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『緋文字』の構造と意味

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(1)

『緋文字』の構造と意味

著者 松山 信直

雑誌名 主流

号 23

ページ 45‑64

発行年 1961‑10‑10

権利 同志社英文学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000016658

(2)

の 構 造 と 意 味 一

松 山 信 直 一

﹁ 緋 文 字

世 界 の

︒口 問

m

E W ω

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回 目

}

g F 2 g

吋﹀

w

︒己

2

(

γ ω

︒ ︒

﹁黒き地の上に︑赤きAの字﹂ホiソソの﹃緋文字﹄はこ

の一言葉で結ぼれている︒第一章の監獄の入口に生えている牛

穿や一年草などの醜い草と︑美しい宝玉の花を咲かせた一株

の野パラとのコントラストから︑この鮮な色のコントラスト

による結びの一句に至るまで︑﹃緋文字﹄には多種多様の対

照物が巧に配置され︑そこに描き出されるコントラストは︑

ディムズデiルの告白と死という結末に至るまでの劇的な緊

迫感をもり上げると同時に︑この作品の意味を理解する重要

な手掛りとなっている︒

私の結論を先に言えば︑これらの多様なコントラストの大

部分は︑この作品に描かれたこつの世界の対立のあらわれで

あり︑この二つの世界の対立と︑その両者に或る価値評値を 下す第三の世界の配置という構造に︑

v

る︒

﹃緋文字﹄の意味が見

﹃緋文字﹄の主人去ディムズデ1

ルが

ニュ

i・イソグラン

ドの清教徒であり︑女主人公ヘスターは夫に先立って二年ば

かり前に外国からニュ1・イングランドにやって来た女であ

るという中心人物の設定は︑この作品の解釈を左右する重大

な鍵であって︑今言った二つの大きな世界のコントラストの

重要な一部となっている︒先ずこの点から考えてみよう︒

なぜ夫のある女性と姦通した相手の男︑が牧師でなければな

らなかったのか︒ディムズデIルがニュ1・イソグランドの

役人でもなく︑軍人や商人でもなく︑実に牧師であったとい

うことの意味は︑﹃緋文字﹄の舞台となっている社会が清教

徒のニュ1・ィングランドであることと結びついている︒

﹃緋文字﹄の冒頭には吋

Z ( U g Z 5 2 0 5 m

と題するエ

‑ 45‑

(3)

ツセイめいた序文がある︒作者はその中で︑この﹃緋文字﹄

の話をかつて働いていたことのあるセイレムの税関の一室の

古文書の競りの中から発見したいきさつを書いている︒もち

ろん︑これが︑これから述べる物語は事実だと主張する作者

の︑読者に対するデモストレージョソであることは疑いない︒

また︑税関の描写や作者が税関吏であった頃の懐古も︑風俗

スケッチや想い出の域を出ていない︒だがその反面︑この資

料発見のいきさつは︑この物語が事実であったか否かの問題

とはかけ離れた別の意味を持っているように思える︒それは︑

次に展り拡げられる物語の舞台は︑今を去る二百年も昔の清

教徒が作った独特の社会なのだ︑との時間的距りとその社会

の特殊性を︑読者の心に植えつけようとするものの如くであ

る︒作者が数代にわたる自分の清教徒の先祖達に言及してい

るのも︑いたずらに家系の古さを誇るためだけでもなければ︑

清教徒の先祖に対する個人的なノスタルジアのあらわれを意

味しているのでもない︒むしろ︑数代先の先祖に言及するこ

とによって︑しかも︑英国から一番先に移住して来た先祖

司 自 2 5

国主

EB

白が女性を迫害したことなどを書くことに

よって︑この﹃緋文字﹄の物語は︑それ位昔の︑そんな特殊

な社会機構と独特のモラルに支配された清教徒の社会という

舞台上での話なのだ︑との一一種の予備観念を読者の心に植え

つけようとするもののように思える︒従って︑この序文は︑

清教徒のニュl・イングランドという︑作者の住んだ十九世 紀中葉からみれば︑二百年ばかり昔の別天地へ読者をいざなう︑いわば序曲目V

E j

白であるといえる︒

こんな七日

E P

が必要であるというのも︑この作品を展開

して行くに際して必要欠くことのできない事件や約束が︑十

七世紀の清数徒独特の考え方に基くものであるからである︒

姦通は死刑に価するといった厳しきゃ︑胸に緋文字をつけて

一生を過すという罰や︑罪の告白は神に対して行うのみなら

ず︑社会に対しても行わねばならないという清教徒独特の提

などは︑この作品の構成の最も基礎的な前提となっている︒

こういう特殊な提や約束を基礎事実としなければならないが

故に︑ことさら二百年前の清教徒のニュI・イングラソドを

強調する必要があったのである︒

この清教徒のニュ1・イソグランドという世界

i

私のいう

二つの世界の一つ

ii

の特殊性は︑様々な形で表現され︑説

明されている︒今それを簡単に列挙すると次のようになる︒

一︑宗教の権威と社会の権威が同等に考えられ︑この両者

がこの世界の性格中に全く融合している︒(宗教と政治社会

の結

合﹀

二︑従って︑宗教上の罪は社会の法律に違反する罪でもあ

り︑罪に対する罰ゃくいあらためも︑同様に︑宗教的にも社

会的にも行われなければならない︒(刑罰の二面性﹀

一二︑異教徒の野蟹人が住んでいるのは清教徒達の世界の彼

方にある荒野であり︑彼等の間で魔女と見倣されているヒピ

‑ 46

(4)

ソズ夫人が常々森に行くことを口走るように︑清教徒にとっ

て﹁自然Lは恩恵よりもむしろ︑悪︑もしくは人間(清教徒)

に対して敵意があると考えられている︒(自然観)

