• 検索結果がありません。

日本佛教學會年報 第74号 035伊吹 敦「「戒律」から「清規へ」 ―北宗の禪律一致とその克服としての清規の誕生―」

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "日本佛教學會年報 第74号 035伊吹 敦「「戒律」から「清規へ」 ―北宗の禪律一致とその克服としての清規の誕生―」"

Copied!
42
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

戒律 から 清規 へ

北宗の禪律一致とその克服としての清規の誕生

伊 吹

(東 洋 大 学) 問題の所在 宗の修行生活が 戒律 ではなく, 清規 と呼ばれる全く獨自の生 活規範に基づいていることは周知の事實であるが, 景 傳燈録 六の 百丈 海章 の 門規式 や 宋高僧傳 十の 百丈 海傳 では, これを百丈 海(749∼814)が制定したものとしている。例えば,前者で は, 百丈大智 師。以 宗肇自少室至曹谿以來。多居律寺。雖別院。然 於説法住持。未合規度故。常爾介 。乃曰。祖之道欲誕布化元。冀來 際不 者。豈當與諸部阿笈摩教 隨行耶 舊梵語阿含。新云阿笈摩。即小 乘教也 或曰。 伽論 經是大乘戒律。胡不依隨哉。師曰。吾所宗 非局大小乘。非異大小乘。當博約折中。設於制範。務其宜也。於是 意。別立 居。 と述べた後, 居 の指導者の資格,寺院の構成,僧堂の構造,行事, 修行法,役職者,違反者への懲罰等について説明して,最後に 門獨行。 由百丈之始。今略 大要。遍示後代學者。令不忘本也。其諸軌度。山門備 焉 と結んでいるのである。⑴ この百丈が定めたとされる清規,即ち, 百丈清規 については, 來

(2)

から,その劃期的意義が強調されてきた。例えば宇井伯壽氏は, 第二 宗史研究 の 第四 百丈 海 において次のように論じている。 蓋し,百丈は,佛祖の道を行ずるには,大小乘に局らず,大小乘に 異せずして,全く新しい清規を作り, 院を獨立となしたのであるか ら,これは,佛教史全體の上に於て,空前破天荒の事業であるといふ べきである。勿論,全く律制に遵はぬといふのではないが,律制のみ に據って居たのでは, 修行として,不十分であつたから,博約折中 して,別に,制範を立てたのである。一般的に,小乘律には,團體生 活の規律が具備して居るが,大乘律には,それが,殆ど全く,無いか ら,百丈以前には,何れの宗でも,勿論 者でも,團體生活としては, 小乘律に據る外は無かつたのである。百丈は,この を補ふに, 修行に適する新制範を定めたのであるから,かかる事業は, 來何人 もなさなかつたもので,此點に於て百丈清規は嶄新な意義あるもので ある。之によつて, の一宗が,寺院としても,獨立したのであるか ら, の一宗としても,最も重要なことである。 來,學者が,この 百丈清規の佛教史上に於ける意義に,注意しないのは不思議といふべ きである。⑵ 宗 という全く新しい佛教が成立するに伴って,インド以來の 戒 律 とは異なる, 清規 という新たな生活規範が生み出されたことは, 確かに 佛教史全體の上において,空前破天荒の事業 に違いないが,そ の功績を本當に百丈 海一人に すべきかについては,今日,疑問が持た れるようになってきている。 先ず問題にされたのは, 門規式 等に傳えられている内容が本當に 百丈 海が定めたとされる當のものであるかという點である。 來は, 傳燈録 の 門規式 と 宋高僧傳 の 百丈 海傳 の一致をもっ

(3)

て, 者が基づいた 百丈清規 の原本が宋初まで傳わっていたと える 傾向が強かったが,近藤良一氏は,百丈が定めた清規がそのまま二百年以 上にわたって行われたというのはいかにも不自然であるとして, 1 百丈の定めた古規は成文化はされておらず,その後,時代ととも に増廣・整備された。 2 門清規 等に言及されるものは,増廣・整備を經た後のもの で,決して百丈 海の定めた當のものではない。 という主張を行った。この説には反論もあったが,その後,石井修道氏に⑶ よって發展的に 承された。即ち,氏は, 1 傳燈録 の 門規式 や 宋高僧傳 の 百丈 海傳 が據 ったのは,百丈 海が定めた當のものではなく,百丈山第十一世 道常(?∼991)の時代に行われていた 規 に基づく。 2 その 規 は,初期の百丈教團で行われていた成文化されない 規制 を 承するものであり,その 規制 の基盤となってい たのは,百丈 海の思想の特色を成す 普請作務 大小乘博約 折中 の精神であった。 と,その過程を具體的に明らかにするとともに,百丈 海と同じ頃,他に も, 宗智常(生歿年未詳)―芙蓉靈訓(生歿年未詳)の師弟のように 規制 規 を定めた例があり,また,雪峯義存(822∼908)が,靈訓 を承けて定めた 規制 は,現に,その本文が傳わっているとして,百丈 の定めた 規制 は,そうしたものの一つと見做すべきであり,決してそ れのみが獨存したわけでも,それが叢林を風靡したわけでもないことを明 らかにした。そして,それにも拘わらず,清規制定の功績が百丈に され るようになったのは,門下による顯彰活動の結果,馬祖門下における百丈 の地位が不動のものとなったことが關わっているとされた。⑷

(4)

この石井氏の説は, 清規 の制定が百丈 海に されるに至った歴史 的經緯を明らかにするという點で劃期的なものと評價することができる。 しかし,これによって更に大きな問題が浮かび上がってくることは見逃し てはならない。それは,後世の 清規 の先 ともいうべき 規制 や 規 が百丈の時代に諸處で制定されるようになったとすれば,それは 時代的要請に應えるものと見ねばならないであろうが,一方で,その起源 を四祖道信・五祖弘忍の東山法門の時代まで 及させようとする え方も 存するのである。その先 も宇井伯壽氏であって,氏は次のように論じて いる。 四祖五祖の會下に關しては,前述の如く,五百人,千人を集めて居 て,六十餘年にも亙ったのであるから,上堂や,入室の事實は,必ず や,行はれたに相違ないと推察される。 來,此會下の内部に關する ことが,少しも,傳へられて居ないから,凡てが明瞭で無いのである が,然し,四祖五祖の會下は,凡て,自給自足であったのであるから, 耕作 穫,精米炊飯,食事坐 ,等に關する一切のことが,大衆の手 によって,凡て,實際上に,行はれたのである。四祖五祖自身は,示 衆提 に努めたに相違ないから,上堂陞座の如きこともなければなら ぬし,多くの龍象を打出したのであるから,入室請益もあったと へ ざるを得ない。會下の大衆が,整然たる生活をなす以上は,十寮司の 如き制度も,たとひ十ではなかつたにしても,必然的に,發現しなけ ればならぬ。此の如く へると,百丈清規の起るのは,直接には馬祖 會下に起源を有するが, れば,四祖五祖の會下に,源を有すると見 られ得る。⑸ この見解は,推測に過ぎないものではあるが,それなりに説得力に富む。 そのため,多くの學者の支持するところとなり,その 證も試みられてき

(5)

た。例えば,近藤良一氏は, 傳法寶紀 弘忍章 の, 性木訥沈厚。同學頗 之。終 無所對。常勤作役。以體下人。信 特器之。 則混迹 給。夜便坐 至晩。未嘗懈。精至累年。⑹ や 伽師資記 弘忍章 の, 七歳奉事道信 師。自出家處幽居寺。住度弘 。 抱貞純。緘口於 是非之場。融心於色空之境。役力以申供養。法侶資其足焉。調心唯務 渾儀。師獨明其 照。四儀皆是道場。三業咸 佛事。蓋 之無二。 乃語 之恆一。⑺ 玄 以咸亨元年。至雙峰山。恭承教誨。敢奉駈馳。首尾五年。往還 三 。道俗 會。仂身供養。⑻ などの記述を引いて,次のように論じている。 これらは道信會下の集團生活の一端をも描寫していると見てよく, ここから我々は道信教團の主たる生活手段が自給自足であったであろ う事と, 働を重要な 目としていた事などを推測できる。道信を引 き いだ弘忍の集團も同 であったと推測される。⑼ ただ,氏の引く文章は,弘忍や弟子たちが積極的に他の僧に奉仕したこ とをいうのみであるから,これをもって直ちに,彼らが 普請作務 等に よって自給自足的生活を送っていたとするのは無理であろう。氏自身が述 べるように, その根據は強固なものとは言えない のである。實際のと ころ,椎名宏雄氏は,同じ資料に言及しつつ, 塵煙を絶する深山に道俗 百が完全なる自給自足による辨道修行を なしたとする推定は,それ自體すでに 的に理想化せられた叢林の姿 である。東山一門が,現實には高官貴族の 依や齋會の供養を受けた ことは確實で,直接生産行 をなしたか否かは疑問であることすでに みた通りである。だが,反面,作務勤 と坐 辨道が 夜 然と行な

