高
野
政
所
・慈
尊
院
の
歴
史
山
本
智
教
高 野 政 所 と い わ れ た 慈 尊 院 は 弘 法 大 師 0 草 創 に か か る と 伝 え ら れ る が 、 こ れ を 直 接 に 証 明 す る 文 献 は 見 当 ら な い 。 例 え ば 大 師 自 身 の 著 作 に そ れ が 見 え な い 。 け れ ど も 高 野 春 秋 ( 仏 教 全 書 本 P一 二 ) に よ る と 、 天 長 三 年 ( 八 二 六 ) 正 月 十 一 日 に 慈 尊 院 で 始 め て 大 仁 王 会 を 行 な う と あ る 。 こ れ は 東 寺 の 守 護 経 会 に 因 ん で 護 国 利 民 の た め に 行 な う の で あ っ て 、 後 世 に 高 野 山 金 堂 で 行 な っ た 仁 王 会 の 起 本 で あ る と い う 。 天 長 三 年 ( 八 二 六 ) は 弘 法 大 師 御 在 世 の 時 で あ る か ら 、 こ の 仁 王 会 は 大 師 御 自 身 の 発 意 に よ っ て 行 な わ れ た と 考 え ね ば な ら な い 。 そ れ で 、 政 所 と し て の 慈 尊 院 は 弘 法 大 師 に よ っ て 創 建 さ れ た と い う 伝 承 は 事 実 で あ る と 認 め な け れ ば な ら な い 。 慈 尊 院 は は じ め か ら 弘 法 大 師 に よ っ て 高 野 山 の 入 口 と 定 め ら れ た で あ ろ う 。 そ れ は 高 野 山 の 対 外 交 渉 の 事 務 所 で あ っ た 。 ま た 慈 尊 院 か ら 高 野 山 に 登 る 町 石 道 の 起 原 が 大 師 の 時 代 に 湖 ぼ る こ と を 示 し て い る 。 さ ら に 思 い を め ぐ ら す な ら ば 、 大 師 が 勤 操 大 徳 に 従 っ て 和 泉 の 棋 尾 山 で 剃 髪 し て 沙 弥 と な っ た の が 延 暦 十 七 年 ( 七 九 八 ) 、 大 師 御 年 二 十 五 才 で あ っ た こ と が 知 ら れ て い る し 、 ま た 大 唐 か ら 帰 国 の 後 大 同 二 年 ( 八 〇 七 ) か ら 同 四 年 ( 八 〇 九 ) ま で 模 尾 山 に 滞 在 さ れ た の が 事 実 で あ る か ら 、 そ の 後 弘 仁 九 年 に 大 師 が は じ め て 高 野 山 に 登 ら れ た 後 に 、 京 都 か ら 高 野 山 へ の 往 復 の 途 次 に 、 棋 尾 山 か ら 葛 城 山 脈 を 蔵 王 峠 で 南 に こ え て 大 野 で 紀 の 川 を わ た り 慈 尊 院 に 詣 で へ そ こ か ら 高 野 山 に 登 ら れ た こ と も 何 度 か あ っ た と 考 え ら れ る 。 そ の 頃 の 高 野 山 は 草 創 途 上 の 苦 難 の 途 を 辿 っ て い た 。 高 野 山 は 官 寺 で な く 、 人 煙 ま れ な 山 中 に あ っ て 、 従 っ て そ の 造 営 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史密 教 文 化 は 言 語 に 絶 す る 困 苦 に み ち て い た 。 高 野 山 の 寺 領 に つ い て の 記 事 の 初 見 は 三 代 実 録 の 貞 観 十 八 年 ( 八 七 六 ) の 条 に あ る 。 ﹁ 伊 都 、 那 賀 、 名 草 、 牟 婁 の 四 郡 に 散 在 す る 水 陸 田 三 十 八 町 の 地 を そ の 租 を 免 じ て 永 く 寺 田 と な す レ と い う も の で あ る 。 弥 勒 堂 の 造 営 慈 尊 院 弥 勒 仏 坐 像 は 寛 平 四 年 ( 八 九 二 ) 会 理 の 作 で あ る こ と が そ の 銘 に よ っ て 知 ら れ る 。 こ の 像 は 長 い 間 秘 仏 と し て 尊 崇 さ れ て 来 た 。 昭 和 に な っ て 漸 く 修 理 の 必 要 上 文 化 庁 技 官 に 見 せ て か ら 一 躍 有 名 に な っ た 。 像 は ほ と ん ど 全 部 一 木 彫 成 で あ る 。 面 相 、 体 躯 お よ び 衣 文 と も に 雄 勤 で あ る 。 長 く 秘 仏 で あ っ た の で 、 保 存 は 殊 の 外 に よ い 。 衣 端 と 衣 襲 の し の ぎ に 載 金 線 を お き 、 台 座 と 光 背 に 極 彩 色 の 文 様 を お く 。 様 式 は 平 安 初 期 風 で あ る 。 眉 目 が や や 穏 や か に な っ て い る の で 、 他 の 平 安 初 期 の 作 品 よ り や や お そ い よ う に 見 え る 。 と こ ろ が ﹁ 寛 平 四 年 ( 八 九 二 ) 歳 次 壬 子 五 月 十 九 日 造 仏 事 巳 了 ﹂ と い う 墨 書 銘 が 発 見 さ れ た 。 様 式 は こ の 時 代 に 相 当 す る 。 と こ ろ で そ の 作 者 に つ い て は 天 治 元 年 ( 一 一 二 四 ) の 鳥 羽 上 皇 の 高 野 御 幸 記 (後 出 一 三 頁 ) に 出 て い る 。 ﹁ 昔 恵 理 僧 都 手 に 斧 を 携 え て え り え り 造 る 所 也 ﹂ と あ る 。 恵 理 は 正 し く は 会 理 で あ る 。 寛 平 四 年 は 作 者 会 理 の 三 十 八 才 の 時 に あ た る 。 弥 勒 堂 が 弘 法 大 師 母 公 御 廟 と 同 一 視 さ れ た の は ず っ と 後 世 の こ と で あ ろ う が 、 そ の 造 営 年 代 は 明 示 さ れ て い な い 。 け れ ど も 、 本 尊 の 弥 勒 仏 坐 像 が 寛 平 四 年 で あ る と す れ ば 、 そ の 頃 に は お 堂 も 建 て ら れ て い た と 見 ね ば な ら な い 。 そ れ は 大 師 入 定 後 五 十 七 年 で あ る 。 大 師 を つ い で 高 野 山 の 経 営 を そ の 双 肩 に 担 っ て 苦 労 を 重 ね た 真 然 大 徳 の 示 寂 は 寛 平 三 年 ( 八 九 一 ) で あ っ た 。 万 事 に 不 如 意 で 、 余 裕 な ど な か っ た に ち が い な い 。 し か し と も か く 政 所 弥 勒 堂 が 建 て ら れ た の で あ る か ら 、 そ れ は 真 然 大 徳 の 晩 年 の 努 力 に よ る と 見 ね ば な る ま い 。 そ れ か ら ま も な く 昌 泰 三 年 ( 九 ○○) 十 月 に 早 く も 宇 多 法 皇 が 高 野 山 に 参 詣 さ れ た 。 高 野 春 秋 に は ﹁ 信 宿 干 中 院 、 益 信 僧 正 供 奉 、 座 主 無 空 律 師 拝 礼 ﹂ と あ る 。 こ れ は 皇 族 の 最 初 の 御 参 拝 で あ っ た 。 延 喜 二 十 一 年 ( 九 二 一 ) 十 月 に 観 賢 僧 正 が 醍 醐 天 皇 の 宣 旨 を 奉 じ て 大 師 認 号 と 桧 皮 色 の 御 衣 を 高 野 山 奥 院 御 廟 で 大 師 に 捧 げ た こ と は よ く 知 ら れ て い る 。 そ の 時 に 大 師 の 母 方 の 親 類
で あ る 阿 刀 氏 の 二 代 に あ た る 元 継 が 御 廟 ま で お 供 し た と い う 言 い 伝 え が あ る 。 し か し こ の こ と は 正 式 の 記 事 に の っ て い な い の で 、 に わ か に 信 じ 難 い 。 観 賢 の 御 廟 参 詣 に 関 し て 高 野 春 秋 巻 第 三 ( P四 四 ) に の べ る 。 延 喜 廿 一 年 ( 九 二 一 ) 十 月 十 三 日 に 勅 使 が 出 京 し 、 廿 五 日 に 政 所 に 到 着 さ れ 、 十 月 十 六 日 に 高 野 山 中 院 に 御 着 と 書 い て あ る 。 高 野 山 に も っ と も 近 い 寺 領 と し て 阿 琢 川 庄 が 開 か れ た 。 高 野 春 秋 に は 、 天 慶 四 年 ( 九 四 一 ) 阿 且 川 庄 内 新 開 作 山 野 。 是 座 主 済 高 之 仕 丁 阿 保 房 之 男 久 曽 丸 之 績 業 。 阿 且 川 庄 上 自 大 滝 村 下 迄 簗 瀬 村 東 西 二 里 余 。 今 又 号 花 園 庄 。 L と あ る 。 高 野 山 は 乏 し い 中 で 建 設 の 努 力 を 重 ね て い た が 、 不 幸 に し て 正 暦 五 年 ( 九 九 四 ) 七 月 に 、 高 野 山 大 塔 に 落 雷 し て 火 災 と な り 、 壇 場 伽 藍 の 諸 堂 は 累 焼 し た 。 そ の 時 寺 僧 は 高 野 山 上 に 住 む こ と が で き な か っ た 。 止 む な く 天 野 に 移 り 、 東 三 条 院 に お 願 い し て 近 く の 六 箇 七 郷 の 寄 進 を 仰 い だ 。 そ れ は 古 佐 布 、 笠 木 、 花 坂 、 長 谷 、 四 村 、 細 川 、 山 崎 、 教 良 寺 、 兄 居 、 三 谷、 皮 張 、 平 沼 田 、 毛 原 で あ っ た 。 こ れ 以 後 に 高 野 山 の 復 興 運 動 が お こ っ た 。 寛 弘 元 年 ( 一 〇 〇 四 ) 九 月 十 五 日 に 太 政 官 符 ( 弘 法 大 師 全 集 二 、 金 剛 峯 寺 雑 文 ) に よ る と 、 高 野 山 は 雨 が 多 く 湿 気 で 物 品 が 損 傷 し 易 い の で 、 高 野 山 の 真 言 法 文 、 衣 鉢 等 の 資 具 、 並 ぶ つ し よ う く び に 仏 餉 供 、 修 理 料 等 を 納 め る た め の 倉 庫 を 高 野 山 麓 の 家 多 村 ( 篭 田 村 ) に 建 て た 。 そ の こ と に つ い て 高 野 春 秋 ( P六 二 ) に 次 の よ う に の べ て い る 。 ﹁ 寛 弘 元 年 秋 七 月 十 八 日 奏 請 。 於 掩 田 村 ( 一 書 云 家 田 村 ) 始 立 政 所 寺 庫 。 納 宝 物 於 経 蔵 。 而 仏 餉 人 供 御 修 理 料 雑 物 等 。 三 綱 衆 職 掌 之 任 官 符 也 。 奏 表 云 。 寺 家 人 跡 遙 隔 。 雲 霧 難 晴 。 日 景 鎮 寒 。 納 物 易 損 。 傍 山 麓 掩 田 村 者 燥 暖 之 地 云 々 。 傍 得 天 許 。 而 建 政 所 寺 庫 。 家 田 村 後 来 号 慈 尊 院 村 。 以 院 号 又 呼 加 村 号 。 政 所 預 号 上 綱 。 三 綱 号 庄 官 。 ﹂ 前 記 寛 弘 元 年 の 太 政 官 符 は さ ら に つ づ け て い う 。 