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コウルリッジとドイツ文学(1)序章およびルターの 場合

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(1)

場合

著者 高山 信雄

出版者 法政大学教養部

雑誌名 法政大学教養部紀要. 外国語学・外国文学編

巻 53

ページ 1‑24

発行年 1985‑01

URL http://doi.org/10.15002/00005221

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コゥルリッジが渡独した一七九八年ごろのドイツでは、すでに理性万能の啓蒙主義に反抗して生じたシュトルム・ウント。ドラングの感情の解放の時代の嵐は吹き去り、感情的情熱を謡歌したゲーテやシラーなどの詩人たち

も、落着いた古典時代の作品に没頭していた。シラーの『群盗』に刺激されてドイツに憧れたコウルリッジではあ ったが、そのドイツでは、もはや疾風怒涛時代の名残りを留めるに過ぎなかった。しかし彼は、その代わりに新し

いドイツの文学や思想の息吹きに直接触れることができたのである。

コゥルリッジは、ハンブルクからラッップルクヘ行き、そこに数カ月滞在した後、ゲッティンゲンへ移った。ラ ッップルクでの主要目的はドイツ語に磨きをかけることであったが、ゲッティンゲンではドイツ文化の吸収と資料

イギリスの文学者のうちで、サミュエル。テイラー・コウルリッジほどドイツの思想や文学に強い関心を示した者は、そう多くあるまい。コウルリッジは、一七九八年九月から翌年七月までの約一○カ月間、ワーズワース兄妹およびチェスターという友人と共にドイツで過ごしたが、そのことによって当時のドイツ文学や過去の文学史上の知識を深めると同時に、それ以後のドイツ文学界・思想界の動向に、きわめて熱心に注目するようになったのであった。

コウルリッジとドイツ文学二)

l序章およびルターの場合I

「序章

高山信雄

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カント、シエリング、フィヒテなどの著作を貧るように読糸続け、やがて自己の形而上学の体系を確立するのであ コウルリッジの方向を決定づけることになった。一九世紀の幕開けと同時に、彼はドイツ観念論哲学に魅せられ、 研究に大いに役立ったに相違ない。そして、このドイツ留学によって喚起されたドイツ思想への関心は、その後の くの知的収極を得たのであった。帰国に際して財布をはたいて買い求めた新しい醤籍も、それ以後のドイツ文化の の収集とが主たる目的であった。とりわけやゲヅティンゲソ大学での勉強と、そこの図醤館での調査によって、多

こう考えてくると、コウルリッジのドイツへの関心、ドイツ文学の知識の吸収、ドイツ思想や哲学への傾倒は、 青年時代のコウルリッジに実に多大の影響を与えると共に、彼の生涯にわたる文筆活動に大きく関与していること がわかる。しかしながら、コウルリッジに及ぼしたドイツの影響は、彼が当時の有数な詩人であり、批評家であり、 思想家であったところから、イギリス全土に及んだと言っても過言ではあるまい。すなわち、シラーの大作『ヴァ レンシニタイン』の翻訳を行なったり、カントやシェリングの説をイギリスに紹介したり、AoW・シュレーゲル のシェイクスピア批評をめぐって剰窃問題に童で発展した自己のシェイクスピア批評の講演を行なって、間接的に ドイツにおけるシェイクスピア研究の実情を紹介したりして、英独の文化交流に非常に貢献したといえる。コゥル リッジの影響を受けたド・クィソシーが、イギリスにおけるドイツ文学の研究に、さらに歩を進め、多くの文学者

もドイツに目を向けるようになった。

コウルリヅジが訪れたころのドイツは、数多くの小国が割拠していて近代国家の形態にはほど遠く、すでにイギ リスで進行中の産業革命はこの地ではまだ発展せず、政治的にも経済的にも、ドイツはヨーロッ.〈の後進国であっ た・イギリス製品が各地で尊重され、先進国イギリスからの留学生コウルリッジも各地で敬意の目をもって迎えら れた。ドイツの人々は、長年続いた諸侯間の争いと、一一一十年戦争以降の宗教的対立の余波による農工業生産力の低 下と人口減による労働力の不足とが主たる原薑因となった経済的貧困に悩まされていた。しかしながら、こういう状 態にあるドイツに、近代精神文化の華が開いたのである。すなわちこの地では、物質的窮状が精神的発展をもたら

}(》。

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したのである。そしてコウルリヅジも〉そうした精神的魅力を》いち早くドイツに見つけて友人トーマス・ウニ

ッジゥッドから経済的援助を得、ワーズワースを説得して、渡独を決行したのであった。

一八世紀末のドイツにおいては、ヘルダーをはじめ、ゲーテ、シラー等の文学者が盛んに活躍していて、その名 はすでにイギリスをはじめヨーロッ。〈全土に知られており、哲学の面ではライプーーッッ、ヴォルフに続いてカント

が活躍していた。また芸術の面でも、とくに聴覚芸術である音楽の分野で、・ハッハ、ハイドン、モーツァルト、ベートーヴニン等の不朽の名を残す作曲家が、ドイツ語圏から輩出していた。コウルリッジは、ドイツのこのような

精神活動に注目し、その業績を高く評価すると共に、自らもその雰囲気を体験しようと考えていたのであった。 コゥルリッジがドイツに滞在していたころは、ちょうどドイツ文学史上の過渡期で、古典主義の間から、次の時

代の新しい息吹きが聞こえはじめていた。ジャン・・ハウル・リヒターやヘルダーリンなどが活躍し、続いてシュレーゲル兄弟、ノヴァーリス、ティークなどの、いわゆるドイツ・ロマン主義の次の時代を担う作家たちが、その活動の片鱗を見せはじめていた。その意味ではこの一七九八年から九九年にかけての時期は、ドイツ文学史でもまさに変化に富んだ多様な時代であった。コウルリッジは、このような時代の空気を吸ってきたのである。

コゥルリッジは、ゲッティンゲン大学で、当時ヨーロヅ。〈で有名であったプルーメン・ハツ〈教授から、生理学や

博物学などを教わり、アィッヒホルン教授からは新約聖霞の講義を受講したほか、ティッヒセン教授からウルフィ

ラスが聖書の翻訳に使ったゴート語を学び、オットフリートの韻文訳の福音醤を読み、テオティスカ語を学んだ。 さらにスワビ語を学んでスワビ宮廷のプロヴァンス詩人たちの作品を読み、〈ソス・ザックスの著作を読んだと、

