通して

“Existence” and “Expression”

─ A Case Study of “Bethel’s House” which Hampered People’s Ability of

“Expression” by Thorough Receptive Approach

樺島 沙織

KABASHIMA Saori

1. はじめに

ありのままの自分でいては他者と共生できない社会は、"生きづらい"社会を物語っ ている。そこには排除される人々の存在がある。

人は、何かの力により排除される状態ばかりでなく、無視・無関心という状況の中 でも社会的に孤立していく。このようなことから自分で自分を排除してしまう「自己 排除」が起こることが危惧されている(1)。社会的排除とは、人や社会との関係からの 排除としても捉えられており、さまざまな側面で関係の築けない状況が生きづらさに もつながっている。実際にわが国では、自殺者数は平成

24

年度には

3

万人を下回った ものの依然として高水準を保っている。平成

23

年に厚生労働省が精神疾患を

5

大疾病 に加えた背景には、このような社会背景が影響しているといわれている。

筆者は修士論文で精神障害を抱える人々の「存在」と「表現」に着目し、多様な価 値観が共存する道筋となる「受容の営み」を考察した。「受容の営み」とは、「他者か ら受容される」、「自己理解をする」、「他者を受容する」営みが双方向に循環をもたら し、多様な関係を築く循環をもたらすことである。これは、自分自身に関心を持てな い状態に陥っても、他者から関心を持たれたり、理解されることによって、孤立や排 除性を回避できる可能性を示唆している。

筆者はまた、「受容の営み」には新たな価値観が創造されると考える。なぜならば、

社会的排除の過程では「それが行われることが普通である・望ましいとされる」こと にあてはまらない価値観は排除が生まれて存在自体が失われる危うさがもたらされて いたが、それらを受容することで異なる多様な価値観が共存すると考えられるからで ある。しかし、この新たな価値観の捉え方は新しいものが突如として創造された営み というよりは、もともと存在していたものが「解放」された営みだと捉えることがで きる。そこには、「他者との関係の中で自己解放・自己理解する営み」としての「表現」

が生まれる。

(2)

動を展開する「べてるの家」を取り挙げた。「べてるの家」 では、他者との関係を築 く中で自己解放し自己理解を深め、一人ひとりが尊重される関係性が見られた。そこ から導き出されたことは、一人ひとり「表現」を得てかけがえのない「存在」となる ことから多様な価値観の「受容の営み」が生まれることである。

画一化している社会の中ではこうした「表現」は失われ、他者との関係の築きにく さが"生きづらさ"にもつながっていると考えられる。それは自分の存在自体が失わ れる危険性をもたらすだろう。このような閉塞感のある社会では、多くの人が自分を 解放することを求めているのではないだろうか。

本稿では、人間の「存在」と「表現」とは何かについて考察し、これからを生きる 私たちにとって「表現」を得てかけがえのない「存在」になるとはどのようなことで あるのかについて「べてるの家」の事例を通して考察する。 

2. 「存在」とは

「存在」とは何かという問いについて、西洋哲学と日本の哲学では根本的に捉え方が 異なる。マルティン・ハイデカーによる「認識」からの存在の捉え方と、内山節によ る「関係」からの存在の捉え方が双方の立ち位置の違いを代表している。本稿では、

内山による関係性によって存在する捉え方を尊重し、論を進める事とする。

(1)関係からの「存在」の捉え方

内山は、存在は関係の中で成り立つと述べている。

 私が認識するからこそそこに山があるのだというのはそういう意味ではない。人 と山との間にあった実際の関係、山をみてその関係を追体験したとき、そこに山が あるという意味である。(略)人と自然の間にあるもの、それが関係であることに気 がついたとき、人の存在もまたひとつの関係の世界であると思うようになった。だ から私にとって認識論とは、人と人、物と物、あるいは人と物、人と自然などの間 にある関係を洞察する学問である。(内山、1980、63)

