[書評] 辰巳浅嗣著 『EUの外交・安全保障政策 : 欧州政治統合の歩み』
その他のタイトル [Book Review] Asatsugu Tatsumi, The European Union's Foreign and Security Policy in the Context of European Political Integration
著者 土倉 莞爾
雑誌名 關西大學法學論集
巻 53
号 3
ページ 727‑756
発行年 2003‑09‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/12159
︹ 書
は じ め に
辰巳浅嗣著
土
倉 『 Eu の外交•安全保障政策欧州政治統合の歩み』 ︵ 成 文
堂 ︑ 二 0 0 一 年 ︶
は じ め に 一 本 書 の 概 観 二 い く つ か の 問 題 点 三これからの展望として
本書は欧州政治統合に関する歴史的体系的な研究をめざすものである︒その構成について概観しておきたい︒本書は三部構成と
なっている︒第 I 部は︑欧州統合の思想的背景と統合運動の潮流について扱っている︒第
年以降 I I 部は一九七 0
E
C 加盟諸国によ
り開始された外交政策の調整活動︑すなわち欧州政治協力
E u r o p e a n P o l i t i c a l C o o p e r a t i o n ,
P E
C に関する研究である︒第皿部は︑
冷戦終焉後
EPCの発展的解消を受けて登場した共通外交•安全保障政策
CommonF o r e i g n a n d S e c u r i t y
P o l i c y , C F S P ︑および
『
Euの外交•安全保障政策~欧州政治統合の歩み
I』平 ︺
︱ ‑
=
‑ n
ニ 四
三
︵ 七
二 七
︶
莞 爾
み 第三章
よ う
︒ 著者は︑欧州統合の目標は︑主権国家間の戦争を回避しうる︑平和な国際社会の構築にあり︑その思想的源流は︑
ト︑サン・シモンなどの平和思想に求めることができると指摘している︒第一次世界大戦後︑
ン・ヨーロッパ運動﹂を唱導し︑欧州統合を社会運動のレベルに高めた︒彼は︑独仏和解を甚に欧州が団結することにより︑米ソ 両国に対抗しうる欧州の復権を図ろうとした︒しかし︑おりからの世界恐慌とそれに伴う閉鎖的な経済プロックの形成︑狭量な民 族主義を標榜するファシズムの台頭により︑その運動は十分成果を収めることができなかった︒第二次大戦後︑
瀕した欧州諸国の政治指導者や統合運動家たちは︑
一 九
四 八
年 五
月 ︶
チャーチルの提唱した欧州合衆国の創設をめざして︑
に集結した︒しかし︑イギリスの抵抗により連邦主義者の構想は実現することなく︑緩やかな政治協議の場とし
第一章欧州統合運動の高まり
一 九
六
0 年
代 の 動 向 フ ー シ ェ
・ プ ラ ン を 中 心 に
l 第 I
部は︑第一章
第 I
部 欧 州 政 治 統 合 の 系 譜
第 五 三 巻 三 号 近年急速に進展してきた欧州共通安全保障・防衛政策
C o m m o n E u r o p e a n S e c u r i t a y n d e D f e n c e P o l i c y , C E S D
P を研究の対象と
‑.本書の概観 し て
い る
︒ 関法
欧州統合運動の高まり︑第二章
︵ 七
二 八
︶
一 九
五
0 年
代 の 動 向 欧 州 防 衛 共 同 体 EDC
構想の挫折を中心に
I︑
の三章によって構成されている︒それぞれの章ごとに概観して
ニ四四
カ ン
ヽ
レノー
` ' / ヽ
クーデンホーフ・カレルギーは﹁パ
いっそうの危機に
ハーグ大会︵欧州大会︑
化の必要性を強く認識した︒米英両国は︑その手段として︑西ドイツの再軍備と NATO 加盟を提案したが︑同国に強い不信感と
恐怖感を抱くフランスは︑これに強力に反対した︒その結果︑超国家的な国際機構の下にドイツ再興の可能性を抑制しつつ西欧の
強化を図り︑同時にソ連の脅威に対抗するための妙案として考案されたのが︑欧州共同体という発想であった︒冷戦激化という国
際情勢の影響下に︑欧州統合は︑ようやく社会運動の段階から制度化の実現に至る︒その最初の成功例が︑欧州石炭鉄鋼共同体 E
C S
C であり︑失敗例が欧州防衛共同体
EDC
で あ
る ︒
著 者
は ︑
民主的コントロールを図るため︑欧州政治共同体
E u r o p e a n P o l i t i c a l C
o m m u n i t y
の構想と抱き合わせになっていたことに注目し
ている︒また︑その成立の経緯から分かるように︑この時期に試みられた共同体は︑加盟国の主権に対する拘束性の強い︑いわゆ
る超国家的組織であるのが特徴であることにも注目している︒著者は︑以上のような欧州統合の系譜を辿り︑当時の統合理論︵連
邦主義︑機能王義︑新機能王義︶
EDC
の挫折はしばしば超国家性の高さに起因すると指摘されるが︑著者は︑実際にはその条約交渉の過程において超国家性は
次第に希薄化されていると主張する︒著者はこの章において︑
がとりわけ強いものでないことを論証し︑
スターリンの死去など︶
ろが大きいことを指摘する︒
ECSc
交渉が二年余りのうちにかなりスピーデイーに進展したのに対し︑
の歳月を要し︑その間に内外の様相が激変した︒その意味において︑
EDC
の挫折はまさに﹁時間の犠牲﹂であった︑と著者は言う︒
『
Euの外交•安全保障政策—|'欧州政治統合の歩みー」
著 者
に よ
れ ば
︑
第二章 ての欧州審議会
C o u n c i l o f E u
r o p e
の設置︵四九年五月︶を見るに止まった︒
一 九
五
0 年代初頭︑朝鮮戦争の勃発はソ連の脅威を実感させる事件であった︒これに伴い西欧諸国は︑西欧の強
にも言及している︒
ニ四五
EDC
は防衛領域における最初の国際統合の試みであり︑しかも
