• 検索結果がありません。

戦後占領期の民法・戸籍法改正過程(5)「家」の廃 止を中心として

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "戦後占領期の民法・戸籍法改正過程(5)「家」の廃 止を中心として"

Copied!
74
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

止を中心として

著者 和田 幹彦

出版者 法学志林協会

雑誌名 法学志林

巻 101

号 4

ページ 77‑149

発行年 2004‑03‑18

URL http://doi.org/10.15002/00006491

(2)

序章(九十四巻四号)第一章憲法二四条成立過程と民法・戸籍法上の「家」制度序節第一節GⅢQ/GSの初期起草作業第二節日本政府の起草作業とGⅡQ/GSとの交渉第三節棚論遜法制定に側する三月六日以降のGⅡQ/GSの方針第四節枢密院での審議第五節帝国議会・衆議院での審議(第一款まで九十五巻一言盲)第六節帝国議会・貴族院での審議(第五節第二款から以上まで九十五巻四号)

戦後占緬期の民法・戸繍法改正過隈(瓦)(細川)

戦後占領期の民法・戸籍法改正過程(五)

「家」の廃止を中心としてI

第七節小括第二章民法改正過程l戸籍法改正過程に先行した民法上の「家」廃止方針決定の予備的考察l序節第一節迩法二四条下での民法上の「家」存廃の逃択の余地第二節日本側の「家」廃止方針決定過程第三節GⅢQの「家」改廃方針・その日本側への影響第一款日本川山科(以上百一巻二号)第二款GⅡQ/GSの「家」改廃方針・日本側への影響lGHQ側史料による新たな知見の整理’第四節補論「氏」

ヒヒ

和田幹彦

(3)

第二款GHQ/GSの「家」改廃方針・日本側への影響lGHQ側史料による新た極知見の整理l

(師)本款では、主としてGHQの内部文書に依拠しつつ、日本側史料も併せて参照し、GHQの「家」改廃方針を概観

し、同時に日本側の「家」制度廃止方針決定への関与を考察する。GHQ内部文書の引川である、「史料(番号こは、

本号・本文末に掲載する「付属資料3民法改正過程に関するGHQ文書一覧(時系列)」に従っているので、詳細

な出典箇所は同資料を参照されたい。(文書によっては簡単に内容を紹介してある。) 法学志休第一○一巻第四号lオプラー/0sの「家」改廃に関する方針との関連でl第一款制度としての「氏」第二款「氏」を巡る民法改正過程第三款オプラー/GSの「家」改廃に関する方針と「氏‐’第五節小括lu本側・GHQ/Csの方針の射程及びその限界l付属資料3民法改正過程に関わるGⅢQ文書一覧(以上本

第三節GⅡQの「家」改廃方針・その日本川への影響(承前) 七八

号)

功t第六節補論1本拙論(特に第一一章)のテーマを巡る最近時の研究動向について第三章戸籍法改正過程の諸段階第四章「家」制度廃止を起因とする戸籍法改正第五章人口動態統計の精密化,プライバシー保護を起因とする戸籍法改正結章

(4)

/虹、。 GSは民主化の柱の一つとして、憲法改正以前の極めて早い時期である一九四六年一二月末に既に、「家」制度改(鉛)革の問題を重視していた(付属資料3、以下同様史料(1)ロロ司低・←)。

その後、既に日本側史料にも見た通り、民法含め諸法の改正作業が始まり、GSはこの多くをGHQ側で所轄する(鋤)のだが、重要なのは、この時期GHQは公式には法的「家」制度廃止方針を立てていなかったことである。当時、G

S内には法制改革全般について、次の二つの基本的な、場合により相反し緊張関係に立ち得る決定原理が働いていた。

(これを便宜上、強制原理.|任原理と名付けておく。)

「強制原理」基本的占領政策上の問題は、憲法で確立した根本原理に従うべきであり、日本側の法制改革がこれを逸脱しかねない場合、阻止するために最終的には強制力の行使も辞さない。.圧原理」しかし、具体的な改正法は、占頗終了後に反動で逆戻り等しない、日本の社会に根付くものでなくてはならない。そのためには法改正を、内容的・手続的に日本側の自主的作業に醗本的に任せる必要がある。また場合によっては、日本側に任せる外観を作るという政治的演出も必要となる。

この二原理が互いに緊張関係に立ちつつ働く、法制改革の全体的構図を明示する文書を見ておこう。

先ず、オプラー自身が作成した一九四六年四月二日の「日本政府による司法改革計画に関連して、民政局によっ

てとられるべき措置」という題の覚書(史料(4))がそれである。これを要約・引用するオプラーの一一一一口を借りてお

「そこ[この覚書]で新憲法の諸原理を現実化するための仕事について注意を促した。第一に、私は法令の改正を国会に任せ、その起草を日本政府の機関に任せることが連合国最高司令官の一般的な政策に適合することを指摘した。そうすれば、法制度の自由主義化は、連合国最高司令官の命令によって達成され得るものよりも

戦後占傾期の民法・戸籍法改砿過程(五)(和四七九

(5)

法学志林第一○一巻第四号八○

価値があり、かつ長続きするであろう、と私は記した。これは占領軍側の受動性を意味しない、と私は続けて記し、占領軍の仕事を以下に限定した。すなわち、(a)占領目的を阻害する法令を廃止し、かっこの種の立法が出されないよう予防すること、(b)占領目的を促進するための立法を示唆し、促進すること。次にその覚書において、私達の主張の強弱を明示する必要を強調した。非武装化、独占資本主義の排除及び封建主義の撲滅の問題に関しては、私達の主張は妥協してはならない。しかし、その他の改革は『西洋人の目から見て望ましいと思われようとも、連合国最高司令官によって押し付けられるべきではない。……〔ママ]私達は強制によるよりは、むしろ示唆と助言によって広範な目的に向けて漸進的な進歩を奨励すべきである。』と述べた。[…]この覚書は、私の改革の糠神を明らかにしている。[…]われわれは、強制でなく、助言と説得に重きをおいたということを何度も強調したが、この覚書はそのことを裏づけるものといってよいであろう。」(オプラー『法制改革』六九’七○頁、原典ト偶百』幻のひき・ロロ沼I麗尚、前号同雛、水‐文中の出典記救は、本号川稿末の「略語表」を参照。)

時期を移し、同年八月、また翌一九四七年六月の段階でも、この基本的枠組みは変わっていない。まず、四六年八

月七日付の文書で、オプラーは内藤の質問(後述)に次のように答えている。

〔私が答えたのは]自分の個人的な意見では、女性の法的平等と、家族構成員の個人の自由を損なう戸主権(住所変更・婚姻・養子その他に対する同意権)の廃止を、SCAPは間違いなく(譲れないものとして)主張するであろう[ということである]。(史料、))

換言すれば、これらの点が強制原理に従い譲れないのであって、それさえ満たせば一任原理に依って日本側の自由な

決定による形式的な「家」の存置も可能、という趣旨を暗に含むであろう。

また、同年八月一九日付の文書でも、オプラー曰く、

(6)

Cl&Eのウィード中尉と私は、司法省を代表する人々に対して、SCAPは、家族制度の全廃を強要するつもりはない(君・ロ]・ロ・ロロ⑫厨[。□四8日□」の【の:。一日○口)旨を指摘し[てき]た。[以上、一任原理]尤も、

全廃を歓迎するであろうとも脂摘した。我々が述べてきたところに従えば、SCAPが先ず[第一蕪的に]関 心を持っているのは、民法の家族法が新惑法に適合するために必要となる改正である。[以上、瞼制原理]そ