このように、人と山を例に自己と他者を考えた場合に、認識して存在が成り立つの ではなく、関係があってそこから認識されて存在が成り立つと内山は考える。

例えば、「Aさんはいい人」とされる

A

さんの存在は、そのような関係を築いている 人からすると存在して、Aさんとそのような関係を築いてない人からすると、「Aさん はいい人」とされる

A

さんは存在しないのである。

また、夫である

B

さんと妻である

C

さんの存在は、夫婦という関係があるため、夫 と妻として存在しているのである。そして、Bさんと

C

さんがしあわせと感じている 場合の「しあわせ」とは、日常生活が表現されたものである。内山は、「表現は関係の 中でしかありえない」と述べる(3)

(3)

21 世紀社会デザイン研究 2014 No.13

(2)どのような関係を築いたらいいのかという視点

西洋の哲学思想は自己と他者の認識により存在が成り立つと考えられている(4)。自 己と他者の認識により存在が成り立つとなると、そこの時点で完結することが考えら れるが、内山の述べるようにまず関係が先にあることが前提となると、どのような関 係を築いたらいいのかという発展性が生まれる。このような視点は、社会的排除の要 因となる無視・無関心ということから、受容の要素となる認識・関心をもつこと(5) つながる可能性を示唆している。なぜならば、無視・無関心という状況は、「存在」自 体が失われている危うさをもたらしており、そこでは、西洋の哲学思想のように、認 識が先にくるとなると認識されるもの同士で完結されてしまうことが考えられるから だ。そこで、無知・無関心という状況から、認識・関心をもつ関係をどのように築い たらいいのかという問いが生まれることで、存在することへの可能性が生まれると考 える。

このようなことからも、本稿では、関係が先にあることを前提とした視点で考察し ていきたいと考える。

(3)生産活動に見られる、排除された「存在」と失われた「表現」

社会的排除が生まれた要因は、1980年以降の脱工業化による影響がある(6)。労働市 場の再編や労働形態の変化は、多くの排除者を生み出す要素をはらんでいた。現代社 会においての自殺者数の高水準や生活保護率増加の状況も少なからず労働市場や形態 が影響していると考えられる。それは、内山の述べるように、人間の存在と労働形態 との深い関わりがあることを物語っている。

内山は、人間の存在の不自由感から、人間の存在の解放の必要性を述べている。

 人は自分の存在をもち、存在は関係の世界のなかにある。すなわち人は関係のな かで生きようとし、しかし社会の枠組みが人間を科学的固体化しようとするとき、

当然そこには矛盾があらわれる。それは人間の意識のなかでは存在の不自由感とし て形成される。現代社会が私たちに満ち足りなさを与える根拠はそこにあるのであ ろう。(内山、1980、63)

人間の関係の世界にこのような大きな変革をもたらしたのが近代社会の資本制賃労 働であり、画一的な労働形態をもたらした大量生産システムである。これによって、

熟練職人はその技術が必要とされず、表現の場が失われた。内山は、「人間は生産の場 に入ったとき、人間であるとしか表現できないような不可思議な動物であることを否 定しなければならなかった」(内山、1980年、62)と述べる。

以上のことから、内山は、人間の存在が労働形態と深い関わりがあり、労働は不自 由だが存在は自由だなどということは成立せず、そのため、労働存在の解放なしには 社会全体の解放も、人間存在の解放もありえないと述べている(7)

また、イギリスの美術評論家のジョン・ラスキンも同様のことを述べている。ラス キンは、「芸術は人間の労働の喜びの表現である」と述べる(8)。同国では、産業革命後 の機械導入により、優れた熟練工は白人奴隷にその席を譲らざるを得ず、手織職人が

(4)

 それらは労働の中から労働の喜びを奪った。機械の主導下に人間の自由は失わ れ、まごうかたない人間疎外が、高まる生産力の中に君臨する。(略)生ける機械で ある人間は自己疎外の泥に沈んで、創造性を奪われていった。(五島茂編集、1971、

