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雑誌名 関西大学人権問題研究室紀要

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朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総監督府機関紙)に掲 載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年〜一 九四四年)

著者 熊谷 明泰

雑誌名 関西大学人権問題研究室紀要

巻 68

ページ 1‑216

発行年 2014‑12‑20

URL http://hdl.handle.net/10112/8824

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一朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

はじめに   本稿は、朝鮮総督府の日刊朝鮮語版機関紙「毎日新 報」 で 「国語欄」 「国語教室」 、「国語毎新」 な ど の タ イ ト ル を 付 し、 朝 鮮 民 衆 に 対 す る 「 国 語 普 及 」 を 図 り、 「国語」 に よ る 記事 を 通 じ て 戦時総動員体制 に 朝鮮民衆 を組み込むことを目的として編輯された日本語紙面に つ い て の 考察 で あ る。な お、 「毎日新報」 第四面全体 に 「国語」 欄 を 拡充 さ せ た 一九四三年九月十四日 (第一二 九六五号)以後は、この紙面の「国語」欄にはタイト ル は 付 さ れ て い な い。 「 毎 日 新 報 」 に 掲 載 さ れ た 「 国 語 」( = 日 本 語 ) 記 事 は 小 さ な ベ タ 組 の も の か ら 始 ま り、第四面の半分から三分の二程度を割いた段階を経 て、第四面全体が「国語」紙面が割り当てられるまで に拡充していった。筆者はこれらを「国語」欄と総称 して、本稿のタイトルとした。したがって、本稿のタ イ ト ル “ 「国語」 欄 ” は、 一九三九年七月二十五日 (一 一 四 六 二 ) か ら 一 九 四 一 年 七 月 十 二 日 ( 一 二 一 七 六 ) まで「国語欄」というタイトルで掲載された紙面だけ をさすものではない。 朝鮮語新聞「毎日新報」 (朝鮮総督府機関紙)に掲載された 「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

熊    谷    明    泰

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  「毎日新報」

の 前身 は 「毎日申報」 で、 経営権 の 再編 にともなって一九三八年四月十六日に「毎日新報」に 紙名が変更されはしたが、その後も朝鮮総督府の朝鮮 語版機関紙であり続けた。

で あ る

合の翌日(一九一〇年八月三十日)に創刊されたもの か ら 「大韓」 を 削 り 取っ て、 「毎日申報」 と し て 韓国併 「大韓毎日申報」 が 韓国統監府 に 買収 さ れ、 そ の 後紙名   鮮 人 ヤ ン ギ タ ク ( 梁 起 鐸 ) を 総 務 と し て 発 刊 さ れ た Bethell.  E.  T ト ・ ベッ セ ル ( ) を 発 行 人 兼 編 集 者 、 朝   「 毎 日 申 報 」 は、 一 九 〇 四 年 に イ ギ リ ス 人 アー ネ ス

。「毎日新報」 は 八 ・ 一五解放後 の 一九四五年十 一月十日に廃刊されるまで発行された。この廃刊は朝 鮮総督府に代わって南朝鮮地域を統治した米軍政当局 に協力的ではないという理由で、米軍政庁より停刊命 令が下された結果である。また、朝鮮総督府の日本語 版日刊機関紙だった「京城日報」は、十二月十一日に 廃刊された。

  朝鮮総督府が米第八軍の南朝鮮占領軍司令官に対し て降伏した一九四五年九月九日以後も、これら朝鮮総 督府機関紙が発行され続けたのは、当時上記「京城日 報」と「毎日新報」の二紙以外に朝鮮では全国紙が発 行されていなかったことに加えて、米軍政庁は南朝鮮 を 軍事支配 し つ つ、 朝鮮総督府 の さ ま ざ ま な 統治機構、 行政機構、公共サービス、産業組織などを米軍政のも とで新たに組織再編するために、自らのコントロール 下 に あ っ た 朝鮮総督府 の 旧機構 を 利用 し た た め だ っ た。

  「毎日新報」

は、 朝鮮語版新聞 で あ る た め、 そ の 読者 のほとんどが朝鮮人だった。本稿で紹介する「毎日新 報」の記事は、すべて朝鮮民衆に対して向けられたメ ッセージであった点に、特に留意しておきたい。

  民族資本によって一九二〇年に創刊された「東亜日 報」 、「朝鮮日報」は朝鮮総督府の言論統制政策によっ て 一九四〇年八月 に 強制廃刊 さ れ て い る。し た が っ て、 植民地時代の全期間を通じて発行された朝鮮語新聞は 「毎日申報」 と 「毎日新報」 だ け だ っ た。ゆ え に、 歴史 的資料として重要なものであることは、わざわざ指摘

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三朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

するまでもないことであろう。   本稿は、景仁文化社(ソウル)で一九八九年に復刻 刊行された『毎日申(新)報   一九一〇・八~一九四 五 ・ 八』 (全八十五冊) の う ち、 第六十七冊 (一九三九 年四月~一九三九年七月)から第八十五冊(一九四四 年九月~一九四五年八月)までに収録されたものをも と に 「 国 語 」 欄 の 歴 史 的 変 遷 を 分 析 す る も の で あ る。 本稿が取り扱う「国語」欄は「毎日申報」から「毎日 新報」に紙名変更された後に登場する。   なお、 「毎日新報」では朝鮮文字の濃音は

都合上、 記されているが、本稿に転載するにあたっては入力の 例外なくすべて合用並書(異なる子音字の併用)で表 ᄊ 以外は、

ᄭ ・ ᄯ ・ ᄲ ・

じ子音字の併用: ᄶ は現行正書法の各自並書(同

ᄁ ・ ᄄ ・ ᄈ ・

た。 ᄍ )に置き換えて示し   「毎日新報」 報」の「国語欄」の変容 一. 「国語全解・国語常用運動」による「毎日新

に 初 め て 「国語」 欄 が 登場 す る の は 一九 三九年七月二十二日(一一四五九)の「曙だより」だ った。その後、持続的に「国語欄」 、「国語教室」が掲 載されるが、一九四二年七月一日(一二五二八)から は 紙面 が 拡張 さ れ、 「毎日新報」 第四面 の 半面 を 割 い て 「国語」 に よ る 「国語毎新」 欄 が 掲載 さ れ 始 め た。そ の 後、一九四三年九月十四日(一二九六五)からは第四 面全体が「国語」紙面となったが、物資不足の為「毎 日新報」が二面建てに完全に縮小された一九四四年十 月二十八日(一三三七三)を最後に「国語」欄は消滅 した。

  「国語毎新」

欄 は、 一九四二年五月以後、 朝鮮総督府 および国民総力朝鮮聯盟によって朝鮮全土で総力運動 として展開された「国語全解・国語常用運動」に呼応 して登場したものである。この時期の「国語全解・国

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語常用運動」は、一九四四年から朝鮮で徴兵を実施す るという閣議決定(一九四二年五月八日)を直接的な 契機にして始められた。 「国語」が理解できない限り、 朝鮮青年 を 徴兵 す る こ と な ど で き な か っ た か ら で あ る。

  「国語全解

・ 国語常用運動」 遂行 の た め に、 国民総力 朝鮮聯盟指導委員会 は そ の 施策 の 雛形 と し て、 「国語普 及運動要綱」 (一九四二年五月六日) を 策定 し た。そ の 「(四) 文化方面 に 対 す る 方策」 で、 「…… ラ ジ オ 第二放 送に国語をより多く取入れること。諺文新聞に国語欄 を設くること」と決めていた。

  一九四二年五月、朝鮮総督府は、朝鮮全土の地方行 政機関に対し、この「国語普及運動要綱」をモデルに して各地方の実情に沿った「国語全解・国語常用」を 推進するための施策を練ることを命じた。この地方行 政機関 が 策定 し た 施策 に は、 「国語普及運動要綱」 に な らって、朝鮮語新聞に国語欄を設けることを主張した 例が多く見られ た

