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迷妄の愛から覚醒の愛へ

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迷妄の愛から覚醒の愛へ

-TheMceandtheGood論一

..…・Everymanshiftlbra]]therestpandletnomantakecarelbrhimself(T7ie71gmpestより)

山本長

統的スタイルのアナクロニズムにも拘らず、この 小説はFrankBaldanzaも注目したilopenness1l3と 自称するMurdoch特有の自由度を有した作品の 一つである。例えば、ASevBImHbadのような ''closedl1な作品と違って、本来の哲学者然とした Murdochではなくて、’1moreaccidentalandsepaP rateandfi・eecharactersl14をもった反「クリスタリ

ン」な小説の作家としてのMurdoChの-面がよく 現われた作品に仕上がっている。そもそもクリス

タリンな人間存在などありえず、人間そのものが 不透明な存在であるからである。

本稿では、こういった'1open11な小説中の主要な テーマであるく愛〉と、それをめぐる多様な作中 人物たちの綴れ織の中に立系と横系を見出しなが ら、この〈愛〉がどのように弁証法的運動を展開 していくのかを論じたい。

はじめに

IrisMurdochの11作目の小説IY1ejMibeandthe Goodlは、ShakespeareのAMkLsummerMghtls Dr巴a、現代版とも言える、LondonとDorsetの海 浜を舞台にした一夏の愛をめぐっての騒動と収束 を描いている。何組かの男女の織りなすドラマの 幕はWhitehaUのオフィスでの役人の死で切って落 とされる。meBelI(1958)、TheUhjmm(1963)、

mheIiajianGirゾ(1964)、TheTYmeoftbeAngCjs (1966)など彼女の多くの作品で繰返される男女 の離合集散のモチーフはここでも健在である。

ストーリーは例によってかなり錯綜していて、登 場人物も多数である。その上、主人公と言えそう な人物同士の関係も複雑で、作者は意識して特定 の主人公への中央集権化を阻止しているようであ る。彼女一流の性格描写は多層的なポリフォニー のそれであって、広角レンズ付リアリズムに徹し ながらも、散漫にもならず、細部にいたるまで注 意が行き届いている。多くのすぐれたストーリー・

テラーの手法に似てこの小説もまた、すぐれて帰 納的かつゲシュタルト的なものになっている。先 に上げた諸作品に比較して、ゴシック的背景やデ モニックな登場人物は中和され、より洗練された 英国人中流階級が好みそうな作品になっている。

GE1iotのMYddIemaI1chなどに見られる田園小説 的要素(すなわちTrescombeHouseを中心とし たDorset地方)とV、WoolfのMilaDaIIowayの Londonに見られるアーバンな要素を交叉させた欲 張りな構成となっているのも「ブルジョワ公共圏」

に歓迎されるゆえんではないかと思われる2.この ことは迷妄の都会と覚醒の地方というヴィクトリ ア朝の小説を坊佛させる伝統的な作家群の嫡子と してのMurdochが、そのマジック・サークル内に 留まっているとも言えよう。こういった言わば伝

戯曲『出口なし」(HUiSQOs)で「地獄とは他 者のことだ」とサルトルが言っているのに対し、

Murdochは彼の自己中心性を批判したが5、サル トルにとっては嘔吐をもよおさせるような、むき出 しの偶有的他者こそMurdochの関心の対象となっ ている。他者への絶えざるラヴコールを旨とする Murdochは、この小説において種々のペアリング を紡いでは解き、また紡ぐという手法をとってい る。その中にミステリアスな事件を絡ませて、高 級な推理小説、風俗喜劇(comedyofmanners)

仕立てとなっている。

小説は始まりが肝要であるとするならば、この 作品では政府役人のJosephRadeechyがWhitehall の自室でピストル自殺したことから始まるのも相 変わらずうまい手法である。WhitehaUはLondon 中心部の官庁であり、UhderthelVet(1954)、

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BmnoIsD1℃a、(1969)、AWbmCMd(1975)、

TYjeGr泡en1mght(1993)、最新作の.ノacksonb

Dilemma(1995)などの諸作品に活写されている この大都市のジオグラフィーは、リアリスト作家 としてのMurdochの面目躍如というところである。

ただし、MisDalIowz1yの一人称的視点からでは なく、多数の作中人物の視点を通しての、パンフ ォーカス的手法をもつ三人称小説であって、Mul迄 dochの作中人物における平等主義と分散主義が 徹底されている。

役所の局長OctavianGrayから、その法律顧問 の友人JohnDucaneがこの事件の調査を頼まれる。

自殺か他殺かという点や、役所内でのスキャンダ ルが外部へ漏洩しないかなど複雑な様相を帯びた

事件である。彼はRadeeChyがこの役所の秘密の

地下室へ裸女を連れ込み、いけにえ用の殺した鳩 などの道具立てで黒ミサをしていたことを、役所 の下級役人PeterMcGrathという小悪党から聞き 出し、追及する。「トロイのヘレン」という謎の女

こそMcGrathの妻であり、Radeechyとも関係を

もっていたのである。さらに彼女はMcGrathの家 を訪ねたDucaneを誘惑し、彼の家に侵入して裸

で迫ってくるが、彼女はRadeechyだけでなく、こ

の事件の第一発見者でGrayの部下Richard Biranneとも関係をもっていたことが分かる。43 歳のDucaneは、28歳の小学校教師JessicaBird を愛人にしていたが、別れ話を持ち出している。

彼はさらに友人のGrayの妻Kateとは友情以上の

自由な恋愛関係めいた仲で、この小説の題名の Ilthenice11にあたる。また彼は自尊心の強いカルヴ ィン主義的スコットランド人で、ローマ法の研究 をしているインテリである。このように法に携わる

法廷弁護士としての自分と、Jessicaとの恋愛関係

でのあいまいな態度の自分との間でディレンマに 陥っている。別れ話を持ち出したDucaneにJessi caは言う。

利己的な愛のJohnと、「一貫した目的を欠いた道 徳観」をもつ一途なJessicaは、「本当にお互いを

なんとか理解しようとする努力を全くしなかった」

(p,85)のである。Kateとの自由な恋愛に傾斜し

てゆくDucaneは、Jessicaの熱狂ぶりに息苦しさ を覚え、追いつめられてゆく。作者は労働者階級 出のJessicaと中上流階級出のDucaneの出自の差 異による恋愛観の温度差を埋め難いものとして提 示している。また、Ducaneは運転手として雇っ ているFiveyにもホモセクシャルな興味をいだいて いる。そしてOctavianはDucaneのことを「良識 豊かな人間で、本当に慎み深い人間」と言い、

Ducane自身も子どものときからはっきりと自分は 善良な人間になるんだという目的をもっていたの である。彼はこの段階ではまだ利己的な愛に捕ら われがちな'1themce11に留まっていることが分かる。