一九五
0年代の動向—ー欧州防衛共同体
(EDC)構想の挫折を中心にIECSC
と
EDC
の条約規定を比較検討しつつ︑
EDC
の超国家性
EDC
挫折の真の要因を究明している︒著者は︑とりわけ国際環境の変化︵朝鮮休戦や
やフランス国内の政治情勢の変化︵めまぐるしい政権交代とそれに伴う保守勢力の台頭など︶によるとこ
EDC
交渉は実に倍近く
︵ 七
二 九
︶
第 五 三 巻 三 号
著者によれば︑
EDC の意義は︑超国家性の大きさというより︑むしろその挫折がもたらしたその後の方法論的転換にあると考 えられる︒第一は政治優先から経済優先への転換︑第二は︑超国家的統合から漸進主義的・現実主義的方法への転換︑第三は一定 分野のみにおける統合をめざす部門別統合から︑より包括的な統合をめざす路線への転換である︒こうして︑
CSC 加盟六ヵ国の代表がメッシナに集まり︑まもなく欧州経済共同体
EEC が発足することになる︒同時に︑欧州原子力共同体
EURATOM が発足し︑欧州三共同体が出揃ったとの結論に至っている︒
著 者
に よ
れ ば
︑
第三章 EDC
の挫折後︑統合の関心はおもに経済領域に向けられ︑政治統合はしばらくの空白期間を余儀なくされた︒
その後六 0
年代に試みられたのが︑ド・ゴール仏大統領によって提唱され︑
プ ラ
ン F o u c h e t P l a
n であると著者は論証する︒その構想は︑ フランスが﹁諸国家の同盟﹂
U n i o o f n S t a t e s
の下に定例化される首
脳会議を通じて︑超国家的傾向をもつ欧州三共同体をコントロールしようとする政治的意図が明白であったため︑オランダのルン ス外相をはじめ︑ベネルックス諸国の強い反対をこうむった︒ここでは︑有名な一九六二年四月一九日のルンス外相の声明を傍証
として引用しておきたい︒﹁オランダは
EEC
六ヵ国より大きく︑
ロ ッ
パ の
建 設
は ︑
関法
アデナウアー西独首相によって支持されたフーシェ・
できるだけ拡大された統一ヨーロッパを望んでいる︒このヨー ECSc
条約と同じく超国家と統合の原理の上になされねばならない︒
︵ 七
三
0 )
フランス案は国家間の条約︑同盟条約︑
祖国からなるヨーロッパの条約という古い観念に基礎を置いている︒この案は廃棄されねばならないというのがわれわれの考え方
で あ
る ﹂
︵ マ
ス ク
レ ︑
一九八一︑八 0
頁︶︒それは政府間的傾向が強いとされ︑さほど衆目を集めなかったが︑著者はこの章におい て︑同構想の交渉経緯から条約案まで詳細に検討し︑国家主権の拘束を含む条項がいくつか含まれていた事実を明らかにしている ことに成功している︒例えば︑﹁諸国家の同盟﹂に法人格を認めた点︵今日の
E
U は法人格に関する明文規定をもたない︶︑﹁統一
的な外交政策﹂の形成を標榜している点︵七
O
i 八 0 年代の
EPC は政府間協力に基づく︶︑理事会決定が加盟国を拘束すると明
一九六 0
年 代 の 動 向
l フーシェ・プランを中心に
ニ 四
六
一 九
五 五
年 六
月 ︑
E
『Euの外交•安全保障政策~欧州政治統合の歩み||_』
ニ 四
七
︵ 七
三 一
︶
第 1 1
部は︑第一章EPC発足の経緯と七
0 年代前半の動向︑第二章ECとEPCの二元構造とその克服への努力││̲EPC 第
1 1 部 欧 州 政 治 協 力
( E
P C
)
九八一︑八六頁︶ と述ぺている︒ フーシェ・プランは二次にわたって交渉された︵それぞれフーシェ I ︑
フ ー
シ ェ
1 1 と呼ばれる︶が︑結局実現しなかった︒その
原因はしばしば︑政府間主義的な構想に欧州統合派のベネルックス諸国が難色を示した点が強調されるが︑むしろEDCの挫折要
因と同じく︑同案を取り巻く内外情勢に起因するところ大であると著者は考える︒第一に︑ ド・ゴールが信頼を寄せたアデナウ
アー政権の基盤が弱かったこと︑第二に︑イギリスが参加しなかったこと︑第三に︑イギリスのEC加盟に対するド・ゴールの強
固な反対姿勢がベネルックス諸国の決定的な反発を招いたこと︑などである︒また︑より広く理解するなら︑
来の米仏関係の悪化と︑ド・ゴールの独自外交路線︵中華人民共和国承認︑
タイン委員長による共同体権限の強化案に反対し︑ ケネディ政権発足以
NATO
軍事機構からの離脱など︶ の強化が︑その背
景に横たわっている︒ド・ゴールは︑この交渉を通じてますます共同体嫌いにおちいり︑それが﹁六五ー六六年危機﹂︵ハルシュ
フランスがEC諸機関から自国職員を撤退させ︑共同体活動をボイコット︶を
招く一因になったと著者は主張する︒こうしてフーシェ・プランは失敗したが︑著者は﹁諸国家の同盟﹂の機関として予定されて
いた首脳会議や欧州政治委員会︵外務省高官より構成︶
意味において︑ は︑七 0 年代に始まるEPCの構想に受け継がれたとする︒著者は︑その
フーシェ・プランは︑その後の欧州統合史に一定の足跡を残したものとして評価している︒フランスの政治学者マ
スクレも﹁フーシェ・プランは現象液のように作用した︒対立と不一致が明るみに出た︑しかし同時にヨーロッパの異なるビジョ
ンも明らかになった︒したがってフーシェ・プランの段階は︑後から考えてみると本源的な重要性を持っている﹂︵マスクレ︑ 記した点(Euの下では︑
の形成と発展
一定の決定のみが拘束力を持つ︶などである︒
一 方 ︑
第五一二巻三号
︵ 七
三 二
︶ 一九六九年十二月に開催されたハーグ首脳会議は︑発足以来十二年間に及ぶ過渡期間を終えて︑共同体がいよい
よ本格的に活動をスタートする節目に行なわれた︑極めて重要な会議であった︒実際には︑過渡期間は繰り上げられ︑六七年六月 末までに関税同盟や共通農業政策を実現し︑同年七月から︑三共同体の諸機関も共有されるにいたり︑それを機会に三共同体を総 このハーグ首脳会議は﹁完成・強化・拡大﹂というスローガンを掲げ︑その一貰として政治統合の強化を検討するよう︑
E
C 加
