学者の観察 : 日本人旅行者の見たイタリア(5)
著者 真銅 正宏
雑誌名 人文學
号 186
ページ 101‑124
発行年 2010‑11‑15
権利 同志社大学人文学会
URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000012294
学 者 の 観 察
│
│ 日本 人 旅 行者 の 見 たイ タ リ ア︵ 5
︶
││
真 銅 正 宏
黒 板 勝 美 日
本古 代史 およ び日 本古 文書 学が 専門 の歴 史学 者黒 板勝 美は
︑一 九〇 八年 から 二年 間︑ 学術 研究 のた めに アメ リカ 合衆 国お よび ヨー ロッ パ諸 国周 遊の 旅に 出か けた
︒彼 のヨ ーロ ッパ 見聞 記で ある
︑﹃ 西 遊二 年欧 米文 明記
﹄︵ 文会 堂書 店︑ 一九 一一 年︶ の﹁ 小序
﹂に は︑ 例の 如く
︑謙 遜の 言葉 とと もに
︑以 下の よう にそ の性 格と 成果 が語 られ てい る︒ 永く
て半 歳︑ 短き は一 二旬 の滞 在に
︑観 風察 俗︑ 欧米 十数 国民 の性 情と 文化 とを 論ず る︑ その 正鵠 を失 へる もの 多い であ らう
︑ま た美 術文 芸に 関す る知 識の 浅薄 にし て︑ その 評隲 の誤 れる もの 少小 でな いで あら う︑ しか し余 はこ の小 冊子 に於 て︑ 実際 印象 せる こと を有 りの まゝ に告 白し たの であ る︑ その 境に 臨ん で感 想せ るこ とを 飾り なく 叙述 した ので ある
︒
― 101 ― 学
者 の 観 察
余は 国民 的自 負心 に於 て敢 て人 に譲 らぬ と思 ふが
︑未 だ﹃ 誤れ る愛 国者
﹄た るこ とを 欲せ ぬ︑ 欧米 諸国 に遊 んで も まづ 痛切 に感 じた のは 猶ほ 多く 彼に 学ぶ べき もの があ るこ とで あつ た︑ こ
のと おり
︑基 本的 には
︑欧 米の 特長 を学 ぼう とす るス タン スで 貫か れて いる
︒ さ て︑
﹃ 西遊 二年 欧米 文明 記﹄ にお いて
︑イ タリ アは 次の よう な目 次で 紹介 され てい る︒ 五七
羅 馬府 の概 観 五八
ヴ ァチ カー ノ殿 の豪 華 五九
法 王宮 の博 物館 図書 館 六〇
羅 馬の 古寺 旧邸 と絵 画館 博物 館 六一
古 羅馬 の遺 蹟 六二
ナ ポー リの 風光 と博 物館 六三
ポ ムペ イの 廃墟 六四
南 欧の 竜宮 城 六五
ル ネッ サン スの 蕾と 花 六六
有 望な るミ ラー ノと ヂェ ノア
学 者 の 観 察
― 102 ―
確 かに ロー マ︑ ナポ リ︑ ポン ペイ
︑ヴ ェネ ツィ ア︑ フィ レン ツェ
︑ミ ラノ
︑ジ ェノ バと
︑均 等に 章が 割か れて いる が︑ 一見 して 博物 館や 図書 館な どに 記述 は集 中し
︑そ の興 味を もつ 場所 の選 択は
︑い かに も歴 史学 者ら しい 偏り をも つ︒ 例え ば﹁ 六六
有 望な るミ ラー ノと ヂェ ノア
﹂で イタ リア 滞在 記を 閉じ るに 当た り︑ その 末尾 に次 のよ うに 書い てい る︒ 嗚呼
望多 き未 来を 有す るミ ラー ノ及 びヂ ェノ ア よ︑ 光 栄 ある 過 去 を葬 ら し むる な
︑光 栄 あ る過 去 を 有せ る 羅 馬︑ ナポ ーリ
︑ヴ ェネ チヤ
︑さ ては フィ レン ツェ の諸 市よ
︑汝 の将 来を して 望多 から しめ よ︒ こ
の文 章が 典型 的に 暗示 する とお り︑ イタ リア は︑ ヨー ロッ パの 中で も︑ 歴史 学や 考古 学の 研究 目的 のた めに 訪問 され るこ とも 多く
︑そ うで ない 場合 にお いて も︑ 遺跡 や史 蹟の 側面 を強 調さ れる こと が多 い都 市を 多く 持つ
︒日 本で いう なら ば︑ 東京 や大 阪を 訪れ る旅 行と
︑京 都や 奈良 を訪 れる 旅行 とが
︑そ の目 的意 識と 印象 とを 異に する こと と同 じよ うに
︑ロ ンド ンや パリ と比 して
︑ロ ーマ やナ ポリ など には
︑古 都と して の視 線が 多く 向け られ る︒ もち ろん
︑ロ ンド ンや パリ に遺 跡が ない とい うの では ない
︒ロ ーマ やナ ポリ はそ れ以 上に ヨー ロッ パの 古都 とし て認 識さ れ︑ それ がイ タリ ア・ イメ ージ の全 体像 を強 く誘 導す るの であ る︒ こ の 選 択 には
