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されていた太子絵伝は 太子伝 絵伝の規範として 後世に多大な伝については ごく限られた史料をもとに 焼失 再建のみが語ら

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Kobe University Repository : Kernel

タイトル

Title

江戸時代における四天王寺絵堂と聖徳太子絵伝 : 狩野山楽本以降の太

子絵伝と文化再建絵堂をめぐって (中部義隆先生追悼号)(A Study of

the E-do Hall in Shitennoji Temple and its Illustrated Biography of

Prince Shotoku in the Edo period : Focus on Illustrated Biographies of

Prince Shotoku created after works by Kano Sanraku and the E-do

Hall rebuilt during Bunka period)

著者

Author(s)

一本, 崇之

掲載誌・巻号・ページ

Citation

美術史論集,17:93-127

刊行日

Issue date

2017

資源タイプ

Resource Type

Departmental Bulletin Paper / 紀要論文

版区分

Resource Version

publisher

権利

Rights

DOI

JaLCDOI

10.24546/81010483

URL

http://www.lib.kobe-u.ac.jp/handle_kernel/81010483

PDF issue: 2018-12-16

(2)

江戸時代における四天王寺絵堂と聖徳太子絵伝

ー狩野山楽本以降の太子絵伝と文化再建絵堂をめぐって

︽ キ ー ワ ー ド ︾ ﹃ 蔵 版 絵 堂 御 画 伝 略 解 ﹄ 橘 保 春 遠 江 法 橋 尊 智 本 様

はじめに

四天王寺の絵堂は、奈良時代にはすでに存在していたことが知ら れており、わが国で最も古い伝統を有している。絵堂を含む当寺の 伽藍は、度重なる罹災により失われ、古代から中世における絵堂及 びその聖徳太子絵伝がどのようなものであったかは実作例を伴って おらず、具体的に知ることはできない。しかし、当寺の絵堂に安置 されていた太子絵伝は、太子伝•絵伝の規範として、後世に多大な 影響を与えてきたことから、古代から近世初期における絵堂とその 絵伝制作については、先学によって数多くの研究成果が蓄積されて いる。一方で、これら先行研究の大半は、元和再建期の狩野山楽本 太子絵伝までを対象とするものであり、それ以降の絵堂及び太子絵 伝については、ごく限られた史料をもとに、焼失•再建のみが語ら れているに過ぎず、その詳細は等閑視されてきたきらいがある。 しかし、四天王寺は古代以来、近世に至ってもなお聖徳太子信仰

の中心地であり続けた。近年、近世における太子信仰や太子絵伝作 品の意義を積極的に評価していこうとする動きがみられることを踏 まえれば、江戸時代における四天王寺絵堂と、そこにあったであろ う太子絵伝の様相を明らかにすることは、単に四天王寺史だけでな く、近世太子信仰や太子絵伝の展開を考える上でも重要な示唆を与 えるものと思われる。 そこで本稿では、主に元和九年再建以降の四天王寺絵堂の実態を 明らかにするべく、絵堂に安置されていた聖徳太子絵伝︵以下、絵 堂絵伝と略︶と、享和元年火災後の文化再建絵堂について検討を行 う。具体的には、安永二年(-七七一︱-︶に刊行された、絵入り太子 伝の版本﹃蔵版絵堂御画伝略解﹄︵以下、﹃略解﹄と略︶と、四天王 寺に伝来する文化十年(-八一三︶に橘保春によって制作された聖 徳太子絵伝︵以下、保春本と略︶を取り上げ、江戸時代における絵 堂絵伝としての位置付けを考察する。さらに、保春本が文化再建絵 堂に納められていた太子絵伝であることを示したうえで、同再建絵

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堂について、その復原案を提示したい。 なお四天王寺宝物館では、本稿の内容に基づき、平成二十九年新 春名宝展﹁四天王寺絵堂の聖徳太子絵伝ーその伝統と革新ー﹂展︵会 期盃十成二十九年一月一日ーニ月五

8

)

を開催した。同展の図録に は、本稿に関連する作品のカラー図版が掲載されているので、併せ て 参 照 さ れ た い 。

︵絵堂の沿革 近世以前の絵堂及びその太子絵伝の制作については、これまで多 ( 3 ) くの先行研究があり、近年では朝賀浩氏の論考に詳しい。ここでは まず、これらの先行研究に拠りながら、古代から元和再建に至る絵 堂の変遷について概観する。さらに、江戸時代後半、特に享和元年 の火災以降の状況については、新たな史料を踏まえな ︵ 一 八

o

-︶ がら改めて事実関係を整理しておきたい。 創建期ー慶長再建 聖徳太子絵伝の現存最古の遺品は、延久元年

(

1

0

六九︶の秦致 貞籠法隆寺献納宝物本︵現東京国立博物館︶であるが、﹃天王寺秘訣﹄ -] ヽ . . . J 絵堂事 太子滅後四百六十許年図之 法隆寺絵 天王寺絵 聖武天皇後欺、百三十年許歎、有鐘楼故也 と あ り 、 太 子 甍 去 後 百 一

1

-+年にあたる天平勝宝四年︵七五二︶には、 四天王寺において絵堂とその絵伝の存在が確認される。さらに宝亀 二年︵七七一︶には、﹃四天王寺障子伝﹄や、障子図を伴った﹃七 代記﹂など、この絵堂絵伝に基づいた太子伝のテキストが制作され ており、八世紀後半には、太子絵伝の最初期の作品が四天王寺に存 在したことが知られる。 この奈良時代以来の絵伝は、天徳四年︵九六

O

)

に焼失した聖霊 院とともに失われたとみられ、その後、寛弘四年

(

-0

0

七︶以降 ( 4 ) の十一世紀前半に再興されたとみられている。 十二世紀になると、﹃台記﹄康治二年︵︱-四三︶十月二十二日 条の、藤原頼長が絵堂を参詣し、寺僧による絵解きを聞いたとの記 録を始めとして、久安六年︵︱-五

O

)

に鳥羽院と美福門院、また 文治三年︵︱-八七︶には九条兼実が絵堂に参ったという﹃玉葉﹂ の記録があり、絵堂において太子絵伝の絵解きが行われていたこと が知られている。続いて、﹁法然上人絵伝﹂巻十五第一︱一段の詞書に よると、大僧正行慶が当寺別当であった時に絵堂が転倒したため、 聖霊院礼堂東廂を代替地としていたところを、貞応三年(︱ニニ四︶ に四天王寺別当であった慈円が絵堂を再建し、絵仏師尊智に絵伝を 描かせたとある。行慶の別当在任期は一︱三五ー一︱五四年である

(4)

( 5 ) か ら 、 ﹃ 玉 葉 ﹄ の記事と矛盾するが、朝賀氏が指摘しているように、 本来の位置である聖霊院の南西に仮堂的な絵堂があり、そこで絵解 きを行っていたとみられ、それを本格的に再典したのが慈円であっ たと考えるのが自然であろう。 この後、四天王寺は嘉吉三年(-四四三︶に焼失し︵﹃看聞御記﹄ 一月二三日条︶、寛正四年(-四六三︶に聖霊院が供養されている ことから、慈円再典の絵堂も被害にあったとみられるが、詳細は不 明である。大永四年(-五二四︶には三条西実隆が四天王寺を詣で、 聖霊院を巡礼し絵堂に参入していることが知られるので、絵堂の存 在が確認できる。そして天正四年(-五七六︶、織田信長と石山本 願寺の戦火により、絵堂は伽藍もろとも焼失する。尊智による絵伝 はこれまでに失われてしまう。 その後、豊臣秀吉が伽藍を再建するにあたり、絵堂絵伝制作を狩 野山楽に命じ、慶長五年(-六

0

0

)

に完成を迎える。豊臣家によ る慶長再建は、主要伽藍の他、舞楽装束・舞楽面・罷太鼓などの舞 楽所用具や法要所用具に至る大規模なものであった。しかしこの慶 長再建の絵堂も、慶長十九年(-六︱四︶ の大坂冬の陣で焼失して い る 。 元和再建以降 徳川家康は、大坂の陣の後の元和元年(-六一五︶、南光坊天海 並びに四天王寺一舎利雲順・ニ舎利通順•秋野坊猷順を二条城に呼 び寄せ、伽藍再建の命を下し、四天王寺寺務を天海が取り仕切る事、 伽藍再建のため千枚分銅金六つを下付することを定めた。これを受 け 、 秀 忠 に よ っ て 任 命 さ れ た 各 奉 行 が 中 心 と な り 、 元 和 九 年 ︵一六二三︶に四天王寺は再興を遂げる。この再興は、﹃天王寺御建 立堂宮諸道具改渡帳﹄︵以下、﹃改渡帳﹄と略︶によって、その規模 と内容を詳らかに知ることができる。これに伴って絵堂も再建され、 山楽が再び絵伝を描いた。これが現存している当寺の板絵聖徳太子 絵伝︵以下、山楽本と略︶である︵図 l ) 。 この元和再建以降、当寺の伽藍は、小規模な修復事業が行われな がら、およそ一八

