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正夫正夫

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本稿では社会福祉の各分野において︑民間による諸活動く○盲邑冨ご少三さ邑貝ぐ○盲目冨昌の閏ぐ言のがどのよ

うに発展し︑それが国家又は地方自治団体のおこなう施策望呉三○この閏ぐ言①にたいしていかなる刺戟をあたえ

たか︑さらにまた公私団体相互間の協力がどのように展開されたかの点に重点をおいて考察したい︒ただしここで

く○冨三囚曼ということばに若干の説明をあたえると︑今世紀初め頃までは︑ぐ○言ご冨昌は通常﹁無給﹂巨冒冨匙の

意味に用いられることが多かった︒しかし近年その意味は次第に変化しぐ○旨三画こぎ皇とかぐ○旨三四皇の閏ぐ﹄の① イギリスにおいては︑社会保障制度の理念とその具体的裏づけを準備する動きが︑今世紀のはじめ頃からすでに展

開していたこと︑それが一方では社会保険の整備︑ことに第一次大戦後の失業保障にみられるように失業保険の枠を

こえた︑福祉国家による失業保障の側面と︑他方では救貧法の縮小と救貧法によらざる救貧対策の拡大と︑この二つ

の側面から社会保障の理念の萠芽をみいだすことができること︑これらの点についてはすでに若干の考察をおこなっ

た︒その際︑社会福祉の各部門において︑民間社会事業団体の果した役割についても︑われわれは少しばかり触れて

︵毛且︶おいた︒

イギリスにおける

ポランタリー・サービスの発展

lとくに公的社会事業との協力を中心としてI

正夫

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− − − − ゴ ー ー ー ー − ■ 三 一

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︹?︶というような場合は︑むしろ聾画言さ皇︵法制上の︶なものに対比される意味で使われることが多い︒もちろん論

者によって若干の一一ユアンスのちがいはあるが︑ここでは国家又は地方公共団体に対比された︑民間の手による社会

サービスの意味に理解することにする︒

イギリスのばあいには︑公的施策に刺戟をあたえた民間の諸団体としては︑友愛組合︑労働組合︑消費協同組合︑

住宅組合︑貯蓄銀行があげられるが︑ここではこれらについてふれず︑C・O︒S・と︑母子福祉︑精神衛生対策︑

盲人福祉︑N・C︒S︒S・などについてふれるつもりである︒また時期的には︑主として前世紀末頃から今世紀初

めの社会サービス施策の発展の時期と︑第一次大戦とを経て第二次大戦にいたるまでの時期に焦点をあわせるつもり

である︒

まず近代的社会事業の発達の上で最も大きな役割を演じたC・O︒S・についてのくよう︒

C・O︒S・の成立するにいたった経緯はここでふれないことにする︒ただ当時はまだ社会事業関係団体の間にい

わゆる組織化の努力はみられず︑調整はほとんど行われていなかった︒C・O︒S・はその点で諸団体間の協力を促

進することをひとつの使命としてあらわれてきたのである︒当時において協力○○︲gの国庁さごといえ畷︑社会事業

関係諸団体間のそれをあらわすと同時に︑援助をあたえる者とこれを受ける者との間の協力関係の意味にも用いられ

︵3︶たほどである︒また当時ようやく社会事業では︑単なる施与ではなく治療的なものとしてその目的が考抑らがそよう

になってきた︒そのような方向を最も強くおしすすめたものはc・O︒S・であったといえる︒

C・O︒S・のこの基本的態度からして︑それが一八七○年にはじまる救貧法の厳格な行政を支持するにいたった

ことは当然といえよう︒そしてC・O︒S・はその会員たちに︑救貧委員も○負F四言⑦昌昌目の選挙に立候補す

■ ■ ■ ■ ■

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るょうにすすめたのである︒また院外救助を根絶しようとした1一オン︵救貧連合区︶のやり方を称讃した︒ロンド

ンの二三の教区では院外救助は減少し︑保護を拒否されたものは仕事をみつけるように励まされ︑あるいは慈善団体

によって救済された︒このように救貧法とC・O・S・の協力は緊密であり︑厳格な救貧行政は今世紀はじめの︑あ

︵△4︶の有名な救貧法に関する王室委員会の時まで続いたのであるや

しかしこの間に時勢は徐々に変化しつつあった︒まず救貧法により院外医療扶助を受けている人間に対して︑国家

と地方選挙の投票権剥奪が廃止された︒これは一八八五年の医療扶助︵資格剥奪撤廃︶法によるものであった︒また

救貧行政の上にも変化がおこってきた︒一八九四年の地方自治法は︑救貧委員の財産上の資格制限をなくするなどし

て︑その選挙方法の民主化をはかった︒これによりかつてワークハウスの少年であった救貧委員たちが︑救貧行政に

︵戸︑︶登場することになった︒このような一八八○年代からはじまった新時代の精神︑とくに社会主義の運動にたいして

は︑C・O︒S・は大いに反対した︒

C・O︒S・の反対したもう一つの方向は︑貧困の救済にたいする国家の干渉であった︒一八九○年代において︑

国家の行った二つの干渉というのは︑失業の救済と老令年金とであるが︑C・O︒S・はこのいずれの施策にたいし

ても反対の方針を貫いたのである︒

まず失業救済についてのくる︒八○年代の恐慌時にかなり大量の失業者が出ていたと思われるが︑七三年から六年

間も恐慌が続き︑七九年に頂点に達した恐慌は︑前世紀の恐慌のうち﹁もっとも包括的な︑もっとも深刻な︑もっと

0︵虞u︶も破壊的な恐慌であった﹂といわれる︒しかしその後も一八八二年から八六年までの恐慌︑一八九○年の不況︑九一

年から九三年までの恐慌が連続しておこった︒こうした状勢の下で︑八○年代以降社会主義的思想が橇頭してきた

が︑このようなときチェンバレンの有名な布告がだされた︒この布告の要点は︑平素正常な雇傭状態にある不熟練労

働者が︑雇用されうるような仕事の実施をはかろうとするものであった︒浮浪者や救貧法の習慣的適用者は救貧法に

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︵J︶残されることとした︒その後も一八八七年︑九一︑九二︑九三︑九五年とくりかえし同様の布告が出され︑ことに一