自由な洗練された愛とは一体どのような愛を言う のか。サルトルが「存在と無」で、自由は意識の

「自己超出」という契機に求められているが、果 たして意識の絶対的自己超出などあり得るのだろ うか。これに通底すると思われるヘーゲルの自己 意識の自由とは、人間がどうしても独立した自我 でありたいという欲望であり、それは人間のあり

もしない全体像への幻想にすぎないのではないか と思われる。コギト的な愛はlithenicel1としては成 立し得るが、’1thegoodlIに至るまでの此岸に留ま っているだけであると作者は言いたいのであろう。

Murdochはこのような価値の審級をこの小説の題

名に掲げているのである。BrendanHemessyが

次のように述べているのも妥当と言えよう。

ThethemeistheselfsearchingofDucane・

TheenqUiryfbrceshimtomakemoraljudge mentsSincehefeelsthisispresumpmous- infactthisfeelingdrewhimawayfiPoma careerthatwouldhavemadehimajudge- heinvestigateshimselftoascertainhowwo形 thyheistomakejudgementsonothers.‘

また、普通の健全な精神をそなえて人生は楽し いと思っているプチブル的なOctavianとKateと DucaneはそれぞれI1thenice1lというグループの一 員である。

IIYouaren1tthinkingofme,Johnlknowit・

YOu1rethinkingofyourselfⅡ(p、82)

すると、彼は答えて言う。

'1We1regottosimplifythings、Onehasgotto simplibonelsnfe・'1(p、82)

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0ctavianとKateGrayの別荘であるTrescombe Houseについて、ここは!'thenice1Iたちにとり次の ようなところである。「ドーセットではあらゆるも のが丸味を帯びている。ドーセットではすべての ものがちょうど頃合いの大きさをしている。この 思いはDucaneには言い知れぬ満足感を与えてい

る。」(p47)。この邸にはGray夫妻と娘Barbara

の他に、PaulaBiranneとその双生児のEdwardと Henrietta、Octayianの兄のmeodore、Ducaneが

Londonから連れてきた食客の学者WmyKost、

Kateの学友で寡婦MalyC10thierとその年頃の息

子Pierceが住み、ここは一種のコミューンとなっ ている。

この人たちの中で、ギリシアのPmpertiusの研 究をしている古典学者のWillyは、大戦中のダッ

ハウの強制収容所での過酷な体験によるトラウマ を負いながらここの別棟に食客となって隠遁生活

を送っている。夫を事故で失ったMaryは、思春

期の息子Pierceとこの屋敷に身を寄せながらここ

の住人たちの世話を焼いていて、wmyに愛情を寄

せ、「精神と同様生血でもって人を愛することが何 よりも一番重要なことだ」と十分に理解している。

DucaneはMaryにWillyと結婚すべきだとすすめ る。Maryは、夫婦げんかのあと表に飛び出した夫 のAlistairが目の前で単にひかれて死んだことの後

悔にかられ、wuly同様過去の悲しい体験から立 ち直れないでいる。wiuyは彼女の愛を知りながら

も、幼い頃に黒海のほとりの公園で知り合った少 女とその犬のこと、好意からその犬にポールを与 えると、そのボールを喉につまらせて犬が死んだ こと、その少女との別れなどを彼女に話す。同情 したMaryは結婚しようと言うが、「インポテンツ

なんだ」とWilMま答える。そしてDucaneに対し

てこう言う。

この二人について作者はDucaneの目を通してl1two goodpeople1l(p,193)と言っているが、作者は上 の引用のように決して主人公とは言えない作中人 物に重要な言及をしばしさせることが多い。この 引用では、幸福は西洋個人主義道徳の彼方、善悪 の彼岸にこそあり得ると言うのである。「呪われて いること」こそ自由ということに捕らわれて間断 なく苦悶することであると言っている。愛他主義

について言えば、Ducaneは、Jessicaとの情事で

不透明な局面に埋没しているのに「自分自身を、

他人を助けることが、生まれつきの行いになって いるという強いうぬぼれをもち、清く生きている

かなりきびしい人物として描くことに慣れていた」

(pl87)ことからして、無私の行為にはまだ達し ていない。このことは、人間の幸福と道徳(正し い行為)は一致すべしというソクラテスープラト

ン流のドグマであると判断ができる。しかし「善

いこと」の本来のシニフィエは利他的行為ではな く、むしろ利己的行為であろう。つまり、CD●●●●。●

自分自身にとって快いもの、美しいもの、豊かな ものを創り出すような行為・能力から来ているの

であろう。Ducaneは、WillyやPaUla、Jessicaを 助けようとしても、すでにニーチェ流の「力」を 自分の現在の混乱のため失っていることを自覚し

ていて、「もう力がなくなったということなのだ。

Wmyに手を差し出すだけの力もないんだ」(p、188)

と艇められた自己評価をしている。彼は信仰を捨 ててはいるが、「ピューリタン的な内気さと自制 心」があり、そこがJessicaには「身震いするほど の恋情を起こさせるのである。竹田青嗣が「エロ

スの世界像」7で次のような趣旨の発言をしている。

ニーチェの「道徳の系譜」にあるように、本来の

「gut(よい)-schlecht(わるい)」という力の価 値から「gut(善い)-b6se(悪い)」という倫 理的な価値へ移し替えられて、「善い」は、本来

の利己的な快いもの、美的なもの、豊かなものと いうエロス的な「よい」と対立するものへと押し 込められ、否定されるべきものとなってしまった のは、キリスト教の道徳や近代哲学における客観 認識への信仰が元凶であるとニーチェは言いたい のであろう。ディオニュソス的原理を是とする彼 は、プラトニズムが、善と美を強調しすぎる点と、

キリスト教による善と美との乖離・対立に関して、

IHappiness,lsaidWUly,IisamatterofoneIs mostordinaryeverydaymodeofconscious‐

nessbemgbusyanduvelyandunconcerned withselfTobedamnedisfOroneIsordinary everydaymodeofconsciousnesstobe unremittingagomzmgpreoccupationwith selfKp、187)

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道徳はエロスを抑圧してきたと批判している。彼 の力の思想は、すぐれて美的なもの、エロス的な ものの思想だと竹田は述べている。Ducaneはその ピューリタン的出自により、精神的に健全な者と そうでない者とを分け隔てる恐ろしい深淵がある と感じている。彼の言う「精神的」とは、エロス 的含意のない近代合理主義、キリスト教的倫理主 義の延長線上にあるもので、悪しきディコトミー に引き裂かれた迷いの中で、彼は苦悶するのであ る。

それでもDucaneは、GraV夫妻の娘Barbaraや Wmyに力を貸せないでいるが、一方Malyに息子 のPierceのことで頼りにされてもいて、彼女には Paulaが何かに怯えている(たった一回の性交渉 をもった相手の陶工EIicがオーストラリアから船 でイギリスに向かい、再会したいと手紙を寄越し ている)と思われるので相談に乗ってほしいと頼 まれもするほど信頼がある。「君はわれわれみんな の慨悔を聞く僧だから」とwiuyにも言われてい