13

14)

このように、熟練工の技術者の労働が失われていった過程が、彼らの表現を失わせ、

存在自体に危うさをもたらしたと考えられる。

内山は、労働を「何かをつくりだす行為」と規定している(9)。このように労働を規 定すると、それは、広義の「表現」行為とも捉えられる。「表現」が失われると、「存 在」自体に危うさがともなうことから、人間の「存在」の不自由から人間の「存在」

を解放するとは、「表現」を取り戻していくことにほかならない。人の存在には表現は 必要不可欠であり、内山の述べたように、「表現は関係の中でしかありえない」とする ならば、「表現」を取り戻す関係をどのように築いていくかという問いが求められると 考える。

本稿では、このような問いをふまえながら、次に「表現」について考察していく。

3. 表現とは

(1)表現の捉えられ方

「表現」は、幅広い意味を含んでいる。「表現」の原義や、一般的定義は、ラテン語 の「搾り出す(exprimere)」に由来する。主として修辞学において、「心の動きを言葉 を用いて語ること」という比較的な意味で用いられた。今日の日常的な用語法でも、

意見・思想・感情などの「内的なもの」を、言葉・身振り・表現などの『外的なもの』

に表すこと、またその「外的なもの」のことである。ただし、述語として用いられる 場合には、それぞれの学問分野や思想家によって、きわめて多様な意味を担ってい (10)

(2)自己解放と自己理解のための表現

イギリスの哲学者であるロビン・ジョージ・コリングウッドは、自分自身を表現す ることによって、圧迫された状況から解放されて、心が安らかになり、自らを救って いることや、表現することによって自らを探究することの有効性があることを示唆し ている(11)

丸山高司は、コリングウッドの著書『芸術の原理』から、表現性の解明を試みてい (12)

以下に図で表し解説する。

(5)

21 世紀社会デザイン研究 2014 No.13

・ 表現とは、体験の形態化であるとともに意識化であり、いわば人間の「自己外化」

であるとともに「自己内化」でもある。

・ Aのように、あらかじめ内なる体験があって、それが外に表現され、そして後か らそれが理解されるというよりも、Bのように、表現によって、はじめて体験に 形が与えられるとともに、まさにそのことによって理解が芽生えてくる。

・ 表現することによって、圧迫感から解放され、心がやすらかになる。その表現行 為それ自体がひとつの解放であるとともに、その表現において、より明確な自己 理解が獲得される。つまり、自己解放により自己理解が得られる。

・ 下部の矢印が示す他者からの理解については、現時点で述べられていないが、表 現とは他者がいて成り立つという視点のもと載せている。

このように、人は表現することによって、自身を解放し、自己理解をしていく。

「表現によって、はじめて体験に形が与えられるとともに、まさにそのことによって 理解が芽生えてくる」ということは、内山が述べる「関係を追体験したことで存在が 認識される」ということにもつながると考える。なぜならば、そこには体験との関係 が築かれているからである。このようなことからも、人は表現をするためには、他者 との関係を築くことが必要であると考えられる。他者との関係には、人間と人間、人 間と自然など、生きる上でさまざまな関係の築きがあると考えられる。そのため、図 では、他者からの矢印を明記して、表現は他者がいて成り立つことを示している。

以上の考察を踏まえて、本稿では、「表現」は他者との関係の中で成り立つことを前 提として、「表現とは、自己解放し、自己理解・自己受容を獲得する手段であり、人間 が存在する上で必要不可欠なものである」と定義する。

4. 「べてるの家」~ありのままを受容し「表現」を獲得した人々の存在~

べてるの家は

1984

年に設立された北海道浦河町にある精神障害等をかかえた当事者 図 「表現」と「体験」

A:自分の中に体験があってそれを表現する ⇒ B: 表現して体験が形になっていく「その表現に

おいて、より明確な自己理解が獲得される」

出典: 丸山高司、1993、「4表現的存在 ─ 歴史的生の存在論」『岩波講座 現代思想1 思想としての20 紀』岩波書店、158159を基に、筆者作成

(6)