四︑従って自然な状態に於て人聞に備わっているもの︑何

等の規制を加えられない自由な自然な状態に於て人聞が有し

ているもの︑例えば︑慾望とか情熱とか︑或は奔放な想像力

といったもの︑更には︑ありのままの状態に於ける人閉その

もの︑人間性そのものが悪と見倣される︒(人間観﹀

五︑その結果︑鮮かな色彩だとか装飾の類は禁じられ︑衣

服は粗末でいわゆる地味な色のものが用いられた︒(趣味・

芸術

観﹀

主人公の一人が牧師であることの意味は︑このような性格

をもっ湾教徒の社会が小説の舞台になっでいる点に見出され

る︒宗教と政治社会が融合した清教徒の社会は︑いわゆる

叶 宮

25

ミ神政政治の社会であって︑初期のアメリカ植民

地の大きな特色と見倣されている︒この社会に於ては牧師は

知事と並んで社会の最高権威者であり︑作者の一言葉を借れば︑

﹁社会組織の先頭﹂に位置していた︒(ち

N

N∞)牧師は選ば

れた人として神に仕えるのであり︑人々の指導者として全面

的な信頼を受け︑宗教的・社会的に最高の権限を与えられて

いる︒だが︑もしその代表的清教徒である牧師が罪を犯した

らどうであろうかc牧師の罪は他の如何なる職の人の罪にも

まして︑神に対する裏切りの深さは勿論のこと︑人々の全面 的信頼をも裏切る深さにおいて︑宗教的にも社会的にも罪深いことであろう︒ディムズデIルが牧師であることの意味はこの点にある︒しかも︑彼は雄弁で聴衆に対する感化力が大きく︑それだけに人々の全一拍の信頼を受けているのであり︑且つ︑彼自身織細かつ鋭敏な感受性を持ち︑良心の珂責を人一倍烈しく感じるのであって︑そのような人が犯した罪の︑深さと︑そのような人の良心の苦悩の大いさとがこの作品の焦点の一つになっている︒

これに対して︑へスタ!の意味は︑彼女が清教徒の世界に

対して︑およそ対照的な立場にあることに見出される︒彼女

はディムズデiルと臭って︑この清教徒に直接つながるもの

を何ももっていない︒医者の夫に先立って二年ばかり前にこ

の地にやって来たという彼女の過去白体が︑彼女をこの世界

に於けるアウトサイダーたらしめている︒その上︑彼女は極

めて非清教徒的な﹁天性ゆたかな脊修と逸楽な東洋風の特質

ーーーはでに美しいものを好む趣味﹂

Q

8

﹀を持っており︑

後に清教徒達の間で孤独な生活を送る際には︑当時大陸で流

行していた非清教徒的な自由な思想にふけりもする︒

このへスターを通じても窺い得るように︑特殊な性格をも

っ清教徒の世界と全く対照的なもう一つの世界がある︒いま

それを便宜上非清教徒的世界と名づけよう︒清教徒的世界を

代表する人を︑罪の故に代表としての完全さを失ったディム

ズタールの他に求めるとすれば︑それは︑ディムズデIルが

47 

(5)

公衆の面前に現われるとき罪人ディムズデlルの背後に罪な

きけがれなき牧師の理想像として常に登場し︑ディムズJ

プー

ルさえもこの人に自分の罪を告白したく思う牧師︑ウィルソ

ソ氏であろう︒一方︑非清教徒的世界の代表としては︑へス

ター

の子

供︒

Iルを挙げることができる︒パールは罪の結果

生れた子であり︑従って悪魔の子であるという見方は︑あく

までも清教徒の見方であり︑この見方の中にもパIルの非渚

教的性格が示されているといえる︒

パールの非清教徒性は︑ウィルソン牧師によって︑二人の

隔りを確認するかの如く極めて劇的に示されている︒パール

とへスタiは或日知事官邸を訪問する︒政治と宗教に人より

も厳格な考えを抱いているおもだった人々が︑罪人ヘスター

の手許にパiルを留めておくのは教育上宜しくないと言って︑

へス

lの手からパIルを離そうとしていたからである︒へ

スタ

l達が部屋に入って待っていると︑知事やウィルソン牧

師が庭から入って来て︑金糸をふんだんに飾った深紅のビロ

ード服を着たパールをみつけて驚きの芦をあげる︒ウィルソ

ソ牧師はこの美しい真赤な服を着た子供がパiルだとは気付

かずにこう言う︒﹁こりや何て緋色の羽毛の小鳥だろう︒こ

んな姿は︑立派に彩色した窓から太陽がさし込んで︑床の上

に深紅の姿を映し出したときに見たようです︒しかしあれは

以前の国でのことだ﹂

( 3

・ロ

ω1

6

あきらかにウィルソソ牧師の限にはパiルは自分達清教徒 の世界に属さない人と映る︒彼は更に言葉をついで彼女の名を訊ね︑﹁パlルか︑おまえの色から一言うといっそ︑ルピーだ︑さんごだ︑赤いパ一ブだ﹂(℃・巴品)と表現する︒次で︑パ

ールが清教徒の信徒にふさわしいだけの知識を持っているか

どうかを試そうと﹁お前をお創りになったのは誰か﹂と問う

たのに対し︑︒ハ1ルは﹁自分は誰に創られたものでもなく︑

監獄の入口のそばに生えている一棟の野パラのなかから︑母

親が摘みとったものだ﹂(も・巴②と答える︒

このように︑ウィルソソ牧師が指摘し︑パール自身も号一口う

ように︑パールには様々な﹁自然﹂のイメークが与えられて

いる︒更に︑彼女は日光をはぎとっておもちゃにしたいとだ

だをこね

2

・戸

d

︑赤いパラをしほがって泣き守・巴己︑

小川に話しかけ

2

N H

S

︑浜千鳥に誤まって石をぶつけて我

がことのように悲しむ

2

M 5 8

のである︒先に述べたよう

に︑清教徒にとって自然は悪であり︑敵意があるとも考えら

れているが︑このような﹁自然﹂の子であるパlルが︑清教

徒達によって出

p g

C

c

m

Q ‑

N)と呼ばれたの

も当然であろう︒このようなパ1ルの属している世界は明ら

かに清教徒の世界ではない︒先に非清教的世界と呼んだこの

世界を︑清教徒の世界の性格と対照させると次のようにな る ︒

一︑(宗教と社会の法律は必ずしも一致しない︒﹀

二︑︿従って︑清教徒の如き刑罰の二面性はない︒)

48

(6)

三︑自然は人間の友であり︑恵みと憐みの情に溢れ︑光に

充ち

てい

る︒

四︑人間性の自然のままに近い状態は必ずしも悪ではなく︑

従って︑情熱とか奔放な想像力も必ずしも悪ではない︒むし

ろ︑自然さを束縛するもの︑自然の法に反するものが悪とさ

れる

五︑それ故︑想像力をたくましくした装飾や︑いわゆる派 ︒

手な色が用いられる︒

明らかにこの世界は︑十九世紀のロマソチストが考えたよ

うな自然観を中心とする世界であって︑﹁自然むを悪と見倣

した清教徒の佐界と本質的に相容れず︑互に対立するのも当

然である︒だからこの世界は︑この小説中では︑あらゆる点

で反清教徒的だといえるだろう︒清教徒に悪魔の子と呼ばれ

たパ

lルが︑ディムズデル!の死後清教徒の社会を去って二

度と再び帰って来なかったことには︑この二つの世界の本質

的な対立が示唆されている︒第一章で描かれる牢獄の入口に

生えている醜い草と︑罪人に同情するかのように美しい花を

咲かぜている野バラとのコントラストは︑この二つの世界の

自然観をそれぞれああらわしているといえる︒

﹃緋文字﹄はこのように対立する二つの世界から構成され

ている

ll

i尤も︑清教徒の世界の方がはるかに強大である

(この作品の背景は清教徒の社会である﹀から︑対立という よりは︑大きな世界の中に於ける小さな世界の反抗と表現した方が良いかもしれないοいづれにしても︑﹃緋文字﹄の焦