の意味するところは、特に、「家」の構成員個人の日川を制限する権力全てを戸主から奪うこと、また婦人の法的平等を確立すること、であったであろう。委員会[司法法制審議会〕[の決定]がこれらの要諦[される改正〕をも超え〔る内容であつ]たという醜く実は、一M喜ばしいことである(史料行))。これを一言で言えば、「家」制度全廃を強要はしない、希望はするが、ということである。Ⅱ本川の(二次的)史料の①で奥野が言及するオプラー発言も、「『家』は問題だ。」と臓摘するのであって、「家」を廃止すべき、とは言わず、

「戸主権・家督相続はいけない」と主張することでこの「問題」を違憲となる限りで、との趣旨で限定したものと読

むことはできる。この場合、①に見るオプラー発言も、強制原理の限定的適用の現れと見ることができよう。また、

⑤で奥野が言及するウィード発言も「家」存置が違憲となるならば問題だという訳であって、強制原理の表れと見ら

れる。(尚、以下、〕②③…等の数字は全て、本節第一款のⅢ本川史料の数字である。)尚、⑥のオプラーの靴腿口は、一九四五’四八年のGSの活動を総柄する公式報告書中の言表であって、公表を前提

にしていることからも、その政治的意図も考慮すべき記述ながら、基本的に右に見た史料と機軸は一にしており、強

制・一任原理とその優先度・拮抗を表したものと理解できる。(⑥については更に後述。)

他方で、プレイクモァはこの点を如何に考え、また対応していたのであろうか。四七年六月のプレイクモアによる

文書を見よう。プレイクモァは、この段階の民法改正草案について、以下を述べている。

戦後占緬期の民法・戸廠法改正過僻(圧)(和川)八一

(7)

法学志林第一○一巻第四弓八二

[現在の状況では]法案の変更を命ずるSCAPの指令(曰『のo〔ご①の)を出すことには反対する。〔即ち]もし明白に意見であるか、根本的にかつ間違いなく忌避さるべき条文がこの[民法改正]草案に見出されるなら、そうした条文の削除は跨踏なく[GSにより]要請されるであろう。[以上、強制原理]こうした問題はしかし、存在しない様である。もし[草案の]変更が[GSにより]命令されるならば、結果として百人を超える日本の学究者からなる、広い範囲から選抜され公正に構成された委員会による推薦案を棄て、GSメンバー個人の見解をこれに代えることになる。異国人の観察者[GHQのこと]よりもこうした学究者の方が日本の社会的・法的現実を明らかに身近に把握している[以上、一任原理]のに、である(史料(犯)日日・局)。

換一一一一mすれば違憲であれば草案修正は必須であるが、そうでない限り日本の専門家の判断を尊敢すべき、ということで

ある。(もっともブレイクモァの主張の理由は必ずしも首尾一貫する原則ではなく、OS内部の意思の不統一が窺わ

れる。)ブレイクモァの後の⑭発言全般も史料(犯)と同様の趣旨であり、この内、「[…]外同に影響されて、少数

の人々で改正が行われたのでは、学問的に無意味だし危い。しかしながらGHQとしては占緬目的にあわないものが

あれば、改正しなくてはならない。この間に矛盾があった」にも、基本的にこの強制・一任原理の緊張関係の枠組み

(㈹)次に、GSの「家」制度に関する方針を基準‐とすれば、民法改正過程を大きく前期・後期に分けることができる。

「前期」はGHQが一部で、事前準備的検討を行った一九四五年一二月末から、GS・Cl&Eと司法省の民法を(杣)めぐるコンタクトが始十よる一九四六年五月を経て、GSの主観的理解によれば日本側の「家」廃止方針が初めて安定

する同年八月中旬(一六日、詳細後述)までである。この時期の文書は、Gsが基本的に改正を日本側の作業に一任

あれば、改正しなくては』が存在すると考えて良い。

(8)

したことと、「家」改廃に関するGHQの意見も個人的なものであることを明示しており、日本側の(二次的)史料

を裏打ちするものとなっている。

即ち、GSの言動はまずは一任原理に従い、日本政府に対して、自主的法改正作業を奨め、実質的・手続的にこれ

を尊重している。即ちオプラーは、四六年五月二八日の木村篇太郎司法大臣・奥野健一民事局長等との会談で、法制

改革一般について、「自分の意見では、日本の当局、身が諸注の改爪作業を始めるべきであって、我々には当局の計

画につき継続的に愉棚提供してくれればよい、GHQの助言と提案はこれに引き続いた時期に初めて登場することに

なるだろう」(史料(8)日日。②)としている。②の術川発一一一mは、この頃のGSI司法省のコンタクトを意識したも

のであろうが、愉川が推測するほどの具体的な意見交換を示す一次的史料はGⅡQ側にも見られない。(存廃二案を

奥野がGSに持ち込んだという一次史料はこの時期にはなく、史料(旧)で八月一二日乃至その後には奥野(?)に

よる「二案持ち込み」があったことが判明する。)⑦の小沢発一一一一口は、この五月の司法大臣とGSの会談に言及したと

思われるが、匝接改旺作業に関わった小沢自身が(主観的にせよ)GSの影響を意識していないことは、0sの一任

原理が機能していたことの一つの裏付けにはなる。また、⑭のプレイクモァ発言、「GⅡQは日本政府を刺激して、

日本政府に案を作らせなくてはならないと考えていた。」も右のGSの方針と一致する。

また、「前期」には、「家」存廃の別をGS・Cl&Eの公式方針としては言わず、それを匂わせる意見も、内容上

は実は強制原理の表明であっても、伝達方法上は強制原理の強制力の行使は控え、「インフォーマル」「個人的」意見

として一圧原理の衣を掴わせて、Ⅱ本川に伝えている。

戦従占微期の民法・戸鰯法改正過曝(五)(加川)八三

(9)

また、日本側の自主性の靱赦や、枕制力の行使の極力回避と通底することだが、「インフォーマル」「個人的」意見(化)であることを強調するのは、先ず、前述の四六年五Ⅱ一一八冊の木村大臣・奥野局長との会談でのオプラー発言である。

奥野が、法制改革につきCsに何らかの提案があるか、と聞いたのに対し、オプラーは、「我々の会談は全くインフ

ォーマルなもので、法制上の諸問題を討議するのに適切な時と場所とは考えていない。」と答えている(史料(8)(旧)ロ⑪『P②)。次に、同年八月七日付けの同日の川島と内藤との「インフォーマルな会談」の記録に拠っても、内藤が明

確に、形式的な「家」存侭の可能性も含めて、「家」存廃についての「SCAPの立場を知りたい」と求めるのに対 法学志休第一○一巻鮴四号八四

強制力の行使を控えているいう実例は、四六年八月八日の司法省奥野民事局長ほかと、オプラーの会談の記録にあ

る。日本側の法制調査会・司法法制審議云云等の保守的グループの見解を司法省が英文で纏めたものと思われる「新憲

法下の、民法典の「家」及び戸主制度の修正に関する一見解」(史料(旧))は、要すれば「家」と、殊に戸主は「形

式のみ、シンボルとして残る」、但し戸主は基本的に男子、としていた。これに対し、オプラーが女性差別にな〔り、

違憲であ]る、と批判したところ、奥野は農村地帯での戸主廃止は、農地細分化等を惹起し問題、と反論した。オプ

ラーは会談後、零細艇家を均等川続の例外とする立法を考咽している(史料(旧))。この通り、「違憲であるから絶

対に受け入れられない」と言い得たにもかかわらず、記録上はそうした表現もとっていないのみか、対応鏑まで考噸

している。後のプレイクモァ発言、⑭の「GHQは強制樅はもっていたかも知れないが、私は強制権は使いたくなか

った。間接的には使ったかもしれない。」というのも同一機軸である。

し、オプラーは、

(10)