『文学評伝』第一○章で述べている。このような古代・中世の詩人たちの作品のほか、同時代の作品にも目を通した。ほとんど同時期にシラーがイニムーピンアルマーナッハ

ーナで発行した『詩人の暦』も、ゲッーァィンゲソで読んだ形跡がある。彼はこのように、ドイツ文学史上の重要な

作家の多くの作品に触れていた。

8ある作家の作品を読むことと、その作家や作品から影響を受けることは意味が違うので、別にして考えなければ

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思う。

ならない。深く感銘したり、詩作技法を真似して糸たくなるのは、影響を受けたといえるが、多く読んでも、愚作

ノートプ

であって印象も残らず感銘も受けなければ、単に読んだというに留まる。そこで、コウルリヅジの作品や『備忘

ツケスレターズ

録』や『醤簡集』に残された記録から、彼が感銘を受けたり印象に残ったりしたドイツの文学者を挙げて染ようと

ルネッサンス期の作家としては、滞独中にはハンス・ザックスをよく読んだらしいが、あまり印象は強くなかっ たようで、その後の一一一口及はきわめて少ない。オランダ生れで一六世紀のドイツで活躍した人文主義者エラスムスに ついては、彼がラテン語訳付きのギリシア語原典の新約聖書を出版したことに意義を見出し、弧刺文学『愚神礼讃』 に興味をもったけれど、それに続いたルターにもっとも強い関心をもった。もっとも、エラスムスなしにルターの 業績があったかどうか疑わしいが、コウルリッジには、ルターこそドイツ・ルネッサンス時代を代表する作家であ ると思えたのである。ニラスムスの、古代ギリシアとルネッサンスに橋を懸けた業績は、高く評価されるべきであ ろう。しかしながら、コウルリヅジの思想形成に重要な役割を果たした点からいえば、まず、ルターを第一に考え

なければならないと思われる。

続くドイツOバロック時代の作家としては、ヤコプ・ベーメを挙げるべきであろう。コゥルリッジは、プラトン に関心をもち、新プラトン派のプロティノスの教義に非常な魅力を感じ、コンネァデス』を熟読したことはよく 知られているが、プロティノスの思想は、プラトンより一層神秘主義的であった。その系譜を引くベーメに強い関 心があったことは事実である。同じ唯心論の観念論者シェリングも・ヘーメに関心をもち、ついには彼自身も後年神 秘主義的な思想に至るけれど、コウルリヅジはペーメに傾倒してもそれは思想形成期の一時期だけであり、その後 はペーメから離れ、・ヘーメを批判して、自己の思想体系を確立したのである。しかしながら、その一時期における

・ヘーメの影響を見逃す訳にはいかないのである。

ドイツ啓蒙主義の作家のうちで、コウルリヅジがもっとも多く影響を受けた作家は、レッンングである。ドイツ 滞在中は、レヅシソグの伝記を醤くつもりで、彼に関する資料を懸命になって集めていた。この伝記はついに出版

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ドイツ文学史上の次の時代、すなわちシュトルム・ウント・ドラング時代と古典主義時代の作家でコウルリッジにもっとも大きな影響を与えたのは、シラーである。シラーの影響はコウルリッジの詩・演劇・批評・美学思想・哲学の上に、計り知れないほど大きく存在している。ゲーテについては、それほど多くの論及がないが、それはコゥルリッジ自身がシラーのいう情感詩人に属するから、対極の素朴詩人たるゲーテよりは、心情的にシラーの方に大きな同情を寄せていたからに外ならない。シラーとゲーテに続いては、ヘルダーヘの言及が多い。コゥルリッジはゲッティンゲン大学にいたので、その地方の貴族詩人として知られていたF・L・シュトールベル夕に関心をもっていたようで、初期の『備忘録』や『醤簡集』に記録が多く、アーネスト・コウルリッジ編になるコウルリッジ詩集』にも、シユトールペルクの詩の訳が記されているほどであった。しかし、ドイツ文学史にも名の戦らないようなこの詩人には、コウルリッジもすぐに魅力を失い、間もなく省染なくなってしまったけれど、5やはり青年時代に及ぼした効果は若干あるので、一考に価しよう。 、。1VT れる。 されることばなかったが可滞独中にもっとも真剣に取り組んだ作家だったので、その影響を無視するわけにはいかないのである。したがって、レッシングとコウルリッジとの関わり合いを調べる)」とも有益であろうと思われる。啓蒙主義の文学者で、コウルリヅジがドイツで初めて会って話をした作家は、感傷的な主観的文学を完成させ、深い感情を吐露する宗教文学を打ち立てたクロップシュトックである。コウルリッジはクロップシュトツタからほとんど感銘を受けなかったようであるが、クロップシニトックのシラー親、カント観などは、コウルリッジの批評眼を立評する意味で非常に重要な意義を有するものであるから、無視できないし、コウルリッジがクロヅプシュトックのことを述べるとき、それに自己を対比させている以上、やはり影響の存在を認めざるを得ない。したがってクロップシュトツタとコウルリヅジとの関係を調べることも有意義であろう。ドイツ・ロココ文学の完成者、ヴィーランドについて、コウルリッジは多少言及しているが、前二者ほどではない。しかし彼のギリシア神話を基にした優雅な作品や杼情詩などは、ヨウルリッジの関心を若干引いたよう仁思わ

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6古典主義からロマン主義の狭間にあって特異な文学を確立したジャン。、ハウル・リヒターは、コウルリッジに大きな影響を与えた。しかしそれは、小説においてよりは『美学入門』における思考の形成においてであった。イギリスのロマン復興期とほぼ時を同じくして発展したドイツ・前期ロマン派の作家たちのうちでは、何といっ

てもADW・シュレーゲルが、コウルリヅジの文芸批評の上での最大のライ.ハルであった。二人は時を同じくして

画期的なシェイクスピアの再評価を行なったのである。

ドイツ・ロマン派の作家たちにコウルリッジがやや関心をもつようになったのは、彼がドイツ留学から帰って、 数年経ってからであった。コウルリヅジも、この同時代の一部の作家たちに次第に関心をしつようになり、ティー