(6)

われた點に,叢林生活の先 的意義が存するのである。⑽ と,全く異なる結論を導き出しているのである。 椎名氏は, 自給自足 は否定したが, 作務 が行われていたことは認 めていた。しかし, 宗に限らず,寺院運營に當たって,所屬する僧侶の 協力と 働奉仕が必要であることは當然であって,上記のような記述が, 果たして,一般の寺院のそれを超えて, 宗に固有の生活形態を前提とす るものといえるかという點については,なお疑問の餘地があろう。現に, ジョン・マクレー(John R. McRae)氏は, 1 東山法門に,常時, 百人,千人もの人々が集まっていたという 記述には明らかに誇張があり,それを根據に自給自足を論ずるの は無理であり,椎名氏の指摘するように,他の教團と同 ,檀越 からの布施に據っていたと見做すべきである。 2 能が弘忍に入門した際に脱穀の仕事をするように命じられたと されることが,東山法門が自給自足であったと える大きな根據 になっているようだが,この話では, 能が無教養の在家であっ たがゆえにそうした仕事に 事させられたというのであって,學 識ある僧侶は 働しなくてもよいという 念がその前提となって いる。 って,この話は,むしろ, 作務 や 普請 などが行 われていなかったことを示すものと解すべきである。しかも,こ れが後世の作り話であることは明らかであり,東山法門の時代か ら百年ほど降った時代の思想の反映と見なくてはならない。 3 實際に 清規 が成文化されたのは十一世紀の初めにまで降るの だから,その原型が七世紀には既にあったとするのは合理的では ない。 などといい,當時の 宗は後の時代ほどには他宗と異なってはいなかった

(7)

と主張しているのである。 しかしながら,これら一連の議論には大きな混 が含まれているように 思われる。ここで重要なことは,東山法門の人々が自力で生活を支えるこ とができたかどうか(その點をいえば,後世の 宗教団も完全な自給自足 はできなかった),あるいは,その修行法や生活規範の中に 普請作務 が含まれていたかどうかということではない。そうではなくて,東山法門 の人々が,どのような價値 を持ち,どのような修行生活を送り,インド 以來の 戒律 に對してどのような態度を取っていたかということなので ある。 に,東山法門ではいまだ 普請作務 が行なわれていなかったとして も,彼らが自らの價値 に基づいて, 戒律 とは異なる獨自の生活規範 を え出し,それを實 していたのであれば,それだけで極めて重要な史 的意義を持つはずであるし,もし,後世,そうした價値 や生活規範の中 から,明確に 戒律 に反する農作業等を含む 普請作務 が發生したの であれば,なおさらのことである。そして,もし,そのような獨自の修行 生活が東山法門において既に營まれていたのであれば,石井氏の結論に據 って,それにも拘わらず,どうして百丈の時代になって 規制 規 を定めようとする動きが活潑化したのか,それらと東山法門で行われてい た生活規範との關係はどうであったのかという點が問題にされざるをえな いのである。 こうした問題は, の本質とその形成過程を える上で極めて重要なも のであるが,これまで十分な 討が行われてこなかったように思われる。 本拙稿では,これを正面から論じようと思うが,私見に據れば,これらの 問題を解く鍵は,東山法門が中國各地に展開する中で蒙った思想的變化, 特に北宗 におけるそれに求めることができるのである。先ず,その絲口

(8)

として,普寂(651∼739)の塔銘,李 (678∼747) 大照 師塔銘 に記されている神秀(?∼706)への批判と,それに對する普寂の對應を 採り上げてみたい。というのは, 清規 成立の重要契機が 戒律 から の獨立にあることは明らかであるが,ここに見える神秀批判が東山法門の 戒律 に對するものであり,それに對する普寂の對應に,東山法門以來の 傳統からの軌道修正を見て取ることができると思うからである。 1. 大照 師塔銘 に見る神秀への批判と普寂の對應 先ず,問題の 大照 師塔銘 の本文を確認しておこう。それは次のよ うなものである。 且爰自六葉。式崇一門。未誦戒經。或傳法要。大通以凡例起謗。 棄我聞。深解依宗。遽求聖道。所以始於累土。漸於層臺。 之孔多。 學者彌廣。故所付諸法。不指一人。卜夏西河。有疑夫子。 元北海。 自襲馬融。至於密意除知。 心入境。如因日照。方見日輪。終以佛光 乃明佛道。豈伊 也。而敢議之。 これが重要な思想史的な事實を傳えるものであることを初めて指摘した のは,中國の杜 文・魏道儒の両氏である。即ち, 氏は,この碑銘中に 普寂の遺誡を傳えて, 二十七年秋七月。誨門人曰。吾受託先師。傳茲密印。遠自達摩菩 導於可。可進 。 鍾於信。信傳於忍。忍授於大通。大通 吾。今七 葉 。 波羅密是汝之師。奢摩他門是汝依處。當 説實行。自證 通。 不染 解脱之因。無取 涅槃之會。諸生殊不知其故。 といっていることなどを指摘した上で, 把 家歴來注重的“定 雙修”, 改造成“戒定 重”, 設戒律以 乎 ,到以“戒” 師,在持戒上,他

(9)

比義福強調得更 突出 とし,更に,上に掲げた問題の文章に れて,次 のように述べているのである。 李 在 碑銘 的最後總評説: 爰自六葉,式崇一門,未誦戒經,或傳法要。大通以凡例起謗, 棄我聞深解,依宗遽求聖道。 段話反映了一箇重要史實:直到神秀 止,自道信,弘忍以來的諸 僧 ,是既不誦經,也不持戒的。神秀或因此而受到當時衆所周知的指 責。 この文章が, 來の 宗の傳統に背いて,普寂が戒律重視に方向轉換を 行ったということを示し,極めて高い資料價値を持つものであることは, 氏の指摘する通りであろう。ただ, 氏の理解にはかなりの問題がある ように思われる。それは, 且爰自六葉。式崇一門。未誦戒經。或傳法要。 大通以凡例起謗。 棄我聞。深解依宗。遽求聖道 の一節に對して 爰自 六葉,式崇一門,未誦戒經,或傳法要。大通以凡例起謗, 棄我聞深解, 依宗遽求聖道 と句讀を施し, 道信・弘忍以來,神秀に至るまで, 僧 たちは,自身,經典も讀誦せず,戒律も守らなかったために激しい批判を 受けた。そのことは,當時の人のよく知る所だった と解しているという 點である。 氏は, 凡例起謗 を 當時,よく知られていた批判 の意味に解し ているようであるが,この文では, 凡例起謗。 棄我聞 と 深解依宗。 遽求聖道 は對句と見るべきであり, 凡例 は 凡人 , 深解 は 智 者 の意で, 凡人は誹謗するだけで學ぼうとせず,智者だけがその本當 のところを理解できた という意味に取るべきであろう。 また, 氏は, 未誦戒經。或傳法要 の 未誦戒經 を, 僧たちは, 自身,經典も讀誦せず,戒律も守らなかった の意と解しているようであ

(10)

るが, 戒經 は 戒 と 經 ではなく, 戒本 ,つまり戒律そのもの のことであろうし, 未誦戒經 は, 師自身のことではなく,法要を授 ける相手のことと見做すべきであろう。要するに,(弟子が)戒律につい て無知でも の意で, 未誦戒經。或傳法要 とは,悟りの獲得を絶對視 する立場から,戒律の持不持に關わりなく,相手が悟っていれば印可を行 ったことをいうのである。 氏の見解に えば,戒律と教學の 面で神秀が批判されたことになる が,少なくとも彼自身は修行に優れただけでなく,學識にも富んだ人物で あった。神秀の碑文,張説 州玉泉寺大通 師碑銘 序 (以下, 大 通 師碑銘 )は,弘忍に參ずる前の修學について次のように述べている。 少 諸生。遊問江表。老 玄旨。書易大義。三乘經論。四分律義。 説通訓 。音參呉 。爛乎如襲孔 。玲然如振金玉。 そして,また,神秀の入滅を次のように記している。 神龍二年二月二十八日夜中。顧命 坐。泊如化滅。 師武 八年乙 酉受具於天宮。至是年丙午復終於此寺。蓋僧臘八十 。生於隋末。百 有餘歳。未 自言。故人莫審其 也。 神秀が弱年の頃から諸學を修め,戒律にも造詣が深く,長年にわたって 戒律を持したことを知るべきである。もっとも, 大通 師碑銘 には, (弘忍) 大師歎曰。東山之法。盡在秀 。命之洗足。引之竝坐。於是涕辭而 去。退藏於密。儀鳳中。始 玉泉。名在僧録。 とあり,これを 傳法寶紀 が, 後隨遷謫。 白衣。或在 州天居寺十所年。時人不能測。儀鳳中。 楚大 十人。共 度住當陽玉泉寺。 と解しているように,弘忍の付 を受けた後,儀鳳年間(676∼679)に再 び世に出るまで,一時,還俗して 生活を送っていたと解しうる餘地も