盟国外相に要請した︒その結果︑加盟国外務省政務局長からなるダヴィニョン委員会の検討を経て︑七
0 年
十 月
︑ E
C 外相から各
国首脳宛に提出されたのが︑﹁ルクセンブルク報告﹂であり︑それが欧州政治協力
EPC
の始まりを告げるものであった︒
著 者
は ︑
EPC
はフーシェ・プラン以上に穏健な政治統合の試みであり︑
E
C 加盟国による任意の政府間協力をベースとする外
交政策調整の活動であった︑と言う︒その目標は︑外交政策に関する意見の調和︑立場の調整にあり︑必要かつ望ましい場合には︑
共通行動をとることとされた︒
EPC の決定はすべてコンセンサスにより行なわれ︑加盟国に対する拘束力を持たなかった︒七三
年 七
月 ︑
EPC に関する第二次報告︑すなわち﹁コペンハーゲン報告﹂が公表され︑
は︑この章において︑以上のような草創期における
EPC の運営の仕組み︑活動領域および課題について論述している︒当初︑安
全保障の領域は︑
NATO
および
W E
u 固有の問題とされ︑
一九七二年十月のパリ首脳会議において︑初めて﹁七
0 年代末までに︑全体的に複合的な加盟国の関係を
E u
r o
p e
a n
U n
,
i o n
へと転換する﹂との目標を設定した︒著者は︑当時における
E u
r o
p e
a n
U n i o
n , EU
をめぐる論争について︑シュピーレンバー 称して﹁欧州共同体﹂
E
C と呼称するようになった︒
著 者
に よ
れ ば
︑
EPC
諸会議の協議対象外に置かれていた︒
第一章
E P C 発足の経緯と七
0 年代前半の動向
書︑の四章によって構成されている︒ 関法
EPC
の制度的枠組みがほぼ確立した︒著者
における委員会の役割を中心として—|、第三章単一欧州議定書と欧州政治協力
EPC
、第四章アイルランドと単一欧州議定
ニ 四
八
し
、
グ
報 告
︑ チンデマンス報告を中心に紹介している︒しかしながら︑当時の時代的風潮は︑プラグマティズムに支配されており︑こ
の時期に
E u
の目標が設定されたことについては︑六五
l
六六危機および第一次オイルショック
欧州統合を鼓舞する狙いがあったのではないかと著者は主張している︒ここでは︑当時のベルギー首相であったレオ・チンデマン スの報告について注目しておきたい︒チンデマンス報告は︑
一般に︑欧州連合に関するすべての記録のうちもっともプラグマ ティックなものと信じられている︒チンデマンスは欧州理事会のために︑
のいたるところで彼の直接的な読者にあたえる衝撃とその反応を大いに意識していたように思われる︒チンデマンス報告は︑した がって︑欧州の未来政府の青写真といったものてはなく徐々に加盟諸国の関係を改め︑そうして集団として今日有する行動の幅 を拡大しようとする一連の提案なのであった︒チンデマンスは︑共同体の一定の諸部門における発展に不均衡が存在すること︑す なわち︑あるいくつかの部門では共同体は進んだ権限をもっているのに︑その他の部門では共同体諸機関が無力であることによっ
て ︑
﹁ 欧
州 的
思 考
﹂ E u r o p e a n i d e a
が弱められていると考える︵テイラー︑
当時の統合の現状を反映して︑欧州統合理論も岐路に立たされていた︒
誘発するとの﹁スピルオーバー論﹂は信憑性を失うかに見え︑実際︑
こうした時代背景の下に政府間主義が勢いを付け︑その代表的論者であるスタンレイ・ホフマンの理論は︑﹁リアリズムに基づ く国際政治モデル﹂として高く評価された︒著者は︑現実と理論の両面から︑七
0 年代初頭の欧州統合低迷期における政治統合の
動向を明らかにすることに成功している︒ここでは︑今日の現時点に立って︑﹁今日︑多くの新機能主義者がユーロの誕生からス
ピルオーバー効果が生じ︑
︵ フ
ラ ン
ク ︑
二 0
0 三 ︑
E u
が加盟国を犠牲にして︑その超国家的な政治的権威を強化し︑単一通貨の管理と権限の拡大ができ るようになることを期待していることは疑いない﹂とフランスの歴史学者ロベール・フランクが述べていることを補足しておきた
一 五
0 頁 ︶
︒
『
Euの外交•安全保障政策~欧州政治統合の歩みー』
ニ 四
九
かつその代表として報告を作成したのであり︑その字句
一 九
八 一
︑ 四
三 ー
四 四
頁 ︶
︒
一定領域における統合が︑異なる分野に波及し︑統合を
ハース自身が﹁新機能主義﹂を放棄したようにさえ思われた︒
︵ 七
三 三
︶
︵七三年秋︶を経て停滞していた
加盟国以上にイニシアチブを発揮することができたと著者は評価する︒七︱︱一年十一月以来︑
ロ・アラブ対話﹂では︑
E
C 側の共同議長の役割を理事会議長と
E
C 委員会が務めたが︑六ヵ月交代による理事会議長より︑任期
の長い委員長の方が継続性の点で優れ︑ 員会は主として
﹁ 第
ニ バ
ス ケ
ッ ト
﹂
E ︑現在欧州安保協力機構
I I
O S
C E
と 呼
称 ︶
デタント期を象徴する出来事としてもっとも典型的なのは︑ しも十分でなかったことを論証している︒ 者は強調する︒
第五一二巻三号
著 者
に よ
れ ば
︑
E
C と
E P
C の
二 元 構 造 と そ の 克 服 へ の 努 力
EPC
における委員会の役割を中心として E P C の
発 足
当 初
︑ E
C 事項︵ロー・ポリティクス︶
ロンドン報告によって︑ ︵
七 三
四 ︶
と
EPC 事項︵ハイ・ポリティクス︶
は峻別され︑それぞ
れ別々の会議体で協議された︒
E
C 外相理事会と
E P
C の外相会議は︑ほとんど全く同一メンバーで構成されているにもかかわら
ず︑例えば︑ある朝加盟国外相が政治問題の協議のためコペンハーゲンに集い︑午後から
E
C 事項の協議のためブリュッセルに向
かった︒それは︑
E
C の枠組内に政治的協議を持ち込むことにより︑共同体の権限領域を侵害したり︑将来政治統合の強化をもた
らしたりしないための配慮であった︒当初︑
