プライヴァシー権の概念化にあたっての女性のイメ ージ : 女性を抑圧するものから、女性を解放する プライヴァシー権概念へ
その他のタイトル The Image of Women on the Conceptualizing of Privacy : From Oppressing Women to Liberating Women
著者 小林 直三
雑誌名 關西大學法學論集
巻 59
号 3‑4
ページ 457‑508
発行年 2009‑12‑18
URL http://hdl.handle.net/10112/1527
小
林 直
プライヴァシー権の概念化にあたっての女性のイメージ
女性を抑圧するものから︑女性を解放するプライヴァシー権概念へ
次 序.本稿の目的
‑.プライヴァシー権の概念化に関する従来の学説とその
批判的考察 曰 米 国 に お け る プ ラ イ ヴ ァ シ ー権に関する従来の
学説の概要 口 米 国 に お け る 従 来 の 学 説 の 批 判 的 考 察
①一人で放っておいてもらう権利︑秘密︑制限されたアクセス
②個人情報のコントロール
③人格性
④親密性
︱ ‑ .プライヴァシ
ー権の概念化におけるプラグマ
ティック・アプローチとその問題 曰 ダ ニ エ ル
・ J・ソロプのプラグマティック・アプローチ
□
プラグマティック・アプローチの具体化としてのプライヴァシーの分類
□プ
ラグマティック・アプローチの評価とその問題点
三
.プライヴァシー権の概念化と女性 曰 プ ラ イ ヴ ァ シ ー 権 と 淑 女
(l
ad y)
のメタファ
①カイロ判決の概要
②入浴する淑女
(l ad y)
のメタファ
③ランドルフ判決の概要
④家庭での淑女
(l ad y)
と虐待される女性のメタファ 口プライヴァシー権の概念化の前提としての事実の解釈と女性のイメージ 結語女性を抑圧するものから︑女性を解放するプライヴァシー権概念へ
目
こうした従来の学説のアプローチでは︑ 序.本稿の目的
一四
五
今日︑ほとんどの人たちが︑プライヴァシー権を保障すべきことに疑いをもっていない
︒したがって︑その限りに
おいて︑プライヴァシー権が保障されるぺきことは︑すでに自明のことだと考えてよいだろう︒つまり︑かつては︑
﹁我国の不法行為法において︑﹃プライバシィ﹄という概念は確立していないし︑確立する見込みもなく︑将来とも
(1)
この概念を使用するべきではない﹂とする見解もあったが︑しかし︑﹁現在では︑その侵害が不法行為となることに
︿2
)
︵3
)
ついては異論がない﹂
とされ︑さらに︑﹁この権利は⁝⁝公法の領域でも妥当すべきものと解されるに至った
﹂
での
︵もちろん︑それを上回る対立利益が認められる場合には︑プライヴェートなものを保護する利益は制限される
そのため︑プライヴァシー権における今日的問題は︑そこで保護されるぺきプライヴェートなもの
如何なるものなのかを明らかにすることだといえる︒
実際︑プライヴァシー権に関する従来の学説も︑まさにそのこ
とに焦点を当ててきた︒ ことになるだろう︶
︒ ある
つまり︑従来の学説は︑そこで保護されるべき私的領域の範囲を定義することで︑
ヴァシー権として保護されるべきものを画定しようとしてきたのである
︒ プライ
一般に︑次のような推論が行われていると考えられる︒つまり︑①私的領 域は保護されるべきであり︑②ここで問題となっている行為がそうした私的領域に含まれるのなら︑結論として︑③
その行為は保護されるぺきことになるわけである︒
この推論形式では︑もし︑私的領域の範囲が画定できれば︑必然 的にプライヴァシー権として保護すぺきものを明らかにすることができる︒
プライヴァシー権の概念化にあたっての女性のイメージ
︵ 四 五
七︶ ︵私的領域︶が
ダニエル・
J
・ソロブは︑彼がプラグマティック・アプローチと呼ぶ考えを主張しているが︑それは︑そうした従 来の推論とは異なる形式をとるものだといえる
︒
つま
り︑
保護されるぺきであり︑︵その行為が︑プライヴァシー権として保護される行為と実質的な関連性や類似性が認めら
(4)
れるとするならば︑詞その行為は保護すぺき私的領域に含まれ︑プライヴァシー権として保護されるべきことになる︒
ただし︑この新たなアプローチにおける推論形式では︑必ずしも確定的な結論が期待できるわけではない
︒
しか
し︑
こうした可謬性は︑新たな﹁知﹂を生み出すものでもあり︑具体的なコンテクストや時代の変化に対応し得ることを 示すものとして︑評価することもできるだろう︒また︑この推論で示された概念が妥当なものかどうかは︑それを前 提として展開されるその後の帰結や他の法的プラクティスとの整合性などから検証することも可能であり︑もし︑妥 当でないと考えられれば︑︵あらためてこのアプローチにしたがって︶新たな推論が行われることになる