(11)

あるが,いずれにせよ,神秀が布教を開始したのは,玉泉寺に名を して からのことであるから,戒律に關して批判を受けるような點は何もなかっ たはずなのである。この點からいっても, 氏のような解釋は無理であろ う。 以上の點を 慮するなら,上記の文章の訓讀は, 且つ爰に六葉自り,一門を式崇して,未だ戒經を誦せざれども,或 は法要を傳ふ。大通は,以て,凡例は謗を起し, に我聞を棄てんと するも,深解は宗に依り,遽やかに聖道を求む。所以に累土より始ま りて,層臺に漸む。之を すること孔だ多く,學ぶ者,彌よ廣し。故 に諸法を付する所,一人のみを指さず。卜夏西河にて夫子に疑する有(擬) り, 元北海にて自ら馬融を襲ふ。密意もて知を除き, 心もて境に 入るに至っては,日照らすに因りて方めて日輪を見るが如く,終に佛 光を以て乃ち佛道を明らかにす。豈に伊れ や,而も敢えて之を議せ ん。 となり,おおよそ,次のような意味と解されるべきであろう。 ところで,(達摩から神秀までの)六人の祖師は,( 宗の)一門を 尊ぶがゆえに,(悟りを絶對視する立場に立って,相手が)戒律につ いてほとんど何も知らなくても,場合によっては極意を傳授するよう になった。そのため,大通(神秀)にあっては,凡人は誹謗を起こし, その教えを棄てたが,智者は宗旨に い,直ちに聖道を求めた。そこ で,(普寂は,戒律を重視することで)土台を固めるところから出發 して,(悟りという)高層階にまで至れるように改めた。これによっ て弟子を受け入れること甚だ多く,學徒はますます増えた。そのため, 教えを授けた後 者として一人だけを指名するなどといったことはで きなくなった。(普寂が神秀の教えを 承し,發展させた は)あた

(12)

かも子夏が西河で孔子の教えを廣めたところ,孔子本人に擬える者も あったごとくであり,また, 玄が故郷の北海で馬融の教えを承け いだごとくであった。 密の教えで知解を除き,智 によって悟りの 境地に入るといったことに至っては,あたかも日が照って始めて太陽 が見えるように,佛の光で佛道を悟るのであるから,私,李 の如き ものがどうして言及できようか。 つまり,東山法門では,神秀に至るまで,弟子に悟りの體 を得させる ことに主眼を置き,戒律に を配ることはほとんどなかったが,このこと が一部の批判を招いたため,普寂はこれを改め,戒律を を學ぶ前提とし て重視した。これによって着實な修行が可能となり,これまでにも増して 多くの弟子が集まり,後 者と目される者も多 あったというのである。 つまり,この文章は,次の二つの史實を傳えるものということができる。 a 神秀に至るまで,東山法門では戒律の持不持とは無關係に付法を 行なったため,人々の批判を招いた。 b 普寂は,その批判を鑑みて 來の方針を轉換し,戒律を重視する よう弟子を指導するようになった。 これが事實であったとすると,我々は當面の問題について極めて重要な 示唆を得ることができることになろう。aは,東山法門が 戒律 とは異 なる獨自の價値 と修行法,生活規範を有していたことを暗示するもので あるし,bのような事實があったとすれば,それが後世における 規制 規 の制定と何らかの關聯を有するであろうことが十分に えられる からである。そこで次に,これら二點について,これを事實と認めうるか どうかについて 證したうえで,その意味を えてみたい。 なお,この碑銘が言及しているのは,普寂による方針の轉換であるが, 兄弟弟子の義福(658∼736)も同 の え方をしていたと見てよいと思わ

(13)

れる。というのは,義福についても,その碑銘である 挺之 大智 師 碑名 序 や,塔銘である杜 大唐大智 師塔銘 に, 年甫十五。遊於衞。 藝於 。雖在白衣。已奉持沙門清 律行。始 衞之松柏 。 ( 大智 師碑名 序 ) 邁三十。適預 流。 音共芝若同芬。戒相與 花比潔。 ( 大唐大 智 師塔銘 ) と,戒律を重んじたとする記述を認めることができるし,二人は,ほぼ同 の經緯を歴て神秀に入門しており,また,お互いを認めあう神秀門下の 雄として,手を携えて中原を教化したからである。 って,以下におい ては,この前提に立って議論を進めることとしたい。 2.東山法門の戒律 視とそれへの批判 先ず,第一の點であるが,東山法門の人々が戒律をほとんど問題にしな かったとされることは,そのまま事實と認めてよいであろう。その代表的 な事例は, 能(638∼713)が得度以前の 行者 の身分で弘忍の印可を 得たとする敦煌本 壇經 などの傳承に見ることができる。もっとも, 能の傳記には問題が多く,得法後の儀鳳元年(676)に得度受戒したとす る敦煌本 壇經 等の説は宗教的な要請に發するもので事實とは認められ ないし,マクレー氏の言うように,その起源も八世紀中葉以前には りが たいが,少なくとも,この説話は,東山法門には 務に う多くの 行 者 がおり,彼らも修行者としての價値 を共有していたことを前提とす るものであり,その頃まで,そうした東山法門の状況が知られていたこと を示唆するであろう。 宗密の 圓覺經大疏鈔 三之下に載せる神會の傳記には,

(14)

和上遂往嶺南和尚。和尚行門。増上苦行供養。密添衆瓶。 氷濟衆。 負薪 水。神轉巨石等云云。 という一節がある。曹溪においても 働が尊ばれ,神會(當時,神會は十 歳で,やはり 行者 であったはずである)も積極的にそれに 事した というのである。恐らく, 能は東山法門の修行形態を 承したであろう し,神會も, 能からそのことを聞いていたであろう。 能傳に關する先 の説話も,神會が 能から得た情報をもとに作られたものと見てよい。 弘忍の弟子では,この他,初めて東山法門の法を中原に傳えた法如 (638∼689)も弘忍に印可された時點では,いまだ得度していなかったし, 安(584∼708)も私度僧として出發したようである。神秀についても, 先に れたように,一時,還俗していたとすれば,自身, 戒律 の持不 持にそれほど を配ってはいなかったと見るべきであろう。ただ,彼らの 傳記については多くの問題が されており,詳細な研究が必要であるから 他に讓り,ここではこれ以上,論ずることは差し控えることとしたい。 先に れたように,マクレー氏は, 能が 行者 として 働に 事し たという説話について,東山法門の主たる構成員が教養ある出家僧であり, 能はそうした人々から疎外された存在として故意に位置づけられたと説 くが,法如や 安の事例を併せ えると,必ずしも 能が特別であったわ けではなく,むしろ,東山法門では,得度や受戒の有無がほとんど意味を もたず,また,出家・在家の別が截然とは 別されていなかったことを示 すものと見做すべきではないか。 このことは, 京に進出した後の東山法門の人々の行動からも窺うこと ができる。別に論じたように,普寂・義福門下には,在家でありながら 悟り の自覺に達し,また, 印可 を得たものが幾人もいたが,それ以 前においては,そうした傾向は更に著しかったようである。 伽師資記

(15)

が弘忍の十大弟子の中に劉主簿を えているのもその一例であるし, 安 と神秀に學んだ侯莫陳 (660∼714), 安門下の陳楚章(生歿年未詳) などは,在家でありながら師の印可を得,出家をも指導しうる實力を持っ ていた。 こうした傾向が強かったのは, 悟り の獲得こそが何よりも優先する と えられていたからに他ならない。 心論 には,次のような文章が ある。 又問。菩 摩 。由持三聚 戒。行六波羅蜜。方成佛道。今令學 者唯只 心。不脩戒行。云何成佛。答曰。三聚 戒者。即離三毒心成 無量善。聚者。會也。以制三毒。即有三無礙善。普會於心。故名三聚 戒也。六波羅蜜者。即六根。漢言達彼岸。以六根清 。則不染世塵。 即出煩 。可至菩提岸也。故名六波羅蜜。 又問。如經所説。三聚 戒者。誓 一切 。誓脩一切善。誓度一切衆 生。今者言制三毒心。豈不文義有所 也。答曰。佛所説經是 實語。 應無 也。菩 於過去因中。修苦行時。對三毒發三誓願。持三聚 戒。 對於貪毒。誓 一切 。故常脩戒。對於 毒。誓脩一切善。故常修定。 對於癡毒。誓度一切衆生。故常修 。持如是戒定 等三種 法故。能 超彼毒 業報成佛也。以制三毒。則諸 消滅。故名之 。以能持三 戒。則諸善具足。名之 修。以能修能 。則萬行成就。自他利已。普 濟群生。故名 度。知所修戒行。不離於心。若自清 。則一切衆生。 皆悉清 。故經云。心垢則衆生垢。心 故一切功 悉皆清 。又云。 欲得佛。當 其心。隨其心 則佛土 。若制得三種毒心。三聚 戒。 自然成就。 又問。如經所説。六波羅蜜者。亦名六度。所 布施。持戒。忍辱。精 進。 定。智 。今言。六根清 。名六波羅蜜。若 通會。又六度者。