れるに止まっていた︒このような二元性
di ch ot om
を打破することこそ︑欧州外交政策の形成にとって最大の課題であったと著
y著 者
は ︑
オイルショックを転機として
E
C と
E P
0 C の相互関係が事実上増大し︑やがて八
年 代
初 頭
︑ E C 委員会が
E P
C 諸会議に完全に参加することが承認されるにいたるプロセスを明らかにしている︒著者はいろいろな会議レベ
ルについて検討した結果︑外相会議に比して︑より下位の機関︵政治委員会や作業グループ︶
の開催であろう 関法
第二章
E
C 委員会は︑理事会が認めた場合にのみ︑
E P
C 関係の会議にゲストとして招聘さ
における
E
C 委員会の参加が︑必ず
一九七五年七月ヘルシンキ宣言を成した全欧安保協力会議
( C
S c
(辰巳•鷲江、―
100三、四頁)。全欧安保協力会議では、
︵経済︑科学技術︑環境問題に関する協力を扱う部門︶
E
C 委
に関与した︒委員会は時には
NATO
アラブ側の要請で開始された﹁ユー
かなりの実績を上げることができた︒八 0 年六月︑中東・パレスチナ問題について
E C 加
二 五
O
盟国首脳は共同で﹁ベニス宣言﹂を公表し︑パレスチナ人によるホームランド建設の権利を認めたのは︑
であった︒この章では︑これら二つの事例を中心に︑著者は
EPC における委員会の参加状況とその問題点について検討している︒
最後に︑著者は︑
EPC
の課題と展望を示し︑
第三章
EPC において欧州理事会
( I I
首 脳
会 議
︶ なっているに過ぎないこと︑安全保障を﹁聖域﹂として検討の対象から除外していること︑国連などの国際組織において加盟国の 足並みの乱れが生じた事実などを指摘しており︑その強化策を提示している︒
単 一 欧 州 議 定 書 と 欧 州 政 治 協 力
EPC
著者によれば︑八七年七月に発効した単一欧州議定書
S i n g l e Eu ro pe an Ac t
は ︑
﹁域内市場統合の完成﹂︵いわゆる九二年市場統合︶をスムーズに成功させるため︑
約)の改訂を図ったものであるが、同議定書は、その中に外交•安全保障政策に関する規定を包摂するものであった。その意味に おいて﹁単こ議定書なのであった︒発足以来
EPC
活 動
は ︑
ローマ条約
( E
E C
︑
基盤も持たず︑加盟国外相や政治委員会などによる政治的実績の積み重ねによって︑単なる慣行として行なわれてきた︒
EPC は ︑ 単一欧州議定書によって初めて法的根拠を獲得したのであり︑単一欧州議定書の意義は︑第一にそこに認められると著者は主張す
る︒同一条約において
E C 事項と
EPC 事項が規定されたことの意味は大きい︒もっとも︑それによって両者の間の区別︵制度上 の二元性︶が解消されたわけではなく︑議定書において︑両者はあくまでも異質のものとして扱われていると著者は言う︒
著者はこの章において︑まず同議定書について︑欧州議会による
E
U 条約草案︵八四年二月︑欧州議会採択︶︑八五年政府間会
議において実質上たたき台とされた﹁ハウ・プラン﹂
Ho we P l a n
︑およびフランス・ドイツ案と比較検討しながら︑
の経緯について詳論する︒次に安全保障の政治・経済的側面が
EPC の協議事項として追加されるにいたる経緯について詳論する︒
EPC はもともと安全保障および防衛についてはその対象外としてきた︒新冷戦の開始以来︑次第に安全保障の問題は非公式外相
『Eu
の外交•安全保障政策ー
|l
欧州政治統合の歩みー」
二 五
や外相会議が単に﹁宣言外交﹂を行
八 五
年 六
月 ︑
EPC
の枠組みにおいて
E
C 委員会によって着手された
ローマ条約
( E
E C
︑ EURATOM 設立条
EURATOM
設立条約︶上のいかなる法的
︵ 七
三 五
︶
EPC
法制化
会議︵いわゆるギムニッヒ会議︶
の は
︑
第 五
三 巻
︱ ︱
一 号
で協議されるようになったが︑安全保障の政治面が
EPC
協議の対象であることを公式に認めた
ロンドン報告︵八一年十月︶が最初であった︒その後︑ゲンシャー・コロンボ提案︵八一年十一月︶︑シュツットガルト宣言
( ﹁
E u
に関する厳粛な宣言﹂八三年六月︶︑欧州議会の
E u
条約案︵上記︶︑ドゥーグ報告︵八五年三月︶︑ならびにハウ・プラン︑
フランス・ドイツ案により︑相次いで安全保障政策を
EPC
に包摂する構想が提示された︒著者は︑これらすべての報告ないし条
約案と比較しながら︑安全保障政策に関する規定が単一欧州議定書において具体化されるプロセスを追究している︒同議定書の意
義は︑そのほか︑小規模ながら政治協力事務局の創設が規定されたことにある︒総じて同議定書の意義は︑
EPC
における既存の
慣行を条約規定として追認し︑明文化した点にあるが︑そのことは決して過小評価されるべきではない︒顧みれば︑単一欧州議定
書は、欧州政治協力
EPCから共通外交•安全保障政策
CFSPへの転換期における橋渡しの役割をしたと著者は論証する。
アイルランドは︑冷戦下にあって
E
C 加盟を果たした唯一の中立国である︒著者によれば︑
で︑その権限強化に対しても︑イギリスやデンマークほど消極的ではないと言う︒
EPC
へ の
参 加
も ︑
﹁ E
C 加盟の当然の結果﹂
と見なし︑特別難色を示していない︒それは︑
ラ ン
ド は
︑
EPC
が任意の政府間協力であることによると著者は考える︒したがって︑
EPC
の強化・改善には慎重な態度をとる︒例えば︑
クなアプローチの維持﹂を基調とする改革を唱えるため︑同国はこれに賛成する︒とくに同報告が︑安全保障に関する協議を政治
的側面に限定し︑防衛問題を除外していることを著者は評価する︒
るゲンシャー・コロンボ提案は︑ アイルランドにとって容認しがたい提案となる︒
ところで︑単一欧州議定書において批准手続きが最も難航したのは︑
ながら︑その規定のほとんどが国家主権と中立性を侵害する点で違憲であるとの憲法論争に発展した︒著者はこの章において︑欧