0

年にわたり、大きな災禍を受けることなく存続 していた。これらが再び災禍に見舞われるのが、享和元年(-八

0

1

)

十二月五日丑の刻に起こった雷火である。この時の様子は、当時幕 狩野山楽筆「聖徳太子絵伝」第12・13面(画 面VI) 図1

(5)

( 1 3 ) 吏として大坂に赴任していた大田南畝が﹁葦の若葉﹂の中で詳しく 記している。この火災による被害は甚大で、四天王寺は境内東側の 大半を焼き、絵堂も跡形もなく焼失してしまったという。その後た だちに再建が発願されたものの、この莫大な再建資金のエ面は決し て容易ではなかった。幕府による援助が限られる中、この再建にい ち早く立ち上がったのが、大坂の紙屑問屋の淡路屋太郎兵衛であっ た 。 彼 は 文 字 通 り に 一 身 を 投 じ て こ れ に 尽 力 し 、 文 化 九 年 ( 1 4 ) ︵一八︱二︶に再建を果たす。四天王寺が、大坂の民衆によって支え られてきた寺であることを示す、まさに象徴的な事業であった。 この享和火災後の文化再建については、服部清道氏の詳論がある ( 1 5 ) が、絵堂については特に言及されていない。絵堂に関する先行研究 において、文化再建絵堂に触れているものはごくわずかであり、川 岸宏教氏・南谷恵敬氏を除いては、享和火災後に絵堂は再建されな かったという見解がもっばらである。一方で、絵堂の文化再建を記 す文献史料も散見されることから、ここで改めて事実関係を整理し ておく必要があろう。 まず絵堂の文化再建については、天保年間頃の成立とみられる﹃新 ( 1 6 ) 古建物間数書﹄︵以下、﹃間数書﹄と略︶によって知ることができる。 同 書 に は 、 御絵堂 桁行京間七間五尺 梁行京間弐間壱尺四寸 但白木三ツ斗造、屋根檜皮葺、元和九亥年 御建立 享和元酉年焼失二付、桁行京間五間七寸 梁行京間弐間、白木腎木造、屋根瓦葺、文 化十酉年十月成就仕候 とあり、元和九年再建の絵堂が享和元年の火災によって焼失し、文 化十年(-八一三︶+月に再建が成就したことを記す。しかし小倉 豊文氏は、享和二年(-八

0

二︶に公文所秋野坊から寺社奉行に提 ( 1 7 ) ︵ 1 8 ) 出した﹃四天王寺諸堂社再建大概積高帳﹄・﹁諸堂再建積書之覚﹄に 絵堂の予算計上がないこと、昭和二十一年当時に絵堂が存在しない ことを理由に、享和雷火後に絵堂は再建されなかったと主張し、文 化九年﹁四天王寺再建絵図﹂に描かれる絵堂は﹁絵そら言﹂と断じ ( 1 9 ) ている。また、この他の研究者による絵堂に関する記述においても、 ( 2 0 ) 享和火災以降に絵堂は再建されていなかったとしており、これが共 通認識として定着していたようである。しかしながら、享和火災以 降においても、絵堂の存在を示す史料が確認できる。 当寺では、文政二年(-八一九︶に太子︱二

00

年御忌に合わせ ( 2 1 ) て大規模な開帳が行われている。この開帳は、享和の火災によって 焼失した伽藍の再建資金を募るべく企画されたもので、幕府などの 公権力を背景としたものではなく、太子信仰を基盤として直接的に ( 2 2 ) 民衆に接触しながら寄進を集めるものであった。この︱二

0

0

年御 忌に際して、武家や一般民衆から受けた奉納の金銀銭を記した﹃千 ( 2 3 ) 弐百回御忌奉納帳﹄には、

H

々の絵堂における拝観料・賽銭などに

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よる収入の記録が記されている。同書によると、御忌法要及び寺宝 の開帳に合わせて、五重塔•六時堂・万燈院と並んで絵堂が公開さ ( 2 4 ) れ、期間中銀二匁七分・銭︱-=一貫三二文を集めたという。これは、 文政二年の時点で絵堂が存在し、多くの参詣者が訪れていたことを 示 し て い る 。 また、文化に再建された聖霊院は、文久三年(-八六三︶に失火 ( 2 5 ) により焼失しているが、この火災に伴って絵堂も焼失したことが、 いくつかの未紹介の史料によって確認できる。まずは年預明静院清 順の﹁聖霊院焼失再建一件録﹂で、これは文久三年七月十八日に発 生した聖霊院の火災の後、寺社奉行所へその再建願を届け出るに及 び、その記録として記されたものである。この中の同年十月二十七 日付﹁奉願上口上覚﹂には、 然ル処、去ル七月十八日、聖徳皇太子宝殿合 失火仕、右宝殿井作合之間、拝殿、其外 熊野社、三宝社、御絵堂、献供棚所、鐘楼、 唐門、西四脚門、北四脚門、井戸屋形、︳都合大小一 壱ヶ所都合 拾ヶ所焼失仕候 とあって、聖徳皇太子宝殿の失火により、絵堂を含む大小十箇所の 堂宇を焼失したことが記されている。また、同じくこの件の記録で ( 2 7 ) ある﹁皇太子炎焼一件﹂には、この火災によって焼失した堂宇を朱 線で示した絵図が挿入されている︵図

2

)

。以上の史料は、ともに 聖霊院焼失直後に記された一次史料であるので、文久三年時点にお いて、聖霊院内に絵堂が存在したことは明白である。 ところで、先学の多くが文化絵堂非再建説に至ったのは、この聖 霊院文久火災の一件が、十分に認知されていなかったことに起因す る。例えば、小倉氏はこの一件を把握しておらず、出口常順氏は、 聖霊院焼失については認識しているものの、限られた史料しかな 「皇太子炎焼一件j 図2

(7)

かったとみられ、その詳細は知り得ていなかったようである。さら に、文化十年から文久三年の間における文化再建伽藍の絵図が、現 時点で確認されていないこともこれに拍車をかけた。つまり、この 間の聖霊院の様相が空白となることによって、享和元年以前と文久 三年以降の伽藍図が連続してしまい、享和の火災が絵堂の有無の境 界となったのである。これにより、文化絵堂の存在が見過ごされた と 考 え ら れ る 。 ともあれ、以上により享和の火災以降にも絵堂が存在していたこ とは疑う余地はなく、﹁間数書﹄にある通り、文化十年に再建が成 ( 2 8 ) 就していたとみてよい。さらに言えば‘︱二

0

0

年御忌の開帳にお いて、絵堂が多くの参拝者を集めていたということは、当然そこに あった絵伝の拝観が目的であろうから、絵堂絵伝が公開されていた ことも確実であろう。 この文久三年の焼失の後、聖霊院は明治十二年(-八七九︶に復 ( 2 9 ) 興されるが、絵堂が再建されることはなく、その跡には引導鐘堂︵現 南鐘堂︶が建立されている。明治以降のいずれの伽藍図にも絵堂が 描かれないことからもこれが確かめられる。小倉氏の指摘している、 ( 3 0 ) 昭和二十一年当時に絵堂が無いのはこのためである。この後、絵堂 が再建されるのは、昭和五十四年(-九七九︶ のことで、その位置 を聖霊院北側に移して現在に至っている。この昭和再建絵堂には、 杉本健吉氏が六年の歳月をかけて描いた太子絵伝の大作が納められ ( 3 1 ) ている︵図

3

)

。 ②絵堂の位置 昭和再建絵堂 図3 古代から中世における絵堂の位置については、絵図などによって 確認することはできないが、﹃台記﹄の記事から、聖霊院が寺域の 南東角にあり、さらに絵堂が聖霊院域内にあったことが確かめられ る。一方、江戸時代に入ってからは、数多くの絵図が残っており、 その位置と具体的な姿を把握することができる。

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( 3 3 ) ﹁元和再典四天王寺図﹂︵以下、四天王寺図と呼称︶︵図

4

)

をみ ると、絵堂は境内南東に位置する聖霊院の南西隅に所在し、南北柱 間七間、東西同二間の堂宇として建てられている。さらに﹃改渡帳﹂ るM ) 絵堂条の記載及び、﹁摂津国四天王寺図﹂︵以下、四天王寺絵図と呼 称 ︶ ︵ 図

5

)

によってその外観を具体的に知ることができる。 この元和再建絵堂焼失後の 文化再建絵堂の位置は、前述 の﹁皇太子炎焼一件﹂所載の 挿図︵図

2

)