い ま は 像 法 末 法 の 時 代 で あ る か ら 、 人 々 は 邪 見 を い だ き 、 二 三 代 の 国 司 ( 地 方 長 官 ) が 修 理 料 を 寄 進 せ ず 、 暴 悪 の 徒 が 政 所 の 物 品 を と り 、 宛 か も 罪 人 を 扱 う よ う な や り 方 で 官 物 を 徴 収 し 、 ま た 百 姓 に 雑 役 を 課 す る の で ま こ と に 困 っ て い る 。 そ れ で 政 所 ( 慈 尊 院 ) に 対 す る 寺 田 の 収 公 を 免 除 し 、 ま た 百 姓 に 臨 時 の 雑 役 を 課 す る こ と を 免 除 す る よ う に 太 政 官 符 を 紀 伊 国 司 に 下 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-3-密 教 文 化 し た 。 こ の 頃 の 中 央 政 府 の 弱 体 に つ け こ ん で 、 国 司 以 下 の 暴 徒 が 恣 ま に 私 腹 を 肥 や し 悪 行 を な し た こ と が 察 せ ら れ る 。 寛 弘 頃 ( 一 〇 〇 四 -一 ○一一 ) に つ く ら れ た ら し い ﹁ 金 剛 峯 寺 御 手 印 縁 起 ﹂ は 後 に 高 野 山 の 寺 領 拡 大 運 動 の 依 り 所 と な っ た 。 こ の 図 に は 金 剛 峯 寺 政 所 を の せ て あ る 。 そ れ に は 堂 舎 数 宇 を か い て あ る 。 寛 弘 頃 に 高 野 山 は や や ゆ と り が 出 来 た と 見 え て 、 政 所 に 宝 蔵 を た て て 法 文 、 資 具 を お さ め 、 ま た ﹁ 御 手 印 縁 起 ﹂ を つ く っ て 、 興 隆 の 準 備 を と と の え た 。 そ れ は す で に 十 一 世 紀 の は じ め で あ る 。 そ れ に 先 立 つ 九 世 紀 、 十 世 紀 に は 余 裕 は な か っ た 。 長 和 五 年 ( 一 〇 一 六 ) 三 月 日 に 祈 親 上 人 ( ま た 持 経 上 人 と も い う ) 定 誉 が 高 野 山 に 登 る 時 に 、 慈 尊 院 の 中 橋 上 綱 永 誉 が 上 人 を 案 内 し て 高 野 山 に 登 っ た 。 定 誉 は 前 に は 南 都 興 福 寺 の 学 生 で あ っ た 。 子 島 の 真 興 に 師 事 し て 密 教 の 灌 頂 を う け た 。 彼 は 持 経 者 で あ り 勧 進 僧 で あ っ た 。 長 和 五 年 ( 一 〇 一 六 ) に 大 和 長 谷 寺 に 参 籠 し て 、 亡 き 両 親 の 成 仏 す る 浄 土 が 高 野 山 で あ る と い う 夢 の お 告 げ を い た だ い て 高 野 山 に 登 り 、 大 師 御 廟 前 で 高 野 山 の 復 興 を 誓 っ た 。 伝 え て 言 う 。 定 誉 阿 閣 梨 は 大 和 長 谷 寺 よ り 来 り 、 奄 田 村 の 政 所 の 一 ッ 井 の 上 座 永 誉 の 許 に 寄 宿 し た 。 こ の 永 誉 は 慈 尊 院 の 弥 勒 堂 の 別 当 中 橋 氏 の 先 祖 で あ る 。 一 ツ 井 は 大 正 時 代 ま で 中 橋 氏 の 持 仏 阿 弥 陀 堂 の そ ば に あ っ た と い う 。 こ の よ う に 高 野 山 は 定 誉 の 努 力 で 復 興 の 緒 に つ い た 。 十 一 世 紀 の は じ め 頃 に 政 所 に 宝 蔵 が 建 て ら れ て 高 野 山 の 法 文 、 資 具 、 文 化 財 が 収 蔵 さ れ た こ と と 、 そ の 当 時 に 中 橋 氏 が 別 当 で あ っ た こ と が わ か る 。 中 橋 氏 が 何 時 讃 岐 か ら 慈 尊 院 に 来 た か 明 ら か で な い が 、 十 一 世 紀 の は じ め か 、 ま た は そ れ よ り 以 前 で あ る に ち が い な い 。 中 橋 氏 の 家 伝 で は 、 中 橋 氏 の 元 祖 は 阿 刀 元 忠 と い い 、 大 師 の 母 の 家 系 に 属 し 、 弘 仁 七 年 ( 八 一 六 ) 大 師 に 従 っ て 高 野 山 西 院 谷 に 居 住 し 、 つ い で 慈 尊 院 に 下 り 、 政 所 の 別 当 と な っ た と い う 。 さ ら に 二 代 ( 元 忠 の 嫡 子 ) 元 継 、 三 代 元 義 を の べ て い る 。 け れ ど も こ の こ と は 、 大 師 の 母 公 が 慈 尊 院 に 来 ら れ た と い う 言 い 伝 え と と も に 、 に わ か に 信 じ 難 い 。 し か し 四 代 の 永 誉 に つ い て は 定 誉 上 人 と の 関 連 に お い て 信 じ て も よ い よ う
で あ る 。﹁ 家 田 村 四 丁 四 方 を ト し 、 伽 藍 を 創 造 し 、 万 年 山 慈 氏 寺 慈 尊 院 と 号 す 。 一 ッ 井 の 上 座 を し て 監 護 せ し む 。 今 現 に 別 当 職 に 掌 し 、 子 々 孫 々 に 相 伝 う ﹂ と い う の は 四 代 永 誉 に つ い て い う の で あ る 。 治 安 三 年 ( 一 〇 二 三 ) 入 月 十 九 日 に 法 成 寺 入 道 殿 下 道 長 公 ( 行 年 五 十 八 才 ) が 奉 に ん が い 書 を 飛 ば し て 、 小 野 法 印 仁 海 御 房 に 対 し 、 高 野 山 が 仏 土 で あ る と い う 因 由 を た ず ね た 。 仁 海 は 小 野 の 曼 茶 羅 寺 に い た 。 権 中 納 言 源 時 光 の 奉 書 に 云 く 。 ﹁晩 夜 の 夢 に 、 高 野 山 者 十 方 賢 聖 常 住 之 地 、 三 世 諸 仏 遊 居 之 と こ ろ 瑚 、 善 神 番 々 之 を 守 り 、 星 宿 夜 々 之 に 宿 る 、 釈 迦 転 法 輪 之 仮 、 慈 尊 説 教 会 之 場 也 。 一 度 此 山 を 踏 む 之 輩 は 永 く 三 途 之 境 に 還 た と え さ ん ね ら ず 、 仮 令 ば 彼 地 を 信 ず る 之 人 は 必 ず 三 会 之 下 生 に 遇 う 者 也 云 々 ﹂ 扶 桑 略 記 ( 和 歌 山 県 史 I 、 P五一一 ) 治 安 三 年 ( 一 ○二 三 ) 十 月 十 一 日 道 長 一 行 は 吉 野 川 で 船 に 乗 り 、 早 瀬 に 樟 さ し 遠 方 に 奇 岩 を 見 、 ひ る 頃 に 高 野 政 所 に お 着 き に な っ た 。 午 後 四 時 頃 に 山 中 の 仮 屋 を 目 指 し て 山 に の ぼ る 。 殿 下 は は じ め 馬 に の っ た が 、 や が て 降 り て 藁 履 を は い た 。 僧 侶 お よ び 俗 人 は み な そ れ に 随 行 し た 。 廿 二 日 午 後 四 時 す ぎ に 高 野 山 に 到 着 、 道 長 は 感 夢 以 来 奥 院 み み よ う 拝 殿 お よ び 御 廟 の 橋 を 造 り か え さ せ た 。 十 三 日 早 朝 弘 法 大 師 御 廟 に 詣 っ た 。 御 廟 は 大 寺 ( 中 院 ) か ら 五 十 町 ほ ど 距 た る と い っ て い る 。 そ こ で 三 井 寺 の 僧 を 導 師 と し て 供 養 し 、 自 筆 の 金 泥 法 華 経 一 部 と 般 若 理 趣 経 三 十 巻 を 御 廟 前 に 埋 納 し て 兜 率 浄 土 に 往 生 す る こ と を 祈 っ た 。 午 後 四 時 頃 に 大 寺 に 帰 っ た 。 廿 四 日 朝 八 時 に 山 を 下 り て 政 所 に 向 い 翌 朝 二 時 に 政 所 に 到 着 し た 。 高 野 興 廃 記 寺 誌 叢 書 ( 大 日 本 仏 教 全 書 ) ( 和 歌 山 県 史 I 、 P五 一 三 ) 法 成 寺 入 道 大 相 国 殿 下 は 奥 院 に 詣 で 、 大 師 信 仰 の 心 が つ の り 、 渇 仰 の 涙 が 両 眼 に 流 れ 、 政 所 河 南 の 地 を 永 く 国 役 を 停 め て 寺 領 と 為 す べ き 由 仰 せ ら れ た 。 こ の よ う に 藤 原 道 長 の 高 野 山 参 詣 に よ っ て 高 野 山 は 政 所 河 南 の 地 を 得 た 。 こ れ は 後 世 の 官 省 符 庄 の は じ ま り で あ る 。 こ 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-5-密 教 文 化 れ は ま た 長 く 苦 境 に 喘 い で い た 高 野 山 の 運 勢 が や っ と 上 向 く き っ か け を つ く る こ と で も あ っ た 。 こ れ が き っ か け と な っ て 藤 原 氏 の 子 孫 が 高 野 山 に 参 り 、 つ い で 皇 族 が 高 野 山 に 参 詣 す る こ と と な っ た 。 と こ ろ で 政 所 河 南 の 地 と は 何 処 か 。 そ れ は 政 所 慈 尊 院 の 附 近 を 流 れ る 紀 の 川 の 南 と い う 意 味 で あ る が 、 紀 の 川 の 流 路 は 実 は 昔 と 今 と で は ち が っ て い た 。 流 路 が 変 っ た の は 後 に の べ る よ う に 天 文 年 間 で あ る 。 そ れ 以 後 は 今 の 通 り で あ る が 、 そ れ 以 前 は も っ と 北 を 流 れ て い た 。 そ こ で そ の 後 の 歴 史 を 見 る 前 に 、 古 代 に お け る 紀 の 川 の 流 路 に つ い て 考 え て お こ う 。 古 代 に お け る 紀 の 川 の 流 路 ﹁ 九 度 山 町史﹂昭和 四 〇 年 か む ろ 紀 の 川 の 流 れ は 中 世 ま で は 学 文 路 の 福 塚 で 南 と 北 に 分 れ て い た 。 南 の 流 は 今 の 南 海 電 車 高 野 線 の 線 路 に 沿 っ て 宮 の 浦 を 迂 回 し て い た 。 北 の 流 は 今 の 紀 の 川 の 流 と ほ ぼ 同 じ 水 路 で あ っ た 。 こ れ ら 南 北 二 本 の 流 が 庄 右 衛 門 浦 ( し ょ も う ら ) で 合 流 し て い た 。 こ の こ と は 古 く か ら こ の 地 方 の 人 々 の 口 伝 え で 伝 え ら れ た 記 憶 に よ る の で あ っ て 、 確 た る 文 献 が あ っ て の こ あ ん だ と で は な い 。 こ の 南 北 二 流 に か こ ま れ た 中 島 が 安 田 島 ( 奄 田 島 ) で あ る 。 そ こ は 古 く は 天 野 明 神 の 神 領 で あ っ た と 伝 え ら れ る 。 後 に 元 和 五 年 ( 一 六 一 九 ) に 徳 川 頼 宣 が 紀 伊 藩 主 と な っ た 時 に 、 家 老 の 安 藤 帯 刀 が 学 文 路 の 福 塚 か ら 西 に 堤 防 を 築 い て 、 安 田 島 の 洪 水 を 防 い だ 。 