八九六年の雇傭欠乏による窮迫に関する衆議院選抜委員会で︑失業対策としての公共事業の原理が確立された︒それ

は国庫支出による失業者の救済に反対するものであったが︑失業者は︑年間一ケ月未満であれば︑失業救済をうける

ことで公権剥奪されないという提案を含むものであった︒このような一連の失業対策はいずれも成功しなかったが︑

これに対してC・O︒S・はどのような態度をとったか︒C・○︒S・は︑平常時において救貧法以外の︑労働能力

者に対する救済活動に反対した︒それは︑救貧法の不名誉な性質をなくして安易な援助があたえられれば︑貧窮者は

必ず堕落するにちがいないというものであった︒もっと異常な時期︑つまり〃例外的な窮迫時″には︑特別な調整が

必要である︒そしてこの例外事態を処理するための処方は︑C・O︒S・と他の慈善団体と救貧法とが一体になって

活動すればよいというのである︒しかし深刻な情勢を前にして︑C・O︒S・は一八八六年〃例外事態処理の最善の

方法に関する〃特別委員会を設立した︒その委員会の報告書は︑中央救済基金の設立に反対し︑公共的︑慈善的な仕

︵・◎○︶︾事をつくって地方の連合委員会に委任し︑一定の規則に従って契約の賃金率を支払うことをすすめている︒このよう

にC・O︒S・の態度は終始一貫していた︒

さらに今世紀に入ってから︑一九○五年に失業労働者法がつくられた・・この法律の目的は︑救貧法の外部で︑公権剥

奪なしに失業者を救済しようとするものであった︒この法律によって中央と地方に委員会がつくられ︑慈善団体の代

表もこれに参加した︒しかしCoo︒S・はこの法律には疑問をもっていた︒C・O︒S・の信念によれば︑失業救

済は善良な労働者にも︑悪い労働者にも有害である︒前者に対しては︑それは彼の技侭を低下させ︑また後者にとっ

ては︑それは彼を浪費にかりたてるというのである︒この法律に先立って一九○四年の十月に︑C・O︒S・の中央

会議は︑雇傭の不足による窺迫の救済に関する特別委員会の報告を公にしたが︑これも全く同様の立場に立つもの

で︑C・O︒S・の前の勧告がくりかえされており︑失業者は公私の合同委員会の監督下におくべきであるとし︑公

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︵・Q︾︶権剥奪をしないで失業救済を与えることに反対しているのである︒

つぎに老令年金制度の動きに対して︑C・O︒S・のとった態度をのべる︒老令年金は個人主義と私的慈善団体の

存続を侵害する新しい力として︑C・O・S・は反対した︒老令年金の計画はすでに一八七八年の聖ブラックレイの

提案があり︑この他九十年代までにはいくつもの計画案があった︒そのうちではチャールス・ブースとチェンバレイ

ンの案が有名である︒このような情勢の中で自由党内閣は︑一八九三年に老令貧民に関する王室委員会を任命して︑

老令貧窮者に関して救貧法に何らかの変更が必要かどうかを研究させたのである︒その報告書は多数派と少数派に分

れたが︑C・O︒S・のロッチとA・ペルは多数派報告に署名した︒多数派の勧告は極めて慎重なものであったが︑

それは要約すると老令貧窮者に適切な院外救助を与えることをすすめ︑さらに老人援助のための方法を吟味してい

る︒また当時の老令年金の計画案をいくつも説明しているが︑そのうちのどれをも推奨していない︒これに反してチ

ェンバレン等の署名した少数派報告は︑老令貧窮者の取扱いに対する根本的是正を必要となし︑救貧法と慈善とでは

︵︑︶充分でなく︑老人の扶養は全社会の公共的負担であり︑年金の一般的計画を包含すべしとしている◎

この委員会報告を離れて︑C・O・S・の態度は明確であった︒ロッチは一八九二年のある救貧法会議で発表した

論文の中などで︑その主張を明かにしている︒またC・O︒S・の慈善組織化シリーズの一巻として出版された︑マ

ッケイの﹁保険と貯蓄﹂ご八九二年︶も︑九五年のC・O・S・年報も︑また一九○○年にC・O︒S・のつくっ

た老令年金に関する委員会が︑一九○三年に年金の諸計画案を批判した論文集をだしているが︑これらすべてを通し

てC・O・Scの態度は明確であった︒これらC・O︒S・の人々の見解によれば︑年金と保険計画は人々が独力で

︵例えば友愛組合を通じて︶衣食の道をたてるから不必要である︒国家の給付金は社会的義務を弱めるおそれがあ

る︒国家は支払者にはなりえても︑性格を育てることはできない︒年金は︑〃すべての困窮者にたいして︑いざとな

れば国家が面倒をみてくれるという観念をあたえるだろう″・むしろ各人の老後の扶養は︑節倹によって行うという

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一三一一‑一一. −−

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個人の責任の原則を主張し︑もし補足が必要ならC・O︒S・からの年金によればよい︒それでも駄目なら救貧法に

︵u︶任せよという主張であった︒

つぎに一九○五九年の有名な救貧法に関する王室委員会のことについては︑しばしばふれられているのでここで

は詳しくふれない︒ただその委員会の一九人のメンバーの中︑ロッチ︑ポザンヶット夫人︑オクタビャ・ヒル等少く

とも六人はC・O︒S・の卓れた会員であった︒そして王室委員会の多数派報告というのは︑少しばかりの修正は

あったが︑実質的にはC・0.S・の見解を代表していた︒しかしよく知られているように両派の意見とも政府の直

ちに採用するところとはならなかった︒C・O・S︒自体としては多数派報告に必ずしも満足せず︑かなりこれに対

する批判もあったようである︒しかし結局多数派報告の勧告したような︑政府当局と慈善団体との協力も正式の政策

︵池︶とならず︑篤志援助と医療扶助の委員会も実現せず︑また救貧委員の消滅や古い名称の抹殺も実現しなかった︒

一九○六年から一九一三年までの間に︑自由党内閣のとった社会サービス政策の前進のうち︑一九二年の国民保

険法は︑その第一部は労働者階級に対する強制的拠出制の健康保険であり︑第二部は失業保険であったが︑その制限

された給付のために当時は余り世の注目をひかなかった︒

この社会保険計画に対しても︑ロッチはC・O・S・の中央会議の承認をへた長文の批判を公にした︒それはドイ

ツの実例をしらべた上で︑安易な運営は経費を増大させ︑その財政的経費は膨大となるだろうこと︑また医療報酬の

体系と病院へ友愛組合に対する影響も深刻であろう︒しかし最も悪いことは︑それが〃保険の外形の下での公的恩寵

︵蝿︶の体系″となり︑〃社会的剛さと独立の感覚と評価″の観点から頽廃に導くであろうとのべた︒

このほかここではくわしくのべないが︑一九○六年の教育︵学校給食︶法にも︑C・O︒S・は反対をした︒この

ようにC・O︒S・は新しい時代の政策に追随していくことができず︑むしろ新政策に反対することが多かったので

ある︒しかしC・O︒S・は新時代の政策によって打まかされたというよりは︑むしろ内部的にも問題ができた︒C

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︒O・S・の初期の指導者たちは次第に無力になりつつあった︒そして一九三一年にオクタビイア・ヒルが死に︑一