︑も う 一 つの 案 内 人が 関 わ っ てい る か もし れ な い︒ 先述 の
﹁小 序
﹂に は
︑以 下 の よ う な 言 葉 が 見 え る︒
― 103 ― 学
者 の 観 察
終に 臨ん で余 はこ ゝに 前後 二年 の漫 遊中 唯一 の案 内者 たり しベ ーデ カア と︑ 到る とこ ろ好 遇を 辱う せる 内外 の先 輩友 人諸 氏に 満腔 の謝 意を 表す
︒ こ
のと おり
︑ベ デカ ーを 用い
︑行 く先 々に 知人 がい れば
︑こ れを 頼る 旅行 は︑ この 明治 期よ りず っと
︑続 いて いく ので ある
︒
大
類
伸 イ
タリ アは いう まで もな く︑ 美術 の都 であ る︒ 古代 ロー マの 遺跡 やカ ソリ ック の総 本山 であ るバ チカ ンに 代表 され る宗 教芸 術は もち ろん
︑ル ネッ サン ス美 術か らバ ロッ ク美 術︑ さら には 現代 芸術 まで
︑そ の範 囲は 極め て広 い︒ 当然 なが ら︑ この 地を 訪れ た日 本人 の記 録に は︑ この 美術 につ いて の鑑 賞記 録も 多い
︒歴 史学 者で 西洋 史研 究者 であ る大 類伸 の﹃ 伊太 利み やげ 美術 をた づ ね て﹄
︵ 博文 館
︑一 九 二七 年
︶は
︑書 名 から も 分 か ると お り︑ ま るま る 一 冊︑ イタ リア の美 術に つい ての 見物 記で ある
︒し かも
︑目 次の 副題 に﹁ 文芸 復興 期の 絵画
﹂と ある とお り︑ ルネ ッサ ンス 期の 美術 が中 心と なっ てい る︒ 目次 は以 下の とお りで ある
︵イ タリ ア以 外に 触れ る附 録は 省い た︶
︒ 伊太
利美 術巡 礼 文芸 復興 期の 絵画 フ ロレ ンス
︵フ イレ ンツ ェ︶
学 者 の 観 察
― 104 ―
ウフ ィチ 画廊
︵
Uffizi
︶ ピッ ティ 画
廊︵
pitti
︶ カ ル ミ ネ の聖 母 寺︵
S. M. del C armine
︶ サ ン・ マル コ
︵
S.
Marco
︶ リ ッ カ ルデ ィ 宮 殿︵
Palazzo Riccardi
︶ ノヴ ェ ル ラ の聖 母 寺︵
S. M. Novella
︶ ア ヌ ンチ ャ ー タ寺
︵
S. S. Annunziata
︶ ピ ザ︵
Pisa
︶ シ エナ
︵
Siena
︶ ウ ルビ ーノ
︵
Urbino
︶ オ ルヴ ィエ ト︵
Orvieto
︶ ペ ルー ジャ
︵
Perugia
︶ 羅 馬︵
Roma
︶
マ
マ
ミ ラノ
︵ミ ラン
︶︵
Milan, Milano
︶ マ ント ヴァ
︵マ ンツ ァ︶
︵
Mantova, M antua
︶ パ ドヴ ァ︵ パヅ ァ︶
︵
Padova, P adua
︶ ヴ ェニ ス︵ ヴェ ネチ ヤ︶
︵
Venice, Venezia
︶ 伊太 利の 旅 一 ア ッシ ジ 二 シ エナ 三 ペ ルー ジャ とオ ルヴ ィエ ト
― 105 ― 学
者 の 観 察
四 フ ロレ ンス
︵フ ィレ ンツ ェ︶ 五 北 伊太 利の 町々 六 ヴ ェニ ス︵ ヴェ ネチ ヤ︶ 七 ナ ポリ とポ ンペ イ 八 ペ スト
︵ペ スツ ム︶ とア マル フィ 九 シ チリ ヤ︵ シヽ リー
︶ こ
の目 次か らも 窺え ると おり
︑美 術を 尋ね ての 旅で ある から か︑ 訪れ た都 市が かな り広 範に わた る︒ どこ に行 って もこ れだ けの 美術 品が 存し てい るこ とは
︑日 本人 にと って は︑ 歴史 の重 みと とも に︑ スケ ール の幅 広さ
︑そ して 壮大 さを こと さら に感 じさ せた であ ろう
︒ 五
〇枚 にも 及ぶ 口絵 の後 に︑
﹁ 伊太 利美 術巡 礼﹂ の扉 に前 書き のよ うに 書き つけ られ るの は︑
﹁私 はこ ゝで 系統 立つ た美 術史 を説 くの でな い故
︑記 述の 順序 も便 宜上 土地 と場 所と に従 つて 筆を 進め るこ とゝ する
︒美 術巡 礼に は恐 らく 其の 方が 便利 であ らう と思 ふ︒
﹂ と書 かれ てあ り︑ この 書が ガ イ ドブ ッ ク とし て 用 いら れ る こ とを 念 頭 に入 れ た 記述 とな って いる
︒ こ の﹁ 伊太 利美 術巡 礼﹂ の部 は︑ 都市 ごと の美 術館 お よ び そこ に 収 めら れ て いる 主 要 画 家案 内 と なっ て い る︒
﹁フ ロレ ンス
﹂冒 頭に は︑
﹁ 数多 い伊 太利 の町 々︑ いづ れ も 皆 それ
"
!