関法
第四章
アイルランドと単一欧州議定書
アイルランドは 二五二
E
C に対して協力的
ア イ
ル
ロンドン報告は政府間協力に基づき︑﹁柔軟かつプラグマティッ
一方︑安全保障活動に関する協力を
E
C の任務に加えようとす
アイルランドであった︒同国ではいったん国会で承認され
︵ 七
三 六
︶
政策 CFSP
として生まれ変わった︒七二年︑パリ首脳会議において打ち出された
E
u という構想が︑二十年余りの歳月を経て実
現したと著者は言う︒
E
U は︑﹁神殿造り﹂と表現される三層構造︵三つの柱︶からなる︒第一は従来の欧州諸共同体︵但し︑
C が
E
C と呼称されることになった︶による活動領域︑第二が
CFSP
︑第三が司法・内務協力である︒著者はこの章において︑
『
Euの外交•安全保障政策ー~欧州政治統合の歩みー」 冷戦の終焉とともに︑
第一章
マーストリヒト条約が発効し
︵ 九
三 年
十 一
月 ︶
︑
マーストリヒト条約と
C F S P
二十一世紀への展望│ーーによって構成されている︒ ユーゴ政策︑第四章 制裁の決定過程における
E
C と
E P
C の相互関係︑第三章 第
r n 部は︑第一章 第 m 部
て い
る ︒
マーストリヒト条約と
CFSP
︑第二章 州議会による
E
U 条約案に関する承認問題にも言及しつつ︑単一欧州議定書が八六年十二月︑国会両院で承認された後︑
ド・クロッティーが違憲裁判に持ち込み︑八七年四月︑最高裁判所が違憲判決を下すにいたるプロセスについて詳論する︒最終的
には︑単一欧州議定書の批准を認めるための憲法改正が行なわれ︑別途政府による﹁宣言﹂を加えることによって︑その批准は容
認される結果となった︒同宣言は︑
アムステルダム条約からニース条約へ│̲│
レ イ
モ ン
ァイルランドの軍事的中立性の立場を確認し︑議定書に定められた措置が同国の中立性の地位
に影響しないことを強調する内容であった︒そこには︑同国が求めていた議定書の修正や留保は一切含まれていないと著者はのベ
共通外交•安全保障政策 (CFSP) への転換一九九
0年代の動向
九六年
E
u 政府間会議
( I
G C
)
EPC
か ら
CFSP
への転換期における事例研究︿その一﹀経済
E P C か ら CFSP
への転換期における事例研究︿その二﹀
E u の 対
とアムステルダム条約︑終章
E
C は
E
u へ
と 改
組 さ
れ ︑
EPC
は共通外交•安全保障
二 五
三
︵ 七
三 七
︶
E
E
同 条
約 は
︑
る拘束力を持たない︒ EPC
か ら
CFSP
への転換の意義を明らかにしている︒
マーストリヒト条約は「共通外交•安全保障政策」を明確に打ち出した点に、第一の意義を有する。もっとも、それによって外 交•安全保障施策のすべてが直ちに共通化するわけではない。同条約自体、現実主義的な精神を踏襲するものであり、あくまでも
﹁ ア
キ ・
コ ミ
ュ ノ
テ ー
ル ﹂
a c
q u
i s
c o
m m
u n
a u
r t
a i
r e
(
共 同
体 の
蓄 積
物 ︶
するものであると著者は主張する︒
CFSP
に関して言えば︑この精神は﹁加盟国は共通の重要な利益を有する領域において︑漸
次 ︑
統 一
行 動
j o
i n
t actionを実施する﹂という規定に反映されている︒統一行動とは︑同条約によって初めて導入された概念︵用
語としては︑﹁シュツットガルト宣言﹂に出てくる︶
いったんその対象として決定された事項の履行については︑特定多数決により決定することができる︒また︑それは加盟国に対す る拘束力を有する︒具体的に何を対象とするかは︑条約調印後のリスボン欧州理事会︵九二年六月︶において明らかにされた︒す なわち︑当該紛争地域の欧州との地理的接近性︑その政治的・経済的安定が欧州にもたらす利益の重要性︑
す脅威の存在の三点である︒これらの碁準に基づいて︑中東欧・地中海諸国︑中東が統一行動の対象地域として決定され︑
シューとしては安全保障の経済的側面︵第三国への軍事技術の移転の管理および武器輸出管理︶などがその対象とされた︒統一行 動以外には︑共通の立場の策定が規定されたが︑これは
EPC を踏襲するもので︑全会一致により決定され︑しかも加盟国に対す
著 者
に よ
れ ば
︑ CFSP
に関して残された課題は︑統一行動の対象をいかに拡大するか︑換言すればいかに多数決による決定事 項を拡大するかということであった︒さらに︑九一年政府間会議の主要論点であった︑
E u と WEU
および
NATO
との関係をい
かにするかということだった︒
関 法 第 五 三 巻 三 号
︵ 七
三 八
︶ の実績を尊重しながら︑その基礎の上に発展を遂げようと
であり︑何がその対象事項になるかは理事会の全会一致の決定によるが︑
E
u の安全保障に及ぼ
イ
マーストリヒト条約は︑この点では
WEu
を
E
u 軍事部門として位置づけようとするフランスやド
イツなどの諸国と︑大西洋同盟との関係の重要性を強調するイギリスとの妥協の産物にすぎなかったと著者は考える︒すなわち︑
一 方
で WEU を﹁欧州同盟発展のための不可欠の一部﹂と位置づけ︑他方で﹁大西洋同盟における欧州の柱﹂と位置づ
二五四
『Eu
の外交•安全保障政策ー|ー欧州政治統合の歩みー」
け︑両者の融和を図っている︒これらの課題が︑後のアムステルダム条約に残されることとなったと著者は主張する︒
︿そ の一
﹀
この章では︑経済制裁という問題を素材として︑
裁を研究のテーマとしたのは︑その決定が︑対外経済援助とともに︑まさに
E C 活動と
EPC
活動の接点をなすと考えたからであ
る ︒ E
は本来経済協力機構であり︑経済活動に関する一定の決定を自らの意志に基づいて行なうことができる︒しかしながら︑ C
経済制裁のようにすぐれて政治的な決定は︑欧州理事会
( I I
脳 首
会 議