三年にはロッチが卒中で倒れ︑二三年に残するまで公式な活動をすることはできなかった︒その残した時タイムズ紙

は〃C・OCS・のロッチ〃というのが関係者の間の合言葉になっている︒〃彼がC・O︒S・をつくり︑彼がC・

︵皿︶O・S・であった〃と報じた︒

以上のようにC・O︒S・の果した役割は多くの面でみとめられるが︑以上のほかに重要なものとして社会事業家

の訓練があげられる︒これは一九世紀末までにいろいろの試みがなされたが︑講義や討論だけでなく︑地区委員会の

書記と一緒に実地訓練を行うなどの形をとった︒そして一九○三年に社会学学校が協会によって設立された︒この学

校も一九三一年には︑財政上の行きづまりからロンドン経済学校に合併されることになったが︑その後も社会科学

部として︑社会事業家の養成に重要な役割を演じた︒︽

C・O︒S・の功績としてもう一つ見逃すことのできないのは︑病院慈恵係である︒これは医学的処置以外の世話

や援助をあたえるもので︑これによって病院は貧民の状態改善のために︑当局者や慈善団体と連繋をとることになっ

︵猫︶た︒このような慈恵係は次第にあちこちの病院で採用されることになった︒

第一次大戦の勃発によって︑C・O︒S・も新しい事態に直面し︑戦争後はC・O︒S・も次第にその態度をか

え︑社会的サービスの重要性を認識するようになってきた︒すなわち戦争後失業対策をはじめ︑いろいろ公的社会サ

ービスが増大した・しかしそれらは決して完全ではなく︑私的団体のなすべきことが多々あった︒そのような情勢の

中から︑後にのべるN・C・ScS・も登場してきたわけであるが︑C・O︒S・も決して活動を怠っていたわけで

はない︒C・O︒S・は問題家庭をとりあげへまた近隣や教会の欠けた新地域の問題︑あるいは養子の問題等をてが

けていった︒第二次大戦の勃発した時︑それはまだ三○の地区事務所を開いていた︒戦後一九四六年に︑それは家庭

福祉協会F・W◇A・として改組し︑今日まで続いていることはよく知られているところである︒

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一一

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つぎにわれわれは児童福祉と母子福祉の分野にうつることにする︒

他の社会的サービスと同様に︑児童福祉も諸々の先駆者たちの努力の結果として成長してきた︒児童福祉の面では

一九世紀においては︑中央政府の創始にかかるものは殆んど何一つないといってもよいほどであって︑殆んどすべて

民間団体の努力によるものであった︒

母子福祉の活動は︑保健訪問婦の設置︑ミルク貯蔵所︑母親学校︑産業管理︑幼児相談センターや地方保健協会の

設立等をとおして発達してきた︒そのうち三一のものについてふれてみよう︒

保健訪問婦はまず一八さ一年に民間団体によって設置された︒ある地方医師のすずめによって婦人による衛生改善

の協会がつくられ︑家庭婦人をたすける訪問婦をおくことになった︒その後一八九○年にマンチェスター市がこの実

験に目をつけ︑衛生医官に保健訪問婦の仕事を指導する権限をあたえた︒そして他の多くの都市もこれに追随したの

つぎに地方的な民間保健協会がョ−ク市やウェストミンスター市でつくられたが︑これは公私調整の努力の必要な

ことを示したものといえる︒その最も重要な一例は︑聖メアリールポン区の保健協会の例である・この協会は一九○

五年につくられ︑区の公衆衛生部︑地区保健協会と︑聖メアリールポン施薬所本部とから構成されていた︒その公私

協力のための効果的な活動は︑多数の民間保健訪問婦の登録と訓練をもたらした︒彼等は施薬所と連絡をとって活動を

し︑施薬所では医官が幼児相談に応じたのである︒ロンドンはとくにこの事業の開拓者であり︑首都区冨の貢go澤目

︵躯︶団○gこい壷だけでなく州会○○巨邑ごOo巨邑凰一もこのサービスに刺戟をあたえたのである︒

つぎに貧困児童の教育に関しては八救貧委員にたいして︑民間の学校の貧困児童の教育のために経費をつかう権限

が与えられていたが︑これは余り利用されなかった︒そのうちに区立学校の建設が多くなってきた︒大きな救貧委員 である︒

ロ ■ ■ ■ ■

■■■■■■

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つぎに孤児に対する小屋式ホームであるが︑これは大きな施設よりも小さな小屋式の住居の中で︑家族の大きさの

集団の自然的環境の効果をねらうものである︒はじめ一八五○年代にいくつかの篤志的団体によって採用され︑七○

年代に救貧委員会でもこれをとりあげるようになった︒

貧困児の院外委託︑すなわち里親制度は︑フランス︑アイルランド等に先例があったが︑イギリスでは一八五○年

頃からはじめられた︒一八七○年に貧児委託令が発令され︑全国の救貧委員会は︑一定の条件の下でその子供を里親

に委ねることになった︒ただし必要な監督だけはその手で行われた︒こうしてこの制度は発展し︑一八九五年までに

全国に二千近い委員会がつくられた︒

児童虐待防止については︑一八八三年に民間人の努力によって児童虐待防止協会がリバプールに設立され︑以後各

地でこれにならい︑ついに一八八九年その全国協会も結成されたが︑その協会の努力によって︑同じ年の有名な〃児

︵︶童憲章″といわれる法律の制定をもたらすにいたった︒

以上の外に母子福祉に関しては︑託児所の制度︑私生児の問題︑養子の問題︑産前保護の問題等があるが︑これら

はいまここではふれない︒これら母子福祉の活動全体を通じて共通した傾向は︑初期の実験的試みがいずれも民間の

手によってはじめられ︑それを地方当局が採用するという形をとったということである︒

つぎに初期の段階の母子福祉関係の団体について・一九○五年にパリで国際児童福祉会議が開催され︑イギリスもこ

れに代表を送ったが︑その影響により一九○六年から公私の団体によってはじめられた児童福祉センターの数が急増

した︒また衛生医官達の熱意によって︑一九二一年に幼児死亡の予防と幼児の福祉のための全国協会が設立された︒ 会は︑普通の救貧院から子供をひきだして︑千人もの貧困児童が居住して教育をうけられるような寄宿学校をつくった︒区立学校は子供の心身の状態を改善する上に役立ったが︑しかし必ずしも一般的に歓迎されたわけではなかつた︒た︒

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一九○○年には︑千人の子供が出生しても︑生後一年間に一五四人が死亡するほどの高い乳児死亡率を示した︒そこ