)(

  朝 鮮 総 督 府 編 修 官 廣 瀨 續 は、 「 國 語 普 及 の 新 段 階

」 で、 「(国語) 講習用 の 雜誌 と し て は、 (中略) 新聞 で は 京城日報社から「皇民日報」が日刊され、毎日新報社 から「国語教室」といふ附録が毎週木、日の両日発行 され、共に入門の指導をも行つてゐることは、如何に 本運動を徹底的ならしめんとするかを観ずる好箇の見 本であらう」と「毎日新報」を「国語普及」運動に協 力させている状況を述べている。   当時、 朝鮮総督府編修官森田梧郎 は、 「朝鮮 の 国語普 及全解運 動

」 と い う 文 で、 「国語講習会」 だ け で は 「国 語全解運動」を展開しきれない状況下において、朝鮮 語新聞が果たすべき役割について、次のように指摘し ている。

[国語講習会 は] 限 ら れ た 人員 を 收容 す る 講習会 だ け に、 全解運動 の す べ て を 囑 す る こ と も で き な い。そ こ で 広 く 全未解者 へ の 入門手 ほ ど き と し て、 朝鮮唯一 の 諺文新聞 (朝鮮語新聞) で あ る 『毎日新報』 紙 の 一面 に、 「コ ク ゴ

ノ ペー ジ」 を 設 け、 生活用語 の 基礎語及 び 基本文型 を 表

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五朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

音的仮名遣 に よ っ て 示 し、 一般大衆 へ の 国語学習 の 便 と し て い る。他方、 国語講習会 の 終了者、 乃至国語入門 の

過程 を 了 え た も の に 対 す る 読物 と し て 『皇民日報』 を 発 刊 せ し め て い る。新聞紙半截型 の 四 ペー ジ も の で、 国民 学校四年程度 の 国語力 で 読解 し 得 ら れ る 内容 の も の を も っ て 編輯 さ れ て い る。こ れ ら の 新聞 に よ る 全鮮 の 国語全 解運動 に 協力 し、 更 に ラ ジ オ に よ る 国語普及 が 実施 さ れ

ている。   こ こ で 森 田 が 書 い て い る 「 コ ク ゴ ノ ペー ジ 」 と は、 実際にそのような名称の紙面が「毎日新報」にあった わけではなく、一九四二年七月一日(一二五二八)か ら掲載されていた「国語毎新」を仮にこのように呼ん だものである。

  「国語全解

・ 国語常用運動」 の 要請 を う け、 新 た に 掲 載を始めた「国語毎新」欄は、従来の「国語欄」 、「国 語教室」より紙面のスペースをより多く割き、その内 容 は 「国体明徴」 、「内鮮一体化」 、「皇国臣民化」 、 戦意 昂揚、節約貯蓄、物資の供出、ヤミ経済の統制、反ス パ イ キャ ン ペー ン に よ る 言論統制 の 更 な る 強化 を 煽 り、 更には戦死への諦念を迫る記事が立て続けに掲載され るなど、国家総動員体制のもと朝鮮民衆を戦争に駆り た て る も の だ っ た。 「国語」 学習用 と し て 掲載 さ れ た 日 本語文 の 内容 も、 そ れ 以前 の 「国語欄」 や 「国語教室」 のものとは比べようもないほど、国家総動員体制を反 映した戦時色の強いものとなっている。   徴兵 が 始 ま る 一九四四年 に な る と、 「毎日新報」 紙 の 掲載文は、いよいよ差し迫った論調になって行った。 その論調は戦況において圧倒的に優位に立つ米英に対 して、精神主義的にひとりよがりな虚勢を張るものだ った。   一九四四年四月二十二日(一三一八四)の「毎日新 報」 記事 「今年 こ そ み ん な 国語 を 習 お う」 で は、 「い よ いよ今年から半島の若者はみんな兵隊になれる徴兵制 が布かれましたので、どんなことがあっても国語を覚 えなくてはならなくなりました。今年は青年特別錬成

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所、女子特別錬成所は勿論のこと、各村々でもみな夜 学 を 開 い て 国語 を 教 え る こ と に な っ て い ま す。 」 と 書 い て、徴兵制実施のもとで「どんなことがあっても国語 を覚えなくてはならなくなりました」と発破をかけて いる。

  徴 兵 制 が 実 施 さ れ た 当 時 の 「 毎 日 新 報 」 に は、 「 国 語」普及運動を更に徹底させるための、次に紹介する ような国民総力朝鮮聯盟の方針や同聯盟総長の談話が 載 せ ら れ て い る。そ こ で は、 「日本 の 男児 と し て、 日本 の国民として日本語が分からないこと」が「矛盾」し たことであるなどと、文字言語も兼ね備えた独自の民 族言語を有する朝鮮民族からすれば本来全く矛盾でし か あ り え な い、 「朝鮮」 を 消 し 去っ た 論理 が あ け っ ぴ ろ げに展開されていた。

国語全解へ大進軍

適齢者からどんどん教えて行

)(

半島 に も 国民 と し て の 最 も 大 き い 光栄 で あ る 徴兵制 が 布 か

れ、 い ま 第一次検査 が 行 わ れ て、 憧 れ の 入営 の 日 も 間近 に 迫っ て い ま す が、 残念 な こ と に は、 ま だ 国語 の 分 か ら な い

者 が 少 な く あ り ま せ ん。日本 の 男児 と し て、 日本 の 国民 と し て 日本語 が 分 か ら な い こ と ほ ど 矛盾 し た こ と は あ り ま せ ん。そ れ で 総力聯盟 [国民総力朝鮮聯盟] で は、 次 の よ う な 方法 で 今 ま で よ り も っ と 国語普及 に 力 を 入 れ る こ と に な りました。

▲国語を教える人 一.国語の分からない徴兵適齢者から真っ先に教える。 二.適齢者 の ほ か に も 二五歳 ま で の 者 に は 教 え ら れ る だ け 教える。 三.役所、 学校、 会社 な ど に は 一般 の 模範 に な る よ う に 必 ず国語を常用させる。

▲国語を普及させる方法 一.愛国班 を 通 じ て 国語 を 知 ら な い 者 の 名前 を 調 べ て お い て、国語講習会を開いて教える。 二.講習を受ける者も徴兵適齢者から先にすること。 三.講習 を 受 け て 国語 が 分 か る よ う に な っ た 者 に は 認定章

を授ける。

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七朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

四.国語が分かる者にはすべて国語を常用させる。 う、 う、   韓総長

八月一日 か ら 全鮮一斉 に 徴兵制 に 伴 う 国語常用 と 国語全解 の 運動 を 起 こ す こ と に な り ま し た が、 こ れ に つ い て 韓 (か ん)聯盟総長は次のように語られました。

本 当 の 内 鮮 一 体 は、 ま ず 国 語 を 使 う こ と か ら 始 ま り ま す。 こ と に 徴兵制 が 布 か れ た 今、 皇軍 の 一人 と な っ た 者 が 国語 が 分 か ら な く て は 本当 の 立派 な 兵隊 と な る こ と は で き ま せ ん。と こ ろ が

今 の と こ ろ で は 兵 隊 に 行 く 年 頃 の 若 者 の な か で、 ま だ 国語 を 知 ら な い も の が い る の で、 聯盟 で は こ れ

ら の 人 に す っ か り 国語 を 教 え る と と も に、 一般 の 人 も こ の 若者 た ち を 助 け て 国語生活 へ 突 き 進 ん で い た だ き た い と 思 う の で あ り ま す。そ の た め に は、 特 に 指導者、 学問 の あ る 人 た ち が 常 に 国 語 を 使 っ て 手 本 を 示 さ な け れ ば な り ま せ ん。国語 は 知っ て い て も 使 わ な く け れ ば、 い つ ま で も 上手