点は︑対照的な世界観を持つ二つの世界に属するこ人の人物

が︑緋文字によって象徴されている行為を共に犯した結果︑

それぞれに苦悶する心理的葛藤にある︒だが︑一言うまでもな

く︑その苦悶の性格は︑二人の属する世界の性格に由来する

ものであり︑この作品の要となっている緋文字の意味そのも

のも︑二人の苦しみが異るように違ったものとなっている︒

今この対照的な一一つの世界の観点から︑特に反清教徒の立場

を中心に︑この作品の表題にまでなっている緋文字の意味︑

及び︑それに附随する罪の意味を考えてみよう︒

‑ 49

緋 文 字

夫があるへスターは夫ならぬ男と関係を結んで子供を生ん

だ︒清教徒はこれを罪としてへスタIの胸に一生姦通﹀弘己a

g

弓の頭文字

Aを附けることを命じた︒ヘスターの相手の男

ディムズデIルはその罪をかくすが︑遂にニュ1

・イ

ソグ

ソドの祝日に罪を告白して死んで行く︒彼の胸にはへスタ!

と同じ赤いAの字が現われていたという︒ディムズデI

ルの

胸に現われたというAの字も︑清教徒達が死に価すると考え

KF

g

仏 己

q

のA

であ

る︒

だが︑へスターは緋文字に清教徒が意味したような罪を認

めただろうか︒私の読んだ限りでは︑ヘスタ!の罪の意識は

(7)

非常に低く︑あまつさえ︑清教徒が期待したような意味合い

を認めていない︒それは︑罪をおもてにあらわす緋文字ハ罰)

によって︑ヘスターが︑ディムズデIルが苦しんでいるよう

な罪をかくす苦しみからまぬがれているという事情があるに

しても︑罪に値すると考えられた行為に対するへスタ1

の見

解が︑清教徒と異っているからである︒

というのは︑清教徒の側からみれば︑ヘスターの行為は︑

ディムズデIルについて言われたのと同じく﹁情慾の罪﹂に

他ならなかったが︑へスタI自身はその行為に罪どころか︑

神聖さがあったことを認めているからである︒緋文字をつけ

てから七年ばかりたった或日︑森の中でディムズデ1ルに会

って彼のやつれた様子を見たへスターは︑この清教徒の社会

から逃げ出ることを牧師にすすめて︑過去の二人の行為に言

及し︑私達が行ったことには田

g

82

注目

︒ロ

丘町

田︒

司ロ

(℃

MN

NN

)

があったといっている︒へスターが清教徒的世界に属

さない理由の一つもこの点にある︒奔放な情熱に神聖さを認

め得る︑どちらかと言えば︑ロマソチジズムの傾向を持つへ

スターにとっては︑当然のことながら︑清教徒が期徒したよ

うな罪の意識は縁遠い︒

そうは言うものの︑へスターは決して自分の行為を誇示す

るのではない︒夫チリングワlスに向って︑愛なき結婚をし

た結果︑緋文字をつけた姿を見せるに至ったことに対し謝罪

もする上(ヲ∞

3

︑生れて来たパlルの行末を案ずるのも︑ やはり自分の行為が良かったと考えてはいない為であると作者は言っている︒ハヲ

] 5 3

こういうへスタ!の態度から窺える彼女の罪の意識はどの

ようなものであったろうか︒

なるほどへスターには夫があった︒だが︑彼女はその夫を

愛していなかった︒愛してもいない男の愛にこたえようとし

たことこそ誤ちであり︑﹁最も悔いなければならない罪ロユ宮内﹂

Q ‑ N 0 3

とへスターは考える︒夫チリソグワIスでさえもこ

の結婚が誤っていたことを認めている上に

Q

・ ∞

3

︑へスタ

ーに向って彼女が自分に会う前に﹁もっと早くから私の愛よ

りも立派な愛﹂

Q

53

に会っていたらよかったのにとさえ

言っている︒このような愛なき結婚生活に加えるに︑ディム

ズデ

iルにへスターが愛を見出した当時︑彼女の後からニュ

ー・イソグラソドに来る筈の夫は行方不明になって︑二年ば

かり消息を断っていたのである︒

こういう事情を考えてみれば︑へスタiのつプィムズデl

ルに対する﹀愛には多分に同様される余地がある︒だからこ

そあの厳格な清教徒でさえも︑本来ならば死刑に処ぜられる

罰を減じて︑さらし台に三時間立ち︑一生緋文字を胸につけ

るだけの罰しか与えなかったのだと考えることもできる︒本

来男女が愛し合うことは自然である︒ヘスターに同情が注が

れたことは︑厳格な清教徒でも全面的に否定し得ない自然さ

が︑ヘスタlの行為に認められたことを意味している︒従つ

‑ 50‑

(8)