芸 術の 都 と して 謡 は れ ない も の は無 い が︑ 其 の内 でも 特に 勝れ て芸 術の 都の 名を 誇り 得べ きも の︑先 づ 第 一に フ ロ レン ス を 推さ な け れ ばな る ま い︒
﹂と 書 か れ︑ その
学 者 の 観 察
― 106 ―
﹁ フロ レ ン ス﹂ で も︑ 先ず
﹁ウ フ ィ チ画 廊
﹂が 紹 介 さ れ
︑ま た さ ら に
︑そ の
﹁ウ フ ィ チ 画 廊
﹂の 中 で も︑
﹁チ マ ブ ー エ﹂ と﹁ ヂヨ ット ー﹂ が﹁ フロ レン ス派 絵画 の開 祖﹂ とし て紹 介さ れる
︒ こ の後 も︑ 例え ば︑
﹁ フロ レン ス﹂ の﹁ サン
・マ ルコ
﹂の 項で は︑
﹁フ ラ・ アン ジェ リコ
﹂︑
﹁ ウル ビー ノ﹂ では
﹁ピ エロ
・デ ラ・ フラ ンチ ェス カ﹂
︑﹁ 羅 馬﹂ では
﹁ミ ケラ ンジ ェロ
﹂と
﹁ラ ファ エル
﹂と
﹁チ ヽア ン﹂ およ び﹁ アン トネ ルロ
・ダ
・メ ッシ ーナ
﹂︑
﹁ ミラ ノ﹂ では
﹁レ オナ ルド
・ダ
・ヴ ィン チ﹂
﹁ ルイ ニ﹂
﹁ジ ョバ ンニ
・ベ リー ニ﹂ が︑ それ ぞれ の代 表と して 紹介 され るの であ る︒ これ は︑ この 地を 正し く﹁ 美術 巡礼
﹂に 訪れ る人 々に とっ ては
︑実 に便 利な 紹介 法で あっ たも のと 思わ れる
︒特 に日 本か らは るば る訪 れる 短期 の旅 行者 にと って は︑ 限ら れた 時間 内に 見る べき もの が︑ 要領 よく 示さ れて いる ので ある から
︑実 に効 率的 なガ イド ブッ クで あっ たと いえ よう
︒ ま た︑ 最後 には
︑ル ネッ サン ス美 術の
﹁一 般 的 な 参考 書
﹂か ら︑
﹁ やゝ 進 ん だ批 評 的 な もの
﹂な ど の 参考 図 書 の名 が掲 げら れて いる
︒こ こに は学 者と して の一 面が 表れ てい ると いえ よう
︒ こ れに 対し
︑後 半の
﹁伊 太利 の旅
﹂の 記述 は︑ もう 少し 自由 であ る︒ この 部の 前書 きに は︑ 次の よう な記 述が 見え る︒
又 私 は 伊 太利 滞 在 の期 間 の 大部 分 を 羅 馬で 過 ご した
︑而 し て 羅馬 滞 在 中 の感 想 は 主と し て 拙 著
﹃永 久 の 都 羅 馬﹄ の内 に収 めら れた 故︑ 本篇 には 羅馬 に関 する 記事 は全 部略 され て居 るの であ る︒ こ
のと おり
︑こ の書 が︑ 彼の
﹃永 久の 都羅 馬﹄
︵ 雄山 閣︑ 一九 二六 年︶ の姉 妹編 であ るこ とが 明記 され てい る︒
― 107 ― 学
者 の 観 察
﹃永 久の 都羅 馬﹄ の目 次は
︑以 下の とお りで ある
︒ 一︑
永久 の都 フ ォロ
・ロ マー ノに て 古 羅馬 の昔 パ ラチ ノ丘 街 頭に 立ち て 歴 史の 姿 大 なる 中心 統 一の 教 建 設の 努力 羅 馬は 亡び ず 二︑ 犠牲 と殉 教 南 独逸 の旅 十 字架 の捷 利 流 血の 奉仕 殉 教の 聖地
学 者 の 観 察
― 108 ―
倫 敦と 巴里 と羅 馬 反 動宗 教改 革 分 裂の 禍 三︑ 偉大 なる 雑駁 基 督教 と羅 馬 帝 王の 都 雑 駁な 羅馬 四︑ アッ シジ の聖 者 静 かな 中世 の町 聖 僧フ ラン チェ スコ 卑 小の 理想 純 真の 生命 永 世の 人 大 羅馬 の救 済 五︑ ルネ サン スの 光華 法 王宮 の二 大作 ル ネサ ンス の法 王
― 109 ― 学
者 の 観 察
羅 馬へ の集 中 シ スチ ナの 天井 画 シ ニョ レリ とミ ケラ ンジ ェロ 羅 馬に 於け る完 成 ラ ファ エロ とア ンジ ェリ コ ラ ファ エロ 室 大 なる 対照 六︑ 羅馬 雑記 ヴ ィヤ
・ヴ ェネ ト バ ルベ リー ニの 広場 バ ロッ クの 思ひ 出 さ まざ まの 噴泉 カ ップ チニ の骸 骨堂 大 道の 人形 芝居 ス パニ ヤ広 場の あた り 騒 しい 大通 り小 通り 噴 泉の 羅馬
学 者 の 観 察
― 110 ―
コ ルソ の賑 ひ ま
た︑ その
﹁序
﹂に は︑ 次の よう に書 かれ てい る︒ 先
年私 は文 部省 の在 外研 究生 とし て二 ヶ年 間欧 羅巴 に派 遣さ れた が︑ 私は 其の 在外 期間 の半 分約 一ヶ 年は 伊太 利に 滞在 した
︑殊 に羅 馬に 留る こと 凡そ 十ヶ 月で あつ た︒
﹁一
永 久 の 都﹂ の冒 頭 に は︑
﹁私 が 始 めて 羅 馬 に入 つ た の は一 九 二 二年 の 十 月 一 日 で あ つ た︒
﹂と 書 か れ て い る︒ した がっ て︑ これ から 約一 年弱 が︑ 彼の ロー マ滞 在期 間と いう こと にな る︒ この 滞在 にお ける 彼の 歴史 学者 とし ての 立ち 位置 につ いて は︑ 先の
﹁伊 太利 の旅
﹂に は以 下の よう に明 記さ れて いた
︒ 伊太
利を 愛し 伊太 利に 憧れ る心 は︑ たゞ に南 欧澄 明の 空や 葡萄 や橄 欖の 野が 慕は しい 為め のみ では 無い