な り ま せ ん か ら、 誰 も み な 普段 の 生活 に 国語 を 使 う よ う に し、 特 に 兵隊 に 行 く 青年 た ち は 心 を 奮 い 起 こ し て、 ど の よ う に し て で も 国語 を 覚 え る や う に し て も ら ひ た い と 思 い ま

す。 [ 原 文 は カ タ カ ナ だ け で 表 記 さ れ て い る が、 平 仮 名 漢 字交じり文に置き換えて示した。 ]

  また、徴兵検査が終わった直後に朝鮮軍参謀長が語 った次のような話も「毎日新報」紙上に紹介されてい るが、そこでは朝鮮民衆の間に徴兵忌避の風潮があっ たことをおおやけに認めざるを得ないほどの状況が語 られている。ここからも、度重なるプロパガンダにも 拘 ら ず、 多 く の 「 半 島 の お 母 さ ん や 姉 さ ん た ち 」 は、 我が子や弟が戦場に連れ去られることになる「一視同 仁の有難き天皇陛下の思し召し」に首肯していなかっ たことが分かる。

軍人 半島壮丁 内地 壮丁   井原軍 参謀長

)(

朝鮮最初 の 徴兵検査 は 一億国民 の 大 き い 期待 を 浴 び て、 さ

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る 四月 か ら 内外地 と も 一斉 に と り 行 わ れ ま し た が、 朝鮮内

は 予定 の と お り 大 へ ん 良 い 成績 を 収 め て、 去 る 八月二十日 めでたく終わりました。 か え り み れ ば 一視同仁 の 有難 き 天皇陛下 の 思 し 召 し に 感激 し た 半 島 若 人 た ち の 愛 国 の 血 潮 は、 い や が う え に も 高 ま り、 敵 米 英 撃 滅 の 決 意 を い よ い よ 固 く し た の で あ り ま す。

続 く 壮丁 た ち の 兄 と し て の 誇 り を 失 わ ず、 そ の 態度 は り り し く、 皇国臣民 た る の 心構 え も ま た 内地 の 若人 た ち に 決 し て 劣 ら な か っ た こ と は、 こ の た び の 検査 の 大 き な 収穫 で あ り ま し た。国語 の 理解 と い う こ と に 対 し て も、 大 き な 注意 を 払 い ま し た が、 こ れ も 官 民 一 致 の ま じ め な 努 力 に よ り、 入営後ほとんど差し支えない程度に達しております。 強い母となれ し か し、 い さ さ か 遺憾 に 思っ た の は 母親 た ち の 無理解 に よ り、 徴兵 を 嫌 が っ た お こ な い が あ っ た こ と で あ り ま す。わ が 夫 を、 わ が 子 を こ と ご と く 御国 に 捧 げ、 し か も な お 勇敢 に 国 の た め に 戦 い 抜 く 母 の 姿 こ そ 本当 の 日本 の 姿 で あ り ま

す。 「 額 に は 箭

は た つ と も 背 に は た て じ 」 と い っ て、 卑 怯 な 振 る 舞 い が な い よ う に、 心 か ら お 祈 り を 捧 げ た の が 日本

の 母 で あ り ま し た。半島 の お 母 さ ん や 姉 さ ん た ち も こ の 点 について、一段と自覚と反省を願ってやみません。 心身をきたへよ ほ ま れ あ る 現役兵 と し て 入営 す る 者 は、 近 い う ち 本人 の も と へ 入営部隊 と 期日 な ど の 知 ら せ が 行 く は ず で す。ま た 補

充兵、 国民兵 と な っ た も の も、 お 国 の 干城 に 間違 い は あ り ま せ ん。常 に 心身 の 鍛錬 に 努 め、 身 の ま は り を 整 え て、 い つ お 召 を 受 け よ う と も 大君 の 御前 に 馳 せ 参 じ る こ と が で き る よ う に、 心 掛 け な け れ ば な り ま せ ん。 [ 原 文 は カ タ カ ナ のみで表記されている]

  徴兵制実施のための「国語」普及は、徴兵適齢期青 年だけを対象とするのではなく、家族をも巻き込んだ も の と し て 「国語全解運動」 が 行 わ れ て い た。 「半島 の 女の人を本当に立派な兵隊の母や妻になるように教え 導くため」に一九四四年四月十日から、朝鮮全域二千 四百五ヶ所 に 「女子青年錬成所」 を 開 き、 「女子青年練

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九朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

成」では十六、七歳から二十歳までの女性を対象とし た「国語」普及運動も行われてい た

)(

。そして、国民総 力朝鮮聯盟では「立派な兵隊を出すために国語生活実 行 し よ う」 と い っ た ポ ス ター を 掲 げ て、 「一人 も 国語 の 分からない兵隊が出ないようにしようと骨を折ってお り ま す。立派 な 国語 の よ く 分 か る 兵隊 を 出 す た め に は、 半島のすべての人が家でも外でも国語生活をし、どの 家庭にも国語の分からない人が一人もいないようにし なければなりません。ことに兵隊を出す家庭では国語 生活に努めましょう」と呼びかけてい た

  「毎日新報」

の 「国語」 紙面 は 物資不足 の た め の 紙面 縮小によって一九四四年十月二十八日を最後に消える が、徴兵実施後も「国語全解・国語常用」は続けられ ていた。以下、本稿では「毎日新報」における「国語 欄」の登場(一九三九年七月)から「国語」紙面が無 くなるまでの記事を分析に、その変遷をみていくこと にする。 二. 「国語欄」の登場―「曙だより」 ・「国語欄」

一一四五九 (一九三九 二十二) ~一一八四五 (一九 四〇・八・十二)  

  「毎日新報」で初めて「国語」

(=日本語)による欄 が登場するのは、一九三九年七月二十二日(一一四五 九)付第二面紙面に掲載された「曙だより」からであ る。 「曙 だ よ り」 は こ れ に 続 く 一九三九年七月二十三日 (一一四六〇) 付第二面紙面 に 掲載 さ れ た だ け で 終 わ っ ている。

  「暁

だ よ り」 の 表記 は 漢字 ひ ら が な 交 り 文 で、 す べ て の漢字にルビが振られている。これは、日本語版の朝 鮮 総 督 府 機 関 紙 「 京 城 日 報 」 と 同 様 で あ り、 「 毎 日 新 報」の「国語」で書かれた文で用いられる漢字のほと ん ど 総 て に ル ビ が 振 ら れ て い る。な お、 「曙 だ よ り」 及 びこれに引き続いて掲載された「国語欄」では日本語 に対する朝鮮語対訳は付されていない。ルビを振るス ペー ス を 確保 す る た め か、 「国語」 欄 で は 日本語 の 活字

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一〇

の大きさは他の紙面の朝鮮語の活字より少し大きくな っていて、読みやすくなっている。

  「曙 だ よ り」 の 内容 は、 以下 の よ う に 他愛 も な い 冗談 話 だ っ た。な お、 本稿 で は、 「毎日新報」 の 記事 を 転載 す る に あ た り、 漢字 に 振 ら れ た ル ビ は す べ て 省略 し た。 また、角括弧( [   ])内の記述はすべて筆者による注 記 で あ る。横 棒 「 | 」 や 「

」 は 読 み や す さ を 考 慮 し て筆者が挿入したものである。四角(□)は判読でき なかった部分を示したものである。

((

一四五九(一九三九・七・二十二) 「曙だより」 一日繰上げ

朝鮮 は い は ゆ る 大陸性氣候 と か な ん と か 云 ふ て、 昼 は 随分 暑 い け れ ど も、 そ の か は り 夜 は 涼 し い の で 凌 ぎ よ か っ た の で す が、 近頃 は 天氣 ま で も、 完全 に 内鮮一體 に な っ た ら し く、 昨今 の 夜 の 蒸暑 さ つ た ら、 誠 に 閉口 も の で す。昨夕 も 寢 つ か れ ぬ ま ゝ に、 う つ ら う つ ら し て ゐ る と 隣 の 家 で 時 な