︒
それらを繰り返すことで︑そのコンテクストや時代の変化に応じたもっとも妥当な概念を示すことができる
︒
のあり方が求められなければならないと考えられる
︒
しかし︑この推論形式では︑結論の内容が︑その前提条件のなかに含まれているため︑そこから新たな﹁知﹂が生
じる余地はない︒また︑
たとしても︑プライヴァシー権として保護されるぺきものに変わりはないことになる
︒
そのため︑こうした硬直性を回避するためには︑私的領域の定義を開かれたものにすることが必要だと考えられる
かもしれない
︒
しかし︑もし︑そうなれば︑今度はプライヴァシー権として保護すべきものを明らかにできなくなり︑
それだけこの推論形式の有意性が失われてしまう︒したがって︑こうした問題を回避するためには︑もっと別の推論
関法第五九巻三•四号
︵
四五八
︶ いったん私的領域の範囲が定義されてしまうと︑具体的なコンテクストや時代に変化があっ
ソロブのこのアプローチにおける推論では︑
︵
ある行為が]
四六
]
四 七ところが︑このアプローチでは︑ある行為が保護されるべきかどうかの判断を先行させるため︑とくに︑その判断
のあり方が問題となる︒
ジーニー・スクの近時の論説における分析は︑その判断が︑そこでイメージされる女性のあ り方に依存し︑そして︑その女性のイメージ次第で︑プライヴァシー権の保障が︑かえって女性に対する抑圧を導く しかし︑プライヴァシー権の保障が女性に対する抑圧を導く仕組みを明らかにできれば︑逆に︑抑圧から女性を解
放するものとして︑プライヴァシー権を再構成することもできるのではないだろうか
︒
本稿は︑こうした問題意識の下で︑抑圧から女性を解放するものとして︑プライヴァシー権を再構成する可能性を
検討するものである︒
ところで︑わが国のプライヴァシー権に関する議論は︑おもに米国での議論に影響されてきた︒そこで︑本稿では︑
まず︑米国におけるプライヴァシー権の概念化に関する従来の学説を批判的に考察していきたい
︒その上で︑それに
代わるものとして︑ダニエル・
J
・ソロブのプラグマティック・アプローチを検討していきたい︒次いで︑ジー ニー・スクの議論を踏まえて︑ある行為を保護すべきかどうかの判断にあたって︑そこでイメージされる女性のあり 方がどのようにプライヴァシー権の概念化に影響するのか︑そして︑抑圧から女性を解放するものとしてプライヴァ
シー権を概念化するには︑どのようにすればよいのかを検討しようと思う︒
プ ラ イ ヴ ァ シ ー 権 の 概 念 化 に 関 す る 従 来 の 学 説 と そ の 批 判 的 考
(6) 察 わが国のプライヴァシー権に関する学説は︑米国での学説に影響を受けながら発展してきた︒では︑わが国の学説
プラ
イヴ
ァ シ
ー権の概念化にあたっての女性のイメー
ジ こともあることを示唆している︒
︵四
五九
︶
ここでは︑まず︑米国の学説を概観し︑次いで︑それらを批判的に考察していきたい︒
米国におけるプライヴァシー権に関する従来の学説の概要
これまで︑米国連邦最高裁は︑憲法上の権利としてプライヴァシー権を認めてきたものの︑その明確な外延を示す
(7)
定義を述べてこなかった︒このような連邦最高裁の判断を補うために︑これまで多くの学説がプライヴァシー権の定
義を試みてきた
︒
ここでは︑まず︑そうした米国の従来の学説の展開を素描しておきたい︒
まず、プライヴァシー権を、はじめて、法律論として明示的に論じた文献として、サミュエル•D・ウォーレンと
(8) ルイス•D.ブランダイスの論文(以下、ブランダイス論文と呼ぶ)がある。今日、ブランダイス論文というと、
﹁一人で放っておいてもらう権利
(t he ri gh t t o b e l e t al on e)
﹂
という定義だけが注目されているように思われる
︒
しかしながら︑この論文は︑プライヴァシー権の定義づけについて深い考察を行っていない︒この論文の主な作業は︑
しか
し︑
第五九巻三•四号
︵あるいは︑与え続けている︶米国での議論とは如何なるものだろうか︒
て広く展開していく︒その傾向に一石を投じたのが︑ ブランダイス論文のそうした意図とは別に︑プライヴァシー権は﹁一人で放っておいてもらう権利﹂とし
(9) ウィリアム・
J
・プロッサーである︒
プロッサーの考えは︑
いわゆる﹁還元論﹂として知られるが︑この論文の重要な意味は︑多様化したプライヴァ
シー権概念に分析のメスを入れたことだと思われる︒それまで︑プライヴァシー権という新しい概念は︑外延を示さ を考察することにあったといえるだろう︒ プライヴァシー権の定義づけというよりも︑むしろ︑
( 一)