クとはやがて会う機会をもち、親しく語りあったが、他のロマン派作家にはそれほど多くの言及をしていない。クライスト、ノヴァーリスについて若干触れている程度である。

これらのコウルリッジが興味をもった文学者は、いずれもコウルリッジの文学生活上の一時期において、もっと も強く印象づけられたものであり、彼の生涯を通して決定的な作用をしつづけた者はいない。このことは、コゥル リヅジの関心が気まぐれで一過性のものであることを意味するものではない。これらの文学者をコゥルリッジが必 要としたのは、自己の文学思想の形成において必然的な要因を含んでいたからである。したがって、そのときどき でそれなりの影響を受け、それなりの感銘を受けて、彼はそれを自己の内部における新たな創造的衝動へと発展さ せていったのである。したがって、これらの作家とコウルリッジとの関係を単なる個向の一時的関係で眺めること は正しくなく、コウルリッジの文芸思想の発展との関係で継時的に考えなくてはならないと思う。すなわち、コゥ ルリッジとドイツ文学者たちとの関係を、文学史的な視野から、共時的観点の糸ならず、通時的に調べることが必

要であるように思われる。

コウルリッジがもっとも早く強い関心をもったドイツの作家はシラーであり、おそらくドイツへ渡ってから興味 をもつようになったのがクロップシュトック、レッシング、シユトールベルク等であろう。また、ゲーテには絶え ずある程度の関心はもっていたであろうが、それほど強いものではなかったようである。帰国後に、A・w・シニ

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コゥルリヅジはルターを精神史上の英雄であると考えていた。ルターはローマ教会との対立で、さまざまな危険な目にあっているが、いずれも逃げたりせず正面から立向っていった。ルターの掲げた福音主義は、ローマ教会と対立せざるを得ない必然性をもっていた。そして、ローマ・カトリックがその当時の絶大な権力機構の頂点にあったのであるから、当然の帰結として強大な権力体制と対決すべき運命にあった。一六世紀の初頭の教皇はニリウスニ世であったが、このニリウスニ世は大の美術愛好家であった。それゆえ、美術品や装飾品に強い関心を示し、生活も派手になり、多大の浪費を重ねた。そのために教会の財政は窮乏状態に陥り、何とか臨時に費用を捻出しなければならなかった。この財政危機を救うために、彼は聖ペテロ大聖堂の建立を思いつき、それを理由に免罪符を売り出したのであった。次の教皇レオ一○世もこの政策を引ついだ。彼はスペイン、フランス、イギリスなどの、すでにローマ教会から独立していた国々では免罪符の販売はま主ならなかったので、まだ中央集権の形態が整っていなかったドイツへ目を向けた。そして、マインッの大司教アルプレッヒトにその仕事を任せた。当時ドイツではまだ諸侯はローマ教皇の下にあったので、その弱糸につけこまれた形であった。アルプレッヒト自身もその大司教の地位につくときに借金をしていたので、自分ももうけることを考えた。そこで7ドミーーコ会の修道士テッッニルを免罪符販売の寛任者とし、各地でそれを売らせたのであった。アルプレッヒトが レーゲルやジャン・パウル・リヒターの作品を読んだようであり、他の作家も、これと平行して彼の視界に入ってきたようである。このように、彼が関心をもった作家たちは必ずしも文学史上の時代区分の順序ではないけれど、これを整理してドイツ文学史上の流れに沿って調べていくのが妥当であるように思われる。そこで本稿では、まずルターについて調べて象よう。

二-一精神史の英雄 二、コウルリッジとルター

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8発行した免罪符の趣意醤によると、繊悔せずとも免罪は有効であり、その結果、罪を犯しても免罪符させ買えば罪が免かれることになって、人交は罪に対する罰を免罪符によって逃れようと争って買うという現象がおき、長い行列をなしたといわれている。この免罪符は、一五一四年にドイツで売出された。ルターは一五一五年にアゥグスチヌス修道会の教区長代理となり、配下の一○個所の修道院の責任者となって、ヴィテンベルク大学で講義を行なっていたが、ローマ教会が売り出したこの賦宥のための券には、どうしても納得ができず、一五一七年一○月三一日の正午ごろに、免罪符に関する疑問事項をまとめ、ラテン語で誓いた「免罪符に関する九五カ条の提議」を、ヴィテンベルクの教会の扉に掲示したのであった。それからというものは、一方では教会の圧政に苦しむドイツ国民に、この抗議文が筆写され独訳されて普及し、多くの賛同者を得たが、他方ではローマ教会からルターは目の仇にされた。しかし、強大なローマ教会の椛力にルターは勇敢に対抗した。幾度も死に直面する危険を味わったけれど、フリードリッヒ侯やその他の入念の助力で、そうした危機を乗り切ったのであった。こうした勇敢な行為と、自ら正しいと信じることを貫く信念を、コウルリヅジは賞讃した。『備忘録』の三四五二には「キリスト教の歴史的真理のための議論の一つは、使徒時代全体を含めてそれを最初に築いた人との傘〈ラン(1) スのとれた道徳的性格から引き出される」として、そうした人物と比較して、マホメット、ルター、カルヴァンを(2) 挙げている。同じく『備忘録』の一一一五六○でもカルヴァンと並んでルターを称えている。同じく四一一一八一ハでは、「ル(3) ターはスピノザよりも偉大な人物である」と記している。こうしたルターヘの賞讃は、『書簡集』においても見られる。一八一五年五月一日付のプラペント宛の手紙で、

》溌祁迦澱識肌鍋駝議鮮》鵲騨燗序望院糀瀬繩Ⅷ鯉懸灘糊繍攪澱

リッジは精神史上の重要人物として、ミルトン、ドライデン、ヴォルテール、プルーノ、ライプニッッ、エラスムス、ルソー、--11トン、プラトン等を考えているが、それらの人物と並んで、多くの場合にルターの名が記され

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ここでコウルリッジは聖書の故事を引き合いに出している。創世記の第三一一章二四-一一一一一節に、ヤコプと取り組ん