ら ぬ 子供□、 續 い て の 泣聲 が 聞旦那 さ ま の 辧明 が 聞 え て 來 るのです。 「どうしてそんなに、子どもを𠮟るのですか」 「 こ い つ は 明 日 成 績 表 を 持 っ て 來 る ん で ね … 本 當 は 明 日 や る べ き な ん だ が、 實 は 明日朝早 く 出張 す る ん で、 仕方 がないから一日繰上げて𠮟るのです…」 一一四六〇(一九三九・七・二十三) 「曙だより」 資源愛護 資源愛護、 資源節約 は 今 の 時代 の 合言葉 で、 ご 時勢 が ご 時 勢 だ か ら、 誰 し も 異存 は な か ら う が、 さ て そ れ も 程度 の 問 題、 こ ん な 男 は 一寸考 へ も の で す ……或 る 男 が 電燈 の 側 で 本 を 読 ん で ゐ た が、 二、 三 分 毎 に 起 ち 上 が っ て 電 氣 を 消

し、 数秒 の 後 に ま た 點 け る の で す。い つ ま で も 之 を 繰返 す の で、 傍 の 人 が 不思議 に 思 つ て、 そ の 譯 を 聞 く と、 そ の 男 「 頁 を め く る 間 は、 電 燈 が 要 ら な い の で、 時 節 柄 資 源 愛 好 であゝして消すのです」

  「曙

だ よ り」 の 掲載 は わ ず か 二回 で 終 わ り、 こ の 「曙

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一一朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

ばなし」に類した内容の日本語文が一九三九年七月二 十五日の号から「国語欄」とタイトルを変えて第四面 に 連載 さ れ 始 め た。 「曙 ば な し」 か ら 「国語欄」 に タ イ ト ル が 急 き ょ変更 さ れ た 事実 か ら、 「毎日新報」 が 「曙 ばなし」のタイトルのもとに初めて日本語文の掲載を 行っ た 時点 に お い て、 「国語」 文 を 掲載 す る こ と の 明確 な意味付けがなされていなかったことが伺われる。な お、日本語による紙面、すなわち本稿でいう “ 「国語」 欄 ” は 「曙 だ よ り」 が 第二面 に 掲載 さ れ た 以外 は、 「国 語」欄が消滅する一九四四年十月二十八日まで終始一 貫して第四面(最終面)に掲載されている。   この当時の「国語欄」の連載は一九四〇年八月十二 日(一一八四五)まで続き、本稿で利用した「毎日新 報」復刻版では、百九十回分の掲載が確認できる。こ の時期の「国語欄」は、大きく二つの時期に区分でき る。前半の時期は、一九三九年七月二十五日(第一一 四六二号)から一九四〇年四月十一日(第一一七二二 号)までで、この前半期のものは読者の日本語読解能 力の水準を考慮した文章ではなく、普通に日本語が読 め る 読者 を 想定 し て い る こ と か ら、 「国語普及」 の 手段 として掲載されたとは言い難いものである。朝鮮語新 聞である「毎日新報」に日本語の文章を掲載するとい う 事実自体 に そ の 意義 を 見出 し て い た か の よ う で あ る。

  こ の 時期 の 「国語欄」 で 取 り 上 げ ら れ た 日本語文 は、 一九四〇年四月十一日(一一七二三)までは、その八 割が他愛もない笑い話である。本稿で利用した「毎日 新報」復刻版では、この時までの「国語欄」は百三十 二回分が確認できるが、そのうち三回は二つずつ話が 載せられているので、実際には百三十五の話の掲載が 確認される。

  掲載された話は、下に示すように、その内容から主 要 な 読 者 対 象 は 「 国 語 普 及 」 運 動 の 対 象 者 で は な く、 相当な日本語読解力を有する層の朝鮮人を想定してい たものと判断される。また、笑い話を多数掲載したの は、ともかくも読者の俗な興味・関心を引き付けるこ とを意識したためであろう。したがって、このときの

(13)

一二

「国語欄」 連載初期 に は 「国語普及」 を 計画的 に 推進 す る た め の 紙 面 づ く り を 意 識 し て い た と は 思 わ れ な い。 また、時局を反映した話は一切載せられておらず、こ の時期の「国語欄」は、日中戦争のさ中ではあったが 「国語普及」 の 手段 と し て 利用 し よ う と す る 明確 な 方針 が打ち立てられていなかっただけでなく、戦時体制に 朝鮮民衆をかり立てる思想統制の手段としても考えら れていない段階にあったと言える。

  ここに掲載された笑い話を全体的に見ると、いつの 世も綺麗ごとだけでは生きて行けそうもない一般社会 における「ユーモア」感覚を垣間見ることも出来る。

一一四七五(一九三九・八・七) 「国語欄」 これは思ひつき 遅くまで、外で遊んでゐた姉と弟とのはなし 姉 の 英姫 「さ あ、 英男 ち や ん、 家 へ 帰 ら う よ。も う 八時 だ

から」 弟 の 英男 「い や 今 は 駄目。こ ん な に 遊 び 過 ぎ て 歸 れ ば ひ ど

く 叱 ら れ る ば か り だ よ。だ け ど 十 時 頃 ま で 待 つ て 歸 れ ば、 ま あ よ く 無事 だ つ た ね と 云 つ て、 お 父 さ ん も お 母 さ ん も キ ツスしてくれるよ」

一一四八九(一九三九・八・二十一) 「国語欄」 赤いもの A 「ヤ レ、 赤 い 思想 だ、 そ れ 赤字 だ な ん て 赤 い 物 に は 碌 な ものはないね」 B「しかし、カレンダーの赤い字は日曜日だぜ」

一一四九二(一九三九・八・二十四) 「国語欄」

父親 「コ ラ、 ま た お 前 は お 隣 の 子 を、 泣 か し た か。お 前 の ことを世間でなんと云ふてゐるか知つてゐるか」 そ の 子 「 お 父 さ ん の 子 供 の 時 そ つ く り だ と 、 云 ふ て ゐ る よ 」

一一五〇四(一九三九・九・五) 「国語欄」 下心

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一三朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

先生 「私 た ち は 何故貧乏 な 人 に 親切 で あ ら ね ば な り ま せ ん か」 生徒 「ひ よ つ と し た ら そ の 人 た ち が、 近 い 中 に 金持 に な る かも知れないからです」 一一五一二(一九三九・九・十三) 「国語欄」 世の中 息せき切つて驅込んで來た男 「 今、 貴 社 の 社 員 が 電 車 に 轢 か れ ま し た か ら 代 り に 私 を 雇 つて下さい。 」

一一五七二(一九三九・十一・十二) 「国語欄」 空氣税 「衛生試驗所で空氣のことを調べたさうだ」 「へえー」 「さうしたら一日一人が百リットルの空氣を吸うさうだ」 「 た ま げ た な ア 、 そ れ で ま た 、 税 金 を か け よ う つ て の か い ! 」 一一六〇六(一九三九・十二・十六) 「国語欄」 好景氣來 職 業 紹 介 所 を の ぞ い た 田 舎 者。 「 不 景 氣、 不 景 氣 つ て 云 ふ がこの繁盛は、どうだんで!」 一一六一一(一九三九・十二・二十一) 「国語欄」 これは無理 「 君、 い よ い よ 劇 場 へ 就 職 し た つ て ね。入 場 券 位 く れ 給 へ よ」 「 い ゝ と も。だ が、 君 は う ま く 銀 行 に 入 れ た ん だ も の、 僕 に紙幣の一、二枚くれるだらう」 一一六一三(一九三九・十二・二十三) 「国語欄」 五分五分 金 を 貸 し た 男 「お い、 こ の 前君 に 貸 し た 金 の こ と、 ま さ か 忘 れ て る ん ぢ ゃ あ る ま い ね。一體幾度請求 さ せ る つ も り だ い?これで六度目だぜ」