に影響を与えた 関法
コモン・ローにおけるプライヴァシー権の根拠とその発展過程 一
四八
︵四
六
0 )
ラプ イヴァ シー権の概念化にあた
っての女性のイメー
ジ
パーカーは︑ をあげることができるだろう
︒
さて
︑
プライヴァシー権を憲法上の権利でもあるとした︒ このプロッサーの還元論に反論したのが︑ ないまま︑その対象領域を拡張してきた︒それに対して︑プロッサーは︑その対象領域を分析し︑そこには︑各々︑
別個に論じられるべき複数の問題が含まれると主張した︒それらの問題領域とは︑今日よく知られるように︑①私事
への侵入︑②秘密事の公開︑③誤った印象の公表︑④氏名・肖像の無断使用︑
四九
︵四
六 一 ︶
の四領域である︒
(1 0
) エドワード・
J
・ブルーステインである︒ブルーステインは︑プロッサーの四領域に共通の法益として︑﹁人間の尊厳﹂を抽出し︑その法益が人間にとって基本的な価値であることから︑
な 試 み が な さ れ る
︒
一 九 六
0
年代後半ごろから︑多様化したプライヴァシー権の対象領域を︱つの包括的概念で定義づける新たいわゆる自己情報コントロール権説である
︒
この新しい試みの特徴としては︑①﹁自己情報
(i n
f o r m
a t i o
n f o
r t h
e m s e
l v e s
) ﹂3がキーワードとして用いられること︑②その情報について所有権的構成をとること︑
その代表的論者であるチャールズ・フリードは︑﹁プライヴァシーとは︑たんに他者の内心に︑われわれの情報が
存在していないことをいうのではない︒われわれのコントロールが︑われわれの情報に及んでいることをさす﹂とし
(1 3
) こ︒
f
フリードに代表される自己情報コントロール権説に鋭い批判をしたのが︑
( 1 4 ) リチャード•B・パーカーである。
フリードの学説の保障範囲の不的確性を指摘する︒たとえば︑試験を受けた生徒が︑その点数によって
思いがけなく自らの不勉強さを明らかにされてしまった場合や︑パーティーの客が︑主人に冷遇されることで人々に
自らの
立場の低さを露呈された場合などを例にとって︑﹁自分たちの情報のコントロールを喪失し︑あるいは確保す
に対する有力な批判がなされている︒ 第五九巻三•四号一
五〇
(1 5
) ることのすべてが︑プライヴァシーを喪失し︑あるいは確保しているということではない﹂として︑自己情報コント
ロール権説の保障範囲が広過ぎる点を批判する︒これらの事例は︑いずれも本人の意思によらずして︑自己情報が他
者に知られたものだが︑これらは︑通常︑プライヴァシーの喪失だと考えられないからである︒
また︑男女関係にあった恋人が︑別れた後に相手の裸体を覗き見した場合などを例にとり︑自己情報コントロール
権説の保障範囲が狭過ぎる点を批判する
︒覗き見された者は︑相手方の行為によってプライヴァシーの喪失があった
が ︑この者は︑覗き見した者に対して︑すでに自らの裸体に関する情報を知らせていたのだから︑自己情報に対する
コントロールを喪失しているわけではないからである ︒そこで︑パーカーは︑この場合の﹁プライヴァシーの喪失の
本質は︑情報に対するコントロールを喪失することではない︒その本質は︑誰が裸体をみることができるのかに対す
( 1 6 )
るコントロールを喪失することにある﹂と指摘する︒
その上で︑彼は︑﹁プライヴァシーとは︑いつ︑誰に︑われわれの様々な一部
(p ar
o f t
u
s)
が感受され(
se ns ed )
(1 7
) 得るのかをコントロールすること﹂と定義する︒ここでいう﹁感受﹂とは︑五感により認識することを意味している︒
ただし︑ここでいう﹁われわれの一部﹂は︑たんにわれわれの身体の一部だけでなく︑声や創作物︑さらには︑われ
われに強く結びついているものを含む広い概念を意味している︒つまり︑パーカーは︑直接には情報概念を用いては
いないが︑﹁われわれの一部﹂を広く解することで︑事実上︑これを情報概念を含む広い意味で用いているのである︒
フリードたちの自己情報コントロール権説は︑およそプライヴァシー権の問題とされる領域を︱つの包括的権利概
念で把握するものであるが︑プロッサーの還元論を踏まえた立場からも︑ 関法
フリードたちの自己情報コントロール権説 ︵四
六 二 ︶
プライヴァシー権の概念化にあた
っての女性のイメー
ジ トム・ゲラティは︑﹁法的概念が︑空間一体に拡がってしまうガスのようなら︑われわれにとって益するものは全
くない
﹂
とし
︑ フリードたちの自己情報コントロール権説の定義が︑何らプライヴァシー権概念の外延を示すもので
はないと批判する︒
そし
て︑
パーカーの考えに一定の評価を下しつつも︑それでも︑なお不十分だとする︒