でこの協会が設立されたが︑この団体は医学専門家と普通人との間の緊密な関係に加えて︑進歩的な公衆衛生当局の

後援とによって成功をおさめた︒つぎに母子福祉の団体として最古のものの一つに︑・保健と母子福祉全国連盟があ

る︒この前身は一九○五年に組織された体育改善全国連盟である︒これは元来母と子だけではなく︑全人口を包含す

るものであり︑その範囲内にある人々を︑身体的︑精神的にまた道徳的にも強化することをねらっていた︒この連盟

は一九二八年まで続いたが︑その重要な活動として六つの実験的産前診療所の設立があげられる︒これは三年後に全

国の地方当局によってとりいれられたのである︒

このような民間の諸活動の展開にともなって︑公的の母子福祉対策も次第に整備されてきたが︑一九一四年のロィ

ド︒ジョージの有名な予算案は︑母子福祉施策に対する政府の関心の著しい前進を示すものであった︒その見積の中

には︑母子福祉のサービスをなす地方当局と篤志的団体にたいする補助金を含んでいた︒そして政府の教育局と地方

局との一ろが連繋をとりながら︑前者は主として教育的目的のための施設とか︑偶発的な特殊な医学的外科的勧告や

︵超︶処置の給付のための施設にたいする補助金を管理し︑後者は本来医学的である施設に関与した︒

こうして第一次大戦になったが︑一九二ハ年から一八年の間に︑公私の幼児福祉センターがかなり増加した︒

つぎに第一次大戦後の状況についてのくる︒まず一九一八年には母子福祉法が成立し︑母子福祉活動が大幅に拡大

されることになった︒この法律に基づいて諸々の補助金が次第に拡大された︒その後保健省は次第に責任を地方当局

に集中させていき︑この過程は財政的には一九二九年の地方自治法によって完成された︒民間団体に対する国庫補助

は︑国庫から一括してこれをうけとる地方当局からの毎年の寄付の形に変更された︒これは篤志団体の不評をかつ

た︒しかし保健省は篤志団体の受けとる額が︑標準年度のそれを下回らないよう配慮した︒同時に省からの通達は計

画の作製にあたって︑公的施設と民間施設との間の協議の必要なことを強調している︒その後も保健省は︑各種の児

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幼児死亡の予防並に幼児福祉全国協会は早くから成立していたが︑その主たる関心は︑母子福祉に関係のある行政

と立法活動に厳重な看視をつづけることであった︒またそれは政府部局︑殊に保健省に代表をだすのに有利な立場に

あった︒また教育局から講義過程を編成するための協力を要請されるなど︑その地位は認められていた︒同協会はこ

のように母子福祉関係の普通人を養成しただけでなく︑医官のコースをも準備した︒例えば一九三四年には同協会の

会議に出席する医師のために︑臨床コースが編成された︒また同協会は他の全国的な団体に対する支援をあたえたこ

ともたびたびにおよんだ︒ この協会の構成団体の一つに︑全国赤児福祉協議会がある︒これは一九一七年に全国赤児週間協議会として発足

し︑その年の全国赤児週間の創設とともに出発した︒発足以来広い人気と熱心な新聞の支援をうけた︒これも全国的

な公私の団体を包含している︒この協議会の主たる目的の一つは︑地方当局に幼児福祉にたいする関心をもたせるこ

とであった︒ ︵四︶童福祉施設の建設における︑民間の努力の重要性について一般の注意を喚起することに努めた︒

当時母子福祉に関する全国的な団体が多くつくられたが︑その問の連絡調整の試みがあらわれた︒調整のやり方と

しては︑連合や合併︑そして稀には一団体が他の団体へその分野を委託するというやり方があった︒かかる調整の努

力として最もうまく成功したものは︑幼児並に児童福祉中央協議会︵一九一九年に合併︑二九年に母子福祉全国協議

会となる︶である︒これは連合体で加入団体は︑地方の公的及び私的センターの地方連合と全国的団体を包含してい

た︒同協議会は社会事業家の訓練を標準化し︑また母子の保護のための居住施設を確立するための直接活動を行っ

た︒その行った試みのうち最も人気のあり成功したものに︑移動展覧会がある︒また国の内外に対しフイルムの貸出

しなどを行った︒

母子福祉センター協会は一九一一年につくられたが︑この協会の他の全国的団体と協力することが多かった︒元来

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この協会の主目的の一つは︑全国各地のセンターの調整をはかり︑その運動に関して両親やその他の人々の関心を刺

戟することであった︒協会は一九二八年に︑全国母子福祉連盟から︑赤児ホーム局︑児童福祉事業家雇傭局等を譲り

︵︶うけた︒その他この分野の調整にすぐれた暗示を与えたのである︒

その当時の公私の団体の協力のよい実例として︑地区保育協会があげられる︒民間の保育協会は農村地区に広く普

及し︑保健省もその仕事の価値を認めている︒それらは地方当局の関心を喚起するのに努力し︑州会は区会に相談す

るだけでなく︑地区保育協会にも︑また州保育協会にも相談した︒そして保姻たちは本来の保育のほかに︑時には保

健訪問︑学校保育をも担当し︑州会はこれに援助をなすことで成果をあげた︒

つぎに地方の水準における協力の実例を示す︒ハーッ連合の形成はハーッ州保育協会によって一九一一三年におこな

われた︒州保育協会はそれまでマッサージ診療所を管理していた︒そして各地の公私の福祉センターからの児童が入

っていた︒州会は報酬の一部を支払い︑イギリス赤十字協会のハーッ支部は︑副木や外科器具を備える費用を負担し

た︒支部はその年の末には︑その仕事に協力するために︑マッサージ診療所の経営をひきうけた︒そして地区保育協

会は︑産婆のサービスというもっと大きい責任をひきうけた︒

以上のように公私の協力はいたる所にみられたが︑それほどの熱意を示さなかった地方のあったことも事実であ

る︒民間団体が役にたたないということよりも︑衛生医官達が伝染病等の問題に一層関心をもつところから︑母子

福祉の問題に無関心となった地方もある︒また地方当局が何の疑問も抱かずに︑基礎のできた民間団体の仕事をうけ

いれるだけで︑そのエネルギーを他の分野にむけてしまうものもあった︒また逆に地方当局が独自の母子福祉センタ

ー︵瓢︶−をつくって︑独立をたもとうとし︑地方的にも全国的にも他と協力しない場合もあったようである︒

(13)