金 を 借 り た 男 「忘 れ て や せ ん さ。だ け ど 僕 が 借 り る 時 は 一

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一四

體幾度頼んだと思つてる?これで五分五分だよ」

一一六五六(一九四〇・二・五) 「国語欄」 当世奥さま

奥様 「お 前 な ん か、 お 嫁 に 行 つ て も、 と て も、 家 が や つ て 行けませんよ」

下女「まあ、どうしてで御座いませう?」 奥様 「だ つ て お 前、 先程料理屋 か ら と つ た、 お 膳 は す つ か り、返してしまつたでせう」 下女「はい」 奥様 「馬鹿 だ ね、 氣 の 利 い た 小皿 の 一 つ 位家 に 殘 し て お く ものですよ」

一一七二三(一九四〇・四・十二) 「国語欄」 おべんとう 先生 「さ あ、 何 で も わ か ら な い こ と が あ つ た ら、 お き ゝ な さい。太郎さん、なんですか」

太 郎 「 先 生 、 あ の う こ れ か ら ど れ 程 ま て ば 、 お 辨 當 で す か 」   上掲のような笑い話は、一九四〇年四月十二日発行 の号までの「国語欄」掲載文の主流をなしていた。   一方、笑い話ではない話の中には、以下に示す「ド レイク先生」のように西欧人の英語の先生が見せた紳 士的な姿を紹介したり、 「点字の放送プロ」のように、 イギリスでは盲人用のラジオ放送プログラムが点字で 作成されていることを話題として取り上げ、日本に比 して進んだ福祉施策を紹介している。こうした話題の 取り上げ方が注目されるのは、その後の太平洋戦争期 には、英米に関する話題が一貫して「鬼畜米英」の論 調に変化し、米英を見下したりあざ笑ったりする内容 に変化するためであるのに反して太平洋戦争勃発直前 のこの時期の「国語欄」には、そうした内容の文が一 切掲載されていないからである。 一一四七七(一九三九・八・九) 「国語欄」 ドレイク先生 電車には若い母親が赤ちゃんを抱いて乘つていた。隣

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一五朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

には英語の先生のドレイクさんが居られる。子供は先 生の持つてゐるステつキに眼をつけた。欲しさうに幾 度か小さな手を出すのである。それと氣がついて、母 親がむきをかへるやうにしたが、徒勞だつた。 やがて、先生は實直にステツキを渡した。子供の嬉し さうな顔が目に見えるやうである。暫くして、先生は 思ひ出したやうにポケットから手帳を取出して、一枚 の紙を破つてそれを子供に渡した。そして、ちょつと ステツキを引いてみた。が、余程ステツキが氣に入つ てゐるらしい。すると今度は、その一枚の紙をおだや かに取戻して、それを二つに切つて、一枚宛、子供に 持たせたのである。 そして、ステツキは先生の手に取戻された。先生の下 車すべき停留場へ來たのである。   ド レ イ ク 先 生 は 私 の 恩 師 で、 今 歸 國 し て 居 ら れ る。 ナ ル ホ ド 紳士道 と は、 そ ん な も の か と、 今 も と き ど き、 その車中風景を思ひだすのである。 一一五一四(一九三九・九・十五) 「国語欄」 點字の放送プロ イギリスでは、最近盲人用の點字プログラムが出來ま した。このプロさへあれば盲人は他人の助けを借りな いで、自分の好きな放送の時間が分かるので、大變評 判がよいさうです。   これはイギリス本國にある盲人七萬三千人に充分ラ ヂオを樂しませたいと言ふので始められたのです。今 イギリスの盲人が使つてゐるラヂオセツトは、四萬四 千 臺 あ る さ う で す か ら、 こ の 放 送 プ ロ が 出 來 た の で、 ほ ど な く   全盲人 に 聽取機 が 行 き 渡 る だ ら う と の こ と で す。   そ の 後、 一九四〇年四月十五   日 (一一七二六) か ら は編輯方針が変わり、この「国語欄」に小学生の綴り 方 が 載 せ ら れ る よ う に な る。そ し て こ の 段階 で、 「国語 欄」を「国語普及」に資するものとすべしという目的 意識が顕在化し始めたと見ることが出来るだろう。   この小学生の綴り方は「毎日新報」復刻版では一九

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一六

四 〇 年 四 月 十 五 日 か ら 同 年 八 月 十 二 日 ( 一 一 八 四 五 ) まで五十七回(五十八話)にわたって執筆者の名前お よび所属小学校名を明記したうえで連載されているこ とが確認でき、その多くは小学校高学年(五年生、六 年生)の朝鮮人児童が書いたものである。表記はすべ て漢字ひらがな交じり文で、総ルビとなっている。ル ビは編輯段階で振られたものと判断される。

  これらの綴り方の文章は、日本語能力が日本語母語 話者に劣らない水準の者でなければ書けそうにもない ものであり、また用いられた漢字は、相当に日本語が 書ける一般人レベルのものであり、このことから、お よ そ 小学生 が 綴っ た ま ま 掲載 さ れ た 文 と は 思 わ れ な い。

  最初に掲載された綴り方「神社参拝」は、それまで 掲載された類の話とは全く性格を異にし、皇民化政策 を 煽 る も の と な っ て い る。こ の 段階 か ら、 「国語欄」 の 編輯は、植民地統治イデオロギーを朝鮮民衆の間に浸 透させることを目的意識的に図るようになった。

  確認された五十七回分の小学生の綴方のうち、皇国 臣民化や時局絡みの内容の文は全体の四分の一に当た る十六回のものに見られる。 一一七二六(一九四〇・四・十五) 「国語欄」 神社參拝 和順大□尋小校 [尋常小学校] (六男) [六年男子]

崔□□

  神社 の 大□ で あ た り を 見廻 し た。大人 も 子供 も 皆参拝 に 來 て ゐ る。こ れ は 神 國 日 本 を お い て は、 外 に 見 ら れ ぬ 事 だ。私 は つ く づ く 日 本 に 生 れ た 事 を 有 難 く 思 ふ 様 に 成 つ た。私 は 眼 を ず つ と 下 の 方 に 移 し た。に ぎ や か な 和順 の 町 も 一 目 見 ら れ る。大 小 幾 多 の 建 物 が 軒 を 接 し て 竝 ん で ゐ る。私 は あ た り の 景色 を 眺 め な が ら、 さ く さ く と、 玉砂利

の 上 を 歩 く。折 か ら の 朝 も や に 囲 ま れ、 千 木 が 見 へ た り、 か く れ た り す る の も、 神社 で 無 く て は 見 ら れ ぬ 風情 だ と 思 つた。

  や が て 私共 は 拝殿 の 前 に 立 つ た。此 の 時 は 何 と も 言 ひ あ らはす事の出來無い實に敬虔な氣持だつた。

  朝鮮 を お 守 り く だ さ る 天照大神様、 明治天皇様、 朝鮮 が

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一七朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

ま す ま す 発 展 し て 行 き ま す 様 に、 言 葉 に は 言 は れ な い が、 心 の 中 で は、 か う 言 は ず に は 居 ら れ 無 い。私 は 西行法師 の