ゲラティは︑プロッサーの﹁氏名・肖像の無断使用﹂について︑そもそも氏名や肖像は︑われわれがコントロール
﹁誤った印象の公表
﹂
についても︑公的アイデンティティーの問題としてプライヴァシー権の領域と区別する
︒
そして︑これら二領域を内包した自己情報コントロール権説は︑﹁コントロール﹂と
むが︑それらを限定する﹁親密性
(i nt im ac y)
﹂
である︒
また
︑
の概念を含まないと批判する
︒
そこで︑ゲラティは︑﹁プライヴァ(1 9
)
シーとは︑個人のアイデンティティーの親密性に対する自律︑あるいはコントロール
﹂と定義する︒ここでいう﹁親
(2 0
)
密性
﹂
とは︑﹁自己︑あるいは他者の︑身体や精神にアクセスする精神作用﹂
を意味している︒ゲラティによれば︑グリスワルド判決が避妊の自由を保護したのは︑それが親密な関係における自律の問題だから
ロー判決が中絶権を擁護したのは︑それが女性のアイデンティティーと自律に関する親密な決定だか らである
︒
それに対して︑予防接種の強制などは︑自律を侵害するにしても︑親密性と関わりないものだから︑プラ イヴァシー権の問題とはされない︒ゲラティによれば︑プライヴァシー権の問題は︑
てに関わるものではなく︑親密性に関わるものに限られるのである︒
五
︵ 四
六三 ︶
アイデンティティーの自律すべ
ゲラティの定義を前提とした場合︑個人情報の扱いが問題となるが︑これについてゲラティは︑プライヴァシー権
と区別されるところの信頼原則
( c o n f i d e n t i a l i t y )
し得ない公的アイデンティティー
によって説明している︒ゲラティによると︑プライヴァシー権は︑
( p u b l i i c d e n t i t y )
﹁アイデンティティー﹂の概念を含 であるとして︑プライヴァシー権の領域と区別する
︒
また
︑
このようにプライヴァシー権に関する従来の学説の試みは︑多種多様に及ぶ︒しかし︑そのことを逆に
言えば︑こ
うした従来の試みでは︑必ずしも満足のいく結論を出すことができなかった証左ともいえるだろう
︒
では︑こうした従来の学説には︑どのような問題があるのだろうか︒
そこで︑ここでは︑ダニエル・
J
・ソロブによる従来の学説に対する批判的考察をみていきたい︒彼は︑たんに従
来の学説の個々の定義を批判するだけでなく︑その問題が︑そのアプローチの方法そのものに起因するものだとし︑
そうした従来のアプローチに代わって︑プライヴァシー権の概念化に関する新たなアプローチの方法を示した点で注
目される︒
ソロブによれば︑プライヴァシー権の概念化に関する従来の学説は︑プライヴァシー権に含まれる諸利益に共通す る本質的要素を設定し︑それに基づいて︑プライヴァシー権を定義している
︒
そし
て︑
イヴァシー権を定義するときに設定する本質的要素を︑①一人で放っておいてもらう権利︑②制限されたアクセス︑ 口
米国における従来の学説の批判的考察
を限定しようとしたものだといえるだろう︒
こうしたゲラティの学説は︑プライヴァシー権を包括的に定義づけた自己情報コントロール権説に対し︑プライ
ヴァシー権の外延を示すことを意識して︑他の法理によって説明すべきものをプライヴァシー権から外し︑その概念 る︒
本人のみで維持できる情報を保障するのに対して︑複数人で保持する情報は︑信頼原則によって保護すべきことにな
関法第五九巻三•四号
ソロブは︑従来の学説がプラ 一五
︵
四六四
︶
プラ
イヴ
ァシ
権ー
の概
念化
にあ
た
っての
女性
のイ
メー
ジ
③秘密︑④個人情報のコントロール︑⑤人格性︑⑥親密性︑
ソロブによれば︑従来の学説で定義づけされる﹁その概念に関するもっとも一般的な問題は︑それらが︑あまりに
( 2 3 )
狭過ぎるか︑あるいは︑あまりに広過ぎることである﹂
︒
そして︑ソロブは︑﹁その概念の多くは︑プライヴァシーに 関する深遠な洞察を捉えている﹂けれども︑﹁しかしながら︑もし︑プライヴァシーの概念上の説明として︑
(2 4 )
に用いられるのなら︑それらの概念は重要な限界をもつ﹂として批判している
︒
以下︑六つの本質的要素ごとに︑従来の学説に対するソロブの批判をみていきたい
︒
ソロプによれば︑ブランダイス論文で示された﹁一人で放っておいてもらう権利としてのプライヴァシーの定式は︑
たんにプライヴァシーの属性を述べるだけである
﹂ ︒
なぜなら︑この定義は︑﹁われわれが一人で放っておかれるべき
事柄を︑われわれに教えることがない﹂からである
︒そ もそも︑こうした定義づけをした﹁ウォーレンとブランダイ スの目的は︑プライヴァシーの包括的な概念を提供することではなく︑
利の根拠を調査し︑そのような権利がどのようにして発展してきたのかを説明することであった