る。

wulyに対しもう一人の隠遁した影のような人物 TheodoreもWUly同様重要な発言をしていること

に注目したい。

ら彼女を突き落として殺したRadeechyを脅迫し ていた。さらに小悪党のPeterMcGrathは、その BiranneとRadeechyだけでなくDucaneをも、「ト

ロイのヘレン」(つまりMcGrathの妻Judy)の美

人局の役で恐喝していた。McGrathが小型カメラ

を使用していたのは、耐eHightjiromtbe

EnchantBr(1956)でLusiewicz兄弟とRosaを隠 し撮りしていたCalvmBlickと似ていて、Murdoch 風リアリズムの小道具として効果がある。

Radeechy、Claudia、Biranneの三角関係、

Radeechy、Judy、Bilanne、McGrath、Ducane の多角的な関係は、Murdoch特有の情痴的カテ キズムの証左である。Murdochは、あるインタビ ューで、Dickensのように登場人物の多い「開い た」構想の小説を書きたいと言っていることか ら8、この小説もIlopemessl1をもった好例である。

また、Biranneは、McGrajhの上司でRadeechy の部下であり、Paulaと離婚しているが、Ducane の事件調査に次第に介入してゆく。第一発見者の 彼こそRadeechyの死の真相を知っている人物で あるので、Ducaneは彼への好奇心がつのり、追求 してゆくと、真相を次第にもらすようになる。そ のBiranneとRadeeChyとも関係をもっていたJudy は、Ducaneが帰宅すると寝室で裸体のまま待っ ていて誘惑しようとする。惑わしのシレンならぬ

「ヘレン」は彼に「力」を貸してほしいと言う。

ilOnlyyoucanreallysaveme,Mr・Honey.・・・

youIresodifferentandgoodiI(p、258).かように Ducaneは、i1goodl1な人と言われても、二人の女 性と火遊びをしてJudyのような悲惨な女性に哀れ みをかけてやることもできずに自分は完全に「白 く塗りたる墓」なのだと思う。プラトンの「饗宴」

のディオティマという賢女からの話によると、善 の美しさは高貴な行為を生み出す役割を果すので あるからして、DucaneはJudyたちについては '1good'1なる者にはまだなっていないと言える。彼 は大きな悪、小さな悪を、McGrathの案内で黒ミ サの行われていたWhitehallの地下室にもぐり込ん だときに感じとる。自分の外部にも、自分の内部 にも人を破滅させる力のある悪が存在する。

Radeechyはその悪魔や神を弄んでいたのだと分か ってくる。Ducaneの現実への覚醒の始まりであ る。

IlAllisvanity,Willy,andmarlwalksinavain shadow.…Weknowitonlyasillusion.Ⅱ

(p、283)

また、「われわれは影だ」とも言っていて、インド の寺院での修業僧の青年を死なせた過去の事件の 罪意識に苛まれている。Murdoch好みのオリエン タリズムがこの小説にも散見できる。この「影」

というクリシェはやがてこの作品のクライマックス に関係する伏線となる。

人間のもつ大きな、あるいは小さな悪を、Mu,匙 dochはこれまでの作品群で例証してみせてきた。

Theo(dore)という名がgodの意味であるのも暗 示的であるが、n1eoのインドでの悪、Willyのダ ッハウの収容所での裏切りによる悪、それにこの 小説での冒頭でのRadeechyの死によって次第に 解明されてくるilacertaindrea1inessofevi''1など がそうである。

RichardBiranneは、上司Radeechyの妻Clau‐

diaと情事をもっていた上に、Claudiaへの嫉妬か

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意していた。旺盛な想像力の持主の彼女は、「こ の洞窟の中で罠にかかったり、溺れたりする恐ろ しい場面を想像していた」(P,61)。この洞窟は

「子どもたちの神話の中ではもっとも重要な位置を 占めていた」(p61)。思春期から大人の世界への 入口にさしかかったPierceは、このタブーを犯す 年頃になっていた。Barbaraが遠ざかりつつあると 恥辱と絶望に陥った彼は、恐ろしくもあったが、

この聖なる洞窟へ泳いで入り込み、潮の干満の間 にその中で過してみたいという強い欲求に捕らえ られる。ここでのシーンは、DucaneがWhitehall の暗黒の地下室へ侵入することとアナロジーをな している。トム・ゾーヤーが洞窟を探検してみた くなるように、子どもにはそこが〈恐怖〉とく誘 惑〉の門であり、大人になるイニシエイションの 場であるのだろう。「アリババと40人の盗賊」で、

頭目の命令で盗賊たちが小さな壷にもぐり込むよ うに、これは胎児が母親の腹の中にいるのと同じ 姿勢であり、事実、Pierceを探して洞窟内にあと から泳ぎ入ったDucaneとPierceは同じ一枚の衣 服の中に縮こまって身を寄せ合うという窮屈な姿 勢で暖をとるのも、胎内回帰という無意識的な欲 望からであろう。洞窟が子宮であるとする解釈は 陳腐ではあるが、「ヨナコンプレックス」とガスト

ン・バシュラールが称している旧約聖書のヨナが 怪魚に呑み込まれた腹も子宮願望のヴァリアント

である。ユングも「子宮の羊膜の内側を満たす水」

こそ人類の`憧れる究極の故郷であると言っている。

羊水への回帰、その水をたたえる子宮への郷愁、

ふつうは成人になるにつれてその郷愁はいや増し てくる。そして生暖かく、快く、やわらかで、心 を癒してくれる女性の性器に侵入する欲望を強め る。男は一匹の魚となって、自ら生まれ、かつま た生ませる故郷へとひたすら川を遡上する。この 小説の潤沢な海水のイメージ。GumarlsCaveは 満潮の時は溢れる体液をみなぎらせてオルガスム に達しようとするヴァギナの隠嶮をもつ。今や Pierceを、そしてDucaneを呑み込もうとしている のだ。Pierceは潮が満ちる前に引き返せなくなり、

この試練は「死」で終わるかもしれないと思う。

この「死」は、彼には崇高な「愛」の対象であっ た。エロスの果ての「死」、そして力の充実はすで にして「死」を予想させるものとなっている。水

Malyの息子PierceとGray夫妻の娘Barbaraは

二人とも思春期にあって、Pierceはこの時期にあ りがちな特有な敏感さで、「ここでは何か起こりつ つある。何か暴力的で、恐ろしい事が」(p,275)

と言い、この小説のストーリー上の伏線になって いる。MuldoChは少年・少女(ここでは他にも双 生児EdwaldとHenriettaも)や動物(犬のMingo や猫のMomose)の描き方が実にうまい作家であ る。例えば近作のTheG1℃enjmjght(Chatto&

Windus,1993)でもMoy、Harvey、SeftonAleph や、迷い犬のAnaxなどその子孫たちである。T7ie lVYceandtheGoodでは、PierceはBa「bamへの愛 がなかなか伝わらず苛立ち傷付きやすくなってい る。この小説は、Ducaneを中心とした大人たち と、二人の少年少女の教養小説(ビルドウングス ロマン)という-面も有している。成熟したエロ スと、ダフニスとクロエ的エロスのパラレルはこの 小説に厚味を与えているとも言えよう。その他に、