︒伊 太利 の歴 史と 美術 と而 して 自然 とに 潜む 優れ た高 い生 命は
︑我 等の 心を 伊太 利の 国と 人と に向 はし める
︑さ うし てや がて 我等 の祖 国へ と転 向さ せる ので ある
︒ こ
の言 葉に は︑ ある いは
︑第 一次 世界 大戦 に敗 れた 後の イタ リア の現 状に 配慮 した
︑や や時 代的 な特 殊性 を感 じ取 るこ とが でき るか もし れな い︒ ただ し︑ 最後 の一 文に 見ら れる
﹁や がて 我等 の祖 国と 転向 させ る﹂ とい う言 葉の 意味
― 111 ― 学
者 の 観 察
は︑ やや わか りに くい
︒こ れに 関し て︑
﹃ 永久 の都 羅馬
﹄に は︑ 次の よう な文 章も 見え る︒ 伊
太利 には 伊太 利の 歴史 があ り︑ 仏蘭 西に は仏 蘭西 の歴 史が ある
︒横 断と 云ふ 語は 今日 の労 働運 動に 屢用 ゐら れる 語で ある が歴 史に は適 用し 難い もの であ る︒ 歴史 に在 つて は横 に比 較す るこ とは 出来 よう
︑併 し横 に切 断し て総 てを 一列 に置 くこ とは 出来 ない
︑此 の意 味に 於て 歴史 は﹁ 処﹂ より も多 く﹁ 時﹂ に係 るも ので ある
︒流 れこ そは 実に 歴史 の姿 であ る︑ 歴史 を象 徴し たも ので ある
︒︵ 略
︶ か くし て我 等の 立場 は自 から 国民 的と なり 民族 的と なる
︒羅 馬が 常に 蘇る 如く
︑我 等の 生命 が培 はれ た此 の土 に流 れた 歴史 の生 命は
︑又 常に 蘇る べき もの であ る︒ 然ら ずん ば日 本に は歴 史は 存在 しな いこ とゝ なる
︒単 なる 存在
︑単 なる 連続 は歴 史で あり 得な い︑ 同一 生命 の連 続の 上に 現は れた 幾多 の変 遷の 姿︑ そこ に始 めて 歴史 は存 在す る︒ 民族 は時 に国 家と して 存在 し得 ない こと はあ つて も︑ 歴史 とし ては 常に 存続 する
︒か くし て伊 太利 が常 に伊 太利 であ るの であ る︒ 要
す る に︑ ど うや ら こ れら は
︑イ タ リア の 旅 行 記に は や や相 応 し くな い ほ ど の︑ 歴史 観 に つい て の 言 説 な の で あ る︒
﹁伊 太利 の旅
﹂に おい て︑ シチ リヤ 島の
﹁シ ラク ーザ
﹂を 訪れ た際 の文 章に は︑ 次の よう な言 葉が 見え る︒ 市
の中 央の 広場 には 尚有 名な 考古 博物 館が あり
︑古 代希 臘以 来の 発掘 品が 無数 に陳 列さ れて 居る
︒し かも それ
学 者 の 観 察
― 112 ―
等は 微細 な品 に至 るま で一 々時 代順 に系 統立 てゝ 並べ られ
︑極 めて 学術 的な 陳列 法に 従つ たも ので ある
︑こ れは 同館 長で ある 有名 な考 古学 者オ ルシ 氏の 努力 の結 果で
︑伊 太利 の数 多い 博物 館中 でも 最も 学術 的な 博物 館と して 推称 され て居 る︒ ナポ リの 国民 博物 館が 人目 を驚 かす 様な 堂々 たる 名作 が多 いの に対 して
︑シ ラク ーザ の博 物館 は研 究的 な点 に於 て誇 るこ とが 出来 る︒ こ
れな どは
︑一 見︑ 極め て具 体的 な 場 合 の学 者 的 反応 と し ての
︑﹁ 関 心﹂ と﹁ 感 心﹂ の 現れ と 見 える
︒こ れ に 対し て︑
﹃ 永久 の都 羅馬
﹄の
﹁歴 史の 姿﹂ の章 の次 のよ う な 言葉 は
︑あ る いは ロ ー マを め ぐ る 歴史 観 と でも 呼 ぶ べき
︑長 い時 代を 対象 とす る歴 史把 握の 試み であ る︒ フ
ェニ ック スの 如く 常に 蘇り つゝ ある 羅馬
︑そ れこ そ実 に歴 史の 姿で はあ るま いか
︒羅 馬は 必し も古 代の 羅馬 帝国 のみ に限 らな い︑ 其の 政治 組織 は全 然崩 壊し ても
︑古 代の 水道 は今 日で も依 然と して 流れ てゐ る︑ 羅馬 の市 民は 今尚 其の 水に 依て 生活 して 居る
︒︵ 略
︶享 楽と 実 用 との 差 こ そあ れ 水 道の 水 は 一 つで あ る︒ 享 楽と な り 実用 と姿 を変 へた 処に
﹃歴 史﹄ は存 在し よう
︑併 し羅 馬の 悠久 の生 命は 其の 一脈 の水 に流 れて 居よ う︒ 彼
の歴 史学 者と して の視 線は
︑こ のよ うに
︑ロ ーマ を長 い時 間の 中で 捉え たう えに
︑そ れを さら に︑ 日本 の歴 史に まで 応用 しよ うと して いた ので ある
︒
― 113 ― 学
者 の 観 察
安 倍 能 成 安
倍能 成は
︑い わず と知 れた
︑漱 石の 門人
︑い わゆ る漱 石山 脈の 一山 であ るが
︑評 論家 であ ると とも に︑ 哲学 者と して
︑西 洋哲 学の 移入 に務 めた こと でも 知ら れる
︒ そ の著
﹃西 遊抄
﹄︵ 小 山書 店︑ 一九 四四 年︶ は︑ 大 正 一三 年 九 月か ら
︑大 正 一五 年 二 月 まで
︑す な わ ち一 九 二 四年 から 一九 二六 年ま での うち 約一 年四 ヶ月 間の 安倍 のヨ ーロ ッパ 旅行 の記 録で ある