つぎに精神衛生の分野にうつる︒イギリスでは二○世紀になるまで精神病に関する一般の関心は割合少かつたよう

である︒精神病施設としては一七六九年のベッレム病院が最初のものである︒その後精神病患者の取扱いに対する新

しい方法がとりいれられ︑一八三○年代には監禁をやめて回復的方法が試みられはじめた︒こうして狂人のアフタ・

ケアという観点の施設として一八七七年に民間協会が設立され︑これが後に精神衛生アフタ・ケア協会となった︒こ

の協会の最初の目的は精神病院と一般社会との間の橋渡しをし︑患者に援助をあたえることであった︒だから恢復期

ホームの建設が重要な活動となった︒こうしてこの協会は次第に発展し︑救貧委員会とも密接な連絡をとっていた︒

一九○九年頃までには︑適切な職をみつけることが協会の最も重要な機能の一つとみなされるようになり︑近代的リ

ハビリテーションの萠芽がここにみいだされる︒

つぎに精神薄弱者については︑最初の施設は一八四一年に低能児童のための小さな施設が︑つづいて二三の施設が

つくられた︒これらは慈善団体の創設にかかるものだが︑貧民をうけいれる上で救貧委員会と積極的に協力した︒そ

の後一八七五年にC・O︒S・がこの問題をとりあげてから︑民間活動は更に前進した︒一八九五年に精神薄弱者愛

︵配︶護全国協会がつくられ︑情報の蒐集と拡大︑精神薄弱者の施設の設立とその資金造成に努力した︒

国家の行った対策としては︑まず一八○七年の法令で州立精神病院がたてられ︑二八年には首都精神病委員が任命

され︑これが四五年の精神病者法にうけつがれ︑ここで恒久的な精神病委員会が設けられた︒その後一八九○年にい

たり精神病法が成立した℃これは不健全な精神の持主の確認と保護と統制の準備をなし︑精神病院の設立と監督を行

なおうとするものであった︒

一九○四年には精神薄弱者の愛護と統制に関する王室委員会がつくられて︑四年後にレポートが提出された︒それ

は精神的欠陥いために生存競争に耐えてゆけない人は︑国家から特別の保護が与えらるべきであること︑その貧困な

(14)

亟 も ' 、 ‑ − −

I

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どの理由ではなく︑精神的状態の故に︑国の援助を要求することができるなどいくつかの原則を明かにした︒このレ

ポートの影響を強くうけたものとして一九二一年には精神障害法が出された︒これは遺棄されたり残虐に扱われたり

している者︑刑法犯罪者たる精神障害者︑常習飲酒者︑救貧法をうけている未婚の母親等を保護するための給付をな

︵認︶すものであった︒

この頃中央政府︑地方当局と民間との公私協同のよい実例がみられる︒古い精神病委員会にとって代った統制局委

員会は︑民間団体の活動に強い関心を示し︑その委員長の提案によって︑精神障害に関係ある公私の諸団体が会議に

召集された︒こうして一九一三年に精神障害愛護中央協会C・A・M︒W・が形成された︒C︒A・M︒W・の最初

の執行部は︑地方政府協会︑救貧委員連合︑精神病院委員会︑アフタ・ケァー委員会︑その他多くの個人や団体等で

構成された︒協会の主要目的は︑イングランドとウェールスにおける精神障害のための篤志事業の能率を促進させ︑

当局に対して直接間接に支援をすることであった︒地方の精神障害当局の直接の協力が求められ︑協会の資源が提供

された︒協会の発足後すぐに地方の協会が︑地方の精神障害当局︑地方教育当局︑救貧委員会︑その他関係諸団体と

の協力によって︑多くのケースを処理する上で効果をおさめた︒その他協会は︑啓発宣伝の面で大きな効果をあげ

た︒また新しい地方的協会の形成にも努力した︒また中央協会の最も成功した方法の一つに︑移動オーガナィザーの

任命がある︒また協会は立法の監視の分野でも重要な貢献をした︒そしてその経験に基づいて︑法令の修正を暗示し

た︒第一次大戦後復興省にたいし戦後の精神障害者の愛護についてのメモを送付したりしたが︑これは時期が悪く実

現はみなかった︒このように協会はつねに大衆の無関心を克服しようと努力したが︑その間統制局と教育局や進歩的

な地方当局によって助けられ︑国と地方と民間団体と三者の協力が十分に達成されたのである︒これ唾一○世紀にお

ける社会サービスにおける公私協力の著しい例として指摘することができるだろう︒

やがて第一次大戦になったが︑その間にも統制局とM・A・C︒A・やC・A・M︒W・との協力はやはり続けら

(15)

C・A︒M・W・は時には政府のやり方に反対したこともあった︒例えば一九二九年の教育局と︑精神障害統制局

の合同レポートが出された時︑精神病者の不妊の問題がとりあげられた︒これに対し協会は強制的な不妊の問題に重

大な関心をもち︑地方当局に不妊政策をとるべく圧力をかけないことの約束をとりつけ︑後に自発的不妊同盟を設立

し︑委員会もその主導権の下に会合や講演を組織するようにした.またC・A︒M・W・は公的干渉︑殊に各省の通

達に厳重な看視をつづけた︒例えば一九一二年に統制局は国庫補助切下げの通達を出したが︑これに対しC・A・M つぎに第一次大戦後の精神衛生対策の発展についてのくよう︒大戦後︑一九一三年と二六年の二つの異った委員会

の報告によって︑精神病入院患者の取扱い︑証明の法律的側面等の問題が検討された︒二七年には︑精神障害法にか

なり大幅の改正が加えられた︒また二九年には精神障害委員会のレポートが提出されたりしたが︑三○年に精神病取

扱法が制定された︒これによって︑公立精神病院は︑自発的患者と一時的患者を証明なしにうけいれることができる

こと︑また外来患者部門を設け︑予防的活動をなしうること︑また精神病に関する調査の企画が可能になったことな

どが︑前に比してかなりの前進を示している︒また他の施設との協力も︑地域愛護の分野では可能となった︒という

のは地方当局は︑アフタ・ケァーのための給付をなし︑そのために民間団体の基金に寄付する権限があたえられた︒

また精神病の予防と処置を行う民間団体の基金に寄付することも認められた︒そして貧民と私的患者との鋭い対立は

もはやなくなった︒このような公的施策の動きに対し︑民間団体の発展と︑その公的機関に対する協力はどうであっ

たか・ れた︒戦時中の任務を負わされた地方当局に対して︑民間の支援がなされることを統制局は歓迎し︑また︑同局とC・A・M︒W・との間にしばしば︑相互の意見交換が行われた︒また統制局は従事者の訓練の面でも協会と連絡をつよめ︑また義務教育を了えた精神薄弱児童の問題をとりあげる点で︑民間団体を支援した︒統制局は精神障害サービスの

︵鯉︶面で政府にたいする直接の責任をもち如法の下に活動したのであるが︑以上のように極めて多くの成果をあげた︒

(16)

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︒W・は猛烈な反対を行った︒また統制局の通達によって︑一九三七年国民健康保険から強度の精神障害者を除外し