EdwardとHenriettaが空飛ぶ円盤をしばしば目撃 しているのも、子どもは幻視する能力を有する存 在であるからであろうか。

KateはDucaneたちにI1YOuareallmydea1宅hil‐

dren.Ⅱと言ってI'thenice1'の中心的なひとりである が、Octavianとの二週間のタンジール旅行から帰 宅してみると、TrescombeHouseでは何かが変化 していることを感じとる。Piemeと同様に孤独な Paulaは、夫に片足を切断するほど傷め付けられ た不倫相手のEricから行先のオーストラリアより 帰国する旨の手紙を再びもらい、ぞっとするよう な恐ろしい何かが起こるという暴力の予感に怯え 続けていた。だが、衝動的なEricから、船上で富 豪の娘と知り合って結婚することになったという 追信を受け取る。彼女はDucaneに「君は再び太 陽の中に出られたんだ」と言われる。何かが起こ るという予感は、34-36章の洞窟のシーンとなっ てクライマックスに達する。これらの章だけのため に、あとの残りの章は付け加えられていったとし か思えないほど濃密でドラマチックな数章である。

MaryClothierはGunnarisCaveという干潮の時 だけ入口が開く洞窟について、すでに7章で子ど もたちに中に入って泳いではいけないと厳しく注

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から生まれて水に帰って死す、つまりはエロスと タナトスの弁証法である。void(空)としてロを 開けた洞窟、虚無としてのヴァギナに恐怖しつつ 悦惚となり呑み込まれてゆくだけである。その際 去勢コンプレックスに捕らわれたかもしれない。洞 窟に閉じ込められ、出るに出られなくなったPierce は暗黒の中で様々な映像を思い浮かべる。

続いて入ってきたDucaneにもいろいろな映像が 浮かんでは消えてゆく。その前に目についた白い ひな菊とその匂い。34,35,36章にひな菊が出て くるが、〈生>とく愛〉のシンボルなのであろう か。プルーストの「オーキッド」(蘭の花)の描写 を連想させる。彼は激しい恐怖とともに野ウサギ

の穴をゆっくりと落ちていくアリスの姿や,、Maly

qothierや、RichardBiranneの顔を思い浮かべる。

彼は泳ぎ回った末にやっとPierceを見付けるが、

もう引き戻すことはできずに、海水がどんどん沸 き立ち突進してくる。「死」を悟った彼は次のよ うに思う。

Ducaneは、死を前にして自分を卑小な「一匹の ネズミ」として眺めた、。「自分自身のわずかな利 益と楽しみを探し出して、あくせく立ち回ってい る一匹のネズミとして気楽に暮らすために、心地 よく気のおけない楽しみを得るために、人によく 思われたいがために…」。死の現実に直面し、迷 妄の世界内存在からの覚醒が始まることになる。

「人を裁くこと、人の上に立つこと、力をふるうこ と、ただひたすら求めに求めることなど何の価値 もないことなのだ。愛し、和解し、許すことだけ が重要なのだ。すべての力は罪悪であり、すべて の法は脆弱である。愛が唯一の正義なのだ」と思 う。愛すなわち正義、正義とは「美」がそうであ るように、本来人間のエロス的欲望の対象である と竹田が指摘していることとu、軌を-にしてい る。今までは法に携わる真面目な者としてDucane は、人を裁き、人の上に立ち、力をふるい、何か (幸福)を求めて、Iithenice1'としての途を進んで きた。しかし、無意識にだが、出来ない人間、弱 い人間、ハンディキャップのある人間を抑圧して しまうことになる。一方、弱い人間は無意識に強 さに憧れ、自らの弱さをさまざまなく物語>に転 化したり、ルサンチマンを生み落としたりすると、

竹田は岸田秀の唯幻論について解説している。し かし、ソクラテスープラトンが、善きこと=美し いこと、人の幸福=道徳(すなわち正しい行為)

という等式を樹立してしまったことに対してニー チェの反乱を招いた。

人は死を前にしたとき、死という最大の不安の 乗り越えとしての連続性を渇望するがゆえ愛(エ ロス)を欲望する。非連続の切断された個体とし ての我は、サルトルの言う「地獄としての他者」

への愛(エロス)を介して、はるかなDNAの彼方 へと切断されたもう一つの他者へ求愛の眼差しを 向けようとする。眼差しに凝縮されたエロスは、

相手の身体を見ているのに拘らず、一つの思念で ある以上〈幻想〉である。子宮としての洞窟と、

虚無という死を予想させる地獄に達する暗い地下 の洞窟をたどる誕生と死の弁証法は、他者への愛 を欲望することにより見事に結実する。Ducaneと Pierceが、この愛の覚醒をこの洞窟で体験すると いうことは一種の〈通過儀礼>であり、二人の成 長を物語ることになる。人が一度死して、洞窟や Iwonderifthisistheend,thoughtDucane,

andifsowhatitwillallhaveamountedt0.

HowtawdryandsmallithasaUbeen、Hesaw himselfnowasaUtUerat,abusylitUescurly ingratseeldngoutitsownlittleadvantages andcomibrts,ToliveeasUy,tohavecosy familiarpleasures,tobeweUthoughtofHe felthisbodysUffeningandhenesUedcloser toMingoIsinvinciblewarmth・Hepatted

PierceIsshoulderandbulTowedhishand beneathiLHethought,poor,poorMary,The colouredimageswereretumingnowtohis closedeyes,HesawthefaceofBirannenear tohim,asmasUentElm,moⅥ、9,mouthing,

butunheardHethought,ifIevergetoutof herelwnlbenoman'sjudge・Nothingis worthdoingexcepttokillthelitUerat,notto judge,nottobesupenor,nottoexercise power,nottoseek,seek,seek、Toloveandto reconcileandtofbrgive,orUythismatters、All powerissinandalllawisfiPailty、Loveisthe onlyjusticeForgiveness,reconcihation,not law.(p、315)

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地下(WhitehaUの一室)の暗黒の中に下降し、

再び光の外界へと復活することは人格を向上させ、

新しき人としての光合成を遂げさせるのである。

ヨナは鯨の腹から三日後に脱するが、この二人は 干潮になったので、洞窟という子宮から脱する。

さらに洞窟のエピファニーは伝染してゆく。

のドアの美しいペンキの色、ピカピカ光る車など 日常気にも止めないものに、彼は喜びを見出す。

洞窟での体験のあと、彼は変身を遂げたのである。

こうしてDucaneはlithegoodi1としての活動を開 始する。ソクラテスが巫女のディオティマから聞 いたこととして、エロス(恋)は何故「美しいも の」とかかわるのかというその理由は、「美」が

「善きもの」とつながっており、「美」と「善きも の」は「幸福」の根源であるとのことである。人 間の欲望は、およそ「幸福」を目指すが、恋愛の 欲望だけが「幸福」の根源である「美」と「善き