他方で、日本側に対し、こうしたGS・Cl&Eの(インフォーマル・個人的な)意見が受け入れられるべく努め、

同時に最終的決定権をGHQに留保することも忘れてはいない。即ち、まず四七年五月末に、オプラーは、日本側に

自主的改正作業を奨め、これを尊敢しながらも、GHQの助言と提案はその後に示す、とする(史料(8))。また、

同年七月下旬には、この段階でのGSの「助言や情報」は「一時的」なもので、GHQの「岐終的な態度決定は臨時

法制調査会の第三委員会によって法案が承認される時まで留保される」と念を押している(史料(川)ロ四国L)。

(尚、こうした最終決定権の留保は、以下の「後期」にも見られることは、言うまでもない。後述史料(弘)の箇所

を参照。)以上を踏まえれば、⑧で「GHQとの関係は民法に関しては、はじめの頃はなかった。少くとも僕の関係

している限りはアドバイスはなかった。」という村上発言は、村上に限って一安当し、「アドバイス」程度のGS発言は

あったと見るべきであろう。 と答えている。また、時期は一週間遡るが、七月三○日のオブラーの「家」廃止を支持する、との川島への発言③も、個人的な意見であるニュアンスは強い。(同じオプラーの発言に対する④の川島の理解については後述。)⑤のウィードが説く「家」廃止も、奥野は「個人的な意見」であった、と回顧する。 自分はその質問に公式に答える権限がないことを強調した。〔私が答えたのは]自分の個人的な意見では、女性の法的平等と、家族構成員の個人の自由を損なう戸主権(住所変更・婚姻・養子その他に対する同意権)の廃止を、SCAPは間違いなく(譲れないものとして)主張するであろう[ということである]。」(史料、))[強調和田・後半は前出]

戦後占緬期の民法・戸灘法改正過腱(五)(椰川)

(11)

(Ⅲ) これに対し日本側は、起草委員会は当初(七m川)より一貫して、「家」は法制度としては全廃を予定している。尤

もそこでは、⑩の伐斐発言に兄られるように、自主的全廃方針決定とはいえ、GⅡQ/Csの意図をも鵬川しつつ、

その間接的影響を受けているとも読める。⑩に鑑みれば、同じ伐妻による⑪の発言、殊に起草委員会の「家」廃止方

針が「たまたまGHQの意向とも一致」したというのは、発言当時(一九五四年)の「家」制度復活論を強度に意識

した、政治的色合いの濃いものと理解せざるを得ない。この点以外にも⑪発言の(乃至『経過』中の起草委員の発言

全般に散見される)政治性についてここで言及しておく。第一章で述べたが、憲法二四条の(a)二義的解釈、

「『家』存廃とも可能」とする運川選択肢存在論(b)一義的解釈、「家」廃止のみ可能とする運用選択肢不存在論、

については、(a)の枠組では再び「『家』存置」に振れ戻り得るという不安定性があるに対し、(b)ではこの不安

定性がない。当初より「家」廃止方針を打ち出した民法・戸籍法の起草委員は、従って、「家」の存置・廃止なる根 そしてGHQの一次史料で新たに判明するのは、日本側が違憲ではない範囲で「家」制度存置を決定した場合、容認もやむを得ない、というCsの方針である。即ち八月一二日、日本側の方針決定直前の顛要時期に至って、オプラーとCl&Eのウィードは会談し、「半封建的戸主制度の全廃如何は日本人の最終決断に一任する」と合意し、但し戸主の諸権限のうち「家族の個々の構成員個人の自由を制限するような戸主権は全て」と長子による家督相続は廃止すべきであり、こうすれば戸主と家族制度は、実体のない「伝統的・儀式的」なものと化すだろう、と結論したのであった(史料(川))。 法学志休第一○一巻第四号

一、c

′、

(12)

(旧)本問題については基本的に(b)の立場を採ろうとする。ところが、同卜)起草委員は、この「家」廃止の方針が日本

側・GHQ側のいずれにより決定されたのか、という問題が論じられると、途端に(a)の運用選択肢存在論を匂わ

せ、その下で日本側(起草委員)が自主的に「家」廃止方針を選択。決定したのである、と主張するという矛盾を冒

している。特に、この我妻の⑪発言にこれが顕著に表れたと言えよう。要すれば、(a)を採れば、⑪の「殊に一番

根本になる『家』の廃止は、全く起草委員の独自の発案であって」という主張が可能になる。しかし、(b)を採っ

てしまうと一義的に『家』廃止となり、運用選択肢は不存在ゆえ、残された問題は単に、この自明の結論を、日本

側・GHQ側のどちらが時間的に先に言い出したか、の一点に嬢小化されてしまう。一九五○年代のいわゆる「逆コ

ース」の『家』復活論争の渦中で、「『家』の廃止は日本側から自主的になされたもので、GHQの指示などは無かっ

た、「この点を誤解する人は、日本も占領が終って独立したのだから、占領中に廃止させられた民法の家族制度も、

そろそろ復活すべきだという議論をするが、これこそ全く的はずれの議論だと思います。」との論法で、「家」復活を

阻止せんとする元起草委員にとり、右の「嬢小化」は望むところでなく、これを避けるために(a)を採る⑪の如き

政治的発言行われた訳である。

他方で、起草委員は、「家」類似の若干の新規定を以て、保守派との妥協を計っていた。しかしながら、八月上旬

に、保守派が支持するであろうという「家」存置案を奥野がGSに報告した際も、内容は形式的・象徴的「家」に止

めており、強制原理による限定を自主的に付して来たことになる(史料(皿)・史料(旧)、また史料(旧)も参照)。

ただ留意しておくべきは、八月一六日以前のGHQの「個人的な意見」や同日以降の「公式意見」(直ぐ後述)は、

日本側にGHQの(内部的・対外的を問わず)公式方針は「家」全廃にある、との理解ないし誤解を持たせ、これが

戦後占領期の民法・戸繍法改正過樫(Ⅱ)(扣川)八七

(13)

OSの「家」制度に関する方針を基準とした「後期」は、四六年八月一六日司法法制審議会にて妥協案が成立し、

(GSの主観的な理解では)日本側の「家」廃止方針が初めて安定した翌U一七日から後とし、民法・戸籍法成立の四七年一二月九日までである。この時期以後0sは一貫して、(前述の通り一任原肌の衣をまだ薄く綱いながらも)「家」廃止は日本側の自主的決定である事を新たな論拠に日本側に対しその貫徹を求めてくる。しかも直後の八月二

○日付けの日本側新草案が「家」制度は廃止しながら、「家」類似規定を多々残していたことに詐術を感知して後は (この前後の、八月一九日付のオプラーの筆になる文書である史料(Ⅳ)bmB・のと、『軌跡』二二八’二二九頁の八

月二○日過ぎとなるオプラーの言動の対照を見よIまた、本章・第四節の氏に関する補論中、オプラーのこの時期の民法草案第二次案に対する反応の条りも参照)、日本側が「家」頬似要素排除に麟踏を示せば容赦なく強制原理を APは驚くと同時に、進歩的態度の表明としてその議決を歓迎した。」〔強調和田]とCsの公式記録に書いているが、臨時法制調査会の部会を兼ねる司法法制審議会の、この八月一六日の議決をも併せてここでオプラーが⑥に記録するものであるとすれば、直前に内部的に決定された、右の史料、)に見る「家」制度存置容認もやむを得ずというGSの方針から見れば、「SCAPは驚」いたと表現しているのもあながち政治的ポーズのみとは言えまいと思われる。 法学志林第一○一巻第四号八八