︵溺︶ようと試みられたが︑これも同協会の反対によって撤回しなければならなかった︒このように同協会は時には中央政

府の方針に反したり︑圧力団体となったりもしたが︑大抵は緊密な協同関係がみられたのである︒これは一九二一年

の精神障害法の制定︑C・A・M︒W・の結成以来明白であるといえる︒この点をまず財政的な面からみよう︒M・

AoC︒A・は精神病者の地域愛護の面で︑ロンドンとその周辺に住む精神病患者の愛護に集中したが︑これにより

ロンドン州会L・C・C︒と共同することになった︒一九一九年にL・CCC・は公的基金から︑M・A︒C・A・

の管理下の〃試験中″の患者に対し支払をなすことをきめた︒生計維持のため週の経費の全額までの支払が認められ

た︒しかしアフタ・ケアを必要とする患者の費用は︑小さな慈善基金に依存させた︒

一九三○年はM・A・C︒A・にとって記念すべき年である︒というのはL・C︒C・の公的扶助委員会は︑M・

A・C︒Aの管理下にある患者にあたえられる扶助の支払を勧告した︒先にのべたように同年の精神病取扱法によっ

て︑地方当局はついに自発的患者を取扱う権限と︑精神衛生福祉のために民間団体の基金に寄付する権能が与えられ

︵恥︶た︒その結果M・A・C︒Aはその援助を拡大して︑幾つかの病院からの患者を含めることができるようになった︒

財政面以外の一般的協力関係についてのくるなら︑全国的団体は︑その専門的知識によって︑公的委員会に証言を

なし︑新しい立法にたいする挿入の条項や修正を提案し︑また現行法の作用を吟味し︑所管の省の注意を促すべく批

判をする立場にある︒もし必要ならまだ一般の注意をひいていない問題に対する世論をつくりだすこともできた︒こ

れらすべての点でC・A・M︒W・は積極的な役割を演じた︒もちろん時には不成功のこともあったが︑大きな成果

他方統制局は民間団体との協力を歓迎し︑民間から得られる援助に注意を払うよう地方当局に働きかけた︒そして

地方当局が民間団体によって与えられた新しい考えと実験に注目するように全力をつくした︒このように統制局が民 をあげたことも多かった︒

(17)

間団体との協力をおしすすめようとした理由は何であるか︒それは二つあげられるが︑その一つは︑地方当局はその

権限内でだけ活動できる︒つまりそれは立法によって制限されるが︑これに反し民間団体はその計画に十分な財政的

支援を獲得できる限り︑自由にその活動をのばすことができるからである︒統制局も機会ある毎に地方当局に対し

て︑精神障害法の範囲内に入らないケースに対しては︑自発的監督を与えることのできる民間団体の存在を想いださ

せようと努めた︒また一九二四年までは地方当局によって設立された職業センターは一つもなかったが︑篤志団体に

よって設立されたセンターを利用する地方当局は数多くあったのである︒統制局が一九三二年に精神薄弱児の通告の

問題に関してのべたことにもみられるように︑〃法の現状では⁝.:法制上の活動をとりあげるべき当局の権限は限定

されている〃ということ︑これが公私協力をおしすすめようとした一つの理由である︒もう一つの重要な理由として

は︑宣伝は篤志機関の機能であるという統制局の信念があげられる︒一般の関心を喚起し︑世論に影響を与えるのは

その役割である︒〃中央の部局が世論に影響を与えることができ︑また与えようと試みるべき範囲には限界がある〃

と考えていた︒統制局は︑民間団体の教育的並に宣伝的活動に対し︑地方当局の注意を喚起するように絶えず努力し

︵︶たのである︒

つぎに盲人福祉の分野にうつろう︒エリザベス救貧法は︑貧窮盲人に対する救助を国家義務として確立したが︑そ

の後三百年以上そのための包括的立法は成立しなかった︒しかし慈善的努力はあるていどつづけられていた・一八三

四年の救貧法では︑盲人を院外救助の厳しい規則と普通の資産調査から除外することにした︒また同年民間の貧窮盲

人訪問協会が発足し︑つづいて多くの盲人収容施設が創設された︒また点字が利用されるようになると︑訪問員はそ

の教授もすることになり︑一八八○年代までには八○の家庭教授協会が成立した︒また一九世紀を通じて︑盲人の訓

(18)

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.︵配︶練の施設を改善し︑雇傭範囲を拡大するための努力がつづけられた︒

一八六五年には一部の盲人たちが︑ブリテン並に外国の盲人協会をつくり︑これが後に全国盲人会館N・I︒B・

として名声をうるにいたった︒一八八二年には一盲人婦人が盲人のための国民図書館を開いた︒九三年には全国盲人

連盟が創設され︑その傘下の盲人工場労働者の組織がつくられ︑〃われわれは乞食をするよりもむしろ働くことを望連盟が創設され︑その傘下の盲︐

むとのスローガンをかかげた︒

公的施策の面では︑一八六二年の法律によって救貧委員会は︑特殊学級内の貧民の盲児に対し︑生活の維持と衣服

をあたえ︑教育させる権限を与えられた︒その頃盲の子供のための居住制特殊学校が設立されるようになった︒一八

七○年の教育局の設立以後︑すべての子供に教育を与えることが義務づけられた︒一八八九年の盲ろう唖者に関する

王室委員会のレポート便盲児の教育の殆んどが︑慈善団体に委ねられているとのべている︒また多くの盲人がなす

べきことをもたずに乞食となり︑慈善団体に依存しているといっている︒

この委員会の勧告の結果として︑一八九三年の義務教育︵盲︑ろう少年︶法ができた︒その要点は貧民の盲児の教

育支給の義務は︑救貧当局から教育局に移されたこと︑両親は盲児の五才から一六才までの間︑教育させる義務のあ

︵︶ること︑盲児のための特殊学校に補助金が支給されることなどである︒

このように初期の段階の公私の協力は殆んど盲人教育の面で進められた︒地方の段階でも公私の協力がみられた

が︑大抵は民間団体の方が地方当局を動かした︒しかし時には地方当局がィ一シァティブをとったこともある︒例え

ばロンドン州会は教育の分野︑とくに技術教育の進歩の面で積極的であり︑盲児のために特別委員会をつくった︒

また一九○三年には盲児のための二つの奨学資金を設立した︒このように盲児の特殊学校の数が増えて一層訓練され

た教師が必要とされるにいたり︑一九○七年には盲人教師カレッジが民間の主導の下で開設された︒それはブリテン

並に外国の盲人協会と密接な関係にあったが︑一九○九年には教育局の認可をうけ︑その奨励をうけるにいたった︒

(19)