もの」を求める。Ducaneの場合、Jessicaとのこ

と、Kateとのことは自我(=自尊心)に捕らえら れていて、恋愛の欲望はこの自我に従属している のにすぎなかったが、周囲をよく見ることによっ て相手側が人を愛するという心の「美」に打たれ、

驚く。自我の超出によって新しく、「美」を発見 し、その美への欲望をつのらせてゆく。いわば「恋 愛の結晶作用」と言うものであろう。いったん恋 愛にとりつかれた人は、疑えないものとしてのデ カルトのコギトを乗り越えて、プラトンのいう〈狂 気〉のようなものに支配される。死、戦争、人 生、恋、真の〈実体>とは出来事であって、概念 ではなく、一つの〈不定法〉になることである。

Ducaneはく分子〉になって活動する。

まず、彼はBiranneに対し、もし君がPaulaの元

に戻る可能性を試してみる気があるならRadeechy

事件について一切沈黙を守ると言う。人間の法と いうものはきわめて大まかな正義で、君が陥って いる情況を取り扱うにはあまりにも拙劣な道具で、

自分は神の役目を果たそうと思ってはいないとも 言う。和解させることにして、重要な証拠である Radeechyの告白寳をBiranneに返してやる。その 次にJudy、Jessica、Kateこの三人の女性が、そ れぞれDucaneに手紙を書き、回心ともいうべき 結果を報告する。

JudyはDucaneへ「あなたは私の人生を変えて

くれました」と瞥き、Ducaneの運転手FYveyとい

っしょにオーストラリア行きの船に乗ったとあっ た。

Jessicaからの手紙では、「あなたをとても愛し ていたと思っていたのは間違いだったと思う。私

わが子を失おうとするMaryは、洞窟の外のポ ートの中で悲しみにくれながら、目前で事故死し た夫への自責の念にかられ、溺死するであろう息 子のことを考える。人は死者のことを愛すること ができるのだろうかと。

IIDeathhappens,lovehappens,andallhuman Ufeiscompactofaccidentlchance.…n1ere isonlyoneabsoluteimperative,theimpera‐

tivetolove,'1(p、318)

そして人は、それ自身一塊の土くれ、脆い混合物、

混沌とした偶然の世界に立つ束の間の「影」(a momentaryshadow)なのだと理解する。この啓 示は、Ducaneの「一匹のネズミ」、Theoの「わ れわれは影だ」と言うことのトートロジーである。

彼女の「愛」は何かに対する愛というのであれば、

「死」と「変化」に対する「愛」であり、偶然の 海原の上を、死者たちの身体の上を動く、ほとん どそれと気付かない程に「非人格的で冷たい愛」

であった。それはまだ「美の欠如した愛」でもあ ったが、彼女はDucaneとPierceが洞窟から脱出 し、救助された翌日、まったく突然に旧友である はずのDucaneに対する恋に陥っていることを自覚 する。Murdochの恋愛のドラマツルギーは、しば しば思いがけなくごく身近にその対象者がいるこ とを最後になって自覚するというパターンが多い。

幻想としての欲望は、もう一つの幻想と結び合う。

われわれは肉体の幻想に憧れる、時には尻ごみす るが、幻想と知りつつも彼女は「電気ショックの ような肉体的痙箪をもってDucaneのイメージを浮 かべ、目もくらむような喜びでふるえた」(p、342)。

Ducaneも一夜たち目覚めると、生きている自 分を、「今まで通りの自分を見出すということは、

絶対的な喜びであった」。アールズコート・ロード の騒音や、小さな通りのあかあかとした輝き、表

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Iま虚偽や隠し事はきらいです。私から自由になっ てほっとしておられるでしょう。どうか手紙や電 話を下さいませんように」(p、328)とあり、

DucaneはJessicaの「損われない、完成された熱 情を美しい感動的なものだと、今にして分かるの

であった」(p、328)。

Kateからの手紙では、余りに多くのことが突然 起こってしまったこと、楽しいことばかりで苦し いことは一切味わうことがないのだということ、愛 のメカニズムはそれ自身の奇妙なエネルギーを持 っていること(E・フロムの言う愛は人間の中にあ る能動的な力であるとしているのに似ている)、あ なたが私を欺かないと思っていたのにということ、

他に女性がいたのならあなたを好きにはならなか ったであろうこと、Jessicaと幸福になってほしい ことなどが列記されていた。拘束しない、拘束さ れない、洗練された愛とは何であろうか。エロス とアブロディジィアをともに欠いた一種の戯れ・

ゲームとしての愛(?)なのであろうか。

Ducaneは、自分の行為がJessicaよりもKateに 厳しい感じを与えたのだろうか、JessicaがKate以 上に自分を愛していたということだったのだと思 う。結局、問題なのはいい気になっていた愚かな 自分であったと自己覚醒に至る。さらにDucane は、このさなかにRadeechyが地下室に残した暗号

文(cryptogram)の謎を解く。黒ミサでの逆十

字、殺された鳩、裸女、こういった無意味で他愛 ない仕かけは、ただ子どもだましで、グロテスク なものであり、小さな悪の例証にすぎなかった。

大きな悪、恐るべき悪(例えば、戦争、奴隷制、

人間の人間に対する非人間的行為)を引き起こし たものは、Biranneや自分のような人間の「平然 とした自己正当化の無慈悲な利己主義の中に存在 していたのだ」(pp、330331)と悟り、法律顧問と しての職の辞表をOctavianに書くことになる。彼 は洞窟のエピファニーで開眼し、「人を裁くこと」

をやめたのである。

PaulaはDucaneの説得に従って、かつての夫 RichardBiranneを何度も二人で行ったナショナ ル・ギャラリーのブロンズィーノの絵の前で待つ ことにした。暴力をふるわれたという重い事実が この二人の間には厳然と残っている。たった一度 の情事の相手Ericの足を切断するほどの夫の暴力

行為は、Paulaには耐え難くも忌まわしいものであ る。RichardはDucaneに促されて、Paulaと何度 もデートしたAnA1Iegmy(「審意」)というキュー ピッドとヴィーナスのエロティックな絵の前で会 い、二人は発情し、和解する。Murdochは、me BenでのDomの回心や、meSea,meSBaでのテ イチアーノの「ペルセウスとアンドロメダ』、レム ブラントの「タイタス」などのように、作品中に 何度も絵画を利用しているが、彼女はプラトンと 違って、文学を含む偉大な芸術は文化と世代を越 えて基本的な真理を明らかにすることができると 主張している。プロンズィーノのこの絵は寓意画 であり、エロティックなヴィーナス(美)とキュ ーピッド(愛)の逸楽の喜びの陰に「欺職」と