v彼女の愛がこのように自然の法にかなっていながらも︑

尚︑良くないことだと判断される根拠は︑たとえ名目上でも

あれ︑また生死不明でもあれ︑彼女はまだ法律上夫がある状

態におかれているということだけなのである︒だから︑もし

夫との聞に離婚が成立しているとか︑或は︑夫の行方不明も

しくは死亡確認の報せでも入るといった事態にあれば︑へス

ターは自分の行為を決して悪かったとは考えなかっただろう︒

同じ姦通であっても︑ヘスタ!の場合は︑夫と共に生活し︑

毎日のように夫と顔を会せているレナiル夫人やアソナ・カ

レiニナの場合とは全然事情が異る︒へスターの罪はディム

ズデlルを愛したことにあるのではなく︑その愛が特定の社

会に於て満足される条件を充していなかった点にある︒これ

は︑いわば︑社会的な形式を破った罪とでも言えるのではな

かろうか︒へスターにとって︑罰としてつけることを命ぜら

れた緋文字の意味が︑何度となく﹁恥辱﹂凹

E E T

5

2 3

E E E U 7

門出回

r o H H

吋・丘団唱田口刊と考えられたことにはこのよ

O

うな意味合い︑即ふり︑原罪に連なる罪ではなくて︑社会規範

に違反した対外的な罪の意味があるように思われる︒

緋文字を胸につけたへスタI

の生

活は

︑﹁

恥一

辱﹂

︑が

意味

る対社会的な苦悩の生活である︒しかもその社会は︑自分の

属する世界とは全く異質的な世界観を持っているのであって︑

この二つの世界の相前が生み出す軌牒の烈しさを︑

は身をもって経験しなければならない︒

へス

ター

が﹁

殉教

者﹂

ヘス

ター

B

出片

片山

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呼ば

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清教

徒が

﹁彼

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L

r z g a

2

考えられたのもな・

2

﹀︑異質的な世界に属するへスターが︑

独特の性格をもっ清教徒の世界に於て︑その独特の性格のあ

らわれである提の犠牲になっていることを意味している︒

このへスターの立場は︑罪の重荷をチリソグワi

スに

よっ

て更に一属苛酷なものにされて苦しんでいるディムズデ1ル

に向って︑共に外国(非清教徒の世界﹀に逃げようとすすめ

ることや︑その手配をととのえて当選日のお祭りにやって来

た際の彼女の心理に充分よく現われている︒お祭りにやって

来たへスターを作者はこう言っている︒

E F c o w u E E L S

件︒ロ手町田

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2

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2

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Q ‑ N S ) ( H E 5

‑ 51‑

更に︑へスターが緋文字を派手に飾ったことにも︑ここに

言っているつ貴方がたが胸の上に燃えたたせた﹂という表現

のニュアンス︑即ち︑清教徒の提に強制されたという考えと︑

彼女の反清教徒的な性格を一ポす豊かな奔放な想像力との結び

つきがみられ︑緋文字の装飾自体が︑派手な色彩や装飾を好

(9)

まず︑禁止さえしている清教徒に対する彼女の反擁心をあら

わしているといえる︒同様に︑パールの着物を飾りたてたこ

とにも︑彼女の反清教徒的な反接的意図が窺える︒パールが

人前で着る︑つまり︑清教徒の眼にふれるところで着る服に

ついて作者はこう言っている︒﹁小さいパ1ルは田舎服を着

てはいなかった︒あとでよくわかることだが︑母親はある病

的な目的問

BOH

門由民℃日吉田由でもって自分が求められる一番

上等の織物止を買ってきて︑この子が人前できる着物の裁ち方

かざり方に思う存分自分の想像力を動かした︒﹂

Q

53

ヘスタ!の罪意識が清教徒達が期待したものと異り︑従っ

て︑罰としての緋文字の意味合いも異っていることは︑これ

以上説明を要しないだろう︒ディムズデI

ル︑

が︑

自分

の属

る社会に於て︑その提のみならず︑宗教上の罪をも犯したこ

とを告白し得︑ず︑罪をかくす良心の苦悩を牧師として味わっ

ている一方︑ヘスターは︑このように︑異質的な世界観を抱

いて対外的な苦悩を味わっているのである︒ここに︑一人は

清教徒中の代表的清教徒︑もう一人は反清教的である一組の

対照的な男女の人物設定の意味がある︒二人の罪意識の差︑

苦しみの差︑そして更には︑緋文字の意味の差は︑ただ単に

罪を表にあらわしているか否かの差ではなく︑二人の属する

世界の︑罪と考えられた行為に対する考え方の差をあらわし

ていることは一言うまでもない︒清教徒に罪と見倣された行為

をかくす点では︑ヘスターもディムズデlルも全く同じ態度 をとっいることを見逃してはならない︒というのは︑ヘスターは罪を表面にあらわし︑ディムズデlルはかくしているとはいうものの︑へスターが罪をあらわしたというのは自ら進んで罪を告白したからではなく︑子供が生れた結果︑罪が自然にあらわれて

L

まったに過ぎないのであって︑へスタ1の

心理にあっては︑ディムズデlルと同じく︑自分の意志によ

る告白は行われていないのである︒彼女があくまで相手の男

の名をあかさなかったことがこれを物語っている︒

このような対照的な人物設定︑罪意識の差︑苦悩の質的な

相達︑緋文字の意味のへだたり︑更に根本的には︑二つの世

界の対立を構造としてもつ﹃緋文字﹄の統一点はどこにある

のだろうか︒﹃緋文字﹄は往々罪の文学として考えられてい

る︒罪に対する作者の見解がこの作品を統一すると考えられ

ないこともない︒だが︑﹃緋文字﹄は罪となる行為が犯され

て︑子供が生れた時から後の罪人の生活を扱っているのであ

って︑罪はこの作口間にあっては既に既成事実︑となっている︒

もし読者が宗教的な罪論を期待するならば︑罪の結果を扱っ

た﹃緋文字﹄よりは︑罪そのものを扱った一ホIソソの初期の

短篇集をとり上げた方がふさわしい︒また︑作者の罪論その

ものを期待するならば︑仮構の作品よりは︑

z c g σ g Z

日記手紙類をとり上げねばならない︒

私の考えでは︑この作品に於ては︑罪そのものよりは︑罪

‑ 52

(10)