日本側の「家」廃止への推進力になった而もあることであろう。(⑭でブレイクモァは、「GHQは強制権はもってい

たかも知れないが、私は強制権は使いたくなかった。」と言いつつも、「間接的には使ったかもしれない。」と一一一一口って

おり、部分的こうした強制権の使用が日本側にも関知されたとすれば、この見解を更に補強することになろう。)

尚、⑥でオプラーは、「臨時法制調査会[メンバー]の過半数が[家の制度の]廃止に賛成票を投じた際に、Sc

(14)

更に、四七年五月の、それまでのGSの法制改革作業を纏めたと思われる文書(史料記))、及び四八年八月のそ

の改訂版(史料薊)以下に、〈〉で示す部分がそれである)には、以下の記述が見られる。(以下は、史料上は民

法に限定しておらず一般論だが、重要であろう。)日日・山は、四六年春に、GHQは法制改革は日本人に一任しよう、という意見が多数であったところが、その後、「直に、日本の当局は法制改革の本質的な要請を十分には把握してい

ないことが明白となったため、GSは助言のみに自ら〔の仕事]を限定できなくなり、〈体系的指導、また必要な場

合は〉指令を以て介入せねばならなかった。」という。更にまた、「多くのケースでは、日本川代表がOSのアドバイ

スに自発的に従ったので、強制的措置は必要でなかった。ただ、法案修正を指令されたときは、当課が修正案文を考

案した。」(史料(弧))とある。(同箇所は、史料(釦)では、要すれば、(方向としては)押し付けが殆どなく、日

本側の自主的な立法だった、というニュアンスに変えている。同史料には、他にも同傾向が見られる変更箇所があ

る。)次に同日日・のも、一般論だが、GHQの少なからぬ影響について、「当諜が影響し、変更し、最終的に承認さ

れて後、国会に提出され通過した司法省の十一の法案」の二つが民法の応急措置法と民法、となっている(史料

戦後占緬期の民法・戸祷法改正過侭(五)(和川)八九 (加))。これが信避するに欠落していたことになる。 明示的に援用してくることが多く、GSの「公式意見」として法案修正を要求することすらある。即ち、九月一二’一三日の奥野・内藤等との会談で、OSは、全般的にはインフォーマルな話と言いながら、「一点のみ公式見解が表明されたのが、『家」制度廃止についてである」とし、日本側が戸主権の全廃を自ら決定しながら、現時点の改正要綱案中に残している若干の規定は、旧制度の延長であり、GHQは承認しない、とオプラーが明言している(史料(加))。これが信避するに足るとすれば、日本側の(二次的)史料にはこうした記録が(意図的か否かは別としても)

(15)

法学志休第一○一巻第円号九○

(訓)のみ、史料(別)にはない)。

また、「前期」と同様に、最終決定権はGHQに留保されている。四七年六月上旬には、ブレイクモァが、法案に

対しGHQが「異議無し」と言っても、憲法上乃至占領[政策]上、その後更にGHQが対策をとることはある、と

司法省に対して明言している(史料(別))。

また、前期での、日本側への一任方針も完全に破棄された訳ではないが、これが前面に川される際には極めて政治

的な色彩を帯びるようになる。例えば、四七年七月にブレイクモァは、民法改正に関するC-&EとGSの合同記背

会見の打ち合わせで、C-&Eに対し「特定な問題に関するGⅡQの利害関心はないものとするのが岐韓の錐」(史

料(Ⅲ))と言っている。が、実際には同年五月一二冊から七月七日にかけて(日本川記録では十八回に亙って)行

われた民法改正をめぐる、司法省とOSの間の(主にプレイクモァ、時にオプラー出席のGSが機種的に詳細内容に(価)立ち入った、入念な)△丞談記録を見てみれば、hのプレイクモァのC-&凪に対する発言は、GHQの関与は少ない(、)という外観を作るための、政治的な減川であるのは明日であろう。

また、立法の最終段階である国会審議も詳細フォローしている。(史料(Ⅲ)、更に史料(岨)93.画及び史料(い)日日・図・詳細内容は前款の該当個所、及びその直ぐ次の「参考」も参照のこと。)のみならず、軽重問わず法

案修正は全てGSの事前承認を必要とさせた。(右記史料以外にも、特に史料(妬)b四日・]》史料(妬)。詳細内容

は前款参照。)

以上GHQの史料も交えて、前川・後期を僻鮒してみれば、GHQの「家」改廃針が時期により変化しており、そ

(16)

前期・後期の全期間を通じて特記すべき点を以下に挙げておく。

GS及びCl&Eは、何が「日本社会に根付くもの」かを知るためにも、「家」制度・民法等につき独自の調査を

行っている(史料(2)・史料(3)(これは注岨も参照)・史料(6))。

Csはまた、日本側の自主的法改正作業を監視し、強制原理に基づく介入の要否を判断するためにも、日本側と連

絡を密にし(史料(8)・同箇所既述関連文書・史料n))、政府に公式に情州提供を求めている(史料(8))。司

法宵がCsに英文で資料を作成し提出した具体例は、史料(旧)・史料(四に見られる。

GSはまた、非公式・インフォーマルなルートを以て情報収集にも努めている。八月七日の、川島と内藤との「イ

ンフ靴‐マルな会談」で、洲プラーはこの二人からl川島が退席した後、内藤から本音を聞き出した形跡もある

I司法法制瀞識会の状況を事細かく附き、「家」存慨論者の勢力はどの程度か、その意見はどういうものか、等を

戦後占領期の民法・戸籍法改正過曝(五)(和田)九一 の重点が実は、「家」改廃の別よりも、法制改革遂行上の一般原則遵守にあったことが判明する。一般原則とは、先に述べた強制l一任原理の拮抗・緊張関係が形作る様に、改正後の法が日本社会に根付くことを目的として、法改正を川本川にまずは一任し(例I「家」の存廃の決断)、同時に占倣政錐に関わる迦要事項は新恋法の諸原皿に従わせ、これからの逸脱は阻止する(例l違恵となる戸主権のや旧法規定延命の廃止・排除)、というものである。従って、(OSが主観的に)日本側の「家」廃止方針が安定したと判Ⅲした時期を境として、これ以前は馴保付きながら日本側に方針を一任し、以後は日本側決定の「家」廃止をGⅡQの公式方針ともする、というGⅡQの対応の変化を二次)史料から想定することで、一貫した理解が可能になる。

(17)

法学志林第一○一巻第四号九二

確認している(史料(Ⅱ))。更に、同月一四・一五・一六日の司法法制審議返云第二回総会の様子についても、同じく

この二人より悩報を得、しかも「殊に川島激侵は[…]総会での識論について価仙ある内部慨報を提供してくれた。」

(史料(Ⅳ)日日・」)と語っている。こうした非公式と思われる会談は断続的に持たれ、四七年に入っても五月一○

日のC-&Eのウィード・サリヴァンと川脇武官の会談(史料(〃)の同日の部分)、六月一四日の民法の具体的条

文改正に関わる、プレィクモァと川島の会談(史料(粥)・史料(鋼))が見られる上、プレイクモアも民法改正作業の経過を総括する文書で、「司法省の調査委員会メンバーと〔…]詳細についてインフォーマルに議論した」と言っ

ている(史料(犯)日日・「)。(これにより日本川史料にはない日本側の動き、例えば司法省の0sへの前述英文提

出資料が判り、オプラーと川島武宜の個人的結びつき等が窺われる。)

後期に入ると、前述の通り、八月二○日付けの日本側新草案が「家」制度は廃止しながら、「家」類似規定を多々

残していたことに0sが詐術を感知したこともありってか、従前よりもGⅡQによるチェック、即ち怖州提供の要請

と、GHQの影響力確保の試みの度合いが、強くなる。以下は、民法についてのみでなく一般的にだが、先ず八月二七日頃の日本側(「終連」)との接触(史料(旧))では、日本側の法改正作業に対するGSのチェックが厳しくなり