そ の 時 以 来 紀 の 川 の 南 の 流 は な く な り 、 北 の 流 だ け と な っ た 。 従 っ て 安 田 島 は 耕 地 と な っ た 。 そ れ は 約 四 〇 ヘ ク タ ー ル の 沖 積 土 で あ る 。 そ の こ と は と も か く と し て 古 代 に 戻 ろ う 。 紀 の 川 の 水 が 九 度 山 台 地 の 堅 い 岩 盤 に 勢 よ く ぶ ち 当 る と 、 水 は 岩 盤 に は ね ら れ て 北 に 向 き を 変 え て い た 。 い ま の よ う に 西 に 流 れ た の で な か っ た 。 九 度 山 台 地 の 北 側 で 紀 の 川 に 臨 む 一 帯 を 跳 ( は ね ) と 呼 ん で い た 。 そ れ と い う の は 、 九 度 山 台 地 に は ね ら れ た 紀 の 川 の 水 流 が 船 戸 に 深 い 淵 を つ く り な が ら 、 急 に 方 向 を か え て 北 に 向 っ て 流 れ て い た の で あ る 。 そ の こ と は 庄 右 衛 門 浦 の 西 に は 岩 石 や 土 砂 が 高 く 堆 積 し て 河 水 が 西 に 流 れ る の を 阻 ん で い た か ら で あ る と 思 わ せ る 。 こ の よ う に 九 度 山 台 地 に は ね ら れ て 北 流 し た 水 は 何 処 に 行 っ た か 。 水 が 低 い 方 に 流 れ る の は お き ま り で あ る 。 水 は 今 の 向 島 の あ た り を 北 に す す ん だ 。 そ の あ た り よ り 東 に は や や 高 い 小 田 地 区 が あ り 、 さ ら に そ の
高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-7-密 教 文 化 北 に は 名 古 曽 の 台 地 が あ る か ら 、 水 は そ の 上 に の る こ と は で き な い 。 そ れ よ り 西 に あ っ て 低 い 平 野 を な し て い る 名 倉 と 大 野 の 方 に 進 ま ね ば な ら な か っ た 。 そ こ か ら は 今 の 地 形 で 判 断 せ ね ば な ら な い 。 い ま の 国 鉄 高 野 口 駅 は や や 高 い 所 に あ る 。 そ こ か ら 南 に 向 っ て だ ん だ ん 低 く な っ て い る 。 向 島 の あ た り で 北 流 し た 水 は 北 に あ る 高 台 を 避 け て 今 の 高 野 口 小 学 校 の 北 を 東 南 か ら 西 北 に 向 っ て 進 ん だ で あ ろ う 。 小 学 校 の 北 で 今 で も 土 地 が や や 掘 れ こ ん で い る の は こ の 水 流 の 永 年 の 作 用 に よ る と 思 わ れ る 。 い ま の 高 野 口 の 町 の 北 に 庚 申 山 、 そ の 西 に 地 蔵 山 な ど の 山 地 が ひ か え て い る か ら 水 は そ の 麓 を 西 に す す ん だ 。 け れ ど も 少 し 進 む と 嵯 峨 谷 川 の 西 に は ま た 別 の 台 地 が あ る か ら 、 水 は そ の 前 で 南 に 転 じ て 全 体 と し て 西 南 進 す る し か な か っ た 。 そ こ で 嵯 峨 谷 川 を 併 せ て 西 に 流 れ 、 い ま の 紀 の 川 の 流 路 の あ た り に 入 っ た と 考 え ら れ る 。 こ の 小 さ な 平 原 の 高 低 は 昔 と 今 で そ ん な に 変 る は ず は な い か ら 、 今 の 地 形 で 判 断 し て 昔 の 流 路 の 大 概 を 推 測 す る こ と が で き よ う 。 そ の 際 に 一 つ の 参 考 に な る の は 大 野 の 地 蔵 山 の 南 に あ る 中 島 と い う 地 名 で あ る 。 水 が 中 島 を 挟 ん で 流 れ た の で そ の 名 が あ る と す れ ば 、 中 島 の 北 と 南 で 西 に 向 っ て 流 れ て い た は ず で あ る 。 と こ ろ で そ の あ た り で い ま の 国 鉄 和 歌 山 線 は 明 治 時 代 の 建 設 当 時 に 盛 土 を し て 堤 道 を つ く っ た が 、 そ の 土 台 に な っ て い る 地 面 は 北 に あ る 山 の 尻 尾 に 当 る わ け で 、 な だ ら か な 傾 斜 面 を な し て い る か ら 、 紀 の 川 は そ れ 以 上 の 高 い 所 に 上 る こ と は で き な か っ た で あ ろ う 。 そ う と す れ ば 、 厳 島 神 社 の 境 内 に あ っ た と さ れ る 船 つ な ぎ の 松 に 本 当 に 船 を つ な い だ か ど う か 怪 し い も の だ 。 現 在 の 国 鉄 線 が 東 西 に 走 る あ た り が 昔 の 紀 の 川 の 北 岸 で あ っ た で あ ろ う 。 古 代 に お け る こ の 地 区 に お け る 紀 の 川 の 流 路 を 一 応 七 頁 の 附 図 に 示 し た よ う に 推 測 し た い 。 紀 の 川 の 流 路 を 以 上 の よ う に 想 定 す る こ と が 許 さ れ る と す れ ば 、 そ の 次 に は 古 代 に お い て 慈 尊 院 伽 藍 が 何 処 に 位 置 し て い た か を 考 え ね ば な ら な い 。 そ の 際 に は 一 つ の 根 本 的 な 仮 定 が あ る 。 今 の 慈 尊 院 の 弥 勒 堂 と 丹 生 神 社 の あ る 部 分 を 一 つ の 全 体 と 見 て 、 そ の 正 面 の 北 に 旧 伽 藍 が あ っ た と す る こ と で あ る 。 そ の 距 離 は 今 の 水 流 が 旧 時 の 伽 藍 に 氾 濫 し た と い う 事 実 か ら そ の 水 路 を ふ く め て 、 そ こ か ら 北 に は か る 。 旧 伽 藍 の 広 さ に つ い て は 、 四 町 四 方 と い う 説 も あ る が 、 六 町 四 方 と い う 説 が 有 力 の よ う で あ る か ら 、 六 町 を 六 五 四 m に 換 算 し て 、 そ
れ を 各 辺 と す る 正 方 形 を 慈 尊 院 村 の 正 面 に 求 め る と 、 略 図 の よ う な 方 形 が で き る 。 こ の 正 方 形 の 地 区 は 現 在 の 高 野 口 町 営 プ ー ル と 高 野 口 中 学 校 を ふ く む が 、 高 野 口 小 学 校 や 紀 北 自 動 車 学 校 を ふ く ま な い 。 し か し 高 野 口 小 学 校 の 西 南 に あ つ て 、 通 称 鐘 撞 堂 と い わ れ て 、 昔 慈 尊 院 の 境 内 に あ っ た と 記 憶 さ れ て い る 地 点 ( い ま の 枡 田 氏 の 宅 地 内 ) が こ の 正 方 形 の 西 北 隅 に 入 る こ と に な っ て 、 こ の 想 定 に 都 合 が よ い 。 こ れ が 旧 慈 尊 院 伽 藍 の 想 定 さ れ る 位 置 で あ る 。 そ こ に あ っ た 諸 堂 に つ い て は 後 に 関 説 す る が 、 諸 堂 の 配 置 な ど を 知 る べ き よ す が も な い 。 九 度 山 台 地 の 北 面 に あ っ た 岩 石 や 砂 土 の 大 き な 団 塊 が 幾 十 世 紀 間 の 水 の 作 用 で 少 し ず つ 流 水 に 削 妙 と ら れ 、 掘 ら れ て、 紀 の 川 の 水 流 が 今 見 る よ う に 入 郷 か ら 慈 尊 院 の 北 を ま っ す ぐ 西 に 流 れ る よ う に な っ て 、 北 向 の 流 路 が 干 上 っ て し ま っ た の は 天 文 時 代 に な っ て か ら で あ る 。 そ れ に よ っ て 伽 藍 が 水 に 漬 か り 流 さ れ た の で 、 伽 藍 の 諸 堂 を も っ と 南 の 高 い 安 全 な 場 所 に 移 転 す る と い う 騒 ぎ が 起 っ た 。 紀 の 川 の 古 代 の 流 路 に お い て 、 こ の 附 近 で 渡 し 場 は ど こ に あ っ た で あ ろ う か 。 舟 な ら ば ど こ で も 渡 る こ と が で き た で あ ろ う 。 こ の 水 路 に は さ し て 急 流 は な か っ た で あ ろ う こ と は 今 の 地 面 で わ か る 。 こ れ は 一 片 の 想 像 に す ぎ な い け れ ど も 、 大 和 方 面 か ら 真 土 峠 を 西 に 越 え て 来 た 人 や 、 河 内 方 面 か ら 紀 伊 な ぐ す 見 峠 を 通 っ て 来 た 旅 人 は 名 古 曽 か ら 小 田 を 通 っ て 、 今 の 向 島 の 高 野 口 警 部 派 出 所 の あ た り で 西 南 に 向 っ て 川 を 渡 っ て 慈 尊 院 に 向 っ た か も し れ な い 。 も し ま た 和 泉 模 尾 山 あ た り か ら 蔵 王 峠 を こ え て 嵯 峨 谷 の 方 に 出 た 旅 人 は 、 大 野 で い わ ゆ る 六 町 淵 と い わ れ た 淀 み を 南 に 向 い て 渡 る こ と も で き た で あ ろ う 。 こ れ ら は い ず れ も 慈 尊 院 か ら 高 野 山 へ の 参 詣 道 ( 後 の 町 石 道 ) を 指 向 す る も の で あ っ た 。 古 い 時 代 の 慈 尊 院 伽 藍 の 境 内 の 大 体 の 位 置 を 大 雑 把 に 考 え て 見 た け れ ど も 、 果 し て 当 っ て い る か ど う か 。 同 境 内 は い ま の 紀 の 川 の 流 路 に も あ っ た が 、 そ れ だ け で な く 、 そ れ よ り ず つ と 北 に も の び て い た 。 い ま の 紀 の 川 の 中 に 旧 伽 藍 の 石 灯 籠 な ど が あ る こ と が 知 ら れ て い る 。 時 と し て そ れ は 見 え る が ま た 水 没 す る と い う こ と で あ る 。 そ の よ う な こ と を 繰 り 返 し て い る と い う こ と で あ る 。 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-9-密 教 文 化 藤 原 氏 の 長 老 道 長 の 高 野 山 参 詣 は 藤 原 氏 の 子 孫 に 対 し て 大 き な 先 例 を の こ す こ と に な っ た 。 多 く の 藤 原 氏 が そ の 先 例 に 倣 っ た 。 か く て 高 野 山 は 藤 原 貴 族 の 外 護 に よ っ て 安 定 に 向 っ た 。 