︒安 倍も また
︑横 光な どと 同様
︑マ ル セイ ユ に 入 港す る 途 中に い っ たん 船 か ら イタ リ ア を通 り す ご し︑ 後に 改 め てス イ ス から ヴ ェ ネ ツィ ア に 入っ て い る︒ さ て︑ この 書は
︑全 二九 四頁 のう ち︑ 一九 一頁
︑す なわ ち約 三分 の二 が︑ イタ リア につ いて の記 録に 費や され てい る︒
﹃ 西遊 抄﹄ の﹁ 序﹂ によ ると
︑こ の書 は
︑﹁ 紙 数 の為 に
︑フ ラ ンス
︑イ ギ リ ス︑ ベル ジ ッ ク に関 す る もの を 省 き︑ イタ リヤ
︑ド イツ の外 に︑ ハン ガリ ヤ︑ オラ ンダ 等を 加へ た﹂ ため に︑ イタ リア の記 述量 が相 対的 に多 くな り︑ あた かも イタ リア 旅行 記と 呼べ るよ うな もの とな って いる
︒イ タリ アの 部分 は以 下の とお りで ある
︒ メッ
シナ 海峡 西航 日記 の一 節 ロー ザン ヌよ りヴ ェネ チヤ へ
学 者 の 観 察
― 114 ―
そ の一
車 窓の アル プス そ の二
ヴ ェネ チヤ に着 いた 夜 ロー マの 新年 即興 詩人 とロ ーマ ピア ッツ ァ・ バル ベリ ニ附 近 羅馬 散景 ティ ヴォ リに 遊ぶ 記 ブリ ンデ ィシ より ロー マへ ロー マよ りナ ポリ へ シチ リヤ の旅 一 パ レル モ 二 セ ゼス タ 三 古 のア クラ ガス を訪 ふ フィ レン ツェ の或 る夕 フィ レン ツェ の想 ひ出 シエ ナ漫 歩 斜塔 の都
― 115 ― 学
者 の 観 察
ポル ゴ・ サン セポ ルク ロ アレ ッツ ォ散 策 パド ヴァ 瞥見 記 マン トヴ ァの 一日 な
お先 に挙 げた
﹁序
﹂に よる とこ の書 に書 かれ た他 に﹁ ボロ ニヤ
︑ペ ルー ジヤ
︑ア シジ
︑ヴ ェロ ナ︑ ミラ ノ︑ カス ティ リオ ーネ
・ド ロー ナ︑ ツェ ルト ーザ
・デ ィ・ パヴ ィア
﹂の 地も 訪れ たと いう
︒ さ て︑ 安倍 のイ タリ アに つい ての 最初 の印 象は どの よう なも のだ った ので あろ うか
︒﹃ 西 遊抄
﹄﹁ メッ シナ 海峡
﹂に は次 のよ うな 記述 が見 える
︒ 十
月十 日︒ 六時 起︒ 船室 の窓 より イタ リヤ の陸 見ゆ
︒︵ 略
︶ 朝 食後 望遠 鏡に よつ て陸 地の 方を 見る と︑ 前に 家ら しく 見え たの はや はり 家︑ 上の 方は 岩︑ 中腹 から 下の 方に 青い のは オリ ーヴ か︑ オレ ンヂ か︑ その 間に 浅 緑 の 色を し て 居る の は 葡萄 か
︒川 あ り︑ 谷 間を 急 下 して 水 な く︑ 家は 大抵 四角 形に して 白く
︑鉄 橋あ り︑ 川に かか り︑ 汽車 が煙 を吐 いて 走る
︒一 体の 風光 が熱 帯的 であ る︒
︵ 略︶ 九 時頃 船右 方の 山角 を廻 つて メッ シナ 海峡 に入 らう とす る︒ 船長 は乗 客を ブリ ッヂ に招 待し て景 色を 見せ てく れる
︒右 方に 見え るメ ッシ ナの 町の 上の 山崩 れの 跡は
︑大 地震 の創 痍を 示し て居 る︒ 小さ な岡 に倚 つて 緑樹 の茂 つた 大き な建 物│
│白 いの と赤 いの と│
│が ある
︒天 の橋 立の やう に海 中に 突出 した 洲︵ ファ ロ岬 らし い︶ の上
学 者 の 観 察
― 116 ―
には 白い 家が 建て 続い て︑ その あた りの 海は 水が 浅い のか
︑一 筋の 鮮緑 色を 劃し
︑そ こに 小さ な帆 船が 一つ 浮い て居 る︒ 一体 の海 の色 は紺 青で
︑そ れが わづ かの 微風 を受 けて 美し く縮 緬を 寄せ て居 る︑ 船に 切ら れる 時︑ 海は 羊羹 の切 口の やう に和 かに 光つ てそ こに 虹が 立つ
︒船 足の 美し さよ
︒ 引
用が 長く なっ たが
︑こ のと おり
︑こ れま た実 に色 彩豊 かに 絵画 的に 描写 され る︒ この 色と 風景 とが
︑多 くの 日本 人に とっ て初 めて 体験 する ヨー ロッ パで あっ た︒ ある いは そこ には
︑潜 在的 に︑ 原色 とし ての 色彩 のイ メー ジが あま りな い日 本が
︑対 比さ れて いた のか もし れな い︒ 安 倍の 旅行 は︑
﹁ ベデ カー
﹂を 案内 人と し︑
﹁即 興詩 人﹂ を﹁ 旅の 栞﹂ とし て携 えて 行っ たも ので あっ た︒
﹃ 西遊 抄﹄ に 収め ら れ た 文章 の 多 くは
︑こ の 旅 から 一
〇 年 ほど 後 に 書か れ た も ので あ る が︑ その 時 間 差と 文 章 化 の際 の 配 慮 と が︑ これ らの 文章 の内 容を 豊か にし てい る︒ 多く の随 筆家 と同 様︑ 先行 する 文章 を取 り込 む効 果を 追っ てい る︒ 再 び﹁ 序﹂ に戻 るが
︑安 倍は
﹁結 局私 はた ゞの 旅人 とし て観 る人 とし て︑ それ もイ タリ ヤの 旅を 板垣 鷹穂
︑小 西誠 一両 君に 引つ ぱり まは して もら つた 外 は︑ いつ も と ぼ
!