(ロ日ロ⑪』-画)、オプラーは、臨時法制瀞熱波君は総会で識決をするに際して、SCAPの見解を事前に知り、これを券

噸することが「絶対に必要」である、と言っており(日日.、)、GSの政府や臨時法制調査会への影響力の意図的加

重を窺わせる。また、この接触を踏まえた伺川二九川付のオプラーによる文書(史料(旧))では、標題にGSによ

る「法制改革のコントロール」とあり、ロ日P片では、敢要乃至政治的事項については、GHQが修正を主張し、指

令すべきか考慮すべし、とさえしている。

(18)

更に、四七年に入って、政府内部の民法改正草案が固まってくる時期には、GS/Cl&Eの指示は、国会提出を

控えて国民に対して改正草案内容を広く広報し、周知させ、これに対する反応を確認せんとするものである(史料

(皿)の四月四日の会談・史料(”)の五月八日の箇所)。また、国会でも公聴会等を開かせるべく主導したり(史料

(〃)の五月七日の箇所)、他の方法(史料(羽)の四月二六日の会談)でも国民の意見を積極的かつ広範に吸い上げ、

立法に反映させんとしている。これに関しては、GSとCl&Eは、同年八月一日の民法改正に関わる記者会見では、

「国民の意見が広く発表され、その結果、国会が機能しうる民法典を採択することのみが、GHQの公式な関心であ

る」、とわざわざ述べている(史料(伯)、尚史料(岨)も参照)。

また、既に見た通り、GSは「法制改革遂行上の一般原則遵守」を第一次的に優先した。しかし、では第二次的に

せよ、GSの方針は「家」存廃どちらにより近いのであろうか。注目すべきは先ず、民法・戸籍法改正は、GSの内

部的にはオプラーに正式に一柾されていたことである。即ち、史料(釦)・史料(別)は共に(若干一一ユァンスは異

なるが)忌日.mで曰く、時間が足りない緊急事態であったので、法改正についてはホィットニーよりオプラーに決

定・行動を一任されていた。次に、オプラーの個人的な見解は「『家』全廃」にあったと見られる(③④がこれを示

すと見て良かろう)。従って、結果としてオプラーの個人的意見たる「家」廃止がGSの第二次的.かつ内部的な(旧)「準公式方針」としての機能を持ったと理解し得る。そして④で川島が「[オプラー]個人としても、またGHQの方

針としても、「家制度全廃』は既に決めていた」と主張するのは、GHQの内部文書からも公式方針が「家制度全廃」

にあるとは読み取れない以上、右の「準公式方針」の機能として理解するべきであろう。

その他、GHQの一次史料から知り得るのは、第一に、OSとCl&Eの強い連繋である。GHQ側史料、史料

戦後占繍期の民法・戸濡法改正過程(五)(和田)九三

(19)

法学志林第一○一巻第四号九四(畑)

2.3.6.u・皿・汀・妃・佃にこれが窺われるが、これはまた日本側史料の⑫⑬(及び⑫の注に記したインタビ

ューでの川島発言)を裏書きする。第二には、Gs内部のスタッフ、特にオプラーとブレイクモァの考え方の個人差

であろう。プレイクモァの筆になる史料(犯)日日⑫・ロー届では、ブレイクモァにオプラーと比して言ってみれば優 柔不断な面が見られる一方、g『口⑩。P]山は、ブレイクモァのオプラーに対する批判とも読める。この優柔不断さは

⑭のブレイクモア発言にも見られるといってよかろう。また第三に、改正民法の暫定性が(日本側のみならず)GS

にも強く意識されていた点、であるこれは、史料(灯)ロ日P烏史料(Ⅲ).》]ロロロレトレZDF回のシ旧鈩句句酋幻の.、

のF同○園田シdo弓の項目に見られる。

第四節補論「氏」lオプラー/Gsの「家」改廃に関する方針との関連でl

「家」制度によらない、「家」存置の代替的方法として、概略ながら次の二つは区別されねばならない。

(a)制度(曰昌[貝】。□)としての存置の方法

これは、戸籍と並んで、民法上の「氏」に典型的に現れた。

(b)制度でなく、「家」制度的な内容を持つ個別条文規定による存置の方法

民法では、祭祀の主宰、祭具、系譜、墳墓の所有権などの継承に関する条項(現行民法第八九七条)、「直系血族及び同居の親族は、互いに扶け合わなければならない。」とする条項(現行民法第七三○条)等々であり、また戸籍法

にもこうした規定は設け得る。

(20)

実定法規上、「氏」を「婚姻」や「養子」と並列するご勿昏目○コとして解することはできず、「氏」の変更はむし

ろ「婚姻」や「養子」の効果に過ぎない。しかし、実務で例えば「何某家」の「氏」を残すため(のみ)に祖父母が(別)孫と養子縁組をする場△口、当事者の主観には「氏」(乃至非法律上の「家」-.)が制度として意識されており、「氏」(皿)乃至「家」制度維持のための手段として、別の法律上の制度「謎子」がその本来の目的から離れて利用されている。

即ち、社会欄行上の制度乃至法律上の「疑似制度」として「氏」を捕捉することは少なくとも可能であろう。尚、唄(詞)もこれを「氏」の「制度」とは呼んでいないが、後掲西村論文(注弱)の一つは、表題に見る通り、「氏の制度」と呼んでいる。そして学術論文ではないが、改正民法の「氏」の、明治民法の「家」に代わる機能を早期に看破したも

戦後占領川の民法・戸篤法改正過程(五)(和田)九五 (a)の「氏」については、戸籍法制度と不即不離の関係にあることは言うまでもなく、民法中の「氏」関連条文と戸籍法双方の改正過程の照応関係にも注目する必要がある。詳細は別稿に譲るとして、とりあえず本稿では補論と(釦)して、「氏」に関する民法改正過程について、ここで補完的に述べておく。これは前節の、オプラー/Gsの「家」存廃に関する方針の推定とも密接に関連する。(これに対し、第四章では、戸瀞法制度における、右の(a)(b)を重点的に検討することになる。)める。 民法上の「氏」を制度(ヨ②【一目(一○コ)と解するには無論議論があろうが、ここでは詳述せず、以下の指摘にとど 第一款制度としての「氏」

(21)

(研)

「氏」について、まず「第2回[臨時法制調査会]第一二部会」の次の議事録を見よう。ここでは牧野の「家族制度 […]の美風を法に生かす考えはないか」の問いに、我妻が明白に「『氏』を中心とした新家族制度を考えて行きたい、 […]家族共同生活を氏として把握して行きたい」と述べている。

法学志林第一○一巻第四号(別)(弱)のとして、宮澤俊義のよく知られた小文「家破れて氏あり」がある。

[六五’三丁裏]

(ワ)牧野委員質問ノ建設的考案ナキャニ付テハ「姓」或ハ「氏」ヲ中心トシタ新家族制度ソ考ヘテ行キタイ、 即チ民法上ノ家ハ既二遊離シテヰル、又世帯ハ狭過ギルシ、結局家族共同生活ヲ氏トシテ把握シテ行キタイ、

唯之ヲ民法上一一章ヲ設ケテ規定スルコトハシナイ(我妻)(力)第二[要綱のこと]に関聯シ扶養義務ヲ如何ニスルカ(牧野) [六五’二丁表]第2回[臨時瀧

[六五’四丁表]答別二規宇 (水)[・・e] [六五’二丁裏](水)家族制度卜云フカ家族共同体卜云フヵソノ美風ヲ注二化カス考ハナイカ(牧野)