によって確認で き、元和再建絵堂と同じ聖霊 院南西隅に所在していること がわかる。よって、少なくと も平安時代後期から文久三年 までの期間は、同じ場所にて 絵堂が所在していたと考えら れる。なお、現在この絵堂跡 地には南鐘堂が建っている が、その北側には旧四足門の 礎石が残されており、絵図と 見比べることで旧絵堂の位置 を確かめることができる。

二、山楽本以降の絵堂聖徳太子絵伝

︷江戸時代の絵堂太子絵伝二種 「摂津国四天王寺図」(絵堂部分) 図5 ここでは、山楽本以降に制作され、四天王寺絵堂に関わるとみら れる二種の太子絵伝について検討する。

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①﹃蔵版絵堂御画伝略解﹄ 本書は、上・中・下巻の三冊からなる、聖徳太子の生涯を記した 絵入りの版本である。上巻は絵のみで、孝養太子像•絵堂図に続い て太子絵伝が三十一丁にわたり掲載され、各丁には札銘とともに、 一場面ないし二場面の事蹟を霞で分けて上下に描き、五十八の事蹟 をほぼ年代順に展開する︵図 6 ) 。 一方、中・下巻は詞書のみをま とめたものである。その存在は早くより知られており、特に冒頭の 絵堂の図︵図

7

)

は、近世絵堂の姿を示す画像として、先行研究に ( 3 5 ) ︵ 3 6 ) おいて度々参照されてきた。また、展覧会での陳列の他、近年では渡 辺信和氏による詳細な 論考が発表されてい ( 3 7 ) る 。 「蔵版絵堂御画伝略解』 上巻扉に﹁摂州四天 王寺絵堂 / 聖徳太子 / 御 画 伝 略 解 / 静 専 院 蔵﹂とあり、同巻末に は﹁皆安永二年/癸巳 夏六月﹂の刊行年次を 図6 記す。また下巻巻末に は、﹁天明四年甲辰七 月/製本発行所/大坂 心齋橋書林 / 敦賀屋九 兵衛﹂とあり、これも 刊 行 年 次 と み ら れ る 。 つまり上巻は、 . ・--・ ヽ,... ,.''"'" ,.,・.c-, 心— 図7 『蔵版絵堂御画伝略解』絵堂図 現在も四天王寺境内 に所在する同寺支院 の静専院が所蔵して いた版木をもとに、 安 永 二 年 ( -七 七 一 ︱ -︶ に刊行され、天明四 年(-七八四︶に中・下巻を伴って三冊本として刊行されたと考え られる。この年次の差について、渡辺氏は﹁果たして絵だけの上巻 のみの刊行はあり得ただろうか﹂と疑問を呈しておられるが、少な くとも上巻が安永二年に制作されていたことは認めてよいであろ う。なお、安政二年(-八五五︶には、この﹃略解﹂の表紙と内題 を替え、版木はそのままに、上巻の絵を中・下巻の本文の間に挿入 した形の改題改綴本﹁聖徳太子御一生記絵抄﹂が刊行されている。 さて、安永二年において、﹁四天王寺絵堂聖徳太子御画伝﹂を冠 する﹁略解﹄が出版されていたことは、その当時において﹃略解﹄ に描かれる絵伝︵以下、略解本と略︶の原本が絵堂に存在していた と考えられる。しかし渡辺氏も指摘しているように、同書掲載の絵 ( 3 9 ) 伝の図様は、当寺所蔵の遠江法橋筆六幅本太子絵伝︵以下、遠江法 橋本と略︶︵図 8 ) に依拠したものであり、明らかに山楽本とは異 ( 4 0 ) なるものである。また山楽本は、絵伝の下部に横木跡があり、さら にその下に海や海獣図を描いているが︵図

1

)

、﹃略解﹄の絵堂図を

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見る限り、横木の下に絵が描かれている様子はなく、長押の上に襖 のような形式の、幅の狭い絵が六面あるように見える。山楽本は、 ( 4 1 ) 南北に板絵五面を並べていたことがわかっているが︵図 9 ) 、 六 面 の 絵があったのではこれには適合しないことになり、少なくともこの 図を見る限り、絵堂に山楽本が安置されているようには見えない。 この絵堂の図は、先述の通り、先行研究においてしばしば参照され てきたものの、それが山楽本の形態と合致していない点については、 これまで検証された形跡はない。このように、略解本と山楽本が一 致していないことは、山楽本とは異なるもう一種の絵堂絵伝の存在 を想像させる。そもそも、本書は四天王寺絵堂にある﹁聖徳太子御 画伝﹂の﹁略解﹂であって、その冒頭に絵堂の図を掲載しているこ とは、これから解説する絵堂絵伝の安置状況を提示していると考え るのが自然ではないだろうか。やはり略解本は、山楽本とは別の絵 伝を示しているではないかと考えられるのである。 ところで、江戸時代における絵堂絵伝については、元和九年に制 作された山楽本が、享和の火災の際に助け出され、大きく損傷して ( 4 2 ) はいるものの、これが現在に伝わったと考えられている。確かに山 楽本が現存していることはまぎれもない事実であり、これが享和に 助け出されたとみるのが自然な見方であろう。しかし筆者は、﹃略解﹄ の存在を知るに及び、もう︱つの絵伝存在の可能性が出てきたこと で、この山楽本の享和火災時の救出について、再検討する必要を感 じるようになった。よってここで、享和元年の火災時の状況につい て改めて検証してみたい。 ( 4 3 ﹀ ( 4 4 ) 山楽本はカヤ材とみられる七枚の端板によって構成され、これら が堂内に薄いコの字型に配置されていた︵図

9

)

。 ま た そ の 大 き さ は 、 各面横が約六尺(画面 I•VII は六尺四寸)、縦が約六尺五寸(表 I) で、 厚さは一寸四分を測る。﹃蓋の若葉﹄に﹁絵堂のふすまはやぶりと りたれど、あやめもわかず﹂とあり、これが山楽本救出の根拠となっ ているわけであるが、この壁のごとき板絵を引き剥がすことに対し て、﹁ふすまをやぶりとる﹂という表現は果たして適当であろうか。 また、享和の火災では、 天王寺の塔の上に落ぬと見えて、第五重の屋に火つきてもえぬ るに、雨さへふりやまねば、木覆をはきながら西門にはしり入 てみるに、人はやう/\五六人あつまりて、あれ/\といえど 力 な し 。 ︵ 中 略 ︶ 風 は げ し く て 、 廻 廊 よ り 諸 堂 に い た る ま で 火 か 、 ^ れるに、太子堂の門なる猫の形のほりものをたすけんとて人々 に声かけ、かろうじて取出せるとぞ。︵﹁葦の若葉﹂︶ とあるように、激しい風雨のなかでの必死の避難活動が行われてい た状態であり、左甚五郎作と伝わる猫の門の彫物をかろうじて救出 したというような状況であった。このような中、果たして巨大な板 絵を七枚も運び出すことが可能であっただろうか。仮に現在伝わっ ている形のように、複数に分断されていたとしても、その数は現状 で十七枚に及び、しかもその一枚一枚は、大人二人でやっと運べる ような重量のものである。

(11)

第1面 第2面

図10橘保春筆「聖徳太子絵伝」

第1幅 第2幅

(12)

第3面 第4面

(13)

第5面 第6面

(14)

「元和再興四天王寺図」(絵堂部分)及び絵伝配置図(※註 (1)南谷氏論文をもとに作成) 図9 さらに、安政二年(-八五五︶ 頃成立の﹃摂津名所図会大成﹂ 四天王寺の絵堂条には次のよう に 記 さ れ る 。 宰相為長卿の詩ハ法然上人 伝記に出たり今ハ此詩班も 兵革の災に亡びて太子御 生涯の画伝狩野山楽が書し のみ残れり卜先に見へたれ ども尚享和の火災にいかゞ なりしや覚束なし この﹁先に﹂とは、寛政十年 ︵一七九八︶頃刊行の﹁摂津名 所 図 会 ﹄ のことで、かつて同書 に記載されていた山楽の絵伝 が、享和の火災でどうなったの かはっきりしないと記している ことから、これを機に行方不明 になっていたようであり、﹁葦 の 若 葉 ﹄ の絵伝救出の記事と麒 甑をきたしている。これらを考 慮すると、この享和の火災の際に助けられたのは、本当に山楽本で あったのかという疑念を禁じ得ない。 このような疑問を踏まえ、略解本の位置付けとともに、 案を提示したい。元和九年に制作された山楽本は、﹃略解﹂が刊行 された安永二年頃には、すでに一五

0

年を経ており、経年による剥 ︱ つ の 試 落などの劣化が多少なりとも進んでいたことは十分に想像される。 絵堂絵伝は絵解きをするために活用されるものであり、剥落により 所々絵が欠けているような絵伝では、その役目を果たすことに支障 を き た し て い た は ず で あ る 。 ﹃ 略 解 ﹂ 刊 行 に 先 立 つ 明 和 六 年 ︵ 一 七 六 九 ︶ に は 、 聖 霊 院 に て 太 子 ︱ ︱ 五