永 承 三 年 ( 一 ○四八) 宇 治 関 白 藤 原 頼 通 高 野 山 参 詣 記 ( 続 々 群 書 類 従 五 、 和 歌 山 県 史 1 、 P五 四 九 ) 道 長 の 子 、 宇 治 関 白 頼 通 ( 行 年 五 十 七 才 ) が 高 野 山 に 向 う 。 十 月 十 一 日 暁 に 京 都 を 出 る 。 舟 十 一 艘 を 仕 立 て て 、 多 く の 殿 上 人 そ の 他 が 随 行 し た 。 朝 六 時 山 崎 南 岸 よ り 石 清 水 参 詣 、 八 時 橋 下 に 帰 る 。 十 二 日 八 時 住 吉 浜 で 乗 船 、 和 泉 国 石 津 湊 で 下 船 し て 馬 に 乗 る 。 十 二 時 頃 曽 祢 ( 石 津 か ら 三 十 町 余 ) に つ く 。 夕 方 日 根 着 。 十 三 日 ひ る 頃 紀 伊 国 市 仮 屋 に つ く 。 食 後 出 立 し て 夕 方 政 所 に 御 着 。 政 所 に つ い て 次 の 如 く の べ る 。 別 当 房 を 御 在 所 と す る 。 其 南 廊 を 諸 大 夫 の 座 と す る 。 そ の 東 を 賛 殿 と す る 。 僧 房・ 雑 舎 を 上 達 部 ・ 殿 上 人 ・ 僧 綱 以 下 の 宿 所 と す る 。 御 在 所 を 装 飾 し 、 政 所 、 御 厩 、 御 随 身 所 、 小 舎 人 所 、 諸 大 夫 宿 舎 な ど の 設 備 は 国 司 が 設 営 に 当 っ た 。 十 四 日 早 朝 雨 ふ り 十 二 時 頃 雨 が 止 み 、 み ん な 麻 履 を は い て 随 行 し た 。 政 所 か ら 十 町 余 の 山 麓 に 前 駆 者 が つ い て か ら 馬 か ら 下 り て 一 行 み な 歩 行 し た 。 暮 方 に 高 野 山 に つ き 、 別 当 房 を 御 在 所 と 定 め た 。 十 五 日 十 二 時 頃 に 奥 院 御 廟 に 着 い た 。 こ の 度 の 行 事 は 先 の 相 國 ( 道 長 ) の 時 の 前 例 に 倣 っ た 。 奥 院 で は 二 日 に わ た り 法 事 し き し ゆ う を 勤 修 し た 。 初 日 は 理 趣 三 昧 で 、 職 衆 は 高 野 の 住 侶 で あ っ た 。 二 日 目 は 三 井 寺 の 明 尊 を 導 師 と し て 法 華 八 講 を 修 し た 。 埋 納 経 な ど は 御 堂 関 白 の 先 例 に 倣 っ た 。 こ の 度 は 政 所 河 北 の 荒 野 を 寺 家 に 施 入 し た ゆ 政 所 河 北 と は 当 時 の 紀 の 川 の 北 に あ た る 大 野 名 古 曽 の 周 辺 で あ ろ う 。 十 六 日 御 影 堂 に 参 拝 、 下 山 の 時 は 雪 が つ も り 泥 が 深 く み な 歩 い て 坂 を 降 り た 。 途 中 で 日 が 暮 れ て し ま っ て 、 政 所 御 宿 に つ い た の は 夜 の 十 二 時 で あ っ た 。 十 七 日 朝 八 時 朝 食 、 国 司 が 紀 の 川 で 華 船 を 礒 装 し た 。 船 を 下 せ 流 に 下 し 、 妹 山 繊 山 で は 紅 葉 を 見 る た め に 珠 簾 を 巻 き 上 げ た 。 十 八 日 吹 上 浜 、 和 歌 浦 見 物 後 、 夜 十 時 湊 口 に つ く 。 十 時 す ぎ 日 根 に 着 。
十 九 日 ひ る 頃 曽 祢 着 、 夕 方 天 王 寺 西 大 門 。 廿 口 山 崎 橋 を す ぎ 、 八 時 に 淀 を す ぎ 、 夜 に 入 っ て 宇 治 帰 着 。 高 野 山 検 校 帳 ( 高 野 山 文 書 VII 。 和 歌 山 県 史 1 、 P五 五 六 ) 永 承 三 年 ( 一 〇 四 八 ) 十 月 十 四 日 、 宇 治 殿 下 頼 通 が 高 野 山 参 詣 。 高 野 山 で の 仏 事 は 御 堂 関 白 道 長 の 例 に な ら う 。 今 度 は 那 古 曽 並 び に 大 野 村 を 永 く 寺 家 御 領 と し て 施 入 し た 。 当 時 高 野 山 の 寺 僧 の 住 坊 は わ ず か に 十 六 宇 で あ っ た 。 こ れ に よ っ て 高 野 山 の 運 勢 が 開 け た 。 そ の 当 時 の 寺 数 は な お 十 六 宇 に す ぎ な か っ た と い う こ と を 考 え る と 、 政 所 慈 尊 院 に も さ し て 多 く の 建 造 物 は な か っ た で あ ろ う 。 高 野 興 廃 記 ( 寺 誌 叢 書 ・ 大 日 本 仏 教 全 書 ) 永 承 三 年 十 月 十 四 日 、 宇 治 大 相 国 関 白 頼 通 御 年 五 十 七 、 高 野 御 参 詣 永 承 四 年 十 二 月 二 十 八 日 、 四 箇 所 水 田 並 び に 政 所 荒 野 、 那 古 曽 、 長 柄 、 大 野 等 を 寺 家 に 施 入 す る と あ る 。 永 承 四 年 ( 一 〇 四 九 ) 太 政 官 符 案 (高 野 山 文 書VII。一 六 二 九 、 和 歌 山 県 史 I う P五 八 二 ) 高 野 山 は 貞 観 十 八 年 ( 八 七 六 ) に 賜 わ っ た 伊 都 郡 、 那 賀 郡 、 名 草 郡 、 牟 婁 郡 に 散 在 す る 不 輸 租 田 を 国 に 返 し て 、 そ の 代 り と し て 寺 家 政 所 前 の 荒 野 並 び に 見 作 佃 を 申 請 し た。 許 さ れ て 同 年 十 二 月 二 十 八 日 に 太 政 官 符 が 民 部 省 に 下 っ た 。 そ れ は 国 使 不 入 の 不 輸 租 田 で あ り 、 ま た 臨 時 雑 役 の 免 除 を 保 証 す る も の で あ る 。 こ れ に よ っ て 国 司 の 干 渉 を う け な い 官 省 符 荘 の 中 核 が 成 立 し た 。 こ れ は 後 に 高 野 山 寺 領 の 中 心 と な る も の で あ っ た 。 そ れ か ら 康 平 六 年 ( 一 ○六 三 ) に 紀 伊 国 司 は 万 灯 会 御 願 荘 で あ っ た 奥 郡 在 馬 羽 野 荘 を 、 官 省 符 荘 の 西 に つ づ く 揖 里 ( い ぶ り)、大 谷 二 村 と 交 換 し た の で 、 荘 の 西 が 大 谷 、 佐 野 ( さ や ) あ た り ま で の び た 。 政 所 は 慈 尊 院 に あ っ て 、 ' 河 南 と 河 北 を 併 せ て お さ め た の で 、 や が て 河 南 も 官 省 符 荘 に 編 入 さ れ た 。 そ の 後 し だ い に 荒 野 の 開 墾 が す す み 、 応 永 頃 ( 一 三 九 四-一 四 二 八 ) に は 政 所 の 上 方 だ け で 水 田 二 百 町 歩 、 畑 五 十 町 歩 に も 達 し 、 地 域 は 東 西 二 里 、 南 北 三 里 半 に わ た っ た 。 寛 治 二 年 ( 一 ○八 八 ) 白 河 上 皇 高 野 御 幸 記 ( 続 史 料 大 成 、 和 歌 山 県 史 1 、 P六 八 五-) 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-11-密 教 文 化 寛 治 二 年 二 月 廿 二 日 京 都 御 発 、 廷 臣 多 数 随 行 、 宇 治 経 由 。 二 十 三 日 東 大 寺 、 山 階 寺 、 火 打 崎 ( 大 和 川 西 端 南 岸 ) 二 十 四 日 十 時 真 土 山 下 、 午 後 二 時 紀 伊 河 高 野 政 所 に 到 着 。 当 国 の 国 司 藤 原 朝 臣 仲 実 が 御 船 の 用 意 を し た 。 編 船 二 艘 、 そ の 上 に 一 間 の 権 屋 形 を 立 て 、 上 に 唐 錦 三 枚 を 張 る 。 斑 慢 を ひ き 廻 ら し 、 そ の 中 に 繧 綱 端 畳 二 枚 を 敷 く 。 敷 物 を し い て 御 座 と す る 。 舳 ( へ さ き ) に は 三 間 の 長 屋 敷 を 立 て 纐 纈 を 張 る 。 そ の 中 に 高 麗 端 畳 を 敷 く 。 公 卿 た ち が 伺 候 す る 。 一 艘 の 板 屋 敷 船 に 殿 上 人 た ち が の る 。 北 岸 か ら 南 岸 に 渡 る 。 黒 木 の 仮 橋 を つ く り 雑 人 等 を 渡 ら せ る 。 政 所 の 中 門 は せ ま く て 車 が 入 れ な い の で 車 を か つ い で 入 っ た 。 本 堂 の 北 屋 を 御 所 と す る 。 紀 伊 国 司 が 設 営 し た 。 御 所 に 翠 簾 を か け 、 泥 絵 の 屏 風 を 立 て 、 紅 錦 を 張 る 。 こ こ は 寺 で あ る か ら 武 具 を も つ 家 来 は 入 る こ と を 許 さ れ な い 。 廿 天 日 晴 、 朝 二 時 頃 か ら 人 々 は 集 ま り 支 度 し た 。 上 皇 は 徒 歩 で 登 る 。 家 来 は み な こ れ に 従 う 。 暗 い の で 炬 火 を も っ て 行 く 。 三 十 町 ば か り 登 っ た ら 夜 が 明 け た 。 そ の 先 は 坂 の な い 道 で あ っ た 。 路 傍 に は 率 塔 準 .札 等 が 立 て ら れ て い た 。 後 に 鎌 倉 時 代 に 覚 教 が 町 石 道 に 石 造 の 率 塔 婆 を 建 て た が 、 そ れ 以 前 に は 古 く か ら 木 造 の 町 率 塔 婆 が 建 て ら れ て い た こ と を 、 こ れ ら が 証 明 す る も の で あ る 。 し か し 何 時 初 め て 建 て た か 不 明 で あ る 。 午 前 四 時 に 笠 木 坂 に か か る 。 こ こ は 中 院 か ら 九 十 三 町 に あ た り 、 政 所 か ら 中 院 へ の 中 程 で あ る 。 二 十 六 日 は 八 時 に 笠 木 を 発 し 夜 八 時 に 中 院 に 着 い た 。 二 十 七 日 八 時 に 中 院 を 出 て 奥 院 に 参 拝 し た 。 中 院 か ら 御 廟 ま で の 三 十 六 町 に 一 町 毎 に 木 造 率 塔 婆 を 建 て て あ る 。 奥 院 で 供 養 礼 拝 、 理 趣 三 昧 を 行 な う 。 午 後 四 時 中 院 に 帰 着 。 二 十 八 日 八 時 御 影 堂 、 三 鈷 松 は 二 丈 余 の 高 さ で あ る 。 十 時 に 進 発 し て 午 後 四 時 に 政 所 に 入 御 。 二 十 九 日 午 前 六 時 対 岸 に 火 事 が あ っ た 。 八 時 忙 御 厨 子 を 供 養 、 右 大 臣 以 下 が 政 所 に 参 集 。 午 前 十 時 出 発 、 御 乗 船 を 先 の よ う に 礒 装 し た 。 国 司 仲 実 が 河 辺 に 立 つ 。 午 後 四 時 に 真 土 峠 の 対 岸 の 火 打 崎 に つ く 。 三 十 日 早 朝 進 発 、 法 隆 寺 、 大 仏 前 を 経 て 三 月 一 日 宇 治 を 経 て 午 後 二 時 に 九 條 大 路 に 入 る 。 寛 治 五 年 ( 一 ○九 一 ) 一 月 十 一 日 高 野 山 検 校 明 算 が 政 所 で