(16)

其義云何。答曰。欲修六度。當 六根。欲 六根。先降六賊。能捨眼 賊。離諸色境。心無顧悋。名 布施。能禁耳賊。於彼聲塵。不令 逸。 名 持戒。能除鼻賊。等諸香臭。自在調柔。名 忍辱。能制舌賊。不 貪邪味。 詠講説。無疲厭心。名 精進。能降身賊。於諸 欲。心湛 然不動。名 定。能 意賊。不順無明。常修覺 。 諸功 。名 智 。又度者。運也。六波羅蜜。喩如船筏。能運載衆生。達於彼岸。 故名六度。 つまり, 心 こそが絶對の修行法であると説くに當たって,通常, 悟り を得るための要件とされる 三聚浄戒 や 六波羅蜜 (その中に は,當然, 持戒 も含まれている)を,いわゆる 心 釋 によって獨 自に解釋することで,既に 心 の中に含まれているとするのである。 これによって,彼らが戒律に副次的な價値しか與えなかったことが知られ る。 心論 は神秀に せられているが,實際には,その門下が制作し, 派祖に 託した北宗 の綱要書と見做すべきである。しかし,慈愍三藏 日(680∼748,702∼719在印)がこれを見て, 土慈悲集 において 宗批判を展開していることからすれば, 國した 日が玄宗に謁見した開 元七年(719)頃には既に中原で流布していたものと見てよく,また,こ こに説かれているような思想は,法如派の綱要書である 修心要論 が 守心 という修行を絶對化して,他の全てをこれに包 しようとするの とも通じるから,その由來は,かなり古く,東山法門にまで ると見做す ことができる。 戒律 に對する彼らのこうした姿勢の根本には, 戒律 を大乘の 心戒 として理解しようとする思想があった。北宗 の綱要書である 大乘五方便 の諸本のなかでも最も古い形態を傳える 大乘無生方便門

(17)

には,次のような一節がある。 次各 己名。懺悔罪言。過去未來及現在身口意業。十 罪。我今至 心盡懺悔。願罪除滅。永不起。五逆罪。障重罪 准前。譬如明珠没濁 水中。以珠力故。水即澄清。佛性威 。亦復如是。煩 濁水。皆得清 。汝等懺悔竟。三業清 。如 瑠璃。内外明徹。堪受 戒。菩 戒 是持心戒。以佛性 戒性。心 起。即違佛性。是破菩 戒。護持心不 起。即順佛性。是持菩 戒 三説。 このような思想を説く限り,戒律の細目に囚われない傾向を多分に有し ていたことは,むしろ當然である。 大乘五方便 の諸本においては,序 章が 授菩 戒儀 の形で書かれているが(上の一節も,この部分からの 引用である),これによって,北宗では,こうした思想に基づいて菩 戒 傳授の儀式を布教に用いていたことを知ることができる。布教における菩 戒の利用は, 能の 六祖壇經 や荷澤神會(684∼758)の 壇語 に も見られ,また, 衆宗などでも行われていたことであるから,その起源 も東山法門にまで るであろうし,戒律を 心戒 と見る思想も東山法門 に既にあったであろう。道信の著作に 菩 戒法一本 があったとする 伽師資記 の記載は,俄かには信じがたいが,少なくともこうした傳 統を前提として唱え出された説であることは間違いない。 東山法門の人々が,度牒や戒牒の有無や在家・出家の別にほとんど意味 を見出さなかったのは,その基礎に,こうした思想が存したからであろう し,また,一方で,菩 戒の傳授を積極的に行ったのは, 戒律 は菩 戒で十分だったからであろう。 以上,論じてきたことによって,東山法門の修行形態について,およそ, 以下のようなことが知られた。 1 東山法門においては, 悟り の獲得を絶對とする價値 に基

(18)

づいて教團が營まれており,僧侶の社會的地位に關わる,得度 や受戒の有無といったことはほとんど問題にされず,悟境によ ってのみ付法や印可が行われた。そのため,私度僧や 行者 が印可される場合も珍しくなかった。 2 この教團では,得度や受戒の有無が重視されなかったため,出 家・在家の別が意味を持たず,出家のみを對象とする 戒律 よりも, 者に通用する 菩 戒 が重んじられた。そして, 菩 戒 は 心戒 であるとして, 悟り との關聯が強調さ れた。 3 教團運營には種々の 働が必要であったが,この教團では出 家・在家が明確には 別されなかったために,それを忌避する という發想そのものが存在せず,それどころか,他者への奉仕 として積極的に評價されていた。 彼らが,一般の僧侶とは全く異なる修行生活を送っていたことが窺われ るが,この起源は,いったいどこにあったのであろうか。思うに,それは, 山林佛教の傳統に由來するのである。 悟り のみを求めて頭陀行を行う 山林修行者たちは, 俗 は勿論, 僧 からも疎外された存在であった。 出家・在家の別に拘らない,あるいは,仲間同士助け合うという東山法門 の思想は,得度や受戒によって衣食住が保障されている 僧 からは生ま れ難いものである。 東山法門が先達とした 可が山林佛教の價値 を持つ人物であったこと は既に論じた通りである。東山法門は, 可が行っていた 遊行 を棄て たが,山林に居を定めたのは,その價値 を承け いだからである。それ ゆえ,初期の 宗文 では,山林修行者によって られた 心王經 や 法句經 といった 經が尊重されたのであるし,そこに集まった人々の

(19)

多くが頭陀行を實 したのである。 以上によって,東山法門が 戒律 にほとんど重きをおいていなかった ことが確認されたので,次に,神秀が弟子に 戒律 の 持を求めなかっ たがゆえに誹謗されたとされる點について 討しておこう。この事實に言 及する他の資料は,いまだ見出しえていないが,こうしたことがありえた であろうことは容易に想像される。というのは,上記のごとく,慈愍三藏 日は, 宗批判を展開したが,その論點の一つが, 宗の人々が 戒 律 に 格でないということに向けられているからである。時代的に見て, 日の直接の批判對象は,普寂や義福,ならびにその門下と見做すべきで あり,それ故,普寂らによって戒律重視が打ち出された後のことであった はずであるが,それでも,こうした批判を招くほどであったとすれば,そ れ以前,更に戒律にルーズであった神秀の時代に,そうした批判を行うも のがあったとしても,驚くには當たらないであろう。彼らが進出した中原 には,慈愍以前にも,そうした批判を行いうる學識ある僧侶は多かったで あろうし, 戒律 をろくろく守りもしない俗人が, 悟り を開いたと 々しく公言するのを忌々しく思う な僧侶も多かったはずである。 しかし,この問題の根本は, 持戒 に對する認識の程度にあるのでは ない。そうではなくて,根本的な價値 の相違,もっと具體的に言えば, 修行方法や生活規範そのものの相違にあったのである。批判する側からす れば, 戒律 はブッダの定めたものだから,有無もなく うべきもので あった。しかし,東山法門の人々は, 戒律 とは別に, 悟り を得るた めの獨自の修行法と生活規範を既に生み出しており,それを中原に持ち込 んだのである。 って,慈愍は 宗の人々を怠慢と批判するが,決してそ れは正しいものではなかったであろう。恐らく, 僧たちは,慈愍たちと は違った形で修行に全身全靈を傾けていたのである。しかし,それには

(20)

戒律 の規定と合しない部分があり,それが他者の目には怠慢と映った のであろう。 3.普寂・義福における戒律重視への方針轉換 次に,第二の點,即ち,普寂や義福が弟子に對して戒律の 持を求めて いたかどうかについて 證しよう。具體的には,彼らの直弟子の碑銘や塔 銘を 集し,それらに見られる戒律に關する記述を 討することで,門下 の戒律 を明らかにし,そこから普寂や義福の影響を探るという方法を採 ることとしたい(なお,碑銘と塔銘は,本來,性格を異にするが,以下に おいては,便宜的に 塔銘 と總 することとする)。 先ず,普寂と義福の直弟子の 塔銘 を一覧に示せば,次頁のようにな る(後に掲げる未曾有のように,例外的に,在家でありながら 塔銘 を している者もあるが,ここではあくまで出家に限った)。 見出された 塔銘 は15點に及ぶが,このうち,戒律を學んだ,あるい は重視したとする記述のあるものは甚だ多く,塔銘5,塔銘13,塔銘15を 除く12點に及んでいる(ただし,塔銘7の常超は, 梵網經 を重んじた ことが知られるのみであるから,ここでの 察からは除かれるべきであ る)。特に注目されるのは, と律の雙修を窺わせるような記述がしばし ば見られることであって,代表的な例を掲げれば,次のごとくになる。 塔銘1: 依嵩嶽僧寂。深究 門。就當陽僧 。纂成律藏。 塔銘6: 十八受半戒。二十受具戒。纔三日。於東都大安國寺通誦聲 聞戒經。聖言無遺。清音如貫。釋門 以敏識。啓心要於大照 師。依教任於悟空比丘。尼堅持禁律。深證圓境。法流宗以精進。 及空 師亡。正名 於西京法雲寺。宿 尼無上律儀之首。由是

