永 井 健 夫
Ⅰ 省察的実践論と変容的学習理論
Schön
(1983, 1987)
が「省察的実践(reflective practice)
」を提起した主要な背景として、高等教育機関における専門職教育が陥っていたジレンマがあった。学問的に体系化さ れ権威づけられた学術知
(ハードな知)
と現場において発揮される技や知恵などの実 践知(「ソフトな知」)
とを分けて捉える考え方が支配的であったため、教師も学生も 科学的厳密性と実践的有用性の間の対立に直面することを余儀なくされ、結果とし て、専門職教育が専門的実践性の育成に十分役立っていなかったのである。研究と実 践が結びつく方向へと教育を再設計することによりこの状況を克服しようとして、Schön
は「実践の認識論」を探究し、専門家が専門的な巧みさを洗練してゆく過程を描き出すに至った
(Schön , 1983、pp. ⅶ - ⅸ ; 1987, pp. ⅺ -ⅹⅳ)
。このように、専門教育の 改革という文脈で生成・発展してきたのが省察的実践論であり、実際、日本でも教師 教育や医療教育など、(特に対人支援職を中心とする)
専門職の養成教育の領域で言及さ れることが多い。他方、同様に「省察」を核とする学習理論である
Mezirow (1990, 1991ほか)
の「変 容的学習理論(transformative learning theory)
」は、学習者の認識構造の変容可能性とそ れに関わる学習過程の原理を探ろうとするものである。Mezirowは、省察には①主張 や命題がどのようなものであるかを精査・検討する「内容の省察(content reflection)
」、②判断や対処が適切に行われているかどうかについて精査・検討する「過程の省察
(process reflection)
」、そして③問題が設定・定義された際の条件や経緯について吟味す る「基本前提の省察(premise reflection)
」の 3 種類があり、いずれにおいても学習者が 自らを振り返る「自己省察(self-reflection)
」が生じうると考える。そして、「内容の省 察」と「過程の省察」が操作次元の省察であるのに対し、「基本前提の省察」は構造 次元の省察であるとされる(Mezirow, 1991, pp.104-106; 1995, pp.44-46)
。また、「基本前 提の省察」は「批判的省察(critical reflection)
」と表現されることもあり、特に学習者 が自らの考え方や認識構造の基本前提について吟味する省察は「批判的自己省察(critical self-reflection)
」と呼ばれ、変容的学習理論にとっての主要な鍵概念の一つに位 置づいている(Mezirow, 1990, pp.12-13; 1991, pp.87-89)
。省察的実践における批判的自己省察の契機
─『看護的思考の探究』(吉浜文洋)を手掛かりとする試論─
Mezirowの基本関心は、信念や期待に影響する前提条件を批判的に捉え直し、自ら 依拠する認識枠組をより真正なものへと転換する学習過程にある。捉え直されるべき
「条件」としては、幼少期の経験や生育環境、あるいは所属集団の根深い文化や社会 構造などに由来するものが多い。そうした、成長や社会化の過程で無意識・無批判に 受け入れて「自分」の土台としてきた「条件」を捉え直すことにより、学習者は認識 構造を転換してゆくのである。変容的学習理論が対象とする特定の教育分野があるわ けではなく、 認識変容の一般的原理を説明することがその基本的役割であるが、
Mezirow
の論調は人間的な成熟や解放(そして社会的な変革)
を志向している。つまり、物事の新たな捉え方や考え方の枠組といった、狭い意味での「認識方法」に関わる変 化だけでなく、学習者の人としての生き方や行動・態度など、人格や存在様式に関わ る変容
(自己変容)
についても検討するのが変容的学習理論である。省察的実践論について
Mezirow
が言及しているところ(Mezirow, 1991, pp.112-114;
1995, p.45; 1998, p.192)