などの活動があり、総体として「べてる」と呼ばれている。そこで暮らす当事者達に とっては、生活共同体、働く場としての共同体、ケアの共同体という

3

つの性格を有 しており、

100

名以上の当事者が地域で暮らしている(13)。べてるの家の

30

年の歴史は、

他者から受容される中で自身を解放し、表現を獲得したプロセスであるとも考えられ る。

(1)存在を解放する~ 「商売」と「病気を語る」 ~

べてるの家では、一人ひとりのさみしさ、無気力、つらさなどに向き合い、苦労の 状態を「それで順調」として受け入れる関係性を大切にしている。

べてるの家が発足した

1978

年当時は、精神科薬への期待はできないという空気や、

精神分裂病(現、統合失調症)の人たちは「話し合いができない人」「自分の病気さえ も理解できないし表現もできない人」という理解が常識だった。これに対し、べてる の家はその

30

年以上にわたる歴史を通じて、「商売」と「病気を語る」ことを切り口 に、他者との関係を築く中で、存在を解放し表現の機会を獲得してきたことが読み取 れる。以下にそれぞれについて述べていく。

①「商売」~関係性重視の働き方~

べてるの家では、社会復帰のため、スキルトレーニングのためという切り口でスタッ フが与える「作業」ではなく、"金儲けをしよう"と「商売」をはじめた。当時のメン バーが眼を輝かせていたというエピソードや、どんな仕事も長続きせずもっとも手を 焼いていた早坂潔ができる仕事を探すなど個々に合った仕事をするところに、メンバー が主体的に取り組んでいく姿勢が見てとれる。そのようなことから、早坂潔の「発作 で売る」販売方法が生まれて彼は今では"ミスターべてる"と呼ばれる存在になるな ど、個々人の力が発揮される関係性を築いていた。

また、べてるの仕事は、地域のためになること、利益のないところを大切にすること など関係性重視の働き方であるとも考えられる。地域のためになることという視点で、

廃れてきた昆布を全国に売ろうと昆布業者の人との関係性を築き、高齢者や障害を抱え る人が暮らしやすくなるためにと介護用品の販売を始めて、関係性を築いていった。

実際に、国立精神保健研究所の種田が浦河町の住民に対して、精神障害のある人へ の偏見について尋ねた調査によると、否定的に捉えている人も多くいるが、べてるの 家の当事者と関わりがあったり、恩恵を受けている住民は肯定的な捉え方をしている という結果がでた(14)

このように、「商売」を切り口に、関係性重視の働き方を模索していく中で、それぞ れの人の表現の機会が生まれていったと考えられる。

②「病気を語る」~自分の言葉で自分を語る~

世間では、統合失調症を抱える人たちは、症状の悪化につながらないように幻聴や 妄想は抑えるものであり、体験を語ることがタブーとされていた時代に、べてるの家 では「病気を語る」ことの体験が培われていた。1995年から毎年開催される「幻覚&

(7)

21 世紀社会デザイン研究 2014 No.13

妄想大会」とは、参加者が幻覚・妄想体験を語り、もっとも優れた体験をしている方 がその年のグランプリになるというイベントで、会場は大いに盛り上がっている。

また、1995年には映画も撮影され、当事者が自らの体験を語ることなど想像もされ ていなかった時代に、ビデオを販売して全国の当事者や医療関係者から注目を浴びた。

この病気を語ることの体験は、日頃べてるの家で行われている

SA、SST

(15)や、その二 つが両輪となって生まれた「当事者研究」の活動の中で培われている。このようにし て、「病気を語る」ことを切り口に、他者との関わりの中で、自分の言葉で自分を語る ことや言葉を生み出していくことから、表現の機会が生まれていったと考えられる。