"
と 一 人 歩き の 旅 をし た の で あつ た
︒﹂ と 書い て い る︒ 学者 とし ての 視線 は希 薄で あっ たこ とと とも に︑ 彼の 観た イタ リア 像の 印象 には
︑案 内者 であ る板 垣鷹 穂と 小西 誠一 の影 響が 強い こと が窺 える ので ある
︒
― 117 ― 学
者 の 観 察
金 子 健 二 英
文学 者で
︑後 に昭 和女 子大 学の 学 長 を 務め た 金 子健 二 の﹃ 馬 のく し や み﹄
︵ 積善 館
︑一 九 二六 年
︶は
︑彼 の 一九 二四 年か ら一 九二 六年 まで の外 遊の 記 録 で ある
︒そ の
﹁は し がき
﹂に は
︑﹁ 嘗 て外 国 に 遊 んだ こ と のあ る 人︑ 現 在な ほ外 国に 在る 人︑ これ から 外国 に遊 うと する 人に と つ て 何か 参 考 にな る こ とが あ る か も知 れ ぬ︒
﹂ と︑ 案内 書 の 役割 を述 べる とと もに
︑﹁ な ほ亦
︑外 国の 文 学・ 美 術・ 地理
・歴 史
・教 育・ 風 俗等 を 研 究す る 人 に も何 物 か を提 供 す るこ とが 出来 ると 思つ てを る︒
﹂ と︑ 研究 者へ の意 識 も 加え ら れ てい る
︒金 子 は︑ 文部 省 の 在 外研 究 員 とし て
︑ヨ ー ロッ パに でか けた
︒中 世英 文学 が専 門で ある が︑ 彼の 先人 で あ る 夏目 漱 石 につ い て の書 も あ る︒ 一 九二 五 年 二月 一 七 日︑ スイ スか らイ タリ アへ 入り
︑ミ ラノ に着 いた
︒そ れ か ら 三月 一
〇 日ま で
︑イ タ リア 諸 都 市 を巡 歴 し てい る
︒﹃ 馬 のく しゃ み﹄ の﹁ 第七 篇﹂ がそ の﹁ 伊太 利巡 歴記
﹂に なっ てい る︒ 目次 は以 下の とお りで ある
︒ 第七
篇 伊太 利巡 歴記
︵序
︶欧 洲文 明の 結晶 宮
︵一
︶ミ ラン
︵二
︶ヴ エニ ス
︵三
︶フ ロレ ンス
学 者 の 観 察
― 118 ―
︵四
︶ネ ープ ルス
︵五
︶ヴ エス ヴイ アス とポ ンペ イ
︵六
︶ロ ーマ
︵七
︶ピ ザと ジエ ノア
︵八
︶パ ルマ とボ ロニ ヤ
︵九
︶ラ ベン ナ
︵十
︶ヴ エネ シヤ ン・ アル プス へ
︵結 び︶ 疑問 の国
﹁︵ 序︶
﹂ の﹁ 欧洲 文明 の結 晶宮
﹂に おい て︑
﹁私 は自 分の 研究 事項 を調 査す る必 要上
︑又 一つ には 芸術 に対 する 深き 興味 を満 足さ せる 必要 から
︑伊 太利 を成 るべ く大 きく 広く 且つ 委し く観 察し やう と思 つた
︒﹂ と 書い てい る︒
﹁自 分の 研究 事項
﹂と は︑
﹁歴 史的 に欧 洲文 明を 査察 する
﹂こ とで ある
︒当 初は よく ある 旅行 コー スを 採る が︑ その 後は
︑他 とは やや 異な る旅 程を 採っ てい る︒ ミラ ノを 再 訪 し︑ そ こか ら も う一 度 ベ ニス を 訪 れ た際 の 経 験を 指 し て︑
﹁ この 途次 私に とつ て最 も利 益の あつ たの は ボ ロ ニヤ
︑ラ ベ ン ナ︑ フエ ラ ラ︑ パ デユ ア
︑ベ ロ ナ 等の 見 学 であ つ た︒
﹂
︵︵ 序
︶﹁ 欧 洲文 明の 結晶 宮﹂
︶と も書 いて いる
︒つ まり
︑有 名な 観光 地だ けで なく
︑で きる だけ 多く の土 地を 廻る こと で︑ イタ リア の本 質を 見抜 こう とし てい るか のよ うで ある
︒ と ころ で︑
﹁︵ 結 び︶
﹂ にあ る﹁ 疑問 の国
﹂と いう 言葉 は穏 やか では ない
︒
― 119 ― 学
者 の 観 察
私 は伊 太利 を見 て過 去の 偉大 さを 讃美 する 一人 で あ る︒ し かし 将 来 の運 命 に 関し て は 疑 問の 国 だ と結 論 す る︒
︵ 略︶ 彼等 は盗 人と 乞食 を其 の同 胞の 間か ら最 も多 く 出 すこ と に よつ て
︑欧 米 人乃 至 日 本 人の 嘲 罵 を買 つ て をる が︑ それ は彼 等の 境遇 が余 儀な くさ せた もの であ つ て︑ 先 天 的に 彼 等 はこ う い ふ呪 詛 す べ き民 族 で はな い の だ︒