(21)

N o . 成 立 時 期 者 (生 歿 年 ) 名 人 名 (生 歿 年 ) 師 承 建 立 地 所 蔵 1 開 元 16 年 (7 28 ) 玄 宗 皇 帝 (6 85 -7 62 ) 大 慧 師 一 行 碑 銘 一 行 (6 83 -7 27 ) 普 寂 陝 西 省 西 安 市 ? 空 海 言 付 法 傳 ( 日 佛 全 10 6) 集 古 録 目 6 補 編 21 02 2 開 元 26 年 (7 38 ) 9 月 楊 休 烈 (未 詳 ) 大 唐 濟 度 寺 故 大 比 邱 尼 源 和 上 神 空 誌 銘 序 源 (6 62 -7 37 ) 義 福 陝 西 省 西 安 市 ? 賀 澤 32 85 金 石 萃 編 82 全 唐 文 39 6 3 開 元 26 年 (7 38 ) 10 月 闕 名 大 唐 都 景 福 寺 威 儀 和 上 塔 銘 靈 覺 (6 87 -7 38 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 33 08 金 石 補 正 22 4 天 寶 7 年 (7 48 ) 11 月 闕 名 大 慈 師 墓 誌 銘 序 覺 (6 88 -7 46 ) 義 福 普 寂 陝 西 省 咸 市 出 土 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 36 33 5 天 寶 13 年 (7 54 ) 6 月 復 珪 (未 詳 ) 大 唐 栖 故 故 大 師 塔 銘 智 通 (6 83 -7 51 ) 義 福 山 西 省 永 濟 縣 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 38 14 金 石 補 正 58 6 天 寶 14 年 (7 55 ) 2 月 闕 名 大 唐 法 雲 寺 尼 辯 師 神 道 誌 銘 序 辯 (7 02 -7 54 ) 普 寂 陝 西 省 西 安 市 ? 賀 澤 38 48 7 廣 2 年 (7 64 ) 1 月 李 華 (7 15 -7 66 ) 故 中 岳 越 師 塔 記 常 超 (7 05 -7 63 ) 普 寂 宏 正 河 南 省 登 封 市 ? 全 唐 文 31 6 文 苑 英 華 82 0

(22)

8 永 泰 2 年 (7 66 ) 闕 名 潤 州 天 郷 寺 故 大 雲 師 碑 法 雲 (? -7 66 ) 普 寂 江 蘇 省 江 市 ? 全 唐 文 32 0 9 大 暦 4 年 (7 69 ) 3 月 王 (? -7 81 ) 大 唐 東 京 大 敬 愛 寺 故 大 大 證 師 碑 銘 序 曇 (7 04 -7 63 ) 普 寂 廣 河 南 省 登 封 市 (碑 帖 菁 華 ) 全 唐 文 37 0 文 苑 英 華 86 2 10 大 暦 5 年 (7 70 ) 3 月 卒 清 (未詳 ) 唐 杭 州 靈 山 天 竺 寺 故 大 和 尚 塔 銘 序 守 (7 00 -7 70 ) 普 寂 浙 江 省 縣 ? 賀 澤 40 44 全 唐 文 91 8 文 苑 英 華 78 6 11 大 暦 6 年 (7 71 ) 6 月 郭 (未詳 ) 唐 少 林 寺 同 光 師 塔 銘 序 同 光 (7 00 -7 70 ) 普 寂 河 南 省 登 封 市 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 40 54 全 唐 文 44 1 金 石 補 正 63 12 大 暦 12 年 (7 77 ) 8 月 闕 名 唐 故 安 國 寺 主 大 師 比 丘 尼 超 墓 誌 超 (7 08 -7 77 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 ? 補 遺 新 藏 輯 25 9 13 貞 元 元 年 (7 85 ) 10 月 于 兆 (未 詳 ) 唐 州 聞 喜 縣 大 興 國 寺 故 智 宗 塔 銘 序 智 (7 10 -7 85 ) 普 寂 山 西 省 聞 喜 縣 ? 補 編 64 0 聞 喜 縣 志 21 14 貞 元 7 年 (7 91 ) 10 月 李 充 (未 詳 ) 大 唐 東 都 敬 愛 寺 故 開 法 臨 壇 大 法 師 塔 銘 序 法 玩 (7 15 -7 90 ) 普 寂 河 南 省 登 封 市 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 43 28 金 石 補 正 66 15 元 和 2 年 (8 07 ) 4 月 鋭 (未詳 ) 大 唐 荷 恩 寺 大 法 律 師 塔 銘 序 常 一 (6 99 -7 70 ) 普 寂 陝 西 省 西 安 市 ( 古 與 文 物 3) 賀 澤 46 39

(23)

依止焉。常以 師總持内密。毘尼外現。毎見 歎。得未曾有。 塔銘11: 修行之本。莫大于律儀。究竟之心。須終于 寂。 律之道。 其在斯乎。 塔銘12: 師童子出家。沙弥學道。其初也。總持律藏。其末也。深 入 門。故受業 徒。寔繁有衆。 塔銘14: 自像教東流。法門弘闢。以戒律 妄行。以 寂滅諸相。以 辯 通無礙。 師總斯三學。濟彼 生。 これらは,先に見た 大照 師塔銘 の記述と正しく符合するものとい える。この他にも,塔銘8の 潤州天郷寺故大 雲 師碑 によると,法 雲とともに普寂に參じた人に絢律師(生歿年未詳)があり,後に法雲とと もに天郷寺に住したというし, 宋高僧傳 24の 太原府崇福寺思 傳 によると,思 (生歿年未詳)は,早くから 理と律宗に通じていたが, 開元中に嵩山に義福を尋ね,甘露を味わって五年にして還り,その後,坐 に明け暮れたという。また,同じく 9の 京師大安國寺 伽院靈著 傳 によると,靈著(691∼746)は,十五歳で出家し,受戒の後,各地で 學び,四十歳以降は律と 涅槃經 の流布に努めた人であるが,晩年にな って普寂に師事し,長安で を大いに めたという。更に,普寂の弟子, 道 (702∼760)は,東山法門の傳統に って菩 戒を重んじ,日本に來 た後にも 菩 戒經 三 を著すなどしているが,そもそも彼の渡來は, (688∼763)と同 ,授戒の師として招かれたためであった。これら の點から見て,彼においても戒律が極めて重要な位置を占めていたことを 窺うことができる。 これらによれば,普寂が,神秀までの傳統に反して,弟子に對して戒律 の 持を求めたとする 大照 師塔銘 の記述は,ほぼ事實と認めてよい ように思われる。ただ,ここで一つ問題となるのは,こうした指導は,在

(24)

家の人々にも及んでいたかという點である。というのは,既に れたよう に,北宗では盛んに在家の人々への布教を行い,場合によっては,印可を すら與えていたからである。これを確認するには,俗人の墓誌銘等を調べ るにしくはない。 先ず,普寂や義福に教えを受けた俗人の墓誌銘を一覧に示せば,次頁の ごとくである(一部, 碑銘 や 塔銘 を含むが,ここでは便宜的に 墓誌銘 と總 している)。 これら在家の墓誌銘が,出家の塔銘ほど 戒律 に言及しないのは當然 であるが,それでも,次のような例を見ることができる。 墓誌銘 1: 逮乎晩年。 心聖域。六齋蔬食。二時 念。 墓誌銘 2: 夫其守道純深。奉戒精一。居常而 慮不 。臨困而景行 彌高。 墓誌銘 7: 志求無上道。外榮華去滋味。厭服錦繡。不茹薫辛。雖處 居家。常脩梵行。 墓誌銘 8: 開元十七年。詣天竺寺崇昭法師受菩 戒。持金剛經。轉 涅槃經。於大昭和上通戒。得 定旨。又於壽覺寺主 師 受具足戒。於弘正 幹 師皆通經焉。 墓誌銘14: 用圓満。誡力堅 。 藉茹 。雖 疾而不受。 このうち,墓誌銘8の元婉については,先ず 菩 戒 を受けた後,大 昭和上(恐らく,大照普寂を指す)のもとで 戒 と 定 を學び, 師のもとで 具足戒 を受け,更に弘正 師らのもとで 經 に通じ たというのであるから,ほぼ完全に出家と同 の生活を送っていたことが 窺えるが,その他については必ずしも明確ではない。 奉戒 梵行 とい っても,恐らくは,菩 戒を受け,それを實 する段階であったのではな いだろうか。そうあってこそ, 大乘五方便 序章の 授菩 戒儀 の有

(25)