大 仁 王 会 を 執 行 し た 。 山 上 衆 四 十 四 人 、 慈 尊 院 三 昧 供 僧 六 人 、 請 僧 合 五 十 口 、 本 尊 は 五 大 力 明 王 の 画 像 で あ っ て 、 北 室 院 に 預 置 し て い た 。 こ の 大 仁 王 会 で は 毎 年 正 月 十 一 日 に 仁 王 経 一 百 部 を 読 論 し た 。 風 雨 順 時 、 五 穀 成 熟 、 天 下 安 全 、 万 民 快 楽 の た め で あ っ た 。 康 和 二 年 ( 一 一 ○○)三 月 舞 楽 大 曼 茶 羅 供 を 執 行 し た 。 金 剛 峯 寺 堂 塔 建 立 由 来 書 ( 高 野 山 文 書III) 高 野 山 金 剛 峯 寺 中 門 の 二 天 は 美 作 住 人 能 光 の 作 で あ る 。 こ れ は 永 久 三 年 ( 一 一 一 五 ) の こ と で 、 当 時 彼 は 政 所 に 住 し て い た 。 天 治 元 年 ( 一 一 二 四 ) 十 月 、 鳥 羽 上 皇 高 野 御 幸 ( 藤 原 実 行 録 、 群 書 類 従 第 二 輯 、 帝 王 記 巻 第 四 十 二 、 和 歌 山 県 史 I 、 P 八 八 四-八 九 五 ) こ の 度 の 御 幸 は 寛 治 二 年 白 河 院 御 幸 の 先 例 に 倣 う 。 十 月 廿 三 日 東 大 寺 東 南 院 、 十 四 日 東 大 寺 大 僧 正 寛 助 が 高 野 政 所 に 向 っ て 先 行 し て 行 幸 の 用 意 を す る 。 ひ る 頃 出 発 、 四 時 頃 大 和 川 に つ く 。 夜 十 時 火 打 崎 御 着 。 ( 火 打 崎 と は 紀 伊 と 大 和 の 境 目 に 近 い 大 和 側 の 紀 の 川 南 岸 に あ り 、 今 五 条 市 火 打 町 と い う ) 。 十 五 日 晴 、 真 土 山 坂 を こ え 、 午 後 二 時 紀 伊 河 に つ き 、 そ こ で 御 乗 船 、 南 に わ た る 。 南 岸 で さ ら に 大 き な 乗 物 に の ら れ る 。 政 所 の 外 で 車 を か つ い で 門 を 入 る 。 門 の 楯 が 狭 い か ら で あ る 。 御 所 の 西 南 の 角 に 一 小 堂 が あ る 。 こ れ を 慈 尊 院 と い う 。 院 中 に 一 人 の 僧 が あ る 。 か な り 老 僧 で 眉 が 白 い 。 子 細 を た ず ね る と 答 え て い う に は 、 こ の 寺 に 弥 勒 の 像 が あ る 。 昔 恵 理 僧 都 が 手 に 斧 を も っ て 造 っ た も の で あ る 。 彼 は 長 い 間 法 華 三 昧 を 修 し 、 そ の 功 徳 に よ っ て 弥 勒 の 龍 華 三 会 の 暁 を 期 待 し て い る の で あ る 。 上 皇 は 此 事 を 聞 か れ 、 そ っ と 弥 勒 堂 に 参 拝 し そ れ か ら 退 出 さ れ た 。 十 六 日 朝 六 時 に 出 発 し た 。 こ こ か ら は 車 馬 を 捨 て て 登 山 し た が 上 皇 の 脚 が 速 く て 家 来 が つ い て 行 き 難 い 。 午 後 二 時 に 笠 置 の 御 宿 に 御 着 、 廿 七 日 朝 二 時 に 出 発 し 、 午 後 四 時 頃 高 野 山 中 院 の 御 所 に 御 着 。 十 八 日 寛 治 年 中 の 白 河 院 の 例 に 依 り 、 丹 生 高 野 明 神 に 奉 幣 し 、 そ こ か ら 三 十 六 町 の 間 に 町 率 塔 婆 が 立 っ て い る の を 見 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
密 教 文 化 た つ そ の 数 は 三 十 七 本 で 、 そ れ に 金 剛 界 三 十 七 尊 の 種 子 を 書 い て あ る 。 廟 前 の 流 に 橋 を か け て あ る 。 そ こ に て 一 同 足 を 濯 ぎ 浄 め る 。 午 前 十 時 奥 院 の 礼 殿 ( 拝 殿 ) に つ く 。 礼 殿 は 五 問 四 面 で あ る 。 そ こ で 理 趣 三 昧 を 行 な わ せ 西 塔 御 建 立 の 御 願 を の べ ら れ る 。 奥 院 に 御 筆 金 泥 理 趣 経 一 巻 を 埋 納 さ れ た 。 午 後 二 時 御 影 堂 に 参 り 、 大 師 の 御 真 影 を 拝 し ま た 三 鈷 松 を 拝 す 。 二 十 九 日 下 山 。 六 時 出 発 、 十 時 笠 置 御 所 、 十 二 時 政 所 御 所 に 御 着 。 避 日 八 時 に 門 外 で 大 き な 乗 物 に の り 紀 伊 河 ま で 行 っ て う ち そ こ で 華 船 に の り 午 後 四 時 火 敲 崎 に 御 着 、 夜 十 時 大 和 川 。 そ の 翌 日 興 福 寺 、 鳥 羽 を 経 て 、 夕 方 六 時 三 條 殿 へ 御 帰 還 。 大 治 こ 年 ( 一 一 二 七 ) 十 一 月 、 白 河 院 ( 四 度 目 ) 鳥 羽 院 ( 二 度 目 ) 高 野 山 御 参 詣 。 夫 々 東 塔 と 西 塔 の 落 慶 供 養 を さ れ た 。 長 秋 記 ( 増 補 史 料 大 成 、 和 歌 山 県 史 1 、 P九 〇 八-九 〇 九 ) 十 一 月 一 日 東 大 寺 よ り 玉 崎 御 所 に 御 着 十 一 月 二 日 玉 崎 よ り 政 所 御 着 ま で 新 院 は 出 発 さ れ 火 打 崎 に 到 っ て 松 火 を 消 す 。 玉 崎 か ら こ こ ま で 一 里 で あ る 。 そ こ か ら 進 ん で 紀 伊 河 を 渡 っ て 政 所 に 御 着 、 新 院 (鳥 羽 院 ) は 中 門 で 下 馬 し て 行 く 。 南 面 が 新 院 の 御 所 、 北 面 が 本 院 ( 白 河 院 ) の 御 所 に 当 て ら れ た 。 三 日 政 所 か ら 高 野 山 上 中 院 御 所 ま で 、 本 院 は 輿 に 乗 ら れ 、 新 院 は 御 馬 で あ る 。 し か し 笠 木 仮 屋 で 新 院 は 藁 履 を は か れ 、 午 前 十 時 に 中 院 御 着 。 四 日 本 院 は 御 輿 で 先 行 さ れ 、 新 院 は 歩 行 し て 奥 院 で 理 趣 三 昧 執 行 。 午 前 八 時 中 院 へ 御 帰 還 。 両 院 が 西 塔 に 参 詣 。 五 日 中 院 か ら 玉 崎 ま で 。 午 前 十 時 政 所 に 御 着 、 六 日 に 両 院 は 同 車 に て 御 入 洛 。 保 延 二 年 ( 一 一 三 七 ) 古 い 伽 藍 の 境 内 の 南 門 の 入 口 に 下 乗 石 を 建 て た と 伝 え る 。 そ れ は 江 戸 時 代 末 期 に 、 後 世 の 河 の 南 岸 に あ っ た と い う 。 し か も そ の 石 は 現 存 す る 。 い ま は 慈 尊 院 の 総 門 (北 門 ) の 外 側 の 東 に 立 っ て い る が 、 惜 し い か な 下 部 が 欠 け て い る 。 そ の 字 は 力 強 い 鎌 倉 風 の 薬 研 彫 で あ っ て 、 保 延 二 年 に 合 致 し よ う 。 石 の 長 さ は 七 尺 、 太 さ 一 尺 四 角 で あ り 、 石 面 に ﹁法 務 権 僧 正 定 海 ﹂ と 記 さ る 。 こ の 石 は 旧 時 の 伽 藍 に 属 す る 唯 一 の 遺 物 で あ る 。 こ れ 以 前 の 古 い も の は ﹁ 弥 勒 仏 坐
像 ﹂ が あ る だ け で あ る 。 久 安 三 年-六 年 ( 一 一 四 七-一 一 五 〇 ) 御 室 御 所 (覚 法 法 親 王 ) 御 参 籠 日 記 ( 高 野 山 文 書IV、二 〇 〇 、 又 続 宝 簡 集 三 十 ) 久 安 三 年 五 月 二 日 梅 津 乗 船 、 鴨 河 尻 、 窪 津 乗 輿 三 日 住 吉 浜 、 日 根 湊 、 新 家 庄 、 四 日 填 崎 前 乗 船 五 日 名 手 庄 を 立 ち 、 ひ る 頃 政 所 に 着 、 下 船 し て 輿 に 乗 り 、 午 後 五 時 頃 中 院 に 到 る 。 今 日 聞 く 所 に よ る と 、 今 朝 政 所 所 司 等 、 が 東 寺 長 者 の 命 に よ っ て 山 上 に 登 り 、 大 衆 の 張 本 人 を 捕 え 刃 傷 の 事 が あ っ た と 。 七 日 、 九 日 、 十 三 日 、 十 五 日 、 十 六 日 、 十 八 日 、 廿 日 ま で 奥 院 と 壇 場 に 参 詣 し 、 諦 経 、 尊 勝 陀 羅 尼 、 阿 弥 陀 講 な ど を 行 な う 。 二 十 一 日 天 野 を 経 て 三 谷 に 下 り 、 そ こ で 乗 船 、 午 後 四 時 名 手 庄 で 下 船 。 二 十 二 日 名 手-新 家 庄 。 荒 川 辺 で 昼 食 二 十 三 日 新 家 庄 か ら 日 根 湊 に 至 り 乗 船 、 午 後 二 時 住 吉 前 浜 で 船 か ら 下 り て 大 渡 に 到 る 。 二 十 四 日 八 時 出 船 、 夕 方 山 崎 着 、 船 で 宿 泊 。 二 十 五 日 午 後 四 時 仁 和 寺 着 。 久 安 四 年 三 月 十 九 日 出 発 四 月 三 口 桂 河 五 條 で 乗 船 、 鴨 河 尻 で 大 船 に 乗 り 移 る 。 夕 方 六 時 に 住 吉 之 浜 に 行 く 。 四 日 午 後 二 時 日 根 湊 に つ き 下 船 、 新 家 庄 に 到 る 。 五 日 朝 十 時 填 崎 に 到 る 。 船 で 粉 河 ま で 行 く 。 六 日 三 谷 で 下 船 、 そ こ か ら 天 野 を 経 て 午 後 四 時 に 中 院 に 着 く ( だ か ら こ の 時 は 政 所 を 通 ら な い ) 。 七 日 、 十 三 、 十 五 、 十 七 、 廿 一 、 十 四 、 十 七 日 の 間 奥 院 と 伽 藍 で 種 々 供 養 礼 拝 。 十 九 日 下 山 、 三 谷 で 紀 川 に 乗 船 、 午 後 四 時 粉 河 着 。 三 十 日 粉 河 か ら 墳 崎 ま で 船 、 そ こ で 輿 に の り 、 四 時 に 新 家 庄 五 月 一 日 新 家 庄 -日 根 湊 で 乗 船 、 暗 く な る 頃 窪 津 着 二 日 窪 津-山 崎 、 三 日 山 崎-仁 和 寺 久 安 四 年 潤 六 月 十 日 午 前 四 時 仁 和 寺 発 、 五 條 桂 河 で 乗 船 、 鴨 河 尻 で 大 船 に 移 乗 、 午 後 四 時 窪 津 着 、 下 船 し て 輿 に 乗 る 。 夜 十 二 時 頃 松 原 庄 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