を見ると、Schönの議論は「過程の省察」の例として位置づけ られているが、批判的自己省察には関連付けられていないようである。省察的実践論 は、専門職者が実践状況における問題を解きながら知識や技能を洗練してゆく過程を 主な対象とする。この実践の過程が直接的に人格や性格の変容に繋がるわけではな い。しかしながら、それまで当然のように用いてきた知識や方法を変更し、今までと は異なる気づきや関わり方に出会うなど、そこには実践者のアイデンティティを支え てきた自明な要素の一部が変化していく流れが含まれることもありうる。省察的実践 は自らの実践行為について対象化する過程であり、少なくとも「自己省察」の過程で あるとは言える。その過程には、その次元にとどまらず、自己変容にも至りうる「批 判的自己省察」が生じる機会は無いのだろうか。この点について、本稿では、特に吉浜文洋による『看護的思考の探究』
(吉浜 , 2018)
に学びながら、若干の検討を試みたい。同書は、看護の現場における問題解決の方法 論である「看護過程
(nursing process)
」に着目し、それを成立させる思考方法がどのよ うなもので、看護的思考は如何なる方向を目指すべきかを探ろうとするもので、吉浜 は、Dewey, J.の「反省的思考(reflective thinking)
」の考え方やSchön
の省察的実践論の 底流にあるプラグマティズムを基本的視点に据えて考察を展開し、不確実な臨床の世 界を切り拓く鍵として「思考と行為の連続性」という考え方の重要性を提起している。構成は第Ⅰ部「看護の実践的思考」、第Ⅱ部「プラグマティズムと反省的思考」、第Ⅲ 部「デューイからショーンへ ─『思考と行為の連続性』を基底に─」の三部
(各部 4
章の全12章)
から成り、随所でDewey
やSchön
の議論が参照・検討されている。Ⅱ 「探究」の過程としての省察的実践
( 1 )状況の確定化としての探究
Mezirowも
Schön
も共に、思考や認識に関するDewey
の考え方を受け継いでいる と言える。吉浜によると、Deweyは1910年初版のHow We Think
において"reflectivethinking"や"reflective experience"という語で表していたものと同じ内容を、1938年
のLogic:The Theory of Inquiry では"inquiry"という語で表すなど、「省察的思考」と「探 究」を同義的に用いていたという(吉浜 , 2018, p.173および p.199)
(1)。その探究(=省察 的思考)
は、先ず「曖昧、疑問、混乱、葛藤などの不確定的状況」があって、これに 直面することによって始まる。 それは( 1 )
「困難感の自覚」 →( 2 )
「問題の設定」→
( 3 )
「実施可能な解決策(=仮説)
の策定」→( 4 )
「推論による実施可能な解決策(=仮説)
の検証」→( 5 )
「実験による実施可能な解決策(=仮説)
の検証」という各 段階を進み、結果として「確定的状況と真理」が得られるとされる(pp.174-175)
。 探究過程の初期段階に「問題の設定」があって、それを「解決」するという流れに なっているのだが、興味深いのは、これによって期待されているのが「不確定的状況」から「確定的状況」への変化であるという点である。探究が目指すのは「状況」の確 定化であり、「状況変容が問題解決という結果を生じさせている、ともいえる」
(吉浜 ,
p.175)
。つまり、物質的要素、環境条件、人間関係、時間的制約、等々とともに、探究者自身もその構成要素であるところの「状況」があって、その要素の状態や幾つか の要素の関係に由来する不確定状況が生じ、それを探究者が「問題」として設定して その解決を探るという過程が
Dewey
の探究であると理解できる。すなわち、Dewey にとって探究とは、自らの存在に影響しない「問題」を解く抽象的な思考活動ではな く、自分と共にある「状況」と積極的に関わり合いながら「知的判断と現実の行為を 結び付ける」(Schön, 1992, p.121)
という試みであり、「探究者は、問題の状況の外部に 見物客のように立っているのではなく、 その状況の中に居て、 その状況と折衝(transaction)
するのである」(p.122)
。したがって、「実践の持つ不確実で独特な、ある いは矛盾しているような状況」(Schön, 1987, p.39)
に置かれた実践者が「状況との省察 的会話(reflective conversation with situation)
」を重ねながら進んでゆく省察的実践は、この
Dewey
が描く探究そのものである。( 2 )「困難感の自覚」からの探究
Deweyの考え方としては、思考と行為は互いに連続しているものであって、いず れも環境に適応するための一連のプロセスであり、思考し行為する探究は人間が効率
よく問題を解決するための「道具」であるという
(吉浜、pp.207-208)