だ者が彼に勝てないので彼の大腿部の関節に手を触れ、はずしてしまったのだが、後にそれは神だとわかったので

ある。そこでイスラエルの入念は、動物の腿関節の上の筋を食べないという。ニリシャは預言者エリヤの良き後継

者であったが、ルターにはそうした立派な後継者のいないことを、コウルリッジは残念に思ったのであった。彼は

9また、ルターのことをこう述べる。 (8) とコウルリッジは述べていて、『友』の中でjもこの翻訳のことをほのめかしてはいるのであるが、ついにこの翻訳は陽の目を見ることがなかった。しかし、ルターの作品を訳したいという衝動に駆られたことは、それだけルターに魅力を感じていたことを裏付けるものである。コウルリッジは、ルターの精神力のたくましさに敬意を表する。彼にないものを、ルターに見たからであろう。晩年近い一八一一五年一月一一一日付のサミュニル・メンス宛の手紙で、コウルリッジはルターについてこう述べている。 (6)

さらにコゥルリッジは、ルクーについて何か書くことを考えていたようである。雀《た、ルターの著作の翻訳を計

画した。 (5) てい》⑨。

ルターはまったく力強い闘士のようです。そして腿の関節による肢が、彼の闘争の男らしさを立証しています。

(9) しかし、ルターの場合には、彼の後を継いでくれるエリシャはいませんでした。…・・・ (7) ルターの著作の翻訳選集の六巻本と、書簡の翻訳の二巻本は、素晴しい作品となるでしょう。

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コウルリッジはさらにルターの信念は山も動かすものであると思い、その強い信念を称えている。このルターの強(u) 固な精神を、彼はまた「獅子のような心をもったルター」という一一戸葉で表現している。コルロキア・ノソナリアコウルリッジは、ルターの著作にすこぶる大きな関心を示していたが、とくに『食卓談話』は座右の鱈であったようだった。

これは一八一一六年二月八日にエドワード・コウルリッジに宛てた手紙の一部であるが、五一一一歳のこのころにも、ルターはコウルリヅジの心にしっかりとその場所を占めていたのであった。同年一二月のウィリアム・ウオーシップ宛の手紙でも、こう述べている。 ・・や…これらの擬似福音主義者たちと、福音教会の偉大な父であり創始者であり、あのたいへん偉大な心をもった(皿)神の子である英雄的なルターとの間には、何と大きな違いがあることであろうか。……ついでながら、老ルターの肖像画を拝受致したいへん嬉しく思っていることを言い忘れました。ルターの絵は暖炉の上に掛けられ、私の醤斎兼寝室を飾る唯一の絵となるでしょう。ルターの『食卓談話』は、聖鰯に次いで私のほかのあらゆる蔵書のうちでも、深くて含蓄のある.〈ウロ的な、私の重要な瞑想の書となっていて、思想(吃)と意志を活性化します。

ルターの『食卓談話』は、長い間私の大切な本となっています。そしていま、私は彼の註釈書を読んでいますが、(羽)この本はつまり、その当時日曜日ごとに行なわれた福音書と使徒嘗簡に関する短かい説教集です。

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ユ1

コウルリッジは、ルターの書簡や作品をたくさん読んでいたようであるが、とくにそのうちでも、『賛美歌』はもっとも素晴しいものであると考えていた。 確かにコウルリヅジはルターの『食卓談話』には格別の関心をもっていたようで、それについての言及があちこちザ。フレソドに散見する。『友』にも、「ルターの『食卓談話』は、真に哲学的な人にとっては、ルソーの『上ロ白』に劣らぬくら(明)い興味深いものとなろう」と述べている。彼が『友』の中でルターとルソーを比較して述べている個所があるが、(巧)当時こ、れに注目し賞賛した人もいた。この個所でコウルリヅジは、ルターとルソーは性格的に似ていると考えている。そして、神学者としてのルターと同様、人間としてのルターの生涯も、イギリス文学においてさえも、要求さ(応)れている1と述べている。

を行なっている。こうして、ド“こうして、ドイツにおける宗教改革を通して、彼はルターを精神史上の英雄と考えていて、その著作からルターの精神を吸収していたのであった。 このようにコウルリヅジは、ルターの著作に賞賛の目を向けながらも、それが果す社会的効果について、鋭い分析 ルターは聖書の翻訳と同じくらい、彼の作った賛美歌によって、宗教改革のために尽した。ドイツでは、その賛美歌があらゆる農民たちに暗唱されるほど知らされており、教会においてあらゆる入念がキリスト教徒として、(Ⅳ) 自己の精神にとって本来の、しかも適切な言葉で神を称陰えている。

ニーニ宗教改革とコウルリッジ

ルターの業績のうちで、現在もっとも大きく評価されているのは、彼が宗教改革の中心人物となったことである

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ト教会を根本から覆えすような大改革をなしつつあったのである。ルター自身は決して急進的な思想の持主とは言 らは、反ローマ教会派の先鋒あるいは指導者のように考えられていた。そして、彼自身気がついて承たら、キリス のいく方法が提示されたと見ることができ、ルターは本人の意志とは関わりたく、ローマ教会に疑問をもつ人々か いずれにしろ、ルターの積極的な努力によって、旧来のローマ教会の堕落が指摘され公げにされて、人々に納得 較べている。そして、ルターやその同志たちが説教したことは、将来の世界でも必要なことだと考陰えている。 (皿) 資本・交易原理・商業・農業・富およびそれを渡得し増やすことなどの、社会・経済現象に関与していることとを ルターのトランペットの最初の一吹きで広大な森林のすべての木交の葉が震えることと、科学が賃貸。税・収入・ くのである。彼は「ルターのトランペット」という表現がたいへん気に入ったようで、『教会と国家』の中でも、 から覚めたように動きはじめた」のである。そして、ルターの著作が「雷鳴と稲妻のように壮厳に」人なの心に響 (ね)(如) 「ルターのトランペットの殺初の一吹きで、ドイツ全土が八それにイングランドもスコットランドも、巨人が眠り 的背景のおかげで、ルターの偉業が成り立ったのである。こういう状態にあったので、コウルリッジが言うように、 ローラが、一五世紀の初頭にかけてはロイヒリソやエラスムス等が腐敗したローマ教会を批判した。こういう時代 かけてブスが活躍したが、まだ機は熟さず、彼はローマ教会側の力のために憤死した。一四世紀の後半にサヴォナ と見倣されるし、一四世紀のウィックリフの聖書の英訳もその一つと考えられる。一四世紀末から一五世紀初頭に る。修道院を中心に起こっていた神秘主義的な信仰を内面的に深く追求しようとする運動も、そうした改革の一環 けてきたものに火をつけたに過ぎない。ルターの前に、諸々の先人たちが涙ぐましい改革の努力をしていたのであ 宗教改革では、ルター独りの活躍によって完成したしのではない。ルターはすでに多くの人の心のうちに煉り続 ルターの先行者のブスの業績を、宗教改革者としてのルターの業績と比肩し得るものと考えているのである。 あり、三番目がこれからの者であろうか、と迷って書いている。つまり、イギリスにおけるウィックリフの訳業や (旧) り、三番目はこれからの者であろうか、それとも、ウィックリプとルターが最初で、一一番目が現在の屈辱の状態で う。コウルリヅジは『備忘録』の中で》最初の宗教改革者はおそらくウィックリフとブスで、ルターは二番目であ12