﹂ ︒
﹁たしかに︑その論文は︑プライヴァシーの概念を発展させる重要な始まりであった
︒
しかしながら︑
おいてもらう権利が︑
しばしば裁判官や研究者によって用いられるとき︑それは︑
( 2 5 )
ヴァシーの概念のままなのである﹂︒
それに対して︑
①一
人で放っておいてもらう権利︑秘密︑制限されたアクセス
一五
︵ 四
六五
︶ コモン・ローにおけるプライヴァシーヘの権 の六つの表題で整理できるとしている︒
ソロブによれば︑
一人で放って
いまだに広く漠然としたプライ
ソロブは︑﹁制限されたアクセス
﹂
を︑﹁何かを隠したり︑他者から離れたいという個人の欲求を承
(2 6 )
認するもの﹂
で︑
﹁
一人で放っておいてもらう権利﹂の﹁洗練された定式である﹂とする︒しかし︑﹁自分自身に対す 一般的
さて
︑ ②個人情報のコントロール をプライヴァシー侵害だと認めるが︑
﹂
るすべてのアクセスがプライヴァシーを侵害するわけではないにも関わらず︑この埋論は︑﹁プライヴァシー侵害を構成するために必要なアクセスの程度の理解を提供できていない
﹂ ︒
そのため︑﹁一人で放っておいてもらう権利﹂
と同じように︑﹁制限されたアクセス﹂
プライヴァシー侵害を構成するために必要なアクセスの程度の理解に関する問題は︑﹁何がプライヴェートな事
柄で
あるのかを︑そして︑そのプライヴァシーの価値を理解することによってのみ︑答えることができる﹂ものなのであ
( 2 7 )
る︒
ソロブによれば︑その﹁制限されたアクセス﹂
あって︑それは︑
プライヴァシー権が︑情報を公にされることの回避以上のものを含むことから︑﹁秘密
﹂
に基づく定式を批判する
︵たとえば︑犯罪歴などが︑かつて判決や報道を通じて公にされていたとしても︑われわれは︑過去の犯罪歴につい
て︑プライヴァシー権の保護を考えるだろう︶︒
らない
﹂
のであり︑したがって︑﹁プライヴァシーの公分母としての秘密は︑プライヴァシーの概念をあまりに狭く(2 8
) し過ぎる﹂と批判するのである︒
ソロブによれば︑﹁プライヴァシーのもっとも支配的な理論の︱つが︑自己情報に対するコントロールのそ
れであり﹂︑この考えは︑﹁制限されたアクセス概念のサブセットとして理解できる
﹂ ︒
しか
し︑
そし
て︑ 関法
第五九巻――-•四号
の概念は︑広く漠然としたままなのである︒
結局のところ︑
つま
り︑
ソロブは︑﹁その理論 のサブセットとして理解できるものが︑﹁秘密
﹂
プライヴァシーに関して︑もっとも一般的な理解の︱つである︒
しか
しな
がら
︑
の概念で
ソロブは︑現代の
ソロブは︑﹁ほとんどの理論家が特定の秘密を公表すること
一般的にプライヴァシー侵害だと認められた多くのものが︑秘密の喪失に関わ
. 五
四
ソロ
ブに
よれ
ば︑
︵四
六
六︶
プライヴァシー権の概念化にあたっての女性のイメージ
いる
﹂
と批判する︒ ることから︑あまりに広過ぎるものだといえるだろう︒
が情報に焦点を当てることは︑その概念をあまりに狭くしてしまう︒なぜなら︑それは︑自分の身体︑生殖︑子供の養育に関する特定の基本的決定をする権利のように︑情報的でないプライヴァシーの側面を排除してしまうからであ
る﹂と主張する︒
ただ
し︑
ソロブによれば︑﹁しばしば︑
ヴァシー問題に含めるわけではない︒そこで︑その問題をおくにしても︑
〜
五五
︵四
六七
︶
プライヴァシー権に関するいくつかの有力学説は︑そもそも︑こうした自己決定に関する領域をプライ
ソロブは︑﹁その理論の主張者が︑諸個人
(2 9 )
がコントロールすべき情報の類型を定義し損なうために︑その理論は︑あまりに漠然としている
﹂として批判する︒
もちろん︑多くの学説は︑この理論に様々な限定を加えて︑諸個人がコントロールできるべ含情報を明らかにしよ
うと試みている︒ところが︑
たとえば︑前述のようにパーカーは︑感受のコントロールを主張する
︒しかし︑われわれは︑意図せずして他者に
よっ
て感受されることがあるけれども︑常に︑そのことをプライヴァシー侵害だと考えているわけではない ば︑われわれは︑普段から街中で多くの人々に見聞きされているが︑それらをプライヴァシー侵害だと思わないだろ
(3 0
)
う ︶
︒
また︑個人識別情報に限定する見解は︑われわれがプライヴァシーだと思わない個人識別情報がかなり多くあ
さら
に︑
ソロブによると︑そうした試みは︑次のような困難を生じている︒
︵ た
とえ
ソロブは︑自己情報コントロール権説を支持する﹁理論家たちは︑実際にコントロールが意味するところ について︑ほとんど仕上げを提供しておらず︑それは︑しばしば狭過ぎたり︑広過ぎたりするものとして理解されて
コントロールは︑情報における所有の形態として理解されている﹂