︶ E u r o p e a n o C u n c i
l および外相会議など︑
に関する単なる宣言もしくは声明に終始する︒それ自体行動手段を持たない
EPC
機構が経済制裁措置を実行するには︑
とその手段を活用せざるを得ない︒こうして経済制裁の決定過程を究明することにより︑
しあいながら活動している実態を著者は明らかにしようとした︒
まず︑著者が検討の対象としているのは︑
スはほとんど皆無となった︒第二は︑ 政治的オリエンテーションがあって初めて可能となる︒
二五五
E
C と欧州政治協力
EPC
の相互関係について検討されている︒著者が経済制
一 方
︑
EPC
の下での
EPC
諸会議が決定する外交政策目標は︑それだけでは政治的意思
ローデシア︑イランの米大使館人質事件︑ポーランド戒厳令︑
盟諸国間で何らの合意にも達せず︑結局加盟諸国がその主権の下に自由に意思決定を行なう場合である︒かつての︑
経済制裁の決定過程における
E C
とEPC
の相互関係
第二章
E P
C か
ら C F S P へ の 転 換 期 に お け る 事 例 研 究
︵ 七
三 九
︶
E C 機関
EC.EPC 両機構が機能的に相互補完
フォークランド紛争︑
化学兵器先駆物質の使用︑南アのアパルトヘイト政策︑湾岸危機など︑旧ユーゴ紛争に先立つ先駆的な事例である︒著者によれば︑
外交問題の解決のために第三国に対して
E
C 諸国がとる行動パターンとして︑以下の三つのケースが形成されてきた︒第一は︑加
ローデシアの
非合法政権に対する対応︵六六年十二月ー六八年五月︶がこれに相当する︒
EPC
の発足とその後の発展に伴い︑このようなケー
EPC
における事前協議を十分考慮しつつ︑最終的には
EEC
条約第ニ二四条
( E
C 条約二
九七条︶に基づき︑加盟諸国が意思決定を行なう場合である︒イラン大使館人質事件では︑ドイツが共同体措置の必要性を訴え︑
E
C 委員会はその実施方法について検討したが︑
た後︑外相が各国議会に国内法による措置を求め︑加盟国は
E
C 条約ニニ四条に基づいて制裁措置を決定した
日 ︶
︒ 第
三 は
︑ E
C 共通通商政策として︑
︱一三条のいずれを適用するかは︑重大な差異を生ずる︒第一︱三条を適用した場合︑
E
C 委員会が理事会に対する提案権を持
ち︑理事会の許可に基づきその交渉を行なう権限を持つ︒この場合︑理事会の決定は特定多数決によって行なうことができる︒共 同体の行為として行われる以上︑欧州議会も意見を表明するなど︑政策決定過程に影響を及ぼす機会が増大する︒要するに︑著者 によれば︑第一︱三条の適用は︑外交政策目標の実現に関する決定が共同体権限として行われ︑
一致の合意が求められないということを意味するのである︒経済制裁がこのような手続きに従って実施されるまでに︑時間が必要
著 者
に よ
れ ば
︑ EPC
における協議事項が初めて
E
C 条約第一︱三条によって決定されたのは︑
ソ連の干渉により同国の﹁連帯﹂運動を弾圧︑戒厳令が発令された︶
のような処理手続きが定着するにいたると著者は考える︒この章において︑著者は︑以上の先駆的事例について述べた後︑旧ユー
ゴ紛争における
EC/Eu
の経済制裁を中心に検討している︒
これらの経験をとおして︑
員会が制裁の手続きを推進するといった︑
E
C と
EPC
の間に確立されると著者は論証する︒両者を隔絶してきた﹁二分法﹂が事実上希薄化するにいたると著者は主張する︒ であったと著者は言う︒
関 法 第 五 三 巻 三 号
E
C レベルにおける積極的な措置はとられず︑結局
EPC
の脈絡において協議し
の時であった︒以来︑
いわゆる﹁タンデム方式﹂︵二人で漕ぐ自転車︶
︵ 七
四
O )
︵ 八
0 年五月一八
EEC 条約第一︱三条
( E
C 条約第一三三条︶が適用されるケースである︒ニニ四条と
しかもその決定に加盟国の全会
ポーランド危機︵八一年十二月︑
フォークランド紛争などをとおしてこ
EPC 会議においてまず政治的合意としての指針が決定され︑それにしたがって
E
C 理事会および委
と呼ばれる協力方式が︑
二 五
六
『Eu
の外交•安全保障政策ー|ー欧州政治統合の歩み|~』
交交渉の比喩︶︑監視団の派遣︑和平会議の主宰もしくは
著者はこの章において︑
第三章
︿そ の二
﹀
E u
の対ユーゴ政策
な加盟国間の利害や見解の相違をいかに克服し︑
ユーゴ政策を事例として︑著者はこの章において︑
二 五
七
旧ユーゴ紛争は︑
E
u にとって二重の重要性をもつと著者は考える︒冷戦の終焉は欧州を国際的舞台の主役に押し上げたが︑旧
ユーゴ紛争はその状況下においてまさに
E
u が初めて主体的に対処すべき紛争なのであった︒同時に︑冷戦終焉の過程がマースト
リヒト条約の交渉過程とほぼ重なるという事実を著者は指摘する︒しばしば旧ユーゴ紛争は
CFSP
の試金石であると言われるが︑
それに対する各加盟国の主張やその対応に︑
CFSP
のあり方に対するその国の考え方が反映されていることが少なくない︒多様
E u
がどれだけ真の共通政策を確立することができたのであろうか︒
E u
の 対
Eu
の外交•安全保障政策の実態を検証している。
一般には︑旧ユーゴ紛争における
E u
の評価は︑否定的な声が多い︒しかし︑その評価に際しては︑政治的解決に関する活動と︑
軍事・防衛面における活動を区別して行なう必要があると著者は考える︒著者によれば︑元来
EC/EU は経済協力ないし経済統
合に携わってきた国際組織であり︑冷戦終焉にともない︑次第に安全保障・防衛面にまで役割を期待されるにいたったばかりであ
る︒したがって︑
E u
が﹁自らの前途に立ちふさがる戦車を止めるに十分でない﹂︵クリストファー・ヒル︶
れば︑﹁ボスニア紛争によるヨーロッパにおける戦争の再発︑その解決に対するヨーロッパの無力は︑
させた﹂︵フランク︑二
0
0 三
︑ 二
0 頁 ︶
という視点も紹介しておきたい︒