。不確定な状況 や厄介な問題があって、それを克服するための対処法を得ようとする試みであること に探究の意義があるわけであるから、たしかに、探究は人間が知識や技能を生成・発 展させ、人間らしく生きていくために必要な道具であると言える。と同時に、この「道 具」が用いられる過程には、それを用いる探究者が自分自身を捉え直す契機が潜んで いるかもしれない。「道具」が使われて「状況」が変容してゆくなかで、探究者と周 囲の関わり方も変化し、それが探究者自身の在り方に影響することもありえるからで ある。この可能性は、探究が始まる発端においても見て取れる。探究が始まるには、単に不確定な状況があればよいわけではなく、行為者がそのことに気づかねばならな い。何か落ち着かない状況、しっくりしない状況に自分が置かれていることを意識す る「困難感の自覚」である。これが切っ掛けとなって「何故なのか」「どうすべきか」
という問いが始まるのだが、この「気づき」は、問題となる状況の対象化であると同 時に、その状況に自分が関わっていることの認識
(自己対象化)
でもある。この点に関して、対人関係を捉え直すための方法について検討する宮本
(2001)
が 提案する「異和感の対自化」の議論が示唆的である(2)。吉浜によると、「異和感の対 自化」とは「対人場面での感情、感覚の違和として感じる『不確定状況』を、どう問 題として自覚し、その解消をはかっていくかをシェーマにしたのもの」で、誰のどう いう言動から生じたか、そこにどのような感情や感覚がまじっているか、相手の言動 のどこが気に入らなかったか、 等々に答えていくプロセスであるという(吉浜、
pp.234-235)
。この「異和感」の意味に関する宮本自身の解説を見ておくと、次のとおりである:
異和感の源泉となる周囲とのずれは、多くの場合、特定の他者による言動が、予 想や期待とずれているときに感じ取られる。相手の予想外の言動は知識の枠組み を揺るがし、期待外れの言動は価値の枠組みを揺るがす。予想と期待が裏切られ たことで、他人の言動についての正確な理解と的確な予想を提供するはずの知識 体系と、他人の言動について期待すべき基準を提供するはずの価値体系が、一時 的に機能麻痺をきたすからである。知識と価値観は人格を構成する二大要素だか ら、異和感は認識者として行為者としての主体性のゆらぎ、すなわち自己の存在 にかかわる危機の徴候である
(宮本 , 2001, p.35)
。
「不確定的状況」が何故、不確定的であるのかといえば、通常であれば実現される はずの予想や期待が当てはまらないからである。そこでは、自らが依って立つ知識や 価値の土台が揺らぎ、認識論的な混乱 ─
Mezirow (1991, p.197)
の言う「混乱的ジレ ンマ(disorienting dilemma)
」─を来たす恐れもある。それは、自分にとっての日常的な自明性の破綻につながるものであり、このような不安定性を帯びた状況に直面した時 に覚える「困難感」「異和感」は、まさに「自己の存在にかかわる危機」の気づきで ある。そうした危機感があってこそ、解決に向けた探究に並行して「自分」の調整と 変更が始まると言えよう。
では、このように始まる探究の過程が進んでゆくと、そこにはどのような自己省察 的な現象が起きてくるのであろうか。
Ⅲ 自己省察的な過程としての省察的実践
1 )自己モニタリング
生活の場であれ仕事の場であれ、我々は自分なりに培ってきた知識をもとに物事に 対処する。慣れ親しんだ状況や課題に関しては、この手持ちの個人的な知識を応用す ることで事足りる。しかしながら、細かく見ると、既知の知識や方法をそのまま当て はめることで解決できる事柄というのは、現実的にはむしろ稀である。たとえば、自 動車で通勤する者にとって日々の運転は同じような技術的行為の繰り返しではある が、運転者自身は自動化された機械ではなく、常に変化する道路状況や交通事情を観 察し判断しながら自らの運転行為を調整し続けている。仕事の世界においては、更に 複雑な調整が求められるだろう。仕事を進めるためのマニュアルや業務規程のような ものがあったとしても、顧客や事例に付随する条件や特質に応じて調整しながら手持 ちの知識や技術を使うことになる。ところが、時には「調整」では対処しきれないよ うな状況に出会う場合もある。手持ちの知識を調整して対応できる段階では、事柄の 意味、対処方法の有効性、自分の能力に関する自信、等々、その実践行為に関連する 諸要素は慣れ親しんだ自明なものであった。その自明性が通用しない状況に直面した 時、その厄介な状況を実践者が切り抜ける過程について説明するのが省察的実践論で ある。省察的実践とは、通例の対処方法では解決できない問題状況に直面したとき、