が︑情報は物理的なものと異なって︑多くの人たちの内心で共有されるものであって︑﹁プライヴァシーの要求は︑
そして︑最後に︑﹁親密性﹂である︒
プライヴァシーが個人の自己創造
( i n d i v i d u a l
(3 4
)
s e l f , cr
e a t i o n )
だけでなく︑人間の関係性にとっても重要なものであることを認めている
﹂ ︒
たとえば︑前述のようにゲラティは︑親密性をその定義の基礎におく︒
しか
し︑
は︑﹁アイデンティティー﹂及び﹁自律﹂
が行うほとんどすべての行為や決定に当てはまる非常に広い条件であるため︑その範囲の限定は︑不十分なものであ
る︒
そし
て︑
ソロ
ブは
︑
④ 親 密 性
とこ
ろが
︑
第五九巻三•四号
所有の要求と同じものではない﹂のである︒しかも︑
ソロブによれば︑ゲラティの考え
関わるものであり︑プライヴァシー権に関する問題は︑﹁個人のコントロールの行使の問題だけではない
﹂
ソロブにとって︑プライヴァシー権とは︑社会構造的問題にも
(3 1 )
ので
ある
︒ ソロブによれば︑﹁この理論は︑他の理論から独立したものではなく︑それは︑
しばしば︑なぜプライヴァシーが重要なのか︑どの側面が制限されるぺきなのか︑あるいは︑どんな情報をわれわれ
( 3 2 )
がコントロールすべきなのか︑を説明するために︑他の理論とともに使われる﹂ものである︒
らかにできないし︑また︑国家の干渉に焦点を当て過ぎるために︑民間部門に対する関心を︑少なくしてしまうとし
て批判する
︒
ソロブは︑この考えが人格性の定義を明確にできないために︑結局のところ︑
ソロブによれば︑﹁つねに︑国家の干渉を制限することだけが︑
( 3 3 )
いうわけではない﹂のである
︒
次に︑﹁人格性﹂
についてであるが︑③
人 格 性
関法
ソロブによれば︑﹁この理論は︑ プライヴァシ
1
概念を明プライヴァシー保護にとって重要だと の条件でプライヴァシー権を限定しようと試みるものだが︑これらは個人
ゲラティの考えについて︑もし︑﹁それらの範囲の限定がなければ︑﹃親密性﹄
一五
六
︵
四六八︶
ヽ 五 口 十
6︑ としぅ
︱
︱n
n t
プライヴァシー権の概念化にあたっての女性のイメージ たんに﹃プライヴァシー﹄を言い換えた語に過ぎなくなり︑どの事柄がプライヴェートなのかを決定する方法として
(3 5
) 不十分なものとなる﹂として批判する︒
ソロブによれば︑﹁親密性としてのプライヴァシーの埋論は︑個人間の関係性や︑それらから生じた特定の
感情に︑排他的に焦点を当て過ぎるため︑あまりに狭いものである
﹂ ︒
なぜなら︑﹁信頼︑愛︑そして︑親密性は︑プ
ライヴァシーによって促進されるけれども︑これらがプライヴァシーの唯一の目的というわけではない﹂からである ︒
たとえば︑財産などの記録の保護は︑通常︑プライヴァシー権に含まれると考えられている︒しかし︑
シー権の保障を﹁親密性﹂によって限定するのなら︑そうした財産などの記録は︑プライヴァシー権として保護され
ないことになるだろう︒つまり︑﹁プライヴァシーは︑われわれがこれらの目的を達成するのに役立つけれども︑こ
(3 6 )
れらの目的が︑プライヴァシーの完全な概念を構成するわけではない﹂のである︒
以上︑六つの本質的要素ごとに︑従来の学説に対するソロブの批判をみてきたが︑
一五
七
︵ 四
六 九
︶
プライヴァ
ソロブが指摘するように︑いず
れの本質的要素に基づこうとも︑従来の学説のアプローチをとる限り︑十分に満足のいく概念化は難しいように思わ
そもそも︑今日のプライヴァシー問題は︑ある特定の本質的要素によって捉え切れるほど︑単純なものではなく︑
もっと複雑なものなのである
︒
これまでみてきたように︑プライヴァシー権の包括的説明を試みてきた従来の学説は︑それぞれ多くの洞察を示し
れる
︒ ま
た︑
プ ラ イ ヴ ァ シ ー 権 の 概 念 化 に お け る プ ラ グ マ テ ィ ッ ク
・ ア プ ロ ー チ と そ の 問 題
曰 ダ ニ エ ル
・
J・ソロブのプラグマティック・アプローチ 問題点を指摘したいと思う︒
それ
では
︑
シーの利益を承認しているのである︒ て
いる
が︑
第五九巻三•四号
いずれも︑満足のいくものではなかった︒そのため︑
(3 7
) るかもしれない︒
しかしながら︑
ソロブは︑﹁還元論者は︑プライヴァシーが他のもっと主要な概念から派生するのだと︑十分な正
(3 8
) 当化なしに仮定してしまう﹂として批判する︒
たしかに︑還元論のアプローチは︑プライヴァシーの諸利益を分析し︑その具体的な内容を明らかにするかのよう に思われる︒しかし︑還元論は︑すでにわれわれの直観に合うものではない