密 教 文 化 に つ く 。 十 一 日 朝 六 時 松 原 発 、 石 瀬 着 、 午 後 四 時 石 瀬 を 発 ち 、 夜 十 時 政 所 に 着 く 。 十 二 日 朝 政 所 を 発 ち 、 ひ る 頃 笠 木 に つ く 。 夕 六 時 頃 山 に の ぼ り 、 御 影 堂 に 詣 で 庵 室 に 入 る 。 六 月 十 四 、 十 五 、 廿 一 、 廿 六 、 廿 七 、 廿 九 、 七 月 七 、 八 、 十 一 、 十 五 、 十 七 、 廿 一 、 廿 九 ま で 奥 院 と 伽 藍 で 礼 拝 供 養 。 八 月 四 日 下 山 、 三 谷 に 下 り て 乗 船 、 粉 河 着 、 五 日 、 政 所 の 所 司 で あ る 明 寿 、 宗 祐 な ど が 粉 河 ま で 見 送 り に 来 た の で 、 礼 を 給 す 。 六 日 新 家 庄-日 根 湊 、 住 吉 辺 で 下 船 、 夕 六 時 大 渡 着 、 夜 は 船 で 泊 る 。 七 日 夕 六 時 山 崎 着 、 八 日 午 後 四 時 仁 和 寺 帰 着 。 久 安 五 年 四 月 三 日 五 条 で 乗 船 、 高 畠 辺 で 新 造 大 船 に 乗 り 移 る 。 午 後 四 時 窪 津 、 暗 く な っ て 天 王 寺 。 四 日 住 吉 前 で 乗 船 大 津 湊 ま で 。 輿 に 乗 り 新 家 宿 に 着 く 。 五 日 新 家 宿 か ら 出 て 雄 山 を 越 え 、 填 崎 で 乗 船 。 六 日 粉 河 を 発 ち 三 谷 で 下 船 、 三 谷 坂 を 登 り 、 午 後 五 時 頃 奄 室 着 。 十 日 、 十 四 、 十 五 、 十 六 、 廿 一 、 廿 二 、 廿 九 、 避 日 奥 院 伽 藍 に て 踊 経 、 尊 勝 陀 羅 尼 、 御 影 供 、 阿 弥 陀 護 摩 、 舎 利 講 な ど を 行 な う 。 五 月 十 二 日 午 後 二 時 大 塔 に 落 雷 あ り 、 大 塔 、 金 堂 、 灌 頂 堂 焼 失 、 御 影 堂 の み 累 焼 を 免 が る 。 十 三 、 六 月 四 、 十 四 、 十 五 、 廿 一 、 七 月 七 、 九 、 十 一 、 十 四 、 十 五 、 廿 三 、 八 月 三 日 の 間 供 養 礼 拝 。 八 月 十 一 日 高 野 よ り 天 野 に 下 山 。 十 三 日 八 時 天 野 か ら 三 谷 に 下 る 。 乗 船 、 二 時 に 填 崎 ( 貴 志 庄 ) で 下 船 、 暗 く な る 頃 新 家 庄 に 宿 る 。 十 四 日 新 家 庄-日 根 津 ま で 行 き 乗 船 、 堺 辺 で 下 船 、 晩 方 渡 辺 着 。 十 五 日 山 崎 、 十 六 日 午 後 四 時 仁 和 寺 着 。 久 安 六 年 六 月 六 月 六 日 仁 和 寺 発 、 梅 津 乗 船 、 午 後 四 時 天 王 寺 。 七 日 住 吉 前 で 乗 船 、 四 時 新 家 庄 着 。
八 日 新 家 庄 を 出 て ひ る 頃 填 崎 に つ き 乗 船 、 午 後 四 時 麻 津 宿 に 着 。 九 日 麻 津 宿 を 出 て 船 で 三 谷 ま で 湖 り 下 船 、 四 時 に 天 野 に 着 く 。 十 日 天 野 か ら 登 山 二 時 中 院 に 着 く 。 六 月 十 一 、 廿 一 、 十 二 、 十 六 、 十 七 、 十 九 、 七 月 五 日 、 八 、 九 、 十 二 、 十 四 、 十 五 、 十 六 日 。 こ の 間 山 上 で 礼 拝 供 養 。 七 月 十 七 日 高 野 を 出 て ひ る 頃 天 野 宿 着 、 三 谷 で 乗 船 、 麻 津 宿 に 到 る 。 十 八 日 麻 津 を 出 て 填 崎 ま で 行 き 下 船 、 午 後 四 時 新 家 庄 に 着 く 。 十 九 日 新 家 庄-日 根 津 、 乗 船 、 住 吉 辺 で 下 船 、 午 後 四 時 天 王 寺 宿 房 に 到 る 。 十 日 天 王 寺 発 、 窪 津 で 乗 船 。 暗 く な る 頃 山 崎 着 。 十 一 日 午 後 四 時 仁 和 寺 着 。 こ の よ う に 覚 法 法 親 王 に は 何 回 も 高 野 に 参 詣 さ れ た が 、 大 阪 湾 か ら 紀 の 川 を 遡 上 さ れ 、 大 抵 は 政 所 の 西 約 一 里 の 三 谷 で 下 船 し て 天 野 経 由 で 高 野 に 登 っ た よ う で あ る 。 承 安 四 年 ( 一 一 七 四 ) 高 野 山 住 僧 等 愁 状 案 又 続 宝 簡 集 百 十 一 P P一 四 入-一 五 一 ( 高 野 山 文 書 田 、 一 七 九 九 ) 高 野 山 の 住 僧 等 が 、 そ れ を 支 配 す る 京 都 東 寺 長 老 の 非 理 を 停 止 さ れ る よ う と く に 朝 廷 に 申 請 す る 書 で あ る 。 高 野 山 住 侶 が 政 所 慈 尊 院 を 造 営 す る た め 十 方 檀 家 に 寄 進 を 願 っ て い る の に 、 最 高 責 任 者 で あ る 東 寺 長 者 は 東 寺 の 灌 頂 の た め の 布 施 が 欠 乏 し て い る こ と を 口 実 と し て 、 手 下 を し て 寺 家 に 乱 入 せ し め 、 僧 達 を 追 い 出 し て 財 産 を 奪 取 す る な ど の 狼 籍 を 働 く 。 東 寺 長 者 は 悪 逆 非 道 の 慶 幸 を 使 者 と し て 政 所 慈 尊 院 に 送 り 込 ん だ 。 し か し 慶 幸 の 非 法 に 対 し て 反 抗 す る 者 が あ っ て 、 慶 幸 を 追 い 出 し た こ と も あ る 。 そ れ で も 慶 幸 の 非 例 は 止 ま ず 、 慶 幸 は 山 上 山 下 の 無 罪 の 者 を 捕 え た 。 そ れ が た め 五 百 余 人 が 流 浪 し 、 八 十 余 宇 の 民 家 が 破 却 さ れ 、 田 地 五 十 余 町 が 没 収 さ れ た 。そ う い う 騒 動 の さ 中 に 慈 尊 院 の 建 造 物 が 焼 か れ て し ま っ た 。 大 師 以 来 の 貴 重 な 宝 物 が こ の 時 に 焼 失 し た の で あ る 。 こ の 時 焼 け た 建 物 は 慈 尊 院 ( 大 師 御 持 仏 堂 ) 、 御 格 子 ( 昔 大 師 の 住 房 、 今 は 累 代 上 皇 の 御 所 と な っ て い る ) 、 渡 廊 、 食 堂 、 僧 房 、 護 摩 堂 、 三 昧 僧 房 、 東 廟 、 小 舎 人 所 、 叉 蒼 ( 大 師 御 在 世 の 宝 蔵 ) 、 両 納 倉 、 温 室 、 北 門 ( 八 足 ) 、 南 門 ( 棟 門 ) 、 脇 門 ( 平 門 ) 等 数 宇 の 舎 殿 で あ る 。 こ れ は 目 代 慶 幸 の 所 為 で あ り 、 時 は 承 安 元 年 ( 一 一 七 一 ) で あ る 。 高 野 政 所 . 慈 尊 院 の 歴 史
密 教 文 化 そ の 後 四 箇 年 を 経 た が 、 造 営 の 沙 汰 は な い 。 高 野 山 検 校 ( 法 橋 禅 信 )が 私 力 を つ く し て 少 し 造 営 し た が 、 そ の 他 の 建 物 の 再 建 は 計 画 だ け で ま だ 出 来 て い な い 。 今 の 東 寺 長 者 の 時 に 罪 過 に お ち て 流 浪 す る も の は 七 百 余 人 に 及 ん だ 。 一 寸 し た こ と を 口 実 に 財 産 を と り 上 げ ら れ て し ま っ た 。 こ の 長 者 の 治 山 九 箇 年 の 間 に 迫 害 さ れ た も の は 数 知 れ な い 。 政 所 の 近 隣 の 舎 宅 は 代 々 の 御 幸 の 時 に 御 随 行 の 諸 卿 臣 の 御 宿 所 で あ る 。 然 る に 慈 尊 堂 を は じ め 近 辺 の 小 屋 に 至 る ま で 焼 失 破 却 さ れ て 今 は 何 も な い 。 そ こ で 奉 加 帳 を ま わ し て 貴 賎 の 人 々 に 勧 進 し て い る 次 第 で あ る 。 寺 領 の 納 物 を 寄 進 し 、 百 姓 の 雑 役 を 免 除 し て 造 営 さ れ る よ う 長 者 に お 願 い し て も 返 答 が な い 。 目 代 光 永 丸 は 収 奪 し て 灌 頂 の た め の 布 施 と 称 し て い る が 偽 で あ る 。 寺 家 へ の 寄 進 、 百 姓 の 雑 役 免 除 を お ね が い す る こ と は 今 に は じ ま っ た こ と で は な く て 、 久 安 五 年 ( 一 一 四 九 ) に 大 塔 金 堂 が 雷 火 で 焼 失 し た 時 も そ う で あ っ た 。 政 所 が 焼 失 し た ま ま で お く こ と は 身 を 切 ら れ る ほ ど に 一つ ら い こ と で あ る 。 そ こ で 天 皇 の 恩 恵 に お す が り し て 、 住 僧 の 罪 科 を 免 じ 政 所 を 造 営 さ せ る よ う 院 宣 を 賜 わ り た い と お ね が い す る 次 第 で あ る 。 承 安 四 年 十 二 日 日 寺 僧 等 承 安 二 年 ( 一 一 七 二 ) 秋 七 月 上 記 の 文 書 に は 慈 尊 院 の 再 建 が で き な い こ と を の べ て い る が 、 一 方 で は 再 興 が 始 ま っ て い た 。 検 校 禅 信 の 勧 化 に よ っ て 官 省 符 荘 二 十 ケ 村 の 氏 子 が 相 談 し て 慈 尊 院 と 神 通 寺 社 頭 を 再 建 し 始 め た 。 火 事 に よ っ て 焼 け た 物 の 灰 儘 を 埋 め て 五 輪 塔 二 基 を 建 て た 。 そ れ は 昭 和 の 今 日 な お 弥 勒 堂 の 瑞 離 の 内 に あ る 。 現 存 最 古 と い っ て も よ い 五 輪 塔 で あ る 。 承 安 四 年 ( 一 一 七 四 ) 三 月 慈 尊 院 仮 堂 に お い て 舞 楽 大 曼 陀 羅 供 を 執 行 し た 。 今 居 聖 と 出 羽 上 人 が 願 主 と な り 、 壇 場 本 経 蔵 を 供 養 し た 。 元 暦 二 年 ( 一 一 八 五 ) 三 月 五 日 金 剛 峯 寺 下 政 所 三 方 百 姓 等 起 請 文 。 ( 別 筆 ) ﹁ 政 所 庄 官 等 可 停 止 法 師 原 之 狼 籍 由 ノ 状 ﹂ 続 宝 簡 集 二 十 七 P五 四 六 以 下 、 ( 高 野 山 文 圭 辱II、三 一 六 ) 高 野 山 上 の 衆 徒 ( 学 侶 ) が 申 す こ と で あ る 。 堂 衆 ( 承 仕 )