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い得ないようであるが、ローマ教会に対する彼の論理的な反抗が、長年煉り続けていた反教会意識を次第に盛り上げていったのであった。福音主義はドイツの農民たちに受け入れられ、だんだんとドイツ各地に浸透していった。またメランヒトンなどの友人や、プリードリッヒ選定侯などの助力も、彼には計り知れない恩恵となった。こうした多くの入念に支えられて、宗教改革という歴史的事件が進行していったのであった。ルターは、人々に教会の司祭たちを通してではなく、神の言葉としての聖書を通して福音が与えられるべきであると考えた。当時、聖書はもっぱらラテン語で書かれており、それを読むための特別な教育を受けた牧師だけが理解することができたに過ぎなかった。ルターは、神と人とは教会や牧師などの媒介者がなくとも、聖書を通して対話できるものと考えた。そのためには、聖書を民衆の言葉に翻訳する必要があった。コウルリッジも聖書を詳しく読糸、聖書の原義が間違って伝えられることを恐れていた。ルターは、信仰こそすぺてであると考えていた。そのほかのものは付帯的なものに過ぎないと思った。信仰こそ宗教の目的であり、機構や制度や組織はそれほど重要なしのではないはずであるが、ローマ教会にはこの点に疑問があった。当時の既成の体制による束縛と圧力から、真に信仰を求める権利を守ることが、ルターの仕事となった。この意味では決して進歩的とはいえず、ドイツ人が昔からもっていた心の自由を取り戻すという保守的なものであった。しかしながら、福音主義を唱える農民の一部には、領主や地主がローマ教会の借金を埋めるための、農民に対する重い年貢の取立てに反抗するものも現われた。やがてこれが一五二五年の艇民戦争へと発展したが、ルターはこれには力を貸さず、むしろ『農民の殺人・強盗団に抗議して』と題する論文で、諸侯の肩をもつに至った。ルターの宗教改革は、あくまでも宗教上の問題であり、彼は政治問題に深入りする気は全然なかった。彼は宗教改革者プッテンや憂国の騎士ジッキンゲンのように、ローマの支配からドイツを解放しようと考えてはいなかった。その点で近代的思想の持主とはいえないが、彼が播いた種が近代思想を目覚めさせたのである。こうした半ば進歩的で半ば保守的としとれるルターであるが、ローマ教会への反論では一歩も譲らなかった。そこで、他の要素を含めず、純粋に宗教の象を考えるならば、彼はやはりその改革の第一の功労者であろう。コウル

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(邸)(型) リッジは、そういうルターについて、「私の考えでは、宗教改革はルター以後や前進せずに後戻りした」と述べて

いる。つまり、キリスト教史の上で、ルターの考えたような、乱れているキリスト教を本来の姿に戻そうとする精神運動は、これに比較できるほどの規模でヨーロッ.〈では行なわれなかったし、jもはやそれだけの熱意が、いまや失われているのではないかとコウルリッジは考えているのである。コウルリッジは、ルターの強靱な精神を、確かに認めているし、称えてもいる。前にも触れたが「獅子のような心をもったルター」という表現は、『備忘録』の中にjもあって、「獅子のような心をもったルターは、あらゆる歴史家たちに獅子の心をもつように忠告している」という記録がある。しかしこのルターの精神の強靱さは、それが目的をもったが為に強靱になったことを、コウルリッジは知っていた。ルターはそれほど気の強い人ではない。彼の使命感がそうさせたのであった。彼はいつjも思い悩んでいた。一五一二年四月下旬、ルターの身の安全を願ったフリードリヅヒ侯は、彼をヴァルトプルク城に移して警護した。ここでは福音を説くこともなくのんきに静養できたはずであるが、ルターは不眠症になり神経衰弱になってしまった。今日でいうノイローゼである。そして孤独と空しさが彼を見舞い、悪魔の幻想に悩まされた。コウルリッジは、このときのルターの心理分析をする一方、後述す(割)るように、ルターが見たという幻想を科学的に立証しようと努め、それを『友』の中で説明してい》匂。しかしながら、鉄人のように思われているルターにも人間的な弱さがあり、コウルリッジ自身もこの点に共感をjもったのかjも知れない。彼自身も、絶えず人間的な弱味を晒していたからである。そこで彼は、ルターの伝記を自分で書こうと思(泌)いはじめたようである。甥のウィリアム・ハート・コウルリッジに宛てた手紙にそれらしきことが記されている。コウルリッジがルターの説に共鳴した点の一つは、ルターが聖。ハウロのよき理解者であったことで、「ルターこ(配)そ.〈ウロの唯一の正しい註釈者である」と述べている。ルターは歩《た、使徒書簡のうち、「ヘブラィ人への手紙」は.〈ウロの書いたものではないと一一一一口っていることにも同調して、