N o . 成 立 時 期 者 (生 歿 年 ) 名 人 名 (生 歿 年 ) 師 承 建 立 地 所 蔵 1 開 元 22 年 (7 34 ) 12 月 萬 (未 詳 ) 大 唐 代 國 長 公 主 碑 (碑 帖 菁 華 ) 李 華 (李 花 婉 ) (6 87 -7 34 ) 義 福 陝 西 省 蒲 城 縣 (碑 帖 菁 華 ) 全 唐 文 27 9 2 開 元 26 年 (7 38 ) 5 月 杜 (未詳 ) 有 唐 氏 故 夫 人 實 信 優 婆 夷 未 曾 有 功 徳 塔 銘 序 未 曾 有 (7 17 -7 38 ) 義 福 陝 西 省 西 安 市 (碑 帖 菁 華 )? 河 南 省 洛 陽 市 ? 賀 澤 33 00 唐 文 拾 遺 19 3 開 元 29 年 (7 41 ) 7 月 馬 (未詳 ) 大 唐 故 李 府 君 夫 人 厳 氏 墓 誌 銘 序 如 海 (6 77 -7 41 ) 普 寂 河 南 市 洛 陽 市 出 土 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 34 09 芒 洛 遺 文 3 4 天 寶 元 年 (7 42 ) 1 月 闕 名 大 唐 故 慶 州 華 池 縣 令 杜 陵 龍 府 君 墓 誌 銘 序 龍 庭 (6 84 -7 42 ) 普 寂 河 南 市 洛 陽 市 ? 補 遺 8-38 6 5 天 寶 元 年 (7 52 ) 10 月 陳 (未 詳 ) 大 唐 故 朝 散 大 夫 上 柱 國 行 河 内 郡 武 徳 縣 令 慕 容 府 君 兼 夫 人 昌 縣 君 唐 氏 誌 文 序 慕 容 相 (6 77 -7 31 ) 唐 休 珪 女 (6 87 -7 41 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 ? 賀 澤 34 15 6 天 寶 元 年 (7 42 ) 10 月 挺 之 (6 73 -7 42 ) 自 墓 誌 挺 之 (6 73 -7 42 ) 普 寂 河 南 省 登 封 市 ? 賀 澤 34 57 全 唐 文 28 0 7 天 寶 四 載 (7 45 ) 10 月 王 (未詳 ) 大 唐 故 州 刺 史 瑯 耶 王 妻 河 東 郡 君 夫 民 墓 誌 銘 序 王 同 人 夫 人 援 二 女 (6 85 -7 41 ) 普 寂 義 福 陝 西 省 西 安 縣 出 土 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 35 40

(26)

8 天 寶 五 (7 46 ) 2 月 累 宏 (未 詳 ) 大 唐 故 通 議 大 夫 上 柱 國 州 刺 史 陽 縣 開 國 男 郭 府 君 夫 人 新 郡 君 河 南 元 氏 權 墓 誌 元 婉 (6 80 -7 46 ) 普 寂 宏 正 河 南 省 孟 縣 出 土 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 35 60 9 天 寶 七 載 (7 48 ) 11 月 (? -7 58 ) 唐 故 太 原 府 交 城 縣 令 府 君 墓 誌 銘 序 辣 (6 93 -7 48 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 ? 補 遺 8-54 10 天 寶 九 載 (7 50 ) 11 月 高 蓋 (未 詳 ) 大 唐 故 汝 州 刺 史 李 府 君 夫 人 國 夫 人 韋 氏 墓 誌 銘 序 韋 小 (? -7 50 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 出 土 (碑 帖 菁 華 ) 賀 澤 36 91 11 天 寶 十 載 (7 51 ) 1 月 (未 詳 ) 唐 故 尚 書 右 丞 府 夫 人 陽 氏 墓 誌 銘 序 冲 (6 86 -7 50 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 ? 補 遺 千 唐 21 9 12 天 寶 十 載 (7 51 ) 11 月 徐 浩 (7 03 -7 82 ) 唐 故 朝 議 大 夫 行 尚 書 膳 部 員 外 郎 上 柱 國 崔 府 君 墓 誌 銘 序 崔 藏 之 (6 94 -7 50 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 ? 補 遺 千 唐 22 4 13 天 寶 十 四 載 (7 55 )3 月 王 端 (未 詳 ) 大 唐 故 尚 書 員 外 郎 河 南 陸 府 君 墓 誌 銘 序 陸 (? -7 54 ) 普 寂 河 南 省 洛 陽 市 ? 補 遺 千 唐 23 5 14 未 詳 (天 寶 年 間 ? ) 王 維 (7 01 ? -7 61 ) 工 部 楊 尚 書 夫 人 贈 太 原 郡 夫 人 京 兆 王 氏 墓 誌 銘 王 女 (未 詳 ) 普 寂 未 詳 賀 澤 63 79 全 唐 文 32 7 15 大 暦 甲 辰 の 翌 年 (7 77 ? ) 梁 (7 53 -7 93 ) 州 原 武 縣 丞 崔 君 夫 人 源 氏 墓 誌 銘 源 光 時 女 (? -7 77 ? ) 普 寂 宏 正 河 南 省 ? 賀 澤 63 91 全 唐 文 52 1

(27)

効性も維持されたはずだからである。 普寂や義福は,出家だけでなく,在家にも戒律を尊重するよう めたで あろうが,その内容には自づと相違があったのである。そして,在家に求 めたものが,主として 菩 戒 に留まったとすれば,それは,むしろ, 東山法門以來の傳統を保持するものであったといえよう。 以上の 討によって, 大照 師塔銘 の記述は,ほぼそのまま事實と 認めてよいということが明らかになった。しかし,だとすると,ここに一 つの問題が生起する。即ち,それは, 心論 が普寂や義福の時代に流 布しており,彼らの主張を代辯するものであったとすると,そこに見られ る 心 第一主義は,これとどう關わるのかという點である。 しかし, 心論 をよく讀んで見ると,その主張は,決して 戒律 を否定し去ろうというのではないことが知られる。例えば, 心論 に は,次のような一節が見られる。 又問。如經所説。至心念佛。必得解脱。此一門。即應成佛。何 心求於解脱。答曰。夫念佛者。當須正念。了義 正。若不了義。即 邪念。正念佛必得往生 國。邪念云何達彼岸。佛者覺也。所 覺察身 心。勿令起 。念者憶也。所謂堅持戒行。不忘精勤。了如來義。名 正念。故知。念在於心。不在於言。因 求魚。得魚妄 。因言求意。 得意忘言。既 念佛之名。須行念佛之體。若心無實體。口誦空名。徒 念虚功。有何成益。且如誦之與念。名義懸殊。在口曰誦。在心曰念。 故知。念 心起。名 覺行之門。誦在口中。即是音聲之相。執相求福。 終無是處乎。故經曰。凡所有相。皆是虚妄。又云。若以色見我。以音 聲求我。是人行邪道。不能見如來。以此 之。乃知事相非 正也。 ここでは, 念佛 の 念 を 憶 と言い換え,更に, 堅持戒行。不 忘精勤。了如來義 こそが 正念 であるとする獨自の解釋を提起して,

(28)

に口で佛の名を えさえすれば往生できるとする説を却け, 正念 = 心 によって悟ることこそが大事だと説いている。 ここの主題である 土教批判はさておいて,これに據れば, 心論 においても 戒律を守ること ( 堅持戒行。不妄精勤 )は, 悟り ( 了 如來義 )の前提なのであり,その所論は,戒律の重要性を重々知った上 での立論であることが窺われるのである。 って, 心論 の立場は, 普寂や義福の軌道修正と決して矛盾するものではないであろう。つまり, 彼らは, 悟り の獲得を第一の目標とする東山法門以來の傳統はそのま ま大原則として維持した上で,それに加える形で,新たに 戒律 の重視 を打ち出したのである。 しかし,普寂や義 がこのように東山法門以來の傳統を轉換したのは, 他者からの批判という外的な要因だけに基づくものだったのであろうか。 また,方針轉換の結果, 思想にいかなる變化が生じたのであろうか。次 は,こうした問題について論じなくてはならないのであるが,これらにつ いては, 念ながら,紙幅の關係で割愛せざるを得ない。ただ,ここでは, 述の必要上,次の事柄を確認するに止め,詳細は別の機會に讓ることと したい。 1 普寂や義福の方針轉換は, に他派の批判をかわすためだけでな く, 京の大寺院で他派の僧侶と生活を共にする便宜や,自身の 素養との調整といった内發的な原因も關わっていた。 2 普寂や義福による方針轉換の結果,彼らの門下(北宗)では,時 とともに 戒律 の重みが増し,遂には 臨壇大 として小乘 戒の授戒に 持する僧が輩出するようになった。ここにおいて, 東山法門以來の修行法と生活規範は完全に打ち捨てられた。 3 北宗がこうした變化を蒙ったことにより,その後に中原に進出し

(29)