二○世紀初めになって︑盲人の雇傭機関がつくられた︒一九○二年にブリテン並に外国の盲人協会によって雇傭機

関が開始され︑同年の労働局︵ロンドン︶法は︑地方当局にたいし雇傭助言サービスのために公費をつかう権限をあ

たえた︒当時存在していた作業場は︑多数の盲人に雇傭をあたえていた︒しかし民間施設こそ作業場をつくり︑維持

するのに適した団体だと考えられていた︒王室委員会も中央作業所が大都市に設立さるべきだと勧告したが︑その後

次第に公共の作業場もつくられるようになった︒

その頃の民間団体の調整の問題としては︑ブリテン並に外国の盲人協会は主として点字本製作の面で努力の結集を

はかった︒こうした中から関係団体や個人間の交流を促進し︑施設のない地域にも団体の結成をはかること等を目的

として︑盲人の制度と施設の北イングランド連合が一九○七年につくられた︒二年後にそれは全イングランドとウェ

ールスに及び︑連合の連合となったが︑一九一九年には盲人の州協会連合となった︒この頃から地方性を打破する努

力がなされ︑一九○五年には国際会議がエディンバラで︑○七年には北イングランド連合の第一回会議が開かれ︑

︵卯︶一○年には盲人の七つの作業場が連合体を形成した︒

第一次大戦中の公的施策の面では︑部局委員会が生れ︑それは盲人の状態や職業訓練等について三年以上にわたっ

て資料を蒐めた︒その活動は大戦勃発にもかかわらず続けられ︑一七年にその報告がだされ︑それに基づいて勧告委

員会がつくられることになった︒またもう一つの重要な問題に︑登録の編集がある︒それは認可された団体や施設の

登録だけではなく︑全盲人の登録を要求し︑地方当局や民間団体から集められた情報によって作製された︒その完成

には何年もの年月を要したが︑それは広い関心をよびおこした︒

同じ時期の民間社会事業では︑聖ダンスタンの活動が注目される︒いわゆる〃リハビリテーション〃という語はそ

の三○年後になって使われるにいたったが︑まさにそれはリハビリテーションの試みといえる︒それはN・I︒B・

の盲目の兵士愛護委員会によって一九一四年につくられた宿舎である︒ダンスタンの最初の目的は︑彼等を新しい環

(20)

72

つぎに第一次大戦後の盲人福祉の発展についてのくよう・大戦の終った翌年は︑盲人福祉に対する公的責任の上で

新しい局面が開かれた︒保健省が地方自治局に代り︑一九年にそれは勧告委員会の最初のレポートをうけとった︒そ

して盲人福祉の諸般のサービスのための補助金の見積りが政府に示されるとの重要な通達がだされた︒そして新しい

補助金によってその適用が拡げられることになった︒しかし翌二○年の盲人法はもっと重大な意義を有する︒これに

よって公的基金が盲人福祉に利用されることになっただけでなく︑貧困な盲人は五十才で老令年金が支給されること

になった︒また正確な登録の確保が強化され︑地方当局は区域内の盲人の福祉増進のための手配をする義務を負うこ

とになった︒保健省の公私関係の問題についての政策は︑地方当局が中央政府とも民間とも緊密に協力するようにさ

せようとするものであった︒勧告委員会もこの点を強調して︑従来盲人の福祉の全責任を負ってきた有力な篤志団体

の努力を︑地方当局が援助すべきであるとしている︒

つぎに一九二九年の地方自治法も︑盲人福祉に新しい発展をあたえた︒同法は地方当局に権限をあたえて︑盲人に

対する院外救助はもはや救貧法の下にではなく︑盲人法の下になさるべきだと宣言させたのである︒もちろんそれが

なくても︑救貧行政が救貧委員会から地方当局に移讓されたことも︑盲人には大きな前進であったといえる︒もう一

つの大きな変化は︑社会サービスにたいする財政支出の方法の変化である︒つまり地方当局は一般的国庫補助をうけ

とって︑その中から諸々の社会サービスに援助を与えることになった︒篤志団体の監督とそれへの補助の支払は地方

当局の責任となり︑もはや保健省の責任ではなくなった︒こうして地方自治法は︑一方では地方当局と篤志団体との 境に再適応させることであった︒そこでの再教育と訓練というのは︑点字をよみ凸点符号で書くことを学ぶことであり︑できれば旧の職業に戻すようにする︒もしそれができなければ︑その能力と関心に応じて訓練を選ぶ︒最も知的なグループはN・I︒B・のマッサージ学校へ行くのである︒また家禽飼育場で訓練される者もいた︒そこには大抵

︵弧︶・盲人の有給の専門技術の教師がいた︒彼等は大抵はN・I︒B・や赤十字協会等からの民間寄付に依存していた︒

(21)

一層緊密な関係に導いたが︑他方一九二九年以降公的団体が自己の計画を推進する傾向を増大させた︒やや下って一

九三八年には盲人法が成立した︒一九二○年の部局委員会が盲目の原因と予防との研究をはじめたが︑その後もその

対策がいろいろ講ぜられてきた︒こうして一層包括的な体系のための機が熟して︑二度目の盲人法が三八年に成立し

たのである︒一一九年当時は随意な宣言であったものが︑この法律では︑主なる地方当局はすべて院外救助を与える義

務を課せられた︒また無拠出制の老令年金の支給も五○才から四○才に引下げられた︒こうして医療扶助以外の扶助

を院外でうける人々の︑救貧法からの完全な分離が行われた︒一九二○年と三八年の盲人法はこのように︑盲人とそ

の家族の院外救助に対する財政的責任を︑全面的に地方当局に与えた︒盲人に対する財政的援助は今や殆んどが公的

なものとなった︒この他一九一八年と二一年の教育法も盲人福祉に関係を有する︒これは盲人の教育と訓練に関する

︵犯︶一八九三年と一九○二年の法律を拡張した︒

この時期の民間団体の発達について︒一九二○年の盲人法の通過以後の篤志団体の発展は目ざましいものがあっ

た︒作業場や居住ホームや新しいセンターが︑大戦後のきびしい時期にもかかわらずつくられた︒その間全国盲人会

館は︑点字の文学︑音楽︑雑誌の支給サービスを拡大し︑また絶えず特殊な装置の生産に対する新しいアイディアを

うみだした︒一九二一年には盲の少女の中学校もつくられた︒戦後N・I︒B・は盲人リハビリテーションの分野

で︑地方当局と協同する機会を多くつくった︒全国盲人図書館も︑貴重なサービスを行った︒本の貸付は盲人には無

料で︑郵便料負担もゆるくなったため︑本の発行量も増えた︒同図書館は盲人の写字者だけでなく︑沢山の篤志の筆

記者をもっていた︒また先にものべたが︑失明予防の活動は一九二五年の公衆衛生法の通過以後活溌になってきた︒

州協会連合は︑二九年に常任委員会をつくってその問題の検討をはじめた︒そして予防のための第一歩として眼科専

門医による証明が行われることになった︒︑常任委員会はその後も研究と活動をつづけ︑結局一九三八年保健省によっ

てその仕事が受継がれることになった︒その前年同省から地方当局に対し︑この常任委員会の貴重な勧告に注意を払

(22)