私は聖・ハウロが「へプライ人への手紙」の著者であるとは信じない。その著者はアレキサンドリアのユダヤ人ァ

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宗教改革の原動力となったものは、民衆の力である。この民衆を啓蒙し、力を与えたものは誰であり、何であろうか。言うまでもなく、それはルター以前に宗教改革を考えた先人たちであり、ルターの「九五カ条の提議」であった。しかしこの提議はドイツ語訳にされ、一般の人☆に知れたことに意味があった。ルターの生れる三八年ほど前にグーテンベルクによって活版印刷が考えられ、提議の出された一五一七年には、すでに相当な印刷技術の発達があり、民衆は短時間のうちに独訳の提議文を読むことができたのである。それから五年後、彼はヴァルトプルク城の静かな環境で精神錯乱と幻想に悩まされつつ、ここでの延べ一○カ月間に、新約聖書をギリシア語の原典からドイツ語に訳出し、翌年九月にはそれが印刷され、多堂に市中に出回った。こうしてドイツ人たちが、自分たちの言葉でキリストの言葉を理解できるようになったのである。もはや教会に行って、牧師から聖書を読んでもらわなくとも、自分たちで読めるようになったのである。いままでは教会へ行かなければ神やイエスの有難い言葉が聞けなかったけれど、いまや自宅にいても、それを聖露から読み取ることができるのであった。こうなると、それまでの教会中心主義が崩れてくる。人は信仰によっての糸神と結ばれ、神に救われるというルターの説が、そのまま実践される土壌ができてきた。したがって、このことと新約聖書のドイツ語訳が出版された二年後に農民戦争が起こったこととは無縁ではないように思われる。 テーブル・トー|クと自己の『食卓談話』で述べている。この『食卓談話』の別のページには、甥の筆でコウル耐ソッジの聖書の読象の深さが記されており、それによると、彼は神学の全体的問題に鋭い見解を.もつだけでなく、聖醤の言語批評に●も優(躯)れていたという。こうしたコウルリヅジであるから、ルターのなした仕事の意味がよく理解でき、正当に評価したのではないかと思われる。 (”) ポロスであるというルターの推測はpおそらく正しいであろう。二’三聖書の翻訳

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ルターの新約聖書の翻訳は、キリスト教において神とドイツ民衆を近づけただけでなく、これを読むことができ たすべてのドイツ人にその言語を通して共通の感情を養わせたのである。つまり、ローマ人たちのラテン語ではな く母国語のドイツ語の存在を認めさせたのである。このことにより、ドイツは言語におけるローマとの隷属関係を 取り除いたのである。コウルリッジはルターの聖書訳が果した役割について、「彼の翻訳した聖醤からドイツ語と

(餌)

いう言葉が始まった」と『文学評伝』の第一○章で述べている。そして、ルターの使った一局地ドイツ語は、ドイツ の共通語となり、そのため選り抜かれた香り高い言語で、ヨーロヅ.〈でもっとも語蕊の多い文法的にしっかりした

(鋤)ものであるとも記している。

言語は共通の確固たる基盤に立てば、容易に崩れることはない。旧約聖書に書かれたヘブライ語は、二○○○年

の眠りから覚めて、イスラエル建国と同時に使われた。コーランを愛読するアラブ人たちには、六○○年前の言葉はいまも新鮮に響く。一六世紀のドイツ人たちがルターの聖書という共通の基盤に立ったとき、そこに共通語あるいは標準語の、概念ではなくて実体が生じてくる。ドイツは二回、このような言語の清浄化と明確化の時を迎えた。それは大勢の人盈があるものを好んで読むという現象に起因する。その一つがルターの聖書であり、他の一つがゲーテ、シラーによる文学運動であった。イギリスでは一五世紀末から一六世紀初頭にかけてのシェイクスピア劇の上演と出版がそれにあたる。この意味で、ルターがドイツ国民に与えた言語上の効果は、実に大きなものがある。コウルリッジは、ルターの死後一世紀の間に、ドイツ語には街学的な言葉が氾濫したと述べ、その一例を記しているけれど、こうした言語の変化は、ルター以後その当時まですこぶるドイツ語を後退させたと観る。逆に言えば、(弧)ルターのドイツ霊順が最高ということになる。コウルリヅジが、母国語で読むことを力説したルターの脅簡の一部を、『文学評伝』第一○章の脚註に訳を添えて引用していることは、彼のこの言語に対する関心の強さを示していると共に、ルターがそれを実践したことに大

きな賞賛を贈っているものと思えるのである。そういう意味で一五一一二年九月二一日というルターの聖醤訳が出版

された日は、ドイツにとっては実に記念すべき日であろう。コウルリヅジは、ルターの果した聖書の翻訳の特質を

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このように二つの面から正確に把握していたのである。

ルターは新約聖書だけでなく、一五三四年になって、旧約聖書のドイツ語訳を完成し、出版した。ここにおいて、 聖闘は自国語ですべて読めることになり、ラテン語の力は弱まってきた。そして、ますますドイツ語の独立性が強 まったのであり、それは意識の上でドイツをローマから独立させることへと拍車をかけることになった。

一一’四コウルリヅジの思想と宗教改革

ルターの唱えた宗教改革の思想は、つまるところ、一、信仰がすべてである一一、聖醤だけが拠り所である三、 すべての人が神に仕え神と交流ができるという、万人に司祭性があるという一一一つの点である。これらの思想には、 コゥルリヅジが確立した思想体系に近いものがある。コウルリッジは自己意識の高揚こそ究極的なものであると考 え、絶対自我(閂鈩冒)なる概念を確立して存在と認識の根拠を示したが、この絶対自我は、言葉を換えれば自己 の内なる理想像としての神である。究極的な点では唯心論的一神論であるので、キリスト的一神論とは一脈相通ず る。コゥルリッジの絶対自我は、自己の高まりであるから、もちろん自己と交流可能である。ルターの説く神も個 人的精神と交流可能である。何となれば、すべての人が司祭になり得る可能性をもっているからである・コウルリ ッジは誰でもが絶対自我をもち得るとは言っていないので、いわばエリート論であるが、人が神と対話ができる点 では共通している。コウルリッジの思想はキリスト教を超越しているが、彼が育った土壌はキリスト教であったし、 心情的にはヨハネと.〈ウロに共感をもっていた。われわれ東洋人と違って、キリスト教的色彩をその思想から除い て考えるわけにはいかない環境にある。したがって、コウルリッジの絶対自我の思想は、キリスト教とは無関係で なく、むしろ、キリスト教のなかで育てられたものである。その意味で、ルター的な思想の果した役割は大きい。 聖醤を通してのそキリスト教の教義に接し得る。コウルリッジもルターも、この点では一致していた。コウル リッジは旧約のモーゼの五書にはとくに関心を示していた。原典に触れることで、ニホ鰺〈を彼なりに理解し、ニホ