0

年の御忌法要が厳修され、 ( 1 5 ) これに合わせて開帳も行われており、こういった節目を機に、絵堂 絵伝の更新が検討されたのだろう。後述の通り、十七世紀末—十八 世紀にかけての四天王寺においては、山楽本はあまり積極的に評価 されていなかったとみえ、この頃には、山楽本は劣化などを理由に 取り外されて、別途保管されていたのではないかと推察されるので ある。そして、その代わりとなる絵伝が新たに絵堂に納められた。 この絵伝こそ、略解本の原本となる﹁絵堂御画伝﹂であったと考え たい。さらにその形状は、﹃略解﹄絵堂の図にあるように、縦長の 襖状のパネルを少なくとも六面、南北に並べたものであったと考え られる。このように襖状の絵伝であれば、たとえ数が多くなったと しても避難は比較的容易であったであろう。しかし、雷雨の中、真っ 先に火の手のあがった五重塔のすぐ傍にあった絵堂での避難活動で あったので、結果として﹁あやめもわかず﹂の状態になったのであ

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る。そのためこの絵伝は、文化再建の際に再度絵堂に納まることは なく、新たに太子絵伝が制作されたのであろう。方や、寛政十年時 にはその存在が確認されている山楽本は、この火災の混乱に紛れ、 その行方がわからなくなってしまったのである。 当寺は、この﹁絵堂御画伝﹂成立前後の安永三年(-七七四︶及 び天明五年(-七八五︶に、幕府より伽藍修復に伴う勧化の許可を 受けている。これを踏まえれば、﹁略解﹄は、太子︱︱五

0

年御忌 にあわせて明和六年頃に新造された絵堂絵伝を紹介し、諸国勧化に 活用するために刊行されたものと推測されるのである。 ②橘保春筆﹁聖徳太子絵伝﹂ 本図は、襖絵形式の六面からなる聖徳太子絵伝で、表面に彩絵の 太子絵伝︵図

1 0

)

、裏面には、六面が一連の絵として繋がる墨画の ( 4 6 ) 十六羅漢図︵図

1 1 )

が描かれる。第六面表面の右下隅に、﹁子時文化 癸酉載五月吉辰 / 橘保春行年六十四年筆﹂とあり、本図が文化十年 ( 4 7 ) ︵一八一三︶五月に、橘保春によって描かれたことがわかる。 橘保春(-七五 0 │ ︱八一六︶は、橘保国の養嗣子となり、保国 ︵ 侶 ︶ に画を学んだというが、詳しい事蹟は明らかではない。版本の作例 としては、享和三年(-八

0

三︶刊行の﹃高野図会﹄の挿図を手掛 けた他、本絵伝と同じ文化十年の﹁高野山細見絵図﹂が知られてい る。また肉籠作品としては、奈良•玉置神社障壁画や和歌山・増福 ( 4 9 ) 院﹁松竹梅図﹂の他、大阪市立美術館所蔵の﹁龍虎図屏風﹂が確認 される。本絵伝及び十六羅漢図は、これらとともに保春晩年の肉籠 画の基準作として貴重である。 なお保春は、刊年不明ながら﹁摂 ( 5 0 ) 津国四天王寺之図﹂を描いてお り、四天王寺との浅からぬ関係 を 想 像 さ せ る 。 さて、本絵伝が遠江法橋本と 模 写 に 近 い 関 係 で あ る こ と は 、 見して明らかである。作行にお いては、人物表現に拙さがみら れ、中世絵画の優品に数えられ る遠江法橋本に比ぶべくもない が、描かれる事蹟やその図様は、 細部に相違点がみられるものの、 ほぼ忠実に同本を踏襲している。 彩色もよく残ることから、遠江 法橋本の鮮やかな往時の姿を想 像 さ せ る 。 墨書銘にある文化十年は、享 和火災後に絵堂が再建された年 であり、本絵伝はこれと制作年 を同じくすることから、かねて より文化再建期の絵堂絵伝であ ろうことは言及されている。し 橘保春筆「十六羅漢図」 図11

(16)

かしながら、これを裏付ける文献史料は見出されず、文化再建絵堂 の存在自体が否定されていたこともあり、絵堂絵伝としての位置付 けについて、十分な検討が加えられることはなかった。よってここ では、保春本が絵堂に納められていた絵伝であったことを考証して い き た い 。 文化再建絵堂に納められていた絵伝に関する文献史料は、管見の 限り見出せないため、保春本を仔細に観察することで、絵堂絵伝と しての要素を抽出していく。 まずは、保春本が襖絵形式にもかかわらず引手が設けられていな い点が挙げられる。これは、当初から建具としての襖としてではな く、観賞専用として制作されたものと理解される。 第二には、先に触れたように、本絵伝の図様が、四天王寺伝来の 遠江法橋本に依拠している点である。詳細は後述するが、遠江法橋 本の図様とほぼ同一の作例は略解本と保春本のみで、管見の限り他 には確認できない。よって、保春本が当時四天王寺にあった絵伝を 参考にして制作されたものと推定される。 第三に注目すべきは、本絵伝各面の上桓の天端両隅に、第一面か らそれぞれ﹁南合壱﹂﹁南

6

-︱﹂⋮﹁南合六﹂の墨書が記されてい ( 5 2 ) る点である︵図

1 2 )

。裏面の羅漢図の繋がりから、絵伝は向かって左 から右に第一面•第二面…と配置されることがわかるので、墨書の 方位と数字の通りに並べると、絵伝が東を向いて、南北に並べられ ていたことがわかる。これは東向きに建てられた絵堂における絵伝 の配置と一致するものであり、本図が方角を指定して配置される絵 上桓天端墨書 保春本 図12 つまり絵堂において鑑賞されていたものと推定さ れる。またこの他に、絵伝各画面の上部左右隅のいずれかに一から六 の墨書が小さく記されており、これも絵伝の順番を示すものである。 伝 で あ っ た こ と 、 ところで、本図が絵堂絵伝であったとすれば、常設されているべ き絵伝に、わざわざこのような番号を執拗に記す必要があるのかと いう疑問が生じる。これを理解するうえで、本図に附属する文化十 年銘のある当初の木箱の存在が注目される︵図

1 3 )

。本図は襖絵の 形式をとった障壁画にも関わらず、わざわざ六面が収まる大型の箱 を作成していることから、明らかにこの絵伝を﹁収納する﹂という 意図がうかがえるのである。つまり、通し番号の墨書と箱の存在か

(17)

ら、本絵伝は、普段は箱 の中に収納し、拝観の要 請があったときにのみ、 箱(赤外線写真) 箱から出して、絵堂内の 特定の場所に墨書を目印 にして並べていたと考え 保春本 られるのである。そして 拝観が終われば、再び箱 図13 の中に収納していたので あろう。本図の画面の保 存状態が極めて良好であ るのに比して、周囲の縁 ことを示唆しているように思われる。さらに言えば、仮に絵堂が再 の痛みが目立つのもこの 建されずに、ずっと箱に収められたままの状態であったならば、本 紙部分にまで小さく番号を記入する必要はなかったはずである。 つ まりこの二種の墨書の存在は、保春本が実際に絵堂に並べられる機 会があったことを物語っている。前述の通り文政二年には絵堂が公 開されているので、当然保春本が陳列されていたことは疑いないが、 その前後においても幾度となく公開の機会があったことがうかがい 知 ら れ よ う 。 第四に、本絵伝の裏面に一見すると太子絵伝とは無関係な十六羅 漢図が描かれているという点である。すでに知られているように、 当寺別当であった慈円が貞応三年(︱ニニ四︶に絵堂を再建した際、 絵師尊智が太子絵伝に加えて、その裏面︵西面︶に九品往生人の図 を描いている。さらに元和再建時の狩野山楽本にも、その裏面には 二十八部衆が描かれていることから、絵伝の裏面に別主題の絵を描 くことが、四天王寺絵堂絵伝において伝統的に行われていたことが わかる。これを踏まえれば、保春本の裏面に別主題の十六羅漢図が 描かれることは、その伝統を踏襲したものと考えられ、この羅漢図 の存在が、本絵伝が絵堂絵伝であることの重要な要素となる。 以上により、保春本は、四天王寺の絵堂絵伝として制作された蓋 然性が高く、さらに絵堂と同じ文化十年の銘記があることから、文 化の絵堂再建に際して、この絵堂に納められるべく制作された絵伝 であると判断される。また、この絵伝を箱に収納するということが 前提となっていた背景には、当時の絵堂における絵伝公開の機会が、