「嫉妬」が隠され、爬虫類の背と竜の尾、獣の下 半身で、右の前腕に左手、左の前腕に右の掌を付 けた乙女は、その美しい右手は実は左手、サソリ か小ヘビをもつ毒ある手で、その逆の手は甘い蜜 の巣を差し出している。M・リーヴェイ・パノフス キーの解釈では、「一見〈善い>と見えながら〈悪 い〉手で甘いものを出す」と言っている。この画 はいくつかの意味を付与されたものであり、Mul迄 dochの絵画美術への関心が尋常ではないことを示 すシンボル的な意味を有し、リニアーな小説にあ って平面の二次元的な絵画をモチーフに採用する ことによって小説の結構にふくらみと奥行を与え ていると言えよう。

JohnDucaneは、なぜ自分は旧友のMalyと激 しい恋に陥ってしまったのだろうかと不思議に思

って自分の愛の分析をする。「Maェyとは道義的な

考え方の点で似ているということは知っていた。

彼女の存在様式が自分に倫理的な、形而上学的で すらある世界に対する、また善の実在に対する確 信を与えたと彼は言っている。しかし、善を弁別 することは愛の本質の中にあるのである。そして 至高の愛は、ともかくも幾分かは善なるものに対

する愛である。Ducaneは、自分とMaryが両方に

とって善であるものによって意志を通わせていた ということをはっきり意識していたし、また常に 意識してきたのであった。」(p、344)。これは、恋 する人間同士がともに自らの外部にある理想(魂

(9)

75

れにはRichardとPaulaのことも含まれていて、

「Johnはたしかに実にすばらしい仲裁人だ」と

Octavian、「とても悲しいわ。わたしたちの家がす っかりバラバラになってしまったようだわ。みんな 行ってしまうもの…わたしたちDucaneは神様だと 思っていたんだわ。ところが結局は、わたしたち とまったく同じような人間なんだわ」とKateも言 う。Dacuneはカリスマ性が失せて、現実の等身 大の存在として二人の目に映ずるようになったの である。

の美)を求めるということである。その理想は

「善きもの」へと至らなければならず、究極的には

「唯一特別の知識」(プラトンの「真」)に行き着 くべきであるとソクラテスは言うであろう。このよ うにしてエロスの正しい道をたどってきた者は、そ の途上で「突如として、本性驚嘆すべき、ある美 を観取するに至る」とソクラテスは「饗宴」で言 っている。ブロンズィーノの『寓意」で発情した BiranneとPaulaのように、エロスはこのように突 如として顕現する。エロスは人を美しく善きもの に触れさせる媒介者(ダイモン的存在)だとプラ トンのエロス諭では言われている。エロスがダイモ ン的存在であれば、エロスは〈幻想〉に終ること もありうる。ブロンズィーノの「寓意』は、だか らこそ逆の手に「善」と「悪」が表現されている のだし、「悪」が「善」と見間違えられるのであ る。至高の愛に至るのは並大抵のことではない。

作者は何とかしてDucaneにこの善に対する至高 の愛を体現させようとしているようである。

それ故に彼は、Maryのもつ様々な美点、彼女 に寄せる絶対的な尊敬・信頼などが彼がもつ「複 雑な力」に支配されて、愛へと成長していったと 感じとるのである。そして彼女こそ自分よりもす

ぐれていると偶像視したときに、恋に陥ったと言 うことはあり得ると思った。Ducane自身、Jessi‐

Ca、Kateとのことや、Radeechy事件などの混乱 状態にあって、自分への尊敬の念が失われていく 中で、だれか別の人間の中に高潔な人間の像を樹 立する必要を感じて、自己への卑下を慰めてくれ る恰好な女性としてMaryを欲望したのである。つ まり、Maryこそl1amotherofgoddess11で、llthe motherofnPescombel1であるとDucaneは悟った のである。そしてWillyをMaryに結び付けようと した当初の自分の魂胆は偽善であったのだと分か る。MaryこそI1thegood11であると、時間をたっぷ りかけて認識するに至ったのである。

Gray夫妻の娘BarbaraとPierceがついに性的に 結ばれ、いわばもう一つのイニシエイションが結 果することは、この作品の中で小鳥のベアリング などによって暗示されている。そして、Gray夫妻 もタンジール旅行でのまるでハネムーンのような甘 い生活で性的に満たされ、DucaneとMalyの仲に ついて「まるで交尾の季節みたいだ」と言う。こ

TrescombeHouseに残された二人のhermitの うちWiUyは、LondonのDucaneの家で彼の留守 中訪ねて来たJessicaと偶然に性交渉をもったが、

「自分は死んだ人間だ」と言い、Trescombeに彼 女が訪ねて来ても会おうとしない。「ぼくは現在の ない単なる過去なのだ」と言って、ダッハウでの 自分の裏切り行為をもう一人のhemUtであるTheo に告白する。Theoが言うには、「人は他人の要求 する自分の罪をすぐに忘れなければならない。で もどうやって。要は善なるものを愛する以外重要 なことは何もないということだ。悪を見ずに善な るものを見つめることだ」(p、355)。善なるものを 見つめることが悪を打ちくだき、善に達すること なのであろう。見ること=注意(attention)が、

Murdochの処女作UhdemhejVet以来彼女の諸作 品の中にリゾームとなって縦横に走っているのは、

シモーヌ・ベイユの影響であるというのが定説と なっている'2。

最終章(40章)の大団円では、Trescombe

Houseからの離散が始まる。Shakespeareのロマ

ンス劇のようにその結末は華やいだものである。犬 のMingoと猫のMontroseが仲良くいっしょのバ スケットの中に入っているのがこの小説の大団円 の様子を象徴している。かくてDucaneはMaryと 結婚し、Pierceを息子とし、この母子は邸から出 て行く。しかもDucaneが、Judyといっしょに旅 立った運転手のFiveyの代わりに雇ったのはPeter McGrathだった。

T1Ieoは、インド滞在中若い修行僧を事件に巻 き込みガンジス川で死なせた過去の罪を負いイン

(10)

76

ドを離れていたが、唯一の頼りだった老人が死ん だという手紙をインドから受け取る。Theoは Ducaneのように、自分を廃虚の中のネズミと見な していて、それを自分自身の中に生き、堕落した 空虚なものと見なしている。

toftlcethebackwallWhereantheycansee

areshadows,castbyaHrCWhichisbehind them,ofthemselvesandofobjectsWhichare

calTiedbetweenthemandtheflre・Laterthey

managetotumroundandseethefireand theohjectswhichcasttheshadows・LaterstiU theyescapeftDmtheCave,seetheoutside woddintheUghtofthesun,andfinaUythe sunitselfTYlesunrepresentstheFbrmofthe GoodinwhoseUghtthetruthisseemit revealstheworld,hithertomvisible,andis alsoasourceoflife.(P4)