(錘)パをヘプラィ人の閂鈩]富なる神と見散したのであった。

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l8

コウルリッジはまた、ルターに端を発した新しいキリスト教の一派が、ローマ教会に対立する意味を重要視し、 この両者の対立と均衡のうちに新しい宗教の姿を見出したのである。すなわち、ヨーロッ.〈を二分したカトリック とプロテスタントを、彼特有の極概念的思考で考えていたのである。イギリスでも一六世紀中葉のニドワード六世 の治世に、新教化の方向を辿ったが、メアリー女王の即位と共にカトリックに復帰することになった。しかし、一 国の宗教が指導者の思うままに変わるはずはない。対仏戦争に敗れた失意のメアリーに代わったエリザペス一世が 王位につくと、大陸に逃げた新教派も帰国し、イギリスには両派の対立が続いた。そこで、両者の対立を解消する ために、折衷案的なイギリス独自の国教会が開かれ、女王が宗教上・教会上の最高の統治者となった。もはや、ロ ーマとは無関係となり、宗教的に独立したのであったが、これも、元をただせば、ルターの新教運動があったから であろう・コウルリヅジ流に一盲えば、カトリックとプロテスタントの対立と融合から、イギリス国教が生れたこと

になる。まさに極の理論の宗教上の実践例であろう。

一一’五ルターとコウルリッジの時代

室ルロキア0Aソナリア

コウルリッジは、ルターの著作のうちでも『食卓談話』を殊の外愛好した。のちにコウルリッジも、ジョン・一プ

テープル・トークイーフー・コウルリッジ等によって記録された『食卓談話』が出版されることになる。

コウルリッジがルターの『食卓談話』を取り上げて註釈をしているのは、彼の死後ヘンリー。ネルソン。コゥル リッジによって編集されて出版された『文学遺稿』の中である。彼は六五ページを割いて、これに言及しているの である。ルターの『食卓談話』は主として宗教上の問題について述べられたものであるが、コゥルリッジはこのう

ち、とくに気がついた個所を選んで自己の意見を記している。

ルターの『食卓談話』についてのコウルリッジの言及は、その著作のあちこちに散見する。その一つ、ニドワー ド・コウルリッジ宛ての手紙の中でも、「ルターの『食卓談話』に戻ってふよう。そして、その大部分が、現在と

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いう別の世界のものとなり得ないかどうかを調べてみよう」と記されている。これはルターの述べたことが、いつ

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コゥルリッジはルターがヴァルトブルク城に保護されている間に生じた精神的混乱状態は、神経系統が不安定な19 られなかったと思われる。 たと考えられる。したがって、ルターが見た幻想は、当人にとっても周囲の人点にとっても、すべて幻想とは考え 実在性もあまり疑われなかった。したがってルターの時代のドイツでも、そうした超感覚的な実在が信じられてい 紀初頭ですら、彼の妖精ものや魔女しのは、まだ若干の真実味をもたれていた。迷信が盛んであり、超自然現象の ギリスではまだシェイクスピアは現われていなかった。シェイクスピア劇が盛んに上演されるようになった一七世 れ、悪魔と戦ったルターに、コウルリッジは非常に関心を示している。ルターの活躍した一六世紀前半ごろは、イ 〃ルターを神秘主義者扱いにするのは、ある意味において正しくたいかも知れない。しかしながら、幻想に悩まさ い。コウルリヅジは三世紀ほど前のルターに学ぶところが多いと考えている。 特筆すべき大きな発展を示した。それにも拘らず精神の純粋さと高揚の面では、それほど大きな発展を示していな コゥルリッジの時代とルターの時代では、そこにおよそ三○○年近い差がある。その間ヨーロッ・〈文明は歴史上 は考えていたのであろう。 の時代には精神的高揚があり、宗教による信仰第一主義に支えられた心の清らかさが満ちていた、とコウルリッジ 浮かんでいるけれど、それはルターの時代にはきれいに純化されていたjものだ」と書かれている。つまり、ルター (路) イギリスは、騒然としていた。そのころの『備忘録』の記録には、「イギリスでは、多量の汚物や愚行が国の上に ろいろな社会問題を生じ、国外では対仏戦争がやがてナポレオン軍のフランスとの戦争となり、一八一○年ごろの コゥルリッジの時代のイギリスは、内憂外患の激動期にあった。国内では産業革命のひずゑが現われていて、い の世界は秩序あるものとはならないと思っているのである。

の世でも妥当する真理を含んでいることを甥のニドワードに示しているのであって、そうした真理がなくては将来

(鋒)

二-六神秘主義者としてのルター

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となって現われてくるのである。そしてこのような瞬間が、つまりは魔術的な幻視を見る時間であると、コゥルリ きに、とくに、夢を見ている状態にあるときには、そうした事物が急激な変容を生じて、如何にも不可思議な形象 な場合に、半ば目覚めている状態で目に入った事物が、眠ったときにも引き続き映じていて、しかも眠っていると なものが目に入り、感じられたという。すなわち、半分は無意識で半分目覚めている状態が急速に入れかわるよう ある・コウルリッジによると、半ば眠っていて半ば眠りから覚めかけているような状態において、そうした幻想的 うな現象に非常に関心をもっていた。彼は決して迷信家ではなく、それを真面目な研究課題として考えていたので するものだと考陰えている。コウルリッジ自身は、幻想や亡霊や魔法のようなものを、絶えず経験しており、そのよ

(錨) 20

状態によるといわれているが、消化器系統の病的な不活発さから生じる精神不安が思考家といわれる人たちに共通

コウルリッジの説明によると、ヴァルトプルク城のルターは、いわゆる眠りと目覚めの中間の状態において幻想 を見たと思われるけれど、そのほか、ルターの部屋の状態が、そうした半意識的な心理状態においてもっとも効果 的な幻想効果を作り出していたように思われる。コウルリッジは、ケジヅクに住んでいたころ、これと似た体験を したことがあった。そのころの彼の部屋には、暖炉の反対側に窓があり、夕方になると、暖炉の赤点した焔が窓ガ ラスに映っていたものだった。昼間は、窓から丘の傾斜地にある大きな庭園が見え、その向うには川や橋や湖や渓 谷が見え、その遠くには山々が見えていた。太陽の光の強い昼の間は、窓の向うの景色がガラス越しによく見えて いたし、陽が落ちて真暗になるころには、窓の外からの光は全然入ってこずに、ただ月や星の光だけが見えていた。 外の景色とは逆に、暖炉からの焔はますますはっきりと窓ガラスに映り、真夜中には外の暗闇が窓ガラスを鏡のょ