や 法 師 原 ( 下 級 の 僧 ) が 百 姓 の 家 に 螺 貝 を 吹 い て 押 し 入 り 、 財 産 を 取 り 抑 え 、 家 を 焼 き 、 ま た 米 稲 を と り 、 供 給 を 強 制 す る な ど ま こ と に 困 っ て い る の で 制 止 し て ほ し い 。 多 く の 僧 (約 二 百 五 十 名 ) が 百 姓 に 代 っ て 連 署 し 、 法 師 原 の 罪 状 を 糾 弾 し 、 そ の 取 締 を 申 請 す る 。 こ の よ う な 狼 籍 が 一 部 に あ っ た こ と は 事 実 で あ ろ う 。 建 永 二 年 ( 一 二 〇 七 ) 後 鳥 羽 上 皇 の 高 野 山 御 幸 が あ り 、 そ の 時 上 皇 は 政 所 に 立 寄 ら れ た 。 中 橋 第 九 世 光 誉 が 季 子 を 出 家 せ し め た が 、 上 皇 よ り 阿 闇 梨 と 称 せ ら れ た の で 、 寺 を 阿 闇 梨 と 称 し た 。 承 久 元 年 ( 一 二 一 九 ) 八 月 以 前 か ら 吉 野 と 高 野 の 境 界 争 い が あ っ た が 、 そ の 問 題 の 解 決 が 延 引 し て い る こ と に 憤 激 し た 大 衆 は 奥 院 御 供 所 を 閉 鎖 し て 下 山 し 、 政 所 に こ も っ た 。 当 時 の 検 校 覚 海 師 は 大 衆 離 山 の 一 日 延 引 を 請 う た 。 即 日 院 宣 が 到 来 し て 大 津 保 ( 麻 生 津 ) を 下 賜 さ れ た 。 町 率 塔 婆 二 百 十 七 本 文 永 二 年 ( 一 二 六 五 )-建 治 三 年 ( 一 二 七 七 ) カ こ こ う 覚 籔 が 石 造 町 率 塔 婆 二 三 七 本 を 建 立 し た 。 文 永 二 年 ( 一 二 六 五 ) 三 月 に 勧 進 を 開 始 し 、 建 治 三 年 ( 一 二 七 七 ) ま で 十 三 箇 年 で 畢 功 し 、 さ ら に 弘 安 八 年 ( 一 二 八 五 ) 十 月 廿 一 日 を 以 て 根 本 大 塔 に お い て 落 慶 供 養 を 設 く 。 梵 書 両 界 二 百 十 七 尊 之 種 子 は 小 河 僧 正 真 範 の 筆 、 漢 字 は 世 尊 寺 行 能 之 筆 跡 也 。 覚 蝦 の 願 文 は 次 の よ う に の べ る 。 ( 意 訳 ) 。 弘 仁 の 頃 か ら い く ら か の 率 塔 婆 が こ の 山 下 か ら 壇 場 ま で 立 っ て い た 。 時 は 移 り 土 台 が 朽 ち 、 代 々 に わ た り 度 々 修 補 さ れ た 。 木 材 は 年 が 経 て ば 腐 る が 石 材 は 何 年 経 っ て も 磨 り へ る こ と は な い 。 そ こ で 石 の よ う に 堅 固 な 決 心 を し て 、 立 派 な 石 材 を 運 び 困 難 な 道 を 拓 き 、 石 塊 を 切 り 割 り 、 つ い に 諸 方 面 の 貴 賎 の 方 々 に 勧 進 す る こ と が で き た 。 石 材 を 立 派 に 彫 刻 し 、 高 さ 一 丈 一 尺 、 幅 一 尺 余 の 柱 を 建 て た 。 そ の よ う な 石 の 町 率 塔 婆 二 百 十 七 本 を 建 て た 。 そ れ に は 五 輪 塔 が つ い て い る 。 金 剛 胎 蔵 の 両 界 曼 茶 羅 諸 尊 の 種 子 を 現 わ し た 。 奥 院 ま で の 三 十 七 町 に 金 剛 界 三 十 七 尊 を 現 わ し た 。-中 略 -文 永 二 年 ( 一 二 六 五 ) に 大 願 を 発 し 、 建 治 三 年 ( 一 二 七 七 ) に そ の 功 を 終 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-19-密 教 文 化 え た 。 こ れ は 町 々 と 田 舎 の 人 々 に 勧 進 し た 結 果 で あ る 。 上 下 の 人 々 の 奉 加 に よ っ て 出 来 た も の で あ る 。 正 応 四 年 (一 二 九一 ) 慈 尊 院 で 大 仁 王 会 を 催 す 。 嘉 元 三 年 ( 一 三 〇 五 ) 亀 山 殿 参 詣 日 記 に 四 所 荘 官 と 総 執 行 者 (高 坊 ) の こ と が 見 え る 。 四 所 荘 官 が い つ 讃 岐 か ら 慈 尊 院 に 来 た か 記 録 が な く て 不 明 で あ る 。 四 所 と は 高 坊 、 田 所 、 岡 、 亀 岡 の 四 氏 で あ る 。 田 所 は 大 師 の 母 方 阿 刀 氏 、 他 の 三 氏 は 大 師 の 父 方 佐 伯 氏 の 子 孫 と い わ れ る 。 彼 ら は 何 時 の 頃 に か 讃 岐 か ら 慈 尊 院 に 来 て 、 慈 氏 寺 の 境 内 の 塀 外 に 居 住 し 、 寺 領 の 庶 務 の 処 理 に 当 っ た 。 正 和 二 癸 丑 年 ( 一 三 一 三 ) 秋 八 月 八 日 後 宇 多 法 皇 が 高 野 山 に 参 詣 さ れ た 。 こ れ は 勅 使 為 兼 卿 の 不 不 思 議 な 物 語 に 感 心 さ れ た か ら で あ る 。 仙 鐸 抄 に よ っ て 高 野 春 秋 が の べ る の は 次 の 通 り 。 七 月 に 院 宣 が 高 野 山 に 来 た 。 来 月 六 日 に 京 都 を 出 発 さ れ 一 七 日 間 御 滞 留 の 由 。 六 日 夜 四 天 王 寺 に お つ き に な り 、 七 日 に は 慈 尊 院 へ お 着 き に な る 。 深 更 に 弥 勒 堂 に 御 参 拝 、 別 当 に 命 じ て 戸 を 開 け さ せ 、 上 皇 は 弥 勒 の 霊 像 を 拝 見 さ れ た 。 延 元 二 年 ( 一 三 三 七 ) 官 省 符 在 家 支 配 帖 又 続 宝 簡 集 八 十 六 ( 高 野 山 文 書VII、一 六 三 五 ) 政 所 神 通 寺 の 七 社 を 氏 神 と 仰 ぐ 官 省 符 荘 は 延 元 二 年 に 次 の 如 き 村 々 を 含 ん で い た 。 ( 順 序 は と び と び ) 小 田 、 中 揖 里 、 市 原 、 柏 木 、 短 野 、 妙 寺 、 葦 原 、 畑 山 、 中 村 、 久 戸 山 、 井 手 、 紺 野 、 清 水 、 田 原 、 佐 賀 谷 、 西 島 、 瓦 屋 、 久 住 、 竹 尾 、 下 居 、 山 田 、 大 藪 、 大 野 、 丁 町 、 丹 生 河 、 上 下 、 大 谷 、 禿 、 東 揖 里 、 下 房 、 広 野 、 那 古 曽 、 東 平 原 、 結 縁 寺 、 不 死 原 、 西 揖 里 応 永 元 年 ( 一 三 九 四 ) 高 野 山 政 所 一 方 田 畠 在 家 帖 目 録 ( 高 野 山 文 書VII、一 六 三 七 、 又 続 宝 簡 集 九 十 一 ) 田 井 田 、 中 伊 揖 里 、 西 伊 揖 里 、 市 原 、 丁 町 、 大 藪 、 大 谷 、 佐 野、佐 賀 谷 、 竹 尾 、 大 畑 、 短 野 、 井 手 広 野 、 柏 木 ( 東 、 中 。 西 ) 、 平 原 、 瓦 屋 、 兄 射 、 結 縁 寺 、 丹 生 河 官 省 符 上 方 坊 免 里 坊 注 文 ( 高 野 山 文 書VII、一 六 四 三 、 又 続 宝 簡 集 九 十 一 )
大 野 、 清 水 、 小 田 、 不 死 原 、 紺 野 、 山 田 、 吉 原 、 田 原 、 中 村 、 畑 山 、 久 度 山 応 永 三 年 ( 一 三 九 六 ) 官 省 符 上 方 分 口 支 配 注 文 ( 高 野 山 文 書VII、一 六 五 六 、 又 続 宝 簡 集 九 十 三 、 P三 八 二 以 下 ) 慈 尊 院 毎 日 御 影 供 田 同 仏 供 田 一 町 五 反 百 十 歩 不 死 原 村 同 院 油 田 三 反 小 十 歩 大 野 村 同 院 五 大 力 一 反 大 野 村 勝 利 寺 仏 性 二 反 三 百 四 十 歩 小 田 村 所 司 三 十 口 内 曽高 坊 三 口 那 古 曽 村 田 所 二 口 清 水 村 、 一 口 那 古 曽 亀 岡 二 口 大 野 村 、 一 口 那 古 曽 岡 一 口 那 古 曽 、 一 口 畑 山 庄 官 分 惣 執 行 二 口 大 野 村 、 一 口 那 古 曽 、 二 口 清 水 村 、 一 口 小 田 村 田 所 一 口 小 田 村 、 三 口 那 古 曽 、 一 口 清 水 村 河 南 執 行 一 口 畑 山 村 一 河 北 執 行 一 口 清 水 村 天 授 五 年 ( 一 三 七 九 ) こ の 頃 慈 尊 院 が 北 朝 の 軍 勢 に 攻 め ら れ た 。 ( 花 園 村 尾 上 角 兵 衛 氏 中 南 文 書 に よ っ て の 談 ) 文 安 二 年 ( 一 四 四 五 ) 国 守 畠 山 将 監 が 弥 勒 堂 を 造 営 す る 。 さ き に 正 和 二 年 ( 一 三 一 三 ) に 御 宇 多 法 皇 御 幸 の 時 に は 弥 勒 堂 は あ っ た 。 そ の 間 に 弥 勒 堂 は な く な っ た の で あ ろ う 。 天 授 五 年 に 焼 か れ た の か も し れ な い 。 一 文 明 六 甲 午 年 ( 一 四 七 四 ) 中 橋 家 の 家 伝 に よ る と 、 一 人 の 尼 僧 が 巡 礼 の 序 で に 慈 尊 院 に 滞 在 し て 、 中 橋 家 十 一 世 の 弘 常 に 告 ぐ 。 我 は 信 州 の 産 妙 音 な る 者 也 。 境 内 を 観 察 し 、 紀 の 川 が 伽 藍 の 背 後 を 流 れ て い る 様 子 を 見 て 、 後 世 に 洪 水 が お こ り 、 こ の 地 に 氾 濫 す る 恐 れ が あ る こ と を 予 測 し た 。 そ こ で 私 財 を 投 じ て 替 地 を 求 め 、 神 通 寺 の 山 に 諸 堂 を 移 す こ と を す す め た 。 境 内 地 を 築 き 、 宝 塔 を 解 体 し て 移 し 、 塔 の 下 層 が 成 っ た 。 そ し て 霊 廟 ( 弥 勒 堂 ) と 社 頭 を 今 の 地 に う つ し た 。 永 正 十 二 年 ( 一 五 一 五 ) 三 月 十 五 日 霊 廟 修 復 落 慶 の 大 曼 茶 羅 供 を 執 行 し た 。 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-21-密 教 文 化 享 腺 三 年 ( 一 五 三 〇 ) 九 月 十 六 日 神 通 寺 上 棟 及 び 七 社 遷 宮 。 大 曼 茶 羅 供 を 勤 修 す る 。 請 僧 三 十 六 口 。 慶 導 師 は 検 校 頼 宜 法 印 で あ っ た 。 天 文 八 年 ( 一 五 三 九 ) 八 月 十 八 日 紀 の 川 が 氾 濫 し て 伽 藍 が 水 漬 し と な る 。 長 い 間 紀 の 川 が 九 度 山 か ら ま っ す ぐ 西 に 流 れ る の を 阻 止 し て い た 大 量 の 岩 石 土 砂 が 徐 々 に 浸 蝕 さ れ 、 削 ら れ 、 つ い に こ の 時 に ど っ と 決 潰 し て し ま っ た 。 