以上のことから、べてるの家では、「商売」や「病気を語る」ことを切り口として、

関係が築かれる中で存在を解放し表現の機会を獲得してきたことが考えられる。どち らも、前述したように他者との関係が築かれていること、仕事の場・発表の場・語る 場・交流の場と、表現の「場」があることが必要不可欠な要素であると考えられる。

そして、べてるの家での自分たちの言葉を生み出すプロセスの行き着いた先が当事 者研究であり、「当事者研究」には表現の要素が凝縮していると考えられる。

(2)表現を獲得する~ 「当事者研究」 ~

当事者研究とは、症状、服薬、生活上の課題、人間関係、仕事などのさまざまな苦 労に、自分が苦労の主人公 当事者 となって、自ら主体的に「研究しよう!」と取 組み、他者との関わりの中で従来とは違った視点や切り口でアプローチしていくこと によって、起きてくる困難を解消し、暮らしやすさを模索していこうとするものであ (16)

①「当事者研究」と「表現」

1. 自己解放、自己理解(他者理解 受容)

何かの圧迫や苦しさから自分を解放しようとする「自分の助け方」の方法を他者の 力を借りながら「研究」によって見出していく。苦労の起き方のパターンや意味を考 えることによって、「捉われ」が「関心」に、「悩み」が「課題」に、「孤立」が「連携」

へ変わっていく。「研究」という立ち位置をとることで、これまで専門家や家族が考え ていた苦労への対処について、自身が「苦労の主役」になり、研究することで自己理 解を深める。そして、他者の大切な経験を学び、ともに研究していくところから、他 者理解も深まる。

2. 他者との関係性が築かれる

お互いの苦労を持ち寄り、他者と経験を分かち合い、苦労をともに担おうとする中 で、連帯とつながりが生まれる。このように、当事者研究は他者との関係が築かれて いる中で行われる。

3. 知恵、アイデアが創出される

自分自身と他者の経験の中に、今の苦労や困難を解消する知恵とアイデアの素材が 蓄積されており、そのような互いの経験による知恵や情報を出し合うことで、その場 に新しい可能性が生み出される。当事者研究のユーモアと笑いが絶えない自由な雰囲

(8)

以上のように、当事者研究では他者との関係が築かれる中で自己解放し、自己理解 していく「表現」の有効性が確認できる。

②当事者研究の実例~ 「言葉の取り戻し」の研究(17)

鈴木真依は、当事者研究ミーティングで「言葉の取り戻し」の研究をしている。彼 女の自己病名は「統合失調症習慣性自己虐待型・幻聴さんと私の共依存タイプ」であ る。自分の中に「死にたい」願望があって救急受診し入退院を繰り返していた。薬や 注射をしてもらいその時は安心するものの、「何で生きてるんだろう」「将来のことも 考えられないなら死んだほうがいい」と思い再び「死にたい」願望が起き「死神さん」

と呼ばれる幻聴が現れる。この悪循環から抜け出すために当事者研究をはじめる。以 下の流れで進められた。

1.

当事者研究ミーティングでは、自分の今までの苦労をホワイトボードに書き出しパ ターンを明らかにする作業をする。そこから「人につながる」手段として死にたいメッ セージを発信していたことに気づく。救急受診をして「大量服薬するかもしれない」

「腕を切るかもしれない」という言葉を使ってしか話ができず、病気を失うということ は人とつながる手段を失うという恐怖感があった。「病気」が安心を得るための媒体で 病気を使って人とつながっていたことがわかる。(①自己解放・自己理解)

2.

当事者研究ミーティングのメンバーから「救急外来に行きたくなったら、私に電話 ちょうだい!」と電話番号を教えてもらい、死神さんの幻聴が現れた時に電話をかけ てみる。すると、「いいときに電話くれたね。今鍋やってるから来ない?」と誘われ救 急外来ではなく鍋パーティーに招かれる。そこで楽しく過ごしていると死神さんの幻 聴は消えていった。(②他者との関係が築かれる)

3.