の結果である緋文字や苦悩︑別の一言葉で言えば︑罪人︑と見倣

された人々の心理的葛藤の展開に紙面の多くが割かれている

ところに考察の焦点を向けねばならない︒﹃緋文字﹄は清教

徒的・反清教徒的二つの世界に属する人々のそれぞれの立場

と︑罪と認められた行為に対するそれぞれの見解とに基く心

理的葛藤が主題なのである︒しかも︑この心理的葛藤は単な

る多彩な心理変化の描写や分析に終るのではなく︑一種のそ

ラルによって統一されている︒また︑このモラルは清教徒反

清教徒の世界の両者に等しく働きかけるのであって︑そこに

﹃緋文字﹄の対照的構造の統一が見出される︒もちろんこの

モラルは先程から述べている二つの世界のいづれにも属きな

い別の世界観のあらわれである︒今この世界を仮に第三の世

界と

呼ぼ

う︒

世 界 の

この第三の世界を形成するモラルは︑清教徒の﹁提﹂︑反

清教徒の﹁自然﹂といった明確な価値とは異って︑どちらか

といえば暖昧なうらみがあるが︑

E E

仏 と 出

2 3

の相関的

均衡とでも表現されるものである︒

g

円円と出

2 2

という対句的表現はメルヴィルが好んで

用いたもので︑一八五一年にホIソソ宛の手紙の中で使ったのが最初であろ句︒メルヴィルは思想・思考力︒理知性等を

E g

仏乞いう言葉で表現し︑感情・情緒等の自民注目

o E ‑

なも

の を

g

同立であら会わしたが︑二者の限界が明確さを欠いて

いることは否定できない︒例えば︑憎しみなどは普通mB0・

p

丘 ︒

‑ s g Z

ロに属すると考えられる︑が︑極度の憎しみは︑

エイハプ船長に於ける如く︑一切の優しさ︑愛などの暖い感

情を退けて思考に没頭する傾向を生む︒だから︑出

g H H

E E

仏に対応するとはいうものの︑必ずしも一切の

2 5

・民︒ロ巳なものを指すのではなく︑怒りとか憎しみは除かれて

しる

Iホ ︒

ソソはメルヴィルの用いた出

E

g

立という対

句的表現こそ用いていないが︑この表現を適用することので

きる観念の対立や︑二者の均衡が破れて破滅か一招くといった

1

7を︑初期の短篇の中で幾度か扱っている︒メルヴィル

はホ

iソI

ンの短篇を読んで出

2

仏と回目白立という対句を

考えたとさえ思われる節︑がある︒それはともかくとして︑例

えば同早急﹄

WN

QM

Nh

出では︑主人公プラソドが悪の所在を追究す

る余り︑一切の人間的な感情を捨て︑知性を極度に発達させ

た結果自ら惑鬼となって滅びる︒また︑切を

h s

込の主人公b

アイルマーは知性の限りをつくした医術でもって妻の頬のア

ザ(実は人聞の不完全さ︑罪の象徴﹀を消そうとするが︑ア

ザが消えた時には妻が死ぬのである︒この種のテ1

マを

扱っ

た作品は他にも多くあるが︑いづれも出

2

仏と

E 2 3

の均

1liN

Q 3 h出では

g g E 2 6 0

山田

町宮

件当

2

口氏

ロ仏

国出

r g

立と表現されている

li

が破れた際に悲劇的破滅が訪れ

‑ 53

(11)

ることになっている︒人間としての則を超えず︑完全なもの

であり得ない人間の枠内に留るには︑

ES

仏 と

EE

え の 聞

の均衡を保たねばならない︑というモラルは︑そのまま﹃緋

文字﹄にあてはめてみることができる︒

﹃緋文字﹄の清教徒の世界は

EE

片付より出

2

仏に傾いた

世界である︒清教徒への言及にこのことは執掛に繰りかえさ

れている︒清教徒達はさらし台に立ったへスターに相手の男

の名を明かすよう要求オるが︑それは︑ゥィルソソ牧師が伝

えるディムズデiルの見解が一不すように︑国

2 2

を無視する

行為である

l i t

﹁こんな白書に大勢の群衆の前で︑女の心の

秘密

F 2 r g H

E Z

をしいてあばくのは女の本性その

ものに対する侮辱である﹂(ヲ叶

3 0

清教徒達がパI

ルを

スタIの手許から引離そうとしたのも母情を無視した行為で

ある︒また︑清教徒の女性達にも

E g

立はない︒ヘスターが

さらし台に立︑った時︑清教徒の女達が五人登場して様々にヘ

スターを批評する︒この女性達は再び最後の場面でも現れる

が︑その再登場はこう書かれている︒﹁へスタ1

・プ

リソ

七年前自分が監獄の入口から出て来るのを待っていたあの主

婦の群の︑あの同じ顔ぶれを見つけた︒たった一人見えなか

ったのは︑そのうちでも一番若くて︑自分に同情してくれた

女であったが︑あとになってへスターはその女の葬衣を縫っ

たのだった

L

Q

3

自この何気ない女性達の再登場の記述に

も︑清教徒の世界が出

g

立を喪失した世界であり︑心優し い民自立の持主は到底この世界に住み得ないことが雄弁に語

られ

てい

る︒

牧師の最年長者であり︑清教徒的世界の代表者として先に

言及したウィルソン牧師でさえも︑他の清教徒に劣らず

g

え よ り は

g

出仏に傾いている︒﹁彼は大学者であり︑そ

れに親切な人ではあったが︑この親切という方は︑知性ほど

心をこめて麿きあげられなかったので自慢というよりは︑恥

の種であった﹂な・戸)と作者は言い︑更にこれに続けて︑

このように知性が勝って親切心の薄い入︑別の言葉でいえば︑

g

仏 が 勝 っ て

g

出立を失いかけている人は︑人間の罪や

情熱や苦悩といった暗い面︑悲しい面を見る権利はないとい

って

いる

o Q

‑ a )

明らかに︑ここには︑人生の全面的な認

識は単に国

E

仏の働きのみにてなされるのではなく︑出

2 2

の作用も同時に必要であることが意味されている︒従って︑

このように出

2

を 喪 失 し て

g

同仏に傾いた清教徒の世界

は︑人生の全面的な認識を欠いた極めて独善的な世界である

といえる︒

一方︑反清教徒的なパiルやへスタiの﹁自然﹂に則した

世界はどうであろうか︒反清教徒の世界が出

2 2

に傾いた

世界であることは一言うまでもないが︑例えば︑ヘスターが自

ら感じたように︑情熱そのものは神聖であるかもしれないが︑

情熱的行為は必ずしも善とは結びつかないし︑情熱のみにて

完全な認識は達成されない︒出

g

立のみの世界は︑出

g

仏の

‑ 54‑

(12)