マーストリヒト条約の発効以前と以後とに意識的に区分しつつ︑ EPC
か ら CFSP
への転換期における事例研究
のは︑ある意味にお
いて当然のことと言わざるを得ない︒加盟国間の見解の相違が生じがちなのも︑この領域においてであると著者は考える︒付言す
ヨーロッパ意識を再び鼓舞
E
U が果たした役割を識別している︒
まず︑著者は︑条約発効以前は︑宣言・声明の発表︑トロイカ外交︵三頭だての馬車︑現議長国︑前議長国︑後任議長国による外
︵国連との︶共催︑共和国承認問題︑経済制裁︑人道援助および人権侵
︵ 七
四 一
︶
の評価を試みている︒ 害調査︑軍事介入問題について論じている︒次いで︑著者は︑条約発効後における動向︑とりわけ人道援助関係の統一行動︑モス タル市の管理︑軍事協力の推進状況について論じている︒なかでも︑
︵ 七
四 二
︶
モスタル市の管理に︑著者は注目する︒モスタル市はボスニ
ア・ヘルツェゴビナ共和国におけるクロアチア人の居住区域であり︑しばしばイスラム教徒との戦闘の生じた町である︒紛争終了
後︑その管理を国連でなく
E u
が委任されたことに︑
E u
政治統合の進展を著者は感じている︒また︑同地域の治安警察の役割を
西欧同盟
WEu
が受け持ったという事実も︑冷戦終焉後における国際組織間の多角的な協力の発展を象徴することとして著者は注
著者によれば︑九六年
E u
政府間会議はマーストリヒト条約が積み残した課題を穴埋めし︑さらなる統合の促進を図るために招
集 さ
れ た
︒ CFSP
の分野における九六年政府間会議の主要な目標は︑冷戦終焉後の国際情勢に対応しうる︑より効率的な対外関
係を確立することにあった︒その場合︑基本的な視点として︑
E
u の民主的運営および加盟国間の連帯性の強化と行った視点が重
要視されたことは︑他の分野における改革の場合と同様であると著者は考える︒また︑
E u
拡大の可能性をつねに念頭に置きなが
ら討議が進められたことも︑九六年政府間会議の特徴の一っとして指摘されねばならないと著者は言う︒
著者はこの章において︑再検討グループ
R e f l e c t i o n Gr ou
p
議長 C ・ウェステンドルプ
C a r l
W
e s t e n d o r p ・
(
スペイン欧州問題担
当 相
︶
の経過報告︑同グループの最終報告︑理事会議長職の報告を初めとする
E
U 諸機関の報告および決議︑
E
U 加盟国政府・諸
機関ならびに西欧同盟
WEu
の理事会および総会による諸報告等を資料として活用しながら︑ CFSP 強化のための主要な論点を
フォローし︑併せて九六年
IGC
の成果として署名されるに至ったアムステルダム条約︵九九年五月調印︑二
0
0 一
年 二
月 発
効 ︶
CFSP
に 関
す る
り 限
︑
目している︒
E
U は多少その課題をクリアしたが︑むしろ同条約の意義は︑第一に︑加盟国の棄権の権利を認め︑少
第 四 章 九 六 年
Eu
政府間会議
( I
G C
) と ア ム ス テ ル ダ ム 条 約
関法第五一二巻三号
︱ 一
五 八
『
Euの外交•安全保障政策~欧州政治統合の歩みー
̲ ̲
﹄
CFSP
の決定手続きに関しても︑進展がなされたことを著者は論証する︒すなわち︑統一行動の他に︑﹁共通の立場ないし共
通の戦略に基づくその他の決定を採択する場合﹂︑および﹁共通の立場を実施する決定を採択する場合﹂にも全会一致ではなく︑ いうのが著者の考えである︒ 数派の自由を容認するとともに︑
二 五
九
︵ 第
十 七
条 第
一 項
︶ ︒
E u
が﹁防衛に関わる決定を
E u
自体としては多数意見に従って行動しうるという︑ フレキシビリティー
認めたことであることを著者は論証する︒これは︑
E
U 加盟国の拡大を考慮した︑多段階の統合を許容する政策の第一歩であると
著者は言う︒第二に︑冷戦終焉後必要性の高まった危機管理活動や紛争予防︑難民救済など︑
務﹂を︑欧州の中立諸国も参加して実行することが︑条約規定として明記されたことに著者は注目する︒著者は︑第三に︑
CFS
P を代表する人物として︑
( ( M r o r M s
C
FS P"
という役職を設置したことも注目する︒九九年十月︑
O 事務総長がその任に就いたが︑彼は同時に西欧同盟
W E
u の事務総長にも就任した︒著者によれば︑﹁彼の
E
u 理事会事務総長
兼上級代表への就任は︑彼が
NATO
事務総長としての経歴を有し︑しかも
WEu
事務総長も兼任するところに意味がある︒彼は︑
本来微妙な関係にある三機関を調整するのに最も適切な地位にあり︑しかも相当の政治力とリーダーシップを持ちあわせている﹂
(辰巳、二
00二、四一五頁)。第四に、政策立案•早期警戒部門の設置が決定した。これは、著者によれば、外交および安全保障 の政策領域における分析・予測から計画立案ならびに提案にいたる過程を全体的に鳥鰍することのできる機関として︑その役割が
期待されている︒第五に︑
あることを規定し︑新たに
W E
u が同盟に行動能力を利用する機会を提供し︑
CFSP
の防衛面の策定を支援することを明記した︒
J 四条二項の定める
W E
u の役割を明確化したのである︒これに伴い︑
統合の可能性を考慮して︑
E
u と
W E u の
関 係
に つ
い て
は ︑
マーストリヒト条約と同様︑
WEu
が﹁同盟発展の不可欠の一部﹂で
E
U は︑欧州理事会が決定した場合︑﹁
W E
u の同盟への
W E
とのいっそう緊密な制度的関係を促進﹂する u
策定し︑実施するため
W E
u を利用﹂︵同条第三項︶することが明記されたことも︑特筆に値すると著者は言う︒
E
u と
WEu
の
併合は条約規定として明文化されなかったが︑それはむしろ実質的な条約の進展を反映し︑条約調印後に進展することになったと
︵ 七
四 三
︶
ハヴィエル・ソラナ前
NAT
いわゆる﹁ペーターズバークの任
︵ 柔
軟 性
︶ の