自分の中の「死にたい」は実は「生きたい」「人とつながりたい」ということだった と気づく。語ること、「言葉」の大切さがわかってきた。(①自己解放・自己理解)

4.

お金がかかる救急外来よりも、仲間と過ごすことの方が効果的であるため、共同住 居で一人暮らしをして毎日通う場所を見つける。これまでは「死にたい」という苦し さでしか人とつながれなかったが、自分なりの「言葉」で素直に自分の気持ちを話す ことによって新しいつながり方を身につける。(③知恵・アイデアが創出される)

べてるの家で開発された「当事者研究」は、当初は統合失調症を抱える人々が始め た取組みであるが、全国の精神障害を抱える人々にのみならず、現在ではいろいろな 問題や障害を抱える当事者団体、自助グループ、社会運動団体でも展開している(18) 生活の中でさまざまな苦労や困難を抱える人にとっても、有効な手段として広がりつ つある。

(9)

21 世紀社会デザイン研究 2014 No.13

5. おわりに

以上、人間の「存在」と「表現」について考察し、他者と関係が築かれる中で「表 現」を獲得している「べてるの家」の事例を検討した。

かけがえのない存在とは、"かけがえのなさ"の関係が築かれることで存在する。な ぜならば、内山が述べたように、関係があってそこから認識されて存在が成り立つと 考えられているからである。べてるの家では、"かけがえのなさ"の関係が結ばれてい ることが読み取れる。例えば、べてるの家の理事である向谷地生良は、一人ひとりの 体験に「有意味性」を持つことが大切であると述べている(19)。これは、どのような失 敗や行き詰まりの経験でも、そこには未来につながる大切な「宝=大切な生活情報(生 活資源)」があるということであり、その一人ひとりの経験は誰にとっても有用な生活 情報として活用される価値のあるものとして尊重されている。このような、一人ひと りがかけがえのない存在としての関係を築くことで、"かけがえのなさ"が存在するの である。

そして、筆者は、人間の存在において「表現」は必要不可欠であることを述べた。

一人ひとりがかけがえのない存在になるには、一人ひとりが表現を得ることが必要不 可欠である。表現を得て、一人ひとりがかけがいのない存在として共生していく社会 には、ありのままの自分でいられる"生きやすさ"が育まれるだろう。

そのために、他者との関係が築かれる中で自己解放し自己理解する表現の「場」が 必要である。このような「場」づくりをこれからの実践につなげていきたいと考える。

■ 註

(1)森田洋司監修、2009、『新たなる排除にどう立ち向かうか ─ ソーシャル・インクルージョ ンの可能性と課題』学文社、16

(2)べてるの家は

1978

年に回復者クラブどんぐりの会の有志メンバー数名が浦河教会の旧会堂 を拠点として活動をはじめたのがはじまりである。1983年、浦河日赤病院の精神科を退院 した早坂潔さんをはじめとする精神障害を体験した回復者数名が、浦河教会の片隅で昆布 の袋詰めの下請け作業をはじめ、1984年に当時浦河教会の牧師だった宮島利光氏から、「べ てるの家」と命名された。現在では、精神障害ばかりではなく、様々な障害を持った当事 者が活動に参加している。

(3)内山節の講義より

(4)ハイデガー、熊野純彦訳、2013、『存在と時間(二)』岩波文庫、144でマルティン・ハイ デガーは、「ここにいる私」の「ここに」はつねに、手もとにあるものの「あそこに」から 理解されており、しかもその<あそこ>へとへだたりを取りさりつつ ─ 方向を合わせ ─ 配 慮的に気づかいながらかかわる存在という意味において理解されているのである。(略)と 述べる。また、ディルタイ、久野昭訳、1973、『解釈学の成立』以文社、7

11

でヴィルヘ ルム・ディルタイは、「私たちの行為は、そもそも、他の人格を了解することを前提として いる」と述べている。ディルタイの述べる「了解」とは、「外から感覚的に与えられる徴表 から私たちが内面的なものを認識する過程」とされる。そして、「了解」には、さまざまな 段階があり、まず「関心」によって条件づけられる。関心がせまければ、了解の仕方もせ まいことを述べている。以上のことから、自己と他者の認識から存在を捉えていることが

(10)

(5)筆者は修士論文において、F.P.バイステックと

R.M.