みの世界と同様独善的であり︑更に︑パlルに見られるよう

に気紛れが甚しい︒

このように︑清教徒・反清教徒の二つの世界は︑それぞれ

g

仏 若 く は

g

立の一方に傾いて均衡を失した世界であ

る︒だが均衡とは言うものの︑国

2 2

も同町田仏も共に質量を

云々すること︑ができないため︑均衡の基準を定めることが不

可能であることを認めねばならない︒しかも出

g

仏と出

g

の 聞 で は

g

片付に重点がおかれていることにも注目する必

要が

ある

合理主義の立場からみれば︑考える葦としての人聞にとっ

ES

仏は本質的なものであった︒この十八世紀的理性万能

主義に対するロマソチツズムの反動の一つは︑国

g

えの主張

としてあらわれた︒もちろん︑ホIソソがロマソチツズムの

作 家 と し て

2

2

の主張に一役買っていることは否定でき

ないが︑ホlソンやメルヴィルが出

2 2

を重視したのは︑

より根本的には︑アメりカのピLI川町タニズムの伝統に連なっているからだと考えることができる︒

ところで︑凶手おお切

NS

RN

の中でホIソンが述べていると

ころに依れば︑ブランドは何回目国立をかつては田

R 5 1

︒立

B

E ‑ ‑

可仏芝山口町と考えていたという︒しかし︑悪の所在を厳し

く追求するあまり︑伎は

r g

立をすてて︑知性一点ばりの

人聞になった︒だがそれと同時に︑彼は人聞とのつながりを

失 っ て に な っ て し ま っ た

︒ と い う の は

︑ 民 日 目 ロ 仏

g H

吉田

ぬロ

立山

口口

}回

包ロ

r

B

田口

日々

であ

って

︑国

23

の喪失はヒ

ュlマニティからの遊離を意味したのである︒

つまり︑出

g

立を持つことによって︑人は他人の悲しみ

を共に悲しみ︑人の罪を暖く許すことができる︒だから︑

g

E

は彼を全人類と結びつける愛の粋であるのだが︑人間

の罪を許し︑悲しみに共感するということの背後には︑人聞

は︑完全であり全能である神の前にあっては︑所詮不完全で

あるという認識が秘んでいる︒しかもこの認識から︑不完全

な人聞は神の慈悲によってのみ救われるのだという神の思寵

への信仰が生れてくる︒従って︑出

g

えは単に同胞との愛の

粋であるばかりか︑神への敬愛をも意味する宗教的認識の根

源であるともいえる︒

g

立が重視されたのもこのためである︒だから︑このよ

う な

g

出尽を伴わない知性は︑ヒュIマユティからの遊離

と同時に神への背信を意味しているといえる︒出町民件を失っ

た肘吾出ロロダロ仏は次のような知性の罪を犯したと言われて

いる

‑ 55

r

明日

ロ︒

向田

口山

口同

‑ ‑

0 2

岳 民 RE 81 μ

色︒

4 2 F m m m

回 目 白

H

z c F 2 r

︒仏

当日

同何

回吉

田口

田口

52

同町

口口

問問

︒同

︒︒

門戸

回口

内凶

器 口 同 日

出 口 町 門

H 2 2 1 r g

ぬき

芦田

d﹃ ロ

5

m r q

乙曲目

5

一叶

﹁向

︒口

町山

口予

三円

2

2 4 2

回目

O

市開

口回

目︒

‑ B H H H O H 包 括 O

ロM

L は

しかも︑既に述べたように︑出

g H

g

仏と連繋を保

tま

(13)

ち均衡をとらなければならない︒メルヴィルによれば︑その

際主導的な役目を果すのは回目印同円であって︑相関的共鳴

g H H

己注

4

4 5 ]

岳山可という働きによって

Z g

色︑が出

g

と均衡をとるという︒﹁同

g

立はその深みに達する程にゆり

動かされると出目白仏の中に相関的共鳴口

2 5

E

s a g

宮岳山可

を造り出し︑同日叩門田も同様深遠に動かされるのだ﹂とメルグ

ィル

は議

百い

てい

る︒

要するに︑出向恒三と出

g

仏の聞の正比例的な均衡関係が

あってはじめて人は神への敬愛と同胞愛にもとづく認識︑キ

リスト教徒たるにふさわしい真の認識を行いうるといえる︒

私の考えでは﹃緋文字﹄の結末は︑この出

22

g

国仏の

均衡の獲得がもたらす認識としての高次の世界観へと向って

いるのである︒だが︑それに先立ってこの作品の諸人物の心

理的葛藤を

E 2 2

仏の観点から眺めてみよう︒

g

ディムズデIルは自分の罪をかくした︒ヘスタIの心理に

於てもかくそうとする意図が働いていることは先に指摘した︒

へス

iの夫チリソグワIスも︑その素状をかくして登場す

る︒これ等三人のそれぞれに秘密をかくす行為は︑自分達に

直接かかわりのあることにのみ関心を持つエゴイズムの所産

である︒出

22

と民自仏の相関的均衡が破れたときに生れ

るのがこのでコイズムである︒ヘスターは自分の愛を守り︑

恋人を守ろうとしてその男の名を告げない︒彼女が民

g

仏を

伴わない極端な国

g E

の働きに支配されているとすれば︑ 回目印立を分ち合った点でヘスタ!と結びついたディムズデi

ルは︑そのような出

g

立を隠さねばならないためハ叶﹁白

F

2 ‑ 2 0 h

岳由民

E

立と題する十一章参照)︑国

g

仏に一方的

に傾く︒その結果︑彼は自分の罪を極めて理知的な方法で隠

そうとする好智をめぐらすに至る︒﹁牧師は│li︑校猪で︑し

かも後悔している偽善者なる牧師は

l l l

自分のぼんやりした

告白がどんな風に解釈されるかをよく知っていた﹂

Q

・思

ω )

また︑チリングワ1スは︑ヘスタIの相手の男を探し出して

苦しめる目的を抱いて自分の回

2 1

をかくし︑﹁人にすぐれ

た︑すばらしい学問と智慧だけを紹介して﹂な・

56

︑つま

り出向田弘だけの人物として清教徒の社会に仮ずまいを定める

ので

ある

ヘスターは︑既に述べたように本来反清教徒的であるが︑

胸に緋文字をつけて清教徒の社会に住まねばならない︒

22

に秘密を持つへスターは︑その民自白立をかくす必要

のためと︑人々の侮蔑の限と冷い態度のために︑国

2 3

をか

たくなにし︑独りでの思索をたのしむようになって同

g

仏に

次第に傾いて行く︒このことを作者はこう一言っている︒﹁ヘ

スタ

I・プリソが大理石のような冷い感じを人に与えたのは︑

彼女の生活が︑大部分情熱宮田氏︒ロや感情

P

丸 山 口

m

とはなれ

て︑思想

F C

ロ∞一宮へ向っているせいだと考えるべきだった﹂

Q e E S

緋文字をつけたヘスターは確に社会に貢献した︒貧

乏人を助け︑疫病が流行すれば卒先して献身的な働きをみせ︑

‑ 56ー

(14)