ロ』 第二款「氏」を巡る民法改正過程

別二規定シタイ、例へ(氏ヲ同ジクスル者卜云ツタャウナ考へ方デアル(我妻) [臨時法制調査会]第三部会第五日昭二一、八、一四(水)九、○○

(22)

この我妻の発言の直後の所謂「沼津合宿」中、八月一六日’二○日(特定につき後述)に、「氏」に法律上の実体(師)的効果を持たせた民法改正案にオプラーが怒りを表した、というの以下の挿話がある(川島『軌跡』二二七’二二九

頁)。 [66-髪](水)[…]家二付テハ現実ノ親族共同生活団体ヲ基本トシテ之ヲ如何二把握スルヵヲ考ヘテヰル即チ夫婦ノ氏ノ称呼、子ノ氏ノ称呼養子ノ氏ノ称呼特二妻ノ氏ヲ称スル場合ノ如キハ妻ノ家ヲ者へテヰルカラデァル而シテ相続二於テモ系譜祭具等二付テハ共同相続トハ異ル立場ヲトッテヰル(我妻)(へ)要綱第一ヲ民法上家ハ廃スルガ氏ニョル実体上ノ家族ノ把握二付キ左ノ如キ措置フトルモノトスル位一一改メテハ如何勿論GHQトノ関係カラ氏等ノ表現一一ハ然ルベキ考慮ヲ払ハレタイ(牧野)[強調和田][和田注以上、座談会でこれを読み上げる形で『経過』五四頁にも紹介がある。岨は前掲論文でこの『経過』の箇所を引用している。] [六六丁表]第2回[臨時法制調査会]第三部会第六日昭二一、八、一五(水)九、○○

改正案起草のための合宿中のできごとですが、はじめ司法省の方が作られた幹事案には、親と子が「家」ないし「氏」を同じくするか否かに関係なく親権や扶養義務があるとする規定が書かれていたところ、或る有力な委員が「これではまずい」として「氏を同じくする」親子の間にだけ親権・扶養の関係を認める案を提案され、有力な委員が即座にこれに賛成されました。私は、「それでは『其家二在ル父ノ親権二服こ[強調ママ]

戦後占領期の民法・戸籍法改正過程(五)(扣田)九七

O ld

ID

(23)

ともかく、総司令部のオプラーもその程度の改革を要求したのです[…]。[強調和田]

挿話中で、「氏」を中心とする案を盛り込んだ「有力な委員」(『軌跡』二二八頁)と、その後オプラーの否認をき(鍋)いて難き、「よくわかったものだ」と言った委員(同一一一一九頁)は、双方とも我妻である。(また、「司法省の一人」は、奥野であるのは、噸/竹下「新民法」所引のc氏Ⅱ川島による同挿話I『軌跡」よりも簡略であるlに明

示。)牧野に対し、「氏」を中心とする新家族制度を考える、といったことを実現するため、前案を「これではまず

い」として変えたのがこの草案であった。ところが、牧野にGHQの件をわざわざ念を押されていたにもかかわらず、

オプラーの否認のみならず怒りを招く結果となった。「委員の方々はおどろかれ、一瞬顔色がかわりました。そうし やがて〔…]司法省の人(一人)と一緒に総司令部のオプラーのところへその原案をもっていきました。オプラーはそれをひととおり読んだあとで烈火のごとく怒り、「民法典の『家』を『氏』に書きかえて家族制度を温存しようとするとは何ごとだ。こんな案は絶対に承認できない。」と大声でl彼はいつも静かに裁判官らしく話をする人だったのですがlどなりました。彼はよほどおこっていたと見え、さらに語をつぎ、「こういうことをしてわれわれをだまそうとするのか。前門から狼を追い出したと思ったら、後門から入ってきた」と、いとも不愉快げに言いました。[…][和田注叩この後、川島は、我妻達委員の下に、GHQとの会談の首尾を報告に戻る。]案の定、委員の方々はおどろかれ、一瞬顔色が変わりました。そうして或る委員は、「まさかオプラーにはわかるまいと思ったが、よくわかったものだね。」と言われました。私は一人で行かないで司法省の人と一緒に行ってよかった、と思いました。 法学志休第一○一巻第四号九八

という旧法の規定の温存と見られるのではないでしょうか」と一一一一回ったところ、或る委員から、[…]叱られました。

(24)

一方、我妻と同様に、オプラーが「烈火のごとく怒り[…]大声で[…]どなりました」という点にも、前後の特

殊な事情があった。この挿話は、従来オプラー個人なり、GHQなりの「家」廃止方針を表すものとして理解される

ことが多かった。「総司令部のオプラーもその程度の改革を要求した」(同二二九頁)で川島自身が回顧する如くであ

り、また唄/竹下(「新民法」三八○頁)も同じ挿話をC氏Ⅱ川島からインタビューしたものを基に、「オップラー氏

は終始一貫「家』の廃止の徹底を強く主張した」と判断している。結論は既に前節で見た通りであり、オプラーの個

人的意見としては「その程度の改革」を望んでいたかもしれないのだが、「要求」はしておらず、また「終始一貫

[…]強く主張した」のではない。では、オプラーは何故かくの如き拳に出たのか。

この経紳は、以下の通りであった。民法改正要綱の第一は、七月二○日の初の幹事案、同二七日の起草委員第一次

案、同二九日の起草委員第二次案、同三○日の司法法制審議会第二小委員会決議、と作業開始以後、一貫して「民法

上の『家』を廃止すること」となっていた(川に「経過』二一三、二二五、一一一一七、一一三○頁以降)のを、八月一五

戦後占俶期の民法・戸嬬法改正過程(五)(和田)九九 て或る委員[我妻]は、『まさかオプラーにはわかるまいと思ったが、よくわかったものだね。」と言われました」という我妻の反応も、この議事録で改正過程の流れを踏まえて初めて正しく理解される。この挿話をもって我妻が個人的方針として、「氏」に枇極的に「家」を温存しようとしていた結果、と解すべきではないのは明白である。少なくとも部分的には、牧野の意を介して(いわば「間接的影響力」を受けて)、「氏」の案を導入したと考えるべきである●つ。

第三款オプラー/Csの「家」改廃に関する方針と「氏」

(25)

法学志休鞭一○一巻第四号一○○

日に案を変更、翌一六日司法法制瀞議工云第2回総会で「民法の戸主及家族に関する規定を削除し親族共同生活を現実

に即して規律すること」と決議した(これは牧野の提案であり、文言上に限れば彼の大きな影響が行ったことにつき

『経過』五六頁参照)。これを受けて、八月一九日にオプラーは上司ホイットニ1Gs局長に、この一四’一六日の司(帥)法法制審識宏云の緒論を知らせる覚書を送っている(功科(Ⅳ))。そこでオプラーは、これが、その後の経過の通り(帥)「文一一一両が幾様にも解釈されうる[…〕文章」にもかかわらず、早々に「この画期的な決定は、実際には、現在の家族

制度の完全な廃止を意味するものである」(同前史料、ロ日ロ.、冒頭)と報坐□し、かつ同じ第5パラグラフで、

ウィード[…〕と私は、司法省を代表する人々に対して、最高司令官は、もし家族制度が完全に廃止されればその措置を歓迎するであろうが、廃止を強要するつもりはない旨を指摘した。そして、SCAPが第一に関心をもっているのは、民法の家族法の部分に対して新憲法に適合するために必要な改正を加えることであると述べ、それには、家族個人の自由を制限するような権利を戸主からすべて奪い、また婦人の法律的平等を確立することが必要ということになるであろうと告げた。司法法制審議宏云がこれらの必要な改服以上の点にまで手を(川)拡げたことは、さらにますますよろこばしいことである(㎡」」[ロの曰・『の的『陣二言□ぬ..)。