マッキーヴァーの視点から、受容する ための要素として「認識する」、「関心をもつ」こととして考察した。

(6)岩田正美、2008、『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』有斐閣、32

33

(7)内山節、1980、『存在からの哲学』毎日新聞社、193

(8)五島茂編集、1971、『世界の名著

41 ラスキンとモリス』中央公論社、13

(9)内山節、1989、『自然・労働・協同社会の理論 ─ 新しい関係論を目指して ─ 』人間選書、

22

(10)

飛田良文・佐藤武義、2001、『現代日本語講座 第二巻 表現』明治書院、185

(11)

R.G.

コリングウッド、近藤重明訳、1973、『芸術の原理』勁草書房、119

121

(12)

丸山高司、1993、「4

表現的存在 ─ 歴史的生の存在論」『岩波講座 現代思想

1 思想とし

ての

20

世紀』岩波書店、155

162

(13)

社会福祉法人浦河べてるの家、ホームページ(2014

10

26

日取得)

http://www.urakawa-bethel.or.jp/

(14)

種田綾乃、2012、「地域住民の精神障害(者)に対する態度とその変容:精神障害者当事者

活動の可能性に着目して」『精神障害とリハビリテーション』第

16

巻第

2

号、45

51

(15)

SA

Schizophrenics Anonymous: 統 合 失 調 症 の 自 助 グ ル ー プ、SST

Social Skills Training:生活技能訓練

(16)

べてるしあわせ研究所、2009、『レッツ!当事者研究 1』地域精神保健福祉機構・コンボ、

13

(17)

べてるしあわせ研究所、2009、『レッツ!当事者研究 1』地域精神保健福祉機構・コンボ、

50

59

(18)

石原孝二編集、2013、『当事者研究の研究』医学書院、102

103

(19)

平成 25

10

31

日、NPO法人

ACTIPS

における向谷地生良の講義より

■ 参考文献

ディルタイ、久野昭訳、1973、『解釈学の成立』以文社 ハイデガー、熊野純彦訳、2013、『存在と時間(一)』岩波書店 ハイデガー、熊野純彦訳、2013、『存在と時間(二)』岩波書店

R.G.

コリングウッド、近藤重明訳、1973、『芸術の原理』勁草書房 石原孝二編集、2013、『当事者研究の研究』医学書院

岩田正美、2008、『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』有斐閣 内山節、1980、『存在からの哲学』毎日新聞社

内山節、1989、『自然・労働・協同社会の理論 ─ 新しい関係論をめざして ─ 』農山漁村文化協

五島茂編集、1971、『世界の名著

41 ラスキンとモリス』中央公論社

種田綾乃、2012、「地域住民の精神障害(者)に対する態度とその変容:精神障害者当事者活動 の可能性に着目して」『精神障害とリハビリテーション』第

16

巻第

2

飛田良文・佐藤武義編集、2001、『現代日本語講座 第二巻 表現』明治書院

べてるしあわせ研究所、2009、『レッツ!当事者研究

1』、地域精神保健福祉機構・コンボ

丸山高司、1993、「4表現的存在 ─ 歴史的生の存在論」『岩波講座 現代思想

1 思想としての

20

世紀』岩波書店

向谷地生良・小林茂、2013、『コミュニティ支援、べてる式。』金剛出版

森田洋司監修、2009、『新たなる排除にどう立ち向かうか ソーシャル・インクルージョンの可 能性と課題』学文社

参照

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