DeborahJohnsonは、幻想のイメージをもつこ の洞窟は潜在的な真理の在り処、すなわち巫女

(シビラ)の洞窟という暗黒かつ不可思議な二面 性を有していると言っている'6.プラトンの洞窟の

比嶮は、フェミニズムの批評からは疑問が残る。

LuceIrigamyによると、洞窟のプラトン的イメー ジは一連の対立項の組み合わせを提示していると いう。すなわち、内と外、高低、日光と地中の 火、逃亡した人間と囚人、真実と影、真とベー ル、現実と夢、知覚と感覚、善悪、単一と多数 といった組み合わせである。これは悪しきものか ら良きものへの<飛躍〉であり、〈上昇〉である。

高みへ向かって場を移動すること、直線的に進行 することであって、垂直的でもあり、男根崇拝的

ではないのか。こういった〈飛躍>においては、

交渉、転位、つまり上記の二つの対立項の領域の 往来といった可能性が閑却されていると言うので ある。洞窟子宮説という誤った地誌学は、洞窟と 外なる世界すなわち忘れられたヴァギナ間の回廊、

通路を省略し、無視しているとも言っている。こ のいつたふうに洞窟の異なった見方をすることは、

この比楡の中の太陽と同一視されている神聖父性 的ロゴスという単一原理によって否定されてしま っている。Lucelrigarayは、西洋哲学のディスク ールに表われている男性システムに特権を与えて いることに対して、この比楡に存在するメタファ ーのネクサス(主一従関係)を応用する目的で詳 細にこのネクサスを転倒してみせる。彼女は、太 陽=ロゴス、善のもつ眩惑、絶対神の醤気楼、そ れに目を向ける者を盲目にし、過去に囚われた洞 TheohadbeguntogUmpsethedistance

whichsepaTatesthenicefromthegood,and thevisionofthisgaphadterrifiedhissouL

(p359)

FiPankBaldanzaの言うように、「この小説の向か うところは、ふつう過去の出来事への利己的な先 入主に捕らわれた妄想的なデーモンの悪魔払いの 儀式である」'3゜こわれた廃虚と、その中のネズミ のイメージは、死への接近、生まれながらにして 死すという空虚な生活であったが、それまでの欺 職に満ちた混乱の自分をどう変化させたらいいの かあのインド老人なら答えてくれたかも分からな かった。iiThenice1IとI1thegood11、この両者を隔 てている距離が見え始めたのは、過去の自分のエ ゴイズムによって現実から逃避していたことを真 正面から見つめようとすることからであろう。エ ゴイズムとしての愛と、無私の愛の差異に気付き、

インドへ戻る決心をする。これはシモーヌ・ベイ ユが工場の住み込みの女工となって〈受苦〉に耐 える愛の行動を起こす逸話を連想させる。「おそら くは自分は結局あの緑の谷間で死ぬことになろう」

とTheoは言う。i'T1lenice1lである人々は、「この 最終章で描かれているたくさんの結合によって表 現されている人間臭い愛のたぐいを、またIIthe good11である人々は無私・超越した精神的な愛に 帰する者」MとBaldanzaは類別していて、さらに、

ある種の無私はこれら二つの愛が最高のそれのと きには共通するものであると付け加えている。こ こでも、TheoがWiUyに語った「善なるものを愛 する以外重要なことは何もない」ということが、

至高の愛とは悪を斥け、善なるものへの愛である ことを再確認することになる。このシニフィエは、

けだしプラトニズムのプロパガンダそのものである。

プラトンの洞窟の比喰について、Murdochは meFh℃andtbeSiJn15でこう言っている。

ThepnsonersintheCaveareatfirstchained C

(11)

77

を克服するには道徳的に強いとか弱いとかという 正しい概念を人はもたなければならないであろう。

だがMurdochは、水泳は溺れることもあるからみ なだめだとでも言っているふうである。〈内省〉は いかなるものでも〈唯我論>に至る危険な道の一 歩だと感じているようである。文芸批評において は、作品から作者が切り離されているその程度に 応じてすぐれているかいないかが分かると言うので ある。例えば、トルストイは成功しているが、ド ストエフスキーは成功していないというふうに。

Murdochは、フィクションにおいて、諸概念を隠 そうとするよりも、教訓主義を避けているのであ ろう。以上がRabinovitzの大体のマードック論で ある。作家の不在と作中人物の自由な存在こそ、

彼女の小説作法の真骨頂であろう。

窟に戻っても何一つ見えなくなるだろうという読 み方をする。太陽に至る道は、やがて視覚の喪失 につながる。筆者には、洞窟への解釈が男性原理 に偏向しているというのが適切か否かよりも、こ の小説における洞窟でのイニシエイションを受け るのは二人とも男性だったことに、Murdochのうとうかい イクション上の鞘晦と美学偏重力x垣間見られるの にむしろ興味を覚える。

RubinRabinovitzが言うように、Murdochはよ く読者を困惑させ、不可解な印象を与えさえする 作家で、作品上未解決の問題がたくさんある理由 の一つとしては、彼女がその哲学的概念を小説に 含ませたいと思うと同時に抑制もしたいという相 矛盾する気持ちがあるからだというのも首肯け る]7。また、彼女の哲学に関する著作を読まない と、知的な読者でも小説中に提示されている道徳 的立場について不確実な点と、プロットがもつす べての意味が把握されるわけではないという感じ をもったまま小説を読み終えることになる。しか しMurdochの哲学の著作を読むと、シモーヌ・ペ イユについての理解が必要になってくるが、ベイ ユとMurdoch両者の思想の大部分はプラトニズム に基づいているようである。また、彼女はカント、

ヘーゲル、サルトルや言語分析学派などの批評を ものしているが、その中にキルケゴールを加えても よい。そのわけは、彼がより無神論的な実存主義 者たちとちがって、孤立した個人の世界からは宗 教のもつ不可思議さを取り除くことをしなかった 点にあるからである。その他に、MurtinBuber、

GabrielMarcel、』.L、Austin、G、E、MooreStuart Hampshireなどの哲学者がマードックの著作に影 響を与えていると指摘している。ただし、Mu喉 dochは自身を哲学的小説家ではないと否定してい るのだが、それは小説家としてドグマティックな 傾向をもつことの恐れがあるからである。彼女は 他者の出来事に最も関心をもっていて、愛情ある 関心こそ愛の成就に必要だと繰り返し発言してい る。彼女には、自らの概念を正確に定義するのに、

愛情ある関心といっそうの好奇心との間の差異は ほとんどない。Murdochの弱点の一つに<主観 性>の危険を余りに強調しすぎるきらいがあるこ とである。自己認識に至るには、ある程度は道徳 や愛を成就する必要があるし、道徳的危機の変転

結びにかえて

この作品の幕切れにあたり、Paulaの双子の EdwardとHemiettaはTV番組「X-ファイル」の モルダーとスカリーのようにまたも美しい空飛ぶ円 盤を見る。二人には見えるが大人たちには見えな い。「円盤に乗っている人たちは善良な人たちだと 思う」。「あの人たちはとても賢いから何も害を与 えることをしないんだ」(p362)と二人は言う。