8

常的なものでなく、限られたものであったことを示している。この ことは、当時の絵堂公開の実態をうかがい知る上で非常に興味深い。 なお、襖絵形式が採用された背景には、慈円再建絵堂以来の伝統 に則り、据え置き型のもので、かつ両面に絵を描く必要があったこ と、当時の絵堂の公開頻度を鑑み、その都度出し入れするとの方針 になったことを踏まえ、軽くて取り外しが容易な襖絵の形式が採用 されたと考えられる。あるいは、享和火災の教訓を受け、緊急時の 避難のことも考慮していたのかもしれない。災害時には木箱︱つを 二人で担いで持ち出せばよく、結果として、文久三年の火災の際に は絵伝は無事救い出されている。

(18)

②遠江法橋本との図様の比較 ここまで、略解本と保春本について、その絵堂絵伝としての位置 付けを考察した。次にこれらの図様についてみていこう。繰り返し になるが、この二種の絵伝は、ともに当寺に伝わる遠江法橋本の図 様に基づいていることは明らかである。しかし、いずれも完全な模 写ではなく、細部に相違が認められる。ここでは、これら三作品を 比較し、その相違点を中心に確認していきたい。 ①事蹟配置の改変︵保春本︶ 遠江法橋本と保春本の事蹟配置︵図

1 4

)

を比べると、保春本は、 基本的には選択される事蹟とその配置ともに遠江法橋本に則ってい る も の の 、 一部改変を加えている。第二•六幅に関しては、完全に 一致しているので、ここではそれ以外の四幅について確認する︵各 事蹟の数字は、図

1 4

及び表 I I の 番 号 に 対 応 ︶ 。 ︹ 第 一 幅 ︵ 面 ︶ ︺ 遠江法橋本の上部には、 4 0 ﹁衡山持経の探求を妹子に命ず﹂と 4 3 ﹁青龍車に駕し衡山に行く﹂の二場面が描かれるが、保春本では、 ほぼ年代通りに並ぶ第四面上部に移動されている。その代りとして、 遠江法橋本では第三幅に描かれる 1 7 ﹁物部守屋の合戦﹂が第一面下 部に挿入される。また、 1 0 ﹁焚惑星あらわる﹂が 1 7 の右上方に移動 している。この他、

6

﹁群臣に先んじて皇后を拝す﹂と

7

﹁ 経 論 を 披見、殺生禁断の日を設く﹂の事蹟の間に、細﹁文筆書法を習う﹂ が新たに挿入されている。 第6面 第5面 第4面 第3面 第2面 第1面 第6幅 第2幅 第3幅 第4幅 第5幅 図14事蹟配置図(上段:保春本/下段:遠江法橋本) 第1幅

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︹ 第 三 幅 ︵ 面 ︶ ︺ 第 三 面 で は 、 1 7 ﹁守屋の合戦﹂が第一面へ移動したため、上方に あった

2 6

﹁霊木漂着﹂を最下部へ移すとともに、 2 0 ﹁ 牛 飼 に 穀 倉 の 鍵を与う﹂を一段ずらして拡大し、さらに新たに 7 1 ﹁ 天 王 寺 建 立 の ー ため良材を伐す﹂の事蹟を挿入する。 ︹ 第 四 幅 ︵ 面 ︶ ︺ 第四面では、遠江法橋本第一幅に描かれていた 4 0 . 4 3 が最上部に 挿入される代わりに、 3 7 ﹁山城楓野に行啓﹂の場面を第五面に移動 している。また 5 0 ﹁馬子病、一千人出家﹂に代わり、新たに叫﹁地 震を予言す﹂を挿入する。 ︹ 第 五 幅 ︵ 面 ︶ ︺ 遠江法橋本では、 4 6 ー

4 9

の事蹟が交差するように配置されている のに対して、保春本では、第四幅にあった 5 0 の事蹟が挿入され、右 側 に 4 6 . 4 7 、左側に 4 8 ー 5 0 が順に並ぶように整理されている。 以上により、遠江法橋本で明らかに事蹟の順番が入り乱れている 部分において、保春本ではそれを極力事蹟順に並ぶよう、整理して 配置しようとする意図がうかがえる。 ②図様の相違︵略解本・保春本︶ 各本の図様を比較すると、略解本に若干の相違がみられるが、そ の多くが人物の向きや位置、群像における人数の削減などであり、 これは版本として編集する際の便宜上の改変と解されるもので、本 質的な図様の相違ではない。 一方で、明らかに意図的に改変してい る図様もあり、そのような改変は保春本にも継承されている点が注 目 さ れ る 。 例 え ば 、 1 3 ﹁日羅の帰国﹂の場面は、遠江法橋本で日羅が僧形で 描かれるのに対し、略解本・保春本では俗形となっている︵図 1 5 ) 。 日羅を俗形とするのは﹁聖徳太子伝暦﹄︵以下、﹃伝暦﹄と略︶に則っ ( 5 3 ) たものであり、その記述に沿う形で修正していることがわかる。 ま た 、 2 4 ﹁ 四 天 王 寺 建 立 ﹂ ︵ 図 1 6 ) においては、遠江法橋本が鳥 居及び中門と五重塔などわずかな堂宇を描くのに対し、略解本は南 大門・中門•五重塔•金堂・講堂•六時堂・食堂の近世四天王寺に おける七堂伽藍を描き、さらに鳥居に加え、西大門と西重門まで忠 実に描いている。また保春本においては、鳥居と﹁浄土参り﹂のモ チーフを再び描くとともに、南大門・中門•五重塔•金堂・講堂の 伽藍と、短整堂とみられる堂宇を描いており、やはり遠江法橋本に 比して伽藍を忠実に表す意図がうかがえる。 ところで、一遍聖絵以降、﹁浄土参り﹂のモチーフにおける鳥居は、 必ず朱塗りで描かれていることは注目される。現存する四天王寺の 鳥居は、もと木造であったものを、永仁二年(︱二九四︶に忍性が 石造に替えて建立したものである。一遍聖絵が制作された正安元年 (︱二九九︶にはすでに石造に改変された後であるが、聖絵では朱 塗りの鳥居が描かれ、その後の太子絵伝でもやはり朱塗りの鳥居が 描 か れ て い る 。 一方で、伽藍図として鳥居を描く場合は、必ず石造 ︵白色︶で描かれる︵図 1 7 ) 。保春本においても、伽藍は当時のもの を忠実に描いているものの、鳥居だけは朱塗りとしている。中世太

(20)

子絵伝において、西門と鳥居及び﹁浄土参り﹂のモチーフが、最も ( 5 4 ) 基幹的な四天王寺図像と見なされるとの指摘があるが、この朱塗り の鳥居と﹁浄土参り﹂が、定型の図像として、近世においても継承 されていることを示していよう。また、略解本においては省略され ていたこのモチーフを、保春本で再び描いていることは、﹁四天王寺 的﹂な要素を漏らさず取り入れるという姿勢の表れとみて取れよう。 話を元に戻すと、遠江法橋本の 4 2 ﹁夢殿入定﹂では、殿内で一人 a遠江法櫃本 静かに経を披見する場面を描いているが、保春本では、﹁伝暦﹄の 記述に沿って、取り寄せた経の落字を恵慈に示す場面に改めている ︵ 図

1 8 )

さらに 3 7 ﹁山城楓野に行啓﹂は、遠江法橋本が二幅に跨っている のに対して、略解本・保春本ともに、行列が折れ、太子の輩が奥の 丘陵に隠れる形で一場面に集約している︵図

1 9 )

。 こ れ に よ り 、 3 1 ﹁ 妃 を迎う﹂が省略されている。 b. 略解本 「日羅の帰国」 図15 C.保春本

(21)

C.保春本 a遠江法橋本

b. 略解本

図16 「四天王寺建立」

(22)

C.保春本 a遠江法橋本 b.略解本 C.保春本 a遠江法橋本 図18 「夢殿入定」 図19 「山城楓野に行啓」

(23)

③新たな事跡の挿入︵略解本・保春本︶ 略解本では、遠江法橋本にはない﹁駒による崇峻天皇暗殺﹂の場 面 、 ま た 保 春 本 で は 、 細 ﹁ 文 筆 書 法 を 習 う ﹂ 、

1 7 1

﹁ 神 妙 椋 木 の こ と ﹂ 、 l T h ﹁天王寺建立のため良材を伐す﹂、血﹁地震を予言す﹂の四事蹟 を新たに挿入している。このうち細﹁文筆書法を習う﹂については、 遠江法橋本では

6

﹁群臣に先んじて皇后を拝す﹂の場面にも関わら ず、短冊は﹁五歳習文筆﹂となっており、明らかな誤りであること から、これを正す意味で新たな場面を挿入したと解される。 また保春本の 1 7 ﹁守屋の合戦﹂では、敗走した太子が椋の木の割 け目に身を隠して追手から逃れたという

m

﹁神妙椋木のこと﹂の逸 話が挿入され、太子が椋の木に包まれる場面が新たに追加されてい る ︵ 図

2 0 )