原 則
を
E u
に対する法人格の付与は︑イギリスの反対により実現しなかったが︑その代替措置として第二四条の規定が追加されたこと
を著者は指摘する︒﹁
E u
が国際協定を締結する必要がある場合︑理事会は
協定は︑議長職の勧告に基づき︑︵全会一致により︶理事会により締結される﹂との趣旨の規定である︒
一九九八年十月︑ブレア英首相がゴーサインを出して以来︑
︵ 同
年 十
二 月
︶ ︑
フェイラ
欧州共通安全保障・防衛政策 CESDP の全貌が明らかにされてきた︒ただし︑
E U は NATO
に取って代わって集団防衛を行な
おうとしているのではない︒アメリカが直接利害を有しない地域紛争において︑﹁ペーターズバークの任務﹂を
E u
と し
て 展
開 し
︑
その限りにおいて欧州の独自性を発揮しようとしているというのが著者の考えである︒そのための実行手段や装備を獲得すること
が、現下の
Euにとっての急務であり、緊急展開部隊や文民警察部隊の創設、政治•安全保障委員会、軍事委員会、軍事幕僚部の
設置は︑その努力の表われであると著者は主張する︒さらに︑西欧同盟
WEu
の E
u への併合が二 0
0
0 年末に実現したが︑著者
によれば︑それはマーストリヒト条約以来の悲願であった︒これによって︑
E
U は︑その装備を譲り受けて︑
WEu
が遂行してき
た危機管理などの活動を自ら実行しうることになると著者は考える︒昨年末︑首脳会議によって基本合意に達したニース条約では︑
WEu の解体を見越して︑
E
U はすでに二
0
0 四年の政府間会議に向けて︑動き始めている︒現在
E
U は中東欧諸国を初め︑十一ニカ国と加盟交渉︵ただし︑
トルコは交渉対象国に掲げられているだけである︶を行なっているが︑それが実現すれば
E
U は最大二八ヵ国︵ただし︑
月 ︶ ︑
ヘルシンキ
E u と WEu
の相互関係に関する諸規定が削除されたことを著者は指摘している︒
︵ 二
0 0
0 年
六 月
︶ ︑
アムステルダム条約は︑ 特定多数決が導入された︒ 関法
終章 第
五 三 巻 三 号
ニ ー
ス
一九九七年十月に調印されたが︑むしろその後における進展がめざましいと著者は言う︒著者によれば︑
E
U は急速に独自防衛に向かって進行しつつある︒ケルン
︵ 同
年 十
二 月
︶
と四回の首脳会議︵欧州理事会︶を経て︑
アムステルダム条約からニース条約ヘ︱︱一世紀への展望
トルコは ︵
九 九
年 六
︵全会一致により︶議長職に交渉の開始を許可する︒
二 六
O
︵ 七
四 四
︶
わ れ
る ︒
二 0
0 四年五月時点では加入しない︶
に拡大することになる︒その前に︑政治的基盤を強化しておきたいというのが︑欧州連邦構
︵ フ
ィ ッ
シ ャ
ー 外
相 ︶
の真意であると著者は言う︒統合のいっそうの促進を望む加盟国による﹁先行統合
一 九
五
0 年代︑欧州統合の実験に着手した
E
C は
︑ 今
日 ︑
二 六
一 九
Eu
の下で外交•安全保障政策、さらには防衛政策ないし共同防衛ま で視野に入れて取り組もうとしている︒まだ︑この領域における成果は︑共通政策と呼ばれるには幼なすぎるが︑約半世紀の間に︑
かつて不可能と思われた政策領域における統合が︑今日加速度的に進行しつつある事実こそ︑欧州統合の発展を物語っていること を著者は強調する︒本書で著者が扱おうとしたのは︑まさにそのような
E
U 諸国に潜む︑絶えざる統合へのエネルギーである︒
西暦二
0
二年は共通通貨ユーロ誕生の歴史的に記念すべき年となった︒ヨーロッパ統合もここまで来たのかという感慨にとら 0
一九五0
年五月、当時のフランス外相シューマンは、長年にわたる独仏対立の恩讐を超えて、石炭•鉄鋼産業の共同管理 に関するプランを発表した︒欧州にとって初めての共同体づくりが出発した︒以来︑五十年有余の歳月が流れた︒この間︑世界は 東西対立という五十年代の冷戦激化から︑八十年代末から今日に至る冷戦の終焉へと歴史は目まぐるしく変遷した︒欧州共同体も それと歩みを同じくしながらも︑確実に成長・発展して来たと言えよう︒欧州統合は統合の実現にいたる連続的な過程であり︑現
在の
E
U は最初の共同体の発足以来︑漸進的に統合の範囲と水準を深化︑拡大させて来たことは否定できない︒
と こ
ろ で
︑ 五十年代︑冷戦激化の中で試みられた欧州防衛共同体
EDC が挫折して以来︑欧州諸国は︑主権国家を刺激しがちな 政治・防衛領域の統合の企ては回避してきた︒五八年の欧州経済共同体の成立はそれを物語っている︒政治統合の開始は七
0 年
九 月の﹁ルクセンブルク報告﹂によって﹁欧州政治協力﹂
E P
C が着手された時である︒ここで︑
『
Euの外交•安全保障政策
I
欧州政治統合の歩みー」
二 . いくつかの問題点
論﹂もその動きに連動するものであると著者は考える︒ 想を打ち上げたドイツ
E P
C とは︑著者によれば︑
︵ 七
四 五
︶
著者は結論として︑
E D
C が挫折したのは︑
五二年五月である︒しかし︑ れ
る ︒
E D
の政治史的文脈としては︑ C
七 0
年 か
ら 九
一 二
年 ま
で ︑
E
C 加盟国間の外交政策の調整を主要な目的として︑強制力を行使することなく︑政府間協力として営ま
れてきた活動である︒したがって︑
EPC は政治統合実現のための継続的努力の象徴と言ってよい︒九三年十一月発効のマースト
リヒト条約はこの
EPC を﹁共通外交政策﹂
CFSP
に転換させた画期的な条約である︒
CFSP は九九年五月のアムステルダム
条約の発効によりさらに強化された︒
E
の確立に向かって前進中で CESDP U はさらに加速度的に欧州共通安全保障・防衛政策
著 者
は ︑
E u
におけるこのような政治統合の歩みに着目して︑長期にわたる研究の蓄積をこのたび公刊した︒本書は︑著者によ れば、「この二五年余りの間に」書き記した諸論文の集大成である。著者の主な関心は、欧州政治協力
EPC