その場所は、PierceとDucaneが洞窟内のエピフ ァニーを体験したGunnarisCaveの上の崖のふち で、これまでも何回か円盤を見たことがあったの である。Murdochは「善なる人間はついには太陽 を見ることができる者だとプラトンは説明してい る」と言っている。上記の引用にあるように太陽 は「善の形相」、プラトニズムでいうイデアであ る。円盤は、太陽の光を借りずにそれ自体の光で 輝いていた。太陽の光を直接見ることはbhndness をかえって引起こしやすいのに、円盤の光は目を 傷めることなく、修羅や五濁無仏の世に晒されて いない幼い子たちの無垢な目には善の形相の表象 としての円盤が見えるのである。「他者との関係は 善を志向する運動である」とエマニュエル・レヴ

ィナスは「実存から実存者へ」岨で述べていて、「善

においては他者の実存することのほうが、私の実 存することよりも私に重要である」とし、「他なる もののために、その身代りとしてあること、他者 の責任を引き受けること、愛すること」'9と対談で

(12)

78

t)語っている。一方において「地獄とは他者のこ とだ」というサルトルについて言えば、「嘔吐」の ロカンタンがマロニエを見て吐き気をもよおすの は、不透明で複雑で還元不可能な現実の人間や物 に対してであって、そこには孤立した個人の救い ようのない苦悩が読み取れる。レヴィナスのよう に利己的実践から利他的実践へと視点をシフトす ることは、苦悩が深すぎて不可能なことであろう か。それ故に小説家としてのサルトルヘの評価は ともかく、哲学者としてのサルトルはアンガジュ マンに身を挺したのではないのだろうか。レヴィナ スの立場はMurdochの小説家としての立場に近い もののように思われる。梅原猛は賢治論で言って いる。「賢治は、おのれを殺す利他の行によっての み、仏の世界へ行けると考えていたようである。

他のためにおのれの命をささげること、おのれを空 しゅうして他人のためにつくすこと、もちろんそれ は大乗仏教の菩薩行の理想である」。ここにはベ イユの思想が生きている。他者への必死の求愛行 為が見られる。Murdochの思想は道徳哲学を中心 にすえているが、驚くほど東洋思想、なかんずく 仏教やインドの思想に近い。オックスフォードで 哲学を講じていたMurdochはギリシア以来の哲学 を東洋の思想と融合させることで、哲学で果たし 得なかったことを小説で実験してみたかったのか もしれない。さらに太古へと人間の誕生にまでさ かのぼって、これらの哲学はミトコンドリア・イ ヴに行き着くかもしれない愛の哲学ではないのだ ろうか。ここの子どもたちもTiPescombeHouseか らPaulaに連れられて去り、「ヒモロギ」の地は寂 しくなり、もう一つのAMidsummerNight1s Dreamは幕を引くことになる。愛の島シテールは どこにでも偏在し得るのかどうか。そしてロンド ンでは果たして円盤が見られるのであろうか。

Good,AEaj「1yHmoumbleDelbat(1970),An AccjdentaノM、(1971)などをIidomesbicnovels11と 言っている。

3.FrankBaldanza,lITheNiceandtheGood,Ioin MOdemFYchronSmdieqXV(Autumn,1969),

p417.

4.jbjdbp、417.

5.IrisMurdoch,Sam画RbmantibRa血naHSt(Lon‐

don:Fbntanal953).

6.BrendanHennessy,「アイリス・マードック」室 谷洋三著訳、英潮社、1977年、p53.

7.竹田青銅、「エロスの世界像」、講談社学術文庫、

1997年。

8.「英語研究」4月号、研究社、1969年。

9.デポラ・ベーコンは、伸び縮みするアリス(「不 思議の国のアリス」、「鏡の国のアリス」の主人公 の少女)を男根の象徴と言っており、野ウサギの 穴はミルチア・エリアーデの言うように地下のこ

とであるから子宮をも象徴すると思われる。

10.小さなネズミは男性性器の象徴であるとフロイ トの弟子・心理学者のマリー・ポナパルトは言っ ている。、H・Lawrenceの短編小説nhmgsにも ヨーロッパ文明に疲れて新大陸に渡ろうとした男 女がうまく行かずに尾羽打ち枯らして帰国するが、

自らを「片隅に追いやられたネズミ(窮鼠)」と 称する例もある。

11.前掲書「エロスの世界像」、p、64.

12.例えば、FrankBaldanzaは、SimoneWeUの attentionを「個人の現実に向けられた正当で愛あ るまなざし」とMurdochが言っていることに注目 している。hiSMizmbchOJewYOrk,TWaynePUb lishers,1974),p27.またRubmRabinovitzも、特 にT7ieFIightsの中での愛の問題で対等の愛でな ければ愛は成立し得ないとMurdoChが言っている とし、人はバランスのとれた愛はattentionを通し て成就できるとしているのも彼女がattentionとい うタームをWeilから借用していて、attentionは他 者の現実の正確な理解から成立するもので、この 理由からl1see11はMurdochのフィクションでは重 要だと述べている。lnisMUmOch,OJewYork&

LondomColumbiaUniversityPress,1968),p、17.

13.IITheNiceandtheGood,lImMOdemF允加、

Studies,XV(Autumn,1969),p427.

〈注〉

LIrisMuldoch,meMbeandtheGood(London:

Chatto&wmdus,1968).ただしここでのテキスト は(HalTnondsworth:PengumBooks,1969)を 用い、以下()内に引用ページ数を付す。

2.DonnaGelstenbergerは、meSandbas比(1957),

AnUnolツテCialRDse(1962),meハHCeandthe

(13)

79

14.ihid

l5・T1heEhPandlheSun,(London&NewYork:

O)dbrdUniversiUPress,1977).

16.DeborahJohnson,mSMUmOch,(Brighton:The HarvesterP泥ss,1987).

17.seenねMmjoch,(NewYork&London:colum‐

biaUniversityPress,1968),pp、43-44.

18.EmmanuelLevinas,DejbKiStBncedlもxjStzmム

(Paris,Ed・delarevlleFbntaine,1947)(「実存か

ら実存者へ」西谷修訳、朝日出版社、1987年)

l9EmmanuelLevinas,Qui6tes-vDus?byFrangois

Poiri6(Paris:LaManufacture’1987)(「暴力と聖 悩一レヴイナスは語る」内田樹訳、国文社、1991 年)

20.梅原猛、「地獄の思想」、中公新書、1967年、

p214.

参考文献

(1)プラトーン「国家」(1970)長潔信瀞訳註 東海大学出版局。

(2)港道隆(1997)「レヴイナス法一外な思想」

「現代思想の冒険家たち16」講談社。

(3)クロード・ダルヴイ他(1991)「シモーヌ・

ヴェーユその劇的生涯」稲葉延子編訳春 秋社。

(4)渋澤飽彦(1984)「エロス的人間」中公文庫。

(5)プラトン(1965)「饗宴」久保勉訳岩波 文庫。

(6)プラトン(1967)「パイドロス」藤沢令夫訳 岩波文庫。

(7)BS・ブラック(1992)「プラトン入門」内山 勝利訳岩波文庫。

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