︵ 略︶ しか し彼 等は 境遇 とい ふ大 きな 外的 威力 に圧 迫 さ れて ゐ る︒ 之 が彼 等 の 天才 を 有 意 味に 発 露 し得 ざ る 最大 原 因で あ る の だ︒ 私は 彼 等 がこ の ま ゝに 推 移 し て ゆ く な ら ば 彼 等 の 民 族 的 存 在 は 将 来 実 に 危 い と 思 つ て ゐ る︒
︵ 略︶ 彼等 の芸 術的 天才 は現 在に 於て も英
・仏
・独 の そ れ等 を 凌 駕す る だ けの 或 る 力 をも つ て ゐる
︒政 治 上 に於 ても その 通り だ︒ 故に 若し 或る 力が 之に 機会 を与 へ る な らば
︑再 び ロ ーマ 帝 国 の昔 を 再 現 し得 な い とも 限 ら ぬ︒ しか し今 は駄 目だ
︒ 国 民が 怠惰 にな るの も︑ 乞食 が多 くな るの も︑ 盗人 が多 くな るの も︑ それ はた ゞに 国民 各個 人の 精神 的退 歩の みに 原因 して をる 事で はな い︒ 或る 目に 見え ぬ運 命の 力が 人知 れず 其の 奥底 に動 いて をる から だ︒ 私は こう いふ 見方 で現 在の 伊太 利を 見度 いと 思ふ
︒ こ
の見 方と 予兆 の是 非を 今は 問わ ない が︑ 一九 二五 年前 後と いう 当時 にあ って
︑イ タリ アと いう 国が
︑一 人の 日本 人旅 行者 に︑ 過去 と現 在と の大 きな 差異 を感 じ取 らせ るイ メー ジの 国で あっ たこ とだ けは 確か であ る︒ ヨー ロッ パの 多く の国 々が
︑日 本に とっ て︑ ひた すら 憧れ られ るだ けで あっ たの に対 し︑ イタ リア はや や複 雑な 視線 をも って 受け 止め られ てい たと いう こと がで きる かも しれ ない
︒
学 者 の 観 察
― 120 ―
伊 藤 正 雄 現
在で はも ちろ ん︑ ヨー ロッ パへ の旅 行は
︑空 の旅 が通 常の ルー トで ある
︒こ のよ うな 旅が 一般 化し たの は︑ 戦後 のこ とで あり
︑戦 前は
︑イ ンド 洋ル ート
︑あ るい はア メリ カ合 衆国 経由 の大 西洋 ルー トで の船 旅か
︑シ ベリ ヤ鉄 道に よる 陸路 がそ の通 常の ルー トで あっ た︒ しか し︑ ヨー ロッ パや アメ リカ 合衆 国で は︑ 既に 飛行 機に よる 移動 が一 般化 しつ つあ った
︒ 医 学者 であ り︑ 欧米 のホ ルモ ン学 者を 訪ね てヨ ーロ ッ パ お よび ア メ リカ 合 衆 国に わ た っ た伊 藤 正 雄の 著 は︑
﹃ 欧米 空の 旅﹄
︵ 帝国 社臓 器薬 研究 所︑ 一九 三七 年︶ と題 さ れ てい る
︒た だ し︑ 彼が ヨ ー ロッ パ を 訪 れた 際 の ルー ト は やは り︑ 船で マル セイ ユに 上陸 する とい うも ので あり
︑帰 りは
︑ア メリ カの サン フラ ンシ スコ から
︑横 浜港 へと
︑こ れま た船 旅で あっ た︒ 著書 の題 は︑ 欧米 での 移動 で︑ 飛行 機を 多用 した こと に由 来し てい る︒
﹁ 序﹂ には
︑﹁ 我々 今回 の旅 行に 際し ても 出来 得る 限り 利用 した のは 此空 路で あつ た︒ 敢て 奇を 好ん だ訳 で無 い︒ 一ヶ 年足 らず の日 子で 三百 に余 る各 国の 学者 を訪 問せ んに は之 れよ り外 に道 が無 かつ たの であ る︒
﹂ と書 いて いる
︒さ らに
﹁序
﹂に は︑
﹁本 書は 又拙 著﹁ 欧米 の内 分泌 学界 を覗 いて
﹂の 姉妹 篇で ある
︒後 者は 主と して 余の 面接 した 欧米 に於 ける 学者 の近 況を 記し たも ので ある
︒﹂ と の注 記も ある
︒ そ のイ タリ アに つい ての 目次 は次 のと おり であ る︒
― 121 ― 学
者 の 観 察
第六 章 其他 の欧 洲諸 国 其 四 伊太 利 一
︑ミ ラノ 二
︑ロ ーマ 三
︑ア ルプ ス飛 行 彼
が イ タ リア を 訪 れた の は︑ 一 九三 六 年 八 月二 一 日 のこ と で︑ ス イス か ら
﹁ベ ル リー ナ ー 鉄 道
﹂で ミ ラ ノ に 着 い た︒ 翌 日に は
︑ミ ラ ノ 大学 の 病 院や 癌 研 究所
︑ミ ラ ノ 血 清研 究 所 を見 学 し て いる
︒さ ら に 翌二 三 日 に は ロ ー マ に 移 り︑ ロー マ大 学や
﹁ム ッソ リニ ー病 院︵ 結核 療 養 所︶
﹂ を見 学 し てい る