。これは﹃伝暦﹂に記載はなく、﹁善光寺縁起﹂などに記 ( 5 5 ) さ れ る 挿 話 で あ る 。 血﹁天王寺建立のため良材を伐す﹂の事蹟︵図

2 1 )

は、頂法寺六 角堂建立に連なる一連の物語であるが、﹁伝暦﹂には記載されず、﹁頂 法寺縁起﹂にのみ見られるものである。多くの場合、六角堂建立中 の場面を描くが、保春本では、斧を手にした太子のもと大杉の伐採 をしている場面のみを描いている。札銘も﹁六角堂建立﹂ではなく ﹁為建天王寺採良材﹂とあり、六角堂建立という結果よりも、その プロセスにおいて四天王寺に深くまつわる逸話であることを強調 し、採用したものと考えられる。 J z a ﹁ 地 震 を 予 言 す ﹂ ︵ 図

2 2 )

は、﹁伝暦﹂に基づくもので、大地震 が発生し、慌てて屋舎から避難する人々が描かれる。他の絵伝でこ の場面を描くのは堂 本家本や談山神社本 など数例で、これら には地震が雷神の所 業として描かれる が、保春本では雷神 は描かれていない。 ﹁伝暦﹂には雷神の 記述はないので、こ れに従ったのであろ

以上により、略解 本・保春本の制作に おいては、遠江法橋 本をベースとしつ つ 、 不合理な事蹟配 置を年代順に整 理 す る 。 •「伝暦」に則っ た事蹟や図様を 反 映 さ せ る 。 保春本「神妙椋木のこと」 図20 保響本「天王寺建立のため良材を伐す」 図21

(24)

太子にまつわる 様々な逸話など から、四天王寺 に深く関わる部 分を抽出して反 映させる 。 という三点の方針の もと改変を加えてい ることがわかる 。 と こ ろ で 、 ﹃ 略 解 ﹄ 中 ・ 下巻の詞書について

6 ま ● ︱ -d 9 _ 、 , ' ー 、 ﹃ 伝 暦 ﹄ に 拠っているものの、 粉 保春本「地震を予言す」 図22 本文の一部や註記部分には﹃伝暦﹄以外の﹁太子伝﹂に拠ったもの があり、四天王寺を言挙げする言辞があることが、渡辺氏によって 話 ︶ 指摘されており、この絵伝制作の方針に概ね合致することは注目さ つまり、略解本においても、﹃略解﹄本文の編集と同じプロ セスを以って絵伝構成が検討され、さらにそれに続く保春本におい ては、これをより発展させ、四天王寺に特化した絵伝を制作したの れ る 。 で あ る 。 ③遠江法橋本と﹁本様﹂ 以上、略解本・保春本ともに大枠では遠江法橋本の図様を継承し ながらも、部分的な改変を加えていることを確認した。では何故、 遠江法橋本を基本とした絵伝が続けて作られたのであろうか。これ を理解するには、同本が当時の四天王寺においてどのような位置付 けであったかを考える必要がある 。 ( 5 7 ) 遠江法橋本の俵背貼付文書には、 元亨三年 竺 一月中旬此曼陀羅奉書之 フ ト モ h 見 河内国交野郡獅子窟脚井田別所住呂阿闇梨定慧 絵所者南都勝南院遠江法橋手跡也 と記され、同本が元亨三年(-三二三︶に南都勝︵松︶南院座の絵 師遠江法橋によって描かれたことが知られる。松南院座は、南都を 拠点とする、尊智を師と仰ぐ絵仏師の流派で、遠江法橋もこの流れ を汲む絵師である。近年では、この遠江法橋を松南院座の絵師命尊 に比定する説が出されている。 ところで、この尊智と四天王寺の関係は、先にも触れたように、 貞応三年(︱ニニ四︶ の慈円による絵堂再建に見出される。﹁法然 上人絵伝﹂巻十五第三段の詞書に、 貞応三年 呼 始 自 去 冬 ︱ ︱ 一 春孟夏の間以 絵師法眼尊智守本様依伝文図絵既詑 今於西面更饗作九品往生之人殊勧進一 乗浄土之業表裏共不交他筆尊智図之

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以詩謁形其心詩句九品同令菅大符卿為長卿 作之和班丞相以下廣勧九人各詠一首復 当南北裏同壷四天像此堂大僧正行慶寺務 之間傾倒之後以聖霊院礼堂東廂為其 所今新建立子旧跡彰興隆之本意也 別当前大僧正法印大和尚以慈円記之 とあり、このときの絵伝は、絵師尊智が本様を守り伝文に則って描 いたものであるという。この﹁伝文﹂とは、太子伝のテキストを指 すものであろうが、﹃伝暦﹄がその跛文から﹁在四天王寺壁聖徳太 子伝﹂を参照していたことが知られることから、この尊智本は、本 様たる﹁四天王寺壁聖徳太子伝﹂の伝統を受け継ぐため、﹃伝暦﹂ に則って描いたと解釈されよう。 さて、この尊智による絵伝制作の記事は、﹃四天王寺年中法事記﹂ ︵ 貞 享 二 年 ︹ 一 六 八 五 ︺ ︶ ・ ﹁ 天 王 寺 誌 ﹄ ︵ 宝 永 四 年 ︹ 一 七

0

七 ︺ 頃 ︶ ・ ﹃ 四 天王寺名跡集﹄︵元文二年︹一七三七︺︶・﹃摂津名所図会﹂︵寛政十 年︹一七九八︺頃︶などに掲載される四天王寺絵堂の由緒書におい て、繰り返し引用されていることが注目される。一方、二度にわたっ て絵堂絵伝を描いた山楽については、﹁摂津名所図会﹂に﹁今は此︵慈 円再興絵堂の︶詩歌も兵革の災に亡びて、太子御一生涯の画伝狩野 山楽が書きしのみなり﹂とあるのみで、当時の絵堂にまだ山楽本が 存在しているにもかかわらず、その他の史料には一切記述はない。 これらの史料上での扱いを見る限り、山楽本を絵堂絵伝として積極 的に評価しようとする姿勢は感じられない。つまり、少なくとも 十七世紀末以降の四天王寺では、山楽本の存在よりも、かつての絵 堂には慈円主導による本様を守った尊智の絵伝︵以下、尊智本と略︶ が存在していたことを、最重要の由緒として語っているのである。 これは当時において、尊智本こそが四天王寺絵堂の正統な絵伝であ ると位置付けていることを物語っていよう。 このような尊智本への憧憬を背景として、山楽本の後継絵伝を作 るにあたり、その復興が望まれたのではないか。しかし尊智本は失 われており、その図様を知ることはできなかった。そこでその代替 として注目されたのが、遠江法橋による六幅の絵伝ではなかったか。 遠江法橋本がいつから四天王寺にあったかを知る明確な史料は見出 せないが、少なくとも略解本が制作された十八世紀後半には遠江法 橋本が寺に存在し、尊智本の系譜上にある、四天王寺絵堂の正統な 図様を受け継いだ太子絵伝として位置付けられていたと推察される のである。さらに略解本・保春本が、ともに遠江法橋本の完全な摸 写ではないことも、これを示唆していよう。尊智本を見ることがで きなかった当時の人々にとって、遠江法橋本はそれを知る唯一の術 であった。同本が、尊智本を再現する上での媒体として捉えられて いたからこそ、より﹁本様﹂に近づくよう、﹃伝暦﹂に則り、不合 理と思われる場面の整理や図様の改変、新たな事蹟の挿入を行った のである。つまり、この四天王寺絵堂における正統の本様絵伝への 回帰が、略解本・保春本を生み出したと言えよう。特に保春本にお いては、旧来の﹁本様﹂を踏襲しながら、さらに﹁四天王寺的﹂な

(26)

要素を加えることにより、四天王寺として独自の新しい太子絵伝を 創出したのである。これは近世太子絵伝の展開の一側面として注目 さ れ る 。

ニ、文化再建絵堂の復原試案

これまでの検討により、文化十年に絵堂が再建され、文久三年に 焼失したこと、さらにこの絵堂には橘保春による六面の太子絵伝が 納められていたことを明らかにした。本章では、以上を踏まえ、こ の文化再建絵堂が具体的にどのような堂宇であったかを検討し、そ の復原案を提示したい。

m

絵伝の法量と絵堂規模 言うまでもなく、絵堂とは絵伝のための堂宇であり、再建にあたっ ては、その絵堂にどのような絵伝を納めるかとの検討がなされたは ずである。前述のように、文化の絵堂絵伝を制作するうえで、本様 絵伝を復興するため、遠江法橋本を基本とすることが前提にあった ことから、その絵伝六幅をそのまま六面とすることが決定されたと 推察される。さらに絵伝の図様とともに、その大きさも重要な問題 となる。絵伝の法量によって、絵堂の規模も変わってくるからであ る。本節では、山楽本と保春本との法量の比較から、絵伝の法量と 絵堂の規模との関係について考察する。 山楽本七面のうち、南北に配置される画面 I I ー