74

つぎにわれわれは︑公私協力の特殊な形態を示すものとして全国社会福祉協議会zは○ご呉○○巨国g−a普旦巴

の輿急8についてのくよう︒この団体の前身はイギリス社会サービス会館︵一九○四年︶である︒一九一四年八月 ︵調︶↑うべしとの重要な通達が出されている︒

つぎにこの時期の公私協力についてのべてみる︒第一次︑第二次大戦間の時期に盲人福祉の発展に対して︑中央並

びに地方当局と篤志団体との間の協力は極めて重要な役割を演じたのである︒まず保健省が篤志団体の経験を進んで

利用したことは疑をいれない・省としても篤志団体と共同するよう地方当局に奨励した︒勧告委員会もまた︑雇傭さ

れ得ない盲人のための仕事の面で︑篤志団体と協力するよう地方当局を促した︒中央政府は時には共同に対する反対

にあった︒というのは三者の協力は何処でもつねに歓迎されたわけではなかった︒協力の第二の重要な特徴として︑

水準を維持しまた大きな効果をひきおこすように︑当局者によってなされた影響力があげられる︒教育や訓練の分野で

の干渉の実例がいくつか示される︒また教育と職業訓練と雇傭への参加との関係はもっと困難な問題で︑この点につ

いては各省と篤志団体との間に意見の相違がみられた︒第三に︑中央政府はいつも仲介者として行動した︒勧告委員

会は︑裁判官的な客観的態度を維持し︑時には党派的な団体の熱烈さを矯正した︒例えば全国盲人連盟が︑家庭教師

として盲人の優先的任命を強引に主張したことに反対したり︑民間の作業所が︑その被用者の失業保険に対する鱸出

の免除を要求したのに反対したりした︒また新しい冒険を奨励し︑篤志団体によって与えられた機会について︑地方

当局を啓蒙する点でも︑中央政府が重要な役割を演じた例も決して少くない︒また国家的水準の協力としては︑篤志

団体の実験的活動と︑大衆の教育と宣伝という二つの面で︑省が積極的に奨励を行って多大の成果を収めた︒最後に

︵型︶保健省は︑独立的な活動がまだ強く認められる分野では︑ある程度調整者としての役割をも演じたのである︒

(23)

政府の一委員会は︑全国の市長と地方議会議長に廻状を送り︑人口二万以上の土地に地方委員会を設立し︑地方の要

求にもとづいて救済の分配を考慮しようとよびかけた︒かくて一五年に会議がもたれ︑全国救助協会︑全国社会サー

ビス協議会︑陸海軍人家族協会︑C・O・So︑貧窮の予防と救済委員会全国協会等の代表による連合委員会がつく蟻

られた︒この連合委員会から後に一九年にN・C・S︒S・が形成されることになった︒

当初その目的としてあげられたものは︑㈲全国的並びに地方的の社会事業の篤志的組織を促進すること︑㈲篤志的

社会事業家に情報︑殊に法令に関する情報を提供する︑国篤志的努力を利用する政府部局や地方当局と共同する︑御

各地方行政区域毎に︑篤志的努力を代表する画一の性格の団体結成の援助をなすことであった︒一九二四年には協議

会は合併し︑その目的は大幅に修正︑再定義された︒その活動のやり方は一九三七年の同協議会の年報の中に詳しく

のべられている︒それによれば協議会は次の三の方法によってその目的を達成する︒一は︑経験とアイディア交換の

ための会議を召集し︑探究と調整のためのグループを設立する︒二は︑篤志的活動を促進し︑それが自立できるまで

に育成する︑三は社会サービスの援助のための︑基金をつくり管理することである︒

N・C・S︒S・は真に協議会であって︑年に一回会合を開いた︒その構成員としては︑全国的篤志団体の代表六

五︑社会サービス地区協議会代表八︑町の社会サービス協議会一○︑地域社会協会二一︑農村地域協議会一二︑地域

サービス・クラブ六︑地方当局協会とその役人代表九︑政府部局代表一○︑個人会員二七︑名誉会員八︑計一七六人

であった︒この数では大きすぎるので年四回会合する執行委員会がつくられていた︒これすら大きいので︑支出を含

む諸決定は︑毎月会合をもつ会計並びに一般目的の下部委員会があつかった︒その後特殊な問題の検討のために︑多

くの委員会やグループがつくられた︒その主なものに七つあって︑それは日全国篤志青年団常設会議︑㈲公共福祉婦

人グループ︑国全国老人福祉委員会︑卿地域社会協会全国連合︑国全国教区会協会︑㈹社会サービス協議会常設会

議︑㈲市民相談所常設会議である︒これらはN・C︒S・S・のつくったものではあるが︑それぞれ独立の活動を行

(24)

76

N・C・S︒S・の実際に行った活動としては︑公私協力の面と関係団体間の調整の面と二つが考えられる︒

まず政府との共同についてみれば︑N・C︒S・S・の成立の由来及びその構成員の点からみても︑半官的な色彩

をもっていたことは否定できない︒またその活動のあらゆる面で︑公私団体間の橋渡しの仕事をしたことがみとめら

︵妬︶れる︒財政的な観点でも詳細な資料はないが︑その支出のかなりの部分を国庫補助に依存していたように思われる︒

協議会はこの金を︑関係のある別々の政府部局に請求して︑次々に獲得していった︒

つぎに民間団体相互間の調整については︑同一地方の異った社会サービスを扱う団体間の調整を促進する場合と︑

異った地方の同一の仕事を行う団体間の調整を行う場合と二つの場合があった︒同協議会はこの調整の促進に効果を

あげただけではなく︑他の団体の創設のために努力をなし︑一九二五年から四三年にいたる間に︑主なものだけでも

︵︺︑五つに上る全国的な団体の創設に援助をあたえた︒

N・C・S︒S・が地方の水準での共同を促進するためにとった方法は︑農村地区における農村地域協議会︑都市

における社会サービス都市協議会︑社会サービス州協議会︑州またはそれ以上の地域の協議会であった︒協議会は農

村の人々の福祉と農村の変動に特別の関心をもっており︑協議会には農村部も設けられた︒そして村落社会の共通の

性格に根ざした長期計画を展開した︒このプランは大きくは四つのねらいをもっていた︒それは︑一︑村の公会堂を

つくること︑二︑農村の職人を援けること︑三︑教区の自治を復活させること︒四︑計画実行のための組織をつくる

ことであった︒村の集会所というのは︑村の諸々のグループが利用するもので︑舞台︑小集会所︑調利室等として利

用されるものである︒N・C・S︒S・は一九二八年から一九四五年の間に︑一四○○の村の集会所と連絡をとり︑カーネギー財団からの寄付を管理した︒農村の職人に対する援助の面では︑同協議会は農村工業局と提携して︑農民

に対する政府等からの貸付金を管理した︒教区会は一九三○年頃は絶滅に近い状態であったが︑N・C︒S・S・は ︵調︶っている面もある︒

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