実践者が仮説検証的な実験を即応的に試み、その結果をもとに新たな手立てを考案す るなど、実践状況との省察的な対話を繰り返しながら実践のための個人的な知識や行 為理論を創出・洗練していく過程である(3) 。
この過程を展開させる省察的思考としては「行為への省察
(reflection-on-action)
」と「行為内省察
(reflection-in-action)
」の 2 種類がある。前者は実践行為を事後的に振り返 る省察で、後者は実践が展開する中で試みられる省察である。このうち、Schönの関 心は、実践状況が展開する一連の時間的流れ(「行為の現在 (action present)」)
において 行われる行為内省察のほうに強くある(4)。とはいえ、実践状況の外にあるか、只中 にあるかという点で異なるこの 2 種類の省察であるが、自分がどのように思考したり行為したりしているかを観察し対象化すること、つまり「メタ認知」や「自己モニタ リング」が働く過程である点では同じである。
丸野
(1993)
は、自己モニタリングについて考える際の注意点として、 1 )行為や 思考を適切な方向に導くガイドとして機能するが、通常はあまり意識されることな く、「表でははなやかに展開する実際の行為や思考を裏で支えている裏方」のような 働きであること、 2 )何らかの状況や問題に取り組み、意図したことを自ら実現しよ うとする過程においては必ずこの自己モニタリングが機能しているが、かといって、この機能があれば自由自在に行為や思考がコントロールできるわけでもないというこ と、3 )「自己モニタリングが機能する為には、"見られる私"
(客体としての自己)
と"見 る私"(主体としての自己)
が分化していると同時に、自分の内的行為を対象化し、そ の行為に再び働きかける反省的思考の芽生えをその前提としていること」、これらを 指摘している(丸野 , 1993, pp.12-13)
。このうち、本稿の関心に特に関連するのが 3 番 目で、ここで言われる「見る私」が「見られる私」の行為を対象化する働きは省察的 実践にも当てはまる。Rolfe (2002)
が注目する「心の中のスーパーバイザー」(Casement, 1985)
も「自分」を観察し干渉する「もう一人の自分」のことであり(永井 , 2017, p.96)
、 自己モニタリングの機能と同じ働きであると言える。また、省察的思考が働いている 時に「いま進行しつつある現在の行為の中に、過去の知識や経験が介入すると同時に、行為した結果どのような事態が生じるかを予想した未来の視点が介入していることに
なる」
(丸野 , p.14)
という記述は、行為内省察の過程にも当てはまることである(5)。2 )「エゴ」と「セルフ」
自己モニタリングに関して吉浜が着目する澤本
(1998)
の主張は、「異和感の自覚」とも関連するもので、示唆的である。澤本によると、教師が自らの授業の状況を意図 的に捉え直し、授業改善に役立てるための授業研究方法として反省的な方法が必要で あるが、これには教師自身の主観や共同研究者らの影響を受けやすいという課題があ るという。それを克服するためには、「自己リフレクション」「対話リフレクション」
「集団リフレクション」を効果的に組み合わせることが必要で、このうちの「自己リ フレクション」について、澤本は次のように述べる:
授業者=教師は授業データを介して、鏡に映った自分の姿を見るように、授業実 施中の自分=教師の働きかけの意味を問い直し、振り返る。このとき教師は、授 業者である自分=セルフ
(self)
と、それを研究者として検討する自分=エゴ(ego)
とにわかれて事例を検討する。エゴは反省-リフレクションする主体としての私 であり、セルフは反省の対象となる客体としての私である。そして重要なのはエ ゴとセルフの不一致を自覚し、困難を覚悟の上で両者の統合の方向を目指し、具
体的な課題解決の方法を産み出すことである。
(p.215)
吉浜は、ここでの「エゴ」と「セルフ」について、「ミードの
I
とMe
の関係を踏 襲しているように思える」と指摘する(吉浜、p.295)
。Mead(1934)
は、社会的に定義 づけられた「私」(「客我(me)
」)とその定義に応じて実際に機能する「私」(「主我(I)
」)の二つの次元に分けて自我を捉え、「『I』とは、他者の態度に対する生物体の反応で あり、『me』とは、他者の態度