V I

の 五 面 の 法 量 は 、 欠損により現状は一定でないものの、表 I から縦六尺五寸•横六尺 の値が導き出される。また各面には、上部から一寸背の鴨居の下端 に一本溝を掘り、その下に五尺三寸の絵伝、さらに五寸背の横木跡 と、その下五寸の部分には海と海獣を描き、最下部に一寸背の含み 代を設けている︵図

2 3 )

。よって本紙部分となる絵伝の法量は、縦 五尺三寸•横六尺のやや横長の画面となる。 一方保春本の法量は、各面本紙部分で縦一六

O ・

七センチメートル I I 五尺三寸、横九

0

・ 九 セ ン チ メ ー ト ル 1 1 三尺を測ることから、二面 合わせると、山楽本絵伝部分一面のサイズと一致することになる︵図

2 4

)

。これは決し て偶然ではなく、 絵堂を再建するに 当り、元和再建絵 堂絵伝の画面の法 量をそのまま踏襲 した結果であるこ とは明らかであろ う。よって、山楽 本が縦五尺三寸 横六尺のパネル五 面を南北一直線に 並 べ る の に 対 し て、保春本は二面 尺5寸 1寸 絵 伝 5尺 3寸 6fi 6尺 横 木 跡 5寸 海•海獣図 5寸 1寸 山楽本法量図 図 23

(27)

一組とすること で、同大のパネル 三面分が並ぶこと に な る 。 さ ら に 、 山楽本が床から 尺上がったところ から絵伝が描かれ ることを考慮すれ ば、保春本も同じ く、床から一尺上 がったところに絵 を設置したと推定 さ れ る 。 これにより、単 尺3寸 絵 伝 絵 伝 5f 3尺 3尺 :< -" 保春本法量図 図24 純に南北の絵伝だ けの幅で考えれば、山楽本が六尺

x

五 面 1 1 -︱ ︱ 十 尺 、 保 春 本 が 六 尺 X 三 面 I I 十八尺となり、十二尺縮小されたことになる。前出の﹁間数 書﹄による絵堂の桁行をみると、京間一間 1 1 六尺三寸として、元和 再建絵堂が京間七間五尺 1 1 四十九尺一寸、文化再建絵堂が京間五間 七寸 I I ︱二十二尺二寸であり、その差は十六尺九寸であるので、柱や 縁の幅などを考慮すれば、この絵伝の縮小に合わせて、絵堂規模を 縮小していることがうかがえるのである。 山楽本の各画面法量(※註 (1)南谷氏論文「表 1」をもとに作成) (単位:cm) 整理後画面 縦長 横長 (残存最大値) 横長(残存値) 不足値(凡その長さ) 画面I 196.6 166.1 28 画面Il 194.1 113.3 70 画面皿 195.4 121.8 60 画面

w

193.0 179.2 3 画面

v

193.l 181.6 若干 画面VI 197.5 142.3 40 画面VII 193.6 194.0 若干 縦長 197.5(画面VI) :::;: 6尺5寸 横長 181.6(画面V) ::;: 6尺 /194.0(画面VII)

=

6尺4寸 表I ②文化再建絵堂の復原プラン では保春本を納めていた絵堂のプランはどのようなものであった のだろうか。文化再建絵堂の様子を示す史料として、﹃間数書﹂の ( 5 9 ) 他に、文化九年発行の﹁四天王寺再建絵図﹂に絵堂が描かれているが、

(28)

木版印刷のため細部が判然とせず、これを根拠にするにはやや心も とない。よって﹃間数書﹂にある﹁享和元酉年焼失二付、桁行京間 五間七寸/梁行京間弐間、白木腎木造、屋根瓦葺、文化+酉年十月 成就仕候﹂の記述をもとに、そのプランを推定する。 ここでまず、文化再建の方針について確認しておきたい。﹁四天 ( 6 0 ) 王寺諸堂再建入用大概帳﹄に興味深い記述がある。同史料は、享和 の火災後間もない頃に伽藍の再建費用を積算したもので、同史料の 絵 堂 条 に は 、 御絵堂 一桁行京間七間五尺梁行同弐間壱尺四寸三 ッ斗白木作屋根桧皮葺御座候処屋根瓦葺 有姿之通取建 とあり、︵元和再建絵堂が︶桁行京間七間五尺、梁行同弐間壱尺四寸、 三ッ斗白木作、桧皮葺屋根の建物であったが、︵文化の再建では︶ 屋根を瓦葺に変える他は、規模も含めて以前の姿通りに建てる計画 である旨が記される。つまり、結果的には絵伝縮小に伴って、南北 の桁行は縮小されたものの、それ以外の仕様はそのまま踏襲された 可能性が高いとみられるのである。この方針を踏まえて、文化再建 絵堂の復原を試みたい。 まず﹃間数書﹄にある﹁桁行京間五間七寸/梁行京間弐間﹂は実 寸による表記であることから、南北五間七寸 II 三十二尺二寸•東西 二 間 1 1 十二尺六寸の堂宇であることがわかる。元和再建絵堂のプラ ン ︵ 図

9

)

に準じれば、梁行は柱間二間であるので、梁行は柱間各 六尺三寸が二間あったと導き出される。 一方、桁行については、仮 に柱間五間とすると、柱間の長さが各六尺四寸五分となるが、社寺 建築においては中央の柱間をやや広めにとるのが通例であるから、 桁行左右二間を梁行の六尺三寸と揃えることで、中央の柱間七尺、 左右の二間が柱間各六尺三寸となり、自然な比率のプランが導き出 される。よって、文化再建絵堂は桁行柱間五間・梁行柱間二間の堂 宇であったと推定される。 次に、この絵堂における絵伝の配置について考える。山楽本は、 先行研究により七面のパネルを薄いコの字型に配置していたことが ( 6 1 ) わかっているのに対して、保春本は、先述の通り、上柩の墨書から 南北一直線に並べられていたことが判明している。 四天王寺図の絵堂平面図︵図

9

)

をみると、梁行中央の柱と山楽 本絵伝南北端の柱では柱筋が通っていないことに気づく。つまり、 絵伝及び裏面の二十八部衆の絵を観賞する空間を確保するため、絵 伝は絵堂の中央よりも前寄り︵あるいは後寄り︶ へずれたところに 設置されていたのである。これに従えば、保春本は、南北壁中央の 柱筋よりやや後方︵西側︶ へずらしたところに絵伝を配置したと考 え ら れ よ う 。 さて、ここからはやや蛇足になるが、文化再建絵堂のその他の意 匠についても考えてみたい。文化再建に際しては、元和再建絵堂を 踏襲していたことがうかがえるため、ここで元和再建絵堂の意匠を

(29)

確認しておこう。 ﹃改渡帳﹄によると、﹁絵堂/京間七間五尺/梁行京間弐間壱尺四 寸/三斗作屋ね檜皮葺白木石段井外かわほり物金彩色﹂とあり、さ らに四天王寺絵図は、これを具体的に描いている︵図

5

)

。これら によると、絵堂は入母屋造で屋根を檜皮葺とし、軸部を素木造とす る。ところで、﹃改渡帳﹄及び四天王寺絵図によると、聖霊院宝殿 などの建物は、鐘楼・熊野一二社︵守屋祠︶を除いて全て素木造であっ たことがわかる。承久元年(︱ニ︱九︶建立の法隆寺舎利殿絵殿も、 東院伽藍の全ての建物が彩色を施しているのに対し、唯一素木造の ( 6 2 ) 建物であることから、絵堂•絵殿建築は素木造とする伝統があった ことがうかがわれ、興味深い。 さらに﹃改渡帳﹄には、先の記載に続く諸道具として﹁一算唐戸 鉄物漆塗り/一板から戸一=ロ からの様子を描く四天王寺絵図を見ると、南壁東側及び西壁中央に 五 口 右同断﹂とある。絵堂の西側 板唐一戸が設けられていることがわかる。また﹃略解﹂絵堂の図から もうかがえるように︵図

7

)

、正面︵東面︶には金物及び漆塗りの 施された桟唐戸五口が設けられており、さらに四天王寺絵図より、 これらの唐戸がない壁面にはすべてに連子窓が設けられていること が 確 認 で き る 。 以上を踏まえ、これらの仕様が文化再建絵堂にも採用されていた とすれば、入母屋造の瓦葺屋根、軸部は素木造の建物であり、正面 ︵東面︶に五口の桟唐戸、南北壁東側及び西壁中央には板唐戸、残 りの壁面には連子窓を設けた建物と復原されるのである︵図

2 5 )