とした上で、更にすぐ続けて第6パラグラフで、

尚の委口会〔司法宵の委員会即ち司法法制辮識丞云を指す]は、現在法改正の詳細〔案〕を作成しており、それから委員会の提案を内閣の臨時法制調査会に決定してもらうべく提出する予定である。内閣の委員会〔臨時法制調査会]が宵の委員会〔司法法制審議会]よりも保守的な態度に出ることはないと見られる[のでこの「家」廃止方針が後退することは先ずないであろう、の意〕[和田訳]。

としていた。この「家」廃止方針の決定・宏定、という醐解がオプラーによる極めて主観的(かつ楽観的)なもので

(26)

オプラーにとってみれば、自分個人の意見/GHQの方針はともかくとしても、日本側が自主的に「家」全廃を決

め、尚且つ自分はそれを受けて「よろこばしい」、この「家」廃止方針が後退することはない、という趣旨を上司に

報告したにもかかわらず、第二次案で「家」の実体が「氏」となって温存されている。これは「氏」を巡る一四川の

議論を全く知らなかったオプラーにとっては、千曲r得なかった内容であり、「われわれをだまそうとする」もの以

外の何物でもない。(『軌跡』二二八頁、オプラーの言。また唄/竹下「新民法」一一一八○頁でもC氏Ⅱ川島が、「オッ

プラー氏は背信の行為と思ったらしい。対GHQではこれが一番もめた。」と語る。)しからば「烈火のごとく怒る」

訳である。 あり、実際には「家」廃止方針の安定化には更に二ヵ月弱を要したことは前節で述べた通りである。その背景として、オプラーはこの前後、川島・内藤から司法法制審議会の審議内容について、(内部)事情のかなり詳細な報告を受けていた(史料両)・史料(Ⅳ))にもかかわらず、前述八月一四日に、我妻が牧野の要請に対して、「氏」を中心とする新家族制度をいわば約したことは、史料に見る限りオプラーは知らされていない。

「沼津合宿」に我妻が参加したのは、この司法法制審議会終了八月一六日以後であり(『経過』五○頁我妻発言)、

またオプラーが否認した民法改正「第2次案」(唄/竹下「新民法」三八○頁)は、八月二○日付け(『経過』三○○

頁)である。ゆえに、オプラーはこのホイットーーーへの報告書を出した八月一九日の催か一日後にできた、この

「氏」を中心とする「第2次案」におそらくは二○日の直後に接し、怒ったのである。

以上、整理してみれば、オプラーが怒った理由は、日本側に詐術を感じたからであって、この挿話を以て、オプラ

ー個人、または(ここでは一旦区別して)OS/GHQの方針が「家」全廃にあったと即断することはできない、と

戦後占領期の民法・戸籍法改正過程(五)(和田)一○一

(27)

尚、この脈話は客観的にも重要であるにも拘らず、オプラーはGHQ内部文諜でもこれを報告・記録せず、また

『経過』でも直接は述べられていない。これは、先ずオプラーについては、前出史料(Ⅳ)で、「よろこばしい」、こ

の「家」廃止方針が後退することはない、と伺艮にまで釦腿回した直後に、まさに後退した内容の法案を日本Ⅲ起草委

員が提出してきた、とは同じ局長への報告は無論、記録にも残し難かったのではなかろうか。(その代わりという訳

ではないが、日本側の臨時法制調査会等の法改正活動への監視がこの直後から厳しくなっていることは、前節・第二款で見た通りである。)また、日本側の(二次的)史料については、この挿話が重要であること自体は、川島が唄/

竹下「新民法」三八○頁で「対GHQではこれが一番もめた。」と述べていることにも窺われるが、以下の起草関係

〈⑬)者の回顧でも明白である。[以下、強調は和田] 法坐韮心休第六(他)解するのが妥当であろう。

[氏と親権を結びつける試みについて]我妻[…〕結局、問題は、親権を共同生活と氏とに従わせるか、独立別個の制度として規定するかの違いに 氏を残すことによって家の制度まで温存しようとしているという思いがけないいいがかりというか……〔原文 全然なかったのです。ところが、GHQなりそのほかの一部の人からはまるで逆のようにとられて、いかにも 小沢[…][未亡人の姻族関係終了の]選択をさせるとすれば、戸籍の届出というのが一番はっきりするだろう、戸籍の届出をするときには氏と結びつけていくのが一番わかりやすいし、従来の考え方にも合うだろう、そういうことで氏に形式上結びつけただけなので、氏の関係から姻族関係を引張り出そうというような考えはのママ]そういう誤解を受けたのじゃないかと思うのです。(『経過』一二四頁) 第一○一巻第四号

(28)

GHQの影響で「氏」を「家」の替わりに温存することが不可能になったならば、占領終了後(『経過』の座談会

時!まさに我妻が言い、恐れる)「占領中に廃止させられた民法の家族制度も、そろそろ復活すべきだという議論」(本章・第三節・第一款・⑪の我妻発言、『経過』一○二’一○三頁)の下に、起草委員自身計画した「氏というもの

を共同生活の表象というか、共同生活の実体をつかむ手段として頼っていった」ことを超えて、座談会当時の一九五

戦後占領期の民法・戸鰯法改正過樫(五)(和川)一○三 (日本側の記録では)一八回に亙る会談の当初から、の意であろう]あったらしい」というのは、本文の挿話を想起すれば、理解にたやすい。この挿話の事件が、後々まで民法改正過程に険を落としたのが窺われ、その重要性を物語る。にもかかわらず、同行した奥野含め、「経過』の座談会の出席者がこの事件を語らない理由は次の通りであろう。 GHQには「家の温存になるのじやないかという頭が初めから〔前後関係から、四七年五月以降の司法省とGSの るのじゃないかという頭が初めからあったらしいのです。ですから、それをめぐって、最初に話になった例の生存配偶者の復氏のときの問題も同じなんですが、最後までもんでいたわけです。結局、最後の案としては、親権を氏からすっかり切り離してしまって現一口法のような案にきまったのですが、しかし、実質的にはこちらの考えとそう食い違っていないと思うのです。部分的な補正は別として……[ママ]。(『経過』一六五’一六六頁) 家の代りに氏を頭に置いて、それに実質上の権利関係を結びつけることになる。いいかえれば、家の温存にな

沢小

帰着するわけですね。……[ママ]

ま[我妻]先生のおっしゃったように、かむ手段として頼っていったのですね。

[…]氏というものを共同生活の表象というか、共同生活の実体をっ こちらは、い

(29)

先ず、民法上の「家」存廃につき、「誰が、何を、決めたのか」をまとめておく。形式的・象徴的「家」存置(本

拙稿連載第二回、「法学志林」九五巻第二号、三七頁掲載の、「付表l」のマトリクスでは〈C〉)、または「家」は

廃止した上での、「家」類似制度・条項は存置(同前マトリクス〈O〉)、乃至、「家」類似制度・条項も全廃(マトリ

クスくげ〉)、という枠内で、GHQは現実に日本側の自由な選択を許していた。他方、日本側は起草委員も含め、G

HQ6S/Cl&E)のこの許容度合を正確に認識していなかった。川本側は結局、GHQの非公式な「家」廃止

方針の彫響も受けつつも、「家」を存続させるか、あるいは廃止するか、については自ら選択し、マトリクス〈O〉

程度の「家」廃止方針を決定した、ということになる。

更に、改正過程での人的相関関係・力学関係に関する新たな知見を概括しておこう(以下とほぼ同趣旨を、注

(”)の『私法』掲載の拙稿でも述べた)。民法上の家改廃の直接の契機は、憲法二四条の導入によってGSが与えた、

ということは第一章にみた。二四条の下での限られた選択範囲の中での改正の人的相関関係・力学関係は、(1)G

Sは、当初より「家」廃止を希望していたが、述惑でない範囲での形式的「家」存置ならば認めるべく、存廃は日本 法学志休第一○一巻第四号一○四

一一一年一一月一四・一五日、翌五四年九月二四,二五日(順に、『経過』五頁、一○七頁に拠る)には(ここでは》註論

しないが)いわゆる「逆コース」支持派により、「家」そのものが復活させられる危険性が潜んでいることを、奥野

をはじめとする座談会出席者こそが、最も敏感に感じとっていた、という一点に尽きるのではなかろうか。

第五節小括1,本Ⅲ。GⅢQ/Gsの方針の射椴及びその限界I

(30)