そ れ 以 前 に 九 度 山 か ら 向 島 を 通 っ て 大 野 の 地 蔵 仙 に 向 っ て 流 れ て い た 紀 の 川 の 流 れ が そ の 時 か ら 干 上 っ て 、 紀 の 川 が 河 道 を 変 え 、 今 の よ う に 九 度 山 か ら 西 に 向 っ て 流 れ る よ う に な っ た 。 こ の よ う に 水 路 が 変 っ た の で 、 天 文 八 年 に つ づ い て 翌 年 天 文 九 年 ( 一 五 四 〇 ) 四 月 九 日 に ま た も や 洪 水 の 氾 濫 を 見 た 。 慈 尊 院 伽 藍 の 境 内 は 過 半 が 河 と な っ た 。 前 に す で に 諸 堂 を あ る 程 度 高 処 に 移 し て あ っ た が 、 尚 多 く が の こ っ て い た 。 そ れ で の こ り の 堂 塔 鐘 楼 な ど を 急 い で 高 所 に 移 転 し た 。 四 所 荘 官 は そ の 洪 水 以 後 慈 尊 院 か ら 移 転 し た 。 高 坊 、 佃 所 は 中 飯 降 に 、 岡 は 丹 生 郷 に 、 亀 岡 は 名 倉 に う つ っ た 。 こ れ ら の 四 荘 官 は 政 所 の 経 営 と 庄 民 の た め に つ く し 、 大 師 の 子 孫 と し て の 名 誉 あ る 地 位 を 守 っ た 。 し か し 幾 世 紀 の 間 に 幾 多 の 消 長 が あ っ た 。 現 在 ( 昭 和 五 七 年 ) 田 所 は 中 飯 降 に 墓 を の こ し て 廃 絶 し た 。 高 坊 は 戦 災 に 遭 っ て い ま は 泉 州 に あ る と 聞 く 。 岡 は 丹 生 郷 で 、 亀 岡 は 名 倉 ( 高 野 口 駅 の 上 ) で も と の 如 く 繁 栄 し て い る の は 喜 ば し い 。 天 文 十 年 ( 一 五 四 一 ) 三 月 二 十 五 日 早 く も 慈 尊 院 の 新 伽 藍 が 落 慶 し 、 大 曼 茶 羅 供 を 執 行 し た 。 慶 導 師 は 検 校 尭 栄 大 和 尚 、 職 衆 五 十 口 で あ っ た 。 同 年 八 月 十 一 日 。 大 風 の た め 壇 上 仮 堂 社 が 傾 斜 し ま た は 破 壊 し た 。 天 文 十 三 年 ( 一 五 四 四 ) 七 月 九 日 再 び 洪 水 が お こ っ て 古 伽 藍 の 地 は 河 と 成 り 、 舟 が 陸 地 を 行 く 。 永 腺 四 年 ( 一 五 六 一 ) 入 月 廿 八 日
慈 尊 院 弥 勒 堂 御 供 養 曼 茶 羅 供 請 定 ( 高 野 山 文 書II 、 続 宝 簡 集 三 十 一 ) 柄 衆 甲 衆 計 四 十 八 人 導 師 御 布 施 千 疋 、 荘 厳 料 千 疋 職 衆 御 布 施 各 百 疋 元 亀 元 年 ( 一 五 七 〇 ) 十 月 十 五 日 神 通 寺 で 大 曼 茶 羅 供 を 執 行 す る 。 こ れ は 七 社 修 復 落 慶 の 故 な り 。 大 導 師 は 執 行 代 。 職 衆 は 三 十 口 。 傍 っ て 官 省 符 庄 中 現 米 百 石 を 出 す 。 政 所 河 北 上 方-大 野 、 小 田 、 那 古 曽 、 不 死 原 、 紺 野 、 仙 田 西 吉 原 、 中 村 。 政 所 河 南 上 方 -畑 山 、 清 水 、、 久 戸 山 政 所 河 北 下 方-田 井 田 、 中 伊 揖 里 、 西 伊 揖 里 、 妙 寺 、 市 原 、 丁 町 、、 大 藪 、 大 谷 、 佐 野 、 下 居 、 瓦 屋 、 平 原 、 中 柏 木 、 東 柏 木 、 井 手 広 野 、 大 畑 、 竹 尾 、 佐 賀 谷 、 短 野 政 所 河 南 下 方-丹 生 郷 、 結 縁 寺 天 正 年 間 ( 一 五 七 三-一 五 九 一 ) 中 橋 家 は 三 十 石 を 領 す 。 文 腺 三 年 ( 一 五 九 四 ) 十 一 月 十 一 日 神 通 寺 社 頭 上 葺 供 養 。 こ れ は 木 食 応 其 上 人 の 勧 化 に よ る 。 続 宝 簡 集 六 十 P P二 七 九 -二 八 五 ( 高 野 山 文 書III、五 一 〇 ) に 神 通 寺 社 頭 上 葺 奉 加 帳 を う つ す 。 多 く の 人 が 三 十 石 か ら は じ ま っ て 十 石 、 大 豆 十 石 、 二 石 、 一 石 、 五 斗 な ど を 寄 進 す る 。 奥 に 興 山 上 人 応 其 の 花 押 あ り 。 曼 茶 羅 供 の 慶 導 師 は 執 行 代 清 胤 、 職 衆 四 十 二 口 。 慶 長 十 九 年 ( 一 六 一 四 ) 真 田 幸 村 が 大 坂 城 に 馳 せ 参 じ て 豊 臣 氏 を 守 っ た 時 に 、 幸 村 に 味 方 し た 高 坊 、 田 所 、 亀 岡 の 諸 氏 は 後 に 天 下 を と っ た 徳 川 氏 に 気 兼 し た 高 野 山 に よ り て 禄 高 を 減 じ ら れ た 。 加 担 し な か っ た 岡 氏 は も と の ま ま の 知 行 を も ら っ た 。 元 和 七 年 ( 一 六 二 一 ) 五 月 慈 尊 院 弥 勒 堂 上 葺 供 養。 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史
-23-密 教 文 化 寛 永 元 年 ( 一 六 二 四 ) 六 月 廿 一 日 慈 尊 院 の 宝 塔 が 大 成 し た 。 こ の 日 拝 殿 に お い て 大 曼 茶 羅 供 を 執 行 し た 。 慶 導 師 は 賢 祐 阿 闇 梨 。 こ れ は 南 院 全 秀 巳 講 の 施 財 に よ る 。 続 宝 簡 集 五 十 三 ( 四 八 六 ) ( 高 野 山 文 書III、P一 五 七 ) に 慈 尊 院 宝 塔 棟 札 の う つ し が 見 え る 。 慶 安 第 三 年 ( 一 六 五 〇 ) 続 宝 簡 集 五 十 三 ( 四 八 六 ) (高 野 山 文 書III、四 八 五 、 P一 五 六 ) に 神 通 寺 大 日 堂 の 棟 札 の 写 し が の っ て い る 。 神 通 寺 大 日 堂 は 何 時 の 草 創 で あ る か 不 明 で あ る が 、 時 と と も に 次 第 に 破 損 し 大 破 し た の で 、 衆 徒 は こ れ を 慨 き 、 修 理 再 興 し 、 い ま や そ の 功 が 成 る 。 よ っ て 之 を 記 す 。 入 仏 導 師 西 南 院 検 校 執 行 代 桜 池 院 応 円 、 年 預 理 性 院 快 春 房 之 を 認 た む 。 延 宝 八 年 ( 一 六 八 ○ ) 六 月 十 五 日 洪 水 が 氾 濫 し 、 慈 尊 院 の 市 店 の 軒 端 ま で 水 漬 り と な る 。 七 月 七 日 再 び 洪 水 。 移 転 後 の 慈 氏 寺 壇 紀 伊 続 風 土 記 の 記 載 に よ る 。 同 書 は 江 戸 晩 期 ( 天 保 年 間 ) の 状 況 を 示 す 。 そ れ に 昭 和 の 今 日 の 現 状 を 加 味 し て 一 通 り の べ て お く 。 二 七 頁 の 絵 図 参 照 。 官 省 符 荘 慈 尊 院 村 の 田 畑 二 一 一 石 余 、 家 数 一 一 七 軒 、 人 数 三 四 二 人 と な っ て い る 。 そ の 境 内 に つ い て 東 入 郷 村 境 限 長 廿 四 間 余 西 築 地 の 外 長 三 十 間 南 岸 根 の 通 り 長 三 十 五 間 北 築 地 の 外 五 十 間 余 此 坪 数 一 二 二 〇 坪 余 。 東 南 の 方 に 竹 林 一 二 〇 坪 余 北 門 面 二 間 一 尺 五 寸 、 妻 一 丈 二 尺 。 こ れ が 両 壇 の 総 門 で あ る 。 弥 勒 堂 重 要 文 化 財 北 門 の 内 東 よ り に 石 壇 の 上 、 瑞 擁 の 内 に あ る 。 三 間 四 方 ( 方 六 ・ 四 m)宝 形 造 、 桧 皮 葺 、 弘 法 大 師 御 母 公 御 廟 と い う 。 報 告 書 に よ る と ﹁ 建 立 の 年 代 は 古 く 、 内 部 の 木 組 に 喰 い 違 っ た
部 分 が あ り 、 下 の 壇 ( 旧 時 の 伽 藍 ) か ら 移 し た も の と 考 え ら れ る ﹂ と い う 。 即 ち 内 部 の 構 造 は 鎌 倉 時 代 、 外 部 は 室 町 時 代 の 修 理 に か か る 。 昭 和 四 十 年 ( 一 九 六 三 ) 三 月 国 の 重 要 文 化 財 に 指 定 さ れ た 。 屋 根 替 億 二 十 一 年 毎 に 行 な う 。 本 尊 は 国 宝 の 弥 勒 仏 坐 像 。 前 に の べ た 。 紀 伊 続 風 土 記 に よ る と 、 永 正 十 二 年 乙 亥 ( 一 五 一 五 ) 三 月 十 五 日 修 復 落 慶 の 大 曼 茶 羅 供 を 行 な っ た 。 そ れ は 慣 例 に な っ て い る 。 そ の 導 師 は 執 行 代 が 務 め る 。 中 橋 氏 十 二 代 弘 常 の 廟 中 秘 記 が あ る 。 瑞 擁 の 中 に 五 輪 石 塔 二 基 が あ る 。 承 安 元 年 ( 一 一 七 一 ) に 火 災 で 焼 け た 経 巻 、 什 品 の 灰 塔 で あ る と い う 。 そ の 形 状 は 寸 い が 、 保 存 は よ い 。 前 に の べ た 。 旧 時 の 伽 藍 の 南 門 に あ っ た 下 乗 石 が 今 の 北 門 の 外 、 東 側 に あ る 。 こ れ に つ い て は 前 に 一 言 し た 通 り で あ る 。 土 塀 凡 そ 南 北 五 十 間 、 東 西 三 十 間 、 厚 さ 下 で 五 尺 三 寸 、 上 で 三 尺 五 寸 こ の 記 述 は 江 戸 晩 期 の も の で あ る が 、 昭 和 の 今 日 ( 五 七 年 ) と い え ど も あ ま り 変 っ て い な い 。 こ れ は 今 の 伽 藍 の 外 郭 で あ る が 、 実 は 昔 の 宝 庫 が あ っ た 時 の 外 塀 で あ る と 書 い て あ る 。 す る と 、 承 安 元 年 ( 一 一 七 一 ) に 宝 庫 が 焼 失 し た よ り 以 前 の 築 造 で あ る こ と に な る 。 即 ち 平 安 時 代 の 創 築 で あ る 。 度 々 修 復 さ れ た で あ ろ う が 、 貴 重 な 遺 構 と い う べ き で あ る 。 拝 堂 南 に 向 く 二 問 に 五 間 の 建 物 。 弥 勒 堂 の 前 に あ る 。 草 創 は 承 和 二 年 ( 八 三 五 ) 真 然 大 徳 に よ る と 伝 え る 。 承 安 三 年 ( 二 七 三 ) に 再 建 、 文 明 年 間 に こ の 地 に 移 し 、 元 和 元 年 ( 一 六 二 〇 ) 秋 に 再 建 。 護 摩 所 東 西 九 問 、 南 北 六 間 半 、 南 向 き 。 弥 勒 堂 ( 母 公 霊 廟)の 東 に あ り 、 本 尊 不 動 明 王 、 官 省 符 荘 の 集 会 所 で あ る 。 い ま は な い 。 高 野 政 所 ・ 慈 尊 院 の 歴 史