(と生物体自身が想定しているもの)
の組織化されたセッ トである。他者の態度が組織化された『me』を構成し、人はその『me』に対して『I』として感応する」
(1934, p.175[訳書 p.187])
と述べる。周囲との関係の産物として「me」が先ず成り立っていて、それへの反応として経験されるのが「I」であり、時間の流 れのなかで「me」は過去に留まり、「I」は現在から未来に向かう。すなわち、「未来 への運動は、いわばエゴの、つまり『I』の歩みである。それは、『me』にはあたえ られていないものである」
(ibid., p.177[訳書 , p.189])
と記述されているとおり、「I」と「me」の間には「主客」の違いに加えて時間的方向性の違いもある。この点を踏まえ て考えると、エゴとセルフの「両者の統合の方向を」目指すという澤本の言い方には 語弊がある。Meadの議論に即するなら、「エゴ」
(I)
と「セルフ」(me)
が統合し一 体化するには時間の流れが止まることが必要になるからである。そうでなくとも、自 分の中に「主」「客」があって、自らを対象化出来る点に人間らしさがあるのだから、エゴとセルフは「不一致」であって当然である。
用語法の問題はさておき、おそらく澤本の本意としては、「教師が自分の授業を振 り返った時、何らかの違和感が生じ、気がかりを残している状況」
(吉浜 , p.287)
を改 めることにあるのだろう。つまり澤本は、あるべき行為者としての自己イメージと実 際の行為者としての自分が異なってしまっていることによる不安定な自己意識を「エ ゴとセルフの不一致」と呼んで注目し、その対象化を問題解決の出発点に置こうとし ているものと理解できる。宮本の「異和感」は自己と他者・関係との間の不整合によ るもので、澤本の「不一致」は行為者の内面的な不整合によるものである。齟齬感や 不安定感が他者と関連するのか自身の行為に由来するのかの違いはあるものの、探究 の過程を動かすものとして「困難感の自覚」に着目している点では同じである。3 )自己意識の変化
看護実践をリードする「実践的思考術」
(中西 , 1987, p.11)
として、「看護過程」と いう問題解決の方法論がある。それは、「系統的に情報を収集、整理し、目標を設定 してケアを実施し、その結果を検証、評価して問題に対処することで看護の科学性と 専門性を担保しようと」(吉浜 , p.14)
するものであるという。吉浜は、看護過程を日 本で臨床活用することの課題について検討する中西(1983, 1987ほか)
の議論について取り上げ、看護における問題解決には自己と他者、自己と環境を区別する能力
(「自 己と他者を区別し、自他双方に客観的であろうとする姿勢」)
が必要であり、患者を客観的 に見るためにこそ自己対象化が求められるという主張に注目している(吉浜 , pp.88- 90)
。ここには、患者に対する接し方や関わり方がより良いものになるよう、看護者 は自分と患者それぞれを観察し理解することが必要だということが含意されている。おそらくは、看護の世界においては、看護業務としての専門技術的な問題に看護者 が取り組む過程と、看護の場を構成する看護者と患者が関係性を築いていく過程の二 つの次元が同時進行しているものと推測できる。その「関係性」が変化していく過程 は、看護者の自我感や内面世界にも何らかの影響を及ぼすものにもなるだろう。吉浜 が紹介するインタビュー調査の分析報告は、このことの例証となる。吉浜は、「精神 看護実習において、看護学生が対人的援助関係をどのように体験し、また自己意識が 揺さぶられるのか」を探るインタビュー調査を行い、実習中に「自己概念の揺らぎ」
を感じ自己意識や自己概念の変化に至った学生、あるいは変化に至らなかったものの 自分自身について再確認した学生の回答について分析した。その回答には「行き詰ま り感」「異和感」「不全感」に満ちた不確定状況を切り抜けようとした学生たちの経験 が記録されている
(吉浜 , pp.241-269)
。それぞれの記述について分析し、「主体としての私」と「客体としての私」に分け て自己を捉える議論を概観したうえで、吉浜は次のように述べている:
看護学生は、精神看護実習において自己意識の変化を感じ取る。エゴ
(I)
から セルフ(me)
へ眼差しが注がれることで、自己意識は変化するのである。援助的 人間関係は、このような自己意識の流れのなかで育ち、鍛えられていく。ただ、学生の自己意識の揺れ、変化は、時に危機状況を呈する。あまりに揺れが大きす ぎる場合はサポートが必要である。...