32尺2寸 6尺3寸 6尺3寸

6尺3寸 7尺 6尺3寸 .... , ...一••●● "" --・... 連子窓 """ ... "'"'・---—• 連子窓 板唐戸 連子窓 6尺3寸

I

連子窓

十六羅漢図

聖徳太子絵伝 6尺3寸 板唐戸

/桟唐戸/―~

~

図25 文化再建絵堂復原平面図

板唐戸

(30)

おわりに

以上、元和再建以降の四天王寺絵堂絵伝と、文化再建絵堂につい て検討を行った。略解本をめぐって、山楽本の後継の絵堂絵伝とし て略解本原本が存在した可能性を指摘し、それが享和の火災で損傷 した後、保春本が制作されたことを示した。また、保春本が文化再 建絵堂に安置された絵伝であることを示したうえで、その絵堂の復 原案を提示した。本稿では、筆者の力不足により、特に保春本の様 式的位置付けや、四天王寺と橘派との関係などについて検討するに は至らなかったため、この点は今後の課題としたい。 さて最後に、江戸後期以降の四天王寺における絵堂の位置付けに ついて言及しておきたい。保春本が収納を前提として、その都度出 し入れをしていたとみられることから、絵堂における絵伝拝観は日 常的なものではなく、その頻度は限られたものであったことは先に 指摘した通りである。この事は、この時期の当寺における絵堂の重 要度に関係しているように思われる。つまり、絵堂において、絵解 きを通した布教活動がこの頃にはすでにあまり行われなくなってお り、絵堂の果たす役割が徐々に薄れつつあったことがうかがわれる の で あ る 。 実際に、山楽本が、パネル一面におよそ十場面程度の事蹟を配置 しているのに対し、保春本は同じ面積のパネル︵襖二面分︶に約 ︱っ︱つの事蹟は極めて小さ 二十二\二十五場面を配置しており、 いものとなっている。これでは、そばに近寄らない限り各場面の同 定は難しく、広い絵堂の空間において大人数を相手に絵解きをする ( 6 3 ) のには不向きではないだろうか。このことから、文化再建絵堂では、 絵解きをもって布教に努める積極的な意図は感じられず、絵伝を ディスプレイするためだけの、形式的な堂宇として扱われていたこ とが想像される。それ故、文化の際にはかろうじて規模を縮小して 再建されたものの、文久三年の火災後においては、幸いにも絵伝が 救いだされたのにもかかわらず、絵堂には﹁再建の必要なし﹂との 判断がなされたのである。ようやく絵堂が再建されたのは、現在の 絵堂が復興された昭和五十四年(-九七九︶ の こ と で あ っ た 。 つ ま り、文化再建以降の江戸後期において、四天王寺にとっての絵堂は、 奈良時代以来の伝統に則って再建はしたものの、単に﹁絵伝を納め る堂﹂という形式的な存在であり、太子信仰布教における拠点とし ての役割はすでに終焉を迎えていたことがうかがえる。そして、文 久三年の絵堂焼失をもって、聖霊院南西隅において古代以降脈々と 受け継がれてきた四天王寺絵堂の歴史が断絶することになるのであ る 。

(31)

表JI 事蹟一覧 No 年 齢 事 蹟 事蹟の有無 遠江法橋本 略解本 保春本 1 人胎

゜ ゜ ゜

2 誕生

゜ ゜ ゜

3 2歳 合掌して南無仏と唱う

゜ ゜ ゜

4 3歳 桃花より青松を賞す

゜ ゜ ゜

5 4歳 進んで父君皇子の笞を受<

゜ ゜ ゜

6 5歳 群臣に先んじて皇后を拝す

゜ ゜ ゜

6a 5歳 文書を学ぶ X X

7 6歳 大別王が経論及び僧尼を百済より将来す

゜ ゜ ゜

8 7歳 経論を披見、殺生禁断のHを設<

゜ ゜ ゜

8歳 新羅より仏像を献ず

゜ ゜ ゜

10 9歳 焚惑星あらわる

゜ ゜ ゜

11 10歳 蝦夷を鎮撫す

゜ ゜ ゜

12 11歳 諸童子と遊戯す

゜ ゜ ゜

13 12歳 日羅の帰国

゜ ゜ ゜

14 13歳 百済より弥勒石像来る

゜ ゜ ゜

15 14歳 物部守屋、中臣勝海ら堂塔仏像を破壊す

゜ ゜ ゜

16 15歳 用明天皇の涅体を相す

゜ ゜ ゜

17 16歳 聖徳太子、物部守屋の合戦

゜ ゜ ゜

17a 16歳 神妙椋木のこと X X

17b 16歳 天王寺建立のため良材を伐す X X

18 17歳 百済より仏舎利、各種エ人来る

゜ ゜ ゜

19 18歳 東山・東海・北陸の三道に使を出す

゜ ゜ ゜

20 18歳 牛飼に穀倉の鍵を与う

X

21 19歳 戴冠

゜ ゜ ゜

22 20歳 崇峻天皇、新羅討伐軍を出す

゜ ゜ ゜

23 21歳 直駒殺天皇 X

X 崇峻天皇、殺害さる

゜ ゜ ゜

24 22歳 四天王寺建立

゜ ゜ ゜

25 23歳 三宝興隆の詔、諸臣寺を建つ

゜ ゜ ゜

26 24歳 霊木漂着

゜ ゜ ゜

27 25歳 法興寺落慶

゜ ゜ ゜

28 26歳 百済より阿佐来る

゜ ゜ ゜

29 27歳 甲斐国より黒駒を献ず

゜ ゜ ゜

30 27歳 黒駒に乗り富士山に登る

゜ ゜ ゜

31 27歳 妃を迎う

X X 32a 28歳 地震を予百す X X

32 28歳 百済、酪駐.櫨・羊•白雉を献ず

゜ ゜ ゜

33 29歳 新羅討伐

゜ ゜ ゜

34 30歳 新羅の間諜を捕う

゜ ゜ ゜

35 31歳 新羅討伐に来目皇子の軍を遣わす

゜ ゜ ゜

36 32歳 大楯.靱を造り旗に絵を描く

゜ ゜ ゜

37 33歳 山城楓野に行啓

゜ ゜ ゜

38 34歳 鞍作鳥に丈六仏像を造らしむ

゜ ゜ ゜

39 35歳 勝髪経を講ず

゜ ゜ ゜

40 36歳 衡山持経の探求を妹子に命ず

゜ ゜ ゜

41 37歳 妹子、衡山より帰る

X

42 37歳 夢殿入定

X

43 37歳 青龍車に駕し衡山に行く

゜ ゜ ゜

44 38歳 百済僧十人流着

゜ ゜ ゜

45 39歳 黒駒、太子を驚かし悽悩す

゜ ゜ ゜

46 40歳 狩猟の天皇に殺生をいましむ

゜ ゜ ゜

47 41歳 味摩之、伎楽を伝う

゜ ゜ ゜

48 42歳 片岡山の飢人に会う

゜ ゜ ゜

49 43歳 犬鹿の宿業を見る

゜ ゜ ゜

50 43歳 馬子病、一千人出家

X

51 44歳 恵慈帰国

゜ ゜ ゜

52 45歳 天皇不豫、伽藍を建て平復を祈る

゜ ゜ ゜

53 46歳 再び勝髪経を講ず

゜ ゜ ゜

54 47歳 妃に前生を語る

゜ ゜ ゜

55 48歳 人魚を献ず

゜ ゜ ゜

56 49歳 惜別の宴を催す

゜ ゜ ゜

57 49歳 天に赤気あらわる

゜ ゜ ゜

58 50歳 太子、妃、甍去

゜ ゜ ゜

59 甍去の年 葬送

゜ ゜ ゜

60 甍去の年 恵慈、太子の甍去を悲しむ

゜ ゜ ゜

61 甍後2年 新羅、任那、仏像•金塔・舎利•幡を献ず

X

62 甍後22年 入鹿、斑鳩宮に上宮王家を襲う

゜ ゜ ゜

63 甍後22年 諸王子、五重塔より昇天

゜ ゜ ゜

図 1 0 橘保春筆「聖徳太子絵伝」
図 1 6 「四天王寺建立」
表 J I 事蹟一覧 No  年 齢 事 蹟 事蹟の有無 遠江法橋本 略解本 保春本 1  人胎 ゜ ゜ ゜2 誕生 ゜ ゜ ゜3 2歳合掌して南無仏と唱う ゜ ゜ ゜4 3歳桃花より青松を賞す ゜ ゜ ゜5 4歳進んで父君皇子の笞を受< ゜ ゜ ゜6 5歳群臣に先んじて皇后を拝す ゜ ゜ ゜6a5歳文書を学ぶX X  ゜7 6歳大別王が経論及び僧尼を百済より将来す ゜ ゜ ゜8 7歳経論を披見、殺生禁断のHを設< ゜ ゜ ゜, 8歳新羅より仏像を献ず ゜ ゜ ゜109歳焚惑星あらわる ゜ ゜ ゜1110歳

参照

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