と推察する。

ヴァルトプルク城のルターは、毎晩、悪魔や亡霊に悩まされていた。ルターが部屋の中にただ一人で机に向かっ ていると、悪魔の姿が忽然と現われて彼に襲いかかろうとする。ルターは思わずインク壷をその悪魔めがけて投げ つけたこともあった。コウルリッジは、ルターの書簡を読んで、彼が自分と同様の半睡状態にあったのではないか

(釘)ヅジは説明する。

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うにさせて》あたかも窓の外に覆いをかけたように部屋の中の光だけを反射していた。ところが》昼の残光がある夕方には、窓ガラスに映る像は、外からのものと暖炉の焔とが同じ程度の明るさとなり、両者が重なり合って映っていた。そこでコウルリッジは、ルターが亡霊や悪魔を見たという現象を、こうした状態のもとで、自分の影が窓ガラスに映ったものを錯覚したか、外を通る人の姿を自らの恐怖感からそうしたものと見誤ったかしたしのと考える仁至(躯)った。ルターはこうした現象をはじめから超自然現象と思い込んでいたのであるが、コウルリッジは自分の経験から、そうした現象を科学的に解釈しようとしていたのであった。コウルリッジは、ルターのこのような幻想体験を説明することにより、世に言われている悪魔や亡霊などの現象を自分なりの理論で解明しようと考えていた。彼は『友』の八号で、夢や幻想や亡霊や魔法などの現象を、自分が体験したもっとも興味深く、しかも実証された例もあげることによって論証しようと考え、『友』の将来の号に戦(鍋)せようと思っていた。『友』が一八一八年に三巻本にまとめられたとき、その第二巻に論文の一つとしてルター論を戦せ、その直後に亡霊と幽霊についての四ページほどの論文を戦せている。そしてここでも、前述のルターの幻想の説明を行なっている。ルターの見たしのは幻であったとコウルリヅジはいうが、その根拠には、ルターの当時の心理状態を考えていたこともあると思われる。ヴァルトプルク城のルクーは孤独感がつのって、いらいらした精神状態であったと思われる。ハートリ心理学やプルーメzハッハの生理学を学んだコウルリッジは、ルターよりはるかに現代的な思考のできる人であった。したがって、当時の知識を綜合的に集中してこの幻想問題を扱うとき、そこには三○○年ほど前の迷信的な現象に、近代的思考の光が当てられたのである。この意味で、コウルリッジは近代思想家と呼ぶにふさわしく、ルターは近世に新しい道を開いたけれど、依然として中世の域を脱し得なかったと思われる。とくに思想の面でも封建思想を脱してはおらず、諸侯に同調して農民を見捨てたことも、その一面を晒しているように思われる。ルターが情熱を注いだのはもっぱら宗教的で内面的な心の権利であり、コウルリッジのようにピットの政治を

(23)

麹攻撃し、工場法の議会通過のために?パンフレットの作成を手伝ったりするような外的要因への対応ではなかった のである。こうした意味から、中世人に留まったルターと近代人の名に値するコウルリッジは対照的である。

二l七むすび、コウルリッジがルターにいつごろから関心を持ちはじめたか詳らかではないが、少なくとも『文学評伝』を醤い

ていた一八一五年ごろからは、ルターの名が頻繁に出てくるようになる。ルターの著作を読んでいくうち、ルター

という人物自体に、コウルリッジは少なからぬ関心をもつようになった。こうして、コゥルリッジは、ルターの業綴と人物という一一つの面でルターに惹かれるようになったのである。

まず、ルターはドイツ宗教上の英雄に留まらず、ヨーロッ.〈全土の精神史上の英雄であり、ヨーロヅ.〈人全体が

ルターのなした仕事に大きな影響を受けていることを、コウルリヅジは感じとった。そうして、ルターの著作から

『食卓談話』や『賛美歌』を大きく評価した。このことは、彼が後に盛んに食卓談話を行なうようになったことに

関係があるように思われる。ルターの宗教改革を、コウルリッジは正しく認識し、その教義の重要な三つの命題を、自らの思想体系の確立に

大いに参考にしたように思われる。とりわけ、中間に何も介在せずして神と人とが対話するという思想は、もっと

も重要であるように思われる。コウルリヅジは、ルターの聖醤の訳業を、宗教改革以上に高く評価する。宗教改革はルターを頂点とするものの、

それ以前に多くの先人の努力があったし、莫大なエネルギーとなった民衆の存在を無視するわけにはいかない。そ の意味で、ルターの功績だけをそのすべてであるようには評価できない。ところがドイツ語訳聖醤は、当時のドイ

ツ語圏に標準的なドイツ語が何であるかを示したことにより、ドイツ語をヨーロヅ。〈でもっとも整った言語にしたとコウルリッジは考える。このことは今日でも正当な評価であるように思われる。

コウルリッジがルターに共鳴したことの一つは、「へプライ人への手紙」が.ハウロのものではないということで

(24)

23 像を知るに及んで、コウルリッジは一歩も一一歩も前進したといえよう。 とえそれらのことが空約束であるにしろ、やはり相当な魅力を感じたからに相違ない。したがって、ルターの全体 ど、ルターに関心をもって、その著作や書簡を翻訳しようと思い立ち、伝記まで書こうと考えるに至ったのは、た 精神史上の真理を再評価したのである。コウルリヅジに与えたルターの影響は、宗教観でもっとも顕著であるけれ ルリッジは近代的な眼をもってそれを吟味し、吸収すべきものは取り入れて自己の糧とし、古くても新鮮な思想や、 空間を異にするけれど、ルターの思想はその著作を通してコウルリッジに新鮮さを失わずに語りかけるので、コウ このように、コゥルリッジとルターは、およそ三世紀の歳月とドイツとイギリスというへだたりがあって、時・ あった。ルターの幻想の話は、コウルリヅジに超自然現象の心理的・生理的解明の契機を与えた。

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