た荷澤神會を初めとする人々も,東山法門以來の修行法や生活規 範を前面に出すことを憚り, 戒律 を尊重する姿勢を取るよう になった。 4.百丈清規制定説成立の意味 東山法門は中國各地に傳えられ,それぞれに一派を成したが,そのうち, 中原に勢力を築いたのが北宗であった。これによって北宗は,東山法門を 代表する存在となったが,普寂・義福の方針轉換によって戒律重視に向か い,東山法門で生み出された修行法・生活規範は,次第に顧みられなくな っていった。中原に集まる各派の僧の批判をかわす必要もあったし,彼ら が住む 京の大寺は,基本的には 戒律 に う人々のためのものであっ たから,東山法門以來の獨自の修行法を行うには,種々の制約があったの である。 では,地方に展開した人々はどうであったか。地方においても,傳統あ る名刹に住した場合には,同 の問題が生じたであろうが,神秀が 州玉 泉寺に名を しつつ,別に度門蘭若を建てて住んだように,本寺とは別に 小院を構えるなどして,獨自の修行を行うことは不可能ではなかったと思 われる。しかし,そうした場合,寺全體として僧侶の統率を行うことは, 決して容易ではなかったであろう。それをよく示すのが,百丈 海と同時 代の 性(752∼835)の碑文,何 (生歿年未詳) 唐雲居寺故寺主律 大 神道碑銘 序 である。これは咸通八年(867)に房山(北京市房山 )の雲居寺に建てられたものだが,そこには次のような一節がある。 頃者合寺耆年至於初學。同誠壹志。請□寺綱。大(闕字) 固執 謙。抑而 不許。乃曰。雲山異境。 律 居。若非通明。何以 衆。大 曰。顧

(30)

無 連統衆之術。且乏末田乞地之功。凡練紀綱。必資 業。非安於己。 不利于人。寺衆 堅其辭。志不可奪。乃唱言曰。佛刹戒 。固難條貫。 詳視履。非上 而誰。師之不 。吾 安附。三請而後許之。四衆欣 然。合寺相賀。大 至性平等。 用圓明。規繩既陳。高卑自序。奉精 勤以敬。策 慢以 。共 推誠。咸 悦服。遂使施財者松門 踵。齎 供者溪路相望。佛宇益崇。常住滋 。是知。道行高而 依雲赴。福 具而感應響 。 この意味は,おおよそ次のごとくに理解できる。 ある時(文脈から元和年間 806∼820> 以前と見るべきである), 雲居寺の寺衆が一致して寺主になるよう依頼したが, 性はそれを拒 んだ。そこで,寺衆は, 雲居山は聖地で 僧と律僧が 居する場所 だから,あなたのように見識のあるものでなくては務まらない とし て,再び要請したが, 性は,自分にはそんな能力はないとして固辭 した。しかし,寺衆は納得せず,結局,三度目に折れて,寺主になる ことを承認した。 性は至って公平であり,規律もよく行われたので 皆なが喜んだ。檀越も増え,寺は榮えた。 戒律に う一般の僧と獨自の生活規範に従う 僧とが同じ寺に住んだ場 合,相互に不便を感じたであろうし,利害關係もあり,なかなか意見の一 致を見ることはなかったであろう。寺主や三綱が寺の運營に苦慮したこと は十分に想像できる。ここに述べられているのは,正しく, 門規式 にいう 多居律寺。雖別院。然於説法住持。未合規度。故常爾介 とい う事態であると言えよう。 このように八世紀の末には,北宗 の 律一致 を目指そうとする運 動が行き詰まり,また一方で,各地の名刹で見られた 律 居 も,そ の問題點が明らかになろうとしていた。こうした状況の中で,東山法門以

(31)

來の の傳統を守ろうとする人々の採るべき道は,一つしかなかったであ ろう。それは,傳統佛教の影響力や中央の政治權力が及びにくい地方にお いて,全く新たに寺院を 建し,そこに東山法門以來の傳統に基づく 規 制 や 規 を布くことであった。そして,それを實行に移しえたのは, こ の 時 代 に 地 方 を 地 盤 に 勢 力 を 伸 ば し つ つ あ っ た,馬 祖 道 一 (709∼788)・石頭希遷(700∼790)系の人々だけであった。こうして百丈 の時代に 規制 や 規 が制定されるに至ったのである。 彼らは,東山法門の精神と基本的立場をそのまま承け ごうとしたので あって,その意味からすれば,時間を隔ててはいるが,東山法門の の後 者であった。 って,百丈 海の 規制 には,彼が普段から強調して いた 普請作務 の精神が生かされていたと えられるが,それも,他者 への奉仕として種々の 務が積極的に評價されていた東山法門のあり方を そのまま 承するものであったと言えるのである。 しかし,そうはいっても,全ての點で東山法門のあり方がそのまま再現 されたわけではなかったであろう。 にそれを目指したとしても,歴史的 展開の中で,もはや不可能であったに違いない。例えば,山林佛教として 成立した東山法門では,得度や受戒の有無や出家・在家の別がさほど重視 されず,むしろ 菩 戒 が強調されていた。北宗は,これを改めて自ら のアイデンティティーを見失ったが,かといって,この時代に東山法門の ような状況に立ち返ることは絶對に許されなかったであろう。 宗は廣く 知られるようになり,既に社會性を獲得していたからである。この時代に 定められた 規制 や 規 では,僧俗の別をわきまえたうえで, 出 家 を中心とする寺院運營が目指されたはずである。 冒頭で引いたように, 門規式 に據ると,百丈 海は, 吾所宗非局大小乘。非異大小乘。當博約折中。設於制範。務其宜

(32)

也。 と語って 清規 を定めたという。これがどの程度史實を承けるものか甚 だ疑わしいが,歴史的に見た場合,東山法門の 菩 戒 と,それを改め た北宗の 小乘戒 との綜合という形で成立した 規制 規 が,正 しく 大小乘の博約折中 と呼ぶべきものであることは間違いない(この 點で, 東山法門 北宗 清規 の三者は, 正 反 合 の辯證法的 關係にあるといってよいかも知れない)。 つまり,この時代の 宗の人々は,北宗 の失敗を顧みて,東山法門の 精神を再確認するとともに,一方では,北宗からも多くのものを學び, 本來の立場と社會との間でうまく折り合いを付けられる地點を見出すこと に初めて成功したのである。そこに,この時期に 規制 規 が生み 出されなくてはならなかった理由と,その劃期的な意義を認めることがで きるであろう。 む す び 以上,普寂の塔銘, 大照 師塔銘 を手がかりに,東山法門の修行法 と生活規範,北宗においてそれが蒙った變化について論じるとともに,百 丈の時代に 清規 の原型が定められるに至った經緯について えてきた。 その結果,おおよそ以下のような諸點を明らかにすることができた。 1 山林佛教として成立した東山法門には,頭陀行者の價値 と傳統 を承け ぎ, 悟り の獲得を目指す獨自の修行法と生活規範が 存在した。そのため,得度や受戒の有無はほとんど問題にされず, 悟境によってのみ付法や印可が行われた。 2 東山法門では,得度や受戒の有無が重視されなかったため,出家

(33)

のみを對象とする 戒律 よりも,出家・在家の雙方に通用する 菩 戒 が重んじられ, 菩 戒 は 心戒 であるとして, 悟り との關聯が強調された。 3 教團運營には種々の 働が必要であったが,東山法門では出家・ 在家が明確には 別されなかったために,それを忌避するという 發想そのものが存在せず,それどころか,他者への奉仕として積 極的に評價されていた。 4 東山法門が注目され,神秀や 安が中原で活躍するようになると, 戒律 を問題にしない點が批判の對象となった。そのため,普 寂や義福は,他派との軋轢を避け,また,自身の素養との調整の 必要もあって, 來の方針を転換し, 戒律 の重要性を強調し, 弟子にも遵守を求めるようになった。 5 普寂や義福による方針轉換の結果,彼らの門下(北宗)では,時 とともに 戒律 の重みが増し,遂には 臨壇大 として小乘 戒の授戒に 持するようになって,東山法門以來の修行法と生活 規範は完全に打ち捨てられた。 6 北宗がこうした變化を蒙ったことにより,その後に中原に進出し た荷澤神會を初めとする人々も,東山法門以來の修行法や生活規 範を前面に出すことを憚り, 戒律 を尊重する姿勢を取るよう になった。 7 東山法門には,このように中原に進出しようとした人々とは別に 地方に展開した人々が存在したが,彼らが 來からの名刹に住し た場合には,一つの寺に 戒律 に って生活する僧侶と,東山 法門以來の獨自の修行法と生活規範に う僧侶との二種が 居す る 律同居 の状況となり,寺院運營などの點で種々の問題が

(34)