作 つ た 歌 を 思 ひ だ し て、 校長先生 の な さ れ る 通 り 柏手 を 打 つて頭を下げて、黙禱した。

  「何事

の お は し ま す か は 知 ら ね ど も、 か た じ け な さ に 涙こぼるる。 」

  小学校六年生の朝鮮人児童が書いたものとはおよそ 信じがたい「神社参拝」というこの綴り方が掲載され たあとになってから、一九四〇年四月十八日(一一七 二九)の紙面に「国文綴方募集」と題した、次のよう な 毎日新報社学芸部 か ら の 案内記事 が 掲載 さ れ て い る。 ま た、 一 九 四 〇 年 四 月 二 十 二 日 ( 一 一 七 三 三 ) に も、 全く同じ案内記事が掲載されている。綴り方募集案内 の 掲載以前 に 「神社参拝」 の よ う な 文 を 載 せ た こ と は、 「いい綴り方」の方向性を暗示したものと解される。

今 ま で の 國語欄 を 拡張 し て、 こ れ か ら、 小學校 の 皆様 の す ぐ れ た 綴方 を 毎日 の せ て 行 き ま す。國語欄 は 國語普及 に 備 へ る の で す か ら、 な る べ く や さ し い 分 か り 易 い 文章

を と り ま す。長短 は 随意 で す が、 な る べ く 短 い の が よ く 二百字詰二枚 を 適宜 と し ま す。ど し ど し い ゝ綴方 を お 送 りください。 (學藝部)

  この案内記事で、 「国語欄」は「国語普及に備える」 こ と を 目的 と し て い る こ と が 明記 さ れ て い る。 「国語普 及」は単なる日本語それ自体の普及のみならず、むし ろ「国語普及」を通じて天皇制イデオロギーを浸透さ せ、戦時総動員体制に民衆を組み込むことを重視して いたことが、以下のような「すぐれた綴方」を掲載し ていることからもわかる。

一一七四二(一九四〇・五・一) 「国語欄」 志願兵の勇士へ □□小

金□□

  陸軍志願兵 の 皆様方 お 變 り は 御座 い ま せ ん か。私 は 元氣

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一八

で 居 り ま す。皆様方 は 名譽 あ る 志願兵 と し て 何千人 の 中 か

ら 選 ば れ て、 お 國 の 爲 に 盡 す こ と が 出來 る の は、 日本國民 と し て、 こ の 上 も な い 名譽 で あ り ま す。私 は 新聞 や ラ ヂ オ で、皆様方の狀況を良く知つて居ります。 私 も 大 き く な つ た ら、 戰場 に 出 よ う と 思 ひ ま す け れ ど、 女 で 出 る こ と が 出來 な い か ら、 愛國婦人 に な ら う と 思 つ て 居

ります。さやうなら

一一七七三(一九四〇・六・一) 「国語欄」 教育 黄海道□明□書堂(三年)□□□ 敎 育 は、 獨 り 大 日 本 帝 國 だ け で 無 く、 世 界 中 何 れ の 國 で

も、 最 も 大切 が ら れ る 物 で あ り ま す。も し わ が 國 に 敎育 が な い と す れ ば、 古今 に 輝 く 大日本 の 歷史 を、 知 る こ と も 出 來 な け れ ば、 話 さ へ も よ く 出來 な い か も 分 り ま せ ん。我等 が、 學校 や 書堂 で べ ん き ゃ う し て ゐ る の も、 皆天皇陛下 の 御恩 と 思 は な け れ ば な り ま せ ん。昔 に は ゆ め に も 思 は な か

つ た 飛行機 や 自動車 が 今日敎育 の 力 に よ つ て 發明 す る こ と が 出來 た の を 見 て も、 敎育 は 「此 の 上 も な い 寶物 だ」 と 思

ひます。 一一七七六(一九四〇・六・四) 「国語欄」 報恩感謝 □南通二□□□小校(六年)金東明

私共 は 生 ま れ な が ら に し て、 君 の 恩、 親 の 恩、 師 の 恩、 そ の 他社會 の 恩、 又 は 自然 の 恩 を 受 け て ゐ ま す。今私達 が 平 和 に 暮 せ る の は、 皆 ひ と へ に、 天皇陛下 の 御

稜威 と、 あ ら ゆ る 辛苦 と 戰 ひ な が ら 東洋永遠 の 平和 の 為 に、 ひ い て は 世 界平和 の 為 に、 將兵 が、 よ く 奮闘 し て 下 さ る お 蔭 で ご ざ い ます。 (續)

一一七七八(一九四〇・六・六) 「国語欄」 報恩感謝 □南通二□□□小校(六年)金東明 私達 は、 共 に 將來立派 な 人間 に な つ て、 國民 を 赤子 の や う

に、 お 思 ひ 下 さ る 大君 の 御恩 に む く ゐ、 又自分 の 子 の 爲 に

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一九朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

は、 汗 と 血 と に ま み れ な が ら、 働 い て 下 さ る 親 の 恩、 又弟 子 の 為 に は、 夜 も ろ く 〳〵眠 れ ず に、 私達 を 敎 へ て 下 さ る

師 の 恩 や、 夜 の 寒 い 日 に も 暖 か く 勉 强 出 來 る 火 の 有 難 さ、 又夏 の 暑 い 日、 の ど を う る ほ し て く れ る 有難 い 水等 の 自然 の恩を受けて、日々に伸び行くのであります。 (續く)

一一七七九(一九四〇・六・七) 「国語欄」 報恩感謝 □南通二□□□小校(六年)金東明 こ れ ら の 有難 い 恩 を 忘 れ ず に 此 の 恩 に 報 ゐ ね ば な ら ぬ と 思 ひ ま す。私共 は 榮 あ る 三千年 の 永 い 歷史 に 飾 ら れ て ゐ る 大 日本帝國 の 臣民 と し て 恥 ぢ ざ る 行 ひ を し、 報恩感謝 の 美風

が わ が 國 に 溢 る や う に。何時 も □ け て 居 り ま す。 (お は り)

一一八一八(一九四〇・七・十六) 「国語欄」 節約 □□□州明□□□□   白川□□

今 の 時代 は、 節約時代 で す か ら。私達 は な る べ く 節約 し な け れ ば な り ま せ ん。私達 が 節約 す る の は、 國民 の 義務 と し て、 も つ と も 大切 な 事 で す か ら、 節約 す る の は、 忘 れ て は

な り ま せ ん。私達 は 或日、 先生 に 次 の や う な 話 を 聞 き ま し た。兵隊 さ ん は 煙草一本 で も お 互 ひ に 分 け て 吸 ふ こ と を 考 へ れ ば 私共 は 仕事 も 節約 し な い で を ら れ な い、 と。そ の こ と を き ゝ な が ら、 目 に 涙 が 出 る 程 の 感激 を 受 け ま し た。私 達は節約して御國の為につくさねばならないと思ひます。

一一八二六(一九四〇・七・二四) 「国語欄」 愛國貯金 □田公立尋小校(二年)金□姫

  支那 じ へ ん は 又 つ ゞ い て ゐ ま す。こ と し は う れ し い 紀元

二千六百年 で ご ざ い ま す。我 が 皇軍 は 强 く 戰 つ て ゐ る で し よ う。し か し 我 が 少國民 が も つ と も 銃後 を ま も ら な け れ ば 早 く じ へ ん は か た つ か な い で し よ う。こ の 銃後 を よ く ま も る に は 儉約 が 大切 で あ る と 校長先生 が 朝會 に は な さ れ ま し た。そ れ で 私 は 學習帳 や 鉛筆 や 學用品 み ん な を せ つ や く す

る こ と に し ま し た。さ う し て お と う さ ん か ら 毎月七〇錢 づ

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二〇

つ も ら う こ と に し ま し た。そ の 七〇錢 か ら 授業料 と 學用品

ぜ ん ぶ を す る こ と に し ま し た が、 私 は 其 の 中 か ら せ つ や く し て 毎月二〇錢 づ つ 愛國貯金 を す る こ と に し ま し た。こ の 貯金 が だ ん だ ん ふ え て ゐ る と う れ し く て た ま り ま せ ん。友 だ ち が 飴 を か つ て た べ る の を 見 る と、 私 も た べ た が つ て、 一 し ょ に 買 つ て む だ に し た こ と が あ り ま し た が、 こ の 貯金