難儀をしている家を見舞い︑病人を看護する︒このようなへ

スタ!の働きぶりを見て人々は緋文字のA

を﹀豆町の意味

にとり︑罪のしるしではなく︑﹁多くの善行のしるし﹂岳由

吉 宮 p : o h F 2 5 8

m o o

p m r e

53

と見倣すに至っ

たという︒だが︑彼女の行為は決して心底からの愛の行為で

はない︒ヘスターの内面生活に於ては出

g

仏︑

が強

国に

支配

ていて︑彼女をヒュ!?ニティに結びつける

E E

立 は 依 然

失われたままになっている︒であるからこそ︑人々が善行の

故にへスターに暖い脹をそそぎ︑街で一言葉をかけようとして

も︑彼女は胸の緋文字の上に軽く指をふれて通り過ぎて行

き︑自ら社会の人?との交りを拒絶するのである︒人々はこ

の態度を謙遜と考え︑社会の雅量に恵を訴えているのだと善

意に解するが︑実はへスターは出

g

与を酒枯して社会の好

意を受け入れることができず︑全く孤立しているのである︒

彼女が社会をはなれて自由な思索をしたというのも当然であ

そうは言うものの︑へスターは

ES

る ︒

立を全面的に喪失し

たのではない︒彼女にはパIルがいて︑パールに愛を注ぐた

め ︑

z g

えはすっかり︑相枯してしまうのをまぬがれたのであ

る︒パールがへスターにとって神の祝福であるというのは︑

2

2

の観点から言われることである︒ディムズデlルはへ

スターに対するパlルの働きをこう表現している││﹁父親

の罪と母親の恥でできたこの子は︑神の御手からくだったも のであって︑それは︑熱心に︑血が出るほどの想いで子供をとられまいとする権利を主張している母親の出

2 2

にいろ

いろと働きかけるためなのです﹂(ヲロ

S

このように︑ディムズデlルは︑パiルがヘスタIの

Z 2 3

に働きかけてくれることを神のめぐみと一言うが︑パールに愛

を注ごうとしても拒否される彼には︑その意味での神のめぐ

みはなかった︒彼が同

g

ユを回復し︑神のめぐみに接する

に至るには︑まだ幾多の曲折を経なければならない︒その問︑

このように︑国

g

立に秘密があるため巴

2 2

をかくし︑そ

の上︑パールに愛の交流を拒否されて

E E

立回復の機会を

持たないディムズデ!ルは︑へスターに一応の優しさを示し

ながらも相手の男を求める復讐心のために

z g

立を喪失し

たチリングワIスとの聞に︑著しい類似と親しみを見出した︒

二人の学識ある知的人物││牧師と医者︑は共に出

E

仏に傾

いていったのである︒﹁人間の思想と研究の全部を入れてい

るほど広いこの二人の教養ある心の間にゲ

2 4

2

F2

目 立

可 ︒

2 5 4 主 B E p u Q ‑ E C

一種の親しみが成長した﹂とい

うのも当然であろう︒

だが二人の違いは︑一方が

E E

尽にかくさねばならない

秘密を持ち︑それがために外部との出

g

立の交流をやむな

く止められていただけで︑決して︑出

2 2

を完全に喪失し

ていなかったのに対し︑他方︑チリングワiスの方は﹀

§ v v

b

帆与のエイハブ船長と同様に︑復讐のために自分の回

g E

‑ 57

(15)

を全く抹殺しようとして︑一方的に出

g

仏に傾いた点にある︒

チリソグワIスには︑ゴシッグ・ロマンスの系統をひく悪

魔的なイメグが様々に与えられているが(毒草・不具・背が

低い等)︑彼の悪魔性とは国

g

立 と

g

出仏の観点からみれば︑

彼をヒュiマニティに結びつける伯仲となる出

g E

を喪失し

たことと︑他人︑すなわちディムズデl

ル の

g

立 の 秘 密

をのぞこうとしたことにある︒ディムズデlルは︑先に触れ

たように︑相手の男の名前を告げなかったへスターを弁護し

﹁ 女 の 心

g

出立の秘密をあばくのは女の本性そのものに

対する侮辱である﹂

Q

3

﹀と一言った︒またチリングワIス

に向つては︑﹁もし私の予感に間違いがなければ︑神のおん

憐みの外には︑一言葉で言っても︑あるいは︑何かのしるしで

あらわしても︑人間の出

S

立と共に葬られているかもしれ

ない秘密をあばく力はないのです﹂

Q ‑ E S

と一

言っ

てい

る︒

彼自らこのように言うことは自己弁護の響が多分にある︑が︑

E3

そのものは︑既に述べたように︑宗教的認識の主体で

あり

N S S

NP

RN

の中で﹁本来神聖な社であって︑如何

に汚されていようとも︑人間同胞はこれを聖とぜねばならぬ

もの

lil

﹂同

芯目

立冊

︒片

山関

山口

同日

々岳

丘ロ

ク同

ロ円

y r 0 4 2 4 2

E

E W

Z

Z

﹁巾

日仏

窓口

忠弘

ゲ可

出ゲ

E p h .

と言われてい

ることからでも明らかなように︑ディムズデIルの言葉は自

己弁護以上の真実を語っていると考えられる︒つまり︑チリ

ング

l

スは人間の出

E2

の神聖さをけがし︑神のめぐみ

のみが明かにしうる出

22

の秘密を︑神になり代って人間

の知力でもって明らかにしようとするのである︒チリソグワ

Iスの悪魔性はこの知力の︒ブライドにある︒このように他人

の出

2 2

を犯そうとし︑自らの出

2 2

を放棄した彼は︑も

はやヒュIマニティに結びつくこともできなければ︑神のめ

ぐみを感じることもできない︒伎が肘子炉ロ呂田口仏と共に︑

ホIソソの最も典型的な悪魔的人物の一人であるというのも

このためである︒

ところが︑同じく出

g

仏に傾いていても︑ディムズデ!ル

の方は︑チリソグワlス︑が牧師を苦しめるなというへスター

の願いを無下にしりぞけたのに反して︑へスターに会って逆

E g

立をとり戻したのである︒この森の中での二人の再

会は︑互の同日間三の回復という重要な意味をもっている︒

へスターが︑それあったが故に出

g

立を失い︑冷い思索の

設にとじこもる原因となった胸の緋文字をとりのけ︑更に帽

子をもとると︑﹁女性の

E 2 2

からほとばしってくるように

思われる輝かしいやさしい微笑が彼女の口のまわりに動き︑

彼女の限から輝いた﹂な・担︒のである︒ディムズデI

ルも

一応あやしみながらもこの出

g

立のよろこびを感じる︒も

ちろん︑二人がこのように森で会い︑互の愛を再び確認し合っ

たこと自体は︑パールが二人に全然近づかなかったことが示

すように︑彼等のかくす罪が出

g

立にまだ残っており︑従っ

て 彼 等 の

g

立は神のめぐみを受けるに値する状態には至

‑ 58‑

(16)

っていない︒むしろ︑一一人は出向丘を放棄して出

g

立 の 極

端に走ったとも言える︒外国へ行こうというへスタIの誘い

自体も︑問題の解決ではなく回避に過ぎず︑それはディムズ

デiルにとって悪魔の誘いにも等しかった︒しかし︑このよ

うに二人が会って︑たとえ一時的なよろこびによってであれ︑

互 に

E

同立の存在を確認しあったことは︑次の段階への転

機になる重要な意味をもっている︒つまり︑出

g

立がよび戻

されることによって︑出

g

仏 と

E 2 2

の均衡を得る可能性

が生じたのである︒このことは︑ディムズデIルが森から帰

ってその輿奮からさめたあと︑書きかけの巴自己目︒ロ

ω 2 B o p

を火中に投じて︑すぐ別の草稿を書いたことによってもうか

がうことができる︒書きかけであった原稿は﹁二目前︑思想

が頁に流れ出て来るのを止めたため︑文章の途中で挫折した

未完の説教﹂

i l l s

己 ロ

F H

山岳

丘団

2 5 c p

君主

H B m g

ロ 由 由

R

ず 円

OH

内向

ロ山

口岳

巾旨

広三

u d岳 町 同 市

r u H F

Nh

宮何

日戸

田弘

g

m

巾 門

凶 件 ︒

5

r c 毛

C

E

ロ岳

町也

知的

P21

︒仏

印可

申ゲ

問問

・︒

E

e ‑ N E )