︒こ こ では さ す が に︑ 少し 腰 を 据え て 街 の見 物 を楽 し ん だ︒ そ の後
︑八 月 二 七日 に は︑ 飛 行機 で ロ ー マを 発 ち︑ ベ ニス に 立 ち 寄っ た 後
︑ア ル プ ス 越 え の 飛 行 機 で︑ ミュ ンヘ ンに 向か った
︒ イ タリ アに つい ての 記述 はご く短 いも ので ある が︑ 空か ら見 た印 象も 加え られ てい る︒ 我
々が 一度 伊太 利に 足を 入れ て直 感す る事 は隅 から 隅ま で人 家が 多い と云 ふ事 であ る︒ 従つ て片 田舎 の山 腹と 言は ず谷 間と 言は ず誠 に良 く耕 作さ れて 居る
︒ど うし てあ んな 崖の 上に 人が 居る のか と思 はれ る様 な処 にま で住 んで 居る
︒ 空 から 見た 伊太 利に は独 逸や 仏蘭 西の 様な 森林 物帯 が無 い︒ 山林 は徹 底し て伐 採し 尽さ れ︑ 河川 の周 囲に は水
学 者 の 観 察
― 122 ―
害の 跡も 見出 ださ れる
︒ こ
れが 正し く彼 が瞥 見し たイ タリ アの 印象 であ った
︒ 亀
高 徳 平 亀
高徳 平は
︑化 学者 で理 学博 士で ある
︒チ ュー リッ ヒと ベル リン
︑お よび イギ リス のリ ーヅ 市に 長く 滞在 し︑ アメ リカ 合衆 国も 巡覧 した が︑ 残念 なが らイ タリ アに は訪 れて いな い︒ しか しな がら
︑一 九〇 七年 二月 二五 日の 夜︑ いよ いよ ヨー ロッ パに 近づ き︑ メッ シナ 海峡 を船 で通 った 際 に︑
﹁ イ タリ ー 大 陸の 方 に も灯 台 及 び 海岸 村 落 の燈 火 を 見た れど もシ ヽリ ー島 のメ シナ 市街 の燈 火数 百海 岸に 整 列 し たる が 海 水に 映 し 実に 美 観 な りし
︑﹂ と の 感想 が
︑そ の 紀行 文﹃ 理科 視察 世界 一週 記﹄
︵ 丸善
︑一 九一 二年
︶に 書 き つけ ら れ てい る
︒こ の 書に は
︑学 者 た ちの 見 聞 録の 特 殊 性に つい ての 興味 深い 言が ある ので
︑掲 げて おき たい
︒﹁ 緒 言﹂ に次 のよ うに 書か れて いる
︒ 近年
我邦 人に して 海外 に遊 ぶも の多 く従 て其 見聞 録の 世に 公に せら れた るも のは 決し て少 くな い︑ 然し 理学 に関 する 見聞 録は 余り 多く 聞か ない ので ある
︑之 れ理 学者 は一 般に 筆を 執る の煩 を厭 ふに 由る 事と 思ふ
︑予 の如 きも 其一 人で ある
︒︵ 略
︶ 然し 予の 外遊 の主 なる 目的 は学 理の 研究 にあ つた ので 日々 実験 室に 籠城 した る事 とて 広く 泰西 の文 物を 視察 する
― 123 ― 学
者 の 観 察
こと は出 来な かつ たの であ る︑ 唯学 校の 休暇 又は 甲地 より 乙地 に転 学の 途中 を利 用し て諸 種の 学校 を視 察し 傍ら 名所 古蹟 をも 一覧 した ので ある から 視察 は甚 だ不 十分 であ る︑
︵ 略︶ 理科 に関 する こと のみ にて は乾 燥無 味に 失す るが 故に 地理
︑風 俗︑ 宗教
︑遊 戯等 に関 する こと をも 加味 し︑ 且つ 失敗 談を も有 の儘 に告 白し 一は 此書 の興 味を 増し 一は 予の 一生 に於 ける 此の 大な る出 来事 の真 率な る紀 念と なさ んと 志し たの であ る︑ つま り此 書は 予が 外遊 の副 産物
︑然 も粗 製の 副産 物 で あ る︑ 瓦斯 製 造 の副 産 物 たる タ ー ル から 艶 麗 なる 色 素 や︑ 霊妙 なる 薬剤 を産 出し たる 如き 美果 はな くと も此 書が 幾分 にて も効 果を 呈す るこ とあ れば 望外 の幸 であ る︒ こ
れら の言 葉は 実に 正直 に︑ 学者 たち の見 聞録 の実 態を 示し てい るも のと 思わ れる
︒文 芸に 関わ るわ けで もな い学 者た ちが
︑学 問の 副産 物と して 残し た見 聞録 は︑ 当時 にお いて
︑全 く目 的を もた ない
︑純 粋な る目 的と して の観 光が むし ろ稀 であ るこ とを
︑暗 に示 して いる ので はな かろ うか
︒
学 者 の 観 察
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