を は じ め て か ら は 一 錢 で も あ ま つ た ら す ぐ 貯 金 と 思 つ て、 飴 を 買 つ て く ふ な ど の や う な む だ つ か い を し た く あ り ま せ んでした。先生からもたび〳〵ほめられてゐます。

一一八二八(一九四〇・七・二六) 「国語欄」 一錢の力

□田公立尋常小學校

李鳳求 我 が 日本 は 今新東亞建設、 朗 ら か な 明 る い ア ジ ヤ を 作 る と い ふ 大 き な 仕 事 の た め 澤 山 な お 金 と 物 が 要 る 時 で あ り ま す。タ ン ク を 動 か し、 大砲 を う ち、 軍艦 を 作 り 飛行機 を と ば せ る の に も 澤 山 な お 金 が な け れ ば 出 來 な い こ と で あ り、

又 い ろ 〳〵 な 産業 を 盛 に し て 行 く た め に も 多 く の お 金 と 物 が 必要 で あ り ま す。此 の お 金 と 物 は い く ら 入 ら う と 私共日

本人 が 作 り 出 さ な け れ ば な り ま せ ん。よ つ て 一枚 の 紙一錢 の お 金 で も 决 し て 無 駄 に し て は な り ま せ ん。 「 た つ た 一 錢 が」 と い つ て か ろ ん ず る 人 は 一錢 の 力 を し ら な い 者 と い は ねばなりません。

  当時の「国語欄」にはこのような戦時体制や天皇制 イデオロギーへの従属を煽るものばかりではなく、次 のような素朴な日常生活を描いた綴り方も多数掲載さ れていた。

一一七六一(一九四〇・五・二十) 「国語欄」 (四年)趙東□ 小屋 の 中 で 雌鶏 の 鳴 き 聲 が、 さ わ が し く 聞 え る。父 は 「今 卵 を 産 む の だ 」 と お つ し ゃ つ た。暫 く た つ て 行 つ て 見 る と、 成 程 箱 の 中 に 真 白 な 卵 が さ も 温 か さ う に 横 は つ て ゐ

た。私 の 家 に 來 て か ら か れ こ れ 十一程産 ん だ。雌鶏 が 五羽

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二一朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

雄鶏一羽、 一間四方 に 仕切 つ た 中 に、 さ わ ぎ な が ら □ ま つ て ゐ る、 雌鶏 は、 茶 の コー チ ン で、 雄鶏 は 白 の レ グ ホ ン で

あ る。今年 の 五月頃 か ら 六月頃 に か け て、 □ を 孵化 す る ん だ さ う で す。雌鶏 は、 雪 の 未 だ 振 ら な い 十二月始 め 頃 に 川 の□から五羽、籠に入れて送つて來たのです。

一一八一三(一九四〇・七・十一) 「国語欄」 生意氣な鼠 □松尋小校

洪性□ 此 の 頃 毎 晩 の や う に、 台 所 で か

だ か だ す る 音 が 聞 え て 來 る。一昨晩

兄 さ ん が、 僕 に あ の 鼠 を 取 ら う と 言 つ た の で、 僕 は 「よ し」 と 言 ふ が 早 い か、 ほ う き を 取 り 出 し、 兄 さ ん

は は た き を 持 つ て 台所 に 下 り た。兄 さ ん は は た き で、 板 を た ゝ き な が ら 探 し た が、 見 つ か ら な い の で、 ふ と □□ の す み の 方 を 見 る と、 鼠 が 小 さ く な つ て ち ゞ こ ま つ て う ぃ る。 僕 は ほ う き で な ぐ ら う と す る と、 何時 の 間 に か 棚 の 上 に 上 つてしまつた。 (續) 一一八一五 (一九四〇 十三 生意氣 (下) 「国語 欄」 生意氣な鼠

(下)

□松尋小校

洪性□ や が て 鼠 は 棚 の 上 で 辧當箱 や 皿 な ど を、 落 し た り わ つ た り し て あ ば れ だ し た。僕 は 此 れ を 見 て し ゃ く に さ わ る の で、 「 し ゆ つ 〳 〵 」 と 言 つ て 追 ひ ま く つ た。す る と 間 も な く 板

の 上 に 下 り て 來 た の を ほ う き で た ゝ か う と し た ら | す ば し こ く 又棚 の 上 に 上 つ た り 下 り た り す る 中 に、 鼠 は と う 〳〵 兄 さ ん の は た き に う た れ て 足 を ふ る へ な が ら 死 ん で し ま つ た

((

  そ れ を 見 る と 何 だ か か は い さ う な 氣 が し た。 (お は り)

  小 学 生 の 綴 り 方 の 連 載 は、 一 九 四 〇 年 八 月 十 二 日 (一一八四五) の 「学校 が 始 ま る ま で」 で 終 わ り、 そ の 後「国語欄」は約二カ月間掲載されることなく、一九 四〇年十月十日(一一九〇四)より、新たな装いで再 度掲載され始めた。

(23)

二二

三. 「国語欄」の「国語講座」

一・七・十二)     一 九 四 〇 年 十 月 十 日 ( 一 一 九 〇 四 ) か ら 「 国 語 欄 」 は再度掲載され始めるが、一九四〇年八月十二日(一 一八四五)までの「国語欄」に比して、掲載スペース を拡大している。それまではベタ組で主に笑い話や小 学生の綴り方を掲載するだけだったが、この時点から 「国語欄」 は 毎回一段 あ た り 一五行 か ら 二〇行 (一行当 たり一五文字)で、五段から六段の紙面を割くように な り、 各 回 複 数 の 記 事 を 載 せ る よ う に な っ た。な お、 「毎日新報」 の 紙面 の サ イ ズ は 下段広告 の ス ペー ス も 含 めると、一〇五行一五段となっているので、第四面の 五%弱から八%弱のスペースが割かれていた計算にな る。

  「国語欄」

で は、 日本語 の 文字 の ポ イ ン ト は 朝鮮語 の 文字より一段階大きくなっており、読みやすくなって いる点は従来通りである。   この時から「国語欄」において「国語講座」の連載 を始めるとともに、同時に毎号、日中戦争などの時事 問題を扱った記事を一本ずつ掲載し始めた。これらの 記事はタイトル以外のほとんどの漢字にはルビがふら れており、次に紹介する記事のように、その文体や使 用語彙は一般の日本語の新聞記事と変わらない水準の ものである。 一一九一〇(一九四〇・十・十六)   われ等も戰士|力を出し切らう|劃期的な國民總力運動   總

督府 で は 非

ひじょう

常 時 局

きよく

に 處

しよ

し て の 覺

悟 を 新 た に し 國

民全部

の 有

あり

つ た け の 力

ちから

を 遺

憾 な く 発

揮 さ せ る た め に 朝

鮮 の 國

民 組 織 新 體 制 に つ い て 前

ぜんしゅう

週 か ら 屡

々 局

きよくちよう

長 會 議

を 重

かさ

ね て 來 ま し た が 今度 漸

ようや

く そ の 成

せいあん

案 を 得

ま し た の で 來 る 十六日 に 臨

りん

時道 知

事會 議

を 開 催

さい

し 正 式

しき

に こ れ を 發

はつぺう

表 す る こ と と な り ました。

  朝

てうせんこく

鮮國 民

みん

織 の 新 體

たい

せい

は こ れ を 國

こくみんそうりよく

民總力 運

うんどう

動 と 名

付 け ま

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二三朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