︒
還元論によれば︑プライヴァシーの利 益は︑既存の他の諸利益に完全に分解されてしまうことになるが︑われわれは︑自分たちがプライヴァシーの利益と 感じるすべてのものを︑他の言葉で表すことはできないだろう︒われわれは︑すでに固有のものとして︑プライヴァ
ソロブ自身は︑プライヴァシー権の概念化に対して︑どのようなアプローチを考えているのだろうか
︒
ここでは︑従来の方法に代わる新しいプライヴァシー権の概念化の試みとして︑
ク・アプローチと︑その具体化としてのプライヴァシーの分類をみていきたい
︒
その上で︑そのアプローチにおける ソロブは︑従来の試みに代わるものとして︑彼がプラグマティック・アプローチと呼ぶ考え方を主張している
︒
ソロブによれば︑それは︑﹁プラグマティズムで繰り返されるいくつかの考えから出てきている﹂もので︑﹁コンテ 関法
ソロブが主張するプラグマティッ 一部の研究者たちは︑いわゆる﹁還元論﹂
を主張す
一五
八
︵
四七
0 )
プライヴァシー権の概念化にあたっての女性のイメージ である︒したがって︑ クストヘの依存性と偶発性を承認し︑もの﹂
であり︑そのため︑この﹁プライヴァシーを概念化する作業に対するアプローチでは︑プライヴァシーの抽象 的概念を明らかにしようとすることから始めるべきではなく︑その代わりに︑特定のコンテクストにおけるプライ
ヴァシーを理解することに集中しなければならない﹂︒そもそも︑
﹃作
業仮
説
(w or ki ng hy po th es es )
﹄
その
ため
︑
一五
九
ソロブが注目したのが︑ ア・プリオリな知識を拒絶し︑そして︑具体的なプラクティスに焦点を当てるであり︑固定化された実在ではなく︑それは︑具体的なシチュエーションの内
から生み出され︑絶えずテストされ︑そして︑具体的なシチュエーションとの相互作用を通じて︑具体化されなけれ
ばならない﹂
ものである︒なぜなら︑具体的なコンテクストに応じて︑プライヴァシーの価値や評価も変化するから
ソロブは︑﹁私のアプローチは︑抽象的にではなく︑特定のコンテクスト内でのプライヴァ
シーを概念化するものであるために︑それは︑
(3 9
)
る﹂とする︒
トップ・ダウンというよりも︑
ボトム・アップから始めることにな ソロブは︑プライヴァシー問題を引き起こす具体的な﹁プラクティス﹂に焦点を当てる︒ソロブによれ
ば︑﹁われわれは︑問題の特定の類型や問題となる特定のプラクティスに焦点を当てることで︑プライヴァシーを概 念化すべきであり︑それらのすぺてを結ぶ公分母を探そうとすることによって︑そうすぺきではない﹂のである︒こ
こでソロプのいう﹁プラクティス﹂とは︑慣習︑規範︑伝統を含む広い意味をもつものである︒そして︑様々なプラ
イヴァシー問題を引き起こすプラクティスには︑類似点もあれば︑相違点もある︒そこで︑
ウィトゲンシュタインの有名な﹁家族的類似性﹂である︒ごく簡単に言えば︑ある家族の構成員をみたとき︑それぞ
れ親子同士・兄弟同士•姉妹同士は少しずつどこかしら似ているが、すぺての構成員に共通の要素はない。それでも、
︵四 七 一 ︶
ソロブにとって︑プライヴァシー権の﹁概念は︑
彼らは︱つの家族として認識できる︒こうしたことが︑言語︵概念︶
は︑まさにプライヴァシー権という概念がその家族的類似性の例に当たると考える︒そして︑﹁もし︑
シーが︑特定のプラクティスの問題の相互連結されたウェブとして概念化されるのなら︑プライヴァシーの概念化の
(4 0 )
から成り立たつべきである﹂とする︒
また
︑
ソロ
ブは
︑
一般的議論にとっては有益かもしれないけれども︑そうした分類化は︑紛らわしいものである﹂と主張する︒なぜな
ら︑
﹁第
一に︑われわれがプライヴェートだと考える事柄は︑時代を経て変わる﹂からであり︑﹁第二に︑特定の事柄
が公的なものから私的なものに移ってきたり︑その逆もあったりするが︑そうした変化は︑
( 4 1 )
私的なものへの完全な変換というよりも︑もっと微妙なものであった﹂からである︒
ソロブのいうように︑
のようにして︑プライヴァシー権として保護すべきものを決めるのだろうか︒
ソロブによれば︑﹁われわれは︑経験的︑歴史的︑そして︑規範的にプラクティスを評価することによって︑そう
した決定をしなければならない﹂︒とくに﹁規範的要素がなければ︑
シーに関する法や政策形成に向けて︑われわれを導くものではなく︑たんに現行のプライヴァシーの規範の現状報告
を提供できるだけである﹂︒しかも︑
は︑たんなる社会の一般的な期待ではなく︑より広い社会的構造のヴィジョンの産物なのである
﹂ ︒
の理解によれば︑何かをプライヴァシー権として保障することは︑社会におけるわれわれの権力関係を変えることな
では
︑