側に一任する方針を、暫定的にせよ固めていた。これに対し、日本側関係者のうち、(2)起草委員は、一定の「家」

類似要素の存置については(3)の保守派と妥協せざるをえなかったものの、最終草案・改正法を妥当な内容と考え

ていた。これに対抗し、(3)「保守派」は「家」(類似要素)のが股を主帳しつつも、GHQの「家」廃止の規定方

針の存在を一時期信じ、その後は日本側の廃止論者の主張に押されて、一定の「家」類似要素の存置で満足をせざる

をえなかった。(保守派の具体名としては、一章・第八節・第二款の「芦川委員会」の発言を分析対象とした原、原

と並んで本二章・二節で言及した北浦・長谷川、第一章・第六節・第三款の貴族院での弁論を分析した牧野英一(本

拙稿では詳細には言及しないが、彼は民法改正にも直接関係している)、等がこの「保守派」に含まれると考えてよ

い。かたや、(4)「披新派」は、起草委員の方針には飽き足らず、「家」の全廃の貸徹を要求した。(革新派には、川

島武宜、そして本拙稿では詳しく言及しないが、例えば米価三郎、一部の女性の弁誕士等が含まれると考えてよい。)

以上(2)(3)(4)の人的集団すべてが、(1)のOSの「家」廃止の希望を感知し、それにある程度の影響を受

けつつも、要綱策定の段階では、法的制唆としての「家」の廃止を自主的に決定したのであった。水仙橘は戸繍法改

正過樫に戴点を置くため、詳論しないが(注(羽)の拙稿参照)、その後、GSは、民法改正草案中の家類似要素の

排除には再び影響力をふるっている。こうした力学関係の中、国会は、「家」廃止の改正案に対し、戸主権はともか

く家督帆続の廃止には反対論が強かったものの、結局、改正法案を無修正で成立させたのである。

占領期の民法改正、特に制度としての「家」廃止は、(1)I(4)の四者が、こうした緊張関係の中で、幾多の(剛)誤解を交壹えつつ、微妙な駆け引きを繰り返した末の一つの結果であった。この過樫の特徴としては、第一に、改正を

めぐる人的相関関係・力学関係は、民法の前期・後期の全改正過程を通じて変化していた。第二に、その人的相関関

戦後占緬期の民法・戸瀦法改正過程(丘)(和田)一○K

(31)

略語表(述戦前回まで〈(1)本文・注の略語終連終戦連絡志 法学志休鋪一○一巻第四号一○六

係・力学関係の全体像を、法改正関係者の誰も、把握していなかった。そして第三に、以上の二点が、改正要綱・改

疋法の中核である「家」改廃方針の決定に影響を与えたのである。即ち、民法上の「家」の廃止は、Ⅲ来いわれてい

たような「起草委員の独自の発案」が貫徹された(『郷圃』一○二頁の我妻発言)、あるいは「家」廃止の徹底をOS

が独自の方針として枕く「要求した」(川島『軌跡E二二七頁)、といった単純な過樫をたどったのではなかったので

ある。(以上の詳細は、注(羽)の『私法』掲載の拙橘拙稿「家族法の改正l占領期の「家」制度廃止過程研究l科学研究

澱柵肋金研究成果報告梯」、および後者の発腰としての近刊予定の川著を参照されたい。)

岐後に、Csと日本川の「家」改廃方針の射程について簡単に述べておく。

OSが、形式的・儀式的なものにせよ「家」の存置を容認した場合、如何なる結果をもたらしたであろうか。いか

に「戸主」「家督机続」を廃しても「名」を残せば、民法外の「家」(主に、一章末尾で述べた国家体制の末端単位と

しての「家」.及び社会生活上の慣習的「家」)の温存にとってプラス要因となるのは、検証は不可能だが蓋然性は高

い。にもかかわらず点伽後の反動防止のため、容認止むなしとした0sには、民法改正過樫に限って言えば、やはり

民法外の「家」との連関の認識が薄かった、と考えざるを得ない。

また、日本側起草委員の射程も、回泳の限界があったことは、次章以降の戸綴法改正で明らかになる。

(述戦前回までの略語表も併せて参照されたい)

終戦連絡事務局(日本の外務省に設置されていた)

(32)

(2)引川・参照文献の略語(編著者の日本語発宵または文献略語名による五十音順)○℃□]臼ト偲貝幻呂)ミと【『8○○用目幻卜隠口』宛§§旨○,2℃目百日ミ」囚昌〔§ロミn8呑勿口。○計・勺H】ロ8一○口□日ぐの励一ご勺『の⑫⑪・勺『】ロ8(○口・Z①三]の厨の『・]召の.オプラー『法制改革」右書の日本語全訳、アルフレッドⅡオプラー箸/内藤頼博監訳『u本占緬と法制改畝lGHQ担当者の川顧』川本評論社、一九九○年川島『軌跡』川島武宜『ある法学者の軌跡』有斐閣、一九七八年唄/竹下「新民法」唄孝一/竹下史郎「新民法の成立」『講座家族問題と家族法I』酒井書店、’九五七年「第二章立法過腺における法学背の役削’三つの立場のせめぎあいl」の表題で、岨孝一『家族法著作選集第1巻戦後改革と家族法I家・氏・戸瀞』日本評論社、’九九二年に再録。尚、本論文中のインタビュー資料の発言者は、初出時匿名であったが、’九九二年に右記の通り再録された際、叩により七八頁に名前が一部明かされたので、本稿でもこれに従い、匿名と実名を併記した。(我妻柴編)『経過」「戦後における民法改正の経過』日本評論社、一九五六年(編者名は本文に一言及していないのでここにも播弧を付した。)

戦後占領期の民法・戸籍法改正過程(五)(和田)一○七

PGC HSl W&

Qぐ一巨口{・『日ロ二・二口目図巨8二・コの⑦3。。(通常、民間情報教育局と訳される)○・ぐの『ロ日の口〔の①g一・口(通常、民政局と訳される)勺ロワーーC函8-(コロコロミの厨『のの⑦8.口(通徽、公衆衛生編祉局と訳される)

参照

関連したドキュメント

︵人 事︶ ﹁第二十一巻 第十號  三四九 第百二十九號 一九.. ︵會 皆︶ ︵震 告︶

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

チ   モ   一   ル 三並 三六・七% 一〇丹ゑヅ蹄合殉一︑=一九一︑三二四入五・二%三五 パ ラ ジ ト 一  〃

医師の臨床研修については、医療法等の一部を改正する法律(平成 12 年法律第 141 号。以下 「改正法」という。 )による医師法(昭和 23

第1四半期 1月1日から 3月31日まで 第2四半期 4月1日から 6月30日まで 第3四半期 7月1日から 9月30日まで

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

「社会福祉法の一部改正」の中身を確認し、H29年度の法施行に向けた準備の一環として新

目について︑一九九四年︱二月二 0