生じた。 8 北宗におけるアイデンティティーの喪失や 律同居 の困難さ を經 した結果,八世紀の末には,百丈 海に見るように,傳統 佛教の影響や中央の統制の及びにくい地方に新たに寺院を造り, 東山法門以來の價値 に基づく 規制 規 を制定して, 宗特有の修行生活を維持するようになった。 9 これらの 規制 規 は,東山法門の價値 を 承してはい たが,完全にそれに復そうとするものではなく,東山法門が各地 に がるに際して經 した社會との軋轢にも鑑み, 本來の立場 と社會との調停を目指そうとするものであって,その意味では, 北宗 の失敗も無駄ではなかった。 東山法門の時代に,既に後世の 清規 の原型ともいうべきものが存在 していたにもかかわらず,それが社會に認められ,確立を見るためには, 遙か後代の百丈 海の時代を待たねばならなかったのである。勿論,これ には安史の 後の唐王朝の弱体化と中央集權の緩みも關係していたであろ うが,この事實は,なによりも,一般の僧俗のインド以來の 戒律 に對 する信頼がいかに鞏固なものであったか,そして,それを意に介さなかっ た東山法門の思想と實 がいかに革新的なものであったかを示すものと言 えよう。 佛教は,その思想の普遍性のゆえに,インド以外の世界へも 大を續け た。しかし,戒律の規定には,インドの風土と社會が背景になっている場 合も多く,そのままでは他の國では實行しかねる點も多かった。それにも 拘わらず,中華思想の強い中國においても,佛制であるということで, 戒律 はそのまま用いられてきた。ところが, 悟り の獲得のみに價値 を見出し,佛教をゼロから え直そうとした東山法門は,それを易々と超

(35)

えてしまったのである。 しかし,それを他宗の人々に認めさせることは決して容易ではなかった。 長い年月をかけ,多くの試行錯誤を歴ることで,ようやく百丈の時代にな って, 宗の人々は 寺の獨立と 清規 の制定という形で,自らの居所 を確保したのであるが,これは極めて重要な一歩であった。なぜなら,こ の後, 宗は, 問答 を 使する極めてユニークな佛教へと展開する が,それが可能となった理由は,ひとえにここに存するからである。 この事例は, 戒律 は に墨守しさえすればよいわけではなく,その 精神を生かすことこそが大切であること,そして,社會に合致した の佛 教を るためには,修行法や生活規範を絶えず見直し,必要に應じて改め てゆくことが重要であることを示すものである。これは,未曾有の變化を 遂げつつある現代社會においても,佛教の 來に大きな示唆を與えるもの と言えるのではあるまいか。 ⑴ 大正藏51,250下∼251中。 ⑵ 宇井伯壽 第二 宗史研究 (岩波書店,1935年)379∼380頁。 ⑶ 近藤良一 百丈清規の成立とその原型 ( 北海道駒澤大學研究紀要 3, 1987年)21∼30頁參照。 ⑷ 石井修道 百丈清規の研究― 門規式 と 百丈古清規 ( 駒澤大學 研究所年報 6,1995年)。 ⑸ 宇井伯壽 佛教思想研究 (岩波書店,1943年)641∼642頁。 ⑹ 柳田聖山 初期の 史Ⅰ (筑摩書房,1971年)386頁。 ⑺ 同上,273頁。なお,これは玄 の 伽人法志 からの引用部分である。 ⑻ 同上。 ⑼ 近藤良一 百丈清規 成立の要因 ( 印度哲學佛教學 2,北海道印度 哲學佛教學會,1987年)233頁。 ⑽ 椎名宏雄 東山法門形成の背景 ( 宗學研究 12,1970年)184∼185頁。 John R. McRae, The Northern School and the Formation of Early

(36)

Ch an Buddhism, Kuroda Institute Studies in East Asian Buddhism 3(Honolulu:University of Hawaii Press, 1986), pp41-43.

こうした問題意識の窺われる先行研究としては,次のものを げることが できる。 1 椎名宏雄 嵩山における北宗 の展開 ( 宗學研究 10,1968年) 2 同 北宗 における戒律の問題 ( 宗學研究 11,1969年) 3 同 初唐 者の律院居住について ( 印度學佛教學研究 17 ∼2,1969年)

4 Bernard Faure: The Will to Orthodoxy: A Critical Genealogy of Northern Chan Buddhism, trans. by Phyllis Brooks (Stanford: Stanford University Press, 1997), pp83-84.

特に,ベルナール・フォール(Bernard Faure)氏が,次のように論じて いるのは,本拙稿の内容とも重なり,非常な卓見であると思う。 1 東山法門が中原に進出すると,他宗の人々と交流を持たざるをえなか った。彼らは嵩山や 京の大寺に住したが,これらの寺は律宗と關係 が深く,普寂や弟子たちは,律僧に近づき,戒律を重んずるようにな った。 2 これが北宗の發展に大いに役だったが,それと同時に經濟や教團運營 の點で主體性を失うことになった。彼らが 清規 のようなものを る必要が無く,また,それが不可能であったのは,ここに起因する。 3 この面での發展は,後に(中央ではなく)地方において南宗系の人々 によって成し遂げられ,宋代に 清規 の成文化と 寺の獨立という 形で結實した。 ただし,氏は,ほとんど具體的な根據を示しておらず, なる推測に止ま ったようである。 全唐文 262。 杜 文・魏道儒 新版・中國 宗通史 (江蘇人民出版社,2007年)137頁。 初版は,1993年,江蘇古籍出版社刊。以下,引用は新版による。 この碑銘は,滋賀高義編 唐代釋教文選譯注 (同朋 ,1998年)にも採 り上げられており,今場正美氏が譯注を 當されている。そこでも,杜 文・魏道儒両氏と同 の句讀が施され, 且つ爰に六葉自り,式て一門を崇び,未だ戒經を誦さず,或は法要を 傳う。大通凡例を以て謗を起し, に我聞を棄てて,深く依宗を解せん とし,遽に聖道を求む。(66頁) と訓讀されている。しかし,この訓讀は甚だ理解しがたいものであるうえに,

(37)

その意味について何らの説明もされていないので,このように讀んだ根據は 明らかでない。 柳田聖山 初期 宗史書の研究 (法藏館,1967年)498頁。なお,この碑 銘は 全唐文 262にも められているが,以下の引用は,すべて,諸本を 對校している柳田氏の校訂本に據ることとする。 同上,499∼500頁。 同上,498頁。 前掲 初期の 史Ⅰ 396頁。 ベルナール・フォール氏は,神秀が初めに した寺院の名が, 大通 師 碑銘 傳法寶紀 と, 宋高僧傳 とで食い違っているのは,得度が二度行 われた,つまり,還俗したために再び得度したことによるのであろうとする (前掲書,20頁)。しかし,私見に據れば,ここで,儀鳳年間に世に出たとす ること自體,宗教上の要請によるもので事實ではない。ただ,これについて は,下の に掲げる拙稿において論ずる豫定であるから,ここでは割愛す る。 全唐文 280。 周紹良主編 唐代墓誌彙編 (上海古籍出版社,1992年),開元433。この 塔銘の他の所在については, 賀澤保規編 新版 唐代墓誌所在總合目録 (明治大學東洋史資料叢刊3,汲古書院,2004年,以下, 賀澤 と略 ) の3244番を參照。 大照 師塔銘 に, 開元十三年。恩詔屈於敬愛寺宴坐。逮十五年。皇上 幸於京師也。優 詔曰。 言義福宜 駕。和上留都興唐寺安置。由是法雲遍雨。在其根 。 妙音盡聞。惟所圍繞。 とあり,また, 大智 師碑銘 序 にも,次のような記述がある。 大通之傳付者。河東普寂與 師二人。即東山 。七代於茲 。 これによって,二人がお互いを認め合う仲であったことが知られる。また, 二人とも嵩山の嵩岳寺と密接な關係を持っており,その嵩岳寺には二人の師 である神秀の塔が設けられていたことも注意すべきである。 拙稿 曹溪大師傳 の成立をめぐって ( 東洋の思想と宗教 15,1998 年)102∼105頁を參照。 續藏1-14-3,277張表下。 これについては,本年度から三回に分けて, 東山法門 の人々の傳記に ついて と題して 東洋學論叢 (東洋大學文學部紀要インド哲学科編)誌 上に私見を發表する豫定であるから,そちらを參照して頂きたい。

参照

関連したドキュメント

つの表が報告されているが︑その表題を示すと次のとおりである︒ 森秀雄 ︵北海道大学 ・当時︶によって発表されている ︒そこでは ︑五

[r]

その目的は,洛中各所にある寺社,武家,公家などの土地所有権を調査したうえ

 プログラムの内容としては、①各センターからの報 告・組織のあり方 ②被害者支援の原点を考える ③事例 を通して ④最近の法律等 ⑤関係機関との連携

「海洋の管理」を主たる目的として、海洋に関する人間の活動を律する原則へ転換したと

活用することとともに,デメリットを克服することが不可欠となるが,メ

基準の電力は,原則として次のいずれかを基準として決定するも

「今後の見通し」として定義する報告が含まれております。それらの報告はこ