活動は︑そのウェブのタイポグラフィを図示すること 関法第五九巻―――•四号
5 m
ap pi ng )
の世界でもあり得るというものである︒
ア・プリオリな形で︑﹁特定の事柄を公的︑あるいは私的なものとして分類することは︑特定の
ア・プリオリな形で︑私的なものと考えられる一貫した集合を想定できなければ︑ど
プライヴァシーの概念は︑将来のプライヴァ
ソロブによれば︑﹁プライヴァシーとは︑パワーの問題である︒すなわち︑それ 一六〇
︵ 四 七 二
︶
ソロ
ブ
プライヴァ
しばしば公的なものから
つま
り︑
ソロ
ブ
プライヴァシー権の概念化にあたっての女性のイメージ
つま
り︑
意味
で︑
﹁第
二に
︑
シーは︑道具的に のである︒そのため︑あるプラクティスが︑﹁より広い社会的構造のヴィジョン﹂を促すものなら︑それは保障され
なければならないし︑逆に︑妨げるものなら︑それは保障されるべきではないことになる︒そのため︑
﹁法がプライヴェートなものとして何を保護するのかを決定することは︑規範的な分析に依存しており︑そのことは︑
特定のコンテクストにおけるプライヴァシーの価値を考察するように要求する
﹂
とし︑そして︑その(4 2
) シーの価値は︑それに関わるプラクティスの目的に依存する﹂とする︒
したがって︑ここでいう﹁より広い社会的構造のヴィジョン﹂は︑たんに主観的な願望を意味しているわけではな
い︒それは︑規範論として︑われわれが望むべき社会的展望を指している︒
とこ
ろが
︑
望を示すことは︑必ずしも容易なことではない︒しかしながら︑われわれは︑しばしば︑ある特定の具体的な事柄に
限定してなら︑それが︑われわれの望むべき社会的展望に照らして︑保障することが妥当かどうかを判断できる︒
その
ため
︑
型化していき︑それぞれの類型を家族的類似性によって結びつけることで︑
しようとする試みである︒
こ ハ
︵四 七三
︶
︱
つのプライヴァシー︵権︶として概念化 ソロブのアプローチにおいては︑望むべき社会的展望に依存するという意味で︑﹁第一に︑プライヴァ( i n s t r u m t a e n l l y )
評価されるべき﹂であり︑ある特定の具体的な事柄に限定して判断するという
一般的で抽象的な方法でプライヴァシーを評価する議論の傾向とは対照的に︑プライヴァシーは︑
( 4 3 )
コンテクスト依存的に評価されなければならない﹂ことになる︒
ソロブのプラグマティック・アプローチとは︑個々の具体的な事案ごとに︑そこで問題となっているプラ
クティスを︑われわれの社会的展望に照らして評価し︑そうしたことを積み重ねていくことで︑プライヴァシーを類 一般論として︑その社会的展
﹁プ
ライ
ヴァ
ソロ
ブは
︑
それ
は︑
第五九巻三•四号︵
四七 四︶
そして︑このプラグマティック・アプローチでは︑︵
ある行為が保護されるべきであり︑伺その行為が︑プライ
ヴァシー権として保護される行為と実質的な関連性や類似性が認められるとするならば︑詞その行為は保護すべき私
的領域に含まれ︑プライヴァシー権として保護すぺきである︑とする推論形式がとられることになる︒この推論にお
いて︑通常は︑あらかじめプライヴァシーを類型化する段階で︑すでに︑いの判断をすませているため︑その判断プ
ロセスは省略されることになる︒しかし︑その行為が保護されるべきかどうかについて︑合理的な疑いがもたれるよ
うなハードケースでは︑いの判断が重要となり︑あらためて︑そこで問題となっているプラクティスが︑われわれの
社会的展望に照らして︑本
当
に保護すべきものなのかを検討し︑場合によっては︑既存のプライヴァシー
︵権︶概念
つまり︑プライヴァシーの類型を批判的に検討し︑その概念を現実に合わせて修正していくことになる
︒
それでは︑なぜ︑研究者や裁判官は︑こうしたアプローチをとらなければならないのだろうか︒
ソロブによれば︑﹁プライヴァシーに関わる無数の問題を扱うために︑研究者や裁判官は︑
シーの複合的な
( m u l t i p l
e )
概念を採用しなければならず︑さもなければ︑古い概念が︑解決にあたって
︑
彼らを
( 4 4 )
誤った道に導くだろう﹂からである ︒
ソロブは︑﹁新しい問題を古い概念に当てはめようとする代わりに︑われわれは︑特定の問題の特別な状況を理解
しようとすべきである﹂と主張する︒
うなプラクティスが問題となっているのか︒その問題は︑他の問題の形態と︑どのようなところで類似していて︑ど
のようなところで異なっているのか︒どのように︑この問題が社会や社会構造に影響するのか﹂を考察しなければな
( 4 5 )
らないのである ︒ 関法一六
プライヴァ
ソロブによれば︑われわれは︑プライヴァシー問題に取り組むとき︑﹁どのよ