と表

現されているのに反して︑新しい別の原稿は次のように書か

れたと作者は書いている︒﹁彼は︑神輿に打たれたと思うほ

ど︑流れのようにおしせまる思想と感情で別の原稿を書いた﹂

11 lr

白 向 ︒ 円

昨 日 戸 当

E H

ゲ由

ぬ山

口出

口︒

F2

︹巴

巾三

芯ロ

ω 2 5 0

ロν4

4r rr

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88

当 日

F

ロ出

H Z r

H E 6

己 明 日

4

山︒

44 0

HV

︒£

E Hb RN

3 8 N 3 5 F

同 昨 日

5FE

ぽ 仏

E g g ‑

同日

ロ∞

立同

色・

(也

‑ h N S )

このように同

g

仏のみならず出

g

立の作用をも加えて書

き改められた説教の内容は︑残念ながら明かにされてはいな

い︒ただ︑ヘスターが聞いたという形で読者に一不されるに︑過

ぎない︒だが︑この説教を聞くことによって︑へスタl自身

にも︑ディムズデIルが得た大いな心情と学識の均衡が分ち

伝えられたと考えることができる︒牧師の説教は会堂の外に

いるへスターには言葉がよく解らなかったが︑﹁へスターは

ひどく緊張して︑耳をすまして︑深く同情の想いをこめたの

で品目宮岳町丘町︒古

P H g g q

︹民自立が作用している︺︑

言葉はわからなくても︑説教はすっかり自分にとっては意味

があ

った

Q ‑

3

という︒﹁しかし︑その芦は時として荘

厳になったけれど︑そのうちには︑永久に︑本質的な物悲し

きがあった︒苦悩の︑高い︑または低い表白︑万人の胸にある

感性を動かした悩める人間のささやき︑或は絶叫とも思われ

るものが〆:・:それは何であったか︒それは悲しみの重荷を

負い︑恐らくは罪でも犯した人間の出

g

ユが︑罪もしくは

悲しみの秘密を︑人類の大きい心情岳町出資白色

r g H

︒同

吉田

ロ‑

E E

に告げ︑人類の同情あるいは許しを

il

瞬間ごとに

li

ひとこえごとに︑求めて必ず答を得られる愁訴であった

f

(

Nl斗斗

∞ )

このようにしてディムズデ

lルは︑先に述べたような︑

居間

関由

主ロ

E

Z

r u g g

定可である出

22

を回復し︑彼の

大いな心情は彼の思想を一段と霊感に満ちたものとした︒ご﹂

の日に説教した人ほど︑聴明な︑高尚な︑神聖な精神で説教

‑ 59‑

(17)

した人はなかった﹂

Q

NN)

とも思われたのである︒彼が

z g

立と

ES

仏の均衡を得たとき︑彼は聞いている清幹徒の

誰よりも一段と深遠な洞察︑広大な認識︑そ

L

て︑神に対す

る︑深い因究怖の気持を得たと言える︒このような立場に立って

彼は罪を告白する︒彼の最後の言葉﹁神は慈悲深いのだ出即

日由

自己

口氏

己一

守・

N)﹂という︑苦痛に神の愛を感じ得る認

識は︑国

23

と国日間色の均衡がもたらす高次の認識︑真の

キリスト教徒的認識を語るものといえる︒

2

2

のみの極端から出

g

仏の極端でまた再び出回目立

のみの状態に陥るなどして︑二者の相関関係を確保し得なか

ったへスターは︑ディムズデlルの最後の説教と最後の一言葉

によってディムズデIルと同様の均衡を得たといえる︒彼女

は自分の意志でこの地に戻って来て︑人々の良き相談相手と

なり︑﹁思慮深い︑自己犠牲に甘んじた年月﹂手︒丘町

z r r g (

程民

・骨

g z

仏可

g H

(UNφ)

を送ったのである︒そのような

へスターは︑もはや以前の反清教徒的なへスターでもなけれ

ば︑偏狭な清教徒に転向したのでもない︒彼女は反清教徒と

か清教徒といった世界にしばられず︑この二つの世界よりは

次元の高い︑回目白立と出白色が融和する第一一一の世界︑すな

わち︑キリスト教徒としてのヒュlマニティの世界に属して

いるといえよう︒独り暮しをしながらも彼女は孤独ではなく︑

社会と遊離してもいない︒ヒュ!?ュティの一員として彼女

はすべての人の友となったのである︒

び す

これを要するに︑﹃緋文字﹄は提を破った人物を清教徒・

反清教徒の二つつの世界のコソトラストの中に配置し︑彼等

が受ける罪の結果としての苦しみを︑良心の苦しみと社会的

な苦しみとして対比させ︑素情と意図をかくしたチリングワ

Iスを間にはさんだへスタ!とディムズデi

ルの

コ一

人の

かく

し合う行為と心理を中心にして物語は展開する︒この展開に

は ︑

E 2 3

と︑それに対する出

g

仏の相関的均衡という心理

的価値観が働いていて︑その均衡を獲得したへスターはより

高次な世界に住むことになる︒ディムズデI

ル も

S

2

g

仏の均衡による大いな認識を得たが︑罪の結果としての

死をまねくのである︒一方︑出

g

仏のみの生活を送っていた

チリソグワlスは︑ディムズデ!ルの死によって自分の存在

を支えていた出

2

仏を作用さぜる原因を失ってやがて死んで

行く

iたとえ結末がディムズデルの死に終っていても︑へスタ ︒

ーもディムズデ1ルも共に罪や苦しみを通して

EE

立 と

g

仏の均衡を得︑そこに︑深い洞察と認識のみならず︑神

への畏怖を伴う高次の世界観を得たことを考えてみれば︑結

果論的には︑そのような人生の暗い悲惨な面の体験が︑人間

のより良き状態に必要であるという同

2 z z g

町田

口観

をく

③ みとることが可能かもしれない︒緋文字をつけてみるとへス

‑ 60

参照

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