(中略) ...
看護教員や実習指導は、自分自 身と格闘する学生たちの「自己意識の揺れ」をモニタリングする役回り、という ことになるだろう。(p.267)
このように、看護に代表される対人支援的な仕事の現場においては、専門技術的な 問題解決に取り組むこととは別に、他者理解や思いやりなど、人間性・関係性に関わ る課題への対応が求められる。そのことが、実践者の自我や自己意識を強く刺激し、
場合によっては、実践者が自分の在り方について考え問い直すことにもつながりう る。先述のとおり、実践状況においては探究者
(実践者)
もその状況を構成する要素 である。実践過程の進展に応じて、状況を構成する諸要素と実践者との関係も変わっ てくる。それは、ある時点で成り立っていた自明性が失われることでもあり、実践者 の自己認識の支えにも何らかの影響を及ぼすことになる。その要素が特に人的なものである場合、なおさら、自己意識に揺らぎを与えるであろう。
試論の域を出ない考察であったが、以上のとおり、省察的実践の過程においては、
操作的に問題解決に取り組む努力が行われるだけでなく、自己対象化、自己省察的な 思考、更には自己意識の変化や自分自身の捉え直しも生じうる可能性を見出すことが できた。実践者は、問題のある状況に取り組むことにより、状況に取り組む自分自身 に対峙することも迫られるのである。つまり、仕事の場における省察的実践は、先ず は専門知の洗練に向けて取り組まれるのであるが、そこには自己知の点検・再編の過 程が付随しうる。ここに、専門的な技術知を追い求めるばかりで「自分」について振 り返ることをしない専門家と、自己知も深めながら研鑽を積もうとする専門家がいる として、少なくとも対人支援的な仕事の専門職に関する限り、自分自身を知ろうとす る後者の専門家──言わば、「心技体」の整った専門家──のほうが頼もしいだろう。
なお、吉浜の論稿は、本稿で取り上げた論点以外にも、日本語文化、可謬主義、ア ブダクション、参与観察など、学ぶべき議論や興味深い論点が多く、これらについて も別の機会に検討したい。
注
⑴ 吉浜は reflection を「反省」としているが、本稿では原則として「省察」とする。
⑵ 宮本は、心理的な不快感だけでなく生理的・身体的な不調和感を表したいために「違和 感」ではなく「異和感」を用いる(宮本 , 2001, pp.34-35)。
⑶ Rolfe(1996) は、 実践状況の特異性に合った対処方法である「インフォーマルな理論
(informal theory)」を模索・洗練する過程として省察的実践を捉え、そこに「理論」と「実 践」の間の齟齬が解消される可能性を見出している。Rolfe の著作を翻訳して編纂したも のとして、ロルフ(2018)がある。「インフォーマルな理論」に関しては、永井(2019)
も参照。
⑷ この点について、吉浜は「デューイやショーンが主要に論じているのは、行為の中にお ける当事者としての『探究』や『省察』である。プラグマティズムの系譜に連なるショー ンにとって、行為と思考は相互補完的であり、渾然一体となっているので、対象に距離 をおいて、傍観観察的に『行為』について(on)『省察』することにはほとんど言及して いない」(吉浜 , 2018, p.216)と述べている。
⑸ 仮に「行為内省察」と「行為への省察」の関係を認知心理学的に説明しようとするなら、
たとえば、 認知活動の遂行中に制御機能として働く「進行モニタリング(ongoing
monitoring)」 と認知活動終了後に修正機能として働く「反映モニタリング(reflective
monitoring)」に分けてメタ認知を捉える岡本(2001, pp.155-157)のモデル論のようにな
るものと思われる。
引用・参照文献