す。 目

指 す と こ ろ と こ ろ は、 わ が 國

こくたい

體 の 本

義 に 基

もとづ

い て 内

ないせん

鮮 一 體

たい

の 實

じつ

を 擧

げ、 各

かくじん

人 が 自分 の 受 け 持 つ て ゐ る 仕

事 を 通

つう

じ て 滅

めつ

公 の 誠

まこと

を い た し、 以

もつ

て 國

こく

ぼう

こく

家 體

制 を 完

成 せ し め、東亞新 秩

ちつじよ

序 の 建

けんせつ

設 へ 邁

まいしん

進 せしめるにあるのです。

  南 總

そうとく

督 閣下 が 總

そうさい

裁 と な り、 そ の 指

揮 下 に 國

こく

みん

せい

しん

そう

どういん

員 運

動 や 農

のう

村 振

興 運

動 等 と 密

接 に 結

むす

び つ い て 物 心

しん

りよう

面 の 運

うんどう

動 を 益

ます

々 力

ちからづよ

强 い も の と し て、 國

こく

みん

の 全

部 の 力

ちから

を 惜

おし

み な く

出しきらうとするのであります。

  若干の例外を除き、この時期の「国語欄」の紙面は 「国語講座」 と、 一般記事 か ら 構成 さ れ、 一般記事 は 復 刻版では一九四〇年十月十日(一一九〇四)から一九 四一年七月十二日(一二一七六)まで二百二十二本の 記事が確認できる。一般記事の約三分の一は戦勝気分 に酔わせる日中戦争絡みの話題、三分の一は枢軸国と 連合国との戦争絡みの話題をテーマとした文となって いる。

  一方、 「国語講座」 で は 「一、 二、 三」 な ど の 漢語数 詞や「金」 、「李貞子」などの姓名など、ごく少数の漢 字以外は総てカタカナで表記されたデス・マス体の文 となっており、まずカタカナで日本語を学ぶ小学校低 学年までも読者対象としていたようである。   また、すべての日本語に朝鮮語の対訳が付されてい る。朝鮮語の活字は日本語の活字より小さくなってお り、日本語本文を主とする位置付けがなされている。   当時、 「内鮮一体化」 を 口実 に し た 第三次教育令 の 施 行(一九三八年)にしたがい、学校教育で朝鮮語教科 が廃止されていった当時、朝鮮人学童たちは学校で朝 鮮語の読み書きを学ぶ機会を剥奪されていた。したが って、この「国語講座」の朝鮮語対訳文は、 「国語欄」 を通じた「国語」学習の過程で、使いようによっては 朝鮮語の読み書き能力をも高めることに寄与するもの で あ っ た だ ろ う。 「国語講座」 の 紙面 づ く り を 担当 し て いた「毎日新報」編集部スタッフがこのことを認識し ていなかったはずはなく、むしろ「国語普及」を目的 とした欄ではあるが、日・朝対訳文をもとに、朝鮮語

(25)

二四

読読み書き能力の向上をも期待していたであろうと考 えられるのである。

  同じく毎日新報社が朝鮮人読者向けに発行していた 週刊 の 日本語新聞 「国民新報」 (一九三九年四月三日創 刊、毎日曜日発行)では、 「国語全解・国語常用運動」 の 要 請 を 受 け、 一 九 四 二 年 六 月 七 日 ( 第 百 六 十 五 号 ) から、二面分を割いて「こくごはやわかり」という紙 面を作り始めた。同年七月五日(第百六十九号)から は「国語工夫室」 (「国語勉強室」の意)と紙面のタイ トルが変わり、同年七月十二日付け「国語工夫室」面 には「国語をおぼえるためには」という掲載文で、次 のように、 「諺文」 (朝鮮文字)も同時に学ぶことを推 奨していた。

  國

語 を

お ぼ え る

に は

ど う し て も 「 ひ ら が な 」 と 「 カ タ カ ナ 」 と こ の 二 つ の

字 を

な ら は な く て は

な り ま せ

ん。   ア   イ   ウ   エ   オ

  아   이   우   에   오   あ   い   う   え   お   こ れ は

二 と ほ り

こ こ に

へう

に し て

あ り ま す か ら

文 と

あ は せ て

べ ん き ゃ う し て

く だ さ い

こ の

“ あ い う え お ” と “ ア イ ウ エ オ ” は

おんもん

文 の

“ 아야어여오요 ” と

お な じ も

の で

こ れ は

五十一字 づ つ

あ は せ て

百二字

あ り ま す

こ れ さ へ

お ぼ え れ ば

國語 も

さ う

む づ か し い

も の で は

あ りません。

  朝鮮総督府治政下 の 学校教育 で は、 「国語」 科 は 直接 教授法 に 依 る も の と さ れ、 「国語」 教科書 に 朝鮮語対訳 は 載 せ ら れ な か っ た。し た が っ て、 毎日新報 の 「国語」 欄はこの壁を突き破ったものでもあった。

  解放後、日本語版朝鮮総督府機関紙「京城日報」社 から日本人従業員が十月末をもって排除された直後の 十 一 月 二 日 号 に、 「 朝 鮮 人 従 業 員 一 同 」 の 署 名 入 り で 「謹告」 と い う 一文 が 掲載 さ れ た こ と が あ る が、 そ こ に

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二五朝鮮語新聞「毎日新報」(朝鮮総督府機関紙)に掲載された「国語」欄の歴史的変遷(一九三九年~一九四四年)

はかつて植民地統治に協力してきた紙面づくりに対す る慙愧の思いが、次のように綴られている。

八月十五日 を 契機 と し て、 朝鮮内 の 凡 ゆ る も の は 我等 に 戻 り つ つ あ る。こ の 線 に 沿っ て 「京城日報」 も 今日 を 以 て 我等 の 手 に 帰 し た が、 我等 は そ の 何 と 遅 か り し を □ つ の み で あ る。 偖

て 「京城日報」 が 過 ぐ る 四十年間 の 長 き に 亘

わた

っ て 歩 ん で 来 た 途程 に 就 て は、 我等朝鮮同胞 と し て 許 す べ か ら ざ る も の の 多々 あ る は 否 み 難 い。 仍

つ て、 い く ら か な り と も 職 を 奉 じ て ゐ た 我等 と し て は、 圧力 に 強 い ら れ て 動 い て 来 た と は い へ、 其 の 責 に 悶 え て ゐ る の で ある。

  朝鮮総督府の機関紙編輯という「朝鮮同胞として許 すべからざるもの」にたずさわった「京城日報」従業 員の負い目は、この時に始まったものでもなかっただ ろ う し、 「 毎 日 新 報 」 従 業 員 も 同 じ 思 い で あ っ た だ ろ う。朝鮮語科目 が 学校教育 か ら 完全 に 一掃 さ れ た 時代、 更 に 「 国 語 普 及 」 の た め の 「 国 語 」 欄 に 「 毎 日 新 報 」 の紙面が割かれるようになったが、日本語も朝鮮語も いずれも読めない非識字者が朝鮮民衆の過半数をはる か に 越 え て い た 状況 で、 「国語欄」 の 朝鮮語対訳文 の 方 にむしろ注目して学習してほしいという思いを編集者 たちが抱いていたとしても不思議なことではない。   ところで、日本語本文中で、漢字で表記された姓名 は、その朝鮮語対訳文では下に示すように朝鮮漢字音 をハングル表記した場合と漢字で表記した場合が混在 している。この朝鮮語対訳文は完全なハングル専用文 で書かれているのに、ただ姓名だけ漢字で書かれてい るのは意図的ですらある。次のリストで矢印の上は日 本語文、矢印の下は対訳朝鮮語文における文字表記で ある。 金 サ ン → 김 선 생 ( 一 九 四 〇 年 十 月 二 十 三 日 )、 李 → 李 (同上) 、 金 サ ン →金 선생 (同上) 、 金→ 김 (同年十月二 十四日) 、 金 サ ン → 김선생 (十月二十五日) 、 李→李 (十

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